茜は焼けるような熱さに、思わず瞼を震わせた。
(熱い……。あれ……私、いつのまに寝て……。それに、どうしてこんなに暑いの……? 私……どこにいたんだっけ……?)
 茜は重い瞼をなんとか開けた。
 目の前にはまるで生き物のように蠢く炎があった。
(……え?)
 茜は目を見開く。
(か、火事……? 一体、何が……。た、確か……佑助の屋敷に来て……)
 そこまで考えて、茜はようやく少しだけ状況を理解した。
 慌てて体を起こそうと腕に力を込めたが、茜の体は床にうつ伏せになったまま、ほとんど動くことはなかった。
(動けない……。どうして……?)
 茜はなんとか首だけを動かして小屋を見回した。
 すでに炎は小屋全体に広がっているようだった。

 茜の胸に一気に嫌なものが広がっていく。
(もう……手遅れ……なの……?)

 茜は叫んで助けを呼ぼうとしたが、煙を吸って咳き込み、思うように声が出せなかった。
 茜の指先が恐怖で震え始める。

(こんな火の気のないところで火事なんて……。それに、私もこんなふうに偶然動けなくなるなんて……そんなこと……あるはずない……。もしかして、私を狙って……?)
 恐ろしい考えが浮かび、茜の瞳が揺れる。

(これは……もしやお父様が指示を……?)

 茜はそう考えたところで、静かに目を閉じた。
(いいえ、お父様が私を殺そうとするはずない……)
 茜の父親は、誰が見てもひとり娘の茜を大切に育てていた。
 父親が茜を愛していることは、茜自身が一番よくわかっていた。
(だから、これはきっと……お父様の周りにいた誰かの仕業……。私が永世様に伝えようとしたから……)

 茜はゆっくりと息を吐いた。
(お父様が言っていた通り、関わらなければよかったの……?)
 茜はしばらく考えた後、重い瞼を開けると小さく微笑んだ。

(いいえ、これでよかったのよ……。後悔なんてない。武家の娘として、恥じることのない正しい道を生きられたんだから……)
 茜はゆっくりと手を動かし、懐に入れてあった名簿に触れた。
(ただ……なんとかこれだけでも残さないと……)

 茜は首を回して、小屋の中を確認した。
 煙で霞んではいたが、すでに棚や箱などに火が燃え移っているのがわかった。
(何かに入れても燃えてしまいそうね……)
 茜は静かに息を吐いたが、ふとあることを思い出した。
(そうだ……。この小屋にも穴蔵があるかもしれない……!)

 茜の屋敷にも、この小屋と同じような小屋があったが、そこには万が一火事になったときにも大切なものが燃えてしまわないように穴蔵が作られていた。
(そうよ……! 佑助の家にもきっとあるはずだわ……! それなら私もそこに入れば、なんとか助かるかもしれない……!)
 茜の胸に希望が湧いた。

(そういえば、前に踏んだときに音が鳴った場所があった! きっとそこに穴蔵が……!)
 茜は力を振り絞り、記憶を頼りに床を這って移動した。
(確か……このあたりに……)
 茜は手を伸ばし、床板の隙間に爪を掛ける。
 かすかに床板が動いたのがわかった。
(あった……!)
 茜は渾身の力を込めて、必死に床板を動かしていく。
 
 ある程度動かし終えると、茜は力を振り絞って顔を上げ、穴蔵を覗き込んだ。
 瞳が揺れ、茜の口元に苦い笑いが浮かぶ。
(これは……)

 穴蔵は小さく、そして浅かった。

 名簿は問題なく入りそうだったが、人が入れるほどの大きさも深さもなかった。
 中には書物が入っており、帳簿を保管するために作られたようだった。

(そううまくは……いかないか……)
 茜は長い息を吐く。
 ゆっくりと息を整えると、茜は気持ちを切り替えた。

 懐から名簿を取り出すと、すでに入っていた書物の上にそっと重ねる。
(どうか、これが永世様に届きますように……)
 茜は祈るように目を閉じた。
(永世様には知る権利がある……。出家なんて……そんなのダメです……。だって……)

 そのとき茜は煙を吸い込み、激しく咳き込んだ。
 息が苦しく、目からは自然と涙が零れていた。
(まずい……。もうあまり時間が……)

 そのとき、霞む視界の先にある紙の束に目が留まった。
 茜の口元に自然と笑みが浮かぶ。
 それは、意識を失う前に茜が箱から出した佑助の絵だった。
 茜は手を伸ばして、紙の束を引き寄せる。

 そこには、さまざまな茜の姿が描かれていた。
(私が見たことない絵もあるな……)
 不満げな表情をしている横顔や、軽く睨むようにこちらを見ている顔もあった。
(こんなのも描いてたのね……。確かに可愛く描いてくれとは言ってないけど……何もこんな顔描かなくても……)
 茜は苦笑した後、静かに目を伏せた。
(私がここで死んだら……佑助は黒焦げになった私も見ることになるのかしら……)
 胸が苦しかった。
(佑助はうちの事情を知らないから……自分のせいだなんて思わないといいけど……)

 どこまでも澄んでいる佑助の目が、自分のせいで濁ってしまいそうで、茜にはそれが怖かった。
(佑助には……ずっと綺麗なものだけ見ていてほしかったのに……。私が巻き込んだせいで……)
 茜は、佑助の絵をそっと撫でる。
(なんとか……しないと……)

 茜は辺りを見回すと、床に残された絵具箱に目を留めた。
 床を這って移動し絵具箱を引き寄せると、小屋を出る前、佑助が絵を描いていたためか、絵具の粉が溶かれた状態で残されていた。
(よし、これなら……)
 茜は震える指先に絵具をつけると、絵の裏に言葉を残した。

『私はあなたの絵の中に』

 それだけ書くのが精一杯だった。
(こんな火事のことなんて、忘れていいの……。佑助はこの綺麗な世界だけ……覚えていて……)
 茜はその紙を名簿の上に重ねて入れると、ほかの絵も一枚ずつ確認しながら、穴蔵に入れていく。

(佑助が描く世界は本当に綺麗ね……)

 植物の絵も動物の絵も、どれも生き生きと輝いているようだった。
(私の絵もこんなに……。私ばかりこんなに描いてもらったけど……)
 茜は最後の一枚を入れ終えたとき、苦笑した。
(そういえば、佑助の顔……描いてもらったことなかったな……)

 茜の目が涙と煙で霞み、視界はどんどん狭くなっていく。
(描いてもらえばよかった……。そしたら最後に……佑助の顔見れたのにな……)

 茜は最後の力を振り絞って床板を元に戻すと、ゆっくりと息を吐いた。
(これできっと……)
 茜は静かに瞼を閉じる。
 朦朧とする意識の中で、茜は祈った。
(どうか神様……私の大切な人たちが……どうか傷つきませんように……。どうか……守り……お救いください……)

 そのとき茜の脳裏に、佑助の照れたような笑顔が浮かんだ。
(なんで照れた顔……?)
 茜は思わず微笑むと、深い深い眠りに落ちていった。