【コミカライズ】鏡花の桜~花の詩~

「いやぁ、さすが」
 庄吉と名乗っていた男は、信を見て不気味に笑うと、掴まれていた手首を回して拘束を解いた。
「おっと! 待て待て!」
 男は信が懐に手を入れて何かを取り出そうとしたのを見て笑った。
「おいおい、せっかちだなぁ。いきなり殺すのはなしにしてくれよ」
 男は両手を上にあげる。
「ここは人目があるぞ。それに、俺に鬼の刺青はない」
 男は信の耳に口を寄せて呟いた。
 信は静かに男を見つめる。

「俺はおまえと同じ、飼い犬側だ」
 信の目がわずかに見開かれた。
 男は信の目を見て笑う。
「もっともおまえはもう野良犬になったみたいだけどな」

 そう言うとそれまで笑っていた男はゆっくりと息を吐いた。
「本当に……自分の末路かと思うと怖ぇよ。野良になったってことは、おまえをつなぎとめてた大切なものはもうないんだろう?」
 信はそこまで聞くと、懐に入れていた手をゆっくりと下ろした。
「ああ」
 信は短く答える。
 男は複雑そうな顔で笑った。
「普通はしくじった時点で犬が先に死ぬはずなのになぁ。生き残ったのは運がいいのか……それとも可哀そうなほど運が悪いのか……」

「おまえが殺したのか? 直次という男も、その妻も」
 信は男の言葉をさえぎって聞いた。
 男は苦笑する。
「本当にせっかちだな、おまえ。石川直次は俺が殺した。それがご依頼だからな。だが、女は違う。あれは、本当に自殺だ。家のためにってやつだよ」
 男は肩をすくめた。
「まぁ、恵まれた人間の考えは俺にはわからねぇけどな」

 信はただ静かに男を見つめた。
「今は咲耶太夫の犬になったのか?」
 男はおかしそうに笑った。
「まぁ、俺だって主人が選べるなら、あんな美人の犬になるさ。だ……」
「どうして咲耶を巻き込んだ?」
 信は男が言い終える前に口を開いた。

「……おまえ、俺と会話する気ある?」
 男は諦めたようにため息をついた。
「もうわかっているだろう? おまえと話すためだよ」
「……どうして俺を知っている?」
「おまえは飼い犬の中では有名だからな」
 男は笑った。
「依頼があってから一日もしないうちに真正面から行って皆殺しなんて、おまえみたいな化け物じゃなきゃ無理だからな。犬の中でも異質なんだよ、おまえは。普通はさぁ、何年もかけて内側に入り込んで中から壊すんだ。自殺に追い込むか、いつ死んでもおかしくない状況まで持っていく。これが犬のやり方だ。あ……」
 男は思い出したように言った。
「そうそう、おまえのお友達の坊さん、あの旗本の家なんて有名な話だ。あれは数年なんてもんじゃない。十年、二十年の計画で進んだ話だからなぁ。まぁ、計画通りにはいかなかったみたいだけど……。あ、ちなみに今回は特別お急ぎのご依頼だったから、こんなお粗末な筋書きだけど、俺だって本来はもっとうまくやれる。誤解するなよ。あと、おまえがどの程度で嗅ぎつけられるのかも見たかったしな」

「……俺にこんな話しをして、何が目的なんだ?」
 信の言葉に、男はフッと笑った。
「俺、こう見えて勘はいい方なんだよ。次の仕事、……いい予感がしなくてね。おまえにお願いがあって来た」
 信は眉を顰める。
「おいおい、そんな嫌そうな顔するなよ。おまえにとっても悪い話じゃない」
 男はそう言うと、少し悲しげに微笑んだ。

「もし俺が死んだら、俺の妹を助けてほしい」
「妹……?」
 男は微笑みながら目を伏せる。
「おまえと違って、俺の大切な妹はまだ普通に生きてるんでね。おまえがどういう環境で飼われていたか知らないが、少なくともうちは何不自由ない幸せな暮らしをさせてもらってる。妹に至っては俺が何をしているかも知らないくらいだ。幸せな檻だよ。俺がしくじらない限りはな……。俺が死ねば、妹は殺される。そうなる前に助けてほしい」
 男は真っすぐに信を見つめた。
 信は男をただ静かに見つめ返す。
「……おまえが死んだかどうかなんて、俺にはわからない」
 男は笑った。
「お、引き受けてくれるのか? 心配するな! わかるようにうまく死ぬさ。妹のもとにもたどり着けるようにしておく。そこには、俺の主人もいる。つまりおまえが狙ってる鬼の刺青を入れた人間がいるってわけだ。俺が死んだ後なら、主人はどうしてくれても構わないからさ」
 男は明るく言った。
「元飼い犬が、主人たちを食い殺して回ってるって話を聞いたときには驚いたが、妹を頼めるのはおまえしかいないと思ったんだ」

「そのかわり、条件がある」
 信が静かに言った。
「さっきの……あの遊女にはもう関わるな」
「ああ」
 男は笑った。
「優しいねぇ。心配しなくていい。最初から殺すつもりはない。おまえならここに来るだろうと思って、狙って見せただけだ。どうせ俺の顔もたいして覚えてないだろうし、歩き方やしぐさを変えて、この首のほくろさえ消せば、もう俺のことなんてわからなくなるさ」
 男はそう言うと首筋を着物の袖口でこする。
 ほくろのように見えていたものは、黒くにじんで薄っすらと広がった。

 男は信を見つめると、ゆっくりと口を開く。
「正直……おまえには同情するよ。どんな飼われ方したら、そんな化け物みたいになるのか想像するだけで吐きそうだ。おまけに守りたかったものも殺されて、あいつらを殺して回る気持ちもわからなくはない……。俺にも守るものがあるから何もできないが、おまえが救われることは願ってるよ……」

 男はそれだけ言うと信に背を向けて歩き始めた。
「できるなら」
 信は男の背中に向かって静かに言った。
「おまえは生きて自分の手で守れ」

 男は信の言葉に思わず立ち止まる。
「……優しいねぇ」
 男はうつむき、信に届かないほどの小さな声で呟くと、片手を軽く上げて信の前から去っていった。
 信の話しに耳を傾けていた咲耶は、小さく息を吐いた。
「そうか……」
 信は夜に会った男について話すため、咲耶の部屋を訪れていた。
(妹を助けてほしい……か。そのためにこんな試すようなことを……)
 咲耶は信を見つめた。
「そのときが来たら、助けるつもりなのか……?」
「ああ、俺の目的にもつながる」
 咲耶は目を伏せた。
「そうか……」
(聞くまでもなかったな……)
 咲耶はため息をついた。
「そのときが来ないのが一番だが……気をつけろよ」
「ああ」
 信は短く応えた。

「花魁、叡正様がいらっしゃいました」
 襖の向こうから緑の声が響いた。
「ああ、通してくれ」
 咲耶がそう言うと襖がゆっくりと開き、緑の案内で叡正が部屋に入ってきた。
「緑、お茶と昨日いただいたお茶菓子を持ってきてもらえるか?」
「はい、承知しました!」
 緑はにっこりと笑うと、一礼して部屋を出ていった。

「何かわかったのか?」
 叡正が咲耶に聞いた。
「ああ、あの丑の刻まいりをしていたのは、直次という男の奥方だった。ひとりでは心細かったようで奉公人と一緒に来ていたそうだが、見られたことに慌てておまえを殴ってしまったらしい」
 咲耶は一気に話すと、目で叡正に座るように促した。
「え……?」
「手紙とのつながりはない。全部私の勘違いだったようだ。悪かったな」
「勘違い……?」
 叡正は腑に落ちていない表情で咲耶を見た。
「ああ、勘違いだ」
 咲耶は嘘をついた。
 狙いが信だった以上、話せることはほとんどなかった。信のことを話せば、いずれ叡正の家のことも話さなければならない日が来るかもしれない。
 最近ようやく前を向き始めたばかりの叡正に、また過去のことを話すべきではないと咲耶は考えた。
「勘違い……」
 叡正は座布団に腰を下ろしながら、もう一度小さく呟いた。

「なんだ、何か文句でもあるのか?」
 咲耶は妖しく微笑んだ。
 叡正は慌てて首を振る。
「え!? ち、違う! おまえでも勘違いすることがあるのかと思っただけで……」
「そうか、それならよかった」
 咲耶は神々しいほど綺麗な笑顔で言った。
 叡正は呆然と口を開けて咲耶を見つめる。
「なんだその嘘くさい笑顔は……」
「ん? なんだって……?」
 咲耶は笑顔のまま、小首を傾げて叡正に聞き返す。
「あ、いや、すまない! なんでもない……!」
 咲耶はジトっとした目で叡正を見つめた後、小さくため息をついた。
「せっかく巻き込んでしまったお詫びに茶菓子でも出そうとしているのに……」
「茶菓子……」
 叡正は涙が出るほど辛かった茶菓子を思い出して、顔を青くした。
「安心しろ。あんなもの普通客に出さない。今回はちゃんとした茶菓子だ」
「おい……」
 微笑みながら言う咲耶に、叡正が何か言いかけたとき、襖の向こうで緑の声が聞こえた。

 緑は襖を開けて部屋に入ると、咲耶と信、叡正にそれぞれお茶とお茶菓子を出した。
「私はいいから、私の分は緑がお食べ」
 咲耶は緑を手招きして呼び、自分の横に座らせた。
 緑は嬉しそうに茶菓子に手を伸ばす。
 叡正は出された落雁をまじまじと見ていたが、やがてホッとしたような顔でひとり頷いた。
 しかし、ハッと何かに気づいたように叡正は信を見つめた。
「こ、これよかったら食べてくれ。俺は昔食べてたから」
 叡正はそう言うと、落雁の入った器を信の方に置いた。
(ああ、信の昔の話でも聞いたのか……。思ったより仲良くなったんだな……)

 咲耶はそう思い信を見ると、信は叡正をじっと見つめていた。
(ああ、信は叡正の家のことを気にしているのか……)
 咲耶は納得して信から視線を外す。

 すると、隣で緑が小さく呟いた。
「これが、愛……」
 咲耶が驚いて緑を見ると、緑は頬を赤らめ、目を輝かせて信と叡正を見ていた。
(このあいだまで、そんな反応はしていなかったのに……。ほかの遊女から何か聞かされたか……)
 咲耶はため息をついて少し思案したが、やがて目を閉じた。
「まぁ、いいか……。平和な証拠だ……」

「え、花魁何かおっしゃいました?」
 緑は不思議そうに咲耶を見た。
「いや、なんでもない」
 咲耶は緑に微笑むと、窓の方を見た。
 この近くに巣があるのか、窓の外をツバメが飛び交っている。
 窓から差し込むジリジリとした日差しからは、もう夏の気配がしていた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「あれ、おまえ見世は!?」
 いずみ屋の楼主は、夜見世が始まった時間に長襦袢姿で歩いていた露草を見て目を丸くした。
「今日はお休みよ。前に話したでしょう? どんだけ働かせる気よ」
 露草が呆れたように言った。
「そ、そうだったか。悪かった……。しっかり休めよ」
「ええ、もう寝すぎて体が痛いけどね……」
 露草は自分の肩を手で押さえた。
「……まさか、昼見世のあいだもずっと寝てたのか……?」
「……ダメなの……?」
 露草は楼主を睨んだ。
「い、いや……、そんなことは……。あ! そ、そういえば、さっき夕里の客を見たんだ! ほら、このあいだ見世の入口で大泣きしてたやつ! もう夕里はいないのにどうしたんだろうな!」
 楼主は話題を変えた。
「ああ、それなら野風に会いに来たのよ。夕里が手紙でお願いしていたから……。野風、今日の朝はちょっと顔色が悪かったけど、あの人が来てくれてよかったわ。すごく嬉しそうだったもの。今頃二人で夕里の思い出話でもしてるんじゃないかしら」
「そうなのか……」
「ええ」
 露草は嬉しそうに微笑んだ後、そっと目を伏せた。

「……ねぇ、私の……身請け話なんだけど……蹴ってもいい?」
 楼主は目を丸くする。
「これ以上のいい話、もう出てこないかもしれないぞ!?」
「でも私、まだまだいけると思わない?」
 露草はにやりと笑った。
「そりゃあ……、いてもらった方が見世としては助かるけど……」
「じゃあ、決まりね! もうちょっとみんなのこと見ていたいのよ」
 露草は微笑んだ。
 楼主は何か言おうとしたが、言葉は見つからなかった。
「まぁ、もらい手がなくなったら、あんたが私をもらってくれたらいいのよ」
「は!? 俺!?」
 楼主が目を見開いた。
「そうよ、それがいいわ! そうしたら私はずっとみんなを見守っていられるもの! よかったわね! 可愛い嫁が手に入って」
 露草はそう言うと、楼主に背を向けて去っていった。
「あ!」
 露草は何かを思い出したように、楼主を振り返った。
「咲耶ちゃんの姿絵、早くしてよ」
 露草はジトっと楼主を見た後、自分の部屋へと戻っていった。

「……あんな嫁、嫌だ……」
 楼主の悲痛な呟きは誰の耳にも届かなかった。


 翌朝、もう誰もいなくなった夕里の部屋に今年も桜草の花が咲いていた。
 朝日を浴びたその花は凛と輝き、強く強く咲き続けていた。
 丑三つ時、寝静まっていた町に半鐘(はんしょう)の音が鳴り響いた。
「火事だ! 風向きが悪い! こっちにも燃え広がるぞ!」
 長屋の外で誰かが叫んでいる。
 続々と長屋の戸が開き、人々は外に出た。
 夜だというのに、炎が上がる長屋の周辺は昼間のように明るい。
「またかよ……。ほら、早く荷物まとめて逃げるぞ」
「結構距離があるから、ここは大丈夫なんじゃないの!?」
「風向きが悪いならここも危ない! 火消しはまだなんだろう?」
「待って! まだうちの子が寝てるの! 誰か手を貸して!」
 続々と長屋から荷物をまとめた人々が外に出る。

「火消しが来たぞ!!」
 人々の歓声が上がる。
「よ! 待ってました!!」
「今回はどこの組だ!?」
 組の名が書かれた(まとい)が火元近くの長屋の屋根にあがる。

「……あれって、や組……?」
 興奮していた人々の顔が一様に曇った。
「や組って……」
「じゃあ……今回の火事も、や組が……?」
「自分たちで火をつけて、消しに来たってこと……?」
「……なんて奴らだ……」
 纏を見上げながら、人々は顔をしかめた。
「馬鹿らしい。さっさと逃げよう」
「ああ」
 人々は燃え盛る炎に背を向けると足早に去っていった。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「あれ、や組だろう……?」
「今回もあいつらがやったんじゃないのか?」
「よく堂々と出て来られるな……」
 荷物を背負って長屋を出てきた人々は、火消したちとのすれ違いざまにヒソヒソと囁きあった。

「チッ、好き勝手言いやがって」
 火消しのひとりが舌打ちをした。
「おい、無駄口叩いてねぇで、さっさと行くぞ!」
「そんなこと言ったって、お(かしら)!」
「うるせぇ!! こうしてる間に人が死ぬんだ!」
 頭と呼ばれた男は、不満げな顔の男を睨みつけた。
「す、すみません……」
 男は目を伏せた。

 そこへ周辺を確認していた火消しの男が戻ってきた。
「このへんの長屋にいた人たちはみんな外に出たようです!」

 頭の男は、その言葉に頷くと声を張り上げた。
「おまえら、準備はいいか!! いくぞ!!」
「おお!!」
 や組の半纏(はんてん)を着た屈強な男たちは続々と声をあげる。
 長屋の屋根に纏が上がったのを合図に、刺又(さすまた)鳶口(とびぐち)を持った男が隣の長屋の柱を壊し始める。
「ここで火を止めるぞ!!」
「おお!!」
 刺又と鳶口によってメキメキと音を立てて柱が折れる。
「崩れるぞ!! 一旦離れろ!」
「おお!!」
 長屋が崩れ、土埃が舞う。
「こっちはこれぐらいでいけるか」
 男たちは崩れた長屋を見つめて頷く。

「おい!! 火元の長屋、まだ人がいるらしいぞ!」
 火消しのひとりが叫ぶ。
 火元の長屋は戸口こそまだ火の手が回っていなかったが、長屋全体が火に包まれいつ崩れてもおかしくない様子だった。
 頭の男はしばらく長屋を見つめた後、口を開いた。
「俺が行く」
「お頭! お頭が行ったら誰が指揮するんですか! 今は……恭一郎さんもいないんですよ……」
 横にいた男は目を伏せる。
 頭の男はわずかに目を見開いた後、悲し気に口を開いた。
「ああ……だが、俺しか……」


「待ってください! 恭一郎さん!!」
 叫ぶような声が聞こえ、頭の男はそちらに視線を移した。
 その瞬間、人影が一直線に火元の家に飛び込んでいく。
「お頭!! 恭一郎さんが!!」
 火消しのひとりが、火元の家を指さし叫んだ。
「あいつ……!」
 頭の男は、急いで桶に入った水を頭からかぶると恭一郎の後を追った。
「お頭!!」


 頭の男は、火元の長屋に入った。
 辺り一面、火の海だった。
 熱風で顔が焼けるように熱い。
(こりゃ、やばいな……)
 頭の男は、濡れた半纏の袖口で口元を覆った。
(あいつ、どこ行きやがった……)
 辺りを見回すが、充満した煙でところどころで上がっている炎以外何も見えなかった。
(くそっ……)
 頭の男は足元に気をつけながら、一歩ずつ長屋の奥に足を進める。
「おい……恭一、どこだ……」
 煙を吸い込まないように最小限の声で、恭一郎を探す。
 しばらく進むと、煙の向こうに人影が見えた。
「おい……」
 頭の男が人影に近づこうと足を踏み出したとき、頭上でバキッという大きな音が聞こえた。
(しまった……!)
 反射的に目を閉じた瞬間、頭の男は強い力で突き飛ばされた。
 男は尻餅をつくと同時に、お腹の上にずっしりとしたものが乗ったのを感じた。
 男が目を開くと、目の前には水を含んだ半纏に包まれた小さな子どもがいた。
 頭の男は目を見開く。
 煙を吸ったためか、意識はないようだった。
「おい、大丈夫か……!?」

「気を失っているだけだ……」
 聞きなれた声に、頭の男は弾かれたように顔を上げる。
 崩れた瓦礫の向こう側に恭一郎の顔が見えた。
「恭一……、おまえ何やってんだ!!」
 声を荒げたときに煙を吸い込み、頭の男は咳き込んだ。
「落ち着け。その子の母親はもうダメだった……。その子を頼む」
 恭一郎は穏やかに微笑んだ。
「新助が飛び込んで来てくれて助かったよ……」
「ふざけんな!! おまえも来い!!」
 恭一郎はフッと笑う。
「瓦礫でもうそっちには行けない。わかるだろう?」
 新助は子どもを抱きかかえると、急いで立ち上がった。
「すぐみんなに知らせる! 助けに来るからそこを動くな!!」
「やめろ」
 恭一郎は静かに、だが強い声で言った。
「みんな巻き添えになるぞ。冷静になれ」
 恭一郎は新助を真っすぐに見つめた。
 新助は言葉を失う。
 恭一郎は微笑んだ。
「最期くらい、カッコよく死なせてくれ」
「な!?」
「俺が生きていたら、や組にとってもよくない。わかるだろう?」

 新助は歯を食いしばり、絞り出すように言った。
「……約束……しただろう?」
「ああ……」
 恭一郎は寂し気に微笑んだ。
「だが、俺はもういろんな意味でダメだ……」
 恭一郎はそう言うと新助を見つめて微笑んだ。
「おまえが俺たちの夢を叶えてくれ」
 新助は目を見開く。

「……とにかく待ってろ……」
 新助はなんとかそれだけ口にした。
「諦めが悪いな……」
 恭一郎は苦笑すると、後ろを向いて奥へ進み出した。
 半纏を脱いだことで恭一郎の上半身は裸だった。
 背中一面に入れた龍と桜の刺青が遠ざかっていく。
「おい……!」
 背中の龍には生々しい傷が無数についていた。
「早く行け!!」
 背を向けたまま、恭一郎が叫ぶ。
 新助は唇を噛みしめると子どもを抱え、戸口に向かって走りだした。


「お頭!!」
 外に出ると、火消したちが新助に駆け寄る。
「この子を頼む」
 新助は子どもを火消しのひとりに託すと、再び長屋の中に向かおうとした。
「お頭! どこ行くんですか!? もうあそこはダメです! 見たらわかるでしょう!?」
 火消しのひとりが新助の腕を掴む。
「離せ!! まだ中に恭一がいるんだ!!」
「恭一郎さんは……自業自得でしょ……。今回の火事だって、あの人が火をつけたかもしれないのに……」
 新助は目を見開いた。
「なんだと!? てめぇ、もう一回言ってみろ!!」
 新助は火消しの男の胸ぐらを掴んだ。

 その背後で音を立てて長屋が崩れる。
 先ほどまで新助がいた場所はすべて炎に飲み込まれていた。
「恭一……」
 新助は茫然と長屋を見ていた。


 丑三つ時に発生した火事は、発見が早かったため火元の長屋以外で大きな被害は出なかった。
 焼け跡からは長屋に住んでいた女と、龍の刺青が入った火消しとみられる男の遺体だけが発見された。
 長屋の子どもを命がけで救った火消しの死。
 その死を悼む者は、町には誰もいなかった。
 引手茶屋の座敷で頼一に酌をしていた咲耶は、先ほどまでとは少し異なる騒がしさを感じて、耳を澄ませた。
(茶屋の入口あたりで何か問題でもあったのか……)
 頼一も咲耶と同じように異変に気づいたらしく、辺りを見渡して何かに目配せをしていた。
「何かあったのでしょうか?」
 咲耶は頼一を見る。
「ああ、そのようだな……。だが、心配はない」
 頼一は咲耶を見て微笑んだ。
 咲耶も微笑み返す。
「そうですね。頼一様がいてくださるので私も安心しております。ただ……」
 咲耶は言いかけていた言葉を飲み込む。
 ざわめきは明らかにこちらに近づいてきていた。
(こういうときの勘はあまり外れないからな……)

 バンという大きな音を立てて、座敷の襖が開け放たれた。
 止めようと腕にしがみついている男たちを引きずるようにして、屈強な男が座敷に入ってくる。
 芸者たちから悲鳴が上がった。
「も、申し訳ございません! すぐにつまみ出しますので!」
 引きずられている男のひとりが頼一に向かって叫んだ。
(どう見てもつまみ出せるようには見えないが……)
 入ってきた男は、止めようとしている男たちよりも少なくとも頭ひとつ分は背が高く、腕だけ見てもほかの男たちの二倍以上の太さだった。
 半纏こそ着ていなかったが特徴的な黒の腹当(はらあて)、背中から肩、手首にかけて入った刺青。
 火消しであることは誰の目にも明らかだった。

「いい、離してやれ」
 頼一がよく響く声で言った。
「し、しかし……!」
「いいと言っている」
 反論しようとした男に、頼一は鋭い視線を向ける。
「は、はい……」
 腕にしがみついていた男たちは一斉に手を離す。

「おまえも、下がれ」
 頼一は誰もいない方向に視線を送った。
 頼一はしばらくそちらを見つめた後、小さくため息をつく。

「それで、や組の組頭(くみがしら)が私に何の用だ?」
 頼一の言葉に屈強な男は目を見開く。
「俺のこと、知って……くださってたんですか……?」
「これでも町奉行だからな。特におまえは有名だろう? 『双頭の龍』は私でなくても知っている」
「……それなら話しが早い……」
 屈強な男は小さな声で呟くと、頼一の前まで進むと座敷に膝をついた。

「組を代表して、お願いがございます!」
 屈強な男は正座すると、膝の上でこぶしを握りしめて真っすぐに頼一を見た。
「ひと月前の火事の調べ直しをお願いしたい!」

 頼一はゆっくりと息を吐いた。
「ひと月前の火事というのは、や組の恭一郎に容疑がかかったあの火事か?」
「はい! 恭一郎が火付けなどするはずがありません! どうかもう一度調べていただきたい!」
 頼一は目を伏せた。
「あの火事の件は、恭一郎自身が否定しなかったと聞いているが……」
「何も言わなかったのには!……何か……理由があったはずです! どうか、どうかお願いします!!」
 屈強な男は深く頭を下げた。
 
 頼一は額に手をあてた。
「調べ直してやりたいところだが……。火付けは火付盗賊(ひつけとうぞく)改方(あらためかた)の管轄だ。私が手出しできるところではない……」
「そんな……! 奴らじゃ、あてにならねぇ! 拷問まがいのことをして、やってもないことで罪に問われたやつが何人いたか……! お願いです! どうか!!」
 屈強な男は頭を座敷にこすりつけるように、再び頭を下げた。

 頼一は頭を下げたままの男を困ったように見つめる。
「……恭一郎は数日前に亡くなったと聞いた。今さら遅いのではないのか……?」
 男は頼一の言葉にゆっくりと頭を上げた。

「死んだからこそです……。あいつは誰よりも火事から人を救うことを考えてきた男です。最期の最後まで……人を助けて……。そんな男が、英雄になるために自分で火をつけて回ってたなんて言われてるんです……。あいつがやってきたすべてが否定されてる! そんなことあっていいはずがねぇ!!」
 男の握りしめていたこぶしが震えていた。
「どうか! どうかお願いします!!」

 屈強な男が肩を震わせながら頭を下げる姿に、もはや誰も何も言うことはできなかった。
「『双頭の龍』と言えば、や組の新助と恭一郎のことだろう?」
 咲耶の部屋に入るなり、叡正はそう口にした。
 突然現れた叡正に、咲耶はジトっとした視線を向ける。
「あ、廊下にいたら『双頭の龍か……』って言ってたのが聞こえたから……」
 咲耶の冷たい視線に慣れてしまった叡正は、あまり気にすることなく、部屋に通してくれた緑に促されるまま座布団に座った。
 
「おまえ……何しに来たんだ……?」
 叡正は上目遣いで咲耶を見る。
「いやぁ……、ちょっと困っていることがあって……」
「おまえ……、私を何だと思っている?」
「いやぁ……、でも今回のことはここが原因というか……」
 咲耶は眉をひそめる。
「ここが原因?」
 叡正は言いづらそうに咲耶から視線をそらした。
「……最近、俺がその……男が好きだという噂が……」
「ああ……、そのことか……」
 咲耶はため息をついた。
(広まるだろうとは思っていたが、思ったよりも早かったな……)
 咲耶は部屋の片隅にいた緑に視線を移した。
 咲耶の視線を受けて、緑が目を泳がせる。
(噂の発端は間違いなく玉屋だろう……)

「まぁ、噂ぐらいなら別にいいんだが……」
 叡正は言いにくそうに口を開く。
「その……、昨晩……知らない男に寝込みを襲われて……」
 緑が息を飲んだ。
 緑の様子に気づき、叡正が慌てて続ける。
「い、いや、何もない! すぐ起きたらから! ただ、本当に困っていて……。頼む! 噂が落ち着くまで間夫ってことでここに通わせてくれ!」
 叡正は咲耶に頭を下げる。
 咲耶は叡正をしばらく見つめるとため息をついた。
「わかった……。噂がなくなるまで来ればいい……。私からもみんなにこれ以上変な噂を広めないよう言っておく」
 叡正は勢いよく顔を上げると目を輝かせた。
「ありがとう! 本当に助かる!」
「あ、ああ」
(噂になるとわかっていながら放置していたのは私だが……)
 咲耶はほんの少しだけ罪悪感をおぼえ、叡正から視線をそらしながら頷いた。


「あ、そうだ! 話しは戻るが『双頭の龍』っていうのは火消しの二人のことだろう?」
 叡正が思い出したように言った。
「ああ、知っているのか?」
「知っているも何も有名だからな」
「……あの、私は何のことかわかりません……」
 緑がおずおずと言った。
「ああ、火消しは町にたくさんいるんだが、その中でも五番組や組の新助と恭一郎のことをみんなが『双頭の龍』って呼んでるんだ」
「『双頭の龍』ってどういう意味なんですか?」
 緑が不思議そうに叡正を見た。
「普通、組の頭はひとりだけなんだが、や組だけは実質、頭が二人いるんだ。火事の現場によってひとりが指揮、もうひとりが纏持ちって感じで役割は変わるらしいが、どちらも火消しとして優秀で人望もあるから有名なんだ。みんなの英雄だから姿絵なんかも出てるんじゃないか?」
「おまえ、やけに詳しいな……」
 咲耶が目を丸くする。
「そりゃあ、町火消しなんて男は小さい頃みんな憧れるからな! 俺は先代のや組の組頭が好きだったが、今のや組は女にも人気みたいで、余計に活躍は耳に入る」
「でも、なんで『龍』なんですか?」
 緑は首を傾げる。
「ああ、背中の刺青がどっちも龍なんだ。組の火消したちを鼓舞して動かすことが上手い新助と、建物の状態を見極めて効率よく崩して最小限の被害で火を消す恭一郎。『双頭の龍』が来れば、もう火は消えたも同然だって、姿が見えただけでみんなが安心する存在だったんだよ」
 目を輝かせながら語る叡正を見ながら、咲耶と緑は顔を見合わせた。

「おまえ、……やっぱり男が好きなんじゃないのか?」
「あんまり男好きだと、信様が悲しみますよ……」
 咲耶と緑の言葉に、叡正は目を丸くする。
「なんでそうなる!? 憧れだよ! 男はみんなそうなの!」

 そのとき、襖ごしに弥吉の声が響いた。
「咲耶太夫、今日の分の手紙はありますか?」
「ああ、ちょうどよかった。ちょっと入ってきてくれ」
 咲耶は襖ごしに弥吉を呼んだ。
「何かありましたか?」
 襖を開けて弥吉が姿を見せる。
「あ、叡正様いらしてたんですね」
 弥吉が叡正に気づき、会釈した。
 叡正も慌てて一礼する。

「弥吉、火消しは好きか?」
 咲耶が唐突に聞いた。
「え!? なんですか、突然……。好きも嫌いも別にないですよ……。荒くれ者が多いって印象はありますけど……」
 弥吉はとまどいながら答えた。

 咲耶はジトっとした目で叡正を見る。
「どこがみんなの憧れなんだ?」
「いや……だいたいの男は……」
「それなら、信にも聞いてみるか?」
「いやいや、あいつは絶対興味ないだろう……。逆に興味があったらなんか怖いよ……」

 二人のやりとりを不思議そうに見ていた弥吉は静かに口を開いた。
「お二人とも、火消しが好きなんですか?」
 咲耶と叡正は弥吉を見た。
「叡正は好きらしい」
 咲耶は弥吉に微笑む。
「え!? ……まぁ、間違ってはいないが……、語弊があるような……」
 叡正は不満げな顔で呟いた。
「そうなんですね! それなら今、見世の前にいるから会えますよ」
 弥吉は笑って言った。

「え……?」
 弥吉以外の三人の声が重なる。
「火消しが……? 夜見世も始まっていないのに、見世の前で何をしているんだ……?」
 咲耶は嫌な予感がした。
「さぁ、何してるんでしょうね。でも、誰かを待ってる感じでしたよ」
「体格がいいだけで、火消しではないんじゃないか……?」
「や組って書いた半纏着てましたから、火消しですよ!」
 弥吉が笑う。
「そうか……それは火消しだな……」
 咲耶も引きつった笑顔を返す。
(これは……出ていくしかなさそうだな……)

 咲耶は額に手をあてて、深いため息をついた。
「今日は頼一様は来ませんよ?」
 可愛らしい声が聞こえ、新助は声がした方へ顔を向ける。
 そこには小動物のように大きな目で新助を見上げる可愛らしい少女がいた。
(恰好からすると、ここの禿か……)
 新助は屈んで少女と視線を合わせる。
「可愛らしいお嬢ちゃん、ありがとよ。でも、今日俺はお奉行様を待ってるわけじゃねぇんだ」
 新助はそう言うと笑った。
「わざわざ教えに出てきてくれたのか? ありがとな!」

「では、誰を待っているのですか?」
 少女は新助を真っすぐに見つめて聞いた。
「咲耶太夫っていうここの太夫だよ。俺じゃあ見世に上がるなんてできないからな……。出てきたときに少し話せればと思ってここにいるんだ」
 新助は少し気まずそうに頭を掻いた。
「これ、秘密にしといてくれるか……? 咲耶太夫を待ってるなんてバレたら、たぶんそこにいる男衆に捕まっちまうと思うから……」

「『捕まる自覚があるのなら、最初から来るな』」
 あどけない少女の口から発せられた突然の言葉に、新助は固まった。
「……え?」
「『デカい図体(ずうたい)でそこにいられるのは迷惑だ。話しは聞いてやるから、さっさと来い』」
 少女は可愛らしい顔に不釣り合いな口調でそういうと、にっこりと笑った。
「花魁……咲耶太夫からの伝言です。咲耶太夫に会いたいから黙っていてくれというようなことを言われたら、伝えるようにと言われておりました! さぁ、花魁のところにご案内いたします」
 少女は微笑むと、新助に背を向けて見世の中に入っていった。
 しばらく呆気にとられていた新助は、我に返ると慌てて少女の後を追う。
(なんだかよくわからねぇが……会ってもらえるなら、まぁ……なんでもいいか)
 新助は戸惑いながらも、見世の中に入っていった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 少女が襖を開けると、そこには長襦袢姿の美しい女が座っていた。
 先日新助が見かけたときのような煌びやかな簪も着物も身に着けていなかったが、それでも圧倒されるような美しさだった。
(真正面から見るとやっぱりとんでもなく綺麗な女だな……)
 新助は思わずその場に立ち尽くす。
 そして、ふと部屋の片隅に男がいるのに気がついた。
(こっちはまた歌舞伎役者みたいな男前だな! あ、これが間夫ってやつか……。逢引きの邪魔しちまったのか……?)
 新助が目を泳がせていると、咲耶がゆっくりと息を吐いてから静かに口を開いた。

「とりあえず、座れ」
「あ、ああ。いろいろすまなかったな……」
 間夫との逢引き中に、という言葉を新助は飲み込み、用意されていた座布団に腰を下ろした。
「最初に言っておくが、私から頼一様に調べ直しを頼むというのは無理だ」

「……無理……なのか……?」
 まさしくそれを頼もうとしていた新助は肩を落とした。
「ああ」
 咲耶は面倒くさそうに頷く。
「たとえ私が頼んだとしても、頼一様は動かない。あの方はそんな愚かな人ではないからな……。町奉行所と火付盗賊改方はそもそもそれほど良好な関係ではない。そんな中で、町奉行が火事という管轄外のことで調べ直しをしてみろ、火付盗賊改方の面子(めんつ)を潰すことになる。頼一様は絶対にそのようなことはしない」
「そう……なのか……」
 新助は肩を落とした。

 咲耶はため息をつく。
「恭一郎という男は、火付けについて肯定も否定もしなかったのだろう?」
「ああ……。そのまま死んじまった……。だから、俺があいつの汚名を晴らしてやらねぇと……」
「それは本当に、その男が望んでいることなのか?」
 咲耶は新助を真っすぐに見て言った。
「……どういうことだ?」
 新助は咲耶を見つめ返す。
「その男は否定しなかったのだろう? 火付盗賊改方の取り調べは拷問まがいのものだと聞く。それでも何も言わなかった。それに加えて組の人間が火付けをしたと疑われ、や組の名は地に落ちた。そうなってもおまえにさえ何も言わなかったのだろう? 自分よりも組よりも優先した隠し事。それを暴いてほしいと思っているだろうか? まぁ、組のことはどうでもよかったのかもしれないが」
 咲耶は嘲るように新助を見た。

「なんだと!?」
 新助は立ち上がった。
「黙って聞いていれば……! おまえに何がわかる!? 知ったようなこと言うんじゃねぇ! あいつは……! あいつは……」
 新助は怒りで全身が震えた。

「お、おい! 落ち着け……」
 叡正が慌てて立ち上がると新助の正面に立ち、肩を押さえた。
(おおやけ)にするかは別として、真実が知りたいって気持ちはわかるよ……」
 叡正は目を伏せる。
 新助は咲耶を見続けていたが、咲耶は叡正の背中を見つめると、少し悲し気に目を伏せた。
(なんだ!? 間夫の言うことは気にするのか、この女は……!)
 新助は怒りを抑えるために、深く息を吐いた。
「もういい! ここに来た俺が馬鹿だった」
 新助はそれだけ言うと、二人に背を向けて部屋を出ていった。


 叡正は開けられたままの襖を見ながら、ため息をついた。
「おい、これでよかったのか……?」
「ああ、これでもうここに来ることはない」
 咲耶は淡々と言った。
 叡正は何か言いたげに咲耶を振り返る。
「私にできることはない。だが、おまえが気になるなら、おまえは力になればいい」
「え……?」
「おまえの憧れなんだろう? ほら、追いかけてやれ」
 咲耶は叡正を追い払うように、手を振った。
「あ、ああ……、わかった」
 叡正はそう言うと、新助の後を追って部屋を出ていった。

 咲耶はため息をつく。
「ああ……また面倒くさいことになりそうだ……」
 咲耶は額に手を当てて、もう一度深いため息をついた。
「おい! 待ってくれ!」
 新助に追いついた叡正は、新助の斜め前で立ち止まると声をかけた。
(デカいな……)
 叡正は新助を見上げた。
 叡正も背は高い方だったため、同じように立った状態で叡正が顔を上げなければ目が合わないのは珍しいことだった。
「おまえ……さっきの間夫か……」
 新助は叡正を見ると眉をひそめた。
「あ、いや……間夫ではないんだが……」
 叡正は困ったように笑うしかなかった。
「さっきは悪かったな。あいつも……悪気があったわけじゃないんだ……」
(まぁ、あえて怒らせてたようだから、悪気はあったんだろうが……)
 叡正は言葉を選びながら、新助に謝罪した。
 新助は叡正を鼻で笑う。
「悪気しかなかっただろうが。あの女、太夫だと思って偉そうに……」
 叡正は苦笑した。
「まぁ、確かに口は悪い気がするが、いいやつなんだ」
(いいやつ? ……うん、いいやつなのは間違いない……か)
 叡正は自問自答しながら言った。

「まぁ、おまえにとってはいいやつなんだろうな。顔がいい男には優しいんだろうよ。もう行っていいか?」
 新助はそう言うとまた歩き始めた。
「あ、ちょっと待ってくれ」
 叡正は慌てて新助と並んで歩く。
「何か……力になれることはないか……?」
「はぁ? おまえに何ができるってんだ」
 叡正の言葉に新助は馬鹿にしたような視線を向ける。
「何もできないかもしれないが……。俺も真実が知りたいと思ったんだ……。火消しは俺の子どもの頃の憧れだから」
 新助はじっと叡正を見た。
「憧れ……ね……」
 新助は呟く。
「まぁ、友人を亡くしたあんたほどの想いはないが……」
「友人?」
 新助は眉をひそめる。
「友人だったんだろう?」
「友人なんかじゃねぇよ」
「……? じゃあ、大切な仲間ってことか?」
 新助は鼻で笑う。
「大切? 気色悪ぃ……。いけ好かないやつだったよ、あいつは」
 叡正は不思議そうな顔で新助を見る。
「考え方も、味の好みも、女の趣味も、何ひとつ合わねぇ。ただの腐れ縁だ。……ああ、特に女の趣味は最悪だった……」
 新助はそう言うと額に手を当てて、ため息をつく。
「それでも……悔しいが、間違いなくあいつは江戸一の火消しだった……。そんなやつが火付けなんて汚名を着せられて死んでいいわけがねぇ。俺はひとりでも調べる。だから……」
 新助は横目で叡正を見る。
「手伝いたかったら手伝え」
 新助はそれだけ言うと、ふんと鼻をならして前を見た。
 叡正は微笑む。
「ああ、手伝わせてくれ」

 新助は前を向いたまま「ああ」とだけ口にした。
 しかし、少しして気まずそうに叡正に目を向ける。
「ちなみに……、俺はそっちの趣味はないからな……。そういうのは勘弁してくれよ?」
「は……?」
 叡正は意味がわからず、新助を呆然と見つめる。
(そっちってなんだ……)
 新助は叡正から視線をそらす。
「おまえは確かに綺麗な顔してるが、俺は女が好きだから……」
 叡正は言葉を失う。
(なんでそうなるんだ!? 俺は……そんなふうに見えるのか……?)
 肩を落とす叡正に、新助は慌てる。
「そう落ち込むな! おまえみたいな男が好きな火消しもたくさんいる!」
「え!? いや、それは……違うから……。俺も女が好きなんだ。ほら……咲耶太夫の間夫だから……」
 叡正は諦めて咲耶の間夫で通すことにした。
「ああ、女も男もどっちもいけるのかと……。違うのか?」
 新助は意外そうな顔で言った。
「違う! 女だけだ……」
「ああ! そうなのか! 勘違いして悪かったな! それなら安心だ!」
 新助は叡正を見て笑った。
(何が安心なんだ……)
 叡正はため息をつく。
(当分、あいつの間夫って言い続けることになりそうだな……)
 咲耶の迷惑そうな顔がありありと目に浮かび、叡正はもう一度ため息をついた。
(俺……もうダメなのかな……)
 新助は意識が朦朧とする中で、重いまぶたをなんとか開けた。
 靄がかかったようにぼんやりとした視界の向こうで、生き物のような炎が揺らめいている。
 全身が焼けているように熱い。
 うつ伏せになっているため、熱い板の上で焼かれているようだった。
(焦げ臭い……。俺、死ぬのかな……。父ちゃんは無事なのか……?)
 ときどき背中が擦り切れたようにヒリヒリと痛む。
(やばい……眠い……。俺なんでこんなときに……)
 まぶたが閉じる寸前、新助は揺らめく炎の向こうに人影を見た気がした。

 まぶたを閉じた新助は夢を見た。
 父親に背負われて川辺を歩く夢だった。
 その夢は懐かしくて温かくて、新助は父親の首にギュッとしがみつく。
 父親は首に巻きついた新助の腕にそっと手を当てた。
 新助はその手から伝わる温もりに安心し、より深い眠りに落ちていった。


 新助が目を覚ましたとき最初に目に入ったのは、舞い上がる龍だった。
「龍……?」
 新助がそう口にすると、龍がビクッと動く。
「目、覚めたか?」
 見知らぬ男の声が響く。
 新助はその声で完全に目を覚ました。
 龍は男の背中に入っていた刺青だった。
 見知らぬ男は振り返って新助を見る。
「ここは……?」
 新助は自分がうつ伏せで寝ていることに気づき、ゆっくりと腕の力で起き上がろうとした。
 背中にピリッとした痛みが走る。
「ッ……」
「おい、無理するな! 背中のやけどは結構ひでぇんだ」
「やけど……?」
 新助はようやく自分が火の海にいたことを思い出した。
「俺の……家は……?」
 見知らぬ男は目を伏せる。
「……全部燃えちまったよ……」
 新助は体の力が抜けていくのを感じた。
 腕の支えを失って、新助は再びうつ伏せの状態で布団に倒れる。
「……父ちゃんは……?」
 男の顔が苦し気に歪む。
「すまねぇ……。助けられなかった……。俺たちが着いたときにはもう……」
 新助の見開かれた目の端から涙が流れ、布団が濡れた。
 新助の顔が歪む。
「……父ちゃ…………」
 新助は布団に顔をうずめた。

「ごめんな……」
 男はそっと新助の頭をなでた。
「これからは、俺たちがおまえの家族だ。俺がおまえを守ってやるから」
 新助は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を男に向けた。
「あんた……誰なの……?」
 男は微笑む。
「俺は源次郎だ。や組って火消しの組頭で、普段は鳶頭(とびがしら)をやってる。俺には嫁さんもいないから俺たち三人、むさ苦しい男所帯になるが、そこはまぁ、我慢してくれ」
「三人……?」
 新助は鼻をすすりながら問いかけた。
 源次郎は視線を動かす。
 新助は源次郎の視線を追った。
 そこには新助と同じようにうつぶせで寝ている少年がいた。
 ピクリとも動かないため、起きているのか寝ているのかもわからなかった。
「あいつもこの火事で家族を亡くしてな……。母親、父親、弟、みんな死んじまったんだ……」
 源次郎の言葉を聞き、新助は源次郎に視線を戻した。
「おまえと同じくらいの年だ。二人仲良くやってくれよ」
 源次郎はそう言うと、もう一度新助の頭をなでた。

「おまえ、名前は? 年は十くらいだろう?」
「新助……。年は十一だ」
 新助は涙と鼻水を手で拭いながら答えた。
「新助か、いい名前だ。これからよろしくな、新助。あっちで寝ているやつは恭一郎って名前らしい。もう意識は戻ってるんだが、ずっとあの調子でな……。傷が良くなったらおまえも声をかけてやってくれ」
 源次郎はそう言うと微笑んだ。
「喉、渇いただろう? 今、水を持ってきてやる」
 源次郎は立ち上がり、長屋を出ていった。

 新助は視線を動かして、うつ伏せで寝ている恭一郎を見る。
「家族……か……」
 新助はそう呟くと、考えるをやめて静かに目を閉じた。
「おまえ、なんでしゃべんねぇの?」
 新助は朝食を食べながら、恭一郎を見て言った。
「お、おい! やめろ……」
 源次郎は新助を小突いた。
「え……だって源さんも気になるだろう? なぁ、おまえしゃべれないのか?」
 新助はご飯の入ったお椀と箸を机に置き、恭一郎に近づき顔をのぞき込んだ。
 恭一郎は興味なさそうに、新助から視線をそらす。

 新助が意識を取り戻して七日が経ち、ときどき背中はヒリヒリと痛んだが、今では新助も恭一郎も普通に動けるようになっていた。
 ここに来てからずっと寝食を共にしていたが、新助は恭一郎が話しているところを一度も見たことがなかった。
「なぁ、源さん。こいつ火事で煙吸い過ぎて、頭おかしくなっちゃったんじゃねぇか?」
 新助の言葉に、源次郎は顔を青くする。
「お、おい! 何言ってんだ!? やめろ! き、恭一郎、気にしなくていいからな……」
「いや、気にした方がいいだろ? ずっとここで世話になってて礼のひとつも言ってないんだから。人としてダメだろ」
 源次郎はますます顔を青くする。
「いやいや、心の傷が深いんだ……。俺のことは気にすんな! もう頼むからやめてくれ、新助!」

 新助は源次郎の方を振り返って、不満そうに口を開く。
「心の傷が深かったら、礼も言わなくていいのか? そんなのダメだろ。親の育て方が悪かったのかって思っちまうよ」
 恭一郎の眉がピクリと動く。

「……なんだと……?」
 初めて聞く声に、新助は恭一郎を振り返った。
 恭一郎は怒りに満ちた眼差しで新助を見ていた。
「お、やっぱりしゃべれるんだな!」
「おまえ……今なんて言った……?」
「あん?」
 新助は首をかしげる。
「ああ、親の育て方が悪いのかって……」
 新助が言い終わらないうちに、恭一郎はこぶしを振り上げた。
「お、おい!!」
 源次郎が止める間もなく、恭一郎はこぶしを振り下ろした。
 新助がこぶしを受けてよろめく。
 恭一郎はそのまま新助に馬乗りになり、もう一度こぶしを振り上げた。
「おい!! やめろ!」
 源次郎は慌てて立ち上がり、恭一郎の腕を掴む。

「黙って聞いてれば、何も知らないくせに!!」
 恭一郎は腕に力を込めたが、源次郎に掴まれた腕はびくともしなかった。
 そのすきに、新助が恭一郎の頬をこぶしで殴り返す。

「おい!!」
 源次郎は新助に向けて怒鳴った。
 腕を掴まれたままよろける恭一郎を押しのけると、新助はゆっくりと起き上がった。
「知るわけねぇだろ!? おまえがひと言もしゃべってねぇんだから!!」
 恭一郎はしばらく黙った後、ゆっくりと口を開いた。
「……考えてたんだ……。これからどうすれば迷惑をかけないで生きていけるか……」
「礼ぐらい言ってから考えろ! おまえの考えてることなんて誰にもわかるわけねぇだろ!? おまえのことわかってくれる父ちゃんや母ちゃんはみんな死んじまったんだから! おまえがしゃべらないで誰がわかるってんだ!?」
「うるせぇな!! 礼はずっと言いたかったよ! ……けど、おまえがベラベラしゃべってたから、言うときがなかったんだ!! どうでもいいことずっとしゃべりやがって! ちょっとは静かにできないのか!?」
「はぁ!? しゃべれるときなんていくらでもあっただろうが! 人のせいにするんじゃねぇ!! だいたいなぁ……」

 恭一郎の胸ぐらを掴もうとしたとき、新助の頭に強い衝撃が走った。
「ッ……!??」
 新助は頭を抱えてうずくまった。
 ほぼ同時に恭一郎も頭を押さえてうずくまる。
「痛ぇ……」
 二人が悶絶する中、源次郎はこぶしを握ったまま二人を見下ろした。
「うるせぇよ。元気になってほしいとは思ってたが、ここまでうるさくなるとは……」
 源次郎はため息をついた。
「先が思いやられる……」

 恭一郎が頭を押さえながら、新助を睨む。
「おまえが、俺の親の悪口言うからだぞ……」
「はぁ!? 言ってねぇよ!」
「言っただろうが『親の育て方が悪い』って!」
「それは……」
 新助はバツの悪そうな顔で目を背けた。
「『親の育て方が悪い』って思われないように、俺たちがちゃんと生きていかなきゃいけないって意味で、悪口じゃねぇよ……」
 恭一郎は目を見開いた後、静かに息を吐いた。
「おまえ……言い方が下手過ぎるぞ……。馬鹿なのか……?」
「はぁ!? なんだと!?」

「おい。また殴られたいのか?」
 源次郎は二人を睨む。
「い、いや、そういうわけじゃあ……」
「も、もう大丈夫です……」
 二人が慌てて首を振る。

「二人とも、これから仲良くやれるよな」
 源次郎の顔は笑っているように見えたが、目は少しも笑っていなかった。
 二人は顔を見合わせる。
「も、もちろん!」
「は、はい!」
 二人は引きつった笑顔で源次郎に言った。

「よし! じゃあ、さっさと朝飯を食え! あ~あ、すっかり冷めちまった……」
 源次郎が頭を掻きながら座ると、二人もしぶしぶもとの場所に戻り、冷え切ったご飯を食べ始めた。

(本当に、いけ好かないやつ……)
 二人はお互いをチラチラ見ながら、同じことを思っていた。