蓮見から屋敷に戻ってきた茜は、屋敷の奥が騒がしいことに気がついた。
(もしや……また……?)
茜は、お茶を持って屋敷の奥に向かっていた奉公人を呼び止める。
「今日は何か集まりがあるの?」
茜は眉をひそめて聞いた。
「あ、茜様……。ええ、何か緊急の集まりのようで、旦那様のお部屋で皆様お話しされています」
奉公人はそれだけ言うと、申し訳なさそうに頭を下げ、屋敷の奥へと去っていった。
「一体何の集まりなの……?」
茜はひとり小さく呟く。
近頃、茜の父親は頻繁に屋敷に人を招いていた。
それ自体は珍しいことではなかったが、出入りする人間の質が以前と明らかに違っていた。
お世辞にも感じがいいとはいえない人間が我が物顔で屋敷に出入りし、部屋の外にまで響く怒号が飛び交う日もあった。
(お父様は一体何をしているの……?)
茜はその場に立ち尽くしたまま、拳を握りしめた。
優しく穏やかだった父親の顔は、時が経つにつれて硬く暗いものになっていた。
(どうしてあんな人たちと関わる必要があるのよ……)
茜を意を決して顔を上げると、屋敷の奥の部屋へと足を進める。
奥に近づくと、人の声がところどころ茜の耳に届いた。
「……あいつは……こんなに時間をかけて……」
「もしや裏切って…………?」
「いや、そんなことは……。…………は生きている……それは……」
「それより少し強引に…………」
「…………まだ早い……。もう少し…………」
「どれだけ待ったと思っている!?」
「おい! 少し落ち着け……! そんな…………」
「しかし、このままあの家が…………」
「大丈夫…………。橋本様の家はいずれ……壊れる…………」
(橋本……?)
茜は思わず足を止めた。
(橋本様って……永世様の家の……? 壊れるって何……?)
そのとき、奥の部屋の襖が開き、誰かが廊下に出てきた。
「茜……?」
廊下に出てきた人物は、茜に気がつくと固い声で言った。
「……お父様」
茜はなんとかそれだけ口にした。
薄暗い廊下で見る硬い表情の父親は、どこか遠く恐ろしい存在に見えた。
「どうしたんだ、茜……」
父親はゆっくりと茜に近づく。
「……お客様に……ご挨拶を、と思いまして……」
茜は思わず後ずさった。
「大事な話をしているんだ。挨拶はいいから、おまえはもう部屋へ戻りなさい」
父親は茜の前に立つと、そう言って微笑んだ。
目尻は下がっていたが、その声は依然として固いままだった。
「そうですか……。では、私は部屋に戻りますね」
茜はそう言って一礼すると、父親に背を向けて歩き始めた。
「茜」
茜の後ろから父親の声が響く。
「おまえ……何か聞いたか……?」
茜の背中を嫌な汗が伝う。
「……いいえ」
茜は精一杯、不思議そうな顔をつくって振り返った。
「何も聞こえませんでしたが……。もしや、何か娘に聞かれてはまずいことをお話しだったのですか?」
茜はわざとらしく笑って見せた。
「そうか……。それならいいんだ」
父親の硬い表情は少しだけ和らいだように見えた。
「それでは、失礼します」
茜はそう言うと、再び父親に背を向けて歩き始めた。
胸の鼓動がやたらと大きく、茜の耳に響く。
(少し……わざとらしかったかしら……)
胸を押さえながら、茜は足早に部屋に戻った。
部屋に入り襖を閉じると、茜はその場に崩れるように座り込んだ。
(お父様……、一体何をしようと……)
茜は両手で顔を覆った。
足元がぐらぐらと揺らいでいるようで、ひどく気分が悪かった。
父親が何か企てていることには気づいていた。
気づいていながら、何もしようとしない自分の汚さに茜はいつも吐き気を覚えていた。
(私は……。私は一体どうすれば……)
茜は両手を下ろし、顔を上げると苦笑した。
「私は……本当に醜い人間だわ……」
茜の呟きは、誰もいない部屋に静かに響いた。
蓮見に行った翌日、茜はまた佑助の屋敷を訪れた。
茜は佑助の父親への挨拶を終えると、いつも佑助が隠れている小屋に向かった。
(また嫌がられちゃうかな……)
茜は静かに苦笑した。
(でも、佑助の顔を見るとなんだかホッとするのよね……)
佑助の素直な反応を見ていると、茜はいつも穏やかな気持ちになれた。
(まぁ、少し顔を出して、あまり嫌がれないうちに帰ろう……)
茜はそう心に決めると、小屋の戸を叩いた。
「え!? あ……」
小屋の中から佑助の声が聞こえるたのと同時に、茜は小屋の戸を開けた。
小屋の中は薄暗かったが、佑助がうずくまって何かをしているのがわかった。
「ちょっ……、どうぞって言う前に開けないでよ……」
佑助は慌てて何かを隠すように背中を丸めた。
そんな佑助の姿に、茜は小さく微笑んだ。
「どうせ入るんだから、待っているだけ時間の無駄でしょ?」
茜はそう言うと小屋の中に入った。
「どうしたの?」
茜は、ずっとうずくまって何かを隠している佑助を見つめる。
「な、なんでもないよ……」
佑助は顔だけ茜の方を向くと、引きつった顔で首を横に振った。
佑助の周りには、いつものように絵具や筆が散らばっている。
茜は首を傾げた。
「絵を描いていたんでしょ? 何を隠しているの?」
「か、隠してなんか……」
佑助は引きつった顔で、顔を勢いよく横に振る。
「ちょっと失敗しちゃったから……恥ずかしくて……。すぐ片づけるから見ないでよ……?」
「失敗?」
茜は佑助を見つめる。
今まで佑助は自分が描いた絵を失敗だと言ったことは一度もなかった。
(失敗か……)
見られたくなさそうな佑助とは反対に、茜は佑助の失敗したという絵が無性に見たくなった。
「失敗でもいいから見せてくれない?」
茜は一歩佑助に近づく。
「え!? いや、そんな……! 見せられるようなものじゃないから……!」
佑助は絵を庇うように、より一層背中を丸めた。
佑助が抵抗すればするほど、茜は絵が見たくてたまらなくなった。
茜は佑助のすぐ横にしゃがみ込むと、佑助と鼻が触れあいそうなところまで顔を近づけた。
目の前にある佑助の目が大きく見開かれたのがわかった。
「見、せ、て……」
茜がそう言いながら、佑助の顔に触れようと手を伸ばした瞬間、佑助は飛びのくようにその場から離れた。
「な!?」
佑助の顔は真っ赤だったが、その顔は照れているというより、何かに襲われた後のように怯えていた。
(その反応は少し傷つくのだけれど……)
佑助にどいてもらうという目的は果たしたが、茜は複雑な気持ちになった。
茜は苦笑しながら佑助を見た後、佑助が隠していたものに視線を落とす。
茜は目を見開いた。
そこには一面の蓮の花が描かれていた。
水面から真っすぐに伸びるその花は、泥の中から出てきたとは思えないほど白く清らかで美しかった。
しかし、茜が見ていたのはそこではなかった。
その絵の中には、蓮の花とともにひとりの人物が描かれていた。
蓮の花を前に、振り返り微笑んでいるのは紛れもなく茜だった。
(私……?)
そこに描かれていたのは、眩しいほどに楽しげに笑う茜の姿だった。
茜が抱える仄暗い感情も、それを隠そうとする嘘くさい笑顔も、そこには映っていなかった。
「ご、ごめん……! 別にやましい気持ちで描いたわけじゃ……! その……前に私を描いてって言ってたから……! 蓮と一緒に描けばいいのかな……なんて……」
呆然と絵を見つめている茜に、佑助は慌てた様子で言った。
茜の頬を温かいものが伝う。
(ああ、あなたの目には……私はまだこんなふうに映っているのね……)
茜の涙が絵に落ちそうになり、茜は慌てて手で涙を受け止めた。
「な、泣くほど嫌だった……?」
佑助が申し訳なさそうに、茜の顔を覗き込む。
茜は微笑んだ。
「ううん、違うの……。すごく綺麗ね……蓮も、私も……」
茜の言葉に、佑助は少しだけキョトンとした顔をした後、慌てた様子で口を開く。
「あ……、そ、そうだね。き、君も綺麗だよね……。あ、違うよ! 茜は綺麗だよ……! ちょ、ちょっと自分で言うのか……って思っただけで……。いや、違う! そういう意味じゃなくて……」
佑助がオドオドしながら言った。
茜は思わず微笑んだ。
(そういう意味の綺麗ではないんだけどね……)
茜はもう一度絵に視線を落とすと、フッと笑った。
「また……描いてくれる?」
「え? う、うん……。こんな絵でよければ……」
佑助は戸惑ったような声で言った。
茜は佑助を見つめる。
「約束よ……。たくさん、たくさん描いて……」
「う、うん……」
佑助は不思議そうに茜を見ていた。
茜は佑助に向かって微笑むと、静かに目を閉じた。
(この絵に恥じないような自分でいよう……)
茜は自分の胸に手を当てる。
(そのために……私は私にできることをしよう……)
茜はゆっくりと目を開けた。
その目にもう迷いはなかった。
「鬼にもいろいろあるんだが、地獄にいる鬼は基本的に獄卒や閻羅人なんて呼ばれていて、その役目は地獄に落ちた亡者をあらゆる手で苦しめることなんだ……。亡者は身を切り刻まれても、焼かれても、すりつぶされても死ぬことはないから……。獄卒によってどんな拷問を受けようと解放されることはなく、罪の重さによって定められた時間が過ぎるまで亡者は苦しみ続けることになる……。ってなんでこんな話になったんだっけ?」
一気に話し終えた叡正は、顔を上げて目の前に座る咲耶の顔を見た。
「『知り合いが描いた絵を見て、どうしておまえはそれが地獄絵だと思ったんだ?』と私が聞いたからだ」
咲耶は淡々と答えた。
「ああ、そうだったな……」
叡正はようやくなぜこんな話をしていたのか思い出した。
「地獄絵だと思った理由は……どう見ても普通の人なら死んでいるような惨い姿なのに、拷問を受けている人が苦しみ続けているように見えたことと、あとは炎かな……。絵の中の至るところで炎に焼かれる亡者が描かれていたから、地獄のひとつの焦熱地獄なのかと思ったんだ……」
叡正は絵を思い出しながら答えた。
「それを、おまえの知り合いは……この世を描いた絵だと言ったってことか……」
咲耶は何か考えるように視線を落とした。
「ああ、そうだな……」
叡正も、佑助がどういう意味でそう言ったのか、いまだに理解できずにいた。
「ところで……、俺はどうして呼ばれたんだ?」
叡正は咲耶の部屋に入ったときから聞きたかったことを、ようやく口にした。
前回、咲耶の元を訪れてからまだ三日ほどしか経っていなかった。
咲耶からの手紙を読み、どうして呼ばれたのか気にはなったものの、用件が書かれていないのはいつものことだったため、叡正はよくわからないまま咲耶の部屋を訪れていた。
「ああ……」
咲耶は視線を上げると、少し気まずそうに口を開く。
「その……申し訳ないんだが……もう一度絵師のところに行ってもらえないだろうか……?」
「もう一度?」
叡正は首を傾げる。
絵師が叡正の知り合いで危険がないとわかった以上、もう行く必要はないように思えた。
「その……信も絵師に会いたいと言っているそうなんだ……」
咲耶の言葉に、叡正はますます首を傾げる。
(え……、行けばいいんじゃないのか……?)
弥吉とは違い、信が危ない目に遭うとは思えなかった。
(危ない目に遭ったとしても、自分でなんとでもできるだろうし……)
「そもそもどうして会いたいなんて言い出したんだ?」
人にも絵にも興味がなさそうな信が、佑助に会いたがる理由が叡正にはわからなかった。
咲耶は軽く息を吐いた後、額に手を当てて目を閉じた。
「信は今……『気になることはないか病』なんだ……」
「……は?」
咲耶の言葉に、叡正は思わず声を漏らした。
「ここ数日、弥吉に『気になることはないか?』と一日に何度も聞いているらしい……」
「え……、どういうことだ……?」
叡正は意味がわからず、ただポカンと咲耶を見つめた。
「まぁ、それについては私も責任を感じるというかなんというか……」
咲耶は目を閉じたまま、ため息をついた。
「まったく……、弥吉にすべて話せばいいだけなのに……どうして信はこんな回りくどいことを……」
咲耶は独り言のように小さくブツブツと呟いた。
「まぁ、それは置いておいて……。毎日気になることを聞かれ続けた弥吉が、言うことがなくなって苦し紛れに言ったんだ。『引っ越してきた絵師の描く絵が気になる』と……」
「……それで見に行きたいって言ったってことか?」
「ああ。正確には言ったそばから絵師のところに押しかけようとしたから、弥吉がなんとか止めて今に至るという感じだが……」
「そ、そうなのか……」
叡正はようやく話の流れを理解した。
「まぁ、話はわかったが……別に信と弥吉の二人で行けばいいんじゃないのか? 別に俺が一緒に行く必要は……」
「本当にいいのか?」
咲耶は前のめりになり、叡正を真っ直ぐに見た。
「え、別に……」
「信が行くんだぞ」
「ああ……、信がいるなら大丈夫だろう?」
叡正は、咲耶の視線にたじろぎながら言った。
「ああ、信と弥吉は大丈夫だろうな。ただ、絵師の方は大丈夫なのか? あの信が行くんだぞ」
叡正の脳裏に、今まで信がしてきた数々の奇行が浮かんでは消えていく。
(だ、大丈夫ではないかもしれない……)
叡正は自分の顔が引きつっていくのを感じた。
「今回、おまえに同行してもらいたいのは弥吉のためじゃない……。おまえの知り合いの絵師のためだ……」
咲耶はどこか申し訳なさそうに言った。
「そ、そうか……。それなら一緒に行った方がよさそうだな……」
叡正はなんとか笑顔をつくった。
「……悪いな」
咲耶が気まずそうに視線を落とす。
「いや、教えてくれて感謝している……」
二人はお互い足元の畳を見つめながら、同時に深いため息をついた。
翌日、叡正は信と弥吉とともに佑助の元へ向かっていた。
「あのさ……、あいつも忙しいだろうから、絵を見せてもらったらすぐ帰ろうな……」
叡正は後ろを歩く信に向かって、なるべくにこやかに声を掛けた。
信はチラリと叡正を見ると小さく頷いた。
(わかってくれた……のか?)
叡正は不安な気持ちを抱えたまま、静かに前を向いた。
「すみません、叡正様……。俺が余計なことを言ったばかりに……」
叡正の隣を歩く弥吉が、申し訳なさそうに叡正を見上げていた。
「気にするな」
叡正を弥吉を見ると微笑んだ。
(佑助が留守で、信もすんなり諦めてくれれば一番いいんだが……)
叡正がそんなことを考えているあいだに、三人は佑助の住む長屋の前に着いた。
軽く戸を叩くと、中から佑助の声が聞こえた。
(ああ……、留守じゃなかったか……)
叡正は静かに肩を落とした。
すぐに戸が開き、佑助が三人を見て戸惑いの表情を浮かべた。
「永世様……? それにこのあいだの……。どうされたのですか?」
佑助は三人を順番に見た。
「あ……、突然来てしまってすまない……。その……おまえの絵を見たいという者がいて……。本当に申し訳ないんだが、また見せてもらえないだろうか……?」
叡正は佑助から目をそらしながら、なんとかそれだけ口にした。
「また絵を……ですか……?」
佑助は戸惑いがちに聞いた。
「ああ、本当に申し訳ないんだが……」
叡正は申し訳なさから自然と頭が下がった。
「あ、そんな……! 大丈夫ですから……! 頭を上げてください! こんな絵でよろしければいくらでも……。さぁ、皆さんとりあえず中に入ってください」
佑助は慌ててそう言うと、三人に長屋に入るように促した。
「本当にすまない……」
叡正はそう言うと、おずおずと長屋の中に入った。
「すぐにお茶を入れますね……」
「あ、絵を見たらすぐに帰るから、本当に大丈夫だ……!」
叡正は慌てて土間に向かおうとした佑助を引き留めた。
「え、しかし……」
「本当に大丈夫だから!」
「そ、そうですか……?」
佑助は戸惑いながら、足を止めると三人と一緒に座敷に上がった。
「えっと……絵ですね……」
佑助はこの前と同じ箱から絵の束を取り出した。
「絵が見たいとおっしゃったのは、こちらの方ですか……?」
佑助は信をチラチラと見ながら、叡正に聞いた。
「あ、ああ。すまないな……」
佑助はおずおずと信に絵の束を差し出した。
信は軽く頭を下げると、絵を広げて見始める。
「……絵に興味がおありなんですか?」
熱心に絵を見つめる信に佑助が声を掛けた。
信は何も答えず、ただ絵を見つめ続けている。
重苦しい沈黙が長屋を包んだ。
「そ、そうなんです……! 信さんも絵が上手くて……! ね、叡正様!」
「あ、ああ……! だ、だからいろんな絵を見てみたかったらしいんだ! ちょっと絵に入り込むと周りの声が聞こえなくなるみたいで……!」
弥吉と叡正が慌てて、佑助に言った。
「あ、そ、そうなんですね……」
佑助は二人の勢いに戸惑いながら、かすかに微笑んだ。
「ああ、だから気にしな……」
「これは誰だ?」
叡正の言葉を遮るように、信が唐突に口を開いた。
「え……?」
佑助が信を見る。
信は絵を広げ、亡者の首を切り落としている鬼を指さしていた。
「これはこの世を描いたものだと聞いた。じゃあ、これは誰だ? 誰のことを描いている?」
信の言葉に、佑助の目が見開かれる。
「信、この世の絵って言ってもこれは抽象的な表現で……」
叡正はそう言いながら佑助に視線を向けた。
佑助の顔は真っ青だった。
「ゆ、佑助……?」
もともと佑助の顔色は悪かったが、今は倒れてしまいそうなほどだった。
「お、おい……、佑助……?」
佑助は茫然としていて、叡正の言葉は届いていないようだった。
(ま、まずいな……。とりあえず話題を変えて……)
「そ、そういえば、おまえの友人は元気か? 確か……そう、茜といったか……」
叡正がそう口にした瞬間、佑助が弾かれたように叡正を見た。
(え……?)
佑助の口が何か言いたげにわずかに動く。
「おい、どうしたんだ……?」
叡正の言葉に、佑助はきつく目を閉じた。
「ご存じなかったのですね……。茜は……随分前に亡くなりました……」
「え……?」
叡正は目を見開いた。
「そう……だったのか……。すまない……、無神経なことを……。病気か何かだったのか……?」
叡正の言葉に、佑助はゆっくりと目を開ける。
「いいえ……、火事で……」
佑助はそう言うと、叡正に視線を向けた。
「亡くなる少し前、茜は永世様に会いに行くと言っていたのですが……その様子ですと、茜には会えていないのですね……」
「え……、俺……に?」
叡正は茫然と佑助を見つめた。
「いや……、俺が茜に会ったのは、おまえと一緒にいたあのときが最後だ。茜が俺に会いに行くと言ったのは……いつのことなんだ?」
「永世様が出家された後のことです。何か思いつめた様子で、伝えなければいけないことがあると言っていました……」
「伝えなければいけないこと……? いや……、俺が出家してから会いに来た者は誰もいないから……」
叡正にはなんのことだかまったくわからなかった。
叡正の言葉に、佑助は静かに目を伏せた。
「そうですか……。会いに行く前に……死んでしまったのですね……」
佑助はゆっくりと信の持っている絵に視線を移した。
「あの火事で死ぬべきだったのは……私でした」
叡正は何も言うことができず、ただ佑助を見つめていた。
「私が死ねば、こんなことにはならなかったのに……」
佑助は苦しげに目を閉じた。
「この絵は、私が見た光景をそのまま描いたものです。茜が死んだときの、あの光景を……」
佑助の言葉は、静かな長屋に重苦しく響いた。
「どうしたの? 最近元気がないけど……」
佑助は茜を見つめ、心配そうな顔で聞いた。
茜は慌てて首を振る。
「そんなことないよ。ただ、ちょっと考え事があって……」
茜は目を伏せた。
父親が橋本家に何かしようとしているのを知ってから、まもなく一年が経とうとしていた。
茜は、叡正にこのことを伝えようと手を尽くしたが、叡正と会える機会が少ないうえ、二人になれる時間などあるはずもなく、ただ時間だけが過ぎていた。
(早く伝えなければいけないのに……)
「本当に大丈夫?」
佑助はもう一度茜に聞いた。
「今からでも花見はやめて帰ろうよ。人も多いし……」
「ううん、本当に大丈夫だから」
茜は佑助の気づかいに、思わず微笑む。
今日は花見のために、奉公人とともに桜の名所である隅田川沿いへ向かっていた。
「大丈夫よ。佑助に桜を描いてもらいたいし」
茜は遠くを見つめながら言った。
「桜は……わざわざ見に行かなくても描けるよ?」
「私と一緒に見た桜を描いてほしいのよ」
茜はゆっくりと佑助の方を向いた。
「え、……誰と見ても桜は桜だと思うけど……」
「何もわかってないのね」
茜は呆れ顔で佑助を見る。
「誰と見るかで景色の見え方は違うのよ。まだ若いから違いがわからないのかしら」
「若いって……。僕ら同じ年でしょ……? まぁ、いいけど……」
佑助は苦笑する。
「茜と一緒に見た桜を描けばいいんだね……」
「そうよ」
茜はうんうんと何度も頷く。
「あ、そうだ」
佑助は何かを思い出したように声をあげた。
「前に頼まれてた絵を描いて持ってきたんだ……」
佑助はそう言うと、懐から紙を取り出す。
「これなんだけど……」
佑助が紙を広げ茜に渡そうとした瞬間、強い風が吹いた。
風で砂埃が舞い、茜は思わず目を閉じる。
「あ……!」
佑助の声に茜が目を開けると、佑助が手に持っていた紙は飛ばされて宙を舞っていた。
「あ、追いかけましょう!」
茜はすばやく佑助の手首を掴むと、紙を追って走り出した。
幸い、風はすぐに止み、紙はひらひらと地面に落ちた。
「よかった……」
茜がそう呟いたとき、紙に誰かの手が伸びる。
「あ……」
茜は、紙を拾った誰かに声を掛けようと顔を上げた。
「あれ? 茜……?」
そのとき、紙を手にこちらを見た少年が茜に声を掛けた。
茜は目を見開く。
「永世様……?」
叡正は奉公人や家族とともに歩いていたが、ひとり立ち止まりこちらを見ていた。
(こんなところで会えるなんて……!)
茜は自分の鼓動が早くなるのを感じた。
「これは茜が描いた絵なのか? すごく上手いな!」
叡正は目を輝かせて、茜を見た。
「あ、いえ……。その絵は私の友人が描いたもので……」
茜は慌てて横にいた佑助を見て耳元で囁く。
「ほら、蓮見のときに話した永世様よ」
佑助はハッとしたように叡正を見た後、深々と頭を下げた。
「お初にお目にかかります。私は佑助と申しまして……」
「おお、これはおまえが描いたのか! すごいな!」
叡正は佑助に近寄ると、絵を見ながら微笑んだ。
「今、ほかにも絵はあるのか?」
「え、あ、はい……。少しなら……」
佑助は懐から二枚ほど紙を取り出すと、叡正に渡した。
「ああ……。本当にすごく上手い……!」
叡正は受け取った紙を広げながら、目を輝かせていた。
「いつか俺の絵も描いてほしいくらいだ」
叡正はにこやかに笑った。
「あ、はい……」
佑助は照れたように耳を赤くしながら、チラリと茜を見た。
(嬉しそうにしちゃって)
茜は佑助に向かってクスッと笑うと、叡正に視線を戻した。
(今なら……話せるかもしれない……)
茜は意を決して叡正を見た。
「あ、あの……! 少しお話ししたいことが……!」
茜の言葉に、叡正は視線を上げる。
「ん? なんだ?」
叡正は瞬きをすると、茜を真っすぐに見つめた。
「あ、あの……実は……!」
そのとき、背後に人の気配を感じた。
「ああ、茜ちゃんじゃないか……」
低く暗い声とともに、茜の肩に誰かの手がかかる。
茜は顔から血の気が引いていくのを感じた。
「どうしたんだい? こんなところで」
茜は恐る恐る後ろを振り返る。
そこには、笑みを浮かべた男が立っていた。
茜は目を見開く。
その男は、最近茜の屋敷を頻繁に訪れ、父親と険しい顔で話している男だった。
「おや、永世様と何の話をしていたんだい?」
男の顔には笑みが浮かんでいたが、その声はどこか威圧的だった。
茜は思わず視線をそらす。
「い、いえ……。永世様が……友人の絵を褒めてくださったので……。どこの景色を描いたものか説明しようかと……」
「おお、そうだったのか。しかし、永世様はお忙しいんだ。あまりお引き留めしてはいけないよ」
男はにっこりと笑った。
「そ、そうですね……」
「あ、いや、俺は別に……」
叡正がそう言いかけたとき、叡正に駆け寄る影があった。
「お兄様!」
影は颯爽と叡正の腕を取る。
「どうした? 鈴」
叡正は不思議そうに腕を掴む鈴を見た。
「もう! 本当に気が利かないんだから! お兄様がいたら邪魔でしょ!」
鈴は、チラリと茜と佑助を見る。
そのとき茜は、ようやく自分が佑助の手首を掴んだままだったことに気づいた。
「あ、いえ、これは……!」
茜は慌てて言ったが、鈴は困ったように笑い、首を横に振った。
「お兄様が本当にすみません。すぐ連れていきますから。お兄様はもう少し空気を読むことを覚えなさい!」
鈴は、強引に叡正の腕を引いていく。
「ちょ、おい、待て……」
叡正は急いで紙を茜に返すと、頭を下げた。
「よくわからないが、悪かったな……。話は、また今度聞かせてくれ! じゃあな!」
叡正はそれだけ言うと引きずられるように去っていった。
「話、か……」
茜の背後で男が呟く。
茜の背中に冷たいものが走った。
「ええ、絵の話です」
茜は可能な限り明るく答える。
「そうか。確かに、いい絵だな」
言葉に反して、男の顔はひどく冷たかった。
「ねぇ、茜。もう行こう」
佑助が茜の顔を覗き込んだ。
「そ、そうね。すみません、こちらで失礼します」
茜は男に一礼すると、ゆっくりと歩き始めた。
「……大丈夫?」
佑助が小さな声で茜に聞いた。
「手……震えてる……」
茜はハッとして掴んでいた佑助の手首を離す。
佑助の手首には、赤く跡が残っていた。
「ご、ごめん!」
茜は慌てて頭を下げた。
「い、痛かったでしょ? 本当にごめん……」
「赤くなってるだけで全然痛くなかったから大丈夫だよ。それより今日はもう帰ろう? やっぱり調子が悪そうだから……」
茜は佑助をしばらく見つめたが、静かに目を伏せた。
「そうね……。本当にごめん……」
(私は一体……何をやっているの……?)
茜は唇を噛んだ。
無力な自分が情けなくて仕方なかった。
花見から戻った日の夜、茜は屋敷の廊下で父親に呼び止められた。
「おまえ……今日永世様にお会いしたのか……?」
父親はどこか不安げな顔で言った。
茜は自分の鼓動が速くなっていくのを感じた。
(もうお父様の耳に入るなんて……)
茜は平静を装い、少しだけ首を傾げた。
「ええ。たまたま花見のときにお会いしましたが……。それがどうかしたのですか?」
「いや……」
父親はわずかに視線をそらした。
「特にどうというわけではないんだが……。おまえ、何を話そうとしていたんだ……?」
茜は、目を伏せている父親を見つめた。
(やはり……話されてはまずいことを、しようとしているのね……)
「何を……というわけではありませんが、佑助の絵を永世様が拾ってくださったので、その絵についてお話ししていただけです」
茜は小さく微笑んだ。
「佑助……。ああ、あの家の子か……」
父親はそう呟くと、ゆっくりと茜を見た。
「あの子と……あの家に関わるのは……もうやめなさい……」
「え?」
茜は思わず目を見開く。
叡正の家と関わるなと言われるのは予想していたが、佑助と関わるなと言われるとは思っていなかった。
「ど、どうしてですか……? あの家の方とは、お父様も親しくしていたでしょう……?」
もともと佑助の家を茜が訪れたのは家同士が親しく、以前から交流があったためだった。
なぜ今になって関わるなと言われたのか、茜には理解できなかった。
「方針の違い……というやつだ……」
「方針……?」
茜は眉をひそめる。
「それは……お父様がやろうとしていることと、関係があるのですか……?」
茜は我慢できず、思わず呟いていた。
「な!?」
父親は目を見開いた。
「おまえ……やはり……聞いていたのか……!」
父親は茜の両肩を掴むと、声をひそめる。
「何を聞いた……? いや、何を聞いていてもいい……。ただ、すべて忘れろ。おまえには関係のないことだ……。いいか、おまえは絶対に関わるな」
父親の切迫した声に、茜は思わず身を引いた。
父親の顔からは血の気が引いていた。
「ほとんど……何も聞こえませんでした……」
茜は静かに目を伏せた。
「ただ……お父様たちが……何か……してはいけないことを、しようとしていることはわかりました……」
茜の言葉に、父親の指先がわずかに震えたのがわかった。
「誰かが動かなければ……世の中は変わらないんだ……」
父親の声はかすれていた。
「お父様……」
茜は父親に視線を戻す。
父親の顔は暗く、ひどく苦しげに見えた。
(お父様は一体何を……)
父親は茜の肩から手を下ろすと、ゆっくりと息を吐いた。
「いいな……? すべて忘れろ。それから……永世様にも、佑助にももう関わるな……。それだけでいい……」
父親はそう言うと茜に背を向け、暗い廊下を歩いていった。
「お父様……!」
茜は父親の背中に手を伸ばしたが、その手が父親に届くことはなかった。
茜はこぶしを握りしめる。
「お父様……、私は決めたのです……。自分の心はもう欺かないと……」
茜は薄暗い廊下を真っすぐに見据え、静かに顔を上げた。
「おい、本当に押しかける気か……?」
叡正は、前を歩く信に声を掛けた。
「ああ」
信は前を向いたまま答えた。
「ああって……、押しかけたところでたぶん会わせてもらえないぞ?」
佑助の長屋を訪れてから三日が経っていた。
茜が住んでいた屋敷に、信が押しかける気だと弥吉から聞き、叡正は慌てて長屋を訪ねた。
出かけようとしていた信を呼び止め、ときどき声を掛けながら、叡正はずっと信の後をついて歩いていた。
「野田家が今どうなっているかは知らないが、知らない人間を屋敷に上げるような家じゃないはずだ」
叡正が野田家を訪ねたことはなかったが、野田家の当主はどちらかといえば保守的で頭が堅いことで有名だった。
慎重で警戒心が強い人物として知られていたため、知らない人間をむやみに屋敷に上げるとは思えなかった。
信は何も応えず、ただ前を向いて歩き続けている。
「……どうして茜の屋敷に行こうと思ったんだ? もしかして、佑助が地獄絵の鬼は茜の両親だと言ったからか……?」
叡正の言葉に、信は何も応えなかった。
地獄絵は茜が死んだときの光景を描いたものだと、佑助は言った。
そして描かれた鬼は、茜の両親、佑助の屋敷の奉公人、佑助の両親だと話したが、佑助はそれ以上何も言わなかった。
(一体佑助と茜に何があったんだ……)
叡正は静かに目を伏せる。
そのとき、前を歩く信が足を止めた。
叡正は不思議に思い、信に駆け寄る。
「どうした? ここはさすがに違……」
叡正はすぐ横にある門を見て、目を見開く。
門には野田家の家紋があった。
「いや、でもここは……」
叡正は門から離れ、屋敷全体を見た。
門や屋敷を取り囲む塀は蔦で覆われ、もう何年も人の手が入っていないかのように荒れ果てていた。
屋敷に人のいる気配もなく、ここが野田家だとは叡正には思えなかった。
「ここだ」
信はそう言うと門に近づき、強く門を叩いた。
屋敷は静かだった。
「なぁ、やっぱり……」
叡正がそう言いかけたとき、軋む音を立てながら門が開いた。
「どちら様ですか?」
門を開けたのは白い髪をした初老の男だった。
「野田家の当主に会いに来た」
信は淡々と言った。
初老の男は目を見開く。
「だ、旦那様ですか……? 旦那様は病を患いもう誰かとお会いできるような状態では……」
「誰なら会える?」
信は初老の男の言葉を遮るように聞いた。
「あ……この屋敷には、もうほかに誰も……。奥様は数年前に心を病んでしまい三年ほど前にお亡くなりになりました……。それに、娘の茜様も……」
初老の男は苦しげに目をそらした。
そのとき、初老の男がふと叡正に目を留めた。
「ああ……、もしや経を上げに来てくださったのですか……?」
叡正は思わず自分の服装を見た。
弥吉から知らせを受けて慌てて寺を出てきたため、叡正は法衣を着たままだった。
(ああ、そうか……。俺、法衣で……)
「あ……はい……。……そうです。その……茜……様とは生前ご縁もあったので……」
叡正はなんとかそれだけ口にした。
「ああ、そうでしたか……! それでしたら茜様もお喜びになるでしょう……! ただ……今日は旦那様の調子が悪く……。また後日、ぜひお越しいただければと思います……!」
初老の男は嬉しそうに言った。
「ああ、はい。わかりました……」
叡正は笑顔でそう言うと、信の脇腹を小突いた。
「では、出直しますことにいたします」
叡正はそう言い、どこか不服そうな信の着物の袖を引く。
「はい、お待ちしております! ええっと……お名前だけお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「あ、はい。叡正と申します。では、私たちはこれで……」
叡正はそう言うと一礼して、信を引っ張っていった。
やがて後ろで門が閉まる音がすると、二人は自然と立ち止まった。
「いろいろ……予想外ではあったが……やっぱり会えなかっただろ?」
叡正の言葉に、信は何かを考えるように目を伏せた。
「まぁ、また来てくれと言われたんだ、そのときにでも……」
叡正の言葉が終わるのを待たず、信はひとり塀に沿って歩き始めた。
「あ、おい!」
叡正は慌てて信の後を追う。
「どこに行く気だよ!」
信は少しだけ叡正を振り返る。
「あっちに壊れて上りやすそうな塀があった」
信の言葉に、叡正は目を丸くする。
「た、頼む! 本当にやめてくれ!」
叡正は渾身の力を込めて、信の腕を引いた。
「今回は本当にやめてくれ! 一応知り合いの屋敷なんだ……。今度来てくれと言われたんだ! 頼むから、今回だけは!!」
信は足を止めると、じっと叡正を見た。
(頼む! 今回だけは言うことを聞いてくれ……!)
叡正は信を見つめ返す。
しばらく叡正を見つめた信は、静かに目を閉じると身をひるがえした。
「……わかった」
叡正は驚いて、自然と掴んでいた信の腕を離した。
(は、初めて言葉が通じた……!)
叡正はよくわからない感動を覚えた。
信はおとなしくもと来た道を引き返し始めていた。
(前は何言っても聞かなかったのに……! 信も変わってきてる……のか……?)
叡正はわずかに口元に笑みを浮かべ、急いで信の後を追った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「旦那様、お食事はまたこちらに置いておきますね。食べられそうでしたら、また隣の部屋におりますのでお声がけください」
襖の細い隙間から光が差し込んでいた。
今が昼なのか夜なのかすら、男にはわからなかった。
「……ああ……」
男はかすれた声で、長年仕える奉公人の言葉に応えた。
「ああ、それから今日、僧侶の方が屋敷に来てくださいました。奥様と茜様のために経を上げに寄ってくださったようです」
奉公人は明るい声で言った。
(僧侶……?)
男は布団に横たわったまま、わずかに首を動かし光の方に目を向けた。
「叡正様という方だそうで、茜様ともお会いしたことがあるのだとか……。そういう方に経を上げていただければ茜様もさぞお喜びになるでしょう」
奉公人は少し涙ぐんでいるようだった。
(えいせい……。えい……せい……? 永世……)
男は目を見開いた。
「ハッ……ハハ……」
男の口から乾いた笑いが込み上げる。
それと同時に男は激しく咳込んだ。
「だ、旦那様!? 今お水を持ってまいります!」
奉公人が水を取りに廊下を走っていく音が響く。
「……はぁはぁ……ハッ……。永世様が……」
息を整えると、男は静かに目を閉じた。
「すべてを知り……復讐にでも……いらっしゃったのですか……?」
男は涙と笑いが同時に込み上げてくるのを感じた。
「いつでも……いらしてください……。この命など……いつでも……差し上げましょう。私にはもう……何も……何も残っていないのですから……」
堪え切れず、男は顔を歪めた。
目から溢れ出るものがじっとりと布団を濡らしていた。
(帰ると思ったんだが……)
叡正は前を歩く信の背中を見ながらため息をついた。
野田家を後にした叡正と信は、その足で佑助が以前暮らしていた屋敷に向かっていた。
野田家から佑助が暮らしていた笠本家の屋敷は近く、二人はすぐに笠本家の門の前に立つことになった。
「なぁ……、ここはさすがに佑助に許可を取った方が……」
叡正がそう言い終える前に、信は一歩前に出ると門の戸を叩いた。
すぐに屋敷の中から返事があった。
叡正はため息をつく。
(さっき言うことを聞いてくれたのは、やっぱり奇跡だったか……)
門がゆっくりと開き、中から奉公人の男が出てきた。
「はい……、どちら様でしょうか?」
奉公人は、信と叡正を交互に見て首を傾げる。
「今日は法要の予定もなかったと思うのですが……」
奉公人は叡正の全身を見ながら、より一層首を傾けた。
「あ、そういった用では……!」
叡正は慌てて奉公人に言った。
「その……、私は……佑助……様と知り合いで……。今日はその……」
叡正が言い淀んでいると、奉公人はハッとしたように口元に手を当てた。
「佑助様……の……?」
奉公人の顔はみるみる青ざめていった。
「え……、あの……、大丈夫ですか?」
奉公人の様子に、叡正は慌てて奉公人に駆け寄った。
「あ、はい……。大丈夫です……。確認してまいりますので、少々お待ちください……」
奉公人は目を泳がせながら叡正にそう告げると、慌てた様子で屋敷の中に戻っていった。
(確認ってなんだ……? どういうことだ……?)
叡正は戸惑いながら、信を見た。
信はただ奉公人が去っていった方をじっと見つめていた。
(佑助の名前を言ってはいけなかったのか……?)
叡正が考え込んでいると、先ほどの奉公人が小走りでこちらに戻ってきた。
「お待たせいたしました。旦那様から許可がおりました……。どうぞお入りください」
奉公人は門をしっかりと開けると、叡正と信に入るように促した。
「ありがとうございます……」
叡正は一礼すると、信と共に門をくぐった。
「どうぞ、こちらです」
奉公人はそう言うと、ゆっくりと歩き出した。
叡正は屋敷の部屋に案内されると思っていたが、叡正の予想に反して奉公人は庭を真っすぐに進み始めた。
(これは……どこに案内されているんだ……?)
奉公人の背を追って歩きながら、叡正は少し後ろを歩く信を見た。
信は奉公人の背を見つめたまま、淡々と歩いていた。
しばらく歩くと、奉公人は立ち止まり叡正を見る。
「こちらです」
奉公人が手で示した場所には何もなかった。
庭の片隅、不自然なほどぽっかりと何もない空間が広がっているだけだった。
叡正は戸惑いながら奉公人を見た。
「あの……ここは……?」
「あ、今は何もありませんが、こちらがその……亡くなった場所です……。佑助様に頼まれて経を上げに来てくださったのでしょう……?」
奉公人の言葉に、叡正は目を見開いた。
「野田家の娘……」
突然背後から声が響いた。
叡正が振り返ると、そこには四十過ぎの風格漂う男が立っていた。
「野田茜が死んだ場所だ」
男はどこか悲しげな眼差しで、その場所を見ていた。
「旦那様……!」
奉公人は慌てて、男の横に寄り添った。
「外に出て大丈夫なのですか?」
「ああ、今日は調子がいいからな」
男はそう言うと微笑んだ。
(旦那様……。佑助の父親か……)
がっしりとした体格に威厳まで感じるその姿は、武家の当主にふさわしい佇まいだったが、その顔色はひどく悪かった。
「あ、ご挨拶が遅れて申し訳ございません」
叡正は慌てて佑助の父親に頭を下げた。
「私は佑助……様の知人で……」
「ああ、佑助に頼まれて、経を上げにきてくれたんだろう? わざわざすまないな……」
佑助の父親はそう言うと、叡正に微笑みかけた。
目尻が下がると、その顔は意外なほど佑助によく似ていた。
佑助の父親は叡正の横を通りすぎると、何もない空間に向かって歩き始めた。
「ここには、以前小屋があったんだ……。佑助は昔からここが好きでな、何かあるごとにこの小屋に隠れていた……」
佑助の父親は立ち止まり、今はもうない小屋を見つめているようだった。
「ここで何があった?」
唐突に信が口を開いた。
「お、おい……!」
叡正が諌めようとしたが、それを遮るように佑助の父親が苦笑した。
「構わないよ。……火事があった。そこで野田家の娘が死んだんだ。……放火だった」
「放火……?」
叡正は思わず聞き返した。
佑助の父親は叡正をチラリと見ると、目を伏せた。
「ああ、火を放った者がいた。そいつは……この場で斬り殺されたよ……。駆けつけた野田家の当主にな……」
「それは……」
叡正は何を言えばいいのかわからなかった。
「まさに地獄絵図だったよ……」
佑助の父親は遠くを見つめながら呟いた。
(地獄絵図……)
叡正の脳裏に、佑助の描いた絵が浮かんでいた。
「まぁ、あいつは……自業自得だが……」
佑助の父親は小さく呟く。
「あいつ……?」
叡正の言葉に、佑助の父親は振り返らずに口を開いた。
「野田家の当主。あいつがうちの小屋に火を点けるよう命じた張本人だからな……」
叡正は目を見開いた。
「どうして、そんな……!」
佑助の父親は苦笑した。
「さぁな。もう……考えたくもない……」
叡正は思わず視線を落とした。
(野田家の当主……。慎重で保守的なことで有名なあの人が……?)
叡正が知っている人物からは、とても想像ができなかった。
「おまえの息子は、おまえのことを鬼だと言っていた」
また唐突に信が口を開く。
信の言葉に、その場にいた全員が凍りついたように動きを止めた。
「おまえ……! それは……!」
叡正は口にすると同時に、おずおずと佑助の父親を見た。
その顔には驚きとともに、深い悲しみの色が浮かんでいた。
佑助の父親は静かに目を伏せる。
「そうか……。鬼に……見えただろうな……」
「失礼なことを言ってすみません! これは……その……絵の話で……」
叡正は慌てて、頭を下げた。
「いや、いい……。事実だからな……」
佑助の父親は再び遠くを見つめ、絞り出すように言った。
「私は……あのとき……笑ったんだ……」
「笑った……?」
叡正は思わず聞き返した。
「小屋が燃えて焼け落ちそうな中……小屋に火を点けるよう命じたのが……あいつだとわかって……狙われたのが佑助で、実際に小屋にいたのがあいつの娘だとわかったとき……。ああ、自業自得だと……。私は……冷ややかに笑ったんだ……」
佑助の父親は震える両手で顔を覆った。
「あの子は……茜は……何も悪くないとわかっていた……。それなのに私は……。……茜を助けてくれと泣いて縋っていた佑助は、私のその顔を見たんだ……。そのときの私は……確かに鬼に見えただろうな……」
叡正は、佑助の父親にかける言葉が見つからなかった。
佑助の父親は、ゆっくりと顔を覆っていた両手を下ろした。
「あのときの……佑助の目……。見開かれた目に浮かんだ憎悪と嫌悪……今でも忘れられない……」
佑助の父親は息を吐くと、叡正を振り返った。
「あの日……野田家も、うちも……すべてが壊れたんだ……」
佑助の父親はそう言うと、静かに目を閉じた。
経を上げ終えた叡正は、信とともに奉公人に屋敷の中へと案内された。
佑助の父親は、経を聞き終えると自分の部屋へと戻っていった。
「旦那様は悪くないのです……。あの場にいた屋敷の者たち全員が、突然のことで思うように動けませんでしたから……」
屋敷の部屋に通された二人は、奉公人が持ってきたお茶に口をつけた。
「その場に、あなたもいたのですか?」
叡正は手に持っていた湯飲みを置くと、奉公人に聞いた。
「はい……」
奉公人は畳に膝をついたまま、静かに視線を落とした。
「何が起こったのか、いまだにまだよく理解できていません……。あの日、突然の来客があり、屋敷の奉公人は総出でその準備をしていました。小屋はあのように離れた場所にあるため、あの日誰も小屋のそばにいませんでした。茜様がときどきこっそり屋敷に遊びに来ていたことを知っていた奉公人もいましたが、あの日茜様が来ていたことは誰も知りませんでした……」
「こっそり……遊びに来ていたのですか……?」
叡正は、茜が隠れて野田家を訪れる意味がわからず、奉公人を見た。
「はい……。もともと野田家と笠本家は親しくしておりましたし、野田様も茜様を連れて、よくこの屋敷に遊びに来ていました。だから、お二人も仲良くなったのですが……あるときから野田様のよくない噂を耳にするようになり、旦那様が距離を置くようになったのです……」
「よくない噂……ですか」
「はい。あまり評判の良くない者が野田家の屋敷に出入りしている、と……。私はそれくらいしか知りませんが……。野田様も、茜様がこの屋敷に行くことを禁じたと聞いています。……しかし、仲の良いお二人でしたから、茜様がこっそりこの屋敷にいらっしゃり、屋敷の奉公人も微笑ましくそのご様子を見ていました」
「そうだったのですね……」
叡正は、静かに息を吐いた。
(そんな中で火事が起こったということか……)
「あの日、最初はお二人で小屋にいたようですが、何かを取りに来られたのか佑助様が屋敷に戻られ、たまたま佑助様を見つけた旦那様がお客様の相手をするように言いつけました。茜様がいらっしゃっていることを旦那様に言うわけにはいきませんから……、佑助様もしぶしぶお引き受けになり、お客様と話しているあいだに火が……」
奉公人はゆっくりと目を閉じた。
「小屋の異変に気づいたときにはもう……小屋は完全に火に包まれていました」
重苦しい沈黙が部屋を包んだ。
「火に包まれた小屋を見て、佑助様が飛び出していかれて……茜様が中にいるとおっしゃって、それで初めて茜様が来ていたのだと皆が知りました……。それなのに……なぜか次の瞬間、どこで話を聞かれたのか……野田様が……ひどい形相で小屋の方へ走ってこられました……」
「え……、それはどういう……」
叡正は困惑して、奉公人を見た。
本当に火を点けるよう命じたのが茜の父親なら、その場にいるのはあまり得策とは思えなかった。
(そもそも笠本家で隠れていたなら、茜が来ていることもわかっただろうしな……)
叡正は首を傾げる。
「奉公人の誰かが、実は茜が来ていることを知っていて、野田様を呼びに行った……ということでしょうか?」
「ええ……、普通に考えればそうなのですが……。とにかくその場は皆が混乱していて、何もわからないのです……。後日聞いたときには奉公人は、誰も茜様が来ていることを知らなかったと言っていましたし……、野田様を呼びに行ったという者もいませんでした……」
「そう……なのですね……」
叡正はそう言うと、目を伏せた。
「いらっしゃった野田様は、呼び止める奉公人の声も聞こえていないご様子でした……。そして、淡々と辺りを見渡し、茂みに隠れていた見知らぬ男を皆の前に引きずり出したのです」
「それが放火の犯人だったのですか……?」
「ええ……、おそらく……」
奉公人はゆっくりと頷いた。
「その男は野田様に縋りついて言っていました。『これは、違うんです……! 私は旦那様のご言いつけの通りに!』と……。野田様は、何か言葉にならない声を上げられて……刀を抜き……男を斬りつけました。それはもう……無残に……何度も何度も……」
奉公人はそのときの光景を思い出したのか、強く目を閉じ、体を振るわせた。
「最後には男の首を斬り落とし……その男の首が……小屋の前に転がっていきました……」
叡正は言葉を失った。
佑助がそのとき見た光景は、佑助が描く地獄絵以上に凄惨なものだったことは、簡単に想像できた。
「あまりに突然のことで……誰も動くことができませんでした……。旦那様だけが『この火事はおまえがやったのか……?』と野田様に近づいていきましたが、野田様は茫然としていて……何もお答えにはなりませんでした……。そうしているうちに野田家の奥様もいらっしゃって……泣き叫びながら小屋の中に飛び込もうとしました……。奉公人たちはなんとかそれは止めたのですが……」
奉公人はそこで少し言い淀んだ。
「暴れる奥様が突然懐刀を取り出して……腕を抑えていた奉公人を斬りつけた後……野田様に斬りかかったのです……」
「え……!?」
叡正は、もはや何がどうなっているのかまったくわからなかった。
奉公人は少しだけ顔を上げると、叡正を見て首を横に振った。
「私にも……どういうことなのかわかりません……。何度も申しますが……とにかく皆、訳がわからない状態でした。野田様のそばにいた旦那様が咄嗟に奥様の手首を掴んで止めたのですが……。奥様は錯乱されているご様子で……。『あなたのせいで……!』と暴れ続けていました……」
(一体どうしてそんなことに……)
叡正は呆然と奉公人を見ていた。
「いまだにわからないことだらけです……」
奉公人は小さく息を吐いた。
「あのことがきっかけで、佑助様は屋敷を出ていきました……。佑助様はずっと茜様を助けてほしいと、私たちや旦那様に訴え続けていましたから……。佑助様はあのときすぐに消火に動いていれば、茜様は助かったかもしれないと思っているのかもしれません……。火事に気づいた段階で、すでに手遅れではあったのですが……。もちろん消火に動いた者もいました。ただ、野田様とその奥様のこともありましたから、旦那様を守ることを優先せざるを得なかったというのはあります……」
話を聞き終えた叡正は、静かに視線を落とした。
(そんなことが起こっていたなんて……)
叡正が出家した後の出来事は、叡正の耳にはほとんど入っていなかった。
耳に入ったとしてもできることは何もなかったが、叡正は何も知らなかったことを申し訳なく感じた。
「ああ、長々とお話ししてしまってすみません! こちらにご案内したのは、佑助様にお渡ししてほしいものがあるからなのです。少々お待ちいただけますか?」
奉公人はそう言うと立ち上がり、足早に部屋を出ていった。
叡正は隣に座っていた信を見る。
あまりにも静かだったので叡正は眠っているのかと思っていたが、信は目を開けたままただ一点を見つめていた。
「どういうことなんだろうな……」
叡正の言葉に、信はチラリと叡正を見たがすぐに視線を戻した。
「わからない」
信は叡正の予想通りの返事をした。
「だよな……」
そうしているうちに、奉公人が部屋に戻ってきた。
「お待たせいたしました。こちらです」
叡正は、奉公人が手に持っていたものを見て、目を見開いた。
「これは……」
奉公人は悲しげな笑みを浮かべる。
「旦那様は、佑助様にあの出来事を早く忘れてほしくて渡せずにいたのです……。ただ、渡した方がいいのだろうと、先ほど旦那様が……」
「そう……ですか……」
叡正はそう言うと、奉公人が差し出したものを慎重に受け取った。
「必ず渡します」
叡正は奉公人の目を真っすぐに見ると、強く頷いた。