「な!? ど、どうされたんですか? 玉屋さん…」
いずみ屋の楼主は引きつった顔で見世先に出た。
「いやぁ、先日のお詫びをしようと思いましてな」
玉屋の楼主がにこやかに微笑んだ。
隣にいる咲耶もいずみ屋の楼主を見て微笑む。
「ええ、うちの文使いがご迷惑をかけましたから、きちんとお詫びしなければと思いまして。ご迷惑でしたか?」
いずみ屋は顔を一層引きつらせながら笑顔をつくった。
「そ、そんなとんでもない!」
(迷惑だなんて言われるわけないだろう……!)
咲耶と玉屋の楼主の登場で、いずみ屋の見世先には人が集まり始めていた。
(おいおい、一体何しに来たんだよ……)
昼見世を終えて人が少ない時間とはいえ、咲耶も玉屋の楼主もひと目を引くためこのまま見世の前で話し続けるのはできれば避けたかった。
「ま、まぁ、とにかく見世に入ってください。お、お茶くらい出しますから」
その言葉を聞いて咲耶が満足げに微笑む。
「突然お伺いしたのに、申し訳ありません。では、お言葉に甘えて」
「いやぁ、やはりいずみ屋さんは器が違いますなぁ」
二人は笑い合いながら、いずみ屋の楼主が案内するより先に、いずみ屋に入っていく。
呆然と二人を見送ったいずみ屋の楼主はハッと我に返ると、頭を抱えた。
(くそっ! いずみ屋に入るのが狙いだったのか!)
いずみ屋の楼主は慌てて、二人の後を追った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「さ、咲耶ちゃん!?」
いずみ屋に入ると、襟元から豊満な胸がのぞく遊女が咲耶を見て頬を染めた。
咲耶はゆっくりと微笑んで、頭を下げる。
「ご無沙汰しております。露草太夫」
「また一段と綺麗になって……」
露草は瞳を潤ませながら咲耶に近づく。
甘い香りとともに色気まで辺り一面に広がった。
「露草太夫も相変わらずお美しいですな」
玉屋の楼主が露草を見て言った。
その声でようやく楼主の存在に気づいた露草は慌てて頭を下げる。
「私としたことが失礼いたしました。ご無沙汰しております、楼主様」
露草は妖艶な微笑みで楼主に語りかける。
「本日はどのようなご用でしたか?」
「先日うちの文使いがご迷惑をおかけしたお詫びをしに伺いました。私は外でいずみ屋さんと話しますから、よかったらうちの咲耶のお相手をお願いできませんか?」
玉屋の楼主がそう言うと、営業用の微笑みを浮かべていた露草の頬が赤く染まる。
「私が、咲耶ちゃ……咲耶太夫のお相手を……?」
「ええ、同じ太夫として咲耶も話したいことがあるでしょうから。どうでしょうか? お願いできますか?」
「はい! 喜んで!」
露草は胸の前で手を組んで言った。
玉屋の楼主は露草に礼を言うと咲耶を見た。
「咲耶、勉強させていただきなさい」
咲耶は微笑んで頷くと、露草を見つめた。
「よろしくお願いいたします」
「こちらこそ!」
そのとき、いずみ屋の楼主が三人に近づいてくるのが足音でわかった。
「ああ、待ってましたよ。いずみ屋さん!」
勢いよく玉屋の楼主が振り返る。
「へ……?」
ふいに声をかけられ、いずみ屋の楼主は戸惑っていた。
「ちょっと二人で話したいことがありましてね」
「……話したいこと?」
玉屋の楼主はいずみ屋の楼主にそっと耳打ちをする。
「な!?」
いずみ屋の楼主の顔がみるみる青ざめていく。
「ど、どうして……」
玉屋の楼主は怪しく微笑む。
「さぁ、ちょっと見世の外で話しましょうか?」
「……は、はい」
玉屋の楼主は、うなだれたいずみ屋の楼主を連れて再び見世の外に出ていった。
「……さすがねぇ、玉屋の楼主様は」
露草は目を丸くした。
「ふふ、若く見えるだけで長く生きてますからね」
咲耶は微笑んだ。
「まぁ、二人のことは放っておいて、私たちもお話ししましょうか!」
「ええ、ぜひお願いいたします」
二人は顔を見合わせて微笑むと、いずみ屋の二階へと上がっていった。
咲耶は露草の部屋に入ると、用意された座布団の上に腰を下ろした。
基本的な部屋のつくりは咲耶の部屋と変わらなかったが、咲耶が下座に座ることは珍しく少し新鮮な感覚だった。
露草は咲耶の向かいに腰を下ろし、うっとりとした表情で咲耶を見る。
「自分以外の太夫の部屋に入るのは初めてなので、なんだか新鮮です」
咲耶は微笑んで、素直な感想を口にした。
「初めて……」
露草は頬を赤く染める。
「そ、そうよね。ふふふ、私も太夫を部屋に入れるのは咲耶ちゃんが初めてよ」
露草は片手を頬にあてて、うっとりとした口調で言った。
「私の部屋にも今度ぜひ……と言いたいところですが……」
咲耶はそこで言葉を切った。
露草が不思議そうに咲耶を見る。
「お忙しいですよね、きっと。……身請けのお話、受けられると伺いました」
露草は目を丸くする。
「耳が早いのね! さすが玉屋さん」
露草は微笑んで、咲耶を見つめる。
「私もいい年だから。ここらへんでね。……若い子も育ってきているから、道を譲らないと」
「寂しくなりますね……」
「寂しい……?」
露草は目を潤ませる。
「寂しいと思ってくれるの?」
「もちろんです。いずみ屋の遊女たちの想いには敵わないかもしれませんけどね」
「咲耶ちゃん……、抱きしめたい……」
露草は口元を両手で覆った。
「ふふふ、この吉原で露草太夫ほど色気と可愛らしさと賢さを備えた遊女はほかにいませんから。尊敬する太夫がいなくなるのは寂しいです」
これは咲耶の本音だった。
露草は咲耶の言葉に一度目を見開いてから、静かにフッと微笑む。
「賢いなんて言ってくれるのは咲耶ちゃんくらいよ」
「見世を見れば、露草太夫がどれほど賢いかなんてすぐわかります」
咲耶は目を閉じた。
「いずみ屋の遊女は、教育が行き届いていますし、皆明るくて生き生きしています。玉屋とは雰囲気が違いますが、私はいずみ屋の空気も好きなんです。そうした空気をつくってきたのが露草太夫ですから」
「買いかぶり過ぎだけど……そう言ってもらえて嬉しいわ」
露草はにっこりと微笑む。
「私、ここの妓たちが大好きなの。だから、ここを離れるのは寂しいし、少し心配……」
露草は目を伏せた後、真っすぐに咲耶を見た。
「さて、そろそろ本題に入りましょうか? 私に聞きたいことがあるのでしょう?」
「はい」
咲耶はしっかりと露草の目を見て頷いた。
「なんでも聞いて。だいたい予想はできているけど……」
「おそらく予想通りのことだと思いますが……、夕里という遊女の指が直次様に送られた件、送った遊女に心当たりはありませんか?」
露草は目を丸くする。
「予想通りだけど、ずいぶん直球な質問ねぇ」
「露草太夫を相手に変な言い回しをしたところで意味がありませんから」
「咲耶ちゃん……、そういうところ……好き」
「光栄です」
咲耶は微笑んだ。
「心当たりは……あるわ」
露草は少し表情を曇らせた。
「たぶん野風の仕業」
「野風……ですか」
「まだ若い子だから、たぶん咲耶ちゃんは知らないわ。野風は夕里のことを慕っていたから……。それに勘違いもしていた」
「勘違いですか?」
露草はゆっくりと頷く。
「そしてその勘違いを夕里はそのままにしたの。野風のことを想ってね」
咲耶は何も言わずに、露草の言葉を待った。
「口にする言葉がすべて本当ではないし、口にしたときは本当でもやがて嘘になることもある。人の心は複雑よね……。野風はね、言葉通りにすべてを受け取る子なの。私が心配していることのひとつよ」
露草は苦笑する。
「それに、これは私にも責任があるけど……、ちょっと良くない男が野風の客になったの。夕里が亡くなってから野風の落ち込み方はひどかったけど、あの男が来てから野風の様子が変わったから……」
「どんな男ですか?」
「ちょっとひと山当てた商売人ってことだったけど、本当かどうかはわからないわ……。背は少し高めで……顔にはあまり特徴がなくて……首の左側にほくろがあったかな……」
咲耶は少し考えたが、思い当たる人物はいなかった。
(その男が今回の件を仕組んでいる可能性は高いな……)
「今度咲耶ちゃんが野風と話せるように、私から言っておくわ」
露草は咲耶を見つめる。
「うちの妓が迷惑をかけて本当にごめんなさい」
露草は頭を下げた。
「そんな、頭を上げてください。理由があってのことでしょうし」
「どんな理由があってもあんなことをするのはよくないわ。しかも勘違いなの……」
「どんな勘違いなのか伺っても?」
「……ええ」
露草は目を伏せると、懐かしむように野風と夕里について話し始めた。
「姐さん、その花は?」
夕里の部屋に入ってきた野風は、鏡台の上にある一輪の花を見て言った。
「ああ、これ?」
鏡台に向かって化粧をしていた夕里は、鏡越しに野風を見る。
「桜草よ」
「姐さんが摘んできたの?」
「まぁ、そんなところね」
「姐さん、こういう花が好きなの?」
「素朴で可愛いじゃない? ……どうしたの? 花に興味持つなんて」
夕里は手を止めて野風を振り返った。
「いや、俺が前に住んでたところにたくさん生えてた花だから……」
夕里は微笑んだ。
「そうなの……。ところで俺って何なの? もう客もついてるんだから、言葉遣い気をつけなさい」
「なんだよ……。姐さんの前くらいいいだろう?」
「ダメよ! 野風はすぐ油断するから。普段の話し方から直しておかないと」
「は~い……」
野風は拗ねたような顔でうつむいた。
夕里は野風の様子に微笑む。
(まだまだ子どもね)
「ところで、何か用があって部屋に来たんじゃないの?」
「あ、そうだ! 忘れるところだった! 呉服屋が来たよ。姐さんが頼んでた着物を持ってきたって」
「あら、もうできたの? 仕事が早いのね。すぐ行くわ」
夕里は急いで残りの化粧を終えると、野風とともに部屋を出た。
二人が一階に着くと、呉服屋と話す露草の姿があった。
「露草太夫も着物を新調されたんですか?」
夕里の言葉に露草が振り返る。
「あら、夕里も? そろそろ夏だから。夏らしい柄に変えようと思って」
露草は微笑んで、呉服屋から受け取った着物を見せた。
そこには真っ青な空を飛ぶ鷹の絵が描かれていた。
「な、夏らしくていいですね」
「え、これ夏らしいの?」
不思議そうに呟く野風の脇腹を夕里が軽くつねる。
「痛っ。なんで……」
「いいのよ、露草太夫はこういうのが似合うんだから」
夕里は声をひそめて野風に言った。
野風は涙目で夕里を見る。
「夕里はどんな着物にしたの?」
露草がのんびりとした口調で聞いた。
呉服屋が慌てて夕里の着物を風呂敷から出して、畳紙を開いて着物を取り出す。
鮮やかな緑に染められた着物には無数の桃色の花が描かれていた。
「桜? ちょっと時期外れなんじゃ……」
野風が着物を手に取りながら呟く。
「いいのよ」
夕里は野風から着物を受け取ると、すばやく着物を羽織った。
「うん、ちょうど良さそうね……。呉服屋さん、ありがとう」
夕里の言葉に呉服屋はホッとしたように微笑んだ。
露草はじっと夕里の着物を見つめていたが、しばらくするとそっと目を閉じて微笑んだ。
「ふふふ、可愛いわね……」
露草はそう言うと自分の着物を持って、二人に背を向ける。
「大事にしなさいね」
露草はそれだけ言って二階の部屋へと戻っていった。
「はい……」
夕里は野風にも聞こえないほど小さな声でそっと呟いた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「玉屋の太夫が身請けされるって!」
翌朝、遅めの朝食をとりながら、遊女のひとりが口を開いた。
「え!? 本当に!? ついにかぁ。まぁ、玉屋は咲耶って子がすごい勢いだからね。太夫の後を継げる子もいるし、楼主が年も考えて許したんじゃない?」
「身請けかぁ。ちょっと夢があるわよねぇ」
「あんたじゃ無理でしょ?」
遊女たちが笑う。
「うるさい! 夢くらい見たっていいでしょ?」
遊女が頬を膨らませた。
「現実的なのは夕里くらいじゃない? あんたこのあいだ、身請けしたいって言われてたでしょ? 私、見てたんだから」
「え!? 本当なの!? 羨ましい……」
遊女たちからの視線を受けて、夕里がたじろぐ。
「え、ああ……うん……」
「いいなぁ、私も言われてみたい!」
「でも、言ってるだけだから」
夕里は苦笑する。
「え~、誰なの? 言ってたのは!」
「あれよ、あれ、直次様だっけ」
「ああ、お武家様の?」
「いいじゃない!」
夕里は遊女たちの言葉を聞きながら、ただ苦笑していた。
「私は身請けじゃなくていいのよ」
遊女たちの言葉をひと通り聞き終えた夕里が言った。
「どういうこと?」
「私は年季明けに商売がしたいの。今は武家より商家の時代よ! 商売がうまくいったらお婿さんをもらうの!」
夕里はそう口にすると、身請け話から浮かない顔をしていた野風に向かって微笑んだ。
「あんたも年季が明けたら、私のところに来ればいいのよ」
「え?」
野風は目を丸くする。
「あんたはこのままだと身請けなんて無理だからね! 私が面倒見てあげる」
夕里は意地悪く微笑んだ。
「な!? だ、誰が行くか!」
野風は怒りながらも、どこかホッとした表情を浮かべていた。
野風の様子を見て、夕里は微笑む。
「本当にまだまだ子どもなんだから」
夕里はそう小さく呟くと、嬉しそうに野風の頭をなでた。
「気持ちは理解できます」
露草の話を聞き終えると、咲耶は目を伏せて静かに言った。
「ただ、結果として夕里という遊女の名を汚してしまった……。やはり今回の件はするべきではなかったと思います」
咲耶の言葉を受けて露草も頷く。
「野風ももうわかっていると思うわ。まぁ、これからどうすればいいのかがわからないのでしょうけど……」
露草は悲し気に微笑んだ。
「今日は本当にありがとうございました。このお礼はいずれ必ず」
咲耶は露草に頭を下げた。
「いいのよ! そもそもこちらが迷惑をかけたんだから! それに咲耶ちゃんと会えたことが、私にとって一番のご褒美よ!」
露草は咲耶をうっとりと見つめる。
咲耶は微笑んだ。
「露草太夫は本当に素敵ですね。情が深くて、器が大きくて、それでいて可愛らしさがあって……。私はこの通り、可愛げがないので本当に見習わなくては……」
咲耶は自嘲した。
露草はポカンとした表情で咲耶を見る。
「露草太夫?」
「あ、いえ、なんでもないの!」
露草は慌てて首を振る。
「それでは、私はこのあたりで。いずみ屋の楼主様も心配されているでしょうし」
「そうね。見世の入り口まで送るわ」
二人は立ち上がると、露草の部屋を出た。
廊下に出ると、遊女たちが一斉にそそくさと動き出す気配を感じた。
(聞き耳でも立ててたのかしら……。まったく……)
露草は遊女たちを横目で見ながら微笑んだ。
二人で一階へ降りると、いずみ屋の楼主と玉屋の楼主は二人並んで入り口に立っていた。
玉屋の楼主が咲耶と露草に気づき微笑む。
「咲耶、勉強になったかい?」
「はい。いろいろとお教えいただきました」
咲耶も微笑む。
「そうか。それでは、我々はこれで」
玉屋の楼主は露草に向かって頭を下げた。
「いずみ屋さん、それではまた」
玉屋の楼主は意味深な笑みを浮かべる。
「え、ええ、また」
いずみ屋の楼主は青ざめたまま、引きつった笑みで応えた。
玉屋の二人は笑顔で一礼するといずみ屋を後にした。
二人の姿が見えなくなると、いずみ屋の楼主はその場にしゃがみ込んだ。
「あらあら、大丈夫?」
露草は苦笑する。
「大丈夫に見えるのか……?」
いずみ屋の楼主は青い顔のまま露草を見上げる。
「ふふふ、大丈夫じゃなさそうね」
露草はおかしそうに笑った。
「まぁ、でも玉屋さんだもの。悪いようにはしないわよ、きっと」
露草はそう言うと、いずみ屋の楼主に手を差し出す。
「どうだか……」
いずみ屋の楼主はうなだれながら、露草の手を取って立ち上がった。
「まぁ、そんなことより……」
露草はいずみ屋の楼主の目をじっと見つめる。
「な、なんだ……?」
「咲耶ちゃんの姿絵買ってきて」
「はぁ!? このあいだ買ってきたばかりだろ!? それに何より今、本物に会っただろうが!」
「また一段と綺麗になってたの……。きっと新しい姿絵も出ているに違いないわ」
露草の目は真剣だった。
「おいおい……。玉屋の太夫の姿絵なんて集めてどうするんだよ……。おまえのだって出てるんだから、自分のでも買って飾れよ……」
「あんな卑猥なものいるか!」
露草はいずみ屋の楼主に詰め寄る。
「ひ、卑猥って自分の絵を……」
「あんなのと一緒にするんじゃない! 咲耶ちゃんは汚れなき天上人なのよ! 咲耶ちゃんの姿絵は宗教画と同じ領域なんだから! 神や仏のように壁に飾って崇めるものなの!」
「同じ太夫なのに……」
いずみ屋の楼主は露草の勢いに押されてのけぞる。
「今日は咲耶ちゃんとお話しできた記念すべき日なの! この記念に一枚買って!」
「わ、わかったから! もうそれ以上近づくな!」
「買ってきてくれるのね!」
露草は満足げに微笑むと、後ろに一歩下がった。
「まったく何がそんなにいいんだが……」
いずみ屋の楼主は息を吐き小さく呟いたが、その声は露草には届いていなかった。
「咲耶ちゃんがねぇ、私のこと素敵だって……。それに、自分のこと可愛げがないって言ったのよ! 信じられる!?」
露草は遠くを見つめて頬を赤くする。
「可愛い!! 可愛いしかない!! なんて尊いの!? 思わずひざまずきそうになっちゃったぁ!」
露草は口元を両手で覆い、身をよじる。
「お、おい! そんなことしてないだろうな!?」
いずみ屋の楼主が慌てる。
「するわけないじゃない! 咲耶ちゃんに変な目で見られちゃう! まぁ、そんな目で見られるのもまたいいけど……。ふふふ」
露草はうっとりとした表情でまた遠くを見つめる。
いずみ屋の楼主はそんな露草の様子をしばらく呆然と見つめ続けた後、再び力なくしゃがみ込んだ。
「うちの太夫は変態だ……」
いずみ屋の楼主は頭を抱えた。
「また最近麻疹が流行り始めてるそうだよ……」
「え!? また!? どうりで最近客が減ったと思った……」
「私たちも気をつけないとね……」
遅い朝食をとりながら、遊女は皆ため息をもらした。
「はしか……?」
野風が不思議そうに夕里を見た。
「そういう流行り病があるのよ。最初は風邪みたいな症状なんだけど、かかると高熱が出て死ぬことも多いの。熱が出た後に赤い小さい発疹が全身にできるんだけど、うつりやすい病気だから、そういう発疹があるお客がいたら気をつけるんだよ」
「赤い発疹……? それなら俺、かかったことあるかも。小さい頃だけど……全身に赤いブツブツができるやつだろ?」
「ああ、そうなの? それなら野風は心配ないわね」
夕里は微笑んだ。
「麻疹は一度かかると、二度とかからないらしいから」
「そうなの?」
「う~ん、私もくわしくはわからないけど、そうみたいよ」
「そうなのか……。姐さんはかかったことないの?」
野風は不安げな顔で夕里を見た。
「私はないのよ。だから、気をつけないとね」
夕里は野風を見て微笑んだ。
「何? 私のこと心配してくれるの? もうすっかり大人になったのねぇ」
「な!? 子ども扱いするなよ! 心配ぐらいするよ! 姐さんのことなんだから……」
野風は顔を赤くして、拗ねたように夕里から目をそらした。
(本当に可愛いわね……)
夕里は小さく微笑んだ。
「そ、そんなことより、客が来ないと困るんじゃないのか?」
野風は話題を変える。
「そうね……。今はまだそこまで広がっていないみたいだから、来てくれているお客もいるけど……、今よりひどくなったら厳しいわね……」
「みんな薄情なんだな……」
野風が低い声で呟く。
「え……?」
「姐さんは客に夢を見せるのが仕事だって言って客のこと大事にしてるのに、客は夢だけ見て、病が流行ったら来なくなるんだろう? 薄情だよ……。本当に俺たちのこと想ってたら心配して来るのが普通だろ? 姐さんのこと身請けしたいって言ってたやつだって、どうせ口先だけで来なくなるに決まってる! 姐さんはどうしてそんなやつら大事にするの?」
「野風……」
野風の言葉に、夕里はかける言葉が見つからなかった。
病が流行れば客足は遠くのが普通で、遊女を心配して客が来ることなど滅多になかった。
「そんなお客ばかりじゃないのよ……」
夕里はなんとかそれだけ口にした。
野風が疑うようなまなざしを夕里に向ける。
夕里は苦笑いすることしかできなかった。
朝食を終えた夕里は自分の部屋に戻ると、小さくため息をついた。
(どうしたものかしら……)
野風はいまだにお客を信用していなかった。
それはお客にのめり込み過ぎないという意味ではよかったが、素直な性格ゆえにそれが言葉や態度に出てしまうことは問題だった。
だからこそ、客足が遠のくことでお客はみんな薄情だと思い込むことだけはなんとしても避けたかった。
夕里は再びため息をつくと、鏡台の引き出しから硯箱を取り出した。
硯に水を入れ、墨をする。
(野風はときどき鋭いこと言うのよね……)
夕里は苦笑した。
直次の身請け話が口先だけなのは、夕里が一番よくわかっていた。
(ああいう男は、遊女にちやほやされるのが好きなだけだから……。病なんて流行ったら真っ先に来なくなるのよね……。別にもう来なくてもいいと思ってたけど、そうもいかなくなっちゃったな……)
夕里は墨を置くと、紙を広げた。
筆を手に取り、筆先を墨に浸す。
「え~と、何から書こうかな……。『桜が散って、新緑が美しい季節となりましたね』と……」
夕里は思いつくままに紙に筆を走らせた。
「うん、こんなものかな! どうでもいい相手にだと、すらすら書けるわね」
夕里は手紙を両手で持ち、ひとり頷いた。
「あとは仕上げに……」
夕里は手紙を机に置き、引き出しから小刀を出すと、髪をひと房だけ手に取って切った。
「最近傷んでたからちょうどいいわ。傷んだ髪でもあの男ならわからないでしょうし……」
夕里は小刀をしまうと、いらなくなった布を取り出し髪を丁寧に包んだ。
「これだけ想われていると勘違いすれば、あの男もまだしばらくは見世に来るでしょう!」
夕里は満足げに微笑んだ。
引手茶屋までの道中を終えた咲耶が案内された座敷に上がると、色とりどりの反物が座敷いっぱいに広げられていた。
三味線や踊りを披露している芸者たち以外は、反物を手に取り目を輝かせている。
「おお、咲耶ちゃん! 待ってたよぉ」
上座で恰幅の良い男が満面の笑みで咲耶に手を振る。
「喜一郎様」
咲耶も満面の笑顔で手を振り返すと、反物を踏まないように足元に気をつけながら、喜一郎のもとに向かう。
「みんなに新作の反物を見てもらってたんだ。意見を聞こうと思ってね。気に入ったものがあったら、それで着物仕立てるから言ってね。みんなにもそう言ってあるから」
喜一郎はにこにこしながら咲耶に言った。
「いつもありがとうございます、喜一郎様」
咲耶は喜一郎の隣に腰を下ろす。
「気になるのはあるかい?」
喜一郎は咲耶をじっと見て聞いた。
「そうですね……」
咲耶は座敷の反物をひとつずつ見ていく。
これから夏になるにつれて好まれる青や緑の反物が多く広げられていた。
咲耶はその中のひとつに目を留めた。
「あの白い反物……金魚の柄がとても綺麗ですね。尾ひれが見たことのない形です」
その反物には、尾ひれの長い赤い金魚が描かれていた。
白地に金魚だけでは少し物足りないが、薄い青の波紋が印象的に描かれており、色とりどりの反物の中でも品の良さが際立っていた。
「さすが咲耶ちゃんだね! 新しい種類の金魚らしいよぉ」
「そうなんですね。最近は町に金魚を売りに行く金魚売も出てきたと聞きますから、きっと流行りますよ、この絵柄」
咲耶は喜一郎を見て微笑む。
「私も打掛に仕立てていただければ、道中のときに着てお披露目いたします」
喜一郎は苦笑する。
「ただの贈り物ってことにして、株をあげたかったのになぁ」
喜一郎は困ったような表情で頭を掻いた。
「咲耶ちゃんには敵わないよ」
「いえいえ、喜一郎様が商売上手なのはわかっておりますから。商売のお役に立てるなら光栄です」
喜一郎は江戸で最も力のある豪商のひとりだった。
呉服を主として店を大きくしてきたが、最近では海運業にも手を出しているという噂もある。
恰幅のいい体型と人の好さそうな顔で一見おっとりとして見えるが、一代で店を大きくし、四十半ばで江戸一番の豪商といわれるまでに登り詰めた手腕は並大抵のものではなかった。
「いつもありがとう、咲耶ちゃん」
「いえ、とんでもございません」
咲耶はにっこりと微笑んだ。
喜一郎は咲耶の言葉に微笑むと、目の前にある酒杯に口をつける。
「ところで話しは変わるけど、玉屋は大丈夫なの?」
咲耶は喜一郎を見つめる。
「大丈夫……とは?」
「見世に同心が来たって聞いたよ。しかも、あれだろう? 疑われたのはうちに手紙を持ってきてくれてる文使いって聞いたから」
(さすが……耳が早い……)
咲耶はどのように話すか少し悩んだ。
「あ、勘違いしないでよ! 疑ってるわけじゃないからね! 本当に心配で聞いただけ!」
咲耶はホッとして小さく息を吐いた。
「そもそも死んだのは、石川様だろう? どこで恨みを買っていても不思議じゃないし」
「直次様をご存じなのですか?」
咲耶は喜一郎を見つめる。
「うちの店を贔屓にしていただいてたからね、先代に」
喜一郎は遠くを見つめるように言った。
「あいつになってからはダメだね。褒めればすぐ舞い上がって何でも買うからお客としてはいいけど、あのままだったら家がダメになってたよ。娘さんもなんであいつが良かったんだか……」
「奥方ともお知り合いなのですか?」
「ん? ……ああ! むしろ娘さんの方が先! 娘さんって呼んでるのは先代の娘だからなんだ。あいつは婿養子なんだよ」
「そうなんですね……」
「先代が亡くなってから、一気に金遣いが荒くなってね。いずみ屋に通ってるのは有名だったけど、最近は岡場所の女に入れあげてたみたいだから、金は減る一方で……。あいつこそ、金魚でも売りに行くべきだったんだ」
咲耶は目を伏せた。
(やはり直次様が死んだのは夕里とは関係なさそうだな……)
咲耶が露草との話を思い返していると、咲耶の返事がないことに気づいた喜一郎が慌てたように口を開いた。
「あ、ごめんね! つまらないこと話して!」
「あ、いえ、そんな! 私こそつい物思いにふけってしまって、すみません……」
咲耶は喜一郎を見て微笑んだ。
「喜一郎様、もう一杯いかがですか?」
咲耶は酒の入った銚子を手に取った。
「いただくよ」
喜一郎もにっこりと微笑んで、酒杯を手に取る。
酒を注ぎながら、咲耶はまた別のことを考えていた。
(信に頼んだ丑の刻まいりの方でも何かわかるといいが……)
咲耶はゆっくりと息を吐く。
(まぁ、そううまくはいかないか……)
咲耶は目を閉じる。
今は目の前のお客に集中することにした。
(もう帰ってくれないかな……)
夕里は見世の入り口で直次に微笑んでいたが、心の中では舌打ちをしたい気分だった。
見世に朝日が差し込んでおり、お客のほとんどはすでに帰っていた。
「離れがたいな……、夕里……」
直次がもう何度目かわからない言葉を口にする。
「私もです……。けれど、直次様の帰りを待っている方がいらっしゃるでしょうから、私がこれ以上引き留めするわけにはまいりません……。さぁ、大門までお送りしますから」
夕里が大門に促そうとするが、直次は一向に動く気配がなかった。
(何がしたいんだろう……)
夕里は自分の顔が引きつっていくのを感じた。
「手紙を読んで、改めて自分の気持ちに気づいたんだ……。ずっと一緒いよう! 俺が夕里を身請けするから!」
直次は夕里の手をとり、顔を近づける。
「い、いえ、身請けは直次様の負担になってしまいますから……」
夕里は身を反らして、できる限り直次から距離をとる。
「年季明けまでいずみ屋で働くと決めているんです」
夕里がそう口にしたところで、大門へお客を見送りに行っていた野風が見世に戻ってくるのが見えた。
(あ、気づかれるかも……)
夕里がそう思うのとほぼ同時に、野風は夕里と直次に気づいた。
「そうなのか……。それなら年季が明けたら一緒になろう!」
直次がひと際大きな声で夕里に言った。
夕里は目を丸くする。
(ちょっ……、また野風が誤解するようなことを……)
「いえいえ、直次様には奥方がいらっしゃるではないですか。私のようなものは直次様にはつり合いませんから。ここでお会いできるだけで十分です。また近いうちに会いに来てください。お待ちしておりますから」
夕里は早口でそう言うと、握られている手とは反対の手で直次の背中を押し、強引に見世の外に誘導した。
「離れがたいな……、夕里……」
直次が再び同じことを言う。
「私もです」
夕里は寂し気な表情をつくって応えた。
(これ、あと何回やるんだろう……)
同じことを何度も繰り返し、なんとか直次を大門まで連れていった夕里は、直次が大門を出て姿が見えなくなると、ゆっくりとその場にしゃがみこんだ。
「疲れた……」
夕里は呟く。
「手紙に髪まで添えたのはやり過ぎだったかな……」
夕里の予想通り、直次は手紙を受け取ってすぐ見世にやってきた。
自分が愛されているとわかって舞い上がっているようだったので、まだ何回か見世には来るだろう、と夕里は確信した。
しかし、思っていた以上に対応に困るやりとりが増えたことに夕里は少しうんざりしていた。
「一緒になるなんて、本当はみじんも考えてないくせに……」
直次が婿養子であることは、夕里も直次と話しをする中で知っていた。
婿養子の身で、奥方がいる中遊女を身請けするのはかなり難しいことだろう。
(しかも、私のことが好きなわけじゃないのよね……、きっと。大見世の売れっ妓に愛されている自分が好きなだけで……)
夕里はため息をつき、ゆっくりと立ち上がった。
「愛ってなんなのかしらね……」
夕里はひとり呟くと、いずみ屋に戻っていった。
夕里がいずみ屋に戻ると、野風がなんとも言えない顔で夕里を見た。
夕里は野風に微笑む。
「ほら、直次様は来てくださったでしょう? 病が流行っても来てくださる方はいるのよ」
野風は目を伏せる。
「うん……。そうだね……」
夕里はホッと胸をなでおろす。
(それを伝えるためだけに、直次様に手紙を出したんだから……)
「姐さんは……あいつが好きなの……?」
「え!?」
夕里はたじろぐ。
(好きじゃない……とは言いにくい雰囲気よね……)
「す、好きよ……。一緒になろうとまで言ってくれるお客だもの……」
夕里は引きつった笑顔を浮かべながら、なんとかそう口にした。
「そうか……。姐さんがそれで幸せなら、俺もそれでいいよ……」
野風は寂しそうに微笑んだ。
(なんだかすごい誤解をしているような……。でも、遊女も客と幸せになれるって思ってもらえるのは悪いことじゃないから……。まぁ、いいのかしら……)
夕里は野風の頭をそっとなでた。
いつもは嫌がる野風が今日はなぜかされるがままにじっとしている。
(可愛い野風……どうかこの子に幸せな出会いがありますように……)
夕里は祈るように、そっと目を閉じた。
咲耶の部屋に集まった翌日、吉原の大門の前で叡正は信を待っていた。
まだ昼前ということもあり、大門の前はひっそりとしている。
(今さら見ても何もわからない気がするが……)
叡正は信を待ちながら、ぼんやりと考えていた。
丑の刻まいりに使われた藁人形も釘も縁起が悪いということで、すでに片付けられている。
丑の刻まいりを見たのも叡正ひとりで、怪しい人間を見たものすらいなかった。
(新しく何かが見つかるってこともないだろうしな……)
叡正はため息をつく。
「悪い。待たせたか?」
信が叡正を見つけて声をかける。
「いや、大丈夫だ」
叡正は簡単に答えると、寺に向かって歩き始める。
信も叡正の後に続いた。
二人はただ無言で寺へと歩く。
(き、気まずい……)
叡正はなるべく背後を気にしないようにしていたが、それほど親しくない二人が一緒に歩くには寺への道のりは長すぎた。
「そ、そういえば、咲耶太夫とはどうやって知り合ったんだ?」
叡正が気まずさに耐え切れず振り返って聞いた。
信が視線を上げて叡正を見る。
「ああ、助けてもらったんだ」
「助けてもらった……? ああ! おまえも誰か探していたのか?」
叡正は信も自分と同じだったのかと、目を丸くする。
「いや、死にかけていたところを助けてもらったんだ」
「死にかけて……?」
(これ、聞かない方がいい話しなのか……)
叡正は自分の顔が引きつるのを感じた。
「そ、そうだ! か、家族…兄弟とかはいるのか? 珍しい髪と目の色だから家族もそうなのかなぁと……」
叡正は慌てて話題を変える。
「ああ、姉さんがいた。姉さんも俺と同じ色だ」
「そ、そう……なのか……」
(いたっていうのは、もういないってことか……?)
叡正は顔色を悪くする。
「な、仲は良かったのか? きょ、兄弟だと小さい頃は一緒に遊んだりするだろう……?」
「そうなのか? 仲は良かったと思うが、姉さんは目が見えなかったから一緒に何かすることはあまりなかった」
「そ、そうか……目が……」
叡正の顔が一層引きつった。
(なんだ!? 俺は聞いてはいけないことばかり聞いているのか……??)
「じゃ、じゃあ、ひとりで外で遊んだりしてたのか……?」
「ああ、外……。確かにみんな寝静まった頃に小屋を抜け出して、バッタやコオロギを捕まえて食べてたな……。ん? どうした?」
真っ青になっている叡正の顔を見て、信が聞いた。
「な、なんでもない……。俺は本当にダメな男なんだ……。許してくれ」
叡正は前を向いて両手で顔を覆った。
信は不思議そうに叡正を見る。
「そんなことはないと思うが……。前は見て歩いた方がいい」
「ああ、すまない……」
叡正は顔を覆っていた両手を下ろした。
二人はそこから寺に着くまで、ひと言も話すことはなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
寺に着くと、叡正と信はすぐに丑の刻まいりが行なわれていた場所に向かった。
昼間ということもあり、灯りがなくても足元は十分に見えたが、生い茂った木々の陰になって道は薄暗く、奥に進めば進むほどどこか不気味な雰囲気が漂っていた。
「ここだ」
叡正が釘のあとを確認すると、一本の木に触れながら言った。
信はその場にしゃがんだ。
木の周りの草をかき分けて何か残されていないか確認する。
そのとき木から少し離れた草むらで何かが光った。
信がゆっくりと近づくと、そこにはくの字に折れ曲がった釘が落ちていた。
信は釘を手に取ると、じっくりと見つめる。
「何かあったのか?」
叡正は信に駆け寄った。
「五寸釘か……?」
「ああ」
信が釘を叡正に渡すと、辺りを見回した。
遠くで何かが動く気配がした。
「おまえはここにいろ」
信は叡正にそう言うと、足音を消して気配のした方に走り出す。
「え!? ……ああ」
叡正が返事をするより早く、信は叡正の視界から消えた。
信は気配を感じた場所に着くと辺りを見回す。
木が多く視界がいいとはいえなかったが、そこにあった気配は完全に消えていた。
「いなくなった……か」
信はもう一度だけ辺りを見回し、何もないことを確認すると叡正のもとに戻った。
「どうした? ……誰かいたのか?」
叡正が信を見て聞いた。
「ああ」
信は叡正の手にある釘を見つめる。
「思っていたより厄介なのかもしれないな……」
信は小さく呟いた。
「最近の野風、調子いいみたいね」
朝食を食べながら、遊女のひとりが夕里に言った。
「うん、そうね……。お客は増えてるみたい。なんだか急に大人びちゃって、私としてはちょっと心配でもあるんだけど……」
夕里は目を伏せた。
「まぁ、子はいつか巣立つんだから、ちゃんと子離れしなさいよ」
遊女の言葉に夕里は苦笑する。
(私が野風に依存してちゃダメよね……)
ここ二年で野風は周りが目を見張るほど成長していた。
言葉遣いはもちろん、体つきも女性らしくなり、所作にも品が出てきている。
成長に比例するようにお客もつき、もう少しで部屋持ちになれるのではないかというところまできていた。
(野風が頑張ってるのに、私が寂しがるなんておかしいわね)
夕里はもう一度苦笑すると、お茶の入った湯飲みに手を伸ばす。
「そういえば、野風は? まだ姿が見えないけど」
遊女が夕里に聞いた。
「ああ、まだ寝てるんじゃないかしら? お客を見送ったのも遅かったみたいだから」
夕里はそう答えると、お茶に口をつけた。
ゆっくりとお茶を喉に流し込む。
ここ数日、夕里は喉に違和感を覚えていた。
(風邪か……。お客にも嫌がられるし、早く治さないと……)
夕里がお茶を飲み干すのとほぼ同時に、二階から野風が下りてくるのが目に入った。
「あ、野風! ちょうどあんたのこと話してたのよ! 最近調子いいみたいね!」
夕里と話していた遊女は野風に声をかける。
「え、まぁ……、姐さんたちに比べたらまだまだですけど」
野風は眠そうな目をこすりながら、夕里たちのところに来た。
「こっちおいで、野風」
夕里は手招きして、自分の隣に呼ぶ。
「ありがとうございます。姐さん」
野風は礼を言って、夕里の隣に腰を下ろした。
「もうすぐ部屋持ちになれるんじゃないかってみんな言ってるよ! ここで一緒に朝食べられるのもあとちょっとなのかしらね……」
遊女は少し寂しそうに野風に言った。
「何言ってるんですか。姐さんがここで食べてるのに私だけ部屋で食べるわけないでしょう。ここに来ますよ。それに部屋持ちなんてまだまだ先ですよ……」
野風はまだ眠そうな目で遊女を見る。
「別に私のことは気にしなくていいのよ?」
夕里は野風に微笑む。
「気にしますよ! それに……」
反論しようと隣の夕里を見た野風の言葉は不自然に途切れた。
「ん? どうしたの?」
夕里は不思議そうに野風を見つめ返す。
「姐さん、なんか顔色悪くない? ……あ、悪くないですか?」
「え? ……そう?」
夕里はドキリとしながら、自分の顔に触れた。
「え? いつもと何も変わらないように見えるけど……」
遊女は夕里をじっくりと見てから言った。
「いやいや、悪いですよ! 体調悪いの隠してません?」
夕里は苦笑する。
(変なところ鋭いな、野風は……)
「えっと……、ちょっと喉がムズムズするってだけだから……」
「やっぱり調子悪いんじゃないですか! 姐さんはよっぽどひどくならない限り何も言わないんだから! 昼見世だけでも休んだ方がいいですよ!」
野風は声を大きくした。
「そんな大げさな……。これくらい大丈夫よ……」
「大丈夫じゃないですよ! 姐さんが休まないなら、私昼見世出ませんから!」
「え!? 何そのめちゃくちゃな話!?」
「私が仕置き部屋に閉じ込められてもいいんですか?」
「何なの!? その脅し!」
夕里は目を見開く。
夕里と野風のやりとりを見ていた遊女は苦笑した。
「観念しなさい、夕里。野風が頑固なのはあんたが一番わかってるでしょう? 楼主には私からもお願いしてみるから昼見世はおとなしく休んどきなさい」
「そんな、これくらいで……」
「あんたが一回休んだくらいで見世は潰れないし、昼見世はそもそも暇なんだからいいのよ」
夕里は、しばらく野風と遊女の顔を交互に見ていたが、やがて観念したように目を閉じた。
「わかりました……」
夕里は肩を落とす。
「ほら、食べ終わったなら部屋まで送りますから! もう行きましょ!」
野風が立ち上がる。
「え!? 私ひとりで行けるから大丈夫よ! それに野風はまだ食べてないでしょう?」
「私は姐さんを送った後で食べにきますから! ほら、行きますよ!」
野風は夕里の腕を掴む。
「え……」
夕里はしぶしぶ立ち上がると、野風に腕を引かれて階段に向かって歩いていった。
二人の後ろ姿を見ながら遊女は苦笑する。
「もうどっちが子どもなんだか、わからなくなってきたわね」
遊女はそう呟くと、残っていたご飯に口をつけた。
その日、夕里は昼見世だけでなく、夜見世にも出ることができなかった。
部屋に戻り寝ていた夕里は、昼見世が終わる頃には熱が上がり、布団から起き上がることもできなくなったからである。
そして、熱が下がり始めた頃、夕里の全身には赤い発疹が広がっていた。