秋も深まり、季節は冬へと近づいていた。
頬を切る風は冷たくて、痛いくらいだ。
結んでいない私の髪を風がさらって、空へと舞う。
私の心は軽かった。
あの日から、私の毎日は少しずつ変わっていった。
朝は、いつもより時間を作れるようになった。
お母さんが夜の仕事をやめたことで、愛衣の面倒を見てくれるようになったからだ。
料理が苦手だからご飯は私が担当するけれど、食卓を一緒に囲む時間ができたのは、嬉しいことだった。
話す時間ももちろん増えた。
学校であったこと、友達のこと、いろんなことを話す。
学校から配られる提出物も、お母さんの名前を借りて偽装することはなくなった。
愛衣の送り迎えも、一緒に行ったりする。
最近はお母さんがすることの方が多い。
最初はなかなかうまくいかなかった。
だけど何度か話し合って調整して、私もお母さんも頑張って毎日を過ごしている。
近頃は服をひっくり返して出されることは減っていた。
まだたまにあるけれど、そのたびに言っている。
服はきちんと戻して。大変なんだからと。
自分の言葉で直接言えることがどれだけ嬉しいか、噛みしめる日々だ。
そして、検索履歴から、あのハッシュタグを消去した。
もう、私には必要ない。
私は幸せだ。
胸を張ってそう言える。
◇
冷たい風を切って着いた校舎。
いつもよりも視線が刺さるのは、気のせいだと思いたい。
だって、お母さんは言ったんだ。
かわいいよ、って。
申し訳程度の化粧しかほどこしたことのなかった私は、あれからお母さんに教わって化粧の練習をするようになった。
水仕事の後はハンドクリームを塗って、手先など肌のケアも怠らなかった。
すべてはそう、今日のためだ。
ちょっと気恥ずかしいけれど、しゃんと胸を張っていつも通り教室までの道のりを歩く。
通りすがる人がこっちを見ている気がするけれど、気にしない。
私は私のために、歩くんだ。
言いたいこともやりたいことも全部我慢して、ため息にかえていた私の日常を変えるきっかけは、君だったよ。
大溝くん。
教室を開けると、一番に目に映るのは、君だ。
最初に出会ったあの頃と違って、前髪で目が隠れてもいなければ、黒いマスクもしていない。
きりっとした眉に切れ長の三白眼。
がたいのいい体型、笑った顔は可愛くて。
あけっぴろげで何事もストレートに物申す、からっと晴れた空のような存在。
最初みんなから避けられてたのが嘘かと思うほどクラスに馴染んでいる君は、私の初恋だ――。
「大溝くん」
勇気を出して声をかけ、近くにいた彼の友達に「少しだけ借りるね」と大溝くんの腕を引っ張った。
その声に教室の中が騒がしくなったけど、文化祭のあの日から言われるひとつの言葉のせいで、そんなのはもう慣れっこだ。
私が彼を連れて行く場所なんて決まってる。
私と大溝くんの時間を繋いだのは、あの場所だ。
階段の一番上に降り立って、大溝くんを見上げる。
ひっ詰めていた髪は今日はおろしたまま、さらさらと背中で揺れる。
持ち上がった睫毛のおかげで広がった視界は、大溝くんの顔を普段よりはっきりと映してくれている気さえする。
私が何を言うか、わかっているのかいないのか、大溝くんは黙ったまま私の顔を見ていた。
君がいたから変わった、私の世界。
これからもどんどん、私の世界は変わっていくのだろう。
その世界に、君もいてほしい。
そう思うから、言うんだ。
「私、大溝くんのことが好き」
——私と、付き合ってください。
差し出した私の爪は、あの日似合うと言ってくれたコスモスの色——桜色に色づけられている。
真結の爪を見て毎日羨ましく思っていたそれを、やっと自分の爪に彩ることができた。
短い爪にも似合うそれを、どうしても今日、使いたかったんだ。
驚いたような顔の後すぐに首まで真っ赤に染まり、まるで初めて出会った頃と同じくぶっきらぼうに、だけど嬉しそうな表情で彼はこう言った。
「……俺も」
そう言って握り返された手、そのぬくもり。
かわいげのない、大溝くんらしいかわいい返事に、声を出して笑う。
私は、幸せだ。そう、思った。
私はこれからも、ひとつずつ小さな夢を叶えていく。
どうしようもない、叶えられない夢もあるだろう。
だけど私はもう、ひとりで勝手に諦めたりなんかしない。
言えばいいんだ、やってみていいんだ、何度でも、失敗したって。
何度でも、頑張ってみていいんだ。
そうしているうちに、きっと、手に入るから。
日常に溶けて消えたはずの私の青春は、いま、ここから新たに始まっていく。
【END】