【完結】18歳からの契約書

●令和六年 二月二十日(月曜)

 雨筋のあとが垂れている白いモルタル壁の小さな事務所、その玄関ドアに伊泉寺(いせんじ)(しのぶ)は「外出中」と書かれたプレートをかけた。今日は所長である彼が通院するため、他に従業員がいない事務所は午前休となる。天気予報で降水確率八〇パーセントとのことだったので忍は前もってビニール傘を持って出ていったが、結局使うことはなかった。

 その後整形外科で昨日仕事中に負傷した両足と右手を診てもらい、湿布と薬を貰いに薬局へ向かう。途中、極寒の二月のせいもあってか忍は歩くたび両足の痛みを覚える。が、傍目には普通に歩いているようにしか見えないだろう。
 かかりつけ医は彼の「事情」を承知しており、殊更驚いたりはしなかったので忍はいつもそれがありがたかった。
 ただしばらくの間は片手で食べられるサンドイッチやおにぎりで済ます日々が続きそうではあるが、それっていつもと大差ないよな、と忍は内心苦笑した。

 事務所に戻る前、ちょうど十二時を回ったあたりだと気づいて、忍はふらりとその足でこの辺りでは有名なラーメン店に寄ってみる。ただし食事のためではない。
 定休日でもないのに店は閉まっており、遠方から遙々来たと思われる十数人の客たちは文句を垂れてはスマートフォンで何やら書き込みするのに忙しそうだった。
 あの店の主人らが今どこへいるのか、その見当がついている忍は素知らぬ様子で店の前を通り過ぎる。

 あとは誰が待っているわけでも迎えてくれる人がいるわけでもない彼の自宅兼事務所に直行するだけだった。
 足の痛みを覚えながらも無事に事務所へたどり着くと、忍は玄関の前で誰か待っているようだと人影を確認した。
 もう警察から戻ってこれたのか、早いな――と思ったのもつかの間、その待ち人は忍が想像していた人物ではない。なぜか探偵事務所の前に制服を身に纏った少女がいるではないか。
 それ相応の身分の子女達が通う中高一貫校、その高等部の制服だったので忍は余計驚いた。
 お互い傘を持っていたが、向こうはハンドルの木材からしていかにも上等そうな紺色の傘で、しかもカバーが付いていた。コンビニで買った、その上一本骨が折れて膨らんでいるみすぼらしいビニール傘が急に恥ずかしくなった忍は思わずそれを背中側に隠してしまう。
 しかし平日の昼間、学期末試験中でもなさそうな時期になぜここに女子高生がいるんだろうと忍は疑問を覚える。卒業を控えている三年生だろうか。それでも忍の目には高校一年生、自分より五歳は下に見えるほど小柄な少女だった。
 黙って彼女の様子を伺っていると、向こうの方も忍に気づいて互いに見つめ合う形になった。

 上品さを醸し出す落ち着いた茶色のブレザーの制服を見事に着こなし、スカートから伸びる黒タイツはほどよくほっそりと伸びている。顔は小さく、肩は華奢。やや明るめの長い髪は透けるようで、忍は思わずため息をこぼした。

 一言で言えば清楚。二言目には深窓の令嬢がふさわしい。こんな庶民染みた事務所の前に佇むには不釣り合いなほどに。

 つい見惚れていると、あの少女が昨日会ったばかり――正確には「助けた」ばかりの少女と同一人物だと気づき、忍は途端顔を引き締めた。
 数秒顔を向かい合わせ、少女がふわっと顔を綻ばせながら口を開いた。




「あなたは昨日――ウンコ座りの――――」

「そう、俺ウンコ――――――――もっと他に印象なかったの?」





 ――これが、のちに夫婦となる二人の馴れ初めエピソードであった。
 現実では映画のように空から女の子は降ってこない。
 その代わり、ここでは植木鉢が降ってくる。

 通行人の前に突如降ってくる。既に四回起きている。
 一回目こそ到底通行人に当たるとは言えない場所に落ち、だからこそ近くにいた通行人は偶然風か何かで落ちたのだろうと気にも留めなかったらしい。
 二回目の時も同様だった。そう思われた。
 しかし三回目、四回目と事件が続くうちに、だんだん植木鉢の落下ポイントと通行人の距離が短くなっていった。更に見過ごせないのが植木鉢のサイズや重さも大きくなり、閑静とした住宅街からマンションが並ぶ立地へと危険度も跳ね上がってきている。まるでスリルを段階的に味わっているかのように。
 三回目にしてようやく警察も動き、ここで一回目と二回目の事件についても発覚した。

 世間では概ね「植木鉢事件」「植木鉢連続落下事件」などと呼称されていた。

   ◇
 
○二月十九日(月曜) 

「それで、例の植木鉢事件に息子さんが関わっているかもしれないと?」

 テーブルを挟んで向かいにソファに座っていた中年の夫婦が揃って頷く。
 黒いスーツの男から夫婦へ手渡されたこだわり感ゼロなデザインの名刺には「伊泉寺探偵事務所 所長 伊泉寺(いせんじ)(しのぶ)」と印字されていた。

 年齢は二十一歳。先代の跡を急遽継ぐことで所長の椅子に納まったので、年齢を知っている人間からは若造と侮られることも少なくない。なので、彼は聞かれない限り年齢は自分から言わないようにしている。
 ただ、実年齢を言うとその若さに驚かれるよりも「二十五は超えていると思った」と言われてしまう。
 早くに独り立ちしたためか、老け顔なのか。本人は前者だと思っている。

 依頼人の夫婦は自営業で、ラーメン店を経営している。この日は店舗の定休日である水曜日。
 あらましとしてこうだった。家の物置から植木鉢がどんどん無くなっていったことに気づいたのは園芸が趣味の亭主であった。
 ニュースで流れる連続植木鉢落下事件。時間帯はおよそ夫妻の息子、中学生が部活帰りの頃である。
 忍は夫婦から息子が所属している野球部が終わる時間帯を尋ね、早速今日から尾行すると告げた。話が終わり、両者立ち上がる時に「所長さん」と亭主から呼びかけられた。

「うちも営業時間外も仕込みがあるから毎日毎日学校帰りの息子を監視しきれんのです。従業員もギリギリだから片方抜ける訳にもいかず……」
「分かってます。その為に私がおりますので」

 揃って背中を丸める夫婦が事務所を出る前に頭を下げ、忍は去って行く二人を見送った。
 夫婦が営々しているのはラーメンマニア御用達、街の常連客はもちろん遠方からもラーメンを食べにやってくる有名店である。ちなみに事務所の主である忍は一度も食べに行ったことがない。
 息子が本当に犯人だとして、誰かを傷つける前に止めなければならない。警察に捕まる前に自首させたい。もし息子が植木鉢を落とそうとしている場面に遭遇したら、その前に必ず止めて欲しい。それが夫婦からの依頼だった。
 確かに息子が犯人なら営業にも支障は出るだろう。万が一人死にが出たら、そうでなくてもケガを負わせたものなら汗水垂らして得た評判も失墜すること間違いなしである。
 無実であることを信じたいとか、犯人であるなら償わせなければならないとか、忍にはどれもどうせ保身から来る言葉なのだろうと冷めた気持ちしかなかった。
 とはいえ流石人気店舗の経営者。着手金の時点でかなり用意して貰っている。
 忍は封筒から札束を抜き取って金庫の中へ入れ、封筒はもったいないので何かの時に使い回す用として引き出しの中にしまい込んだ。

 ◇

 その日の内に忍が行動を起こすと、早速対象が不審な行動を見せた。

 部活終わりに尾行し、しばらく歩いて人が賑わう中心街へ向かうと少年はキョロキョロと何かを品定めするかのように建物を一つ一つ確認している。やがて非常階段が設置されている四階建ての雑居ビルをターゲットにすると少年は迷わず目的地に向かって歩き出す。
 ここが今度の肝試しか。時間帯としても会社帰り、学校帰りの通行人で溢れかえっている。忍も距離を取って少年を尾行した。
 対象はスポーツバッグから素焼きの植木鉢を取りだして一旦地面の上に置き、柵を掴んで地上にいる小さな人々の群れを観測する。少年の身長が一五〇くらいだと仮定して、屋上の柵の高さは彼と同程度だった。

 自分の気分次第で人などいつでも傷つけられるのだ――とかなんとか全能感に浸っているに違いない。非常階段で待機し、頭だけ屋上が見えるようポジションについた忍は少年の内心を勝手にそう決めつけた。

 ひとまず地上を眺める少年の様子を植木鉢が映るようにスマートフォンで無音撮影する。そしてメッセージ通信アプリで少年の父へ画像と共に「あとでまた事務所にいらしてください」と言葉を添えた。

 ただしこれだけでは十分とは言えない。彼が植木鉢を落とそうと手に持っているその瞬間――決定的な瞬間を捉えなければならない。

 もうチェックが済んだのか、少年が腰をかがんで鉢植えを両手で掴む。
 忍もまた少年を見ながら非常階段の柵の隙間から地上を確認していた。向かいから来る女子高生を先頭に通行人が数名いるのを第一陣とすると、そこから一旦人が途切れて十五メートルほど後に第二陣がやってくる。第一陣の後方と第二陣の先頭の間を狙うつもりだ。

 まだ第一陣の先頭が通るまで余裕がある。少年が目線を地上に、掴んだ植木鉢を頭の上前方へ、爪先立ちになる姿を激写、すかさず後ろから音を立てずに近づき――――


 突然、少年が顔を上げて何かに怯えているような目をした。
 忍に気づいた訳ではない。少年の目線は彼ではなく真向かいのビルに向けられていた。

 少年が動揺し、植木鉢が掴む手が緩む――




 瞬間を見逃さず、植木鉢が少年の手から完全に離れるより先に忍の体が動いていた。忍は尾行がバレることなど気にする余裕などあるはずもなく、少年が植木鉢を落とそうとした場所から屋上の柵を片手で軽々と飛び越える。
 クソッ、と咄嗟に漏らした声で少年はようやく自分以外の男の存在に気付き、そして柵を飛び越えて落ちていった忍をそこから呆然と眺めるしかなかった。

 植木鉢を構えた時点では第一陣が通りがかるまでに余裕があると思っていた。しかし「一目」地上を見ただけで予期せず落ちてしまった植木鉢は先頭の女子高生に直撃する、間違いなく。考える暇もなく、突き動かされるように体が――眼が動いた。

 地上の人間たちにも異変が起こった。後ろの第二陣が落ちてくる男の姿を見て騒ぎ始め、それに続いて第一陣が今から通りがかろうとしていた先に男が落下中であることに気づき、突然のことに全員パニックどころか体が硬直して動けないでいた。

 しかも最悪なことに、最も植木鉢の落下ポイントに近いであろう少女がその場でしゃがみ込んでしまったのだ。

「バッ! しゃがむな!」

 この一言の間に、忍はたまたま開いていたビル二階の窓の桟を右手の肉がモロに食い込むほど掴み、同時に片方の手で植木鉢をキャッチする。紙一重の差で植木鉢よりも忍の体が下に落ちるほうが先だった。

 流石に右手が食い込んだ時は呻き声が漏れてしまったが、今もなんとか掴み続けている。植木鉢の重さはは一キロもない。だからと言ってこの状況で無事に抱え続けられる訳がなかった。

 真下の少女は忍の声で顔を上げたが、それでもその場から動こうとしない。忍の顔、そして瞳に吸い込まれているかのようにただ見つめている。

 彼もまた彼女の瞳を見つめる。突然の事態に揺れる瞳に、美しい碧色が反射しているように見えた。

 咄嗟に足でビルの壁を蹴って忍は斜めに飛び降りる。植木鉢が割れないように抱きかかえ。

 抱きかかえたまま、両足を地面にしっかりと着地させてしゃがみ込む――世間においてヤンキー座り、品のない言い方をすればウンコ座りと呼ばれる――無様な姿で地面に着地した。

 無茶な着地のおかげで両足にハンパない負荷がかかり、忍は足の甲のジーンとした痛みで数秒固まってしまう。
 次に頭を上げて非常階段が視界に入ると、その時まさに屋上の少年が逃亡しようとする寸前だった。

 シベリアンハスキーのようだと形容されたことがある忍の目つきに少年は恐れをなし、慌ててその場から走って去った。


「……ぬところだったろうが待てやコラァーーーーーーーーッッッ‼‼」


 忍も少女のことなどもはや気にも留めず逃げた少年の跡を追った。律儀に植木鉢を大事に抱えながら。
 少女は一瞬後を追いかけようと思ったが、その必要はないと分かった。

 こだわり感ゼロの名刺が、地面に落ちていたことに気づいて。

   ◇
 
 その後無事忍に捕獲された少年は植木鉢落下事件についてこう語った。

 部活動での先輩からのしごきに嫌気がさし、ストレス発散とスリルを味わうために事件を起こしていたのだと言う。植木鉢の隠し場所は学校の裏庭だった。

 判明してみればどうと言うことはない。しかしそんなどうと言うことはないことで人を追い詰め、凶行に駆り立てることはいかにもありがちだった。

 これから警察に自首しに行くと夫婦は言った。そして息子が犯罪者になる前に引き留めてくれてありがとうとも両手を握りしめられるほど感謝された。十三歳だから刑罰に問われるわけではないと無機質に言うほど忍も無粋な性格ではなかった。

 少年はずっと事務所で泣いていた。犯人だとバレてしまって勘当されると思ったのか、一歩間違えて人を傷つけかけたことに恐怖したのか――それとも、両親が最後は何があっても息子と共に十字架を背負うという旨の話を聞いて、感極まったのか。

 自分もあの少年と同じ立場なら、ああ言われたら泣いてたかもしれない。それでも夫婦の語る言葉がどうしてもうさんくさく思えて、また事務所の主でありながらこの空間で唯一の異物のような気さえして、忍は淡泊に家庭でよく話し合うようにと促して一家を帰宅させると、時刻は午後八時を回ろうとしていた。

 ようやく孤独に包まれるようになると右手と両足が思い出したかのように痛み始め、明日病院へ行かなければとぼやいた。
 そして植木鉢を落とす直前に何を見たのかという自身の問いと、少年の答えが忍の頭の中を巡っていた。

 

 向かいのビルを見た時、誰かが自分を見ていた。

 長細くて、黒いもの――狙撃銃のようなものを持って、物陰から自分を狙っていた気がしたと。
 
 話は五回目の植木鉢――成人男性のおまけつき――落下事件の翌日、二月二十日に戻る。
 
 病院から戻ってきた忍は流れで事務所に少女を迎え、ソファに腰掛けた彼女にお茶を振る舞った。慣れない左手で茶碗を運んだのが分かったのか、少女は包帯を巻かれた忍の右手を気にしながらもありがとうございます、と頭を下げる。そのまま忍はテーブルを挟んだ向かいのソファに座り、茶碗を乗せていたお盆を隣にぽんと置いた。

「あの……昨日見た男の子ってもしかして例の植木鉢の……? あ、すみません。探偵さんは守秘義務があるんですよね」

 単刀直入に事件のことを尋ねられて忍がやや顔をしかめると、物分かりが良いようで少女は質問を引っ込める。

「それで昨日、上からあの植木鉢が落ちてきて、あのビルの屋上から探偵さん……伊泉寺さんが飛んできて助けてくださったんですよね。あの時は本当に助かりました。伊泉寺さんがいなかったら私…………本当の本当に、命の恩人です」

 本当に、のあたりから少女は感謝感激雨霰といった感じでずずいっと忍側へ前のめりになった。
 命の恩人なんていいよ、当然のことだよ、君に何事もなくて良かったよ――、さてなんて返したものかと忍が迷っていると、待ちきれなかった少女が言葉を続ける。

「名刺拾って、ここの住所が分かって、すぐに事務所に向かったんですけど依頼人の方らしき人たちが先にいて、男の子連れて伊泉寺さんが事務所に戻ってきて、そのまま四人とも事務所でずっと話こんでて――」
「ちょっ、急にまくし立ててどうしたの。君あれからそんなに長く事務所の前で待ってたの?」
「いえ、そのままずっと事務所を見ていたら警察手帳を持った男の人に絡まれてその場を立ち去りましたが」

 忍はその男について心当たりがあった。あの家族が去ったあとに入れ替わりで事務所に訪れた人物だ。
 それは置いておくとして、この時点で普通じゃない、なんかちょっとヘンな娘だなと忍の鼻は嗅ぎ分けていた。

「今日改めてお伺いしたら扉に『外出中』って書いてあって……昨日の落ちどころが悪くて何かあったんじゃないかと心配で、心配で……」
「さっき病院行ってきたところだったんだ。それで外出中のプレート出してたの」
 忍は少女の後ろ、ドアを指差しながら努めて明るく言ってみるのだが、依然として彼女は酷く深刻に振る舞っている。
「私のために右手をおケガされて……それにあんな高い所から落ちて、足もさぞ痛いでしょうに」
 ウッ、と少女は堪えきれなくなったのか質感の良さそうなハンカチで潤んだ目を押さえた。

「それで私――伊泉寺さんのおケガが治るまで、恩返しにここでお手伝いをさせて貰おうかと――――」
「ケガ? ああ、全治二週間って言われたから気にしなくていいよ」

 先程の涙はどこへやら、握りしめていた左手も緩んで少女のハンカチは事務所の床に落ちてしまう。
「ににに二週間ッ⁉ あんな、あんな四階建ての、しかも屋上から落ちて、そんなんで済むものなんですかっ⁉」
「うん。落ちどころが良かったんだろうね」
 少女は計画失敗、と言わんばかりにハンカチを落としたことも気づかないまま左手を握りしめ直す。
「でもでも、それでも私の命の恩人ということには変わりありませんから、何かお返ししないと気が済まなくて――」
「いいよ高校生がンなこと気にしなくても。晩ごはんの時ご両親にそれとなく話題にしてくれたらそれでいいから」
 どうせならこの少女だけじゃなくで両親も一緒に出てきてくれたら良かったのに、と打算的な考えが忍の中で見え隠れしていた。

「伊泉寺さんが気にしないでと言われても私が気にします! 気になりすぎて、どうしても気が済まなくて思わず学校をサボって来るほどです!」
「学校終わるまで待てなかったの」

 容赦ない忍のツッコミなど少女の耳には〇.〇〇一デシベルも聞こえていない。
「に、二週間でも伊泉寺さんが不自由で普段の生活維持が困難な以上、事務所のことから身の回りのことまでなんでもお手伝いさせていただきますから――」
「いや、人を要介護者みたいに言わんでも。それに突然手伝いって言われても困る――」

 その時少女の鞄からブルブルと何かが震えていた。彼女は鞄からスマートフォンを取り出しては、無表情で横の電源ボタンを長押しして

「もちろん無給で構いませんから」「早く学校戻りなよ」

 ……何も音を発さなくなったスマートフォンを静かに鞄に閉まった。

 またちょっと別の作戦を、と彼女の中の一休さんが今必死で頭脳をフル回転中らしい。ほどなくポクポクチーンというサウンドエフェクトが聞こえてもおかしくないほど明るい表情にくるりと切り替わる。彼女が何を言い出すか気になるより先に、表情筋が忙しい子だな忍は呑気にも柊の顔を眺めながら思った。

「じゃあ、私が『正式なご依頼』として、この事務所にお手伝いさせていただくというのは」「民法第五条第一項『未成年者が法律行為をするには、その法定代理人の同意を得なければならない』はい残念でした」

「…………どうして。どうして大人はいつも、ああでもない、こうでもないと言うのですか……?」

 捨てられた子犬のような目で見つめられてしまう。悪いことなど一つもしてないはずなのに、勝手に自分が悪いとされるのは忍としても非常に居心地が悪い。
 それが顔に出てしまったようで、即座に少女が申し訳なさそうな姿勢を見せた。
「あっ、ごめんなさい……今のは失言でした。怒りましたよね……怒って当然です」
 シュンとしおらしくなったと思えば、突然腰を浮かして忍の眼前でクワっと目を見開く。


「――タダで許して欲しいなんて言いません。伊泉寺さんの気が済むように私を折檻してください! 甘んじて罰は受けます! なんならそのまま好きにしてくださってかまいません! エロ同人みたいに!」

「そういう申し出はどうかと思う」

「女性に恥をかかせないでくださーーーーい‼」


 ひっそりと忍の中で「清楚」と「深窓の令嬢」の情報が上書き保存された。

「そんなこと言ったって未成年だし。いざ手を出して脅されたら怖い」
「そんな世間体ばかり気にしてよく今まで生きてこられましたね! 息苦しくないんですか!」
「大人になるとね、段々自分の思い通りに生きようとすると却って窮屈になるの」
「そうなんですか。大人になるって悲しいですね」

 少女がポツリと漏らした言葉を最後に、二人の周囲は急速に悲哀に包まれてしまう。

「うん。だから今日はおうちに帰って、大人になったら出直しんさい」
「大人……大人ですか。成人済みって意味ですよね」
「ああ、まあそうだけど」

 思わず「大人」と言ってしまったが、民法改正により二〇二二年の四月以降成人年齢は二十歳から十八歳に引き下げられた。
 それでかなんとなく嫌な予感がしたのだが――――大人しく引き下がっていった少女を引き留める理由は今の忍にありはしない。


 その後、彼が事務所内を掃除した時に床に彼女のハンカチが落ちたままなことに気づいた。



●四月八日(月曜)

 事件から二ヶ月が経つ。たまたま例のラーメン店に通りがかった際にそれとなく植木鉢の少年の現状を両親に探ってみると、彼は既に元の日常に戻っていると亭主から聞かされた。ラーメン店も一時休業が続いたものの、今は何事もなく営業中、もちろん依頼料も回収済みである。なので、とっくに忍にとってはもはや過去の話であった。

 過去の話であったが――少年の見た「物陰から狙撃銃を持った誰か」という証言は採用されなかったと聞かされた。誤って手元を狂わせてしまった子どもの言い訳だととられてしまったらしい。

 なので今朝思い立ったように忍はあの日見た真向かいのビルの屋上に足を運ぶことにした。

 朝八時半。小雨が降っていたので折りたたみ傘をしのばせて出発した。事務所を出てから目的地へ向かう道中で尾行された様子もなかった。
 ビルの一階は歯科医院で、まだ受付開始時間前だというのに院内は何人もの客が椅子に座って待っている。
 エレベーターで四階まで上がり、案の定屋上への扉は鍵がかかっていたが彼には関係ない。

 屋外へ出てそろりと歩き、物音を立てぬよう物陰から隠れてあたりを見渡す。人の気配が感じられないと分かると、ちょうどあの日少年が立っていた場所の真向かいに立ってみる。忍は狙撃銃を持ったつもりで、向かいに少年がいると仮定して照準を合わせる。
 まさか警察が事件を止めるためだけに、わざわざ銃を持って張り込みなどするわけがない。少年が銃で命を狙われるほどの重要人物であるわけなどもっとない。

 何か別の目的であそこにいて、たまたま植木鉢を落とそうとした少年を発見し――――最悪、殺そうとしていた。

 確証はない。ただあの時、自分が億劫がりその日のうちの調査を怠っていたらどうなっていたのか?


 小さく風が吹き、ようやく忍は自分が冷や汗をかいていたことに気づいた。

 ◇

 朝の散歩がてら用事も済み、営業時間に間に合うように事務所へとまっすぐ戻るだけだった。例の事件での負傷も全治二週間だけあり、すでに右手も足も後遺症などなくピンピンしている。

 折りたたみ傘で小雨をしのぎながら来た道を戻る途中、彼と同じく傘を差している、反対に濡れるのも構わず傘を差さずに早歩きする歩行者達と忍は入り交じっていた。
 その中で例の制服――二ヶ月前事務所に押しかけに来た少女と同じ服を着た女子高生たちが見えた。
 そういえば始業式の頃合いだったかもしれない。にしても始業式の日ってこんなに登校時間遅かったっけ、と忍は思い返してみる。が、僅か四年前の始業式の記憶が消し飛んでいたようでくっくと笑いそうになった。

 例の子も今頃学校に向かう途中だろうか。そういえばハンカチをずっと預かっていたままだったと、忍はついでのように思い出した。
 植木鉢事件のことなどみんななかったかのように生活している。掃いて捨てるほどあるワンランクも数ランクも上のニュースに上書きされ、忘れていく。

 例えば殺人、親から子への虐待、教師の教え子への強制わいせつ、いじめを苦にした子どもの自殺、政治家の汚職、有名人の覚醒剤や麻薬取締法違反。

 そして「赫碧症者(かくへきしょうしゃ)」による傷害事件。――――罪の大小を問わず。

 あの娘もまた、一時の非日常と興奮に駆られて突飛もない行動に出てしまっただけなのだろう。あれ以降忍が彼女から接触を受けることは一度もなかった。

 もう返せそうにないしわざわざ学校まで届ける義理もないしどうしたものか、と忍は一人考えているうちに事務所の前に到着する。
 まだ時刻は九時五分前。すでに人影が事務所の扉の前にいた。

 営業時間は九時からなのに、アポなしの上にこっちに時間の余裕を与えてくれないのか、と忍は愚痴りそうになった。とはいえ営業活動なしに自分からやってきてくれる客というのはありがたいものである。忍はこの時点で営業モードの顔つきになり、「お待たせしてすみません。ご用件なら中でお話を伺いましょう」といつもの来客用の決まり文句を用意する。

「お待たせしてすみません。ご用件なら中で」「あ! 伊泉寺(いせんじ)さん! お久しぶりです!」

 依頼人にしては若い。屈託がなさ過ぎる。制服姿。そして――――。


「突然ごめんなさい。私のこと、覚えておいでですか?」


 もちろん覚えている。忘れるはずがない。
 忘れているはずがないが、名前は知らなかった。



「君は確か――えっと――――エロ同人の――――」


「はい、私エロ同人――――――――もっと他に印象なかったんですか」


 あの日のように忍は「学校だろ帰れ」と追い払おうとしたものの、「今日は九時から入学式で在校生は明日から始業式です」と言い返された。だったらなんで制服なんだと尋ねると、この服じゃないと思いだして貰えないかもしれないと思ったらしい。
 別に制服など着てなくても、そう簡単に忘れてたまるものか――――と言いたかったが、別の意味に取られるのも癪だったので忍は何も言わず、とりあえずさっき思い出したことの方を口にする。

「確かこないだ来た時ハンカチ忘れてたね。すぐ取って来るから、ここで待ってて」
「ハンカチ?」
「そうだよ。置いて帰ってたの、覚えてないの?」

 彼女は本当に覚えがないようで目をぱちくりとさせた。
 忍なら百均で買った安物のハンカチ一つ無くしたところでどうということもない。だがあのハンカチは庶民の彼から見てもそれなりのモノであることは分かる。
 しかしこの少女にとってはあのハンカチは忍にとっての百均の安物ハンカチ程度の価値しかないらしい。本当に生粋のお嬢様かよ、この少女を取り巻く大人はさぞ苦労していることだろう、と忍は勝手に一人同情した。

「あの……じゃあ、中で待たせていただけますか? ずっと立ちっぱなしで、ちょっと足が疲れて」

 そのくらいならまあいいか、と忍は彼女をいつかのように事務所へ招き入れた。
 事務所の奥からハンカチを探し当て、ソファで座る彼女に渡すだけで終わる。忍は「はい、忘れ物」と少女に渡そうとして、テーブルの上に一枚の書類が目についた。
 書類は彼から見て正向きに広げられていた。

 一部記入があり、一部記入がない――――「婚姻届」。

「役所と間違えてるよ」
「知ってます! 探偵事務所と役所を間違える人なんていませーーん!」
「ここにいると思った……。書き方分からない? ちゃんとネットで調べた?」
「ネットや説明書で調べる前に機械の使い方聞いてくる人みたいに言わないでくださーーい‼︎ そのくらいのこと十分すぎるほど勉強してます!」
「妻側だけで夫側の記入がないじゃないか…………つ、『つごもり』……『ひいらぎ』?」
 名前を読み上げられ、少女は「その時を待っていました」と言わんばかりにややわざとらしく照れた仕草を見せる。

「はい、自己紹介がまだでしたね。そうです、私『(つごもり)(ひいらぎ)』と申します」
「学生結婚したいの? マセてんなあ。でも結婚は…………ん」
 氏名の次に目に入ったのはそのすぐ下の生年月日であった。

 平成十八年四月七日。日付はまさに今日である。

「あ、お誕生日おめでとう。はいこれ」
「ありがとうございます…………私のハンカチじゃないですか」
「ごめん、お茶しか出せないけど」
「誕生日プレゼントをねだりに来たんじゃありませーーん! ……いえ、一概に否定できなくもないですけど…………」
「なんだ。予め言ってくれたら盛大にお祝いしてあげたのに」
「え⁉ そうだったんですか⁉ 連絡先知ってたのに……痛恨のミスです」
 上気した両の頬に手を当てて何やら恥ずかしがっている。忍からすればただのジョークに過ぎない。

「それでその。そういうわけで私今日から十八歳になりました」
「ああ、ということは明日から高三ね」
「ちなみに伊泉寺(いせんじ)さんは今おいくつですか?」
「…………何歳だと思う?」
「こんなご立派な事務所を抱えてらっしゃるのですから、う~ん、でもお若いし……二十五歳ですか?」
「………………………………」
「あ! すみません! 所長さんなんですし、二十七……二十八歳!」

「………………っさい」
「え?」
「二十一歳」

 柊は所在なさげに目を泳がせる。
「じゃあその、伊泉寺(いせんじ)さんサイドは無問題ということで。
 ……私はこの日を以て十八歳、つまり成人となり、結婚が可能な年齢になりました」
「それで?」


 
「婚姻届を持参してきたので、あなたもご記入お願いします」



 忍は柊から隠れるように自分のデスクの下にしゃがみ込み、引き出しや床に置いているファイルボックス漁りを開始した。

「あ! 伊泉寺(いせんじ)さん! テーブルの上にデスクペン置いてありますよ‼ 
 あ! それとも印鑑探してるんですか‼ 押印は任意になったからなくても大丈夫ですよ‼」
「あ~~こないだはここにあったと思ったんだけどなぁ~~あの資料」
「資料探してる場合じゃないですよ!」

 そこで一旦忍が一人で盛り上がっている柊に水を差すべくふらりと立ち上がる。
「マジレスしちゃうけど。婚姻届は偽装結婚や無断で届け出されるのを防ぐために当人同士だけじゃなく成人の証人二人の署名と押印もいるんだが?」
「そこは抜かりなく。こんなこともあろうかと四月二日生まれから七日生まれの同級生を洗いざらい調べあげて友だちになっておきました。数には困りませんよ」
「打算で友だちを作るな」
「探せば結構いるもんですね~」
 柊は「ひと仕事したあ!」と満足げなだけで、忍のツッコミは〇.〇〇〇一デシベルも聞こえていない。
 こうして民法改正の抜け穴(?)をつく不埒な娘を見ていると、成人年齢を十八歳に引き下げることに決めた社会をやや理不尽に思いつつ、再び忍はデスクの下を漁る作業に戻った。
「で、なんで俺と結婚したいの。この間は手伝いがしたいって言ってただけなのに」
 それは、と一瞬柊が言葉に詰まり、そして意を決して告白する。
「伊泉寺さんが私の命の恩人で、そのお礼としてお手伝いしたいというのは本心です! でも、もっと言うとその……あの時、初めてお会いした時、一目惚れだったんです! 『親方! 空から白馬に乗った王子さまが!』みたいな。キャッ、言っちゃった♡」
 これには忍も乾いた笑いを隠せなかった。聞こえた柊は「冗談じゃないです! 本気です!」と抗議する。
「で、結婚したとして俺と一体どうなりたいの」
「それはもちろん! 同じ屋根の下、一緒に生活して、事務所も二人で手を取り合って協力していくんです!」
「協力って言ったって、そっちは毎日学校があるじゃんか。ロクに手伝えもしない食い扶持が増えて俺側にマイナスしかないだろ」
「なんならエロ同人みたいな展開をご所望であればお応えしますよ!」
「うわっ、急にそんな怖いこと言わないでよ怖いじゃんか」
 流石に看過できない発言だったので忍は思わずデスクから頭だけ覗かせた。
「どんだけ怖いんですか! もう十八ですから万が一淫行条例違反なんて言われても鼻で笑えるようになりましたよ!」
「いや怖いってそう言う意味じゃなくて君の気迫が怖いってことね」
 忍は呆れつつ、再び頭を下げて資料漁りにいそしんだ。
「なんか自分にえらい自信があるところ申し訳ないけど、君一人好きにできて見合うような景気の良い仕事じゃないから」
「で、あれば退学し、性風俗産業に従事して家計を助けろと?」
「いや。なんで特定の産業に限定するわけ。もっと色々選択肢あるでしょ。しかもなんでもう俺と同一生計を共にする前提で語るの」
 忍はセルフガサ入れの際に一度床に散らばった書類をあらかた片付けたのち柊のもとへ向かう。ソファには腰掛けず自分と柊の目線が同じになるくらいまで背を屈め、左手は腰に当て、テーブルに添えた右指の腹だけで上半身を支えた。柊もちょっとおっかなびっくりといった様相である。

「親はこのことなんて言ってるの」
「もう成人済みですから、親の同意は不要です」
「で。親はこのことなんて言ってるの」

 そこだけは頑として譲れない。そんな忍の気迫に柊は自分から折れるしかなかった。

「……父がいますが今は国内にはいません。写真家で、世界中を転々としてて、今どこにいるかは知りません。ただ、毎月お金が口座に振り込まれてるだけです。小五になる前に離婚したので母はいません。親戚は探せばいると思いますけど、いざという時頼れる人はいません」
「今まで一人で暮らしてたの?」
「そうですね。中学に上がった時から、マンションで一人暮らしになります」
「そうだったんだ。…………苦労したね」
 さして興味のないトーンで返すつもりだったのに、少し憐れんでいるかのような自分の声色に忍は俄に驚いた。
「……それで、親と連絡が取れないの?」
 そうです、と柊が頷く。
伊泉寺(いせんじ)さんのご両親は? ご挨拶にも伺わず不躾な娘だと思われるでしょうか……。今どちらに?」
「俺は……俺も、もう何年も親とは連絡取れてないよ。ずっと。晦さんと一緒だよ」
 思いも寄らない話を忍から打ち明けられ、柊も気まずそうだった。

 忍は姿勢を保ったまま、窓の外をじっと見つめる。つられて柊も背後を振り向く。
「……? 外がどうかしたんですか?」
「いや、外じゃなくて窓。窓拭きをしてくれる人がちょうどいなかった。いつも忘れるから…………」
 窓は一見綺麗に見えて外側は細かい土や埃が付着していた。ここしばらく拭いていないためだ。
 忍はもう一度デスクへ戻り、一番上の引き出しから一本の印鑑を取りだした。
 柊の向かいのソファに腰掛け、デスクペンで氏名欄から婚姻届に記入し始める。その間、ペンのカリカリとした音だけが響く。
 最後は手慣れたように捺印マットと朱肉を取りだして、朱肉に印鑑の面をポンポンと軽くつけた。

「あの……押印は…………」
「知ってるけど。事務所(ここ)で契約を結ぶ時は、いつもこうしてるから」
 差出人署名に一つ、欄外に捨印を一つ押す。テーブルの上のティッシュで印面からインクを拭き取る。
「あの、私も朱肉、お借りしてもいいですか」
 いつも持ち歩いていたのか、柊は鞄にしまったペンケースから印鑑入れを取りだした。
 どうぞ、と忍は書類の向きを変えて柊に渡し、マットと朱肉も彼女のそばへ動かす。
 柊も押印し終えると、あとは証人二名の署名と押印だけで完成する婚姻届を手に取った。異なる二人分の筆跡、そして二種類の印影をじっと見つめる。
 その顔は思いのほか嬉しいという顔に見えず、本当にこれでいいのだろうかと迷っているようだった。
「嫌になったら捨てればいいさ」
「! そんなことはしません! 証人の署名もらったらすぐ役所に出してきますからね! もう取り消せませんからね! 取り消したら精神的苦痛で慰謝料ですからね‼」
 急ぎ柊は鞄の中からクリアファイルを取りだして婚姻届をしまい、立ち上がって事務所を出ようとする。

「分かったから早く行きなって。あ、証人だけは押印必須だから忘れんなよ」
「分かってますよ‼」

 嵐のように去って行った柊の姿が見えなくなるまで見送ってから、忍はデスクに戻って印鑑を引き出しの中へとしまう。

 そしてもう一度しゃがみ込み、椅子の上に置いていたミニノートパソコンでメールソフトを操作する。最新の送受信メールを削除してからノートを閉じて、書類が入っているファイルケースの中へねじ込んだ。
●四月九日(火曜)

 始業式が終わると早速柊は大きめのスーツケースを引っ提げて事務所に訪れた。

「あ、やっぱもうここで暮らす気でいるの?」
「当然ですが?」
「別居婚って知ってる?」
「知ってますけど! それがなんですか! 夫婦たるもの一つ屋根の下で暮らすのが鉄則でしょう! 別々に暮らすなんて夫婦なんかじゃありませーーん!」
「単身赴任してる人が泣くようなことを言うな」

 ここまで準備万端にされると足蹴にするのもなんなので、忍は事務所に併設された二階にある自宅へ彼女を案内する。スーツケースを持ってうんしょうんしょと運ぶ彼女を見かねた忍が「貸して」と受け取り軽々と階段を上がった。

「ところで、今まで住んでたマンションってどこ? 学校の近くにあるレンガ調のとことか?」
「いえ、そこじゃありません。駅が近いです。ここからも見えますよ」
「いや駅近くって言ったら……」
 柊は廊下の奥の窓を開けると、「あそこです」と指を差した。忍も跡に続いて彼女の指差した建物を探す。
 最寄りの駅の近くには、何軒もタワーマンションが立ち並んでいる。
 彼女が指さしたのはその中でも一番高い、四十階建てのタワーマンションだった。

「あっ……マンションって賃貸マンションのことじゃなくて、分譲マンションのこと?」
「違いがよく分かりませんけど、多分そうだと思います」
「俺をあそこに住まわせてくれたら良かったのに」
「あ、その発想はありませんでした。父名義で管理費諸々も父が払ってるのでひとまず放置するつもりでしたが、向こうに行きたいですか?」

 あのタワーマンションは屋内プールやフィットネスジム、エステサロン、バーなど施設が充実していることでも有名だった。
 しかしあそこへ住むことになれば、ただでさえ柊のペースにハマりそうな上に家庭内パワーバランスさえ柊に傾いてしまう。

「いや。やっぱ事務所と自宅が一緒だとなにかと便利だから。ここで暮らそう。うん。じゃあ部屋案内しようか」

 柊が今まで暮らしていたマンションと今自分が住む庶民感溢れる自宅。格差がありすぎて忍は否応なく羞恥心と劣等感に襲われてしまう。
 最初に紹介したのは柊の寝室となる部屋だった。ここで勉強もできるようライトスタンドが置かれている机、椅子、ゴミ箱、そしてシングルベッドが一つだけとこじんまりとしている。ベッドの上には掛け布団や枕はおろかシーツも外され、裸のマットが一つ置かれているだけだった。

「荷物はここに置いときなよ。一応俺が使ってたベッドだけど、シーツやらは今洗濯して乾かしてるところだから、それでも気になるなら自分の小遣いで買って」
「い、伊泉寺(いせんじ)さん……そんな準備万端で、どんだけ楽しみだったんですか…………♡」
「いや絶対今日押しかけてくると思ってた」

「ところで……今日からここのベッドを私が使うとなると、伊泉寺さんはどちらでお休みになるんですか?」
「前は他にも部屋があって、布団もあったんだけど使わなくて処分した上に物置部屋にしちゃってさぁ。捨てなきゃ良かった。うちリビングないから、物置部屋を片すまでは事務所のソファで寝るよ」
「そ、そうですか。ダブルベッドじゃないのが悔やまれますね」

 柊はいかにも残念そうに言うが、俄に安心した顔を覗かせていたのを忍は見逃さなかった。

 キッチン、風呂、トイレと自宅をあらかた説明してからは、もう一度二人で一階の事務所に戻った。今度は生活のことではなく事務所内での彼女の役割説明の始まりである。

「固定電話は俺の携帯に転送するようになってるから電話対応は気にしなくていいけど、うちは土日祝も営業だから、もし俺の留守中に来客があったら名前と、電話と、簡単な要件だけ聞いて『所長に折り返しお電話するようお伝えします』って言うこと。あとはメモを書いて机の上に置いといて。分からないことは無理して答えなくていいから。俺が戻ってもメモに気づいてないようなら声かけて。もし急ぎの案件なら構わず俺に電話なりメッセージなり入れていいから」

 彼はここ二年近くずっと一人だけで事務所を切り盛りしてきた。なので仕事のことなど他人に教え慣れているはずもなく。要領を得ない自覚もあり、脳内忍も「お前説明ドヘタクソすぎかよ」とセルフツッコミしている。
 一方柊はそんなグダグダな説明でも理解できているようで、メモをとりながら「はい」と頷いている。聞くまでもないが一応聞いておくとアルバイトの経験はないとのことだった。

 次に事務所内の給湯室へと彼女を案内する。
「お客さんにはお茶を出してあげてね。俺の分はいいから。ケトルでお湯沸かして、急須とお盆はここ。来客用の茶碗はこれね。そう、前に晦さんに出したのと同じやつ。あ、うちコーヒーは出さないから。両方あると迷うから最近やめた。まあないと思うけど、どうしてもコーヒー出せっつってきたら俺用のインスタントが置いてあるからここから取っていって、カップとソーサラーも一応残してるから。晦さんも飲みたい時はマイカップでも用意して勝手に飲んでいいよ。砂糖もフレッシュもないけど。今は熱いお茶でいいけど暑くなったら……まあそれはいいや」

 忍は給湯室での一通りのレクチャーを終えると、あとは事務所内の掃除など彼女にでもできそうなことを順に説明した。

「分かってると思うけど、個人情報を扱う仕事だからここで知り得た内容は学校で話したりしないように。あとお客さん来てる時に制服じゃちょっとなんだから、私服……えーっと」
「はい、事務所でお手伝いしている間は、落ち着いた服装を心がけます」
「うん、そういうこと。今日はこんなもんかな」

 気づくと時刻は午後五時。下校中なのか中学生の笑い声が外から聞こえてくる。

「…………今日はその、色々教えてもらっていたらあっという間でしたね」
「誰も来なかったって言いたいんだろ。分かってる、たまにはこういう時もあるさ」

 たまにどころか頻発したり連続したりすることもあるが、その辺の世知辛い事情は彼女にはまだ早いと飲み込む忍なのだった。

「このくらいの時間で上がっていいから。学校がある平日はいいから。うちの手伝いじゃなくて学業が優先だからね」
「それもあと一年の話ですねっ。卒業したら、毎日お手伝いできますから!」
「大学行かないの?」
「大学に行ったらまたお手伝いできる時間が限られるじゃないですか!」
「俺が廃業した時はどうするの」
「…………私が伊泉寺(いせんじ)さんを養う必要がありますね」
「そう。俺は大学行かなかったから、代わりに晦さんが勉強頑張ってね」

 いつまで紙切れ一枚で結んだ関係が続くか分からないからな。

 そんな忍の真意を知らず、柊は学業と事務所の手伝いの両立に張り切っているみたいである。
 やがて柊は上目遣いにチラチラと忍の顔を覗いてきたので彼はしょうがなく「なに?」と尋ねた。

「ではその、名実共に夫婦になったという訳で……コホン。これからの呼び方ですけど。戸籍上はもう私は伊泉寺(いせんじ)さんの姓であるわけですし? 『柊』呼びが相当だと思われるのですが? あと私からは『忍さん』とその……あ、『あなた』のどちらでお呼びしましょうか」
「じゃあ、ここで暮らす間は『所長』で統一するように」
「婚姻関係を結んだんですよっ⁉︎ 婚姻関係は雇用関係を上回るに決まってるでしょっ⁉︎」
「うん、でも社会ではこういうの、ケジメだから。特にお客さんの前ではあまり気安い名前で呼ばないように。俺も君のことは旧姓で通すからそのつもりで」
「それくらい分かってますよ! プライベートな話をしてるんですよ私は‼︎」
「うちは三百六十五日二十四時間体制だから。仕事とプライベートは分けてないの」
 


 文句たらたらの柊を二階に追いやってから忍はそのまま暗くなるまで電話や書類整理で一人事務所で仕事を続けていた。
 夜八時すぎ、運送屋から事務所宛に段ボールの荷物がお届けされる。
 受け取った箱は六〇サイズで非常に軽い。送り状の「ご依頼主」の欄には会社名と担当者らしき名前が書き込まれていたが、今まで取引があった会社でも人間でもなく、全く身に覚えのない名前である。
 会社名は検索するとヒットしたものの、ホームページを閲覧するとオーガニック化粧品を取り扱っているというまず関わり合いになることのない会社だった。
 品名は「書類」とだけ書かれている。これらは全て手書きではなく、ドットプリンターで印字されていた。
 耳の近くで手で軽く振って中身を確かめようとするも、手応えがまるでない。少なくとも書類の類いではなさそうなのは確かである。
 御中元や御歳暮の可能性は期待せず、カッターでOPPテープを切り、中を開けると箱ピッタリの大きさの発砲スチロールの箱が詰められていた。
 嫌な予感がしつつ、発泡スチロールの蓋を開ける。

 一枚の無地の紙が挟まれており、それを払うと発泡スチロールの塊に小さな長方形のくぼみがど真ん中に開けられていた。




 くぼみの中にあるのは長細い鉛――単三電池よりも細くて長い――――銃弾だった。

 
 
●四月十三日(土曜)

 伊泉寺探偵事務所に一人来訪者が現れた。ただし依頼人ではない。

 学校が休みの柊は今日が初めての事務所手伝いとなる。長袖の白いリブトップスに青の膝下までのフレアスカートと、落ち着いた服で事務所の扉を開けて来訪者を迎え入れ、ソファに案内する。

「その人、お客さんじゃないからお茶とかいらないよ」

 柊はニッコリ笑ってから給湯室へ向かった。忍はなんとなしの彼女の足下を見るとストッキングに黒いオフィススリッパを履いていたことに気づく。そう言えば靴のことについて言い忘れていたのと、言われずとも用意していた柊に「やるじゃん」と謎の上から目線な感想が溢れた。

 忍もまたメガネをかけた若い男の向かいのソファに腰掛ける。
 少し崩れ気味の黒髪のオールバックに黒いスーツを着ている彼は薬物銃器対策課――略称「薬銃」――の刑事、荒川という。知り合いの記者に引き合わされて以来、暇つぶしに事務所に来ては駄弁ってくるのだ。

「蒼樹が今度帰国するって連絡入ったけど、お前知ってる?」
「えっ、そうなの」
「おっと、お前にはサプライズだったのかな。……あんま嬉しそうな顔してないな」
 どうぞ、と柊が二人にお茶を差し出すと荒川もニッコリとありがとう、と返した。

「で? …………ええーっと……」
「晦さん、ちょっと席外してくれるかな」

 柊は二人に会釈して奥に下がった。扉を閉めて、二階の自宅に上がる足音を聞き届けると二人は会話を再開させる。

「……で、事務所に銃弾がお届けされたんだって?」
「怖くてお巡りさん呼んじゃった」
「なんか送られるようなことに心当たりあるの?」
「あると言えばあるし、ないと言えばない」
「微妙な言い方だな」

 そこで忍は植木鉢事件で明らかにされなかった「物陰から狙撃銃らしきものを持っていた誰か」の話のこと、送られた前日にそれらしき人物がいたとされるビルを見に行った話を荒川に話した。

「なんでそんな大事な証言を少年課は無視しちゃうんだよ」
「お前らが取り合わなかったんだろ」
「いや、俺の管轄じゃないから知らんけど……。見たのが子どもで、一瞬で、本人もああいった行動の最中だったからハッキリしないというわけか。確かに微妙かもな」
「それで、どこから誰が送ってきたかとかは分かったわけ?」
「本人がわざわざコンビニに出向いて送ってきてくれたら早かったんだけどな」

 荒川が言いたいのは、割の良い金で雇われた代理人が宅配会社と提携しているコンビニに預けたということらしく、そして金で雇った当人の情報を代理人も知らないということだった。

「あのビルの周りになにか物騒な組織の人間でも出入りしてんの? 最近幅を利かせはじめてる半グレ連中のエスキモードッグか?」
「だからエスキモードッグはただの犬だって言ってるだろ。スモーキードッグだよ。してたとしてもお前には言えないよ。でも、もうあのビルの周りでウロチョロするなよ。あとは警察の仕事だから」
「おう。一応場所教えとくわ」

 忍がテーブルの上のメモ帳から一枚引きちぎり、デスクペンで書き込んで荒川にメモを渡す。
 彼は内容を確認すると「ところで」と話題を切り替える四文字を唱えた。

「あの娘だよ二月にお前の事務所じーーってガン見してた女子高生……ははぁ……あれから熱烈アプローチされてコロッといっちゃったか。コンシェルジュみたいなことまでさせちゃって。まあ、お前も人の子だからな」

 荒川は一旦そこで言葉を切ると事務所の奥、忍の自宅につながる階段がある方をぴっと指差す。
「ところであの娘さっき二階に上がって行ったけど、あそこお前ん家だよな? 休憩室でもあるの?」
「いや、自分の部屋だと思うよ」
「自分の部屋? 住み込みで働いてるって言うのか? 親が許さないだろこんな得体の知れない男の家に……」
「住み込みって言うか一緒に暮らしてるんだよ。彼女十八だし、結婚してるから」
「誰が?」
「俺と彼女が」
 うわ、と荒川は手で顔を覆うかわりに左の親指と中指で、知的さをうっすら感じさせるハーフリムのスクエアメガネのフレームを押さえた。

「先を越された……」
「あ、そっち?」

 ちなみに彼は今年で二十六歳になり、九月で二十二になる忍より四つ年上になる。
 メガネから手をどけた荒川から「今大学生?」と尋ねられ、嘘を言ってもしょうがないので忍は「高三」と正直に答えると向こうは予想通り露骨に顔を引きつらせた。

「卒業するまで待てなかったって、相当なんだな。いつもヨレヨレのくせになんか今日スーツが嫌にパリッとしてるから変だと思った」
「何、『十八歳の女子高生と結婚した』罪で逮捕してみるか?」
「俺に免じて逮捕は見送ってやろう。その代わり離婚したらすぐ教えろよ。結婚祝いとまとめて祝福するから」
「どうせ近いうちにそうなるよ」

 忍は手を付けていない茶を一口飲む。茶はすでに彼の心境と同じく冷めきっていた。


「驚くだろうなあ、お前が女子高生と結婚したって蒼樹が知ったら……せっかく脈がありそうだったのに……」
「今から理論武装しとかないと」
「こりゃ蒼樹の追及の手がどこまで及ぶか楽しみだな」
「同じ男同士ってことでフォローしてくれる?」
「むしろ蒼樹に加勢したいくらいだね俺は」



●四月十四日(日曜)

 忍は午前中からあちこち片っ端に電話をかけるのに忙しかった。

伊泉寺(いせんじ)です。磯所長をお願いできますか。…………はい、ご無沙汰しております。…………そうです、しばらく手が空いておりますので何かお困りがあれば案件などをご紹介していただければ…………。ありがとうございます。はい、よろしくお願いします」

 忍の電話が終わるのを見計らって柊が話しかける。
「お電話で忙しいですね。皆さんお知り合いの探偵事務所ですか?」
「そうだよ。手がいっぱいな時とか、専門外の案件があると仕事を回してくれることがあるの。普段からいっぱいゴマはすっとかないとね」
「そうなんですか。同じ探偵事務所同士、持ちつ持たれつなんですね」
「そういうこと」


 彼は手が空いているとは電話では言ったものの、本当は柊の分の生活費を稼ぐ必要があったからだ。
 勉強用の文具やら自分の服など、忍には関係ない消耗品の類は「父からの送金」から買ってもらい、水道光熱費や食費などは忍が負担することにした。
 一度忍は柊の通帳を見せてもらったが、「父からの送金」というのが毎月女子高生には多すぎる額で、残高も忍の年収以上残っている。通帳を初めて見せられた時、忍は思わず卒倒しそうになった。結婚したら贈与税ってどうなるんだろう。彼は一旦目を背けることにした。
 案の定柊から口座の金は好きに使っていいという申し出を受けたが、忍はそれを断った。
 会って二ヶ月、植木鉢事件の時も含めてたった三回しか会ったことのなかった女子高生と結婚した上に、顔も知らないどころか柊自身もしばらく会っていない父から送られてきた金を使うのは流石に躊躇われる。社会人が女子高生の金に手を出すのも抵抗がある。

 柊との生活に見通しがつかない以上、忍は無用な借りを彼女に作りたくなかった。

 で、柊自身は「私のために所長も仕事に精が出ているんですね♡」と言いたげなもので、こうして電話をする度に俄に嬉しそうな顔をするのが忍としてはやや癪であったが、ひとまずそういうことにしておいた。

「ところで専門外の案件って例えばどんなのですか? ……あ」

 柊が窓を見てパタパタと入口に駆け寄り扉を開ける。入ってきたのはスーツ姿の小柄で初老の男性。同じく探偵事務所の所長を勤める熊谷(くまがい)という。

「伊泉寺さん、昨日はお電話いただいたのに折り返しご連絡できずすみません。ちょうどその時お客さんとの相談事が長引いていたもので。今、外出の帰りで通りがかったので直接お伺いに来ました」

 遙か年下の忍にも物腰柔らかく挨拶し、忍もすぐに立ち上がる。
「熊谷さん、わざわざお越しいただきありがとうございます。どうぞ」
 忍が熊谷(くまがい)をソファに座るよう促したあと、柊の給湯室でお茶の準備を始める。同業者や長くかかりそうな相談の時は忍の分のお茶も用意する。

「事務の方を採用したんですか?」
 やはりというか、早速柊のことを聞いてきた。
「いや、社員じゃなくて主に雑務をお願いしてるアルバイトですよ。土日と祝日だけ来て貰ってるんです」
 ああ、そうなんですか、と熊谷(くまがい)は案外すんなりと納得する。
 ちょうど「アルバイト」の柊が熊谷(くまがい)と忍にお茶を運びに来た。

「ところで今お手すきだそうで。昨日ウチに相談に来たお客さんのことで、ちょうど伊泉寺(いせんじ)さん向けのお仕事だと思ってお願いに上がりました」
「ありがとうございます。どういった案件なんです?」
「まあいつもお願いしているのと代わり映えないです。二件ありまして、『恋人が赫碧症(かくへきしょう)かもしれない』『従業員が赫碧症(かくへきしょう)かもしれない』というご相談ですよ。どちらもお願いしても?」
「ああ……そうですか。もちろん、ありがたくお引き受けさせていただきます」
「いえ、こちらこそ。では、事務所に戻ったらその旨を依頼人の方々にお伝えしますので、向こうからお電話してもらうか伊泉寺(いせんじ)さんの方から連絡するかまたお知らせしますね」

 わざわざすみません、と忍は頭を下げる。
「いや、こちらこそ助かります。赫碧症(かくへきしょう)が絡む案件は年々相談が増えて、もしもの時にウチの事務所で手に負える者はいないから、伊泉寺さんが……」
「あ、熊谷(くまがい)さん、それは」
 熊谷(くまがい)はハッとして、一瞬柊の方を見た。柊も熊谷(くまがい)の方を見ていたので二人の目線がかち合い、彼は咄嗟に茶に目を移して取り繕うように飲み始める。
「ああ、そう言えば栗本通りにあるあのラーメン店。有名なとこ。行ったことあります? こないだそこに行った話なんですけどね…………」



 二人はしばらく雑談に花を咲かせ、二十分後には熊谷(くまがい)は事務所を去って行った。
 柊が茶碗を片付けている間、忍はデスクに戻り有名なIT会社が運営しているニュースサイトをパソコンで一人閲覧する。
 見出しは「小学校内で児童による傷害事件、教師二名負傷」、内容にはひっそりと「少年は赫碧症(かくへきしょう)とされる」との一文が添えられていた。
 忍が興味本位でコメント欄を覗いてみると、

「事件がこんなに起きてるのに政府はなにしてるんだ、国民を守るために税金使えよ」
「こないだ与党の議員が赫碧症(かくへきしょう)の有力者から賄賂を受けたばかり」

 などなど、義憤にかられたコメントのすぐ下についてある共感を示すサムズアップマークに多くの数字がついていた。
 そしてこの手のニュースのコメント欄は大抵荒れに荒れて、最後は運営自ら閉鎖するまでがよくある流れである。
 ふと、忍は終わりにあった関連記事が目についた。

 
『樫井夫妻殺害事件から九年、捜査に新たな進展、監視カメラの映像』

 
 知らず、彼は自分の心臓が跳ね上がったのが分かった。マウスカーソルが関連記事のリンクに近づく。


「所長もニュースのコメント欄を眺めたりするんですね」

 突然後ろから声をかけられ、忍は咄嗟にショートカットキーで閲覧しているタブを閉じてしまった。
 給湯室からいつの間にか戻ってきた柊が忍のパソコンを眺めて後ろから話しかけてきたのだ。
「たまにね。晦さんは見たりする?」
「いえ、私は……極端な書き込みも多いから」
 そっか、と忍はぽつりと呟く。
「よく、赫碧症(かくへきしょう)の方が絡むご依頼が多いんですか?」

 忍は一瞬なんて言おうが迷った末、「そうだね」と肯定した。

 探偵による違法な調査、業務中のトラブル等が多発した結果、平成十七年に探偵業法が成立した。だが不当な差別に繋がる恐れのある身辺調査はいまだ制限されていない。

 それも「赫碧症(かくへきしょう)」がネックになっているからだ。
 柊も、熊谷(くまがい)や忍のやりとりに特段疑問を覚える様子もない。
 彼女が生まれる前から今までずっと、当然のように横行しているからだ。


「――それに今のニュースみたく、万一赫碧症(かくへきしょう)の人と接触する場面があると()()()()しれないから。俺は体が丈夫にできてるから、いざという時も平気なの」
「ですね。あんな高い場所から落ちても全治二週間ですもんね」
 くすくす、と柊は当時のことを思い出したのか目を細めて笑う。

「まあ、その話はこれくらいにして。所長、今日のお夕飯のリクエストはありますか?」
「夕飯? なんでもいいよ」

「………………………………」

「こ、怖ぇよ‼︎ いつもみたいに『なんでもいいって所長いっつもそうじゃないですか‼︎』ってキレろよ‼︎」
 それでも柊の「恨み晴らさでおくべきか」とでも言いたげな表情に堪えられなくなり、忍は何か弁解をしなければと大いに焦る。
「てか別に、結婚してるからってわざわざ俺の分まで作らなくていいし自分の分だけ用意しなよ。こっちも来客とか、調査とか、訪問とかで決まった時間に飯食える訳じゃないんだから。この話……あれ? 何回したっけ?」

「四回です」
「数えてんのかよ! 怖‼︎」

「つまり私たちは同じようなやりとりを今まで四回もしているということです。そして今日のやりとりで晴れて五回目になるということです」
「わ、分かった。分かった分かった。今度から献立たくさん書いたポスター作って、それをダーツで決めよう」




「……………………………………」



「だから怖ぇよ‼︎ 何が不満なんだよ‼︎」
 そうして二人が押し問答している最中、外から車の甲高いエンジン音が聞こえてきて二人は揃って窓の外の方へ顔を向けた。車のドアの開閉音が聞こえて柊が出迎えしようとすると、忍が「大丈夫」と制止する。

 やがて一人の女性が扉を開けて、中にいる忍にニッと笑った。
 ロングの黒髪に目鼻立ちの良い美人。派手すぎず地味すぎない化粧。
 手には紙袋が握られている。女性は「チャオ」の挨拶として右の掌で手先をパタパタと上下に動かすサインを忍に送った。その手で髪を耳にかける仕草する時、雫型の透明な水色のパーツが付いているフックピアスが見えた。

「びっくりした。来るんなら時間教えてくれたら良かったのに」
「どうせいつ来てもいると思って」

 忍はちょっと不服な顔をするがぐうの音も出なかったので反論はしなかった。女性の方へ歩み寄る途中気づいたように柊の方へ振り返り、「あ、お茶は大丈夫だから」と断りを入れた。
 柊は突然の、加えて忍がやけにフランクに接している若い女性の来訪に戸惑いを隠せない。

 そして彼女の格好――鎖骨まで見えるU字ネックでかなりタイトな紺色のシャツ、白のパンツもこれまたタイトで美しい体のラインが丸分かりで、柊の心はいっそう波立つ。おまけに二人が座ろうとした瞬間、忍の目の前で彼女の小さすぎず、大きすぎない胸が揺れたのを見て柊は目玉をひん剥いた。

 柊が同じ服を着て同じ動作をしたとしても多分揺れそうにない。

「えらい薄着だな」
「今日の最高気温何度だと思ってんの。この安楽椅子探偵」
「水道水でいいなら出すけど?」

 お願い、と女性が頼むと忍はさっさと給湯室へ向かってしまう。一方柊は女性の格好に面食らっているうちに給湯室へ行くタイミングを逸してしまった。
 忍が水を用意している間、その場に女二人が残される。柊がちらっと黒髪の女性を見ると、向こうはじーっと品評するかのごとく彼女のことを熱心に見ているので柊は目を合わさないように顔を少し背けた。
 ほどなく忍が戻り、氷入りの水道水が注がれたグラスを女性に渡し、ありがとうと女性はさっそく一口ほど飲む。

「いつ帰ってきた?」
「昨日。はいこれお土産」
 女性が紙袋をテーブルの上に置くと、忍が中身を抜き取った。おしゃれなデザインのクッキー缶だった。
「サンキュー、あとでありがたくいただくよ」
「今食べたら? 彼女も呼んであげたら?」

 女性が柊の方を見て言うと、忍も彼女の方を見て「じゃあ、コーヒーお願い」と頼む。
「あ、わたしもコーヒー欲しいな」
 柊ははい、と答えて給湯室で三人分のお湯を沸かした。その間、二人がやっぱり親しげに話している。
 ソーサラーに乗せたコーヒーカップをテーブルに並べると女性がありがとうと柊をねぎらった。柊も軽く会釈をして、お盆をテーブルの隅に置いて自分も忍の隣に腰掛ける。すでに真ん中には缶が開封され色んな種類の包装されたクッキーが敷き詰められていて、忍は一個貪っているところだった。
 あなたもどうぞと女性に促され、柊も遠慮がちにいただきますと小さなクッキーから手を付ける。
 忍が一枚食べ終わりコーヒーをすすってからようやく思い出したように口を開いた。

「あ、この人蒼樹(あおき)さんって言って記者の人。昨日来たメガネの刑事の人の知り合い」
「説明大雑把すぎ」
 蒼樹と紹介された女性がもう一枚クッキーを食べるべく缶に手を伸ばす彼を見て呆れ、次に柊の方を向いて人当たりの良さそうな笑顔を浮かべた。

「名前は蒼樹華蓮(あおきかれん)、フリーで記者やってます。色々手広くやってるけど薬物犯罪について調べることが多いかな。前ここで所長してた有島さんって人とわたしが知り合いで、その縁で伊泉寺(いせんじ)くんと。んで荒川くんとは仕事の縁で知り合って、わたしが二人を引き合わせてあげたわけ。前はあなたみたく、わたしがここの手伝いをしてた時期もあったんだから」

「あ、ここ前に別の方が所長してたんですか。それで三人で働いてたんですね」
「いや、わたしが久々に訪ねた時にはもう有島さんはいなくって、一人でクンクン鳴いてたハスキー犬を見かねて助けてあげてたの。当時のこの人もう本当見てらんなくて」

 蒼樹はその頃のことを思い出したのか鼻で笑うと、忍がムッと彼女を軽く睨むがすぐにクッキー缶へ視線を戻す。柊は「ハスキー犬」の意味を理解しかねているようで、蒼樹がそんな彼女に「あ、ハスキー犬ってこの人のことだから。犬顔だし、つり目で怖いし」と解説した。

「いちいちンなどうでもいいことまで教えなくていいから」
 そう言って乱暴にガサッとクッキー缶を漁る忍はまるで拗ねている子どものようだった。
 気心の知れた姉弟のような、仲睦まじい男女のようなやりとりに「ソウダッタンデスカ~」と柊、思わず棒読みになってしまう。

「ところで伊泉寺くん? 本当にこの娘が『例の』?」
「『例の』って言うな。もう荒川から聞いてるんだろ」
「伊泉寺くんが結婚したのって本当の本当にこの娘なの? なんか、全然イメージ違うんだけど……」
「どんなイメージ持ってたの」
「そりゃあ、わたしみたいな、一つ年上の女房とか?」
「金のわらじがあったらそうしてたかもね」
「わざわざ履いて探さなくてもすぐここにいるでしょ」

「わ………………」

 柊が一人プルプルしても、忍も蒼樹も全くその様子に気づかない。


「わ、私を無視して二人で盛り上がらないでくださーーい!」


 突然柊が声を荒げて話に割って入ってきたので、忍も蒼樹も小さく仰け反ってしまう。
「本当の本当に私は所長と結婚してるんですからね! 疑うっていうならこっちは役所がついてるんですよ‼︎」
 柊が息巻いて右手で胸の上辺りを叩くと、蒼樹はすぐに姿勢を正して「ふ~ん」と相づちを打った。ニュアンス的には「あっそ」に近かった。
「それにしては結婚指輪もしてないみたいだけど」
 蒼樹が二人の左手薬指を交互に見て事実を指摘する。
「そ、それはっ! 所長が出世したら気前良くプラチナでダイヤの結婚指輪を贈る手筈になってるんです!」
「俺もう所長だから出世もなんもないけどね」
「わたしがちょっと海外に行ってた隙にこの有様……。有島さんが聞いたら泣くんじゃない?」
「むしろ『男になった』って褒めてほしいね」
「なんなら愛人の一人や二人作った方がもっと褒めてもらえるわよ」
 再度二人が盛り上がる雰囲気を察知すると、それを阻止すべく柊がまたもや割って入る。
「あ! だめですよ! この人もう妻帯者ですから! こちとら不倫相手にも慰謝料の求償権があるんですからヘタなことはしない方が身のためですよ‼︎」
「なーに? 探偵事務所らしく不倫調査でもするつもり?」
「受けて立ちますよ! こっちにはプロの探偵がついてるんですよ‼︎」
「伊泉寺くん。わたしたちが不倫したら伊泉寺くんが調べるんだって」
「あらかじめ二人でアリバイ工作しておこうか」
「伴侶の前で堂々と口裏合わせするのやめてくださーーーーい‼︎」

 その時、忍のスマートフォンから着信音が流れると同時に彼も立ち上がって一人デスクに戻った。
「はい、先ほどはどうも。分かりました。こちらからご連絡すれば良いんですね。番号は………………。はい、ありがとうございます」
 忍が先の熊谷からの電話を切ると、蒼樹がコーヒーを一口啜ってから立ち上がる。
「じゃあ、わたしはこれでお暇するわね」
「ロクにおもてなしもできずに悪いな」
「それなら今度荒川くんと久々に三人で飲み行きましょ。わたしの帰国祝いにね」
 はいはいと忍は返し、蒼樹も立ち上がって柊にニッコリと「コーヒーごちそうさま」と礼を言い、颯爽と事務所を出て行ってしまった。黒いエナメルのハイヒールが似合いそうな彼女だが、運転するためかシューズを履いている。蒼樹の車が発進する際、外から聞こえる甲高いエンジン音が耳に刺さった。窓から艶のあるコーティングで青色のスーパーカーが華麗に走り去っていくのを見送った。
 ようやく二人だけになると、柊が恨めしそうな顔で忍を見つめる。

「あのね。何言いたいか分かるけど、元カノとかそういうんじゃないからね」
「で、彼女どのくらいここにいたんですか」
「ほんの一瞬だよ」
「具体的には?」
「三ヶ月くらい」
「ははあ……それは確かに一瞬ですねぇ…………」

 忍は柊のねちっこい視線を逸らすだけで精一杯であった。
「それに、前の所長さんがいたこととか色々教えてくださいませんでしたね……」
「いや、事務所のヒストリーより仕事とか家のこととか他に教えるべきことがあったから。その辺は追々話すつもりだったから。本当だから。…………あー分かった分かった。今掻い摘まんで説明する」

 忍は頭の中で情報を整理しているのか右人差し指で眉間のあたりを押さえ、だいたい纏まったあたりで指を元に戻してから語り始める。

「ここは前『有島探偵事務所』って名前で、蒼樹が言ってたとおり有島さんって女の人の事務所だったの。俺はそこで高校卒業したら本格的に働くために住み込みで手伝ってたわけ。んで三年前、突然『他にやることができた』って書き置き残して失踪して、一応戻ってきた時のために俺が引き継いで。そのあと一時期蒼樹が手伝いで来てた。でも有島さん戻ってきそうな気配ないから一年前屋号変えて現在に至る。以上」


「……………………………………」


「だから怖いって言ってるだろ! どう組み立ててもこういう説明にしかならねーよ!」