【コミカライズ】鏡花の桜~花の詩~

 信は仕事のために、朝早く小屋を出た。
 ひとりになった長屋で、百合はうずくまった。
(信…………あんな体で、また……)
 昨日小屋に戻ってきたとき、信は明らかに怪我をしていた。
 怪我を隠すように、いつも通り振る舞おうとする信に、百合は気づかないフリをするしかなかった。
(私のせいで、信は帰ってきても気が休まらないのね……)
 百合は両手で頭を掻きむしった。

「まったく私は……役に立たないどころか……、生きているだけで害になるなんて……」
 百合の口から苦い笑いがこぼれる。
(わかっていたことじゃない……)
 百合は強く瞼を閉じた。
(私は……一刻も早く死ぬべきだって……)
 百合は込み上げる吐き気をなんとか抑えた。

 百合が片足を失ってから、信は半日かからず小屋に戻ってくるようになった。
 しかし、その代わり以前とは比較にならないほど信の怪我は増えた。
 足を引きずる音、浅い呼吸、寝返りを打ったときの痛みを堪えるような呻き声。
 音だけでも、信の身に何が起きているのかはわかった。
 毎回信が食事を入れ替えていること、食事に口をつけた信が小屋の外に出て吐いていることを知り、百合がすべてを理解するのに時間はかからなかった。

(そんなことしなくていいのに……!)
 百合は十字架を握りしめた。
 息が苦しかった。
 百合は目の前が暗くなっていくのを感じた。
(いっそ私のことを捨ててくれれば……!)
 百合はもう、どうすれば信を救えるのかわからなかった。

「私は……最初から間違えたのね……」
 百合は絞り出すように呟いた。
(いくら信が望んでいたとしても、気づかないフリなどするべきではなかった……)
 百合は苦しくなり口を開けたが、うまく息ができなかった。
(気づかないフリをしたことで……信を……ひとりに、本当の意味で孤独にしてしまった……)

「本当に……私さえいなければ……」
 気がつくと百合の頬は濡れていた。
「私は……一体何をしていたの……?」

 百合は母親から、信を頼り、支えて生きていくようにと言われていた。
 目が見えない百合は、そのように生きるのが普通なのだと思い、これまで生きてきた。
 しかし百合は、盲人ができる仕事があることを知らないわけではなかった。
 鍼や灸を学び按摩になる道、楽器を極め楽師になる道、女であるためにそれが難しいなら母親のように身を売る道もあると百合はわかっていた。

(私が……目が見えないことを言い訳にして……ひとりで生きる道を考えようとしなかったから……)

「私は……本当に、ただの荷物に成り下がってしまった……」
 百合は眩暈がして、片手で顔を覆った。

「ごめん……ごめんね、信……! 私さえいなければ……!」
 百合はもう片方の手で胸元を掻きむしる。
(わかっているの……。私は……)

「どうした!?」
 そのとき、頭の上から声が響いた。
 百合は目を見開く。
「大丈夫か!? 何があったんだ!」
 それは、藤吉の声だった。
 窓からうずくまっている姿が見えたのだと百合は悟った。

(気が……つかなかった……)
 百合は顔から血の気が引いていくのを感じた。
「あ……な……」
 百合は慌てて口を開いたが、うまく言葉が出てこなかった。

「今、そっちに行く!」
 藤吉が戸に向かう足音が響く。
(い、嫌……。こんな姿見せたくない……)
 百合は壁に寄りかかり立ち上がろうとしたが、体に力が入らなかった。

 小屋の戸が勢いよく開き、藤吉が近づいてくるのがわかった。
「大丈夫か!?」
 藤吉が慌てた様子で百合を抱き起こす。
「何があった!?」
「あ…………」
 百合はうまく声を出すことができなかった。
 藤吉の体からふわりとツツジの花の香りがした。
 百合は目の奥から込み上げるものを抑えることができなかった。

「おい、大丈夫か!? まず息を吸え」
 藤吉はそう言うと百合を優しく抱きしめて、背中をさすった。
「俺が支えてるから、ほら、ゆっくり」

 藤吉の体は温かった。
(信……ごめんね……。私もこんなふうに、ただ抱きしめてあげればよかった……。何を考えているかなんて知ろうとせずに……ただ受け入れていれば……)
 百合はゆっくりと息を吸った。
 ツツジの花の香りが、優しく百合を包む。
 百合は唇を噛んだ。
(ごめんね……。私は死ぬべきだって……わかってるの……。でも、もう少しだけ……)
 百合の耳に、藤吉の心臓の音が響く。
(もう少しだけ…………生きることを許して……)

 百合は優しい温もりに堪えきれず、声を上げて泣いた。
 百合が泣き止むまで、藤吉は何も言わずただ静かに百合の背中をさすり続けた。
「信に絵の補修を?」
 咲耶は鏡越しに弥吉を見た。
 女が訪ねてきた翌日、弥吉は咲耶に長屋での出来事を話した。

「それで明後日屋敷に行くことになった……と」
 昼見世の準備をしていた咲耶は、髪を結われているため鏡越しに口を開く。
「それに何か問題があるのか? 竜さんという知り合いの娘から依頼されたんだろう?」

「そう……です、たぶん……。そう名乗ってはいました……」
 弥吉はそう答えると、静かに目を伏せた。
「名乗っていた……ということは違ったのか?」
 咲耶は振り返って弥吉を見る。
 咲耶の髪を結っていた男も咲耶の様子に、静かに手を止めた。

 弥吉はおずおずと顔を上げる。
「違うかどうか……わからないんです……。竜さんは数日前からどこかに出かけているそうで……確認ができなくて……。でも、信さんは何か疑っているようで、様子がいつもと……」

 咲耶は珍しく不安げな表情を浮かべていた。
「信は……何か言っていたか?」
「いえ、何も……。ただ、あれからいつも以上に口数が少なくて……」
 弥吉はそれだけ言うと、静かにうつむいた。
 咲耶はしばらく何か考えているようだったが、やがて口を開いた。

「弥吉に頼みがあるのだが……玉屋の男衆を何人か同行させてくれないか?」
 咲耶の言葉に弥吉は目を丸くする。
「玉屋の……?」
「ああ、私がその皿に興味を持っているから、とでも言ってくれ。弥吉が玉屋の文使いなのは、その女も知っているのだろう?」
「そうですね……。本当に竜さんの娘なら……知っているはずです……」
「それなら、その理由で押し通してくれ。本当に絵の修復が目的なら、人数が増えたところで問題はないはずだ」
 咲耶はそう言うと、弥吉を真っすぐに見つめた。
「もし男衆の同行も拒否するようなら……そのときは、行くのはやめるよう信に言ってくれ」
「わ、わかりました」
 弥吉は咲耶を見つめると、力強く頷いた。

「まぁ、おそらく……」
 咲耶は小さく息を吐いた。
「行くことにはなるのだろうが……何かあったとしても最悪の事態は避けられるはずだ」
 咲耶の言葉に、弥吉はこぶしを握りしめる。

 咲耶はそれだけ言うと静かに鏡台に向かって座り直し、背後に控えていた男は再び咲耶の髪を結い始めた。
「弥吉……」
 咲耶は鏡越しに弥吉に視線を向ける。
「屋敷に着いたら絶対に信から離れるな」
「え?」
 弥吉は意味がわからず、思わず咲耶を見つめた。
「とにかく絶対に離れるな。いいな、わかったか?」
 咲耶はいつになく強い口調で言った。
「あ……はい……」
 弥吉は戸惑いながらも小さく頷いた。
 弥吉が頷くのを確認すると、咲耶は微笑む。

「引き留めて悪かったな。仕事に戻ってくれ」
 咲耶はそう言うと、目を伏せた。
「あ、いえ、こちらこそ忙しいときに申し訳ありませんでした! 失礼します」
 弥吉はそう言うと、一礼して咲耶の部屋を後にした。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 弥吉が部屋から出ていくと、咲耶は息を吐いた。
(狙いはなんだ……?)
 咲耶は鏡に映る自分の顔を見つめる。
 鏡の中の咲耶の顔色は決していいとはいえなかった。
(弥吉に……気づかれただろうか?)

 咲耶は強く目を閉じた。
(明らかに罠だ。しかし、こんなあからさまな手を使って、信を屋敷に来させる理由は一体なんだ……? 三日後などと、あえて猶予を与えたのはなぜだ?)

 咲耶は片手で顔を覆った。
(弥吉も一緒に行くのか……)
 咲耶は深く息を吐いた。
(弥吉は自分が殺されるところだったことを知らないからな……。むしろ狙いは弥吉の方なのだろうか……?)
 どれだけ考えても答えは出なかった。

(関係のない人間を同行させれば、人目を気にして、正面から信と弥吉を殺しにかかることはないだろうが……)
 咲耶はゆっくりと目を開ける。

(信なら大丈夫だ……。きっと何があったとしても……)
 咲耶は何度も自分に言い聞かせたが、咲耶の不安が消えることはなかった。
「今日は外に出るぞ」
 小屋に着いて早々、藤吉は百合に向かって言った。
「……え?」
 百合は驚いた様子で目を開く。
「外……ですか?」
「ああ。山は下りられないが、今日なら少し外に出るくらいは大丈夫だ」
「本当……ですか? 藤吉さんに何か……迷惑がかかるのでは……?」
 百合の言葉に、藤吉は笑った。
「バレなければいいだけだ。それに山を下りない限りは別にお咎めもないだろうから」
「しかし……」
 百合が反論しようと口を開いた瞬間、藤吉は持ってきた大きめの着物で百合を(くる)んだ。
「え!?」
 百合のくぐもった声が布越しに響く。
「よし……」
 頭から足まで着物で包むと、藤吉は頭と膝の裏を支え百合を抱き上げた。
「えぇ!?」
 百合は抱き上げられたことに驚いたのか、足をバタバタと動かした。
「おい、おとなしくしてろよ」
 藤吉は百合に向かって囁いた。
 藤吉の声に、百合はビクリとした後、静かに足の力を抜いた。

「……重く……ありませんか?」
 百合は躊躇いがちに口を開く。
「軽すぎて心配になるくらいだ。もう少しちゃんと食えよ」
 藤吉はそう言うと、百合を抱きかかえたまま歩き、小屋の戸を開けた。
「フフ……、軽いならよかったです。足を切り落とした甲斐もありました」
 百合の言葉に、藤吉は目を見張ると思わず足を止めた。

「おまえ……それは、さすがに笑えねぇよ……」
 着物の中で、百合がハッとした様子で顔を上げたのがわかった。
「ごめんなさい……!」
 着物がガサガサと動き、布の隙間から百合の白い腕が伸びた。
 百合の手がそっと藤吉の頬に触れる。
「こんな顔……させたかったわけじゃないのに……。ごめんなさい……」

 藤吉は軽く息を吐くと、また歩き始めた。
「まったく……。だから言っただろ? おまえには冗談の才能がねぇって。黙っておとなしくしてろ」
「はい……」
 百合はそれだけ言うと、腕を着物の中に戻し静かに藤吉に身をゆだねた。

 心地よい風が藤吉の頬を撫でる。
(もうすっかり秋だな……)
 山の上にある屋敷での生活は何かと不便だったが、木々が色づく美しいこの季節だけは山での生活も悪くないと藤吉は思っていた。
(この景色を見せられたらいいんだが……)
 藤吉は布越しに百合を見る。
(光ぐらいか……感じられるのは……)

 藤吉は目的の場所に着くと、ゆっくりと百合を座らせた。
 包んでいた着物から百合の顔を出す。
「着いたぞ」
 藤吉は百合に声を掛ける。
 百合は辺りを見渡すように、顔を動かした。
「ここは……どこですか……?」
「俺の気に入ってる場所だ」
 藤吉は百合の横に腰を下ろした。

 藤吉が来たのは見晴らしのいい丘の上だった。
 山を下りるための山道とは逆方向にあり、この先は切り立った崖しかないため屋敷の人間は滅多に来ない場所だった。
 景色がいい場所ではあったが、百合がどう感じるのかは藤吉にはわからなかった。
 藤吉は百合の顔を覗き込む。
「悪いな、こんな場所ぐらいしか連れてこれなくて……。少しでも外の空気が吸えれば、いつもよりはマシかと思って……」

 百合は目を閉じ、ただじっとしていた。
 暗い顔ではなかったが、その表情から百合が何を考えているのかはわからなかった。
 百合がゆっくりと口を開く。
「すごく……素敵な場所ですね……」
「ああ、見晴らしはいいんだが……見せられなくて悪いな……」
 藤吉の言葉に、百合は微笑んだ。
「見えなくても……感じています。吹き抜ける風も、木々が揺れる音も、虫の音も、草の香りも……すべて感じます」
「そうか……」
 藤吉はホッと胸を撫でおろした。
「あの……大きな木々が揺れる音と一緒に、低い位置で何かが揺れている音もするのですが、背の高い草が生えている場所があるのですか……?」
 百合は辺りを見渡しながら聞いた。

(さすがに耳がいいな……)
 藤吉は小さく微笑んだ。
「ああ、草じゃねぇが、おまえから見て右側の一帯に彼岸花が咲いてるんだ」
「花ですか……。匂いはしないのですね……」
「ああ、確かに。彼岸花から匂いを感じたことはねぇな……」
「手に取ってみてもいいですか?」
 百合はそう言うと四つん這いで、右に向かって進み始める。
「あ、手に取るのはやめておけ」
 藤吉は慌てて、百合の手首を掴んで止めた。
「彼岸花は毒があるから」
「毒……ですか」
 百合は藤吉の方を振り返ると、少し悲しそうな顔をした。
「花には、毒があるものが多いのですね……」
「まぁ、花も動物の食い物にはなりたくねぇだろうからな……。植物は動けねぇし、毒を持つくらいしか身を守る方法がないんだろ」
「そう……ですか……」
 百合は少しうつむくと、ゆっくりとその場に腰を下ろした。

「彼岸花は食べて死ぬやつがいるせいか、幽霊花とか地獄花とか言われてるくらいだ。触るのはやめとけ」
「地獄花ですか……」
 百合はひどく辛そうな顔をしていた。
「藤吉さん……、私……」
 百合は躊躇いがちに口を開く。
 そのとき、強い風が吹いた。

 藤吉は百合の言葉を待ったが、百合の口から続く言葉はなかった。
「どうした?」
 藤吉の言葉に、百合は首を横に振るとぎこちなく微笑んだ。
「いえ……、なんでもありません……」
 百合は静かにうつむく。
 藤吉は少しのあいだ百合を見つめていたが、そっと目を閉じた。

 二人はしばらく、ただそうしていた。
 藤吉はチラリと百合を見ると、小さく息を吐いた。
「何が言いたかったのかはわからねぇけど……地獄花っていうのが何か引っかかってるのか?」
 藤吉の言葉に、百合はどこか苦しげな顔をした。
「いえ、そういうわけでは……」
 藤吉はもう一度息を吐くと、百合の肩を軽く叩く。
「ちょっと待ってろ」
 藤吉はそう言うと立ち上がり、彼岸花が咲く場所へと足を進めた。
 藤吉はゆっくりとその場にしゃがむと、一輪だけ彼岸花を手折り、百合の元に戻った。
「ほら」
 藤吉は百合の手を取り、彼岸花を渡す。
「口をつけるなよ。それから後で必ず水で手を洗え」
「あ……」
 百合は躊躇いがちに彼岸花の茎を手に取った。

「彼岸花の別名は地獄花だけじゃない。仏教で彼岸花は『天上の花』っていわれてる」
「天上……ですか?」
 百合は花を手に持ったまま、藤吉の方を向いた。
「ああ、天上に咲く花。『これを見る者は自ずから悪業(あくごう)を離れる』なんていわれてる花だな」
「悪業を……離れる……」
 百合はそう呟くと、そっと花びらに触れる。
「それほど美しい花なのですね……」
 百合は静かに微笑んだ。

「まぁ、俺にはわからねぇけどな」
「フフ……、この花は……天国に行った母のところにも咲いているでしょうか?」
 百合は花びらに触れながら、小さく呟いた。
「さぁな。俺は仏の教えも本気で信じてるわけじゃねぇから。でも、徳を積んだっていう偉い坊さんが言ってるんだ。咲いてるんじゃねぇか?」
「……そうですね」
 百合は微笑むと、ゆっくりと顔を上げた。
 百合の薄茶色の髪が風でなびく。
「藤吉さん……、私は死ぬことを怖いと思ったことがありません。地獄に落ちることも……別に怖くはないのです」
 百合はゆっくりと目を開けた。
「私が怖いのは……大切な人ともう二度と会えなくなること……。それがどうしようもなく怖いのです……」
 百合の瞳から涙がこぼれる。

 藤吉は目を見開いた後、静かに目を伏せた。
(弟と離れるのがそんなに怖いのか……)

「母とはもう二度と会えません。死後の世界があったとしても、母は天国で、私は地獄ですから……」
 百合は頬を伝う涙をそっと手で拭った。
 藤吉は百合を見つめる。
「前に言っただろ? おまえが地獄に行くはずないって……」
「いえ、私は地獄行きです」
 百合ははっきりと言った。
 百合の言葉に、藤吉は呆れてため息をつく。
「そうだった、おまえ頑固だったな……」
 藤吉は頭を掻いた。
「そもそも、天国や地獄ってのはおまえが信じてる教えの話だろ? 本当にそんなところに行くかどうかなんてわからねぇよ。それに仏教でいうと、この世界は『六道輪廻』だ」

「六道……なんですか? それは……」
 百合は目を閉じると、藤吉の方を向いた。
「人は死んだ後、天国か地獄かじゃなく、六つの道に分かれるってやつだ。天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道。罪に応じてそれぞれの道に生まれ変わるんだ」
 藤吉の言葉に、百合は不思議そうに首を傾げた。
「別の世界に、また生まれるということですか?」
「ああ。寿命があるからそれぞれの道で死んだら、また次の道に生まれ変わる。六道をずっと廻り(めぐ)続けるってわけだ。だから、二度と会えないなんてことはねぇよ。廻り続ける中で、会いたいやつにはまたどこかで会えるはずだ」
 藤吉の言葉に、百合は目を見開いた。

「まぁ、俺は信じてな……」
 そう言いかけたところで、藤吉は思わず口を噤んだ。
 百合が泣いていた。
 百合の頬を涙が伝う。しかし、その顔は晴れやかでどこか笑っているようでもあった。

「百合……?」
 藤吉は思わず名を呼んだ。
 百合は嬉しそうに微笑む。
「素敵ですね……。また会えるかもしれないなんて……。それなら、もう……怖くはありません」
 百合の笑顔に、藤吉はなぜか不安を覚えた。
 藤吉は目を閉じ、何かを振り払うように軽く首を振る。
「おまえはまだ死ぬような年じゃねぇんだから、変な心配するな。ほら、そろそろ帰るぞ。風が冷たくなってきた」
 藤吉はそう言うと、百合を再び顔まで着物で包んだ。

「藤吉さん……」
 布越しに百合の声が響く。
「なんだ?」
「……ありがとうございます」
 百合の声は涙でかすれていた。
「……ああ」
 藤吉は短く応えると、百合を抱きかかえた。

 風が強くなっていた。
 二人が去った後には、手折られた赤い彼岸花が一輪だけ、そっと残されていた。
「玉屋の男衆の方を、一緒にお連れするということですか? ええ、構いませんよ。ぜひ一緒に参りましょう」
 約束通り、三日後に長屋にやってきた女は、弥吉の提案を笑顔で受け入れた。
「一緒に行って……いいのですか?」
 弥吉がおずおずと聞いた。
「ええ、もちろんです」
 女は弥吉の後ろに立っていた二人の男衆を見て微笑んだ。
「まさか咲耶太夫に興味を持っていただけるなんて思いませんでした。本当に、こちらに皿を持ってこられればよかったですね。こうして皆さんに足を運んでいただくことになってしまい申し訳ないです……。少し遠いですが、どうぞよろしくお願いいたします」
 女の言葉に、男衆たちは顔を見合わせると、女に向かって頭を下げた。
「いえ、こちらこそ突然お邪魔することになり申し訳ございません。よろしくお願いします」
 男衆の言葉に女は笑顔で応えた後、一番後ろにいる信に視線を向けた。
「では、参りましょうか」
 女はそう言うと、先頭に立って歩き始めた。
 その後を弥吉、二人の男衆、信の順で歩いていく。

 しばらく歩いたところで弥吉はゆっくりと歩調を緩め、信に近づいた。
「信さん、あの人……断らなかったね……」
 弥吉は声をひそめて言った。
「ああ」
 信はチラリと弥吉を見ると短く答えた。
「本当に、信さんに皿の補修をお願いしたいだけなのかもね……」
 弥吉はどこかホッとしたように言った。
 信はしばらく弥吉を見つめた後、静かに目を伏せる。
「そうだな……」

 信がそう答えたとき、女が信の方を向いた。
「そろそろ一度休憩いたしましょうか」
 女はそう言って微笑むと、少し先にある茶屋を指さした。

 女に促されるように、一行は茶屋に入ることになった。
 男衆や弥吉が茶を飲み始めたのを確認すると、女は外で休むと言って茶屋を出た。
 信はそれを見てゆっくりと立ち上がると、女に続いて茶屋を出た。

 女は茶屋に背を向けて空を見ていた。
「どういうつもりだ」
 信は女の背中に向かって聞く。
「用があるのは俺だけのはずだ。なぜ弥吉や男衆を連れてきた」
 信の言葉に、女はゆっくり振り返ると微笑んだ。
「一緒に行きたいと言ったからですよ。私が連れてきたわけではありません」

 信は女を睨む。
「関係のない人間を巻き込むな」
「私は巻き込んでおりません。それに、何か勘違いされていませんか?」
 女はフフッと笑うと、信に一歩近づいた。
「勘違い?」
「そう、勘違いです」
 女はそう言うと、信の耳に口を寄せた。
「私たちは何もいたしません。あなたを苦しめるものがあるとすれば、それは……」

「信さん!」
 信が声の方を見ると、茶屋の前で弥吉が青い顔をして立っていた。
「何か……あったの……?」

 信が口を開く前に、女が一歩前に出た。
「なんでもありませんよ」
 女はそう言うと、にこやかに弥吉に歩み寄る。
「あとどれぐらいで着くのか聞かれたので、お答えしていただけです。さぁ、もう少ししたら出発しましょうか」
 女は弥吉の背を優しく押すと、茶屋の中に戻っていった。

「苦しめるもの……」
 信はひとりそう呟くと、静かに目を閉じ茶屋に戻った。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 雨音が聞こえた。
 信は歩きながら空を見る。
 日は暮れ始めていたが、空には雲ひとつなかった。
 空は晴れている。
 しかし、信の頭の中ではずっと雨の音が響いていた。

(ここは……)
 信は、この景色に見覚えがあった。
 まだ目的の屋敷には着いていなかったが、もうすぐだと女が言っていた。
 今見えている景色と、記憶の中の薄暗い景色が信の中で重なっていく。
 体が重かった。
 全身が雨で濡れているように着物は重く、肌に纏わりつき不快だった。
 信は思わず目を閉じる。
 耳に響く雨音は一層強くなった。
 信は自分の息が荒くなっていることに気づいた。

『よくも……!』
 頭の中で子どもの声が響く。
 信は思わず両耳を覆った。
 目を開く、信の着物は濡れていた。
 それは雨ではなく、赤黒く血の臭いがしていた。

『ねぇ……どうしてなの……?』
 信は顔を上げる。
 女の声とともに、赤黒く染まっていく百合の花が見えた。
 黒い百合の花の周りを飛び回る蠅、鈍く光る十字架、片足のない黒い塊。
 さまざまなものが信の目の前に広がっていく。
 信は足を前に進めることができなくなり、静かに足を止めた。

「さぁ、着きましたよ」
 女の声が響き、信は茫然と女が指し示す先を見た。
(ああ、ここは……)
 そこには屋敷の門があった。

『よくもお父様を……!』
 憎しみに満ちた眼差しが信に向けられる。

(そうだ……。ここは……俺が殺した男の屋敷だ……)

「し、信さん!?」
 信の様子に気づいた弥吉が慌てて信のもとに駆け寄った。
「どうしたの!? 顔……真っ青だよ……?」
 男衆の二人も尋常ではない信の様子に気づき、慌てて信に駆け寄る。
「どうされたんですか!? この汗も……一体何が……」
 男衆のひとりが戸惑いがちに言った。
「医者に診てもらった方がいいんじゃないか? これは皿の補修どころじゃないだろう……」
 もうひとりの男衆も心配そうに呟く。

 信は何も答えることができなかった。
 聞こえる言葉はひどく遠いもののように感じた。
 信の耳にはずっと止まない雨の音が響いていた。

「あの、妙さん……今日は……」
 弥吉が顔を上げて女の方を向いた。
「え……?」
 門の前にいたはずの女は、どこにもいなかった。
「妙さん……?」
 弥吉は立ち上がると信から離れ、屋敷の周りを歩いて女を探したが、女を見つけることはできなかった。

「どうする……?」
 男衆のひとりが弥吉に聞いた。
「……戻りましょう……。必要があれば妙さんの方からまた長屋に来るはずです……」
 弥吉はそれだけ言うと信に駆け寄り、顔を覗き込んだ。
 信の顔は青ざめていて、その目は何も映していないようだった。

「とりあえず俺たちが肩を貸すから、弥吉は良庵先生のところまで案内してくれ」
 男衆二人が信の両脇に立って、信を支えた。
「あ、はい。わかりました……!」
 弥吉は先頭に立って男衆を誘導する。

「信さん……、一体どうしたんだよ……」
 弥吉は足を進めながら、ひとり小さく呟いた。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「あれ……、確かに門を叩く音が聞こえたんだけどな……」
 少年が、ゆっくりと屋敷の門を開けて外に出た。
「気のせいってことはないよな……。結構叩く音が響いてたし……」
 少年が辺りを見回していると、遠くに両脇を支えられて歩いている男の背中が見えた。

 少年は目を見開く。
(あの薄茶色の髪……)
 少年の脳裏に、父親を殺された日の光景が鮮やかに蘇る。
 薄茶色の髪と瞳、血まみれの着物。
 そして、男の足元に横たわる血に染まった父親の姿。

(あいつだ……! あいつ……生きていたんだ……!!)
 目の前が真っ赤に染まっていくようだった。
 気がつくと少年は走り出していた。
(殺してやる……! あいつだけは……絶対に!!)

 男の背中が脇道に入って見えなくなった。
(逃がすか……!)
 少年がそう思い足を速めたとき、脇道から出てきた女と勢いよくぶつかった。

「キャ……!」
 女はよろけ、その場に倒れた。
「あ、すみません……!」
 少年は我に返り、慌てて女に駆け寄る。
「すみません……。人を追っていて……! あの急いでいて……本当にすみません……!」
 少年は女に怪我がないことを確認すると、再び男の後を追おうとした。
「人って……信さんですか……?」
 女は少年を見つめると、首を傾げて聞いた。
「さっきすれ違ったから……。あの、薄茶色の髪の……」

「え!?」
 少年は目を丸くして、女を見つめ返した。
「あの男を……知っているんですか?」
「ええ、近所に住んでいる人で……。私、信さんとだいぶ前にすれ違ったから、もう追いつくのは難しいんじゃないかしら。急がなくても住んでいる長屋を教えられるわよ」
 女はそう言うと微笑んだ。

(住んでいる長屋……)
 少年は少しだけ冷静さを取り戻していた。
(そうだ……今追いかけたところで、俺が殺されるだけだ……。準備をして……確実に殺すんだ……)

「それもそうですね……。……では、長屋の場所を教えていただいてもいいですか……?」
 少年はおずおずと言った。
「ええ、紙と筆をいただければ、すぐにくわしい道順を書くわ」
「ありがとうございます……! 紙と筆ですね。少し待っていてください。すぐに持ってきます」
 少年はそう言うと屋敷に向かって駆け出した。


 少年の背中を見送った女は、ひとり妖しげに微笑んだ。
「だから言ったでしょう? 私たちは何もしないって」
 女は目を細める。
「あなたを苦しめるのは…………過去のあなたよ」
 女は微笑みを浮かべたまま、そっと目を閉じた。
「今……なんて言った……?」
 小屋の中でいつものように百合と話していた藤吉は、思わず聞き返した。
 百合はなんでもないことのように微笑む。
「信を解放しようと思います」
「違う……! その後だ」
 藤吉の口調は自然と荒くなっていた。
「だから私は…………死ぬことにしました、と言いました……」
 百合はそう言うと、どこか申し訳なさそうに微笑んだ。

「どうして、そんな……!」
 藤吉は百合の手首を掴む。
 百合は悲しげな顔でこちらを向いたが、藤吉は続く言葉を見つけられなかった。
 信を自由にする手段がそれしかないことは、藤吉にもわかっていた。
 藤吉は奥歯を噛みしめる。

(どうして突然そんな……)
 先ほどまで藤吉と百合はごく普通の会話をしていた。
 いつも通りなんでもないことを話しをしていたとき、空を見つめて百合が世間話をするように言ったのが死ぬことだった。

「おまえに冗談の才能はねぇって言っただろ……?」
 藤吉は絞り出すように言った。
 藤吉の言葉に、百合は悲しげに微笑むと静かに首を横に振った。
「冗談を言ったつもりは……ありません」
「どうして突然……そんな……」
「ずっと考えてはいたのです……。むしろずっと先延ばしにして……ここまで来てしまいました……」
「だったら……!」
 藤吉は片手で顔を覆った。
「このままずっと先延ばしにできるだろう……。どうして今……」

「そうですね……。今話したのは……」
 百合はそう言うと、窓から空を見た。
「幸せだな……と感じたからでしょうか……」
 百合はどこか寂しげに笑った。
「意味がわからねぇ」
 藤吉はなんとかそれだけ口にした。
 百合は少しうつむくと、手首を掴んでいた藤吉の手に自分の手を重ねた。
「このままではダメなんです……。このままでは……弟が壊れます。信を、もう私から解放したいのです……。信の孤独も苦しみも、すべて原因は私です。もう自由に生きてほしい……。人の温かさに触れて……ちゃんと心から笑ってほしい……」
 百合の手の甲に雫が落ちた。
 藤吉は顔を覆った指のあいだから、百合の顔を見た。
 百合の目からは、とめどなく涙がこぼれていた。

「私が死んだ後、信に伝えていただけませんか……? 『もう自由になって』と……。それが私の望みで、願いだからと……。お願い……できませんか……?」
 百合はそう言うと、藤吉の方を向いた。

 藤吉は目を見張った後、強く瞼を閉じた。
「……わかった」
 百合は安心したように微笑む。
「ありがとうござい……」

「逃がしてやる」
 藤吉は百合の言葉を遮ると、はっきりとした声で言った。
「……え?」
 百合がわずかに目を開いた。
「俺が……おまえを逃がしてやる」
 百合の目がゆっくりと見開かれ、瞳が揺れる。
「そんなこと……」
 百合がかすれた声で呟いた。

 百合の涙が止まったのを見て、藤吉はかすかに微笑んだ。
「まぁ、おまえひとりじゃ心配だからな、俺もついていく」
「え……?」
「俺も一緒に行くって言ってんだ。ちょうど、ここでの暮らしに嫌気がさしてきたところだったからな」
 百合はこぼれそうなほど目を見開くと、藤吉の手を掴んだ。
「ダメです、そんな……! 私は……もう誰にも迷惑を掛けたくないんです! 私は……これまで何もしてこなかったので……本当に何もできません……! 私は……藤吉さんの足を引っ張る荷物にしかならないのです……」
 百合はそう言うと、静かに唇を噛んだ。
 藤吉はゆっくりと百合の手に、自分の手を重ねた。

「何も、って俺の話し相手にはなってくれるんだろう?」
 藤吉はそう言うとフッと笑った。
「別に何もしなくたっていいけど、何かしたいならこれからできるようにすればいい話だろう?」

 百合は弾かれたように顔を上げた。
 見開かれた薄茶色の瞳に、藤吉の顔が映り、涙の中で揺れていた。
 百合の唇がかすかに動いたが、百合は何も言わなかった。

「どうしてもう手遅れみたいな言い方なんだ? 俺だってできないことはあるし……。一緒にできるようにしていけばいいだけじゃねぇのか? そうやって生きていくものだろ?」

 百合は震える手で十字架を握りしめると、見開いた目を細め、少しだけ微笑んだ。
 目に溜まっていた涙が静かに頬を伝う。
「そうですね……。それは……すごく……すごく素敵なお話です……。少し……考えてみます」

「ああ、考えてみてくれ」
 藤吉はそう言うと少し笑った。
「俺と一緒が嫌だったら、ひとりでってのも別にありだから。よく考えろ」
 藤吉は百合が頷くのを確認すると、静かに手を離した。
「さぁ、そろそろ俺は戻らねぇと……」
 藤吉はゆっくりと立ち上がった。

「あ、引き留めてしまってすみません……」
 百合は涙を拭うと、申し訳なさそうに藤吉を見た。
「いや、俺が勝手にいただけだから気にするな」
 藤吉はそう言うと百合に背を向け、いつものように片手を上げて手を振った。
「じゃあな」
 藤吉が小屋の戸に向かって歩き始めたところで、後ろから声が響く。
「はい。では、また……」
 百合は静かに言った。
 藤吉は思わず足を止めて振り返る。

 窓から光が差し込み百合を照らしていた。
 微笑む百合にかすかな違和感を覚えながら、藤吉にはそれが何かわからなかった。
「ああ……、また明日来る。じゃあ、またな」
 藤吉はそう言うと、百合に再び背を向け小屋を出た。

(大丈夫……。きっとあいつは……)
 藤吉は空を見上げ、自分に言い聞かせるように、心の中で何度も何度も呟いた。
「いってらっしゃい。気をつけて」
 百合は、なるべく平静を装いながら信を送り出した。
 小屋の戸が閉まり、ひとりになった部屋で百合は小さく息を吐く。

 ふいに昨日藤吉と話したことが頭に浮かび、百合は静かにうつむいた。
「ごめんなさい……」
 百合はこぶしを握りしめる。
「これ以上引き延ばしたら……もっと生きたくなってしまうから……」

 百合の心はすでに決まっていた。
「本当に……ごめんなさい……」
 百合はかすれた声で呟いた。
 百合は布団の下に隠してあった薬包紙を取り出す。
 それは、足を切り落とした後、足が痛むたびにもらっていた朝鮮朝顔の粉末だった。
 痛みを和らげるというその薬を、百合は飲まずにすべて布団の下に隠していた。
「これだけの量があれば……間違いなく死ねるはず……」

 この薬は足を切断する前に飲んだものと同じだと医者から言われていた。
(毒性が強いって話していたもの……)
 足を切断する直前、百合は部屋の外で藤吉と医者がしていた会話を聞いていた。

 百合はもう一度ゆっくりと息を吐く。
「一緒に……か……」
 百合は藤吉の言葉を反芻した。
 百合は込み上げてきた涙を堪えるため、きつく目を閉じた。
「私には……そんな未来……眩しすぎます……」
 百合の頬を涙が伝う。
(わかってる……。私はきっとまた足手まといになる……。藤吉さんが、逃げ切ることすら……できなくなるかもしれない……)
「そうなったら……今度こそ私は……自分を許せない……」

 百合は涙を拭うと目を開けた。
「信……、遅くなってごめんね……。私はもう十分生きたから……今度はあなたが自分の人生を生きて……」
 百合は胸元の十字架を握りしめた。
「あなたの罪は全部私のせいだから……。だから、罪はすべて……私が地獄に持っていく」
 百合の瞳は何も映してはいなかったが、その目には強い意志が宿っていた。

 百合は静かに目を閉じると、薬包紙の薬をひとつずつ飲み始めた。
 すべての薬を飲み終えると、百合はゆっくりと布団に横たわる。

(これですべて終わるのね……)
 そのとき、百合の頭の中で藤吉の低く穏やかな声が響いた。
 胸が熱くなり、再び涙が込み上げる。
(最後まで泣くなんて……)
 百合は思わず苦笑した。
 百合は目尻の涙を拭い、涙を拭った手を胸の上に置いた。

「本当は……藤吉さんがどんな顔をしているかなんてわかっていたの……」
 百合は小さく微笑んだ。
「あんなに触っていたのは……ただ藤吉さんに触れたかっただけ……なんて言ったら、また痴女だって怒られてしまうわね……」
 百合は大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐いた。
 しだいに体が重くなっているのを百合は感じていた。

「ありがとう……藤吉さん……。あなたがいたから……私は生きてこられた……。……生きていたいと思えたの。フフ……また涙が……」
 百合の涙が目尻からこぼれ、耳を濡らす。
「また……会えるかしら……。うん……会えるわ……きっと。廻り巡って……きっと、いつかどこかで……」
 百合は急激な眠気に襲われた。

「また……会えたら……今度は私が……あなたを……」
 唇がかすかに動き、百合の涙が布団を濡らす。
 わずかに笑みを浮かべたまま、百合は静かに意識を手放した。
「大変です! お館様は……!? お館様はいらっしゃいませんか!?」
 屋敷の廊下を、女が叫びながら走ってきていた。
 藤吉はその声に驚き、思わず振り返った。
「どうしたんだ? 何かあったのか?」
 藤吉は横を通り過ぎていこうとしていた女を呼び止めた。
 女の顔は青ざめ、唇はかすかに震えていた。

「小屋の女が……死んでいたのです……」
 女が震える声で言った。

「…………は?」
 藤吉はうまく言葉の意味を理解することができなかった。
(小屋の女が……死んだ……?)
「何を……」

「早く……お館様にお伝えしなければ……」
 女はそう呟くと、そのまま走っていこうとした。
「ちょっと待て……!」
 藤吉は女の腕を掴む。
 女は驚いた顔で藤吉を見た。
「どういうことだ……! 死んだ……?」
 藤吉の顔を見た女は自分が咎められていると思ったのか、青ざめた顔で慌てて首を横に振った。
「わ、私のせいではございません! 食事の膳を下げに行ったら……死んでいたのです……!」

「死んでいた……?」
 女の腕を掴んでいた藤吉の手から一気に力が抜ける。
(死んだ……? 百合が……?)

 藤吉は気がつくと走り出していた。
 自分の息遣いと鼓動の音だけが、うるさいほど耳に響いていた。
 藤吉は屋敷を出ると、小屋に向かって走った。

(嘘だろ……? 嘘だよな……。逃げるための死んだフリとか……。そういうやつだろ……? また笑えない冗談なんだよな……? だって、おまえ……またって……。昨日そう言ったじゃねぇか……)

 藤吉は小屋の前に立った。
 小屋は静かで、人のいる気配がなかった。
 藤吉は震える手で小屋の戸を開ける。

 そこには、百合がいた。
 窓からかすかに差し込む光が布団に横たわった百合を照らしている。
 穏やかなその顔は、まるで眠っているようだった。

「百合……?」
 藤吉は震える声で名を呼んだ。

 百合は何も応えなかった。
「百合……」
 藤吉は重い足をゆっくりと動かし、百合に近づく。
「百合……」
 藤吉は百合の枕元で、崩れるように膝をついた。
「返事……しろよ……」
 震える手で、藤吉は百合の胸の上にある手を取った。
 その手はひどく冷たく、いつもの温もりはもうどこにもなかった。
 藤吉は奥歯を噛みしめると、百合の手を両手で包む。

「よく……考えろって言ったよな……。またって……嘘じゃねぇか……」
 藤吉は百合の穏やかな顔を見つめた。

 その瞬間、百合の頬に水滴が落ちた。
 落ちた雫が百合の頬を伝い布団を濡らしていく。
 藤吉は自分が泣いていることに気がついた。
 藤吉は苦笑する。
「穏やかな顔しやがって……。少しは……俺のことも考えろよ……」
 藤吉は百合の手を布団に下ろすと、百合の顔に落ちた雫を手で拭った。
「おまえは本当に……最期まで頑固だな……」

 そのとき、近づいてくる足音と人の声が、藤吉の耳に届いた。
 藤吉は弾かれたように顔を上げる。
(お館様が来たか……)
 藤吉は立ち上がると、もう一度百合を見た。
(連れ出すわけにはいかねぇか……)
 藤吉は目を伏せる。
(見つかる前に出るか……)

「……また来るからな」
 藤吉は小さくそう呟くと、そばにある窓から小屋を出た。

 藤吉は小屋を出ると、すばやく近くの林に身を隠した。
 小屋の戸に向かって歩いてきていた人々は、誰も藤吉に気づいていないようだった。
 藤吉は木に寄りかかると、その場に座り込んだ。

(隠れたものの……もう全部どうでもいいな……)
 藤吉は苦笑した。
(もう何もかも……どうでもいい……)
 藤吉は両手で顔を覆い、静かに目を閉じた。
 藤吉はゆっくりと顔を上げた。
 どれだけ時間が経ったかわからなかったが、すでに辺りは暗くなっていた。

「頼む! あんたならできるだろう……! 頼むよ! 金ならいくらでも払うから!!」
 ふいに切迫した男の声が辺りに響く。
(この声は……お館様か……?)
 藤吉はゆっくりと立ち上がると、木の陰に身を隠しながら声のする方に近づいていった。
 小屋の近くで提灯の明かりが揺れている。

「知るか、自分で蒔いた種だろうが。ああ、面倒くせぇな……。なんでよりによって俺がたまたま寄った日に……」
 男は面倒くさそうに頭を掻いた。

 藤吉は、木の陰から二人の男を見た。
 ひとりはお館様。もうひとりは中年の男だった。
 そのとき、提灯の明かりで中年の男の額に傷があるのが見えた。
(あの男は……)
 藤吉は中年の男に見覚えがあった。
(あの男は……あの方の……)

「だいたい、金貸し風情がお館様なんて呼ばれて調子に乗ってるからこういうことになるんだろうが……」
 傷のある男は呆れたように言った。
「貸した金が踏み倒されないように、武家のお偉いさん方の弱みを握るっていうのは間違っちゃいねぇんだろうけど、依頼されるままに殺しまくったのは、明らかにやりすぎだ。あの方が許してきたのが不思議なくらいだろ」

「それは……。勝手に動いていたのは……悪かったと思っているさ……」
 男は背を丸めてうつむいた。
(お館様……別人みたいだな……)
 藤吉は小さく息を吐いた。

「頼む! 今回だけでいい! 助けてくれ!! 自分が出かけてるうちに姉が死んだなんて知ったら、私は信に殺されてしまう! 頼む! あの男を殺してくれ! あんたならできるだろう……?」
 男は、傷のある男に縋りついた。

(ああ、そういうことか……)
 藤吉は強く瞼を閉じた。

「殺してくれって……簡単に言ってくれるが、あれはおまえが生み出した化け物だろうが……」
 傷のある男は呆れたように言った。
「あいつには生きたいって思いがねぇから、斬られようが殴られようが、なんの躊躇もなく突っ込んでくるし、相手が死ぬまで追い続ける。おまけにずっと毒を盛られてたなら、たぶん毒に耐性もあるだろ? しかも、頭も使えるときてる。まさに獣を超えた化け物だ……。殺す気でいかなきゃ、俺の方がやられるんだよ」
「こ、殺してくれて構わないから……! どうか頼む……!」
「殺してもいいって……。あいつは、今ではあの方のお気に入りだ……。おまえの判断で勝手に殺したら、たぶんおまえも消されるぞ」
「そ、そんな……!」
 男はその場に膝をついて頭を抱えた。
「じゃあ、私は……どうすれば……!」

 傷のある男は面倒くさそうにため息をついた。
「まぁ、俺にできるのは足止めくらいだな……。おまえは俺が足止めしてるあいだに、全部捨てて逃げろ」
「全部……捨てて……?」
 男は弾かれたように顔を上げた。
「こ、この屋敷は私が人生をかけて築き上げてきた……」

「そんな大したものじゃねぇだろ」
 傷のある男は、男の言葉を遮った。
「築き上げた大切な屋敷の中で死ぬか、大切な屋敷を捨ててでも生きるか、どちらかだ」

 傷のある男の言葉に、男は視線を落とした。
「…………わかった。屋敷を……捨てる……。だから、信の足止めを……頼む……」
「ああ、わかった。で、あいつは今どこにいるんだ?」
 傷のある男は首を傾げる。
「ここから少し離れたところにある屋敷に行っている……。ただ、あちら側から山を下りれば、信よりも早く屋敷に着けるはずだ……!」
「なるほどね……。わかった。どのくらい足止めできるかわからねぇから、おまえはさっさと逃げろよ」
「……わ、わかった……!」
 男はそう言うと、提灯を持って屋敷へと走っていった。

 ひとりになった傷のある男は、小さく息を吐く。
「さてと……、こっちは先にやるか……」
 傷のある男はそう呟くと、小屋に向かって歩き出した。
 男はしばらく小屋の前に立っていたが、その後小屋の周りを一周し、ゆっくりとしゃがみ込む。

(何をしているんだ……?)
 藤吉は目を凝らした。

 次の瞬間、傷のある男の顔が明るく照らされた。

(まさか……!)
 藤吉は目を見開く。

 それは小さな炎だった。
 小屋が一気に炎に包まれていく。
「これでよし……」
 傷のある男はそう言うと立ち上がる。
 その瞬間、振り向いた男がチラリとこちらを見た気がした。
 藤吉は目を見開く。
 急いで木の陰に隠れ、藤吉は息を押し殺した。

「行くか……」
 傷のある男がそう呟くのを聞き、藤吉は木の陰から男を見る。
 男は背を向けて屋敷の方へと去っていった。

 藤吉は炎に包まれた小屋を、ただ茫然と見つめていた。
(俺は……どうするべきなんだ……)
 藤吉は目を伏せる。

『私が死んだ後、信に伝えていただけませんか……?』
 藤吉の頭の中で、百合の声が響く。
(ああ、そうだったな……)
 藤吉はこぶしを握りしめる。

(足止めって言ってたから、ここで待ってれば弟は帰ってくるってことか……)
 藤吉は息を吐いた。

「わかってる……。ちゃんと伝えるさ……。もう俺にできるのは、それぐらいしかないからな……」
 藤吉はこぶしを握りしめると、燃え盛る炎の前で静かに目を閉じた。