藤吉はチラリと百合を見ると、小さく息を吐いた。
「何が言いたかったのかはわからねぇけど……地獄花っていうのが何か引っかかってるのか?」
 藤吉の言葉に、百合はどこか苦しげな顔をした。
「いえ、そういうわけでは……」
 藤吉はもう一度息を吐くと、百合の肩を軽く叩く。
「ちょっと待ってろ」
 藤吉はそう言うと立ち上がり、彼岸花が咲く場所へと足を進めた。
 藤吉はゆっくりとその場にしゃがむと、一輪だけ彼岸花を手折り、百合の元に戻った。
「ほら」
 藤吉は百合の手を取り、彼岸花を渡す。
「口をつけるなよ。それから後で必ず水で手を洗え」
「あ……」
 百合は躊躇いがちに彼岸花の茎を手に取った。

「彼岸花の別名は地獄花だけじゃない。仏教で彼岸花は『天上の花』っていわれてる」
「天上……ですか?」
 百合は花を手に持ったまま、藤吉の方を向いた。
「ああ、天上に咲く花。『これを見る者は自ずから悪業(あくごう)を離れる』なんていわれてる花だな」
「悪業を……離れる……」
 百合はそう呟くと、そっと花びらに触れる。
「それほど美しい花なのですね……」
 百合は静かに微笑んだ。

「まぁ、俺にはわからねぇけどな」
「フフ……、この花は……天国に行った母のところにも咲いているでしょうか?」
 百合は花びらに触れながら、小さく呟いた。
「さぁな。俺は仏の教えも本気で信じてるわけじゃねぇから。でも、徳を積んだっていう偉い坊さんが言ってるんだ。咲いてるんじゃねぇか?」
「……そうですね」
 百合は微笑むと、ゆっくりと顔を上げた。
 百合の薄茶色の髪が風でなびく。
「藤吉さん……、私は死ぬことを怖いと思ったことがありません。地獄に落ちることも……別に怖くはないのです」
 百合はゆっくりと目を開けた。
「私が怖いのは……大切な人ともう二度と会えなくなること……。それがどうしようもなく怖いのです……」
 百合の瞳から涙がこぼれる。

 藤吉は目を見開いた後、静かに目を伏せた。
(弟と離れるのがそんなに怖いのか……)

「母とはもう二度と会えません。死後の世界があったとしても、母は天国で、私は地獄ですから……」
 百合は頬を伝う涙をそっと手で拭った。
 藤吉は百合を見つめる。
「前に言っただろ? おまえが地獄に行くはずないって……」
「いえ、私は地獄行きです」
 百合ははっきりと言った。
 百合の言葉に、藤吉は呆れてため息をつく。
「そうだった、おまえ頑固だったな……」
 藤吉は頭を掻いた。
「そもそも、天国や地獄ってのはおまえが信じてる教えの話だろ? 本当にそんなところに行くかどうかなんてわからねぇよ。それに仏教でいうと、この世界は『六道輪廻』だ」

「六道……なんですか? それは……」
 百合は目を閉じると、藤吉の方を向いた。
「人は死んだ後、天国か地獄かじゃなく、六つの道に分かれるってやつだ。天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道。罪に応じてそれぞれの道に生まれ変わるんだ」
 藤吉の言葉に、百合は不思議そうに首を傾げた。
「別の世界に、また生まれるということですか?」
「ああ。寿命があるからそれぞれの道で死んだら、また次の道に生まれ変わる。六道をずっと廻り(めぐ)続けるってわけだ。だから、二度と会えないなんてことはねぇよ。廻り続ける中で、会いたいやつにはまたどこかで会えるはずだ」
 藤吉の言葉に、百合は目を見開いた。

「まぁ、俺は信じてな……」
 そう言いかけたところで、藤吉は思わず口を噤んだ。
 百合が泣いていた。
 百合の頬を涙が伝う。しかし、その顔は晴れやかでどこか笑っているようでもあった。

「百合……?」
 藤吉は思わず名を呼んだ。
 百合は嬉しそうに微笑む。
「素敵ですね……。また会えるかもしれないなんて……。それなら、もう……怖くはありません」
 百合の笑顔に、藤吉はなぜか不安を覚えた。
 藤吉は目を閉じ、何かを振り払うように軽く首を振る。
「おまえはまだ死ぬような年じゃねぇんだから、変な心配するな。ほら、そろそろ帰るぞ。風が冷たくなってきた」
 藤吉はそう言うと、百合を再び顔まで着物で包んだ。

「藤吉さん……」
 布越しに百合の声が響く。
「なんだ?」
「……ありがとうございます」
 百合の声は涙でかすれていた。
「……ああ」
 藤吉は短く応えると、百合を抱きかかえた。

 風が強くなっていた。
 二人が去った後には、手折られた赤い彼岸花が一輪だけ、そっと残されていた。