「しまった、ゴミ出し忘れた……」
この前時間がなくて出せなかったから、二袋もあったのに。
玄関に出しておいたのに、どうして今日に限って忘れちゃったんだろう。
そのことに気付いたのは教室の自分の席に着いてからで、もう後の祭りだ。
がっくりとうなだれてしまう。
「詩央ちゃんって、ほんとにしっかりしてるよねー」
「ほんと、詩央のこと嫁にもらいたいくらい」
私の絶望感たっぷりの独り言を聞き逃さなかった友達の真結と凛花が、それぞれ感心したように言葉をこぼす。
そんなふたりに「なにバカなこと言ってるの」って苦笑混じりで返した。
だって、私の場合は自分でやるしかないからやっているだけだ。
ほかにやってくれる人がいるのなら、きっと自分ではやっていないと思う。
「詩央ちゃんがほとんどおうちのことしてるんでしょー? シングルマザーのお母さんを支えるためだっけ? ほんと偉いよー」
「そうそう。謙遜するなって」
「……あはは、そうかなあ」
表向きそういうことにしているだけで、本当の理由は違うけど。
「そうだよー。さすが、優等生は違うなって感じ」
褒められて悪い気はしない。
だけど、そう言われてどこか複雑な気持ちになってしまう。
一般的な家事ができることも、優等生のような立ち居振る舞いも、私が好んで身につけたものではないからだ。
だって、ひとつ何かができるようになる度に、私はひとつ、何かを諦めている。
その諦めてしまったものは本当は私が大切にしなきゃいけなかったもののような気がして、それが少しずつすり減っていく感覚に、どうしようもない気持ちで胸がいっぱいになる。
「ねえ、見てー。昨日ネイルやってもらったのー」
「お、ほんとじゃん。真結に似合っててかわいい!」
そんな言葉とともに、真結が嬉しそうに私と凛花に両手の爪を見せてくれる。
私の通う高校は比較的自由で個性を尊重してくれる校風だ。
良い成績を収めてさえいれば、身なりでそこまで厳しく言われることはない。
髪を染めていようがネイルをしていようが、自由だ。
それが魅力で、この学校を志望する生徒は数多くいるらしい。
真結と凛花も、それが理由で受験を決めたと言っていた。
登校してからSHRが始まるまでの時間、大体会話に出てくるのは最近買った服や行った場所、それから彼氏の話。
あとはそう、メイク道具だったり、今みたいにちょっとしたおしゃれの話。
私は、こういう会話が苦手だ。
だけど、そんなことを言ったら会話に交ざれないどころか、ハブられる可能性だってある。
……大溝くん、みたいに。
教室の真ん中に位置する彼の席へ、ほんの少しだけ視線を投げる。
ゆるくパーマがかかった黒い髪。
前髪は長くて、彼の目をはっきり見たことは一度もない。
いつでも黒いマスクをしていて、そのせいで話す声はくぐもって聞こえる。
そんな彼は、教室でいつもひとりきりだ。
何が理由かは大体しか知らないけれど、素行が悪いとかなんとか。
中学の時に問題を起こして、それからずっとあんな感じらしい。
私はそれを、彼と同じクラスになってから知ったんだけど。
たしかに観察していると、ほかの男子からも女子からも避けられているように見えた。
大勢がグループを作って行動している中、たったひとりで席についている大溝くんは、まさに一匹狼。
……私は、そうはなりたくない。
優等生って言われてもそれは見せかけで、本当の優等生だったならばそんな彼にも一言二言声をかけるのだろう。
だけど、私はそうじゃない。できるだけ関わりたくないと思ってしまう。
周りから浮くって、怖いことだ。
……もう、あんな思いをするのはこりごりだ。
だから、私は自分の感情をひた隠して笑顔の仮面を毎日欠かさず貼りつける。
「ほんとだ、かわいい」
大溝くんから視線を逸らして改めて真結の指先に視線を向けると、爪全体は光沢のあるライラック色に色付けられ、先端は白で縁取られたフレンチネイル。
今の季節にぴったりな、真結に似合うかわいいネイルが施されていた。
「でしょー? お気に入りなんだあ」
そう言ってにこにこ笑う真結は本当にかわいい。
「詩央ちゃんも凛花ちゃんも、ネイルしないのー?」
その言葉に、背中にどっと汗が噴き出るのを感じる。
「私は、ほら。料理とかよく作るから。爪短くないと気になっちゃうんだよね」
……いやだなあ、この会話。
なんて心の中で思っていることがばれないように無理矢理笑顔を作ってからそれっぽい言い訳をして、自分の手をさっと机の下に隠した。
うまく笑えていたかな。違和感はなかったかな。
そんなことを思いながら、机の下にある自分の手にそっと視線を落とす。
水仕事でぼろぼろの手。女子高生らしからぬ乾燥してかさついた手。かわいくない手。
どう表現してもマイナスにしかならないそれは、紛れもない私自身の手だ。
こんな汚い手にかわいいネイルなんて似合うわけがなくて、やるせない気持ちになる。
髪を染めたり、好きにアレンジしたり、ネイルをしたり。
おしゃれを心から楽しんでいるきらきらした周りの子を見ると、どうしようもなく惨めになる。
真結はおっとりした喋り方が特徴のくっきり二重のかわいい子。
女の子らしい、という表現が似合う子だ。
茶色に染められた髪はいつも丁寧にゆるく巻かれていて、彼氏が途切れたことがないらしい。
凛花は名前の通り、凛としていてかっこいい女の子だ。
真結とは違った女らしさがあって、かわいいよりも綺麗という言葉が似合うスレンダーな美人だ。
自分の意見をはっきり言えるし、背も高くて金に近い茶髪のショートヘアがよく似合う。
比べて、私は——毎日ストレートの黒髪を後ろでひとつくくりにした、機能性重視の代り映えのない冴えない髪型。
中肉中背で、背は低くもなく高くもない。顔は母親譲りで派手な顔立ちだと思うけど、それもこの髪型のせいで台無しな気がする。
成績だけは、唯一自慢できる。いつも学年上位に食い込んで、「優等生だね」なんて周りから言われるくらい。
素行も悪くない。学校のアルバイトは許可制だけど、二つ返事で了承をもらえるくらいには教師陣からの信頼は厚いと自負している。
だけど私は……、本当になりたかった私は、こんなじゃなかった。
髪を染めるお金があるならそうしたいし、ネイルだってしてみたい。
絵に描いたような優等生ではなくて、周りにいるみんなが普通にやっていることを、私も当たり前のようにしてみたかった。
けれど、私なりのできない理由があった。
かわいい髪も、かわいいネイルも、おしゃれもすべて、余裕のある人がやる娯楽だってこと。
私の日常に、自分の為だけに使える時間やお金が、一体どれくらいあるだろう。
数えた分だけ悲しくなるから、考えないようにしているけれど。
週に約三日、短いけれど二時間バイトをしている。
だから遊ぶお金は少しならあるけれど、私にないのは圧倒的に時間だ。
バイトを辞めたら時間は増えるかもしれないけど、その分自分のお小遣いはなくなるし、その分愛衣の世話をする時間が増えるだけ。
だから、今の私にはバイトを辞めるという選択肢はない。
まあ、それも理由の一つだけど、あの母親を見てると不安になるのだ。
普段食べていくのに困ったことはないけれど、今困っていないだけで、将来は大丈夫なのかとかいろいろ考えてしまう。
なにせ、なければ買えばいい精神の母親だ。
貯金をちゃんとしているようには到底思えないから、結局バイト代は使わずほとんど貯めている。
だから、私自身の娯楽のために回せるお金も時間も、あってないようなものだ。
そうやって私は、自分の青春をすり減らしている。
「席着けー。ホームルームはじめるぞ」
そのとき、ちょうど担任が教室に入ってきた。
蜘蛛の子を散らしたようにみんなが自分の席へと一斉に戻っていく。
真結と凛花もまたあとでねなんて一言交わして、私に軽く手を振りながら前の方にある自分の席へと戻っていった。
「えー、前から言っていたように今日は席替えを行う。学級委員、あとは頼んだぞ。一限に間に合うよう、速やかに行うように」
それだけ言って担任は教壇から下り、教室の端にある席に腰かけた後さっさと内職を始めてしまった。
そう言えば席替えをするとかなんとか言っていたっけ。
今の席、気に入ってたんだけどな。
窓際の一番後ろの席は、良くも悪くも目立たない。
それに、日差しもよく入るし、窓を開ければ心地よい風を真っ先に受けることができる。
だからこの席が結構好きだった。
委員長の朝霞さんが番号札の書かれた用紙の入ったボックスを列順に回していく。
その間に副委員長の土井くんが、黒板に升目を書き席番号を適当に割り振っていった。
「はい、香坂さん」
「ありがとう」
この席から見る景色も見納めかと外を眺めていたらいつの間にか私の番が来ていたようで、朝霞さんがボックスを私に差し出すから、その中に手を突っ込んだ。
「あ、私が最後か」
手に触れる紙が一枚だったことで、そのことに気が付く。
「余り物には福があるって言うよね」
「あはは。そうだといいなあ」
屈託なく笑う朝霞さんに、私も微笑み返した。
できれば、後ろの方の席がいい。そして欲を言えば窓際がいいな。
なんならもう一度この席でも全然いい。
私の横では、好きな人が近くだったら席交換して、なんて取引が行われている。
こそこそ塊を作って話すグループがちらほら見えて、たぶん同じような会話をしているんだろうなあなんて思う。
普通は席替えって、こういうふうにわくわくしたりどきどきしたりするものだよね。
好きな人もいない私には、わからない世界だ。
そんなことを思いながら、ぺらっと紙切れをめくる。
黒板に書かれた席番号にざっと目を通しながら、自分の場所を探していく。
……あ、一個横にずれるだけだ。
私はあっという間に移動が終わって、一足先に着席する。
みんなも席の確認が終わり移動し始めると、凛花が机を運びがてら傍に寄って来た。
「詩央、席どこだった?」
「一個隣りに動くだけ」
「ほんと? 移動少なくてラッキーじゃん。ちなみに斜め前あたし」
にかっという効果音が似合うような笑顔で私に笑う凛花。
「近いね。よろしく」
移動が楽なのはいいけれど、本当は窓際のままが良かったなんて贅沢なことは言えなくて、無難に言葉を返す。
「真結は最前列だって。ついてないよね」
さっきの表情とは一転して口を突き出して言う凛花の言葉に前の方へと視線を配ると、真結がこっちに一生懸命手を振っていた。
嫌そうな表情を隠すこともなく、ジェスチャーでまるで「最悪だ」とでも言いたげに。
そう言えば、隣りの人は誰なんだろう。
二年に上がってから数か月だから、まだ話したことのない人も数人いる。
女子だったらいいな。
——ガタン。
そのとき、隣りの席に机を置く音がして、反射的に振り返った。
「——!」
なんてタイムリーなんだろう。
ひとりで黙々と席を動かして既にそこへ着席しているのは、大溝くんだ。
教室を見渡すと、各々が隣り合った人と軽く挨拶を交わしている。
悪い子にも完璧な優等生にもなれない中途半端な自分に嫌気がさしながら、自問自答する。
……声かけないの、感じ悪いよね。
私の心の天秤は『優等生』の方に寄ってしまった。
ひっそりと喉のチューニングをして、思い切って声をかける。
「あの、大溝くん。私隣りの香坂。今日からよろし——」
よろしくと、そう言いかけたのに。
「別に無理して話しかけてこなくていいから。そういうの、うざい」
「え……?」
こっちも見ずにぴしゃりと放たれたその言葉に、一瞬意味がわからなくて混乱する。
それも、授業の時に聞く声とはまるで別人かのようなはっきりとした口調で。
というか、うざいって言った……?
ただ挨拶しただけなのに。
私の何が彼の気に障ったのかわからず、狼狽えてしまう。
そんな私に、彼はさらに追い打ちをかけるかのように言葉を紡いだ。
「聞こえなかった? うざいって言ったの」
「あ……、ご、ごめん」
彼の勢いに押されて、何が悪かったのかもわからないままひとまず謝った。
もしかして、こういうところなのかもしれない。
彼がひとりでいる理由。みんなが彼を避ける理由。
……声なんか、かけなきゃよかった。
「ちょっと大溝! 言葉きつくない!?」
私たちのやり取りが聞こえていたらしく、凛花が声を荒げた。
その声の大きさに、何事かと数名がこっちを振り返る。
「凛花、大丈夫だから」
「でもさあっ……!」
憤慨している凛花をなだめ、大溝くんの方を見ずに私も自分の席に座った。
「ったく、うるせーな」
大溝くんはぶつくさとひとりごちて、そのまま窓の方を向いているようだ。
残り物には福がある?
そんなの嘘っぱちだ。
私とは正反対の方を向く大溝くんの後ろ姿に内心ため息を吐きながら、『残り物には福がある』なんて笑った、何の罪もない朝霞さんを恨めしく思った。