【コミカライズ】鏡花の桜~花の詩~

 闇の中で、人が近づいてくる気配がした。
(ああ、ついに私は死ぬのか……)
 縛られた手も足もまったく動かすことはできなかった。

「わからないとでも思ったのか?」
 暗闇の中に、ぼんやりと男の姿が浮かび上がる。
 その声は低く落ち着いていたが、抑えきれない怒りがかすかに感じられた。
「おまえのせいですべてが台無しだ」

 男が目の前でしゃがんだ。
「どうしてあんなことをした? それに、おまえひとりでできることではないだろう? 協力者は誰だ?」

(おまえに言うわけがないだろう。私を守ろうとしてくれたあの人を売るようなこと……)

 男は、相手が何も答えるつもりがないことを悟ったのか、ゆっくりと立ち上がった。

「残念だよ。最期に何か言い残すことは?」

 闇の中で金属のこすれる音が響く。
 月明かりに照らされて、男が振り上げた刀の先が妖しく光った。

(ここまでか……)
 ゆっくりと目を閉じ、男に聞こえるようにはっきりと口を動かす。
「地獄に、落ちろ」

 男はフッと笑った。
「地獄に落ちるのは、おまえだろ?」

 刀は光を纏いながら、勢いよく振り下ろされた。

(どうか、あなたは幸せに……)
 閉じたまぶたの裏に浮かんだのは、懐かしい幸せな思い出だけだった。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇




「あれ、いつ戻ってきたんだ?」
 翌朝、目を覚ました叡正は、座敷の隅で座ったまま休んでいる信を見て目を丸くした。
「おまえ、まさか寝てないのか……?」

 信はゆっくりと叡正に視線を向ける。
「いや、寝ていた」
「寝ていたって……まさかずっとその姿勢で……?」
 叡正は恐る恐る聞いた。
 信が静かに頷く。

「……おまえは戦国時代の武将か何かなのか……? 襲われることなんてないんだから、普通に寝てくれ……」
 叡正はため息をつくと立ち上がり、使っていた布団を畳んだ。
「それで弥吉はいたのか?」

「ああ」
 信は短く答えた。
 叡正は目を丸くして信を見る。
「戻らないっていうのは嘘だったのか……。それで、話しはできたのか?」

「ああ、朝になったらこの部屋に来ると言っていた」
「そうか……。じゃあ、俺たちはここで待っ……」


「だから!! 話しを聞けって言ってるだろ!?」
 叡正の言葉を遮るように、座敷の外で弥吉の声が響いた。

 叡正と信は静かに顔を見合わせる。

「ちゃんと説明しろよ!! 一体何があったんだよ!?」
 弥吉の声は二人のいる座敷のすぐそばで聞こえた。

「失礼いたします」
 弥吉とは対照的に、落ち着いた隆宗の声が響く。
 ゆっくりと襖が開き、隆宗と弥吉の姿が二人の視界に入った。
「弥吉を連れてまいりました」
 隆宗は落ち着いた声で言った。

 叡正は目を見開く。
 隆宗は声こそ落ち着いていたが、顔は土気色をしており、昨日会ったときとは別人のように生気がなかった。

「あの……、どうかされたのですか……?」
 叡正がおずおずと聞いた。
「いえ、どうも……しておりません」
 隆宗は引きつった顔でそう言うと、静かに目を伏せた。

「だから!! そう見えないから聞いてるんだろ!?」
 弥吉は隆宗の肩を掴んだ。
「一体何があったんだよ!? ちゃんと説明しろよ! なんで何も言わないんだよ!?」

 叡正は隆宗の首筋に目を留めた。
 隆宗の首に何か黒いものが点々と付いていた。
 それは乾いた血のようだった。
(怪我は……してなさそうだよな……。じゃあ、あの血は……?)

 隆宗は弥吉から視線を逸らしたまま口を開いた。
「おまえには……関係ないことだ」
「関係ないって……そんな……」
 弥吉は少したじろぐ。

 隆宗は叡正に視線を移した。
「弥吉を連れ戻しに来たのですよね。よろしければ、もうこのまま連れていってください」

「おい……、何言ってんだよ……」
 弥吉は不安げな表情で隆宗を見つめる。

 隆宗は肩に置かれた弥吉の手を振り払うと、弥吉を見つめ返した。
「正直迷惑なんだよ。おまえはもうこの屋敷の人間じゃない。住み込みで仕事があるなら、さっさと出ていってくれ」
 隆宗はそれだけ言うと弥吉に背を向けた。

 弥吉は、ただ青い顔で隆宗の背中を見つめていた。

「それでは、私はこれで失礼します」
 隆宗はそれだけ言うと、座敷を後にした。


「一体、何があったんだよ……」
 弥吉の苦しげな声に、二人は何も答えることができなかった。
(一体何があったんだよ……)
 弥吉は隆宗が去っていった方を見つめながら、拳を握りしめた。


 早朝、弥吉は信と話したことを伝えるため、隆宗の部屋を訪れていた。
 そこで見たのは土気色の顔をした隆宗と、部屋の隅に脱ぎ捨てられていた血まみれの着物だった。
 問い詰めても何もない言わない隆宗に、弥吉は苛立っていた。


(何もないわけないだろ……! それに関係ないって……俺は……)
 弥吉はうつむいた。

「弥吉……大丈夫か?」
 叡正が弥吉の肩に手を置いた。
「何か……あったのか?」

 弥吉は顔を上げると、静かに叡正を見た。
(血がついた着物のことは……言わない方がいいよな……。隆宗が何をしたのかわからないけど……こんなこと、知られるわけにはいかない……)

「いや、その……朝から隆宗の様子がおかしくて……ちょっと気になっただけです……。あいつが何も言ってくれないから、少し感情的になり過ぎました……。体調が悪かっただけかもしれないのに……。後でちゃんと謝りますね」
 弥吉はそう言って、叡正に笑いかけた。
「そうか……。そう……なんだな……」
 叡正はぎこちない弥吉の笑顔に何かを感じ取ったのか、少し弥吉から目をそらした。

「あ、それで、信さんのところに戻る話なんだけど……」
 弥吉は、信に視線を移した。
「少し待ってもらえないかな……。今、この屋敷いろいろ大変みたいだから……。お世話になってきた屋敷だし、俺にできることはしたいんだ……」

(本当は少しでも早く玉屋に行って咲耶太夫に謝りたいと思ってたけど……、あんなの見たらさすがに今あいつを放ってどこかには行けない……)

「それに、この近くに住んでる俺の父親の病状が良くないんだ……。だから、すぐ様子を見に行けるように、しばらくここにいようと思って……」
 弥吉は静かに目を伏せる。

 信はじっと弥吉を見つめていた。
「病状が良くないのに、父親のところでは暮らさないのか?」
 信は弥吉を見つめたまま淡々と聞いた。

 弥吉は驚いて顔を上げる。
 信が弥吉の家族に興味を持つとは思っていなかった。
「あ、その……父親が……嫌がってるんだよ……」
 弥吉は引きつった顔で笑った。
「その、仲が悪いとかじゃなくて……ほ、ほら、ひとりの方が気楽って思う人もいるだろう……?」
 弥吉は信と目を合わせることができなかった。

「……そうか」
 信は静かに口を開いた。
「それなら、父親は先生のところに連れていこう」

「……え?」
 弥吉は信の言葉の意味がわからず、思わず声を漏らした。
「先生って医者……? いや……父親は医者が嫌いで……行かせるのは難しい……かも……」
 弥吉は目を伏せた。

「病状が良くないんだろ?」
 信は淡々と聞いた。
「良くない……良くないけど……本人が治療を望んでないんだよ……」
 弥吉はきつく目を閉じた。
 弥吉の頭の中であの日の声が響く。


『なぁ、弥吉。もう……死なせてくれよ』
 弥吉は息苦しくなり、思わず胸を押さえた。
『もう……解放……』


「おまえはそれでいいのか?」
 弥吉の頭の中の声を遮るように、信の声が響いた。
 弥吉は目を開けると、信を見た。
「…………俺?」
「おまえはそれでいいのか?」
 信はもう一度聞いた。

 弥吉は目を泳がせる。
(いいわけない……。たったひとりの親なんだから……)

「よくないなら連れていくべきだ。死んだらもう何もできない。悔いが残るだけだ」
 信は少しだけ目を伏せた。

(悔いが……)
 弥吉は拳を握りしめる。

 信は弥吉が何か言う前に襖に向かって歩き出した。
「おい、信?」
 叡正が慌てて信に声を掛けた。
 信はチラリと弥吉を振り返る。
「弥吉の親のところに行く。早い方がいい」
 信はそれだけ言うと襖を開けて、座敷から出ていった。

「ちょっと待て! そんな勝手に決めて……」
 叡正が急いで信の後を追った。

 ひとりになった座敷で弥吉は、ただ自分の足元を見つめていた。
「…………父ちゃん、俺は……」
 誰もいない座敷に弥吉の声は小さく響き、静かに消えた。
「弥一さんは最近白磁の皿ばかりお作りになっていますね? 何かこだわりがあるのですか?」
 乳母は窯の前で仕上がった皿を見ながら首を傾げた。
「……いえ、特にこだわりは……」
 男は苦笑すると、思わず目を伏せた。

 手の痺れは日を追うごとに酷くなっていた。
 男は、すでに筆を握って上手く絵を描くことができなくなっており、最近は白磁の皿しか焼けていなかった。

(まだ大丈夫だ……。まだ器が作れるうちは……)
 男は震える手で白磁の表面をそっと撫でた。
(器が作れなくなれば、この屋敷にはいられない……。まだ弥吉も小さいのに、今仕事を失うわけにはいかない……)

 無言で顔を強張らせていく男を見た乳母は、慌てて口を開いた。
「あ……その、私は……弥一さんの作る白磁、いいと思いますよ……!」
「え? ああ、すみません……。少し考え事をしていて……」
「ああ……、それならよかったです。傷つけてしまったかと思いました……。弥一さんは何でも真面目に捉えすぎるところがありますから……。もう少し肩の力を抜いてくださいね」
 乳母はそう言うと、男の肩を軽く叩いた。

「すみません……。焼き物のことを考え始めるとつい……」
 男は苦笑した。
(手の痺れのことは、誰にも知られないようにしないと……。もう少し……、弥吉がもう少し成長するまでは……)

「そうだ!」
 乳母が何か思いついたように声を上げた。
「いいものがあります! 少しこちらでお待ちください!」
 乳母はそう言うと、足早に屋敷の方に向かって歩いていった。

「いいもの……?」
 男はひとり呟くと、窯を見つめた。
(俺にはもう時間がない……。少しでも手が動くうちに、ひとつでも多く器を作って弥吉に残さないと……。たとえ俺の体が動かなくなったり、死んだりしたとしても、器を売れば少しは生活の足しになるはずだ……)

 男は皿を持つ自分の手を見つめた。
(頼む……もう少し動いてくれ……)
 男は祈るように目を閉じた。

「弥一さん!」
 駆け足で戻ってきた乳母は大きい徳利(とっくり)を抱えていた。
「これ、よかったらどうぞ」
 乳母は抱えていた徳利を男に差し出した。
 男は目を丸くする。
「えっと……これはお酒ですか?」
 男は白磁の皿を一旦地面に置くと、徳利を受け取った。

「はい。もともと旦那様への贈り物だったのですが、旦那様はお酒は召し上がらないので、好きにして良いとのことでした。よろしければ弥一さんにと思いまして」
 乳母はそう言うとにっこりと微笑んだ。
「いいんですか……? こんな高級なもの……私がいただいて……」
「弥一さんは誰よりこの屋敷に貢献していらっしゃいますから。たまにはお酒でも飲んで、肩の力を抜いてください」
 男は乳母と徳利を交互に見つめた。
(いいんだろうか……、こんな良い酒を……)

「遠慮なさらないでください」
 乳母はそう言うと、どこか悲しげに目を伏せた。
「弥一さんは本来もっと評価されるべき人なのですから」

「いえ、そんなことは……」
 男は慌てて首を振ったが、乳母の表情は晴れなかった。
「では……遠慮なくいただきます」
 男がそう言うと、乳母の顔は少しだけ明るくなった。
「はい。体を悪くしない程度に少しずつ召し上がってくださいね」
 乳母はそれだけ言うと、用事があると言って足早にまた屋敷の中に戻っていった。

「肩の力を抜いて……か……」
 男は、徳利を抱えた腕と反対の手で地面に置いた白磁を手に取ると小屋に向かって歩き出した。
(肩の力を抜いてる時間はもうないんだ……)

 男は小屋に着くと白磁と徳利を置き、後片付けを始めた。
(弥吉はまた隆宗様と遊んでるのかな……。そろそろ迎えに行かないと……)

 片付けながら、帰った後のことを考えていると、ふと徳利に目が留まった。
(これ……どこに置いておこう……。長屋に持って帰って、弥吉が興味本位で飲んでも困るしな……)
 男はしばらく思案していたが、やがて小さくため息をついた。
(仕事終わりに少しだけここで飲んで帰るっていうのが、一番安全か……)

 男は以前作った猪口(ちょこ)を棚から取り出すと、徳利を傾けて酒を注いだ。
 江戸に来てから飲んだことはなかったが、もともと男は酒に強い方だったため、少しの酒では酔わないだろうと思った。
 猪口を傾けて酒に口をつけると、口いっぱいに甘い香りが広がった。
(ああ、やはり良い酒だな……)
 男はすばやく猪口の酒を飲み干すと、帰り支度を始めた。

(久しぶりに飲んだが、やはりこの程度では酔わないな……)
 男がそんなことを考えながら手を動かしていると、あることに気づいた。

 男は自分の両手を見つめる。
「手の震えが……止まっている……?」
 手の痺れはそのままだったが、それでもずっと続いていたかすかな手の震えが止まっていた。

「酒の……おかげなのか……」
 男は震える唇で呟いた。
「これなら……なんとか絵付けもできるかもしれない……!」
 男はかすかな希望を見つけた気がした。

 帰り支度をするのも忘れ、男は筆を手に取ると焼き物に向き合った。
 その日を境に、男は小屋にこもることが増えていった。
(あ……!)
 男の手から筆が滑り落ち、床に転がった。
 小屋の中に乾いた音が響く。
 男は筆を拾おうと身を屈めたが、手が震えて筆をうまく掴むことはできなかった。
(もう……ダメなのか……)

 男は震えが止まったあの日から、仕事の前には酒を飲むようになった。
 最初の頃は酒を飲んだ後はしばらく筆が握れていたが、数日経つとしだいに筆を握れる時間は短くなり、やがて効果はなくなった。
 男は震えを止めるため飲む量を日に日に増やしたが効果はなく、それどころか最近では足にも力が入りづらくなってきていた。

(これだけ飲んでもダメってことは、もう本当に無理なのか……)
 男は髪を掻きむしった。
 どれだけ力を込めても手の震えは治まらない。

「これは一体、何の病なんだ……」
 男はひとり呟いた。
 そして、ふと死んだ妻のことを思い出した。
「あいつも……足に力が入らないと言っていたな……」
 女は最終的に全身に力が入らなくなり、長屋で静かに亡くなった。
「俺も……同じなのか……?」

 女は江戸の流行り病だと医者に言われていた。
 軽い症状ならば治ることはあるが、治す方法自体は見つかっていない病。
 男は苦笑した。
「それなら……俺ももう長くはもたないな……」

 女は歩けなくなってから亡くなるまでにそれほど時間はかからなかった。

 男は頭を抱えてうずくまった。
「すまない……。俺が江戸に行こうなんて言わなければ……!」
 男は力の入らない拳を床に叩きつけた。
 女が死んでから、もう何度考えたかわからなかった。
(江戸に来なければ……。今頃みんなで幸せに暮らせていたかもしれないのに……)
「せめても償いは……弥吉を守ることだと思っていたのに……。それもできずに……何もできずに俺は死ぬのか……」
 男の目に涙が溢れ出した。

「弥吉もまだ幼いのに……どうすれば……」

 そのとき、小屋の戸を叩く音がした。
「父ちゃん! そろそろ帰ろうよ!」
 弥吉の声が響くと同時に、戸が音を立てて開いた。

「ああ、そうだな……。そろそろ帰るか……」
 男は弥吉に背を向けて、慌てて目尻の涙を拭った。

「なぁ、大丈夫か……? 父ちゃん、最近小屋にこもってばっかりだし、隆宗も奉公人の人たちも心配してるぞ……。なんか様子もおかしいし……」
 弥吉はそう言いながら、男に近づいた。
「そ、そんなことないさ……」
 男は足に力を入れてゆっくりと立ち上がった。

「そんなことないって言ってもさ……」
 弥吉は男の背中に声を掛ける。

 そのとき、嫌な考えが頭をよぎった。
(弥吉は大丈夫なのか……? 流行り病ならうつるんじゃないのか……?)
 男の胸に黒い不安が一気に広がっていく。
(今のところ元気だが、このまま一緒にいたら弥吉も……)
 男は額に手を当てて背中を丸めた。
 眩暈がした。
(このままでは弥吉も……!)

「ねぇ、父ちゃんって……」
 弥吉はそう言うと、男の腕に触れた。

(ダメだ……!)

「触るな!!」
 男は振り返ると、弥吉が触れていた腕を振り払った。
 声に驚いたこともあり、弥吉は弾かれたように後ろに倒れると尻餅をついた。
 その拍子に弥吉が棚にぶつかり、置いてあった器が床に落ちて割れる。

 弥吉は目を見開いて男を見上げていた。

「あ、だ……」
 男は思わず弥吉に駆け寄りそうになったが、グッと堪えて目を伏せた。
(ダメだ……。近づいては……)

 弥吉はしばらく呆然としていたが、やがて引きつった笑いを浮かべた。
「あ、ごめんごめん……。と、父ちゃん、集中してたんだよな……。俺、空気読めてなくて……。はは……、で、でも帰る時間だからさ……。一緒に帰ろうよ、父ちゃん」
 弥吉はそう言うと、床に手をついて立ち上がった。

 男を気遣う弥吉の言葉に胸が詰まり、男は慌てて弥吉に背中を向ける。
「帰らない……」
 男は絞り出すように言った。

「え……、なんで……?」
「焼き物に集中したいんだよ! わからないのか!? おまえの面倒なんかみている時間はないんだよ!!」
 男は胸の痛みを抑えながら言った。

 弥吉は言葉に詰まっているようだった。

「おまえがいると邪魔なんだ! 帰るならひとりで帰れ! ここにも、もう二度と来るな!」
「……何言ってるんだよ……、父ちゃ……」
「さっさと出ていけ! 邪魔だ!!」
 弥吉が近づこうとしているのを感じ、男は叫ぶように言った。

「あ……」
 弥吉のかすれた声がかすかに聞こえた。
「……わ、わかった……。とりあえず、今日はひとりで帰るよ……。集中したいんだよな……。で、でも無理はするなよ……」
 弥吉がゆっくりと遠ざかっていくのがわかった。

 小屋の戸が静かに閉まると、男は後ろを振り返った。
 弥吉がいた場所には、割れた器だけが残されていた。
 男は震える手で、器の欠片をそっと拾う。
 欠片の中には血がついているものもあった。
(欠片で……切ったのか……)

 欠片の上に、ポツポツと雫が落ちる。
「すまない……。すまない……弥吉……」
 胸が潰れそうだった。
 男は、目からこぼれる涙を止めることができなかった。
 隆宗は男の仕事場である小屋の前で足を止めた。
(弥一さんは一体どうしたんだ……)
 男はここ数日小屋に籠もり、焼き物を作り続けていた。
(弥吉は弥吉で、弥一さんに嫌われたと落ち込んでいるし……。本当に何があったんだろう……)

 隆宗は意を決して小屋の戸を叩く。
「弥一さん、隆宗です。少しお話しできますか?」
 隆宗はそう言うと男の返事を待った。

「……あ、はい。大丈夫です……」
 中から男のかすれた声が聞こえた。
「ありがとうございます。では、入りますね」
 隆宗が戸に手を掛けた瞬間、中からガタガタという音が聞こえた。
「開けないでください!! そのままで!」
 男の慌てたような声が響く。

 隆宗は驚いて一歩後ずさった。
 こんなに切羽詰まった男の声を聞くのは初めてだった。
「え……、あの……どうしたんですか?」

 しばらく待ったが、男は何も答えなかった。

「あの……弥吉も心配しています……。こんなに小屋に籠もって焼き物を作るなんて……。何かあったのですか?」
 男の様子に、隆宗の不安は大きくなっていた。
「弥一さん……?」

「……これから話すこと……」
 中から、かすれた男の声が聞こえた。
「弥吉には黙っていてもらえませんか……?」

「……弥吉に……? なぜ……ですか?」
 男の緊張が伝わってくるようで、隆宗も少し言葉に詰まった。

「私は……少し前から病気を患っていて……もうそれほど長くは生きられないと思います」
「え……?」
 隆宗は目を見開いた。
「そんな……医者には診てもらったのですか!? 治るかもしれないのですから……急いで医者を呼びましょう……!」
 隆宗は思わず声を大きくした。

「……いいえ、医者は呼ばないでください……。私の病は、亡くなった妻と症状がよく似ているのです……。妻は治す方法のない病でした。診せても無駄です……」
 男は静かに言った。
「そんな! 医術は進歩しています! 今なら治るかもしれません! まずは診ていただきましょう!」
「……ここまで悪くなっていては、きっと治すのは難しいと思います」
 男は隆宗をなだめるように、穏やかな声で言った。
「それに……これは手や足が麻痺する病です。この病が旦那様に知られれば、私はすぐに職を失います。今の長屋で暮らすこともおそらくできなくなるでしょう……」

「そんな……」
 隆宗は言葉を失った。
「……わ、私が父上を説得しますから……」

 男が小さく笑ったのがわかった。
「ありがとうございます。しかし、おそらく難しいでしょう。焼き物を作らせるために雇っているのですから、焼き物が作れなくなれば職を失うのは当然のことです」
「しかし……!」
「いいのです。同情でここに置いていただくわけにはいきません。ただ……もう少し……」
 男は絞り出すように言った。
「もう少しだけ、ここで器を作らせてほしいのです……。もう絵付けはできませんが、まだ無地の皿や器は作ることはできます……。屋敷から私に払われるお金と、少しでも価値のある器を残していきたいのです……。私がいなくなった後でも、弥吉が器を売って生きていけるように……」

 隆宗は何も言うことができなかった。

「無地の器も作れなくなったときには、旦那様に正直に打ち明けてここを去ります。ですから、もう少しだけ私に時間をください……」

「弥吉に……病のことを話さないおつもりですか……?」
 隆宗はなんとかそれだけ口にした。

「……これはおそらくこれはうつる病です」
 男は悲しげにそう言った。

「弥吉が小屋に近づかなければいいのですよね……? 病のことは……弥吉にも話した方がいいのではないですか……?」
 隆宗の言葉に、男はフッと笑った。
「弥吉に言えば……病がうつってもいいからそばにいると言うでしょう。親バカと思われるでしょうが、なんだかんだ言っても優しい子なんです……。私を休ませるために、今すぐ自分が働くと言い出しかねません。私が弥吉の負担になる前に、弥吉には私のことを捨ててほしいのです」

「そんな……捨てるだなんて……」
 隆宗は目を伏せた。
(弥一さんが何をしても、きっと弥吉が弥一さんを見捨てることはありませんよ……。ただ二人共苦しむだけです……)
 隆宗は唇を噛んだ。

「弥吉には幸せになってもらいたいのです。弥吉のお荷物になるくらいなら、すぐに死んだ方がいくらかマシです……」
 男は苦しげに呟いた。
「そんなこと……言わないでください……」
 隆宗は男に何を言えばいいのかわからなかった。
 そうすることで弥吉が幸せになれるとは思えなかったが、男の意思が固いことは隆宗にもわかった。

「……わかりました。この話は弥吉にも、父上にもしません」
 隆宗は小さく息を吐いた。
「隆宗様……、ありがとうございます……!」
 男はホッとしたような声で言った。

「まだ、何をすべきなのか、私に何ができるのかわかりませんが……」
 隆宗はそこまで言うと言葉を切った。
「弥一さんと弥吉は、私が守ります。弥一さんも弥吉も、決してひとりにはしません」

 小屋の中で男が息を飲むのがわかった。
「そ、そんな……隆宗様にご迷惑をお掛けするわけには……」

「……家族なのでしょう?」
 隆宗は小屋の戸にそっと触れた。
「私のことを、家族だと……言ってくれたではないですか。だから甘えてくださいと、私に言ったのは弥一さんでしょう? 弥一さんや弥吉は私にとって家族です。こんなときくらい頼ってください」
 隆宗はできる限り明るい声で言った。

 この状況をどうすればいいかわからなかった。
 けれど、自分がどうにかすべきだと隆宗は思った。

 小屋の中で男が鼻をすする音が響く。
「……ありがとう……ございます……」

(泣いているのだろうか……?)
 隆宗は目を伏せた。
(母上を亡くして泣いたとき、弥一さんは抱きしめてくれたのに……、俺は何もできないのか……)
 隆宗は拳を握りしめた。
 二人のために、何もできないことが歯がゆかった。
(どうすればいいんだ……。俺に……できることはあるのか……?)

 隆宗は天を仰いだ。
 いくら考えてもその答えは見つからなかった。
「あ、いいところにいた! 弥吉!」
 信を追って廊下に出た弥吉は、奉公人の男に呼び止められ振り返った。
 奉公人の男は、風呂敷に包んだものを大切そうに持っていた。

「何か用事ですか? 俺、これからちょっと外に出ないといけなくて……」
 弥吉は少し目を伏せた。
「ああ、急ぎじゃないらしいんだが、隆宗様がおまえに渡せってさ」
 男はそう言うと、風呂敷包みを弥吉に差し出した。
「隆宗が……?」
 弥吉は包みを受け取ると、そっと風呂敷を広げる。
 風呂敷には、割れた皿が包まれていた。
「これは……」
 割れてはいたが、弥吉はこの皿に見覚えがあった。
 隆宗が生まれて三年経ったことを祝い、弥吉の父が贈った十枚の皿の一枚だった。
「南天の皿……」
 贈った十枚の皿には、それぞれ縁起の良い柄や絵が描かれていた。
 これは、その中の南天が描かれた皿だった。

「弥一さんに直してほしいそうだ」
 男は弥吉を見て言った。
「直す……?」
 弥吉は目を丸くした。
(父ちゃんはもう皿が直せるような状態じゃないって、隆宗も知ってるはずなのに……)

 男は悲しげに微笑んだ。
「直すのはいつでもいいそうだ。で、代金はこれでってさ……」
 男は懐から巾着を取り出し、弥吉に差し出した。

 弥吉は風呂敷包みを一旦床に置くと、巾着を受け取った。
 ずっしりした巾着の重さに弥吉は目を丸くし、慌てて巾着を開ける。
 そこには、皿を直す程度の仕事では考えられないほど高い額の金が入っていた。
「何これ……多すぎるだろ……」
 弥吉は思わず呟く。

 男は目を伏せ、静かに息を吐いた。
「隆宗様も……たぶん皿が直せないことはわかっていると思う……。弥一さんに金を渡す大義名分がいるってことさ……」
「それにしたって……」
 弥吉の巾着を持つ手がかすかに震えた。


「なぁ……、隆宗様……何かあったのかな……? 弥吉は何か知らないか?」
 男は弥吉を見つめながら言った。

「……え?」
 弥吉の脳裏に、隆宗の部屋で見た血まみれの着物が浮かび、弥吉は慌てて首を振った。
「いえ、俺は何も……」

「そうか、弥吉も知らないのか……」
 男は困ったように頭を掻いた。
「実はさ……、隆宗様から今日新しい奉公先を探すように言われたんだ……。俺だけじゃない……屋敷の奉公人みんなそう言われたんだ……」

「え……?」
 弥吉は目を見開いた。

「まぁ、あんな事件があったから奉公人は確かに減ったけど、今残ってるのは、それでもこの屋敷で隆宗様を支えていこうとしてた連中なんだ……。それなのに……」
 男は苦しげに目を伏せた。
「なぁ、隆宗様……一体どうしちまったんだ?」

 弥吉は何も答えることができなかった。
(あいつ……何考えてんだよ……)
 弥吉には何が起こっているのかまったくわからなかった。

「あ、悪い。これから出かけるんだったな。引き止めて悪かった。皿と金は一旦屋敷に置いていくか?」
 男は申し訳なさそうに言った。

「あ……、ちょうど父ちゃんのところに行くところだったから、持っていくよ……」
 弥吉は巾着を懐に仕舞うと、床に置いていた風呂敷包みを手に取った。
「それならちょうどよかった! 弥一さんの様子も……また今度教えてくれ」
 男は弥吉が頷くのを確認すると、微笑んで去っていった。


「隆宗……、一体おまえに何があったんだよ……」
 誰もいなくなった廊下で、弥吉はひとり呟く。
 胸に抱えた風呂敷包みの中で、皿の欠片がカチャリと小さな音を立てた。
 弥吉が屋敷の門を出ると、そこには信と叡正が立っていた。

「あ、弥吉……」
 弥吉が出てきたことに気づいた叡正が、弥吉のもとに駆け寄る。
「信が行くと言ってきかないんだが……大丈夫か……?」

 弥吉はまじまじと叡正を見つめた。
(心配してくれてるのか……。叡正様も俺のためにここまで来てくれたんだよな……)

「弥吉?」
 何も言わない弥吉に、叡正はもう一度声を掛けた。
「あ、いえ……! 大丈夫です! 俺も……このままでいいとは思っていなかったので……」
 弥吉は叡正を見て微笑んだ後、静かに目を伏せた。

「弥吉」
 少し離れたところで信が口を開く。
「早く行くぞ」
 信は弥吉に案内するように目で促した。

「あ、うん。わかった……。こっちだよ」
 弥吉は信に駆け寄ると、行く方向を指差した。

 弥吉を先頭に横に叡正、後ろに信という順で、三人は弥吉の父の住む長屋に向かうことになった。

「ところで、ずっと気になっていたんだが、その風呂敷包みは何だ?」
 少し歩いたところで、叡正は弥吉が抱えている風呂敷に目を留めた。

「ああ、これは割れた皿です。俺の父親に直してほしいって依頼があって……」
 弥吉は風呂敷を見つめて言った。
 叡正は目を丸くする。
「弥吉の父親は割れた皿も直せるのか……。それはすごいな……」

「あ、病気が進んで、もう今は皿を直すなんてできないんですけどね……」
 弥吉は苦笑した。
「隆宗が……俺の父親のこと気遣ってくれて……。直せないのがわかってて、父親に金を渡す口実として依頼したんだと思います……」
 弥吉はそう言うと懐から巾着を取り出し、少しだけ叡正に見せた。

 叡正は目を見張った後、そっと目を伏せた。
「そうか……。隆宗様はとてもいい方なんだな……」
「はい、いいヤツです。いいヤツ……なんですけど……最近は何を考えているのかよくわかりません」
 弥吉は風呂敷に視線を落とした。
「どうして……俺に何も言ってくれないのか……」
 風呂敷包みを持つ手に自然と力が入っていた。

 叡正は弥吉を静かに見つめると、そっと口を開く。
「何か事情があるんだよ、きっと……」
 叡正はそう言うと、弥吉の頭を優しく撫でた。
「何があったにしても、信じてくれる人がひとりでもいれば、救われることもあるだろうからさ……」
 弥吉が驚いて叡正を見ると、叡正はどこか寂しげな顔でただ前を見つめていた。
 その言葉は、叡正自身に言い聞かせているようにも聞こえた。

(叡正様も昔、何かあったのかな……)

 弥吉は少しだけ微笑むと目を伏せた。
「お坊様の有難いお言葉ですね。ありがとうございます」
 弥吉の言葉に、叡正は苦笑した。
「それは何かの嫌味か? まぁ、いいけど……」

「嫌味じゃありませんよ。叡正様はいつからそんなひねくれた捉え方をするようになったんですか?」
「いやいやいや、あんなに咲耶太夫に嫌味を言われてきたら、ひねくれもするだろう……」
 叡正は続けて何か反論しようとしたが、思い直したように慌てて首を振って静かに息を吐いた。
「まぁ、そんなことより……この皿は弥吉の父親が作ったもの何だよな。少し見てもいいか?」
 叡正は興味深そうに風呂敷包みを見た。

「大丈夫ですよ。叡正様が焼き物に興味があるなんて意外です」
 弥吉はにっこり笑うと、叡正に風呂敷包みを差し出した。
「だから、それが……。まぁ、いいや……」
 叡正は弥吉から風呂敷包みを受け取ると、片手で底を支えながら慎重に風呂敷を開いた。

「綺麗な皿だな……」
 叡正は割れた皿を見ながら呟いた。
「これは古伊万里(こいまり)か? 江戸で作れる職人なんているんだなぁ」
 叡正は感心したように言った。
 弥吉は目を丸くする。
「叡正様、本当にくわしいんですね!」
「くわしいってほどじゃないが、俺の父親も焼き物は好きだったからな……」
 叡正はどこか寂しげに目を伏せる。
「描いてあるのは南天か……。難を転じるっていう縁起物だな……。あれ……?」
 叡正は割れた皿を見つめ、首を傾げた。
「どうしたんですか?」
 弥吉も叡正の視線の先を見た。

「これって……」
 叡正は慎重に皿の欠片に触れる。
「柄……じゃないよな……?」
 弥吉も叡正が手に取った欠片を見た。
 その欠片は全体が赤黒く、赤や青が鮮やかな皿の中で、ほかの欠片とは少し色が違っていた。
「これは……血か?」
 叡正が小さく呟く。

(血……?)
 弥吉の脳裏に、隆宗の部屋で見た血まみれの着物が浮かぶ。
 弥吉の顔からサッと血の気が引いた。

「欠片を拾うときに、誰か指を切ったのかもしれないな」
 叡正はそう言うと、それほど気にする様子もなく欠片を風呂敷に戻した。

 叡正は丁寧に風呂敷を包み直すと、礼を言って弥吉に差し出した。

 弥吉は今まで抱えていた大切な焼き物が、得体の知れない何かに変わった気がして、風呂敷包みをなかなか受け取ることができなかった。
 そんな弥吉の様子を、信はただ静かに見つめていた。
「あ、ここです……」
 弥吉は目の前にある長屋を指さし、叡正を見た。
(ここまで来たけど……父ちゃんはきっと医者のところなんて行かない……)
 弥吉は静かに目を伏せる。
(今まで持ってきた薬だって、飲んでたかどうかわからないし……)

 弥吉がそんなことを考えていると、弥吉の横を誰かが通り過ぎた。
 驚いて視線を上げると、信がひとりで長屋に入っていくところだった。

「ちょっ……、信さん!」
 弥吉の声を無視して、信は長屋の中に消えていった。

 弥吉の隣にいた叡正も唖然として長屋を見つめていた。
「あいつ……、戸を叩いたり、呼びかけたりしてたか……?」
「いえ、たぶん……してないと思います……」
 弥吉は首を横に振る。
 二人は顔を見合わせた後、再び長屋に視線を戻した。

盗人(ぬすっと)か何かだと……勘違いされるんじゃないか? 弥吉も行った方が……」
 叡正はチラリと弥吉の横顔を見たが、弥吉の表情が曇っているのに気づき静かに口を閉じた。
「……俺が行っても……ダメなんですよ……」
 弥吉は悲しげに呟くと、目を伏せた。

 二人はどうすることもできず、ただ長屋を見つめていた。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 戸が開き、一瞬だけ長屋の中が明るくなった。
(誰か……来たのか……?)
 弥一は布団に寝たまま、少しだけ首を動かした。
(弥吉? いや、弥吉なら声を掛けるだろう……。じゃあ、誰だ? 盗人……?)
 弥一は苦笑した。
(可哀そうに……。この長屋にはもう盗むようなものは何もないのに……)

 足音はしなかったが、気がつくと寝ていた弥一の枕元には誰かが立っている気配があった。
「誰だ……? 何か盗みに来たんだろう? ……悪いがうちには金どころか、価値のあるものは何もない……。すまないな……」
 弥一は目を閉じると、静かにそう口にした。
 枕元にいる人物は、弥一の言葉に何も応えなかった。
(違う……のか?)

「盗人じゃないのか……? じゃあ、誰かを殺したくて来たのか……? それならちょうどよかった……。俺でよければ殺してくれ……。このままズルズル生きるより、早く死んで息子を解放してやりたいと思っていたんだ……」
 弥一はそう言うと少しだけ微笑んだ。

 かすかに空気が動く気配がした。
 次の瞬間、弥一のすぐ目の前に薄茶色の目をした男の顔があった。
 弥一は目を見開く。

「俺は、おまえを医者のところに連れて行く」
 目の前の男は淡々とした声で言った。

「い、医者……?」
 弥一は完全に混乱していた。
(見ず知らずの人間が……どうして俺を医者に連れて行くんだ……?)
「どうして……俺を……?」
 弥一は薄茶色の目をした男を見つめたが、その表情からは何の感情も読み取れなかった。

「弥吉に、後悔させないためだ」
 目の前の男は単調だが、はっきりした声で言った。

「弥吉……弥吉の知り合いなのか……?」
 弥一は目を丸くする。
(ああ……、そういうことか……)
 弥一は静かに息を吐いた。
「弥吉に頼まれたのか……? 悪いが、俺は医者に診せる気はないんだ……。俺の病気は治らない……。弥吉の金も時間もムダにするだけだ……。俺はこれ以上、弥吉に苦労を掛けたくないんだよ……。すまないが、わかってくれ……」
 弥一はそれだけ言うと、目を閉じた。

 目の前の男が、小さくため息をついたのがわかった。
「苦労より(たち)が悪いのが後悔だ……」
 目の前の男の淡々とした声が響く。
「後悔は一生纏わりついてくる苦しみだ。おまえは弥吉を一生苦しめる気なのか?」

 弥一が思わず目を開くと、自然と男の顔が視界に入った。
 目の前にある薄茶色の瞳には、かすかに悲しみの色が浮かんでいた。

「君は……何か悔いているのか……?」
 弥一は気がつくとそう口にしていた。
 薄茶色の瞳はただ真っすぐに弥一を見ていた。
「……ああ」

 弥一は、悲しみが滲むその目を見ていられず思わず視線をそらした。
「……そう……なのか」

「……弥吉に同じ思いをさせるつもりはない。おまえが嫌だと言っても、俺はおまえを連れて行く」
 目の前の男は、そう言うと何の躊躇もなく弥一を肩に担いだ。

「ちょっ……ちょっと待ってくれ!」
 突然肩に担がれた弥一は慌てて口を開いた。
「俺の病気はうつるから……君にうつるかも……! こんなに近いと……さすがに……!」
 弥一は必死で声を上げる。
 薄茶色の目の男がチラリと弥一を見た。

「俺は別にうつっても構わない。いつ死んでも……」

「……え?」
 弥一は目を見開く。

「ただ……弥吉にうつすのが怖いなら、この布を顔に巻いておけ」
 薄茶色の目の男はそれだけ言うと、部屋の隅にあった布を手に取り弥一に渡した。

「あ……ああ」
 弥一は薄茶色の目の男が、何を言っても自分を連れていく気だと悟り、何とか腕を動かし布を顔にぐるぐると巻きつけた。
「ほ、本当に……行く気なのか……?」

 薄茶色の目の男は何も言わず歩き始めた。

(観念するしかないか……。どちらにしろ動かすのがやっとのこの腕と足で抵抗はできないし……)
 弥一は静かに息を吐いた。
(医者に診せてもムダだとわかれば……弥吉ももう無理をして薬を買って来ることもないだろう……)
 弥一は目を閉じる。

 長屋の戸が開く音がした。
 外の世界の光は、目を閉じていても弥一にはひどく眩しかった。
 弥吉と叡正は、長屋から出てきた信を見て目を見開いた。
 正確には、信の肩に荷物のように担がれている弥一を見て、二人は驚いていた。
 弥一は、死んでいるのではないかと思うほどぐったりとしていた。

「と、父ちゃん!?」
「し、信……!」
 二人は、慌てて信のもとに駆け寄った。

 弥一の顔には布が巻きつけられていて、二人の目にはそれが猿ぐつわのように見えた。
 二人の顔から血の気が引いていく。
 弥一の息遣いは聞こえたため、生きていることはわかったが、弥一の目は閉じられていて、意識があるのかどうかはわからなかった。

「信……、な、何事も強引なのは……よくないぞ……」
 叡正が引きつった顔で信に言った。
「し、信さん……、父ちゃんもちょっと頑固なところはあるけど……何も気絶させなくても……」
 弥吉も動揺を隠せなかった。

 信は眉をひそめて二人を見る。
「何を言ってるんだ? 起きてるだろ?」
 信はチラリと弥一に視線を移した。

「え……、起きてるの……? てっきり父ちゃんに猿ぐつわして、殴って連れ出してきたのかと……」
 弥吉は目を丸くして、弥一を見た。
 弥一は相変わらずピクリとも動かなかった。

「もう行くぞ」
 信はそれだけ言うと、弥一を担いだまま歩き出した。

「え!? ちょっと待て! そのまま行くつもりか!?」
 叡正は慌てて信の後を追う。
「その姿勢だと、弥吉の父親が苦しいだろう……。それに……」
 叡正はそこまで言うと、何か言いにくそうに目を泳がせた。

(うん……、そうだよね……)
 弥吉には、叡正が何を伝えたいのか痛いほどわかった。
 顔に布を巻き付けた男を肩に担いで歩いている信は、完全に人攫いにしか見えなかった。

「せ、せめて荷車を……! ちょっと探して借りてくるから! 待っててくれ!」
 叡正はなんとかそれだけ口にすると、荷車を求めて駆け出した。


 弥吉は、目を閉じたままの弥一を見つめる。
(久しぶりに明るいところで見たけど、こんなに顔色が悪いなんて……)
 弥一の土気色の顔、パサついた髪や肌、やせ細った手足に、弥吉は思わず目をそらした。
(どんなに嫌がられても、もっとちゃんとそばにいればよかった……)
 弥吉は拳を握りしめた。


 そのとき、ガラガラと車輪の回る音がした。
「お~い、借りてきたぞ」
 弥吉が振り返ると、叡正が荷車を引いて戻ってくるところだった。

「ほら、信。ここに寝かせてくれ」
 叡正が荷台を指さして信に言った。

 信は言われた通りに、弥一を肩から降ろすとゆっくり荷台に横たえる。
 荷台に降ろされたときも、弥一は目を閉じたまままったく動かなかった。

「そういえば、猿ぐつわじゃないなら、この巻いている布は何なんだ? 息苦しそうだからとってもいいか?」
 叡正は弥一を見ながら心配そうに聞いた。
「いや、うつる病気だからこうしていたいそうだ」
 信はそれだけ言うと、荷車の前方に移動して荷車を引いて歩き出した。

「あ、おい……」
 叡正と弥吉は慌てて荷車の後を追う。


 しばらく荷車の後ろを歩いていた二人だったが、やがて静かに顔を見合わせた。
「なぁ……、これはこれで……」
 叡正が引きつった顔で弥吉に言った。
「そ、そうですね……」
 弥吉の顔も自然と引きつっていた。

 先ほどから通り過ぎる人々が、皆一様に驚愕の表情でこちらを見ていた。
 皆、ピクリとも動かない弥一を見て目を見開き、訝しむように叡正と弥吉を見て、去っていく。
 荷台に横たえられた弥一は、事情を知らない人の目には死体にしか見えなかった。

「このままだと医者のところに着く前に、俺たち捕まるんじゃないか……?」
 叡正は遠い目で呟くように言った。
「可能性はありますね……。それは……困ります……」
 弥吉は片手で顔を覆った。

「よ、よし……。一芝居打とう……」
 叡正は意を決したように前を向いた。
「一芝居……?」
 弥吉が首を傾げて叡正を見る。

 次の瞬間、叡正が突然大きな声を出した。
「い、いや~、お医者様のいる長屋は遠いな~!」

 弥吉は目を見開いた。
「なぁ、弥吉! おまえの父親は大丈夫かな~? ……ほら、弥吉も声掛けて」
「……え?」
 弥吉の顔が一瞬にして引きつった。
 叡正は弥吉の耳に口を寄せる。
「おまえは医者のところに着くまでずっと父親に話しかけるんだ。そうしたら死体だなんて思われないだろ?」
「は!?」
 弥吉は信じられない思いで叡正を見つめる。
「父ちゃん……寝てますよ?」
「わかってる。でも、話しているふりをするんだ。不信に思われないためだ、頑張ってくれ!」
 叡正は真剣な表情で言った。
「ほ、本気ですか……?」

 弥吉はしばらく躊躇っていたが、叡正の真剣な眼差しに負けて渋々口を開いた。
「と、父ちゃ~ん、だ……大丈夫~……? お医者様のところまで、あと少しだから頑張って~……」
 弥吉は棒読みで言いながら、自分の顔が熱くなっていくのを感じた。

「弥吉、もっと大きい声で言わないと……」
 叡正が弥吉に囁く。
「そ、そんなこと言ったって……!」
 弥吉は泣きたくなる気持ちを抑えながら、弥一を見た。
(なんでこんなことを……)

「父ちゃ~ん! あとちょっとだよ~、頑張って~!! お医者様はもうすぐだよ~!!」
 弥吉は顔を赤くしながら、声を大きくした。

 そのとき、フフッという笑い声がかすかに二人の耳に届いた。

「おい、信。何笑ってるんだ! こっちは真剣にやってるんだぞ!」
 叡正が、前方で荷車を引く信に言った。

 信は少しだけ振り返ると、わずかに眉をひそめた。

「叡正様、信さんが笑うわけないじゃないですか! ずっと一緒にいても笑ったところなんて見たことないんですから! 通り過ぎた人が誰か笑ったんですよ、きっと……。うぅ……恥ずかしい……」
 弥吉はそう言うと、うつむいた。

「いや、今は誰も通ってなかったから、笑ったのは信だ」
 叡正はなぜか自信満々に言った。
「え!? 誰もいなかったんですか!? なんでそんなときに話してるフリなんてさせたんですか!」
 弥吉は涙目で叡正を見る。
「え……いや、悪い悪い。練習は必要かと思って……」
「練習って、こんなのに練習なんているわけないでしょう……! だいたい叡正様は……!」

 叡正と弥吉が言い合っているあいだ、荷台はかすかに揺れていたが、誰もそのことには気づかなかった。
 それから医者までの道中、弥一はずっと荷台に横たわりながら必死に笑いをかみ殺していた。