指先に春色をのせて


 あの日から二日経ち、今日は文化祭で提供する、ベビーカステラとたこ焼きの試作を作る日だ。

 浮足立つ心を抑え込みながら調理室に足を踏み入れると、異様な光景が広がっていた。

 この人は、何度クラスをざわつかせれば気が済むのだろう。

 まあ、騒がせようと思ってやっているわけじゃないと知っているから、私はあえて気にしないふりでもしてやり過ごそう。

 ……そう思ったばかりなのに、調理室に入ったばかりの私を目ざとく見つけた興奮気味の凛花と真結に見事に捕まった。

「ねえねえ、大溝ってあんな顔してたの!? 結構ビジュよくない!?」

「あはは、凛花ちゃんすごいテンション高いねー」

「だってこれはそうなるでしょ!? ねっ、詩央もそう思うよね!?」

 真結との温度差が会話から浮き彫りになり、それがより一層凛花の興奮度合いを表わしている。

 険悪な雰囲気だったのにあれはどこへ行ったのだろうか。

 そう思えるほど大溝くんをべた褒めする凛花に、苦笑する。

 だけどそうなってしまうのもわかるから、苦笑いで返すしか私にはできなかった。

 いまもなおちらちらと視線を送る凛花の視線は、大溝くんをとらえたままだ。

 だけどそれは凛花だけに言えることじゃなくて、クラスの女子、いや男子もみんな、大溝くんを見てそれぞれが思い思いの表情を浮かべていた。

 主に女子は凛花のような熱い視線を送り、男子の数名は羨望と嫉妬の入り混じった目で彼を遠巻きに眺めていた。

 相変わらずクラスの輪に馴染めていない大溝くんは調理室内にはいるものの、窓辺に寄りかかって外を眺めていた。

 ジョギングを欠かさないと言っていた大溝くんは体格もよく、元々の高身長に相まってスタイルもとてもよく見えた。

 それすらさまになるから、注目の的になるのも致し方ないと思う。

「あの変な黒いマスクしなくなってだいぶマシになったと思ったら、とんでもないもの隠し持ってたなー、大溝」

 モデルばりのポーズを決めているかのように見える大溝くんを横目に、「あいつただのイケメンじゃん」と凛花はそう呟いた。

 私も「たしかに、想像できなかったよね」と大溝くんの方を見ながら話す。

「あんな邪魔くさそうな前髪の下が、あんな綺麗な切れ長の目だとは思ってなかったわー」

 ため息交じりに感嘆の声を漏らす凛花は、誰が見ても納得の男前な大溝くんに心酔しているよう。

 あの前髪で隠れたおでこの下に大きな傷跡があることを知ったら、今度はみんなどんな反応をするんだろう。

 そんなことを思いながらちらりと大溝くんに目配せすると、彼も私に気付いたようだった。

 周りに気付かれないように、組んだ腕の片側の手のひらを軽く上げて合図してくれたのがわかった。

 そのことに心臓がどきっと小さな音を立てて、秘密のやり取りみたいな仕草に心が弾む。

 この感覚がなんなのかよくわかっていないけど、嫌な感情ではないことはたしかだ。

「……詩央ちゃんって、」

「なに? 真結」

 相変わらず綺麗なウェーブを描く髪は、今日は高い位置でひとつにまとめられている。
 変わったのはその髪色だ。

 夏休みに入って染め直したのか、頭のてっぺんから毛先まで綺麗なアッシュグレーに染まっている。
 真結の顔立ちに似合うそれは、より彼女の魅力を引き出しているようだった。

 揺れる毛先が馬のしっぽのように見えるから、ポニーテールって言うんだっけ。
 真結の動きに合わせてふわふわと軽やかに揺れる毛先は、踊っているようだった。

 首を傾げて続く言葉を待つけれど、ピンクに塗られた唇はなかなか開かなかった。

「ん? 真結、どうかした?」

 もう一度そう尋ねると、小さな唇がやっと動く。

「詩央ちゃんって、大溝くんと……、」

 『大溝くん』

 そのワードに驚く。
 その言葉の続きは、なんなのだろう。

 そう思ったけれど、「じゃあみんな、一回こっちに集合してー!」と、言いかけた真結の言葉を遮るように、凛花の大きな声が室内に響き渡った。

 室内にばらけていた総勢十名ほどのクラスメイトが、ひとつの調理台に集まる。

「……ごめん、真結。あとで話そうね」

 眉を下げて心なしか不安げな表情をしている真結は、いつもの真結ではないような気がした。

 そういえば、真結が大溝くんに好意を寄せているんじゃないかって邪推していたこともあったっけ。
 
 『大溝くんと……』に続く言葉は、もしかしたら、それに関係があるのかもしれない。







 カショカショと軽快な音を立てながら、泡だて器で材料を混ぜ合わせていく。

 牛乳に卵を加えよく混ぜたら、ほんの少しのみりんとはちみつを加えさらに混ぜる。

 ここの混ぜ方は均一になるように、だけどできるだけ泡を立ててしまわないようにゆっくり混ぜるのがこつだ。

 綺麗に混ざったらホットケーキミックスの粉を入れ、ゴムベラに持ち替えて練らないように混ぜていく。
 そうするとつやっともったりした生地ができあがる。

「香坂ちゃんて、お菓子作りもできるんだねー」

「ほんとほんと。手際もいいし。家でよく作ったりするの?」

 ほとんど会話したことのないクラスメイトが、感心したように周りに集まって話しかけてきてくれる。

「えっと、小さい妹がいてね、たまに作るんだよ」

 数々の誉め言葉に照れくさくなって、手元を見つめたまま答える。

「えー、もしかして照れてる? かわいー」

「香坂ちゃんとあんまり話したことなかったけど、改めてこれからよろしくね!」

「うんっ。こちらこそ、よろしく」

 文化祭準備って、本来はこういうものなんだ。
 和気あいあいとして活気があって、楽しくて。

 新しい交友関係も広がる、素敵な場だ。

 去年体験することができなかったから、余計そう思うのかもしれない。

 ふと気になって大溝くんの方を見ると、彼はたこ焼きの生地作りをしている。

 みんなから一線を引かれながらも声をかけるクラスメイトが数人いて、ぶっきらぼうながらにも彼なりに頑張っているようだ。

 ……よかった。

 そう安堵していたのに。

 たこ焼きもベビーカステラもあとは焼くだけになりいざこれからというとき、スカートのポケットに入れていたスマホが着信を告げる。

 ……いやな予感がする。

 こういうとき大抵邪魔してくるのは、私の人生でたったひとりしかいない。

 心に生えた羽は、こうしていとも簡単にむしり取られてしまうのだ。

 スマホに残る不在着信の文字に、舞い上がっていた私の心は地の果てまで転がっていく。







 夏休み中だから校舎には人がまばらで電話する場所なんてどこだってよかったはずなのに、足は勝手に東階段の踊り場へと向かっていた。

 四階までの階段を上りきり、スマホの画面をもう一度見る。

 何度見てもその不在着信の文字は消えない。

 どうしていつもいつも、大事な時に水を差すのだろう。

 そして、あんなことがあってから私たちはまともな会話もしていないのに、どう育ったらここまで無神経に電話をかけてくる気になれるのだろう。
 どうして私を頼ろうと思うのだろう。

 自分の親が相手なのに、そう思わずにはいられない。

 電話になんて気付きたくもなかったし、出たくもない。
 けれど、それがもし愛衣に関係することだったら?

 公園に行くと言っていたから、はぐれて迷子になったとか?
 最悪の場合は事故にあったとか?

 そんな連絡かもしれないと思うと、かけ直さないなんて選択肢は残されていなかった。

 仕方なしに不在着信の履歴から先ほど電話をかけて来た『お母さん』の文字をタップし、かけ直す。

 数回のコール音の後に、「……詩央ちゃん?」と、こちらを気遣うような声が聞こえてくる。

「……なに」

 思いのほか冷たい声が出た。
 私の心はこんなにも荒んでいるのにいつもと変わらない口ぶりに聞こえるお母さんの声に、爆発しそうだ。

『あの、大したことじゃないんだけど、愛衣ちゃんがいつも使っているお弁当箱って、どこにあるのかなって……』

 消え入りそうな言葉尻。
 大したことじゃないと前置きされた時点で、どうせくだらないことだろうと大方察しはついていた。

 けれど、続けられた言葉のあまりのくだらなさに、私はこれ見よがしに大きくため息を吐いた。

「……そんなことも知らないの? 母親なのに?」

『……』

「そうやってなんでもかんでも、私のことを当てにしないでっ!」

 勢いよくそれだけ言って、電話を切る。

 はたから見たら私は、ただのヒステリー女に見えるだろう。
 ……なんだか、バカみたいだ。

 いままで我慢してきたものもなにもかも、この前から抑え込むことができずにいた。

 あれだけため息にかえて言葉に出すのは控えていたのに、一度空いた蓋は閉まりきることなく、隙間からとめどなく文句という名の液体が涙に変わって流れ落ちてくる。

 もういやだ。

 我慢ばかり強いられるこの生活も。

 なんにもできないお母さんのことも。 

 きつい言葉を吐き捨ててしまう自分のことも。

 もう本当に、なにもかもいやだ……。

 階段に膝を抱えて座り込む。
 私の嗚咽する声だけが、しばらく辺りに響いていた。

 靴の裏が地面を擦る音で、誰かが近づいてくるのが分かった。

 こんな場所に来るもの好きは、私の知る中でひとりしかいない。

「なにがあった? 香坂が戻って来ないから、みんなが心配してる」

 すすり泣く私の上から言葉が降ってくる。

 どうしてか、大溝くんには見られたくない部分を見られてしまう。
 こんな私、誰にも知られたくなんかないのに。

「……!」

 すると、ふわりと私を包み込むようにして、抱きしめられる。

 丸まった膝ごと、すっぽりと。

 そのことにびっくりして一瞬涙が止まるけど、それも次には意味を成さなくなる。

「泣け泣け。ずっとそうやってため込むから、こんな風になっちまうんだよ」

 私をゆるく抱きしめながら、とんとんと子供をあやすように背中を叩かれる。

 それを皮切りに、とめどなくまた涙が零れた。







 擦った目元は赤く腫れているだろう。

 クラスに戻れるわけもなく、途方に暮れる。
 一応体調が悪いとメッセージだけ送ったけれど、気付いてくれる人がいるかは疑問だ。

「おさまった?」

「……うん、ありがと」

 どれくらいそうしてくれていたのだろうか。

 すごく長い時間だったような気もするし、短い時間だったような気もする。

 抱きしめられた体が離されて外気に触れると、名残惜しさのようなものを感じてしまう。

「目、真っ赤になってる」

「あんまり、見ないで」

 急に恥ずかしくなってそう言うと、ちょっと来いと腕を引っ張られた。

 触れられたそこから大溝くんの体温が伝わって、気恥ずかしい。

 胸もどきどきする。
 さっき抱きしめられたその名残だろうか。

「……ここって?」

「俺がよく来る場所」

 大溝くんに引っ張られ、人を避けながら連れてこられた場所は中庭を抜けた先。

 小さな森のようになっているその場所には、ぽつんと置かれたベンチだけがある。

 誰からも忘れ去られたような、静寂をまとう場所だった。

「いつもひとりで、ここで飯食って寝てた」

 そう言って慣れたように古びたベンチに座り、隣りを手で叩かれる。

 来い、ということだろう。

 遠慮気味に少しだけ間を空けて座ると、木の軋む音がする。

 上を見上げれば木々の隙間を縫って、木漏れ日がさす。

 なんて綺麗な場所だろうと、そう思った。

 ——パシャ。

 また例の音が聞こえて隣りを見れば、写真を撮り終えた大溝くんは満足そうな顔でそれを眺めている。

 それきり、大溝くんはなにも喋らなかった。

 私が喋り出すのを待っているのかもしれない。

 ……ううん、本当は私が聞いてほしくて、そう思いたいだけなのかも。

 見た目に反して優しい大溝くんは、たとえ聞きたくなくても、話せば親身になって聞いてくれるのだろう。

 そう思ってあの日のように、彼に話し出した。

 進路のこと、お母さんと喧嘩をしたこと、一方的にひどいことを言ったこと。

 彼は言うだろう、謝ればいいと。
 たったそれだけのことだと。

 案の定、「悪いと思ったんならそう言えばいい」と、正論を振りかざした。

 そうできないから悩むのに。

 だけど大溝くんの言っていることは正しいから、ぐうの音も出ない。
 それが一番正しいのは、私だってわかってるんだ。

「素直になる練習だって言っただろ」

 そう言われても、急にはなかなか難しい。

 だって、言っても言っても、伝わらないことの方が多かった。

 窓を閉めてとか、ゴミは捨ててとか、服は脱ぎ散らかさないでとか。
 そんな些細なことでさえうまく伝わらないのに。

「何回でも言えばいいじゃん。書き置きだっけ? それもしつこいくらい、何回でも書けばいいじゃん。言うのなんてタダなんだから」

「そうかもしれない、けど」

 いつの日からか、私にとって伝えることは、代償つきになった。
 ひとつなにか伝えるたびに、減っていくのは私の心で。

 本当ならタダなのに、そうなってしまったのは諦めが早い自分のせいでもあるのだろう。

 本当にため息ものだ。

 そんな私の様子に上を見ながらうーんと唸って、大溝くんはいろいろと考えてくれるけど、こればかりは私の勇気の問題だ。

 正直、声をかける勇気すらないのだ。

 お母さんの目に私を映してほしくないとさえ、思うのだ。

「文化祭、来てもらったら。言えなくてもチケットくらい渡せるだろ。そこで謝ったら、ごめんて」

「渡せないよ……」

「いや、目につくとこに置いとくとかさあ」

「……そうだね」

 ほかになんかあるかなと大溝くんは考えてくれるけど、それ以上いい案は浮かびそうもなかった。

「はあー。もういざとなったらチケット投げとこ」

「投げやりだなあ。でも、それがいいと思う。運任せだけど」

 運にもすがりたいんだから、ほっといてほしい。

 さわさわと木々のこすれる音が、ほんの少しだけ涼しさを連れてくる。

「やっぱりさ、香坂は俺から見たら、あんな感じ」

 そこにはあの日と同じように、周りからはぐれてしまった早咲きの一輪のコスモスがひっそりとたたずんでいた。

 あんなふうに風に揺られてひとりでいられたら、幸せだろうと思う。

 本当に、大溝くんには私とこれがどんなふうに見えているのか、見当もつかない。
 私とあの花の、どこに似通った部分があると言うのだろう。

「なんか、寂しげなのに凛としてるところ。だけどたまに隠しきれなくて、さみしそうに揺れてるところ。そっくりじゃね?」

 そう、なのだろうか。
 私は大溝くんに、そんな風に見えているのか。

「それに、ああいう淡い色合い? 香坂に似合う気がする」

 恥ずかしげもなく言う大溝くんはぽつりとそう言った。

 そう言われた私は、恥ずかしさでいっぱいなのに。
 どうしてそう、いつもストレートに言えるんだろう。

 その勇気を、私に少しでいいから分けてほしい。

 変わらず上を見ている大溝くんの横顔はやっぱり眩しくて、うまく見つめることができなかった。

 

 夏休みが明け、今日から九月だ。
 いつも検索するハッシュタグをタップする暇もないほど、あっという間に長いはずの夏休みは駆け足で通り去っていった。

 教室にはいつもと少しだけ違う風景が広がっている。

 私の席の横、いつもはひとりで座っている大溝くんの周りに数人、クラスメイトがいるからだ。

「大溝がこういうやつって知ってたら、もっと早く話しかけたのにな」

「案外普通だよな、顔面は普通じゃねーけど」

「あ? 怖いって意味かよ?」

「違うわっ! 顔面偏差値高いって言ってんの!」

「よくわからんがありがとな」

「うっわ、ストレートに受け取るのかよ!」

 そんな風に軽口を叩き合っている。

 夏休みの間に数度あった試作という名のクラスの集まりすべてに参加した大溝くん。
 容姿が変わったのも相まって、クラスメイトから話しかけられることが増えたみたいだった。

 最初はぎこちなかった受け答えも随分上手になり、二か月前とは見違えるようにクラスに溶け込んでいた。
 そして、彼が馴染む極めつけになったのは、あれだろう。

 その時のことを思い出して、くすりと笑ってしまう。

 試作一回目のあの日、泣きはらした目で戻るわけにはいかなかったから、だいぶたった後に調理室へふたりで戻った。
 調理は既に終わっていて、ちょうど試作を食べようというときだった。

 私たちに気付いた凛花が私の体調を心配して声をかけてくれて、できあがったベビーカステラとたこ焼きを渡してくれる。

 それは同じように大溝くんにも渡された。

 それをひとつ、大溝くんが口に放り込んだあとだった。

「あ! それハズレのやつ!」

 と、クラスの誰かが叫んだ。

 大溝くんに渡されたのは遊びで作った罰ゲーム級のたこ焼きで、ワサビとタバスコが入ったものだったらしい。

 別でよけてあったはずなのに、間違って大溝くんに渡したらしかった。

 一歩遅く口に含み咀嚼したあとだった大溝くんの顔は、辛さで瞬く間に真っ赤になり、のたうち回っていた。

「誰だよ、こんなからし爆弾作ったやつ!」

「いや、ワサビな」

 反射的に言ったのだろうその言葉に突っ込み返され、あっという間に室内は笑い声で満たされた。

 「大溝の顔、赤すぎだろ!」とか、「おまえって澄ました奴だと思ってたけど、めっちゃおもろいじゃん」とか。
 そんな言葉をかけられていた気がする。

 きっかけは本当に些細なことだった。
 そんなんでいいの?って思ってしまうくらいあっさりと、彼はそこからあっという間にクラスに溶け込んだ。

 私としてはそんなゲテモノを食べさせられた大溝くんがかわいそうだったけど、結果としてクラスメイトと話せるようになったのだからよかったなと思うことにした。
 
 あの日から彼はすこしずつ普通の会話ができるようになり、今ではもう立派なクラスメイトの一員だ。

 そんなことを思いながら隣りに腰を下ろすと、私に気付いた大溝くんが「よお」と片手を上げて挨拶してくるから、私も「おはよ」と返した。

「なあ、香坂さんは知ってたの? 大溝がほんとは『怖くない』って」

 そう言ったのはクラスの男子。

 私は「うん、たまたまね」と、さらっと返した。

 あの日、大溝くんと一緒に調理室へ戻ったこともプラスされ、私もなにかと大溝くんのことで話しかけられることが増えた。

 興味なさそうに「へえ~」と彼は返事した後、しきりに大溝くんに話しかけている。
 それを見て、心から「よかった」と思った。







「まだ冷戦中?」

「……そうだけど、なにか」

「いや、なげーなと思って。俺はそんな喧嘩、親としたことないからさ」

 九月も下旬に入ったというのに、いまだ私を取り巻く環境は変わらないまま。

「……大溝くんはいいよね、いま楽しいでしょ」

 自分ばっかりいい方に変わっちゃってさ。
 それはいいことだし、喜ばしくもある。

 けれど、私には眩しすぎた。

 どんどん大溝くんに置いて行かれてる気がして。

 大溝くんは変わった。

 変わらないのは、私だけ。

 というか、クラスに馴染んだ今、もうここで話す必要もない。

 大溝くんにとって、私はもう必要なくなったのだ。

 喜ぶべきことなのに素直にそうできないのは、この時間が私にとって大事なものになっていたからだろう。

 そして、思ってしまったのだ。

 大溝くんのいいところを知るのは私だけじゃなくなったんだな、なんて。
 それをさみしいと、思ってしまったんだ。

 まるで、大溝くんを独占したいみたいじゃない。

 ……ないない、そんなこと。
 あるわけがない。

 喋るようになってたった数か月だ。

 恋をしたことがないから、勘違いしているだけ。

 ……そうだよね?

 わけもなく自問自答する。

 いつも通りあっという間に予鈴が鳴る。

 これが聞こえたら立ち上がる、それはもう慣れた動作になっていた。

「……大溝くん、もうここに来る意味ないでしょ」

 いつもなら黙ってお互い反対側に歩き出すけれど、なぜだか今日は名残惜しい。
 どうしてか言葉を紡いでしまう。

「意味?」

「だって大溝くん、もうクラスで普通に喋れるじゃん……」

 なに拗ねたようなことを言っているのだろう。

 自分でもおかしいと思う。

「でも、香坂のはまだ終わってないじゃん」

「え……?」

「素直になる練習」

 それができるようになるまで延期と、大溝くんは笑った。

 ……まだここでふたりで過ごせるんだと思うと、私の胸はじわっと熱くなっていく。

 大溝くんは私の冷えた心を温める、カイロみたいな存在だと思う。

「言えるのが一番いいけど。チケットだけは置いといてやれよ」

「うん……」

 大溝くんは、私がこの場所を卒業することを望んでいるのだろう。

 もう少しこの時間が続いてもいいと思っている私に気付かずに。

 





「やっぱり詩央ちゃんって、大溝くんの秘密知ってるよね」

「え……?」

 驚く声が口から漏れた。

 あのSNSに上げられる写真の秘密をもここで突然知ることになるのだから、無理もないことだ。

 今日の放課後時間ある?と真結にたずねられ、二十分だけならと答え、その時間がやってきた。

 教室内にまだ何人かクラスメイトが残っているけれど、彼女たちは盛り上がっていて、こちらを気にする素振りはない。

 戸惑う私に真結は笑って、困らせるつもりはないのと謝った。

「どうして……?」

 どうして、そんなことを聞くのだろう。
 どうして、そう思ったのだろう。

 思いつく言葉はいくらでもあるのに、そのどれも口に出すことができなかった。

 そんな私の様子に、真結は思いがけない言葉を紡いだ。

「大溝くんがああなったのは、わたしのせいだから」

 悲し気に目を伏せた真結が、次にスマホを開いて私に見せてくれる。

「え、これって……」

 開かれたそれを見ると、映っているのはいくつもの写真。

 どれも全部、私には見覚えがあった。

 あのハッシュタグで投稿されていた写真が一覧となって、いま目の前にある。

 ……けれど、その写真のいくつかを、私は違う場所でも見ている。

 そう、大溝くんが撮ったのと同じ写真だ。

 切り裂かれた雲の隙間に見える真っ青な空の写真、最近見たばかりの、木々の隙間から落ちてくる木漏れ日の写真。

 なぜそれがここにあるのだろうと、心臓が歪な音を立てた。

 私がそれを一通り見たことを確認した真結はスマホを閉じ、丸い目を細めて言った。

「……私が『ダンデ』だよ、詩央ちゃん」

 告げられた言葉に、大きく目を見開いた。
 獅子王の獅子からライオンを思い浮かべ、タンポポを英語でダンデライオンということから、そうつけたそうだ。

「詩央ちゃんのこと、仲間だと思ったんだ。周りに合わせるように相槌だけ打って笑うのが、昔のわたしみたいだって思った」

 私の隣りにある大溝くんの席にしれっと座るその仕草。
 平然と話しかける真結の姿。
 それらが一連の流れとなって、私の中で繋がっていく。

 ……そっか、大溝くんと真結は、元々顔見知りだったんだ。
 それも、だいぶ仲のいい。
 大溝くんが以前言った『昔のあいつ』は、真結のことだったんだ。

 その事実は私の心を鉛のように重くした。

「詩央ちゃんがスマホを忘れていったあの日……、ごめんね。画面が見えちゃって。それで、やっぱり詩央ちゃんはわたしと同じだって思ったの」

 静かに真結は話し続ける。

「大溝くんはね、なんて言えばいいのかな、わたしの憧れなの。きっと詩央ちゃんは知ってるよね。大溝くんの、額のこと」

「うん……」

 私はいまから、なにを聞かされるのだろうか。
 そう身構える私とは裏腹に、真結は足をぷらぷらさせながら、普段彼がそうするように窓の外を見ながら話し始めた。

「わたしと大溝くんは小学校から一緒で、傷は、その時のなの。わたしって、こんな感じでしょ? 詩央ちゃんは優しいから、そんなことは思わないかもしれないけど、聞いてね。わたし小さい頃は自信過剰でね。かわいいかわいいって育てられたから、ほんと素直にそう思って育っちゃって。クラスの子たちに疎まれてたんだよね。ぶりっ子だとか、男子にだけ媚び売ってるとか」 

 たしかに真結は自分のかわいい部分を生かすのがうまいと思う。
 化粧も髪型もネイルも、その全部が彼女に似合っていて、真結の元々のかわいさを引き立てているからだ。

 それを媚びを売っているとは私は思わない。
 いつも可愛く着飾る真結を羨ましいと思っていたくらいで。

 そして『そう思って育った』の部分には、私と似通ったものを感じ取った。
 
「でも、わたしも負けん気が強かったから言い合いになって、しまいには取っ組み合いの大喧嘩になって。で、わたし、つきとばされちゃったんだよね。止めようとしてくれた大溝くんにぶつかって、私を受け止め切れなかった大溝くんも一緒に転んじゃって。大溝くん、思いっきり棚の角におでこをぶつけたの」

 窓辺に映る真結の表情ははっきりと読み取ることはできない。

「血だけになってね、それでも喧嘩なんてやめろって大騒ぎするから、そのうち先生が来てね。……誤解、されたんだ。わたしも大溝くんと同じで棚にぶつかってておでこから血が出てたんだけど、それを見た先生が大溝くんが問題起こしたって、早とちりしたの。クラス内で誤解は解けたけど、結構大きな騒ぎになったから、隣りのクラスまで聞こえててね。それに尾ひれがついて回って、いつの間にか大溝くんは孤立したの」

 そこでやっと、真結はこっちを見た。
 彼よりだいぶ小さなおでこに残る小さな傷跡を、真結は見せてくれた。

「わたしのせいなんだ。大溝くんが孤立したの」

 その声はひどく悲し気だ。

「大溝くんの様子が変わっていったことは、気付いてた。でも、その騒ぎがあってから、わたしも今まで以上にクラスの女子にいろいろ言われるようになっちゃって。わたしも同じように孤立した。そのまま中学に上がったけど、噂ってどこまでもついてくるんだね。わたしたちずっと、孤立してた。事情を知らない誰かに話しかけられようものなら当たり障りなく笑い返して、いつしかそれが癖になった。きっかけなんて些細なくだらないことだったのに、たったあれだけのことでこんな風になるなんて、思ってなかったの」

 それは私にも身に覚えがある。
 同じような時期に同じような経験をしていたんだと知り、急に真結が自分に近い位置に降りてくるような感覚がした。

「ふたりで喋る機会があって、そのときに、大溝くんは大溝くんのまま変わらないと思ったの。そのときからなんだ。こうして空の写真を送ってくれるようになったの」

 あの日から大溝くんは、欠かさず写真を真結に送ったらしい。
 元々空を見るのが好きなんだそうだ。

「『毎日同じ空はない。だから、この空みたいに明日はなにか変わるかもしれない』って。まるでおまじないみたいだよね。それをね、毎日投稿してたの。わたしは高校に入って運よく凛花ちゃんと友達になれて、二年生になって詩央ちゃんとも友達になって。もう大丈夫って思えたから、写真、もう終わりにしようって言った」

 見てみてと言うから、自分のスマホでSNSのアプリを開く。

 忙しさから開けてすらいなかったそこを開くと、だいぶ前から更新が止まっていた。

「やめてもらおうと思った理由はもうひとつあるけど、知りたい?」

「え、うん……」

 戸惑いそう尋ねると、真結は口を開く。

「だって詩央ちゃん、大溝くんのこと好きでしょう?」

「……っ!」

 自分でも整理のつかない感情に突然名前を付けられたその瞬間、私の頬は燃え上がるように熱くなった。
 それを見て真結は笑う。

「詩央ちゃんのそんな顔、初めて見た。でも、大溝くんと関わるようになってから詩央ちゃんの雰囲気が少しだけ変わったから、そうなんじゃないかなって思ってたよ」

 くすくす笑う真結に、私の心臓はどこどこといつもより早いリズムを刻む。

 ……好きって、私が、大溝くんを?

 何度頭で反芻してもうまく馴染まないその言葉についてよく考える。

 たしかに大溝くんは私にとって大切な人だ。

 今まで誰にも言えなかった気持ちを吐き出せる、唯一の人。

 でも、これを恋と呼ぶには、なにかが足りない気がしてしまうのだ。

「わたしの話は、それだけ。ごめんね、時間取っちゃって」

 そう言った真結は「また明日ね、詩央ちゃん」と、何事もなかったかのように帰っていった。

 いつの間にか教室には誰もいなくなっていて、少し乱れた大溝くんの席に、そっと触れてみた。

『大溝くんのこと、好きでしょう?』

 その言葉を、頭に浮かべながら。







 すき、スキ、好き——。

 どう変換してみてもこの言葉の響きには慣れなかった。

 でも、いままでを思い返してみると、そうなのかもしれないと思えることもいくつかあった。

 大溝くんとの時間が名残惜しいと思うこと、この時間がまだ続いてほしいと思ったこと。
 大溝くんの笑顔を眩しく思うこと、それを素敵だと思うこと。

 それはきっと、私の独占欲の表れだ。

 クラスに馴染む彼に嫉妬してしまうのも、そうなのだとしたら……。

 大溝くんに対する私の思いは『恋』だと言えてしまう気がする。

 恋をしたことがない、そもそも考えたことのない私には正解がわからなかった。

 けれどこれが恋だと言うのなら、恋っていうのは本当に突然自覚するもので、落ちる瞬間なんてわからないほど無自覚のうちなんだなと、他人事のようにそう思った。

 文化祭まで一週間を切り、私の心はごちゃごちゃだ。

 お母さんのこともあるのに、真結に言われたせいでなんでもないときにでも大溝くんの顔がちらついてしまう。

 教室で彼の声がすると、思わずそっちを見てしまう。

 そんな私の様子に凛花は気付かないけれど、真結は小さく笑いながら私を見る。

 まるで『やっぱり好きだよね?』と問われているようで、恥ずかしい。

 どきどき鳴る胸が恋を告げるのなら、そうなのだろう。

 私の心臓は大溝くんを見ると、早鐘を打つのだから——。


 結局ずっと謝れないまま時は過ぎ、文化祭当日になった。

 謝るタイミングを読む合間に大溝くんのことを考えていたからかもしれない。

 そうでなくても文化祭前の準備で忙しく、心も体も疲れ切っていたのが大きいところだと思うけれど。

 以前された大溝くんのアドバイス通り、ごめんの意味を込めて、わかりやすいようリビングのテーブルの上に愛衣の分も合わせて二枚分、入場チケットを置いておいた。

 意味が伝わるかはわからない。
 来るか来ないかもわからない。

 それでも、来てくれますようにと、願いを込めた。

 お母さんが学校での私の様子を見に来たのは、小学生の頃が最後だ。

 学校で自分の親を探すなんて、子供じみていると思う。

 それでも、目は自然と通り過ぎていく人の波を追っていた。

 クラスの出し物は人気で、作っても作っても売れるという忙しさだった。
 その忙しさの合間に、私はお母さんを探すのに必死だった。

 時間は刻々と過ぎていく。
 一般開放は十六時までだから、残り一時間を切ってしまった。

 クラスに買い物に来るお客さんの中に二人の姿がないか探すけど、全然見つからない。

 ……やっぱり、来るわけないか。

 お母さんも大概だけど、私だってひどいことをたくさん言って傷つけた。

 来てもらえなくても、しょうがないことだ。

 事情を知っている大溝くんが私の様子を心配そうにうかがっているのが、視界の隅に入ってくる。

 たくさん話を聞いてもらったのに心配までかけて、私はどうしようもないな。

 一般開放の時間が残り三十分になり、いよいよ私は諦め始めた。

 仕方ないと、諦めるのは簡単だ。
 でも、諦めてしまった分だけ、それは自分の首を締めると知っている。

 でも、こればかりは私の思いだけではどうにもならないことだから、どこかでこの気持ちに折り合いをつけなければならない。

 いま教室内にいる人の接客が終わる頃が、ちょうど文化祭の終わる頃合いと一緒だろう。

 笑顔の仮面を貼りつけて、震えそうになる声を押し殺しながら接客を続けた。

 すると、男子の浮ついたようなはしゃぐ声が廊下の方から聞こえてくる。

「あれ、誰かの保護者?」

「小さい子連れてるよ」

「すごいきれーじゃね? ちょっと派手だけど」

 その言葉に、どんな人が来たんだろうと、騒ぎながら教室の入り口を塞ぐ男子たちをかいくぐった。
 興味本位でよいしょと廊下へ顔を覗かせる。

「え……?」

 ちょうど目の前を颯爽と通り抜けていくのは、まごうことなき私のお母さんだった。

 綺麗なつやのある猫毛をなびかせて、白いレースのスカートを揺らしながら歩いていく。

 私のクラスがどこなのか、わからないのだろう。
 私がどんな出し物をしているのかも、知らないのだろう。
 自分の子供のことなのに。

 でも、来てくれたという事実に変わりはなくて、私はたったそれだけのことに舞い上がる。

 お母さんは右手に愛衣の手を引き、きょろきょろと周りを見回すように歩いて、私を探している様子だった。
 けれど、背の高い男子の中に埋もれる私を見つけることはできなかったようで、通り過ぎて行ってしまう。

 お母さん、と、声に出して呼べたら。
 きっと気付いてくれるのだろう。

 だけど、ここまできて、私の足はすくんでしまう。
 緊張と嬉しさといろんな気持ちが混じり合って、からからの喉からは声が出そうにもない。

 あんなにひどいことを言ったのに、許してもらえるのだろうか。
 いやでもお母さんも悪いしと、まるで言い訳を探すように、まだ私は声をかけに行けない理由を探す。

 来てほしいと、そう願ったのは私なのに——。




「香坂のお母さん!!!!」




 私の真後ろから、バカでかい声が一帯に響き渡った。

 周りの空気全部が震えあがっているんじゃないかと思うほど、大きな声。
 その声に、一瞬にして辺りは静まり返る。

 大溝くんが、私のお母さんを叫ぶように呼んだんだ。

 その声に、周りはみんな立ち止まり、何事かと振り返って声の発生源であるこちらを見る。

 ただひとりを除いては。

 呼ばれた張本人であるお母さんはその場で立ちすくんだまま、こちらを見ようとしなかった。
 愛衣の手を握りしめたまま、じっとそこに立っている。

「あっ、おねーちゃんだあ。まま、おねえちゃんいたよ! さがしてたもんねえ。よかったねえ、みつかって」

 にこにこと屈託なく笑う愛衣だけが、ぴょんぴょんと飛び跳ねながらこちらに笑顔で手を振り、お母さんの手を振りほどいてこちらに駆けてくる。

 そこで周りは『香坂』が私だということ、『香坂のお母さん』が誰なのか、わかったのだろう。

 人々が廊下の端に除けはじめ、その結果、私の目の前には一本の道ができていた。
 お母さんまで、繋がる道だ。

 一度大溝くんに会ったことのある愛衣は、「まえにあったおにいちゃんだよねえ?」としきりに話しかけ、抱っこまでせがむ始末だ。

 愛衣を優しく抱き上げた大溝くんが、どんと私の背中を強く押す。

 ……いつだってそうだった。
 大溝くんの言葉や行動が、私に一歩踏み出す勇気をくれる。

 振り返ると大溝くんは小さく頷いた。
 『行ってこい』と。

 彼に押されて前に出た足取りのまま、戸惑いがちにお母さんの方へと着実に向かって進んでいく。

「お母さん、」

 周りの視線が体のあちこちに突き刺さる。

 目立つことなんてしたくない、そう思っていたのに。
 うまくいかないものだな。

「こっち、来て」

 俯いたままいまだに私の顔を見ないお母さんの腕を引っ張って、人をかいくぐりながらある場所へと連れ出した。







 いつものごとく四階の東階段の踊り場へと連れ出した。

 今日は外部の人が出入りするからか、立ち入り禁止の札とロープが張られていた。
 そんなものは見なかったことにして、跨いで入ってきたけれど。

 階段の上にすとんと腰を下ろすと、お母さんもおずおずとそこに腰を下ろす。

 綺麗な白いスカートが汚れてしまうのも厭わずに。

「……あの日のこと、」

 謝るって、決めたじゃない。
 傷つけたいと思って言ったんじゃないと。

 本心なんかじゃない、と。

 それでも、ここ数年まともに口をきくこともなかったお母さんに対して面と向かって話すのは、緊張する。

 自分自身の話となれば、なおさらだ。

 口の中は乾いてぱさぱさで、緊張から握りしめた手のひらに爪が食い込んで痛い。

 だけど、自分の心に鞭を打った。

「あの日のこと、ごめんなさい」

 そう言うとお母さんはやっと私と目を合わせて、何かを言おうと唇を震わせた。

 先に視線を逸らしたのは、私。

「……謝りたかったのは本当。だけど、それよりもっと、言いたいことが、あるの」

 視線を落として、これまでの全部を頭に思い浮かべる。

「私いままで、ひとりでずっと頑張ってきた」

 掃除も洗濯も、ご飯を作るのも。
 愛衣の世話だって、自分の勉強だって、全部。

「でもそれは、私の本当にやりたかったことをひとつずつ諦めて、頑張ってただけだったよ」

 わがままを言えたらどれだけ良かっただろう。
 幸せだっただろう。

 言わずに諦めたものが、いままでいくつあっただろう。

 言う時間もなかったし、言っても無駄だとも思っていた。

「お母さんはあのとき、『本当にそれでいいの』って言ったけど、私には選ぶことすらできないんだって、いつも思ってた」

 私がやりたいことをひとつもできないのは家のことがあるからで、私をそうさせたのはお母さんでもあるし、言う勇気を持たなかった自分のせいでもある。

 言って変わらなくても、『言った』という事実だけでもあれば、少しは違ったのかも、とも思う。

「でも、違うよね。言ったことなんて、なかったよね。あれがしたい、これがしたい、とか。愛衣が生まれてからは」

 愛衣のことをかわいがってね。
 お母さんのことを助けてね。

 言われた通り、そうしてきた。

 一番に思うのはいつも家族のことで、自分のことなんて二の次だった。

 いつもいつも、そうだった。

「私、本当はいっぱいある。したいこと。進路のことは正直わからない。だって、就職を選ぶのが当たり前だって思って、今まで過ごしてきたから。でも、したかったことは、本当にたくさんあったの。どれも些細なことだけど」

 頭に次々と浮かぶそれらを、ひとつずつ口に出していく。
 お母さんは黙ったままだけど、私の横顔を見ていることだけはなんとなくわかる。

「百均のやつじゃなく、もう少しちゃんとしたコスメで化粧をしてみたい。ネイルも……、友達にかわいい子がいて、いつも羨ましく思ってたから、してみたいって思ってた」

 お母さんから言葉は返ってこない。
 じっと聞いていてくれる。

「いつも学校が終わって愛衣を迎えに行って家のことをしてるけど、本当は放課後も、たまには友達と遊んでみたい。休みの日に、外で友達に会ってみたい。そのための時間がほしい」

 どれもこれも些細なことだけど、私には到底届かない、夢のようなことだった。

 だけど、一番は——。

「それから、もっとお母さんと話す時間がほしい」

 話せていたら、こんなことにはならなかったよね。
 前はもっともっと、いろんな話をできていた気がする。

 なんでもいいんだ。

 今日こんなことがあったとか、そういう気軽な、どうでもいい話もしたいんだ。

「……この前は、ひどいことを言って、ごめんなさい」

 言いながらだんだんと涙が滲み出てくる。

 そんな私を見て、お母さんも泣いてしまったようだった。
 隣りからすすり泣く声が聞こえてきた。

 しばらくの沈黙の後、お母さんがおもむろに口を開く。

 小さく静かに、消え入りそうな声だった。

「お母さんも……、ごめんなさい。いままで詩央ちゃんに甘えて、なんでもかんでも任せきりにしてたよね。お母さんが仕事を毎日できるのも、詩央ちゃんが家のことをやって、愛衣ちゃんのことを嫌がらずに見ていてくれてるからだってこと、いつの間にか忘れてた」

 私は黙って静かにお母さんを見た。
 今度は私が、お母さんの話を聞く番だ。

「進路のことも、お母さんが選択肢を狭めていたよね。選べるかもしれないものを、選ぼうと思えなくなっていたんだよね。全部全部、そうだよね。本当にごめんなさい。……手、こんなになるまで、毎日頑張ってくれてありがとう。ごめんね……」

 私のかさかさの手をふわりと優しく包み込んで、涙ながらに謝るお母さん。
 お母さんがこんなに泣いているのを見るのは、はじめてだった。

 何度も何度も謝るから、諦めるんじゃなくて許すって意味で、もういいやって、心からそう思った。

 あの日から、長かった。

「……もう、いいよ。私も、ごめんね」

 約三か月の長い喧嘩は、こうして幕を閉じたんだ。







 いつぶりだろう、こんな風にお母さんと話すのは。
 これまでの空気が一変して、いまならなんでも話せそうだ。

「本当はね、愛衣のこと、可愛くない、いなければもっと幸せだったんじゃないかって、そう思ったことがあるよ」

 そう言うとお母さんは驚いたように目を見開いたけど、そう思わせてごめんねとまた謝った。

 謝ってほしかったわけじゃないけれど、聞いてほしかったんだ。
 いままでのこと、私がどんな風にすごしてきたのかを。
 
「だって、半分しか血が繋がらない妹だよ、疎ましくも思うって」

 かわいいことに変わりはないけれど。

 それでもやっぱり、なんの前触れもなくできた妹の愛衣のことは、何年経っても私にとってはかわいくて、時々たまに憎らしい。
 それは変わらず、本心でしかない。
 
 お母さんは長いまつ毛に縁どられた目をまあるくする。

「どうして半分だけなの?」

 その言葉に、私は眉根を寄せた。

「え、だってお母さん離婚して、お父さんの顔すら私も見たことないし。……自分で言うのは嫌だけど、私も愛衣も、不貞で生まれた子でしょ?」

 私は幸せだったから最初こそ気にしたことがなかったけれど、愛衣が生まれてからはそう思うことがたまにあった。

 ゆるいのは頭だけにしてほしい、なんて、心の中で悪態をついたことも何度かあったっけ。
 そんな昔のことは忘れていたけれど。

 聞く時間もなかったし、いまさら聞くことでもないと思っていた。
 けれど、聞くにはいい機会だと思った。

 さらに目を開いて驚いた顔をしたお母さんは、少し困ったように笑って口を開く。

「詩央ちゃん、いままでそんな風に思ってたの? それに、そんなにはっきりいう子だったんだね」

「だって、いまさら隠したってしょうがないし。気になることは知りたいって思うよ」

「そうだよねえ……」

 ふうとひとつ息を吐いたお母さんは、小さく笑う。

「……詩央ちゃん。お母さん、夜のお仕事やめようと思うの」

 唐突に話を変えようとするお母さんを軽く睨みつける。
 何でも話せる気がしたのは、私だけなの?

「そうやってはぐらかす気?」

「まあ聞いてよ」

「はいはい」

 むっとした子供っぽい表情を見せるお母さんに、仕方ないなと耳を傾ける。

「さっき半分しか血が繋がらないとか言ってたけど、正真正銘血が繋がっているよ。詩央ちゃんのお父さんも、愛衣ちゃんのお父さんも、おんなじ人」

 その言葉に、今度は私が目を見開く番だった。

「え、どういうこと……?」

 私が狼狽えて聞くと、お母さんはひとつずつ話していく。

 学生の頃私を妊娠したそのときの相手、お父さんは、とある御曹司だったそうだ。
 本人が隠していたらしく、付き合ってからもそれを知ることはなかったらしい。

「だから、まさか自分が漫画みたいに家のしがらみで、お父さんから引き離されるなんて思ってもなかったの。御曹司だなんて知らなかった。お父さんの家族からは別れるように言われてね。実家とも折り合いが悪くなっちゃって。でも、詩央ちゃんのことは絶対生みたくて。どうしても、許してもらえなくてね。実家からお金だけ渡されてほっぽりだされちゃったの」

 その時のことを思い出しているのか俯き悲し気な表情でぽつぽつと語られるそれは、私の想像をはるかに超えていた。

「お母さんの実家ね、お母さんが言うのもなんだけど、まともじゃなかったから。だから、生まれてくる子供にはそんな思いさせないようにって、頑張ってきたつもりだった」

 たしかに私は小さい頃、自分の家庭になんの疑問も持たず、ただ幸せに暮らしていた。
 お母さんが本当に頑張っていたという証だと思う。

「お父さんの家からは、これで手を打ってくれって、かなりの大金を渡されてね? だから、愛衣ちゃんが生まれるまでは、そのお金で生活してた。もう会わないでくれって言われてたけど、でも、手紙だけ届いてたの。ずっとずっと、お父さんから」

 初めて聞かされる真実には現実味がなくて、聞き入ってしまう。
 それが本当なら、一冊の本にできそうな物語だと思った。

「……お父さんもお母さんもね、逢引き、って言い方はもう古いのかなあ? 別れた後もどうしても諦めきれなくて。でも、お母さんには詩央ちゃんがいたし、幸せだったし、このままでも全然よかったけど。……会っちゃったら、ねえ? 後はわかるでしょ?」

 照れくさそうに言われて、ああそういうことかと納得した。
 そして、自分はきちんと愛されて生まれてきたのだと知って、嬉しくなる。

「お父さんね、自分の会社を立ち上げたんだって。……結婚してくれって、言われたよ」

 少しだけ恥ずかしそうな、だけど困ったような、何とも言えない顔をするお母さんに、間髪入れずに心からの言葉が漏れた。

「え……っ! すごいじゃん! おめでとう……!」

 思わずそう言うと、お母さんは目を潤ませる。

「……詩央ちゃんは、喜んでくれるんだ?」

「当たり前じゃん……!」

 好きな人の幸せを願うのは、大人でも子供でもおんなじだ。
 親だろうとその子供であろうと。

 素直にそう言うと、お母さんは笑った。

「詩央ちゃんも愛衣ちゃんも、すぐに受け入れられないことはわかっているから、少しずつ会う機会を増やしていって、ゆくゆくはって感じ。……これこそまさに、漫画みたいな夢物語でしょ?」

 そう言って笑うお母さんは、まるで少女のようだった。
 こんな幸せそうな顔ができる『恋』って、すごいものなんだなと改めて思う。

 ふと、心に大溝くんが浮かんだ。

 ——『一般入場の方にお知らせします。開放時間終了まで残り十分となりました。お帰りの準備をお願いいたします。また、生徒につきましては……、』——

 校内放送が入り、「お母さんもそろそろ帰らなきゃ。愛衣ちゃんも待ってるし」と、立ち上がる。
 それを見て、私も一緒に立ち上がった。

「で、詩央ちゃん。もしかしてさっきの男の子って、詩央ちゃんのこれ?」

 急に思い出したかのようにそう言って親指を立てる仕草をする。
 ……ああ、愛衣にこれを教えたのはこの人だと、瞬時に理解した。

 その言葉に照れくさくなりつつも、答える。

「彼氏じゃない。けど、気になってはいる」

 最近辿り着いたばかりの答えを、お母さんに言う。
 恥ずかしいけれど、聞いてほしかった。

「告白しないの?」

「できるわけないよ。私は可愛くもなんともないし、ただ勉強ができるだけだし」

 ……手だって、ほかの子に比べたらがさがさでかわいげもない。
 思わず、後ろ手に隠した。

「あら、家事育児できて嫁にはぴったりじゃない」

「……お母さんがそれ言う?」

 私がそう言って呆れたようにお母さんを見ると、後ろに隠した手をお母さんは優しく取り、自分が愛用しているハンドクリームを優しく塗りこんでくれた。

「これ、高いやつ?」

「ハンドクリームと口紅と、よく着る服だけは、いいやつ買ってるの」

 テクスチャーはべたっとしていなくて、クリームを塗りこまれた手は驚くほどしっとりとし、見違えるほど綺麗になっていた。
 ぼろぼろの手がこれだけ綺麗になるんだから、高いものもたまに使う分には悪くない。

「詩央ちゃんって、貧乏性よね」

「だって、しかたないじゃん。お金なんて勝手に増えるものでもないし。愛衣の保育料だってそうでしょ? ずっと、節約してきたのは」

「ああ、そうね…そのことだけど。詩央ちゃんや愛衣ちゃんの将来のために、少しは貯金してあるよ」

 延長するとその分お金がかかるから定刻に迎えに行くことも、夏休みの間の休園届も、少しでも貯金に回すためだとお母さんは話す。

「でも、そのせいで詩央ちゃんの負担を増やしていたよね。勝手だったよね。ごめんね。詩央ちゃんの時間を、やりたいことを、そうやって奪ってきたことに、お母さんは気付けなかった」

 ううん、と首を振る。
 私だって言ってこなかったのだから、おあいこだ。

「詩央ちゃん、頑張ってみなよ」

「え……、でも」

「お母さんみたいに、こんな年になるまで好きな人と一緒に暮らせない、想いも伝えられないなんて、そんなさみしい思いさせたくない、それにね、」

 一度言葉を区切って、お母さんはまた静かに口を開く。

「大人になってから手に入れられるものは、たくさんあるかもしれない。けれど、『いま』しかできないことって、本当にあるんだよ。いまほしいものを大人になってから手に入れても意味がないものも、いっぱいあるんだよ」

 そう言って、お母さんは笑う。

 『お母さんに任せなさい』と——。




 秋も深まり、季節は冬へと近づいていた。

 頬を切る風は冷たくて、痛いくらいだ。
 結んでいない私の髪を風がさらって、空へと舞う。

 私の心は軽かった。

 あの日から、私の毎日は少しずつ変わっていった。

 朝は、いつもより時間を作れるようになった。
 お母さんが夜の仕事をやめたことで、愛衣の面倒を見てくれるようになったからだ。

 料理が苦手だからご飯は私が担当するけれど、食卓を一緒に囲む時間ができたのは、嬉しいことだった。

 話す時間ももちろん増えた。

 学校であったこと、友達のこと、いろんなことを話す。
 学校から配られる提出物も、お母さんの名前を借りて偽装することはなくなった。

 愛衣の送り迎えも、一緒に行ったりする。
 最近はお母さんがすることの方が多い。

 最初はなかなかうまくいかなかった。
 だけど何度か話し合って調整して、私もお母さんも頑張って毎日を過ごしている。

 近頃は服をひっくり返して出されることは減っていた。
 まだたまにあるけれど、そのたびに言っている。

 服はきちんと戻して。大変なんだからと。
 自分の言葉で直接言えることがどれだけ嬉しいか、噛みしめる日々だ。

 そして、検索履歴から、あのハッシュタグを消去した。
 もう、私には必要ない。

 私は幸せだ。
 胸を張ってそう言える。







 冷たい風を切って着いた校舎。
 いつもよりも視線が刺さるのは、気のせいだと思いたい。

 だって、お母さんは言ったんだ。

 かわいいよ、って。

 申し訳程度の化粧しかほどこしたことのなかった私は、あれからお母さんに教わって化粧の練習をするようになった。

 水仕事の後はハンドクリームを塗って、手先など肌のケアも怠らなかった。

 すべてはそう、今日のためだ。

 ちょっと気恥ずかしいけれど、しゃんと胸を張っていつも通り教室までの道のりを歩く。

 通りすがる人がこっちを見ている気がするけれど、気にしない。

 私は私のために、歩くんだ。

 言いたいこともやりたいことも全部我慢して、ため息にかえていた私の日常を変えるきっかけは、君だったよ。

 大溝くん。

 教室を開けると、一番に目に映るのは、君だ。

 最初に出会ったあの頃と違って、前髪で目が隠れてもいなければ、黒いマスクもしていない。
 きりっとした眉に切れ長の三白眼。
 がたいのいい体型、笑った顔は可愛くて。

 あけっぴろげで何事もストレートに物申す、からっと晴れた空のような存在。

 最初みんなから避けられてたのが嘘かと思うほどクラスに馴染んでいる君は、私の初恋だ――。

「大溝くん」

 勇気を出して声をかけ、近くにいた彼の友達に「少しだけ借りるね」と大溝くんの腕を引っ張った。

 その声に教室の中が騒がしくなったけど、文化祭のあの日から言われるひとつの言葉のせいで、そんなのはもう慣れっこだ。

 私が彼を連れて行く場所なんて決まってる。

 私と大溝くんの時間を繋いだのは、あの場所だ。

 階段の一番上に降り立って、大溝くんを見上げる。

 ひっ詰めていた髪は今日はおろしたまま、さらさらと背中で揺れる。
 持ち上がった睫毛のおかげで広がった視界は、大溝くんの顔を普段よりはっきりと映してくれている気さえする。

 私が何を言うか、わかっているのかいないのか、大溝くんは黙ったまま私の顔を見ていた。

 君がいたから変わった、私の世界。
 これからもどんどん、私の世界は変わっていくのだろう。

 その世界に、君もいてほしい。

 そう思うから、言うんだ。




「私、大溝くんのことが好き」


 ——私と、付き合ってください。



 差し出した私の爪は、あの日似合うと言ってくれたコスモスの色——桜色に色づけられている。

 真結の爪を見て毎日羨ましく思っていたそれを、やっと自分の爪に彩ることができた。

 短い爪にも似合うそれを、どうしても今日、使いたかったんだ。

 驚いたような顔の後すぐに首まで真っ赤に染まり、まるで初めて出会った頃と同じくぶっきらぼうに、だけど嬉しそうな表情で彼はこう言った。


「……俺も」


 そう言って握り返された手、そのぬくもり。
 かわいげのない、大溝くんらしいかわいい返事に、声を出して笑う。

 私は、幸せだ。そう、思った。




 私はこれからも、ひとつずつ小さな夢を叶えていく。

 どうしようもない、叶えられない夢もあるだろう。

 だけど私はもう、ひとりで勝手に諦めたりなんかしない。

 言えばいいんだ、やってみていいんだ、何度でも、失敗したって。

 何度でも、頑張ってみていいんだ。

 そうしているうちに、きっと、手に入るから。




 日常に溶けて消えたはずの私の青春は、いま、ここから新たに始まっていく。

 




                   【END】






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