(信はまだ何も掴めていないのか……)
鏡台の前に座り昼見世の準備をしながら、咲耶は小さくため息をついた。
大文字屋について信に頼んでから、まだ何の報告も咲耶の元には届いていなかった。
(今日の両国の川開き……何事もなければいいが……)
咲耶は鏡の中の自分を見つめる。
そこにはどこか不安げな顔の女がいた。
咲耶は苦笑する。
(こんな顔で見世に出るわけにはいかないな……)
咲耶は気持ちを切り替えて、唇に紅をさした。
「咲耶太夫、今よろしいですか?」
襖ごしに弥吉の声が響いた。
「ああ、入ってくれ」
咲耶が返事をすると、弥吉が一礼して部屋に入ってきた。
咲耶は鏡越しに弥吉を見る。
「あの……信さんから手紙を預かってきたんですが……」
弥吉が懐から手紙を出しながらそう言うと、咲耶はすぐに立ち上がり弥吉に近づいた。
「ありがとう」
咲耶は珍しく早口でそう言うと、笑顔で手を差し出した。
いつもと違う咲耶の反応に弥吉は目を丸くする。
咲耶は弥吉から手紙を受け取ると、その場で手紙を開いた。
内容はとても簡潔だった。
(今日の夕方しか大文字屋は戻らないってことか……)
咲耶の口から思わずため息が漏れた。
(そこで話しを聞けたとして、間に合うだろうか……)
「……咲耶太夫?」
弥吉が心配そうに声をかける。
無意識に顔が強張っていたことに気づき、咲耶は微笑んだ。
「ああ、ちょっと気がかりなことがあってな。届けてくれてありがとう。少し……急ぎの用だったんだ」
「そう……でしたか」
弥吉はなおも咲耶を心配そうに見ていたが、昼見世の前に手紙を回収するため、一礼して咲耶の部屋を後にした。
「後はもう祈るしかないのか……」
咲耶は手紙を胸に当てて、目を伏せる。
窓から強い日差しが差し込み、畳の上には咲耶の黒い影が落ちていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「わぁ、すごい!!」
両国橋までやってきた子どもは、目を輝かせた。
「おい、走ると危ないぞ」
叡正が子どもを呼び止める。
昼過ぎに新助の長屋を訪れた叡正は、そこで三人の火消しの男たちと合流し、隅田川にある両国橋までやってきていた。
まだ日は高く花火まで時間があったが、それでも歩けば誰かと肩が触れ合うほど橋の周辺は人で溢れている。
橋を渡った先の川沿いには隙間なく屋台が並び、それぞれの屋台には人だかりもできていた。
「おい、はぐれないようにしろよ」
火消しの男が、心配そうな顔で子どもの手を取った。
「大丈夫だよ! もう子どもじゃないんだから!」
子どもはそう言うと、火消しの男の手を振り払った。
「大丈夫じゃねぇよ。これからもっと人が増えるんだ。一回はぐれたらもう終わりだぞ」
周りがざわざわとしているため、火消しの声は自然と大きくなった。
「終わりって大げさだなぁ」
「大げさじゃねぇよ。この人混みじゃ絶対見つけられないからな。念のためはぐれたときの待ち合わせ場所、決めとくか」
火消しの男は、子どもだけではなく叡正やほかの火消しの男の顔も見て言った。
「もしはぐれたら、両国橋のたもとに集まろう。今俺たちがいる側な」
「わかった!」
子どもが手を上げて返事をすると、ほかの男たちもそれぞれ頷いた。
(それにしてもすごい人だな……)
叡正が隅田川を見ると、すでに舟の上で宴会を始めている人たちもいた。
(花火の時間が近づいたら、もっと増えるだろうな……)
叡正自身、両国の川開きに来るのは久しぶりだった。
子どもの頃は家族で来ていた叡正だったが、出家してからは一度も来たことがなかった。
叡正の横を通り過ぎていく家族連れを見ながら、叡正はそっと目を伏せる。
「ちょっと! 叡正さんがはぐれてどうするんですか!?」
ふらふらと少しずつ離れていく叡正の肩を、火消しの男が慌てて掴む。
「あ、すまない……」
叡正は苦笑する。
「まったく……、叡正さんは子どもじゃないんですから、迷子とか勘弁してくださいよ」
火消しは呆れた顔で叡正を見た後、辺りを見回した。
「それにしても、毎年のことですけど、江戸中の人間がここに集まってるんじゃないかってくらいの混み具合ですね……。お頭と後で合流できるかな……」
新助は仕事が終わりしだい合流することになっていた。
「ねぇねぇ、見て! あっちに美味しそうなのがあるよ!」
子どもが叡正と火消しの男を見てそう言うと、そのまま走り出した。
「あ! おい! ひとりで行くんじゃねぇ!」
火消しの男が後を追って走り出す。
叡正は二人を見て微笑んだ。
(信の言ってたことはよくわからないが、今はとりあえずあの子のやりたいことに付き合おう……)
叡正はそう心に決めると、子どもと火消しの後を追った。
(もうすぐ日が暮れるのか……)
大文字屋は重い足を引きずるように店に戻ってきた。
(何もかも、もう終わりだ……。私は今まで一体何のために……)
大文字屋は自分の足元から伸びる黒い影を見つめる。
影に飲み込まれるような感覚に襲われ、大文字屋はようやく自分が倒れかかっていることに気づいた。
慌てて足を踏みしめて上体を起す。
(いや、あの子だけは……あの子だけは守れたんだ……。私や家が破滅しても、あの子さえ無事なら……)
大文字屋は店を見上げた。
夕日を浴びて赤く染まった店は、まるで燃えているようだった。
大文字屋はゆっくりと息を吐いた。
「……っ!」
その瞬間、強い力で口元を塞がれた。
声をあげるより先に路地に引きずり込まれ、喉元に冷たいものが当たる。
(な、なんだ……!?)
大文字屋は恐怖で一気に体が冷えていくのを感じた。
恐る恐る視線だけ動かして喉元見ると、小刀が妖しく光っている。
(だ、誰か……!)
視線を動かして通りを見ると、両国の川開きということもあってか路地から見える範囲には誰も歩いていなかった。
「質問にだけ答えろ」
大文字屋の背後にいる男はそう低く呟くと、大文字屋の口元を覆っていた手を離した。
その変わり、小刀の腹は先ほどより強く喉元に当てられる。
「おまえが何をしたのか言え」
男は淡々とした声で言った。
「な、何のことだ……」
大文字屋は本当に何のことかわからなかった。
「おまえ、花火に何かしたか?」
男の言葉に、大文字は目を見開いた。
(あの件……もうバレているのか……!?)
「したんだな……」
大文字屋の反応を見て悟ったのか、男は小刀を握り直した。
(ど、どうすれば……! 花火が上がる前にバレたら、あの子の秘密はバラされるのか……? それだけはなんとしても避けなければ! どうせ私はもう終わりなんだ……。ここで死んでも……)
背後で男が小さくため息をついた。
「おまえの息子は、さっき火盗のところに行った」
「な!? なんだと!?」
大文字屋は驚きのあまり、思わず振り返りそうになった。
小刀が喉に触れて鋭い痛みが走ったが、そんなことは今どうでもよかった。
「罪を償うそうだ。さっきそう言っていた」
(な……!)
大文字屋は全身の力が抜け、その場に崩れ落ちた。
男は座り込んだ大文字屋から手を離し、ただ静かに見下ろした。
「私は一体何のために……」
大文字屋は額を地面につけて頭を抱えた。
「あの子さえ、あの子さえ守れれば……幸せになってくれれば、それでよかったのに……」
(どうしてこんなことに……! 私は一体……)
男は大文字屋を見つめた。
「幸せかどうかは他人が決めることじゃない」
上から聞こえた声に、大文字屋は思わず顔を上げた。
薄い茶色の瞳が静かにこちらを見下ろしていた。
「少なくとも、あいつは自分が後悔しないように火盗に行ったんだ」
(後悔しないように……)
大文字屋は目を伏せた。
最初から息子が名乗り出たがっていたのは事実だった。
それを止めたのは大文字屋自身だ。
「ああ……私は何もかも間違えたんだな……」
大文字屋の顔がゆっくりと歪んでいく。
「花火に何をした?」
男はもう一度静かに聞いた。
大文字屋は首を横に振る。
「わからないんだ……。知らない男から渡された小さな火薬の玉みたいなものを、花火玉に入れただけだから……。だが……おそらく爆発するんだと思う……」
大文字屋は地面を見つめていた。
自分がしたことを思うと顔が上げられなかった。
「それから……大量の……油を渡している……」
大文字屋は言葉が続かなかった。
自分がしたことで何が起こるのかは容易に想像できた。
「……わかった」
それだけ言うと、男は通りに向かって歩いていった。
ふと、男が足を止める。
「おまえは、息子のために生きる気はあるか?」
男の言葉に大文字屋は顔を上げる。
男は背を向けたままだった。
(私に生きる資格はない……ただ許されるなら……)
「ああ、もう少しだけ……生きて償いたい……」
大文字屋は絞り出すように言った。
「そうか……」
男はそれだけ言うと、通りに消えていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
仕事を終えた新助は、火消しの男とともに通りを歩いていた。
(ちょっと遅くなっちまったなぁ……)
沈んでいく夕日を見ながら、新助はため息をついた。
両国橋までは、まだかなりの距離がある。
(間に合うかなぁ……)
新助としてはそれほど花火が見たいわけではなかったが、行かなければ子ども拗ねてしまいそうだったため仕方なく行くことになった。
新助はもう一度ため息をつくと、通りに視線を戻す。
(ん……? あれって……)
路地から薄茶色の髪の男が通りに出てくるのが見えた。
(このあいだ来てた信とかいうやつか……)
新助が見つめていると、向こうも気づいたのか男はこちらに向かって歩いてきた。
(なんだ? 挨拶でもするつもりか……?)
このあいだ、明らかに新助に興味がなさそうだった男が、目が合っただけで近づいて来るのは予想外だった。
「……お」
「引手茶屋に行ってくれ」
新助がとりあえず挨拶しようと口を開いた瞬間、信が早口で言った。
新助は目を丸くする。
「……は?」
「咲耶のいるところに、頼一という男がいる。花火を止めるよう言え。俺は別の用事ができた。代わりに行ってくれ」
淡々とした口調だったが、急いでいることだけはわかる言い方だった。
「え……? なんだ?? どういうことだ? それに頼一って??」
急ぎの要件なのはわかったが、何を言っているのか新助にはまったくわからなかった。
隣にいた火消しの男が新助に呟く。
「頼一って……朝倉様のことじゃないですか……? お奉行様の……」
「ああ! え……お奉行様のことか!?」
新助が目を見開く。
「大文字屋が脅されて花火に何かを仕掛けた。おそらく爆発する。花火を止めるよう言え」
信が早口で言った。
「爆発!? 脅されたってどういう……」
新助はそこまで言って、大文字屋の息子のことを思い出した。
「……息子の……火事ことか……」
新助は小さく呟いた。
「お頭……これって本当のことなんですかね……」
火消しの男が新助に小声で聞いた。
新助は必死で頭の中を整理していた。
大文字屋の息子に花火を売り、恭一郎を火付けの犯人に仕立てた男。すべてがこのためだったと考えると辻褄が合う気がした。
「おそらく……本当なんだと思う……」
新助は絞り出すようにそう言うと、火消しの男の顔を見つめた。
「おまえは、両国橋に行ってこのことを伝えてくれ。この時間からなら直接現場で止めた方が早ぇだろう。吉原に行ってそこからお奉行様に動いてもらってたんじゃ、たぶん間に合わねぇ」
「わ、わかった……!」
火消しの男はそう言うと、慌てて両国橋に向けて走り始めた。
信も去っていこうとしたところを、新助が呼び止める。
「おい! ……聞きたいことがある」
信は振り返って新助を見つめた。
「恭一は今回のことに巻き込まれたのか……? 巻き込まれたせいで……死んだのか?」
新助はこぶしを握りしめた。
(それなら、恭一の死は自殺でも事故でもない……)
新助の言葉に、信はわずかに目を見開く。
「おまえ、気づいてなかったのか?」
信は静かな声で聞いた。
「何のことだ……?」
「巻き込まれていたとは思うが、死んだこととは関係ない」
「関係ない……のか……?」
「ああ。叡正から聞いた限りでしかわからないが、恭一郎という男が火の中に飛び込んだのは、おまえのためだろう?」
新助は目を見開く。
「俺の……?」
何を言われているのか理解できなかった。
「おまえが飛び込まないように、先に飛び込んだんだろう? もしくは飛び込んでも助けられるように先に入ったんじゃないのか?」
「……え……?」
新助は自分の唇がしびれていくのを感じた。
「俺のため……?」
そのとき、潰れかけた長屋に飛び込んで殴られたときのことを思い出した。
『もう二度とこんなことするな! 二度とだ!!』
ひどい剣幕の恭一郎の顔が目の前に浮かぶ。
「おい、それより急げ。もう時間がない」
信はそう言うと、新助に背を向けて去っていった。
「あ、ああ……」
新助はなんとかそう呟くと向きを変えて走り始めた。
ときどきもつれそうになる足をなんとか前に進める。
(ああ、そうか……。俺のせいだったのか……)
走っているはずなのに、まったく前に進んでいないような感覚に襲われる。
(くそっ……今は考えるな……。とにかくお奉行様のところに……)
新助はすべてを振り払うように、ただ足を動かすことだけに集中した。
新助が引手茶屋の前に着いたときには、日はすっかり沈み辺りは暗くなっていた。
(マズいな……。もう始まる頃じゃねぇか……?)
新助は頬を流れる汗を拭うと、必死に呼吸を整える。
(とにかく早く行かねぇと……)
「あ、あの……すみません……。どちらにご用でしょうか?」
前回強引に引手茶屋に入った新助のことを覚えているのか、引手茶屋の男が引きつった笑顔を浮かべて新助を見ていた。
「ああ……。すまねぇが……またお奉行様に用がある……」
新助はなんとかそれだけ口にした。
「あの……以前にも申し上げましたが、お通しできないんですよ。申し訳ありませんが……」
「緊急なんだ。今回は俺の私的な要件じゃねぇ。……火消しとして話しだ。今じゃねぇと……人が死ぬことになるかもしれねぇんだ……」
ようやく呼吸が整ってきた新助は、男にそう言うと強引に中に入った。
「人が死ぬ!? し、しかし……」
引手茶屋の男も新助の横を歩きながら、なんとか引き留めようと新助の腕を掴んだ。
(これじゃあ、前と一緒じゃねぇか……)
新助は仕方なく、男を引きずるように歩いていく。
頼一がいる座敷は、引手茶屋の中でも一番広い座敷と決まっているため、前回と同じように新助はそちらに向かって歩いた。
(でも……信じてもらえるのか……。大文字屋のおっさんを引きずってでも連れてくるべきだったか……)
新助は何の証拠もないまま、ここまで来たことを後悔した。
新助は座敷の襖を勢いよく開ける。
上座に頼一、その横に咲耶が座っていた。
新助を見て芸者たちは悲鳴を上げたが、頼一と咲耶がまったく驚いていないようだった。
(引手茶屋に俺が来たことに気づいていたのか……?)
新助は少し不思議に思いながら、二人の前に歩みを進める。
「も、申し訳ございません! すぐに追い出しますので!」
引手茶屋の男が前回と同じようなことを頼一に言った。
頼一は苦笑する。
「いい、下がれ」
頼一は静かに男にそう言うと、視線を新助に向けた。
「今回はどうした?」
新助は座敷に両膝をついて頼一を見た。
「大文字屋が誰かに脅され、花火に何かを仕掛けたと証言しました。花火を……中止していただくことはできませんか?」
新助は頼一の顔をじっと見ていたが、頼一の表情は一切変わらなかった。
(やっぱり信じてもらえねぇのか……)
新助がさらに訴えかけようと口を開くと、頼一が深いため息をついた。
「これで確定か?」
頼一は咲耶を見た。
「はい……」
咲耶は目を伏せる。
(なんだ……。どういうことだ……?)
新助が戸惑っていると、頼一が新助に視線を戻した。
「咲耶からそのような可能性があるという話しは先ほど聞いた。ただ、あくまで憶測ということで最低限の動きしかとれていない……。今はすべての町火消を両国橋に向かわせる手配をしただけだ。しかも、まだ知らせすら火消しの元に届いていないだろう……。今からでは、集まってもおそらく数人。しかも、あくまで花火による火事を警戒するための見回りを依頼したに過ぎない。花火を今から止めるのも難しいだろう……。おそらく知らせが間に合わない」
頼一は苦しげな表情で言った。
「俺の仲間が現地に直接向かっています! あいつが間に合えば……」
「例年通りなら……両国橋周辺には今、江戸中の人間が集まっている。あの人混みをかき分けて、花火師のところまでたどり着けるとは思えない……」
頼一が目を伏せ、片手で顔を覆う。
(じゃあ、何もかも手遅れなのか……?)
新助は呆然と畳を見つめた。
もし花火が爆発し、屋台に火がつけばそこから燃え広がるのは目に見えていた。
外とはいえ、人が密集した場所で火事が起これば混乱も避けられない。
新助はこぶしを握りしめた。
(どうすればいい……。こんなとき、あいつがいてくれれば……。恭一がいれば、何かできたかもしれねぇのに……。どうして……どうして……俺なんかが生き残ったんだ……)
「おい」
ふいに、高圧的な女の声がして新助は驚いて顔を上げる。
いつの間に移動したのか、目の前には咲耶が立っていた。
以前会ったときと違い煌びやかに装った咲耶は信じられないほどに美しかったが、その分険しいその表情はゾッとするほど恐ろしかった。
「おまえは何をしている?」
「え……、お奉行様に知らせに……」
新助は呆然と咲耶を見上げた。
「何をウジウジしているのかと聞いている」
咲耶の視線が新助に突き刺さる。
「え……?」
ふいに、咲耶の手が新助の胸元に伸びたかと思った瞬間、新助は左頬に強い痛みを感じた。
視界が揺れ、周りの芸者たちが息を飲んでいるのが目に入った。
「……え?」
恐る恐る視線を動かすと、新助の胸ぐらを掴む咲耶と目が合った。
(え……、殴られた……のか? しかも、これ平手じゃねぇな……こぶしで? ……結構痛ぇ……。でも、どうして……)
ふと、咲耶の後ろで頼一が目を見開いて息を飲んでいるのが見えた。
(お奉行様のあんな顔初めて見た……。ちょっと引いてんじゃねぇのか、あの顔は……)
新助がぼんやりとそんなことを考えていると、咲耶が再びこぶしを振り上げたのが目に入った。
「お、おい! ちょっと待……」
新助が言い終わるより先に、左頬に再び強い痛みが走った。
「痛ぇ……」
新助がそう呟くと、咲耶が新助の胸ぐらを強く引き寄せた。
長いまつ毛に縁取られた瞳が、新助のすぐ目の前にあった。
「もう一度言う。おまえは何をしている?」
咲耶の威圧感に新助は言葉を失った。
「託されたんじゃないのか? おまえは救ってもらった命を無駄にする気か?」
新助は目を見開いた。
(恭一のことを……言っているのか……?)
「どうして恭一郎がおまえに何も言わなかったかわかるか? それは、おまえが馬鹿だからだ」
咲耶の辛辣な言葉が、新助の胸に刺さる。
「黙っていられない、口をすべらす、簡単に想像できただろうからな。だから言わなかった。それからもうひとつ……」
咲耶は新助を真っすぐに見た。
「言わなくても問題ないと思ったからだ。組のことがどうでもよかったのでなければ、理由はそれしかない。自分が汚名を着せられても組は問題ないと思ったんだろう。おまえがいればな」
新助は目を見開いた。
「だから、おまえを死なせるわけにはいかなかった。ほかにもいろんな感情はあっただろうが、私が想像できるのはこれくらいだ。おまえは生かされたんだ。何のために? おまえは何だ? 火消しじゃないのか? や組の組頭なんだろ? おまえは何をしている? おまえがいるべき場所はここなのか?」
咲耶は早口でそう言うと、新助の胸ぐらから手を離した。
「火消しは町の英雄なんだろ? ほら、立て」
咲耶は新助の腕を強引に掴むと引っ張った。
新助は呆然と立ち上がる。
咲耶は新助の胸をこぶしで強く叩いた。
「行け」
咲耶は新助を見上げた。
「全部助けるんだろ?」
新助は目を見開いた。
『もう誰も死なせない。全部助ける』
そう言った恭一郎の横顔が浮かんで消えた。
「ああ、そうだったな……」
新助は目を伏せた。
「俺、行きます……」
新助はそう言うと一礼して、足早に座敷を出ていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「ハ、ハハハ……」
新助がいなくなった座敷に笑い声が響く。
咲耶がゆっくりと振り返ると、口元を覆って笑う頼一の姿があった。
(珍しいな……)
頼一が声を上げて笑うところを咲耶は初めて見た。
「頼一様」
咲耶は頼一を軽く睨む。
「あ、いや、すまない……」
頼一はそう言いながら、目に涙をためて笑っていた。
「さて、私も仕事をしなくてはな」
頼一はゆっくりと立ち上がると、咲耶に歩み寄り耳元に口を寄せた。
「咲耶に殴られてしまう……」
頼一はそう言うとプッと噴き出した。
「頼一様」
笑い続ける頼一を、咲耶が睨む。
「まぁ、そう怒るな。惚れ直したところだ」
頼一はそう言って微笑むと、咲耶の肩を軽く叩き横を通り過ぎると座敷の出口に向かった。
「私も私の仕事をしてくる」
頼一は片手を上げると襖を開けて座敷を後にした。
咲耶は目を伏せた。
「あとは、頼みます」
咲耶は祈るように目を閉じた。
恭一郎が火事の現場に着いたとき、や組の火消したちは火元の隣にある長屋を崩していた。
(ああ、これなら大丈夫そうだな……。あそこさえ崩せば、もう燃え広がることはないだろう……)
恭一郎は胸をなで下ろした。
半鐘の音を頼りにここまで来たが、火消しの仕事は特に問題なく進んでいるように見えた。
(あいつが来てるなら、まぁ大丈夫だろう。俺がここにいたら気が散るだろうし、先に帰るか……)
恭一郎が長屋に背を向けたそのとき、火消しの声が響く。
「おい!! 火元の長屋、まだ人がいるらしいぞ!」
恭一郎は目を見開いた。
振り返り新助の姿を探すと、新助は火元の長屋から少し離れたところに立っていた。
火消しの誰かと何か話している。
話している声は聞こえなかったが、新助が何を言っているのかは容易に想像できた。
「あの馬鹿……!」
(二度とするなって言っただろうが……!)
恭一郎は思わず舌打ちした。
火元の長屋は崩れる寸前だった。
それは恭一郎でなくても誰の目にも明らかだった。
ふいに、恭一郎は自分が何をすべきか見えた気がした。
(……俺がこの日この時に釈放されたのは、このためだったのかもしれないな……)
恭一郎は目を伏せて軽く微笑むと、ゆっくりと走り出した。
近くにいた火消しの男が持っていた水の桶を強引に奪うと、頭から水をかぶった。
突然の恭一郎の登場に、火消したちが目を見開く。
「え、恭一郎さん!?」
「どうしてここに!?」
恭一郎は声を上げる火消したちにそっと微笑むと、火元の長屋に向かって全力で走り始めた。
「ちょっ……待ってください! 恭一郎さん!!」
恭一郎は一直線に火元の長屋に飛び込んだ。
長屋の中は煙が充満していて、揺らめく炎以外は何も見えなかった。
恭一郎はなるべく煙を吸わないように低い姿勢で前に進む。
(生きているだろうか……。少なくともこれだけの煙を吸っていたら意識はないだろうな……)
恭一郎は足元に気をつけながら一歩ずつ奥に進んだ。
奥に進めば進むほど煙は濃く、視界は悪くなる。
(どこだ……どこにいる……?)
そのとき足に何か当たった。
慌てて目を凝らすと、それは人の足だった。
急いでしゃがみ込んで確認すると、子どもが仰向けに倒れているのが見えた。
恭一郎が手で心臓の音を確認すると、しっかりと鼓動が感じられる。
(よし! まだ生きてる!)
恭一郎は急いで半纏を脱ぐと、子どもを包んだ。
抱えようと子どもの横に移動したとき、ふいに煙が薄くなり子どもの隣に女性がうつ伏せで倒れているのが目に入った。
恭一郎は子どもに背を向け、女性の首元に手を当てた。
(こっちは間に合わなかったか……。母親だろうな……)
恭一郎が目を伏せたとき、背中に何かが触れた。
驚いて振り返ると、子どもが手を伸ばして恭一郎の背中に触れていた。
「気がついたか……。もう大丈夫だ」
恭一郎はなるべく煙を吸わないようにしながらも、しっかりとした声で言った。
すぐに意識を失ったのか、子どもの手は力なく床に落ちる。
(この子だけでも、なんとか助けないと!)
恭一郎は子どもを抱き抱えると、戸口に急いだ。
方向だけは見失わないよう、気をつけて奥まで進んでいたため、戸口の場所はすぐにわかった。
炎に気をつけながら進んでいくと、ふいに声が聞こえた。
「おい……恭一、どこだ……」
それは新助の声だった。
(あいつ、やっぱり来たのか……)
恭一郎が声の方に進み、新助の影が見えたとき、長屋を支えていた梁が軋む音が聞こえた。
(マズい……!!)
恭一郎は抱えていた子どもを新助に託し、全力で新助を突き飛ばす。
轟音とともに瓦礫が目の前に落ちていく。
土埃と強い熱風で、恭一郎は思わず目を閉じ後ずさった。
足に強烈な痛みが走る。
痛みを堪えつつ恭一郎が目を開けたとき、目の前には瓦礫の山があった。
瓦礫の向こうに子どもを抱えた新助が尻もちをついているのが見える。
(ああ、なんとか間に合った……)
恭一郎は体の力が一気に抜けていくのを感じた。
痛みのある右足を見ると、上に瓦礫が落ちたのか足首から先は血だらけだった。
(これは潰れたかな……)
恭一郎は痛みに顔をしかめた。
恭一郎は視線を上げて、新助を見る。
(まぁ、もう役目は終わったからな……)
「おい、大丈夫か……!?」
新助は子どもを見つめ、慌てた声を出していた。
「気を失っているだけだ……」
恭一郎は足の痛みに耐えながら、瓦礫越しに新助に言った。
(さぁ、これが最期の会話になるかな……)
恭一郎はなるべく穏やかな声で新助に語りかけた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
長屋の戸口に向かって走っていく新助の後ろ姿を確認すると、恭一郎はその場に崩れ落ちた。
「あいつ、話長ぇんだよ! こっちは足が限界だってのに! まったく……最期くらいカッコつけさせろよ!」
ひとりになった恭一郎は、煙を吸うのも構わず大声で叫んだ。
「ああ、すっきりした……」
恭一郎はひとり微笑む。
「やっぱり、あいつみたいにはいかないか……」
恭一郎は三年前の火事を思い出していた。
燃え盛る炎の中から子どもを抱えて飛び出してきた新助の姿。
こちらを見て笑ったあの顔は、恭一郎の記憶に鮮明に残っていた。
「カッコよかったなぁ……」
恭一郎は頭を掻くと、苦笑した。
「あんなに馬鹿なやつなのに」
恭一郎は座り込んだまま天を仰いだ。
「あいつなら、江戸中の人間だって救えるんじゃねぇかって思っちまったくらい……」
恭一郎は目を伏せてゆっくりと息を吐く。
脳裏に妖しく笑う狐のような顔が浮かんだ。
「……汚名を晴らしてやるって?」
恭一郎は鼻で笑った。
「なめんじゃねぇ。本当の光っていうのはな、噂ごときで曇るもんじゃねぇんだよ」
恭一郎は静かに目を閉じた。
「あとは頼んだぞ、新助。おまえは……江戸の光だ」
梁がメキメキと音を立てて崩れる音が響く。
恭一郎はひとり、そっと微笑んだ。
「ああ、お腹いっぱい!」
子どもが嬉しそうに笑うと、火消しの男が呆れた表情を浮かべた。
「まぁ、それだけ食べればな……。花火じゃなくて、屋台が目当てだったんだろ」
火消しの男の言葉を聞き、子どもは頬を膨らませた。
「違うよ! 花火が見たくて来たの! そろそろ始まるかな?」
子どもは空を見上げた。
「暗くなってきたし、そろそろじゃないか?」
火消しの男も同じように空を見上げた。
叡正は二人を見て微笑むと、辺りを見回す。
屋台の提灯があるため明るく見えているが、辺りはすっかり暗くなっていた。
夕方のときよりも一段と人が増え、少し前までは人混みをかき分けて進むことができていたが、もう今は見動きすることすら難しい状態だった。
「ねぇ、肩車してよ」
子どもが叡正を見上げて服の袖を引っ張った。
「え!? 俺!?」
叡正は目を丸くする。
「うん! この中だったらお兄さんが一番背が高いから」
子どもはにっこりと微笑む。
(俺、肩車とかしたことないけど……)
叡正は助けを求めるように火消しを見たが、男たちは微笑むとゆっくりと視線をそらした。
「ねぇ、肩車!」
子どもは叡正の手をとって揺すった。
(やるしかないのか……)
叡正はため息をつくと、諦めて身を屈めた。
「やったぁ!」
子どもは嬉しそうに叡正の肩に座った。
(重っ……!)
叡正は子どもを落とさないように足を掴み、ゆっくりと立ち上がる。
「うわぁ、すごい高い高い! これでよく見えるよ!」
子どもが嬉しそうに足をバタバタと動かす。
「お、おい! 足動かすな! 落ちるぞ」
叡正が慌てて子どもに言った。
「は~い、ごめんなさい」
子どもは悪びれる様子もなく言うと、辺りをキョロキョロと見回した。
「あ!」
子どもが声を上げる。
「どうした?」
火消しの男が子どもを見上げた。
「今日おじさんと一緒に仕事だった火消しの人があっちにいた!」
子どもは遠くの方を指さして言った。
「ああ、お頭が間に合ったのか」
火消しの男が微笑む。
「ん~、でもおじさんはいないような……」
子どもは目を細めて、新助の姿を探した。
「うん、やっぱりいない! それになんか……火消しの人、怖い顔してるよ……」
「怖い顔?」
叡正がそう呟いた瞬間、空が明るくなった。
その直後にドンという大きな音が響き渡る。
叡正が視線を動かすと、夜空に大輪の花が咲いていた。
夜空に一瞬で菊の花が描き出され、緩やかに消えていく。
観衆から歓声が上がった。
「やっぱり綺麗だな……」
叡正がそう呟くと、子どもが叡正の頭を両手で揺すった。
「なんだ?? どうした??」
急に頭を揺すられて叡正が、慌てて子どもを見上げる。
子どもは不安げな顔で叡正を見た。
「さっき、向こうにいた火消しの人と目が合ったんだけど……なんか言ってた……。聞こえなかったけど……。なんかすごい怖い顔してる……」
叡正は隣にいた火消しの男と顔を見合わせた。
「何か緊急事態なんじゃないのか? 近くで火事があったとか……」
叡正がそう言うと、火消しの男も頷いた。
「とりあえず、合流しよう。おい、今どのあたりにいる?」
火消しの男は子どもを見上げて聞いた。
「あっち!」
子どもは川や屋台から離れた方を指さした。
叡正と火消しの男たちは、人混みをかき分けてそちらに向かって進む。
一度花火が上がると次の花火までしばらく時間がかかるため、観衆も見やすい場所で花火を観ようと続々と移動し始めていた。
観衆は川に向かって進んでいたため、叡正たちは流れに逆らって進むかたちになった。
叡正は子どもを肩車したまま、なんとか前に進んでいく。
火消しの男たちが前を歩いて誘導してくれているため、叡正も人の波にのまれることなく歩くことができていた。
「もうちょっとだよ!」
しばらく歩き続けると子どもが叡正に言った。
「あの人……ずっと何か言ってる……」
子どもが呟く。
「なんだろう……まだ全然聞こえないけど……」
叡正は子どもの言葉を聞きながら、人混みを避けて前に進む。
「い、かな……? ……え、かな? け? ……」
子どもは近づいてきた火消しの口元を見て、何を言っているのか読み取ろうとしていた。
「い、え、お? ……あ! ……にげろ……?」
「え……?」
叡正が首を傾けて子どもを見上げた瞬間、空がまぶしいほどに明るくなった。
その瞬間、叡正の耳にも火消しの男の声が聞こえた。
「……逃げろ!!!」
いくつもの爆発音が響き、歓声は一瞬にして悲鳴に変わった。
空から降り注ぐ無数の炎に、叡正は一瞬何が起こっているのか理解できなかった。
炎は、舟や屋台の上に落ちると一気に燃え広がる。
叡正の視線の先にあった屋台も一瞬にして炎に飲まれた。
悲鳴を上げていた観衆は燃え上がる火を見て、炎から逃れようと一斉に動き出す。
叡正たちも一瞬にして人の波にのまれた。
茫然としていた叡正もようやく我に返る。
(マズい……! このままじゃ倒される!)
叡正が倒れれば、子どもが落ちて観衆に踏み潰されるのは目に見えていた。
「おい! こっちだ!!」
火消しの男が叡正の腕を掴み、一段高くなっている松の木の植え込みに叡正を引っ張り上げる。
「す、すまない……」
そこは隣で松の木が燃えていたため、炎を避けている観衆はそこを避けて通っていた。
決して安全とは言えなかったが、観衆に潰されるよりましだった。
逃げろと叫んでいた火消しは、逃げ惑う人々を茫然と見つめている。
「何がどうなってるんだ……?」
叡正は子どもを肩から下ろしながら呟いた。
「大文字屋が……脅されて花火に何か仕掛けたらしい……」
逃げろと叫んていた火消しが、絞り出すように言った。
「は!? どういうことだ!?」
火消しの男たちが一斉に男を見た。
「さっき聞いて……俺は花火を止めに来たのに……間に合わなかった……」
火消しの男は頭を抱えてしゃがみ込む。
火はあっという間に燃え広がり、連なる屋台はすべて炎に飲まれていた。
叡正たちがいる通りは、すでに至るところが燃えていたため、観衆は対岸を目指して橋に向かっていた。
しかし、すでに橋からも火の手が上がっているようだった。
「おい! 押すな!! こっちは燃えてんだ!!」
「後ろもだよ!! さっさと前に行け!!」
「お願い!! 押さないで!! 娘が転んだの!! お願いだから踏まないで!!!」
「火!? 火が!!? 誰か消してくれ!!! 死にたくない……! 死にたくない……」
怒号や悲鳴を聞きながら、叡正はただ茫然と立ち尽くしていた。
「これからどうする? 避難させるために誘導するべきなんだろうが……この状況でまともに話しを聞いてくれるか……? それに避難させようにも消火も同時にやっていかねぇと逃げ場がねぇ……」
火消しの男は、隣で燃える松の木を警戒しながら言った。
「舟で対岸に避難させるか……?」
川では多くの舟が燃えていたが、いくつかの舟は無事なようだった。
「この状況じゃ、ちょっと危ないかもしれねぇな……」
火消しの男は橋の上の様子を見ながら、苦しげに呟いた。
今の状態から考えると、少ない舟を巡って争いになるのが容易に想像できた。
「とりあえず、怪我人の避難を優先しよう。怪我をした人間を川辺に集めるぞ。川辺なら火が来てもなんとか対応できる。おまえは川辺で待ってろ。そこが一番安全だ」
火消しの男は子どもを見て言った。
茫然としていた子どもは、ゆっくりと男を見ると静かに頷いた。
「叡正さんは、怪我している人を川辺に集めるのを手伝ってください」
火消しの男の言葉に、叡正も慌てて頷いた。
「俺たちは怪我人を移動し終えたら、消火しつつほかの人たちを対岸に誘導しよう。とにかく水を……」
「この火……消せるのか……?」
別の男がおずおずと口を開いた。
「この松だって、そこらへんの舟だって、燃え方がおかしいだろう……? 普通こんなに一気に燃え広がらねぇよ……。油かなんか……撒いてあるんじゃねぇのか? 今はまだ燃えてないところも油が撒いてあって引火したら、一瞬で巻き込まれるぞ……」
男はそう言うと目を伏せる。
ほかの男たちも不安げな眼差しで燃え続ける屋台を見た。
「おいおい、怖気づいたのか?」
火消しの男は鼻で笑うと、男たちを真っすぐに見た。
「無理でもなんでも消すしかねぇだろ? 生きるために」
火消しの男は微笑むと、男たちの肩を順番に叩いていく。
「これが俺たちの仕事だろ! これぐらいで弱気になるんじゃねぇよ! あとでお頭に叱られるぞ!」
不安げな顔をしていた男たちは顔を見合わせると、心を決めたように小さく頷いた。
「そうだな……。もう……やるしかねぇよな」
「ああ! やってやるよ!」
「このまま燃え続けたら、どっちにしろ逃げ場はないしな」
男たちは口々にそう言うと、それぞれがどこを見て回るか決めて走り出した。
ひとりだけ残った火消しと叡正、子どもの三人は、まず川辺に移動することになった。
すでにほとんどの人が橋の周辺に集まっていたため、三人は橋の近くを通ることは避けて川辺に向かう。
歩きながら火消しの男は、観衆が残していったござを拾っていた。
「ござを集めて、そこに怪我人を寝かせよう」
火消しの男の言葉に叡正と子どもは頷き、一緒にござを拾いながら歩いた。
川辺に着くと、三人で集めたござを敷いていく。
そうしているうちに火消しの男たちが、続々と怪我人を連れてきた。
怪我人のほとんどは火傷を負ってひとりで歩けない状態だった。
「痛ぇ……。痛ぇよ……」
「ここで寝てる場合じゃねぇんだ! 早く逃げねぇと……!」
「助けてくれ……。誰か……」
一気に川辺が騒がしくなっていく。
「叡正さん、思ったより人数が多いですし、みんな勝手に動きそうなんで、予定を変更してもいいですか? 叡正さんにはここで怪我人を見ててもらいたいです」
火消しの男の言葉に、叡正は目を丸くする。
「それはもちろん大丈夫だが……俺、医学の知識とかは……」
「大丈夫です。どっちにしろ、ここには何もないんで治療はできないですから……。火傷のところを冷やすくらいで十分です」
「わかった」
叡正が頷くと、そばにいた子どもが叡正の服の袖を引っ張った。
「僕も手伝うよ!」
子どもは強い眼差しで叡正を見つめた。
叡正は、先ほどまでと違う意志を持った子どもの表情に目を見開いた。
(……俺もしっかりしなきゃな……)
叡正は微笑んだ。
「ああ、頼む」
火消しの男たちが怪我人を探すために川辺を離れると、叡正と子どもは舟の中に残されていた桶や羽織の着物を取り出した。
桶に水を汲み、着物を手で小さく裂くと二人で怪我人のもとに向かう。
子どもが火傷した男の横に座ると、水をすくって患部にかけた。
男は苦痛で顔を歪めたが、声を出さないように歯を食いしばっていた。
子どもは水をかけ終えると、水に浸した着物の切れ端を患部に当てる。
「ありがとな……」
男は子どもの顔を見て微笑んだ。
子どもは首を横に振る。
「こんなことしかできなくて、ごめんね……。でも、火消しのおじさんたちがきっと助けてくれるから!」
子どもは男の目を真っすぐに見て言った。
男は目を見開く。
「おまえは……怖くないのか……?」
男の言葉に子どもは悲しげに笑った。
「僕が怖いのは……」
その瞬間、爆発音が響き渡った。
怒号も悲鳴も止み、皆が驚愕の表情で空を見る。
叡正も空を見た。
暗い空に光の線が走っていた。
(また爆発するのか……!)
皆が固唾をのんで見守る中、花火は弧を描くように光の線を描き、静かに消えた。
「のろし花火……?」
叡正が小さく呟く。
両国の川開きでは、菊の花のように空に広がる花火とともに、弧を描くように光の線を描く花火も上げられる。
今のものは普通ののろし花火だったが、今この状況でそれを綺麗だと思うものは誰もいなかった。
(どうして今、上がったんだ……?)
皆、何が起こったのかわからず辺りは静寂に包まれた。
すると、静寂を切り裂くように声が響く。
「逃げるな!!! 生きてぇんなら逃げるんじゃねぇ!!!」
それは新助の声だった。
【少し前】
「間に合わなかったか……!」
新助は爆発音と悲鳴を聞き、足を速めた。
両国橋はもうすぐそこだった。
新助が路地を抜けて川沿いの通りに出ると、そこには地獄絵図のような光景が広がっていた。
川に浮かぶ舟は燃え、対岸ではほとんどの屋台が炎に包まれている。
通りに沿って植えられた松も燃えており、松の向こうに広がっている長屋に燃え広がるのも時間の問題に見えた。
そんな中、皆が対岸に逃げようと橋の上で押し合い、怒号や悲鳴が響いていた。
(なんだ……これは……)
新助は茫然と立ち尽くした。
対岸の火事以上に、新助には人を押しのけて逃げようとする観衆の方がよほど恐ろしく感じられた。
(とりあえず、火を消そう……)
新助は気持ちを切り替えて消火のために動き出した。
土手を下り川に近づく。
すると、ふいに川の真ん中で大きな水しぶきが上がった。
新助が驚いて顔を上げると、橋の上から人が落ちてきていた。
新助は目を見開く。
橋の上から落ちた男は、少しして落ちたことに気づいたのか手足をバタバタと動かしていた。
新助は慌てて、半纏を脱いで川に入ると男のところまで泳いでいく。
もがいでいる男のもとに着くと男の腕を掴み、顔が水面に出るように支えた。
「おい! 大丈夫か!?」
「た、助けて……! ……助けて!!」
男は混乱しているのか手足をバタバタさせてもがき続けていた。
(このままじゃ沈むな……)
新助はもがく男をなんとか支えていたが、諦めたようにそっと口を開いた。
「悪ぃ……」
新助はそう呟くと、男の首の後ろを手刀で軽く叩いた。
男が一瞬にして気を失う。
新助は気を失った男を支えながら、川岸まで泳いだ。
男を岸に引き上げると、新助は橋を見上げる。
(やっぱり、これは違ぇんじゃねぇのか……)
新助は半纏を羽織ると、こぶしを握りしめた。
(悪ぃな……、恭一。俺はおまえみたいにカッコよくはできねぇよ……)
新助はきつく目を閉じると、心を決めて川沿いを歩き始めた。
花火師が花火を上げているのは、両国橋からそれほど離れていない川沿いだった。
新助が花火師のもとに着くと、花火師たちは座り込んだまま茫然としていた。
(自分たちが上げた花火でこんな火事になれば、無理もねぇよな……)
新助は茫然としている花火師のひとりに近づく。
「おい、花火を上げてくれ」
新助が花火師の前にしゃがみ込んで言った。
「……え?」
花火師は困惑した表情を浮かべる。
「……見ましたよね……? 爆発したんです……。もう花火は……」
「あれはおまえらのせいじゃねぇよ。……のろし花火はあるか?」
花火師は目に涙を浮かべていた。
「……のろし花火は……ありますけど、あれも……爆発するかも……」
花火師はそう言うと目を伏せた。
「のろし花火は大丈夫だ。……頼む! このままじゃ火事とは関係ないところでも死人が出ちまう! のろし花火を上げてくれ!」
のろし花火は、大輪の花を描く花火と違い、武家がお金を出している花火だった。
商家の大文字屋が何かしている可能性はないと、新助は思った。
「わ、わかりました……。でも、危ないので下がってくださいね……」
花火師は少し離れたところにのろし花火を準備すると、ためらいながら火をつけた。
爆音とともに光が空に向かって上がっていく。
新助は美しい光を見上げた。
光が上がった瞬間から、辺りは時が止まったような静けさに包まれた。
(……よし! これなら……!)
新助は大きく息を吸い込んだ。
(頼む!届いてくれ!!)
「……逃げるな!!!」
耳に響く新助の声に、花火師たちが驚いて一斉に新助を見た。
「生きてぇんなら逃げるんじゃねぇ!!!」
新助はありったけの声で叫んだ。
「今ここで逃げても、このまま燃え続ければ、この火はいずれおまえたちの長屋を焼くことになる!! どこに逃げる気だ!! いつまで逃げる気なんだ!?? 火消しが死んで火が消えるなら、いくらでもこんな命くれてやる!!!」
新助は自分の胸を力一杯叩いた。
「けど……そんなことしたって、誰も助からねぇんだよ!! 火消しが何人死んでも、それで救える命なんて限られてる!!」
新助の脳裏に、源次郎と恭一郎の姿が浮かぶ。
「ここは川だ!! これだけの人間が本気で動けば火は消せる!!! 逃げるな!!! 生きたかったら……守りたかったら立ち向かえ!!!」
新助の言葉は、静寂の中で観衆の耳に確かに届いていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
橋の上では、観衆が戸惑った表情で立ち尽くしていた。
「消せる……のか……?」
「いや、でも危ないでしょ……」
「逃げられるなら、逃げた方が……」
「でも、大火事になるかもって……うちはすぐそこだから……」
「俺たちで消すなんて……」
観衆は顔を見合わせると、不安げな顔で口を開いた。
ふと、観衆のひとりが川辺を見て呟く。
「ねぇ、あれ……何……?」
数人が観衆の指さす方向を見た。
いつの間に集められたのか、そこには何人もの怪我人が横たわっていた。
その怪我人たちのすぐそばで、崩れ落ちた屋台が燃えている。
観衆から小さな悲鳴が上がった。
「あれ……大丈夫なの……!?」
観衆のひとりが思わず声を上げる。
「ねぇ、あれ!!」
別の観衆が指をさす。
そこには、怪我人たちを守るように桶で水をかける子どもの姿があった。
子どもは、燃え上がる屋台に水をかけては、また川に戻って水を汲み屋台にかけるという動きを繰り返している。
「守っているのか……?」
観衆のひとりが絞り出すように言った。
子どものほかに、ひとり大人がいたが、その二人だけで屋台の火を消そうとしているようだった。
そのとき、子どもが転んだ。桶が転がり水がこぼれる。
見ていた観衆のあいだで小さな悲鳴が上がった。
しかし、子どもはすぐに立ち上がると、何事もなかったように桶を拾い川に戻って水を汲んでいた。
「ねぇ……私たち、見てるだけでいいの……?」
観衆のひとりが振り返って言った。
「いいわけ……ないよな……」
「ああ……。あんな子どもが頑張ってるのに、逃げるなんてできねぇよ……」
観衆は顔を見合わせると頷き、続々と橋を戻り始めた。
その波は少しずつ大きくなっていった。
「おい……、もうやめろ……」
火傷を負った男は、屋台に水をかけ続けている子どもを見て言った。
「ほかの屋台も落ちてくるかもしれないんだ……。頼むから……逃げてくれ……!」
男は縋るように子どもを見た。
子どもは川に向かって走りながら、男を振り返って微笑む。
「大丈夫だよ! これぐらいすぐ消せるから!」
男は子どもの足を見た。
先ほど転んだときに擦り切れたのか、子どもの膝からは血が流れている。
「もういいんだよ……。俺たちのことなんて……」
子どもの背中を見ながら、男は小さな声で絞り出すように言った。
屋台に水をかけていた叡正も子どもの言葉に、静かに胸を打たれていた。
新助の声が聞こえた直後、突然落ちてきた屋台に、真っ先に水をかけ始めたのも子どもだった。
(情けないな……俺は……)
叡正は苦笑した。
必死で水をかけていたため、新助の言葉はほとんど耳に入っていなかったが、とにかく新助が来たことだけは二人共わかっていた。
「おじさんも来たみたいだし、もう大丈夫だよ!」
子どもの声は明るかった。
「だったら、おまえはもうそんなことしなくていい……!」
男は子どもをなんとか止めようと、上半身を動かして子どもに手を伸ばそうとしていた。
子どもは微笑んで、男を見る。
「……僕の母さんね、火事で死んじゃったんだ」
子どもは屋台に水をかけながら言った。
「僕ね、思うんだ……。もっと何かできたんじゃないかって」
男は何も言えず、ただ子どもを見つめていた。
子どもは再び川に向かって走っていく。
「僕が何かしてたら母さんも助かったんじゃないかって!」
子どもは桶に水を汲むと、また屋台に向かって走ってきた。
「僕が怖いのはね、火事じゃないんだ。……同じ思いをもう一回することだよ」
子どもは屋台に水をかけて、男を見る。
「だから、これは自分のためなんだ」
子どもはにっこりと笑った。
男は目を見開いた後、しだいに顔を歪めていく。
「もうこれ以上……俺をみじめにさせるなよ……」
男はそう呟くと、唇を噛みしめた。
叡正は男を見つめる。
男の気持ちは痛いほど理解できた。
叡正は水を汲みながら、子どもに視線を移す。
(すげぇなぁ……。この年で……。いざってときは、俺がこの子を守らないと……)
叡正が決意を新たにすると、ふと足音が聞こえた。
叡正が顔を上げると、そこには大勢の人が集まってきていた。
叡正は目を見開く。
「……俺たちも手伝うよ」
観衆のひとりが口を開いた。
「桶はほかにもあるのか?」
「みんなで一斉にかければこの程度はすぐ消せるだろう」
「私、桶探してくるから!」
叡正は言葉が出なかった。
思わず橋の上を見ると、先ほどまでの人だかりが嘘のように、そこには誰もいなかった。
(何が起きたんだ……?)
「手伝ってくれるの? ありがとう!」
子どもが嬉しそうに声を上げる。
子どもの言葉に観衆は皆、思わず目を伏せた。
「ごめんな……」
観衆のひとりがそう呟くと、子どもの頭をなでる。
「何が……?」
子どもが不思議そうに首を傾げる。
「いや、なんでもない……。さぁ、さっさと消しちまおう!」
観衆が続々と桶を持って、屋台に水をかけ始めた。
茫然としていた叡正も我に返る。
「おまえと子どもは怪我人を診てやってくれ。屋台の火ぐらい俺たちで消すから」
観衆のひとりが叡正にそう言った。
「ああ……、そうだな……。ありがとう」
叡正は頷いた。
(これだけの人数がいれば、おそらく落ちてきた屋台の火はすぐ消せるだろう……)
叡正は子どもに声をかけて、水の桶を持って怪我人のもとに向かった。
再び怪我人の横に座り、患部に水をかけ始めると、そこにそっと白い手が差し出された。
その手の上には小さな壷のようなものがあった。
叡正と子どもは顔を上げる。
そこには女が立っていた。
「これ、火傷に効く軟膏よ……。使って」
「え?」
叡正は目を丸くする。
「仕事柄よく火傷するから、持ち歩いてるのよ……。ひどい火傷には効かないかもしれないけど、何もしないよりマシなはずよ」
女はそう言うと小さな壷を叡正に渡した。
「ああ……ありがとう」
叡正は礼を言うと、子どもと顔を見合わせた。
女の背後から別の女が顔を出す。
「むしろ、ここは私たちがやるわよ! 家のかまどでしょっちゅう火傷してるから、手当なんて慣れてるの!」
女はそう言うと笑った。
「あんたは火を消す方に回った方がいいでしょ! この子は私たちが見てるから、あんたは行ってきなよ」
女はそう言うと、土手の上を見た。
女の視線を追って叡正もそちらに見ると、通りで燃えている屋台にも観衆が水をかけているのが目に入った。
叡正は目を見開く。
「本当に……何が起こったんだ……?」
叡正が呟くと、女は目を丸くする。
「あんた聞いてなかったのかい? 火消しが言ったんだよ、火は消せるから『立ち向かえ』って。まぁ、実際動き出せたのは、あの子のおかげかもしれないけどね」
女はそう言うと、怪我人の横に座る子どもを見た。
「こんなに自分を情けないと思ったことはないよ」
女はそう言って苦笑すると、叡正の手から軟膏の壷をとった。
「さぁ、あんたは行きな!」
女が叡正の背中を押す。
「あ、ああ。ありがとう」
叡正は前に倒れそうになりながら、桶を手にとって川に向かった。
女たちは怪我人の患部に軟膏を塗り始める。
「あんたは、これくらいたいしたことないんだから、しっかりしなよ!」
女が怪我人の男の肩を叩いた。
軟膏を塗られながら男は苦笑する。
「なんか母ちゃんみたいで安心するな……」
「母ちゃん!? こんなうら若い乙女つかまえて何言ってんだ!」
女は目を丸くすると、もう一度男の肩を叩いた。
「あ~あ、花火でいい男捕まえる予定だったのに、とんだ災難だよ」
火を消していた男が、女の言葉に吹き出した。
「そりゃあ、ここにいるみんなそうだよ」
「違いねぇ」
みんな思わず笑った。
叡正は水を汲むと立ち上がり、振り返った。
相変わらず通りの屋台は燃え続け、ほかの場所でも火の勢いが衰えているようには見えなかったが、最初に感じた恐ろしさはもうそこにはなかった。
(この火は消せる。これだけの人が動いて消せないわけがないんだ)
叡正はそう確信して微笑むと、水の桶を抱え屋台に向かって走り出した。
火消しの男は、怪我を負った男の腕を自分の肩に回して、支えるように歩いていた。
(思ってたよりも怪我人が多いな……)
火傷だけでなく人に押しつぶされて怪我を負った人たちも多く、怪我人の避難だけでまったく消火に手が回っていなかった。
(このままじゃ、向こうの長屋まで燃え広がっちまう……)
火消しの男は焦る気持ちを押さえながら、慎重に怪我人を運ぶ。
すると、橋に近づいてきたとき、突然人の波がこちらに向かってきた。
(なんだ……? 橋で何かあったのか!?)
火消しの男が茫然としていると、観衆のひとりと目が合った。
「おい! その人、向こうの川辺に運ぶんだろう? 運ぶだけなら俺がやるよ。あんた火消しだろ? 消火を頼む」
観衆の男は、火消しにそう言うと怪我人の腕をとった。
「え……?」
突然のことに火消しの男は言葉が出なかった。
(なんだ!? どうなってるんだ!?)
火消しの男が呆気に取られているうちに、観衆の男は怪我人を支えて川辺に去っていった。
「おい! あんた火消しなんだろ? 俺たちは何をしたらいい!? できることはやるから言ってくれ!」
別の男が、背後から火消しに向かって言った。
「え!?」
火消しの男は慌てて振り返る。
「……手伝って……くれるのか?」
「手伝うも何も、やらなきゃみんな焼け死ぬんだ! さっさとやり方を教えてくれ!」
男は苛立った口調で、火消しの男に詰め寄る。
(さっきまで逃げてたのに、どういう心境の変化だよ……)
火消しの男がたじろいでいると、背後から声が聞こえた。
「ござとか羽織とか、なんでもいいから水で濡らして炎に覆いかぶせてくれ! 水で濡れてれば多少は燃えにくくなるから、それで少しでも炎を抑えて一気に水をかけて消していく! 火の近くの作業は俺たちでやるから、ござや羽織を集めて濡らしてくれ! 頼めるか?」
火消しの男が驚いて振り返ると、そこには別の火消しの男が立っていた。
「ああ! わかった! 周りにいるやつらにも伝えておく!」
男はそう言うと、足早に去っていった。
「何がどうなってるんだ……?」
そう呟くと、後から来た火消しの男は目を丸くした。
「おまえ、さっきのお頭の言葉聞いてなかったのか?」
「お頭? ……お頭が来たんですか!?」
「おまえ……あんなデカい声が聞こえないなんて、問題だぞ……。まぁ、いい。お頭が逃げずにみんなで火を消せって言ったんだ」
「え!? 言ったらみんなが言うこと聞いてくれたってことですか!? そんな馬鹿な!?」
火消しの男がポカンと口を開けた。
「まぁ、うちのお頭だからな。そんなことより、風向きが変わった。この火、消せるぞ」
そう言うと、川に視線を移した。
火消しの男もその視線を追って、川辺を見る。
たくさんの人々がござや着物を拾い集めていた。
「これだけやってもらってるんだ。今さら消せないなんて言えねぇぞ」
「……そうですね」
火消しの男は、気合いを入れるために両手で自分の頬を叩いた。
「消しましょう! 絶対!」
「ああ」
二人の火消しは決意を新たに川に向かって走り出した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「危ない!」
目の前の人の叫び声を聞き、男が視線を追って上を見ると、燃えて折れた松の枝が男の頭上に落ちてきていた。
男は反射的に両手で頭を覆ってしゃがみ込む。
しかし、いつまで待っても熱さや痛みは感じられなかった。
男が恐る恐る手をどけると、目の前に大男が立っていた。
「大丈夫か?」
大男はしゃがみ込むと、男に聞いた。
男は目を見開く。
「あんた、や組の……組頭の……」
男はそう呟くと、男の手の甲を見る。
はっきりとはわからなかったが、赤くただれているように見えた。
(守ってくれたのか……)
「あんたこそ……大丈夫か……?」
「ああ、このくらいなんともねぇよ」
新助は自分の手の甲を見た後、男を見て笑った。
「それより、ありがとな。消火、手伝ってくれて」
新助はそう言うと、男の肩を力強く叩いた。
「おかげですぐ消せそうだ」
その瞬間、男はなぜか少し泣きたくなった。
「でも、ここは危ねぇから。川の近くの消火を手伝ってくれ。こっちは風下だし、火に巻き込まれるかもしれねぇからな」
新助はそう言うと立ち上がった。
「さぁ、もう行きな」
男は新助を見つめたままゆっくりと立ち上がると、新助に言われた通り川辺に向かって歩き始めた。
「さてと……」
新助は大きく息を吸い込んだ。
「手を貸してくれたことに感謝する!! おかげで早く消せそうだ!! さぁ、さっさと消してみんなで帰るぞ!!!」
新助は力一杯叫んだ。
川辺にどよめきが広がる。
「早く消せそうだって!」
「私たち帰れるの……?」
「もう大丈夫なのか……?」
どよめきの中、新助の声が響く。
「俺からの礼だ!!! 帰ったら、俺のツケで好きな店で好きなだけ飲み食いしてくれ!! 今日の報酬だ!!!」
一瞬、皆が呆気にとられた。
静寂に包まれる中、ひとりの観衆が思わず吹き出す。
「や組の組頭のおごりか! そりゃあ、いい!」
しだいに川辺に笑いが広がっていく。
「こんなひどい目にあったんだ!! 破産するぐらい酒飲んでやるから覚悟しな!!」
「好きなだけだってよ!」
「お金落とすなら、うちの店にしてよね」
「報酬なんだから、まずしっかり働かなきゃ」
「そうだな。さっさと消して、酒飲みに行こう」
薄暗い川辺は、しだいに明るい声が溢れていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「すげぇな……。お頭……」
新助の声を聞き、火消しの男は川辺を見た。
ござや羽織を水に浸し、必死に消火を行ないながらも、観衆の顔は一様に明るかった。
「もう誰も……自分が死ぬかもなんて不安になってねぇんだな……」
火消しの男が、そう呟きながら桶で水をかけていると、腰に鋭い痛みを感じた。
慌てて腰を見ると、羽織に火がついていた。
(マズい!! このままじゃ……)
火消しの男が慌てた瞬間、勢いよく水をかけられた。
「……え?」
火は一瞬にして消えた。
「おいおい、しっかりしろよ」
その声に火消しの男は顔を上げる。
周りには観衆の男たちが立っていた。
「あんたが丸焦げになったらダメだろ? 俺たちだけじゃ、火は消せねぇんだから」
観衆の男は、火消しの男の背中を叩いた。
「頼りにしてんだから、頑張れ」
「まぁ、俺たちも頑張れって話しだよな!」
「俺たちなりに頑張ってるさ」
男たちはそう言って笑い合いながら、また川辺に戻っていった。
火消しの男は、茫然と男たちを見送る。
「おい! さっき大丈夫だったか!? 火、ついてただろ!?」
別の火消しの男が、駆け寄ってきた。
「…………大丈夫じゃないです」
火消しの男は茫然としたまま呟く。
「なんだ!? 火傷ひどいのか!?」
火消しの男は、ゆっくりと顔を動かす。
「俺、泣きそうです……。まさか……町の人が俺たちを火から守ってくれるなんて思わなくて……」
火消しの男の目には涙が浮かんでいた。
(火消しは守る側で守られることなんてないと思ってたのに……)
駆けつけた火消しは目を丸くした後、静かに微笑んだ。
「そうだな……。でも、泣くのは後だ! 後で飲みに行ったときにいくらでも泣けばいい!」
火消しの男は半纏の袖で涙を拭った。
「……そうですね! お頭のおごりですし、吐くほど飲みながら泣きます!」
駆けつけた火消しの男は苦笑した。
「お頭は今日で破産だな……」
消火の持ち場に戻りながら、火消しは心の底から新助に同情した。