恭一郎が火事の現場に着いたとき、や組の火消したちは火元の隣にある長屋を崩していた。

(ああ、これなら大丈夫そうだな……。あそこさえ崩せば、もう燃え広がることはないだろう……)
 恭一郎は胸をなで下ろした。
 半鐘の音を頼りにここまで来たが、火消しの仕事は特に問題なく進んでいるように見えた。
(あいつが来てるなら、まぁ大丈夫だろう。俺がここにいたら気が散るだろうし、先に帰るか……)
 恭一郎が長屋に背を向けたそのとき、火消しの声が響く。


「おい!! 火元の長屋、まだ人がいるらしいぞ!」

 恭一郎は目を見開いた。
 振り返り新助の姿を探すと、新助は火元の長屋から少し離れたところに立っていた。
 火消しの誰かと何か話している。
 話している声は聞こえなかったが、新助が何を言っているのかは容易に想像できた。

「あの馬鹿……!」
(二度とするなって言っただろうが……!)
 恭一郎は思わず舌打ちした。
 火元の長屋は崩れる寸前だった。
 それは恭一郎でなくても誰の目にも明らかだった。


 ふいに、恭一郎は自分が何をすべきか見えた気がした。
(……俺がこの日この時に釈放されたのは、このためだったのかもしれないな……)
 恭一郎は目を伏せて軽く微笑むと、ゆっくりと走り出した。
 近くにいた火消しの男が持っていた水の桶を強引に奪うと、頭から水をかぶった。

 突然の恭一郎の登場に、火消したちが目を見開く。
「え、恭一郎さん!?」
「どうしてここに!?」
 恭一郎は声を上げる火消したちにそっと微笑むと、火元の長屋に向かって全力で走り始めた。

「ちょっ……待ってください! 恭一郎さん!!」


 恭一郎は一直線に火元の長屋に飛び込んだ。
 長屋の中は煙が充満していて、揺らめく炎以外は何も見えなかった。
 恭一郎はなるべく煙を吸わないように低い姿勢で前に進む。
(生きているだろうか……。少なくともこれだけの煙を吸っていたら意識はないだろうな……)
 恭一郎は足元に気をつけながら一歩ずつ奥に進んだ。
 奥に進めば進むほど煙は濃く、視界は悪くなる。
(どこだ……どこにいる……?)
 そのとき足に何か当たった。
 慌てて目を凝らすと、それは人の足だった。
 急いでしゃがみ込んで確認すると、子どもが仰向けに倒れているのが見えた。
 恭一郎が手で心臓の音を確認すると、しっかりと鼓動が感じられる。
(よし! まだ生きてる!)
 恭一郎は急いで半纏を脱ぐと、子どもを包んだ。
 抱えようと子どもの横に移動したとき、ふいに煙が薄くなり子どもの隣に女性がうつ伏せで倒れているのが目に入った。
 恭一郎は子どもに背を向け、女性の首元に手を当てた。
(こっちは間に合わなかったか……。母親だろうな……)

 恭一郎が目を伏せたとき、背中に何かが触れた。
 驚いて振り返ると、子どもが手を伸ばして恭一郎の背中に触れていた。
「気がついたか……。もう大丈夫だ」
 恭一郎はなるべく煙を吸わないようにしながらも、しっかりとした声で言った。
 すぐに意識を失ったのか、子どもの手は力なく床に落ちる。

(この子だけでも、なんとか助けないと!)

 恭一郎は子どもを抱き抱えると、戸口に急いだ。
 方向だけは見失わないよう、気をつけて奥まで進んでいたため、戸口の場所はすぐにわかった。
 炎に気をつけながら進んでいくと、ふいに声が聞こえた。


「おい……恭一、どこだ……」
 それは新助の声だった。
(あいつ、やっぱり来たのか……)
 恭一郎が声の方に進み、新助の影が見えたとき、長屋を支えていた梁が軋む音が聞こえた。

(マズい……!!)

 恭一郎は抱えていた子どもを新助に託し、全力で新助を突き飛ばす。
 轟音とともに瓦礫が目の前に落ちていく。
 土埃と強い熱風で、恭一郎は思わず目を閉じ後ずさった。
 足に強烈な痛みが走る。

 痛みを堪えつつ恭一郎が目を開けたとき、目の前には瓦礫の山があった。
 瓦礫の向こうに子どもを抱えた新助が尻もちをついているのが見える。
(ああ、なんとか間に合った……)

 恭一郎は体の力が一気に抜けていくのを感じた。
 痛みのある右足を見ると、上に瓦礫が落ちたのか足首から先は血だらけだった。
(これは潰れたかな……)
 恭一郎は痛みに顔をしかめた。

 恭一郎は視線を上げて、新助を見る。
(まぁ、もう役目は終わったからな……)

「おい、大丈夫か……!?」
 新助は子どもを見つめ、慌てた声を出していた。

「気を失っているだけだ……」
 恭一郎は足の痛みに耐えながら、瓦礫越しに新助に言った。

(さぁ、これが最期の会話になるかな……)
 恭一郎はなるべく穏やかな声で新助に語りかけた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 長屋の戸口に向かって走っていく新助の後ろ姿を確認すると、恭一郎はその場に崩れ落ちた。
「あいつ、話長ぇんだよ! こっちは足が限界だってのに! まったく……最期くらいカッコつけさせろよ!」
 ひとりになった恭一郎は、煙を吸うのも構わず大声で叫んだ。
「ああ、すっきりした……」

 恭一郎はひとり微笑む。
「やっぱり、あいつみたいにはいかないか……」

 恭一郎は三年前の火事を思い出していた。
 燃え盛る炎の中から子どもを抱えて飛び出してきた新助の姿。
 こちらを見て笑ったあの顔は、恭一郎の記憶に鮮明に残っていた。

「カッコよかったなぁ……」
 恭一郎は頭を掻くと、苦笑した。
「あんなに馬鹿なやつなのに」
 恭一郎は座り込んだまま天を仰いだ。
「あいつなら、江戸中の人間だって救えるんじゃねぇかって思っちまったくらい……」

 恭一郎は目を伏せてゆっくりと息を吐く。
 脳裏に妖しく笑う狐のような顔が浮かんだ。
「……汚名を晴らしてやるって?」
 恭一郎は鼻で笑った。
「なめんじゃねぇ。本当の光っていうのはな、噂ごときで曇るもんじゃねぇんだよ」
 恭一郎は静かに目を閉じた。

「あとは頼んだぞ、新助。おまえは……江戸の光だ」

 梁がメキメキと音を立てて崩れる音が響く。
 恭一郎はひとり、そっと微笑んだ。