補講期間も終盤に差し掛かり、あと数日で夏休みを迎えるというのに、気分は最悪だった。

 長かった梅雨は明け、今度は夏特有のじりじりとした暑さが全身にまとわりつく。

 なにが最悪って、こんなに暑いのに今日はこの前休んだ長距離の測定が昼休みにあるからだ。
 地獄の期末テストが終わったかと思ったらこれだ、ついてない。

 体調管理が甘かった自分に責任があるけれど、そうならざるを得ない事情しかないのだからそこを汲んでほしい。

 ……なんて言えるはずもないから、黙って走るしかないけれど。

 おまけに放課後は、またもや進路指導室に担任から呼び出しがあった。
 何度話されても変えることはできないのに、と困ってしまう。
 
 愛衣のお迎えにも行かなきゃいけないから、話が長引かないようにしなくちゃと、考えるだけで今から気が重い。

 近くに人がいないことを確認して、ふうとため息を吐いた。

 低めの位置で結んでいるいつもの冴えない髪型のおかげで、首筋を流れていく汗が首にかけられたタオルにダイレクトに吸収されていく。
 この髪型のいいところなんてそれくらいだなと、ふと思った。

 体育の時間になるたびに、ふわふわに巻かれた茶色の髪を高い位置でくくる真結の姿がふと脳裏に浮かんで消えていく。

「香坂も測定?」

 そう言って声をかけてきたのは大溝くんだった。
 まさか、大溝くんも一緒だなんて。

 そういえばあの日、大溝くんも保健室にいたんだっけ。

 いつ保健室へ来たのかはわからないけど、今ここにいるということはこの前の体育に出ていないのは確定だ。

 肌が灼けつきそうになるほどの日差しに、手で目の上に陰を作りながらグラウンドを見回す。

 どうやら私のクラスで測定をしていないのは私と大溝くんのふたりだけみたいで、あとは他クラスの子ばかりだった。

 やっぱり心なしか私たちの周りには人が寄って来なくて、それはたぶん隣りにいる大溝くんのせいだと思う。
 マスクをしていないとは言え、ウェーブがかかった前髪は相変わらず目元を覆っているし、なにせ大溝くんは背が高く体格もいい。

 近寄りがたいのはたしかだろう。

「……大溝くんもなんだね」

 近くに人はいないものの、どうしても話す声は自然と小さくなった。
 そんな私の態度を気にするでもなく、大溝くんは「だるいよなー」と天を仰ぎながら文句を言う。

「……前髪、邪魔じゃない?」

「めっちゃ邪魔。暑いし鬱陶しい」

 大溝くんの額を見れば、汗で濡れた前髪が束になって張り付いている。
 見ているこっちまで、余計に暑くなる。

「……なら、切れば? マスクも外せたんだし、前髪も大丈夫じゃない?」

「だよなー。けど久々すぎて不安だわ。俺、目つき悪いし?」

「……高校生にもなってそんなことでぐちぐち言う人の方が、たかが知れてるよ」

 冷たく言い放った私の言葉を聞いてぶはっと噴き出した大溝くんは、形のいい唇に弧を浮かべて「それもそうだよな」と軽い口ぶりで笑った。

 測定の集合時間が近づいてきて、まばらだった人たちが一か所に集まり始めた。

 その中心部はなぜかきらりと太陽の光を受けて光っていて、よくよく見てみると体育教師の山田のつるぴか頭が太陽に照らされ、離れたところからでも輝いて見えるようだった。

「山田の頭、めっちゃ光ってね?」

「……ぷっ、あはは! 私も今それ思ってた!」

 濁すことなくドストレートに言い放たれたその言葉に、思わず声に出して笑ってしまう。
 大溝くんも、そういう風に思ったりするんだ。

 なんか、おもしろい。

 いつぶりだろう、こんなくだらないことで声出して笑ったのって。

 そう考えては見みるものの、視界の端に光り輝く禿げ頭が見え隠れするから、笑いが止められない。

 そんな私の姿を見てつられたのか、大溝くんも噴き出したように笑った。

「香坂も、そんな風に笑ったりするんだなー」

 自分の口から出たかと思ったその言葉は紛れもなく大溝くんが発したもので、また考えが被ったことに驚きを隠せない。
 やっぱり私と大溝くんは似ているようで似ていなくて、でも、やっぱり似ているのだろう。

 ひとしきり笑った後、ようやく山田の野太い「集合ー!!!!」なんて掛け声があたりに響いて、遠くにいた私たちは小走りで駆け寄った。

「……悪いんだけど、あんまり近づかないでいてくれる?」

 いまのいままで一緒に笑い合っていたのに急にこんなことを言うなんて、自分でもひどいと思う。
 けれど、人が近くにいないからといって平然と話しかけてくる大溝くんに、そう釘を刺した。

 なんで急にこんなことを言ったかって、グラウンドに降りる石段のところに座って私を待つ、真結と凛花の存在に気付いたからだ。
 お弁当を食べ終わったふたりは、わざわざ心配して来てくれたのだろう。

 大溝くんが周りに人がいると喋れないのと同じような理由で、私には私なりに大溝くんと人前で仲良くしたくない理由がある。

 マスクを外してから外見はそこまで目立たなくなったけど、まだまだ噂は独り歩き続行中だし、現に大溝くんのことを遠巻きにちらちら見ている人さえいる。

 勝手な理由だけど、大溝くんだって自分の都合でそうならざるを得ないのだから、私もそうさせてもらうことにする。

 怒るかな、なんて思ったのに、大溝くんは「わかった」と案外すんなりと納得した。

「……俺以外にも、いつもそんくらいはっきり言えばいいのに」

 ぼそっと呟かれた言葉は突風に遮られ、よく聞こえない。

「え? なんか言った?」

「……いや、別に。近づいちゃいけねーんだろ? 離れとくよ」

 そう言って、大溝くんは私から一番遠く離れた位置に立った。

 さっきまですごく近かった距離は、あっという間に離れていった。







「お疲れー、詩央」

「ありがとー」

 貴重なお昼休みにいくら木陰とはいえ外で待っていてくれた凛花と真結に、お礼を言いながら急いで駆け寄った。

 グラウンドをほんの少しだけ振り返ってみる。
 まだ数人走っている女子がいるけれど、その中に男子はもういなくて必然的に大溝くんもいないことがわかった。

 それもそうかもしれない。
 女子と男子の走る距離は一キロ差あって男子の方が多いのに、私は大溝くんに何度か抜かされたから、彼の方がだいぶ早く走り終えたのだろう。

「走る前、大溝となんか話してなかった?」

 凛花のその一言に、内心どきっとした。
 変な意味ではなく、心の中で思い浮かべていた名前が出てきたからだ。

「えー、なんもだよ。たしかに近くにはいたけど」

 当たり障りなく凛花にそう答えると、なにもされてないならいいけどと、私の前を歩き出す。

 ……凛花と大溝くんの相性は、相変わらず悪い。
 変に心配させる必要もないだろう。

 それに、大溝くんにいい印象を持っていない凛花だから、私が大溝くんと話していたことで避けられてしまうのだけは回避したい。
 深く追及されなかったことにほっと胸を撫でおろしていると、真結がまん丸の目で私の顔を覗き込んでくる。

「ほんとにー? なにも喋ってないのー?」

「えっ、うん。ほんとだよ?」

「ふーん。そっかあー」

 疑うような目つきではなく純粋な視線、のように思う。
 いや、私がそう思いたいだけかもしれないけれど。

 だけどほんの少しだけ真結に後ろめたさみたいなものがあって、その目のまっすぐさに狼狽えてしまった。

 ……私はもう、ひとりにはなりたくない。

 大溝くんの真相を知ったからといって優しくもできないし、どっちつかずだけど。

 人と違う自分にはもうなりたくないし、そんな自分を隠していたいのだ。

 真結の視線を振り切って、先の方へ歩いて行ってしまって「おそーい」なんて叫ぶ凛花を慌てて追いかけた。







「……なんで、いるの?」

 放課後になった。

 三度目に訪れた進路指導室の扉の前。

 三回のノックをした後慣れたように扉へと手をかけて出た第一声は、ひどく震えていた。

「ひとまず、入って座りなさい」

 担任にそう促されても、私の足は思った通りには動かなくて、しばらく呆然と立ちすくんでしまった。

 入るまでは、さっさと話しを終わらせて愛衣のお迎えに行かなくちゃ、なんて考えを巡らせていたのに。
 それもどこかへと飛んで行って消えてしまった。
 
 いつもは蒸し暑いこの部屋が、珍しいほどの冷たさでクーラーによって冷やされている。

 小さな部屋の真ん中に置かれた机の窓が隣接する方には担任が座っていて、反対側の二脚椅子が並べられた方に、見知った人物が腰かけているのが目に飛び込んできた。

「……詩央ちゃん」

 優しく柔らかい、鈴の音を転がすような独特な声。
 小さい頃は、この声で歌われる子守歌が大好きだった。

 いまは猫なで声で甘えられることの方が多いから、そんなことは忘れていたけれど。

 背中まで伸びたゆるくウェーブがかかった茶色くてふわふわな猫毛の髪。
 私に遺伝することのなかったその羨ましくなるほど綺麗な髪は、いつもと違い今日はすっきりと低い位置でシニヨンでまとめられていた。

 身なりも学校にふさわしくいつもの派手じゃない、フォーマルな服装だ。
 どこからどう見ても、『ちゃんとしたお母さん』に見える。

「……お母さん、どうして、いるの?」

 私の質問には誰も答えないまま、もう一度席に着くよう促された。
 重い足取りで空いているひとつの席……、お母さんの隣りに腰かけた。

 こんな風に隣り合って座るのなんて、いつぶりだろうか。

 私が座ったのを見計らって、担任が話し始める。

「今日はお呼び立てして申し訳ございません」

「いえ、こちらこそ私の目が行き届かず、お手を煩わせてしまいすみません」

 そう言って深々とお辞儀をし、聞いたことのない丁寧でしっかりしたお母さんの口振りに驚いた。

 最初はなんでここにお母さんがいるのか見当もつかなかったけれど、私を蚊帳の外にし進む会話の端々から、この間の三者面談の用紙のことだとすぐにピンときた。

「まずは香坂、勝手なことをして申し訳ない。けど、香坂があれを自分で書いて提出したことに気付いたから、念のためお母さんに確認を取ったんだ」

「……」

 似せて書いたつもりなのに、普段から生徒の文字をよく見ている担任のことは、騙せなかったらしい。

 いままでの人生でこんな風に親を呼び出されることなんてなかった。
 そんなことがないように勉強は頑張ってきたし、素行だって気を付けてきた。

 それなのに、まさかこんなことで人生初の保護者呼び出しを食らうなんて……。

 ばつが悪くて俯いていても、ふたつの視線が私に注がれていることだけははっきりと感じた。

「……お母さん。香坂さんはお母さんも知っての通り、成績も申し分ないです。本人は卒業後に就職を希望していますが、そのことについてはご家庭で話し合われましたか?」

「あ……、いえ」

 気まずそうなお母さんの言葉に、私も気まずくなる。
 そんな私たちを見て、いつもならため息を吐いている頃だろうに、担任は一生懸命根気よく話をしてくれる。

「お忙しいこととは存じます。が、しかし、将来がかかっています。今一度ふたりでよく相談され、考えてください。三学期のはじめには、三年次のクラスの希望を取ります。特に香坂さんは進学クラスの中でも特進に入れるほど、成績優秀です」

 私の学校は三年次になると成績と進路によって、一般クラスと進学クラスに文理希望ごとにふるい分けされる。
 進学クラスの中にはさらに特進クラスというものもあって、国公立とかいわゆる名門レベルの大学を目指す生徒のためにある。

 一般クラスは成績がいわゆる普通レベルの、大学進学ではなく主に専門学校等を目指す生徒、少数派だけど就職する生徒がそのクラスに入れられる。

 ……私は言うまでもなく、一般クラスに希望を出すつもりでいた。

 俯けていた顔を少しだけ上げて横にいるお母さんを見ると、まるでいま初めて知ったという表情で、驚き目を丸くしていた。

「お母さん、これを見てください」

 そう言って次に担任が取り出したのは、私の成績表だ。

 お母さんはそれを恐る恐るといったように受け取り、中身を確認していく。

 いままで一度も見せたことのないそれを、今日ここで見せることになるなんて誰が思っただろうか。

 見られて恥ずかしい成績では決してない。

 けれど、いままで秘密にしていた私の中身を見られたような、複雑な気分になってまた俯いてしまう。

 くすぐったいような、気まずいような、なんとも言えない思いが込み上げた。

 その後の会話は、うまく脳に届かなかった。

 たぶん一貫して、担任は進路について考えるようにと言っていたように思う。
 お母さんの顔は、帰るまでそれきり見ることはできなかった。







 いつもはひとり急ぎ足で歩く道を、今日は生まれて初めてお母さんと歩く。
 隣りに並ぶ勇気のない私は、半歩後ろをついていく。

 そうすれば、お母さんの顔を見なくて済むから。

「……愛衣のお迎え、今日は大丈夫なの?」

 見慣れないフォーマルな出で立ちのお母さんの後ろ姿に投げかけた。

 もう十六時を過ぎている。
 愛衣のことが心配だ。

 尋ねた私の方を振り返ることなく前を向き歩いたまま、お母さんは答える。

「……うん。今日は延長をお願いしたから」

「……そっか」

 親子なのに、会話がいつになくぎこちない。
 変な空白が、会話と会話の間にある。

 私たちのその隙間を埋めるように、カナカナカナ……と、澄んだヒグラシの鳴き声が響いている。

 お母さんのヒールが、歩くたびにこつこつと小さな音を立てる。
 私のローファーが砂を踏むじゃりっとした音で、それは急に鳴り止んだ。

「……詩央ちゃん、どうして言ってくれなかったの?」

「……」

 立ち止まったお母さんはやっぱり私の方を振り返らずに、背中で喋る。

 震える声は、今にも泣きだしそうだ。

 ……でも、泣きたいのは私だっておんなじだ。

 素直になったら、なんて言った大溝くんの言葉が突然思い浮かぶ。
 そして、あけっぴろげに思いのままに言葉を紡ぐ大溝くんも、同時に思い出す。

 あんな風に自分の言いたいことを意のままに言えたら、どれほど晴れやかだろうか。

 言っても、いいだろうか。
 いままで言えなかったことのひとかけらだけでも。

 いつもいつも空気と一緒に飲み込んできた言葉や感情はひとつにはまとまらないけれど、勇気を出してなにかひとつでも言ってやろうと思った。

 文句なんてたくさんあるけれど、それを言うつもりは毛頭なかった。
 
 けれど、自分の意に反して出てきた言葉は正にそれともとれる言葉。

「……だって、いつもいつも、話す時間なんて大してないじゃん」

 思った以上に不貞腐れた気持ちが滲み出た。
 声はかたかたと震えて、情けない。

 朝方まで仕事をしているお母さんは、仕事終わりにありえないくらい深く深く眠りに落ちる。
 深酒するからだと思う。
 仕事柄も影響しているのは間違いないけれど、夕方まで寝落ちていることなんてざらだ。

 愛衣が生まれてからずっとそうで話せる時間なんてあるわけないのに、なにをいまさら、と思ってしまう。

 言ってくれない、なんてまるで被害者かのように言うけれど、言わせてくれないのはいつだってお母さんの方だ。

 ……聞いてよって駄々を捏ねる間もなく、私はお姉ちゃんとして、お母さんの子供として、ずっとずっと家を守ってきた。

 愛衣とお母さんと自分の生活を、これまでずっとたったひとりで守ってきたんだ。

「それに、話したって意味ないと思った」

 聞いてこないのは疲れているのが理由なだけじゃなく、興味もないんだろうなと心のどこかで思っていた。
 そうしてひとつずつ諦めていった結果が、今日なだけだ。

「そんなの、聞かなきゃわからないじゃない……」

 やっとこちらを振り返ったお母さんの目には、思った通り涙が浮かんでいた。

 その姿を見ても、悲劇のヒロインぶっているようにしか感じない私は、性格が悪いだろうか。

 黙ったままの私に、お母さんは意を決したかのように、静かに優しい声で問いかける。
 その優しい声ですら、私の神経を逆なでするようでいまはただ癪に障るだけだった。

「……詩央ちゃん、あなたは本当にそれでいいの?」

「……」

「学校のこと。就職を希望しているのって、家のことを気にしているから?」

 それでいいとも、悪いとも言えない。
 だって私には、そこに考え至るまでの過程がなく、残されているのはたったひとつの選択だけだと、これまで自分自身に言い聞かせてきた。

 私をそうさせたのはお母さんだ。
 選んだのが、自分であったとしても。

「詩央ちゃんの考えを、聞かせてほしい」

 その言葉に、今まで堪えていたものが雪崩のように降りかかってきた。

 きつくきつくお母さんを睨む。
 緊張、悔しさ、怒り、寂しさ。
 全部が入り混じっておかしくなりそうだったけど、必死で睨みを効かせたまま口を開く。

「先生は進学を考えた方がいいって言ってたけど。そうしたいって言ったら、私はそうできるの? 私の考えを聞かせてって言うけど、こうなってからやっと初めて聞いてきたよね。私には興味がない? それとも、自分のことで精いっぱい?」

「……」

 矢継ぎ早に繰り出される私の早口言葉のような文句の数々を、お母さんは何も言えずに聞いているだけ。

「お母さんは、どう思ってるの? 今日話をされて、どう思ったの?」

「……」

 お母さんが答えるのを待ってみてもヒグラシが返事をするだけで、一向に私への回答は返ってこない。

「なんにも、言えないんだね……」

 言いたいことはまだ山ほどあった。

 どうして服を脱ぎ散らかすのか。どうして自分の食べたものを流しに置くことすらできないのか。
 愛衣の面倒も私に任せて。お母さんは仕事だけやっていればそれでいいの?

 ぐちゃぐちゃと言いたいことは湧き出るけど、ぐっと堪える。

 私はこれから先、あと何回こんな気持ちを味わえばいいのだろう。

「……じゃあ、これだけもう一回聞くね。私が進学したいって言ったら、そうできるの? そうできるお金はあるの?」

 愛衣の延長保育のちっぽけな料金すら払うのを躊躇う母親だ。
 そんなお金はないに違いない。

 案の定口ごもってしまったお母さんを見て、「ああ、私ってかわいそうだな」と思いたくもないのに思ってしまった。

「できもしないくせに、普段なにもしてくれないくせに、そんなこと聞いてこないでよ。どうしたいかなんて、言ったって無駄になるじゃん。余計、惨めになるだけじゃん!」

 自然と、語気がきつくなる。

 周りがきらきらした表情で夢を語る姿なんて、嫌というほど見てきた。
 私には、そうすることもできないっていうのに。

 高校生の私の手より、十個以上年上の母親の手の方が綺麗だなんて、そんなことありえる?

 私の手はもうずっとがさがさでごわごわで、いつも短く切り揃えている爪にはなんの装飾もされていない。
 今日も綺麗に手入れされたコーラルピンクの長い爪をしているお母さんの手を見て、怒りが込み上げる。
 
「こういう時ばっかり母親面しないでよ! お母さんがお母さんじゃなかったら、私はもっと幸せだったのに……!」

 言った瞬間、しまった、と思った。

 もともと潤んでいたお母さんの瞳から零れ落ちそうになる涙を見て、傷つけたと、そう思った。

 けれど、言ってしまった私の心も同じ分だけ、傷ついていた。

 泣くのなんて、いつぶりだろう。
 熱くなった目元を右手で拭って、この場にいられなくなりお母さんの横を駆け抜けた。

「詩央ちゃん……っ!」

 つんざくような悲鳴にも近い声で私を呼ぶお母さんを無視して、私は何も考えず、目的地もないままただひたすら走り続けていた。