1
「それでは二人組をつくってください」
実行委員の三年生の指示で、講堂に集まった生徒たちが一斉に動き出す。
仲のいい生徒たち、かねてより約束していた友人同士がどんどんペアをつくっていくのを、脇坂真礼子はしばらくその場で眺めていた。
一応、私語はするなと言われているけれど、数十名の女子たちが、歩み寄り、手を取り合えば、にぎやかなさざめきの花が咲く。
やがて生徒たちの動きが落ち着いてきたところで、真礼子は歩き出す。こちらもはじめから同じ場所で立ち尽くしている大葉戌花(いぬか)へ近寄り、手を差し出した。
「戌花さん、いいわよね?」
戌花ははっと顔を上げ、真礼子を見て、きょろきょろとあたりを振り返ってから、
「あ、はい。真礼子さん」
小さく頭を下げた。
(ふん、おあいにく。あなたとペアになろうって子はいないわよ。私が嫌なら、嫌とはっきり言ってごらんなさい)
真礼子は戌花と並んで順番を待つ。ほどなく、青いリボン胸章をつけた実行委員に呼ばれ、講堂の隣にある特設教室に案内される。暗幕の張られた室内はLEDランタンで照らされ、机を左右にどかされたスペースに、ベニヤ板を組んだ、もうひとつ長細い部屋がセッティングされていた。
実行委員が真礼子たちに、手振りでそれぞれの両端に分かれるよう促した。
「両方の扉から入って、進みなさい」
(おごそかな声まで出しちゃって。どうせお遊びなのに、バカバカしいこと)
内心悪態をつきながらにこやかにうなずき、真礼子は扉の前に進む。ノブを回して入ると、やや遅れて前の方から、戌花が入室したらしい音がする。
入ってすぐ、また扉に仕切られた小さな部屋になっている。教室と同じ机があり、
古ぼけたメモ帳が開いている。生年月日を書き、ページをちぎって机の引き出しに入れる。
そのまま奥を手探りし、つまみ上げたものを手のひらに乗せる。いびつな丸いドングリといった形状の、ハシバミの実だ。
扉を開けて次の部屋に入る。また次の扉に仕切られた部屋の右側に、無味乾燥な、オフィスにあるような引き出しのずらり並んだ書類整理ケースが置かれている。ケースにかけられた布に、放射状に8つに分けられた円が描かれている。その上に真礼子はハシバミの実を投げて転がす。割り振られた数字に対応する引き出しから、白いカードを適当に選んでつまみ出す。
最後の扉を開けると、ドアベルがりんと鳴る。
「二人がそろったら、歩み寄って、水にカードを浸して。数字が出ても、決して口に出してはいけません」
外から指示が聞こえる。長方形の部屋に天井はなく、上からランタンが吊るされている。部屋の真ん中を丸テーブルが仕切り、円形の水盤が置かれている。
正面の扉はなかなか開かない。
(何してるのよあの子。さっさとしなさいよ)
いらいらと真礼子は腕組みをして待つ。肘を指で叩き、それが数十回に及ぼうというところで、ようやく向かいの扉から戌花が顔を出した。おそるおそるうかがい、歩いてくる。真礼子もテーブルの前に進んだ。
白いカードを水に浸す。手近にある小さな水差しを取り上げ、傾けると、水盤に粘っこいしずくが垂れ、かすかに薔薇の芳香が立った。
間仕切りの向こうで戌花が真剣な顔で手を動かしている。やがて終わったのか、目を上げて真礼子と向き合った。
真礼子は小さくうなずき、テーブルごと水盤を半周させる。手前に来た戌花のカードを拾い上げると、背を向けた。
しばらく待っていると、白いカードにやがて、じわじわと数字が浮かび上がってくる。
(なんですって!?)
真礼子はあやうく決まりを破って声を上げるところだった。背後でドアベルが鳴り、戌花が出ていく気配がする。真礼子も気を取り直し、3つの扉を順に抜けて外へ出た。
教室の入口に戻り、二人で横に並ぶ。ナポレオンみたいな三角帽をかぶった実行委員長が、黒塗りの回収箱を差し出す。二人はそれぞれのカードを中に入れた。
「良いですか。この結果は二人だけの秘密です。お互いのほか、誰にも言ってはなりません。これは、一生涯の約束ですよ」
背後では実行委員たちが細長い部屋へ入り、次のペアの準備をはじめていた。
教室を出て真礼子はさっさと歩く。戌花の小刻みな足音がついてくる。
昇降口で靴に履き替え、中庭へ出る。小さな鐘楼の裏手に広がる木立に、先に儀式を済ませたペアらしき姿が散らばっている。声のとどかないよう距離をとり、真礼子はフェンス際まで歩いて振り返った。
「ここらへんでいいかしら」
真礼子は戌花に向き直る。
(一生涯の約束、ですって?)
腹腔から湧き上がる笑いがこぼれそうなのをぐっとこらえる。戌花は銀杏の幹に手を置き、硬い表情で真礼子を見ていた。
「あの、真礼子さん? どうして、私をカテーナに選んだんですか?」
「どうしてですって? なんでそんなこと聞くの」
都合の悪いことは聞き返すに限る。
「なんでって――」
戌花はうつむいて黙り込む。
(言えないわよね。ずっと自分を苛めてた、嫌がらせしていた相手が、なんでって)
そういうことは言えない、戌花という娘は。なぜって、そういう子だから。
「そんなことより、早く教えてちょうだい、私の余命を。私は、あとどのくらい生きるのかしら?」
真礼子は戌花に顔を近づける。戌花は組んだ指で口元を隠した。
「ええと、教えなくちゃいけない、かな」
「言ってほしいわね」
「黙っていても良いって、委員の人は」
「私は知りたいのよ」
真礼子が心おきなく教えるために。
「……年、です」
「え、聞こえないんだけど」
戌花は目を上げた。手を握りしめ、肩が突っ張っている。
「71年です。真礼子さん、カードに浮かんでいたわ。でも委員の人も、普通に外れることもあるからって……」
「そう、ありがとう。いいじゃない、87歳、平均寿命くらいだわ」
真礼子はほくそ笑む。ホッとしたように戌花が胸を押さえて梢を見上げた。その姿に、さっき浮かび上がった数字を、その単純な一本線を、真礼子は重ね合わせた。
(私の寿命なんて興味ないわ。戌花、あなたの生涯よ。そう、一生涯! あなたのそれは、あと1年だっていうのよ。しめて17年の生涯! おめでとう、大往生なものね!)
肩の触れる距離に寄り、ことさら優しげな声をつくってみる。
「良かったわね。あなたは私より長生きらしいわよ! 78年と出ていたわ。おめでとう戌花さん!」
戌花は慌てたように身をよじり、「あ、そ、そうなの?」と耳の先を赤くした。
神朴女学園は大正期に創立され、そこそこ歴史が長いということの他に、格別の特色はない。学力の水準は平均より少し上というだけで、保守的な女性観に基づく学園の方針も極端ではない。きわだって成果をあげている部活もなく、卒業生に有名人が多くいるわけでもない。
けれども、卒業生だけに存在を共有されている奇妙な習わしがあった。それが「余命宣告の儀」である。
2年次の5月、二週目の水曜日、三時間目に、生徒主導で儀式は行われる。「カテーナ」と呼ばれるペアを組んだ相手と、互いの残り寿命を見る。その数字を相手に教えるか、黙っているかは自由だが、二人だけの秘密として死ぬまで共有するのだ。
儀式にあたって約束させられることは二つ。
「嘘をつかないこと」
「信じすぎないこと」
である。
(真逆の内容じゃないの。嘘をつくのがいる前提の話じゃない)
入学後に儀式のことを知った真礼子ははじめ憤慨したが、すぐに愉快になった。ああ、そりゃ嘘もつくわよね。騙して、苦しめるために儀式をする人もいるわよね、と。
一年生で同じクラスになった戌花を、カテーナにするなら彼女と、真礼子は狙い定めていた。
嫌いだったからだ。
けれど、そこに大した理由はない。
戌花は愛想がよく、入学当初はクラスで人気があった。隙が多くて、誰しもつい話しかけてしまう雰囲気があり、教師たちの受けもいい。
おおむね小綺麗にまとまった目鼻立ちも、悪く言えば主張がなく、平穏にぼんやりしている。かたちのいい唇もどこかしまりがなく、くるりと巻いた睫毛ばかり印象に残る。
そんな、性格や容姿が気に入らなかったわけではない。けれど真礼子は、常に誰かが嫌いなのだ。受け答えが鈍臭いとか、距離感がおかしいとか。はじめの動機はなんだっていい。一度嫌いになれば、積極的に粗探しをしてさらに嫌いになる。
戌花がささいな失敗をすれば、
「大葉さんのおかげで余計な仕事が増えたわ。謝ってもくれないし」
と陰口を叩いてまわる。
教師と親しく話をしていれば、
「若い男だからって色目をつかって、みっともない」
そう誇張して言いふらす。
真礼子は合理的だ。妥協をしない。
勉強やスポーツはできる範囲で頑張っておく。清掃や委員会活動、奉仕活動もきちんとこなし、教師たちの心証を良くしておく。ことさら親しい友人はつくらないが、クラスメートに挨拶は欠かさない。嫌な上級生や教師相手となれば、誰より切れのある陰口を思いつくことに心を砕き、それを披露してウケを取る。そうやって、学校の中でポジションを維持する。
目をつけた戌花を、嫌い続けるために。
努力の甲斐あって、二学期のころから戌花は、なんとなくクラスで浮き始める。友人も減り、自覚したらしい本人もどこかおどおどするようになる。
「余命宣告の儀」を共に受けるカテーナは、イタリア語で「鎖」を意味する。余命などという、あまりに私的な秘密を共有するカテーナは、儀式ののち、特別な親密さでつながるようになる。卒業しても、互いの生活、家庭を持ったあとでも、関係は切れず、同い年の姉妹のような関係が続く。
だからこそ真礼子は、戌花を相手に選びたかった。
戌花を嫌う気持ちが高まるにつれ、一挙一投足が気に障るようになるにつれ、そんな相手とずっと離れがたい関係を結ぶ自分は、どれだけ不愉快だろうと。嫌われている苦痛と不快を引きずって、真礼子と秘密を分け合う戌花は、どれだけ不幸であるだろうと。
想像すると、楽しみで仕方がなかったのだ。
その意味では、戌花の余命が一年と出たのは真礼子にとって想定外ではあった。もちろん「余命宣告の儀」はつまるところ少女たちの「おまじない」にすぎない。まずその通りになることなどないだろうが、そのまま戌花に突きつけて落胆させるのも、つまらない。
(私との日々がずっと続くって、苦しみが長く続くって、あの子に思わせてやらないと)
すぐにそう考えを切り替えられた自分のことが、真礼子はおぞましく、そして誇らしかった。
――私はこういう人間なのだ。
「これであなたとは運命共同体ね!」
お互いの余命を伝え合って、自分の教室へ戻りながら、真礼子は前を歩く戌花に、喜色満面に声をかけた。
戌花はうっすら笑みを浮かべて真礼子を振り向いた。弱々しくそらされる瞳に、かすかに疎ましさがにじんだのを、真礼子は見逃さない。睫毛の先が震え、諦めの色が頬の上をすべる。乾いた唇をこじあけ、戌花はぎこちなく微笑んだ。
「う、うん。これからもよろしくね、真礼子さん」
このうじうじした一挙動。余命の予言なぞ実際どうでもよかった。彼女を騙していることが、なにより真礼子は嬉しいのだ。
2
カテーナの縁を結んだ二人は、儀式の後しばらくは、ことさら一緒にいたり、二人きりになろうとする。新婚「ごっこ」のようなもので、結婚同様、そのうち落ち着くけれど、しばらくは熱のこもった関係性を自ら演出するのだ。
真礼子も当然のようにそれに乗る。そういう習いだから、皆そうしてるから、だから仕方がないと、ため息などつきながら。
「それ、違うわ。あてはめる数字が逆じゃない」
「あ、そっか。ありがと真礼子さん」
「さっきも同じ間違い指摘したでしょ。私の話、聞いてないの? 馬鹿にしてるのかしら」
放課後に戌花のテスト勉強に付き合いながら、わざと強い言葉を混ぜる。
「ごめんなさい」
戌花はほとんど顔を上げない。真礼子は戌花のつむじだけ見ている。
カテーナなのだからと一緒に下校もする。二人の家はかなり離れているが、真礼子は戌花の家の近くまでわざわざ遠回りする。申し訳ないから、と戌花はもっと手前で別れようと言ったが、真礼子は聞く耳を持たなかった。
(一緒に居たくないんでしょう。そりゃそうよね)
購買カフェからテイクアウトしたタンブラーのコーヒーをすすり、真礼子は前を歩く小柄な背中に喋りかける。
「先週奉仕活動があったでしょう。児童園の飾り付け」
戌花は黙ってうなずく。
「ほら、3組の都築さん。知ってる? あの人と一緒にやったんだけど、都築さんさ、花のリース作る作業にすごく熱中して、やたら手の込んだの作って」
「手先が器用なのね」
「そうなんだけど、あの人、他の仕事をなーんにもやってくれないのよ。私が全部やって、子供は泣くし、さんざんでさ。だから、『それサボりと変わんないわよ』って言ってやったら、真っ赤な顔して出てって、戻ってこなくって。だから結局リースも未完成。無責任ったらないわ。ねえ、そう思わない?」
戌花は黙っている。細い肩に、癖っ毛がまとわりついている。
(そりゃ何も言えないわよね)
都築湊は、中学時代からの戌花の友人なのだ。奉仕活動をする前から真礼子はそのことを知っていた。
真礼子とのいきさつも、あるいは戌花の耳に入っているかもしれない。それも織り込み済みで、戌花の友達と知らぬふりをする。なんだったら、一緒になって悪口を言わせるよう仕向ける。こういったことを何度か仕向けている。戌花は苦笑いをして、当たり障りのない返事をするばかりだ。
去年の文化祭のころから、真礼子は戌花本人ではなく、彼女と親しくする人間を狙い撃ちにしていった。
クラスの出し物について意見がまとまらず、ちょっとした諍いになったのを利用して、非協力的なグループを教師に言いつけ、だらしない、いい加減とレッテルを貼る。
そのうちの逢田京夏という生徒が、ちょうど戌花と親しかった。たまたま放課後に京夏と二人で残ったとき、戌花の悪口を並べてやると、京夏は怒って掴みかかってきた。わざと一発叩かせ、教師がやってくると、真礼子は大げさに泣きわめき、絶対許さない、警察を呼ぶと言い張った。その後個別の話し合いではうってかわってしおらしく振る舞い、
『戌花さんのことを話してたら誤解させたみたいで。逢田さんは悪くないんです』
と謝って、京夏の暴力を際立たせた。
この件を最大限利用して、真礼子はうまく立ち回った。二年になって京夏が別のクラスになると、戌花と一緒にいることもなくなった。たまに目が合うと睨みつけてくるが、それもまた真礼子にとってはいい刺激である。
「余命宣告の儀」のころに戌花が一人取り残されるのは、まったく真礼子の狙いどおりだった。
もちろん、そんなことばかりしていれば真礼子に敵意を向ける者も出てくる。真礼子が陰口を叩いていれば、あからさまに引く生徒もいる。
けれど真礼子は、自分が嫌われることを怖いと思ったことがない。
(私は性格、最悪の女。ええ、わかってますとも)
わかっているから自分の評価にまるで期待していない。悪口、陰口で盛り上がれる仲間もいるが、彼女らもその場にいなければ真礼子をこきおろすだろうと思っている。
「脇坂ぁ。お前、友達いないだろ」
あからさまにこのように絡んでこないかぎり、相手にする必要はないと思っている。つまり白衣を着て、タバコの匂いをさせながら真礼子にそう言うこの矢坂という教師にしか、まともに言い返す必要もないというということだ。
美術準備室は校舎の西の端で、隣にある神社の鎮守の森に面して、さながら学園の辺境といった様相だ。窓の外に矢坂の愛車である古いピックアップトラックが停めてある。
「お前の口から人の悪口以外、聞いたことないもんな」
「余計なお世話です」
美術教師の矢坂は、真礼子を生まれたときから知っている近所の「お兄ちゃん」である。真礼子が小学校低学年ぐらいまで親同士の付き合いがあり、面倒を見てもらったこともある、らしい。ほとんど覚えていないけれども。
たまに真礼子は矢坂のもとを訪れる。何の用事もない。帆布と油絵の具の匂いが立ち込める部屋で、矢坂の出してくれるホットミルクを飲むだけだ。
「こういうとこにいると、いろいろ聞こえてくるんだよ。お前の噂もな。また趣味の悪いことやってるんだろ? 中学のころから変わんねえな」
矢坂は女子高の教師にあるまじき伝法な口をきく。
「何のことかわからないわ」
無精髭に眠たげな目で、矢坂は鉛筆を削っている。丁寧に往復するナイフの音が、時計のように二人の間を刻む。
「カテーナだっけ? あの儀式の、特別な友達ってやつ。あれ、お前にもできたんだろ」
「ええ」
「なんでそいつに嫌がらせしてるんだ。しつこくいびってるって聞いたぞ? そんなのが出来れば、お前のへそ曲がりもちったぁマシになるかって、おれは期待したんだぜ」
「嫌がらせなんてしてないわ」
「嘘つけ」
「そう思うなら、教師らしく、問題として取り上げればいいでしょ」
ふわぁ、と矢坂は大きなあくびをした。
「やだよめんどくせえ。クラス担任やらなくていいっていうから、こんな仕事してるのによ」
五分前の予鈴が聞こえて、真礼子は椅子から立ち上がる。準備室の扉を引き開けた真礼子に、
「よう脇坂。ちなみに、お前の余命ってあとどのくらいって出たわけ」
矢坂の無遠慮な声が飛んできた。
「秘密です。大葉さんと私だけの」
「憎まれっ子世にはばかるというからねえ。相当長生きしそうだな、お前」
真礼子は頭を下げて部屋を出る。渡り廊下から校舎に入り、階段を上ると、トイレの前に戌花の背中を見つけた。他に数名の生徒に囲まれて、横顔に笑顔が浮かんでいる。
真礼子の前で見せない笑い方だ。
(私の悪口でも話しているか、聞かされているか)
真礼子は戌花の後ろからゆっくり忍び寄って聞き耳を立てる。真礼子の名前を誰かが口にし、笑い声がこぼれる。戌花もつられたように笑う。そこへ一気に近づき、集団のすれすれを通り過ぎる。ぱっと話し声がやみ、戌花が真礼子をうかがう気配を、横顔で感じて、教室へ戻る。遅れてやってきた戌花に、目を上げてほほえみかける。
(楽しいでしょう? 誰かの陰口を言うのって。とっても)
こうやって日々を送れば、戌花はだんだん自分に似てくるのかもしれない。真礼子は想像した。ふわふわだった髪も風にそよがず、刺々しい光を目の奥に潜ませて徘徊する姿を。
人をあげつらい、蔑む言葉を口にする戌花を想像すると、真礼子は吐き気を催した。そうなればますます彼女を嫌うことができる。顔を見るのも耐え難く、乱暴に突っぱねて、真礼子自身も傷を負うかもしれない。我を忘れ、体面もかなぐり捨てて、汚い感情をさらけ出してしまうかもしれない。
そうなったら小さな破滅だ。世界に何も影響しない破滅だ。避けなければならない可能性と思いながらも、抗いがたい魅力を、真礼子は感じている。
家に帰ると真礼子は、母と自分の洗濯物を取り込み、母の仕込んでいった夕食の支度をする。病院勤務の母は週の半分は帰ってこない。
父親は、真礼子が小3のときに家を出ていった。
幼い真礼子にとっては、親というのは父親だった。在宅の仕事をし、真礼子の面倒をすべてみていた。真礼子の前では電話すらとらず、しじゅう話に耳を傾け、いつも穏やかだった。一度だって叱られた覚えがない。
まったく前触れもなく彼が消え、そのことについて母はあまり話そうとせず、なんとなく察した真礼子も事情を聞こうとしなかった。以来一度も父に会ってはいない。
母とは顔を合わせれば、テレビ番組や、話題のニュース、世界で起きている戦争や災害のことをよく話す。コメンテーターか何かのように、何も関係のないことがらを、さも自分たちのことのように熱心に喋り合う。
正義だとか真実だとか、気軽に口に出す。学校のことは話さない。たまに母も、成績を聞いてくるぐらいだ。
「余命宣告の儀」からひと月過ぎた6月の半ばのことだ。真礼子は不意に、戌花を嫌うようになった最初のきっかけを思い出した。
それは香水であり、その日、同じ香りを戌花が漂わせていたからだ。
チョコレート系のフレグランス。
以前に戌花からその匂いがしたのは一年次の夏で、甘い香りはうっすらとしていたがわかりやすく、近寄ればすぐに気がついたのに、教師の誰も彼女を校則違反だと注意しなかったのだ。担任にそれとなく言いつけても、
『明日もつけてたら注意する』
などと言うのだ。それまで真礼子の中でどうでもいい存在だった戌花が、嫌いという分別をされた瞬間だった。
クラスメートがふざけて襟に吹きかけたのだと、戌花は後になって言い訳をした。
けれど今回は、そのときよりはっきりと匂いがした。戌花は放課後になって生活指導室に呼ばれ、一時間ほど帰ってこなかった。
「怒られちゃった」
伏し目に笑いながら彼女が戻ってくるまで、真礼子はよくわからない緊張と戦っていた。
「当たり前でしょう。わかりきってるのに、馬鹿じゃないの」
「うん、そうだね」
「あなたそれ、自分でつけたの? 校則違反だと知ってて?」
「朝、なんとなく袖に吹き付けたら、匂いとれなくなっちゃって」
「信じられないわ」
能天気に戌花は髪をかきあげ、そこからまた甘い香りが立つ。珍しく自分から「帰ろう」とかばんを持った戌花が無性に腹立たしく、真礼子は一言も喋らずについて歩いた。
月末の体育祭に向けて準備が始まる。学年縦割りのクラス対抗リレーに、陸上部や運動部の子たちが集中し、もうひとつのスウェーデンリレーのメンバーが直前まで決まらなかった。
「はい。私出ます。それから」
重い雰囲気のホームルームで、いきなり戌花が手を上げたので、真礼子は驚き、周りもざわっとどよめいた。自分から発言したこともだが、運動音痴ぶりでも皆の知るところで、まさかの行動だったからである。
「脇坂さんも一緒に出よう。ね?」
肩越しに振り返った戌花に、真礼子は挑戦されている気分になる。
(何、どういうつもりよ。恥をかきたいのかしら)
当日、真礼子はアンカーで、戌花はその前の走者だった。一人に抜かされて最後尾になった戌花は、それでも懸命に腕を振り、コーナーを回ってきた。みっともないくらい真っ赤な顔をしながら、一心に真礼子を見つめ、戌花は走ってくる。
「真礼子さん、お願い!」
バトンは手のひらに、痛いほどに打ち付けられた。
メンバー決めの動揺をまだ引きずったまま真礼子は走った。アンカーは校庭を一周する。一人を追い抜くと、わあっと歓声が耳元ではじける。もう一人追い抜いたが、三位でゴールになった。
しゃがみこんで荒い息をついていると、まだ赤い顔の戌花がやってきた。
「大丈夫? すごく頑張ったね! 真礼子さん」
(誰のせいで、こんな苦しい思いをしたっていうのかしら)
嫌味のひとつも言いたいが言葉にならない。戌花はかがみ込んで、いつまでも止まらない真礼子の汗をタオルに吸わせる。彼女の体温が近づいて余計に暑苦しいが、払い除けることもできなかった。
何かおかしい。
真礼子の中で、警報が鳴っていた。けれど自分が何を警戒しているのか、真礼子自身にもわからないのだ。
二人で日直をする。左右から黒板を消すのに、戌花は手付きが雑で、しかもチョークの粉をしっかり落とさないので、真ん中から半分だけ仕上がりに差ができてしまう。
「あっはは、これはひどい」
それを眺めてへらへらと笑うので、真礼子は「ちゃんとしなさい!」と怒鳴りつけてやる。首をすくめた戌花はクリーナーに黒板消しを置き、思いついたように顔を上げた。
「ねえ、真礼子さん。期末テスト終わったらさ、一緒に買い物に行こうよ」
「はあ? 何言ってるの」
苛立ちの残った声で教壇から下りた真礼子に、戌花はにっこり笑いかけた。
(どうせ口約束でしょう。私からは一切何もしないでおこう。それで予定が流れたら、後から嫌味を言ってあげるわ)
そう思いつつ、やっぱり大きなストロークで黒板を拭く戌花を、後ろから叱りつける。
教育実習の時期に、クリスという、ハーフの男子大学生がやってきた。大きな体で声が小さく、いつも緊張してどもり気味で、少女たちの嘲笑の種になっていた。真礼子もクラスメートや、あるいは毒舌を聞いてくれる友人相手に、彼についての辛辣な冗談で笑いを稼いだものだった。
彼の実習も終わりが近づき、一人で授業を担当した折に、準備に手違いがあったらしく、教卓でうつむいて2,3分も黙り込んでしまった。皆くすくす笑い、あからさまなため息があちこちで漏れる。クリスは赤面して必死にバインダーをめくり、それがさらに乾いた笑いを呼んだ。
すると戌花がいきなり立ち上がり、教室をぐるっと見回した。
「ねえ静かにしようよ。先生困ってるじゃない」
凛とした声で、全員が口をつぐむ。教壇のクリスに向かって戌花は、「がんばって! 待ってるから」と励まし、今度は温かい笑いが教室に浮かんだ。
「なんか近頃、すっごくうざいのよねあの子」
前々から戌花の話を聞かせて笑い者にしてきた、中学からの顔なじみに図書室で会い、思わず愚痴をこぼすと、真穂というその生徒はげらげら笑った。
「いや真礼子あんた、嫌いだからいいんだって前に言ってたじゃん」
「そうなんだけど。ちょっと鼻につくっていうか、生意気なのよ」
「おっカテーナ離婚しちゃうかあ? そういうペアもけっこういるってさ」
真穂を相手どっての戌花「ディスり」はいつもどおり盛り上がったが、いつものようには真礼子は、気分よくなれなかった。
期末テストの最終日の夜に、戌花から電話がかかってきた。土曜に行きたいというショッピングセンターの場所と、待ち合わせの時間。あっという間に戌花のペースで決まってしまう。
(学校と関係ない時間、あなた私と会いたくないでしょう?)
そもそも友達と出かけることもない真礼子は、服選びに手間取り、待ち合わせにだいぶ遅れてしまった。
いかにもガーリッシュなパステルカラーにジャンパースカートをあわせた戌花は、勝手知ったる風に先に立って歩き出したはいいが、ショッピングセンターの場所はうろ覚え、中に入っても店の場所をまったく知らず、エスカレーターを上ったり下りたり、広大な施設内をさんざんに真礼子を連れ回した。スマホで調べたり、案内板を探したりして、不機嫌な沈黙を貫こうと思っていた真礼子もそれどころでなく、カフェのオープンテラスに座り込んだときにはくたびれ切っていた。
「足が棒よ。まったく、計画性ないんだから」
大きなカップのオレンジティーを両手に抱えた戌花は、べったりテーブルに這いつくばって笑った。
「でも真礼子さんもけっこう方向音痴だよね」
「うるさい。あと行儀悪い」
家に帰ってベッドに潜ると、暗闇の中で戌花の声が遠く近く、いつまでも真礼子を包んで眠らせない。
(嫌いよ、戌花さん。あなたなんか)
そんなことはとうにわかっている。
嫌いだから一緒にいるのだ。
3
夏休みに入り、正直なところ真礼子はホッとしたのである。
休みの間は戌花に会う「必要」はないからだ。
それでなくとも、真礼子は夏が苦手だ。だらだらと暑気の引かない長い夕暮れなど、憂鬱でたまらず、あらゆるものに呪詛をこぼしたくなる。
だというのに、一番暑い昼下がりに、戌花が真礼子のマンションに訪ねてきた。
「何しに来たのよ」
エントランスには西日が照りつけ、冷房も焼け石に水だ。ブラウスにキュロットの戌花からは、干して乾いたタオルの匂いがした。
「花火やらない? 真礼子さん」
「嫌よ」
真礼子は即答した。炎天の下に戌花と出ていくなど、考えるだけで息が詰まりそうだった。
「運命共同体って言ったじゃない」
まばゆく反射するフロアに立ち、戌花はにこやかだったが、眼差しはくっきりと揺るぎなく真礼子に注がれていた。
真礼子がもう一度拒絶の言葉を探すより先に、「ね、行こ」と戌花は歩き出す。ウエストゴムのスカートを着替える暇もなく、真礼子は思い切って暑さに飛び出した。
まだ盛夏ではないみずみずしい熱気が満ちている。戌花のバケットハットに巻かれた青いリボンがぴょんぴょん跳ねる。
河川敷の広場は土埃が舞っている。まだ日が高いというのに、戌花はさっさと花火の袋をあけた。
「ちょっとちょっと、まだ明るいでしょう! 第一ここで花火なんてしていいの」
「水あるから平気、平気」
戌花はいきなりロケット花火を打ち上げる。くすんだ青空にひょろろろ、とかなり大きな音が響いて、近くのバスケットコートにいる人たちが振り返る。
色の変わる花火を渡されるが、日差しの下では火花が白く噴くばかりで赤も緑もわからない。
暑い。
いつの間にか背中から脇から汗でぐっしょりだ。戌花は大きくスパークする花火を、両手に持って新体操のようにくるくる回った。
「あははは! やっぱり夜にならないとぜんぜん火が見えないね」
一人で大受けして、笑い転げている。
火薬の煙がたなびき、彼方で川面がきらめく。いったいどうして、こんな馬鹿馬鹿しいことにつきあっているのか。
腹立たしいのに心は緩慢に凪ぎわたり、悪態のひとつも浮かんでこない。影ひとつない白い河川敷に、真礼子の隠れる場所はなかった。
「ほんと暑いね、はい真礼子さん。どっちがいい?」
戌花が自販機で買ってきたペットボトルを二本差し出す。真礼子が紅茶を選ぶと、戌花は炭酸のキャップを開けてごくごくと半分ばかり飲んだ。
喉をすべる冷たい紅茶は、今まで飲んだことがないほどに美味しい。
「そもそも、7月に花火やってもなんか違うよね。やっぱり8月にならないとさ、雰囲気が出ないっていうか……。7月と8月じゃ暑さの質が違う気がするよね。8月って暑いけどしんみりするんだ。夏休み終わっちゃうっていうのはあるけど」
あごから首筋から汗のしずくを光らせて戌花は勝手に喋っている。寸詰まりな体型だけれど手や足が健康的に伸びやかで、もし本当にあと一年未満で彼女が死ぬなら、何が原因となるだろうと、真礼子はぼんやりと思った。
「……暑いのは嫌いよ。夏なんて大嫌い」
「私も!」
とてもそうは思えない。
さて残りの花火やっちゃうぞーと戌花が乗り出したところで、作業着姿の男性が二人やってきて、ここで花火はいけませんと丁寧に注意された。
戌花が空のボトルに水を汲んできて後始末をして、堤防に上る。傾き始めた日は黄色みを帯びている。
「気は済んだのかしら。もう帰るわ」
大人に叱られてくさくさした気分で背を向けた真礼子を「待った」と戌花が呼び止めた。振り向いて真礼子は睨んだ。
「何よ」
「もうちょっと一緒にいよう。そだ、熱中症になっちゃうから、真礼子さんにも帽子買ってあげる」
「いや、家はそこだから――」
「ね、いいじゃない」
マンションと反対方向に戌花は歩いていく。真礼子は部屋着で出てきたことが急に恥ずかしくなった。
5分ばかり歩くと駅前だ。ロータリー手前の道に小綺麗な店が並び、夏の装いの人々が行き交う。
「これとか似合いそう!」
とある店先で戌花に青いキャップを頭にのせられ、真礼子は正面の姿見で猫騙しをくらったような自分と対面する。
「真礼子さん今日はそれ被っとこうよ」
「いや、お財布持ってきていないわよ。それにあなたに買ってもらう理由なんてないし」
「私のリボンとおそろいだし、ぜんぜんおかしくないよ、ね?」
頓珍漢な返答をして、戌花はさっさとレジに持っていってしまう。差し出されたキャップを、不承不承真礼子は被った。
繁華街の街路樹で、なぜか大きなカブトムシを戌花が見つけてちょっとした騒ぎになる。虫が苦手な真礼子がひるむのに、戌花はためらいなく幹から取り上げ、欲しがった男の子に差し出した。
ファーストフード店に入り、「まだお昼食べてなかったんだ」と戌花は、三人分ばかりも注文してテーブルの上に盛大に並べる。それで「食べきれない」と言い出すので、文句を言いながら真礼子もフライドポテトをつまむ。
汗をかいた体に塩気が心地いい。
街の空がゆっくり暮れていく。店の前を、クラスメートの子たちが通りがかり、真礼子はキャップのつばを深く下ろした。
賑わいから一本道を離れたビジネス街を戻っていく。日焼け止めを塗ってこなかったことを真礼子は悔やんでいる。
「あなた、日焼け止め塗ってるの?」
「今日はバッチリだよ」
そう言いながら戌花の白い肌は赤らんでいる。二、三日したらまだら模様になっていそうだ。
「急に連れ出すから、私は焼けちゃうじゃないの。まったく、登校日にこんがり日焼け顔で皆に見られるなんて、恥ずかしいったらありゃしないわ」
「いいじゃない、小麦色の真礼子さんも」
角を折れるとビルのガラス壁一面に夕日が赤く輝き、真礼子はたじろいだ。遠い焦燥が、にわかに心の中に立ち込める。
戌花を置き去りに走り出したくなる。それは今まで戌花に向けていた嫌悪でも厭わしさからでもなく、はじめて感じた心細さからだった。その気持ちを知られたらと思うと耐え難く、鼓動が早くなる。
「戌花さん、私もう帰るから――」
すると前を歩いていたはずの戌花の姿が消えている。振り返ると、戌花は黒いツナギ姿の一団に向かい合い、何やら声を上げていた。
車道が歩道に切れ込んで広がったスペースに、大きなバイクが三台、縦に並んで停めてある。暑そうなツナギの男たちはそれぞれの持ち主らしい。
「乗せてくれるって!」
いきなり戌花からそんなことを言われ、真礼子はぽかんと立ちすくむ。近づいてきた男は意外に年配で、柔和な笑みを浮かべていた。
ほい、とヘルメットを渡されて真礼子は我に返る。
「危ないから、そこらへんぐるっと回るだけな」
ツナギの男は緑のバイクにまたがり、真礼子に向かって身をひねりタンデムシートを軽く叩いた。
「え、何よこれ」
「私、バイクの後ろに乗ってみたかったんです! ほら真礼子さんも、乗ってみようよ」
すでに戌花は前の、黒いバイクの後ろにまたがってヘルメットを被ろうとしていた。三人目の男が戌花のバッグと、二人の帽子を受け取り、「ここで待ってるから」と手を振る。
「ほら、君もちゃんとヘルメット被って。俺の予備だから臭かったらゴメンな」
半ば強引に頭をメットに押し込められる。整髪料の匂いが鼻をついた。
(冗談じゃない、なんで私がこんなことを!)
そう叫んでヘルメットを脱ぎ捨てようと思った。そこで真礼子は、棒立ちになった自分の影が、長く車線の真ん中まで伸びているのを見た。
夏の日が暮れる。真礼子の帰り着く一人の時間が、いつもどおりの自分の部屋が、とてつもなくおそろしく感じられた。喉がひりつき、声が出なくなった。
「あ、怖い? なら無理しなくってもいいよ」
バイザーを上げて男は目を細めている。戌花も真礼子にじっと振り返っていた。
真礼子は黙って手を差し出した。ぐいと力強く引かれて座ると、思ったよりシートは高い。
「しがみつかないで、僕の肩に手を、もう一方はシート押さえてて。ゆっくり走るからね」
ツナギの肩はごわごわしている。前のバイクにタンデムした戌花が、ヘルメットの顔をこちらに向けてうなずいた。
ほぼ同時に二台のバイクは唸りを上げた。地面が揺れて、振動が内腿を震わせる。浮き上がるような感覚がして、気づけばもう走り出していた。
耳元で風が鳴る。乾いたアスファルトがどんどん流れる。
交差点を曲がりこむと車体が大きく倒れ、真礼子は悲鳴を上げそうになった。鉄の馬は軽快に体を立て直し、速度を上げていく。
店が人が、木々が、あっという間に視界を飛んでいく。真礼子はいつの間にか、しっかり両手を回して運転する男にしがみついていた。
信号で前のバイクに並ぶ。タンデムシートで背をそらせ、戌花が目を輝かせている。何か真礼子に喋りかけているが、バイクの音で聞こえない。信号が変わると、真礼子たちのバイクが今度は前に出た。
堤防脇の道へ入る。さっき花火をしていた河川敷の道だ。堤防の上に道はせりあがり、対岸の街並みと、雲に見送られ落ちていく巨大な夕陽が視界に広がった。
果てしなくオレンジに染まった世界がゆっくり真礼子の背中へ回り込んでいく。まるで夏を追い抜いていくようで、もっと、もっと速くと、いつしか真礼子は心の中で叫んでいる。
あっという間に、元いた街角に二台は戻ってきた。エンジンを止めて降りた男が、真礼子の手を引いて助けてくれる。
「ありがとうございます」
「楽しかった? 嬉しいよ、君らみたいな若い子が一緒に乗ってくれて。高校生?」
「はい」
「じゃあ、うん、乗せといてなんだけどさ、知らないやつの後ろに気軽に乗ったりしない方がいいよ。おじさんとしての忠告な」
男は真礼子からヘルメットを受け取り、代わりに帽子を差し出した。二人を待っていた男が缶コーヒーを全員に配る。男たちは笑い合いながら身支度を整えるとそれぞれのバイクにまたがり、真礼子と戌花に手を振ると、なめらかにスタートした。正面の交差点を順々に右折して見えなくなっても、エンジンの轟きは街の谷間からしばらく聞こえていた。
歩き出す真礼子の膝からがくっと力が抜けた。
「はあ。戌花さんのおかげでひどい目にあったわ」
引っ込んだ汗がまた噴き出している。コーヒー缶を頬に当てた戌花が、真礼子を見上げた。
「真礼子さん、楽しくなかった?」
「楽しいとかより……一日に起きる出来事として、キャパオーバーって感じよ。疲れたわ」
「そうだね! まだ夏休み二日目なんだよね。ちょっとがっつき過ぎたかな?」
「家の前で待ってて。帽子とごはんのお金持ってくるから」
「え、後でもいいよぉ」
マンションに帰ると母は仕事に出ていて、真礼子は汗ふきシートで体を拭ってから財布をとり、向かいの公園で待っている戌花のところへ向かった。
「……私。小学生のときに、父親に捨てられたのよ」
ニコニコ近寄ってきた戌花にいきなり切り出したのは、親しみからではない。
同情してほしいわけでもない。家庭の事情を、分かち合おうと思ったわけでもない。
この夏の日が沈み切る前に、彼女との間に生まれた間延びした空気を、和やかさを、すべて台無しにしてやろうと真礼子は思っていたのだ。
戌花は目を丸くして黙っていた。
「こんなふうな夏の夕方で、こんな感じの公園だったわ。今日みたいに昼間、ずっと遊んでいて。夕方、父が来たの。一緒に家に帰るのかと思ったら、私に、ちょっと待っていてと言って。どこかへ歩いていったわ。長い、長い影を落としてね。それっきり戻ってこなかった」
だから夏の夕方は、キライ。
家々の屋根が赤く縁取られ、空はほとんど夜になっていた。
(どう? 一日はしゃいで遊んで、私を連れ回して。こんなこと聞かされて、後ろめたくなってるでしょう)
穴に落ち込んだ動物のように戌花は真礼子に見上げている。おかまいなく、真礼子はあらかじめ勘定した分の金額を財布からつまみ出し、戌花に差し出した。
のろのろと戌花が受け取る。
「じゃあね」
「真礼子さん」
背を向けようとすると、低い声で呼び止められた。
「真礼子さん」
戌花は顔をしかめている。眉にシワを寄せ、頬をすぼませて、唇を噛み締めている。
みっともない、実に可愛くない泣き顔だ。戌花は泣き出していた。細めた目に蓋をするように涙が盛り上がり、決壊して流れ落ちる。
「なんであなたが泣くの」
「なんでって……」
「安っぽい同情とかやめてよね。私は別に、悲しくないんだから」
しゃがみこんだ戌花がかばんを探り、昼間の花火の袋を引き出す。ひっくひっくしゃくりあげながら、線香花火を垂らし、ライターの火をあてた。
「ちょっとやめなさい、また怒られるわよ」
戌花は聞く耳を持たない。真礼子も膝を折って戌花と向かい合う。涙に濡れた顔のまま、腕をいっぱいに伸ばし、戌花は一心に燃える花火を見つめている。
真礼子もさかんに飛び散る光の繊維を見ていた。やがて火花が途切れ、赤く脈打った先端が力尽きて、ぽとりと落ちても、戌花はしばらく何も言わなかった。
やがて、手の甲でぐいと顔をぬぐった戌花が、青い暗がりに包まれて微笑んだ。
「真礼子さんって昔、おっきくなったらパパのお嫁さんになるー、って言ってたタイプ?」
二人はゆっくり立ち上がり、公園の出口へ歩き出した。
「どうしてよ。たぶん言ってないわ。言ってたとしても覚えてない」
「だよね。私は言ってた。ていうか小学生の真ん中くらいまで、けっこう本気だった。パパと結婚するんだって」
「今はどう?」
「ぜーんぜん。きらいじゃないけど」
街灯の丸い光の下で、戌花は肩を寄せた。髪の匂いがして、戌花は真礼子の肘に軽く触れた。
「今日はありがとう、真礼子さん。話してくれてありがとう。また遊ぼうね」
白いサンダルを鳴らして戌花は駆け出し、少し行ってから振り向いて手を振った。真礼子は曖昧に手を持ち上げてから、引き返した。
夏の長い夕方はようやく沈みきっていた。真礼子にはそれが、この夏のはじめての夜のような気がしたのだった。
八月真ん中の登校日に、真礼子は美術準備室を訪ねた。矢坂は畳のようなキャンバスを前に腕組みして座っていた。
「おう。涼みに来たならここは最悪だぞ」
「そうね」
小さな扇風機が熱風をかきまわす。男とタバコと、絵の具の匂いが部屋の上半分に立ち込めている。
「日焼けしたか?」
「そうなのよ。嫌になっちゃう」
「ふうん」
しばらく黙って木炭をくるくる回していた矢坂が、「この前見かけたぜ」とあくびしながら言う。
「何を?」
「お前と、カテーナの大葉だっけ。一緒に歩いてたな」
「ええ。あの子が毎日のように押しかけるせいよ。こんな色になってるのって」
戌花は二日、三日おきに真礼子に会いにやってくるのだった。一緒にウインドウショッピングをすることもあれば、真礼子の部屋で宿題をすることもある。
にやにやと矢坂は、無精髭をしごいた。
「よかったな。忙しくて」
「よくないわよ」
準備室を退出した真礼子の目の端に、ちらりと制服姿が横切った。
(戌花さん?)
今は使われていない焼却炉の方から、渡り廊下を横切って、戌花が小走りにやってくる。「真礼子さぁん。一緒に帰りましょ」
真礼子以上にしっかり日焼けをして、中庭を横切ろうとした彼女が、つるりと足をすべらせ、花壇の前に尻もちをついた。
「あたた」
「何やってるのよ。横着するから」
真礼子は驚いていた。装ったり、嘲ったりするためでない、自然な笑いを、自分が浮かべていることに。
甘くやわらかな声を、喉から生み出していることに。
戌花は立ち上がってスカートを払い、顔を赤らめて真礼子を待っていた。
4
真礼子は部活に入ったことがないし、委員会のようなものも積極的にやることはない。部活は時間の無駄と思っているし、委員会は生徒の「ごっこ」遊びにすぎないと決めつけていた。
けれども秋の、生徒会の立候補者を募る選挙管理委員会には、手を上げて参加した。委員は二人一組で、先に選ばれた戌花が困った顔をしていたからだ。
「いつもみたいに巻き込めばいいでしょ」
「そうだけど、これ面倒な仕事だから、真礼子さんに申し訳なくて」
「リレーでアンカー走るよりマシよ」
強制で一人、どうしても候補者を出さなければいけないからと担任に言われ、真礼子は食って掛かったものだ。
「誰もやりたがらない生徒会なんて、そもそも意義がありますか。もっとできることを増やして、生徒の自主性に任せるべきでしょう」
職員室での啖呵が役に立ったかはわからないが、その後すぐに真礼子のクラスから立候補する生徒が出て、彼女は次期会長に当選した。
クリスマスにははじめて戌花の家に招待された。戌花そっくりの父親がチキンを焼き、母親そっくりの弟が手品を見せてくれた。
「そういえば、カテーナって、儀式から一年目に贈り物をしあうんだよね」
真礼子からのプレゼントのキャンドルに火をつけ、目を細めてそんなことを言い出した戌花に、真礼子はどきりとした。
「何にしようかな。真礼子さん決めてる?」
「いいえ」
半年前、カードに浮かび上がった数字を、真礼子はあざやかに思い出した。
(あれはただのまじないよ。当たるわけがないんだから)
そうやって打ち消しても、罪悪感はざらざらといつまでも舌に残った。
「近頃さあ真礼子、あの子の悪口言わないじゃん。ひょっとして、好きになった?」
球技大会の合間、真穂と、悪口を聞かせ合ってきた友達数人からからかわれ、真礼子は噴然とした。
「好き? なによそれ」
(なによ、それ)
言葉の意味がわからない。
たまに距離をとろうと冷たい態度をとってもみた。けれど暖簾に腕押しで、どこを突っついても手応えはなく、戌花はいつもの位置にいる。真礼子は一連のそのやりとりで、毎度安心してしまう自分に気づかないふりをしていた。
三年生になって戌花とクラスが別れたが、昼休みには食堂の同じテーブルで昼食をとり、放課後はどちらかの教室まで迎えに行く。示し合わせなくても、そんな習慣を二人はずっとなぞっていた。
初夏になると、神朴女学園はまた独特の興奮に包まれる。二年生のクラスでは「余命宣告の儀」の案内が配られ、実行委員が説明会をし、参加者を募集する。「カテーナ」の申込みをするペアが、あちこちで見られる。
「ねえ真礼子さん。私去年から、二センチも背が伸びてたよ。まだ成長期なんだね」
身体測定のあった日、戌花は得意げに真礼子に言った。
「おっぱいもちょっとふくらんでた」
「おっぱいって……大声で言わないでよ」
確かに戌花は二センチどころじゃなく大きくなった気がした。猫背気味だったのが改善したのだろうと真礼子は思った。
「えーと、そうか、私の寿命あと77年! だっけ。ずっと成長してみせるからね」
「当たらないわよ、あんなの」
混ぜ返しながら穏やかではいられない。
(嘘ついてるって、この子に言いたい。言いたいけど)
白状して楽になってしまいたい。ほんとは一年だったのよと。ほんの冗談のような軽いノリで。
けれど、私達の関係が一年で終わるなんて思わないことね、と嘘をついたということは、万が一にも「余命宣告の儀」の結果が現実になり戌花が死ぬことを、真礼子が平然と看過したことを意味する。その底知れぬ醜さを、戌花に知られたらと思うと身がすくんだ。
(いったい私は何を気にしているの?)
真礼子は自分が二人に分かれたような気がしていた。戌花を傷つけて愉しんでいた自分は地続きに存在しているのに、まるで別人のようなことを考えてしまっている。
カテーナ一周年が近づくにつれ、真礼子は戌花といても、目を合わせられなくなっていた。
クラスメートの一人に休日、商店街で声をかけられる。やはり同じクラスのカテーナに贈るものを探しているという彼女に、しばらく真礼子は付き合い、いくつか店を回った。
「そういえばあの余命って、当たったためしなんてあるのかしら」
子供っぽいペアリングをしげしげ眺める彼女に、真礼子はさりげなく、そんな話を持ち出した。うーんと立てた指をあごに当てた彼女が、
「そもそも、卒業生もまだ存命の人が多いからね」
と言った。
「それはそうね」
「でも先輩に聞いたことあったなー。5年って余命が出た人が、5年後本当に車に撥ねられて死んじゃったって。いつごろの話か知らないけど……。そうだ、聞いて聞いてよ真礼子さん! 私達、余命の数字がまったく一緒だったんだよ!」
急にはしゃいだ彼女の声が、ぼんやり遠く響いていた。
「ねえ何か最近、悩み事? 進路とか?」
横並びで昼食をとっていて、いきなり戌花にそんなことを聞かれ、真礼子はひどく驚いた。
「どうして?」
「そんな気がしたよ」
「うるさいわね。あなたなんかに、心配されたくないわ」
「うん」
真礼子とカテーナになる前の、どこか不安定な目つきで、戌花は淋しげに笑い、スパゲッティをフォークに巻き付けた。
次の日から真礼子は熱を出し、三日休んだ。朝と夕方に戌花からメッセージが届いたが、既読をつけなかった。
四日目に熱が下がり、昼前に真礼子は登校して職員室で担任から連絡事項を聞いた。土曜だったので授業は終わっていたが、なんとなくそのまま帰りかね、矢坂のいる美術準備室に足を向けた。
渡り廊下を、前を歩く姿があった。戌花だった。呼び止めようと思ったが戌花の足の運びは早く、さっさと角を折れて準備室の方へ消えた。
(戌花さんが、矢坂先生に用事?)
美術部でもないのにと訝しく思っていると、準備室の扉が開いている。部屋の向こう側の窓に矢坂の車と、こちらに背を向けた矢坂の肩から上が見えた。
真礼子は校舎を回り込んだ。赤いピックアップトラックの荷台に寄りかかるように矢坂が立ち、その前に戌花がいた。
窓の向こうからでは背の低い彼女は見えなかったのだ。戌花は、矢坂の胸に頬をうずめて横顔を向け、しっかり手を回して彼に抱きついていた。
「あれ?」
間抜けな声が真礼子から出た。戌花の瞳がゆっくり真礼子をとらえる。矢坂が慌てたように真礼子に手を伸ばした。
「おい脇坂!」
その声に弾かれたように真礼子は背を向けて走り出す。――なんでどうして、あの二人はそういうことだったの?
人のいる方に戻りたくなくて、気がつくと戌花と余命を教えあった中庭の木立にまぎれている。真礼子の後ろから足音が近づき、手を握られ、強く引っ張られる。無理やり体を向かされ、木の幹に背中を押し付けられた。
「真礼子さん」
息を弾ませ、真礼子を組み敷く戌花は薄笑いを浮かべている。
「矢坂先生は、真礼子さんのお父さんじゃないんだよ」
振りほどこうとするが体に力が入らず、ひきつったように顔をそむけるしかできない。戌花は真礼子の足の間に膝を入れ、木に埋め込もうとでもするかのように押さえつけてくる。
「そんなの、そんなの当たり前じゃない、何を言ってるの」
「でも、寂しかったんでしょ?」
気恥ずかしさが怒りになって真礼子の全身を焦がした。汗と一緒に涙がこぼれ、必死に息を吸っても肺に入ってこない。
「だから会いに行ってた。私、知ってたよ」
戌花の唇がつりあがり、赤黒い口中に白い歯がぎらつく。真礼子のネクタイをしっかり捕まえ、喉笛に噛みつかんばかりに戌花は顔を寄せてきた。
「お父さんは、意地悪な真礼子さんが嫌いになったから、真礼子さんを捨てたんだよ」
ずるっと尻がすべり、真礼子はその場にへたり込んだ。手足の感覚がまったく失せていた。顔の表面だけが燃えているように熱い。表情を引っ込めた戌花はじっと真礼子を見据えていた。
くるっと踵を返し、戌花は校舎へ去っていく。昇降口にその後ろ姿が消えても、真礼子はスカートの膝に手を置き、うなだれて座っていた。
熱がぶり返したからと学校を休んだ。それから一週間、ほとんど家を出ずに真礼子は閉じこもった。
一週間目に母が部屋に来て言った。
「何かあったなら、しばらく休んだっていいわよ。あなたのこと、ずっと構ってあげられなかったから……そのくらいはね。でも、話せることがあったら、話してね」
学校に行かないでいるうちに「余命宣告の儀」の日がきて、カテーナ一周年が過ぎた。戌花からは電話もメッセージも来なかった。
(なんで何も言ってくれないの)
戌花の顔を、声を、今まで聞いた言葉を、真礼子は繰り返し思い出した。眠れば夢に見た。
(何か言ってよ、私に会いに来てよ)
恨めしさも憎しみもまるでなかった。矢坂に抱きついた彼女の姿ですら真礼子を幸福にした。
(戌花さん)
真礼子が学校に行かなくなって十日目からひどい雨が降り出した。線状降水帯が停滞して数日降り続き、真礼子の街でも川沿いの家が浸水した。病院に詰めた母は定期的に連絡をくれたが、ほとんど帰ってこなかった。真礼子は一人で、窓ガラスにくっつくようにして灰色の空ばかり眺めていた。
5
ようやく雨が途切れ途切れになり、晴れ間が覗いた日曜日、真礼子は生活品の買い足しにマンションを出た。
マンションの前で見覚えのある車を見た気がした。戻ってくると、赤いピックアップトラックから矢坂が降りてくる。
「おおい脇坂」
声をかけられたが聞こえないふりでエントランスに逃げ込む。エレベーターで上がり、ドアを開けると家の電話が鳴っている。
矢坂が下からかけているのかと少しためらったが、真礼子は受話器をとりあげた。
『大葉です』
それは戌花の母だった。雨がやんで、コンビニに出た戌花が戻らないので、真礼子のところまで行っていないかと聞く。
『うちの周り、まだ水が引いてなくって、川も増水したままだから、心配になって』
電話を切って、真礼子は自分のスマホで戌花の番号にかけたがつながらない。どこかで遠雷がきこえ、真礼子は自分ひとりの家の中をぐるぐる歩いて考えた。
(まさか、そんなことって)
スニーカーをはいて玄関を飛び出す。出たところですぐ戻り、去年に戌花が選んだ青いキャップをかぶって、また家を出た。
マンションの前に矢坂の車はまだ停まっていた。荷台にもたれてコーヒーを飲んでいた矢坂が顔をあげる。無精髭を剃り、よれよれだがスーツを着ていた。
「元気そうだな脇坂。お母さんに会えるか?」
「母は仕事です」
断りもせずに助手席に乗る。
「おい、どうしたんだよ」
矢坂も反対に回って運転席に乗り込んだ。
「先生、学校の近くまで乗せていって、降ろして」
「ん? あちこち水たまりばっかだぞ」
矢坂はじっと真礼子を見たが、何か感じ取ったのか黙ってハンドルを握り、キーをひねった。
「まれちゃん」
大通りに出て、矢坂は昔の呼び方をした。首筋がくすぐったく、仕方なく真礼子は矢坂を見た。
「先生なんか嫌いよ」
「お、可愛い反応するようになったな」
コーヒー臭い息を吐いて矢坂は笑う。思い出したように雨が、車の天井を叩いては止む。
「この前のあれな。お前は誤解してたみたいだが、大葉はわざとだぞ。お前に見せるためにな。だってあいつ、今まで俺と何の接点もなかったからな」
「何のために?」
真礼子はちらりと着信を確認する。戌花からの反応はいまだにない。
「知らん。本人に訊いてくれ。まったく冗談じゃねえぜ、生徒に抱きつかれてるのを見られたりしたら、こちとら懲戒、下手すりゃクビだってのによ」
ぶつくさ言いながらもどこか気楽な雰囲気だ。
「おい、こんなところで――」
学校の前の通りに出て、信号で停まったところで慌ただしくベルトをはずし、ドアを開けた真礼子に、矢坂は慌てて身を乗り出した。
「戌花さんに会いに行くの。心配しないで」
「ああ? ああ、気をつけろよ!」
振り返らず、真礼子は駆けていく。
いつも戌花を見送る分かれ道まで来る。小雨が吹き付けてきた。恩を着せるために戌花の家の近くまで余分に歩く帰り道が、喜びに変わっていたことを、今の真礼子ははっきり認めている。
(戌花さん。あなたが好きなんだわ)
土地が低いのか道は薄く冠水している。あきらめて靴を濡らして走る。いきなり間近で雷光がはしり、遅れて轟音が世界を揺らした。
でも、好き。好きって何? たいせつ、大事にしたい。そんなことを思ったこと、いままで私にはなかった。
(好きってどうすればいいの? 何を伝えたらいいいの?)
滝のように降ってくる。蹴り上げた水が背中から腰のあたりにかかる。
矢坂の話したこともどうでもよかった。戌花がそうして、真礼子を拒絶しようとしたことだけが辛かった。
(どうして、どうして。戌花さん、私が嫌いなの。いえ、嫌われても当然だわ。私は嫌なやつ。でも戌花さんはずっと一緒にいてくれたじゃない)
いかないで欲しい。離れないで欲しい。どこにいるの、今何を考えているの。どうして連絡がつかないの。
(余命が一年って、まさか、まさか)
当たっているの、あれが。この大雨による被害のニュースが頭をよぎる。何人か不明者も出ていた。いきなりぐぐっと、暗い予感が現実の手ざわりで浮かび上がってくる。
(嫌よ、嫌)
叩きつける雨で車道と歩道の境目がわからない。ずぶ濡れになって空を仰ぐ。いきなり、曲がり角から飛び出してきた小さな物体に足をすくわれ、真礼子は倒れ伏した。クラクションを鳴らしてすれすれを車が過ぎて、起こした波が体に打ち寄せる。身を起こすと、灰色の犬が振り返っていた。真礼子を転ばせたのはその犬らしい。
(嫌ってもいいわ。私を、罵ってくれてもいい)
全身濡れていないところがない。立ち上がると、ジーンズが鉛のようだった。一段高い歩道に足を乗せると、スニーカーの甲から水が噴き出した。
ぎらりと陽光がさした。唐突に雨が小降りになる。真礼子は坂を上った。そこからまた道が下っていく。
(でもいなくならないで。お願い。死なないで戌花さん。もうあなたのいないところで生きていける気がしないの、私は)
鉄道の高架が見えた。その下のくぐり抜けは大きく凹んでおり、ちょっとした池が出来上がっていた。
(生きていてよ、お願い!)
そこに人が浮かんでいた。
戌花だった。
目の奥がかっと熱くなる。転がるように真礼子は水際に駆け寄った。仰向けに、手足を広げた戌花は目を閉じている。
「戌花!」
真礼子は絶叫した。ゴミ袋や三角ポールを押しのけて腰まで水に分け入り、戌花の手を握った。
温かい。
「え、真礼子さん?」
ぱっちりと目を開き、戌花は首をもたげた。
「真礼子さん、何してるの?」
「……こっちの台詞よ」
「そうだね、あはは」
「こっちに来なさい」
すがりつく戌花と手と手をつなぎ、そろりと後退りをする。炭色の水はまるで見通せない。
「きゃ」
戌花が何かに躓いて倒れかかる。支えたものの真礼子も踵がすべって後ろにのけぞる。ぶつけないよう、とっさに戌花が後頭部を抱いて守ってくれる。真礼子のキャップが飛び、仰向けにアスファルトに倒れた真礼子に、戌花が折り重なった。膝のあたりから下は水たまりに浸かったままだ。
「犬がいたんだよー」
真礼子の上で身を起こして、戌花が長い息をつく。
「この水たまりで溺れてたから助けようとしたんだけどね。ぜんぜん私の助けいらなかったみたい。引っ張ろうとしたら飛び出してきて、はずみで私、ひっくり返って、もうぜんぶ濡れちゃってさ、もうなんかいいやって、馬鹿らしくなっちゃってさ」
先ほど、真礼子も転ばせた犬だろう。晴れた空からしゃああと雨が落ちてくる。戌花の髪はべったりと額や首筋に張り付き、まるで彼女自身が濡れた犬だ。
「そう」
何を言っていいのかわからず、けれど離れたくなくて、真礼子は重なり合った戌花の腰をしっかり抱き寄せていた。
「そろって濡れ鼠だね、真礼子さん」
「そうね」
「笑ってる?」
「笑うしかないでしょ、こんなの」
うん、と戌花は真礼子に体重をあずけ、ぴったり胸に頬をつけた。
「真礼子さんの心臓の音がするよ」
「ねえ」
「うん?」
「呼び捨ててちょうだい。真礼子って」
「……真礼子」
「戌花」
鼻先をくっつけて笑い合う。目を細めた戌花の唇が一瞬こわばり、彼女は苦しげにかぶりを振った。
「ごめんね真礼子」
「この前のことなら……」
「違うの。違わないけど。あのね、真礼子のこと、私はキライじゃなかったよ。真礼子は意地悪だし、きついこと言うし、私の友達の悪口も言ってたでしょう。許せないって思った。学校行きたくなかった。でもね、キライにならなかった。不思議だった」
遠く救急車のサイレンが行き過ぎる。耳元の路面を、ころころと雨水が流れ下る。
「何が好きなんだろうって、あるとき思ったの。じゃあ、いろんな真礼子さん、真礼子を見て、好きなところ拾っていこうって、決めたんだ。そしたら、気持ちがすごく楽になってさ。あなたのすることも、だんだんいとおしく思えるようになってさ。でも……」
真礼子は、胸を高鳴らせる不安に抗って、戌花の額に張り付いた髪を撫でつけた。顔を引き締めた戌花が思い切るように口を開く。
「でもね、どうしても真礼子を許せない気持ちも、私の中にずっとあったの。真礼子と遊んで楽しくても、その気持ちが消えないの。なくなってくれないの。だからね、一度だけ、ちゃんと真礼子に仕返ししようって、決めたの。矢坂先生のとこに行ってるの知ってたから、お父さんの話をしてくれたから、それで」
「うん」
「でも傷つけたね。ごめんね。あなたが休んでいる間、どうしていいのか、私わかんなかった」
「戌花」
あなたのくれたものを、私はゆっくり理解するのだろう。
「うん?」
「大好きよ」
真礼子のあごの下に戌花が鼻筋を押し込む。降りかかる雨の冷感のうちに、彼女のあたたかな息が胸元に広がっていく。
両の手、両方の足も密着させて、二人はじっとしていた。雨は目まぐるしく降り方を変え、日がさしては翳りまたさして、まるで早回しの世界に取り残されたようだった。
くすくすと戌花が、真礼子の胸で笑う。
「どうしたのよ」
「冷えたから、おしっこしたくなっちゃった。このまましていい? 真礼子」
「やめてよ、冗談じゃないわ」
助けが必要なのかと呼びかけて駆け寄ってくる足音がする。真礼子は名残惜しい気持ちで、戌花を抱きかかえて体を起こした。
カテーナ一周年からひと月後、真礼子は戌花に時計を贈った。金色のおメダイと一緒に戌花が真礼子に差し出したのはなんと、二輪教習所の案内である。
「免許取れるようになったらさ、一緒に行こうよ」
去年タンデムしてからずっと考えていたらしい。そこではじめて、一年前に見た余命の数字を告げると、「ええっ! 危機一髪じゃん」と戌花は目をむき、
「それさー。私がショックを受けるからとか、そういう善意で真礼子が嘘をついてくれたってことは……ないよね」
若干むくれて、それから困ったように笑った。真礼子は言葉につまり、
「ごめん」
と頭を下げた。
「うん、わかってる。わかってきたから、真礼子ってそういう人だから」
「余命宣告の儀」では、戌花のように一桁の数字が出ることも、そもそも数字が出ないことも珍しくなく、希望すれば「引き直し」ができるという暗黙のルールがあって、けっこう多くの生徒がそれをやっているらしい。そうと聞いた真礼子は実行委員に頼み、一学期の終業式の後に、またあの小屋に二人で入った。そこで見た余命は、真礼子については少し縮んだくらいだったが、戌花の数字は「101年」だったのだ。
「つまり、当てにならないってことよね」
「そう! 真礼子は大人になったら乳がん検診受けるんだよ。大きめなんだから」
「あれは大きさ関係ないでしょう」
真礼子はやはり、他人の粗探しを楽しんでしまう。抜群にセンスのいい罵倒を思いつくと口に出さずにはいられない。戌花は、隣で聞いて笑うこともあれば、「今のはよくないよ」と真顔で口を挟むこともある。
どこまでがセーフでアウトなのか、真礼子にはよくわからない。
(まあそのうち身につくのでしょう)
こんな戌花とずっと、一緒にいられたら。