「朝の大溝! あれなんなの!?」

「まあまあ凛花、落ち着いて」

 朝の出来事に憤慨している凛花は、まだ鼻息荒く空っぽの大溝くんの席を睨みつけていた。

 私も気分が悪かったけど、自分より取り乱している人を見ると妙に落ち着いてしまう。
 この現象にいい加減名前をつけてもいいと思う。

 お昼休みになると同時に、大溝くんはすぐさま教室を出て行った。

 いつもそうだ。

 彼は昼休憩になると同時に出て行って、時間ぎりぎりに戻ってくる。
 教室の真ん中の席だった彼の姿は私のところからはよく見えて、それだけは知っていた。

「なに、大溝くんと何かあったのー?」

 のほほんとした声色で、真結がお弁当の包みを持って近付いてきた。
 そのまま辺りを見回して大溝くんの席が空いていると気付くと、そのまましれっと着席する。

 そんな真結の様子に、凛花がまた声を荒げた。

「真結! そんなとこ座らない方がいいって!」

「えー、なんで?」

 きょとんとした真結に私は苦笑いを返す。

 一番前の席にいた真結は、朝のちょっとしたハプニングを少しも知らないようだ。
 真結のその言葉を待ってましたと言わんばかりに凛花は身を乗り出して、「それがさー、聞いてよ!」と朝の出来事をかいつまんで説明し始めた。

 凛花は椅子だけこっちに寄せて、私の机に集まってお弁当を摘まみながら、まくしたてるように大溝くんの愚痴を喋り続ける。
 一通り話し終わって「だから、真結も大溝には関わらない方がいいよ!」なんて凛花はまだ鼻息を荒くしていた。

 凛花は言いすぎなところがあるけれど、今回ばかりは私も同意だ。

 あんなことをいきなり言われたのもあるし、もう関わりたくないって思っちゃった。
 それに、変に関わって私まで除け者にされたらたまったもんじゃない。

 声には出さず心の中で凛花に賛同する。
 すると真結がもぐもぐと口いっぱいに頬張っていたご飯を飲み込んで、口を開いた。

「んー、でもわたしが言われたわけじゃないから、気にしないでおくー。関わることがあったら気を付けるねー」

 そう言ってお弁当に入っていた卵焼きをぽいっと口に放り込んだ。

 さすがマイペースというか、なんというか。
 同じクラスになってから友達になったけど、まだまだ知らないことがたくさんあるみたい。

 真結の我関せずといった態度には感心してしまう。

「はあ……、真結はいっつもそう。まあ、いいけどさ」

 そんな真結ののんびりした様子に毒気を抜かれたように、凛花はおとなしくなった。
 ふたりはまたいつも通り最近買ったコスメの話をし始めたから、私は感じ悪くならない程度に相槌を打ちながらスマホを開く。

「え……っ!?」

 まずいことに気が付いて、思わず大きな声が出た。

 なんで今日はこんなにも物忘れが激しいのか、自分を責める。

 スマホの画面には不在着信二件の文字。
 そのどちらも、愛衣の通う保育園からの電話だった。

 お休みの連絡、すっかり入れるの忘れてた……!

「詩央ちゃん、どうしたのー?」

「ごめん。ちょっと電話してくる」

 心配するふたりに告げてから、騒がしい教室を重い足取りで後にした。

 昼休み中の校内は、どこもかしこも騒がしい。

 楽しそうな会話で溢れる教室前や廊下をどんどんと通り越していく。
 こんなに悲壮感たっぷりなのは、私くらいなんじゃないのかな。

 そう錯覚してしまうくらいには、私は今日の自分に失望していた。

 静かに電話できる場所なんて限られていて、やっと見つけたのは三階から四階へと昇る東階段の踊り場。
 四階とは名ばかりで、貯水タンクが設置されている屋根に繋がる扉がひとつだけついた、行き止まりの場所だけど。

 すぐにスマホを取り出して、発信する。
 数回のコール音の後にそれは途切れて、よく知った優しい声がスマホを通して聞こえてきた。
 相手が話し出す前に、焦って言葉が先走る。

「あの、香坂愛衣の姉です。電話もらっていて。すみません、今日もお休みだったのに連絡を忘れてしまって。……そのことですよね?」

 しどろもどろで謝罪と内容の確認をする。
 すると、電話の向こうからは「ああ、お電話繋がってよかったですー」と、保育士さん特有の柔らかい声が聞こえてきた。

「お姉さんの方に連絡してしまってすみません。お母さまが出られなかったもので。大した連絡ではないんですけど、もし明日登園できるようでしたら、明日は絵の具を使った遊びをするので、汚れてもいい服装で来てくださいというご連絡でした。時間をおいて夕方にもう一度お電話しようと思っていたのですが、今日は降園後に園で研修がありまして。しつこくお電話してすみませんでした」

 腰の低い物言いに、こっちが申し訳なくなってしまう。
 何度も謝ると、「気にしないでください、愛衣ちゃんお大事に」と愛衣の体調を気遣う言葉。
 それを最後に、電話は切れた。

「……はあー」

 ひとまず電話が無事に終わったことに安堵して、手すりに寄りかかる。
 すると、何度か我慢した分の全部が含まれたかのような、今日一大きなため息が漏れ出た。

 ……なんで私が、ここまでしないといけないのだろう。

 そんな気持ちがふつふつと込み上げてくる。
 振り返って今度は手すりに掴まりながら一階を見下ろすと、楽しそうに会話しながらはしゃいでいる生徒が目に入る。

 彼女たちはきっと、朝は起こしてもらえるし、遅刻しても母親のせいにできる。
 ゴミ出しに行くこともなければ、毎日のご飯を作ることもないだろう。

 お弁当も作ってもらえて、洗い物もせずに、帰ったら夕食が準備されている。
 温かいお風呂に浸かって、眠るだけ。

 間違っても、妹の保育園から連絡が来るなんてこともきっとない。

 勝手な想像だけど、大抵の女子高生はそれが普通だ。

 真結や凛花のようにコスメや好きな人の話で盛り上がったり、それが普通なんだ。
 正直、周りにいる同学年の友達よりも、その辺にいる主婦の方が私と会話が弾むに違いない。

 みんなが当たり前のようにやっている普通のことが、私にはできないんだと突き付けられているみたいだ。
 こんなふうに時折、どうしようもなく憂鬱になってしまう。

 考えても仕方ないことなのに、周りと比べては自分の不幸を自覚する。
 どんどん自分がなくなっていくのを感じて、怖くなるんだ。

 一度そう思うとどん底まで滑るように落ちて行ってしまう気がして、そういう時に私は同じような気持ちを抱えている人の呟きを覗きに行くのが癖になっていた。


 #弱音吐き
 #独り言


 SNSの検索履歴にすでにある、そのふたつのハッシュタグ。
 それを慣れた手つきでタップして、開かれたページを流れるように人差し指でスクロールしていく。

『人生つらいこと多すぎ』

『陰口言うくらいなら一緒にいてくれなくていいのに』

『生きてれば楽しいことある? そんなのうそだ』

『もう頑張れない』

 どれもこれも、鬱々とした投稿で溢れている。

 だけど私はこれを見ていると、不謹慎かもしれないけれどほんの少しだけ元気が湧いてくる。

 こうやって悩んで何もかも投げ出したくなっても、苦しんでいるのは私だけじゃないんだって思えるから。

 この世界にひとりきりで取り残されたような孤独な気持ちが、これを見ると少しだけ和らぐのだ。

 見知らぬ誰かをまるで戦友のように思いながら、私は毎日戦っている。

「あ、今日も投稿されてる」

 ひとつの投稿で、スクロールしていた手を止める。

 いろんな人の投稿を日々眺める中で最近気付いたのは、毎日大体同じ時間帯に投稿されるひとりの人の呟きだった。

 その人はいつも『今日の空』とたった一言だけ添えて、その日に撮ったであろう空の写真をアップしていた。

 初期アイコンのままで、プロフィール欄も空白のまま。登録名は「ダンデ」。
 男か女かもわからないその人の呟きを、なんとなく毎日の楽しみにしていた。

 最初は、このハッシュタグに見合わないこの投稿に違和感を覚えていた。
 みんなが口々につらい気持ちを吐露する中、ひときわ目立つ写真の投稿。
 ハッシュタグを間違えてるんじゃないのって、何度も思った。

 けれど、毎日違う空の様子を写真で眺めると、その人がいまどんな気持ちでいるのかをだんだんと想像するようになった。

 今日みたいな曇天の日は『嫌なことがあったのかな』とか。
 晴れた空にぽっかりと浮かんだ雲の写真の日は、『ああ、今日は少しいいことがあったのかな』とか。

 空の様子がその人の心を表わしているんじゃないかと、なんとなくだけど考えるようになった。
 何かしら辛いことがあるから、この人もこのハッシュタグを使って投稿しているのだろう。

 この人にどうかいいことがありますように、と。
 一緒に頑張ろう、と。

 勝手に心の中で声をかけていた。

 空の写真にその人が何を見出しているのか、本当の理由は私にはわからない。
 けれど、そうやって写真から名前も知らないその人の、人となりを想像していた。