指先に春色をのせて


 私の夢は、日常に溶けてなくなった。

 忙殺される日々の中、雪が温かくなるにつれ消えるよう、いつ消えたのか自分でもわからないほどに、ゆっくりと日常に浸食されていった。
 気付いたときにはもう手遅れで、いつの間にか夢を見て輝いていたころには戻れなくなっていた。

 瞼の裏側に広がる世界では、私はどこにでも行けたし、空を飛ぶことだってできたし、何にでもなれたのに。
 そんな馬鹿げた夢物語を想像することですら、今の私にはもう難しくなっていた。

 最初に見た夢は本当に些細な、小さな小さな夢だった。

 たとえば、料理を作ったら「おいしい」って言ってほしいとか、テストで満点を取ったら「すごいね」って褒めてほしいとか。

 あるいは、ほかの子みたいに髪を染めたり、ネイルをしたり、放課後遊んだりしてみたい。

 ……あとは、そう。恋、とか。

 そんな小さな、小さな夢。

 だけど私には到底手の届かない、大きな大きな夢だった。

 そんな儚く淡い夢は、とうの昔に散ってしまったけれど。

 願いは叶わないと知ってしまったから、いつの日からか私は全部諦めた。

 期待するから傷付くのだと、自分の心に言い聞かせて。
 言いたかった言葉のひとつも口に出せないまま、心の隅に追いやった。

 そうやってずっと毎日何かを諦めて、心をすり減らしながら生きていくんだって思ってた。

 ——だけど、自分自身ですら大事にできない言葉を、自分を、誰が大事にしてくれるというのだろう。

 口に出さなきゃ伝わらないことなんてたくさんある。
 一度じゃなく何度でも向かって行っていいのだと、そう気付かせてくれたのはたったひとり、君だった。


 鈍色の空からしとしとと降る雨の音が、昨夜から開きっぱなしであろう窓から聞こえていた。

 閉めるのを忘れるくらいならエアコンをつけてと何度か書き置きしたのに、今日もこれだ。
 いい加減うんざりする。

 部屋はやけにじめっとしているし、蒸し暑い。

 おまけにダイニングテーブルの上には、明け方食べたらしいカップラーメンのゴミがそのままになっていた。

 せめて汁くらいは、流しでいいから捨てておいてほしい。
 六月のこの時期は、ただでさえコバエが湧きやすいんだから。

 大きくため息をついて窓をぴしゃっとわざと強めに閉めたあと、すぐさまエアコンをつける。
 カップ麺のゴミは、乱暴にゴミ箱へと投げ捨てた。

 そのままの足取りで今度は脱衣所へ行き、洗濯かごからひとつひとつ服を取り出し洗濯機へと放り込んでいく。

「はあ、まただよ……」

 両手に趣味の悪い真っ赤で派手な服を広げ、大きな独り言をこぼす。
 ペラペラのそれは肌触りが良く、それすらもいらいらの原因になる。

 だから、こういう服は洗濯機で洗えないからクリーニングに出してって言ってるのに。

 いらいらしながら、その服をもうひとつあるかごに仕分けていく。

 本当ならこんな手間必要ないはずなのに、言われたとおりにやらない人がひとりでもいると、こういった面倒な作業が増える。

 こういうことをするのは家にはひとりしかいないけど。

 おまけに、服も裏返っているときたものだから、いらいらはさらに倍増する。

 服だけじゃない。靴下や下着、身に着けるもののなにもかもだ。
 畳むときに大変だから裏返ったら元に戻してと、これも何度も書き置きした。
 それでもずっと、直らないまま。

 特にそれが長袖のTシャツやズボンだったら最悪だ。
 全部が綺麗にひっくり返っていたら潔くそのまま干してしまえるからまだマシだけど、片腕だけ、片足だけひっくり返っていると、干すときにも苦労する。

 夏場ならまだ許せるけど、冬場は怒りが込み上げる。

 冷たい衣服のどれだけ冷たいことか。
 想像するだけで寒くなる。

 そもそも水に濡れた衣服を元に戻すのがどれほど面倒かを知らないから、こういうことを平気でできるんだと思う。

 裏返ったままの衣服を元に戻すこと、素知らぬ顔で投げ込まれた洗えない素材の衣服を仕分けること。

 こういういらない作業の積み重ねが後に大きな負担になるって、どうして気付いてくれないのだろう。

 何度も何度も止まる作業に、何度も何度もため息を吐く。
 ここまでが毎朝変わらない、私のルーティンだ。

 前に直接文句を言ったときに「そのまま干してくれればいいよ」なんて笑いながら言われてしまった。

 けど、何事もきっちりしたい私はその感覚を理解できなかった。
 というか、そういうセリフはなにもやらない人が言っていいセリフじゃないと思う。

 やってもらう立場なら、やってくれている人のルールに従うのが筋じゃないのか、って思う。

 諦めきれたら楽なのだ。
 それはよくわかってる。

 どんな素材のものでも、たとえ裏返っていたとしても、かごに入っているものはそのまま洗濯機に投げ込んで洗ってしまう。
 洗った後、その衣服がしわくちゃでも、裏返っていてもそのまま干して、気付けばいいのだ。

 私がきちんとやっているから、まともな服を着られているんだってこと。

 ——そう、できたらいいのに。

 一度だけ、自分の衣服だけ洗ってほかのものには一切手をつけなかったことがある。

 文句は言われないものの、私が洗わない限りそれらはずっとそのままで、どんどん場所を侵食していった。
 結局我慢しきれず、私が洗ってしまったけれど。

 気にならない人なのだ。どれだけ洗濯物が溜まっていても、今日着ていく服があればいい。
 今日着ていく服がないのなら、買ってくればいい。
 そういう人なのだ。
 私がやることに文句もなければ感謝もない。私の母親はそういう人だ。

 足の踏み場すらなくなって私の居住スペースさえ綺麗に保てなくなってしまうから、仕方なしに私が全部やる。
 結局、やらざるを得ない状況になってしまうのだ。

 だからどこにもこの感情の行き場がなくて、毎日同じもやもやを抱えることの繰り返しだ。
 今日はそれに加えてゴミのこともあったから、いつもより乱暴に洗濯機の蓋を閉めてからリビングへ向かう。

「おねえちゃん……?」

 すると、その音を聞いたのか妹の愛衣(うい)が起きてきた。
 いつもより、だいぶ早い時間だ。

「ごめん、起こしちゃったよね」

 腹が立ったからって物音を立てるのはよくなかった。

 少しだぼついたピンク色のパジャマを着た愛衣が、眠たげに目を擦りながらのそのそと近づいてくる。

 十年前に流行った、いまは廃れたキャラクターがプリントされているパジャマ。
 それはかつて私が着ていたもので、いわゆるおさがりだ。

 平均より背の小さな五歳の愛衣にはまだ大きかったようで、袖からは指先しか出ていない。
 着る時に折ってあげたけど、寝ている間に元に戻ったらしい。

 中腰になりながらまた二回ほど袖を折ってあげると、やっと小さなかわいい手のひらが姿を現す。

「どう? お熱は下がったかなあ?」

「ううん、わかんない……」

「そうだよね。ちょっとおいで」

 愛衣をよいしょと抱き上げて、ダイニングチェアに腰かける。

 物心がつく前からあるそれは、私と愛衣の重さにびっくりしたのかぎしっと悲鳴を上げた。
 脚もがたがたしているから、替え時なんだろうけれど……。

「おねえちゃあん……」

「はいはい。ごめんね、ちょっと脇ちょうだいね」

 ぐずる愛衣の火照った頬に触れるとまだ熱く、計らなくても熱があることくらいわかるけど、一応体温計を愛衣の脇に差し込んだ。

 抱えている腕の中はじわじわと暑くなっていって、愛衣に触れている腕や胸元が次第に汗ばんでくる。
 これはまだ相当熱がありそうだ。

 ふうとひとつ息を吐き出し、少し黄ばんだ壁に掛けられている時計を見上げると、時刻は六時。
 そのまま視線を滑らせてカレンダーに目をやれば、今日は木曜日で燃えるゴミの日だったことを思い出す。

 ……ああ、今日はやることがいっぱいだ。

 ちらっと寝室の方に顔を向けるけど、期待するだけ無駄だとわかりきっている。
 そうわかっていても、自然と視線を注いでしまう。

 そんな自分に嫌気がさすのは、もう何度目だろう。
 そうやって何度も期待しては裏切られて、期待した分だけ心が疲弊するのに。

 もうひとつだけ息を大きく吐き出すと、タイミングよくピピピと電子音が鳴る。
 愛衣の脇からそれを取り出してみれば思っていた通りで、体温計が示す昨日と変わらないその温度に、大きくため息を吐きたい気持ちになる。

 だけど、それをぐっとこらえた。

 だって、それは寝室の向こう側にいる人物へのもので、愛衣に聞かせるべきものじゃないから。
 喉元から漏れそうになる不満や文句をいなして、愛衣をあやすように優しく声をかけてやる。

「愛衣ちゃん。今日もお熱あるからお休みしよっかあ」

「やだあ、保育園行きたあい……」

 ……ああ、またはじまった。

 保育園が大好きな愛衣は、行けないとわかるといつもぐずりだす。
 普段気持ちよく園に通ってくれているからこそ、時々あるこういう日がとても負担に思えてしまう。

 私の胸元にぶら下がっている制服の赤いスカーフをぎゅっと握りしめ、行きたいとうわごとのように繰り返す愛衣の目は朧気だ。

 とてもじゃないけどその様子だけで保育園へ行ける状態ではないとわかるのに、それでもなお行きたいとごねてぐずるから厄介だ。

 五歳と言えど、体重はもう十五キロ近くある。

 そのずっしりとした体を座った状態から持ち上げるのはなかなかに大変で、なおかつご機嫌ななめときたものだから、余計に手こずる。
 なんとか愛衣を床に立たせられたはいいものの、今度はそのままぴとっと私の足にしがみついて、甘えるような仕草で上目遣いをする。

 かわいいけれど、憎らしい。
 それが私の本音だった。

「ほら、朝はおかゆと、愛衣ちゃんの好きなバナナケーキにするから、ね?」

 そうやってなんとかなだめて、わたしはやっと朝の仕事に取り掛かった。





 私の朝は、周りにいる『普通の女子高生』と比べたら、だいぶ異質だ。

 起床は必ず五時半。起きたらすぐに寝間着から制服に着替えて、洗面所で身支度を整える。

 肩まで伸びた髪を後ろでひとつにくくった後、一度自室に戻って百均で揃えたメイク道具で申し訳程度の化粧を施す。
 化粧は大事で、この時間だけは欠かせない。そうしないと、周りから浮いてしまうから。

 そのあとは怒涛の家事が待っている。

 まずは洗濯物を回して、その間に簡単な掃除と朝ごはんの準備、それから愛衣のご飯をお弁当箱に詰めて保育園かばんの中に入れる。
 同時に、入れ忘れたものがないかのチェックと、連絡帳の確認をもう一度行う。

 そんなことをし終わるのとほぼ同時に洗濯機が私を呼ぶ音が鳴るから、ばたばたと洗濯物を干す。

 それらすべてが終わる時刻は大体七時で、妹を起こす時間になる。
 七時までに一日の家事をあらかた終えていないと、帰ってきてからが大変だから朝は本当にてんてこ舞いだ。

 そのあとからは、主に妹のお世話。
 ご飯を食べさせお着替えさせて、身なりを整える。
 母親譲りのふわふわの猫毛だから、毎朝寝ぐせを直すのに苦労している。

 それらが全部終わったら学校へ行きがてら愛衣を保育園まで送って、私はそのまま登校する。
 それが私の日常だ。

 今日のようにイレギュラーが発生すると、ひとつやふたつできないことが出てきてしまうけど、残されたタスクは全部帰ってきてからの私にのしかかる。
 だからできるだけ、朝は早起きするのだ。

 そしてこういうイレギュラーが発生した日、私の頭を悩ませる要因がもうひとつだけある。

 それは寝室の向こう側にいる人物で、私のありとあらゆる悩みの元凶でもある。

 ダイニングから続く洋室へと今日何度目かわからない視線を投げ、眠ってしまった愛衣をリビングのふたり掛けソファに寝かせた後、静かにその扉を開く。

 この部屋の中は、いつでも真っ暗だ。
 光が差すと起きてしまうからと、わざわざ一番高い一等級の遮光カーテンを選んで取り付けたこの部屋は、家の中でも一番日差しが当たっていい部屋なのに。

 毎度、ため息を吐きたくなる。

 真っ暗な部屋の中央には一組の布団が敷かれていて、そこを取り囲むように派手な服や時には下着、カラフルな愛衣のおもちゃが広がっている。
 まるでカオスだ。
 こんな使い方をするならば、私の部屋と交換してほしいくらいだ。

「お母さん……」

 本来ならば声をかけずに登校する。
 だけど、仕方なしに昨日と同じように今日も声をかけた。
 愛衣が保育園に行ける状態ではないから、私が学校に行っている間見ていてもらうためだ。

 こんもりと盛り上がる掛布団の中にいた人物は私の声掛けにものともせず、いまだに寝息を立てている。
 これだけで起きないことなんて重々承知だけど、彼女の寝起きの悪さに腰が引けてしまうのだ。

「お母さんっ」

 今度はさっきより大きな声で、その体をゆすりながら言う。
 すると大きな布団の塊は気怠げにもぞもぞと動き出す。

「なあに、詩央(しお)ちゃん……。起こさないでよお」

 さっき帰ってきたばっかなんだからと、舌足らずに言いながらこっちを見る目は開いてない。
 おまけに睫毛はひじきのようになって目元に滲んでいる。
 また化粧を落とさずに寝たらしい。

「さっきって言ったって、もう四時間も前でしょ。それより今日も愛衣が熱出して保育園行けないから、昼間はよろしくね」

「ええー……またあ?」

 ぼりぼりと頭を掻きながらむくりと起き上がってぼーっとしている姿を見ると、本当に母親なのかと疑いたくなる。
 まるで私と立場が逆転してしまっている。

「保育園に休みの連絡、ちゃんとしておいてよね」

「それくらい詩央ちゃんがやってよお」

 甘えるように紡がれたその言葉に、むっとする。

 『それくらい』と言うのならば自分でやってほしい。
 喉元までそんな言葉がでかかったけど、ぐっと飲みこんで「はいはい」とぶっきらぼうに返事をした。

「とりあえず私はもう出るから。愛衣のことよろしくね」

「はあい……」

 まだ目を閉じたまま座りながら呆けている母親を尻目に、ソファに横たえたままの愛衣の元へと近寄った。

 私の気配に気付いた愛衣はうっすらと目を開けて、ぼーっと私を見上げている。
 まだ眠いみたい。せっかく寝ていたのに、さっきは起こしちゃって悪かったな。
 妹に目線を合わせてしゃがむと、「行っちゃうの?」とか細い声。

 そうだよね。しんどいときって、誰か傍にいてほしいものだ。
 ……そんな感覚、私はもう忘れちゃったけど。

 まだ熱の残る愛衣の頬を優しく撫でる。

「お母さんがもうすぐ起きてくるから。私もすぐに帰るね」

「ぜったいだよ」

「うん、絶対」

 私がそう言うと安心したように目を閉じて、すぐに寝息が聞こえてくる。
 「じゃあ、行ってきます」と小さく声だけかけて、家を出た。


「しまった、ゴミ出し忘れた……」

 この前時間がなくて出せなかったから、二袋もあったのに。

 玄関に出しておいたのに、どうして今日に限って忘れちゃったんだろう。
 そのことに気付いたのは教室の自分の席に着いてからで、もう後の祭りだ。

 がっくりとうなだれてしまう。

「詩央ちゃんって、ほんとにしっかりしてるよねー」

「ほんと、詩央のこと嫁にもらいたいくらい」

 私の絶望感たっぷりの独り言を聞き逃さなかった友達の真結(まゆ)凛花(りんか)が、それぞれ感心したように言葉をこぼす。
 そんなふたりに「なにバカなこと言ってるの」って苦笑混じりで返した。

 だって、私の場合は自分でやるしかないからやっているだけだ。
 ほかにやってくれる人がいるのなら、きっと自分ではやっていないと思う。

「詩央ちゃんがほとんどおうちのことしてるんでしょー? シングルマザーのお母さんを支えるためだっけ? ほんと偉いよー」

「そうそう。謙遜するなって」

「……あはは、そうかなあ」

 表向きそういうことにしているだけで、本当の理由は違うけど。

「そうだよー。さすが、優等生は違うなって感じ」

 褒められて悪い気はしない。

 だけど、そう言われてどこか複雑な気持ちになってしまう。
 一般的な家事ができることも、優等生のような立ち居振る舞いも、私が好んで身につけたものではないからだ。

 だって、ひとつ何かができるようになる度に、私はひとつ、何かを諦めている。

 その諦めてしまったものは本当は私が大切にしなきゃいけなかったもののような気がして、それが少しずつすり減っていく感覚に、どうしようもない気持ちで胸がいっぱいになる。

「ねえ、見てー。昨日ネイルやってもらったのー」

「お、ほんとじゃん。真結に似合っててかわいい!」

 そんな言葉とともに、真結が嬉しそうに私と凛花に両手の爪を見せてくれる。

 私の通う高校は比較的自由で個性を尊重してくれる校風だ。

 良い成績を収めてさえいれば、身なりでそこまで厳しく言われることはない。
 髪を染めていようがネイルをしていようが、自由だ。

 それが魅力で、この学校を志望する生徒は数多くいるらしい。
 真結と凛花も、それが理由で受験を決めたと言っていた。

 登校してからSHRが始まるまでの時間、大体会話に出てくるのは最近買った服や行った場所、それから彼氏の話。
 あとはそう、メイク道具だったり、今みたいにちょっとしたおしゃれの話。

 私は、こういう会話が苦手だ。

 だけど、そんなことを言ったら会話に交ざれないどころか、ハブられる可能性だってある。
 ……大溝(おおみぞ)くん、みたいに。

 教室の真ん中に位置する彼の席へ、ほんの少しだけ視線を投げる。

 ゆるくパーマがかかった黒い髪。
 前髪は長くて、彼の目をはっきり見たことは一度もない。
 いつでも黒いマスクをしていて、そのせいで話す声はくぐもって聞こえる。

 そんな彼は、教室でいつもひとりきりだ。

 何が理由かは大体しか知らないけれど、素行が悪いとかなんとか。
 中学の時に問題を起こして、それからずっとあんな感じらしい。
 私はそれを、彼と同じクラスになってから知ったんだけど。

 たしかに観察していると、ほかの男子からも女子からも避けられているように見えた。
 大勢がグループを作って行動している中、たったひとりで席についている大溝くんは、まさに一匹狼。

 ……私は、そうはなりたくない。

 優等生って言われてもそれは見せかけで、本当の優等生だったならばそんな彼にも一言二言声をかけるのだろう。
 だけど、私はそうじゃない。できるだけ関わりたくないと思ってしまう。
 周りから浮くって、怖いことだ。

 ……もう、あんな思いをするのはこりごりだ。

 だから、私は自分の感情をひた隠して笑顔の仮面を毎日欠かさず貼りつける。

「ほんとだ、かわいい」

 大溝くんから視線を逸らして改めて真結の指先に視線を向けると、爪全体は光沢のあるライラック色に色付けられ、先端は白で縁取られたフレンチネイル。
 今の季節にぴったりな、真結に似合うかわいいネイルが施されていた。

「でしょー? お気に入りなんだあ」

 そう言ってにこにこ笑う真結は本当にかわいい。

「詩央ちゃんも凛花ちゃんも、ネイルしないのー?」

 その言葉に、背中にどっと汗が噴き出るのを感じる。

「私は、ほら。料理とかよく作るから。爪短くないと気になっちゃうんだよね」

 ……いやだなあ、この会話。
 なんて心の中で思っていることがばれないように無理矢理笑顔を作ってからそれっぽい言い訳をして、自分の手をさっと机の下に隠した。

 うまく笑えていたかな。違和感はなかったかな。
 そんなことを思いながら、机の下にある自分の手にそっと視線を落とす。
 水仕事でぼろぼろの手。女子高生らしからぬ乾燥してかさついた手。かわいくない手。

 どう表現してもマイナスにしかならないそれは、紛れもない私自身の手だ。
 こんな汚い手にかわいいネイルなんて似合うわけがなくて、やるせない気持ちになる。

 髪を染めたり、好きにアレンジしたり、ネイルをしたり。
 おしゃれを心から楽しんでいるきらきらした周りの子を見ると、どうしようもなく惨めになる。

 真結はおっとりした喋り方が特徴のくっきり二重のかわいい子。
 女の子らしい、という表現が似合う子だ。
 茶色に染められた髪はいつも丁寧にゆるく巻かれていて、彼氏が途切れたことがないらしい。

 凛花は名前の通り、凛としていてかっこいい女の子だ。
 真結とは違った女らしさがあって、かわいいよりも綺麗という言葉が似合うスレンダーな美人だ。
 自分の意見をはっきり言えるし、背も高くて金に近い茶髪のショートヘアがよく似合う。

 比べて、私は——毎日ストレートの黒髪を後ろでひとつくくりにした、機能性重視の代り映えのない冴えない髪型。

 中肉中背で、背は低くもなく高くもない。顔は母親譲りで派手な顔立ちだと思うけど、それもこの髪型のせいで台無しな気がする。

 成績だけは、唯一自慢できる。いつも学年上位に食い込んで、「優等生だね」なんて周りから言われるくらい。
 素行も悪くない。学校のアルバイトは許可制だけど、二つ返事で了承をもらえるくらいには教師陣からの信頼は厚いと自負している。

 だけど私は……、本当になりたかった私は、こんなじゃなかった。

 髪を染めるお金があるならそうしたいし、ネイルだってしてみたい。
 絵に描いたような優等生ではなくて、周りにいるみんなが普通にやっていることを、私も当たり前のようにしてみたかった。

 けれど、私なりのできない理由があった。

 かわいい髪も、かわいいネイルも、おしゃれもすべて、余裕のある人がやる娯楽だってこと。
 私の日常に、自分の為だけに使える時間やお金が、一体どれくらいあるだろう。

 数えた分だけ悲しくなるから、考えないようにしているけれど。

 週に約三日、短いけれど二時間バイトをしている。

 だから遊ぶお金は少しならあるけれど、私にないのは圧倒的に時間だ。
 バイトを辞めたら時間は増えるかもしれないけど、その分自分のお小遣いはなくなるし、その分愛衣の世話をする時間が増えるだけ。
 だから、今の私にはバイトを辞めるという選択肢はない。

 まあ、それも理由の一つだけど、あの母親を見てると不安になるのだ。

 普段食べていくのに困ったことはないけれど、今困っていないだけで、将来は大丈夫なのかとかいろいろ考えてしまう。
 なにせ、なければ買えばいい精神の母親だ。

 貯金をちゃんとしているようには到底思えないから、結局バイト代は使わずほとんど貯めている。
 だから、私自身の娯楽のために回せるお金も時間も、あってないようなものだ。

 そうやって私は、自分の青春をすり減らしている。

「席着けー。ホームルームはじめるぞ」

 そのとき、ちょうど担任が教室に入ってきた。

 蜘蛛の子を散らしたようにみんなが自分の席へと一斉に戻っていく。
 真結と凛花もまたあとでねなんて一言交わして、私に軽く手を振りながら前の方にある自分の席へと戻っていった。

「えー、前から言っていたように今日は席替えを行う。学級委員、あとは頼んだぞ。一限に間に合うよう、速やかに行うように」

 それだけ言って担任は教壇から下り、教室の端にある席に腰かけた後さっさと内職を始めてしまった。

 そう言えば席替えをするとかなんとか言っていたっけ。
 今の席、気に入ってたんだけどな。

 窓際の一番後ろの席は、良くも悪くも目立たない。
 それに、日差しもよく入るし、窓を開ければ心地よい風を真っ先に受けることができる。
 だからこの席が結構好きだった。

 委員長の朝霞(あさか)さんが番号札の書かれた用紙の入ったボックスを列順に回していく。
 その間に副委員長の土井(どい)くんが、黒板に升目を書き席番号を適当に割り振っていった。

「はい、香坂(こうさか)さん」

「ありがとう」

 この席から見る景色も見納めかと外を眺めていたらいつの間にか私の番が来ていたようで、朝霞さんがボックスを私に差し出すから、その中に手を突っ込んだ。

「あ、私が最後か」

 手に触れる紙が一枚だったことで、そのことに気が付く。

「余り物には福があるって言うよね」

「あはは。そうだといいなあ」

 屈託なく笑う朝霞さんに、私も微笑み返した。

 できれば、後ろの方の席がいい。そして欲を言えば窓際がいいな。
 なんならもう一度この席でも全然いい。

 私の横では、好きな人が近くだったら席交換して、なんて取引が行われている。
 こそこそ塊を作って話すグループがちらほら見えて、たぶん同じような会話をしているんだろうなあなんて思う。

 普通は席替えって、こういうふうにわくわくしたりどきどきしたりするものだよね。
 好きな人もいない私には、わからない世界だ。

 そんなことを思いながら、ぺらっと紙切れをめくる。

 黒板に書かれた席番号にざっと目を通しながら、自分の場所を探していく。

 ……あ、一個横にずれるだけだ。

 私はあっという間に移動が終わって、一足先に着席する。
 みんなも席の確認が終わり移動し始めると、凛花が机を運びがてら傍に寄って来た。

「詩央、席どこだった?」

「一個隣りに動くだけ」

「ほんと? 移動少なくてラッキーじゃん。ちなみに斜め前あたし」

 にかっという効果音が似合うような笑顔で私に笑う凛花。

「近いね。よろしく」

 移動が楽なのはいいけれど、本当は窓際のままが良かったなんて贅沢なことは言えなくて、無難に言葉を返す。

「真結は最前列だって。ついてないよね」

 さっきの表情とは一転して口を突き出して言う凛花の言葉に前の方へと視線を配ると、真結がこっちに一生懸命手を振っていた。
 嫌そうな表情を隠すこともなく、ジェスチャーでまるで「最悪だ」とでも言いたげに。

 そう言えば、隣りの人は誰なんだろう。

 二年に上がってから数か月だから、まだ話したことのない人も数人いる。
 女子だったらいいな。

 ——ガタン。

 そのとき、隣りの席に机を置く音がして、反射的に振り返った。

「——!」

 なんてタイムリーなんだろう。

 ひとりで黙々と席を動かして既にそこへ着席しているのは、大溝くんだ。

 教室を見渡すと、各々が隣り合った人と軽く挨拶を交わしている。
 悪い子にも完璧な優等生にもなれない中途半端な自分に嫌気がさしながら、自問自答する。

 ……声かけないの、感じ悪いよね。

 私の心の天秤は『優等生』の方に寄ってしまった。
 ひっそりと喉のチューニングをして、思い切って声をかける。

「あの、大溝くん。私隣りの香坂。今日からよろし——」

 よろしくと、そう言いかけたのに。

「別に無理して話しかけてこなくていいから。そういうの、うざい」

「え……?」

 こっちも見ずにぴしゃりと放たれたその言葉に、一瞬意味がわからなくて混乱する。
 それも、授業の時に聞く声とはまるで別人かのようなはっきりとした口調で。

 というか、うざいって言った……?

 ただ挨拶しただけなのに。
 私の何が彼の気に障ったのかわからず、狼狽えてしまう。
 そんな私に、彼はさらに追い打ちをかけるかのように言葉を紡いだ。

「聞こえなかった? うざいって言ったの」

「あ……、ご、ごめん」

 彼の勢いに押されて、何が悪かったのかもわからないままひとまず謝った。

 もしかして、こういうところなのかもしれない。
 彼がひとりでいる理由。みんなが彼を避ける理由。

 ……声なんか、かけなきゃよかった。

「ちょっと大溝! 言葉きつくない!?」

 私たちのやり取りが聞こえていたらしく、凛花が声を荒げた。
 その声の大きさに、何事かと数名がこっちを振り返る。

「凛花、大丈夫だから」

「でもさあっ……!」

 憤慨している凛花をなだめ、大溝くんの方を見ずに私も自分の席に座った。

「ったく、うるせーな」

 大溝くんはぶつくさとひとりごちて、そのまま窓の方を向いているようだ。

 残り物には福がある?
 そんなの嘘っぱちだ。

 私とは正反対の方を向く大溝くんの後ろ姿に内心ため息を吐きながら、『残り物には福がある』なんて笑った、何の罪もない朝霞さんを恨めしく思った。


「朝の大溝! あれなんなの!?」

「まあまあ凛花、落ち着いて」

 朝の出来事に憤慨している凛花は、まだ鼻息荒く空っぽの大溝くんの席を睨みつけていた。

 私も気分が悪かったけど、自分より取り乱している人を見ると妙に落ち着いてしまう。
 この現象にいい加減名前をつけてもいいと思う。

 お昼休みになると同時に、大溝くんはすぐさま教室を出て行った。

 いつもそうだ。

 彼は昼休憩になると同時に出て行って、時間ぎりぎりに戻ってくる。
 教室の真ん中の席だった彼の姿は私のところからはよく見えて、それだけは知っていた。

「なに、大溝くんと何かあったのー?」

 のほほんとした声色で、真結がお弁当の包みを持って近付いてきた。
 そのまま辺りを見回して大溝くんの席が空いていると気付くと、そのまましれっと着席する。

 そんな真結の様子に、凛花がまた声を荒げた。

「真結! そんなとこ座らない方がいいって!」

「えー、なんで?」

 きょとんとした真結に私は苦笑いを返す。

 一番前の席にいた真結は、朝のちょっとしたハプニングを少しも知らないようだ。
 真結のその言葉を待ってましたと言わんばかりに凛花は身を乗り出して、「それがさー、聞いてよ!」と朝の出来事をかいつまんで説明し始めた。

 凛花は椅子だけこっちに寄せて、私の机に集まってお弁当を摘まみながら、まくしたてるように大溝くんの愚痴を喋り続ける。
 一通り話し終わって「だから、真結も大溝には関わらない方がいいよ!」なんて凛花はまだ鼻息を荒くしていた。

 凛花は言いすぎなところがあるけれど、今回ばかりは私も同意だ。

 あんなことをいきなり言われたのもあるし、もう関わりたくないって思っちゃった。
 それに、変に関わって私まで除け者にされたらたまったもんじゃない。

 声には出さず心の中で凛花に賛同する。
 すると真結がもぐもぐと口いっぱいに頬張っていたご飯を飲み込んで、口を開いた。

「んー、でもわたしが言われたわけじゃないから、気にしないでおくー。関わることがあったら気を付けるねー」

 そう言ってお弁当に入っていた卵焼きをぽいっと口に放り込んだ。

 さすがマイペースというか、なんというか。
 同じクラスになってから友達になったけど、まだまだ知らないことがたくさんあるみたい。

 真結の我関せずといった態度には感心してしまう。

「はあ……、真結はいっつもそう。まあ、いいけどさ」

 そんな真結ののんびりした様子に毒気を抜かれたように、凛花はおとなしくなった。
 ふたりはまたいつも通り最近買ったコスメの話をし始めたから、私は感じ悪くならない程度に相槌を打ちながらスマホを開く。

「え……っ!?」

 まずいことに気が付いて、思わず大きな声が出た。

 なんで今日はこんなにも物忘れが激しいのか、自分を責める。

 スマホの画面には不在着信二件の文字。
 そのどちらも、愛衣の通う保育園からの電話だった。

 お休みの連絡、すっかり入れるの忘れてた……!

「詩央ちゃん、どうしたのー?」

「ごめん。ちょっと電話してくる」

 心配するふたりに告げてから、騒がしい教室を重い足取りで後にした。

 昼休み中の校内は、どこもかしこも騒がしい。

 楽しそうな会話で溢れる教室前や廊下をどんどんと通り越していく。
 こんなに悲壮感たっぷりなのは、私くらいなんじゃないのかな。

 そう錯覚してしまうくらいには、私は今日の自分に失望していた。

 静かに電話できる場所なんて限られていて、やっと見つけたのは三階から四階へと昇る東階段の踊り場。
 四階とは名ばかりで、貯水タンクが設置されている屋根に繋がる扉がひとつだけついた、行き止まりの場所だけど。

 すぐにスマホを取り出して、発信する。
 数回のコール音の後にそれは途切れて、よく知った優しい声がスマホを通して聞こえてきた。
 相手が話し出す前に、焦って言葉が先走る。

「あの、香坂愛衣の姉です。電話もらっていて。すみません、今日もお休みだったのに連絡を忘れてしまって。……そのことですよね?」

 しどろもどろで謝罪と内容の確認をする。
 すると、電話の向こうからは「ああ、お電話繋がってよかったですー」と、保育士さん特有の柔らかい声が聞こえてきた。

「お姉さんの方に連絡してしまってすみません。お母さまが出られなかったもので。大した連絡ではないんですけど、もし明日登園できるようでしたら、明日は絵の具を使った遊びをするので、汚れてもいい服装で来てくださいというご連絡でした。時間をおいて夕方にもう一度お電話しようと思っていたのですが、今日は降園後に園で研修がありまして。しつこくお電話してすみませんでした」

 腰の低い物言いに、こっちが申し訳なくなってしまう。
 何度も謝ると、「気にしないでください、愛衣ちゃんお大事に」と愛衣の体調を気遣う言葉。
 それを最後に、電話は切れた。

「……はあー」

 ひとまず電話が無事に終わったことに安堵して、手すりに寄りかかる。
 すると、何度か我慢した分の全部が含まれたかのような、今日一大きなため息が漏れ出た。

 ……なんで私が、ここまでしないといけないのだろう。

 そんな気持ちがふつふつと込み上げてくる。
 振り返って今度は手すりに掴まりながら一階を見下ろすと、楽しそうに会話しながらはしゃいでいる生徒が目に入る。

 彼女たちはきっと、朝は起こしてもらえるし、遅刻しても母親のせいにできる。
 ゴミ出しに行くこともなければ、毎日のご飯を作ることもないだろう。

 お弁当も作ってもらえて、洗い物もせずに、帰ったら夕食が準備されている。
 温かいお風呂に浸かって、眠るだけ。

 間違っても、妹の保育園から連絡が来るなんてこともきっとない。

 勝手な想像だけど、大抵の女子高生はそれが普通だ。

 真結や凛花のようにコスメや好きな人の話で盛り上がったり、それが普通なんだ。
 正直、周りにいる同学年の友達よりも、その辺にいる主婦の方が私と会話が弾むに違いない。

 みんなが当たり前のようにやっている普通のことが、私にはできないんだと突き付けられているみたいだ。
 こんなふうに時折、どうしようもなく憂鬱になってしまう。

 考えても仕方ないことなのに、周りと比べては自分の不幸を自覚する。
 どんどん自分がなくなっていくのを感じて、怖くなるんだ。

 一度そう思うとどん底まで滑るように落ちて行ってしまう気がして、そういう時に私は同じような気持ちを抱えている人の呟きを覗きに行くのが癖になっていた。


 #弱音吐き
 #独り言


 SNSの検索履歴にすでにある、そのふたつのハッシュタグ。
 それを慣れた手つきでタップして、開かれたページを流れるように人差し指でスクロールしていく。

『人生つらいこと多すぎ』

『陰口言うくらいなら一緒にいてくれなくていいのに』

『生きてれば楽しいことある? そんなのうそだ』

『もう頑張れない』

 どれもこれも、鬱々とした投稿で溢れている。

 だけど私はこれを見ていると、不謹慎かもしれないけれどほんの少しだけ元気が湧いてくる。

 こうやって悩んで何もかも投げ出したくなっても、苦しんでいるのは私だけじゃないんだって思えるから。

 この世界にひとりきりで取り残されたような孤独な気持ちが、これを見ると少しだけ和らぐのだ。

 見知らぬ誰かをまるで戦友のように思いながら、私は毎日戦っている。

「あ、今日も投稿されてる」

 ひとつの投稿で、スクロールしていた手を止める。

 いろんな人の投稿を日々眺める中で最近気付いたのは、毎日大体同じ時間帯に投稿されるひとりの人の呟きだった。

 その人はいつも『今日の空』とたった一言だけ添えて、その日に撮ったであろう空の写真をアップしていた。

 初期アイコンのままで、プロフィール欄も空白のまま。登録名は「ダンデ」。
 男か女かもわからないその人の呟きを、なんとなく毎日の楽しみにしていた。

 最初は、このハッシュタグに見合わないこの投稿に違和感を覚えていた。
 みんなが口々につらい気持ちを吐露する中、ひときわ目立つ写真の投稿。
 ハッシュタグを間違えてるんじゃないのって、何度も思った。

 けれど、毎日違う空の様子を写真で眺めると、その人がいまどんな気持ちでいるのかをだんだんと想像するようになった。

 今日みたいな曇天の日は『嫌なことがあったのかな』とか。
 晴れた空にぽっかりと浮かんだ雲の写真の日は、『ああ、今日は少しいいことがあったのかな』とか。

 空の様子がその人の心を表わしているんじゃないかと、なんとなくだけど考えるようになった。
 何かしら辛いことがあるから、この人もこのハッシュタグを使って投稿しているのだろう。

 この人にどうかいいことがありますように、と。
 一緒に頑張ろう、と。

 勝手に心の中で声をかけていた。

 空の写真にその人が何を見出しているのか、本当の理由は私にはわからない。
 けれど、そうやって写真から名前も知らないその人の、人となりを想像していた。

 昨日とは打って変わって晴天の空なのに、朝から私の心には暗雲が立ち込めていた。
 目の前にいる、担任のせいで。

「香坂、おまえ本当にそれでいいのか?」

 聞き覚えのあるその言葉。
 顔を覗き込みながら心配そうに眉を下げた担任が、私の目を射抜くようにまっすぐ見てくる。

「はい。私は進学ではなくて、卒業後は就職したいと思っています」

 負けじと私は、決意がぶれないようはっきりとそう告げた。

 時刻は八時十分で、普通なら朝活の時間だ。
 朝活とは、SHRが始まるまでの二十分間に、読書をしたりまたは勉強したりする時間のことだ。

 本当なら、一限にある数学の予習をしているはずだった。

 それなのに私はいま、こじんまりとした生徒指導室に担任と一緒に詰め込まれている。
 ここに来たのは、入学してから二度目だ。

 右側にある本棚には、びっしりと進路に関係する資料が詰め込まれている。
 その多くはほこりをかぶっていて、到底役目を果たしているとは言い難い。

 そして、私と担任を遮るように置かれている机の上には、『三者面談の日程について』という用紙がぴしっと並べられていた。
 面談を申し込むかどうかの設問と、希望日程に丸をつけるだけの簡単な内容だ。

 その紙に視線を落とすとため息が出てしまいそうになるから、あえて担任の目を睨みつけるがごとく、まっすぐと見返してやった。

 そんな私の様子に担任は小さくため息を吐く。

 いやいや、ため息吐きたいのは私だってばと、心の中で愚痴をこぼした。

「……香坂の家庭の事情はよくわかっているよ。でも、きちんと親御さんと話して決めたのか?」

「はい、もちろんです」

 間髪入れずに答えたけれどそんなのは嘘で、私の独断だ。

 提出期限はとうに過ぎたというのに目の前に再度この紙が置かれているのはなぜかというと、最初に提出した内容が担任には不服だったかららしい。

 大学にしろ専門学校にしろ、この学校に通う生徒の大半は進学希望で、特に進学を希望する生徒には三者面談を行うことになっている。

 つまり、進学を希望する者は必然的にこの用紙の『三者面談を希望する はい・いいえ』の欄の『はい』の方に丸をつけることとなる。

 私は、『いいえ』に丸を付けた。
 それがなにを意味するかというと、最初に述べた通りのそのままの意味だ。
 
 そもそもお母さんとじっくり話し合う時間なんてないし、あったとしても、お母さんは私の進路になんて興味ないだろう。
 第一、大学に通うのに十分な学資金がうちにあるとは到底思えない。

 私のバイト代なんてたかが知れているし、卒業後は就職一択だと思ってこれまで過ごしてきた。

 母親の意見なんて必要ない。
 いい加減、諦めてくれないだろうか。

「……うーん、どうしたものか。香坂は本当に進学の希望はないのか?」

 そう聞かれて一瞬だけ言葉に詰まるけど、でもそれは本当に瞬きをする間の僅かな時間。

「ありません」

 またさっきと同じように間を与えず答えれば、困ったように苦笑いで返された。
 以前もこうして押し問答が続いた。

 私には進学を選択できる余地がないのだ。
 それだけぎりぎりだということを、どうしてわかってくれないのだろう。

「前にも話したけれど、香坂は勉強を頑張ってて成績もいい。高校の勉強だけで終わるのはもったいないと思うんだ」

 その言葉に、黙ったまま膝の上でこぶしを握る。
 期待されるのは、素直に嬉しいことだった。

「……もしも、香坂に進学したいという気持ちが少しでもあってそれを自分で言い出せないのなら、そういうのも込みで親御さん含めて相談に乗ることもできる」

 そんなふうに言ってもらえるとは思わなくて、さらに強く拳をぎゅうと握った。

 なにも言えず黙っている私の態度を見てそれを肯定と取ったのか、担任はさっきと違う意味合いでため息を吐いて、「とにかく、もう一度親御さんと話し合って、再度提出するように」と、私に新しい用紙を渡してきた。

 ……こんなふうに渡されても、きっとまた『いいえ』に丸を付けるだけなんだろうけれど。

 そう思いながら指導室を出て教室へと向かった。







 手元にある一枚の紙にため息交じりで視線を落とす。
 そこには『三者面談の日程について』と記されていた。

 何度見ても変わらないその文字に、何度頭を悩ませればいいのだろう。

「三者面談? 詩央、まだ提出してなかったの?」

 自分の席に座りながら振り返った凛花が、私の机の上に置かれているそれを見て驚いたように呟いた。

「あー……うん」

 提出はしていた。
 再提出になっただなんて言えなくて、嘘をつく。

「詩央が提出物忘れるなんて、よっぽどじゃない? らしくないなー」

「あはは、ちょっと最近ぼーっとしてたかも」

「まあ、たしかに今って気が緩むよね」

 そう言って凛花は椅子の背に肘を乗せて頬杖をついた。

 五月の体育祭が終わった後すぐに実力テストがあったかと思えば、その一週間後には中間テスト。
 それが終わって特別大きな行事のないいまは、たしかに気が緩む。

 期末試験までのほんの気休め程度の短い期間だけど。

「まあ、なんにせよさっさと提出しちゃいなよ。どうせ進学でしょ? 詩央、頭いーもんね」

「あはは。だねー」

 凛花の言うようにさっさと提出できるなら、苦労しないんだけどな。

 私が進学すると信じて疑わない凛花の言葉は、じわじわと私を崖っぷちに追い詰めていくようだった。

 凛花はそう言ってくるっと自分の席に向き直り、さっさと次の授業の準備を始めた。
 それが終わった途端「時間ギリだけど行ってくる!」と猛ダッシュでトイレへと走り去っていった。

 忙しないなあと思いながらそれを見届けて、もう一度視線を落とす。

 何度見てもやっぱり変わらないその文字に、ため息が出そうになる。
 もう提出するのでさえ面倒だ。

 第一もう出しているのに、親と話し合ってもう一度提出しろなんて、傲慢じゃないだろうか。

「あれ。詩央ちゃん三者面談、まだ出してなかったのー?」

 そう言ってひょこっと顔をのぞかせたのは真結だ。
 さっきと同じ流れに苦笑しながらうなずく。

「大溝くんもー?」

「えっ?」

 視線をスライドさせて隣りの机を覗き込んだ真結の言葉に、同じように隣りを向いた。

 彼の机を見ると、たしかにさっき受け取ったであろう私と同じ用紙が机の上にほっぽり出されていた。

 私が話を終えて教室に戻ると同時に今度は大溝くんが席を立ったのは、どうやらそういうことだったらしい。
 ひとりで勝手に納得した。

 それにしても、真結には怖いものがないのだろうか。
 平然と大溝くんに声をかけるその姿に、内心ひやひやしてしまう。

「……別に関係ねーだろ」

 案の定、隣りからは冷たい言葉を浴びせられる。
 なんでこんな言い方しかできないのって疑問に思うけど、そんなことを気にも留めない様子の真結は、まだ普通に大溝くんに話しかけている。

「そうだけどー。目に入ってきたからー」

「だからってなんでわざわざ話しかけてくんだよ」

「まあ、いいじゃん。ちょっとくらい声かけたってさー」

 むっと口を尖らせながら言う真結。

 大溝くんの目は前髪に隠れてよく見えないけど、真結のことを睨んでいるのは声色からして明らかだ。

 ここに凛花がいなくてちょっとだけほっとする。
 また昨日のように言い争いにでもなったら嫌だから。

「っまあまあ、真結もそろそろ自分の席に戻ったら? チャイム鳴っちゃうよ」

「ほんとだー。またあとでねー」

 ひらひらと手を振る真結に私も同じように返して、ふうと一息ついた。
 ちらっと大溝くんの方を盗み見る。

「……なんだよ」

 げっ。見てるのばれてる。

「……別に、なんでもないですけど」

 同級生なのに、自然と敬語が口から出る。
 それくらい声が冷たくて怖かった。

「じゃあこっち見んな」

 私、大溝くんに嫌われるようなこと、なにかしたっけ?

 そう思ってしまうほど、大溝くんの態度はきついと思う。

 言い返したい気持ちは大いにある。
 だけど、それをうまく言葉にできなかった。

 ……もう、いいや。

 別に大溝くんに嫌われていたって、なにも困ることはない。
 いちいち突っかかってくるのは面倒だけど、気にしたら負けだ。

 凛花が戻ってきて、私と大溝くんの間にある不穏な空気を感じたのだろう。
 「なに、また大溝?」なんて眉間にしわを寄せるから、「大丈夫、なんでもない」となんとか制した。

 またひとつ、ため息が出そうになるのを飲み込んだ。







「……気持ち悪い」

「ちょっと詩央、大丈夫? すごく顔色悪いけど」

「ほんとだよー。詩央ちゃん顔真っ青だよ? 色白だから余計そう見えるのかもだけどー」

 まだお昼休みだというのに、出そうになったため息をもう何度飲み込んだかわからない。

 今日は災難続きだ。

 英語の授業ではペアワークがあって必然的に大溝くんとだし、ぼそぼそ喋るから聞こえにくいし。
 聞き返すと威圧感のある声で「は?」なんて言われる始末だ。

 私と無駄に喋るのが嫌なら、文句言うときみたいにはっきりした声で喋ればいいのにって思っちゃう。
 朝のことといい、授業のことといい、ため息を吐きたくなる瞬間が山ほどあった。

 きっと空気を飲み込みすぎて、気持ち悪くなっちゃったんだ。

「午後の授業、無理しない方がいいんじゃない? 体育あるし」

「そうだよー。それに今日は長距離測定するって言ってたよー」

「げ、ていうことは休んだら休んだで後日測定じゃん」

「あ、そっかー」

 ふたりの会話が耳を素通りしていって、頭には言葉のひとつも入ってこない。
 お弁当の中身もまだ半分以上残ったまま、そこから箸が進まなかった。

 せっかく早起きして作ったのに、もったいない。

「んー……、ごめん。ちょっと保健室行ってこようかな」

 さすがに限界だ。

 たぶん連日の疲れも溜まっているんだと思う。
 愛衣の熱が長引いていて、夜も様子を見たりで付きっ切りだったから。

 立ち上がると頭もくらっとして、具合の悪さが増してしまった。

「ついて行こっか?」

「大丈夫だよー。ごめんね。戻って来られなかったら先生に言っておいて」

「りょーかい。お大事にー」

 心配そうに言うふたりに軽く手を振って、スマホだけポケットに突っ込み保健室へと歩き出した。

 保健室に着くと先生は不在だったから、利用者表に名前と症状だけ書いて、ふたつあるうちのベッドのひとつに腰かける。
 細く空いた窓からは、グラウンドでサッカーをしている男の子たちの楽しそうな声が聞こえてくる。

 ひとつ縛りにしていた髪をほどいて、そのままぼふっと枕に顔をうずめた。
 ……こんなふうになにも考えずに眠るのは、いつぶりだろう。

 遠くに聞こえる誰のかわからない賑やかな声をBGMに、私は目を瞑った。

 ——い、……おい。

 誰かが私の体を揺すぶってる。

 うるさいなあ、もうちょっとだけ寝かせてよ。

 ぼんやりと聞こえる声に心の中で悪態をつく。
 口元まで布団を引き上げて、もう一度眠りにつこうとした。

「おい、起きろって」

 だけど、今度ははっきり聞こえたその声に、嫌々ながらゆっくりと目を開けた。

 せっかく気持ちよく寝ていたのに……。

「……!? なんでいるの!?」

 心地よいまどろみに浸る間もなく、私の頭は覚醒して飛び起きた。
 だって、目の前にいるのは間違いなく大溝くんだったから。

 私が急に大声を出したからか耳を押さえる仕草をして、マスクをしていても嫌そうな顔をしていることが想像できた。
 もう一度「なんでいるの?」と恐る恐る話しかけると、しぶしぶといった感じで大溝くんは言う。

「あんたのこと先生が起こしてたけど、起きなかったから頼まれただけ」

 これから会議なんだってさとぶっきらぼうに言いながらベッドの横にある緑の丸椅子に座り、黒いケースに入ったスマホをいじっている大溝くん。

「あ、そうなんだ……」

 本当にただ起こしてくれただけなんだ。

 というか、教室とは違って普通に話してくれることに拍子抜けしてしまう。
 ぶっきらぼうではあるけれど、教室で喋る時より幾分かマイルドだ。

 ……あれ。そういえば大溝くん、会議って言った?
 いまっていったい何時なんだろう。

「もう放課後。授業全部終わった」

 私の疑問が顔に出ていたのか、大溝くんが察したように答えてくれる。

「えっ、ほんとに?」

 疑いながらスマホを開くともう夕方で、随分長い時間眠っていたんだと気が付いた。
 メッセージの通知も二件来ていて、開くとそれは真結と凛花と三人で作ったグループメッセージからの通知だった。

『よく寝てたから、先に帰るよ』

『荷物は持ってきてあるけど、足りなかったらごめんねー』

 それを見てからベッドの足元に視線を移すと、壁際のベッドの上に私のスクールバッグが置かれていた。
 教室にまた戻るのは正直しんどいから、本当にありがたい。

 『ありがとう』とだけ、ひとまず急いで返事を打ち込んで送信した。

 それにしても、ふたりが来てくれたのにも気付かないなんて、だいぶ深く眠っていたみたい。
 だけどよく眠れたおかげか、心なしか体も軽いし吐き気も治まった。

 いくつかの授業に出られなかったのは痛いけど。
 やっぱり睡眠不足って良くないんだなあと痛感する。

「隈、ちょっとはよくなったな」

「え……?」

 そういえば、大溝くんの存在を忘れていた。

 まさか話しかけてくるとは思っていなかったから、突然の大溝くんの言葉に驚いてしまう。
 反射的に大溝くんの方を見ると、「いや、いつも目の下に隈作ってたから」なんて言われるからさらに驚いた。

 化粧で隠しているつもりだったのに、ばれてたなんて思わなかった。
 ばれるほど普段からよく見られていることにも驚きだけど。

「……そんなにひどかった?」

「かなりな。やつれた主婦みたいな面してる、いつも」

 その言葉に、思わず両手でほっぺを触る。

 頬がこけてる、ってこと?

「そんなに? そっかあ……」

 かなりショックを受けるけど、大溝くんの言うことは的を射ている気がする。
 だって私の生活って、学校に通っている以外は主婦となんら変わりないから。

 思わず肩を落として小さくため息を吐いてしまう。

「悪い。はっきり言いすぎたか?」

 気まずそうにぼそっと呟くから危うく聞き逃しそうになるけれど、大溝くんははっきりと謝った。
 教室とはまるで別人みたいだ。

 嘘のように違うから二重人格?それとも双子?なんて、おかしな想像すら頭をめぐる。
 だから「え? ああ、うん。まあ少し?」なんて曖昧な返事しかできなかった。

 教室と違ってあまりにも大溝くんが普通だから、なんだか気が抜けてしまう。
 ……本当に、普通すぎるくらい普通だ。

 それなのになんで、大溝くんはあんなに避けられるみたいにひとりなんだろう。

 自分だって近寄りたくないなんて思ってたくせに、こんなふうに思うのはおかしいかもしれないけれど、それでも不思議だった。

 周りに誰もいないいまなら聞ける気がして、生唾を飲み込みだめ元で大溝くんにたずねてみる。

「……こんなこといきなり聞くの失礼ってわかってるんだけど、聞いていい?」

「だめって言ったら聞かねーの?」

 片手でスマホをいじりながら言う大溝くんに、やや食い気味で答える。

「いや、聞くかも」

「なんだそれ、結局聞くんじゃん」

 呆れたように小さく笑うから、やっぱり彼がなんで教室ではあんな感じなのか、余計に気になってしまう。

「最初に謝るけど……、実は先入観でびくびくしてたんだよね、大溝くんに」

「おー」

「それは本当にごめん。だけど、でもなんで教室だとあんな態度なの? 友達いないの? はじめて喋ったのに態度ひどかったよね?」

 思い出せば出すほど、疑問といら立ちがないまぜになって込み上げる。
 私の様子に少し困ったように上を見上げた大溝くんは、小さくうめき声を上げながらしぶしぶ目元を隠していた前髪を静かに片手で上げた。

 急にどうしたんだろうと思ったけれど、声に出す前に踏みとどまった。

 一目見てわかるほどの大きな傷跡……、古傷っていうのかな。
 それがおでこのまんなかに堂々と鎮座していたから。

「あ……」

 なんて言ったらいいかわからなくて、なんだか変な空気が流れてしまう。
 そんな私の様子に、大溝くんは続けて口を開いた。

「でこの傷なー、喧嘩じゃねーんだけどでかいだろ。そんでこの目つきな。まあ生まれつきなんだけどさ。それで売ってもねー喧嘩買われたりして、いままで散々だったんだよな」

 そう言った大溝くんの目を初めて見た。

 切れ長の目元に三白眼。
 たしかに怖い目つき、睨んでいるような目つき、例えるならそんな感じだ。

 きりっとした眉毛も相まって余計そう見えるのかもしれない。

 昔のことを思い出すように天井を見上げたまま大溝くんは続けた。

「で、目隠すようになって。そっから周りをビビらせないように、マスクしてれば目立たねーと思ってつけ始めて。そうこうしてるうちに、なんか俺がやばいやつみたいな噂流れ始めて。おまけに名前もなんつーか、強そうだろ?」

 そう問いかけられて、彼のフルネームを思い出す。

 そうだ。大溝獅子王(ししお)だ。
 獅子の王でししお。たしかに強そうではあるなと思う。

 けどいまはキラキラネームっていうの?
 結構そういう人はいっぱいいるし、気にしたことがなかった。
 私がそこまで他人の名前に重きを置いていないだけかもしれないけど。

「気付いたらこのざま。誰も近寄ってこねーし、俺も誰にも近寄れねーの。話しかけようとしても避けられるし、いつの間にか俺から誰かに話しかけることもなくなった。んで、必然的に家族しか喋るやついなくなるだろ? そんなのがずーっと続いてさ。気付いたらいつの間にかほかの人とうまく話せなくなってた。変なコミュ障みたいになったんだよ。おかしいだろ? 一対一だとまあまあ話せる気がするけど、周りに人がいるとほんと無理なんだよなー」

「え、人前だと緊張して喋れないとか、そういうこと?」

「ちょっと違うけど……、まあそんな感じかなー。仲良く話せたらいいんだろーけど、緊張して自分で思ってる言葉を言う前に、別の言葉が口から飛び出てる感じ。だから余計周りに避けられて手に負えねーの」

「……ああ、そういうこと」

 なんだか肩の力が抜けてしまう。

 こういう人もいるんだなあ。

 結構深刻な状況なことに本人は気付いていないのか、なんでだろうなーと、さして気にしてなさそうなその口ぶりに、私の方がため息を吐きそうになる。

 けれど、理由がわかればなんとなく理解はできる気がする。
 それにしても私への態度はかなりひどかったけど。

 私の気にしすぎも災いしているのかな……。
 そりゃあ大溝くんの周りに誰も寄り付かなくなるわけだ。

「昨日も朝も、俺あんたにきつかったよな? ごめんな」

 申し訳なさそうに大溝くんが言うから、ううんと首を横に振った。

 こんなふうに普通に話せたら友達なんてすぐにできそうなのに。
 まあ、人前が無理って言うならそう簡単にはいかないのかな。

 ふうと一呼吸置いて、とりあえず思ったことを口に出した。

「ひとまずさ、目も隠してさらに口も隠して、それも黒マスクだったら普通怖いよ、誰でも」

 表情ひとつわかるだけで、その人がどんな人なのかって想像できる。
 だから、そのひとつも知りえることのできない顔のすべてを隠した大溝くんが敬遠されるのは当然のことのように思えて、あえてはっきり言ってみた。

「まじで? けど白いマスクってダサくね?」

「いや、だったら外せばいいじゃん。ビビらせないようにマスクするっていうの、むしろ逆効果だから。ビビらせてるから、逆に」

 マスクを外すという選択肢がはなからないのが気にかかる。
 一度自分の姿を客観的に見て評価した方がいいと思う。

 私が思い切ってズバッと言うと、まるで目から鱗と言わんばかりに「それは盲点だった……」と大溝くんが呟いた。
 その姿に呆れてしまう。

「大溝くんってバカなの?」

 反射的に口をついて出たその言葉にはっとして急いで口元を押さえたけど、飛び出た言葉は戻ることはない。
 気まずい気持ちで大溝くんを見据えると、私の思いに反して大溝くんは噴き出すように笑った。

「あんたって、そんなにはっきり物事言うタイプだったの? 意外なんだけど」

 けらけらと笑いながら言われたその言葉に、脳天に衝撃が走る。
 考えてみれば、言いたいことを自分の思いのままに言うことって、いままでほとんどなかったかもしれない。

 いつも顔色を窺って、本当に言いたいこともしたいことも、心の中で折り合いをつけてきたから。

「……大溝くんがバカすぎたから、思わず出ちゃったの」

 大溝くんからぷいっと視線を逸らしてぼそっと言えば、また声に出して大溝くんは笑った。
 ひとしきり笑った後、急に静かな時間が流れる。

 不思議とその感覚が嫌じゃなくて、初めて喋ったのにどうしてだろうと考えた。

 ……そうだ。
 大溝くんがあまりにもあけっぴろげだから、私もいつもより思ったままの言葉を口に出せているからかもしれない。

 ひとりで納得していると、おもむろに大溝くんが口を開く。

「言いたいこととか、我慢せずに言っちゃえばいーのに。あんた、いつもなにか我慢してるみたいな顔してるし」

「……大溝くんにはそう見える?」

「おー。なんつーか、生きづらそう」

「……そんなふうに、見えるんだ」

「おう。若年寄? 的な?」

「え、ひどくない?」

 まさか、初めて話した相手にそんなことを言われるなんて想像もしていなかった。
 だけど、こうやって包み隠さず話してくれるからか、すごく話しやすい。

 生きづらそうとか、若年寄とかは、さすがに堪えるけど。
 仕方ないじゃん。今の私にはそうやって生きることしかできないんだから。

 内心落ち込んでいると、大溝くんはまた口を開いた。

「なー、あんたが良ければなんだけどさあ」

 ぴくりと、大溝くんのある一言が気にかかる。

「そのあんたっていうのやめて」

 さっきから気になっていた『あんた』という呼び方。
 私にはちゃんとした名前がある。

 あんたとかおまえとかって言われるのは、好きじゃない。
 大溝くんの言葉を遮って睨むと「香坂が良ければ……」と何事もなかったかのように続ける。

 私がちょっと強めに言ったってあっけらかんとしているから、私も嫌だと思うことははっきり言うことができる。
 それは、相手が大溝くんだからかもしれない。

「たまにでいいから、こうやって俺と喋ってくんねー?」

「え……?」

 大溝くんの言葉に、固まってしまう。
 だって、そんなことを言われるなんて思ってもなかったから。

 今日は予想外続きだ。

「俺さ、やっぱり友達ほしいんだよな。けど、教室で誰かに声かけるとかは無理だし。いまみたいにどっか人のいないとこで喋る練習みたいなの? できたらしてーんだけど」

 だめか?なんて、首を傾げながら聞かれても。

 ……困る、と言いたかった。

 だけど、なぜか思った通りのその言葉を口に出せなかった。
 大溝くんの秘密を知ってしまったせいかもしれない。

 それに、彼が思っていた以上にバカ正直で、あけっぴろげで、それなのに本当の自分を出せなくて。
 ……そういう部分が、なんだか私と似ている気がして。

 彼にとっての『いい人』でありたいと思ってしまった。
 だから、作り上げた文章じゃなくて、私の気持ちそのままの言葉を紡いだ。

「……教室では無理だからね」

「それは俺もまだ無理だって」

 大溝くんから視線を逸らして言うと、また彼は笑い声をあげた。

 そんな彼に、心の中でひっそりと謝った。

 教室で話したくない本当の理由を告げないこと。
 本当の大溝くんを知っているのに、周りに流されたまま彼を避けること。

 それが正しくないと知っていて、優等生の皮をかぶり続けること。

「……それと、昨日のことだけどさ」

「うん?」

 急に真面目な声のトーンになって大溝くんが話しかけてくるから、彼に耳を傾けた。

「言葉はきつかったかもだけど、昨日言った言葉に嘘はねーよ」

 その言葉に、今度は私が首を傾げる番だった。
 なんのことかわかっていない私に、大溝くんはため息交じりの声で話し出す。

「だって香坂、いつも周りに合わせてばっかで、俺に話しかけたのだってそうだろ?」

 その言葉にどきりとした。

 『優等生の皮』がはがれかけているなんて、それも大溝くんに気付かれてしまうなんて、思ってもなかったから。
 気まずい気持ちが胸の中を占めていって、自然とうつむいてしまう。

「香坂はもっと、自分の気持ちに素直になっていいと思う」

「え……?」

 大溝くんのその言葉に、下に向いていた頭を上げて彼を見た。

「俺は、喋る練習。香坂は、もっと自分に素直になる練習」

「う、うん……」

 私が返事をしたのを確認すると、大溝くんは「決まり、な」とマスクの下で小さく笑った気がした。





 そのあともいくらかくだらない話をした。

 いつなら話せるかという大溝くんの質問に、昼休みが終わる十分前くらいならいいよと返事をする。
 場所は、この前人気のなかった四階の東階段を提案した。

 大溝くんが頷いたちょうどその時、保健室の扉が開いて先生が私たちに声をかけた。

 元気な様子の私たちを見て心配する声をかけるでもなく、呆れたようにまだいたの、早く帰りなさいよ、とだけ言われた。
 ふたりきりじゃなくなった途端、さっきまでの大溝くんはどこにいったのかと思えるほど無口になって、そんな彼を難儀だなあと心の中で思った。

 大溝くんと一緒に帰る、なんてことはなく。
 保健室で挨拶も交わさないまま別れて、たったひとりでいつも通り帰路についた。

 今日はいろいろあったなあ。

 アパートの扉を開けて部屋に入ると、お母さんが出かける準備をしているところだった。

 ……三者面談、来れるわけがないのはわかっている。

 だけど、私の進路のことくらい、少しは話してみてもいいんじゃないだろうか。

 興味なんて、ないかもしれないけれど。

 そう思えば思うほど、鞄の中で存在感を放つように小さな音を立てる今日一番の問題児に、心は沈んでいくばかりだった。

 こう見えてこの母親は十八時から二十二時までスーパーのレジ打ち、二十二時半から明け方まではラウンジ、いわゆる夜職の仕事をしている。

 愛衣が生まれてから始めた仕事だ。

 だから、毎日疲れているというのは私もわかってる。

 それを知っているから余計、言えないのだ。
 でも、そうも言ってられないのもまた事実だ。

 鞄の中でかさっと乾いた音を立てたそれに、気付かないふりをすることもできるけど。

「……お母さん」

 意を決して話しかける。
 いったいいつから、自分の母親に話しかけるだけなのに、こんなにも緊張するようになってしまったのだろう。

「なあに? 詩央ちゃん」

 こうやって私と話すお母さんは昔と変わらず優しいのに、何が変わってしまったんだろう。

 変わったのはお母さん?それとも自分?なんて馬鹿げた自問自答をしてみるけど、答えはずっとわからないままだ。

 優しくこっちを見て笑ってくれるその姿に、やっぱり喉元で声が詰まってしまう。

「……ううん。なんでもない」

「そう?」

 言わなきゃいけないことほど、言えなくなった。
 いったいいつから、こうなったんだっけ。

 いくら記憶を掘り起こしてみても、思い出すことはできなかった。

 私がそんなことを考えているなんて露ほども知らない母親は、いそいそとしたくを終わらせてしまった。

「じゃあ詩央ちゃん、行ってくるね」

「ああ、うん……」

 いってらっしゃいを言う間もなく、お母さんはばたばたと出て行った。

 一気に部屋の中が静まり返る。

 私とお母さんが家で話せる時間は、たったこれだけだ。
 時間にするとものの数分。

 私が帰ってくる時間にお母さんは仕事のために家を空けて、私が寝ている間に働いている。
 私が起きる少し前に帰ってきて、私が学校に行っている間は眠っている。

 愛衣が生まれてからの五年間、ずっとこんな生活だ。

 私はお母さんが嫌いじゃない。

 文句のひとつやふたつ……いや、百くらいはあるけれど。

 それでも、嫌いにはなれないのだ。

 だからこそ迷惑をかけたくなくて、いつの間にかなにも言えない私になってしまった。

「あはは、やっぱり言えなかったなー」

 自分でも驚くくらい、乾いた笑いが漏れた。
 今日こそは話すんだと息巻いて帰ってきたのに、不思議だ。

 結局、前と同じように『いいえ』に自分で丸を付けた。
 保護者の署名欄には母親の字に似せて、母親の名前を自分で書いた。

 印鑑のある場所はわかっているから取り出して判を押した。

 前と同じ紙が、また出来上がってしまった。
 それを綺麗に折りたたんで、鞄に入れ直す。

「おねえちゃん、おかえりぃ」

「愛衣ちゃん、ただいま」

 リビングでそんなことをしていると、寝ぼけ眼でのそのそと寝室から愛衣が起きてきた。
 かわいい私の妹。……憎らしい妹。

「ごはん急いで作るから。食べたら一緒にお風呂入って寝ちゃおうね」

 バイトのない日は、帰ったらご飯を作って愛衣とお風呂に入り、寝かしつける。
 そのあとは翌日の洗い物や朝ごはんとかの下準備をして、お米をセットし、学校の課題を終わらせてから二十三時には就寝する。

 私の毎日は、あわただしく終わっていく。

 真結も凛花も、大溝くんも知らないだろう私の生活は、みんなが想像するよりずっと過酷だ。
 眠っている愛衣のかわいい寝顔を見ていると、思ってしまうときがある。

 この子がいなければ——なんて、ひどいことを。

 登校して朝一番、職員室のドアを開け担任に用紙を手渡すと、用紙をじっくり見つめたあとひどくがっかりした様子になった。
 それ以上私は言うこともすべきこともなくて、「それでは、失礼します」と職員室を立ち去った。

 そして教室へと赴き自分の場所へ着席すると、朝からほんの少しだけ、いつもより騒がしいことに気付く。

 私を通り越して注がれる視線の先に原因がある、ということにも気が付いた。
 その原因となっている人物はそのことに気付いているのかいないのか、例のごとく窓の方を向いている。

 私からは後ろ頭しか見えなかったけれど、普段とは違う彼の姿が窓に反射して映っていた。

 みんながひそひそと話している内容を代弁してぶつけたのは、真結だった。

「大溝くん、マスクやめたのー?」

 SHRが始まる前、私の席に集まって三人で喋るのが日課になっていた。

 今日もいつも通りに凛花と話していると、少し遅れて来た真結が真っ先に大溝くんの変化に気付いて、私たちの会話そっちのけで大溝くんに話しかけた。
 真結のその大きめのひとことに教室が一瞬静かになって、だけどはっとしたかのようにすぐに日常を取り戻す。

 それでもやっぱり気になることに変わりはないみたいで、みんながみんなこっちの方を遠巻きに見ているのがなんとなくわかった。

「……マスクしてなかったらなんかおかしいか?」

 こっちをゆっくりと振り返った大溝くんは机に肩肘をついた横柄ともとれる態度で、その口調も相まって機嫌が悪いように見える。

 薄めの唇は真一文字を描いていて、昨日までの私だったら「感じ悪い」って思っていたはずだ。
 まあ、昨日会話したからそういうわけじゃないってわかるけど。

 それを知っているのは、きっとこのクラスで私だけだろうな。

 大溝くんの口元をよく見れば、口の端がひくひくして震えているのがわかるし、ただ緊張しているのだろう。

 これまでと違ってマスクがないことに違和感を覚えているからか、大溝くんは口元を気にしている様子だったけど。

 それでもやっぱり、マスクはしない方がいいなって感じた。

 意外と男前な顔してるんだから、いままでもったいなかったんじゃない?って思う。

 とりあえず、昨日の今日でマスクを外して来たその行動力には称賛を送りたい。

 それにしても、真結ってほんと物怖じしない性格だ。
 誰に対してもこうだから、本当にすごいなって感心してしまう。

「ううん、マスクしてない方が断然いいと思うよー!」

 真結はきらきらしたまあるい瞳で身を乗り出しながら、大溝くんにそう言った。

 戸惑ったように唇を震わせた大溝くんは小さく「……あっそ」って返事をして、またぷいと窓の方を向いてしまった。

 けれど、後ろから見える耳が薄っすら赤くなっていたから、きっと照れ隠しなんだろう。

 ……マスクない方がいいじゃん、って、私が一番に言いたかったな。

 そんなふうに湧き出た気持ちに、そっと静かに蓋をした。







 東階段、四階の踊り場。

 たまにそこで喋ろうと言ったはいいものの、具体的にいつ話すかなんて決めてなかった。
 たまに、の頻度ってどのくらいなんだろう。

 気晴らしにもなるし、トイレに行くと真結と凛花に告げてから、一応踊り場に向かった。

 いなかったらいなかったで、別にいい。
 私のほんの一時の自由時間になるだけだ。

「よお」

「あ」

 四階への階段を上っていると、大溝くんの声が降り注いだ。

 手すりから上半身をのぞかせて、片手を上げている。
 その姿に、少しだけほっとした。

 ……来てたんだ。

 少しだけ駆け足で階段を上ると大溝くんがまた「よお」と言うから、私も「どーも」と返事をする。

 人ひとり分の距離を空けた、階段の一番上の段。
 そこになんとなく隣り合って腰かけて、沈黙。

 話す練習をしたいって言ったのは大溝くんなのに、一向に話し出す気配がない。
 仕方がないから、話題を振ってあげる。

「マスク、外したんだね」

「おー、昨日言われてたしかにって思ったし。どう?」

「どうって言われても、前よりマシかなーってくらい」

 いいじゃんって言ってあげたかったけど、二番煎じの言葉に意味なんてない。
 私がそっけなくそう言うと「だよなー。やっと人並くらいだよなー」と、口をへの字に曲げてしまった。

 素直にいってあげればよかったと、少しだけ後悔する。

「そういえば、あれ出した?」

 ふと思いついたように大溝くんが言うけど、あれがなんのことだか抽象的過ぎてわからない。

「なに、あれって」

 首を傾げながら聞けば、「ほら、あれだよあれ」なんて名前が出てこないのか延々と唸っている。
 そうかと思えば急にひらめいたらしく「三者面談のやつ! 香坂も紙持ってたじゃん」とこっちを見ながら呟いた。

 共通の話題なんてそれくらいしかないもんね。
 にしても、あまり話題に出したくないものが話題に上がってしまった。

「あー……、出した、けど」

「なにその歯切れの悪い感じ」

 大溝くんって結構、言葉の機微に聡い。
 変に掘り下げてくるから、こっちが誤魔化したのが悪いことのように思えてしまう。

「まあ、出したけど。あんなの、出したって意味ないし」

 吐き捨てるように言った。

「なんで? まあ、たしかに三者面談って面倒だけどさー」

 心底不思議そうな声色で、大溝くんは私の顔を覗き込んだ。
 あまりにもじっと見つめてくるから、たじろいでしまう。

 そして大溝くんのその言葉に、彼は進学するんだと直接言われなくてもわかった。
 当たり前のように進学を考えられるなんて、お気楽で幸せな人生だ。

「……大溝くんは、出したの? ちゃんと」

 これ以上聞かれたくなくて、私は話をすり替えた。
 気にも留めない大溝くんは、あっけらかんとした表情で答える。

「忘れた! 朝すっげー担任に文句言われたわ。後で担任が母さんに電話するって言ってた」

 めんどくせーとぶつくさ言いながらも、なぜか私にはその姿が羨ましく見えてしまう。

 大溝くんと私、似てるところがあるって思ったけれど、根本は全然違う。
 だって大溝くんからは、幸せの匂いがするから。

 そんな自分の気持ちをひた隠しにして、大溝くんに悪態をつく。

「うわ、高校生にもなって親に迷惑かけるとか、ダサすぎ」

「まだ子供なんだから、親に迷惑かけてなんぼだろ」

「……あはは、そうかもね」

 あえてひどい言葉を選んだのに、返り討ちにあったようだ。

 そりゃああんたは、甘えられる環境にいるからそう思うのだろう。
 私は、そうは思えないけれど。

 心が沈みかけたそのとき、予鈴が鳴り響く。
 次の授業まで、あと五分だ。

「予鈴だな」

「うん……」

 十分って、案外短いな。

 同時に立ち上がって階段を下りていく。

「俺、こっちから行くから」

「ああ、うん」

 そう言って大溝くんが歩き出したのは西階段の方。
 教室まで遠回りになる方だ。

 次ここで話すのは、いつになるんだろう。

 そう思いながら私も大溝くんに背を向けると、「また明日、な」と大きくはないけど聞こえる声で、そう言われたのが耳に届いた。







 教室に急いで戻ると大溝くんの姿はまだなくて、次の授業の準備を済ませるために足早に自分の席についた。

「遅かったじゃん」

 凛花が心配そうに「おなかでも壊した?」ってひっそり聞いてくる。

「ごめん。トイレ混んでたから、一階の方に行ってたの」

 それで時間がかかっちゃったと答える。

 大溝くんと喋ってた、なんて言えるはずもない。

 怪しまれない程度の嘘をつくと凛花は特段気にした様子もなく、「ふーん? そっか」と納得して前を向き直った。

 授業開始一分前になると、後ろのドアが開いて大溝くんがやっと席につく。

 よかった、間に合って。
 ほっと胸を撫でおろした。

 大溝くんに目配せすると彼もこっちを見ていた。
 きっと、私と同じことを思っていたんだろうな。







 全ての授業が無事に終わって、今日は愛衣をこのまま保育園へ迎えに行く。

 帰り支度を済ませた真結がこっちへ近づいてきて、いつも通りわくわくした表情でこう言った。

「今日は駅前のマック行ってちょっとだけテスト対策しようよー」

 凛花もいつも通り「いいね」と答えて、その次には流れるように視線が私へと注がれる。

「あー……、ごめん。私、今日も妹迎えに行かないとだから」

 そう言って断るのは、もう何度目だろう。
 きっと片手じゃ足りないくらいだ。

 申し訳なさが胸の内を支配する。

「それなら仕方ないよね」

「また誘うから、次は来れるといいねー」

 凛花と真結はそう言って、さみしそうに眉を下げた。

 私が断ると知っていて、いつも誘ってくれる真結と凛花には頭が上がらない。
 ほんと、誘ってもらえるだけありがたいと思わなきゃいけないよね。
 
「あはは。いつもごめんね。誘ってくれてありがと」

「ううん、お迎え気を付けてねー。また明日ー」

「ありがと、また明日ね」

 笑顔の仮面の裏側で、私はいつも泣いていた。

 手を振りながら、きゃっきゃとはしゃいで教室を出て行くふたりの背中を見送った。

 今日は五限放課だから、時間は十五時半。
 お迎えまで少しだけゆとりがあるから、自分の席に座り直して、今日はまだ開けていなかったSNSアプリを立ち上げた。

 慣れた手つきで、いつも通りのハッシュタグをタップする。

 そしてどんどんスクロールしながら、いつもの写真の人の投稿を探して遡っていく。

 ……あ、あった。

 時間はいつも大体同じ、お昼の十二時半くらい。
 『今日の空』といつも通りのひとことに、写真を添えて投稿されていた。

 雲が点々と映る、灰色の空の写真。
 いまは梅雨時だから、自然とこういう写真になるだろう。
 この人が日本に住んでいれば、の話だけど。

 ふと思い立って、その人のアイコンをタップし、個人ページへと飛んでこれまでの投稿を流し読みする。

 私がこれを見始めるようになったのは一年生の終わりくらいからだ。
 この人はいつからこの写真の投稿をし続けているんだろう。

 どれだけ画面をスクロールしても、同じ文面に空の写真が果てることなく続いている。

 こうして見ると、同じ空ってひとつもないんだなあ。

「……まだ帰らねーの?」

「わっ! びっくりしたー……」

 いつから隣りにいたんだろう。

 いつも放課後になると黒いリュックに荷物を詰めて、すぐに教室を出て行くのに。
 隣りには頬杖をつきながら私の方を見ている、大溝くんがいた。

 辺りを見回すと、みんなもう下校したのかはたまた部活へ行ったのか教室内は空っぽで、いつの間にか私と大溝くんのふたりきりになっていた。

 空は陰っていて、いつもよりほんの少し暗い教室の中ふたりでいるのは、少しだけ緊張する。

「大溝くんこそ、帰らないの?」

「いや、いつもならすぐ帰ってるんだけど。今日はなんだろーな、気分?」

「気分って、」

 お気楽だね、と言いかけてやめた。

 なんかそれって余計自分の首を締めそうで。
 言いかけた言葉を飲み込んだから、喉元からぐうっと変な音が鳴った。

「あ、それ」

「え。な、なに」

 急に大溝くんが突き刺すような声で言うから、肩がびくっと上がってしまった。

「練習するって言ったじゃん。その、なんか言おうとして飲み込むやつ? やめろよ、ほんとに」

 そう言われてどきっと心臓が変な音を立てた。
 大溝くんから言われる言葉に、私は何度びくびくすればいいのだろう。

 だってこれはもう染み付いてしまった私の癖で、そう簡単に治るようなものじゃない。

 素直になる練習と言ったって、思いついた言葉をそのまま言うのとはわけが違う。

 けれど大溝くんに指摘されて、私は自分で思っているよりもたくさん、なにかを我慢しているのかもしれないなと感じた。

 私が言葉に詰まっていると、大溝くんは小さくため息を吐く。

「まあそうなった原因はあるだろーけど。あんた見てると昔のあいつ見てるみたいでさー」

 なんか気になるんだよなと、大溝くんは言葉を続けた。

 『昔のあいつ』——?

 その言葉に引っ掛かりを覚えたけれど、その私の知らない誰かと重ねて見られているのは、少し——いや、かなり気になってしまった。
 昔のあいつって?と聞こうとした瞬間、閉まっていた教室の扉が勢いよく開いた。

 視線を向けると、それは不思議そうな顔をした真結で。

「あれ? 詩央ちゃん……と、大溝、くん?」

 私と大溝くんの顔を交互に見ながら、前の方にある自分の席へと近づいて行った。

「ちょっとね、スマホ忘れちゃってー。取りに来たんだよね。……あ、あったあったー」

 真結は私に説明しながら、机をがさごそと漁り、探していたらしいスマホを取り出した。

「……じゃあ、俺帰るわ」

「あ、うん」

 ふたりきりじゃなくなったからか、否か。
 わからないけれど、大溝くんはそそくさとリュックを持って教室を立ち去った。

「……詩央ちゃん、大溝くんとなにか話してた?」

 いつの間にか近くに来ていた真結に見つめられ、返事に困る。

 そういえば、ふたりで喋る練習をしていることは、誰かに話してもいいのだろうか。
 大溝くんのことだから、さほど考える間もなく「いいよー」なんて言いそうだけど。

 それでも、なんとなく言うのが憚られた。

「大したことは話してないよ」

 結局無難に、それだけ返事をした。
 真結は不思議そうな顔で「そっかー」と言った後、時計を見た。

「そういえば詩央ちゃん、お迎えの時間は大丈夫ー?」

「……! やばっ、行かなきゃっ!」

 あらかじめまとめておいた荷物を持って、急いで立ち上がる。

「真結、またねっ」

「うん、じゃあねー」

 ひらひらと手を振る真結を背に、私は教室を飛び出した。

 机の上に放り出したままのスマホを、忘れたまま——。

「……おはよ、香坂」

「おはよー、大溝くん」

 辺りを気にするような仕草で小声で挨拶してくる大溝くんにつられるよう、私も小さな声で挨拶を返した。

 教室内で大溝くんと喋るなんて、少し前の私には想像もつかなかっただろう。

 相変わらず前髪で目を隠したままの大溝くんだけど、あの日から趣味の悪い黒いマスクはしてきておらず、大溝くんから漂う黒い空気みたいなものは日々薄れてきているように感じる。

 大溝くんと踊り場で話すようになってから、しばらく経った。

 最近変わったことと言えば、こんなふうに教室で大溝くんと挨拶を交わすようになったこと。
 おはようとか、じゃあねとか、たったそれだけの他愛のないものだ。
 
 私から話しかけるわけじゃなく、あくまで大溝くんから。
 みんなに話しかける第一歩として挨拶から始めたいと、大溝くんに言われたのがきっかけだ。

 最初は大溝くんに言われて戸惑った。

 だって、変に目立つことはしたくなかったし、大溝くんに関わることで私も敬遠されたりしたらどうしようと、少なからず思ったからだ。
 自分自身の保身のために、断る言い訳を考えた。

 けれど、短い時間だけど会話を重ねていくうちに、彼も普通の男子高校生なんだと実感した。

 それと同時に彼に対して、私が一番他人に使いたくない言葉が、頭に浮かんだ。
 頭を振り払って、忘れたふりをしたけれど。

 周りがこちらを見る目は最初は形容しがたいもので、しいて言うなら、まるで奇妙なものを見るかのような、疑わし気な目だったように思う。

 何度か凛花やそのほかのクラスメイトに「大丈夫?」なんて心配されてしまった。

 けれど、そんなことが数日続いてしまえばみんなも慣れたようだった。

 ちらちらとこっちの様子をうかがう人が何人かいるものの、そこまで視線が集中することはない。

 大溝くんの悪い噂が広がってはいたものの、このクラスでの実害がこれまでにないことも、理由のひとつだろう。

 だからと言って、彼に話しかけるような強者はこのクラスにいないけど。

 ……そして、もうひとつだけ変わったことがある。
 それは、真結のことだ。

 大溝くんと放課後話したあの日、家に着いてからスマホを忘れたことに気が付いた。
 けれど、愛衣の面倒を見ていなきゃいけないから、翌日学校に行くまで取りに行けなかった。

 画面は開きっぱなしだったはずだから、私の席の近くにいた真結は、もしかしたら私のスマホの中身を見てしまったかもしれない。

 別に、見られること自体は普段だったらなんの問題もない。
 だけどあの時は、開きっぱなしにしていたのがあの鬱々としたSNSのハッシュタグ検索画面だったから、真結に会うまで内心ひやひやしていた。

 真結も凛花も、私の家庭が特殊で複雑なことを、少しだけ知っている。
 だから、そこまで変に思うことはないかもしれない。

 けれど、普段陰鬱な顔をしないようにしている私が、実は裏で病んでいたなんて知られたらと考えると、少しだけ気まずいと思うのは本心だった。

 そこで、真結の態度だ。

 あの日から、真結の様子が少しおかしい。

 どこがおかしいかって聞かれるとはっきりとは答えられないけれど、明らかに前までと違う部分があるのだ。
 それを指摘するのは難しいのに、これまでとは違う不自然さが、私にそう思わせる。

 スマホは、何事もなかったかのように机の上に置かれたままで、それを真結が見たのかはわからない。
 でも、真結はたぶん、見てしまったのだと思う。

 普通友達がスマホを忘れていることに気付いたら、「スマホ忘れて行ったでしょ」とか、会った時に言うんじゃないかな。

 私の席の近くに来た真結は、私がスマホを置いて行ってしまったことに気付かないわけがないから、意図的に話題に出さないのだろう。

 真結の態度がいつもと違う理由が、私のスマホの検索画面を見てしまったから、という理由だったらいいけれど。
 でも、理由はそれだけじゃないような気がしてしまう。

 現に、大溝くんと私が教室で挨拶を交わすのを目撃されてから、どこか態度がぎこちないのだ。

 真結は以前から、大溝くんのことを気にかけている素振りがあった。
 元々誰にでも分け隔てなく接する子ではあったけど。

 あの日の放課後、私と大溝くんがなにか喋っていたことにも気付いているし。
 そこから態度が変わったような気がしてしまうのだ。

 私と大溝くんが小さく挨拶を交わしていることに最初に気付いたのも、真結だった。

 確証はない。

 邪推かもしれない。

 けれど、もしかして、真結は——。







「えー、次に、文化祭についてです。文化祭委員は進行をお願いします!」

 六限のLHRの半ば、いつもよりはりきった朝霞さんの声に、教室内は盛り上がりを見せた。
 期末テストまで残り一週間をきった今日、十月にある文化祭の出し物を決めるらしい。

 今年もまたそんな時期がやってきたのか。

 去年を思い出し憂鬱になっているのはきっとこのクラスで……いや、学校で私ひとりだろう。

 誰にも気付かれないよう、小さくふっと息を吐き出した。

 言い終えた朝霞さんと書記をしていた土井くんと入れ替わるように、文化祭実行委員の凛花とクラスメイトのひとりが教壇にあがる。

「それでは、何をやりたいか周りの人と意見を出し合ってください! 五分後に意見をまとめます!」

 その凛花の言葉を皮切りに、教室の至る所から賑やかな話し声が聞こえてくる。

「期末テスト前なのに、文化祭の準備かあー。なんか急に忙しないねー」

 真結がこちらに近づいてきて、唇を突き出しながらそう言った。

「でも、いい息抜きになるよね」

 真結の言葉を受け、教壇を一旦下りてこちらに来た凛花が、金に近い茶色の髪を耳にかけながら笑って言った。

 たしかに、机に向かい続けるのも息が詰まるよね、ふつうは。
 学校行事は好きだけど、放課後に時間を取られてしまうから、それだけが不安だ。

 出し物が決まったら文化祭委員が企画書を生徒会に提出し、選考が行われる。
 飲食系は例年人気で、校内での出店数も決まっている。
 かなりきちんと企画書を練らないと通らない。

 一次企画で通らなかったら、もう一度クラスで出し物の選定と企画書の提出を行わなければならない。

 その上、飲食の枠は埋まりきっているだろうし他クラスとのかぶりはだめだから、できる出し物は限られてしまう。
 だから最初の企画提出が、文化祭を楽しむための肝なのだ。

 ……なんでこんなに詳しいかって、去年文化祭委員を担当したからだ。

 家の用事があるから遅くまでは残れないと、あらかじめ伝えていた。

 けれど、一年生の時のクラスは部活動をやっている生徒がかなり多くて、どこにも所属していない私ともうひとり、先ほど凛花と一緒に教壇に立っていた根本(ねもと)さんが押し切られて文化祭委員になった。

 去年はそれで、痛い目をみたんだ。
 かなり苦い思い出だ。

 そんな気持ちは一旦胸の内にしまって、私の席の近くに集まって三人でお喋りしがてら、ああでもないこうでもないと意見を出し合った。

「それじゃあ、意見のある人は挙手お願いしまーす!」

 五分の話し合い時間はあっという間に終わり、教室のそこかしこから意見が飛び交い活気づいている。
 出された意見が次々と黒板に書かれていくのを、静かに目だけで追っていった。

 タピオカ、ベビーカステラ、パンケーキ、焼きそば、たこ焼き、チュロス……、今年も飲食系の希望が多いみたい。
 もちろん、私だってやるなら絶対飲食がいい。

 ベビーカステラとか、簡単だしおいしいし、いいんじゃないかな。

 そのほかには脱出ゲーム、お化け屋敷などの意見が上がった。

「じゃあ、この中から多数決を取って決めたいと思いまーす!」

 多数決を取って同票で残ったのは、ベビーカステラとたこ焼き。
 僅差でタピオカだった。

 意見が拮抗していてなかなか案がまとまらない。

 ……ふと、黒板に書かれたラインナップを見て思いつく。

 普段だったら、挙手なんて絶対しないだろう。

 良くも悪くも目立たない、普通の生徒のひとりとしているために優等生に擬態する私は、当たられた時こそ答えるけれど、それ以外ではひっそりとなりを潜めているんだから。

 だけど、前までの自分を変えたいと現に行動に移している人物が隣にいることでいつの間にか感化されたのか、自分の意に反して私の右手はそろりと上がった。

 私が手を上げたことに気付いた凛花が目をまあるくして、こっちを見る。

「お、珍しいじゃん。なに? 詩央」

 凛花のその言葉に急に教室内がしんとして、視線が一斉にこちらへと向けられた。
 そのたくさんの視線にたじろいでしまう。

 目立つのは苦手だ。
 でも、と口を開く。

「……たこ焼きとベビーカステラだったら、一緒にできそうじゃない? 材料は違うけど、ベビーカステラもたこ焼き機で簡単に作れるし。たこ焼き機持ってる人がたくさんいればの話だけど」

 愛衣のおやつに、ホットケーキミックスを使ってたまに作ることを思い出して、そう告げた。
 タピオカまでは、手が回りそうにないけれど。

 緊張していると「いいじゃーん! そうしよそうしよー!」という声が教室から上がった。

「俺んちたこ焼き機あるから持って行くわー!」

「あたしも、あたしもー!」

 数名の男女が機械を持っていると名乗りを上げてくれて、なんとかなりそうだ。

 凛花もこっちを見て親指を立てながら「ナイス!」なんて笑ってる。

 ……言ってみて、よかった。

 緊張で強張っていた体からやっと力が抜け、ほっと胸を撫でおろした。







「文化祭の企画、通ったよーん!」

 長かったテスト期間が終わりを告げ補講期間に入った七月上旬、晴天の今日。

 上機嫌で教室に入ってきた凛花のその言葉に、教室内は色めき立った。

 凛花の言葉に、安心して一息つく。

 飲食ということは、夏休み中に集まったとしても数える程度だろう。

 去年の劇みたいに焦って台本を作って段取りを汲んだり、練習したり、小道具の準備をしたりとてんてこ舞いだったのと違って、今年は夏休みの間に時間をかけて準備する必要はあまりなさそうだ。
 
 ……ほんとに、よかった。

 七月の下旬から始まり八月いっぱいのたっぷりとある夏休み、お盆期間を除いて私に課されるのは、主に普段の家事に加えて愛衣の世話だ。

 去年は保育料が月ごとでかかってしまうからと、私が休みなのをいいことに、お母さんが勝手に愛衣の休園届を出していた。

 私に確認も取らずに勝手に決めてしまったからなすすべもなく、私はクラスの文化祭準備によりにもよってほとんど参加できなかったのだ。
 ……文化祭委員なのに。

 なかなか準備に来れない私にクラスのみんなは優しかった。

 家の用事なら仕方ないよねと、笑って許してくれた。

 ——だけど、聞いちゃったんだ。

 あの日の記憶が、まるで昨日のことのように鮮明に思い出された。







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 陽が落ち始めた夕暮れ時の校舎を、私は走っていた。

 教室の前に辿り着いて、息を整える。

「詩央ちゃんってさあ、」

 そんな言葉が聞こえてきたのは、一年二組、自分の教室のドアに手をかけようとした瞬間だった。

 ぴくっと手が震えて、思いがけず呼ばれた自分の名前に、背中を嫌な汗が伝っていくのがわかった。

 高校一年生の夏休み、全然行けていなかった劇の練習にやっと顔を出せる日ができた。
 ……と言っても、もう練習も終わりかけであろう夕方に。

 クラスのグループラインで、準備の進捗や参加者など大体のことは把握していた。

 私が夏休みの練習に参加できたのはそのときが三回目、夏休みも終盤に差し掛かった暑い日だった。

 協力的なクラスだった。
 部活をやっている人がほとんどだったのにも関わらず、多くの人が部活前や終わった後に練習したり小道具の作成をしていたらしい。

 私と同じく委員をしていた、今も同じクラスで凛花と文化祭委員をやっている……根本さん。
 彼女を中心に多くのクラスメイトが、練習に参加していた。

 私が文化祭委員として仕事できたのは最初の企画案を作成することくらいで、それ以外はほとんど彼女に任せきりだった。
 だから、何を言われても仕方ないと思ってた。

 ……そう、思っていたけれど。
 
 ガラス張りになったドアからひっそりと教室の中を覗き込むと、人影がみっつ。

 先の言葉を言ったのはクラスメイトで、その輪にいるのは根本さんだった。
 根本さんだけには、迷惑をかけるからと家の事情をおおまかに話していた。

 眼鏡の奥で驚いたように目が見開かれた後、香坂さんはできることをやってくれればいいよ、なんてそのときは笑ってくれた。

 ふたりの言葉を受けて困っているように見えたその姿を見た瞬間、息が詰まった。
 そして、続けられる会話に。

「用事があるって言ってたんだっけ? それにしても来なさすぎじゃない?」

「それは言えてる。根本ちゃんに任せすぎだし」

「クラスのみんなも、部活あるけど時間作って来てるのにね」

「グループメッセージ見る時間はあるのに、練習は来られないんだね。変なの」

 憤りの込められた言葉の数々に、胸をえぐられた。

 でも、本当のことだから反論のしようがない。
 根本さんは困ったように口をつぐんだまま、その輪の中にいるだけだった。

「……そもそもさあ、劇になったのって企画がかぶったからでしょ? 詩央ちゃんがもっと時間取れていたら、もっといい案になってうちらの企画書が通ったかもしれないのに……」

「あ、根本ちゃんを責めてるんじゃないよ? 放課後残って企画書作ってたの見てるし」

「詩央ちゃんもやってたのは知ってるけど、結局すぐ帰ってたよね? お迎えとか言ってたっけ。テニスコートから帰るとこ見えてたし」

 ちくりと棘のある言葉がひとりから放たれた。

「……けど、香坂さん、委員引き受けてくれた時、放課後は家の用事があるからって困ってたよね……。私はやってみてもいいかなって思ったからいいけれど……」

 消え入りそうな声で弁護してくれた根本さんのか細い声。
 その言葉に肩が震えて、当時のことを思い返す。

 クラスの考えをまとめて作った企画書は、いい出来だったと思う。
 それもこれも根本さんが放課後に時間を割いてくれたからだ。

 私ももちろん時間の許す限り一緒に頑張ったけれど、根本さんの努力に比べればちっぽけなものだった。
 彼女たちの言う通り、私がもっと頑張っていれば、企画は通ったのかもしれない。

 やりたくもない劇なんてやらずに、夏休み中に集まることもなく、休みを謳歌できたのかもしれない。
 根本さんには、なんの落ち度もない。

 そう思うと申し訳なさ過ぎて、何も言う気になれなかった。

 小道具の一個か二個、それかせめて片付けだけでもと思って来たけれど、こういう言葉を聞いた直後に教室の扉を開ける勇気は、私にはなかった。

「ていうか、そもそもお迎えって、親の仕事じゃない?」

「だよねー?」

「ほんと、どんな親だよって感じ。親の顔が見てみたいわー」 

「なんにせよ、『かわいそう』だよね。詩央ちゃんって」

 吐き捨てられるようなその言葉に、さっと心臓が冷えたのを覚えている。

 悔しかった。

 だって私は、やりたくて家のことをやっているんじゃない。
 お母さんがもっと、頑張ってくれたら……。

 そうしたらもっと、私だって……。

 そんな思いがこみ上げた。

 握りしめた拳は汗でびっしょりだったのに、指先は冷たかった。

 私は結局、踵を返してもと来た道を帰ったんだ。







 『かわいそう』——。

 そう言われたのは、そのときが初めてじゃなく実は二度目だった。

 二回も言われれば、さすがに気付いた。
 そのときに、生まれて初めて「ああ、やっぱりわたしってかわいそうなんだ」とやっと自覚した。

 最初にそう言われた時のことを思い出す。
 たしかそれは、中学校に上がってすぐのことだった。

「親睦会しようよ!」

 クラスの誰かが言い出した。

 近辺三校に通うほとんどの小学生は、その三校の中心部にある学校に集められ中学生になった。
 だから、同じ小学校出身の人とは既に仲がよかったけれど、初対面の人も半数近くいた。

 親睦会。その言葉に反対する人はいなかったように思う。
 もちろん私も賛成していたし、わくわくしていたのを覚えてる。

 担任に許可も取って、お店の予約などはクラスを取り仕切っていた女子二人と男子二人が中心となって、段取りよく進められていた。

 日曜日の十三時からボーリング場で遊んで、その後は近くのファミレスで夕ご飯を食べる。
 簡単な会だけど、クラス内はとても盛り上がりを見せていた。

 私の母親はいまでこそあんなだらしない感じだけど、小さい頃の私はそれを不満に思うことも、ましてや嫌だとも思ったことがなかった。
 というより、今と比べ物にならないくらいしっかりしていたのだ、昔は。

 物心つく前からいない父親の存在を気にしたことがないのは、私が愛情たっぷりに育てられ、幸せな二人暮らしを送っていた証拠だ。

 このクラスの親睦会へ行きたいと言う私の言葉にも、お母さんは二つ返事で快諾してくれた。

 今年三十三歳になる私の母親は、学生時代に私のことを妊娠し、たったひとりで私を育ててきた。
 だけど、それに苦労を感じたことも、寂しさを感じたこともない。

 一日中母親を独占して天気のいい日には公園に行って一緒に遊んだ。
 参観日には休みを取って来てくれた。

 遠くに出かけたりはあまりできないとか多少の不便さはあったけれど、私は不満なんてひとつもなかった。

 だけど、その生活も母親も、突然変わってしまう。
 そう、愛衣が生まれたから——。

 私が小学校高学年の頃、母親のお腹が急に大きくなったと感じた。
 ここに詩央ちゃんの妹がいるんだよと、愛おしそうにお腹を撫でていたお母さんの姿。

 それはとても幸せそうで、見ている私も幸せな気分になった。
 だけど、うちにはお父さんがいないのにどうして?という疑問はずっと消えないままだった。

 そうこうしているうちに、妹が生まれた。
 それが愛衣だ。

 早生まれで人一倍小柄な愛衣は、体調を崩しがちだった。

 結果として、私は行けなかったのだ、その親睦会に。
 行きたかったけど、行けない理由ができてしまったのだ。

 どうしても仕事を休めないと言う母親に代わって、私がその日に愛衣の世話をすることになったから。

 『かわいがってあげてね、お姉ちゃんなんだから。』
 『お母さんのこと、助けてね。お姉ちゃんになるんだから。』

 そんなふたつの言葉を刷り込まれた私は、まんまと母親の都合のいいように育ってしまっていた。
 物分かりが良すぎる子供に、育ってしまったのだ。

 仕事で家にいないお母さんに代わって妹の世話をすること、掃除や洗濯、料理などの家事をすること。

 それらは自然と身についたわたしの生活の一部のようなもので、私がやるのは当たり前のことになっていた。
 周りから憐れまれるようなものでは、決してなかったはずだった。

 これがわたしにとっての普通で、幸せで、誇りなのだと、そのときはそう信じていたからだ。

 お母さんが仕事で大変だから、お姉ちゃんなんだからしっかりしなきゃという気持ちが、当時の私を毎日奮い立たせていたのだ。
 まるで、ボロボロになっても悪役に立ち向かうヒーローのように。

 実際、小さく年の離れた妹はとてもかわいかった。
 きっと、かわいがってあげてねなんて言われなくても、そうしていたと思う。

 たとえ、半分しか血が繋がっていなかったとしても。

 世話をするのは私の仕事、親睦会に行けないのは仕方のないこと。
 そうやって、どこか心に区切りをつけていた。

『ごねんね、行けなくなっちゃった』

 クラス全員が参加するはずだったのに、私が軽々しく行けないなんて言うものだから、大ブーイングだった。

 だけど、妹のお世話をすると言ったら嵐のようだった非難はおさまって、次に言われたのがこれだ。

『かわいそうだよね、詩央ちゃんって』

 ぼそっと呟かれた友達の悪気のないたったひとこと。
 それをたしなめるような周りの声。

 その言葉に、なんでそんなことを言われないといけないのだろうと胸を痛めた。
 そう思ったことがこれまでに一度もなかったわけじゃないけれど、他人からはっきりと告げられたその言葉にショックを受けたのははっきりと覚えている。

 私は私のまま変わってなんかいないのに。
 変わったのは私じゃなく、周囲を取り巻く環境だったのに。

 だから、それからはそう思われないよう、必死で隠してきた。

 家のこと、家に対して不満に思う自分自身のこと、やりたいことも、なにもかも。

 他人に言われて一番惨めになる言葉、そんな言葉をもう二度と言われることがないように——。






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