❄️
「あ、降ってきた」
日が暮れるのと同時に、空中に白いものが舞い始めた。
微かに、雪の匂いがする。
一瞬で全身が凍り付くような風が吹いて、震えながらコーヒーの香りが漂う店内へと戻った。
「──三吉さん、外どうですか?」
「寒い寒い、風もあるし息真っ白だし めちゃくちゃ寒いよ。降ってきちゃったねえ」
「えーーやだ、ホワイト大晦日ですね~。せめて家に帰るまでは降らないで欲しい」
「ね、積もりはしないと思うけど……。今日はもうあまりお客様来ないだろうし、さくさく閉店作業終わらせて帰りましょう」
「はいっ」
十二月三十一日 午後六時二十分。
日中は客が途切れず忙しかったけれど、夕方くらいから少しずつ人が引き始めた。
レジに立つアルバイトの大学生が、「今日一日、三吉AMに店にいていただいてほんとに良かったです。今年も無事に終わりそうですー」と、ホッとした様子で微笑んだ。
年末年始の営業時間の変更により、今日はあと四十分程で閉店となる。今夜はなるべく早くスタッフの皆を帰した方が良さそうだ────。
大学卒業と同時に某コーヒーチェーン店に就職して、彼是十年近くになる。
本社勤務、新店舗の立ち上げや店舗改修、数店舗の店長業務を経て、今年の春からはA地区を担当するエリアマネージャーとして働いている。
担当する地区の店舗を管理する立場であり責任者であるため、やらなければならない事は数多くあり、特定の店舗のオペレーションをサポートするような事は通常はないのだが、この年末 私が担当している五店舗のうちの一つ、S田南中央店で異常事態が起きてしまった。
*
「──インフルですか。……え、四人!?」
『──はい、そうなんで、すっ、すみませゴオほっ、ゴホゴホッ』
スマホの向こうから、盛大な咳と共にその店の店長の悲痛な声が聞こえる。いつも聞き慣れている朗らかな彼女の声ではない。熱もかなり高いらしく、完全にアウトだ。
店長や副店長だけでなく、主力であるベテランのスタッフ数名が同時にインフルエンザに罹ってしまった。
余力のあるシフト組みはしていない。そうでなくても人の足りない年末年始のこの時期に、全体を任せられるリーダー的存在の人達が全滅……おおう、マジか。
そんな事ってある? と言いたくなるが、クリスマス前後は激混みで、今月の売上高は十二月としては過去最高を記録している。
休めずに無理して働いていたのかもしれない。疲れが溜まって免疫力が落ちて、結果的に感染が広がってしまったが。……仕方がない、と、頭の中で今後の事を組み立てる。
「大丈夫ですよ。今日から数日間は 私が店にいるようにしますから」
『三吉AMが、ですか? そんな……』
ええ、通常はあり得ないんですけれど、
致し方ない。背に腹は代えられない。
「今回は緊急事態なので そうします。何人かヘルプで来てもらえるかもしれませんし、こちらのことは心配しないで、ゆっくり休んで身体を治してください。スタッフにも私から連絡を入れますので」
『ず、ズみまぜん、ミヨシさん忙しいのに、申し訳ないでゴホッゴホッ──』
「店長、声がもう掠れて全然出てないもの。大根蜂蜜とか飲んで、あ、家に蜂蜜とか食べるものとかある?」
『……食パン、一斤は、あります』
笑っている場合ではないが笑ってしまった。とりあえず、頼れる人が身近にいるようなので安心する。
店長も副店長も、熱が下がれば来年の二日から働けると言う。これ以上感染者が出ないよう注意喚起をし、私がS田南中央店のヘルプに入ったのが、二日前のこと。
私自身は、年末年始を家でのんびり過ごすことなど、社会人になってからはほとんどない。毎年大晦日も元旦も店に出ていた。
もう何年もやってきた年末年始の過ごし方は身に沁みついていて、正直苦にならない。
大晦日は、実は私にとって特別な日でもあるのだが……。とはいえこの十年、例外なく仕事で埋まっていた。
*
裏で、少しだけ他の店舗の状況を確認するなど事務作業をしてから、再び店のカウンターへ戻った。
閉店まで残り二十分。
予想通り客の出入りは少なくなってきて、いないわけではないが人は疎らだ。
店内をぐるりと見渡し、窓際のカウンター席に何気なく視線を向けたところで、思わず目を見張った。
────ん?
スーツ姿の、サラリーマン風の男性客が一人、こちらに背を向けて座っている。顔は見えない。
その後姿を見て、信じられない気持ちで、ひゅっと息をのんだ。
「……」
「……三吉さん? どうかしました?」
「あの男性のお客様って、いつからいた?」
「え? 男性のお客様……ああ、カウンター席の? 十分くらい前ですかね。三吉さんがちょうど裏に入ったタイミングで入店されましたけど、なんでですか?」
ウソでしょ、ちょっと待ってよ、
心臓がバクバクする。
いやいやいやいや…………なんで、え?
そんな事って、ある?
「……ああうん、もしかしたら知り合いかもしれなくて」
「そうなんですね。……あ、わかった、三吉さんの元彼さんですか~? なんて」
「違うよ。ただの大学の同級生」
動揺を悟られないようにして、ニコリと笑った。冗談で適当なことを言っているだけだろうが、鋭い。
ちょっとだけ挨拶してくるから閉店準備を進めててねとスタッフに声を掛け、その人が座っている場所へ向かった。
話し掛けるつもりで平然とした歩調でスタスタと近づいたのはいいものの、緊張なのか興奮なのか、なぜか身体がガクガクしてきて 頭の中が真っ白になる。
どうしよう、掛ける言葉が見つからない。
だって何年振り?
卒業以来会っていない。
八年、九年……いや、十年近くなるんじゃないか。
本当に彼なのかな……振り返ったら別人、違う人かもしれない……いや、多分本人で、間違いない。
気づいてるのにスルーするような関係ではないし、十年も経って私たち、お互いにいい大人なのだから挨拶くらいはね、
「──加納君?」
九割九分本人だろうと確信しながら、
懐かしい名前を呼んだ。
コーヒーカップを口に運ぶ手がピタリと止まり、一呼吸置いた後、ゆっくりとこちらを振り返った。
やっぱりそう、確かめるまでもなく。
私が大学生活の半分以上を一緒に過ごした元彼、加納 綾人、その人だった。
私と綾人がつき合っていたのは、もう十年以上前、一昔も前の大学生の頃の話だ。
だからもうとっくに過去の話で、忘れられずにいる、なんてことは全然ないのだが。
なぜかあまり薄まらない記憶。今も鮮明に覚えている、あの頃の情景。
◇
「三吉さん、次の講義受けるよね? 隣いいですか?」
「あ、うん、どうぞ」
大学一年生の春、
前後左右どこを見ても知り合いのいない大学の構内で、最初に話し掛けてきたのが、アラサーの今になっても親しくしている、長田 麻衣子だった。
麻衣子は偶然にも同じ地元出身で、大学では学部も学科も一緒、この春一人で上京し、はじめてのひとり暮らしで多少不安を感じている状況も一緒で共通の話題が多く、すぐに打ち解けて仲良くなった。
*
「雪妃ちゃん、どこかサークル入る?」
「ううん、まだ何も考えてない。バイトしなくちゃだし、あまり活動が頻繁なのは無理だから、よほど興味が湧いたものがあれば、かなー」
「けどサークル入ると人脈が広がるって、」
「って、言うよねえ」
「活動が頻繁でなければいい感じ?」
「まあ、そうだね」
「じゃあさ、実は私、すごく気になってるサークルがあるんだけど、雪妃ちゃんも一緒に見学に行かない?」
「え、何のサークル?」
麻衣子が誘ってきたのは、学内のウインタースポーツ系のサークルだった。
活動は基本的に冬だが、冬以外は登山やキャンプなどアウトドア系のイベントがあるという。スキーかー……雪国育ちだから一応滑れるけれど、インドア派の私は正直興味がない。
「スキーかボード、雪妃ちゃん滑れる?」
「うん、少しなら。麻衣子は?」
「やっぱり。滑れそうな顔してると思った。私は滑れるわけないじゃん」
「滑れるわけないじゃんて、なにを得意げに。じゃあどうして気になってるの」
なんのことはない、すごく気になっているのはサークルの内容ではなく、そのサークルに入会したらしい一人の男子学生だった。
必須科目の授業でよく一緒になるA山君は、入学式やオリエンテーションの時に偶然席が近くになり、彼を見かける度につい目で追ってしまうのだという。まだ一度も話したことはないそうだが。
「それ一目惚れでは」
「かもしれない、ちょっともう、やばい」
「普通に話し掛けてみればいいじゃない」
「それができないから言ってるの……ゼミも一緒のところ狙っているんだけど、どうしよう、こっそり誰かに聞こうか?」
「知らんがな、だけどこっそりは止めた方がいいんじゃない? 真正面から、堂々と」
知的で物静かな雰囲気のため話し掛けようにも隙が無く、要するに仲良くなるきっかけが欲しいと。
大分思いを募らせているようなので、見学だけならいいよと付き合うことにした。
数日後、早速目的のサークルに立ち寄ってみれば、なんと狙い通りA山君が部室にいるではないか。彼だけじゃなく、よく見かける顔見知りの男女数名も集まっていた。
お互いに、「あ」「あ」という感じ。
サークル自体はあまり派手な感じはなく、飲み会が多いこともなく、真面目にちゃんと活動しているようで、交ざりたい時に自由気ままに参加できればいいらしい。先輩たちの印象も良く、朗らかで物知りで優しそう。
A山君がその場にいたことで入会する気満々になってしまった麻衣子と共に、成り行きで入会届を書くことになった。
でもまあ、多分こうやって、いつの間にか知り合いや友達が増えていくのだろうな。やってみてどうしても嫌だったら、ごめんなさいと言うしかない。
楽しいと不安と、はじまりもはじまりの季節、お互いに仲良くなれそうな相手を探していた。
ウインタースポーツもアウトドアも興味はなく、自分一人ならおそらくチャレンジはしない。だけど興味がない分野だからこそ世界が広がるような気がして、いいかもしれないと少し思った。
その年の春、そのウインタースポーツサークルに入った一年生の男女比は、なんと全く同じだった。
男子五名、女子五名、計十名。
その中に麻衣子が片思いしているA山君や私と麻衣子もいる。そして私の視界にはほとんど入っていなかったのだが、後に私自身の彼氏となる男も、しれっと存在していた。
麻衣子とA山君の距離は順調に近づいた。
私も彼女とのつき合いはまだ短いが、恋愛モードの麻衣子は実に可愛らしい。おっとりというか天然というか、癒し系なところがある。
A山君は寡黙ではあるが普通の男の子で、麻衣子から好意を持たれていることに気づいたようだが満更ではない様子。
五月の連休前に新歓がある。もしかしたら何か進展があるかもしれないな。……うん、あるな、きっと。くっつくのは時間の問題のような気がした。
ところがサークル内の恋愛事は、麻衣子とA山君の話だけでは終わらなかった。五月の大型連休が明けた頃、私は驚きの事実を知ることとなる。
*
「麻衣子がA山君なのはわかるんだけどさ、私はS川君みたいな人がタイプなんだよね、子犬みたいでめっちゃ可愛いくない?」
「え? S川君?」
子犬、たしかにそんな感じだが。
「三吉ちゃん、彼のこと狙ってないよね?ね? 実は私、新歓の時にちょっかい出しちゃってーー」
「ちょっかい、出しちゃって?」
「あ、それを言うなら私も、あの日の帰り道はM藤君と手を繋いで帰りましたけど」
「やっぱりな。いい感じだったもんM藤君とあなた」
「ふふふ♡」
「ええっ!?」
ちなみにもう一人の女子メンバーも、男子メンバーの一人に口説かれている最中で、連休中に二人だけで食事に行ったらしい。
みんな、いつの間に! 新歓??
歓迎会の最中は、私と一緒に先輩たちのところで話し込んでいたはずで、全然そんな雰囲気にはなっていなかった…………あ。
そういえば、会がお開きになりぞろぞろと駅に向かいながら、誰かが〝新入生だけでカラオケに行かない?〟とか言い出して、店に向かったんだ。私はその日なぜか体調が優れず、無理せず先に失礼したのだ。
「二次会で盛り上がったわけだ」
「そうそう」
そんな事ってある?
男女比5:5だからってそんな、合コンみたいに。五人の中から選ぶみたいに。
私にはわからない感覚だが、事実そうだった。たまたまタイミングと相性が合ったのかもしれない、それからひと月も経たないうちに、サークル内に四組のカップルが誕生していた。まるでパズルをはめるみたいに、最初から仕組まれていたかのよう。
昔から恋愛事に疎い私は、盛り上がる友人たちの話をただぼんやりと聞いていた。
高校は共学だったけれど、男子と積極的に話す方でもなかったし、誰かを好きになった経験もなく、恋愛偏差値はものすごく低いと思う。あまり気にしてはいないけど。
大学生になったからといって突然恋愛上手になれるわけもなく、好きな人、恋人、か。まだ全然想像できない。
私は初めてのアルバイトが決まったばかりで、課題も多くこなすのに精一杯。ようするに、思っていた以上に余裕はなかった。
「新歓の日さ、雪妃ちゃんも途中で抜けたけど、加納君は最初から来れなかったもんね」
「ああうん、そうだね」
私と、その日どうしてもバイトが休めずに不参加だった〝加納君〟が 完全に乗り遅れたみたいになっているけど、それ違うから。
キャンパス内の学生たちがとても大人びて見えて、出会いなんて、この先限りなくあるような気がしていた。
◇
夏休みに入ってすぐに行われる一泊二日のキャンプは、毎年恒例の夏のイベントらしい。その打ち合わせのために、集まる機会があった。
先輩たちから大まかな内容を説明してもらい、仕事の分担やどんな料理を作るかなどを話し合う。大勢で行くキャンプなんて経験がないから、打ち合わせの段階から楽しい。
大枠は決まり詳細はまた後日、今日はもう帰ろうかという流れだった。
「──三吉ちゃんと加納も、つき合っちゃえばいいのにな」
唐突に誰かにそう言われて、顔を上げた。
……M藤君たちか。どこかでそういう話題になっていたようだ。
名前を挙げられた加納君は、部屋の奥の方で先輩たちと談笑している。
私に言ってるのか? これ。
「つき合っちゃわないよ」
「瞬殺でダメなの? 二人 合うと思うけど。なんか似てる気がするし」
「三吉ちゃん今フリーなんでしょ? 加納も今、相手いないよ?」
「あーそうなんだ」
「あぶれた者同士くっついちゃえ」
「……いやいや、なんで、無いから」
自分たちが楽しいからといって適当な事を言うのは止めて欲しい。
加納君は私や麻衣子と同じ学部で、接点はあるけれど話したことはほとんどない。
頭が良さそうで、少々もっさりとした純朴な雰囲気の、ザ真面目な学生さん!といった感じの人だが、よく知らない。まだ友達ですらない。サークルでたまたま一緒になっただけのことだ。
こういったイベントを通して、これから仲良くなるのかもしれないが、そういうことを言われると、困るんだけどまじで。
「みんなはみんなでいいなって思ってるけど、私はいいからそういうの」
「加納嫌い? 他に好きな奴がいるとか?」
「嫌いもなにも、好きな人なんていないけど、そういう事じゃなくて」
「えー、逆になんで? あいつめっちゃいい奴だよ?」
「……えーと」
いい奴かもしれないが、迷惑なんだって。
善意からのお節介、そういえば最近なんとなく圧を感じていた。こんなに露骨に勧められたのははじめてだけど。
最初はM藤君も冗談のようなノリだったのだが、私が否定ばかりするせいでお互いに引っ込みがつかなくなり、変な空気になっていく。ああもう、嘘でも好きな人がいるとか言えば良かった。
ところが、自分の友人らのそれを上手く躱して場を和ませ、何事もなかったかのように丸く収めてくれたのは、横から飄々とそこに現れた加納君自身だった。M藤君達のことをよくわからない内輪ネタで笑わせて、黙らせてしまった。
「三吉さん」
「はい」
「コーヒー飲みに行かない、今」
「は? 今?」 なんでこの状況で?
思わず身構えてしまう。嫌なんですけど。彼らの思う壺っていうか。
「缶コーヒーじゃなくちょっとお高いやつ、奢るから」
「いや、わたしは、いいです」
「行ってこい行ってこい、二人で話し合って来いよ~」
「……」
まだ言うかM藤君、しつこい、腹立つ!
加納君は、眉間に皺を寄せる私を見て苦笑しながら、私にしか聞こえない声で、
「とりあえずここから出よう」と言った。
*
大学構内にある大手コーヒーチェーンのカフェで、本当にコーヒーをご馳走になった。
テイクアウトにしてもらい、カフェの前に設置されているベンチに、二人並んで座る。
店内で顔をつき合わせるよりも、その方がありがたかった。
「はあ、美味しい……」
「そう言いながらまだ、ご機嫌斜めな感じだけど」
「……ごめんね、加納君が悪いわけじゃないんだけど、M藤君達があまりにも無神経っていうかしつこくて。そんなにグループ交際がしたいのか! と思って」
「あー、なんか俺も言われるな最近。ほんと申し訳ないです」
「全然! だから加納君が悪いわけじゃないから!」
彼とこんな風に二人だけで話をするのは、はじめての事だった。
それなのに、八つ当たりのような態度を取ってしまっている。加納君だって私なんかとどうこう言われて迷惑してるだろうに。
「俺と三吉さんが居心地が悪いんじゃないかって、下手な気を回してるんだと思う」
「そんなの逆に居心地悪いんだけど。余計なお世話です」
「ほんとそうだな。ちゃんと言っとくから、ごめん」
「……」
また謝らせてしまった。M藤君は加納君と仲がいいから。友達だから。だから、加納君が悪い訳ではなくて……。
しかしまあ、いい人だよな、この人。
同い年だけど、落ち着いていて大人っていうか、気配りができるというか。
あの日、二次会のカラオケに加納君が行ってたら、もしかして別の恋愛の構図が出来上がっていたんじゃないだろうか。
わかんないけど。
「それにしても、皆さん早業だったよね、あっちもこっちも同時に。驚きすぎて顔が変になったもん」
「勉強ばっかしてたからな、俺たち。飢えてたんじゃない?」
「大学入ったら彼女作るぞって?」
「そうそう、作るぞってギラギラして」
「あはは、ギラギラ」
「でも、熱しやすく冷めやすいっていうのはあるから、あいつらのうちの誰かはそのうち別れるかもな」
「うわ、酷、いいの? そんなこと言って」
「別れて欲しいとは言ってない。けど全員が四年間続いてのちに結婚しましたとか、逆にあり得なくない?」
「ああ、たしかに。でもそれ気まずい」
適当なことを言って、あっけらかんと笑っている。いつの間にか、なぜここに連れて来られたのかも忘れて、いろんなことを喋り始めていた。
「──加納君が飲んでるの、何?」
「これ? カプチーノ。俺はスタ○でもタリー○でもどこでもカプチーノ」
「ふはは、なにそのこだわり」
「マシンがないから家では美味しいエスプレッソの飲めないじゃん。スチームミルクもうまく作れないし」
「わかる」
「三吉さんコーヒー好きなの? さっきめずらしい豆の選んでたでしょ?」
「ああ、うん、ホンジュラスね。そんなにめずらしくもないよ。私の祖母が昔、コーヒー豆が何種類か置いてあるような喫茶店をやってて、それで少しわかる」
「へえ、いいなそういうの」
「うん」
気づけばお互いの故郷の話までしていた。
加納君は実家が新潟で、冬がきたら雪山に行くのが当たり前という環境で育ち、ボードが好きだからという純粋な理由でこのサークルに引き寄せられたらしい。
麻衣子と私のような不純な動機ではなかった。そこは言わないでおこう。
「A山から誘われて、たまたま知ってる先輩もいたから」
「そうだったんだ」
「三吉さんは?」
「わ、私は、スキーしか滑れないんだけど、ボードも面白そうだなーって、なんとなく」
「へえ、じゃあやってみたらいいよ、教えてくれる人が周りにたくさんいるから」
少し癪だけれど、たしかに加納君はとても話しやすくていい人だった。
勝手に警戒して、嫌だ迷惑だと不機嫌になられるのだって、考えたら相当失礼な話だというのに全く気にしていない様子。私と気が合うというよりは、誰にでも合わせられる人なんだと思う。
コーヒーを飲み終える頃には気が楽になっていて、抗うことも馬鹿らしくなって、
「友達として普通につき合えばいいだけじゃん?」という言葉に頷き、連絡先を教えてもらった。
自分の連絡先を知らせるため、コーヒーのお礼を兼ねたメッセージで送る。
こちらこそ云々、丁寧な返信がすぐに届いた。……加納君、律儀でマメな男だわ。
□
「三吉さん、俺とつき合いませんか」
「正気?」
「言われると思った」
私が瞬時にそう答えると、加納君は楽しそうに笑った。
はじめて一緒にコーヒーを飲んだ日から、三ヶ月が経過していた。
あれからまた、いろいろあった。
サークルのイベントである夏キャンプにもみんなで行ったし、夏休みの間にいつものメンバーで集まってタコパなんかもした。
ラブラブな4カップルは夏が過ぎても継続中で、今のところ気まずいことにはなっていない。幸せそうでなによりである。
「本気で言ってるの?」
「本気で言ってる」
「だって加納君、私に恋愛感情なんて持ってないでしょ?」
「そうでもないよ?」
「そうでもないの!?」
加納君とは、時々連絡を取り合うようになっていた。何がきっかけだったか、それがあまりにも自然な流れでそうなった。まあ、友達だしなと思いながら。
加納君と話をするのはけして嫌ではない、むしろ楽しい、ほのぼのとして。
何回か一緒に、二人だけでごはんを食べに行ったりしたけれど、居心地が良く気が楽。彼は主張がないわけではないが、いつも私に合わせてくれる。良くも悪くも空気みたいな存在感で私の邪魔をしない。
でもおそらくこれは、加納君を異性として意識していないからこそだと思う。
緊張してドキドキだとかときめきでキュンキュンとかは皆無なんだもの。
多分そういうことだ。恋愛感情ではなく、人として気に入ってるんだよ。
「なんで? そういうの気にしないで仲良くしようって、加納君が言ったじゃん。最近はもう誰もややこしいこと言わなくなったし、せっかくいい感じだったのにどうした急に」
「サークルのメンバーの影響じゃない、全く関係ない。ただ俺は、三吉さんとつき合ってみたいと思ったんだ。一緒にいるのが楽しいなって。理由の要らない二人の時間が、もう少し欲しい」
「……」
それは、とても嬉しい台詞です。
でも、でもだ、私これ恋愛?? うーん、加納君のことを男の人として見られるかどうか、わからない。
「俺これまで、誰ともつき合ったことない。こんな会話するの生まれて初めてだよ」
「そんなの私もだけど……って意外。女子とフレンドリーじゃん、共学だったのに?」
「三吉さんも共学じゃん」
「それもそうか」
いやどうしよう、どう答えたらいいの。
ないないない、って、なぜ言わないの。
夏前なら確実にそう言ってたのに。
少し考えて、答えを導き出した。
「……あのさ、私、性格悪いよ?」
「……うん、それで?」
「加納君みたいに善人じゃないし」
「俺だって全然、善人じゃない」
その人らしさというのは、あらゆる面に出る。柔らかい口調や反応の良い笑い方、けして適当には書かない心の籠った文字、短いラインの文章にだって、加納君らしさがある。
その全てを、感じよく思うのだ。
皆には、「散々あり得ないとか言って結局つき合うんじゃん」とは絶対言われるだろうけど。でも、加納君だもん、きっと大丈夫。
「いいよ。つき合おう」
「え、そうくるか」
「ダメなの? 嫌だって言うと思った?」
「絶対嫌だって、断固拒否されると思った」
「〝絶対嫌だ〟」
「あーごめん、やめてよ」
「私なぜか、期待されたことと反対のことをしてしまうよね、無意識に」
「天の邪鬼だもんな」
「ふっ、天の邪鬼……だねえ。だから、性格悪いって言ってるじゃない」
顔を合わせて、二人で吹き出した。
差し出された手に、ちょんと手を重ねる。
しなやかで大きい、綺麗な手。
「なに? この手」
「わかんない、今後ともよろしくお願いしますという意味を込めて握手」
「……あっ! でもしばらくの間は隠しておきたいの、とくにM藤君には!」
「──いいよ」
ぶんぶんと 握手した手を振り回しながら。
そんなはじまりだった。
あんなに抵抗していたというのに呆気なく。目の前にあった恋のチャンスを、軽い気持ちで掴んだ。
サークル内の同級生が友達になり、さらに仲の良い男友達になり、彼氏になった。
ドラマチックな展開はなく、恋愛と呼べるようなものも何もなくて、それでもまあいいかという気楽なものだった。いろんな形があっていい、そう思えたのは、すでに加納君の影響を受けていたような気がする。
私たちがつきあい始めたことは、結構長い間 周囲には黙っていた。
〝理由の要らない二人の時間〟が少し増えたくらいで、恋人っぽい空気はまるでなかったし、誰かに気付かれることもなかった。
しばらくは名ばかり彼氏彼女。
関係性はほとんど変わらず。
あ、でもひとつだけ、
呼び方が、〝三吉さん〟から〝雪妃ちゃん〟に変わった。
日増しに肌寒さを感じるようになった頃、北日本でその年の初雪を観測した。
去年よりも十日ほど遅いらしい。
加納君を含むサークルの仲間たちは、冬シーズンの到来を、テンション高くとても喜んでいた。
当然である、そういう目的で集まっている人達なのだから。
❄️
一緒に授業を受けて食事をして、帰る方向も一緒。お互いの一人暮らしのアパートは、そう遠くなかった。
二人ともアルバイトでいくらか生活費を補てんしなければならない身。多忙だが自然と休みを合わせるようになり、二人で過ごす時間も徐々に増えていった。
加納君の、一人暮らしの自宅に寄るようになったのもこの頃だ。
最初は正直 少し緊張したけれど、加納君はいつもと変わりなく、ただ淡々と課題を纏めるために手伝ってくれただけで、甘い空気にはならない。なんだ、変な心配をしたりして恥ずかし過ぎる……。と拍子抜けしてからは、身構えなくなった。
本格的なドリップコーヒーを淹れてあげると言って、いつものように彼の部屋に寄る。
お気に入りの店の焙煎仕立てのコーヒー豆、中心部に細く湯を注ぐと粉がふっくらと膨らんだ。新鮮なコーヒー豆の証である。
「加納君、コーヒーを入れるマグカップ二つここから出していい?…………え?」
すぐ近くに影。
顔を上げ斜め上を見上げると、思っていたよりも近い距離に、彼が立っていた。
「なに?」
「キスしていい?」
脈略もなくそう聞かれ、目を見開いた。
一応、恋人同士になって二ヶ月以上経った私達。二人きり、誰も見ていない彼の部屋。
なに急に、コーヒー淹れたところなんですけど──と思ったけれど、自分の彼氏の家にのこのこ上がり込んでおきながら、なんで? はない。接触ゼロの方がおかしい。
返事をする間もなく彼の顔がスッと近づいてきたので、急いで目を瞑ると、むちゅっと唇が触れ合った。
一瞬で離れたが、キスだ、紛うことなく。
手と手が触れ合うことも稀なのに、抱きしめられたこともないのに、変なの。
「雪妃ちゃん、はじめて?」
「……うん」
「俺もですけど」
「つき合うのも はじめてだもんね?」
「……なんか、全然平気そうだな……。俺は心拍がやばい。あと手汗掻いてる」
「手汗……冬なのにね」
そうは見えないかも知れないが、私だってやばい。いつもと違って、加納君が男みたいで。彼の中にそんな欲求が存在したのかと。まともに顔を見ていられなくて俯くと、突如身体を引き寄せられた。
淹れたてのコーヒーの香りの中、これまでで一番、距離が近い。密着している状態で、頭と頬と唇と、順々に撫でられる。
「え、ちょっと待って加納くん、」
「もう一回」
「……んっ」
だから、せっかく、コーヒーが────。
──その翌週、いろいろあって私は、ロストバージンに至った。相手は勿論加納君。
キスをするまでそんな素振りは一切見せなかったというのに、いつから男スイッチが入っていたのやら、そういうことになった。
言うまでもなく初心者同士、お互いに何もかもがはじめてで 全然スムーズにはいかず。でも加納君は 終始優しかった。
一通り事が終わり、裸のまま二人、抱き合って眠る。
はじめて繋がった部分は、まだじんじんと痛みがあったけれど、人肌の温もりが心地よくて、安心して彼の胸に顔を埋めた。加納君の匂いに包まれるのは、わるくない。
世の人々は、この温かさと安心感を求めて恋人と肌を重ねるのか。わからないが、知らなかった頃には戻れないかもしれない。
◇
大学やバイトの時間以外は、当たり前のようにお互いの部屋に入り浸るようになって、大学生の都会の一人暮らしの、小さなワンルームだから常に視界に加納君がいる。
彼の部屋には、私の部屋着や化粧品の類いなど私物が増えていった。同じ様に私の部屋にも。
☆
クリスマス直前に行われる 一泊二日のボード合宿は、毎年そんなに人が集まらないと聞いていたのだが、蓋を開けてみたらそれなりの人数になった。インストラクターの資格を持つOBの先輩が急に何人か参加することになり、その影響かもしれない。
加納君や麻衣子に誘われて、私も参加することにした。
スキーやボードを目的に雪山に向かうのはいつ以来か、果たして滑れるのか。
麻衣子と共に初心者グループに入れられて、私はボードデビューを果たす。
スキーとは勝手が違うが、インストラクターの先輩からは 筋がいいと褒められた。
麻衣子は案の定何度も転び、お尻が痛くて冷たいと弱音を漏らしながら頑張っていた。
「──あ、A山君と、加納君だ」
「…………あ」
上級者向けのコースを、危なげなく軽快に滑り降りてくる加納君たちの姿を見つける。
うわ……なにあれ、すごい。
遠目でもわかる。加納君、すごい上手じゃない。そっか、だよね、昨日今日始めた人の滑りとは、レベルが違う。
「……なんか二人、めちゃくちゃ上手いね」
「うん」
「格好良いんですけど」
「……そうだね」
「A山君やば、惚れ直しちゃうわ」
「……ゲレンデマジック、あるかも」
「え? ちょっと、雪妃ちゃん? そんなに見つめないでよA山君を。間違って好きになっちゃうじゃない、ぶっぶー」
「あは、ごめんごめん、ならないって」
ちがう──。
見ていたは別の人。
雪山で見る加納君はとにかく格好良くて、オーラがすごくて、輝いて見えた。
今回、加納君に教えてもらえるとは思っていなかったけど、グループが違うと思いの外話す時間は少なくて、関わりがない。
私もいつか、一緒に滑れるくらいになるだろうか。……まだ全然無理そう。
けど、なんだろう? このもどかしい気分は。なんかちょっと、すごく不自由だ。
その日の夕食時に食堂で、加納君のいるグループとすれ違う。彼らはもう食事を終えて部屋に戻るところだった。
食堂の端と端、数メートル離れたところでお互いの存在に気づき、目が合う。
このサークルの合宿は、以前からの暗黙のルールで、アルコールと不純異性交遊は禁止とされている。いつの時代の話だよと裏では皆がブーブー文句を言っているが、たしかにアルコールが入り、あっちでもこっちでも盛がついてしけこまれては、収拾がつかなくなる。健全で、真面目なサークルであることをアピールしたいらしい。大学生らしく(?) とはいえ密会しているカップルも、中にはいそうだった。
私は、加納君とつき合っていることは麻衣子にも言いそびれていて、結局まだオープンにしていない。
最近は二人だけで話をしていても、色恋で見られることはなくなっていた。
*
食堂で彼が居ることに気づいて目が合い、なぜかそのまま 視線を外せなくなった。
〝お疲れさま~。今日滑ってるところ見たよ、すごいね〟って、駆け寄って話せばいいんじゃないの? でもできない。
その不自然さに耐えられなくなり、私の方が先に目を逸らした。
話さなくても感じる、顔を見ただけで。
二人とも、似たようなことを考えていた。
こんな非日常的な場所にいるのに、どうして一緒にいられないのだろうね。
✉️
《もう寝た?》
《寝てないよ》
ベッドがそれぞれ四台ずつ設置されている四人部屋には、麻衣子や先輩方も一緒にいて、電話すら儘ならない。
できるのは、布団に包まってメッセージのやり取りをするだけ。
すぐに既読が付いた。
《綾人先生、今日滑ってるところ見たよ》
《俺も誰かさんが転んでるところ見たよ》
《はあ?滑ってたでしょちゃんと。なかなか筋がいいねって褒められましたから~ 筋肉痛になるかな。とりあえず明日も頑張る》
《楽しいでしょ?程々に頑張って。でもあのOBの○△さん、雪妃と距離近すぎない?》
距離? ○△さん? 全然普通、初心者に丁寧に教えてくれていい人だけど。
いつそんなのを目撃したのだろう。と、
首を傾げていると、
《雪妃のボードデビュー、俺が教えたかっただけ》
連続で届いたメッセージに、顔が綻ぶ。
それは、なんか嬉しいよ、加納君。
でも何となく、電話の向こうで焦っている気がする。
《焼きもちですか? そういうのいいから》
《ところで誕生日のプレゼントの件ですが、なにがいいか決まりました?》
《あ、話変えたーー》
《🎁》
《誕生日プレゼントは、加納君が選んだものがいいです》
《それはそうだけど、今年はまだちょっと、難解すぎるから。じゃあヒントだけでも》
真面目だなあほんとに。難解すぎるって、きっとすごく考えてくれているんだろうな。
でもたしかに、まだまだお互いのことを知らな過ぎる。私が今本当に欲しいものなんて、思いつかないよね。
《じゃあ お言葉に甘えて、リクエストしちゃおうかな》
《いいよ。なに?》
一週間後、私と加納君は合宿で訪れた同じゲレンデに、今度は二人だけで来ていた。
私が誕生日のプレゼントとして、〝一緒にボードに行きたい〟とリクエストしたから。
日帰りでいいと言ったのに、せっかくだから泊まりで行こうと、宿を取ってくれた。
空は快晴で、雪も程よく柔らかい。
絶好のボード日和。
スキー場で 隣に立つ人をじっと見つめる。
「……ん?」
「ん?」
「どうかした?」
「べつに、なんでもないよ?」
「?」
見つめながら、無意識に ニヤニヤしていたらしい。
合宿の時も着ていたが、加納君に相談して買った私のボードウエアは、彼のものと少し色合いが似ていて、お揃いみたい。
やばい、ワクワクする。今日は加納君に、マンツーマンで教えてもらえる!
一緒にリフトに乗れるし、ゲレンデのセンターハウスで一緒に食事できるし、上級者と初心者だけど一緒に滑ることもできる。
合宿の時には、何一つ叶わなかった。
「何をそんなににニヤけているの、めっちゃ嬉しそうだな」
「嬉しいもん、サイコー!」
「そりゃ良かったね」
「じゃあ先に行くね。……あ、ところで合宿の時に加納君滑ってるの見たけどすごく格好良くてときめきました、よし行こ」
「は? あっ! なんで今そんな、言い逃げするみたいに──」
すでにとても楽しい。
一緒に来れて良かった。
あの日感じたもどかしさも不自由さも、
彼を独り占めすることで解消された。
そして今日は、勿論夜も一緒だった。
❄️
「あ、降ってきた」
元々泊まるつもりはなく、貧乏旅行仕様。部屋は狭いが構わない。豪華な装飾は要らない。ベッドだって一つあれば十分。
窓側に設置されているベッドの上、下着姿の私に、加納君が後ろから毛布ごと覆いかぶさってくる。温い。
「ほんとだ、すごい降ってきたじゃん」
「積もるなこれは。明日は新雪のゲレンデで滑れるね」
「圧雪されてると思うけどね。てか どんだけはまってんの」
自分でも思っていた以上に夢中になっていた。加納君は自分の好きなものを好きになった私を見て、嬉しそうにしている。
空から無数の雪の塊。
深深と もさもさと、止まる気配はなく降り続けている。
雪が綺麗だとは思わない。うわ、どんだけ降るんだよとうんざりする。だけど、
「雪国育ちだからさ、雪が降る時って、雪の匂いがわかる気がするよね」
子どもの頃から当たり前のように感じてきた、そろそろ降るなあ、という澄んだ冷たい空気の匂い。
そう言うと加納君も、わかるよと言った。
「こういう雪って思わず食べたくなるよな。子どもの頃空に向かって口開けなかった?」
「やだ、汚ったな……綺麗に見えて雪の核になる部分は塵だからね?」
ケラケラと笑うと、後ろからまたぎゅっと抱きしめられる。
「雪妃」
「うん?」
「雪はもういいから、こっち向いて」
振り返ると、もう何度目かは数えられなくなったキスが降ってくる。
既に今夜も、やることはやっている。
だから下着姿なわけで。
「またするの?」
「もう一回だけ」
「……うっ、またその言い方、加納君のその〝もう一回〟ってのズルい」
「いい?」
そう言いながら、また脱がされていく。
「明日、滑れなくなっちゃうじゃん」
「そうだった。…………止めとくか」
「……止めないけどさ……んッ」
一週間前にここに来た時、あなたに触れたいと思ったのにすごく我慢したんだもの。今日は我慢しない。好きにしていいよ、好きにさせてもらうから。
蕩けるようなような深いキスをして、
そのままセックスに雪崩れ込む。
外は雪が降り積もり極寒なのに、部屋の中の二人は熱い。
覚えたての猿は、会うたびに身体を重ねていた。顔を見れば触りたくなって、一緒にいれば必ず、自然とそうなってしまう。
恋人達の平均回数は知らないが、セックスの頻度は多かったと思う。大学生だから暇だったし、というのは私たちには当てはまらないのだけれど、時間があれば求め合った。
おそらくお互いの裸を見飽きてしまうくらいには。
でも全く、嫌だとは思わなかった。
加納君から求められることは嬉しかったし、私にも欲があって、行為自体が好きだったから。裸でくっつくのは気持ち良かったから。
これは人間の本能だからなあって、本気でそう思っていた。
それは、誰とでもそうとは限らないのだと、ずっと後になってから知る。
《《もう一回》》が終わり、加納君に抱きしめられながら、とろとろと眠り掛けた時、耳元で「雪妃」と、小さく名前を呼ばれて、薄く目を開けた。
目の前に差し出されたスマホの画面には、0:00と表示されている。
ああそうか、日付が変わったのね。
「──雪妃、誕生日おめでとう」
目を閉じたまま、笑ってしまった。
去年までは家族と一緒で、家族にお祝いしてもらっていたのに、今はこんな淫らな格好で、彼氏に、日付が変わった瞬間に言葉をもらう。私も大人になったものだよ。
いつの間に準備をしてくれていたのか、
ホワイトチョコレートでコーティングされた小さくて丸い誕生日ケーキを、翌朝二人で、つつきながら食べた。
二年の月日が流れた。
私と綾人は、大学三年目の冬を 相変わらず二人で過ごしていた。
あっという間のようにも思えるが、濃厚でぎゅっと詰まった充実の二年間。変わらないこともあるが、変わったことも様々ある。
サークルに集まった同学年の仲間達だが、結論から言うと半分が退会してしまった。
案の定というか綾人の予想通りというか、瞬間的に恋に落ちてラブラブな期間を過ごしたものの、その熱は長くは続かなかった。
詳しい事情は知らないが、一年の終わりには三組が別れてしまい、互いに気まずいからかサークルにもあまり来なくなった。
今も在籍しているのは、私と綾人、麻衣子とA山君、それから綾人の友人であるM藤君とつき合っていた友人・美鈴だけ。
それも今シーズンの冬が終われば、参加する機会はほとんどなくなる。
この一年は 綾人がサークル長を務めていたけれど、運営の先導はもう 後輩達に渡している。どことなく、祭りの終わりのような寂しさを感じていた。
*
麻衣子と美鈴と私と、サークル居残り組の女子三人が、近況報告を兼ねたランチを楽しむのも、大分久しぶりだ。
大学のラウンジで、麻衣子が言い難そうに口を開いた。
「──えっ、別れた!?」
「うん、ごめん……」
「いやいやいや…………私たちに謝ることは全然無いけれども」
麻衣子が、先日A山君と別れたことを打ち明けてきた。ちょっとかなり驚いてしまい、何も言えず顔が固まる。
運命だと、彼しかいないと、あれほど夢中になっていた彼女を知っているので 信じられない。
最後の方はお互いに冷めてしまい、友達に戻ろうということになったらしい。一応円満なので大丈夫と麻衣子は言うが……。
「辛かったね……落ち込んでる、よね?」
「それが全然、むしろスッキリしたっていうか。あまりこうドロドロした終わりにならなくて良かったというか、ホッとしてる。ちょっと泣いたけどね」
ちょっとどころではないと思うが。
〝私はまた新しい恋愛をする権利を得た!〟 と言って、鼻息荒く頷いている。
「そっかーー麻衣子達……なんか残念だけどしょうがないね」
「惰性でダラダラ付き合っても仕方ないし」
「惰性で、ダラダラ……」
「うわ~、これでついに、雪妃たちだけになっちゃったね」
「なにその、だけになっちゃったって。今、私の話関係なくない?」
「だって全員別れちゃって、残ってるの加納君と雪妃だけじゃない。最初は逆で、すごく抵抗してたのにねえ、わからんものだわ」
「あぶれた者同士くっついちゃえとか言われて憤慨してたもんね。でも 残りモノには福があるってほんとなのかも」
「……」
麻衣子まで、そういうことを言う……。
私と綾人は、恋愛感情などほぼ無しの状態で始まった関係だった。
それが皮肉にも、一番順調に一定の温度を保ちながら続いているのだから、たしかに、わからんものだわ。
「結局、雪妃が一番の当たりを引いたよね」
「ほんとに。加納君はなーー」
「……加納君は……なによ」
この二年で大きく変わったもの、二つ目、加納綾人。
「最初はもっと芋っぽかったと思うけどなあ、なんかいつの間にか格好良くなってて、いい男になっちゃったもんね」
「芋って」
「賢くて頼もしくて、将来有望でしょう? なにより雪妃一筋だし言うことないじゃん。なかなかいないと思うけど」
「誠実で優しいのが一番ですよ、結婚したらいい旦那になるタイプ、絶対」
「絶対逃すでないぞ? 首に縄つけてでも」
「……」
大学に入学したばかりの頃の彼は、少々もっさり気味の純朴そうな真面目青年だったのはたしかだ。〝いい人枠〟の中にいて、女性からモテるタイプだったかといえば、よくわからない。
それがどうしたことか、いつからか何がきっかけか、外見は洗練され、内面もビカビカに磨かれていった。
芋なんかじゃないから。元々が素晴らしい原石だったというだけ。
サークルの代表だったことも関係しているかもしれないが、仲間内で何かトラブルが起きたり悩ましい時には、いの一番に頼られる存在で、周りからの信頼はとにかく厚い。
困った時の加納頼みと言われている。
夏くらいからは、彼自身の就職活動も迷いなく進めていた。いくつかの会社のインターンに参加し、常に忙しそうにしていた。
学生に人気の企業のインターンは選考に通ることがまず難しいのに、参加した いずれの企業からも高い評価を得ているようだった。
おそらく、就職先が決まらず困る事にはならないと思う。綾人の方が選ぶ立場になるのではないか。
でもまあ、当然といえば当然。綾人は企業や社会が欲しいと思う人材の条件を満たしている。
向上心が高く好奇心も旺盛で、勤勉で頭も切れる。なによりコミュニケーション能力に長けており、考え方が柔らかい。
押したり引いたりのバランスが絶妙なのだ。
どうしたらこんな人間が出来上がるのだろう、私が人事担当者だったら、迷いなく彼を採用する。
「当たり、か」
「当たりでしょどう考えても。雪妃は加納君に就職でいいくらいだよ、永久就職っ」
「……」
「……でも雪妃ちゃん、そういう人の彼女だとライバルも多いからハラハラするね……」
「そうなの? なんかあるの?」
「あーもー雪妃 平和ボケし過ぎだから。加納君は絶対モテてるからね? どうせ耳に入るだろうから言うけど、なんかM山ゼミの才女が加納君のこと狙ってるっていう噂だよ? 加納君のことだから無いとは思うけどさ、ちゃんとこうぎゅっと掴まえておかないと。とりあえず胃袋つかんでさ、可愛い下着とか着とこ雪妃さん」
M山ゼミといえば、加納君が所属しているゼミのことである。毎日ではないがしょっ中顔を合わせている中に、誰かいるの?
「胃袋と可愛い下着ねえ……ふはは」
「笑いごとじゃねえ」
「あ、ほら噂をすれば」
その当たりの男が、片手を挙げて「おう」と、笑みを浮かべながら近づいてくる。
「──なんかさあ、あの笑顔は私たちだけの時には絶対にしないよねえ。雪妃の顔見るとめっちゃ嬉しそう」
「ほんとに。大好きなんだろうねえ」
「……あのね、美鈴と麻衣子が思ってるのとは違うから、全然そんなことないですから。あ、じゃあ私、先に帰るね、また来週~」
「え? ああうん、ばいばい」
「ばいばーーい、また来週ー」
綾人が私たちのところに辿り着く前に席を立ち、彼のいる場所まで駆け寄ると、綾人は本当に嬉しそうに 無邪気に笑った。
最近、君の彼氏は素晴らしいと、私が褒められる。
綾人が私を呼びに来ると、「三吉、旦那が迎えに来てるぞ」と言われる。
当然のように私と綾人はセットで扱われ、相思相愛のおしどりカップルと思われていて、なぜか、いろんな人から綾人への伝言を頼まれたりもする。この間なんて教授からまで。
誰もが羨む自慢の彼氏、そう、私にとって加納綾人は、出来すぎた恋人だった。
けどなぜだろう、そう言われる度に、胸の辺りがもやもやする。彼のことを話題に出されると、言葉に詰まる時があった。
◇
私のバイトまでの隙間時間に、綾人と少しだけ会うことになっていた。買わなければならないものがあり、その買い物に付き合ってくれると言う。
バイト先は、自宅の最寄り駅近くの大手コーヒーチェーン店だ。
学生も多く コーヒー好きには楽しい職場で、二年以上続いていた。
「──三人が一緒にいる所、久々に見たな」
「そうなの、最近あまり会えてなかったからね。久しぶりに沢山話せて楽しかった」
「そう、良かったね」
「……あのさ、麻衣子たちの話聞いてかなりびっくりしたんだけど……別れたって……」
「ああ、うん」
「綾人知ってたの?」
「ん、雲行き怪しかったし、A山から……」
私は全然気づかなかったけれど、やっぱり気づいていたか。相談を受けていたのかも。
正直、他人事ながらすごくショックだった。あんなに仲が良かったのに、恋をしていたというのに、壊れてしまうんだ、と。
二人にしかわからない事情があるのだとは思うが、冷めたとか惰性でダラダラ付き合いたくないとか、新しい恋ができる! とか、悲しかった。
そんなものなんだろうか、恋とは。
私にはわからない。
「……あとは、雪妃たちだけだな、だって」
「またそれか。長田達のことと俺達のことは全然関係ないんだけどな」
「だよね」
最近はお互いが多忙で、スケジュールがきつきつに埋まっていることも多く、会う時間は限られる。でも、会う努力はしている。
今日もそうだった。
綾人に対して不満に思うことは、無い。
もっとこうして欲しいとか、ここは直してほしいとか、そういうのは一切無い。
私がそう思うより先に綾人が動いて、私に合わせてしまうから。
気が回り優しくて云々、は、私に対してもそうだった。私がぼんやりしていても、彼がなんとかしてくれる。こうしたらいいと助言をくれて、整えてくれる。
綾人は正しくて間違いがない。皆もそう言うし私もそう思う。だから、
不満がないことを不安に思う、私の方がおかしいのだろう、捻くれているのだろう。
きっとそうだ。
「──今日そういえば、バイトが終わったらどうする? 家来る?」
「あーー……どうしようかな。……今日は、帰ろうかな。明日も朝早いし」
「……そっか。わかった」
いつもよりちょっと歯切れが悪く、なぜか気怠そうに溜息を吐いた。
めずらしい、疲れているのか。
「ん? どうかした?」
「……いや、どうもしない。俺のバイト先の雪妃の知らない奴の話なんだけどさ、最近彼女と一緒に住み始めたらしくて、日中はすれ違ってなかなか会えないけど、帰る家が一緒ってめっちゃいいぞって。それを思い出してた。……最近俺らも、会えないこと多いから、一緒に住めたら便利だなって」
「……私と綾人がってこと?」
「その分家賃が浮くし、どうせなら一緒に住めたらいいよなって、ちょっと思っただけ」
「え……無理だよ、同棲なんて。うちは親が許さないもん」
「……いや、学生のうちは現実的じゃないのはわかってるよ、冗談。言ってみただけ」
綾人は冗談と言いながらも、少しガッカリした様子で苦笑した。
〝俺たち一緒に住めたらいいよな〟
という恋人に、素気無くお断りをする。本気ではないにしても、ちょっと冷たすぎるか。
〝嬉しい、私も綾人一緒に住みたい〟
というような 熱のこもった台詞は言えない、可愛げのない私だった。
それどころか、まただ、と思ってしまう。
卒業後のことやお互いの就活の話をする時、綾人は私との未来を見据えた発言をすることが増えた。はっきり言葉にはしないが、これからもずっと一緒にいることが前提で、話をされる。本当なら、誠実な彼氏にきゅんとする場面かもしれない。
それなのに私は、いつの頃からか、綾人のその言葉を重く感じるようになっていた。