あの日から二日経ち、今日は文化祭で提供する、ベビーカステラとたこ焼きの試作を作る日だ。

 浮足立つ心を抑え込みながら調理室に足を踏み入れると、異様な光景が広がっていた。

 この人は、何度クラスをざわつかせれば気が済むのだろう。

 まあ、騒がせようと思ってやっているわけじゃないと知っているから、私はあえて気にしないふりでもしてやり過ごそう。

 ……そう思ったばかりなのに、調理室に入ったばかりの私を目ざとく見つけた興奮気味の凛花と真結に見事に捕まった。

「ねえねえ、大溝ってあんな顔してたの!? 結構ビジュよくない!?」

「あはは、凛花ちゃんすごいテンション高いねー」

「だってこれはそうなるでしょ!? ねっ、詩央もそう思うよね!?」

 真結との温度差が会話から浮き彫りになり、それがより一層凛花の興奮度合いを表わしている。

 険悪な雰囲気だったのにあれはどこへ行ったのだろうか。

 そう思えるほど大溝くんをべた褒めする凛花に、苦笑する。

 だけどそうなってしまうのもわかるから、苦笑いで返すしか私にはできなかった。

 いまもなおちらちらと視線を送る凛花の視線は、大溝くんをとらえたままだ。

 だけどそれは凛花だけに言えることじゃなくて、クラスの女子、いや男子もみんな、大溝くんを見てそれぞれが思い思いの表情を浮かべていた。

 主に女子は凛花のような熱い視線を送り、男子の数名は羨望と嫉妬の入り混じった目で彼を遠巻きに眺めていた。

 相変わらずクラスの輪に馴染めていない大溝くんは調理室内にはいるものの、窓辺に寄りかかって外を眺めていた。

 ジョギングを欠かさないと言っていた大溝くんは体格もよく、元々の高身長に相まってスタイルもとてもよく見えた。

 それすらさまになるから、注目の的になるのも致し方ないと思う。

「あの変な黒いマスクしなくなってだいぶマシになったと思ったら、とんでもないもの隠し持ってたなー、大溝」

 モデルばりのポーズを決めているかのように見える大溝くんを横目に、「あいつただのイケメンじゃん」と凛花はそう呟いた。

 私も「たしかに、想像できなかったよね」と大溝くんの方を見ながら話す。

「あんな邪魔くさそうな前髪の下が、あんな綺麗な切れ長の目だとは思ってなかったわー」

 ため息交じりに感嘆の声を漏らす凛花は、誰が見ても納得の男前な大溝くんに心酔しているよう。

 あの前髪で隠れたおでこの下に大きな傷跡があることを知ったら、今度はみんなどんな反応をするんだろう。

 そんなことを思いながらちらりと大溝くんに目配せすると、彼も私に気付いたようだった。

 周りに気付かれないように、組んだ腕の片側の手のひらを軽く上げて合図してくれたのがわかった。

 そのことに心臓がどきっと小さな音を立てて、秘密のやり取りみたいな仕草に心が弾む。

 この感覚がなんなのかよくわかっていないけど、嫌な感情ではないことはたしかだ。

「……詩央ちゃんって、」

「なに? 真結」

 相変わらず綺麗なウェーブを描く髪は、今日は高い位置でひとつにまとめられている。
 変わったのはその髪色だ。

 夏休みに入って染め直したのか、頭のてっぺんから毛先まで綺麗なアッシュグレーに染まっている。
 真結の顔立ちに似合うそれは、より彼女の魅力を引き出しているようだった。

 揺れる毛先が馬のしっぽのように見えるから、ポニーテールって言うんだっけ。
 真結の動きに合わせてふわふわと軽やかに揺れる毛先は、踊っているようだった。

 首を傾げて続く言葉を待つけれど、ピンクに塗られた唇はなかなか開かなかった。

「ん? 真結、どうかした?」

 もう一度そう尋ねると、小さな唇がやっと動く。

「詩央ちゃんって、大溝くんと……、」

 『大溝くん』

 そのワードに驚く。
 その言葉の続きは、なんなのだろう。

 そう思ったけれど、「じゃあみんな、一回こっちに集合してー!」と、言いかけた真結の言葉を遮るように、凛花の大きな声が室内に響き渡った。

 室内にばらけていた総勢十名ほどのクラスメイトが、ひとつの調理台に集まる。

「……ごめん、真結。あとで話そうね」

 眉を下げて心なしか不安げな表情をしている真結は、いつもの真結ではないような気がした。

 そういえば、真結が大溝くんに好意を寄せているんじゃないかって邪推していたこともあったっけ。
 
 『大溝くんと……』に続く言葉は、もしかしたら、それに関係があるのかもしれない。







 カショカショと軽快な音を立てながら、泡だて器で材料を混ぜ合わせていく。

 牛乳に卵を加えよく混ぜたら、ほんの少しのみりんとはちみつを加えさらに混ぜる。

 ここの混ぜ方は均一になるように、だけどできるだけ泡を立ててしまわないようにゆっくり混ぜるのがこつだ。

 綺麗に混ざったらホットケーキミックスの粉を入れ、ゴムベラに持ち替えて練らないように混ぜていく。
 そうするとつやっともったりした生地ができあがる。

「香坂ちゃんて、お菓子作りもできるんだねー」

「ほんとほんと。手際もいいし。家でよく作ったりするの?」

 ほとんど会話したことのないクラスメイトが、感心したように周りに集まって話しかけてきてくれる。

「えっと、小さい妹がいてね、たまに作るんだよ」

 数々の誉め言葉に照れくさくなって、手元を見つめたまま答える。

「えー、もしかして照れてる? かわいー」

「香坂ちゃんとあんまり話したことなかったけど、改めてこれからよろしくね!」

「うんっ。こちらこそ、よろしく」

 文化祭準備って、本来はこういうものなんだ。
 和気あいあいとして活気があって、楽しくて。

 新しい交友関係も広がる、素敵な場だ。

 去年体験することができなかったから、余計そう思うのかもしれない。

 ふと気になって大溝くんの方を見ると、彼はたこ焼きの生地作りをしている。

 みんなから一線を引かれながらも声をかけるクラスメイトが数人いて、ぶっきらぼうながらにも彼なりに頑張っているようだ。

 ……よかった。

 そう安堵していたのに。

 たこ焼きもベビーカステラもあとは焼くだけになりいざこれからというとき、スカートのポケットに入れていたスマホが着信を告げる。

 ……いやな予感がする。

 こういうとき大抵邪魔してくるのは、私の人生でたったひとりしかいない。

 心に生えた羽は、こうしていとも簡単にむしり取られてしまうのだ。

 スマホに残る不在着信の文字に、舞い上がっていた私の心は地の果てまで転がっていく。







 夏休み中だから校舎には人がまばらで電話する場所なんてどこだってよかったはずなのに、足は勝手に東階段の踊り場へと向かっていた。

 四階までの階段を上りきり、スマホの画面をもう一度見る。

 何度見てもその不在着信の文字は消えない。

 どうしていつもいつも、大事な時に水を差すのだろう。

 そして、あんなことがあってから私たちはまともな会話もしていないのに、どう育ったらここまで無神経に電話をかけてくる気になれるのだろう。
 どうして私を頼ろうと思うのだろう。

 自分の親が相手なのに、そう思わずにはいられない。

 電話になんて気付きたくもなかったし、出たくもない。
 けれど、それがもし愛衣に関係することだったら?

 公園に行くと言っていたから、はぐれて迷子になったとか?
 最悪の場合は事故にあったとか?

 そんな連絡かもしれないと思うと、かけ直さないなんて選択肢は残されていなかった。

 仕方なしに不在着信の履歴から先ほど電話をかけて来た『お母さん』の文字をタップし、かけ直す。

 数回のコール音の後に、「……詩央ちゃん?」と、こちらを気遣うような声が聞こえてくる。

「……なに」

 思いのほか冷たい声が出た。
 私の心はこんなにも荒んでいるのにいつもと変わらない口ぶりに聞こえるお母さんの声に、爆発しそうだ。

『あの、大したことじゃないんだけど、愛衣ちゃんがいつも使っているお弁当箱って、どこにあるのかなって……』

 消え入りそうな言葉尻。
 大したことじゃないと前置きされた時点で、どうせくだらないことだろうと大方察しはついていた。

 けれど、続けられた言葉のあまりのくだらなさに、私はこれ見よがしに大きくため息を吐いた。

「……そんなことも知らないの? 母親なのに?」

『……』

「そうやってなんでもかんでも、私のことを当てにしないでっ!」

 勢いよくそれだけ言って、電話を切る。

 はたから見たら私は、ただのヒステリー女に見えるだろう。
 ……なんだか、バカみたいだ。

 いままで我慢してきたものもなにもかも、この前から抑え込むことができずにいた。

 あれだけため息にかえて言葉に出すのは控えていたのに、一度空いた蓋は閉まりきることなく、隙間からとめどなく文句という名の液体が涙に変わって流れ落ちてくる。

 もういやだ。

 我慢ばかり強いられるこの生活も。

 なんにもできないお母さんのことも。 

 きつい言葉を吐き捨ててしまう自分のことも。

 もう本当に、なにもかもいやだ……。

 階段に膝を抱えて座り込む。
 私の嗚咽する声だけが、しばらく辺りに響いていた。

 靴の裏が地面を擦る音で、誰かが近づいてくるのが分かった。

 こんな場所に来るもの好きは、私の知る中でひとりしかいない。

「なにがあった? 香坂が戻って来ないから、みんなが心配してる」

 すすり泣く私の上から言葉が降ってくる。

 どうしてか、大溝くんには見られたくない部分を見られてしまう。
 こんな私、誰にも知られたくなんかないのに。

「……!」

 すると、ふわりと私を包み込むようにして、抱きしめられる。

 丸まった膝ごと、すっぽりと。

 そのことにびっくりして一瞬涙が止まるけど、それも次には意味を成さなくなる。

「泣け泣け。ずっとそうやってため込むから、こんな風になっちまうんだよ」

 私をゆるく抱きしめながら、とんとんと子供をあやすように背中を叩かれる。

 それを皮切りに、とめどなくまた涙が零れた。







 擦った目元は赤く腫れているだろう。

 クラスに戻れるわけもなく、途方に暮れる。
 一応体調が悪いとメッセージだけ送ったけれど、気付いてくれる人がいるかは疑問だ。

「おさまった?」

「……うん、ありがと」

 どれくらいそうしてくれていたのだろうか。

 すごく長い時間だったような気もするし、短い時間だったような気もする。

 抱きしめられた体が離されて外気に触れると、名残惜しさのようなものを感じてしまう。

「目、真っ赤になってる」

「あんまり、見ないで」

 急に恥ずかしくなってそう言うと、ちょっと来いと腕を引っ張られた。

 触れられたそこから大溝くんの体温が伝わって、気恥ずかしい。

 胸もどきどきする。
 さっき抱きしめられたその名残だろうか。

「……ここって?」

「俺がよく来る場所」

 大溝くんに引っ張られ、人を避けながら連れてこられた場所は中庭を抜けた先。

 小さな森のようになっているその場所には、ぽつんと置かれたベンチだけがある。

 誰からも忘れ去られたような、静寂をまとう場所だった。

「いつもひとりで、ここで飯食って寝てた」

 そう言って慣れたように古びたベンチに座り、隣りを手で叩かれる。

 来い、ということだろう。

 遠慮気味に少しだけ間を空けて座ると、木の軋む音がする。

 上を見上げれば木々の隙間を縫って、木漏れ日がさす。

 なんて綺麗な場所だろうと、そう思った。

 ——パシャ。

 また例の音が聞こえて隣りを見れば、写真を撮り終えた大溝くんは満足そうな顔でそれを眺めている。

 それきり、大溝くんはなにも喋らなかった。

 私が喋り出すのを待っているのかもしれない。

 ……ううん、本当は私が聞いてほしくて、そう思いたいだけなのかも。

 見た目に反して優しい大溝くんは、たとえ聞きたくなくても、話せば親身になって聞いてくれるのだろう。

 そう思ってあの日のように、彼に話し出した。

 進路のこと、お母さんと喧嘩をしたこと、一方的にひどいことを言ったこと。

 彼は言うだろう、謝ればいいと。
 たったそれだけのことだと。

 案の定、「悪いと思ったんならそう言えばいい」と、正論を振りかざした。

 そうできないから悩むのに。

 だけど大溝くんの言っていることは正しいから、ぐうの音も出ない。
 それが一番正しいのは、私だってわかってるんだ。

「素直になる練習だって言っただろ」

 そう言われても、急にはなかなか難しい。

 だって、言っても言っても、伝わらないことの方が多かった。

 窓を閉めてとか、ゴミは捨ててとか、服は脱ぎ散らかさないでとか。
 そんな些細なことでさえうまく伝わらないのに。

「何回でも言えばいいじゃん。書き置きだっけ? それもしつこいくらい、何回でも書けばいいじゃん。言うのなんてタダなんだから」

「そうかもしれない、けど」

 いつの日からか、私にとって伝えることは、代償つきになった。
 ひとつなにか伝えるたびに、減っていくのは私の心で。

 本当ならタダなのに、そうなってしまったのは諦めが早い自分のせいでもあるのだろう。

 本当にため息ものだ。

 そんな私の様子に上を見ながらうーんと唸って、大溝くんはいろいろと考えてくれるけど、こればかりは私の勇気の問題だ。

 正直、声をかける勇気すらないのだ。

 お母さんの目に私を映してほしくないとさえ、思うのだ。

「文化祭、来てもらったら。言えなくてもチケットくらい渡せるだろ。そこで謝ったら、ごめんて」

「渡せないよ……」

「いや、目につくとこに置いとくとかさあ」

「……そうだね」

 ほかになんかあるかなと大溝くんは考えてくれるけど、それ以上いい案は浮かびそうもなかった。

「はあー。もういざとなったらチケット投げとこ」

「投げやりだなあ。でも、それがいいと思う。運任せだけど」

 運にもすがりたいんだから、ほっといてほしい。

 さわさわと木々のこすれる音が、ほんの少しだけ涼しさを連れてくる。

「やっぱりさ、香坂は俺から見たら、あんな感じ」

 そこにはあの日と同じように、周りからはぐれてしまった早咲きの一輪のコスモスがひっそりとたたずんでいた。

 あんなふうに風に揺られてひとりでいられたら、幸せだろうと思う。

 本当に、大溝くんには私とこれがどんなふうに見えているのか、見当もつかない。
 私とあの花の、どこに似通った部分があると言うのだろう。

「なんか、寂しげなのに凛としてるところ。だけどたまに隠しきれなくて、さみしそうに揺れてるところ。そっくりじゃね?」

 そう、なのだろうか。
 私は大溝くんに、そんな風に見えているのか。

「それに、ああいう淡い色合い? 香坂に似合う気がする」

 恥ずかしげもなく言う大溝くんはぽつりとそう言った。

 そう言われた私は、恥ずかしさでいっぱいなのに。
 どうしてそう、いつもストレートに言えるんだろう。

 その勇気を、私に少しでいいから分けてほしい。

 変わらず上を見ている大溝くんの横顔はやっぱり眩しくて、うまく見つめることができなかった。