男は屋敷の外に出ると、小さく舌打ちした。
(さっき帰ってきたばかりでもう仕事って……。どれだけ殺せば気が済むんだよ……)
男は空を見上げて、ため息をつく。
空は高く、雲は穏やかにゆっくりと流れていた。
男は静かに目を閉じる。
(仕方ねぇ……。これが俺の役割なんだから……)
男はゆっくりと目を開けると、山を下りるために足を速めた。
いつも通りの道を歩いていると、ふと小屋に目が留まる。
(そういえば、このあいだのガキ……あそこで暮らしてるんだっけ……)
男は数日前に連れてきた二人の子どものことを思い出した。
(あんな家畜小屋みたいなところに住まわせるなんて……。ホントにあの人は鬼畜だな……)
男は再び深いため息をついた。
(同情して、もし逃げ出せたら…なんて話をしちまったけど……逃げられるわけねぇんだよな……)
男は苛立ちを抑えきれず、頭を乱暴に掻いた。
どうしても気になった男は、方向を変えて小屋に向かって歩みを進める。
二人に悟られないよう、男は気配を消して小屋の格子窓に近づいた。
男はそっと窓から中を覗き込む。
その瞬間、男は小屋の中で座っていた少女と目が合った。
正確にいうと少女の目は閉じられていたため、目は合っていなかったが、少女は確実に男が覗き込んだ瞬間に男の方を向いた。
(気づかれた……のか?)
少女は穏やかに微笑んだ。
「……この前、私たちに声をかけてくれた方ですね? 様子を見に来てくださったんですか? わざわざ、ありがとうございます」
男は目を見開く。
(なんだ……? どうして俺だと……? 目は……見えないはずだろ……?)
「どう……して……?」
男はなんとかそれだけ口にした。
「え?」
少女は不思議そうな顔をした後、ハッとしたように口元に手を当てた。
「あ、突然過ぎましたね! すみません……! 私、目が見えない分、耳はいい方なんです……。あなたの足音は少しだけほかの人と違うので、このあいだの人が来てくださったと思ったら嬉しくて、思わず声を……。驚かせてしまったみたいで、本当にすみません……」
少女は申し訳なさそうに、少しだけうつむいた。
(足音……?)
男は思わず自分の足元を見た。
小屋の中にいる人間に聞こえるほど、大きな足音を立てた覚えはなかった。
むしろ男は普段から足音を立てないように歩いているはずだった。
男は戸惑いながら、なんとか口を開く。
「あ……いや……そうなのか……。ところで、俺の足音は……ほかのやつらと何が違うんだ……?」
少女は目を閉じたまま、顔を上げる。
「あ……そんなに大きな違いではないのですが、どちらかの足……怪我をされていますよね? あ、もう治っているのかもしれませんが、少し庇うように歩くクセがついているのか……左右で少しだけ音が違うんです。あ、本当にわずかな違いですよ!」
少女の言葉に、男は言葉を失う。
少女の言った通り、男は以前右足に大きな怪我を負ったことがあった。
しかし怪我は治り、今では自分でも意識することはなくなっていた。
今日まで誰かにそんな指摘をされたこともない。
(何なんだ……こいつは……)
男は目を見開いたまま少女を見た。
髪を振り乱し、十字架を握りしめて何かブツブツと呟いていたときも怖かったが、それよりも身なりを整え、何もかも見透かしたように微笑んでいる今の方がよほど怖かった。
「あ、あの……、言ってはいけないことでしたか……?」
少女が不安げな表情を浮かべる。
「あ、いや……ただ驚いただけだ……。よく見ている……じゃないか……。よく聞いているんだな……。いや、ビックリだ……ハ、ハハ……」
男は乾いた声で笑う。
「本当にすみません……」
少女は両手で顔を覆った。
少女に泣かれるのは面倒だと思った男は、慌てて声を掛ける。
「あ、本当に驚いただけだから気にするな……。そ、それより元気そうで安心した……」
男は心にもないことを言った。
男の言葉に、少女は顔を上げる。
「はい……皆さんに大変良くしていただいています」
少女は小さく微笑んだ。
(良く……ねぇ……。どうだか……)
家畜小屋で飼われるような暮らしが良いものだとは、男には思えなかった。
「あ、あの……!」
少女は意を決したように口を開いた。
「お名前を……伺ってもいいですか……?」
「え、俺?」
男は目を丸くする。
名前を聞かれるとは思っていなかった。
少女はコクコクと頷く。
「ああ……、藤吉だ……」
「藤吉……さんですね……。ありがとうございます」
少女は嬉しそうに笑った。
(何がそんなに嬉しいんだか……)
「おまえは? 名前は何だ?」
藤吉は礼儀として名前を聞くことにした。
「あ、すみません! 申し遅れました! 私は百合と申します。百合の花のゆりです」
百合は少しだけ首を傾け、照れたように笑った。
色素の薄い髪に、抜けるような白い肌。
可憐なその姿によく似合う名だと思ったが、藤吉はあえて口にはしなかった。
「もしよろしければ、ときどきこうしてお話ししていただけませんか……? 信は……あ、弟はここにいないことが多いので……」
百合はどこか寂しげに微笑んだ。
(ああ……、そろそろ仕事を始める頃だろうからな……)
藤吉は思わず小さくため息をついた。
「あ、ご迷惑でしたよね! す、すみません……!」
百合が慌てて口を開いた。
「え! あ、いや、ときどきなら……別に問題ねぇよ。また来るから……」
藤吉は咄嗟にそう答えた。
「本当ですか!? ありがとうございます!」
百合は心から嬉しそうに微笑んでいた。
(しまった……つい……)
藤吉は口にしたことを後悔したが、百合の喜ぶ顔を見て訂正するのを止めた。
(まぁ、ときどきなら……いいか……)
嬉しそうな百合を見ながら、藤吉は少しだけ微笑んでいた。
「また来てくださったんですね!」
藤吉が小屋の窓からそっと顔を出すと、百合が嬉しそうな声を上げた。
(またバレた……)
藤吉は片手を額に当てた。
今回は意識的に足音を消し、歩き方も変えたつもりだった。
(なんでこれでわかるんだよ……)
藤吉は肩を落とした。
「どうかしましたか……?」
返事がないことで不安になったのか、百合の表情が曇る。
「あ、いや、なんでもない……。元気そうだな……」
前に来たときからまだ十日ほどしか経っていなかったが、藤吉はほかに言うことが見つからず、とりあえずそう口にした。
「はい、皆さんのおかげです」
百合はにこにこしながら答える。
「そりゃあ、よかった……。じゃあ、俺はこれで……」
藤吉はそれだけ言うと、小屋に背を向けた。
そもそも藤吉は、百合の様子を気にして小屋に来たわけではなかった。
足音を立てないようにしても、百合に気づかれるのかを確かめたかっただけだった。
「あ……もう行かれるのですか……?」
どこか寂しげな百合の声が響く。
百合の言葉に、藤吉は振り返り百合を見た。
百合は何か言いたそうに藤吉の方を向いている。
「あ、あの……!」
百合はなぜかモジモジしながら口を開いた。
「もしご迷惑でなければ、小屋の中でお話ししませんか? 弟は今日も外に出たままなので……」
藤吉は目を丸くする。
(警戒心ってものがねぇのか……? 知らない男を家の中に入れるなんて……)
藤吉が戸惑っていると、百合がひどく暗い顔をした。
「やはりダメ……ですよね……。すみません、こんなことを言って……」
藤吉は百合を見つめる。
(まぁ、子どもだしな……。それだけ寂しいってことか……)
藤吉は軽く息を吐いた。
「少しだけなら……。この後、用もあるしすぐ戻らないといけねぇから」
藤吉の言葉に、百合が嬉しそうに笑った。
「は、はい! ありがとうございます!」
藤吉は小屋の戸の方に回ると、ゆっくりと戸を開けた。
「邪魔するぞ」
「あ、はい」
百合は立ち上がると、片手で壁に触れながら藤吉のもとに駆け寄った。
「おい、危ないから座ってろ」
藤吉は舌打ちすると、百合の手を取り、先ほどまで座っていたところまで手を引いていった。
「あ、すみません……」
百合は腰を下ろすと、藤吉に自分の横に座るように促した。
藤吉は少し迷ったが、言われた通り百合の横に腰を下ろした。
「で、何の話がしたいんだ?」
藤吉は胡坐をかき頬杖をつきながら聞いた。
「あ、はい。藤吉さんのことが知りたいのです」
百合は嬉しそうに微笑んだ。
「は? 俺のこと?」
藤吉は眉をひそめる。
「はい! 少し触っても大丈夫ですか?」
「は!?」
百合の言葉に藤吉は驚いて身を引いたが、百合の両手が藤吉の顔を包み込むように伸びてきた。
百合の白い手が、頬を撫で、ゆっくりと耳に触れる。
(おいおいおい……!)
藤吉は、驚きで声が出なかった。
百合の五本の指が形を確かめるように顔を撫でていく。
(何をしてるんだ……!?)
百合の指が瞼に触れ、鼻に触れる。
藤吉は思わず息を止めた。
(なんでこんな……!?)
百合の手が藤吉の口と顎に触れたとき、百合が驚いた様子で手を引いた。
百合の様子に、息を止めていた藤吉も驚いて息を吐く。
「ど、どうした……!?」
百合は戸惑った様子で、藤吉の方を向いた。
「か、顔に……たくさんの棘が……」
(棘……?)
藤吉は自分の顎に触れる。
「顔にたくさんの棘って……俺は化け物か……! 普通に髭だろ!?」
藤吉は思わず声を大きくした。
「ひげ……?」
百合は恐る恐る藤吉の口元に触れる。
「男は口の周りに髭が生えるんだよ……」
「顔に……!」
百合が藤吉の口元に顔を近づけた。
(ち、近ぇな……!)
藤吉は思わず身を引いた。
「なるほど……」
百合はそう呟くと、両手を藤吉の首元に滑らせた。
(え……?)
百合の柔らかな手が首筋を撫でていく。
ゾクリとしたものが背筋を走り、藤吉は上がってきた唾を飲み込んだ。
上下する喉仏さえ、百合の指が優しく撫でていく。
百合の手は肩に下り、着物の下の胸元に伸びた。
「お、おい! いい加減にしろ!」
藤吉は思わず百合の手首を掴んだ。
「おまえは痴女か!」
百合は驚いた様子で顔を上げ、目を見開いた。
焦点の合っていない瞳は何も映していないようだったが、髪と同じ薄茶色の瞳が小刻みに動く。
「痴女……?」
百合はそう呟くと、何を思ったのか突然吹き出した。
「痴女……! フフフ……」
百合は声を上げて笑い出す。
藤吉は呆気に取られ、ただ呆然と百合を見ていた。
「た、確かに、突然こんなにベタベタ触ったら痴女ですね……! フフッ……、ごめんなさい。そんなこと初めて言われたので……、可笑しくなってしまって……」
百合はひとしきり笑うと、目尻の涙を拭った。
「本当にごめんなさい……。私が言われるのはいつも目のことだけだったので、痴女と言われたのは初めてで……。みんな私に気を遣ってなのか、何も言われたことがなかったのです。気がつかなくて、すみません……。普通嫌ですよね……」
百合は心から申し訳なさそうに頭を下げた。
「いや……まぁ、嫌ってわけじゃねぇけど……」
藤吉は頭を掻いた。
「世の中危ないやつもいるからな……。あまり不用意に触るのは……。あ、あとむやみに家に入れるのもやめておけよ……」
「そうですよね……。ありがとうございます。藤吉さんは本当に良い人ですね」
百合はにっこりと笑った。
藤吉はわずかに目を見張った後、視線をそらす。
「おまえは……人を見る目を養った方がいい……」
藤吉は小さく呟いた。
藤吉の言葉に、百合は少し驚いた顔をした後、クスッと笑う。
「私が見る目を養うのは難しいかもしれませんね。私にできるのは心を感じ取ることだけです」
百合はそう言うと、藤吉の胸に優しく手を当てた。
藤吉の体がビクリと震える。
「藤吉さんは、間違いなく良い人です」
百合は少しだけ目を開け、微笑んだ。
藤吉は目を見開いた後、静かに目を閉じた。
「本当に……見る目がねぇんだな……」
藤吉の言葉に、百合は笑う。
「そう言われてしまうと、否定はできませんね」
「なんだそりゃ」
藤吉は苦笑した。
(らしくねぇことしてるな……)
藤吉は額に手を当てると、小さく微笑んだ。
「どうした? 何かあったのか?」
藤吉が窓から小屋の中を覗き込むと、百合はどこか力なく微笑んだ。
「藤吉さんはすごいですね……。心が読めるのですか?」
「アホか、読めるわけねぇだろ」
藤吉は呆れた顔で言った。
「おまえの顔色が悪いから聞いてるだけだ」
「ああ、顔色……ですか」
百合はそう言うと自分の顔に手を当てた。
「まったく……」
藤吉はそう言うと小屋の戸に向かい、声を掛けずに中に入ると百合の隣に腰を下ろした。
「なんだ? 熱でもあるのか?」
藤吉は百合の額に手を当てる。
百合の顔は、藤吉の手よりもずっと冷たかった。
「熱はねぇな……。っていうか、おまえの体冷たいな。大丈夫か?」
「あ、はい。少し寒かっただけなので」
百合は少しだけ微笑んだ。
「そうか……」
百合は微笑みを浮かべたまま、少しうつむく。
「どうした?」
藤吉の言葉に、百合は躊躇いがちに口を開いた。
「……あの、藤吉さん。ひとつ聞いてもいいですか……?」
「なんだ?」
藤吉は百合を見た。
百合はやはりどこか暗い顔をしていた。
「藤吉さんは……ここで……どんな仕事をしているんですか……?」
百合の言葉に、藤吉はわずかに目を見張った後、目を閉じた。
「……そんな聞き方するってことは、だいたい検討はついてるんじゃねぇのか?」
百合は唇を噛んだ。
(気づいたみたいだな……)
百合の様子を見て、藤吉は息を吐いた。
(足音で誰かわかるくらいの察しの良さなら、弟が何をさせられてるかぐらい気づくか……。弟が話したのかもしれないしな……)
「逃げたくなったか?」
藤吉はなるべく穏やかな口調で聞いた。
「逃げられないのでしょう……?」
百合はひどく暗い顔で自嘲気味に笑った。
「そして、その一番の原因は……私ですよね?」
(察しが良すぎるのもツラいものだな……)
藤吉はチラリと百合を見て、ため息をついた。
「弟が逃げたいとでも言ったのか?」
「いえ……、弟は何も……。自分が何をしているのかも話そうとしないので……」
百合はそう言うと、首から紐で下げている十字架を震える手で握りしめた。
「でも、私……最初気づかなくて……愚かなことを言いました……」
百合の声はかすかに震え、まるで泣いているようだった。
「愚かなこと?」
藤吉は眉をひそめた。
「『血の臭いがするけれど、今日も狩りだったのか?』と……」
百合はかすれた声で言った。
「本当に……愚かでした……」
(ああ……、それは……)
藤吉はただ静かに百合を見ていた。
「あれから信は……私を避けるようになりました……。きっと人を殺したこと……知られたくないのだと思います。私が触れたときも、すごく緊張しているのがわかるんです……」
藤吉は何も言えなかった。
何を言っても慰めにならないことは、よくわかっていた。
「今、私ができることは、信が望んでいるように気づかないフリをすることだけです……。信を逃がすことも私にはできないですから……」
百合の目から涙がこぼれた。
藤吉は目を伏せる。
(最初から……わかっていたことだ……)
二人を連れてきたときから、こうなることは予想がついていた。
盲目の姉と、二人で生きるために何でもすると言った弟。
目の見えない女を連れてここから逃げることは、容易なことではない。
絶対に逃げられない犬、裏切ることがない手駒として、弟はここに連れて来られた。
藤吉は息を吐いた。
「……逃げるなんて話は、あまりここの人間にしない方がいい……。ここがどういうところか、もうわかっただろう?」
百合は頬を伝う涙を拭うと、少しだけ微笑んだ。
「藤吉さんは良い人なので……」
百合の言葉に、藤吉は目を丸くする。
「まだそんなこと言ってんのか? 俺からだって……血の臭い……してるだろう?」
「…………はい」
百合は少しだけうつむくと呟くように答えた。
「おまえの神様だって、俺を許さないだろう?」
藤吉は、百合の胸元の十字架を見る。
その瞬間、百合は顔を上げ、ゆっくりと目を開いた。
薄茶色の瞳に藤吉の顔が映る。
百合が見えていないことはわかっていたが、瞳に浮かぶ自分の姿から藤吉は思わず目をそらした。
「たとえ神が許さなくても、私がどう思うかは私の自由です」
百合の今までにない強い口調に、藤吉は驚いて百合に視線を戻した。
「藤吉さんは良い人です。私がそう感じるのですから、それが真実です」
藤吉は、毅然とした物言いに呆然と百合を見る。
「おまえ……実は……相当頑固だろ……」
藤吉の言葉に、百合はクスッと笑う。
「藤吉さんがそう感じたなら、そうなんでしょうね」
藤吉は苦笑した。
「藤吉さん、少し顔に触れてもいいですか?」
そう口にした百合の顔色は、先ほどより少しだけ明るくなったような気がした。
「またか? まぁ、いいけど……もうどんな顔の形かわかっただろ?」
「あ、はい。でも、今どんな表情をしているか知りたくて……」
「表情ねぇ……。まぁ、いいけど……」
藤吉はそう言うと、百合の手を取り、自分の顔に触れさせた。
「ほら、こんな顔だ……」
「ああ、なるほど……」
両手で藤吉の顔に触れた百合は、そう言いながら何かに気づき動きを止めた。
「どうした?」
「あ、いえ……」
百合は戸惑いがちにそう言うと、両手を下ろした。
「あの、髭が……」
「ああ」
藤吉は自分の顎に触れる。
「剃ったんだよ。またおまえに、顔から棘が生えてる化け物だって言われたくねぇからな……。それがどうかしたのか?」
百合の口が何か言いたげに動いたが、百合は結局何も言わず静かに微笑んだ。
「何を笑ってるんだ?」
藤吉は眉をひそめる。
「いいえ、なんでもありません」
「なんだよ、ニヤニヤして……。気色悪ぃな……」
百合の顔色はまだ悪かったが、どこか明るいその笑顔に、藤吉は少しだけホッとしていた。
「納得いかねぇ」
額に傷のある男は、苛立ちながら少し離れた場所に座る男を横目で見た。
「殺せるなら殺したいっていうのは、最初から話していたことだろう?」
男はフッと笑うと、茶をすする。
「そりゃあ、そうだけど……やり口の話しをしてるんだよ」
傷のある男は吐き捨てるように言った。
二人はいつもの茶屋にいた。
日は暮れかけており、店主は店の奥に行ったまま戻ってくる様子はない。
「そもそもどうして突然殺すことになったんだよ! 様子を見るんじゃなかったのか!?」
傷のある男は、額の古傷を乱暴に引っ搔いた。
「声が大きいよ」
男は飄々とした口調で言った。
「様子は今まで見てきただろう? あの方が面白がって生かしておいたっていうのもあるけどさ」
「じゃあ、どうして突然……」
傷のある男の言葉に、男は苦笑した。
「さぁね。あの方が考えることは俺には理解できないよ」
男は肩をすくめた。
「やり口は、仕方ないさ。その方法じゃなきゃ殺せないんだから。正直、おまえが正面からいったってキツいだろう? 相討ちくらいの覚悟でいかないと、おまえの方が殺されてしまう」
「そうだけど……それにしたって悪趣味だろ……」
傷のある男は眉をひそめる。
「あの方の悪趣味は今に始まったことじゃないさ。いいじゃないか。この方法なら失敗したところで、こちらに損はない」
「そりゃあ……そうだけど……」
傷のある男は、片手で顔を覆いうつむいた。
男は横目で傷のある男を見つめる。
「おまえ、同情しているだろう? あの男に」
男の言葉に、傷のある男は顔を覆っていた手を下ろし顔を上げた。
「別に……そんなんじゃねぇよ……」
傷のある男は目を伏せる。
「おまえだって最初は、変に生かすよりいっそ殺してやった方がいいって言ってたじゃないか? 今あの男がちょっと人間らしくなってきたからって、生かしてやりたくなったのかい?」
男は妖しく微笑みながら聞いた。
「そんなんじゃねぇって……」
傷のある男は目をそらしながら、口を開く。
「さっきも言ったけど、やり口が問題だって言ってるだけだ……」
「それならいいけどさ」
男はにっこりと微笑んだ後、静かに目を閉じた。
「なぁ、考えてみなよ……俺たちの仕事で今まで悪趣味じゃなかったことなんて逆にあった? 人間の弱さや脆さにつけ込んで内側と外側から壊すのが俺たちの仕事だろう?」
男はそう言うと、ゆっくりと立ち上がった。
「さて、そろそろ行くよ。いろいろ根回ししないといけないからね」
男は傷のある男に近づくと、軽く肩を叩いた。
「あんまり考えすぎるなよ」
「うるせぇ」
傷のある男は、男の手を払いのける。
「フフ……、じゃあまたね」
男はそれだけ言うと片手をあげて茶屋を後にした。
傷のある男は片手で顔を覆うと、ゆっくりと息を吐く。
「わかってるよ、そんなこと……」
誰もいない茶屋で、呟くその声だけが虚しく響いた。
「なんだか花の香りがしますね」
藤吉がいつものように小屋の中に入ると、百合が不思議そうな顔をした。
「相変わらず動物並みの鼻の良さだな」
藤吉は苦笑しながら、百合の横に腰を下ろした。
「ほら、これやるよ」
藤吉は百合の手を取ると、持ってきたツツジの花を手のひらに乗せた。
「これは……?」
百合は慎重に花に触れる。
「花だよ。ツツジの花」
「ツツジ……」
百合は花に顔を近づけた。
「優しい香りですね。いい匂いです」
百合は嬉しそうに微笑んだ。
「まぁ、いい匂いかどうかは俺にはわからねぇけど、この花は別の楽しみ方があるんだよ」
藤吉はそう言うと、百合の手からツツジの花を取り、花の根元を百合の口に寄せた。
百合がわずかに身を引く。
「なんですか?」
「ここ、吸ってみな」
藤吉は花を百合の唇に少しだけ当てた。
百合は躊躇いがちに唇を開くと、花の根元を口にくわえて少しだけ吸った。
「あ……、甘い」
百合は口から花を離すと、少しだけ驚いたような顔をしていた。
「ツツジの蜜だ。あ、でも勝手に取ってきて吸うなよ。ツツジは種類によっては毒があるから」
藤吉は花を百合の口元から離し、百合の手の上に乗せた。
「毒……」
百合は、手の中の花に触れながら呟いた。
「これは大丈夫だから安心しな」
「フフ、藤吉さんがくれたものなので心配はしていません。でも、どうしてこれを……?」
百合は不思議そうに首を傾げた。
「特に理由はねぇけど……、かび臭い小屋で血の臭いのする中、毎日同じようなメシ食ってるんだろう? たまには違うものに触れるのもいいんじゃないかと思っただけだ」
百合はわずかに目を開いた後、静かに微笑んだ。
「なんだよ、変な顔で笑うな」
「フフ、普通に笑っただけです。変な顔は失礼ですよ」
「知るか。笑うならもっと楽しそうに笑え」
藤吉の言葉に、百合は吹き出した。
「これでも楽しそうに笑っているつもりなんです。そう言うなら藤吉さんが手本を見せてください。まだ一度も藤吉さんの笑い声、聞いたことありませんよ」
「面白いこともねぇのに笑うわけないだろ」
藤吉は呆れたように言った。
「面白いことですか……。あ、嬉しいときも笑いますか?」
「ん? まぁ、笑うだろうな……たぶん」
「では、嬉しいことを思い浮かべて笑ってみてください」
「は?」
藤吉は困惑して、百合を見つめる。
「さぁ、笑ってください」
「さぁって……。まぁ、いいけど……」
藤吉はぎこちなく口角を上げる。
藤吉の予想通り、百合の両手が藤吉の頬に触れた。
「あ、今日も髭はないのですね。……う〜ん、なるほど……。本当に笑っていますか?」
百合は眉間にシワを寄せながら、両手を滑らせ藤吉の顔を確認していく。
「笑っているというより強張っているような……」
百合の言葉に、藤吉はフッと笑った。
「当たり前だろ。さぁ、笑えって言われたら、みんなこんな顔になる」
「あ、今笑いましたね! なるほど、この感じですね……」
百合が真剣な顔で、藤吉の顔を撫でる。
「これですね。覚えました」
百合は満足げにそう言うと、両手を下ろした。
「藤吉さんに今みたいな顔をしてもらえるように、頑張ります」
百合は楽しそうに笑った。
「おいおい、誰が笑わせてほしいって言った?」
藤吉は呆れて百合を見た。
「藤吉さんの笑顔を参考に、私も笑うようにしますから」
ニコニコしている百合を見ながら、藤吉は諦めたように息を吐いた。
「勝手にしろ」
自分の顔など、どうでもよかった。
ただ百合が楽しそうに笑っているのを見て、好きなようにさせようと藤吉は静かに思った。
「最近、信が戻ってくるのがどんどん遅くなっているのです……。長いときには数日戻ってこなくて……」
いつものように藤吉が小屋に入ると、百合が暗い表情で口を開いた。
「昨日も数日ぶりに戻ってきたかと思えば、また夕方に出ていきました……。何日も戻れないなんて、危ない目に遭っているのではないかと心配で……」
百合はこぶしを握り締めてうつむいた。
「そうか……」
藤吉は百合を見ながら、静かに息を吐いた。
(そろそろ、殺しがやりにくくなる頃だろうからな……)
藤吉は目を伏せる。
この小屋に来てから五年が経ち、信も百合もまだ幼くはあったが、子どもといえる年はすでに過ぎていた。
警戒されにくい子どもだからこそ、信が仕事をこなせていることは、藤吉にも簡単に想像がついた。
信とは最初に会った日以来、会えていなかったが、目の前にいる百合が女性へと成長している様子を見る限り、信も同じように成長しているはずだった。
「まぁ……、もう子どもじゃないんだ。大丈夫だろ。無事を信じて待ってりゃいいんじゃねぇか?」
藤吉はなんとかそれだけ口にした。
「そうなのですが……。危険なことが多いのでしょう……?」
「まぁ……」
藤吉は言葉が見つからなかった。
(危険しかねぇからな……)
「藤吉さんはどうして……この仕事を?」
百合は言葉を選びながら話しているようだった。
(どうして、殺してるかって……?)
藤吉は苦笑する。
「別に理由なんてねぇよ。死なないように生きてきて、気がついたらここにいただけだ。ただ食べるために、ただ安全な場所で寝るために、なんでもやってきたってだけだ。盗みも殺しも自分が生きるためだから、危険も承知のうえだし、申し訳ないとも思ったことねぇな」
「そうなのですね……。ずっとひとりで、そうして生きてきたのですか……?」
百合は悲しげな顔で藤吉の方を向いた。
「まぁ、俺は親の顔も知らねぇからな……。あ……だから、あんな最期だったが、おまえらの母親は立派だったと思うよ。逃げ出さずにおまえら二人を育てたんだからな」
藤吉の言葉に、百合は少しだけ驚いたようだったが、やがて嬉しそうに微笑んだ。
「はい、母は立派な人です。まぁ、可愛らしい人という方がしっくりきますが……」
「可愛らしい?」
「はい、少女のような人でした」
百合はクスッと笑った。
「少女って……。娘に子どもみたいって言われるなんて、どんな親だよ……」
藤吉は苦笑する。
「親バカ……とでも言うんでしょうか。特に信のことは溺愛していました」
百合はフフッと笑った。
「『聞いて聞いて! 信ったら、もうこんなこともできるようになったのよ? 天才!? 天才なのかしら!?』という言葉は百回くらい聞きました」
「へ~」
藤吉は目を丸くした。
百合の母親には生きているときに一度だけ会ったことがあったが、落ち着いた雰囲気と儚さを合わせ持ったような美人だった。
とても興奮気味に子どもの自慢をするようには見えなかった。
「意外ですか?」
「え、ああ……少し……」
「でしょうね。私以外の前では大人ぶっていましたから」
百合の言葉に、藤吉は苦笑した。
(大人ぶってたって……普通、娘が親に言わねぇよ……)
「信も……溺愛されてるなんて、きっと気づいていなかったと思います」
百合はそう言うと、少しだけうつむいた。
「弟の前でも大人ぶってたってことか?」
藤吉は首を傾げる。
「はい……、そうですね。私を養っていくために、信は厳しく育てなければいけないと、母は考えていたようです……」
百合は自分の両目を手で覆った。
「この目で……私がひとりで生きていくのは無理だと思ったのでしょう。信が早く自立して生きていけるよう、母は信を甘やかすことも、思い切り抱きしめることも我慢して、少し距離を取って信を育てました。そうして、私を守るようにと言い聞かせられながら育った信は……私を捨てられないのです……」
百合の目を覆っていた手が、力なく膝の上に落ちた。
「私が何もできないばかりに……」
百合はこぶしを握りしめる。
藤吉は目を伏せた。
(こいつは、こうやってずっと自分を責めながら生きていくんだろうか……?)
藤吉は静かに息を吐く。
(逃げられない環境の中で、言われるままに殺し続けないといけない弟も可哀想だが、ただ黙って耐えるしかないこいつも……)
藤吉は目を閉じた。
「まぁ、考えすぎるな」
藤吉はそれだけ口にすると、百合の髪がくしゃくしゃになるほど頭を撫でた。
「え!?」
百合は驚いた様子で、藤吉の方を向く。
「あんまり考えすぎるとハゲるぞ」
百合はどこか不満げな顔で自分の髪に触れ、乱れた髪を整えた後フッと笑った。
「では、藤吉さんはフサフサですね。安心しました。年をとっても髪は心配いりませんね」
「……余計なお世話だ。……フサフサだけど」
藤吉の言葉に、百合は微笑んだ。
「本当ですか? では、少し触らせてください」
百合はそう言うと、藤吉の方に腕を伸ばす。
「おい、やめろ! おまえ……! ヒドいぞ……」
藤吉は百合の手首を掴むと、百合の手を止める。
「フフ……、冗談です」
百合は楽しげに笑った。
「まったく……」
藤吉はため息をつく。
「おまえには冗談の才能がねぇ……」
百合はクスッと笑った。
「それは残念です。藤吉さんを笑わせたかったのですが」
「残念だったな。諦めろ」
何気ない、いつも通りの時間が流れていた。
しかし、先ほどまで晴れていた空は、厚い雲で覆われ始めていた。
藤吉はツツジの花を持って、小屋に向かっていた。
(昨日、笑ってはいたけど元気はなさそうだったからな……)
藤吉は手の中のツツジを見つめる。
(まぁ、こんなもので元気になるとは思ってねぇけど……)
藤吉は軽く息を吐くと、足を速めた。
いつものように小屋の戸に手を掛けた藤吉は、妙な胸騒ぎを覚えた。
(どうして……こんな静かなんだ?)
百合はいつも、小屋に近づく足音だけで藤吉が来たことを察していた。
そのため、藤吉が戸の前に立つ頃には、中で百合が動く気配がしているが普通だった。
藤吉は少し警戒し、慎重に戸を開ける。
「あ、藤吉さんですか……?」
百合のか細い声が小屋に響く。
百合の声に藤吉が急いで中に入ると、百合は薄い布団で横になっていた。
「どうした? 具合が悪いのか?」
藤吉は百合の枕元に腰を下ろした。
百合は笑みを浮かべたが、その顔色はひどく青ざめていた。
藤吉は百合の額に触れる。
「熱は……ないか……」
「はい……。少しお腹の調子が悪いだけですから……」
百合は弱々しく微笑んだ。
「腹?」
藤吉は眉をひそめる。
「少しだけ吐いてしまって……。あ、ちゃんと外で吐いて埋めましたから……」
「そんなことは気にしなくていい。まだ腹は痛いのか?」
「今はもう大丈夫です。あ、でも……出していただいた食事はほとんど食べられませんでした……」
百合は申し訳なさそうに顔を曇らせた。
「食事……?」
藤吉は、部屋の隅に置かれた食事の膳に目を向けた。
白米と汁物だけの質素な食事だった。
(この食事で中毒ってことはねぇか……)
藤吉が百合に視線を戻そうとしたとき、気になるものが視界に入った。
「……え?」
藤吉は思わず四つん這いで膳に近づき、汁物の中に浮かぶものを見つめた。
(これは……大芹……!)
藤吉は目を見開く。
大芹は芹とよく似ているが、有名な毒草だった。
似てはいるが比較的見分けやすいため、誤って食事に入れることなどこの屋敷ではまずありえなかった。
(どうして……)
藤吉はハッとして百合に駆け寄る。
「食事……どれぐらい食べたんだ……!?」
藤吉の緊迫した声に、百合は驚いたように目を開けた。
「白米と汁物を少しずつ……。ただ、食べてすぐ全部吐いてしまったので……」
「全部吐いたんだな!?」
藤吉の声に、百合は目を見開く。
「え、ええ……」
藤吉は両手で顔を覆うと、ゆっくりと息を吐いた。
(食べたのは少しだけ……。それに全部吐いたなら大丈夫か……)
「……どうかしたのですか……?」
百合が恐る恐る口を開いた。
「いや……なんでもねぇよ……」
藤吉は顔を覆っていた手を下ろすと、静かに目を伏せた。
(どうして、殺そうとなんて……。弟に仕事をさせるための人質だろ……? 殺していいことなんて何もないはずだ……。なら……どうして……!)
藤吉はこぶしを握りしめた。
「悪い……ちょっと用事を思い出した……。おまえは……ゆっくり休め。また吐くだろうから……食事は絶対に口にするなよ! じゃあ、また……来るから」
藤吉はそう早口で言うと、立ち上がり百合に背を向けた。
(お館様は……一体何を考えてるんだ……!)
藤吉は毒を盛った理由を聞くため、足早に小屋を出ていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ひとりになった小屋で、百合は藤吉が来るまでしなかった匂いがすることに気がついた。
百合はゆっくりと体を起こし、手探りで香りがする方に手を伸ばす。
「あ……」
百合は指先に触れたものを、優しく包み込むように手に取った。
「これは……ツツジ……。持ってきてくれたのね……」
百合はツツジの花を胸に抱いた。
「ああ……本当に、いい香り……」
百合は微笑むと、ツツジを愛おしそうにそっと撫でた。
藤吉は通された部屋で男を待っていた。
(遅ぇな……。どこに行ったんだお館様は……)
藤吉は思わず舌打ちをした。
昨日小屋を出てすぐ屋敷で男を探したが、出かけているようで男が屋敷に戻ってくることはなかった。
今日戻ってくる予定だと聞いた藤吉は、通された部屋でもう数刻ほど男を待っていた。
(それほど出歩く人じゃないんだけどな……)
藤吉はゆっくりと息を吐いた。
そのとき、襖が開く音がした。
「悪かったな」
藤吉が顔を上げると、恰幅のいい男がゆっくりこちらに向かって歩いてきていた。
「いえ、こちらこそ急にお伺いしてすみません」
藤吉は慌てて頭を下げる。
「気にするな。それにしても珍しいな、おまえが俺のところに来るなんて」
男はフッと笑うと、用意されていた座布団の上に腰を下ろした。
男は、目で藤吉にも座るように促した。
「ありがとうございます」
藤吉は礼を言うと、その場に腰を下ろす。
「それで、話というのは?」
男は鋭い目で、藤吉を見た。
「小屋の……小屋で暮らしている姉弟のことです……。なぜ女に毒を……? 弟に仕事をさせるための人質ではないのですか……?」
藤吉の言葉に、男はわずかに目を見張った。
「なんだ? 見てきたのか? おまえが人に興味を持つとは……驚いたな」
男はそう言うと、フッと笑った。
「安心しろ、殺す気はない。やる気を引き出すためのちょっとした脅しだ」
「脅し……?」
藤吉は眉をひそめた。
「最近、信が仕事に手間取るようになっただろう? 困るんだよ。あいつに任せている仕事は急ぎのものなんだ。何日もかかっていてはこちらの信用問題になる」
「それは……!」
藤吉は続く言葉を静かに飲み込んだ。
信の事情を説明したところで、男が受け入れるとは思えなかった。
「だから、速く仕事ができるようにちょっと脅しをかけたんだよ。これから姉の食事にはずっと毒を盛るとな」
男の言葉に、藤吉は目を見開いた。
「ずっと……ですか……?」
「ああ。信には、それが嫌ならすぐに戻っておまえが代わりに食べればいいと言ってある。信の分の食事には毒を入れるつもりはないからな」
藤吉は呆然と男を見た。
「そんなことをすれば……二人とも死んでしまいます……」
男は驚いたような顔をした後、小さく笑った。
「おまえが、人の心配とは……。今日は雨でも降るのか? ……安心しろ、すべて食べたところで死ぬほどの量の毒は盛っていない。たとえ死にたくなっても、あれぐらいの毒では死ねないさ。どちらも死んでもらっては困るからな」
「そんな……」
藤吉が反論しかけたとき、襖の向こうで人が動く気配がした。
「どうした?」
男が襖に向かって声を掛けた。
「……動きがありました」
襖の向こうにいる人物が静かに答える。
男は目を閉じると、唇を歪めた。
「そうか」
男はそう言うと、立ち上がり藤吉を見下ろした。
「悪いな。少し用事ができた。話しはここまでだ」
藤吉は呆然と男を見上げる。
「何か……あったのですか?」
男は顔を歪めて笑う。
「少し狩りに出るだけだ」
藤吉は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
(狩り……?)
男はそう言うと、襖を開けて部屋を後にした。
(一体……何が……)
藤吉は速くなる鼓動を落ち着かせようと、ゆっくりと息を吐いた。
男と分かれてしばらくすると、屋敷が急激に騒がしくなった。
(なんだ? ……何かあったのか?)
様子を見に来た藤吉は、慌ただしく動く人々に流されるように騒ぎの中心となっている部屋にたどり着いた。
「清潔な布を持ってきてくれ! 早く!!」
「刀は火で熱しておけ! それから焼きごても!」
「体を押さえて! 念のため猿ぐつわも!」
部屋の中では白い装いの人々が慌ただしく出入りしていた。
(一体……何事だ……?)
藤吉は襖の隙間から中を覗き込んだ。
部屋には布団が敷かれいて、その上に誰かが寝ているだった。
(病人……か……?)
そのとき、藤吉の視界に薄茶色の髪が映った。
「……百合……?」
藤吉の口からかすれた声がこぼれた。
届くはずのないかすかな声だったが、布団に横たわった人物がピクリと動いた気がした。
藤吉は目を見開く。
「百合……!」
藤吉は襖を勢いよく開けた。
布団に青ざめた顔で横たわる百合と、それを取り囲むようにせわしなく動いていた白装束の男たちが一斉に藤吉の方を向いた。
「こ、ここはダメです……!」
白装束の男が慌てた様子で藤吉に駆け寄った。
「ダメって……これは一体……!」
藤吉は百合を見る。
青ざめた百合の顔に目がいっていたが、よく見れば百合の足首には矢のようなものが刺さっていた。
藤吉は、顔から血の気が引いていくのを感じた。
「射られたのか……!」
「毒矢です」
百合の代わりに白装束の男が答えた。
「こうしているあいだにも毒が広がってしまいます! 早く足を切断しなくてはならないのです! 外に出てください!」
「切断……だと……?」
藤吉は茫然と白装束の男を見た。
「それしか方法がないのです! 早く出てください! 早くしなければ足の付け根から切り落とすことになりますよ……!」
白装束の男はそう言うと、藤吉を外に押し出した。
「ま、待ってくれ……! 切断なんて痛みで死ぬ可能性もあるだろう……!」
白装束の男は苦しげな表情で、目を伏せた。
「気休めにしかなりませんが……朝鮮朝顔を煎じたものを飲ませました。毒性が強いので飲ませたのは微量ですが、多少は麻痺して痛みを感じにくくなっているはずです……! さぁ、もう閉めますよ! お館様からも絶対に死なせるなと言われているのです!」
白装束の男は、そう言うと勢いよく襖を閉めた。
「早く猿ぐつわを!」
「足、もっと強く縛って!」
「暴れると危ないから強く押さえて!」
部屋の中から響く緊迫した声に、藤吉は思わず後ずさった。
「刀を! 一気にいく! しっかり押さえて!!」
絶叫が辺りに響き渡る。
普段聞いていた百合からは想像がつかない声色だったが、それは確かに百合の声だった。
「押さえて!!」
「ダメだ! 血が止まらない!! 焼きごて!! 早く!!」
肉の焼ける臭いとともに、耳を覆いたくなるような叫び声が響く。
藤吉は目の前が暗くなっていくのを感じた。
かすかに見える襖が歪み、自分が今真っすぐに立っているのかもよくわからなくなった。
(どうしてこんなことに……)
藤吉は思わず耳を覆った。
『狩りに出るだけだ』
少し前に男が言った言葉が、頭の中で響いた。
(お館様……)
藤吉は気がつくと、うまく動かない足を動かして男の部屋に向かっていた。
もつれる足で廊下を走っていると、ちょうど男が部屋から出てくるところだった。
「おお、どうした?」
男は少し驚いたように藤吉を見た。
「どうしてですか……? どうして、矢を……」
藤吉は絞り出すように、なんとかそれだけ口にした。
「……ああ!」
男は少し考えた後、思い出したように何度も頷いた。
「逃げようとしたんだ、あの姉弟。酷いだろ? ここまで面倒見てやったのに、とんだ恩知らずだ」
藤吉は唇を噛みしめた。
「毒矢は……毒はやりすぎでは……?」
「甘いな」
男は冷たい声で吐き捨てるように言った。
「逃げられないと理解させるには、これぐらいがちょうどいい。これでもう逃げようなどと思わないだろう?」
藤吉はこぶしを握りしめる。
「それは……そうですが……」
男は楽しげに笑った。
「まぁ、逃げようと思ったところで、足のない女を連れて逃げるのは不可能だがな」
藤吉は込み上げる怒りを抑えるため、静かにうつむくとゆっくりと息を吐いた。
「もういいか? おまえ、顔色が悪いぞ。今日はもう休め」
男はそう言うと、藤吉の横を通り抜け廊下の向こうに去っていった。
藤吉は握りしめたこぶしを壁に叩きつける。
「クソッ……!」
藤吉は壁に寄りかかると、その場に崩れ落ちた。
吐き気がした。
すべて吐いて叫び出したい衝動に駆られたが、吐いたところでこの気持ち悪さが治まらないことは、藤吉自身が一番よくわかっていた。