【コミカライズ】鏡花の桜~花の詩~

「弥吉という文使いはいるか?」
 黒の紋付羽織を着た男は、玉屋の入り口で男衆に声をかけた。
 黒の羽織は町奉行所の同心(どうしん)である証だった。
「弥吉……ですか?」
 男衆は目を泳がせながら、男の腰にある刀と十手(じって)を見る。
 まだ昼見世の前の時間ということもあり、入り口にいた男衆は一人だけだった。
 男衆がうろたえて周りを見る。
「心配するな。少し話しが聞きたいだけだ。呼んできてくれるか?」
 男は微笑むと、男衆の肩を軽く叩いた。
「は、はい」
 男衆は慌てて見世の奥に消えていった。

 しばらくすると、男衆が弥吉を連れて奥から戻ってきた。
 男は不安げな弥吉を見て微笑む。
「弥吉か?」
「あ、はい……」
「少し外で話せるか?」
「あ、はい……。少しなら……」
「では、ついてきてくれ」
 男は弥吉を促して外に出た。
「茶屋で話そうか」
 そう言って歩き始めた男の後に弥吉が続いた。
 少し歩いてから男が弥吉を振り返る。
「そう警戒するな。本当に話しが聞きたいだけなんだ。そんなに後ろに続いて歩いたら、おまえが捕まったみたいに見えるだろう? 嫌でなければ横を歩いてくれ」
 男は困ったように弥吉に言った。
「あ、はい!」
 弥吉は少し安心した顔を見せると、男の横に並んだ。
「それでいい」
 男は満足げに微笑んだ。
「まだ若いのに働くなんて偉いな。楽な仕事じゃないだろう?」
「いえ、みんないい人ばかりなので……。それよりお話しというのは……」
「まぁ、そう焦るな。ほら、茶屋が見えてきた。あそこで話そう」
 男はそう言うと、茶屋へと足を速めた。

 男は茶屋に入るとお茶を二つ頼み、弥吉と並ぶように長椅子に腰を下ろした。
「お話しというのは?」
 弥吉がもう一度聞いた。
「ああ、話しというのは石川直次という男についてだ」
「直次……様?」
「ああ、昨日その男が亡くなったんだ」
「え!?」
 弥吉が目を見開く。
「屋敷の庭で首を吊ったらしい」
「首を……?」
 弥吉の顔はみるみる青くなった。
「勘違いしないでくれ。別におまえを疑っているわけじゃないんだ。おそらく自殺だろう。ただ……おまえが届けた手紙と指のことが少し気になってな。それを渡した遊女について何か覚えていないか?」
 弥吉が口を開こうとしたとき、頼んでいたお茶が届いた。
 男と弥吉のあいだにお茶が置かれる。
「顔は……頭巾を被っていたのでわかりませんでした。声だけは覚えているので、聞けばわかると思うんですが……。あとは、俺より八つとか九つ上の年の若い人だってことくらいしか……」
 男はお茶をひと口飲んで頷く。
「それだけわかれば十分だ。ありがとう」
「あの遊女を探すんですか?」
「そうだな……」
 男はそう呟くと、少し悩むように目を伏せた。
「俺は探した方がいいと思っているが……、上の判断に任せることになるな。遊女が吉原から出ることはできないから、直接死に関わった可能性は低い。そのうえ、自殺の可能性が高いからこの件にあまり時間をかけるなと言われそうだが……」
「そうなんですね……」
「まぁ、調べたくても、吉原は管轄外なんだ。どちらにしろできることは少ないかもしれないが、話しは聞いておきたいと思ってな」
 男は弥吉を見て微笑んだ。
「そうだったんですね」
「まぁ、吉原に来たのは初めてだから、玉屋の咲耶太夫の姿でも見られればと思ったが、そううまくはいかないな」
 男は場を和ませるように、冗談めかして弥吉に笑いかけた。
 そのとき、茶屋の入り口にひとりの女が入ってくるのが見えた。
 女は弥吉を見つけると嬉しそうに笑いかける。
「弥吉」
 長い髪を下ろし化粧をしていない姿でも輝くような美しさをたたえた女は、笑顔で小さく手を振った。
 それは、今まさに男が話していた咲耶太夫その人だった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「さ、咲耶太夫!? ど、どうされたんですか?」
 弥吉が思わず立ち上がる。
 弥吉の隣にいた男は呆然とした顔で咲耶を見ていた。
「見世が始まる前に外でお茶が飲みたいと思って来たんだけど、弥吉の姿が見えたから。そちらの方は?」
 咲耶は弥吉の隣の男を見て、弥吉に聞いた。
「あ、この方は……。その……直次様が亡くなったそうで、その件で話しが聞きたいと……」
「まぁ、そうなの……」
 咲耶は悲しげな顔で言った。
「弥吉には何のお話しが?」
 咲耶の問いかけに、男が我に返り慌てて立ち上がった。
「あ、いえ! 手紙と指を渡した遊女について聞いただけですので!」
 男は慌てたように言った。
「あ、申し遅れました私は、門倉兼継(かどくらかねつぐ)と申します。奉行所は違いますが、朝倉様には大変良くしていただいておりまして……」
「まぁ、頼一様の!」
 咲耶は嬉しそうに微笑む。
 兼継は正面から向けられた笑顔に、思わず顔を赤くした。
「は、はい! 朝倉様は聡明で容姿端麗なうえ、謙虚でお優しく私の憧れでして……。そんな朝倉様に未だ奥方がいらっしゃらないのはきっと咲耶太夫を身請けされるためだろうと、皆が噂しております。お目にかかれて光栄です!」
 兼継が早口で語る。
 咲耶は少し目を丸くしたあと、穏やかに微笑んだ。
「いえいえ、私ごときがそのような……。頼一様には頼一様のお考えがあるのでしょう」
 咲耶はそこで椅子に視線を移してから、また兼継を見た。
「ご一緒してもよろしいですか?」
「ああ! 立たせたままで申し訳ない! どうぞお座りください!」
 咲耶は微笑むと兼継の隣に腰を下ろした。
 呆然と二人のやりとりを見ていた弥吉も兼継の隣に座る。
(どうなっているんだ……。お茶を飲みに来たなんていうのは嘘だろうけど……)
 弥吉はそっと咲耶を見る。
 咲耶は弥吉の視線に気づき微笑んだ。
「それで、弥吉が疑われているわけではないのですね?」
「そんなことは! 話しを聞いただけですから! おそらく自殺でしょう。……ただ、自殺の理由が遊女の死を知ったから、というのが少し気になりまして……」
「気になるとは?」
「あの男は、手紙と指を受け取ったのをきっかけに久しぶりに吉原に来たようです。大切に想っていた遊女に長い間会いに来ないなんて普通はあり得ません。お金がなかったわけでもありませんから。それに……手紙をきっかけに吉原に来て騒動を起こした数日後に亡くなるなんて、作為的なものを感じます……」
 咲耶は真剣な眼差しで兼継の話しを聞いていた。
「あ、余計なことを言いましたね! ですから、咲耶太夫の見世の文使いを疑っていたわけではありません!」
 咲耶は微笑んで、兼継の手をとると両手で包み込んだ。
「な!?」
 兼継は驚いて声を上げると同時に顔を赤くした。
「ありがとうございます、兼継様。弥吉が疑われていないとわかって安心いたしました」
「そ、それはよかった……」
 兼継が顔を赤くしながら言った。
「私に何か協力できることがあれば、なんでもおっしゃってください。私も何かわかりましたら、兼継様にお知らせいたしますね」
「そ、それは有難い……」
 咲耶は微笑むと兼継の両手をそっと離した。
「それでは、私はそろそろ見世の準備がございますので。弥吉にもお願いしたい手紙がありますので、一緒に失礼してもよろしいですか?」
「あ、はい! もう話しは聞けましたから!」
 少し顔色が戻った兼継は弥吉を見て微笑んだ。
「ありがとう。おまえのことは本当に疑ったりしてないから、あまり気にしないでくれ」
「あ、はい」
 弥吉は慌てて返事をする。
「それでは、失礼いたします」
 咲耶と弥吉は兼継に一礼して茶屋を出た。
 兼継も立って、二人を見送る。

 茶屋を出て、弥吉の前を歩いていた咲耶は振り返らずに口を開いた。
「悪かったな……」
「え?」
 弥吉が聞き返す。
「悪かった。私がおまえに文使いなんて頼んだから。……こんなことに巻き込んですまない」
 弥吉は咲耶の後ろ姿を見つめる。
(勝手に変な手紙を届けた俺のせいなのに……)
「いえ、咲耶太夫には本当に感謝してるんです。謝ることなんて何もありません」
「それでも、悪かった……」
 弥吉は咲耶の首筋に光るものを見た。
(汗……?)
 よく見れば、いつも綺麗に整えられている長い髪が今は少し乱れていた。
(急いで来てくれたのか……俺のために……)
 弥吉は咲耶の後ろ姿を見つめる。

「これが吉原一の太夫か……。こりゃ、みんな惚れるわけだ……」
 弥吉は小さな声で呟くと、少し笑った。
「なんだ、何か言ったか?」
 咲耶が振り返って弥吉を見る。
「何も言ってません。……咲耶太夫」
「なんだ?」
「一生ついていきます!」
 咲耶は苦笑して再び前を向いた。
「おまえが一生を語るのはまだ早い」
 弥吉は笑うと走り出し、咲耶を追い抜いた。
「咲耶太夫、先に行きます!」
「ああ、ちゃんと前を向いて走れよ」
「はい!」
 弥吉は前を向いて走り出した。
(俺、ここが好きだ!)
 弥吉の心は晴れやかだった。
「どういうこと?」
 遊女は座敷に入るなり、男に詰め寄った。
「どういうことって?」
 男は鼻で笑う。
「とぼけないで! 死ぬなんて聞いてない!」
 遊女は声を大きくした。
「声が大きいぞ」
 男は冷たく言うと、鋭い眼差しを遊女に向けた。
 遊女は引きつった顔を隠すように男に背を向ける。
「あなたが……殺したの?」
「殺した? まさか! 夕里が死んだのを知って、あの男が勝手に後を追ったんじゃないのか?」
 男は明るくおどけた口調だったが、遊女の背には冷たいものが走った。
 恐怖で手が震え始めたのを感じて、遊女は自分の手首を掴む。
「そんな男じゃないって教えてくれたのはあなたでしょう……?」
「人は変わるからなぁ。死んだのがわかってから夕里を愛してたって気づいたんだよ、きっと」
 男の口調はおどけたままだった。
(どうしてこんな男の言葉を信じたんだろう……)
 遊女は唇を噛んだ。
「なぁ……」
 すぐ耳元で男の声が聞こえ、遊女は身を固くした。
 男が後ろから遊女をそっと抱きしめる。
「憎かったんだろう? 死んでよかったじゃないか。何を気にすることがある?」
 男は遊女の耳に唇を寄せた。
 遊女の顔から血の気が引いていく。
(どうしてこんなことに……)
 遊女は涙がこぼれそうになるのを必死で堪えた。
(姐さん……、ごめんね……)
 遊女は静かに目を閉じた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


【五年前】

 真っ暗な部屋に、光が差した。
「野風?」
 光を背にした影が小さく言った。
 その影はあたりを気にしながら、細く開けていた戸からなかに入るとすぐに戸を閉めた。
「誰?」
 影は野風に近づく。
 目が慣れてくると、綺麗な顔をした女がこちらを心配そうに見ているのがわかった。
「心配しないで。心配で様子を見に来ただけだから」
 女はそう言うと手に持っていたものを野風の前に置いた。
「何も食べてないんでしょう? これ、食べて」
 野風が視線を向けると、皿の上に二つおにぎりがあるのがわかった。
「……いらない」
 一日何も口にしていなかった野風の口は乾いていて、小さな呟きは女には届かなかった。
「楼主もひどいわよね! こんな若い子を仕置き部屋に閉じ込めるなんて! あ、お水も持ってきたの。これ……」
 女が竹筒に入った水を野風に差し出す。
「いらないって!」
 野風は声を振り絞り、竹筒を差し出した女の手を振り払った。
 竹筒が鈍い音を立てて床に転がる。
「こんなところにいるぐらいなら死んだ方がマシだ!」
 女が悲しそうな顔で野風を見る。
 野風は気まずくなり、急いで視線をそらした。
「男に媚びへつらうなんて、俺にはできない! いつか俺もお客をとるなんて考えるだけで虫唾が走る!」
 野風は吐き捨てるように言った。
「野風は男の人が嫌いなの?」
「嫌いだよ! あいつらすぐ殴るし……みんな俺を見下してやがる。父さんだって、俺が金になるってわかったら、すぐこんなところに売って……男なんてみんな大嫌いだ」

「そう……」
 女は目を伏せた。
「男の人が嫌いなら、この仕事は少しツラいかもしれないわね……。でも、あなたは幸運なのよ」
 野風は怪訝な顔で女を見る。
「幸運?」
「ここはいずみ屋、吉原でも三本の指に入る大見世よ。大見世に入れる遊女は限られている。ここはね、女が男より優位に立てる場所なの」
「意味がわからない……」
「あなたは男に媚びへつらっていると言ったけど、この見世に男に媚を売っている遊女なんてひとりもいないわ。私たちはね、夢を売るのが仕事なの」
「夢……?」
 野風には意味がわからなかった。

「いずみ屋の敷居を跨ぐまでに、お客がどれだけのお金を払うか知っている? 太夫ぐらいになれば、見世に上がるだけでもあなたのお父様が一生働いても払えない額のお金がかかるの。それだけのお金をかけても、太夫に認められなければ振られる。太夫ほどではないけど、私たちも同じ。男の人たちがひと月、長ければ何年も汗水流して働いてきたお金を私たちと一夜過ごすために使うの。だからこそ、そのお金に見合うだけの夢を見せるのが私たちの仕事。それだけの価値が私たちにはある」
 女は真っ直ぐに野風を見つめた。
「男に見下されたくないなら、まず男や女を語る前に己の価値を高めなさい。貧相な体に教養を感じない言葉遣い、今のあなたに何の価値があるの?」
「な、何!?」
「価値のないものが見下されるのはどの世界でも同じ。ここを出たところで、あなたは見下され踏みつけられる」
 野風は唇を噛む。
「それなら、ここで歯を食いしばり己を磨くべきじゃない? まぁ、まずその貧相な体からなんとかしてね」
 女はにっこりと笑うと野風の肩をつつく。
「さ、触んな!」
「ふふふ、ほら、食べないと一段と貧相になるわよ」
 野風は女を睨む。
 女は野風の様子を気にすることなく、野風の頭をなでた。
「だから、触んな!」
 女は笑顔で野風を見つめている。
(まさか食べるまでここにいる気なのか……)
 野風は女を見つめ返した。
 女は一歩も譲る気がないようだった。
 野風はため息をつく。
「わかった……食べるよ」
 野風はおにぎりに手を伸ばす。
「偉い偉い」
 女はにっこりと笑う。
 野風は渋々おにぎりに口をつける。
「ところで、おまえ誰だよ」
 女は呆れたような顔をする。
「言葉遣い早くなおしなさいよ。私は夕里。姐さんと呼びなさい」
 夕里はまた野風の頭をなでた。
「だから、触るなって!」
「ふふふ」
 薄暗い仕置き部屋の中で夕里の笑い声だけが明るく響いていた。
「二人の話しをまとめると、吉原で弥吉に手紙を渡した女と、叡正が寺で見た女は別人だということでいいか?」
 咲耶は、目の前に座っている弥吉と叡正を順番に見た。
「たぶん、そうだと思います……」
「自信はないが、おそらくは……」
 弥吉も叡正も同意する。
 今、咲耶の部屋には弥吉と叡正、信が集まっていた。
 夜見世が始まる前ということもあり、部屋の外はいつもより少し騒がしかった。
 叡正が少し考えてから口を開く。
「俺が見た女はたぶん十八や十九なんて年齢じゃなかったと思う……。暗くてよくは見えなかったが、動きを見た限り年はもっと上だ。三十くらい、それ以上かもな……」
 叡正の言葉に咲耶が頷く。
「もともと別人だろうとは思っていた。吉原に遊女以外の女が入るのは難しいし、逆に遊女は吉原から出られないから寺に行けないしな」
(少なくとも三人以上の人間が関わっているのか……)
 咲耶は額に手を当ててため息をついた。

「あの、咲耶太夫に今回の件を気づかせるために俺や叡正様をあえて巻き込んだっていうのは確かなんですか……?」
 弥吉が咲耶を心配そうに見る。
「それなら、咲耶太夫が危ないんじゃないですか?」
 咲耶は弥吉を見て微笑む。
「心配するな。私の周りには常に誰かいるからな。私に危害が加わる前に捕まるよ」
「でも……」
 弥吉はまだ不安そうに咲耶を見ていた。
 咲耶はもう一度弥吉に向かって微笑んだ。
「ありがとう。大丈夫だ」

 叡正は顎に手を当てて何か考えているようだったが、しばらくして口を開いた。
「俺も考えてみたんだが、少し考え過ぎなんじゃないのか? 俺が丑の刻まいりに気づいたのは本当にただの偶然なんだ。寺のほかの坊さんたちが先に気づいて見に行った可能性だって十分あった。ほかの坊さんが気づいていたら、意味がなかったんだろう?」
「ほかの僧侶でもよかったんだ、おそらくな」
 咲耶は叡正を見た。
「指の件も丑の刻参りの件も、二つの目的があったはずだ。まず弥吉の方のひとつ目の目的は、直次という男に手紙と指を届けること。二つ目が弥吉に疑いの目を向けることだったんだろう。二つ目の方は成功しても失敗してもどちらでもよかったんだと思う」
 咲耶の話しを聞いて、弥吉が息を飲んだ。
 咲耶は叡正を見たまま続ける。
「叡正の方のひとつ目の目的は、寺で直次を呪った丑の刻まいりの跡が見つかることだ。二つ目は、このことを叡正が私に伝えること。そもそも叡正が目撃する必要はなかったんだと思う。確率が低すぎるからな。おそらくこれは本当に偶然だったんだ。寺で丑の刻まいりの跡が見つかればおそらく翌日には噂になるだろう? それで十分だったはずだ。ほかの僧侶が目撃して気絶させられていた場合も、大騒ぎにはなっただろうからな。だから、引きの強さはおまえの天性のものだ。気の毒に……」
 咲耶がわざとらしい憐みの表情で叡正を見る。
「その目をやめてくれ……。まぁ、本当にそうだとすれば、おまえを巻き込みたい理由は何なんだ? 理由がないだろう?」
 叡正は困惑した顔で咲耶を見た。
「私か、私の周りの人間か……。私が目的でなかった場合、可能性が高いのは玉屋の楼主か、信おまえだ……」
 咲耶はずっと黙って聞いていた信に目を向ける。
「気をつけろよ」
 信は咲耶の視線を受けると静かに頷いた。

「え!? なんで信さんが!?」
 弥吉が声を大きくする。
 咲耶は弥吉を見ると困ったように微笑んだ。
「まぁ、可能性の話しだ……」
 弥吉に本当のことは言えないし、言う必要もないと咲耶は考えていた。

「これからどうするんだ?」
 信が咲耶を見て口を開く。
「ああ、まずは弥吉に指を渡した遊女が誰か探すよ。これはおそらくすぐ見つかるだろう。夕里という遊女と直次の関係を知っている人間は限られている。間違いなくいずみ屋の遊女の誰かだ。少し探ってみる」
「寺の方は何か調べるか?」
 信が淡々と聞いた。
「寺の方からはおそらく何もわからないと思うが……、念のために見てきてくれるか?」
 咲耶は信を見つめる。
「ああ、わかった」
「叡正、今度でいいから寺を案内してやってくれ」
「え、ああ、わかった」
 二人のやりとりを呆然と見ていた叡正は慌てて応えた。

「弥吉はさっき預けた手紙を届けてきてくれるか? もうすぐ暗くなるから、もう行きな」
「あ、はい……」
 弥吉は信を気にするようにしながら部屋を出ていった。
「さぁ、そろそろ私も夜見世の準備だ。髪結いに声をかけて緑も呼ばないといけないからな、先に行く。二人は準備ができたらでいいからゆっくりしてな」
「ああ、わかった」
 叡正の返事を聞くと、咲耶は部屋を出ていった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 咲耶が出ていった後、信と二人になった叡正は居心地の悪さを感じてすぐに立ち上がった。
(この男は一体何者なんだろう? 本当に咲耶太夫の間夫なのか……)
 叡正は信を見た。
 何を考えているかわからない男だが、色素の薄い茶色の髪と瞳は美しく顔立ちも整っていると叡正は思った。
(咲耶太夫はこういうのが好みなのか……?)
 叡正の視線に気づき、信が口を開く。
「何だ?」
「あ、いや! そういえば、まだ礼を言ってなかったな……」
 叡正は鈴のことで信にお礼を言っていなかったことを思い出した。
「鈴のこと、いろいろすまなかった。それに、ありがとう。おかげで最後に鈴に会えた。鈴の埋葬もしてくれたんだろう? 本当にありがとう」
「ああ。咲耶の頼みだ。気にするな」
 信は淡々と言った。
(咲耶太夫の頼みだから、か……。一体どういう関係なんだ……。まぁ、あまり深く考える必要もないか)
 叡正は思考を切り替えると、信にもう一度礼を言った。
「さぁ、そろそろ俺たちも行くか」
 叡正は信に声をかける。
「ああ」
 信も立ち上がる。
 叡正が襖を開けて、部屋を出るとちょうど二人の遊女が咲耶の部屋の前を通りすぎるところだったらしく、ぶつかりそうになった。
「ああ、すまない!」
 叡正が慌てて避ける。
「いえ、こちらこそ申し訳ありません!」
 遊女は叡正を見て、慌てて頭を下げた。
 そして、顔を上げた二人の遊女はなぜか目を見開いた。
「え?」
(どうしたんだ?)
 二人の視線は叡正の後ろに向けられていた。
 叡正は二人の視線を追う。
 そこには胸元がはだけた信の姿があった。
「な!?」
 叡正は声を上げた。
 信は三人の視線に気づくと、自分のはだけた着物を見る。
「ああ、帯を忘れた」
 信はそう言うと部屋に戻った。
(ああ……立ったときに帯が解けたのか……)
 叡正が再び前を向くと、二人の遊女が口元を覆い顔を赤らめて叡正を見ていた。
「え……?」
「あ、あの私たち、何も見ていませんから!」
「そうです! 大丈夫です! 大丈夫ですから……。し、失礼します!」
 二人の遊女は頭を下げると足早に去っていく。
「え……?」

「叡正様、そうだったのね……!」
 遊女は声をひそめているようだったが、興奮しているためかその声は大きかった。
「え! どういうこと!?」
「ほら、叡正様は僧侶だから、ほら…その男の方と……」
「そんな……! で、でも信様となら…ね……」
「下品な想像しちゃダメよ! でも……いいわね……うん……」
「咲耶姐さんの間夫じゃなかったのね!」
「そうね……二人に密会の場を貸してただけだったんだわ!」

「え……?」
 叡正は去っていく二人の遊女を呆然と見つめていた。
 ふと、二人の遊女が歩いていく先に、一人の遊女が立ちつくしているのが見える。
 その遊女は目に涙を溜めて、こちらを睨んでいるように見えた。
「え……?」
 その遊女は叡正と目が合うと顔を歪めて、走り去っていった。

「悪かった。帯が解けていたみたいだ」
 後ろから信が襖を開けて現れる。
「どうした?」
 叡正が呆然としているのに気づいたのか、信が聞いた。

「プッ」
 二人の遊女が去っていった方向と反対側で、咲耶と緑が口元を覆って立っていた。
「あ、さっき立ってたのが、プッ、朝霧姐さんです」
 緑が噴き出すのを堪えるように叡正に言った。
「ああ、なんとなく察したよ……」
 叡正は遠い目をしながら言った。
「よかったじゃないか。プッ、問題が解決して……」
 咲耶も噴き出すのを我慢しているようだった。
「まぁ、あれだ。気をつけて帰れよ」
 咲耶が叡正から視線をそらして言った。

「ああ、ありがとう……」
 叡正が返事をするのを聞くと、咲耶と緑は信と入れ違いに部屋に入っていった。
 部屋が閉まると同時に二人の笑い声が響く。

「どうしたんだ?」
 信が叡正に聞く。
「なんでもない……。うん、なんでもないんだ……」
 叡正は顔を両手で覆った。
「この漬物もらった!」
 野風はそう言うと、隣に座っていた遊女の皿から漬物を奪う。
「ちょっと……! コラ! 野風」
 遊女が慌てて野風を見ると、見せつけるように漬物を口に入れるところだった。
「あんたは! なんでいつもそうなのよ!」
「盗られる方が悪いんだよ~」
 野風はおどけた調子で笑った。
「野風! あんたねぇ……」
 遊女が怒りで顔を赤くするのとほぼ同時に、野風の頭にこぶしが落ちた。
「いったぁ!! 何するんだよ!」
 野風が涙目で後ろを向くと、そこには夕里が呆れた顔で立っていた。
「あんたこそ、何してんのよ」
 夕里はそのまま野風の頭をわしづかみにする。
「ごめんね。私の漬物あげるから許してやって」
 夕里はそのまま野風の頭を机に打ち付けた。
「痛っ! 痛いって姐さん!!」

 野風が頭を打ち付けられるのを呆然と見つめていた遊女は、夕里に見つめられてハッと我に返る。
「あ、まぁ……夕里姐さんがそう言うなら……」
「ありがとう。本当にごめんね!」
 夕里は遊女に微笑んだ。
 野風の向かい側に座って見ていた遊女はフッと笑う。
「あんたたち、ホントに毎朝よくやるねぇ。飽きないの?」
 ほかの遊女たちも呆れたように笑った。
 いずみ屋では毎朝、細長い机を囲んで遊女たちが一緒に遅めの朝食をとるのが習慣だった。

「姐さんが言ったからだろ! その貧相な体なんとかしろって!」
 野風は打ち付けた額をなでながら夕里を見た。
「言ったけど、人の食べ物を盗ってまで肉つけろなんて言ってないでしょう?」
 夕里は呆れた目で野風を見る。
「それにあんた、どこに肉つける気なの。腹に肉つけろなんて言ってないからね」
「は、腹に肉なんてついてねぇよ!」
 野風は顔を赤くする。
「本当に~?」
 夕里が意地の悪い顔で野風の着物に手を伸ばす。
 野風が慌てて襟元を寄せる。
「や、やめろよ! 変態! 近づくな!」
「姐さんに変態はないでしょう。ふふふ、お仕置きが必要ね」
「や、やめろって……」
 野風は立ち上がると、ゆっくりと後ずさりする。
「ふふふ」
 じりじりと距離を詰める夕里に野風の顔が青くなる。
「いいぞ! やれやれ!」
「夕里姐さん、懲らしめちゃって!」
 ほかの遊女たちからも次々と声が上がる。
「おい! 見せ物じゃねぇぞ!」
 野風が遊女たちに向かって叫ぶ。
「隙あり!」
 夕里はその瞬間に野風に抱きついた。
「おい! コラ、離せ! 離せって!!」
「腹の肉はここか? ここだなぁ!」
「やめろ! 触んな!!」
 野風の叫びに、遊女たちの笑い声が重なる。

「あら、朝から賑やかねぇ」
 二階からひとりの遊女が下りてくる。
露草(つゆくさ)太夫! 今日は早いんですね」
 遊女たちは一斉に階段を見た。
「そうね……。なんだか目が覚めちゃって……」
 少し垂れた目を縁取る長いまつげ、口元のほくろ、襟元がはだけた着物から見える豊満な胸、気だるげな口調、そのすべてから色気が溢れ出ていた。

「野風、あんたが目指すべきはああいう体だよ」
 野風の向かいに座っていた遊女は、視線だけで露草を指しながら言った。
「あれは……無理だろ……」
 野風は遠い目をして言う。
「うちの太夫をあれとか言わないの!」
 夕里は野風の頭を軽く叩く。
「どうしたのぉ?」
 露草が夕里を見て口を開く。
「うちの太夫を見習えって話してたんです」
 夕里は微笑んで露草を見る。
 野風は夕里をちらっと見てから黙って頷いた。
「そんな、私なんて全然ダメよぉ」
 露草が慌てて言った。
「私なんかより、そうね……そう! 玉屋の咲耶って子、あの子を見習うべきよ!」
「ああ、天女って言われてる子ですよね!」
「そう! その子! まだ出てきて一年くらいだけど、すっごい綺麗なのぉ! それにすごい貫禄! 私より年下なんて全然思えないわぁ」
 露草はうっとりした顔で言った。
「きっとすごく頭もいいのよ。あんな冷めた目、あの年でできるもんじゃないわぁ。ああ……あの目で見つめられながら蔑まれたい!」
 露草は頬を赤く染めた。

「……」
 遊女たちは何も言えなかった。
「……うちの見世、大丈夫か?」
 野風が夕里の耳元で小さく呟く。
 再び夕里のこぶしが野風の頭に落ちた。
「痛い……」
「うちはこれでいいのよ。明るくのびのびと! あんたがこんな調子でやってられるのもいずみ屋だからよ! まったく……。ほら、あんたはそろそろ三味線の稽古でもしなさい! もうちょっとで客をとることになるんだから、言葉づかいもいい加減なおしなさいよ!」
 野風は頭をなでながら、しぶしぶ頷く。
「……今に見てろよ! すぐ姐さんなんて追い抜かしてやるからな……」
 野風が悔しそうに呟く。
 それを聞いていた向かい側の遊女がフッと笑う。
「いや、無理だよ。夕里は売れっ妓の部屋持ちだ。本来なら朝飯も部屋で食べててもいい身分なんだから。いつまでもここで一緒に食べてなくてもいいんだよ、夕里」
 遊女は夕里を見て言った。
「前にも言ったじゃないですか。私はみんなで食べるのが好きなんです」
 夕里は微笑んでから、野風に視線を移した。
「ほら、私を追い抜く気なら、さっさと行く!」
「わ、わかったよ」
 野風は急いで二階に向かう。
「優しいねぇ」
 遊女は微笑むと目を伏せた。
「ふふふ、これからじっくり教育していきますよ」
 夕里はそう言うと、去っていく野風の後ろ姿をずっと優しい眼差しで見つめていた。
「な!? ど、どうされたんですか? 玉屋さん…」
 いずみ屋の楼主は引きつった顔で見世先に出た。
「いやぁ、先日のお詫びをしようと思いましてな」
 玉屋の楼主がにこやかに微笑んだ。
 隣にいる咲耶もいずみ屋の楼主を見て微笑む。
「ええ、うちの文使いがご迷惑をかけましたから、きちんとお詫びしなければと思いまして。ご迷惑でしたか?」
 いずみ屋は顔を一層引きつらせながら笑顔をつくった。
「そ、そんなとんでもない!」
(迷惑だなんて言われるわけないだろう……!)

 咲耶と玉屋の楼主の登場で、いずみ屋の見世先には人が集まり始めていた。
(おいおい、一体何しに来たんだよ……)
 昼見世を終えて人が少ない時間とはいえ、咲耶も玉屋の楼主もひと目を引くためこのまま見世の前で話し続けるのはできれば避けたかった。
「ま、まぁ、とにかく見世に入ってください。お、お茶くらい出しますから」
 その言葉を聞いて咲耶が満足げに微笑む。
「突然お伺いしたのに、申し訳ありません。では、お言葉に甘えて」
「いやぁ、やはりいずみ屋さんは器が違いますなぁ」
 二人は笑い合いながら、いずみ屋の楼主が案内するより先に、いずみ屋に入っていく。

 呆然と二人を見送ったいずみ屋の楼主はハッと我に返ると、頭を抱えた。
(くそっ! いずみ屋に入るのが狙いだったのか!)
 いずみ屋の楼主は慌てて、二人の後を追った。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「さ、咲耶ちゃん!?」
 いずみ屋に入ると、襟元から豊満な胸がのぞく遊女が咲耶を見て頬を染めた。
 咲耶はゆっくりと微笑んで、頭を下げる。
「ご無沙汰しております。露草太夫」
「また一段と綺麗になって……」
 露草は瞳を潤ませながら咲耶に近づく。
 甘い香りとともに色気まで辺り一面に広がった。

「露草太夫も相変わらずお美しいですな」
 玉屋の楼主が露草を見て言った。
 その声でようやく楼主の存在に気づいた露草は慌てて頭を下げる。
「私としたことが失礼いたしました。ご無沙汰しております、楼主様」
 露草は妖艶な微笑みで楼主に語りかける。
「本日はどのようなご用でしたか?」
「先日うちの文使いがご迷惑をおかけしたお詫びをしに伺いました。私は外でいずみ屋さんと話しますから、よかったらうちの咲耶のお相手をお願いできませんか?」
 玉屋の楼主がそう言うと、営業用の微笑みを浮かべていた露草の頬が赤く染まる。
「私が、咲耶ちゃ……咲耶太夫のお相手を……?」
「ええ、同じ太夫として咲耶も話したいことがあるでしょうから。どうでしょうか? お願いできますか?」
「はい! 喜んで!」
 露草は胸の前で手を組んで言った。

 玉屋の楼主は露草に礼を言うと咲耶を見た。
「咲耶、勉強させていただきなさい」
 咲耶は微笑んで頷くと、露草を見つめた。
「よろしくお願いいたします」
「こちらこそ!」

 そのとき、いずみ屋の楼主が三人に近づいてくるのが足音でわかった。
「ああ、待ってましたよ。いずみ屋さん!」
 勢いよく玉屋の楼主が振り返る。
「へ……?」
 ふいに声をかけられ、いずみ屋の楼主は戸惑っていた。
「ちょっと二人で話したいことがありましてね」
「……話したいこと?」

 玉屋の楼主はいずみ屋の楼主にそっと耳打ちをする。
「な!?」
 いずみ屋の楼主の顔がみるみる青ざめていく。
「ど、どうして……」
 玉屋の楼主は怪しく微笑む。
「さぁ、ちょっと見世の外で話しましょうか?」
「……は、はい」
 玉屋の楼主は、うなだれたいずみ屋の楼主を連れて再び見世の外に出ていった。

「……さすがねぇ、玉屋の楼主様は」
 露草は目を丸くした。
「ふふ、若く見えるだけで長く生きてますからね」
 咲耶は微笑んだ。
「まぁ、二人のことは放っておいて、私たちもお話ししましょうか!」
「ええ、ぜひお願いいたします」
 二人は顔を見合わせて微笑むと、いずみ屋の二階へと上がっていった。
 咲耶は露草の部屋に入ると、用意された座布団の上に腰を下ろした。
 基本的な部屋のつくりは咲耶の部屋と変わらなかったが、咲耶が下座に座ることは珍しく少し新鮮な感覚だった。
 露草は咲耶の向かいに腰を下ろし、うっとりとした表情で咲耶を見る。
「自分以外の太夫の部屋に入るのは初めてなので、なんだか新鮮です」
 咲耶は微笑んで、素直な感想を口にした。
「初めて……」
 露草は頬を赤く染める。
「そ、そうよね。ふふふ、私も太夫を部屋に入れるのは咲耶ちゃんが初めてよ」
 露草は片手を頬にあてて、うっとりとした口調で言った。
「私の部屋にも今度ぜひ……と言いたいところですが……」
 咲耶はそこで言葉を切った。
 露草が不思議そうに咲耶を見る。
「お忙しいですよね、きっと。……身請けのお話、受けられると伺いました」
 露草は目を丸くする。
「耳が早いのね! さすが玉屋さん」
 露草は微笑んで、咲耶を見つめる。
「私もいい年だから。ここらへんでね。……若い子も育ってきているから、道を譲らないと」
「寂しくなりますね……」
「寂しい……?」
 露草は目を潤ませる。
「寂しいと思ってくれるの?」
「もちろんです。いずみ屋の遊女たちの想いには敵わないかもしれませんけどね」
「咲耶ちゃん……、抱きしめたい……」
 露草は口元を両手で覆った。
「ふふふ、この吉原で露草太夫ほど色気と可愛らしさと賢さを備えた遊女はほかにいませんから。尊敬する太夫がいなくなるのは寂しいです」
 これは咲耶の本音だった。
 露草は咲耶の言葉に一度目を見開いてから、静かにフッと微笑む。
「賢いなんて言ってくれるのは咲耶ちゃんくらいよ」
「見世を見れば、露草太夫がどれほど賢いかなんてすぐわかります」
 咲耶は目を閉じた。
「いずみ屋の遊女は、教育が行き届いていますし、皆明るくて生き生きしています。玉屋とは雰囲気が違いますが、私はいずみ屋の空気も好きなんです。そうした空気をつくってきたのが露草太夫ですから」
「買いかぶり過ぎだけど……そう言ってもらえて嬉しいわ」
 露草はにっこりと微笑む。
「私、ここの妓たちが大好きなの。だから、ここを離れるのは寂しいし、少し心配……」
 露草は目を伏せた後、真っすぐに咲耶を見た。
「さて、そろそろ本題に入りましょうか? 私に聞きたいことがあるのでしょう?」
「はい」
 咲耶はしっかりと露草の目を見て頷いた。
「なんでも聞いて。だいたい予想はできているけど……」
「おそらく予想通りのことだと思いますが……、夕里という遊女の指が直次様に送られた件、送った遊女に心当たりはありませんか?」
 露草は目を丸くする。
「予想通りだけど、ずいぶん直球な質問ねぇ」
「露草太夫を相手に変な言い回しをしたところで意味がありませんから」
「咲耶ちゃん……、そういうところ……好き」
「光栄です」
 咲耶は微笑んだ。

「心当たりは……あるわ」
 露草は少し表情を曇らせた。
「たぶん野風の仕業」
「野風……ですか」
「まだ若い子だから、たぶん咲耶ちゃんは知らないわ。野風は夕里のことを慕っていたから……。それに勘違いもしていた」
「勘違いですか?」
 露草はゆっくりと頷く。
「そしてその勘違いを夕里はそのままにしたの。野風のことを想ってね」
 咲耶は何も言わずに、露草の言葉を待った。
「口にする言葉がすべて本当ではないし、口にしたときは本当でもやがて嘘になることもある。人の心は複雑よね……。野風はね、言葉通りにすべてを受け取る子なの。私が心配していることのひとつよ」
 露草は苦笑する。
「それに、これは私にも責任があるけど……、ちょっと良くない男が野風の客になったの。夕里が亡くなってから野風の落ち込み方はひどかったけど、あの男が来てから野風の様子が変わったから……」
「どんな男ですか?」
「ちょっとひと山当てた商売人ってことだったけど、本当かどうかはわからないわ……。背は少し高めで……顔にはあまり特徴がなくて……首の左側にほくろがあったかな……」
 咲耶は少し考えたが、思い当たる人物はいなかった。
(その男が今回の件を仕組んでいる可能性は高いな……)

「今度咲耶ちゃんが野風と話せるように、私から言っておくわ」
 露草は咲耶を見つめる。
「うちの妓が迷惑をかけて本当にごめんなさい」
 露草は頭を下げた。
「そんな、頭を上げてください。理由があってのことでしょうし」
「どんな理由があってもあんなことをするのはよくないわ。しかも勘違いなの……」
「どんな勘違いなのか伺っても?」
「……ええ」
 露草は目を伏せると、懐かしむように野風と夕里について話し始めた。
「姐さん、その花は?」
 夕里の部屋に入ってきた野風は、鏡台の上にある一輪の花を見て言った。
「ああ、これ?」
 鏡台に向かって化粧をしていた夕里は、鏡越しに野風を見る。
「桜草よ」
「姐さんが摘んできたの?」
「まぁ、そんなところね」
「姐さん、こういう花が好きなの?」
「素朴で可愛いじゃない? ……どうしたの? 花に興味持つなんて」
 夕里は手を止めて野風を振り返った。
「いや、俺が前に住んでたところにたくさん生えてた花だから……」
 夕里は微笑んだ。
「そうなの……。ところで俺って何なの? もう客もついてるんだから、言葉遣い気をつけなさい」
「なんだよ……。姐さんの前くらいいいだろう?」
「ダメよ! 野風はすぐ油断するから。普段の話し方から直しておかないと」
「は~い……」
 野風は拗ねたような顔でうつむいた。
 夕里は野風の様子に微笑む。
(まだまだ子どもね)
「ところで、何か用があって部屋に来たんじゃないの?」
「あ、そうだ! 忘れるところだった! 呉服屋が来たよ。姐さんが頼んでた着物を持ってきたって」
「あら、もうできたの? 仕事が早いのね。すぐ行くわ」
 夕里は急いで残りの化粧を終えると、野風とともに部屋を出た。

 二人が一階に着くと、呉服屋と話す露草の姿があった。
「露草太夫も着物を新調されたんですか?」
 夕里の言葉に露草が振り返る。
「あら、夕里も? そろそろ夏だから。夏らしい柄に変えようと思って」
 露草は微笑んで、呉服屋から受け取った着物を見せた。
 そこには真っ青な空を飛ぶ鷹の絵が描かれていた。
「な、夏らしくていいですね」
「え、これ夏らしいの?」
 不思議そうに呟く野風の脇腹を夕里が軽くつねる。
「痛っ。なんで……」
「いいのよ、露草太夫はこういうのが似合うんだから」
 夕里は声をひそめて野風に言った。
 野風は涙目で夕里を見る。
「夕里はどんな着物にしたの?」
 露草がのんびりとした口調で聞いた。
 呉服屋が慌てて夕里の着物を風呂敷から出して、畳紙(たとうがみ)を開いて着物を取り出す。
 鮮やかな緑に染められた着物には無数の桃色の花が描かれていた。
「桜? ちょっと時期外れなんじゃ……」
 野風が着物を手に取りながら呟く。
「いいのよ」
 夕里は野風から着物を受け取ると、すばやく着物を羽織った。
「うん、ちょうど良さそうね……。呉服屋さん、ありがとう」
 夕里の言葉に呉服屋はホッとしたように微笑んだ。
 露草はじっと夕里の着物を見つめていたが、しばらくするとそっと目を閉じて微笑んだ。
「ふふふ、可愛いわね……」
 露草はそう言うと自分の着物を持って、二人に背を向ける。
「大事にしなさいね」
 露草はそれだけ言って二階の部屋へと戻っていった。
「はい……」
 夕里は野風にも聞こえないほど小さな声でそっと呟いた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「玉屋の太夫が身請けされるって!」
 翌朝、遅めの朝食をとりながら、遊女のひとりが口を開いた。
「え!? 本当に!? ついにかぁ。まぁ、玉屋は咲耶って子がすごい勢いだからね。太夫の後を継げる子もいるし、楼主が年も考えて許したんじゃない?」
「身請けかぁ。ちょっと夢があるわよねぇ」
「あんたじゃ無理でしょ?」
 遊女たちが笑う。
「うるさい! 夢くらい見たっていいでしょ?」
 遊女が頬を膨らませた。
「現実的なのは夕里くらいじゃない? あんたこのあいだ、身請けしたいって言われてたでしょ? 私、見てたんだから」
「え!? 本当なの!? 羨ましい……」
 遊女たちからの視線を受けて、夕里がたじろぐ。
「え、ああ……うん……」
「いいなぁ、私も言われてみたい!」
「でも、言ってるだけだから」
 夕里は苦笑する。
「え~、誰なの? 言ってたのは!」
「あれよ、あれ、直次様だっけ」
「ああ、お武家様の?」
「いいじゃない!」
 夕里は遊女たちの言葉を聞きながら、ただ苦笑していた。
「私は身請けじゃなくていいのよ」
 遊女たちの言葉をひと通り聞き終えた夕里が言った。
「どういうこと?」
「私は年季明けに商売がしたいの。今は武家より商家の時代よ! 商売がうまくいったらお婿さんをもらうの!」
 夕里はそう口にすると、身請け話から浮かない顔をしていた野風に向かって微笑んだ。
「あんたも年季が明けたら、私のところに来ればいいのよ」
「え?」
 野風は目を丸くする。
「あんたはこのままだと身請けなんて無理だからね! 私が面倒見てあげる」
 夕里は意地悪く微笑んだ。
「な!? だ、誰が行くか!」
 野風は怒りながらも、どこかホッとした表情を浮かべていた。
 野風の様子を見て、夕里は微笑む。
「本当にまだまだ子どもなんだから」
 夕里はそう小さく呟くと、嬉しそうに野風の頭をなでた。
「気持ちは理解できます」
 露草の話を聞き終えると、咲耶は目を伏せて静かに言った。
「ただ、結果として夕里という遊女の名を汚してしまった……。やはり今回の件はするべきではなかったと思います」
 咲耶の言葉を受けて露草も頷く。
「野風ももうわかっていると思うわ。まぁ、これからどうすればいいのかがわからないのでしょうけど……」
 露草は悲し気に微笑んだ。
「今日は本当にありがとうございました。このお礼はいずれ必ず」
 咲耶は露草に頭を下げた。
「いいのよ! そもそもこちらが迷惑をかけたんだから! それに咲耶ちゃんと会えたことが、私にとって一番のご褒美よ!」
 露草は咲耶をうっとりと見つめる。
 咲耶は微笑んだ。
「露草太夫は本当に素敵ですね。情が深くて、器が大きくて、それでいて可愛らしさがあって……。私はこの通り、可愛げがないので本当に見習わなくては……」
 咲耶は自嘲した。
 露草はポカンとした表情で咲耶を見る。
「露草太夫?」
「あ、いえ、なんでもないの!」
 露草は慌てて首を振る。
「それでは、私はこのあたりで。いずみ屋の楼主様も心配されているでしょうし」
「そうね。見世の入り口まで送るわ」
 二人は立ち上がると、露草の部屋を出た。
 廊下に出ると、遊女たちが一斉にそそくさと動き出す気配を感じた。
(聞き耳でも立ててたのかしら……。まったく……)
 露草は遊女たちを横目で見ながら微笑んだ。

 二人で一階へ降りると、いずみ屋の楼主と玉屋の楼主は二人並んで入り口に立っていた。
 玉屋の楼主が咲耶と露草に気づき微笑む。
「咲耶、勉強になったかい?」
「はい。いろいろとお教えいただきました」
 咲耶も微笑む。
「そうか。それでは、我々はこれで」
 玉屋の楼主は露草に向かって頭を下げた。
「いずみ屋さん、それではまた」
 玉屋の楼主は意味深な笑みを浮かべる。
「え、ええ、また」
 いずみ屋の楼主は青ざめたまま、引きつった笑みで応えた。
 玉屋の二人は笑顔で一礼するといずみ屋を後にした。

 
 二人の姿が見えなくなると、いずみ屋の楼主はその場にしゃがみ込んだ。
「あらあら、大丈夫?」
 露草は苦笑する。
「大丈夫に見えるのか……?」
 いずみ屋の楼主は青い顔のまま露草を見上げる。
「ふふふ、大丈夫じゃなさそうね」
 露草はおかしそうに笑った。
「まぁ、でも玉屋さんだもの。悪いようにはしないわよ、きっと」
 露草はそう言うと、いずみ屋の楼主に手を差し出す。
「どうだか……」
 いずみ屋の楼主はうなだれながら、露草の手を取って立ち上がった。

「まぁ、そんなことより……」
 露草はいずみ屋の楼主の目をじっと見つめる。
「な、なんだ……?」
「咲耶ちゃんの姿絵買ってきて」
「はぁ!? このあいだ買ってきたばかりだろ!? それに何より今、本物に会っただろうが!」
「また一段と綺麗になってたの……。きっと新しい姿絵も出ているに違いないわ」
 露草の目は真剣だった。
「おいおい……。玉屋の太夫の姿絵なんて集めてどうするんだよ……。おまえのだって出てるんだから、自分のでも買って飾れよ……」
「あんな卑猥なものいるか!」
 露草はいずみ屋の楼主に詰め寄る。
「ひ、卑猥って自分の絵を……」
「あんなのと一緒にするんじゃない! 咲耶ちゃんは汚れなき天上人なのよ! 咲耶ちゃんの姿絵は宗教画と同じ領域なんだから! 神や仏のように壁に飾って崇めるものなの!」
「同じ太夫なのに……」
 いずみ屋の楼主は露草の勢いに押されてのけぞる。
「今日は咲耶ちゃんとお話しできた記念すべき日なの! この記念に一枚買って!」
「わ、わかったから! もうそれ以上近づくな!」
「買ってきてくれるのね!」
 露草は満足げに微笑むと、後ろに一歩下がった。
「まったく何がそんなにいいんだが……」
 いずみ屋の楼主は息を吐き小さく呟いたが、その声は露草には届いていなかった。
「咲耶ちゃんがねぇ、私のこと素敵だって……。それに、自分のこと可愛げがないって言ったのよ! 信じられる!?」
 露草は遠くを見つめて頬を赤くする。
「可愛い!! 可愛いしかない!! なんて尊いの!? 思わずひざまずきそうになっちゃったぁ!」
 露草は口元を両手で覆い、身をよじる。
「お、おい! そんなことしてないだろうな!?」
 いずみ屋の楼主が慌てる。
「するわけないじゃない! 咲耶ちゃんに変な目で見られちゃう! まぁ、そんな目で見られるのもまたいいけど……。ふふふ」
 露草はうっとりとした表情でまた遠くを見つめる。
 いずみ屋の楼主はそんな露草の様子をしばらく呆然と見つめ続けた後、再び力なくしゃがみ込んだ。
「うちの太夫は変態だ……」
 いずみ屋の楼主は頭を抱えた。
「また最近麻疹(はしか)が流行り始めてるそうだよ……」
「え!? また!? どうりで最近客が減ったと思った……」
「私たちも気をつけないとね……」
 遅い朝食をとりながら、遊女は皆ため息をもらした。
「はしか……?」
 野風が不思議そうに夕里を見た。
「そういう流行り病があるのよ。最初は風邪みたいな症状なんだけど、かかると高熱が出て死ぬことも多いの。熱が出た後に赤い小さい発疹が全身にできるんだけど、うつりやすい病気だから、そういう発疹があるお客がいたら気をつけるんだよ」
「赤い発疹……? それなら俺、かかったことあるかも。小さい頃だけど……全身に赤いブツブツができるやつだろ?」
「ああ、そうなの? それなら野風は心配ないわね」
 夕里は微笑んだ。
「麻疹は一度かかると、二度とかからないらしいから」
「そうなの?」
「う~ん、私もくわしくはわからないけど、そうみたいよ」
「そうなのか……。姐さんはかかったことないの?」
 野風は不安げな顔で夕里を見た。
「私はないのよ。だから、気をつけないとね」
 夕里は野風を見て微笑んだ。
「何? 私のこと心配してくれるの? もうすっかり大人になったのねぇ」
「な!? 子ども扱いするなよ! 心配ぐらいするよ! 姐さんのことなんだから……」
 野風は顔を赤くして、拗ねたように夕里から目をそらした。
(本当に可愛いわね……)
 夕里は小さく微笑んだ。
「そ、そんなことより、客が来ないと困るんじゃないのか?」
 野風は話題を変える。
「そうね……。今はまだそこまで広がっていないみたいだから、来てくれているお客もいるけど……、今よりひどくなったら厳しいわね……」
「みんな薄情なんだな……」
 野風が低い声で呟く。
「え……?」
「姐さんは客に夢を見せるのが仕事だって言って客のこと大事にしてるのに、客は夢だけ見て、病が流行ったら来なくなるんだろう? 薄情だよ……。本当に俺たちのこと想ってたら心配して来るのが普通だろ? 姐さんのこと身請けしたいって言ってたやつだって、どうせ口先だけで来なくなるに決まってる! 姐さんはどうしてそんなやつら大事にするの?」
「野風……」
 野風の言葉に、夕里はかける言葉が見つからなかった。
 病が流行れば客足は遠くのが普通で、遊女を心配して客が来ることなど滅多になかった。
「そんなお客ばかりじゃないのよ……」
 夕里はなんとかそれだけ口にした。
 野風が疑うようなまなざしを夕里に向ける。
 夕里は苦笑いすることしかできなかった。


 朝食を終えた夕里は自分の部屋に戻ると、小さくため息をついた。
(どうしたものかしら……)
 野風はいまだにお客を信用していなかった。
 それはお客にのめり込み過ぎないという意味ではよかったが、素直な性格ゆえにそれが言葉や態度に出てしまうことは問題だった。
 だからこそ、客足が遠のくことでお客はみんな薄情だと思い込むことだけはなんとしても避けたかった。
 夕里は再びため息をつくと、鏡台の引き出しから硯箱(すずりばこ)を取り出した。
 硯に水を入れ、墨をする。
(野風はときどき鋭いこと言うのよね……)
 夕里は苦笑した。
 直次の身請け話が口先だけなのは、夕里が一番よくわかっていた。
(ああいう男は、遊女にちやほやされるのが好きなだけだから……。病なんて流行ったら真っ先に来なくなるのよね……。別にもう来なくてもいいと思ってたけど、そうもいかなくなっちゃったな……)
 夕里は墨を置くと、紙を広げた。
 筆を手に取り、筆先を墨に浸す。
「え~と、何から書こうかな……。『桜が散って、新緑が美しい季節となりましたね』と……」
 夕里は思いつくままに紙に筆を走らせた。
「うん、こんなものかな! どうでもいい相手にだと、すらすら書けるわね」
 夕里は手紙を両手で持ち、ひとり頷いた。
「あとは仕上げに……」
 夕里は手紙を机に置き、引き出しから小刀を出すと、髪をひと房だけ手に取って切った。
「最近傷んでたからちょうどいいわ。傷んだ髪でもあの男ならわからないでしょうし……」
 夕里は小刀をしまうと、いらなくなった布を取り出し髪を丁寧に包んだ。
「これだけ想われていると勘違いすれば、あの男もまだしばらくは見世に来るでしょう!」
 夕里は満足げに微笑んだ。