明け方から降り続いていた雨は弱まって、昼過ぎのいまはぽつぽつとした小雨に変わっていた。
夏休みに入ってからはからっと晴れた日が続いていたのに、珍しい。
窓の外を眺めながら、あの日のことを思い返す。
「はあー……。なにもかも消えてなくなっちゃえばいいのに」
ぽつりと呟いた言葉は耳に残ってしばらく消えない。
思い出せば出すほど真っ黒な感情が込み上げて、憂鬱な気持ちになる。
あの日、あんなことを言ったはいいもののほかに行く当てもなく、ほとぼりが冷めた頃に仕方なく家へと戻った。
やっぱり愛衣のことが心配だったし、お母さんが仕事に出かける少し前の時間に家へ着くように。
私を探すでもなく家で愛衣の面倒を見ていたらしいお母さんは、帰ってきた私の姿を見てほっとしたように一瞬表情を緩めた。
だけどすぐに私から視線をそらして、いつものように「愛衣ちゃんのこと、よろしく」と小さな声で言った後、いつものように仕事へ行った。
こんなことがあった日くらい、普通は仕事を休まないだろうか。
そもそも、帰ってこない自分の子供が心配じゃないのだろうか。
……考えても仕方のないことだと思い、なんにも知らないあどけない顔をした愛衣がお腹減ったと言うから、なにも食べさせていないことにもまた呆れて、急いでご飯を作ったりといつもと変わらない一日を終えた。
そこからはもう、ずっと拮抗状態だ。
拮抗、と言っていいのかはわからない。
よく言えばそう、悪く言えばいつも通り。
そんな感じの毎日を過ごしている。
去年の二の舞にならないように、『今年は休園届出さないでください』と書き置きしておいたのに、忘れっぽいのかわざとなのか、……たぶん後者だろう。
案の定今年も、夏休み中は子守りで予定は埋まっている。
もちろんお母さんだって毎日仕事に行くわけじゃなく、毎月数日の休みはある。
休みの日には普段より愛衣の相手をしてくれるけど、それでも体を休めていることが基本だから、結局は普段とそう変わりはない。
私はいったいいつ休めばいいのだろうと、ため息を吐く回数は増える一方だ。
休み前にあんなことがあったのに、それでもなにも変わらない。
相変わらず主婦のごとく終わっていく毎日に、嫌気がさすばかりだ。
◇
昼過ぎの空はいつもより暗いけど、止んできた雨にこのくらいなら傘はささなくてもよさそうだと、透明のビニール傘を腕に引っ掛け、歩き出す。
憂鬱な気分を払拭するかのごとく家事に精をだしていると、あっという間に午前中のうちにやるべきことのほとんどを終えてしまった。
午後からはゆったり優雅に過ごそうと思っていたけれど、やっと夏風邪が治って元気になった愛衣がお散歩したいとかわいいわがままを言った。
だから、買い出しがてら一緒に外へと繰り出した。
アパートを出て左に進むと学校で、右に進むといつも行くスーパーがある。
「おねえちゃん、あっちからいきたい」
そう言って愛衣が指さした方は普段通らない道で、スーパーに行くには遠回りだ。
雨が降った後だし、病み上がりなのもあるからできればさくっと終わらせて帰りたいところ。
けれど、その小さな手を握って「行っちゃうー?」なんてにやりと私が笑うと愛衣もきゃっきゃと楽しそうに笑うから、少しだけ遠回りして買い物へ行くことに決めた。
我ながら、愛衣には甘いって思っちゃう。
かわいいから、しかたないんだけど。
黄色の雨合羽を着て少しだけ大きい長靴をぶかぶかさせて歩く姿は、まるであひるみたいだ。
まだまだ小さな後ろ姿に、来年はランドセルを背負って小学校へ通うんだなあと思うと、気が早いけど感慨深い。
そんなことを思ってしまうくらいには家事育児が板についている証拠だと思い、思わず苦笑いが漏れた。
普段あまり通らないこの道は、イチョウの並木道だ。
今は緑の葉っぱがちらほら見えるだけだけど、秋になると辺り一面黄金色に染まる。
すごくきれいで圧巻な光景なのに、雌木も植えられていて秋になると激臭が漂うから本当にもったいない。
二年後に植え替えが予定されていて、そのときには実のつかない雄木だけになるそうだけど。
そこを通り過ぎ歩みを進めるとちょっとだけ山の方に入り、住宅街とは違った静寂と草木の匂いがしてくる。
大きく息を吸い込むと、ほんのり湿った空気が肺にいきわたった。
もう少しだけまっすぐ歩き続けると大きな石段が見えてきて、上ると神社が見えてくる。
小さい頃、私はそこが好きだった。
お母さんとよく散歩で訪れた場所だから。
最近は来る暇もなくなって、足を運んだのは久しぶりだ。
スマホを見れば時間にはまだ余裕があって、迷わず石段を登っていった。
久しぶりに来た神社は、手入れが行き届いていてきれいだった。
葉が落ちる時期じゃないのもあるけれど、落ち葉は全然見当たらず、空気も澄み切っているように感じる。
「こんにちわあ」
愛衣がかわいらしく、賽銭箱の前に先にいた誰かに挨拶をした。
こんな辺鄙なところに人がいるのなんて見たことがなくて、少しだけ警戒してしまう。
体格のいい男の人の後ろ姿だから尚更だ。
握っている愛衣の手のひらを、さらに強くぎゅっと握りしめる。
すると、その声が自分に向けられていると気付いたらしいその人が振り返り、「こんちはー」と人のよさそうな笑みを浮かべ、目線を合わせるようにしゃがんで愛衣に挨拶する。
「あ……っ!」
「あ……?」
私が驚いた声を出すのも無理はない。
だってそれは、まごうことなき大溝くんだったから。
それも、目を覆い隠すようにしていた前髪が、ついになくなっている。
元々天然パーマなのだろうか、それを生かしたような爽やかな髪型をした彼が、そこにいた。
「あれ? 香坂、家この辺なの?」
大溝くんも私に気が付いて、あっけらかんと私に問う。
その姿にさっきまでの緊張の糸が緩んだ。
「うん、近く……」
「そーなんだ。俺はジョギングでこの辺まで来るんだ。びっくりしたわー」
「いや、私もびっくりしたよ。まさかこんな辺鄙なとこに人が、それも大溝くんがいるなんて思わないもん」
「辺鄙って。自分の地元だろー?」
陰って太陽の光は鈍いのに、わははと声に出して笑う大溝くんは、なぜだか眩しかった。
「ていうか、髪切ったんだね」
その私の言葉を待っていましたとばかりに、大溝くんは瞳を輝かせた。
「おー! 夏休みだし、クラスのやつらに会うこともねーし。久々に切ったわー! 視界が明るいのってやっぱいーな。どう? 変じゃねーか?」
早口で嬉しそうに伝えてくるこの人の、どこが怖いと思っていたんだろう。
関わりたくないなんて、思っていたんだろう。
そう考えてしまうくらいには、大溝くんは普通の男の子だ。
そんな彼に「変じゃないよ、似合ってる」と答えると照れくさそうに笑うから、なんだかかわいかった。
「この子、妹? かわいいな」
大溝くんは優しい笑みを浮かべて、愛衣の頭を撫でてくれる。
へえ、そういう顔もするんだなあ。
見かけによらず子供好き?
「おにいちゃん、おねえちゃんとおともだち?」
屈託のない瞳で大溝くんに話しかける愛衣を見守ると、「おー、おんなじクラス。よろしくなー」と愛衣とハイタッチまでし始めた。
「……普通に喋れるじゃん」
少しだけびっくりして言うと、大溝くんは「こんだけちっちゃい子ならさすがに大丈夫」と苦笑いを浮かべた。
話して満足したのか愛衣はその辺に落ちている石や落ち葉なんかを拾い集め、ひとりで遊びだした。
「近くにいてねー。ここまでしか行っちゃだめだからねー。向こうはだめだよー」
「はあい」
一応目だけで愛衣を見守りながら、ふうと一息つく。
「香坂が子守りしてんの? 休みなのに偉いなー」
「……いや、まあ。あはは」
「なんか、また歯切れ悪くね?」
前にも思ったけど、大溝くんには不思議な力があると思う。
素直に正直になんでもはっきりと言う彼だから、話してみてもいいかなと思えてしまう。
……まあ、大溝くんは実質学校で喋れるのが私くらいしかいないし、話したところでこれが周囲にばれることはないだろうと完全にたかをくくっているからかもしれない。
私がそんな風に失礼なことを考えているなんて思いもしないんだろうな。
「実はね……」
愛衣がひとりできゃっきゃと遊んでいるのを尻目に、この前の三者面談のことも合わせて大溝くんにかいつまんでうちの家のことを話した。
父親がいないこと。私の家での役割。
子守りも家事も担っていること、など。
話すと大溝くんは絶句していた。
「……それって、ヤングケアラーってやつ?」
「ああ、そうかも」
ヤングケアラーっていうのは平たく言うと、十八歳未満の子供が大人に代わって家事や家族の世話をすることだ。
社会問題にもなっているから、そうやって言葉にすると私ってつくづくかわいそうだなと思う。
まるで他人事のように聞こえるかもしれないけれど。
「ふーん。だからあれか、香坂は気にしいなんだな」
「……!」
少しの情報しか与えていないのに、私の性格にまつわる所以みたいなところまで探り当ててくるから、本当に大溝くんはあなどれない。
いままで周りにいなかったタイプの男の人だと思う。
……いや、そもそもいままでの人生で深く男の人と関わることなんてなかったから、比べる対象がいないだけなんだけど。
それでも、いままで誰にも話すことのなかった苦労話を、いとも簡単に読み解いてくれる人がいるなんて考えたことがなかったから、やっぱり大溝くんが特別すごいのだと思う。
「……こんな話聞いたら、普通引かない?」
「はあ? なんで引くの? 誰より頑張ってるのに、引くわけねーだろ」
「……そっか」
大溝くんにとってはなんてことのない、ただの一言だったと思う。
だからこそ余計にその言葉が胸に沁みて、嬉しいのに痛かった。
ふと、木の脇に咲いた一輪の花が目に入る。
ひとつだけぽつっと咲くそれは、季節より少し早い、コスモスの花だった。
「なんか、香坂みてーだな」
「……そう?」
同じようにコスモスを眺める大溝くんが、そう言った。
どんなところがそう思うのだろうと、気になったけど聞けなかった。
どうせ、しょうもない理由だ。
「おっ、晴れて来たなー」
「ほんとだ」
ずっと曇り空だったのに急に晴れ間が差す。
雲が裂けて現れた空は驚くほど真っ青で、まるで私の心みたい。
……なんだか『ダンデさん』の投稿を思い出してしまった。
真似てみようと思い、バッグに入れていたスマホを取り出して、空にかざす。
パシャと小さな音が鳴り、空をそのまま切り出したような写真が、画面に映る。
我ながらうまく撮れたんじゃない?なんて自画自賛する。
——パシャ。
すると、隣りからも同じような音が聞こえてきた。
振り返ると、大溝くんも同じように空へスマホを向けて写真を撮っていた。
「見てみ。結構うまく撮れた」
満足そうに言って見せてくれた画面には切り裂かれた空が鮮明に映し出されて、灰色と青のコントラストが目に鮮やかだった。
私が撮ったものよりもはるかに綺麗だ。
そして、その写真にどこか既視感を覚える。
「……写真、好きなの?」
「おー、毎日撮るよ」
「……そうなんだ」
ふと頭によぎったのは、『ダンデさん』のこと。
あの人も毎日写真を撮り、決まった時間に投稿している。
あのハッシュタグは大溝くんからは想像つかないほど鬱々としている。
だけど、学校に馴染めていないことを考えたらあのハッシュタグで投稿していないとも言い切れなくて、私の中の『ダンデさん』像は、このとき限りなく『大溝くん』に近づいていた。
こんなに身近にいるなんて、考えたこともなかったけれど。
「あのさ、突拍子もないことかもしれないんだけど、聞いてもいい……?」
「どうせだめって言っても聞くんだろ?」
したことのある会話の流れに苦笑して、いまだ画面を満足そうに見つめる大溝くんに口を開こうとした。
「あのさ、SNSのハッシュタグ——」
言いかけた瞬間、私たちのスマホから同時におんなじ通知音が鳴った。
出しかけた言葉を一旦止めたまんま、大溝くんと顔を見合わせてスマホを見る。
『急ですが、調理室の使用許可が下りました
明後日、たこ焼きとベビーカステラの試作第一回目を行います
たこ焼き機を持って来れる人、また、明後日参加できる人
人数把握したいのでコメントください!
貴重な夏休みの一日ですが、
たくさんのひとが参加してくれるとうれしいなー!』
「クラスのグループメッセージだったね」
「おう、にしても急だな」
「……大溝くんは行く?」
大溝くんが行くなら、行きたいと思った。
どうしてかはわからないけれど、そう思った。
私の言葉に空を見上げて考えるように、大溝くんが言う。
「香坂は行くの?」
「私は……、」
行きたい。
そう言おうとして口をつぐむ。
だけど、愛衣の世話がある。
明日、お母さんは休みだろうか。
休みでも大した面倒は見れないんだろうけど、いないよりはましだ。
カレンダーに休みの日に丸をつけてと頼んだのにそれすらも忘れるんだから、私にはお母さんのスケジュールを把握しようがない。
「香坂は、行きたいの?」
考え込んでいると、大溝くんに顔を覗き込まれる。
いままでは髪で隠れていたからわからなかったけど、よく見ると綺麗なビー玉のように透き通る目をしている大溝くん。
じっと覗き込まれると、見えちゃいけない部分まで見透かされそうで、少しだけ怖い。
だけど顔の造形がすごく綺麗で、思わず見とれてしまいそうにもなる。
肌なんかきめ細かくて、毛穴もないし。
私なんか、きっと近くで見たらぼろぼろだ。
そう思うと急に恥ずかしくなった。
「……行きたい、けど」
目をそらしながら答える。
あからさまだっただろうか。
でも、仕方ないよね。
大体大雑把な大溝くんの目には、私のこんな態度も小さなことのように映るだろう。
「なに、行かねーの?」
「だって……」
無邪気に小石で遊ぶ愛衣へ、ちらっと視線を送る。
その意味に気付いた様子の大溝くんは「ああ、難儀だな」と、またいつぞやの私が大溝くんに思ったのと同じことを呟いた。
私たちが愛衣を見ていることに気付いたのか、にこにこ笑って近づいてくる。
「なんのおはなししてるのー?」
大溝くんの服の裾を引っ張りながら言う愛衣。
「愛衣ちゃん、お兄ちゃんのお洋服伸びちゃうから引っ張るのやめようね」
「はあい、おにいちゃん、ごめんね」
「素直でかわいーな、誰かさんとは真反対の性格だなー」
また愛衣と視線を合わせるようにしてしゃがんだ大溝くんは、よしよしと愛衣の頭を撫でくり回した。
誰かさん、というのは私のことだろう。
むっとして大溝くんを見ると「悪かったって」と笑いながら謝られる。
「おにいちゃん、なにおはなししてたの?」
くりくりの目をきらきらさせて大溝くんに再度問いかける。
よほど会話の内容が気になるらしい。
最近はどろどろとしたドラマを見逃し配信で勝手に見ているし、だいぶマセてきたというかなんというか。
少しでも大人の仲間入りをしたくて、会話に交ざりたいのだろう。
「明後日学校で集まりがあるんだけど、ねーちゃん行きたいけどおまえのかーちゃんが休みかわからないから困ってんだって」
さっきの会話を要約し、大溝くんは愛衣に言う。
そんなことを愛衣に言ったってどうしようもないのに、真剣に話している様子がほんの少しだけ笑える。
「あさって……あしたのつぎのひ?」
「おー、そうそう。かしこいな、妹よ」
そう言ってまたわしわしと愛衣の猫毛を撫でまわしているせいで、頭は綿毛のようにぼさぼさだ。
けれど、愛衣はまんざらでもない顔で「えへへ」と声を出して笑っている。
……喜んでいるから、別にいいか。
かわいい髪型にしてと言われて朝頑張ってやった編み込みヘアーは、見るも無残な姿になっているけれど。
「ママね、あしたのつぎのひはおやすみだっていってたよー。ういちゃんとこーえんいくって、やくそくした!」
えっへんというように腰に手を当てふんぞり返る愛衣の言葉に、瞳を丸くした大溝くんと目があった。
「……香坂、明後日行く?」
「……うん、行く」
「決まり、な」
俺も行くからいろいろよろしくと小声で言われ、どうしようもなくわくわくした。
「じゃあ、空も晴れたし、続き走りに行くわ」
「あ、うん」
「おにいちゃん、またねー」
「おう、またなー」
そう言って爽やかに笑って走り去っていく大溝くんの後ろ姿を見ていると、教室ではあんななのがまるで嘘のように思えてくる。
……不思議だな。
つい最近までは関わることなんてないと思ってた人なのに。
「あのおにいちゃん、おねえちゃんのこれ?」
ぼーっと遠くなっていく背中を見送っていると、愛衣がまさかの親指を立てて示唆してくる。
「えっ、え? 愛衣ちゃん、そんなのどこで覚えてきたの!」
その親指が指し示すもの、つまり愛衣が言いたいのは「大溝くんは私の彼氏なの?」ということだろう。
周りには誰もいないのに、焦ってそのハンドサインをやめさせた。
この年頃の子は、どこでなにを聞いているかわからない。
こういったことを唐突に覚えたりするから気が抜けない。
あのSNSのハッシュタグのことを聞く機会を逃したことに気が付いたけど、思った以上に上機嫌な愛衣を見て、まあいいかと思えた。
心地よい風が足元を通り、私の黒い髪を空へ誘うように吹き抜けていった。