「大変です! お館様は……!? お館様はいらっしゃいませんか!?」
屋敷の廊下を、女が叫びながら走ってきていた。
藤吉はその声に驚き、思わず振り返った。
「どうしたんだ? 何かあったのか?」
藤吉は横を通り過ぎていこうとしていた女を呼び止めた。
女の顔は青ざめ、唇はかすかに震えていた。
「小屋の女が……死んでいたのです……」
女が震える声で言った。
「…………は?」
藤吉はうまく言葉の意味を理解することができなかった。
(小屋の女が……死んだ……?)
「何を……」
「早く……お館様にお伝えしなければ……」
女はそう呟くと、そのまま走っていこうとした。
「ちょっと待て……!」
藤吉は女の腕を掴む。
女は驚いた顔で藤吉を見た。
「どういうことだ……! 死んだ……?」
藤吉の顔を見た女は自分が咎められていると思ったのか、青ざめた顔で慌てて首を横に振った。
「わ、私のせいではございません! 食事の膳を下げに行ったら……死んでいたのです……!」
「死んでいた……?」
女の腕を掴んでいた藤吉の手から一気に力が抜ける。
(死んだ……? 百合が……?)
藤吉は気がつくと走り出していた。
自分の息遣いと鼓動の音だけが、うるさいほど耳に響いていた。
藤吉は屋敷を出ると、小屋に向かって走った。
(嘘だろ……? 嘘だよな……。逃げるための死んだフリとか……。そういうやつだろ……? また笑えない冗談なんだよな……? だって、おまえ……またって……。昨日そう言ったじゃねぇか……)
藤吉は小屋の前に立った。
小屋は静かで、人のいる気配がなかった。
藤吉は震える手で小屋の戸を開ける。
そこには、百合がいた。
窓からかすかに差し込む光が布団に横たわった百合を照らしている。
穏やかなその顔は、まるで眠っているようだった。
「百合……?」
藤吉は震える声で名を呼んだ。
百合は何も応えなかった。
「百合……」
藤吉は重い足をゆっくりと動かし、百合に近づく。
「百合……」
藤吉は百合の枕元で、崩れるように膝をついた。
「返事……しろよ……」
震える手で、藤吉は百合の胸の上にある手を取った。
その手はひどく冷たく、いつもの温もりはもうどこにもなかった。
藤吉は奥歯を噛みしめると、百合の手を両手で包む。
「よく……考えろって言ったよな……。またって……嘘じゃねぇか……」
藤吉は百合の穏やかな顔を見つめた。
その瞬間、百合の頬に水滴が落ちた。
落ちた雫が百合の頬を伝い布団を濡らしていく。
藤吉は自分が泣いていることに気がついた。
藤吉は苦笑する。
「穏やかな顔しやがって……。少しは……俺のことも考えろよ……」
藤吉は百合の手を布団に下ろすと、百合の顔に落ちた雫を手で拭った。
「おまえは本当に……最期まで頑固だな……」
そのとき、近づいてくる足音と人の声が、藤吉の耳に届いた。
藤吉は弾かれたように顔を上げる。
(お館様が来たか……)
藤吉は立ち上がると、もう一度百合を見た。
(連れ出すわけにはいかねぇか……)
藤吉は目を伏せる。
(見つかる前に出るか……)
「……また来るからな」
藤吉は小さくそう呟くと、そばにある窓から小屋を出た。
藤吉は小屋を出ると、すばやく近くの林に身を隠した。
小屋の戸に向かって歩いてきていた人々は、誰も藤吉に気づいていないようだった。
藤吉は木に寄りかかると、その場に座り込んだ。
(隠れたものの……もう全部どうでもいいな……)
藤吉は苦笑した。
(もう何もかも……どうでもいい……)
藤吉は両手で顔を覆い、静かに目を閉じた。
藤吉はゆっくりと顔を上げた。
どれだけ時間が経ったかわからなかったが、すでに辺りは暗くなっていた。
「頼む! あんたならできるだろう……! 頼むよ! 金ならいくらでも払うから!!」
ふいに切迫した男の声が辺りに響く。
(この声は……お館様か……?)
藤吉はゆっくりと立ち上がると、木の陰に身を隠しながら声のする方に近づいていった。
小屋の近くで提灯の明かりが揺れている。
「知るか、自分で蒔いた種だろうが。ああ、面倒くせぇな……。なんでよりによって俺がたまたま寄った日に……」
男は面倒くさそうに頭を掻いた。
藤吉は、木の陰から二人の男を見た。
ひとりはお館様。もうひとりは中年の男だった。
そのとき、提灯の明かりで中年の男の額に傷があるのが見えた。
(あの男は……)
藤吉は中年の男に見覚えがあった。
(あの男は……あの方の……)
「だいたい、金貸し風情がお館様なんて呼ばれて調子に乗ってるからこういうことになるんだろうが……」
傷のある男は呆れたように言った。
「貸した金が踏み倒されないように、武家のお偉いさん方の弱みを握るっていうのは間違っちゃいねぇんだろうけど、依頼されるままに殺しまくったのは、明らかにやりすぎだ。あの方が許してきたのが不思議なくらいだろ」
「それは……。勝手に動いていたのは……悪かったと思っているさ……」
男は背を丸めてうつむいた。
(お館様……別人みたいだな……)
藤吉は小さく息を吐いた。
「頼む! 今回だけでいい! 助けてくれ!! 自分が出かけてるうちに姉が死んだなんて知ったら、私は信に殺されてしまう! 頼む! あの男を殺してくれ! あんたならできるだろう……?」
男は、傷のある男に縋りついた。
(ああ、そういうことか……)
藤吉は強く瞼を閉じた。
「殺してくれって……簡単に言ってくれるが、あれはおまえが生み出した化け物だろうが……」
傷のある男は呆れたように言った。
「あいつには生きたいって思いがねぇから、斬られようが殴られようが、なんの躊躇もなく突っ込んでくるし、相手が死ぬまで追い続ける。おまけにずっと毒を盛られてたなら、たぶん毒に耐性もあるだろ? しかも、頭も使えるときてる。まさに獣を超えた化け物だ……。殺す気でいかなきゃ、俺の方がやられるんだよ」
「こ、殺してくれて構わないから……! どうか頼む……!」
「殺してもいいって……。あいつは、今ではあの方のお気に入りだ……。おまえの判断で勝手に殺したら、たぶんおまえも消されるぞ」
「そ、そんな……!」
男はその場に膝をついて頭を抱えた。
「じゃあ、私は……どうすれば……!」
傷のある男は面倒くさそうにため息をついた。
「まぁ、俺にできるのは足止めくらいだな……。おまえは俺が足止めしてるあいだに、全部捨てて逃げろ」
「全部……捨てて……?」
男は弾かれたように顔を上げた。
「こ、この屋敷は私が人生をかけて築き上げてきた……」
「そんな大したものじゃねぇだろ」
傷のある男は、男の言葉を遮った。
「築き上げた大切な屋敷の中で死ぬか、大切な屋敷を捨ててでも生きるか、どちらかだ」
傷のある男の言葉に、男は視線を落とした。
「…………わかった。屋敷を……捨てる……。だから、信の足止めを……頼む……」
「ああ、わかった。で、あいつは今どこにいるんだ?」
傷のある男は首を傾げる。
「ここから少し離れたところにある屋敷に行っている……。ただ、あちら側から山を下りれば、信よりも早く屋敷に着けるはずだ……!」
「なるほどね……。わかった。どのくらい足止めできるかわからねぇから、おまえはさっさと逃げろよ」
「……わ、わかった……!」
男はそう言うと、提灯を持って屋敷へと走っていった。
ひとりになった傷のある男は、小さく息を吐く。
「さてと……、こっちは先にやるか……」
傷のある男はそう呟くと、小屋に向かって歩き出した。
男はしばらく小屋の前に立っていたが、その後小屋の周りを一周し、ゆっくりとしゃがみ込む。
(何をしているんだ……?)
藤吉は目を凝らした。
次の瞬間、傷のある男の顔が明るく照らされた。
(まさか……!)
藤吉は目を見開く。
それは小さな炎だった。
小屋が一気に炎に包まれていく。
「これでよし……」
傷のある男はそう言うと立ち上がる。
その瞬間、振り向いた男がチラリとこちらを見た気がした。
藤吉は目を見開く。
急いで木の陰に隠れ、藤吉は息を押し殺した。
「行くか……」
傷のある男がそう呟くのを聞き、藤吉は木の陰から男を見る。
男は背を向けて屋敷の方へと去っていった。
藤吉は炎に包まれた小屋を、ただ茫然と見つめていた。
(俺は……どうするべきなんだ……)
藤吉は目を伏せる。
『私が死んだ後、信に伝えていただけませんか……?』
藤吉の頭の中で、百合の声が響く。
(ああ、そうだったな……)
藤吉はこぶしを握りしめる。
(足止めって言ってたから、ここで待ってれば弟は帰ってくるってことか……)
藤吉は息を吐いた。
「わかってる……。ちゃんと伝えるさ……。もう俺にできるのは、それぐらいしかないからな……」
藤吉はこぶしを握りしめると、燃え盛る炎の前で静かに目を閉じた。
百合が死んでから三日目の朝を迎えた。
燃えて灰になった小屋の残骸に朝日が差し込んでいた。
(弟は……本当に戻ってくるのか……)
藤吉は朝日の眩しさに目を細めながら、足元を見つめた。
小屋が燃えた翌日、屋敷も燃えた。
炎は丸一日かけて屋敷をすべて燃やし尽くした。
突然のことに屋敷の奉公人たちは慌てふためき、藤吉がいなくなったことにも気づかれていないようだった。
そのおかげで藤吉は、この三日小屋の近くの林に潜み、信が帰ってきていないか確認しながら過ごすことができた。
(なるべく小屋を見てたつもりだったが、見逃したか……?)
藤吉は木に寄りかかり、ため息をついた。
(まさか殺された……? いや、勝手に殺すのはマズいって話しだったし……)
そのとき、山道を歩いてくる人の姿が見えた。
藤吉は慌てて木の陰に身を隠す。
(弟……? 信なのか……?)
藤吉は目を凝らした。
少しずつはっきりしてきたその姿に、藤吉は目を見開いた。
重い体を引きずるように歩いてきた信は、全身ずぶ濡れだった。
信はしばらく茫然と小屋の残骸の前で立ち尽くしていたが、やがてフラフラと辺りを歩き始めた。
向きを変えたことで、信の背中が藤吉の目に映る。
藤吉は息を飲んだ。
信の背中は、遠目で見てもはっきりわかるほど血で赤く染まっていた。
(殺さないんじゃなかったのか……?)
堪え切れず藤吉が駆け寄ろうとしたとき、視界の隅に別の人影が動くのが見えた。
(あいつは……)
藤吉は目を見開く。
少し離れた別の木の陰で、額に傷のある男がじっと信を見つめていた。
藤吉は小さく舌打ちする。
(信を監視してるのか……。これじゃあ、むやみに近づけねぇ……)
「あああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
そのとき、悲痛な叫び声が辺りに響く。
藤吉が思わず声の方を見ると、信が小屋の残骸の前で膝をつき頭を抱えていた。
(ああ……、百合を……見つけたのか……)
藤吉は静かに目を伏せる。
信は両手を地面につくと、苦しそうに肩で息をしていた。
藤吉はもう一度傷のある男を見る。
男は静かに信を見続けていた。
(どうしたらいいんだ……)
藤吉はこぶしを握りしめる。
信はうずくまり吐いているようだった。
肩で息をしていた信は、やがて何か気づいたように顔を上げると、茫然と一点を見つめた。
(なんだ? 何を見てるんだ……?)
藤吉は信の視線の先を見た。
信が見ている場所はただの草むらで、藤吉が見る限りそこには何もなかった。
信は何かに怯えるような表情を浮かべた後、その場に倒れこんだ。
「あ……」
藤吉の口から思わず声が漏れる。
藤吉が視線を動かし、傷のある男を見ると、男は相変わらずじっと信を見ていた。
(どうすれば……。あいつが飽きてどこかに行くのを待つか……?)
藤吉がそんなことを考えていると、信が突然何かに操られるように体を起こした。
(え……?)
藤吉は目を見開く。
藤吉が考える間もなく、信は山道に向かって走り出した。
(どこに向かう気なんだ!?)
信を見ていた傷のある男も、後を追って走り出す。
(俺も……!)
藤吉は傷のある男が走り去ったのを確認すると、信の後を追おうと駆け出した。
しかし、藤吉は小屋の残骸の前で、ゆっくりと歩みを止めた。
(今追いかけても、あいつがいる限り信には何も話せない……。ヘタしたら俺が殺されて終わりだ。幸い、殺すつもりはないらしいし、時間を置くべきか……)
藤吉は小屋の方に視線を向けた。
今日まで藤吉は、百合の亡骸を見ることができずにいた。
(……おまえの供養が先だな)
藤吉は心を決めると、一度林の中に戻った。
屋敷から寒さをしのぐために持ち出していた布を取り出し、また小屋のあった場所に戻る。
藤吉は布をそっと百合の亡骸に被せるとゆっくりと亡骸を包み込んだ。
布に包んだ亡骸を、藤吉は慎重に抱き上げる。
それは、驚くほどに軽かった。
込み上げてくるものを堪えるように、藤吉は奥歯を噛みしめる。
藤吉はかつて百合を連れていった丘に向かって歩き始めた。
吹きつける風は、ひどく冷たく感じられた。
藤吉は丘の上に立つ。
季節が違うため木々は色づいておらず、彼岸花も咲いていなかったが、見晴らしだけはあのときと同じようによかった。
藤吉は彼岸花が咲いていた一帯を見つめる。
今そこには何もなかったが、藤吉はゆっくりと歩いていくと、その場にしゃがみ込んだ。
「天上の花……か……。おまえのいるところでは……ちゃんと咲いてるか?」
藤吉はその場に百合の亡骸を下ろすと、手で穴を掘った。
ある程度の深さまで掘ったところで、藤吉は慎重に亡骸を抱き上げ、布に包んだままそっと寝かせた。
静かに土を被せると、藤吉は近くにあった大きめな石をその上に置いた。
藤吉は膝をつくと、静かに両手を合わせる。
(百合……、必ずおまえの想いは伝えるから……。もう少し待っていてくれ……)
藤吉はゆっくりと顔を上げる。
吹く風は相変わらず冷たかったが、山間から差す温かい光が藤吉を静かに照らしていた。
弥吉は布団で眠る信の枕元に腰を下ろした。
どこか苦しげな顔で眠る信を見つめながら、弥吉は小さく息を吐いた。
(一体、信さんに何があったんだ……?)
屋敷を訪れた日から二日が経った。
あの日、良庵の長屋で信を診てもらったが、信の体に異常は見つからなかった。
弥吉は目を伏せる。
良庵の言葉が、弥吉の頭から離れなかった。
『まぁ、精神的なものだろうな……。こいつもいろいろあったみたいだから、昔のことでも思い出したんだろう』
良庵はそれだけ言うと、静かに口を噤んだ。
弥吉は信の顔を見つめる。
(俺は、信さんのこと……何も知らないからな……)
弥吉は唇を噛んだ。
信を監視しろと言われた理由も、以前信が死にかけたと言っていた出来事も、咲耶が信を助けたという状況も、弥吉は何ひとつ知らなかった。
(聞いたら話してくれるのかな……?)
弥吉は静かに目を閉じ、首を横に振った。
(いや、きっと話してもらえない……。でも、それでいいんだ。信さんが話したくないことを、無理に知りたいとは思わないし……)
弥吉はゆっくりと目を開ける。
信は相変わらず、苦しそうな顔で眠り続けていた。
良庵からもらった薬が効いているのか、信は長屋に戻ってからほとんどの時間を眠って過ごしていた。
「信さん、俺は……」
弥吉がそう口にしたとき、長屋の戸を叩く音が聞こえた。
「あ、はい……!」
弥吉が慌てて返事をして戸を見ると、障子に人影が映っていた。
障子に映った影は大人にしては背が低かった。
(子ども……?)
弥吉は立ち上がると、ゆっくりと戸に近づく。
「あの……どなたですか……?」
弥吉は戸の障子越しに聞いた。
「突然申し訳ありません……。人を探しておりまして……」
まだ幼さが残る声で、少年が答えた。
弥吉はゆっくりと戸を開ける。
そこには弥吉と同じくらいの年の少年が立っていた。
少年は弥吉を見ると、静かに頭を下げる。
品のある所作と質の良さそうな着物。明らかに武家の子どもだった。
(どうして武家の子どもが……こんなところに……)
弥吉は静かに少年を見た。
「すみません……」
少年は頭を上げると、弥吉を真っすぐに見つめた。
「人を探しております。この辺りに、薄茶色の髪をした男が住んでいると聞いたのですが、どこの長屋かご存じありませんか?」
弥吉の胸がドクッと嫌な音を立てた。
口の中が急激に渇いていく。
弥吉には、少年の目の奥に隠しきれない憎悪があるのが見えた。
弥吉は不自然にならないように外を見るフリをして、長屋の外に出るとゆっくりと戸を閉めた。
「薄茶色の髪……ですか? ああ、あの人かな……。そうですね……。見かけたことはありますけど、どこに住んでいるのかまでは……」
弥吉は考えているような素振りをしながら少年を見た。
「お力になれず申し訳ありません……」
弥吉は自分の速くなる鼓動が、少年に聞こえていないか心配だった。
信がここにいることを知られてはいけないと、弥吉の本能が言っていた。
「そうですか……。この辺りだと聞いたのですが……」
少年の目が明らかに冷たくなった。
「この辺りといってもたくさんの人が住んでいますから。私が知らないだけで、この近くに住んでいるのかもしれないですね」
弥吉は怪しまれないように、微笑みながら言った。
「そうですか……」
少年の口調は丁寧だったが、その声はひどく冷たかった。
「ところで、あなたはここにひとりで住んでいるのですか?」
「まさか。母と一緒に住んでいます」
「では、お母様にも話しを聞きたいのですが、呼んできていただけないでしょうか?」
少年は淡々とした口調で言った。
弥吉は少年を見つめる。
(疑われてるな……。信さんがここにいるって確信でもあるのか……?)
弥吉は考えを読まれないように注意しながら、申し訳なさそうな顔を作った。
「すみません。母は仕事に出ていて今いないんです。帰ってきたら、母にも聞いてみますね」
「いえ、ぜひ直接お話しが聞きたいです。中で待たせてもらえませんか?」
少年はそう言うと、真っすぐに弥吉を見た。
(引き下がらない気か……)
弥吉は眉をひそめる。
「あの……、それは……!」
弥吉が口を開きかけたとき、長屋の戸が開く音がした。
「もういい、弥吉」
静かな声が響く。
少年の目が見開かれ、怒りでその顔が歪む。
弥吉は、顔から血の気が引いていくのを感じた。
恐る恐る振り返ると、そこには信が立っていた。
「信さん……、どうして……」
弥吉は絞り出すように言った。
「もういい」
信はもう一度そう言うと、弥吉の肩に手を置き、どこか悲しげな眼差しを少年に向けた。
弥吉は少年に視線を戻す。
怒りに満ちた少年の目に、もう弥吉は映っていなかった。
目を覚ました信は、布団の上でゆっくりと体を起こした。
(また……同じ夢か……)
信は片手で顔を覆うと、息を吐いた。
長屋の中は静かだった。
(弥吉は……仕事か……?)
そのとき、長屋の外からかすかに声が聞こえた。
(弥吉……?)
弥吉は誰かと話しているようだった。
戸の障子には、弥吉の影が映っている。
(弥吉は誰と……)
信はゆっくりと立ち上がると、戸に近づいた。
「……帰ってきたら、母にも聞いてみますね」
障子越しに弥吉の声が聞こえる。
(母……?)
信は眉をひそめる。
「いえ、ぜひ直接お話しが聞きたいです。中で待たせてもらえませんか?」
弥吉とは別の声が、信の耳に届く。
その声色はひどく冷たかった。
(この声……)
信は目を見開く。
『よくもお父様を……!』
信の頭の中で憎しみに満ちた声が響く。
(この声は……あのときの……)
信は静かに目を閉じた。
(俺を……追ってきたのか……)
「あの……、それは……!」
弥吉の声はうわずっていた。
(ああ、俺を隠そうとして……)
信はゆっくりと目を開ける。
信は心を決めると静かに戸を開けた。
「もういい、弥吉」
信は弥吉の背中にそう言うと、弥吉と向かい合うように立っていた少年に目を向けた。
少年の目は見開かれ、その顔が憎悪で歪んでいく。
(ああ、やはり……)
少年はあの日、信に刀を向けた子どもだった。
信は弥吉の肩に手を置き、もう一度弥吉に声を掛けると、静かに弥吉の前に出た。
少年は警戒するように後ずさり、信と距離をとる。
「やはり……ここに……!」
少年が憎しみのこもった眼差しを信に向ける。
「生きていたんだな……! この人殺しが……!」
信は静かに目を伏せた。
「ずっとおまえに聞きたかった……。どうして、おまえはお父様を殺したんだ……?」
少年は怒りを押し殺した声で言った。
「あの優しいお父様が、おまえに一体何をしたって言うんだ……? お父様が死んだことで、お母様は心を病んで倒れた……。屋敷を支えてくれていたはずの人たちも離れていって、屋敷はもうめちゃくちゃだ……。なぁ、一体お父様にどんな恨みがあったっていうんだ……?」
信は目を閉じた。
信には何も答えることができなかった。
重苦しい沈黙が辺りを包む。
少年は奥歯を噛みしめた。
「……ふざけるな! ちゃんと答えろよ!! せめて納得できる理由なら……それなら……」
少年は震える手を着物の懐に入れる。
懐から出した少年の右手には、短刀が握られていた。
短刀の鞘がゆっくりと地面に落ちる。
「こんなことしなくてもって……少しだけ……思っていたのに……!」
短刀の刃先が信に向けられる。
「信さん……!」
信の後ろで弥吉が声を上げる。
「もう一度だけ聞く……。どうして……殺したんだ……?」
少年は両手で短刀を握りしめ、信を睨む。
信はやはり何も答えられなかった。
「そうか……わかった……」
少年は短刀を握る手に力を込めた。
少年が一歩踏み出したとき、信は勢いよく後ろに腕を引かれた。
信は突然のことに、思わず後ろによろめく。
(……!?)
気がつくと、信の前には弥吉が立っていた。
「……弥吉?」
信は目を見開く。
弥吉は信を庇うように、少年と信のあいだで両手を広げた。
その様子を見て、少年はハッとしたように足を止める。
「おい……! おまえは……何も関係ないだろ! 邪魔するな……!」
少年が叫んだ。
弥吉は首を横に振る。
呆気に取られていた信は、ようやく我に返った。
「弥吉、もういい……」
信が弥吉の肩を掴むと、弥吉は勢いよく振り返った。
「何がいいんだよ!?」
弥吉の目には涙が溢れていた。
信は目を見開く。
「ひとりで納得して死のうとするなよ!? もういいって何がいいんだ!? 俺はよくない! 全然よくない!!」
弥吉の頬を涙が伝う。
呆然としていた少年は、戸惑いながら口を開く。
「そいつが何をしたか……知らないからそんなことが言えるんだ……」
弥吉は少年に視線を戻した。
「知らねぇよ! ……何も知らないけど……大事なんだから仕方ないだろ! 目の前で死なれるくらいなら……俺が死んだ方がマシだって……そう思っちまうんだから!」
弥吉の言葉に、少年の顔が歪む。
「……ふざけるなよ……。お父様を殺したそいつに……生きる資格なんてあるはずないだろ……!」
少年はそう言うと、短刀を握りしめて駆け出した。
「……弥吉!」
信は強く弥吉の左腕を引くと、首の後ろを叩き弥吉の意識を奪った。
「すまない……」
信は絞り出すように小さく呟くと、弥吉を庇うように抱きしめ、少年に背中を向けた。
(これでよかったんだ……)
信は静かに目を閉じ、そのときを待った。
「ど、どうして……!」
唐突に、少年の戸惑った声が響く。
背中に短刀が刺さるのを待っていた信は、思わず振り向いた。
信の後ろに、少年はいなかった。
そこには、見知らぬ男が立っていた。
信は何が起きたのかわからず、言葉を失う。
見知らぬ男の向こうに、青ざめた顔の少年が見えた。
後ずさる少年の手には、血まみれの短刀が握られていた。
(この男が……俺を庇ったのか……?)
信は男の背中を見つめる。
(誰だ……この男は……)
そのとき、ふいに男が振り返った。
男は信を見てフッと笑う。
「やっぱり近くで見ると……おまえら姉弟は……そっくりだな……」
信は、男の声に聞き覚えがあった。
(あ……夢の……。あのときの……)
「あなたは……」
信が茫然と呟くと、男は小さく微笑んだ。
男は何も言わずに少年の方を向くと、傷口を押さえながら少年に近づいていった。
「どうして……そんな……! 私は……関係のない人を……!」
少年の顔色はますます悪くなっていた。
「おまえは悪くない……」
男は、短刀を握る少年の手を取った。
「実は……おまえの父親を殺すように言ったのは……俺なんだ……」
「え……?」
少年は目を見開く。
「悪かった……。幸せそうなおまえの父親が妬ましかったんだ……。あの薄茶色の髪のやつを脅して……俺が殺させた……。本当に悪かった……。あいつの姉を人質にして、殺すように命じたのは俺だ……。あいつは関係ない……。だから、おまえの復讐は終わったんだよ……」
「復讐が……終わった……?」
少年は茫然と呟く。
「ああ、そうだ。だから、もうおまえは逃げろ……。おまえには、まだ……守るものがあるんだろ……? 誰かに見られる前に……逃げるんだ……」
「逃げ……?」
少年は驚き、手に持っていた短刀を落とした。
「早く逃げろ……。おまえが捕まれば……あの屋敷がどうなるか……わかるだろう……?」
少年は弾かれたように顔を上げた。
震える足で後ずさると、少年は視線をしばらく男に残したまま、もつれる足で走り出した。
少年が遠ざかり背中が見えなくなると、男は地面に膝をついた。
茫然と二人を見ていた信は、ようやく我に返り、弥吉をその場に寝かせると男に駆け寄った。
「どうして……俺を……」
信は男を見る。
傷自体は深くなさそうだったが、男の腹は血に染まっていた。
(刺された場所が悪いな……)
信は男の傷口に押さえる。
「早く医者に……」
信がそう呟くと、男は信の手首を掴み、静かに首を横に振った。
「俺は……これから行くところがあるんだ……。医者はいい……。それより伝言を……」
「伝言……?」
信は眉をひそめる。
「百合から……。おまえの姉からの伝言だ……」
「姉……さん……?」
信は目を見張った。
「ああ」
男は優しげに微笑んだ。
「あいつは……おまえが仕事で失敗したから殺されたんじゃない。自分で……命を絶ったんだ。おまえを自由にするために……」
信は目を見開いた。
(姉さんが……自分で……?)
「百合からの伝言だ。『もう自由になって』『それが私の望みで、願いだから』だとさ……」
信は茫然と男を見つめる。
「おまえが……人の温かさに触れて……ちゃんと笑えるようになってほしいってさ……。あいつの……最期の願いだ……。だから、もう……自由になれ……。お館様のことも……鬼の刺青のやつらも……もう全部忘れろ……」
男は信を真っすぐに見た。
「どうせ俺たちが行き着くのは地獄だ……。それなら、死ぬ前に少しくらい……自由に生きてみろ……」
信は何も応えることができなかった。
男はフッと笑うと、傷口を押さえゆっくりと立ち上がった。
「それじゃ、俺はもう行くよ……。間に合わなくなると……困るからな……」
男はそう言って微笑むと、傷を負っているのが嘘のように軽やかな動きで走り出した。
男の姿はあっという間に、信の視界から消えた。
信はただ茫然と、男が去っていった方を見ていた。
(姉さんが……自分で命を絶った……?)
信は自分の手を見つめる。
信の手は、男の血が赤く染まっていた。
(俺は……)
信は手を下ろすと、静かにうつむいた。
自分がどうするべきなのか、もう信にはわからなかった。
藤吉は傷口を押さえながら、目的の場所へと向かっていた。
足はまだ動かせていたが、少しずつ指先が麻痺してきているのを藤吉は感じていた。
(この感じだと……刃先に毒が塗ってあったんだろうな……)
藤吉は小さく息を吐く。
(毒なら殺せる確率は上がるからな……。いい判断だ……)
藤吉は苦笑した。
(俺が人を庇う日が来るとはな……)
「おまえのせいだぞ……百合……」
藤吉は小さく呟いた。
重くなっていく足をなんとか動かし、藤吉は山道を登り始める。
藤吉は百合の墓に向かっていた。
「また来るって……言っちまったからな……」
藤吉はため息をつく。
「俺はおまえと違って……言ったことは守る方なんだよ……」
藤吉は思ったことをすべて口に出しながら歩いた。
口を動かしていないと、気を失ってしまいそうだった。
吹きつける風が、藤吉の体温を奪っていく。
「なぁ……見てたか?」
藤吉は空を見上げる。
木々のあいだから差し込む日差しは藤吉を温かく照らしていた。
「おまえの弟のこと……大事だって……言ってるやつがいた……。信が死ぬより……自分が死んだ方が……マシだとも言われてたよ……。愛されてたんだ……信は……。よかったな……。おまえの死は無駄じゃなかった……。初めて……神様ってやつに感謝したよ……」
藤吉は目を細める。
「あいつはもう……大丈夫だ……」
藤吉は再び前を向くと、引きずるように足を前に進める。
百合と過ごした小屋の跡はすでに通り過ぎていた。
墓のある丘はもうすぐそこだった。
丘に近づくほど強い風が吹き、藤吉の体を揺らす。
「寒いな……」
藤吉は思わず目を閉じた。
指先はもうまったく感覚がなかった。
ゆっくりと目を開けると、このあいだ来たときと変わらず、そこには赤い彼岸花が咲いていた。
「あと……少し……」
藤吉は足を引きずり、一面に咲く彼岸花の中に足を踏み入れる。
次の瞬間、藤吉はその場に倒れ込んだ。
「ほらな……。ちゃんと来ただろ……?」
藤吉はかすかに笑った。
そのとき、強い風が吹いた。
彼岸花の揺れる音が響き、それと同時に藤吉は人の気配を感じた。
(こんなところに……誰が……)
藤吉は腕に力を込めると、なんとか体を起こし顔を上げる。
藤吉は目を見開いた。
(は…………?)
そこには、百合が立っていた。
薄茶色の髪が風になびき、光を受けた髪はところどころ金色に輝いて見えた。
(夢……それとも……幻覚か……?)
茫然としている藤吉の前で、百合はゆっくりと膝をついた。
百合の両手が藤吉の頬を包む。
頬を撫でるように、百合の両手が優しく動く。
もう忘れかけていた懐かしい温かさだった。
(ああ……夢とか幻覚とか……もうどうでもいいか……)
藤吉はかすかに微笑んだ。
ふいに、頬に触れていた手が止まる。
「百合……?」
藤吉が百合を見つめると、百合はゆっくりと目を開いた。
薄茶色の瞳に涙が溢れ、頬を伝う。
藤吉は目を見開いた。
伝う涙がこぼれる前に、百合の口元には笑みが広がった。
その笑顔は、涙を堪えているようにも、喜びを嚙みしめるようにも見えるぎこちない笑顔だったが、明るい日の光を浴びて笑う百合は、今まで見てきたどんなものより美しかった。
「おまえ……なんて顔してんだよ……」
藤吉は絞り出すように言った。
涙がこぼれ落ち、百合の薄茶色の瞳に藤吉の顔が映る。
藤吉は目を見張った後、静かに苦笑した。
「なんて顔……は……お互い様か……」
百合の両手がゆっくりと藤吉の頬を離れ、藤吉の体を優しく抱きしめた。
藤吉は驚いて目を見開いたが、やがて静かに目を閉じる。
百合の体は温かく、胸からは鼓動の音が聞こえる気がした。
「ああ……、神様を信じるのも……悪くはねぇな……」
藤吉は百合の胸に体を委ねると、眠りに落ちるようにそっと意識を手放した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
冷たい風が吹きつける中、ひとりの男が丘に立った。
男の足元には、咲き乱れる彼岸花の中で息絶えた藤吉の亡骸があった。
「せっかく……俺が見逃してやったっていうのに……」
男は、額の傷を掻く。
「おまえの命の使い方は……これでよかったのか……?」
男は亡骸の横に片膝をつくと、目を閉じて静かに両手を合わせた。
男はゆっくりと目を開ける。
「もし来世があるなら、次は……もっとうまく生きろよ……」
男はそれだけ言うと立ち上がり、静かに丘を去っていった。
夕暮れ時、男は茶屋で人を待っていた。
茶屋の主人はすでに店の奥に行き、男のほかに茶屋には誰もいなかった。
男は湯飲みを見つめていたが、外から近づいてくる足音に気づき顔を上げた。
「遅かったね。何か……」
男が言い終える前に、額に傷のある男が男の胸ぐらを掴む。
「おまえが仕組んだんだろ……!」
傷のある男は怒りを押し殺した声で言った。
男は、傷のある男を見上げるとクスッと笑う。
「さぁ……、なんのことだかわからないな」
傷のある男は、男に顔を近づけた。
「とぼけるな……! 最初から毛色が違うのじゃなくて、あいつを殺すのが目的だったんだろ……!」
男は目を細める。
「おいおい、何をそんなに怒ってるんだよ。不幸な事故だろ? まさかあいつが出てくるなんて俺も思わなかったよ」
「ふざけんな!」
傷のある男は声を大きくした。
「今まで鳴りを潜めてて、こんなに都合よく出てくるわけねぇだろ! 最初から全部おまえが仕組んだとしか思えねぇ!」
男は微笑むと、胸ぐらを掴む手を払った。
「あのさ、もう一度聞くけど……何をそんなに怒ってるんだ? あいつは、どちらにしろ殺さないといけなかっただろ?」
傷のある男は、わずかに目を見張った後、視線をそらした。
「そんなこと……俺だってわかってる……」
「へ~、わかってるのに見逃したわけだ」
傷のある男は目を見開く。
男はにっこりと微笑んだ。
「知らないとでも思ったの? 知ってたさ。まぁ、同情はするけど、放っておくわけにはいかないだろう? 毛色が違うのとは訳が違う。あいつはあの方のことも知ってるし、俺やおまえの顔もわかるんだ」
男は鋭い眼差しを傷のある男に向けた。
「消すしかない。それぐらい、おまえにもわかるだろ」
傷のある男は額の傷を掻くと、目を伏せる。
「……わかってるよ」
「そう? わかってるならいいけど」
男はにっこりと笑った。
「それに、最後までどうなるかわからなかったんだよ。信、弥吉、それからあいつ。誰が死んでもよかったんだ。まぁ、あいつが死ぬ確率が一番高いと思ってたのは事実だけど……」
男はそう言うと、湯飲みを手に取った。
「あいつなら止めることもできただろうけどさ、それだと信は狙われ続けるからね。あいつの性格からして、自分が刺されて終わりにするだろうとは思ってたよ」
男は湯飲みの茶に口をつけた。
「相変わらず性格悪ぃな、おまえ……」
傷のある男が吐き捨てるように言った。
「そう?」
男は湯飲みの中にある濁った茶を見つめる。
「こんな俺たちの末路としては……出来すぎなくらい良い最期だったと思わない?」
男の言葉に、傷のある男は静かに目を伏せる。
「どうだか……」
傷のある男は小さくそう呟くと、男に背を向けた。
「あれ、もう帰るの?」
男は首を傾げて微笑んだ。
「ああ」
傷のある男は背中を向けたまま答える。
「今日はこの話だけで、ほかに用はねぇんだろ? 聞きたいことは聞けたから帰る……。何かあったらまた呼べ」
傷のある男はそう言うと片手を上げて、茶屋を後にした。
「まったく……」
男は湯飲みを見つめると苦笑した。
「おまえこそ相変わらずだろ……。まぁ、無理もないか。あいつとおまえ……似てたからな……。たったひとりの守りたかった人間に死なれたってあたりは、特に……」
男は目を閉じて、ゆっくりと息を吐いた。
「さぁ、切り替えていくか……」
男は目を開けると、濁った茶を飲み干し立ち上がった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
信は繰り返し同じ夢を見ていた。
(ああ……、またこの夢か……)
「そのまま、振り返らずに聞け」
よく通る低い声が耳に響く。
(やはり、あのときの人は……)
信は刺された男のことを思い出した。
「この先、おまえは……俺たちについてきたことをきっと後悔することになる……。でも、もしいつか……おまえが運よく逃げ出せたときには……腕に鬼の刺青がある人間には絶対に近づくな……」
「鬼の……刺青……?」
夢だという自覚はあったが、信の意思に反して口はいつも同じ言葉を繰り返すだけだった。
「後悔する……? それに逃げ出すって一体どういう……」
「今はわからなくていい……。あいつらはみんなつながっている……」
信は横目で男を見た。
男の口がゆっくりと動いていく。
「あいつらは、この世の……閻羅人。この、人の道の……鬼だ」
(そうだ……あいつらは地獄の……)
信が思い出したところで夢は途切れ、信はより深い眠りへと落ちていった。
静かな長屋の中で、男の動きに合わせて畳に着物がこすれる音だけが響いていた。
『私、あなたの描く絵、好きよ』
ふいに、男の頭の中で声が響いた。
男は紙に筆を走らせながら苦笑する。
(わかってる……。君が好きだったのは……こんな絵じゃないよね……)
筆先から血を思わせるような赤が紙に広がっていく。
『あなたの目から見た世界は、きっとこんなふうに輝いてるのね』
頭の中の声は明るく、男の胸が苦しくなるほど楽しげだった。
男が走らせる赤い線は、燃え盛る炎を描き出した。
炎の中では、体を焼かれた人々が悶え苦しみ、のたうち回っている。
その傍らでは、鬼が人の皮を剥ぎ、巨大な槍で人々を突き刺して火で炙っていた。
男は静かに目を伏せる。
(もう……昔みたいな絵は描けそうもないよ……)
そのとき、家の外から声が聞こえた。
男はゆっくりと顔を上げる。
急速に現実に引き戻されていくのを、男は感じた。
寂れた長屋の戸から、かすかに日が差し込んでいる。
戸に張られた障子にぼんやりと二つの影がうつった。
「ここなんでしょ……! あの気味の悪い絵を描いてる絵師の家……」
それは女の声だった。
「そうだけど……、ちょっと落ち着きましょうよ……」
もうひとりの女がなだめるような声で言った。
「あんな絵を描いてる人間が近くに住んでると思うと……もう耐えられないのよ……! なんとか出て行くように言って……!」
「そうは言ってもね……お金は……ちゃんと払ってくれる人だから……」
「お金って……あの気味の悪い絵を売ったお金でしょ……!? あの絵を描くために……人を……殺したこともあるって、そう聞いたわよ……? 怖いのよ……! うちは子どももまだ小さいし……。何かあったら……」
「ただの噂よ……。とにかく今日はやめておきましょう……。ね? 一旦落ち着いて。ほら、静かだし……きっと留守なのよ……。日を改めましょう……?」
「…………わかった。でも、必ず追い出して……。そうでないと……」
二人の女の声がしだいに遠ざかっていくのがわかった。
男は静かに息を吐く。
(ここも……出ていった方がよさそうだな……)
男は再び絵に視線を落とした。
「人を殺した……か……」
描いた地獄の業火と、記憶の中の炎に包まれた小屋の光景が重なっていく。
男は目を閉じた。
「その通りだな……」
男は小さく呟くと、震える手で顔を覆った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
夕暮れ時、茶屋には二人の男がいた。
二人は離れた場所に座っていたが、茶屋の主人がいなくなると男は立ち上がり、額に傷のある男の前に立った。
傷のある男は、不機嫌そうに男を見上げる。
「今日は何の用だ?」
男はにっこりと微笑む。
「これさ」
男はそう言うと懐から一枚の紙を取り出し、傷のある男に差し出した。
「なんだ? 手紙か?」
傷のある男は、紙を受け取るとゆっくりと広げた。
「なんだよ、これ」
傷のある男は眉をひそめる。
「見ての通りだよ。最近あの方が気に入ってる絵だ」
男はそう言うと、傷のある男に背を向け、座っていた場所に戻ると静かに腰を下ろした。
「悪趣味だな……って言わせたくて持ってきたのか?」
傷のある男は、絵に視線を落とす。
それは地獄絵だった。
至るところから火の手が上がり、数えきれないほどの人々が炎に飲まれ悶え苦しんでいた。
人々のそばには明らかに鬼とわかる化け物がいて、怒り狂った顔で人の首を切り落とす鬼や、口元に笑み浮かべながら人を串刺しにしている鬼がいる。
「絵を見せるためだけに、わざわざ呼ぶと思う? あの方からのご依頼だよ」
男はフッと笑った。
「……この絵師の始末か?」
傷のある男は、顔を上げて男を見た。
「いや」
男はにっこりと微笑む。
「始末するのは、鬼の方だよ」
傷のある男はわずかに目を見張った後、何かを察したように静かにため息をついた。
「面倒くさそうな依頼だな……。回りくどい言い方しなくていいから、さっさと話せよ」
「わかったよ。ちなみに、普通に話しても長くなるから、口を挟まずに聞いてね」
男はそう言うと、ゆっくりと話し始めた。
傷のある男はただ黙って聞いていたが、男の予想通り、話し終わる頃には日はすっかり沈んでしまっていた。