「姐さん、大丈夫……?」
野風が行燈部屋の扉を開けた。
「野風……、ダメよ……入ってきたら……。うつるから……」
夕里は行燈部屋の中で布団に横たわりながら、かすれた声で言った。
野風は夕里の言葉に構わず、中に入ると夕里の枕元まで近づいて腰を下ろす。
「前に言ったでしょう? 麻疹、かかったことあるんです。一度かかったらもうならないって言ったのは姐さんでしょう?」
「でも……」
「声出すのツラいんでしょ? もうしゃべらないでください」
野風は夕里の言葉をさえぎった。
「こんな汚い仕置き部屋に閉じ込めるなんて、楼主は本当にひどいですね……」
野風は低い声で呟いた。
「こらこら……、仕置きでも使われるけど……、この部屋は本来行燈部屋って言って……、病気の遊女を休ませる……場所なのよ……」
夕里は微笑んだ。
「ふふふ……、昔とは逆ね……。昔は……野風がここにいたのに……」
「そんな昔のこと忘れましたよ……。そんなにしゃべらないでください……」
野風は心配そうな顔で夕里を見る。
「水、持ってきました」
野風は竹筒に入った水を器に移す。
「体、起こしますね……」
野風は片手を夕里の背中に添えて起こすと、もう片方の手で水の入った器を手に取り口元に近づける。
「自分で……飲めるわ……。ありがとう」
夕里は野風から器を受け取ると、ゆっくりと器を傾けて水を飲む。
野風は夕里がすべて飲んだのを確認すると器を受け取った。
「姐さん……、また熱上がってない?」
野風が夕里の背中をさすりながら、泣き出しそうな顔で言った。
「そんなことないのよ……。随分ラクになったから」
夕里は微笑む。
「それより……みんなにうつってないといいんだけど……」
夕里の言葉を聞いて野風は複雑そうな表情を浮かべた。
「……あんなやつら……、みんなうつって死ねばいいんだ……」
「野風……?」
野風の言葉に夕里は戸惑った。
「姐さんが麻疹だってわかってから、みんな自分の心配ばっかりで、誰も姐さんのところに来ないなんて……。最低だよ……」
野風は憎々しげに呟く。
「野風……。見世やお客にまで広がったら大変なの……。みんな……それがわかっているから来ないのよ……」
「みんな自分のことが可愛いだけだよ! お客だって……姐さんに年季明けに一緒になろうって言ってたやつだって、最近全然来ないし……。みんな最低だ……」
野風は低い声でそう言うと拳を握りうつむいた。
言葉遣いも以前の野風に戻ってしまっていた。
(ああ……何もかもが裏目に出てしまっている……)
夕里は手を伸ばして、野風の手に自分の手を重ねた。
「みんな……野風が思っているような悪い人間じゃないわ。ここで何年も一緒に過ごしてきて……もうわかっているでしょう……? それに……、直次様は……私からお別れしたのよ……。奥方がいらっしゃる方だから……迷惑はかけられないと思って……。あの方は最後まで私のことを想ってくれていたわ……、本当よ……」
野風は嘘をついた。
直次は手紙を受け取ってから一年は頻繁に見世に来ていたが、少しずつ間隔が空くようになり、半年前を最後に見世に来ることはなくなっていた。
そのことについて夕里は何も思っていなかったが、ここでそれを正直に伝えるのはよくないと夕里は判断した。
「姐さんは……それでよかったの?」
「ええ、後悔してないわ」
夕里は野風の目を見て、しっかりと言った。
「そう……なの……?」
夕里は頷く。
「それより、ほら。時間はわからないけど……もうすぐ昼見世が始まるんじゃないの? もう私のことはいいから……。行きなさい。野風が私のせいでサボっていたら、私が見世に戻ったときにみんなから怒られちゃうじゃない……。ね、お願いだから、もう行って……」
夕里は野風の手を強く握ると、笑いかけた。
「でも、……姐さん……」
「私は大丈夫だから! ね?」
夕里に見つめられ、野風はしぶしぶ頷いた。
「姐さん……またすぐ来るから……」
野風は立ち上がると何度も夕里を振り返りながら、行燈部屋を後にした。
夕里は布団に横になると、ゆっくりと息を吐く。
「せっかく野風が見世に馴染んできてたのに……。私が……こんなふうに台無しにするなんて……」
自分が情けなくて仕方なかった。
そのとき、行燈部屋の戸が開く音がした。
「……野風?」
麻疹の遊女のもとに来る人間など野風以外に思い浮かばなかった。
「ふふふ、私よ」
声の主はそう言うと、まっすぐに夕里の枕元まで歩いてきた。
「露草太夫!? い、いけません! こんなところに来ては!」
夕里は慌てて口を開く。
無理に声を出したせいで少し咳き込んだ。
「こら、大きな声出さないの」
露草は夕里の枕元に腰を下ろした。
「野風と一緒で、私も昔かかったことがあるから大丈夫よ。心配しないで。夕里はちゃんと自分の心配をしなさい」
露草は優しく微笑むと、夕里の額に触れた。
「熱が高いわね……。でも、大丈夫よ。私も発疹が出てからもう一度熱が上がって、その後良くなったの。ここを乗り越えたら夕里も良くなるわ」
「露草太夫……こんなことになって……本当に申し訳ありません……」
「病気はあなたのせいじゃないでしょ? 気にすることないわ。私だって別の病気にかかるかもしれないんだから」
「露草太夫……」
夕里は涙が込み上げてくるのを感じた。
「あの……こんなことを言って本当に申し訳ないのですが……。お願いがあります……」
夕里は真っ直ぐに露草を見つめる。
夕里の言葉を聞いて、露草はこの部屋に入ってきて初めて顔を曇らせた。
しばらく夕里の顔を見つめていたが、やがて諦めたようにため息をついた。
「知っていると思うけど、私とっても面倒くさがりなのよ……。お願い、叶えてあげられるかどうかわからないわ。だから一応聞いてあげるけど、ちゃんと生きて、私が何もしなくてもいいようにするのよ。わかった?」
夕里は目に涙を溜めて笑った。
「もちろん、……そのつもりです! 念のためですから」
露草は目を閉じる。
「わかった……。じゃあ、聞いてあげる……」
かすれる声でゆっくりと話す夕里の言葉を取りこぼすことがないように、露草は身じろぎひとつせずじっと耳を傾けた。
「また……来たの? 野風……」
夕里が目を覚ますと、心配そうな野風の顔が目に入った。
(いつのまにか眠っていたのね……)
行燈部屋に入って数日が経ち、常に薄暗い部屋の中では今がどれくらいの時間なのかもよくわからなくなっていた。
「姐さん、大丈夫?」
野風は夕里の手をそっと握る。
夕里はその手を握り返そうとしたが、うまく力が入らなかった。
「大丈夫よ……」
夕里は微笑む。
夕里の言葉を聞いても野風の顔は曇ったままだった。
「見世……は?」
「もう夜見世も終わったよ……。お客が早く帰ったから、姐さんの様子を見に来たんだ……」
「そう……だったの……」
夕里はそう呟くと、少し咳き込んだ。
「姐さん、大丈夫!?」
野風は夕里の手を両手で包み込んだ。
「だ……いじょうぶよ……」
少し前から夕里の咳はひどくなってきていた。
数日続いた熱と咳で体力を奪われ、夕里は今では体を起こすこともできなかった。
(いよいよダメかもしれないわね……)
夕里は薄く笑うと目を閉じた。
「姐さん、水は飲んでる? 何か……欲しいものはある?」
野風は泣きそうな顔で夕里を見る。
「じゃあ……、み……ずを、もう少し……持ってきて……くれる……?」
「わかった。すぐ取ってくる」
野風は立ち上がると、急いで部屋を出ていった。
夕里はひとりになると、両手で顔を覆い声を殺して泣いた。
嗚咽とともに咳がこみ上げる。
咳き込みながらも涙はとめどなく溢れた。
(野風……、本当にごめんなさい。あなたを残していくことになるなんて……)
「ごめんね……。ご……ごめんね……。野風……」
悔いていることはたくさんあったが、今さらどうすることもできなかった。
ひとしきり泣くと、夕里は涙を拭う。
野風に泣き顔は見せたくなかった。
夕里はゆっくりと息を吐き、呼吸を整える。
天井を見つめながら、夕里はひとり呟いた。
「あなたにも……もう少しだけわがまま、……言えばよかったかな……」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
夕里が最後に呟いた独り言は、行燈部屋の前に来ていた野風の耳に、はっきりと届いていた。
水の入った竹筒を持ったまま、野風は部屋の前に立ち尽くす。
(姐さん……、やっぱりあいつのこと……)
野風はためらいながら、部屋の戸を開けた。
「野風……?……早かったの……ね」
夕里の不自然なほど明るい声が響く。
「あ、うん……。水入れただけだから……」
「ありが……とう」
夕里はお礼を言うと、また咳き込んだ。
「姐さん! 無理しないで……。お水……飲める?」
「じゃあ、……もらおうかな……」
野風は夕里の枕元に腰を下ろすと、横たわっている夕里の体を抱き起した。
「ごめんね……」
「いいから飲んで、姐さん」
野風は水を注いだ器を夕里の口元に寄せた。
少し水を飲むと、夕里はすぐに咳き込んだ。
「大丈夫!? 姐さん、ごめん!」
「だい……じょうぶ……だから……。少し……むせただけ……よ」
野風は器を置くと、すぐに夕里を横向きに寝かせて背中をさすった。
「ありがとう……。もう……大丈夫よ……」
夕里は身をよじると、背中をさする野風の手をとって微笑んだ。
「ねぇ……、なんだか……こうしていると……昔を思い出さない……? 今日は朝……まで……ここで一緒に……寝てくれない……?」
「別にいいけど……」
野風の言葉を聞いて夕里は微笑むと、自分の横をポンポンと叩いた。
野風は夕里の隣に横になる。
夕里はやわらかく微笑むと、野風の頭にそっと手を伸ばし、ゆっくりとなでた。
「姐さん……、もう子どもじゃないよ……」
「ふふ……」
夕里になでられて、野風は少しずつまぶたが重くなっていくのを感じた。
(まずい……ここ最近眠れなかったから……)
野風がウトウトしている様子を見て、夕里は目を細くした。
「ねぇ……野風……」
「……何……姐さん……」
「野風の……年季が明けたら……私を……桜草がいっぱい……咲いている……丘に……連れていって……」
「……さくら…そう……?」
「私の……好きな花なの……」
「ああ……そうだったね……。なんで……」
「約束……」
夕里は野風の言葉をさえぎるように言った。
「約束よ……。絶対に……連れていって……」
「……? ……わかった……よ」
野風はそれだけ言うと、小さな寝息を立て始めた。
夕里は震える手をそっと野風の手に重ねた。
夕里の顔が歪み、涙が布団を濡らす。
「ごめんね……、野風……」
朝になり野風が目を覚ますと、隣には穏やかな微笑みを浮かべた夕里の抜け殻だけが残されていた。
重ねられた夕里の手は硬く、それはひどく冷たかった。
「野風……、もう夕里を連れていかないと……」
露草は、夕里に覆いかぶされるように泣き続けている野風の肩にそっと触れる。
言葉が届いていないのか、野風は夕里から離れようとしなかった。
露草の後ろには、夕里の亡き骸を運び出すためにやってきた男衆が二人立ち尽くしている。
二人とも鼻と口元を覆うように布を巻いていた。
「野風、夕里をちゃんと供養してあげないと……」
露草はもう一度野風に言った。
野風がゆっくりと露草を振り返る。
その目は何も映していないようだった。
「野風……」
露草はかける言葉が見つからなかった。
「露草太夫……、あまりここにいるのはあれなので……。もう連れていきますね……」
男衆のひとりがしびれを切らして、夕里に近づく。
口元を覆っていても麻疹がうつることが怖いのか、男衆はできる限り顔を背けて夕里を抱きかかえようとした。
その瞬間、野風は体を起こし男衆を突き飛ばす。
「姐さんに触るな!!」
あまりに一瞬の出来事に露草が止める間もなかった。
「野風!」
男衆に掴みかかろうとする野風を、露草は慌てて後ろから抱きしめる。
「止めなさい! 野風!!」
「姐さんを汚いものみたいに……! おまえが死ねばよかったんだ!! どうしておまえみたいなのが生きてて、見世のために尽くしてきた姐さんが死ななきゃいけないんだよ!!」
突き飛ばされた男衆は、野風のあまりの剣幕にただ目を見開いて野風を見ていた。
「野風! 止めなさい! 夕里が死んだことと、この人は関係ないでしょう? 落ち着きなさい!」
「どうして姐さんが……。お客に夢を見せるって……お客に尽くして……。もっと幸せになっていい人だった!! どうしてそんな人が……こんな薄暗い部屋で……ひとりで死んでいかなきゃいけないんだ……」
野風は両手で顔を覆うと床に膝をついた。
「野風……」
崩れ落ちるようにその場に座り込んだ野風を、露草は包み込むように抱きしめた。
「ひとりじゃなかったでしょう? あなたがいたじゃない……。あなたがそんなに泣いたら、夕里も悲しむわよ」
嗚咽を漏らしながら泣き続けている野風の頭を露草がそっとなでる。
「あなたが笑って生きることが、あの子の願いなのよ……」
露草は野風をなでながら、男衆に視線を向け、目で夕里を連れていくように伝える。
男衆は頷くと、二人で慎重に夕里を抱えて部屋の外に出ていった。
(夕里……、あなたの願いはできる限り叶えるから……、この子をちゃんと見守ってあげるのよ……)
露草は腕の中で泣き続けている野風を見ながら、そっと目を閉じた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「野風、お客だよ」
張見世に出ていた野風は、ゆっくりと立ち上がる。
夕里が亡くなって三ヶ月経ち、体調を崩していた野風も少しずつ見世に出るようになってきていた。
昔のように、反抗して仕置き部屋で毎日過ごすことを夕里が喜ぶとは野風も思っていなかった。
(少しでも姐さんが安心できるように、私がしっかりしないと……)
野風は二階に上がると、お客のいる座敷の前で襖越しに声をかける。
「失礼いたします」
野風はお客の返事を待って、座敷に入った。
お客の前で正座すると、手をついて頭を下げる。
「野風と申します」
「野風か。うん、可愛いね」
野風が顔をあげると、優しげな顔の男が微笑んでいた。
目鼻立ちに特徴がなく、印象に残らない顔立ちだと野風は思った。
流行りすたりのないありふれた灰色の着物は特別上等なものでもなければ、気になるほど粗悪なものでもないようだった。
何も特徴がない分、首筋にある大きなほくろだけが強く野風の印象に残った。
「俺は庄吉だ。よろしく頼む」
庄吉はやわらかく微笑んだ。
「庄吉様、こちらこそよろしくお願いいたします」
野風は庄吉の隣に移動すると、酒の入った銚子を手にとった。
「一杯いかがですか?」
「ああ、もらうよ。ありがとう」
酒杯に酒を注いでもらった庄吉は微笑んで、ゆっくりと酒を飲み干した。
「そういえばさ……、ちょっと前にここの遊女が亡くなっただろう?」
野風の体がビクリと震える。
「え、ええ……」
「麻疹だったんだって? 気の毒にな……」
「ええ……本当に……」
野風は目を伏せた。
震える手で銚子をお膳に戻す。
「愛する男にまで裏切られたんだって? 本当に可哀そうだよな……」
野風は弾かれたように顔を上げる。
「え……?」
「俺……、その遊女の客だった直次と知り合いなんだよ。残酷なやつだよな……本当に……」
「どういうことですか……?」
野風は庄吉を見つめる。
「あれ? もしかして知らない……?」
庄吉はバツの悪そうな顔で野風を見た。
「余計なこと言っちゃったかな……」
「あの……どういうことなんですか……?」
野風は庄吉に顔を近づけた。
「ほら……、あいつ一緒になろうとかってここの遊女に言ってたんだろう? あれ、全部嘘なんだよ……。あいつはほら、婿養子だし……遊女と一緒になんてなれるわけないんだ……。ここの遊女が本気にしちゃって困ってるってあいつが言いふらしててさ……。今では別の遊女と楽しく遊んでるよ……」
庄吉は言いにくそうに、野風から視線をそらして言った。
「それに、こんな手紙ももらったって自慢してて……」
庄吉は懐から手紙を取り出し野風に渡す。
野風が手紙を開くと、そこには夕里の懐かしい筆跡で直次への愛が綴られていた。
手紙を持つ野風の手が激しく震え始める。
「おい、大丈夫か……?」
庄吉は心配そうに野風の顔をのぞき込んだ。
「あ、はい。大丈夫です……」
野風はなんとか微笑んだ。
「いらないから捨てておいてくれってあいつが渡してきたんだけど、なんか捨てられなくて……。亡くなったって聞いたから見世に返すのがいいかなって思って、持ってきたんだ……」
「お優しいんですね……」
野風は口元をゆるめた。
「そ、そんな、たいしたことじゃないさ」
庄吉は照れたように頭を掻いた。
そんな庄吉の様子を見て野風は微笑み、再び手紙に視線を落とした。
(許せない……。姐さんの想いを……こんなふうに……! 髪まで受け取っておいて……)
手紙がクシャリと音を立てる。
「亡くなった遊女は友だちだったのかい?」
野風の様子を見て、庄吉は心配そうに声をかけた。
「え、ええ……。とても大切な姐さんでした……」
「そうだったのか……」
庄吉は目を伏せる。
「それなら、ちょっと仕返ししてやるか……?」
庄吉は野風の手を握った。
「仕返し……?」
「ああ、ちょっと怖がらせてやるのさ……。俺にいい考えがある」
庄吉は妖しく微笑んだ。
少し戸惑いながら、野風は意を決したように庄吉を見つめる。
庄吉は野風の目を見て、満足げに目を細くした。
庄吉の瞳の奥にある闇に、野風はそのときまったく気づくことができなかった。
寺を訪れた翌日、信は咲耶のもとに向かった。
昼見世が始まるまでにまだ時間があるためか、見世は以前信が訪れたときよりも静かだった。
緑に案内されて部屋に入ると、咲耶は窓のへりに腰かけて外を見ていた。
「寺に行ってきた」
信が咲耶に声をかける。
咲耶はゆっくり振り返ると立ち上がり微笑んだ。
「早いな。何かわかったか?」
咲耶は緑が準備した座布団に座ると、信にも座るように促した。
咲耶と向かい合うように信も腰を下ろす。
「これが落ちていた」
信は懐から布に包まれた釘を取り出すと、咲耶に渡した。
「五寸釘か……」
咲耶は布を開くと、くの字に曲がった釘をじっと見つめた。
「これはこの状態で落ちていたのか……?」
咲耶は信を見た。
「ああ」
信は短く答える。
咲耶は目を閉じて、頭を抱えた。
「じゃあ、わざとってことか……」
「ああ、おそらく」
釘には打ち損じたときにできる傷が一切なかった。
釘を打ち込むときに曲がって落ちたのでなければ、最初から曲がった状態の釘を落としたことになる。
あえて置いていったと考えるのが妥当だった。
咲耶はため息をついた。
「それと、寺で誰かに見られている気配があった」
信の言葉に咲耶の顔が曇る。
「おそらく今回の件、狙いは俺だ」
咲耶はしばらく信を見つめた後、静かに目を伏せた。
「……信、今回はもうやめておこう……。危険すぎる……」
「どの道、狙われたら逃げられない」
信は淡々と言った。
「俺に用があるなら正面から迎えるだけだ」
咲耶は何か言いたそうに口を開いたが、諦めたようにため息をついた。
「それなら、釘を調べるから借りていいか?」
咲耶は釘を見つめながら言った。
「ああ」
信が頷く。
「あえて釘を残していったくらいだ。調べろってことだろう。大工以外で釘を買う者は珍しいから買った人間がわかるのかもしれない」
「ああ、頼む」
信はそれだけ言うと立ち上がった。
部屋から出ていこうとする信の背に向かって咲耶が声をかける。
「本当に……気をつけろよ」
信は振り返って頷くと、襖を開けて部屋を出ていった。
襖を見つめたまま、咲耶はひとり大きなため息をついた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
昼見世を終えた後、咲耶は裏茶屋に向かった。
いずみ屋の露草からの手紙で、今日の昼見世の後に野風を裏茶屋に向かわせると知らせがあったからだ。
裏茶屋に着くと、咲耶はすぐに案内された座敷にあがる。
野風はすでに座敷で咲耶を待っていた。
「咲耶太夫……、このたびはご迷惑をおかけして、誠に申し訳ございませんでした!」
野風は、咲耶が座敷にあがるとすぐに膝をつき頭を下げた。
「玉屋の文使いが疑われていると聞きました……。ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません!」
野風の体はかすかに震えていた。
「頭を上げてください。露草太夫からだいたいの話は聞いていますから。うちの文使いも話しを聞かれただけで疑われているわけではないので」
咲耶がそう言って微笑むと、野風はゆっくりと顔をあげた。
気の強そうな瞳が印象的な遊女だった。
今はその瞳が涙で濡れている。
「私が聞きたいのは、あなたにあんな手紙を書かせた男についてです。男のことで覚えていることをすべて教えてもらえませんか?」
咲耶はまっすぐに野風を見た。
野風は体を起こすと、目は伏せたままゆっくりと口を開いた。
「あの男……、庄吉と名乗っていたのですが、本当の名前かどうかはわかりません……。姐さんが亡くなって三ヶ月ほどしてから客として初めて見世に来ました。あの男は直次様の知り合いなのだと言って、姐さんが直次様に宛てて書いた手紙を私に見せたんです」
「それは、本当に夕里という遊女が書いた手紙だったのですか?」
野風は顔を上げる。
「はい。それは間違いありません。私が姐さんの字を見間違うわけありませんから」
咲耶は考えるように目を伏せた。
(本物の夕里の手紙を手に入れられる人物だとすると、かなり絞り込めるかもしれないな……)
「あの男は、直次様がこんな手紙いらないから捨ててくれと言って渡してきたと言っていましたが……。あの男が言っていたことはすべて嘘だったんでしょうか……? もう何が本当かわからなくて……」
喜一郎から直次は岡場所の女に入れあげていたと聞いていたが、咲耶は何も言わないことにした。
「今回、うちの文使いに持たせた手紙はあなたが?」
「あ、……はい。姐さんの筆跡を真似して私が書きました。直次様をちょっと怖がらせてやろうと、あの男の口車にのって……」
「指はどのように?」
「ああ、あれは男が……。最近身近で亡くなった方がいるから、その方の指を使うと言っていました。怖くて私は箱の中身は見ていませんが……」
「そうなんですね……」
(それなら、指からは何もわかりそうにないな……)
咲耶は質問を続ける。
「その男の顔は覚えていますか? 特徴が何かあれば知りたいのですが……」
「それが……あまり顔に特徴のない方で……背は高かったです。あ、あと首の左側に大きなほくろがありました」
男の風貌については、露草が言っていたこととまったく同じだった。
「そうですか……。ありがとうございます」
「お役に立ちそうでしょうか……?」
野風は不安げに咲耶を見た。
「ええ、十分です」
咲耶は微笑んだ。
野風はホッとしたような表情を見せる。
咲耶は静かに野風を見つめると、ゆっくりと口を開いた。
「……ひとつ、私から言わせていただいてもよろしいですか?」
咲耶はまっすぐに野風を見た。
野風は咲耶を見つめ返した。
「は、はい……」
「今回あなたがしたことは本当によくないことです。どうしてだかわかりますか?」
野風は顔を歪め、目を伏せた。
「たくさんの方にご迷惑を……」
「そんなことではありません」
咲耶は野風の言葉を冷たくさえぎった。
「あなたは夕里という遊女の名を汚しました」
咲耶の言葉に野風は弾かれたように顔を上げた。
「あなたがしたことは結果として、お客を想って尽くしてきたはずの夕里を、お客を呪うような遊女と言われるようにしてしまった」
野風は目を見開く。
「私は夕里という遊女と直接話したことはありませんが、そんな私でもお客に尽くす良い遊女だということは知っています」
野風の見開いた目から涙がこぼれる。
「あなたは怒りで忘れてしまっていたのかもしれませんが、夕里は見返りを求めて誰かを愛するような遊女ではなかったはずです」
咲耶は手を伸ばして、野風の頬をつたう涙を拭った。
「それに夕里はたくさんの愛を受け取っています。一度よく周りを見てみなさい。夕里がどんなに愛されていたのか……。夕里を想っていたのはあなただけではないはずですよ」
咲耶は微笑んだ。
野風は両手で顔を覆い、その場で泣き崩れる。
「姐さん……、ごめん……」
咲耶は野風をしばらく見つめた後、ゆっくりと立ち上がると座敷を後にした。
座敷を出ると、廊下には壁にもたれかかるように露草が立っていた。
露草は咲耶を見て悲しげに微笑む。
「悪いわね……。汚れ役させちゃって……」
咲耶も露草に微笑んだ。
「いいえ。あとはお任せしてもよろしいですか?」
「ええ、もちろん」
露草は笑って頷くと、襖を開けて座敷に入っていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「露草太夫……」
座敷に入ってきた露草を見て、野風が目を見開いた。
「私……本当に……すみませんでした……」
野風は泣き崩れた姿勢のまま、手をついて頭を下げた。
露草はゆっくりとしゃがみ込むと、野風の頭をそっとなでる。
「大丈夫よ……。帰ろう、野風」
露草の言葉の温かさに、野風の顔が歪む。
止めようとすればするほど、涙は溢れ畳を濡らした。
「は、はい……」
野風はなんとかそれだけ口にすると、着物の袖で涙を拭った。
「ほら、立てる?」
露草は立ち上がると、野風に手を差し出した。
「はい……」
野風は露草の手を取ると、そのまま露草に手を引かれて歩き出した。
裏茶屋の外に出ると、いつのまにか空は赤く染まり始めていた。
「春が終わって、もうすぐ夏ねぇ……。この時間でもまだ明るいんだもの……」
野風の手を引きながら露草はのんびりとした口調で呟いた。
「そうですね……」
野風は露草から伸びる影を見つめながら言った。
「ふふふ、こうしていると夕里のことを思い出すわ……」
露草は前を向いたまま笑った。
野風が顔を上げる。
「姐さんを……?」
「ええ……」
露草は少しだけ野風を振り返って微笑んだ。
「野風は知らないでしょうけど、夕里はあなたよりよっぽど問題児だったのよ」
「姐さんが?」
野風が目を丸くする。
「あの子が何回見世から脱走したと思ってるの? そのたびにこうやって手を引いて見世まで戻ったのよ」
露草は楽しそうに言った。
「姐さんが……? 全然想像できない……」
野風が知っている夕里からはまったく想像できない姿だった。
「ふふふ、でしょうね! あの子は本当にいい遊女になったわ。私の自慢よ。教えた通りに歯を食いしばって自分を磨いて……私が思ってた以上の売れっ妓になったわ」
露草は自慢げに言った。
野風はふと仕置き部屋でした夕里との話しを思い出す。
(歯を食いしばり己を磨くべきじゃない? ……あれは露草太夫の言葉だったのか……)
「野風のことも、自分と似てたから放っておけなかったのね、きっと」
露草は微笑んで野風を振り返った。
そのとき、露草の瞳に光るものが見えた。
露草はすぐに前を向いてしまったが、野風にはそれが何かはっきりとわかった。
野風はつながれた手を強く握ると立ち止まった。
「ん? どうしたの?」
露草が野風を振り返る。そこにはいつも通りの露草がいた。
「露草太夫……本当にごめんなさい……」
露草は手を強く握り返す。
「だから、大丈夫って言ってるでしょ! 何度言わせるつもりなの?」
露草は苦笑すると、野風の手を強く握ったまま、手を引いて見世に向かって進んでいく。
(ああ……姐さんが見たのもこんな景色だったのかな……)
固くつながれた手は夕日に照らされて赤く染まっていた。
野風の目に再び涙が溢れた。
「夕日……まぶしいですね……」
野風が呟く。
露草は振り返らずにそっと目を閉じる。
「そうね」
露草もそっと呟いた。
二人の影は重なるように、長く長く伸びていた。
野風と露草が見世に戻ると、見世の入口に人だかりができていた。
「どうしたんですかね……?」
野風は不思議そうに露草を見た。
「さぁ……」
露草は野風の方を振り返ると、困ったように首を傾げた。
二人は見世の入口をのぞき込んでいる人をかき分けるようにして見世の中に入る。
見世では、ひとりの男が男衆にすがりつくように声を上げて泣いていた。
「あ! 露草太夫!」
男衆が見世に入ってきた露草に気づき、声をあげた。
「この人、ちょっとなんとかしてください……」
男衆は困り果てたように、両手をあげる。
泣いている男の足元には見覚えのある花が散らばっていた。
「桜草……?」
野風が花を見て小さく呟いた。
「ああ……、今年も来たのね……」
野風の隣で露草が男を見て呟く。
「露草太夫……?」
露草の瞳は涙で濡れていた。
露草は野風を見ると、嬉しそうに微笑む。
「夕里の待ち人よ……」
「姐さんの!?」
「そうよ……」
優しく微笑むと、露草の瞳から涙がこぼれ落ちた。
「あなたは勘違いしていたみたいだけど、あの子が待っていたのは彼なの……。彼……うちの見世に頻繁に通えるほどお金があるわけじゃないから……。一年に一度だけお金を貯めて夕里のもとに来ていたの。彼の家の周りに、桜草がたくさん咲いているらしくてね、来年も桜草が咲き終わる前に必ず来るって、毎年夕里に約束していたみたい……」
露草の言葉を聞きながら、野風は夕里の部屋で見た桜草を思い出していた。
「じゃあ……あの花は……」
野風の瞳に涙が溢れた。
露草は野風を見て微笑む。
「そう……彼からの贈り物。身請けなんて当然できないけど……、年季明けまで彼が自分のことを想い続けてくれたら、彼のもとに行こうって夕里は決めていたみたい……。あの桜草の着物も夕里なりの愛情表現よ」
野風の頭の中で、桃色の花が描かれた着物を嬉しそうに着ていた夕里の姿が鮮やかに浮かんだ。
「あれ……、桜じゃなかったのか……」
野風は目に涙を溜めたまま苦笑した。
「ようやく……お願い、叶えてあげられるわ……」
露草は目を閉じてそう呟くと、男衆にそのまま待つように仕草で伝えて、見世の奥に消えていった。
「お願い……?」
野風は露草が消えていった方を見て、小さく呟いた。
男はずっと声をあげて泣き続けていた。
今は男衆から手を離し、床にうずくまっている。
男の悲痛な声につられるように、周りで見ていた遊女たちのすすり泣く声も聞こえ始めていた。
しばらくすると露草が小さな壷を二つ持って姿を現した。
露草はゆっくりとうずくまっている男に近づき、男の前にしゃがみ込む。
男が露草に気づき、顔をあげた。
男の瞳は赤く充血していたが、少し幼さの残る優しそうな顔立ちの男だった。
露草は男の前に、ひとつの壷をそっと置いた。
「夕里の骨です」
露草は静かに口を開いた。
男が涙に濡れた赤い目を見開く。
「もし死んだらあなたに渡してほしいと、夕里が……」
男は壊れやすいものに触れるように、そっと壷を両手で持ち上げるとゆっくりと胸に抱いた。
「夕里……」
男の顔が再び歪んでいく。
「それから、これ」
露草は胸元から紙を取り出すと、男に差し出した。
「夕里からの手紙です。あなたにわがままは言えないと、一度も手紙は出せなかったそうですが……、あの子の最期の手紙です。私が代筆していますがあの子の言葉ですから、読んであげてください」
男は震える手で手紙を受け取る。
男が手紙を見つめていると、開く前に手紙は男の涙で濡れ始めた。
慌てて手紙を懐に仕舞うと、男は堪え切れなくなったように壷を抱きかかえたまま擦り切れそうなほど悲痛な声を漏らして泣いた。
露草は男が手紙を受け取ったのを確認すると、ゆっくりと立ち上がり野風の方に向かう。
露草はもうひとつの壷を野風に差し出した。
「あなたが心配だから、ずっとそばにいるって夕里が」
野風は目を見開く。
同時に夢だと思っていた夕里との会話を思い出した。
『野風の年季が明けたら、私を桜草がいっぱい咲いている丘に連れていって』
「連れていってって……そういうことなの……? 姐さん……」
野風の顔が歪み、涙が溢れだす。
野風は壷を受け取ると、強く抱きしめた。
「ねぇ、野風……」
露草は野風を見て微笑んだ。
「夕里の火葬のお金……誰が出してくれたかわかる?」
野風は露草を見つめた。
「夕里の昔からのお客よ。それに……あなたは寝込んでいたから知らないと思うけど、たくさんお花も届いているの……。死んでからも愛される遊女なんてなかなかいないのよ」
野風は目を見開いた。
その瞬間、野風の背後から大きな泣き声が聞こえた。
野風が後ろを振り向くと、遊女が声をあげて泣き崩れていた。
「お、おい……泣くんじゃない!」
隣にいた遊女が慌てて泣き崩れた遊女の腕を取る。
「だ、だって……。我慢できなくて……」
泣きじゃくりながら遊女が言う。
「もっとツラい人たちが頑張ってるんだ! 私たちが泣いててどうする!」
遊女は声を潜めて言った。
「だって……夕里姐さんの最期にも会えなくて……」
「だから泣くなって……!」
慌てている遊女の目にも涙が光っていた。
(ああ……私だけじゃなかったんだ……)
野風は周りで涙ぐむ遊女たちを見ながら、静かにそう思った。
「ふふふ……」
露草が微笑む。
「もう野風にもわかったでしょう? 夕里は本当に幸せ者なのよ」
野風はしばらく露草を見つめてから、ゆっくりと微笑んだ。
「はい……。本当にそうですね……」
野風は泣き続けている男を見た。
(姐さん、私……年季明けまでちゃんと頑張るから……。そうしたらちゃんとあの人のところに連れていくから……。だから、もう少しだけ……そばにいてね……)
野風は小さな壷を強く強く抱きしめた。
この手紙を読んでいるということは、また見世に来てくださったということですね。
あなたを待つことができなくて、本当にごめんなさい。
最初にあなたと会ったとき、初めての遊郭であなたは舞い上がっていて、来年も来ると何度も私に言いましたね。
正直に言うと、そのときの私はあなたの言葉をまったく信じていませんでした。
「愛している」「身請けする」「一緒になろう」
遊郭の中ではよく囁かれる愛の言葉です。
口にするお客はとても多いのですが、実際に身請けされたり、お客と一緒になったりする遊女はほとんどいません。
私たちの仕事はお客に夢を見せること。所詮は夢の中での言葉です。
お客に夢は見せても、私たちが夢を見るのは愚かなこと。私はそう思ってきました。
だから、あなたが次の年、桜草を持って現れたときは本当に驚きました。
まだ夢の中にいたのか、と少し笑ってしまったくらいです。……ごめんなさい。
次の年も、その次の年も、あなたはやってきて桜草をくれましたね。
もうその頃には桜草が咲くのを心待ちにする私がいました。
本当に……なんてことをしてくれたんですか。
夢を見るなんて、絶対にしたくなかったのに。
でも、あなたは「一緒になろう」とは言ってくれませんでしたね。
そういう言葉は信じていないくせに、言われないと不安になってしまうのが、複雑な遊女心というものです。
ちょっとした意地悪のつもりで「いつか一緒に暮らしましょうよ」と私が言ったとき、あなたは顔を真っ赤にして言いましたね。「も、もちろん! お金が貯まったら言うつもりだったのに……」と。
そのとき、あなたが愛しくて愛しくて涙が出そうでした。
愛が溢れると涙が出るものなんですね。初めて知りました。
指を切って贈る遊女の気持ちが初めてわかった気がします。
あなたは知っているでしょうか? 遊郭では愛の証として指を切って贈ることがあるんですよ。
あなたは怖がるでしょうし、自分の体を大事にしてほしいと慌てるでしょうから、そんなことはしませんが、私のすべてを捧げて愛を伝えたいと心から思ったのです。
私はお客に夢を見せるために、たくさんの嘘をついてきました。
心にもない言葉もたやすく口にすることができます。
だからこそ、本当の愛はどのようにすれば伝わるのか、よくわからないのです。
愛を伝えるためには指くらい切らなければ、届かないのではないかとさえ思ってしまいます。
きっとこの気持ちはよくわかりませんよね。
あなたが手紙を読みながら、難しそうな顔で首を傾げる姿が目に浮かぶようです。
「好きなら好きと言ったらいいだけなのに」と困ったような顔で言うのでしょうね。
わかります。あなたはそういう人なんです。
ああ……、来年も再来年もその次の年も、ずっとあなたを待っていたかった。
先に逝く私を、どうか許してください。
私の骨があなたに届くように、私の姐さんに頼みました。
ただ、私の骨は半分だけなのです。すべてを捧げたいと言っておきながら、半分でごめんなさい。
もう半分は、私が妹のように想っている遊女に渡してもらうことになっています。
本当に困った子なのですが、昔の私を見ているようで最初から目が離せませんでした。
その子は男嫌いで身請けは期待できないので、年季が明けたら私のところに来るようにと以前話していました。
とても勝手なのですが、あなたと暮らしながら、その子の年季が明けたら迎えに行ってみんなで暮らそうなどと虫のいいことを考えていました。
桜草が一面に咲く丘の家で、あなたとその子と私で暮らすのが、私が夢見た未来でした。
もしいずみ屋にまた来ることがあれば、その子……野風という遊女なのですが、野風の様子を少し見てあげてください。
本当に勝手でごめんなさい。
大事な妹なんです。
最後に、私に涙が出るほどの愛を教えてくれて、ありがとう。
私のことは忘れてもいいから、ちゃんと幸せになってね。
あなたを、心から愛しています。
夕里
咲耶は部屋に戻ると、鏡台の引き出しから布に包まれた釘を取り出した。
(野風の件は露草太夫に任せておけば大丈夫だろうから、残りはこれか……)
「果たしてどこまで仕組まれているのか……」
咲耶は釘を見つめてため息をついた。
できるならば咲耶はもう手を引きたかった。
この釘を調べなくても、すべてを仕組んだ男が最後にどこに現れるのかは、およそ検討がついていた。
(おそらく信はそちらの方を警戒しているから、私に釘を渡したのだろうが……)
「一体、何をさせたいんだ……。あえて真相を掴めるように仕組んで、それからどうするつもりなんだ……」
咲耶はもう一度ため息をついた。
釘を布で包み鏡台の引き出しに戻すと、咲耶は気持ちを切り替えて夜見世の準備を始めることにした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
数日後、咲耶は引手茶屋に釘の包みを持っていった。
(おそらく、彼に見せれば何かわかるようになっているのだろう……)
咲耶は座敷の襖の前で、ひと声かけると襖を開けて中に入った。
「咲耶ちゃん! 待ってたよ〜! これ見て見て!」
上座にいた喜一郎は、金魚が描かれた着物を両手で広げるように見せながら咲耶を呼んだ。
咲耶は微笑むと、喜一郎のもとに歩みを進める。
「まぁ、もうできたのですか?」
咲耶は打掛を見ながら言った。
「急いで作らせたんだよ! 早くしないと夏が始まっちゃうからね!」
喜一郎は自慢げな表情を作っていった。
「ふふ、早くしないと衣替えのかき入れ時を逃してしまいますものね」
「そ、そんな! ま、まぁ、儲けたいところではあるけど、咲耶ちゃんに喜んでほしかったのは本当なのに……」
喜一郎は持っていた着物を置いて、少し拗ねたようにうつむく。
咲耶は微笑んで喜一郎の手を取った。
「ふふ、嬉しいです。着物を売るためだけに私に贈ってくださったのかと思うと悲しくて……、少し意地悪してしまいました。ごめんなさい」
喜一郎は目を輝かせて、咲耶の手を握り返す。
「そんなわけないじゃないかぁ! 咲耶ちゃん! 大好き!!」
「私も大好きですよ、喜一郎様」
咲耶はにっこりと微笑んだ。
「早速羽織ってみてもよろしいですか?」
「うん! 着て着て!」
咲耶は着ていた打掛を脱ぐと、金魚の描かれた白い打掛を羽織った。
「うわぁ、似合うね!」
「ありがとうございます。涼しげでいいですね」
「いいねぇ、咲耶ちゃんなら白い肌とも合うし! ほかの人に売り出すときは生地全体に淡い青とか赤とか入れた方が良さそうだな……」
「喜一郎様」
咲耶が笑顔で喜一郎をじっと見つめる。
「いや、つい……。いやいや、ついでだから商売は! ね?」
喜一郎は慌てて、咲耶の手を握る。
咲耶はしばらく喜一郎を見つめた後、やわらかく微笑んだ。
「ふふ、わかっています」
喜一郎は咲耶の顔を見て、ホッとしたように笑った。
咲耶は白い打掛をゆっくりと脱いだ。
そのとき、咲耶の袖口から布に包まれた釘が音を立てて落ちた。
「あれ、咲耶ちゃん、何か落ちたよ?」
喜一郎は布を拾う。
「あ、それは……」
咲耶は少しワザとらしく慌ててみせた。
ゆるく釘を包んでいた布は広がり、喜一郎の手の中から釘がポトリと落ちる。
喜一郎は落ちたものを拾うとじっと見つめた。
「釘……?」
喜一郎はしばらく見つめた後、ある一点を見て目を見開いた。
「これ……なんで咲耶ちゃんが持ってるの……?」
(やはり知っていたか……)
咲耶は戸惑ったような表情を作った。
「え……? これは知り合いのいる寺で丑の刻まいりが行われたらしく……、そこに落ちていたものなんです。私が鍛冶屋で調べようと受け取ったのですが……」
「ああ……、そうだったのかぁ……。ああ……どうしようかなぁ……。これ、調べても何もわからなかったってことにしてくれない……?」
喜一郎は上目遣いで咲耶を見た。
「え!? どうしてですか? ……事情を伺っても……よろしいですか?」
喜一郎はしばらく難しい顔をした後、諦めたように息を吐いた。
「ここだけの話しにしてくれる?」
咲耶は小さく頷いた。
「これ、俺が頼まれて手配した特注品なんだ……」
「どなたに頼まれたのですか?」
「前に咲耶ちゃんにも話しただろう……石川直次のこと……その奥方だよ……」
(そうか、そういうことだったのか……)
咲耶の中ですべてがつながった。
「代々、石川家が刀を打ってもらってる刀鍛冶がいてさ……どうしてもそこで作った釘がほしいって言うから、俺も口添えして特別に作ってもらったんだよ……。ほら、ここにある刻印、これはその鍛冶屋のものなんだ。ああ、丑の刻まいりかぁ……。そうだよなぁ。呪っちまったのかぁ、あいつを……。変な噂が立ったら、娘さん可哀相だからさ……。あの子、本当にいい子なんだ。だから頼むよ、咲耶ちゃん……」
咲耶はゆっくりと頷いた。
「わかりました。この件を心配している者にだけ事情は伝えますが、ほかの方には一切この話はしないと誓います」
咲耶は喜一郎を真っ直ぐに見て言った。
「ありがとう……咲耶ちゃん」
喜一郎はホッとした表情で微笑んだ。
咲耶は目を伏せる。
(さぁ、男の仕組んだ通り真相は掴んだ。ここからどうなるか、だな……)
咲耶はそっと目を閉じた。
「ふん、ふふん、ふん」
女はひとりきりの部屋で鼻歌交じりに手紙を書いていた。
「ご機嫌だね、奥さん」
ふいに男の声が部屋に響く。
「あら、来てたの?」
女はゆっくりと筆を置き、振り返った。
「あなたには本当に感謝しているのよ」
女は微笑んだ。
男は無表情のまま、壁にもたれかかって女を見ていた。
「本当にすっきりしたわ。特にあの丑の刻まいり、最高だった! 釘を打ち込むのってあんなに気持ちいいのね」
女は胸に手を当ててうっとりした表情で言った。
「本当に死ぬ気なのか?」
男は静かに言った。
女は微笑む。
「ええ」
女は机の上にある書きかけの手紙、遺書を見つめた。
「そのつもりよ。愛する主人の後を追って自殺する妻……いい筋書きだと思わない?」
「捕まるような証拠は何も残していない。死ぬ必要は別にないはずだ」
女は微笑む。
「優しいのね。でも、この家はもう終わりなの……。私があんな男を選んだばかりに……。お父様の言うことをちゃんと聞いておけばよかったのにね……」
女は悲しげに微笑んだ。
「本当に私は見る目がないわ……。あの男は武家という肩書きと、この家のお金が欲しかっただけなのに……」
「なおさら、そんな男のために死ぬことはないだろう」
男が不思議そうな顔で言った。
「女ひとりで、後継ぎもなしでは家が守れないのよ……」
「わからねぇなぁ。それは命より大事なことなのか?」
男の言葉に女は目を伏せて微笑んだ。
「私にとっては……そうね」
男は肩をすくめる。
「それならもう俺は止めねぇよ」
「ありがとう。……本当にあなたにも、あの方にも感謝しているの。あの方に会ったらよろしく伝えてね」
「ああ、わかった」
男はそう言うと、襖を開けて部屋の外に出ていった。
女は再び机に向かう。
(さぁ、後は何を書こうかしら……)
女が筆を手に取ると、襖が開く音が聞こえた。
「何か忘れ物?」
女が振り返ると、男は三本の刀を持って立っていた。
女は目を見開く。
「あの方からの贈り物だ。あんたの旦那が売り払った刀、買い戻したってよ」
女の瞳に涙が溢れる。
女は立ち上がると、男のもとに歩いていった。
「ありがとう……。本当に……」
女は刀を受け取ると、刀を胸に抱いて、崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込んだ。
溢れる涙が頬をつたって畳に落ちる。
「これでもう……思い残すことはないわ……」
男は苦笑する。
「あんたの旦那、そんなに大事にしてたものを売ったのか?」
「ええ」
女は忌々しげに言った。
「遊女に入れあげて家のお金を食いつぶしたり、遊女からの手紙をニヤニヤしながら見ている程度ならまだ許せた。でも、石川家が代々守り続けてきた家宝を売ったことだけは許せなかった! あの男、なんて言ったと思う? 『この平和な世で刀なんて不要なものだ。武士なんて時代遅れ、これからは商人の時代だ』ですって。商売の才能もないくせに!」
女は顔を歪めた。
「だから、打ち抜いてやったのよ……。うちの刀を打ってくれている刀鍛冶がつくった釘で、藁人形の胸を何度も何度も何度も!! まぁ、実際にあの男を殺してくれたのはあなただし、丑の刻まいりもあなたが書いてくれた筋書きのとおりにやっただけだけど、あれは本当に素敵だったわ。ありがとう」
女は男を見上げて微笑んだ。
「いえいえ、どういたしまして」
男は女に背を向けると、片手を上げた。
「それじゃあ、俺はこれで失礼するよ。あとは死ぬなりなんなり、好きにしな」
「ええ、これであの世にいるお父様にも顔向けできるわ」
男は手を振ると、襖を開けて部屋を後にした。
女は涙を拭き、刀を慎重に畳の上に置くと、立ち上がって机に向かった。
「ふん、ふふん、ふん」
鼻歌交じりに遺書を書きながら、女は満足げに微笑んでいた。
翌朝、石川清が遺体で発見された。
直次の遺体が見つかったのと同じ庭の木に首を吊って死んでいるところを奉公人が見つけたという。
清の部屋には遺書が残されており、そこには直次への愛が綴られていた。
遺書があったことや奉公人の話しから、清の死は直次の後を追っての自殺ということで処理された。