●四月二十四日(水曜)

 忍はまず先に二件目の対象――輸入販売会社に勤める従業員――の調査に着手した。
 依頼人から入手した対象の履歴書を手がかりに元同僚、つまり対象が一年前に入社し、そして退職した会社に現在も勤める従業員と二人きりで会う約束を取り付けることに成功する。



「私は労働保安局環境改善対策調査委員会から、内密に社員の方へ会社が不当解雇やパワーハラスメントをしていないかなどの実態を調査している民間委託の者で、荒川と申します」



 ――などと架空の部署、架空の設定、架空の身分、あと勝手に荒川の名前を借りた名刺を渡し、元同僚とファミレスでお茶していた。

平然と身分を偽って接触することへの罪悪感など忍にはとうの昔に消え失せている。



「例えば出自、病気、性的指向、宗教、支持政党などを理由に不当に解雇された社員の方、パワーハラスメントを受けた事例があれば教えていただきたく……」


 今回接触した元同僚は「国が秘密裏に派遣した調査員」が自分を訪ねたことに気を良くしたのか、会社内でのパワハラやモラハラやセクハラなどを嬉々として語ってくれた。ボイスレコーダーの録音にも喜んで協力してくれた。
 それにしてもこの会社問題ありすぎだろ、と忍が思っていた矢先に本命の情報が元同僚の口からついに漏れ出る。



「部長にパワハラ受けてた新入社員の眼が(あか)くなっちゃって、部長が情けなくも腰を抜かして震えてたんですよ」

「……その方、今も会社に?」

「いや、流石に退職しましたよ。赫碧症(かくへきしょう)ってバレてみんな近づこうとしなくなったから、自主退職で」



 入社時期と退職時期を聞くと、依頼人から提出してもらった履歴書と一致していた。

「情報提供のご協力ありがとうございました。今回いただいた貴重な情報は労働環境改善のために必ず役立てます。あなたから情報提供を受けたことを勤務先にお伝えすることは絶対にありませんのでご安心ください。その代わり、私がこうして接触したこともどうかご内密にお願いします」

  そう礼を言って伝票立てからレシートを取って会計を済ませるため忍が席を立とうとすると、元同僚から「あの」と呼び止められる。



「あの――――実はそのパワハラされてる現場の写真、こっそり撮って今も持ってるんですけど。何万円で買っていただけますか?」




  ◇
 



 元同僚との話が済んでファミレスを出たあとは、あらかじめ連絡を入れておいた大石社長と事務所で落ち合う。

 その場でボイスレコーダーの内容を二件目の依頼人に聞かせた。赫眼を見たこと、そして退社したこと、淀みなく元勤め先の入社時期と退職時期を語る元同僚の証言を聞いて「やっぱり」と怒り心頭に発したという顔色を見せる。



 ――結局、忍は元同僚から持ちかけられた写真は買わなかった。

 なんだか「買わないならお前のことバラすぞ」的なオーラを発されたが、名刺に書いているものはデタラメなので忍は「お好きにどうぞ」といった態度で別れてきた。
 
ただ無断で名前を使われた荒川だけはとばっちりなものの、市民の敵の社会的信用を落とすための地道な活動と思えば罪悪感も特にない。

 
 


●五月二日(木曜)



 一方、一件目の依頼である対象、仁志の調査を開始したものの、二件目とは違いこちらは難航が予想された。

 尾行してしばらくは市内の健総センターに訪れる様子はなかった。

 神経科に通っているのは依頼人の話通りだった。

 過去に心理福祉課に通っていたかどうかも調べてみたものの、流石に心理福祉課はガードが堅く証拠を入手することが難しい。
 相変わらず仁志も健総センターに近づくそぶりも見せない。
 それとなく周辺人物から彼の評判を聞くと証券会社で働く彼は仕事熱心な有望株だという意見で一致していた。彼が赫碧症だと疑う者は一人もいなかった。


 あまりにも進展がなさすぎてこれはもしかして本当にシロなんじゃないかと忍が思いはじめた矢先、依頼人から「彼がゴールデンウィーク前に有給を取っているようだ」と連絡を受けた。

 忍の中で連休前の有休は嫌がられるイメージがあったが、もしかしたら健総センターが休みになる前に出向きたいからではないかと睨んだ。



 当日、朝から仁志が住んでいるマンションの近くに車を止め、忍は双眼鏡で仁志が玄関から出てきたのを確認する。
 あらかじめ教えられていた黒のコンパクトカーが発進するのを確認すると、彼も車で跡を追跡した。

 車の向かう先は市内の健総センターへの通り道でもあり、これは確定かと思いきや仁志の車は見事にスルーする。

 それでもまだ可能性が一つだけあったので、追跡を続けた。
 車はまさかのインターチェンジ、高速道路へと入っていった。これがただの遠出だったら取り越し苦労である。
 しかしそれはただの杞憂であった。隣県に入ると、すぐに車は高速を降りていく。
 市街地へと入り、ずっとつけていることが露呈せぬよう距離をとりつつ運転すると、仁志のコンパクトカーは目的地らしき三階建てのちょっと古びた薄茶色の建物に到着した。



 その施設の名前は――――「健康保健総合センター」。



  ◇


 
「県外の健総センター……? そんなとこ利用できるんですか?」



 尾行の結果を伝えたその日のうちに、孝子は仕事終わりに来所した。柊はこの時間は二階にいるので、自分で茶を沸かして用意する。

 県外の健総センターを訪れる仁志の様子を映したタブレットを彼女にも見せた。

「普通は無理です。ですが心理福祉課に限り、住民票と異なる自治体の健総センターを利用することが七年前から可能になりました。地域の健総センターに通っているところを見られた子どもが学校でいじめられる事態を受けて、本人のプライバシーが守られるよう改正されました」


 考えればすぐ分かりそうなことだ。狭い地域で何度も健総センターに足を運べば誰だって心理福祉課に通っていることくらい検討がつく。

 そして忍は仁志が施設に入り、そして退出した場面の写真それぞれの詳細情報を表示する。

「午後一時から二時二十分、一時間以上滞在していました。用もないのに県外の健総センターを尋ねる理由はありません。ここに彼の関係者がいるという事実も確認できませんでした」

「やはり、そうなんですか?」

「間違いないかと」


 孝子は予想していたとしてもショックだったのか、しばらく押し黙るも再び口を開く。

「赫碧症でも、自分を律して、社会に溶け込んで、暴力を振るわない方もいるんですよね」

 忍は「その通りです」と答え、自分なりの所見を伝えてみることにした。

「彼は大手証券会社にお勤めですよね。あまり知ったようなことは言えませんが、非常に多忙で、ノルマもきついと聞いています。ストレスが限界に達する前に早めに退職されるか、そもそもこういった職種は避ける方もいます」

 二件目の調査対象が大石社長が経営する会社の前に勤めていた会社は所謂「ブラック企業」だと元同僚の話で察することができた。
 彼女の恋人の会社もそうだとは一概に言い切れないものの、一流企業である以上楽な仕事だと断言できる人間はまずいないだろう。

「しかしこの方は五年以上も退職せず続けてらっしゃるところを見るに、人並み以上に社会に適応できていると思います。念には念を入れ神経科に通い、有給を使って県外の健総センターにまで通い、赫碧症のリスクもよく承知されている方に見えます」

「でも、普通の人でも仕事ではいい人で、家庭では酷いという方もいますよね。仕事のストレスのはけ口に」

「今まであなたに酷く当たったことはありましたか」

 孝子は俯いてただ黙っていた。

「調査は以上で完了ということで、よろしいでしょうか」

 孝子はまだ顔を上げようとしなかった。

「もう一つ、追加の調査をお願いしてもいいでしょうか」

「はい、なんでしょう」

「素行調査をお願いしたいです。
 彼が赫碧症でも、信頼できる人だとこの目で確信したいです。私に協力できることがあれば、微力ながらお手伝いさせていただきます」

「……今まで彼と共に過ごしてきて、まだ不十分ですか」

「自信がないです」



 ほんの少しだけだが、忍の心にある種の失望が芽生えた。しかしおくびにも出さずにすかさず言う。





「分かりました。では新たに素行調査の依頼をお引き受けします」