「おや、おまえから訪ねてくるなんて珍しいな」
薬の調合をしていた良庵は長屋の戸を開けた信を見て、顔を上げた。
「先生に聞きたいことがあってきた」
信は相変わらずの無表情だった。
「入ってもいいか?」
「ああ、上がってちょっと待ってな」
良庵はゆっくりと立ち上がると、調合していた薬を慎重に棚の上に置いた。
長い時間同じ姿勢で作業していたせいか、良庵は腰に痛みを感じた。
(もう年だな……)
良庵は江戸では有名な医者だが、五十を過ぎて往診を少しずつ減らしており、長屋で薬の調合をして過ごすことが増えていた。
「それで、聞きたいことっていうのは?」
良庵は信に座布団を出しながら聞いた。
「これが何か教えてほしい」
信は座布団に腰下ろし、良庵に薬包紙を渡す。
「薬か?」
良庵は包みを開いて中を確認した。
中には黒くきめ細かい粉が入っている。
良庵は慎重に粉をつまむと、指先ですりつぶしながら匂いを嗅いだ。
「これは、おまえも知ってるだろう? どこで手に入れたんだ? 江戸でそんなに出回ってるもんじゃないぞ」
良庵は不思議そうな顔で信を見る。
「ああ、このあいだ先生に言われて舐めたやつだ。味は覚えているが、これが何かわからないから来た。これは何の薬なんだ?」
「ああ、そうか。薬の名前とか効果は教えてなかったか」
良庵は納得したように口を開く。
「これは阿片だ。ケシから精製したもので……なんてことはいいか。まぁ、鎮痛剤だな、痛みを感じなくする効果がある」
「鎮痛剤……」
信は黒い粉を見つめる。
「こんなもの一体どこで手に入れたんだ? 原料のケシ自体、栽培してる地域が限られてるから、江戸ではほとんど出回ってないはずだぞ」
「吉原の遊郭だ。そこで体調の悪い遊女に配ってるらしい」
「遊郭で? 配ってる?」
良庵は眉をひそめた。
「そりゃあ……ちょっと質が悪ぃな……」
「どうしてだ?」
「まぁ、薬なんてもんはみんなそうだが、阿片に関しては特に中毒性が高いからなぁ。考えてもみろ、痛みがパッと消える奇跡の粉だぞ。病気や傷が治ったみたいに感じるだろうし、依存もするだろう……。薬が切れて狂ったみたいになった人間もいたって聞くしな……。基本的には常用できるほど量が出回ってないから問題になってないが、その遊郭では配ってるんだろう? 誰が配ってるかしらねぇが、そのうち薬をくれるやつの言うことならなんでも聞くようになるぞ。そういう使い方だとしたら相当質が悪い……」
良庵は顔をしかめた。
「そうか。わかった」
信はそう言うと立ち上がった。
「なんだ、もう帰るのか?」
「ああ、行くところがある」
「そうか。……これは、咲耶からの頼まれごとなのか?」
良庵は気になったことを聞いた。
「ああ」
「よくやるなぁ、おまえは」
良庵は笑う。
「ただ……」
信はそう言うと良庵を振り返った。
「俺の用事にもなった」
信の瞳の奥に妖しい光を見た気がして、良庵はぞくりと体を震わせた。
それだけ言うと信は長屋を出ていった。
「まったく……」
良庵は頭を搔きながら、ため息をついた。
良庵は信についてほとんど何も知らなかった。
知っているのは一年前、死にかけたところを咲耶に助けられたことだけだ。
咲耶に呼ばれて、玉屋の行燈部屋で信を治療したのが、まるで昨日のことのようだった。
死んでいないのが不思議なほど全身はズタズタに切り裂かれおり、それとは別に治りきっても消えないほど深い古傷が至るところにあった。
骨が折れても放置していたのか、骨が不自然な形につながっている箇所も多くあったほどだ。
(薬への耐性といい、一体どんな生き方してきたらあんなふうになるのかねぇ……)
良庵はため息をついた。
良庵にとっては心が読めるような咲耶も、過去に何をしてきたかわからない信も、得体の知れない化け物のような存在だった。
(まぁ、どっちも俺にとって利は多い存在だが……。それ以外のところは、触らぬ化け物に祟りなしだな……)
良庵は再び棚から調合中の薬を下ろし、余計なことを頭から消し去って薬づくりに集中することにした。
「また心中だって……」
「でも、鞠姐さんに間夫なんていた?」
「いないでしょ。ずっと行燈部屋にいて、いつ間夫なんて作るのよ」
「じゃあ、やっぱり……」
張見世の中で遊女たちがひそひそと言葉を交わす。
今朝早くに菊乃屋の遊女、鞠の遺体がお歯黒どぶで見つかってから、見世の中は騒然としていた。
間夫と思われる男と縄で手首をつないだ状態で見つかったため心中とみられていた。
「ねぇ、鈴はどう思う?」
美津は鈴の方を見て聞いた。
「ちょっと多すぎるよね……」
最近、菊乃屋の遊女の身投げや心中が続いていた。
亡くなった遊女は皆、病を患っていたり、素行が悪かったりした者だったため、逃げ出そうとして亡くなった可能性はあったが、それでも数が多かった。
「なんだか怖いね……」
美津は不安げな顔でうつむいた。
鈴はそんな美津の背中を優しくなでる。
「蜜葉、客だ」
男衆が美津を呼んだ。
美津はため息をついて立ち上がる。
「ちょっと行ってくるね」
美津は鈴にそう言うと張見世を出ていった。
鈴は自分の手の甲を見つめる。
赤い発疹が手の甲にまで広がっていた。
鈴は苦笑する。
梅毒は治るどころか悪化の一途をたどっていた。
体には硬いしこりのようなものもある。
(私ももうダメなのかな……)
心のままに生きようと決めてから、将高と鈴は定期的に裏茶屋で会っていた。
ここ一年、楼主との関係はあるものの鈴の心は不思議と満ち足りていた。
将高に会えると思えば、目が覚めて同じような朝が来ることも悪くないと思えた。
(あと三日で会える……)
鈴は乾いた咳をした。
梅毒よりも鈴にはひどくなってきた胸の痛みの方が問題だった。
鈴は楼主からもらった薬包紙を取り出して飲む。
楼主からもらった薬は不思議なほどよく効いた。
鈴はそれほど薬を飲んでいなかったため、楼主から定期的にもらう薬はまだたくさんある。
楼主のことは快く思っていなかったが、薬に関してだけは鈴は楼主に感謝していた。
(まぁ、それもいつまで続くかわからないけど……)
広がった発疹に加えて、咳がひどくなるにつれて、鈴の客は少しずつ減っていた。
楼主が鈴に優しいのは、鈴の稼ぐ金額が大きいためだった。
客がとれなくなれば、あっさり切り捨てられるのは簡単に予想できる。
鈴はため息をついて、目の前に広がる格子越しに空を見た。
(今さら自由に焦がれるなんて、本当に愚かだ……)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「一緒に逃げないか?」
将高は真剣な顔で口を開いた。
「最近、咳もひどい……。私の元服まで待っていたら鈴が……。ちゃんと治療してもらおう」
鈴は微笑んで首を振った。
「見世からは逃げられないから……」
(それにおそらく私は……)
鈴は静かに目を閉じた。
将高とは会うたびに何気ない日常の話しをしていた。
一緒に過ごした屋敷での思い出話や菊乃屋の美津のことなど、他愛もない話ばかりだったが、その時間がどうしようもなく鈴には愛おしかった。
将高の気遣うような言葉に鈴は目が潤むのを必死で隠す。
「しかし……」
将高は心配そうに鈴を見る。
「今のままで十分だよ」
鈴は将高を見つめて微笑む。
鈴の本心だった。
将高が諦めたように肩を落とす。
将高に声をかけようと口を開いた瞬間、鈴が咳き込んだ。
「鈴!」
駆け寄ろうとした将高を鈴が手を伸ばして止める。
梅毒も、咳の原因の病も、将高には絶対にうつしたくなかった。
「……すぐ……お、…おさまるから……」
こんな状態でも将高に会い続けているのは、人生最期のわがままのつもりだった。
(どうか最期くらい許してください……)
「鈴……」
鈴は呼吸を整える。
「今日は……もうそろそろ帰るね……」
鈴は将高を安心させるように微笑む。
「本当に……大丈夫か?」
将高が不安げに鈴を見る。
鈴は立ち上がると将高を見て笑った。
「将高……、愛してる!」
将高の頬がサッと赤く染まる。
鈴はそんな将高を見て、いたずらっぽく微笑むと手を振って部屋から出ていった。
菊乃屋に戻ると、鈴は夜見世の準備を始めた。
鏡の前で、鈴は自分の顔を見つめる。
顔色は以前よりずっと悪くなってしまったが、顔つきは今の方がずっといい気がした。
鏡に向かって微笑んだ瞬間、鈴は激しく咳き込んだ。
(胸が痛い……)
咳はなかなか治まらなかった。
何かがこみ上げてきて、鈴は口を手で覆う。
ゴボッという音とともに、鈴の口から何かこぼれた。
苦しい中で恐る恐る目を開けると、手のひらは血で真っ赤に染まっていた。
「あ~あ、おまえもう壊れちゃったの?」
鈴がハッとして顔をあげると、鏡ごしに楼主と目が合った。
慌てて振り返ると、楼主はおかしそうに笑う。
「梅毒なうえに労咳ねぇ。さすがにもう、うちじゃ無理かなぁ」
楼主は頭を掻きながら、鈴の目の前でしゃがみ込んだ。
「でも、安心しな。おまえならまだいけるよ! 何、心配するな! 俺の大事な家族のためだ。俺に任せておけ」
楼主は鈴の顔をのぞき込んで言った。
「だからおまえも家族のために、最期まで頑張れよ」
楼主の冷めきった瞳に、鈴は血の気が引いていくのを感じた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
次の約束の日、将高は裏茶屋にいた。
窓の外を見ると、すでに日が暮れ始めている。
(鈴に何かあったんだろうか……)
将高は日が沈むまで待ったが、鈴はとうとうやって来なかった。
美津は張見世で格子越しに見覚えのある男を見つけた。
(あれは前に鈴の名を呼んでいた男か?)
男は元服したのか以前見かけたときと違い、髷を結っており雰囲気は変わっていたが、確かにあのときの男だと美津は思った。
男はゆっくりとした足取りで張見世の中を端から端まで見て歩いている。
(鈴を探しているのか?)
美津は目を伏せた。
鈴が菊乃屋からいなくなって、すでに一年近く経っていた。
鈴のことで楼主に反抗した美津は、それから仕置きとして行燈部屋に入れられ、その後体調も崩していたため、張見世に出始めたのはつい最近のことだった。
(ずっと鈴を探していたんだろうか……)
美津は再び男を見た。
男の顔には暗い影が差している。
美津は周囲に男衆がいないことを確認すると、格子の外に腕を伸ばした。
「お兄さん、ちょっと寄っていってよ」
美津は男に声をかける。
男はそれに気づき、近づいてきた。
美津は男が手の届く距離まで来るのを待ってから、男の着物の裾をつかむと力いっぱいに引いた。
男は体勢を崩して、格子に顔を打ちつける。
美津はそんな男の耳元に顔を寄せた。
「鈴は、もうここにはいないよ」
周囲に気を配りながら、美津が呟く。
男は目を見開いた。
「どういうことだ!?」
声を大きくした男を、美津が人差し指を立てて止める。
「鈴は間夫と逃げようとしたってことにされて、切見世に売られたの」
美津は声をひそめて早口で話す。
「何を!? 鈴は逃げようとなんて……」
男が言葉を失う。
「けど、実際はそうじゃなくて、労咳がひどくなったから最後に儲けるために楼主に売られたの。うちではもう見世に出るのは無理だけど、鈴は綺麗だし切見世ならまだまだ客がつくから……」
美津の目に涙が溢れた。
「お願い! 鈴を探して! 私も探してるんだけど、見つけられないの……」
そこまで言うと、美津は男衆が近づいてきているのに気づき、男に商売用の笑顔を向けた。
「お目当ての子がいるなら仕方ないね。じゃあね、お兄さん」
男は美津の意図に気づいたのか軽く頷くと張見世の前から去っていった。
「頼んだよ……」
美津は男の背に向かって小さく呟いた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
美津と話した将高はその足で、吉原の端にある切見世に向かった。
(鈴が切見世に売られているなんて……)
将高は怒りに震えていた。
裏茶屋に現れなくなってから一年近く、将高は鈴を探し続けていた。
元服もしていない身では菊乃屋のほかの遊女に声をかけることもままならなかったため、ひたすら菊乃屋に足を運んだ。
何度足を運んでも張見世に鈴の姿がなかったため、鈴は病が悪化して療養しているのだと将高は考え始めていた。
今日、元服して初めて菊乃屋を訪れ、ようやくほかの遊女から話しが聞けると思った矢先、美津に引き止められたのだ。
(私は呑気に一年も一体何をしていたんだ!)
将高は自分の愚かさに舌打ちをした。
切見世の長屋に着くと、将高は辺り一体を見渡した。
切見世とひと言で言っても、その数は多い。
長屋の戸を一つひとつ確認して回るわけにもいかず、将高は途方に暮れていた。
すると、ひとつの戸が乱暴に開け放たれ、中から男が飛び出してきた。
「なんだおまえ! それ労咳だろ!? ふざけやがって……」
男は中に向かって怒鳴ると、足早に去っていった。
将高はゆっくりと開け放たれた戸に近づく。
薄暗い部屋の中で頭巾を被った女が激しく咳き込んでいるのが見えた。
女がいる布団は血で赤く染まっている。
女が咳き込みながら口元まで覆っていた頭巾を外す。
将高は息を飲んだ。
「鈴……」
頬は腫瘍で赤く腫れ上がっていたが、確かに鈴だった。
将高はおぼつかない足で、戸口から中に入った。
「……鈴?」
鈴は弾かれたように将高の方を見た。
「将高……」
鈴の瞳が見開かれ、同時に顔が歪んでいく。
「どうして……ここに……」
将高は赤く染まった布団を見た。
吐き出された血の量や梅毒の進行を見れば、将高にも鈴がもう長く生きられないとはっきりわかった。
(どうして鈴がこんな目に遭わないといけないんだ……)
将高の瞳に涙が溢れた。
ふらふらと将高は鈴に近づく。
鈴の体は今にも折れそうなほど痩せてしまっていた。
(何もできなかった……。最初から私がもっとしっかりしていれば……)
将高は鈴の横に座ると、ゆっくりと鈴を抱きしめた。
見た目以上に細くなっている鈴の体に、将高の腕が震える。
将高は壊れものに触れるように優しく鈴を包む。
「将高……うつるから……」
鈴のか細い声が将高の耳に響く。
「鈴……、一緒に死のうか……?」
鈴の体がビクリと震えた。
将高は体を離すと、鈴の目を見つめた。
鈴の瞳は大きく見開かれていた。
「すべて片付けてくるから……、四日後……一緒に死のう。もう二度とひとりにしないから……」
鈴の唇がわずかに動く。
「将高……」
涙を流し続ける将高の目を見つめながら、鈴はそれ以上何も言えなかった。
吉原の大門が閉まる少し前、信は吉原に入った。
信が向かったのは玉屋でも菊乃屋でもなく、吉原の端にある切見世の長屋だった。
いつもは賑っている吉原も、大門がまもなく閉まる時間とあって人影は少ない。
信は切見世のひとつの戸の前で足を止めた。
中からは激しく咳き込む音が聞こえている。
信は静かに戸を開けて中に入った。
座敷の奥で布団に横たわる人影が気配を感じて息を止めたのがわかる。
「あの……、今日は…もう休ませていただいていて……」
息を整えながら、女が言った。
「鈴か?」
信が戸口に立ったまま聞いた。
鈴はゆっくりと体を起こす。
「どなた……ですか?」
「おまえの兄が探している」
「お兄様が!?」
鈴は声を大きくした途端にまた激しく咳き込んだ。
「大丈夫か?」
信は鈴に近づいて、横にしゃがみこむ。
「は……はい……」
鈴は顔を上げる。
鈴の左頬は腫瘍によって赤く盛り上がっていた。
口元と手のひらは血で染まっている。
「お見苦しいところを……お見せして……」
鈴は力なく微笑み、枕元にあった布で手のひらと口元の血を拭った。
「見苦しくない。大丈夫か?」
鈴は信を見て微笑むと首を縦に振った。
「とりあえず、ここを出るぞ」
信が立ち上がる。
「ここをですか? ……私はまだここで働かないと……」
鈴は目を伏せる。
信はただ静かに鈴を見ていた。
「いいのか?」
信は抑揚のない声で聞く。
「おまえ、もうすぐ死ぬぞ。悔いはないのか?」
鈴は弾かれたように顔を上げた。
唇をかみしめて信を見る。
「……行くか?」
信は手を差し出した。
鈴はしばらくためらった後、そっと信の手を取った。
ゆっくりと立ち上がると信に手を引かれて長屋の外に出た。
「あ、待って」
鈴は足を止める。
「あの明日、私に会いに人が来ることになっていて……」
「ああ、美津という女から聞いている。明日俺から説明しておく」
鈴は目を見開く。
「美津に会ったんですか? 美津は……元気でしたか?」
鈴は縋るように信を見た。
「ああ、おまえよりはだいぶ元気そうだった」
信は淡々と答えた。
鈴は少し笑う。
「そうですか。よかった……」
信は長屋の裏に置いてあった荷車を持ってくると、荷台を指して鈴に横になるように言った。
鈴はためらいながら、荷台に横たわる。
「あの……これはもしかして……」
信は何も言わず上からゴザのようなものをかけた。
「あ、やっぱり……」
「おい! そこで何してる!?」
男が声を荒げて信に近づく。
「なんだこれは!?」
男は荷車を指差して言った。
「あそこの女が死んだんで、投げ込み寺に捨ててこようかと」
信はいつも通りの口調で答える。
男が少したじろぐ。
「おまえ……、よくそんな淡々と……」
「見ますか?」
信が鈴にかかったコモをめくろうとする。
「いや! いいよ! 見たくはない!!」
男が全力で止める。
「もうすぐ死ぬだろうとは思ってたし、捨ててきてくれるなら有難い……。もう行っていいぞ!」
信は頭を下げると荷車を引いて大門に向かう。
大門に着くと信は門番に止められた。
「その荷はなんだ?」
門番は怪訝な顔で荷台を見る。
「遊女が労咳で死んだので、投げ込み寺に捨ててくるように言われました」
門番はコモをめくる。
そこには着物や口元を血で汚し、髪を振り乱した土気色の顔の女が横たわっていた。その頬は腫瘍で赤く腫れ上がっている。
「こりゃ、ひどいな……」
門番は顔をしかめ、コモを元に戻すと、荷台に向かって手を合わせた。
「行っていいぞ」
信は頭を下げると荷車を引き、大門を出た。
吉原を出てしばらく進むと、鈴がコモをどけて顔を出した。
「こんなに簡単に出られるなんて……」
鈴は天を見たまま呟いた。
「おまえ、上手いな。本当に死んだかと思った」
鈴はふふっと笑う。
「本当に死にかけてますからね。咳き込んで血が出てたので、ちょうどよかったです」
「そうか」
信はそれだけ口にした。
「生きて……大門を出られるとは思っていなかったです」
「そうか」
「ああ……、風が気持ちいい……。あ、朧月……。明日は雨でしょうか?」
信も空を見上げた。
そこには雲ひとつかかっていない綺麗な満月があったが、信は何も言わなかった。
「綺麗……」
鈴の瞳からこぼれた一筋の光が、そっと荷台を濡らした。
「え……何それ?」
真夜中に叩き起こされた良庵は、戸口で信に問いかける。
視線の先にはコモが被せられた荷車があった。
「患者だ」
「え……死体だろ、それ……?」
「夜遅くに……すみません……」
どこからともなく女の声が聞こえ、良庵は辺りを見回す。
するとコモが捲れ、荷車の上で女がゆっくりと体を起こした。
着物は血で汚れ、髪は乱れ、頬を赤く腫れ上がらせた女は、申し訳なさそうに微笑んだ。
薄暗い夜道でその風貌に浮かんだ笑顔は、良庵にとって恐怖でしかなかった。
「ひぃ!!」
良庵が尻餅をついた。
「あ、すみません! 不用意に……声をかけない方がよかったですよね……」
女の慌てた声が聞こえた。
良庵は腰をさすりながら立ち上がると、もう一度そっと荷台を見る。
「何……生きてるの?」
「はい……、まだ生きてます……」
鈴は申し訳なさそうに微笑んだ。
良庵は信に視線を移すと、ため息をついて頭を掻いた。
「とりあえず、入れ。目立つから……」
良庵がそう言って促すと、信は鈴に肩を貸して長屋の中に入った。
良庵が敷いた布団の上に信が鈴を寝かせると、良庵は視線で信を呼んだ。
良庵と信は戸口まで移動する。
「おいおい、誰なんだよ、あれ! 俺は厄介ごとは御免だぞ! それに患者って、ありゃもう……いつ死んでもおかしくないだろ! 治療なんてできる段階じゃねぇよ」
良庵は声をひそめながら言った。
そのうちに死体になるだろう見ず知らずの女を置いていかれるなど冗談でも嫌だった。
信は表情を変えずに、懐に手を入れる。
「なんだ、金か? 金なんかいらねぇから、早く女を……」
良庵が言い終える前に、信が懐から手紙を出して差し出す。
「先生がそう言ったら渡せと、咲耶が」
良庵は怪訝な顔をしながら手紙を受け取ると読み始める。
しばらく文字を目で追っていた良庵は、しだいに自分の手が震え始めるを感じた。
(あり得ない! あの薬の葉が手に入ったって!? どれだけ手を回しても無理だった薬なのに……。しかもタダでくれる!? 条件は…………)
目を見開いて手紙を読んでいた良庵は、読み終えると静かに手紙を閉じた。
良庵は先ほどとは打って変わった爽やかな笑顔で信を見る。
「患者を診るのは医者の当然の仕事だ。喜んで受け入れるよ。信は疲れただろ? 茶でも飲んでいくか?」
「いや、俺は大丈夫だ。ありがとう」
「そうか。じゃあ、俺は女を診察してくる」
良庵はそう言うと軽い足取りで女の方へ歩いていった。
鈴は良庵が近づいてくる気配を感じて、布団から体を起こした。
「ごめんなさい……。ご迷惑を…おかけしてしまって……」
「ツラいだろ? 寝たままでいい。ちょっと具合だけ診させてくれ」
鈴は言われたとおり、再び布団に横になる。
「ありがとうございます……。ただ、私はもう……。今もこれがなかったらたぶん…話せる状態でもないと思うので……」
鈴はそう言うと胸元から薬包紙を取り出した。
(ああ……、そういうことか)
良庵は薬を見て、今の鈴の状態もおおよその事情も理解した。
(信が言ってた遊郭の件ね……)
良庵は静かに息を吐いた。
「あの……ご迷惑だと思うので、治療は必要ありません……。ただ少しだけ置いておいてもらえれば……。もうすぐ死ぬのは……わかっているので……」
良庵は鈴を見つめる。
良庵も人並に人間の情は持ち合わせているつもりだった。
再び息を吐いた後、良庵は鈴の乱れた髪をそっとなでる。
「……人間はみんないつか死ぬんだ。最後は死ぬのに、なんで医者なんてものが存在すると思う?」
鈴は不思議そうに良庵の顔を見つめた。
「最期の最後までちゃんと生きるためだよ。まだ会いたい奴や話したいことがあるんじゃないのか? あんまりお上品に生きてると最後に後悔するぞ。人間なら泥臭くても足掻いて生きて、薄汚くても笑って死にな」
鈴の見開かれた瞳にみるみる涙が溢れていく。
鈴は涙をこぼさないように歯を食いしばって頷いた。
「はい……!」
(あ~あ、本当にガラにもねぇ……)
良庵は頭を掻きながら、鈴の診察を始めた。
(まぁ、人生の最期に見るのが見ず知らずの薄汚いおっさんじゃ可哀そう過ぎるからな……。時間稼ぎくらいはしてやるよ……)
信はそんな二人の様子を眺めていたが、しばらくすると二人に気づかれないようにそっと長屋を後にした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
明け方、咲耶は客を大門まで見送っていた。
客に小さく手を振っていた咲耶は、客の姿が見えなくなると手を止め微笑みを消した。
「間に合ったか?」
咲耶は前を向いたままひとり呟く。
「ああ」
大門の影で信が答えた。
「そうか……」
咲耶はそっと息を吐いた。
「今は良庵が診ているのか?」
「ああ。ただ、いつまでもつかはわからない」
「……そうか」
咲耶は目を伏せた。
(約束の日が早まったのはよかったかもしれないな……)
「今日の昼……もし会えたらあいつも連れてきてくれ」
「わかった」
咲耶は信の返事を聞くと、身をひるがえして玉屋に戻っていった。
長屋の戸口にひとりの男が立ち尽くしていた。
昨夜まで鈴のいた長屋だった。
信はゆっくりと男に近づき声をかける。
「鈴を探しているのか?」
男がゆっくりと振り返った。
「……あなたは?」
鈴ほどではなかったが、男の顔色はひどく悪かった。
「一緒に死ぬつもりだったのか?」
信は男の問いかけに答えず聞いた。
男の目が見開かれる。
「どうして、それを……?」
「美津という女に聞いた」
「彼女から……?」
男は戸惑った表情を浮かべる。
「おまえは鈴の恋人なんだろう?」
「恋人……と呼べるかどうか……」
「鈴のために一緒に死のうとしたんだろう?」
将高は悲しげに微笑んだ。
「……自分のためです……。鈴を亡くして生きていく自信がなかったから……」
「そうか」
信は淡々と言った。
「生きるのも死ぬのも好きにしたらいい。ただ、鈴はまだ生きたいようだったぞ」
将高は弾かれたように顔をあげる。
「鈴は今どこにいるんですか? ……亡くなったんですか?」
将高は顔を歪める。
「まだ生きている。鈴のところに案内するから一緒に来てくれ」
信は将高に背を向けて歩き出す。
「ただ、その前に寄るところがある」
将高はとまどいながらも鈴に会うため、何も聞かず信の後を追った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
叡正は緑に案内され、咲耶の部屋に足を踏み入れた。
案内を終えた緑は、一礼して部屋を出ていく。
咲耶は窓辺に腰かけて、窓の外を見ていた。
まだ見世に出るのに時間があるためか、咲耶は長い髪を軽く後ろで束ね、長襦袢を着ていた。
「ああ、来たか」
咲耶は視線だけ叡正の方に向けて言った。
「もう少しだけ待ってくれ。……もう少しで役者が揃う」
咲耶は視線で叡正に座るように促した。
「妹は……妹は生きているのか……?」
緊張のせいか叡正の声がかすれる。
咲耶はゆっくりと立ち上がると、叡正の前に腰を下ろした。
「ああ、まだ生きている」
「……まだ?」
かすれる声で叡正が聞いた。
咲耶は少し困ったように目を伏せる。
「……生きてはいるんだな……。……会えるのか?」
叡正はすがるように咲耶を見た。
「ああ、これから案内する。詳しくは今から来る男に聞いてくれ」
「男……? 誰が来るんだ?」
咲耶は悲しげに微笑む。
「おまえがいないあいだ、妹を支え続けた恩人だ……」
咲耶がそう告げるのと同時に、咲耶の部屋の襖が開いた。
「来たか」
咲耶が小さく呟く。
そこには薄茶色の髪をした男と髷を結った若い男が立っていた。
髷を結った男は叡正の姿を見つけると、目を大きく見開く。
「永世様……?」
叡正は名を呼ばれ、髷を結った男を見つめ返した。
「……将高……なのか?」
叡正の家が取り潰しになる前に、たまに屋敷に遊びに来ていた可愛らしい少年の顔と、目の前の男の顔が重なった。
「永世様……」
将高の顔はみるみる青ざめていく。
「永世様……、誠に……誠に申し訳ありません!」
将高は崩れるように叡正の前に膝をつくと、頭を座敷にすりつけた。
「お、おい……」
訳がわからない叡正は、顔をあげてもらおうと将高の肩に手をかけた。
「鈴を守れず、誠に申し訳ありません……。母上がしたことも……私がしようとしたことも許されないことだとわかっています……。本当に、本当に申し訳ありません……」
将高は涙で声を詰まらせながら言った。
叡正はその姿に何も言えず、ただ将高を見つめる。
「将高といったか……」
落ち着いた声で咲耶が名を呼ぶと、将高は少し顔をあげた。
「こいつはまだ何も知らないんだ。妹の七年間のこと教えてやってくれ」
将高はハッとしたように叡正を見る。
将高は涙を着物の袖で拭うと、今度は真っすぐに叡正を見た。
「わかりました。私の知る範囲のことになりますが、すべてお話しします」
叡正はただ静かに将高の話しを聞いていた。
(将高は何も悪くない……。むしろ悪いのは七年も何も気づかなかった俺だ……)
将高の話しを聞き終えた叡正は、自分への怒りで震えていた。
「おい」
静まり返った部屋に咲耶の声が響く。
「後悔はあとにしろ。妹はまだ生きてるんだ。今できることをちゃんとしろ。時間はあまりないぞ」
咲耶はそう言うと信に視線を移した。
信は静かに頷くと、座り込んでいる叡正と将高の腕をとる。
「行くぞ」
信はそれだけ言うと部屋を出ていった。
将高と叡正はなんとか立ち上がると信の後を追う。
(そうだ……まだ生きている……)
叡正は顔を上げ、今度こそしっかりとした足取りで信の背中を追った。
鈴は夢を見ていた。
鈴は幼い姿に戻っていて、屋敷には父や母がいて兄もいる。
庭にある大きな桜は満開で、散っていく桜を見てはしゃぐ鈴を兄がたしなめる。
そんな二人を見て、父と母が顔を見合わせて微笑んでいた。
温かくて心地よくて、ずっとここにいたいと鈴が思ったとき、喉にこみ上げるものがあり鈴は咳き込んだ。
うっすらと意識を取り戻した鈴が目を開けるとそこには見覚えのない天井があった。
(そうだ……。私はここに運んでもらって……)
「大丈夫か?」
良庵はそう言うと鈴の顔をそっと拭いた。
おそらく咳き込んだとき、顔に血がついていたのだろう。
「ありがとう……ございます」
鈴はお礼を口にしたが、かすれた声しか出なかった。
(夢だと思ったけど、もしや今のは走馬灯というものなのだろうか……)
そう考える眠ることが怖くなり、鈴は何か話さなければと口を開いた。
「もうすぐ……お兄様が来るんですか……?」
「ああ、俺はそう聞いてる」
「……お兄様には…会いたいけど……恥ずかしくて……」
鈴はそう言うと手をゆっくりと動かし、左頬に触れた。
「こんな…ふうだし……」
赤く腫れあがった腫瘍は梅毒の象徴だった。
「妹が死にかけてるときにそんなこと気にしないと思うが、おまえは気になるんだろうな……」
良庵はそう言うと立ち上がり、奥に行ってしまった。
(死ぬ直前までそんなことを気にして…呆れられちゃったかな……)
鈴が目を伏せていると、奥から良庵が戻ってきた。
良庵はそっと鈴の頭を片手で持ち上げると、柔らかいもので包んだ。
「この布なら薄くて通気性もいいから顔に巻いてもいい。兄貴が来たら頬も口元も隠してやるから、もう気にするな」
「ありがとう……ございます……」
鈴の瞳が涙で濡れる。
「ほら、泣くな。泣くと体力を消耗するんだよ」
良庵が呆れたように言う。
「はい……すみません」
鈴は泣きながら笑った。
そんな会話をしていると、長屋の戸を叩く音が聞こえた。
良庵は鈴の頬と口元を布で覆うと立ち上がり、戸口に向かう。
「信か?」
「ああ。連れてきた」
良庵が戸を開ける。
信に続いて、将高と叡正が長屋に入った。
横になっている鈴の両側に将高と叡正がゆっくりと近づく。
鈴は順番に二人に目を向けた。
「将高……お兄様……」
鈴は七年ぶりに見る兄をまじまじと見つめた。
七年前よりもずっと凛々しく美しくなったその姿を見ながら、鈴は涙とともになぜか笑いがこみ上げてくるのを感じた。
「ふ……ふふ……」
小刻みに震え始めた鈴を見て叡正が慌てて声をかける。
「だ、大丈夫か!?」
「ふふ……大丈夫…なわけ……ないでしょう」
鈴はついに声を出して笑い始めた。
将高と叡正はあっけにとられた表情で鈴を見る。
「死ぬ寸前……なんだから……」
鈴は少し咳き込みながら、それでもまだ笑っていた。
「なんで……そんなカッコいいの……。ちょっとでも……綺麗に見せようとした……私が…馬鹿みたいでしょ……。……でも、…元気そうで、安心した」
鈴はそう言うと呼吸を落ち着けるために息を吐いた。
鈴はまず将高の方に顔を向ける。
よほど思い詰めていたのか、将高の顔色はとても悪かった。
「将高……ごめんなさい……。一緒に死のうって……言ってくれて嬉しかった……。でも、わがまま言っても……いい?」
将高は鈴の手を握り頷いた。
「お願い、死なないで……。私のことを……ときどきでいいから……思い出しながら生きて。……そっちの方が……嬉しいの……」
将高の瞳から涙がこぼれる。
「ああ……一生、鈴だけを想って生きる」
「ふふ……それじゃあ、重すぎて成仏できない……から…やめて」
鈴の笑顔を見て、将高も泣きながら少しだけ微笑んだ。
鈴はゆっくりと叡正の方に顔を向ける。
「お兄様……、私…今……こんなふうだけど、……悪くなかったよ……。将高にも会えたし……同じ見世で美津って……友達もできたの……。この人生じゃなきゃ……会えなかったから……。悪くなかった。だから……お兄様も……ちゃんと…生きて。悔いが残らない…ように……私の分も……笑って生きて」
鈴はそう言うと叡正に手を伸ばした。
「抱きしめて…くれる……?お兄様……」
叡正は鈴の体を起こしていいか確認するように良庵を見る。
良庵は静かに頷いた。
叡正は慎重に鈴の頭と肩を支えながらゆっくりと上半身を起こすと、壊れものに触るようにそっと抱きしめた。
「将高……、手……つないでくれる……?」
叡正に抱きしめられたまま、鈴は将高に手を伸ばした。
「……ああ」
将高が鈴の手を握る。
鈴は夢を見始めていた。
『必ず鈴を自由にするから。もう少し待っていてほしい』
とても温かい手が鈴の手を包んだ。
少年らしいあどけない顔を少し赤らめている将高の横顔が見える。
(懐かしい夢……)
『どのようにでも生きていけるなら、私は鈴と生きていきたい!』
(ああ……夢なのに涙が出そう)
気がつくと、幼い鈴は兄に抱きしめられている。
兄の後ろには燃え上がる屋敷がある。
『大丈夫だ…おまえは絶対俺が守るから! 絶対に…守るから!』
(お兄様……)
すべてが燃えていた。
幼い鈴はそっと兄の背中に手を回す。
『お兄様は……私が守るからね』
幼い鈴の小さな呟きは兄の耳には届いていないようだった。
『鈴!』
(あれ、お兄様の声が聞こえる)
『ほら、帰るぞ!』
鈴のそばには、いつのまにか父と母がいた。
二人の後ろには桜が美しく舞っている。
兄がひとり屋敷に向かって走り出す。
『待って!』
幼い鈴は駆け出して、兄に抱きついた。
屋敷には微笑み合う将高や美津の姿もあった。
「ふふ……あったか…い……」
そう呟くと、鈴の体から力が抜けた。
叡正はずっしりとした重みに、腕の中から命がこぼれ落ちたのを感じた。
茫然と鈴を抱きしめ続ける叡正の耳に、将高の慟哭だけが響いていた。
信はただ静かに叡正と将高を見ていた。
二人の様子から鈴が息を引き取ったのがわかった。
『ねぇ、信……。私のことはいいから、あなただけでも逃げて』
鈴の姿に信の記憶が重なっていく。
懐かしい声とともに焦点の合わない瞳が信を見ていた。
『あなただけなら逃げられるでしょう? 私のために危ないことはもうしないで』
信を探すように伸ばされた手を信がそっと掴もうとすると、その手は指先から黒い炭になって崩れ落ちた。
「おい、信。どうした?」
良庵が怪訝な顔で信を見た。
「……なんでもない」
「……そうか? ならいいけど……。おまえも疲れてるんじゃないか?」
「大丈夫だ」
信はそう言うと戸口に向かった。
「もう行くのか?」
「ああ。俺はこれからやることがある。鈴は明日連れていくから」
信は振り返らずに言った。
「ああ、わかった」
良庵の返事を聞くと、信は静かに長屋を後にした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
咲耶は部屋で夜見世に出る準備を始めていた。
髪を結い、化粧を終えた咲耶は、帯が崩れないようにゆっくりと立ち上がる。
(無事に会えただろうか……)
咲耶が窓に近づこうとすると、襖の向こうから緑の声が響く。
「花魁、信様をお連れしました」
咲耶が返事をすると、信が部屋に入った。
信は珍しく顔色が悪そうに見えた。
緑は信を案内すると一礼して外に出ると襖を閉める。
「信、ありがとう。……間に合ったか?」
「ああ」
咲耶はそっと胸をなでおろした。
「信は大丈夫か? 少し顔色が悪いぞ」
咲耶は信に近づき、顔をのぞき込む。
「問題はない」
信は淡々と答えた。
「それならいいが……。信、本当にありがとう。かなり無理をさせてしまったから、今日はもう帰ってゆっくり休んだ方がいい」
咲耶が微笑んで言うと、信は静かに首を横に振った。
「いや、やることがある」
信は鋭い眼差しを咲耶に向ける。
「見つけた……」
咲耶は目を見開く。
「……誰だ?」
「菊乃屋の楼主」
咲耶は目を伏せた。流れてくる噂から咲耶も疑ってはいたが、ずっと確証が得られていない人物だった。
「どうしてわかったんだ?」
「美津という女が言っていた」
(ああ、美津か……)
咲耶が美津と話したときにはその話しは出ていなかった。
「今夜、動く」
咲耶は言葉が見つからず、ただ信を見つめた。
「……無理はするな」
咲耶はなんとかそれだけ口にした。
信がどのように生きてきたか少し知っているだけに、咲耶は軽々しく止めることができなかった。
「ああ。鈴は明日連れていく。どこに行けばいい?」
「あ、ああ……」
咲耶は思い出したように、部屋の隅にある棚に向かい紙を取り出した。
「ここに頼む」
信は紙を広げてしばらく見つめる。
「わかった」
信はそれだけ言うと、咲耶の部屋から去っていった。
咲耶はひとりになった部屋で息を吐く。
どうすれば信を救えるのか、咲耶はずっと考えていた。
しかし、答えはわかっている。救う方法などない。
何より信が救われることを望んでいないのだ。
咲耶はもう一度長い息を吐き、気持ちを切り替えた。
「さぁ、仕事だ」
道中のため見世の外に出ると、すでに陽は落ちて通り沿いには灯りがともっていた。
舞い散る桜が幻想的で妖しげな雰囲気を醸している。
(桜ももう終わりか……)
桜の見頃は短い。しかし、その儚い美しさが人を惹きつけるのだろう。
咲耶はいつも以上に多い観衆を意識しながら、一歩ずつ歩みを進めた。
引手茶屋の座敷に着くと、頼一が咲耶を見て優しく微笑むと軽く手をあげた。
「今日は一段と人が多かったようだな」
頼一は酒を飲みながら咲耶に言った。
咲耶は頼一の横に腰を下ろす。
「桜がもうすぐ散りますからね。夜桜の中の道中はあと数回だと思うので、見に来る方も多いのでしょうね」
咲耶は微笑んで、頼一に酌をする。
「もうそんな時期か……」
「はい」
咲耶と頼一は窓から外を見る。
灯りに照らされて、桜が白く妖しく揺らめいていた。
「頼一様」
咲耶は頼一を見て言った。
「またひとつお願いがあるのですが……」
咲耶は申し訳なさそうに頼一を見る。
頼一は苦笑した。
「私が咲耶の願いを無下に断れないとわかっているだろう」
咲耶は嬉しそうに微笑むと、頼一に少し無理なお願いをした。
「あ~あ、あいつもう死んだのか」
菊乃屋の楼主は、鈴を売った切見世からの手紙を受け取るとおかしそうに笑った。
「どいつもこいつもすぐ壊れちゃうなぁ。まぁ、またすぐ新しいのが入るからいいけど」
楼主は首を掻きながら、張見世を見る。
「今日も家族のためにしっかり働けよ」
楼主は小さく呟くと、自分の部屋に向かって歩き出した。
楼主の部屋は見世の一番奥にあるため、見世の賑わいとは対照的に、奥へと続く廊下は薄暗く、しんと静まり返っていた。
部屋の前にたどり着くと、楼主は背後に気配を感じて振り返る。
「気のせいか……」
廊下には誰もいなかった。
(気味が悪いな……)
楼主は再び部屋の襖に手をかける。
すると、襖に影が差した。
驚いて楼主が振り返ろうとすると、突然首が締まり体が浮く。
(な、……なんだ!?)
楼主が慌てて首を絞めている何かを振り解こうとしたとき、首が一層強く締まり楼主の意識はそこで途切れた。
楼主は波に揺られているような奇妙な感覚に目を覚ました。
喉には何か砂のようなものが詰まっている。
楼主は砂のようなものを唾でゆっくりと飲み込んだ。
慎重に横に手をついて体を起こすと、その瞬間に楼主の体が揺らぐ。
楼主は辺りを見回した。
(ここは舟の上なのか!?)
楼主の前には笠を被った男が立っており、竿で小舟の舵をとっていた。
突然の光景に、楼主はふと自分は死んだのではないかと思った。
(ここは三途の川か……?)
楼主は川のように波打っている水面を見た。
暗いせいか水面はどす黒く沼のように見える。
楼主はもう一度辺りを見回した。
(いや、ここは……)
「お歯黒どぶか……?」
楼主が小さく呟いた。
笠を被った男がゆっくりと振り返る。
「ああ」
笠の影になり、男の表情はまったく見えなかった。
「おまえが女を捨てていたお歯黒どぶだ」
「な!?」
(なぜ知っている……)
楼主は混乱しながら、男の目的を考えていた。
「俺をどうする気なんだ……?」
男は何も言わずにまた前を向いた。
(今、この男さえ突き落としてしまえば!)
楼主は男の背中を見ながら、静かに立ち上がった。
そのとき足元が揺らぎ、男は舟に倒れこむ。
波によろけたのかと思ったが、男の視界がぐにゃりと歪んでいた。
「なんだ……これは……」
男は楼主が倒れたのに気づき、振り返った。
「ああ、薬だ」
男は懐から楼主にも見覚えのある薬包紙を取り出す。
「まだあんなにあったんだな。棚にあったものはこのひとつ以外、すべておまえに飲ませておいた」
楼主の顔がみるみる青ざめていく。
(残りを全部だと……)
阿片を一度に大量に摂取すれば死ぬことは、楼主も十分に理解していた。
(早く水で胃を洗わないと!)
楼主は小舟から身を乗り出して水面を見る。
楼主の目にはお歯黒どぶが澄んだ川に見え始めていた。
お歯黒どぶに顔をつけて楼主はどぶ水を飲む。
しかし、ひどい悪臭にすぐにむせて吐いた。
「な……んで……、こんなに綺麗なのに……」
楼主はどぶの水をすくいあげて眺める。
男は静かに楼主を見ていた。
楼主が視線を感じて男の方を見ると、いつのまにか隣に遊女らしき女がいるのに気がついた。
「おまえ……誰だ? いつからそこにいる……?」
遊女は音もなく楼主に近づくと、楼主の首を絞める。
そのまま遊女は楼主に馬乗りになった。
遊女の重みで肺も潰され息ができなかった。
(苦しい……)
気がつくと十人以上の遊女が楼主を見下ろしていた。
「た、た…すけ……て……!」
楼主は狂ったように叫ぶと、遊女を振り払いどぶに飛び込んだ。
着物が泥水を吸って重くなり、楼主が顔を出そうともがくたび、引っ張られるように沈む。
楼主が手をばたつかせると、ふと白い手が目に入った。
たくさんの遊女の手が楼主の腕や着物の袖をつかみ、泥水の中に引きずり込もうとしている。
楼主が叫ぼうと口を開くと、大量の泥水が口に入った。
「ごぼっ、た……すけ……」
男は静かにお歯黒どぶに沈む楼主を見下ろしていた。
「ほら、おまえのよく言う『家族』が呼んでるぞ」
男がうっすらと微笑みを浮かべる。
雲の切れ間からのぞく月明かりに照らされて、男の薄茶色の瞳が妖しく光っていた。
楼主は目を見開くと、そのまま何かに引き込まれるように深く沈んでいった。
翌朝、お歯黒どぶに浮かぶ菊乃屋の楼主の遺体が発見された。
どぶの中でひどくもがいたせいか、楼主の腕や足には黒く長い髪が大量に巻きついていた。