(あ……!)
男の手から筆が滑り落ち、床に転がった。
小屋の中に乾いた音が響く。
男は筆を拾おうと身を屈めたが、手が震えて筆をうまく掴むことはできなかった。
(もう……ダメなのか……)
男は震えが止まったあの日から、仕事の前には酒を飲むようになった。
最初の頃は酒を飲んだ後はしばらく筆が握れていたが、数日経つとしだいに筆を握れる時間は短くなり、やがて効果はなくなった。
男は震えを止めるため飲む量を日に日に増やしたが効果はなく、それどころか最近では足にも力が入りづらくなってきていた。
(これだけ飲んでもダメってことは、もう本当に無理なのか……)
男は髪を掻きむしった。
どれだけ力を込めても手の震えは治まらない。
「これは一体、何の病なんだ……」
男はひとり呟いた。
そして、ふと死んだ妻のことを思い出した。
「あいつも……足に力が入らないと言っていたな……」
女は最終的に全身に力が入らなくなり、長屋で静かに亡くなった。
「俺も……同じなのか……?」
女は江戸の流行り病だと医者に言われていた。
軽い症状ならば治ることはあるが、治す方法自体は見つかっていない病。
男は苦笑した。
「それなら……俺ももう長くはもたないな……」
女は歩けなくなってから亡くなるまでにそれほど時間はかからなかった。
男は頭を抱えてうずくまった。
「すまない……。俺が江戸に行こうなんて言わなければ……!」
男は力の入らない拳を床に叩きつけた。
女が死んでから、もう何度考えたかわからなかった。
(江戸に来なければ……。今頃みんなで幸せに暮らせていたかもしれないのに……)
「せめても償いは……弥吉を守ることだと思っていたのに……。それもできずに……何もできずに俺は死ぬのか……」
男の目に涙が溢れ出した。
「弥吉もまだ幼いのに……どうすれば……」
そのとき、小屋の戸を叩く音がした。
「父ちゃん! そろそろ帰ろうよ!」
弥吉の声が響くと同時に、戸が音を立てて開いた。
「ああ、そうだな……。そろそろ帰るか……」
男は弥吉に背を向けて、慌てて目尻の涙を拭った。
「なぁ、大丈夫か……? 父ちゃん、最近小屋にこもってばっかりだし、隆宗も奉公人の人たちも心配してるぞ……。なんか様子もおかしいし……」
弥吉はそう言いながら、男に近づいた。
「そ、そんなことないさ……」
男は足に力を入れてゆっくりと立ち上がった。
「そんなことないって言ってもさ……」
弥吉は男の背中に声を掛ける。
そのとき、嫌な考えが頭をよぎった。
(弥吉は大丈夫なのか……? 流行り病ならうつるんじゃないのか……?)
男の胸に黒い不安が一気に広がっていく。
(今のところ元気だが、このまま一緒にいたら弥吉も……)
男は額に手を当てて背中を丸めた。
眩暈がした。
(このままでは弥吉も……!)
「ねぇ、父ちゃんって……」
弥吉はそう言うと、男の腕に触れた。
(ダメだ……!)
「触るな!!」
男は振り返ると、弥吉が触れていた腕を振り払った。
声に驚いたこともあり、弥吉は弾かれたように後ろに倒れると尻餅をついた。
その拍子に弥吉が棚にぶつかり、置いてあった器が床に落ちて割れる。
弥吉は目を見開いて男を見上げていた。
「あ、だ……」
男は思わず弥吉に駆け寄りそうになったが、グッと堪えて目を伏せた。
(ダメだ……。近づいては……)
弥吉はしばらく呆然としていたが、やがて引きつった笑いを浮かべた。
「あ、ごめんごめん……。と、父ちゃん、集中してたんだよな……。俺、空気読めてなくて……。はは……、で、でも帰る時間だからさ……。一緒に帰ろうよ、父ちゃん」
弥吉はそう言うと、床に手をついて立ち上がった。
男を気遣う弥吉の言葉に胸が詰まり、男は慌てて弥吉に背中を向ける。
「帰らない……」
男は絞り出すように言った。
「え……、なんで……?」
「焼き物に集中したいんだよ! わからないのか!? おまえの面倒なんかみている時間はないんだよ!!」
男は胸の痛みを抑えながら言った。
弥吉は言葉に詰まっているようだった。
「おまえがいると邪魔なんだ! 帰るならひとりで帰れ! ここにも、もう二度と来るな!」
「……何言ってるんだよ……、父ちゃ……」
「さっさと出ていけ! 邪魔だ!!」
弥吉が近づこうとしているのを感じ、男は叫ぶように言った。
「あ……」
弥吉のかすれた声がかすかに聞こえた。
「……わ、わかった……。とりあえず、今日はひとりで帰るよ……。集中したいんだよな……。で、でも無理はするなよ……」
弥吉がゆっくりと遠ざかっていくのがわかった。
小屋の戸が静かに閉まると、男は後ろを振り返った。
弥吉がいた場所には、割れた器だけが残されていた。
男は震える手で、器の欠片をそっと拾う。
欠片の中には血がついているものもあった。
(欠片で……切ったのか……)
欠片の上に、ポツポツと雫が落ちる。
「すまない……。すまない……弥吉……」
胸が潰れそうだった。
男は、目からこぼれる涙を止めることができなかった。
男の手から筆が滑り落ち、床に転がった。
小屋の中に乾いた音が響く。
男は筆を拾おうと身を屈めたが、手が震えて筆をうまく掴むことはできなかった。
(もう……ダメなのか……)
男は震えが止まったあの日から、仕事の前には酒を飲むようになった。
最初の頃は酒を飲んだ後はしばらく筆が握れていたが、数日経つとしだいに筆を握れる時間は短くなり、やがて効果はなくなった。
男は震えを止めるため飲む量を日に日に増やしたが効果はなく、それどころか最近では足にも力が入りづらくなってきていた。
(これだけ飲んでもダメってことは、もう本当に無理なのか……)
男は髪を掻きむしった。
どれだけ力を込めても手の震えは治まらない。
「これは一体、何の病なんだ……」
男はひとり呟いた。
そして、ふと死んだ妻のことを思い出した。
「あいつも……足に力が入らないと言っていたな……」
女は最終的に全身に力が入らなくなり、長屋で静かに亡くなった。
「俺も……同じなのか……?」
女は江戸の流行り病だと医者に言われていた。
軽い症状ならば治ることはあるが、治す方法自体は見つかっていない病。
男は苦笑した。
「それなら……俺ももう長くはもたないな……」
女は歩けなくなってから亡くなるまでにそれほど時間はかからなかった。
男は頭を抱えてうずくまった。
「すまない……。俺が江戸に行こうなんて言わなければ……!」
男は力の入らない拳を床に叩きつけた。
女が死んでから、もう何度考えたかわからなかった。
(江戸に来なければ……。今頃みんなで幸せに暮らせていたかもしれないのに……)
「せめても償いは……弥吉を守ることだと思っていたのに……。それもできずに……何もできずに俺は死ぬのか……」
男の目に涙が溢れ出した。
「弥吉もまだ幼いのに……どうすれば……」
そのとき、小屋の戸を叩く音がした。
「父ちゃん! そろそろ帰ろうよ!」
弥吉の声が響くと同時に、戸が音を立てて開いた。
「ああ、そうだな……。そろそろ帰るか……」
男は弥吉に背を向けて、慌てて目尻の涙を拭った。
「なぁ、大丈夫か……? 父ちゃん、最近小屋にこもってばっかりだし、隆宗も奉公人の人たちも心配してるぞ……。なんか様子もおかしいし……」
弥吉はそう言いながら、男に近づいた。
「そ、そんなことないさ……」
男は足に力を入れてゆっくりと立ち上がった。
「そんなことないって言ってもさ……」
弥吉は男の背中に声を掛ける。
そのとき、嫌な考えが頭をよぎった。
(弥吉は大丈夫なのか……? 流行り病ならうつるんじゃないのか……?)
男の胸に黒い不安が一気に広がっていく。
(今のところ元気だが、このまま一緒にいたら弥吉も……)
男は額に手を当てて背中を丸めた。
眩暈がした。
(このままでは弥吉も……!)
「ねぇ、父ちゃんって……」
弥吉はそう言うと、男の腕に触れた。
(ダメだ……!)
「触るな!!」
男は振り返ると、弥吉が触れていた腕を振り払った。
声に驚いたこともあり、弥吉は弾かれたように後ろに倒れると尻餅をついた。
その拍子に弥吉が棚にぶつかり、置いてあった器が床に落ちて割れる。
弥吉は目を見開いて男を見上げていた。
「あ、だ……」
男は思わず弥吉に駆け寄りそうになったが、グッと堪えて目を伏せた。
(ダメだ……。近づいては……)
弥吉はしばらく呆然としていたが、やがて引きつった笑いを浮かべた。
「あ、ごめんごめん……。と、父ちゃん、集中してたんだよな……。俺、空気読めてなくて……。はは……、で、でも帰る時間だからさ……。一緒に帰ろうよ、父ちゃん」
弥吉はそう言うと、床に手をついて立ち上がった。
男を気遣う弥吉の言葉に胸が詰まり、男は慌てて弥吉に背中を向ける。
「帰らない……」
男は絞り出すように言った。
「え……、なんで……?」
「焼き物に集中したいんだよ! わからないのか!? おまえの面倒なんかみている時間はないんだよ!!」
男は胸の痛みを抑えながら言った。
弥吉は言葉に詰まっているようだった。
「おまえがいると邪魔なんだ! 帰るならひとりで帰れ! ここにも、もう二度と来るな!」
「……何言ってるんだよ……、父ちゃ……」
「さっさと出ていけ! 邪魔だ!!」
弥吉が近づこうとしているのを感じ、男は叫ぶように言った。
「あ……」
弥吉のかすれた声がかすかに聞こえた。
「……わ、わかった……。とりあえず、今日はひとりで帰るよ……。集中したいんだよな……。で、でも無理はするなよ……」
弥吉がゆっくりと遠ざかっていくのがわかった。
小屋の戸が静かに閉まると、男は後ろを振り返った。
弥吉がいた場所には、割れた器だけが残されていた。
男は震える手で、器の欠片をそっと拾う。
欠片の中には血がついているものもあった。
(欠片で……切ったのか……)
欠片の上に、ポツポツと雫が落ちる。
「すまない……。すまない……弥吉……」
胸が潰れそうだった。
男は、目からこぼれる涙を止めることができなかった。