【コミカライズ】鏡花の桜~花の詩~

(そろそろ戻らないと茜が怒りそうだな……)
 佑助は、父親の横で客の話に相づちを打ちながら、引きっつった笑顔を浮かべていた。

 突然の来客を見に屋敷に戻った佑助は、すぐに父親に見つかり客の相手をするようにと座敷に連れて行かれた。
 やはり予定になかった来客のようで、奉公人は皆せわしくなく屋敷を行ったり来たりしている。

(茜はどうして客が来るって知っていたんだろう……)
 佑助は相づちを打ちながら、少しだけ目を伏せた。

「それにしても、こんな立派な跡取りがいらっしゃるなら、この家も安泰ですな!」
 客のひとりが、佑助を見ながら豪快に笑った。
「いえいえ、家のことなどまだ何も……」
 父親が苦笑しながら、佑助の方を見る。
「絵ばかり書いていないで、私の手伝いもしてほしいところなのですが……」
 父親の言葉に、佑助は苦笑いするしかなかった。

(一体……この人たちは何をしに来たんだろう……)
 座敷で話し始めて随分経ったが、いまだに屋敷に来た目的がわからなかった。
 父親も同じように不思議に思っているのか、何度も要件について尋ねていたが、明確な答えは返ってきていなかった。
(そろそろ解放してほしいけど……茜が来てるってここで言うわけにもな……)
 佑助は父親の顔をチラチラと見たが、父親は佑助の視線をあえて無視しているようだった。
(どうしよう……)

 そのとき、誰かがバタバタと廊下を走る音が響いた。
「だ、旦那様……!」
 奉公人の声が響き、返事を待たずに勢いよく襖が開いた。
「た、大変でございます……!」
 奉公人はそう言って父親を見た後、隣にいる佑助を見て、目を見開いた。
 次の瞬間、奉公人の顔に安堵の表情が浮かぶ。
「あ……失礼しました……。庭で小屋が燃えておりまして……その……佑助様が中にいらっしゃると思ったものですから……」
 奉公人は、来客中に断りもなく座敷に入ったことを詫びた。
「佑助様はこちらにいらっしゃったのですね……。よかった……」
 奉公人はそれだけ言うと、深々と頭を下げた。

(小屋が……燃えている……?)
 佑助は目を見開く。
 奉公人の言葉は、途中から佑助の耳には届いていなかった。
(小屋が……? そんな……あそこには今、茜が……!)

 佑助は気がつくと立ち上がり、小屋に向かって走り出していた。

「お、おい! 佑助……!」
 父親の声がかすかに聞こえた気がしたが、佑助には気にしている余裕がなかった。
(火が……? 茜はまだ中に……!? いや、きっともう茜なら逃げてるはず……)

 小屋に近づくほど、何かが燃えたような臭いが強くなっていく。
(茜は賢いし、小屋が燃えてるのに中でじっとしているはずない……。中にいるはずが……)

 屋敷を出ると佑助の視線の先に、燃え盛る炎の塊があった。
 火はすでに小屋全体を飲み込み、大きな火の塊と化している。
 佑助の想像より火の勢いはずっと強かった。

(逃げて……いるよね……?)
 佑助は辺りを見回した。
「茜……?」
 佑助は震える声で呼びかけた。
「あ……かね……。茜……!」
 佑助は声を張り上げたが、その声に応える者はなかった。

(どこにいるの、茜……。ここだって……、火事なんてびっくりしちゃったって……。そう言って出てきてよ……)
「茜!!」
 佑助の顔から血の気が引いていく。
(まさか……逃げて……ないの……?)

「佑助! 一体どうしたんだ……」
 そのとき、佑助のことを追ってきた父親と奉公人が、庭に姿を現した。
「これはひどいな……。とにかく土と水をかけて消火を……」
 父親はすぐに奉公人たちに指示を出したが、その言葉は佑助の耳には届いていなかった。

「そんな……! 茜……、茜が……中にいるのに……!」
 佑助はその場に崩れ落ちる。
 佑助の言葉に、父親と奉公人たちが目を見開いた。
「茜が……? ど、どうして茜が!?」
 父親は奉公人たちを見た。
 奉公人たちは目を見開いたまま、慌てて首を横に振る。
「そ、そんな……。きょ、今日は来ていなかったはず……」

 父親に気づいた佑助は、もつれる足で父親に駆け寄り、足元に縋りついた。
「父上!! 茜を! 茜を助けてください!」
 目を見開いた父親は、ゆっくりと視線を小屋に向けた。

 中にいるとすれば、もう手遅れなことは誰の目にも明らかだった。
 父親は何も言わず、静かに目を閉じた。
「父上!! お願いです!!」

 そのとき、小屋に向かって来る人影があった。
 真っすぐにこちらにやってきたのは、青白い顔をした茜の父親だった。
 茜の父親は、どこかフラフラとした足取りで小屋に向かって歩いていくと、小屋の近くの茂みにいた男を引きずり出した。
 見知らぬ男が隠れていたことに、佑助をはじめ屋敷の皆が息を飲んだ。

(あれは……誰……? いや、今はそんなことを考えてる場合じゃ……)
 佑助が小屋に視線を戻そうとしたとき、見知らぬ男の声が辺りに響く。
「これは、違うんです……! 私は旦那様のご言いつけの通りに! これは……」

(え……? それはどういう……)
 男の言葉に、佑助が目を見張った次の瞬間、茜の父親の唸り声とともに男の首が裂け、血しぶきが上がった。
 佑助は目を見開く。
 茜の父親は、首が裂けて倒れていく男の首に何度も刀を振り下ろしていた。
 返り血で、茜の父親の全身が真っ赤に濡れていく。
(何が……何が起こって……)
 佑助は強く目を閉じた。
 目の前で起こっていることが本当に現実なのか、佑助にはわからなくなっていた。
 気がつくと、男の頭はちぎれ、燃え盛る小屋の前に転がっていた。

 佑助の隣で、父親も息を飲んでいるのがわかった。
(一体これは…………)
 あまりに非現実的な光景に、佑助は動くことができずにいた。

 呆然としていた佑助の隣で、父親がゆっくりと動き出す。
「この火事は……おまえがやったのか……?」
 佑助の父親は、刀を持って立ち尽くす茜の父親のもとに歩いていく。
「おい! おまえがやったのかと聞いているんだ……!」
 佑助の父親は、茜の父親の刀を持つ手を掴むと、声を荒げた。

「だ、旦那様、危険です! 離れてください……!」
「そ、そうです……! 正気ではないように見えます……! 危険です!」
 父親が動き出したたことをきっかけに、奉公人たちが慌てた様子で動き出す。

(これは一体……。それより……茜が……。こんなことをしてる場合じゃ……)
 佑助は小屋に視線を移す。
 炎に包まれた小屋は、今にも崩れ落ちてしまいそうだった。
(早くしないと……茜が……茜が死んでしまう……!)

 佑助は気がつくと駆け出し、再び父親に縋りついていた。
「父上! こんなことをしている場合では……! 茜を! 茜を助けてください!」
 父親は一瞬、佑助を見て何か言いかけたが、すぐに茜の父親に視線を戻した。
(父上……!)
 佑助は奥歯を噛みしめると、奉公人に向かって叫んだ。
「誰か……火を! 火を消して!! 茜を……! 茜を助けないと!!」
 佑助の言葉に、奉公人たちがハッとして佑助の方を見た次の瞬間、女の悲痛な叫び声が辺りに響いた。

「あぁああああああああ」

 佑助が驚いて視線を向けると、誰かが小屋に向かって走ってきていた。

「茜!! そこにいるの!? ……茜!!」
 燃え盛る小屋に向かっていく女を、奉公人たちが止めた。
「茜!! 嫌よ……こんなの……茜!! 茜!! 離して!! 茜を助けないと……!!」
 女の金切り声が辺りに響く。

 佑助は叫び出しそうだった。
 錯乱した茜の母親が飛び込んでも、茜を助けられるとは思えなかった。
 それどころか母親を押さえることに人手を取られ、誰も消火にさえ動けていなかった。
(とにかく、早く火を……! 僕も水を……)

『それならおまえが助ければいいだろ?』
 ふいに頭の中で声が聞こえた気がした。
『おまえが炎の中に飛び込んで助ければいい』
(そう……僕が……)
 佑助は燃え盛る小屋に目を向けた。
 小屋から吹きつける風は熱く、その熱風だけで汗が吹き出した。
 佑助の足がかすかに震え始める。
 佑助は動くことができなかった。
『どうした? 飛び込めよ。それとも自分の命の方が大切か?』
 その声は小屋の前に転がった首から聞こえてくるようでもあった。

(違う……。僕は……)
 佑助の瞳が揺れ、頬を汗が伝う。
 鼓動の音だけがやけに大きく耳に響いた。
『ほら、助ける気なんてないんじゃないか』
(違う……僕ひとりじゃ助けられないから……)

 佑助は強く目を閉じると、もつれる足で父親に駆け寄りもう一度縋りつく。
(そう……僕ひとりじゃどうにもできないんだ……。だから……)
「ち、父上……、お願いです……。茜を……」
 佑助はそう口にしながら、父親の顔を見上げる。

 その瞬間、佑助は目を見開いた。

 佑助の父親は笑っていた。
 嘲るように歪んだその顔は、今までに見たことがないほどひどく醜かった。

 佑助は思わず後ずさる。

(これは……誰だ……?)

 呼吸が浅くなり、視界が霞んでいく。
 佑助の父親は厳しい人だった。
 よく笑う方でも、よく話す方でもなかった。
 ただ、温かい人だとは感じていた。
 茜が死にそうなときに嘲り笑う人間ではないはずだった。

 佑助の様子に気づいた父親が、慌てた様子で佑助の腕を掴もうとした。
 佑助は反射的にその手を振り払う。

 耳を覆いたくなるような女の金切り声が、辺りに響いていた。
(僕が生きてきた世界は……こんな世界だった……?)

 炎が揺らめき、無数の人々の影が足元から伸びていた。
 転がる首、嘲り笑うように揺れる影たち、広がる血の海。
(そうか……、僕は……地獄に落ちたのか……)

 次の瞬間、音を立てて小屋が崩れ落ちた。
 小屋はただの瓦礫の山となり、そこに生きた人の気配はなかった。

 佑助の目から涙が零れ落ちる。
(地獄に落ちたんだ……。茜を……見殺しにしたから……)
 佑助は唇を噛んだ。
(そうだ……最初から……僕が飛び込むべきだったんだ……。それなのに僕は……僕は……)
 佑助はその場に崩れ落ちた。
 小屋の前に転がった男の首が、こちらを見て笑っているようだった。
 佑助は思わず顔を覆ったが、佑助の目にはこの光景が焼きついて離れなかった。
 佑助は長屋でいつものように絵を描いていた。
 絵は、構図こそ違ったが描くものはいつも同じだった。
 茜が死んだあの日の光景。
 その地獄絵図の中で鬼に刺され、捻じ切られ、焼かれている罪人は、常に佑助だった。
 佑助は絵の中で何度も自分を殺した。
 どれだけ無惨に殺しても、佑助の心は少しも軽くならなかったが、それでも佑助は描かずにいられなかった。

(馬鹿だな……。本当に……)
 佑助は苦笑した。

 信に鬼は誰かと問われ、佑助と茜の父親だと答えたが、佑助にとって鬼は重要ではなかった。
 あの日罪を犯したのは、佑助の父親でも、茜の父親でもなく、茜を見殺しにした自分自身だと、佑助は思っていた。
(こんなもの描いていたって……何の償いにもならないってわかってるんだけど……)
 佑助は目を閉じるとゆっくり息を吐いた。

 そのとき、長屋の戸を叩く音が響く。
 佑助は筆を置くと顔を上げた。

「佑助、突然すまない……。叡正だが、中にいるか?」
 戸の向こうから叡正の声が響いた。

「永世様……?」
 佑助は慌てて立ち上がると、戸に駆け寄った。
 戸を開けると、そこには叡正と信の二人が立っていた。
「永世様と……信様……。どうされたのですか?」
 佑助は二人を見て首を傾げた。

「今日は渡すものがあって来たんだ」
 叡正は佑助を真っすぐに見つめた。
「渡すもの……ですか? あ、とりあえず、どうぞお入りください」
 佑助はそう言うと、叡正と信に入るように促した。
「ああ、すまない。ありがとう」
 叡正は礼を言うと、信とともに長屋に入った。

「今、お茶を……」
「あ、渡したらすぐに行くから、何も出さなくて大丈夫だ」
 土間に向かおうとする佑助を、叡正は慌てた様子で呼び止めた。

「あ、そうなのですね……。わかりました……」
 佑助は叡正と信が座ったのを確認してから、向かい合うように畳の上に腰を下ろす。
「それで、渡すもの……というのは……?」

 叡正は、佑助の顔を見つめると、持ってきていた風呂敷包みを佑助に差し出した。

「これ……ですか?」
 佑助は風呂敷包みを受け取ると、叡正を見た。
「開けてみてくれ」
 叡正はそれだけ言うと、静かに目を伏せた。

(なんだろう……。すごく軽いけど……)
 佑助は包みを畳の上に置くと、結び目を解いた。
 包みの中には紙の束があった。

 佑助は目を見開く。
「これは……」
 佑助は震える指先で、一枚の紙を手に取った。

 そこには茜がいた。
 蓮の花の前で振り返り、無邪気に笑う茜の姿が今、佑助の目の前にあった。

「どうして……? 全部……焼けたはずなのに……」
 佑助の目から自然と涙が溢れ出した。
 もう茜の顔は二度と見ることができないと思っていた。
 最後に見た光景が目に焼きつき、佑助は茜の顔をうまく思い出すことができなくなっていた。
 地獄絵しか描けないのは、それが原因でもあった。

 佑助は紙の束に視線を移す。
 今まで描いてきたすべての絵がそこにあった。

「小屋の床下にさ……」
 叡正はゆっくりと口を開いた。
「穴蔵が作ってあったらしいんだ……。商家の蔵じゃないから、そんなに深さはなかったみたいだけど、火事になったときのために、大事な書物はそこに入れてあったらしい……。その穴蔵に、絵が描かれた紙の束と名簿が重ねて入れてあったって……佑助の家の奉公人が言ってたよ……」
 叡正の言葉に、佑助の瞳が揺れる。
「では……茜が……これを……?」
「ああ、たぶんな……。絵の裏を見てやってくれ」
 叡正はそう言うと、目を閉じた。

「裏……?」
 佑助は手に持っていた紙の裏を見た。

『私はずっとあなたの絵の中に』

 絵具を指につけて書いたのか、乱れた文字でそれだけが書かれていた。
(絵の……中に……)
 佑助は溢れるものを堪えることができなかった。

『ねぇ、いつか私のことも描いてくれない?』
 出会ったばかりの頃の茜の姿が、佑助の頭の中に蘇る。
『約束よ……。たくさん、たくさん描いて……』
 どこか切実で泣き出しそうな顔で茜はそう言った。

「ああ、そうだ……。僕、約束……してたんだったね……」
 佑助の涙が頬を伝い、微笑む茜の上に落ちていく。
「ずっと……忘れてた……」

 佑助はしばらくただ絵を見つめていたが、二人の視線に気づくと慌てて着物の袖で涙を拭った。
「す、すみません……。お見苦しいものを……」
 佑助はかすかに微笑むと二人を見た。
「届けていただき……ありがとうございます……。うちの奉公人に頼まれたのですか……?」
「ああ、でも……奉公人というより、佑助の父親が指示したみたいだ……」
 叡正はそこで佑助を気遣うように微笑んだ。
「おまえのこと……心配しているみたいだった。もしできるなら……屋敷に顔を出した方がいいと思う……」
 叡正の言葉に、佑助はわずかに目を見張る。

(父上が……。もう完全に見放されたと思っていたのに……)
 佑助は静かに目を伏せた。
「そうですね……。落ち着いたら……一度……顔を出します……」
「ああ、それがいい」
 叡正はそれだけ言うと、信に視線を向けた。
「じゃあ、俺たちはこれで失礼するよ」
 叡正の視線を受けて信も静かに立ち上がった。
「あ……何のおもてなしもできずに、すみません……」
「いやいや、こっちが勝手に押し掛けただけだから……」
 叡正は苦笑すると、戸に向かって歩き始めた。

「あ……、永世様」
 佑助はあることを思い出し、思わず声を上げた。
「先ほど……紙の束と名簿が入っていたとおっしゃいましたよね?」

 佑助の声に、叡正と信は立ち止まり振り返った。
「うん? ああ、そう聞いた。ただ名簿はどこかにいってしまったみたいだったが……」
「……え? そう……なのですか……?」

「名簿が何か知っているのか?」
 唐突に信が口を開いた。

「あ、何かはわからないのですが……。あの火事の日、茜が小屋に持ってきて、父上に渡そうとしていたものです……。あ、でも……」
 佑助はわずかに視線を落とした。
「茜は永世様に会えていなかったのですよね……? それなら、その名簿はおそらく永世様に渡したかったものなのだと思います……」

「え、俺に……?」
 叡正は目を見開く。
「俺に……何か関係のある名簿なのか……?」

「それは……わかりません……。ただ、茜は永世様に何か伝えようとしていました。外出を禁じられて直接行くことができなかったので、父上に託そうとしたのだと思います……」
「そう……だったのか……」
 叡正は目を伏せた。

「なくなるはずはないので……僕が屋敷に顔を出したときに探してみます」
 佑助はそう言うと真っすぐに叡正を見た。
「茜が最後に残そうとしたものですから、必ず……」
「あ、ああ。ありがとう」
 叡正はそう言うと微笑んだ。
「……じゃあ、俺たちはこれで。長居して悪かったな」

 叡正は戸に向かったが、信は立ち止まったままその場を動かなかった。

「……信様? どうか……されましたか?」
 佑助が信に声を掛けると、信はじっと佑助を見つめた。

「……ひとつ、頼みがある」
 信は静かにそう言うと、佑助にある頼み事をした。
 茜は焼けるような熱さに、思わず瞼を震わせた。
(熱い……。あれ……私、いつのまに寝て……。それに、どうしてこんなに暑いの……? 私……どこにいたんだっけ……?)
 茜は重い瞼をなんとか開けた。
 目の前にはまるで生き物のように蠢く炎があった。
(……え?)
 茜は目を見開く。
(か、火事……? 一体、何が……。た、確か……佑助の屋敷に来て……)
 そこまで考えて、茜はようやく少しだけ状況を理解した。
 慌てて体を起こそうと腕に力を込めたが、茜の体は床にうつ伏せになったまま、ほとんど動くことはなかった。
(動けない……。どうして……?)
 茜はなんとか首だけを動かして小屋を見回した。
 すでに炎は小屋全体に広がっているようだった。

 茜の胸に一気に嫌なものが広がっていく。
(もう……手遅れ……なの……?)

 茜は叫んで助けを呼ぼうとしたが、煙を吸って咳き込み、思うように声が出せなかった。
 茜の指先が恐怖で震え始める。

(こんな火の気のないところで火事なんて……。それに、私もこんなふうに偶然動けなくなるなんて……そんなこと……あるはずない……。もしかして、私を狙って……?)
 恐ろしい考えが浮かび、茜の瞳が揺れる。

(これは……もしやお父様が指示を……?)

 茜はそう考えたところで、静かに目を閉じた。
(いいえ、お父様が私を殺そうとするはずない……)
 茜の父親は、誰が見てもひとり娘の茜を大切に育てていた。
 父親が茜を愛していることは、茜自身が一番よくわかっていた。
(だから、これはきっと……お父様の周りにいた誰かの仕業……。私が永世様に伝えようとしたから……)

 茜はゆっくりと息を吐いた。
(お父様が言っていた通り、関わらなければよかったの……?)
 茜はしばらく考えた後、重い瞼を開けると小さく微笑んだ。

(いいえ、これでよかったのよ……。後悔なんてない。武家の娘として、恥じることのない正しい道を生きられたんだから……)
 茜はゆっくりと手を動かし、懐に入れてあった名簿に触れた。
(ただ……なんとかこれだけでも残さないと……)

 茜は首を回して、小屋の中を確認した。
 煙で霞んではいたが、すでに棚や箱などに火が燃え移っているのがわかった。
(何かに入れても燃えてしまいそうね……)
 茜は静かに息を吐いたが、ふとあることを思い出した。
(そうだ……。この小屋にも穴蔵があるかもしれない……!)

 茜の屋敷にも、この小屋と同じような小屋があったが、そこには万が一火事になったときにも大切なものが燃えてしまわないように穴蔵が作られていた。
(そうよ……! 佑助の家にもきっとあるはずだわ……! それなら私もそこに入れば、なんとか助かるかもしれない……!)
 茜の胸に希望が湧いた。

(そういえば、前に踏んだときに音が鳴った場所があった! きっとそこに穴蔵が……!)
 茜は力を振り絞り、記憶を頼りに床を這って移動した。
(確か……このあたりに……)
 茜は手を伸ばし、床板の隙間に爪を掛ける。
 かすかに床板が動いたのがわかった。
(あった……!)
 茜は渾身の力を込めて、必死に床板を動かしていく。
 
 ある程度動かし終えると、茜は力を振り絞って顔を上げ、穴蔵を覗き込んだ。
 瞳が揺れ、茜の口元に苦い笑いが浮かぶ。
(これは……)

 穴蔵は小さく、そして浅かった。

 名簿は問題なく入りそうだったが、人が入れるほどの大きさも深さもなかった。
 中には書物が入っており、帳簿を保管するために作られたようだった。

(そううまくは……いかないか……)
 茜は長い息を吐く。
 ゆっくりと息を整えると、茜は気持ちを切り替えた。

 懐から名簿を取り出すと、すでに入っていた書物の上にそっと重ねる。
(どうか、これが永世様に届きますように……)
 茜は祈るように目を閉じた。
(永世様には知る権利がある……。出家なんて……そんなのダメです……。だって……)

 そのとき茜は煙を吸い込み、激しく咳き込んだ。
 息が苦しく、目からは自然と涙が零れていた。
(まずい……。もうあまり時間が……)

 そのとき、霞む視界の先にある紙の束に目が留まった。
 茜の口元に自然と笑みが浮かぶ。
 それは、意識を失う前に茜が箱から出した佑助の絵だった。
 茜は手を伸ばして、紙の束を引き寄せる。

 そこには、さまざまな茜の姿が描かれていた。
(私が見たことない絵もあるな……)
 不満げな表情をしている横顔や、軽く睨むようにこちらを見ている顔もあった。
(こんなのも描いてたのね……。確かに可愛く描いてくれとは言ってないけど……何もこんな顔描かなくても……)
 茜は苦笑した後、静かに目を伏せた。
(私がここで死んだら……佑助は黒焦げになった私も見ることになるのかしら……)
 胸が苦しかった。
(佑助はうちの事情を知らないから……自分のせいだなんて思わないといいけど……)

 どこまでも澄んでいる佑助の目が、自分のせいで濁ってしまいそうで、茜にはそれが怖かった。
(佑助には……ずっと綺麗なものだけ見ていてほしかったのに……。私が巻き込んだせいで……)
 茜は、佑助の絵をそっと撫でる。
(なんとか……しないと……)

 茜は辺りを見回すと、床に残された絵具箱に目を留めた。
 床を這って移動し絵具箱を引き寄せると、小屋を出る前、佑助が絵を描いていたためか、絵具の粉が溶かれた状態で残されていた。
(よし、これなら……)
 茜は震える指先に絵具をつけると、絵の裏に言葉を残した。

『私はあなたの絵の中に』

 それだけ書くのが精一杯だった。
(こんな火事のことなんて、忘れていいの……。佑助はこの綺麗な世界だけ……覚えていて……)
 茜はその紙を名簿の上に重ねて入れると、ほかの絵も一枚ずつ確認しながら、穴蔵に入れていく。

(佑助が描く世界は本当に綺麗ね……)

 植物の絵も動物の絵も、どれも生き生きと輝いているようだった。
(私の絵もこんなに……。私ばかりこんなに描いてもらったけど……)
 茜は最後の一枚を入れ終えたとき、苦笑した。
(そういえば、佑助の顔……描いてもらったことなかったな……)

 茜の目が涙と煙で霞み、視界はどんどん狭くなっていく。
(描いてもらえばよかった……。そしたら最後に……佑助の顔見れたのにな……)

 茜は最後の力を振り絞って床板を元に戻すと、ゆっくりと息を吐いた。
(これできっと……)
 茜は静かに瞼を閉じる。
 朦朧とする意識の中で、茜は祈った。
(どうか神様……私の大切な人たちが……どうか傷つきませんように……。どうか……守り……お救いください……)

 そのとき茜の脳裏に、佑助の照れたような笑顔が浮かんだ。
(なんで照れた顔……?)
 茜は思わず微笑むと、深い深い眠りに落ちていった。
 ほのかな灯りの中で、かすかに影が揺らめいたのがわかった。
 布団に横になっていた茜の父親は、小さく息を吐く。

「来た……か」
 茜の父親はかすれた声で呟いた。
(ついに裁かれるときが来たんだ……)

 死ぬことは怖くなかった。
 むしろこうして正気を保ったまま、生き続けることの方がよほど怖かった。

 ゆっくりと何かが近づいてくる気配がして、やがて布団に影が差す。
 茜の父親は視線を動かし、影の主を見てわずかに目を見張った。
「え……?」
 灯りに照らし出されたのは、薄茶色の髪をした見知らぬ男だった。
 男はただ静かにこちらを見下ろしていた。

「……永世様じゃ……ないのか……」
 茜の父親は思わず呟いた。

 男の薄茶色の瞳がわずかに揺れる。
「叡正……?」
 薄茶色の髪の男が少しだけ動揺したのがわかった。

(永世様に頼まれた、というわけでもなさそうだな……)
 茜の父親は静かに目を伏せた。
「いや……、何でもない……。どちらにしろ……一緒だ……。私を……殺しに来たのだろう……?」
 茜の父親は、こちらを見下ろしている男を見た。
「さぁ……殺してくれ……」

 男は薄茶色の目を伏せると、茜の父親の枕元に腰を下ろした。
 茜の父親はそっと目を閉じる。
(これですべて終わる……)

 男が動くのがわかり、茜の父親は無意識に体を強張らせた。
 しかし予想に反して、痛みはやって来なかった。
 男は、無言で茜の父親の衿元を掴み、着物をずり下げた。
 着物がはだけ、左肩と腕が冷たい空気に触れる。

(ああ……鬼に恨みを持った人間なのか……)
 男は少しだけ目を開けると、静かに納得した。
 痩せて歪んでしまってはいたが、左腕にはまだ鬼の入れ墨が残っているはずだった。

 男は入れ墨を確認し終えると、ゆっくりと懐から短刀を取り出した。
 鞘から抜かれた刀が、部屋の灯りを受けて妖しく光る。

(そうだ……それでいい……)
 冷たい刃先が、茜の父親の喉元に当てられる。
(これで……ようやく私も……)

「おまえは……」
 そのとき、男がふいに口を開いた。
 淡々とした声に、茜の父親は思わず目を開ける。
「おまえは、今まで何人殺した?」
 茜の父親は男を見つめる。
 男の顔からは、何の感情も読み取れなかった。

 茜の父親はわずかに目を伏せる。
「……わからない……」
 直接手を下したことは一度もなかったが、多くの死に関わってきたことは確かだった。
「数え……きれないほどだ……。そして最後には……一番大切な娘まで……自分で手に掛けた……」

(そう……罰を受けるべきだったのは私なのに……。それなのに、罰を受けたのは……)
 茜の父親は、震える手を握りしめた。

「もう……いいだろう……? 早く……殺してくれ……」
 その声はかすかに震えていた。

 ふいに影が差し、男が立ちあがったのがわかった。
 気がつくと喉元に当てられていた短刀は消えていた。
 立ち上がった男は、静かに茜の父親を見下ろしている。

「ど、どうして……!? 殺してくれ……! そのために……ここまで来たんだろう……!?」
 茜の父親は縋るように男を見た。
 なんとか腕を動かして、男の着物の裾を掴もうとした。

「おまえは……どちらにしろもうすぐ死ぬ」
 男は淡々とした声で言った。

「そ、それでも……! それでも、殺してほしいんだ……!」
 茜の父親はかすれた声で叫んだ。
(多くの人の命を奪い、挙句の果てに娘を焼き殺した私が……静かに病で死んでいくなんて許されない……!)
「頼む……! お願いだ! 私を……殺してくれ……!」
 茜の父親は、男の着物の裾を掴んだ。

 男は薄茶色の目を伏せると、ゆっくり懐に手を入れた。
(こ、殺してくれるのか……?)
 茜の父親が喜びに震えた瞬間、顔の上に何かが掛かった。

「え……」
 茜の父親は慌てて男から手を離すと、顔に掛かったものを手に取った。
「紙……?」
 茜の父親は、顔の前でゆっくりと紙を広げる。

「……こ……れは……」
 茜の父親は目を見開いた。
 そこには茜がいた。
 茜は夢で見たような焼け爛れた姿ではなく、昔から知っている姿でこちらを見て笑っていた。
「あ……かね……?」
 父親の目に涙が溢れる。
 会いたくて仕方なかった茜の姿が、そこにあった。
「茜……?」
 溢れ出したもので目の前が霞み、慌てて目を擦る。
「茜……! 茜……!!」

 描かれた茜は、どこか呆れたような顔でこちらに笑いかけていた。
『ダメなお父様ね……』
 そう言われているような気がした。

「茜……すまない! 本当に……!! 私が、私がすべて悪かった……! 許してくれ!! い、いや……許さなくていい……! だが、どうか……おまえだけは安らかに……。おまえだけは……」

『お父様!』
 ふいに、まだ幼かった頃の茜の声が聞こえた気がした。
 脳裏に、小さかった頃の茜の姿が浮かぶ。
 茜は父親の膝の上に座り、小さな手で筆を握り読み書きの練習をしている。
 小さな背中がどうしようもなく愛おしかった。
『おお、上手に書けてるな!』
 かつての自分の声が頭に響く。
 茜はどこか得意げな顔で振り返った。
『当然よ! 私いっぱい勉強して、すぐお父様のお手伝いができるようになるんだから!』
『それはいいな。頼りにしてるぞ、茜』
『うん! 任せておいて!』
 茜はそう言うと誇らしげに笑った。

「茜……」
 茜の父親は息苦しさに思わず喘いだ。
「茜……! 愚かな父を……決して許さないでくれ……」


『すべては愛する娘の未来のためだろう?』
 ふいに()()()の声が頭に響く。
 茜の父親の胸に、重苦しいものがのしかかる。

(未来のため……)
 父親はそっと目を閉じた。
「もしあの日……、()()()についていかなければ……こんなことには……ならなかっただろうか……」
 茜の父親は、あの火事の日からずっと抱えてきた想いを口にした。

「あの方? ……あの方とは誰だ?」
 遠くの方で見知らぬ男の声が聞こえた気がした。
(私は今……誰と話していた……?)

『お父様? なんだか眠そうよ、疲れているんじゃない?』
 幼い茜が目の前でそう聞いた。
(ああ、そうだ……。茜と話していたんだった……)

『そうかもしれないな……』
 かつての自分の声が頭の中で響く。
『無理はダメよ、お父様。さぁ、もう眠りましょう』
 小さな茜の手が、優しく父親の手を握った。

(わかっている……。これは……都合のいい夢だ……)

『ああ、そうだな。もう寝よう……』
 茜の父親はゆっくりと息を吐いた。
 温かい涙が溢れ、布団を濡らしていく。

『茜……愛しているよ。おまえは、私のすべてだ……』
 父親は小さく温かいものをそっと抱きしめた。
 腕の中で微笑む茜を見つめた後、父親は静かに深い眠りへと落ちていった。
 野田家の当主が亡くなった数日後、叡正は玉屋に足を運んだ。
 数日前にも、咲耶には笠本の屋敷での出来事を話していたが、咲耶から手紙をもらい、叡正は再び玉屋を訪れることになった。

 緑に案内されて部屋に入ると、部屋には咲耶のほかに、信と弥吉がすでに座っていた。
 叡正は三人に軽く挨拶をすると、緑の用意してくれた座布団に腰を下ろした。

「おまえの友人は、その後大丈夫だったか……?」
 咲耶は正面に座った叡正を見つめた。
 弥吉と信がすでに話したのか、咲耶は何があったのかひと通り把握しているようだった。

「ああ、もう大丈夫だ」
 叡正はそう言うと微笑む。
「あれから父親と和解できたみたいで、今は屋敷に戻ってるよ。相変わらず絵は描いてるみたいだけど、前みたいな地獄の絵じゃなくて、茜の絵を描いてるってさ……」
「そうか……」
 咲耶はそう言うと小さく微笑んだ。

 咲耶の脇に控えていた弥吉が、どこか気遣うように叡正を見る。
「じゃあ、叡正様はちょっと残念ですね」
「残念? ん? なんでだ?」
 叡正は意味がわからず首を傾げる。
「え、だって、好きなんですよね、地獄絵。もう佑助様は描かないみたいですし……」

(ああ……、そういうことになってたな……)
「そ、そうだな……。残念なような……そうでもないような……」
 叡正は目を泳がせながら、曖昧に答える。
「ま、まぁ、佑助が前向きな気持ちで絵を描いてくれるのが一番だから……」
「それは、確かにそうですね……」
 叡正の言葉に、弥吉も小さく微笑んだ。

「叡正」
 そのとき、唐突に信が叡正に声を掛けた。
「なんだ?」
 叡正が信に視線を向けると、信はじっと叡正を見つめていた。

「おまえ……、野田の当主に何か恨みでもあったのか?」
「ん??」
 叡正は目を丸くする。
「恨み? え、俺が!? 何の話だよ……。野田の当主って、茜の父親だろ? 挨拶くらいはしたことあるけど、たいして関わりもないのに、なんで俺が恨むんだよ……」
 叡正は慌てて言った。
 信がどうしてそんなことを聞いたのかまったくわからなかった。
(恨み?? どうしてそんな話になるんだ?)

 信は叡正の顔をじっと見つめた後、静かに目を伏せる。
「……そうか。ならいい」
 信はそれだけ言うと口を閉ざした。
「な、何なんだよ……、一体……」
 叡正は訳がわからず、片手で頭を搔いた。

 二人のやりとりを見ていた咲耶が、小さくフッと笑う。
「悪いな、叡正。許してやってくれ」
 咲耶は叡正に向かってそう言うと、ゆっくりと信に視線を移した。
「……その様子だと……鬼には会えたんだな」
 咲耶の言葉に、信はゆっくりと顔を上げる。

(鬼……? 鬼って地獄絵に描かれていた笠本様と野田様のことか? 笠本様には会えたが、野田様は……)
 叡正がそんなことを考えていると、信は静かに視線を落とした。

「……いなかった」
 信は呟くように言った。
「鬼は……いなかった。……ただの……弱い人間がいただけだった」
 信はそれだけ言うと、静かに目を閉じた。

 咲耶はわずかに目を見張った後、目を伏せる。
「……そうか」
 咲耶の声はどこかホッとしているようでもあった。
 
(一体何の話をしてるんだ……?)
 叡正が不思議に思い、じっと咲耶を見ていると、咲耶が視線に気づき叡正を見た。
「そういえば……この前聞いた名簿は見つかったのか? 絵と一緒に穴蔵に残っていたんだろう?」
 咲耶は少しだけ首を傾げて話題を変えた。

「ああ、そうそう、それなんだが……。このあいだ佑助の屋敷に行ったときに聞いた話だと、屋敷中探したけど見つからなかったそうだ……。茜の遺品だし、もしあれば野田様に返せればと思ったんだが……このあいだ亡くなったしな……」
 叡正はそう言うと、そっと目を伏せた。

「野田の当主が亡くなったこと……おまえももう知っていたんだな」
 咲耶が意外そうに言った。
「それはそうだろ。野田家はうちの寺の檀家なんだから」
 叡正はそう言った後、ハッとしたように咲耶を見た。
「あれ……言ってなかったっけ?」
 叡正の言葉に、咲耶は呆れたように息を吐く。
「私は初めて聞いた」
「そうか」
 叡正は苦笑した。
 咲耶がいつも何でも知っているため、すべて知っているものと思い込んで叡正は話しを進めていた。
 叡正は慌てて口を開く。

「もともと俺が出家する前にいた家と野田家は同じ寺の檀家なんだ。で、俺は檀家だった縁で、今の龍覚寺に出家してるから、野田家のことは俺のいる寺に連絡が入るんだ」

「そうだったのか」
 咲耶は少し意外そうな顔をした。
「では、茜という子が亡くなったときも、供養はおまえの寺でしたんじゃないのか?」
「ああ、そのはず……なんだが……。俺には何も知らされなかったんだ……。出家したばかりの時期だから、気を遣われたのかもしれないけど……」
 叡正もそのことは少し疑問に感じていた。
 寺には確実に連絡が来ていたはずだが、当時叡正の耳にはそういった話はまったく入っていなかった。

「まぁ、時期が時期だからな……。おまえに話すべきではないと思ったんだろう」
 咲耶も叡正に同意するように頷く。

 ふと、咲耶のそばで何か声が聞こえた。
 叡正が視線を動かすと、弥吉が口元を手で覆ってブツブツと何か呟いていた。
「ああ、やっぱり……叡正様は煩悩を捨てて、乱れた生活を改めるために出家を……。でも、それなら玉屋に来てたらダメなんじゃないのか……? それに叡正様は……」
 ブツブツと呟き続ける弥吉を、叡正は呆然と見つめた。

(弥吉の中の俺って一体……)

 叡正は引きつった顔で苦笑いすると、小さく息を吐いた。
(そ、それより茜の件だな……。帰ったら一度、嗣水に聞いてみるか……)
 叡正は弥吉の呟きをなるべく聞かないように、ぼんやりとそんなことを考えていた。
 叡正がぼんやりとしていると、ふいに信が顔を上げた。

「どうして……」
 信は目を伏せたまま口を開いた。
「どうして供養が必要なんだ? どれだけ祈っても……死んだ人間は生き返らないのに」
 信の言葉に、叡正はわずかに目を見張った。

(そうか……信はお姉さんを亡くしてるんだっけ……)
 叡正はそっと目を伏せると、ゆっくりと口を開く。
「死んだ人間はもう戻ってこないけど、来世があるからさ……」
「来世?」
 信は眉をひそめて叡正を見た。
「そう。あくまで仏教の考え方だけど、生前の罪の重さに応じて六つの道に分かれて生まれ変わるんだ。死んだ人間は、四十八日かけて生前の行いを裁かれて四十九日後に生まれ変わる」
「それと供養に何の関係がある?」
 信が小さく首を傾げた。

「供養は祈りでもあるんだよ。来世、少しでもいい道に進めるように、少しでも罪が軽くなるようにってさ」
 叡正はそう言うと微笑んだ。

 信の瞳がかすかに揺れる。

「どこまで祈りが届くのかはわからないけど、裁きを下す閻魔大王が持ってる浄玻璃(じょうはり)の鏡には、その人が死んだ後、残された人たちの様子も映し出されて、そういう祈りも道を決めるのに考慮されるって言われてるんだ」
 叡正の言葉に、信はそっと目を伏せた。
「……そうか」
 信の表情は今まで見たことがないほど、どこか悲しげだった。
「それなら俺も……少しは祈ればよかったな」

 信の様子に叡正は目を丸くする。
 予想外な信の反応に叡正は慌てて口を開いた。
「そ、その……もちろん供養だけがすべてじゃなくて……! その……そもそも浄玻璃の鏡はすべてを映す鏡だから……! 生前のその人の人生すべてが映って、関わった人たちの心の中も、その人たちにどんな影響を与えたのかもすべてわかるらしいんだ。だから……その……祈っていなくても、おまえの想いはちゃんと伝わってる……はずっていうか……なんというか…………」
 叡正の言葉に、信はゆっくりと視線を上げた。
「……そうか」
 信の顔からは、何の感情も読み取れなかった。

(俺……何かマズいこと言ったのか……?)
 どこか気まずい空気が部屋を包む。

「い、いやぁ、さすが叡正様……!」
 弥吉が沈黙に堪えかねたように明るい声で言った。
「地獄絵が好きなだけあって、知識が豊富ですね……!」
「え!? ま、まぁ、一応僧侶だからな……。最低限の知識だとは思うが……」

「そ、そうだな!」
 咲耶も珍しく目を泳がせながら、空気を変えるように明るい声を出した。
「や、やはりただの生臭坊主じゃなかったんだな……!」
「ん?? あ、ああ……まず生臭坊主じゃないつもりなんだが……。あ、ありがとう……」
 叡正は引きつった顔で笑った。

「浄玻璃の鏡……」
 信は目を伏せて、小さく呟く。

「鏡が……何か気になるのか……?」
 叡正は信を見つめた。
「あ、もしおまえが先に死んだときは、俺が経くらい上げてやれるから安心しろ。僧侶の祈りだからな、きっとちゃんと届くはずだ」
 叡正は半分冗談のつもりで言ったが、信が顔を上げて目を見張ったのを見て、顔を強張らせた。
(え……、冗談になってなかった……?)

 次の瞬間、叡正は強い力で背中を叩かれた。
「痛ッ……」
 痛さのあまり前のめりになった叡正の耳を弥吉が引っ張る。
「叡正様……! なんでそんな縁起でもないことを言うんですか……!」
 いつのまにか駆け寄ってきた弥吉が焦ったように、叡正に顔を近づけて言った。

「え!? 普通の冗談だろ……?」
 弥吉にそう囁くと、次の瞬間、反対の耳を咲耶に引っ張られた。
 自然と三人は信に背中を向ける姿勢になった。
「おまえは……! 信に冗談が通じると思ってるのか……!」
 咲耶も焦ったように、叡正の耳元で囁く。
 叡正はハッとして咲耶を見つめた。
(た、確かに……! 通じるはずなかった……!)
 叡正は恐る恐る信を見た。
(気を悪くしただろうか……?)

 その瞬間、フッと息が漏れる音が部屋に響く。
 叡正は目を見開いた。
 目は伏せていたが、信の口角が少しだけ上がっているのが叡正にもわかった。
(今……信……笑った……?)

「……必要ない」
 信は静かに言った。

(必要ないって……あ、経が必要ないってことか……)
 信が気を悪くしていないことに、叡正はそっと胸を撫で下ろした。

 信は部屋の窓に視線を向ける。
「俺を映す鏡の中に……弥吉や叡正や咲耶がいる……。それだけで十分だ」
 信は独り言のように小さく呟いた。

 叡正は目を見開く。
(今……なんて……? いるだけで十分……? それって……俺たちに……会えただけで十分って言ってるのか……!?)
 叡正は顔がカッと熱くなるのを感じた。
(な、なんだ!? なんでそんな甘い言葉をさらっと……!)
 叡正が隣にいる弥吉に視線を移すと、弥吉も顔を真っ赤にして口をパクパクさせていた。

(や、やっぱりそう言う反応になるよな……)
 叡正は自分の反応が正常だということにホッと息を吐いた。
 反対にいる咲耶を見ると、咲耶まで頬を赤らめ口元を手で覆っていた。
 信だけが涼しい顔でずっと窓の向こうを見つめている。

(まったく……)
 叡正は苦笑した。
(とんでもない殺し文句を……)

 叡正は軽く髪を掻くと、フッと微笑んだ。
(いつか浄玻璃の鏡で、今の俺たちの心を見たとき……)

 信がゆっくりと視線をこちらに戻す。
 信とまだ顔の赤い叡正の視線が重なった。

 不思議そうな顔をする信に、叡正は呆れたように笑いかけた。
(おまえはそのとき……一体どんな顔をするんだろうな……)
 男が茶屋に着いたとき、額に傷のある男はひとり茶を啜っていた。
「珍しいな。俺より早いなんて」
 男は微笑んだ後、少し離れた席に腰を下ろした。

「今日は説教だろうと思ってな。早めに来たんだ」
 傷のある男は、湯飲みの茶を見つめながら苦笑した。
「説教されるようなことをしたわけだね」
 男は横目で傷のある男を見る。

 夕暮れ時の茶屋にほかの客はなく、今日は店主すらいなかった。
「あれ、茶屋の親父は?」
 男は店の奥を見る。
 傷のある男は静かに息を吐いた。
「出掛けた。店番頼むってさ……」
「あらら、今日は茶も飲ませてもらないのか」
 男はフッと笑った後、傷のある男をじっと見つめた。
「それで、本題だけどさ……」

 傷のある男は小さく舌打ちする。
「悪かったと思ってるよ」
「悪かったとは思ってるけど、後悔はしてないって感じだろ? 結構危なかったよ、今回」
「……わかってるよ!」
 傷のある男は苛立ったように言った。

「おまえは優しすぎるんだよね……。名簿を盗み出せたのはよかったけど……鬼の方はさ……。死にたがってたんだからサクッと殺しちゃえばよかったのに、薬でゆっくりなんて……。おかげで、毛色の違うのに『あの方』のこと知られちゃっただろ?」
 男は呆れ顔で言った。

 傷のある男は不満げに男を睨む。
「……別に『あの方』が誰かなんてあいつにわかんねぇんだから、大丈夫だろ?」
「まぁ、()()()わからないだろうけどさぁ……。とにかく気をつけてよ。結構、危ないところまで来てると思うよ、俺たち」
 男は鋭い視線を傷のある男に向けた。
 男の視線を受けて、傷のある男は目を伏せる。
「……わかってるって。今後は気をつけるさ。さ、これで説教は終わりだろ? 俺は帰る」
 傷のある男はそう言うと立ち上がった。

 男は目を丸くする。
「おいおい、おまえ店番任されてるんだろ? 帰るって……」
「おまえが来たんだから、俺はもういいだろ? 店番頼んだぞ」
 傷のある男はそう言うと片手を振り、足早に去っていった。

「まったく……、勝手だなぁ……」
 男は静かにため息をつく。
 誰もいなくなった店で、男はぼんやりと店の外を眺めた。
 茶屋の外はまだ少し明るかったが、光が差し込まなくなった茶屋はゆっくりと闇に沈んでいこうとしていた。

「結構危ないところまで来てるよ、本当に……」
 男はひとり呟いた。
「鬼の烙印の意味も、あの方の正体も……そろそろバレてもおかしくない……」
 男は目を閉じると、長い息を吐いた。

「まぁ、あの方の場合……それも楽しんでるふしがあるからな……。あの方がいいなら……まぁ、それでいいか……」
 男は闇に沈んでいく茶屋の中で、小さく苦笑した。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 境内を掃除していた叡正は、足元に伸びた人影を見て思わず顔を上げた。
 そこには男がひとり立っていた。
「こちらに叡正様はいらっしゃいますか?」
 身なりを見る限り、どこかの屋敷の奉公人のようだった。

「あ、叡正は……私ですが……」
 叡正がそう言うと、男は嬉しそうに笑った。
「ああ! すぐにお会いできてよかったです! 私は笠本様のお屋敷で働いておりまして、佑助様からの手紙を届けに参りました。必ず叡正様に直接渡すように言われていたものですから……」
 使いの男は、そう言うとホッとしたように懐から手紙を取り出した。

(手紙……? あ、茜が残した名簿が見つかった……とかか……?)
「わざわざありがとうございます」
 叡正は手紙を受け取ると、使いの男に頭を下げた。
「いえいえ、すぐにお渡しできてよかったです。それでは、私はこれで失礼いたします」
 使いの男はそう言うと深々と頭を下げ、門の方へと去っていった。

(手紙か……)
 叡正は手の中の紙を広げると、ゆっくりとその文面に目を通す。

『永世様
 先日は笠本の屋敷にお越しいただき、
 誠にありがとうございました。
 直接お伺いできればよかったのですが、
 なかなか屋敷をあけることができず
 手紙となることをお許しください。
 その後、改めて茜の残した名簿を
 探してみたのですが、やはりどこにも
 名簿らしきものはありませんでした。
 その名簿が何なのかもわからない状態
 ではございますが、父上や奉公人が
 名簿を見た際に覚えていた名前をここに
 したためます。
 永世様に渡そうとしていたものなので
 永世様であれば何かわかるのかも
 しれません。
 これが何かお役に立つことを願って。

 名簿にあった名前は次のとおりです。
 ………………………………………………
 ………………………………………………
 ………………………………………………』


 最後まで手紙に目を通した叡正は、静かに顔を上げた。
「これって……」
 叡正は小さく首を傾げる。

「それは何かな~?」
 そのとき、叡正の耳元で聞き慣れた声が響く。
「うわっ……!」
 叡正は思わず飛びのいた。

「さては恋文だなぁ」
 そこには嗣水がニヤニヤしながら立っていた。
「耳元で気色悪い声出すなよ……!」
 叡正は思わず耳を押さえる。

「気色悪いって失礼だな~」
 嗣水はそう言いながらも、ニヤニヤと手紙を覗き込もうとしていた。
「おい、勝手に見るなよ」
 叡正は慌てて手紙を畳んだ。

「若いってのはいいね~。まぁ、可愛い叡正くんの恋だから、目を瞑ってあげようかな~」
 嗣水はそう言うと叡正を見た。
「そういうのじゃねぇよ……。それに目を瞑るって仮にも住職だろ……」
 叡正は呆れて息を吐いた。

「私はおまえの親みたいなものだからね。可愛くて仕方ないのさ」
 嗣水はそれだけ言うと笑って、叡正に背を向けた。
「まぁ、ほどほどにね~。掃除が終わったら早く中に戻りなよ~」
 嗣水はそう言うと、鼻歌交じりに本堂の方へと歩いていった。

「まったく……。あれこそ生臭坊主だろ……」
 叡正はそう言うと苦笑した。
「それにしても……」
 叡正はもう一度手紙を広げる。
 叡正はそこに書かれている名前に目を通した。

「ここに書いてある人たちって……」
 叡正は首を傾げる。
「全員、この寺の……檀家の人たちだよな……。これって一体、何の名簿なんだ……?」
 叡正はゆっくりと顔を上げた。
 日は傾き、辺りは少しずつ暗くなり始めていた。
「花魁、少し教えていただきたいことがあるのですが……」
 緑は、咲耶の前に茶を出しながらおずおずと口を開いた。
鬼籍(きせき)……とは何ですか?」
「きせき?」
 咲耶は首を傾げる。
「はい……。先日姐さんが言っていたんです。『親は鬼籍に()った』と……」
「ああ、鬼籍のことか」
 咲耶はようやく緑の聞きたいことがわかり、思わず微笑んだ。
「鬼籍に入ったっていうのは、亡くなったってことだ」
 咲耶の言葉に緑は目を丸くする。
「そうなのですか? 鬼籍……どうしてそんな変わった言い方をするんでしょうか……?」

「ああ、それは……」
 咲耶はそこまで言うと、目の前で居心地悪そうに座っている叡正に目を向けた。
「ちょうど、地獄にくわしい者がいるから、聞いてみるといい」
 咲耶はそう言うと、叡正に向かってにっこりと微笑みかけた。
「地獄にくわしいって、またそんな……」
 叡正は嫌そうな顔でブツブツと呟くと、やがて諦めたように緑を見た。
「……鬼籍っていうのは、閻魔帳(えんまちょう)のことを指してるって言われてるんだが……」
「閻魔帳……? え、地獄の話ですか!?」
 緑は叡正の話しを聞きながら、運んできた茶を叡正の前に置く。

 緑を見ながら、咲耶は思わず苦笑した。
(今さらだが……茶は客から出した方がいい気がするが……。まぁ、いいか……)
 相手が叡正なので、咲耶はとりあえず何も言わないことにした。

「地獄っていうか……、閻魔大王が持ってる死者の名前が書かれた名簿のことを閻魔帳っていうんだ。その名簿に名前が載るから亡くなることを『鬼籍に入る』って言うらしい……」
「へ~、そうなんですね」
 緑は目を丸くすると、キラキラした眼差しを叡正に向ける。
「さすが叡正様! 地獄好きなだけありますね!」

「地獄好きってことはないが……」
 叡正は引きつった顔で笑った。
「まぁ……寺にも同じようなものがあるしな……」

「え!? 寺に閻魔帳があるんですか!?」
 緑はギョッとしたように叡正を見た。
「あ、いや……! 閻魔帳ってわけじゃないんだが……」
 叡正は慌てて首を横に振る。
「寺には死者の名前を書いていく過去帳(かこちょう)ってものがあって、檀家の誰かが亡くなるとそこに名前を書き加えていくんだ。それが鬼籍って呼ばれることもあるから……」
「過去帳……そんなものがあるんですね……。では、亡くなった人の名前は全部そこにあるんですか?」
 緑は首を傾げる。
「まぁ、そうだな……。檀家の人たちだけにはなるが」

「檀家さん……。そういえば、そもそもどうしてお寺の人が亡くなった人の名前を書き留めているんですか?」
「あ、それは……」
「寺には宗門(しゅうもん)人別(にんべつ)改帳(あらためちょう)があるからな」
 二人の話を黙って聞いていた咲耶は、叡正の言葉を遮るように口を開く。

「しゅ、しゅうもん……? えっと……花魁、今なんと……?」
 緑は申し訳なさそうに咲耶を見た。
宗門(しゅうもん)人別(にんべつ)改帳(あらためちょう)だ。どこに誰が住んでいているのか書かれた名簿だな。亡くなるとその名簿から過去帳に名前が移るんだ」
「なるほど……今、生きてる人たちの名前が書かれた名簿もお寺が管理してるってことですね……。あ、では、全部の寺の名簿を集めれば、今この国で生きている人全員の名前がわかるってことですね! みんなどこかの寺の檀家なのでしょう?」
 緑の言葉に、咲耶と叡正は思わず顔を見合わせた。
 叡正は少し困ったような顔をした後、静かに目を伏せる。

(全員……ではないよな……。まぁ、ここは私が話すべきか……)
 咲耶は心を決めると、緑を見た。
「全員の名前が書かれているわけではないんだ……。たとえば、私の名前や私のことが書かれた名簿はどの寺にもないはずだ」
「え、どうしてですか……?」
 緑の顔が一瞬にして曇る。
 咲耶は緑を安心させるように、できるだけ柔らかい表情で語りかけた。
「私が赤子の頃に吉原に捨てられていた話は、緑も知っているだろう? そもそも生まれたことが寺に伝えられていないかもしれないし、伝えていたとしても住む場所が変わった段階で、その土地を管理している寺に届け出ないといけないんだ。『ここに捨てます』と届け出ているはずがないからな。私の名前はどこの寺にもないはずだ」
「そう……なのですね……。な、名前がなくても不便なことはないのですよね……?」
 緑が不安げな表情で咲耶を見つめる。

「私は吉原にいるから特に不便はないが……。本来、宗門(しゅうもん)人別(にんべつ)改帳(あらためちょう)に名前がない者は非人(ひにん)と呼ばれるんだ……。身元が確かではない者として扱われるから、自分で長屋を借りることもできなければ、職に就くこともできない……。相当……生きづらいはずだよ……」
 咲耶は静かに目を伏せた。
 咲耶がこうして、ある程度自由に生きられるのは吉原という特殊な環境の中でこそだった。
「……ひにん……?」
「ああ、人に(あら)ず……ってことだな」
「そ、そんな……!」
 緑は目を見開く。
「花魁は、天から舞い降りた天女なんですよ! そんな、非人なんて……! あんまりです!」
 緑の言葉に、咲耶はフッと笑った。
「それが事実なら、本当に人ではないから、非人で間違ってはいないな。まぁ、私は不便なことも特にないから、心配するな」
 咲耶はそう言って緑に微笑むと、緑と同じように不安げな顔でこちらを見ていた叡正に視線を向けた。

(ここは空気を変えた方がいいか……)
「そんなことより、そろそろ本題に入ってくれないか? おまえは一体何の用なんだ? 私の記憶が確かなら、二日前に来たばかりだと思うが?」
 咲耶はニヤリと笑うと、上目遣いに叡正を見る。
「もう私に会いたくなったのか?」

「……え?」
 一瞬キョトンとした顔をした叡正の顔がみるみるうちに赤くなっていく。
「ち……! 違う! そ、そういうわけじゃ……!」
 叡正は慌てた様子で首を横に振った。

(ん? ……なんだか想像以上の過剰な反応だが……)
 しだいに真っ赤になっていく叡正を見ながら、咲耶はわずかに首を傾げる。
(まぁ、空気は変えられたか……)

「こ、これを見せに来たんだ……! このあいだ気にしてたから……」
 叡正はそう言うと懐から手紙を取り出し、咲耶に差し出した。
「これは?」
 咲耶は手紙を受け取りながら、叡正を見た。
「佑助からの手紙だ。名簿は見つからなかったそうだが、覚えている限りの名前を書いてくれたらしい……」
 咲耶は目を見張ると、すぐに手紙を開いた。
 手紙に書かれた名前には、咲耶でもわかる者が数人いた。

(この者たちは、おそらく叡正の屋敷で起こった出来事に関係している人間……)
 咲耶は手紙から視線を上げて叡正を見る。

「おまえは……この中で知っている者はいたのか……?」
「ん? ああ……全員知ってはいたが……」
 叡正の言葉に、咲耶は目を見開く。
「全員……?」
「ああ、みんなうちの寺の檀家だから……」

(檀家……?)
 咲耶の胸がざらりと嫌な音を立てる。
(全員……叡正の寺の……?)

「これは一体何の名簿なんだろうな……」
 嫌な考えが頭をよぎり、咲耶は叡正の問いに答えることができなかった。