「今日は頼一様は来ませんよ?」
可愛らしい声が聞こえ、新助は声がした方へ顔を向ける。
そこには小動物のように大きな目で新助を見上げる可愛らしい少女がいた。
(恰好からすると、ここの禿か……)
新助は屈んで少女と視線を合わせる。
「可愛らしいお嬢ちゃん、ありがとよ。でも、今日俺はお奉行様を待ってるわけじゃねぇんだ」
新助はそう言うと笑った。
「わざわざ教えに出てきてくれたのか? ありがとな!」
「では、誰を待っているのですか?」
少女は新助を真っすぐに見つめて聞いた。
「咲耶太夫っていうここの太夫だよ。俺じゃあ見世に上がるなんてできないからな……。出てきたときに少し話せればと思ってここにいるんだ」
新助は少し気まずそうに頭を掻いた。
「これ、秘密にしといてくれるか……? 咲耶太夫を待ってるなんてバレたら、たぶんそこにいる男衆に捕まっちまうと思うから……」
「『捕まる自覚があるのなら、最初から来るな』」
あどけない少女の口から発せられた突然の言葉に、新助は固まった。
「……え?」
「『デカい図体でそこにいられるのは迷惑だ。話しは聞いてやるから、さっさと来い』」
少女は可愛らしい顔に不釣り合いな口調でそういうと、にっこりと笑った。
「花魁……咲耶太夫からの伝言です。咲耶太夫に会いたいから黙っていてくれというようなことを言われたら、伝えるようにと言われておりました! さぁ、花魁のところにご案内いたします」
少女は微笑むと、新助に背を向けて見世の中に入っていった。
しばらく呆気にとられていた新助は、我に返ると慌てて少女の後を追う。
(なんだかよくわからねぇが……会ってもらえるなら、まぁ……なんでもいいか)
新助は戸惑いながらも、見世の中に入っていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
少女が襖を開けると、そこには長襦袢姿の美しい女が座っていた。
先日新助が見かけたときのような煌びやかな簪も着物も身に着けていなかったが、それでも圧倒されるような美しさだった。
(真正面から見るとやっぱりとんでもなく綺麗な女だな……)
新助は思わずその場に立ち尽くす。
そして、ふと部屋の片隅に男がいるのに気がついた。
(こっちはまた歌舞伎役者みたいな男前だな! あ、これが間夫ってやつか……。逢引きの邪魔しちまったのか……?)
新助が目を泳がせていると、咲耶がゆっくりと息を吐いてから静かに口を開いた。
「とりあえず、座れ」
「あ、ああ。いろいろすまなかったな……」
間夫との逢引き中に、という言葉を新助は飲み込み、用意されていた座布団に腰を下ろした。
「最初に言っておくが、私から頼一様に調べ直しを頼むというのは無理だ」
「……無理……なのか……?」
まさしくそれを頼もうとしていた新助は肩を落とした。
「ああ」
咲耶は面倒くさそうに頷く。
「たとえ私が頼んだとしても、頼一様は動かない。あの方はそんな愚かな人ではないからな……。町奉行所と火付盗賊改方はそもそもそれほど良好な関係ではない。そんな中で、町奉行が火事という管轄外のことで調べ直しをしてみろ、火付盗賊改方の面子を潰すことになる。頼一様は絶対にそのようなことはしない」
「そう……なのか……」
新助は肩を落とした。
咲耶はため息をつく。
「恭一郎という男は、火付けについて肯定も否定もしなかったのだろう?」
「ああ……。そのまま死んじまった……。だから、俺があいつの汚名を晴らしてやらねぇと……」
「それは本当に、その男が望んでいることなのか?」
咲耶は新助を真っすぐに見て言った。
「……どういうことだ?」
新助は咲耶を見つめ返す。
「その男は否定しなかったのだろう? 火付盗賊改方の取り調べは拷問まがいのものだと聞く。それでも何も言わなかった。それに加えて組の人間が火付けをしたと疑われ、や組の名は地に落ちた。そうなってもおまえにさえ何も言わなかったのだろう? 自分よりも組よりも優先した隠し事。それを暴いてほしいと思っているだろうか? まぁ、組のことはどうでもよかったのかもしれないが」
咲耶は嘲るように新助を見た。
「なんだと!?」
新助は立ち上がった。
「黙って聞いていれば……! おまえに何がわかる!? 知ったようなこと言うんじゃねぇ! あいつは……! あいつは……」
新助は怒りで全身が震えた。
「お、おい! 落ち着け……」
叡正が慌てて立ち上がると新助の正面に立ち、肩を押さえた。
「公にするかは別として、真実が知りたいって気持ちはわかるよ……」
叡正は目を伏せる。
新助は咲耶を見続けていたが、咲耶は叡正の背中を見つめると、少し悲し気に目を伏せた。
(なんだ!? 間夫の言うことは気にするのか、この女は……!)
新助は怒りを抑えるために、深く息を吐いた。
「もういい! ここに来た俺が馬鹿だった」
新助はそれだけ言うと、二人に背を向けて部屋を出ていった。
叡正は開けられたままの襖を見ながら、ため息をついた。
「おい、これでよかったのか……?」
「ああ、これでもうここに来ることはない」
咲耶は淡々と言った。
叡正は何か言いたげに咲耶を振り返る。
「私にできることはない。だが、おまえが気になるなら、おまえは力になればいい」
「え……?」
「おまえの憧れなんだろう? ほら、追いかけてやれ」
咲耶は叡正を追い払うように、手を振った。
「あ、ああ……、わかった」
叡正はそう言うと、新助の後を追って部屋を出ていった。
咲耶はため息をつく。
「ああ……また面倒くさいことになりそうだ……」
咲耶は額に手を当てて、もう一度深いため息をついた。
「おい! 待ってくれ!」
新助に追いついた叡正は、新助の斜め前で立ち止まると声をかけた。
(デカいな……)
叡正は新助を見上げた。
叡正も背は高い方だったため、同じように立った状態で叡正が顔を上げなければ目が合わないのは珍しいことだった。
「おまえ……さっきの間夫か……」
新助は叡正を見ると眉をひそめた。
「あ、いや……間夫ではないんだが……」
叡正は困ったように笑うしかなかった。
「さっきは悪かったな。あいつも……悪気があったわけじゃないんだ……」
(まぁ、あえて怒らせてたようだから、悪気はあったんだろうが……)
叡正は言葉を選びながら、新助に謝罪した。
新助は叡正を鼻で笑う。
「悪気しかなかっただろうが。あの女、太夫だと思って偉そうに……」
叡正は苦笑した。
「まぁ、確かに口は悪い気がするが、いいやつなんだ」
(いいやつ? ……うん、いいやつなのは間違いない……か)
叡正は自問自答しながら言った。
「まぁ、おまえにとってはいいやつなんだろうな。顔がいい男には優しいんだろうよ。もう行っていいか?」
新助はそう言うとまた歩き始めた。
「あ、ちょっと待ってくれ」
叡正は慌てて新助と並んで歩く。
「何か……力になれることはないか……?」
「はぁ? おまえに何ができるってんだ」
叡正の言葉に新助は馬鹿にしたような視線を向ける。
「何もできないかもしれないが……。俺も真実が知りたいと思ったんだ……。火消しは俺の子どもの頃の憧れだから」
新助はじっと叡正を見た。
「憧れ……ね……」
新助は呟く。
「まぁ、友人を亡くしたあんたほどの想いはないが……」
「友人?」
新助は眉をひそめる。
「友人だったんだろう?」
「友人なんかじゃねぇよ」
「……? じゃあ、大切な仲間ってことか?」
新助は鼻で笑う。
「大切? 気色悪ぃ……。いけ好かないやつだったよ、あいつは」
叡正は不思議そうな顔で新助を見る。
「考え方も、味の好みも、女の趣味も、何ひとつ合わねぇ。ただの腐れ縁だ。……ああ、特に女の趣味は最悪だった……」
新助はそう言うと額に手を当てて、ため息をつく。
「それでも……悔しいが、間違いなくあいつは江戸一の火消しだった……。そんなやつが火付けなんて汚名を着せられて死んでいいわけがねぇ。俺はひとりでも調べる。だから……」
新助は横目で叡正を見る。
「手伝いたかったら手伝え」
新助はそれだけ言うと、ふんと鼻をならして前を見た。
叡正は微笑む。
「ああ、手伝わせてくれ」
新助は前を向いたまま「ああ」とだけ口にした。
しかし、少しして気まずそうに叡正に目を向ける。
「ちなみに……、俺はそっちの趣味はないからな……。そういうのは勘弁してくれよ?」
「は……?」
叡正は意味がわからず、新助を呆然と見つめる。
(そっちってなんだ……)
新助は叡正から視線をそらす。
「おまえは確かに綺麗な顔してるが、俺は女が好きだから……」
叡正は言葉を失う。
(なんでそうなるんだ!? 俺は……そんなふうに見えるのか……?)
肩を落とす叡正に、新助は慌てる。
「そう落ち込むな! おまえみたいな男が好きな火消しもたくさんいる!」
「え!? いや、それは……違うから……。俺も女が好きなんだ。ほら……咲耶太夫の間夫だから……」
叡正は諦めて咲耶の間夫で通すことにした。
「ああ、女も男もどっちもいけるのかと……。違うのか?」
新助は意外そうな顔で言った。
「違う! 女だけだ……」
「ああ! そうなのか! 勘違いして悪かったな! それなら安心だ!」
新助は叡正を見て笑った。
(何が安心なんだ……)
叡正はため息をつく。
(当分、あいつの間夫って言い続けることになりそうだな……)
咲耶の迷惑そうな顔がありありと目に浮かび、叡正はもう一度ため息をついた。
(俺……もうダメなのかな……)
新助は意識が朦朧とする中で、重いまぶたをなんとか開けた。
靄がかかったようにぼんやりとした視界の向こうで、生き物のような炎が揺らめいている。
全身が焼けているように熱い。
うつ伏せになっているため、熱い板の上で焼かれているようだった。
(焦げ臭い……。俺、死ぬのかな……。父ちゃんは無事なのか……?)
ときどき背中が擦り切れたようにヒリヒリと痛む。
(やばい……眠い……。俺なんでこんなときに……)
まぶたが閉じる寸前、新助は揺らめく炎の向こうに人影を見た気がした。
まぶたを閉じた新助は夢を見た。
父親に背負われて川辺を歩く夢だった。
その夢は懐かしくて温かくて、新助は父親の首にギュッとしがみつく。
父親は首に巻きついた新助の腕にそっと手を当てた。
新助はその手から伝わる温もりに安心し、より深い眠りに落ちていった。
新助が目を覚ましたとき最初に目に入ったのは、舞い上がる龍だった。
「龍……?」
新助がそう口にすると、龍がビクッと動く。
「目、覚めたか?」
見知らぬ男の声が響く。
新助はその声で完全に目を覚ました。
龍は男の背中に入っていた刺青だった。
見知らぬ男は振り返って新助を見る。
「ここは……?」
新助は自分がうつ伏せで寝ていることに気づき、ゆっくりと腕の力で起き上がろうとした。
背中にピリッとした痛みが走る。
「ッ……」
「おい、無理するな! 背中のやけどは結構ひでぇんだ」
「やけど……?」
新助はようやく自分が火の海にいたことを思い出した。
「俺の……家は……?」
見知らぬ男は目を伏せる。
「……全部燃えちまったよ……」
新助は体の力が抜けていくのを感じた。
腕の支えを失って、新助は再びうつ伏せの状態で布団に倒れる。
「……父ちゃんは……?」
男の顔が苦し気に歪む。
「すまねぇ……。助けられなかった……。俺たちが着いたときにはもう……」
新助の見開かれた目の端から涙が流れ、布団が濡れた。
新助の顔が歪む。
「……父ちゃ…………」
新助は布団に顔をうずめた。
「ごめんな……」
男はそっと新助の頭をなでた。
「これからは、俺たちがおまえの家族だ。俺がおまえを守ってやるから」
新助は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を男に向けた。
「あんた……誰なの……?」
男は微笑む。
「俺は源次郎だ。や組って火消しの組頭で、普段は鳶頭をやってる。俺には嫁さんもいないから俺たち三人、むさ苦しい男所帯になるが、そこはまぁ、我慢してくれ」
「三人……?」
新助は鼻をすすりながら問いかけた。
源次郎は視線を動かす。
新助は源次郎の視線を追った。
そこには新助と同じようにうつぶせで寝ている少年がいた。
ピクリとも動かないため、起きているのか寝ているのかもわからなかった。
「あいつもこの火事で家族を亡くしてな……。母親、父親、弟、みんな死んじまったんだ……」
源次郎の言葉を聞き、新助は源次郎に視線を戻した。
「おまえと同じくらいの年だ。二人仲良くやってくれよ」
源次郎はそう言うと、もう一度新助の頭をなでた。
「おまえ、名前は? 年は十くらいだろう?」
「新助……。年は十一だ」
新助は涙と鼻水を手で拭いながら答えた。
「新助か、いい名前だ。これからよろしくな、新助。あっちで寝ているやつは恭一郎って名前らしい。もう意識は戻ってるんだが、ずっとあの調子でな……。傷が良くなったらおまえも声をかけてやってくれ」
源次郎はそう言うと微笑んだ。
「喉、渇いただろう? 今、水を持ってきてやる」
源次郎は立ち上がり、長屋を出ていった。
新助は視線を動かして、うつ伏せで寝ている恭一郎を見る。
「家族……か……」
新助はそう呟くと、考えるをやめて静かに目を閉じた。
「おまえ、なんでしゃべんねぇの?」
新助は朝食を食べながら、恭一郎を見て言った。
「お、おい! やめろ……」
源次郎は新助を小突いた。
「え……だって源さんも気になるだろう? なぁ、おまえしゃべれないのか?」
新助はご飯の入ったお椀と箸を机に置き、恭一郎に近づき顔をのぞき込んだ。
恭一郎は興味なさそうに、新助から視線をそらす。
新助が意識を取り戻して七日が経ち、ときどき背中はヒリヒリと痛んだが、今では新助も恭一郎も普通に動けるようになっていた。
ここに来てからずっと寝食を共にしていたが、新助は恭一郎が話しているところを一度も見たことがなかった。
「なぁ、源さん。こいつ火事で煙吸い過ぎて、頭おかしくなっちゃったんじゃねぇか?」
新助の言葉に、源次郎は顔を青くする。
「お、おい! 何言ってんだ!? やめろ! き、恭一郎、気にしなくていいからな……」
「いや、気にした方がいいだろ? ずっとここで世話になってて礼のひとつも言ってないんだから。人としてダメだろ」
源次郎はますます顔を青くする。
「いやいや、心の傷が深いんだ……。俺のことは気にすんな! もう頼むからやめてくれ、新助!」
新助は源次郎の方を振り返って、不満そうに口を開く。
「心の傷が深かったら、礼も言わなくていいのか? そんなのダメだろ。親の育て方が悪かったのかって思っちまうよ」
恭一郎の眉がピクリと動く。
「……なんだと……?」
初めて聞く声に、新助は恭一郎を振り返った。
恭一郎は怒りに満ちた眼差しで新助を見ていた。
「お、やっぱりしゃべれるんだな!」
「おまえ……今なんて言った……?」
「あん?」
新助は首をかしげる。
「ああ、親の育て方が悪いのかって……」
新助が言い終わらないうちに、恭一郎はこぶしを振り上げた。
「お、おい!!」
源次郎が止める間もなく、恭一郎はこぶしを振り下ろした。
新助がこぶしを受けてよろめく。
恭一郎はそのまま新助に馬乗りになり、もう一度こぶしを振り上げた。
「おい!! やめろ!」
源次郎は慌てて立ち上がり、恭一郎の腕を掴む。
「黙って聞いてれば、何も知らないくせに!!」
恭一郎は腕に力を込めたが、源次郎に掴まれた腕はびくともしなかった。
そのすきに、新助が恭一郎の頬をこぶしで殴り返す。
「おい!!」
源次郎は新助に向けて怒鳴った。
腕を掴まれたままよろける恭一郎を押しのけると、新助はゆっくりと起き上がった。
「知るわけねぇだろ!? おまえがひと言もしゃべってねぇんだから!!」
恭一郎はしばらく黙った後、ゆっくりと口を開いた。
「……考えてたんだ……。これからどうすれば迷惑をかけないで生きていけるか……」
「礼ぐらい言ってから考えろ! おまえの考えてることなんて誰にもわかるわけねぇだろ!? おまえのことわかってくれる父ちゃんや母ちゃんはみんな死んじまったんだから! おまえがしゃべらないで誰がわかるってんだ!?」
「うるせぇな!! 礼はずっと言いたかったよ! ……けど、おまえがベラベラしゃべってたから、言うときがなかったんだ!! どうでもいいことずっとしゃべりやがって! ちょっとは静かにできないのか!?」
「はぁ!? しゃべれるときなんていくらでもあっただろうが! 人のせいにするんじゃねぇ!! だいたいなぁ……」
恭一郎の胸ぐらを掴もうとしたとき、新助の頭に強い衝撃が走った。
「ッ……!??」
新助は頭を抱えてうずくまった。
ほぼ同時に恭一郎も頭を押さえてうずくまる。
「痛ぇ……」
二人が悶絶する中、源次郎はこぶしを握ったまま二人を見下ろした。
「うるせぇよ。元気になってほしいとは思ってたが、ここまでうるさくなるとは……」
源次郎はため息をついた。
「先が思いやられる……」
恭一郎が頭を押さえながら、新助を睨む。
「おまえが、俺の親の悪口言うからだぞ……」
「はぁ!? 言ってねぇよ!」
「言っただろうが『親の育て方が悪い』って!」
「それは……」
新助はバツの悪そうな顔で目を背けた。
「『親の育て方が悪い』って思われないように、俺たちがちゃんと生きていかなきゃいけないって意味で、悪口じゃねぇよ……」
恭一郎は目を見開いた後、静かに息を吐いた。
「おまえ……言い方が下手過ぎるぞ……。馬鹿なのか……?」
「はぁ!? なんだと!?」
「おい。また殴られたいのか?」
源次郎は二人を睨む。
「い、いや、そういうわけじゃあ……」
「も、もう大丈夫です……」
二人が慌てて首を振る。
「二人とも、これから仲良くやれるよな」
源次郎の顔は笑っているように見えたが、目は少しも笑っていなかった。
二人は顔を見合わせる。
「も、もちろん!」
「は、はい!」
二人は引きつった笑顔で源次郎に言った。
「よし! じゃあ、さっさと朝飯を食え! あ~あ、すっかり冷めちまった……」
源次郎が頭を掻きながら座ると、二人もしぶしぶもとの場所に戻り、冷え切ったご飯を食べ始めた。
(本当に、いけ好かないやつ……)
二人はお互いをチラチラ見ながら、同じことを思っていた。
「おまえ、暇なのか?」
新助は叡正を見ながら聞く。
今、叡正は新助から話しを聞くために新助が暮らしている長屋に向かっていた。
「そもそもおまえは何なんだ? 歌舞伎役者なのか?」
新助は叡正を上から下まで見ながら言った。
叡正は苦笑する。
「一応、僧侶なんだ」
新助は笑った。
「おいおい、そういう冗談はいいよ! おまえみたいな僧侶がいてたまるか! 顔がいいから商人ってのもありそうだけど……」
「いや、本当に僧侶なんだ……」
新助は目を丸くする。
「……最近の坊さんは堕落してるとは聞いてたが……今は頭も丸めなくてよくなったのか……?」
「いや……世話になってる住職に丸めるなと言われて……」
叡正は困ったように頭を掻いた。
新助は首を捻る。
「まぁ、よくわからねぇが……。僧侶なら無駄に色気は振りまかない方がいいんじゃねぇか……?」
「色気を振りまく……!?」
叡正は愕然とした表情で新助を見た。
「顔が綺麗なのは、まぁどうしようもないだろうが、隙があるというかなんというか……、うまく言えねぇけど……下手したらおまえ男に襲われるぞ」
新助は心配そうな顔で叡正を見た。
「あ、ああ……気をつけるよ」
叡正は引きつった笑いを浮かべる。
襲われたばかりだということは言わないことにした。
「まぁ、それは置いといて、おまえタッパもあるし、ちょっと細身だが肉付きも悪くない。火消しにもなれそうな体格なんだがなぁ」
叡正は目を丸くする。
「そんな! 俺なんかは……。火消しは町の英雄なんだから」
新助は苦笑した。
「英雄……ね……」
そのとき叡正と新助の横を子どもたちが駆け抜けていった。
一瞬だったが、叡正は子どもたちが棒のようなものをいくつも持っているのを見た。
「懐かしい……手持ちの花火か……。今も禁止されてるはずだけど、やっぱりまだ売ってるんだな……」
叡正は子どもたちを目で追いながら呟く。
花火は火事の原因になることも多いことから禁止されていたが、叡正の子どもの頃から夏になると密かに花火売りが来て子どもたちに売っていた。
「花火をするのはいいんだがな……」
新助はため息をつくと、大きく息を吸い込んだ。
「おい!!!」
新助は遠ざかっていく子どもたちに向けて声を張り上げた。
叡正が突然の大声にたじろぐ。
遠くにいた子どもたちも一斉に立ち止まって振り返ったのがわかった。
「気をつけてやれよ!!!」
子どもたちは顔を見合わせた後、手を振って返事をした。
新助はそれを確認すると子どもたちに背を向けて、また歩きだした。
叡正が慌てて新助の後を追う。
「夏の火事は、放火以外だと花火が原因になってることが多いんだ……。楽しむのはいいんだがな……」
新助はため息をついた。
「そうか……。確かに、夏あたりから火事は増えてる気がするな……」
叡正が新助の言葉に頷きながら歩いていると、右手の前方に黒く焼け焦げて崩れた長屋の跡が見えた。
隣の長屋も半分以上が崩れてしまっている。
「あれは……」
叡正の呟きを聞き、新助は叡正を振り返った。
「つい最近火事があったんだ……。あそこで…………恭一郎は死んだ……」
新助は目を伏せた。
叡正は崩れた長屋に目を向ける。
「あの長屋で……」
叡正がそう呟いたとき、ひとりの子どもが焼け焦げた長屋に近づいていった。
叡正の視線に気づき、新助もそちらを見る。
二人がいる場所から長屋の焼け跡までは距離があったため、子どもは二人に気づいていないようだった。
少年は焼け焦げて崩れた長屋の前まで行くとしゃがみ込んで何かをしていた。
「何してるんだろうな……」
叡正は新助に向かって聞いた。
「さぁ……」
その場でしゃがみこんでいた子どもは、しばらくすると立ち上がり、二人に気づかないまま細い通りに消えていった。
叡正と新助は顔を見合わせると、ゆっくりと子どもがいた場所に近づいていく。
そこには、一輪の白い菊の花が置かれていた。
「花を……供えていたのか……?」
叡正が呟く。
「恭一郎さんの知り合いなんじゃないか?」
叡正が新助を見る。
新助は子どもが消えていった方向を見つめていた。
「どうなんだろうな……。あいつにも想ってくれるやつがいたってことか……」
新助はそう呟きながら悲しげに菊の花を手に取る。
菊の花は汚れひとつなく、白く美しくただ静かにそこにあった。
「源さん! これ見てくれよ! カッコいいだろう?」
新助は誇らしげに背中を見せる。
そこには、龍と舞い散る桜の刺青があった。
「おお! いいじゃねぇか!」
源次郎は新助の背中を見て笑った。
しかし周りで見ていた鳶の男たちは顔を見合わせて、顔を青くした。
「だろ? これから腕の方も刺青入れてくんだけど、背中ができたから一番に見せたくてさ!」
新助は振り返ると、源次郎の顔を見て満足そうに言った。
「いやぁ、すげぇ、いいよ! 恭一郎とお揃いなんだろう?」
源次郎がそう言った瞬間、時が止まったような静けさが訪れた。
「……は?」
新助は一瞬にして真顔になる。
「げ、源さん……! お揃いなわけないじゃないですか!? あんなに仲が悪いのに……!」
「そうですよ! 源さん……」
鳶の男たちが慌てて、源次郎の肩を掴む。
「え? そうなのか? だって、恭一郎も龍と桜の刺青だっただろう? おまえたちも見てたじゃねぇか……」
源次郎は不思議そうな顔で二人を見た。
男たちはますます顔を青くする。
「げ、源さん……! だから、それを言っちゃダメなんですよ……!」
「嫌がるに決まってるんですから……!」
男たちは恐る恐る新助を見る。
新助は地面の一点を見つめたまま、固まっていた。
「恭一はどこにいる……?」
新助が低い声で呟くように言った。
「……え? えっと……あっちの現場で足場を組む手伝いをしてたけど……」
鳶の男が戸惑いながら答える。
それを聞いた新助は走り出す。
「え……!? おい! 待てよ、新助!」
鳶の男が止める間もなく、新助は行ってしまった。
「源さん……、どうするんですか……。ありゃ、揉めますよ……」
男は頭を掻きながら、源次郎を見た。
源次郎は豪快に笑う。
「いいじゃねぇか! 仲のいい証拠だ!」
鳶の男たちは顔を見合わせる。
「源さん、そんなんだから嫁さんのひとりもいないんですよ」
男のひとりが呆れたように呟く。
「お、おい! それは禁句……!」
もうひとりの男が慌てて止めようとしたが、すでに遅かった。
「……なんだと!? 誰がモテないって!!?」
源次郎が男の胸ぐらを掴む。
「モ、モテないなんて言ってませんよ……。無神経だから嫁さんが来ないって話しで……」
男が苦しげに呟く。
「お、おい! おまえ、さらに余計なこと言うなよ……!」
源次郎は怒りで顔を真っ赤にする。
「なんだとぉ!?」
胸ぐらを掴まれていた男は一瞬の隙をついて、源次郎の手から逃れると走り出した。
「おい、待て! てめぇ! 一発殴らせろ!!」
源次郎が男の後を追って走り出す。
ひとり残された男は頭を抱える。
「まったく……。どいつもこいつも短気なんだから……。そろそろこっちも作業始めなきゃなんねぇのに……」
男はそっとため息をついた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「恭一!! 降りてこい!!」
鳶の男たちと、長屋を建てるのに必要な足場を組んでいた恭一郎は、名前を呼ばれて下を見た。
声を張り上げている新助の姿が目に入り、恭一郎はため息をつく。
「なんだ、あいつ……。何の用だよ……」
「どうした? 恭一郎」
一緒に作業をしていた男たちが、恭一郎と同じように下を見た。
「ああ、おまえの兄貴じゃねぇか」
「兄貴じゃありませんよ! 血もつながってないし、同じ年だし……」
「まぁ、どっちでも一緒だ! おまえのこと呼んでるみたいだし、行ってこい。ここは大丈夫だから」
男はそう言うと恭一郎の頭をなでた。
「え……、ああ、はい……。じゃあ、ちょっと行ってきます」
恭一郎はそう言われ、しぶしぶ下に降りた。
「おい、何の用だよ! おまえも今、向こうで作業のはずだろう? サボってないでさっさと戻れよ」
恭一郎は面倒くさそうに言った。
「おまえ……今すぐ脱げ……」
新助が低い声で呟く。
「は? なんだって?」
恭一郎は眉をひそめる。
「今すぐ脱げって言ったんだよ!!」
新助はそう言うと、新助の半纏に手をかける。
「はぁ!? 何言ってんだよ!? やめろって……!」
強引に恭一郎の半纏を脱がせると、新助は恭一郎の背中を見た。
そこには龍と桜の刺青があった。
新助は膝から崩れ落ちる。
「お、おい! 何やってんだ……」
恭一郎は慌ててしゃがみ込む。
「おまえ……なんで龍と桜なんだよ……」
新助が小さな声で呟いた。
「は?……そりゃあ、龍は雨を呼ぶって言われてるし、火消しになるんだったらみんな入れるだろう……。桜は……ところどころ火傷の跡があってどうしてもデコボコになるから、桜吹雪みたいにした方がいいって言われて……」
恭一郎は戸惑いながらそう答えた。
「火傷……そうか……。そこは一緒だもんな……」
新助は乾いた声で笑った。
新助は半纏を脱いで、恭一郎に背中を見せる。
「な!? なんで一緒……!?」
そのとき、鳶の男たちも順番に下に降りてきた。
「お! なんだおまえら、お揃いの刺青なんて仲いいな!」
「刺青お揃いにするやつなんて、なかなかいねぇぞ」
男たちが笑う。
二人は恥ずかしさでうつむいた。
「火傷がひどいから、俺もう直せないって言われてるのに……」
恭一郎がうつむいたまま呟く。
「俺だってそうだよ……」
新助も呟く。
「あ、でもこれ、お揃いっていうより、桜でつながってるように見えるから、二人で一枚の絵みたいじゃねぇか?」
男のひとりが二人の背中を見比べて言った。
「『双頭の龍』ってやつだな!」
「そうとう……?」
新助はうつむいたまま、視線だけ男に向けた。
「頭が二つある龍のことだよ。二人でひとつの龍を彫ってるって感じだな!」
「ああ、確かにそう見えるな! でも、それはそれでなんか気色悪くないか!?」
男たちは大笑いした。
二人はうつむいたまま赤くなる。
「おまえのせいだぞ……」
新助は恨みがましい目で恭一郎を見た。
「それはこっちが言いたいよ……」
恭一郎も横目で新助を見る。
新助と恭一郎はその日一日中、お互いの作業場で男たちに刺青についていじられ続けた。
「火事ってのは、いろんな人間を不幸にするんだ」
源次郎はご飯の入ったお椀を片手に、新助と恭一郎の顔を見て言った。
鳶の現場での仕事が終わり、三人は長屋に戻って食卓を囲んでいた。
「そんなこと今さら言われなくてもわかってるよ。なんだよ、あらたまって」
新助は首を傾げる。
「まぁ、聞けよ。おまえらも、もうすぐ火消しとして現場に行くんだ。火消しとしての心構えってやつを教えておこうと思ってな」
源次郎はお椀を置くと、二人を交互に見た。
「火事で不幸になるのは誰だと思う?」
「そりゃあ、焼けた家の人間だろう」
新助がすぐに答える。
「そうだな。火が広がれば広がるほど、不幸になる人間は増える。だから、俺たちがいかに早く火を消すかが重要になるんだ」
「わかってるよ」
新助は何を今さらという表情で、食事を続ける。
恭一郎はただ静かに源次郎の言葉を聞いていた。
「じゃあ、一番不幸になるのは誰だと思う?」
「……火事で死んだ人間に決まってる」
新助は目を伏せる。
新助の様子を見て、源次郎も目を伏せた。
「……そうだな。……ただ、死んじまった人間はもう救えない。生きてる人間で一番不幸になるのは……」
「火元の家の人間ですか?」
恭一郎が静かに口を開いた。
「そうだ。火事を起こした人間だ。まぁ、火付けの場合は自業自得だから罪に問われて火あぶりになっても仕方ねぇが、ちょっとしたことで火事なんて起こるもんだ。ボヤで済めばいいが、大火事になればそれがたくさんの人の命を奪う。大火事になれば、わざとじゃなくても重い罪になる。だから俺たちは、火事を起こしちまった人間のためにも、一刻も早く火を消さなきゃいけない。ひとりも死なせちゃいけないんだ」
源次郎はそう言うと、真っ直ぐに新助と恭一郎を見た。
「みんな救え。誰ひとり不幸にするな。壊した長屋は、また俺たちでまた建ててやればいい。命だけは戻らない。命が最優先だ。次に早く火を消すことを考えろ。いいな」
「わかってるよ」
「はい、わかりました」
新助と恭一郎は、それぞれ頷く。
源次郎は、二人の返事を聞くと満足したように微笑んだ。
そのときドンドンと、戸を叩く音が響く。
「源さん! 火事だ! 行けるか!?」
源次郎は立ち上がった。
「ああ! わかった! すぐ行く!」
源次郎は二人を見る。
「すまねぇな。おまえたちはゆっくり食べてろよ。なるべく早く戻る」
「ああ、わかった」
「はい、お気をつけて」
二人は源次郎を笑顔で送り出す。
「ああ、行ってくる!」
源次郎はそう言うと半纏を羽織り、長屋を後にした。
夜が更けて、やがて朝がやってきた。
二人は待ち続けたが、ついに源次郎が帰ってくることはなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「源さんが……、死んだ」
長屋の戸口で、男は絞り出すように言った。
新助は言葉の意味がよく理解できなかった。
「……なんで……? みんな一緒にいたんだろ……?」
恭一郎は茫然と、ただ一点を見つめていた。
「長屋に取り残された人を助けようとして……火の中に飛び込んでいって……そのまま……長屋が崩れて……」
男はそこまで言うとその場に泣き崩れた。
「すまねぇ……」
男は嗚咽をもらしながら頭を抱えてうずくまった。
新助も恭一郎もただ茫然と立ち尽くしていた。
「どうすりゃいいんだよ……」
新助は奥歯を噛み締めた。
「死んじまった人間は救えないって言ったのは……源さんだろ……?」
絞り出した声とともに、新助の頬を涙がつたった。
「おい、新助。座れ」
新助は起きて早々、恭一郎に声をかけられた。
新助は眠い目をこすりながら、恭一郎を見る。
恭一郎は食卓についていて、その食卓には三人分の食事が用意されていた。
「……恭一……、これは何のまねだ……?」
源次郎が亡くなって数日が経った。
食卓を囲むとどうしても埋まらない場所が目につくため、源次郎がいなくなってから、自然と二人で食事をすることはなくなっていた。
「まぁ、座れよ。俺がおまえの分まで用意してやったんだ。感謝して食え」
呆然と食卓を見ている新助に、恭一郎はもう一度声をかけた。
新助は戸惑いながら、三人でいたときの自分の場所に腰をおろす。
当然のように、いつもの場所に源次郎の姿はない。
新助は思わずそこから視線をそらした。
「俺は火消しになる……」
恭一郎が唐突に口を開いた。
新助は戸惑いながら恭一郎を見る。
恭一郎がなぜ今さらそんなことを言うのかわからなかった。
恭一郎はただ真っすぐに、源次郎がいた場所を見つめている。
「俺は江戸で一番の火消しになる。火事になった長屋の人たちも、火消しの仲間も、もう誰も死なせない。全部助ける。だから…………泣くのはこれで最後だ」
呆然と食事を見ていた新助はハッとして顔を上げる。
恭一郎は真っすぐ前を見たまま、涙を流していた。
その姿に、新助も抑えていたものがこみ上げる。
「おい、そういうのやめろよ。泣き虫だな」
新助は片手で目元を隠しながら笑った。
「泣き虫はおまえだろ……。隠れてメソメソしやがって。湿っぽくて仕方なかったよ」
恭一郎は服で涙を拭いながら言った。
「メソメソなんてしてねぇよ。おまえと一緒にすんな! それにあれだ。江戸一は無理だ。江戸で一番の火消しは俺がなるんだ。おまえはよくて二番だな」
新助は目元の涙を拭うと、顔を上げた。
「馬鹿言え! おまえみたいに勢いだけのやつが真っ先に死ぬんだよ! 俺、おまえのことまで助けてる余裕ないからな! 自分の身は自分で守れよ!」
「おまえの助けなんかいるか! おまえは遠くから火を消すために竜吐水でちまちま水でもかけてろ!」
「馬鹿か! そもそも竜吐水は火を消す道具じゃねぇ! 纏持ちの火消しを火の粉から守る道具だ! おまえまだそんなことも知らないのか! あんな少ない水で火が消えるわけねぇだろ!」
新助が少したじろぐ。
「し、知ってるよ! お、おまえは知識だけなんだよ! 知識だけじゃ火は消せねぇぞ!」
「おまえは本当に何もわかってないなぁ。知識と経験がありゃあ、火が燃え広がるのは防げるんだよ。おまえは指でもくわえて、俺が江戸一の火消しになるところでも見とけ!」
「なんだと!?」
新助が恭一郎の胸ぐらを掴む。
すると、ふいに声が聞こえた気がして、新助は手を止めた。
「おまえら、もうそのへんにしとけよ」
呆れた顔でそう言う源次郎の姿が見えた気がして、新助は恭一郎の服から手を離した。
恭一郎も同じように感じたのか、二人のあいだに沈黙が訪れる。
「俺はいつか、江戸を火事が起こっても不安にならない町にするんだ」
恭一郎がポツリと呟いた。
「……どういうことだ?」
新助は眉をひそめる。
「江戸には火消しがいるから、絶対にみんな助けてもらえるって。誰もが信じられる町にするんだ。火事で家は失っても、命は失わない町に」
恭一郎の瞳に宿っている光を見て、新助は言葉を失う。
恭一郎が火消しとして、自分よりもずっと高いところを見ていると痛感した瞬間だった。
新助はフッと笑った。
不思議と悔しさはなかった。
「まぁ、その夢になら、俺も付き合ってやってもいい」
新助は恭一郎を見て言った。
「は? おまえはまず自分が死なないように頑張れよ」
恭一郎が鼻で笑う。
「なんだと!? 人がせっかく手伝ってやるって言ってんのに!」
「だから、それがいらないって言ってんだろ!」
二人はそのまま鳶の仕事が始まるまで食卓にいた。
食事はすっかり冷めてしまっていたが、食卓は源次郎がいたときのように温かかった。
叡正は、新助の暮らす長屋にたどり着いた。
新助は戸を叩くと、中に向かって声をかける。
「おい、帰ったぞ」
新助がそう言って、戸を開けると中から小さな子どもが駆け寄ってきた。
「おかえり、おじさん!」
子どもは新助に抱きつく。
「おい、だからおじさんじゃねぇって……お兄さんだろ?」
新助は不満げにそう言うと、子どもを抱きあげた。
叡正は目を丸くする。
(子どもがいたのか……! しかも、六つか七つくらいの子どもっていくつのときにできた子だ!?)
新助は叡正の視線に気づいて慌てて口を開く。
「いや、俺の子じゃねぇよ!」
新助は子どもを抱きかかえたまま訂正する。
「さっき見た火事の現場の生き残りだ。親が死んじまって身寄りがねぇから、引き取って一緒に暮らしてんだ」
「ああ、そうなのか……」
「ああ、お頭! 帰ってたんですか」
長屋の奥から男が出てくる。
「おお、すまねぇな。留守番頼んじまって」
「いえいえ、それは全然……」
男は新助に歩み寄ると、ふと隣にいる叡正に気づいた。
男はしばらく呆然と叡正を見つめた後、新助に向かって驚愕の表情を浮かべる。
「お、お、お頭……! 女っ気がないとは思ってましたけど、そっちでしたか……! いや、確かに綺麗ですけど……ま、まさかそっちとは……!」
男は目を見開いたまま、口元を手で覆う。
「違ぇよ!! ほら、おまえが変な色気振りまくから、こういう誤解を生むんだよ」
新助は即座に否定すると、叡正を見てため息をついた。
「す、すまない……」
叡正は何をどうすればいいかわからなかったが、とりあえず謝った。
「えっとこいつは……、まぁ、いろいろあって恭一郎の件で協力してくれるっていうから連れてきたんだ」
男は、新助の口から恭一郎の名前を聞くと、悲しげに目を伏せた。
「ああ……そうですか……。恭一郎さんの……」
「まぁ、とりあえず入ってくれ。茶ぐらいは出すから」
新助はそう言うと、叡正に中に入るように促した。
「あ、ああ。ありがとう」
叡正は礼を言って、長屋に入る。
新助も子どもと一緒に長屋に入った。
「適当なとこに座っててくれ」
新助はそう言うと、子どもとともに長屋の奥に入っていった。
「こちらにどうぞ」
新助が奥に行くと、長屋にいた男が畳の上に座布団を置いた。
「ああ、ありがとうございます」
叡正は座布団の上に腰を下ろす。
男は叡正の隣に腰を下ろすと、叡正を見た。
「あの……恭一郎さんの件で協力してくれるというのは……」
男がおずおずと口を開く。
「あ、いや、何ができるってわけでもないんですが、俺もあの『双頭の龍』って言われていた人が火付けするとは思えなくて……」
叡正は慌てて言った。
「ああ……、そうですよね……。俺たちも恭一郎さんが火付けしたとは思ってないです。まぁ……ごく一部、最近組に入った若いやつの中には疑ってるのもいますが、それ以外は……。やっぱりみんなお頭と恭一郎さんに憧れて火消しになったってやつがほとんどなので……」
「そうなんですね……」
「知ってますか? お頭と恭一郎さんがや組の頭をはってから、うちの組はひとりも死人が出てないんです。纏持ちが一番死ぬことが多いんですが、そこはお頭か恭一郎さんのどっちかがやってましたし、恭一郎さんの見極めがすごかったので……」
「見極め……ですか?」
「ええ」
男は誇らしげな顔で叡正を見つめる。
「纏は組の象徴で、ここまでで火を消してやるって意味も込めて掲げるんですが、組の意地っていうんですかね……そういうのがあるんで、纏持ちのいるところより手前で火が消せなくても、一回掲げたら纏持ちはそこから動かないんですよ。だから、火が消しきれなくて纏持ちの火消しが焼け死ぬっていうのがよくあるんですが、恭一郎はその点で見誤ったことがないんです。長屋の状態とか風向きとかで、わかるみたいで、ここで消すって指示を出したら必ずそこで消せる人だったんです」
男は目を輝かせて叡正に語る。
「まぁ、お頭が纏持ちするときは、多少むちゃなところに纏を掲げるんで、恭一郎さんが必死になってなんとか消し止める、なんてこともありましたけど」
男は苦笑する。
「そうなんですね。俺は噂程度でしか聞いたことなかったので」
「ええ。事実です。だから……」
男はそこで言葉を切ると、視線を落とした。
「だから……恭一郎さんがあんな形で自殺するとは思いませんでした……」
「え……? 自殺……?」
叡正は目を見開く。
「自殺じゃねぇよ」
叡正がそう聞き返すのと同時に背後で新助の声が響く。
新助はお茶の湯飲みを持って二人の後ろに立っていた。
「何度も言っただろ? 自殺じゃねぇよ」
新助は呆れたように男を見た後、叡正にお茶の入った湯飲みを渡した。
「あ、ありがとう」
叡正は新助を見上げて礼を言った。
新助は男の隣に腰を下ろす。
後から子どもも新助を追いかけるように出てきて、新助にくっついて座った。
「お頭はそう言いますけど……あの状況を考えたら恭一郎さんは自殺ですよ……」
男が目を伏せたまま言った。
「だから、違うって。あいつは自殺なんてするタマじゃねぇよ」
「でも……あの長屋に突っ込んだんですよ?」
男は新助を見て言う。
「恭一郎さんならあの長屋がどれくらいで潰れるかなんてひと目でわかったはずです。わかっていて飛び込むなんて……」
新助は目を伏せる。
「俺もそれはわからねぇが……」
「火付けなんて疑われて、拷問まがいのことされれば誰だって死にたくなりますよ……。ましてや火消しに命をかけてきた恭一郎さんならなおさら……」
男は言葉を詰まらせた。
暗くなった雰囲気を感じて不安になったのか、子どもがギュッと新助にしがみつく。
新助は子どもに目を向けると、頭を優しくなでた。
「まぁ、とにかく、あいつに限って自殺はねぇ! ほら、この話しはここまでだ!」
それだけ言うと、新助は叡正に視線を移した。
「せっかく来てもらったのにすまねぇな」
「あ、いや、俺は別に……」
叡正は慌てて言った。
「そうでしたね。すみません」
男は申し訳なさそうに叡正に頭を下げた。
「あ、ところで」
男はハッとして顔をあげると新助を見た。
「こちらの方はどなたなんですか? というか何者なんですか……?」
一瞬、時が止まったように静かになった。
「ああ、それは……、それは……」
新助は口を開いたが、なんと説明すればいいのかわからず、そのまま固まった。
叡正は慌てて、また僧侶だと言うところから説明を始める。
結果、男にも不思議そうな顔をされ、また新助とした会話と同じやりとりを繰り返すことになった。