鈍色の空からしとしとと降る雨の音が、昨夜から開きっぱなしであろう窓から聞こえていた。

 閉めるのを忘れるくらいならエアコンをつけてと何度か書き置きしたのに、今日もこれだ。
 いい加減うんざりする。

 部屋はやけにじめっとしているし、蒸し暑い。

 おまけにダイニングテーブルの上には、明け方食べたらしいカップラーメンのゴミがそのままになっていた。

 せめて汁くらいは、流しでいいから捨てておいてほしい。
 六月のこの時期は、ただでさえコバエが湧きやすいんだから。

 大きくため息をついて窓をぴしゃっとわざと強めに閉めたあと、すぐさまエアコンをつける。
 カップ麺のゴミは、乱暴にゴミ箱へと投げ捨てた。

 そのままの足取りで今度は脱衣所へ行き、洗濯かごからひとつひとつ服を取り出し洗濯機へと放り込んでいく。

「はあ、まただよ……」

 両手に趣味の悪い真っ赤で派手な服を広げ、大きな独り言をこぼす。
 ペラペラのそれは肌触りが良く、それすらもいらいらの原因になる。

 だから、こういう服は洗濯機で洗えないからクリーニングに出してって言ってるのに。

 いらいらしながら、その服をもうひとつあるかごに仕分けていく。

 本当ならこんな手間必要ないはずなのに、言われたとおりにやらない人がひとりでもいると、こういった面倒な作業が増える。

 こういうことをするのは家にはひとりしかいないけど。

 おまけに、服も裏返っているときたものだから、いらいらはさらに倍増する。

 服だけじゃない。靴下や下着、身に着けるもののなにもかもだ。
 畳むときに大変だから裏返ったら元に戻してと、これも何度も書き置きした。
 それでもずっと、直らないまま。

 特にそれが長袖のTシャツやズボンだったら最悪だ。
 全部が綺麗にひっくり返っていたら潔くそのまま干してしまえるからまだマシだけど、片腕だけ、片足だけひっくり返っていると、干すときにも苦労する。

 夏場ならまだ許せるけど、冬場は怒りが込み上げる。

 冷たい衣服のどれだけ冷たいことか。
 想像するだけで寒くなる。

 そもそも水に濡れた衣服を元に戻すのがどれほど面倒かを知らないから、こういうことを平気でできるんだと思う。

 裏返ったままの衣服を元に戻すこと、素知らぬ顔で投げ込まれた洗えない素材の衣服を仕分けること。

 こういういらない作業の積み重ねが後に大きな負担になるって、どうして気付いてくれないのだろう。

 何度も何度も止まる作業に、何度も何度もため息を吐く。
 ここまでが毎朝変わらない、私のルーティンだ。

 前に直接文句を言ったときに「そのまま干してくれればいいよ」なんて笑いながら言われてしまった。

 けど、何事もきっちりしたい私はその感覚を理解できなかった。
 というか、そういうセリフはなにもやらない人が言っていいセリフじゃないと思う。

 やってもらう立場なら、やってくれている人のルールに従うのが筋じゃないのか、って思う。

 諦めきれたら楽なのだ。
 それはよくわかってる。

 どんな素材のものでも、たとえ裏返っていたとしても、かごに入っているものはそのまま洗濯機に投げ込んで洗ってしまう。
 洗った後、その衣服がしわくちゃでも、裏返っていてもそのまま干して、気付けばいいのだ。

 私がきちんとやっているから、まともな服を着られているんだってこと。

 ——そう、できたらいいのに。

 一度だけ、自分の衣服だけ洗ってほかのものには一切手をつけなかったことがある。

 文句は言われないものの、私が洗わない限りそれらはずっとそのままで、どんどん場所を侵食していった。
 結局我慢しきれず、私が洗ってしまったけれど。

 気にならない人なのだ。どれだけ洗濯物が溜まっていても、今日着ていく服があればいい。
 今日着ていく服がないのなら、買ってくればいい。
 そういう人なのだ。
 私がやることに文句もなければ感謝もない。私の母親はそういう人だ。

 足の踏み場すらなくなって私の居住スペースさえ綺麗に保てなくなってしまうから、仕方なしに私が全部やる。
 結局、やらざるを得ない状況になってしまうのだ。

 だからどこにもこの感情の行き場がなくて、毎日同じもやもやを抱えることの繰り返しだ。
 今日はそれに加えてゴミのこともあったから、いつもより乱暴に洗濯機の蓋を閉めてからリビングへ向かう。

「おねえちゃん……?」

 すると、その音を聞いたのか妹の愛衣(うい)が起きてきた。
 いつもより、だいぶ早い時間だ。

「ごめん、起こしちゃったよね」

 腹が立ったからって物音を立てるのはよくなかった。

 少しだぼついたピンク色のパジャマを着た愛衣が、眠たげに目を擦りながらのそのそと近づいてくる。

 十年前に流行った、いまは廃れたキャラクターがプリントされているパジャマ。
 それはかつて私が着ていたもので、いわゆるおさがりだ。

 平均より背の小さな五歳の愛衣にはまだ大きかったようで、袖からは指先しか出ていない。
 着る時に折ってあげたけど、寝ている間に元に戻ったらしい。

 中腰になりながらまた二回ほど袖を折ってあげると、やっと小さなかわいい手のひらが姿を現す。

「どう? お熱は下がったかなあ?」

「ううん、わかんない……」

「そうだよね。ちょっとおいで」

 愛衣をよいしょと抱き上げて、ダイニングチェアに腰かける。

 物心がつく前からあるそれは、私と愛衣の重さにびっくりしたのかぎしっと悲鳴を上げた。
 脚もがたがたしているから、替え時なんだろうけれど……。

「おねえちゃあん……」

「はいはい。ごめんね、ちょっと脇ちょうだいね」

 ぐずる愛衣の火照った頬に触れるとまだ熱く、計らなくても熱があることくらいわかるけど、一応体温計を愛衣の脇に差し込んだ。

 抱えている腕の中はじわじわと暑くなっていって、愛衣に触れている腕や胸元が次第に汗ばんでくる。
 これはまだ相当熱がありそうだ。

 ふうとひとつ息を吐き出し、少し黄ばんだ壁に掛けられている時計を見上げると、時刻は六時。
 そのまま視線を滑らせてカレンダーに目をやれば、今日は木曜日で燃えるゴミの日だったことを思い出す。

 ……ああ、今日はやることがいっぱいだ。

 ちらっと寝室の方に顔を向けるけど、期待するだけ無駄だとわかりきっている。
 そうわかっていても、自然と視線を注いでしまう。

 そんな自分に嫌気がさすのは、もう何度目だろう。
 そうやって何度も期待しては裏切られて、期待した分だけ心が疲弊するのに。

 もうひとつだけ息を大きく吐き出すと、タイミングよくピピピと電子音が鳴る。
 愛衣の脇からそれを取り出してみれば思っていた通りで、体温計が示す昨日と変わらないその温度に、大きくため息を吐きたい気持ちになる。

 だけど、それをぐっとこらえた。

 だって、それは寝室の向こう側にいる人物へのもので、愛衣に聞かせるべきものじゃないから。
 喉元から漏れそうになる不満や文句をいなして、愛衣をあやすように優しく声をかけてやる。

「愛衣ちゃん。今日もお熱あるからお休みしよっかあ」

「やだあ、保育園行きたあい……」

 ……ああ、またはじまった。

 保育園が大好きな愛衣は、行けないとわかるといつもぐずりだす。
 普段気持ちよく園に通ってくれているからこそ、時々あるこういう日がとても負担に思えてしまう。

 私の胸元にぶら下がっている制服の赤いスカーフをぎゅっと握りしめ、行きたいとうわごとのように繰り返す愛衣の目は朧気だ。

 とてもじゃないけどその様子だけで保育園へ行ける状態ではないとわかるのに、それでもなお行きたいとごねてぐずるから厄介だ。

 五歳と言えど、体重はもう十五キロ近くある。

 そのずっしりとした体を座った状態から持ち上げるのはなかなかに大変で、なおかつご機嫌ななめときたものだから、余計に手こずる。
 なんとか愛衣を床に立たせられたはいいものの、今度はそのままぴとっと私の足にしがみついて、甘えるような仕草で上目遣いをする。

 かわいいけれど、憎らしい。
 それが私の本音だった。

「ほら、朝はおかゆと、愛衣ちゃんの好きなバナナケーキにするから、ね?」

 そうやってなんとかなだめて、わたしはやっと朝の仕事に取り掛かった。





 私の朝は、周りにいる『普通の女子高生』と比べたら、だいぶ異質だ。

 起床は必ず五時半。起きたらすぐに寝間着から制服に着替えて、洗面所で身支度を整える。

 肩まで伸びた髪を後ろでひとつにくくった後、一度自室に戻って百均で揃えたメイク道具で申し訳程度の化粧を施す。
 化粧は大事で、この時間だけは欠かせない。そうしないと、周りから浮いてしまうから。

 そのあとは怒涛の家事が待っている。

 まずは洗濯物を回して、その間に簡単な掃除と朝ごはんの準備、それから愛衣のご飯をお弁当箱に詰めて保育園かばんの中に入れる。
 同時に、入れ忘れたものがないかのチェックと、連絡帳の確認をもう一度行う。

 そんなことをし終わるのとほぼ同時に洗濯機が私を呼ぶ音が鳴るから、ばたばたと洗濯物を干す。

 それらすべてが終わる時刻は大体七時で、妹を起こす時間になる。
 七時までに一日の家事をあらかた終えていないと、帰ってきてからが大変だから朝は本当にてんてこ舞いだ。

 そのあとからは、主に妹のお世話。
 ご飯を食べさせお着替えさせて、身なりを整える。
 母親譲りのふわふわの猫毛だから、毎朝寝ぐせを直すのに苦労している。

 それらが全部終わったら学校へ行きがてら愛衣を保育園まで送って、私はそのまま登校する。
 それが私の日常だ。

 今日のようにイレギュラーが発生すると、ひとつやふたつできないことが出てきてしまうけど、残されたタスクは全部帰ってきてからの私にのしかかる。
 だからできるだけ、朝は早起きするのだ。

 そしてこういうイレギュラーが発生した日、私の頭を悩ませる要因がもうひとつだけある。

 それは寝室の向こう側にいる人物で、私のありとあらゆる悩みの元凶でもある。

 ダイニングから続く洋室へと今日何度目かわからない視線を投げ、眠ってしまった愛衣をリビングのふたり掛けソファに寝かせた後、静かにその扉を開く。

 この部屋の中は、いつでも真っ暗だ。
 光が差すと起きてしまうからと、わざわざ一番高い一等級の遮光カーテンを選んで取り付けたこの部屋は、家の中でも一番日差しが当たっていい部屋なのに。

 毎度、ため息を吐きたくなる。

 真っ暗な部屋の中央には一組の布団が敷かれていて、そこを取り囲むように派手な服や時には下着、カラフルな愛衣のおもちゃが広がっている。
 まるでカオスだ。
 こんな使い方をするならば、私の部屋と交換してほしいくらいだ。

「お母さん……」

 本来ならば声をかけずに登校する。
 だけど、仕方なしに昨日と同じように今日も声をかけた。
 愛衣が保育園に行ける状態ではないから、私が学校に行っている間見ていてもらうためだ。

 こんもりと盛り上がる掛布団の中にいた人物は私の声掛けにものともせず、いまだに寝息を立てている。
 これだけで起きないことなんて重々承知だけど、彼女の寝起きの悪さに腰が引けてしまうのだ。

「お母さんっ」

 今度はさっきより大きな声で、その体をゆすりながら言う。
 すると大きな布団の塊は気怠げにもぞもぞと動き出す。

「なあに、詩央(しお)ちゃん……。起こさないでよお」

 さっき帰ってきたばっかなんだからと、舌足らずに言いながらこっちを見る目は開いてない。
 おまけに睫毛はひじきのようになって目元に滲んでいる。
 また化粧を落とさずに寝たらしい。

「さっきって言ったって、もう四時間も前でしょ。それより今日も愛衣が熱出して保育園行けないから、昼間はよろしくね」

「ええー……またあ?」

 ぼりぼりと頭を掻きながらむくりと起き上がってぼーっとしている姿を見ると、本当に母親なのかと疑いたくなる。
 まるで私と立場が逆転してしまっている。

「保育園に休みの連絡、ちゃんとしておいてよね」

「それくらい詩央ちゃんがやってよお」

 甘えるように紡がれたその言葉に、むっとする。

 『それくらい』と言うのならば自分でやってほしい。
 喉元までそんな言葉がでかかったけど、ぐっと飲みこんで「はいはい」とぶっきらぼうに返事をした。

「とりあえず私はもう出るから。愛衣のことよろしくね」

「はあい……」

 まだ目を閉じたまま座りながら呆けている母親を尻目に、ソファに横たえたままの愛衣の元へと近寄った。

 私の気配に気付いた愛衣はうっすらと目を開けて、ぼーっと私を見上げている。
 まだ眠いみたい。せっかく寝ていたのに、さっきは起こしちゃって悪かったな。
 妹に目線を合わせてしゃがむと、「行っちゃうの?」とか細い声。

 そうだよね。しんどいときって、誰か傍にいてほしいものだ。
 ……そんな感覚、私はもう忘れちゃったけど。

 まだ熱の残る愛衣の頬を優しく撫でる。

「お母さんがもうすぐ起きてくるから。私もすぐに帰るね」

「ぜったいだよ」

「うん、絶対」

 私がそう言うと安心したように目を閉じて、すぐに寝息が聞こえてくる。
 「じゃあ、行ってきます」と小さく声だけかけて、家を出た。