「え? 誰が来てるって……?」
夜になり屋敷に戻ってきた弥吉は、門のそばにいた隆宗に呼び止められた。
「だから、おまえの前の仕事先の人だって。髪の長いやたらと顔のいい男と薄茶色の髪のちょっと怖い感じのする男。おまえ、前の仕事まだ辞めてなかったのか?」
隆宗は呆れた顔で弥吉を見た。
(叡正様と信さんか……)
弥吉は目を伏せる。
「どうしてここが……」
弥吉は思わず呟いた。
「ここに入っていくおまえの姿を見た人がいるんだってさ」
隆宗は不思議そうに首を傾げる。
「どうした? 会いたくないのか? おまえ楽しそうに話してたじゃないか。仕事先で一緒に住んでた同居人のことなんか特に……。『何でもできるけど、何にもできない変な人だから。そばにいないと心配だ』とかなんとか。どっちかは同居人なんじゃないのか?」
弥吉は目を伏せたまま微笑んだ。
「そう……なんだけどさ……。俺、嘘ついてたから……」
「嘘?」
隆宗は眉をひそめる。
「嘘をついてたことがバレて、みんなが怒ったから逃げてきたってことか?」
弥吉は静かに首を横に振った。
「いや……、信さんは優しいから『おまえは何も悪くない』って。最初からわかってたみたいだったし……」
「……じゃあ、何も問題ないんじゃないのか?」
隆宗は意味がわからないというように、再び首を傾げる。
「いや、合わせる顔がないんだよ……」
弥吉は顔を伏せた。
「う~ん、よくわからないけどさ、相手が許すって言ってるんだからいいんじゃないのか? 許すって言ってるのに、合わせる顔がないとか言っていなくなったら、むしろそっちの方が腹が立つと思うけど……」
隆宗の言葉に、弥吉は弾かれたように顔を上げた。
「え、怒ってた……?」
「う~ん、髪の長い男はそんな感じじゃなかったけど、薄茶色の髪の男は怒ってたのかも。少なくともご機嫌ではなかった」
「ご機嫌……」
弥吉は引きつった顔で隆宗を見つめる。
「ご機嫌なところは俺も見たことないから……。逆にご機嫌な顔で来てたらそっちの方が怖いけど……」
弥吉はかすかに笑うと、再び目を伏せた。
隆宗は弥吉を見つめると、ゆっくりと息を吐く。
「仕方ない……。あの二人には、今日弥吉は帰ってきそうにないって言っておくよ……」
「あ、いや……」
弥吉は視線を上げて一瞬何か言い掛けたが、後に続く言葉はなかった。
「それでいいか?」
隆宗は弥吉を見つめる。
「……ああ、ありがとう」
弥吉は静かに目を伏せた。
「じゃあ、そう伝えてくる。今日はもう遅いし、泊まってもらうかもしれないから、おまえは明日俺が合図するまで自分の部屋から出るなよ」
隆宗はそう言うと、弥吉に背を向けて歩きだした。
「ありがとう。……あ、そういえばさ、戻ってきてからなんか屋敷の雰囲気がおかしい気がするんだけど、何かあったのか?」
弥吉はずっと感じていたことを聞いた。
弥吉の言葉に、隆宗はピタリと足を止める。
「ああ……少しな。井戸で死体が見つかってバタバタしているだけだ」
隆宗は振り返らずに答えた。
弥吉は目を見開く。
「は!? 死体!? え、何で言わなかったんだよ!?」
「心配かけるかと思ってさ……。おまえは日中いないし、死体の一件で人が出入りするのは夕方までだから、言わなくても問題ないだろうと思って。それに、知らない女の死体だからたいした問題じゃないんだ」
「たいしたことないわけないだろ……。それに知らない女って……」
弥吉はそこまで言い掛けて、ハッとしたように顔を青くした。
「おまえ……それって、まさか…………」
隆宗がフッと笑う声が闇に響く。
「知らない女だ。気にする必要はない」
隆宗はそう言うと、屋敷に向かって歩き出した。
「そんな……、嘘だろ……」
弥吉はその場にしゃがみ込んだ。
(だから……、みんなあんな反応だったのか……)
弥吉は頭を抱えた。
「一体……どうすればいいんだ……」
弥吉の小さく呟く声は、夜の闇に静かに消えた。
皿の絵付けを終えた男は、窯から少し離れたところでしゃがみ込んで何かしている弥吉と隆宗の姿を見つけた。
(二人は本当に仲がいいな……。それにしても何をしているんだ?)
男は額の汗を拭うと、二人に近づいていった。
「ほら、できた!」
男が声を掛けようとした瞬間、弥吉は顔を上げ誇らしげに隆宗を見た。
男が弥吉の足元を覗き見ると、そこには割れた皿の欠片が絵柄を合わせるように元通りの形で置かれていた。
「わぁ」
隆宗は目を輝かせて弥吉を見る。
「すごい! 元通りだ! 弥吉はすごいな!」
「ふふふ、当然だよ!」
弥吉は鼻を鳴らした。
(また割れた皿で遊んで……)
男はゆっくりと息を吐く。
「こら、また皿で遊んでたのか?」
二人は驚いたように男を見上げた。
「あ、父ちゃん!」
弥吉は嬉しそうに飛び上がると、男に抱きついた。
「まったく、割れた皿は危ないからあまり触るなと言っているだろ?」
男は弥吉の頭を撫でながら言った。
「隆宗様、すみません……。手を切ったら大変ですから、触らないでくださいね」
「大丈夫ですよ、これくらい。私も楽しかったのですし」
隆宗は立ち上がり、にっこりと微笑んだ。
(弥吉よりもひとつ下なのに、隆宗様は本当にしっかりされているな……)
男は自分を見上げて笑っている弥吉に苦笑する。
「おまえも、隆宗様を見習うんだぞ」
男の言葉に、弥吉は頬を膨らませる。
「俺の方が兄ちゃんだ!」
「年が上なだけで、隆宗様の方がよっぽど大人だぞ。本当におまえは甘えてばかりで……」
「甘えてなんかいないよ!」
弥吉は、男から離れるとプイッとそっぽを向いた。
「もう別の場所で遊ぼうぜ、隆宗」
そう言うと、弥吉は駆け出した。
「だから、隆宗様と呼べと言ってるだろう」
弥吉の背中に向かって男は言ったが、弥吉は耳を塞ぎながら走り去っていった。
「まったく……」
男はため息をつく。
「すみません、隆宗様。弥吉がいつもご迷惑をお掛けして……」
「いえ、弥吉と遊べて楽しいですから」
その場に残った隆宗は地面に置かれた皿を見て微笑んだ。
「隆宗様は本当に大人ですね。うちの弥吉と大違いだ。弥吉は明るく真っすぐに育ってはいると思うんですが、隆宗様と比べると本当に子どもで……」
「そんな……弥吉はしっかり者です。それに、弥吉や弥一さんに遊んでいただけて本当に嬉しいんです。父上は滅多に私に会いに来ませんから……」
隆宗は寂しそうに目を伏せた。
(確かに旦那様と隆宗様が一緒にいるのを見たことはないな……)
男は隆宗を見つめる。
(大人びていてもやはり寂しいのだな……)
男は隆宗の前に膝をつき、隆宗の目を真っすぐに見た。
「旦那様はお忙しいのでなかなか会いに来られないのでしょう。旦那様は隆宗様を大切に想っていらっしゃいますよ。少し寂しいかもしれませんが、私や弥吉はずっとそばにおりますから」
男はそう言うと微笑んだ。
「もし寂しくなったときには、いつでも私たちを呼んでください。おこがましいかもしれませんが……、隆宗様は私たちの家族も同然ですから」
隆宗は目を見開いた。
「家族……」
「あ、おこがましいですよね!? も、申し訳ありません……!」
男が慌てて言った。
「いえ……」
隆宗は目を伏せて微笑んだ。
「嬉しいです、すごく……」
隆宗のまつ毛はわずかに濡れていた。
男は微笑むと目を閉じた。
「そう言っていただけて私も嬉しいです。これからは寂しくなったら、いつでも言ってくださいね」
「はい!」
隆宗は男を見ると、涙で濡れた瞳で心から嬉しそうに微笑んだ。
「おい! 隆宗! いつまでそこにいるんだよ! 座敷で遊ぶぞ!」
屋敷の柱の陰に隠れながら、弥吉がそっとこちらを見ていた。
「ああ! 今、行く!」
隆宗は男に一礼すると、弥吉の方へ駆け出していった。
男は立ち上がると、ひそひそと話す二人の姿をそっと見つめた。
(これからもずっと二人仲良くやっていけそうだな……)
男は静かに微笑むと、ゆっくりと伸びをして仕事場に戻っていった。
「奥様の様子はいかがですか?」
男は廊下を歩いてきた乳母を見つけると、慌てて声を掛けた。
乳母は苦しげな表情で目を伏せると、静かに首を横に振った。
「もともとお身体が弱かったところに、ここ最近の心労が重なって……」
「そう……なのですね……」
男は目を伏せた。
「隆宗様は?」
「奥様のそばにいらっしゃいます……。ここ数日ほとんど何も召し上がらず、ずっと奥様の手を握っています……」
乳母は震える声で絞り出すように言った。
男は拳を握りしめる。
(奥様の具合が良くないのは聞いていたが……)
「……旦那様はいつ頃お戻りになるのですか?」
男の言葉に、乳母は冷めた目で遠くを見つめた。
「お戻りにはならないでしょう。……本当に、すべてあの女のせいです……!」
乳母は吐き捨てるように言った。
「あの女……ですか……」
(噂でしか聞いたことはなかったが、本当のことなのか……?)
男は嫌悪の表情を浮かべる乳母を見つめた。
奥様のお世話をしていた奉公人が奥様の目を盗んで旦那様に取り入り、事実上の側室のような扱いを受けているという噂は男の耳にも届いていた。
「あの女のせいで奥様は……!」
乳母は唇を噛んだ。
(なるほど、心労というのはそのことか……)
男は静かに目を伏せた。
「奥様も心配ですが、隆宗様も心配ですね……。あとで弥吉に様子を見に行かせてもよろしいですか?」
「ええ、ぜひお願いします! 隆宗様は私が何を言っても奥様のそばから離れないですし、お食事を持っていっても召し上がらないので……」
乳母はすがるように男を見た。
「わかりました。では、弥吉に食事を持っていかせます」
「ありがとうございます……! それなら急いで食事の手配をしなければ!」
乳母は嬉しそうにそう言うと、身を翻して足早に屋敷の奥に去っていった。
「隆宗様は大丈夫だろうか……?」
男はひとりになった廊下で小さく呟いた。
「まぁ……、旦那様も奥様のことを知れば急いで戻ってくるだろうし、きっと大丈夫だろう……」
男は息を吐くと、弥吉を呼びに仕事場に戻っていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「失礼いたします。弥吉です。入ってもよろしいでしょうか?」
弥吉は、部屋の襖の前で中に向かって声を掛けた。
返事はなかったが、しばらくしてゆっくりと襖が開く。
襖の向こうには隆宗が立っていた。
「弥吉……、どうしたんだ……?」
隆宗は今にも倒れてしまいそうなほど、青い顔をしていた。
「何って、奥様とおまえが心配で来たんだよ。それと食事を持ってきた」
弥吉は運んできた二つの膳をチラリと見ながら言った。
隆宗は目を伏せる。
「気持ちは嬉しいけど、食事は……。食欲がないんだ……」
隆宗はそう言うと、そのまま襖を閉めようとした。
「お、おい!」
弥吉が慌てて襖のふちに手を掛ける。
「食えよ! おまえ顔色悪いぞ! それにおまえが食わないと、俺が怒られるんだよ! いいのか! 俺が怒られても!」
「そんなこと言ったって……」
隆宗がそう言ったとき、隆宗の後ろで人が動く気配が気配がした。
「隆宗……」
か細い声がかすかに二人の耳に届いた。
弥吉が襖の隙間から中を見ると、布団で寝ていた奥様が体を起こし、こちらを見ていた。
「入れてあげなさい。私も……弥吉の顔が見たいわ……」
奥様はそう言うと、目を細めた。
隆宗が慌てて振り返ると、奥様はにっこりと小さく頷いた。
隆宗はゆっくりと息を吐く。
「わかりました……」
隆宗は襖を開けると、弥吉に入るように促した。
弥吉は二つの膳を中に運び終わると、奥様の前に腰を下ろし頭を下げた。
「どうぞ。少しだけでも召し上がってください」
隆宗も弥吉の隣に腰を下ろした。
「ありがとう……。でも私も食欲がないの……」
弥吉は頭を上げて奥様を見た。
奥様は以前見かけたときと変わらず美しかったが、顔色は悪く、体はやせ細ってしまっていた。
「少しだけでも召し上がってください」
弥吉はおずおずと言った。
「そうね……。隆宗と弥吉が一緒に食べてくれたら、私も少し食べられる気がするわ」
奥様はそう言うと優しく微笑んだ。
「え?」
隆宗と弥吉は顔を見合わせた。
「私は、ひとりでこれだけの量は食べられないから、弥吉は私の膳を食べるのを手伝って。どう? お願い、聞いてくれるかしら?」
奥様は少しだけ首を傾ける。
「あ、はい……。もちろん」
「わかりました……。母上」
二人はそう言うと、おずおずと箸に手を伸ばした。
「ありがとう。二人共」
奥様は優しく微笑む。
奥様はしばらく二人が食べている様子をにこにこと見守っていたが、隆宗の視線に気づき、さじを手に取ると少しだけご飯をすくい口に運んだ。
「弥吉も大きくなったわね。こんなに立派に育ってくれて、お父様も誇らしいでしょうね」
奥様は弥吉を見てにっこりと笑った。
「いえ、そんな……」
弥吉は料理を頬張りながら、頬を赤く染めた。
「弥吉、お世辞だ。本気にするな」
隆宗はにっこりと笑いながら言った。
「おい、うるさいぞ」
弥吉は隆宗を小突いたが、奥様の前だったことを思い出し、慌てて頭を下げた。
「す、すみません……!」
二人の様子を見て、奥様はフッと笑った。
「二人は本当に仲が良いのね。安心したわ」
奥様は弥吉を見つめると、柔らかく微笑む。
「これからも隆宗をよろしくね」
「は、はい! もちろんです」
弥吉はうんうんと何度も頷いた。
「ふふ、弥吉は可愛いわね」
奥様はそう言って笑うと、真剣な表情で隆宗に視線を向ける。
「隆宗、あなたは何があっても弥吉を守るのよ」
「守る……ですか?」
隆宗はキョトンとした顔で奥様を見つめる。
「ええ。あなたはこの家の次期当主です。あなたはこの家の者たちに支えられている。だから、あなたは責任を持って、この家に仕える者たちを守るのよ」
隆宗は目を見開いた。
「いいですね?」
奥様は視線をそらすことなく、隆宗を見つめ続けた。
「は、はい!」
隆宗は奥様を真っすぐに見つめ、しっかりと頷いた。
隆宗の顔を見て、奥様は満足そうに微笑んだ。
「さぁ、三人で早く食べきってしまいましょう」
三人は何でもないことを話しながら、二つの膳に乗った料理をすべて食べきった。
数日後、奥様は静かに息を引き取った。
旦那様が屋敷に戻ってきたのは、それからひと月以上経ってからだった。
「旦那様がご不在のままで葬列なんて……」
「隆宗様もまだ幼いというのに……」
「隆宗様がお可哀そうです……」
寺に向かう葬列の中、後方では奉公人たちのひそひそとした声が行き交っていた。
奥様の葬列は、喪主となるはずの旦那様が不在という異例の事態となった。
麻の裃を纏った隆宗の耳にも奉公人の声は届いていたが、隆宗はただ真っすぐに前を見つめていた。
「隆宗様……」
隆宗の隣を歩きながら、乳母がそっと隆宗の手を握る。
「大丈夫です」
隆宗は隣を歩く乳母にそっと微笑んだ。
「早く母上を送って差し上げなければ……」
「隆宗様……」
乳母は目尻の涙を拭うと、隆宗の手を握る手に力を込めた。
「そうですね……。今の隆宗様の姿を見て、奥様もきっと安心していらっしゃいますよ……」
乳母の言葉に、隆宗はそっと目を伏せた。
「そうだといいのですが……」
「ええ、きっと……」
青空の下、異例の葬列は様々な想いを乗せてゆっくりと寺へと進んでいった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「隆宗、大丈夫かな……」
日が沈みかけた空を見つめながら、弥吉が小さく呟いた。
「ああ、そろそろ帰ってくる頃だな……」
弥吉の言葉に、男も門の方を見つめた。
「旦那様は、どうして帰ってこないの?」
弥吉は不思議そうに男を見上げる。
男は静かに目を伏せた。
「旦那様は……お忙しい方だから……」
「どんなに忙しくても、普通奥様の葬列には帰ってくるんじゃないの?」
男は苦笑した。
(弥吉もいろいろわかるようになってきてるんだな……)
「まぁ、いろいろあるんだ……」
男の言葉に、弥吉は納得のいかない顔を浮かべていた。
そのとき、門が開く音がした。
「あ、帰ってきたんじゃないか?」
弥吉はすぐに門に向かって駆け出した。
「おい、まだいろいろあるだろうから、邪魔するんじゃない!」
男も弥吉を追って走り出した。
男が弥吉に追いついたときには、すでに弥吉が隆宗を呼び止めた後だった。
(あいつは……)
「隆宗様、申し訳ありません……!」
男は慌てて弥吉の頭に手を置き、強引に頭を下げさせた。
「なんだよ! 心配で来ただけだろう!」
弥吉は男の手を振り払うと、男を見上げた。
「心配でも、隆宗様は疲れていらっしゃるだろうから、日を改めろ!」
「いえ、大丈夫ですよ。弥吉の顔が見れて私も嬉しかったですから」
隆宗は穏やかに微笑む。
その笑顔はいつもの隆宗のようだったが、男は少しだけ違和感を覚えた。
「弥吉、来てくれてありがとう。でも、大丈夫だから」
隆宗はなんでもないことのように笑った。
葬列に参列していた者は、隆宗に一礼して屋敷に戻っていき、門のそばには隆宗と弥吉、男の三人だけになっていた。
「弥吉、おまえは先に戻って土の準備をしていてくれ」
男はそう言うと弥吉の頭を撫でた。
「え!? なんで!?」
「俺は隆宗様とお話しがあるから」
男の言葉に弥吉と隆宗は同時に首を傾げる。
「俺はここにいちゃダメなの?」
弥吉が不満げに言った。
「早めに仕上げたい器があるからな。俺を助けると思って、先に準備して待っていてくれ」
男はそう言うと微笑んだ。
弥吉はまだ不満そうな顔をしていたが、息を吐くとしぶしぶ頷いた。
「わかったよ。準備しておくから、すぐ来てよ」
弥吉はそう言うと、背を向けて窯の方に戻っていった。
「えっと、お話しというのは……?」
隆宗は不思議そうに男を見上げた。
男は微笑むと、隆宗の前に膝をついた。
「隆宗様……、無理をなさっていませんか?」
男の言葉に、隆宗の瞳が揺れる。
「無理など……しておりません。この家の次期当主として、父上がいない屋敷は私が取り仕切らなければ……」
「隆宗様……」
「母上に言われたのです。支えてくれる奉公人たちを守れと……。私がしっかりしなくては……」
隆宗の目には涙が溢れていた。
「隆宗様……」
「私がしっかりしなくてはいけないのです……」
隆宗の声は、涙でかすれている。
男はそっと隆宗の頭を撫でた。
「そんなに無理をなさらないでください。奥様もそんなことは望んでいないはずです。泣いても、弱音を吐いてもいいのです。隆宗様のことは奉公人や私、弥吉が支えていきますから」
男の言葉に、隆宗の顔が歪む。
堪えていたものが溢れ出すように、隆宗の頬を涙が伝った。
「奉公人たちを守ることも大切だとは思いますが、今は私たちが隆宗様を支えるべきときです。以前申し上げたでしょう? 私たちは家族なんです。ツラいときくらい甘えてください」
男はそう言うとにっこりと微笑んだ。
隆宗はこみ上げるものが抑えきれなくなったように、声を上げて泣き始めた。
両手で顔を覆って泣く隆宗を、男はそっと抱き寄せた。
「葬列……、よく頑張りましたね」
男はポンポンと震える隆宗の背中を叩く。
「ち、父上は…………」
男の肩に顔をうずめながら、隆宗が小さく呟いた。
「どうして……戻ってこないのでしょう……。母上が……死んだのに……。私や……家のことなど……どうでもいいのでしょうか……?」
隆宗の言葉に、男はなんと返していいのかわからなかった。
「母上や……私のことが……嫌いなのでしょうか……? どうでもいいと思うほど……」
「そんなこと……ありませんよ……」
男はそれだけ言うのが精一杯だった。
「あの……お願いが……」
隆宗が鼻をすすりながら言った。
「はい、何でしょうか」
「私が泣いたこと……弥吉には言わないでください」
隆宗は男から離れると、袖で涙を拭った。
隆宗の顔は少し恥ずかしそうだったが、葬列から帰ってきたばかりのときより表情がずっと柔らかくなった気がした。
男は年相応の可愛らしいお願いに、思わずフッと笑う。
「はい、弥吉には決して言いません」
「ありがとう……ございます」
隆宗は少しだけ顔を赤らめると、サッと身を翻した。
「心がラクになりました……。ありがとうございます。しかし、私は次期当主ですから、これからもっと精進してみんなを守れるようになります。だから……ずっとそばで見守っていてください」
男は隆宗の背中を見つめた。
(こんな小さな背中に……いろんなものを背負おうとして……)
男は思わず目を伏せた。
「はい、見守り支えます」
男は静かにそう答えた。
「ありがとう……ございます」
隆宗は涙でかすれた声でそう言うと、屋敷の中へと入っていった。
「まだ……あんなに小さいのに……」
ひとりになった男は、屋敷の中へ消えていった小さな背中を思い出し、強い胸の痛みを感じていた。
奥様の埋葬を終えて十日ほど経ち、屋敷は日常を取り戻しつつあった。
隆宗は以前にも増して、弥吉や男の元にいることが多くなっていった。
「隆宗様はこちらにいらっしゃいますか?」
乳母が男の仕事場である小屋に顔を出した。
器の絵付けをしていた男は手を止めて立ち上がる。
「ああ、隆宗様は弥吉と一緒です。たぶん窯の方にいると思いますよ。呼んできましょうか」
男はそう言うと振り返り、乳母に向かって微笑んだ。
「ありがとうございます。では、お願いします。もうすぐ隆宗様の算盤の先生がいらっしゃるので。私は先に行って先生をお迎えする準備をいたしますね」
「ああ、算盤……。隆宗様もお忙しいですね」
「まぁ、この家の次期当主ですから」
乳母はそう言うと微笑み、一礼して小屋を後にした。
(奥様を亡くされて、それほど日も経っていないのに……)
男は小さくため息をつくと小屋の外に出た。
窯に向かって歩いていくと、弥吉と隆宗の楽しそうな話し声が聞こえてきた。
後ろ姿が見えてくると、二人がしゃがみ込んで笑い合いながら何かしているのがわかった。
(弥吉と話しているときだけは、隆宗様も年相応に見えるんだよな……)
男は小さく微笑んだ。
「弥吉、そろそろ遊ぶ時間は終わりだ」
二人の楽しそうなひとときに割って入るのを心苦しく感じながら、男は弥吉に声を掛けた。
男の声に、二人は同時に振り返る。
「え~、なんでだよ~」
予想通り、弥吉が不満げな声を上げた。
「隆宗様の先生がいらっしゃる時間なんだ。引き留めてご迷惑をお掛けしちゃダメだろ?」
隆宗がハッとしたような顔をする。
「もうそんな時間ですか。すみません……」
隆宗は申し訳なさそうな顔で頭を下げた。
「いえいえ、こちらこそ弥吉が引き留めてしまって……」
「俺は引き留めてねぇよ!」
弥吉が頬を膨らませる。
「おまえはまったく……」
男は呆れた顔で弥吉を見る。
「ふん!」
弥吉はわざとらしく鼻を鳴らすと、拗ねたように窯の方へと去っていった。
「あいつは、本当にもう……」
男は苦笑する。
「本当にすみません。隆宗様……」
「いえいえ、むしろ引き留めていたのは私ですから……」
隆宗は微笑んで男を見た。
(本当に隆宗様は大人びているな……)
男はただただ感心していた。
「あ、屋敷の方までお伴いたしますね。これから算盤を習うのでしょう。隆宗様は大変ですね……」
男と隆宗は、屋敷に向かって並んで歩き始めた。
「いえ、私自身もっと学ばなければと思ったのです」
「そうなのですか? それはまた素晴らしい……」
男は目を丸くした。
「ええ、弥一さんや弥吉のことも気になりましたし……」
「え?」
男は思わず足を止める。
「私と弥吉のこと……ですか?」
「ええ、弥一さんに支払われているお金……来ていただいた当初からほとんど上がっていないのでしょう? 正直に申し上げて、信じられないほど安いお金で働いていただいていると思っておりまして……」
隆宗は何か考え込むように目を伏せた。
「こちらにいらっしゃった当初は、確かに土や水、気候の関係で器がうまくできなかったと聞いておりますが、今では本当に素晴らしいものを作っていらっしゃいます。実際にうちのお庭焼きの評価は非常に高いのです。もともとこの焼き物は江戸では高級品として出回っているものですし、本来こんな安いお金で作り続けていただけるものではないと思います」
隆宗の言葉に、男は驚きで言葉を失った。
(こんな幼い子がそんなことを考えてくれていたなんて……)
「あ……えっと……隆宗様、そこまで考えてくださっていたとは、本当に驚きで……」
男は戸惑いながら、なんとか口を開いた。
「ただ、私たちは家があって、飢えることなく食べていければそれで十分なのです。私や今は亡き妻がこちらに移り住んだのは、お金のためではなく、この焼き物の良さを江戸の人々にも広めていきたいと考えたからです。だから……私たちは今のままでも大丈夫ですよ、隆宗様」
男はにっこりと微笑むと、隆宗の前に膝をついた。
「そこまで私たちのことを考えてくださり、本当にありがとうございます」
男の言葉に、隆宗は一瞬だけ何か言いたげな顔をしたが、やがて静かに目を閉じた。
「あ、いけない! 先生が来てしまいますね! 隆宗様、急ぎましょう!」
男は慌てて立ち上がると、隆宗を促し屋敷の中へ入っていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
隆宗を屋敷に送り届けると、男は仕事場である小屋に戻った。
(それにしても驚いたな……。あの年であれだけ聡明なんて……)
男は思わずひとりで微笑んだ。
「本当に……将来が楽しみだな」
男は机の前に腰を下ろすと、絵付けのために筆を手に取った。
次の瞬間、筆はぽとりと床に落ちる。
「え……?」
(おかしいな……。しっかり掴んだはずなのに……)
男は床に落ちた筆を拾うと、いつもよりも力を込めて筆を持った。
男の手は小刻みに震えていた。
(あれ、どうして……。痺れた……のか……?)
男は手の震えが止まるのをじっと待ったが、その後、震えが止まることはなかった。
「……というわけですので、弥吉は本日こちらには戻ってこられないようです」
日が沈み、辺りがすっかり暗くなった頃、隆宗は信と叡正のいる座敷にやってきた。
「もう夜ですから、もしよろしければ今日はこちらにお泊りください。あとで布団を持ってこさせますので」
隆宗は申し訳なさそうな顔でそう告げた。
「そうですか……。戻らないのなら仕方ないですね」
叡正は隆宗の言葉を聞くと、ゆっくりと立ち上がった。
「しかし、泊めていただくのは申し訳ないので、私たちはこれで失礼します。また後日改めて出直して……」
叡正がそう言いながら振り向くと、座ったまままったく動かない信と目が合った。
二人はしばらく無言のまま見つめ合う。
「……え? 泊まるつもりか……?」
叡正は引きつった顔で聞いた。
信は静かに頷く。
「いや、そんなの迷惑になるから……」
叡正が慌てて信を説得しようとすると、隆宗がクスッと笑ったのがわかった。
叡正が隆宗に視線を向けると、隆宗はバツが悪そうに目を伏せた。
「あ、すみません……。その……、うちは本当に大丈夫ですので。弥吉も明日には戻るかもしれませんし、よろしければこちらでお休みください」
「いや、しかし……」
叡正はもう一度信に視線を向ける。
信はまったく動く気がないようだった。
叡正は小さく息を吐く。
「あの……では、お言葉に甘えてもよろしいですか……?」
「ええ、もちろんです」
隆宗はにっこりと微笑んだ。
隆宗は、後で奉公人が布団を持ってくるともう一度二人に告げ、一礼して座敷を後にした。
座敷にまた静寂が訪れる。
(信は、弥吉に会えるまで本当にここで待つつもりなのか……?)
叡正が信をじっと見つめていると、信がおもむろに立ち上がった。
「どうしたんだ?」
叡正は信を見上げる。
「屋敷を見て回る」
信は淡々と答えると、そのまま座敷を出ていこうとした。
「は!? ちょ、ちょっと待て! 勝手に屋敷をうろうろするなんてダメに決まってるだろ!」
叡正は慌てて信の腕を掴んだ。
「どうして見て回る必要があるんだよ!?」
信は叡正を少しだけ振り返った。
「気になることがある。それに、弥吉もいるかもしれない」
信はそれだけ言うと、叡正の手を払って出ていこうとした。
叡正は慌てて信に縋りつく。
「だから待てって……! 弥吉はいないってさっき言われただろ? それに屋敷を歩き回るなら許可を取らないと……」
信はチラリと叡正を見た。
「許可が取れるのか?」
信の言葉に叡正は目を泳がせる。
「と、取れない……けど……」
「それなら、時間のムダだ」
信はそう言うと、叡正を引きずるように襖に向かう。
「だから、ダメなんだって……!」
叡正が腕に力を込めて信を引き留める。
そのとき、襖の向こうで人が動く気配がした。
「失礼いたします!」
声と同時に、奉公人が一気に襖を開いた。
「お布団を……」
奉公人の言葉はそこで途切れた。
(あ、しまっ……た……)
叡正は自分が取り返しのつかないことをしたことを悟った。
奉公人は、信と信に抱きつく叡正を見つめたまま固まっていた。
「あの……これは……」
叡正は信を拘束していた腕を慌てて解いた。
奉公人の顔はみるみるうちに赤く染まっていく。
「わ、私は……その……、な、何も見ていませんので……!」
奉公人は顔を横にブンブンと振ると、片手で顔を覆った。
「あ、あの、お、お布団は外に! 外に置いておきますので……! その……ご、ごゆっくり……!」
奉公人はそれだけ言うと勢いよく襖を閉めた。
バタバタと廊下を走っていく音だけが、かすかに叡正の耳に響いた。
「俺は……もうダメだ……」
叡正は力なくその場にしゃがみ込んだ。
「……行っていいか?」
信は叡正を見下ろすと、淡々と聞いた。
「ああ、もう……どこにでも行ってくれ……」
叡正はうつむいたまま呟く。
信は静かに頷くと、襖を開けて座敷の外に出ていった。
叡正は両手で顔を覆って、天を仰いだ。
「もう帰りたい……」
叡正はひとりになった部屋で、絞り出すように小さく呟いた。
弥吉は、提灯で辺りを照らしながら敷地の外れを歩いていた。
「ここ……か……」
弥吉は手に持っていた提灯を暗闇にかざした。
浮かび上がったのは、古びた井戸だった。
(今さらこんなところに来たって何もわからないか……)
弥吉は小さくため息をついた。
(あいつがやったことなのか……? どうしてそんな……)
「俺はこれから……どうしたらいいんだ……」
弥吉はひとり呟いた。
「おまえは、どうしたいんだ?」
そのとき、弥吉の背後ではっきりとした声が聞こえた。
弥吉が弾かれたように振り返ると、弥吉のすぐ後ろには信が立っていた。
「うわぁ!!」
弥吉は驚いた拍子に提灯を持ったまま尻餅をつく。
「大丈夫か?」
信が弥吉に手を差し出す。
「ちょ! なんで音もなく近づいて背後に立つんだよ!? 怖いだろ!?」
弥吉は驚きのあまり、信への気まずさも忘れて叫んでいた。
「そんなに驚くと思わなかった」
信は淡々と言った。
「驚くだろ、普通! まったく……!」
弥吉は信の手を取ると、ゆっくりと立ち上がった。
両手で着物についた砂を払うと、弥吉は信を見つめた。
「この屋敷に泊まるかもって聞いたとき、信さんなら絶対部屋を抜け出すと思ったよ……」
信は無言で弥吉を見つめていた。
「まぁ、こんなに早く抜け出すとは思ってなかったけど……」
弥吉は苦笑すると、そっと信から視線をそらした。
「信さんの監視を依頼したのが誰か、俺に聞きにきたんだろ?」
信は弥吉を見つめ続けていた。
「……いや」
信の言葉に、弥吉は首を傾げる。
「じゃあ、何しに来たんだ?」
「…………」
信は無言のまま、ただ弥吉を見つめていた。
「信さん?」
「……………………」
どれだけ待っても信の口から言葉は出てこなかった。
「もう! ホントに何しに来たんだよ!?」
弥吉は痺れを切らして叫んだ。
「あ、そうだ。そういえば叡正様は? 一緒に来たんだろ?」
「ああ、部屋でうずくまっている」
「え!? うずくまってるの!? なんで!?」
弥吉は目を丸くする。
「さぁ、わからない」
「わからないって……」
弥吉は言葉を失う。
(信さんは本当に相変わらずだな……)
弥吉は首を横に振ると、諦めたようにため息をついた。
「あのさ……、全部謝って済むことじゃないってわかってる……。信さんはもうわかってると思うけど、あの火事の日、咲耶太夫と信さんが裏茶屋で会うって教えたのは、俺なんだ。だから……俺のせいなんだよ……」
弥吉は片手で顔を覆った。
泣いていい立場ではないとわかっていたが、弥吉はこみ上げるものを抑えることができなかった。
「おまえのせいじゃない」
信は淡々と言った。
「おまえがやらなくても、俺の元には必ず誰か送り込まれていた。おまえのせいじゃない」
弥吉の頬を涙が伝う。
「ハハ……、ホントに……やりにくいなぁ……。悪いやつだって聞いてたのに、信さんは変だけどなんかあったかいし、咲耶太夫も玉屋のみんなも、その周りにいる人もみんな良い人で……。俺…………ずっとここにいたいとか思っちゃったりして……ホントに……どうして……」
「いたいなら、いればいい」
信は静かな声で言った。
弥吉は目を見開く。
「意味わかって言ってるの!? 俺、間者ってやつだよ!? そんなことやってたやつがそばにいて、不安じゃないの!?」
「不安じゃない」
信は淡々と答えた。
「……ホント、どうかしてるよ……」
弥吉はその場にしゃがみ込んだ。
「せめて……黒幕というか……誰が信さんを見張ってるのか教えたいんだけどさ……。ダメなんだよ……」
「脅されているのか?」
信の目つきが少しだけ鋭くなった気がした。
弥吉は小さく笑う。
「違うよ……。信さんは知ってるのかな……ここであったこと……。ほら、井戸から死体が見つかったってやつ……」
弥吉はそこまで言うと、信を見つめた。
「これは屋敷のみんなの反応を見た、俺の勘なんだけどさ……。たぶんその死体で見つかった女なんだ……」
信は、意味がわからないというように首を傾げる。
弥吉は苦笑すると、目を伏せた。
「俺に信さんの監視を依頼したのが、死体で見つかった女なんだ、たぶんね。……この家の事実上の側室だった人だよ」
信はわずかに目を見張った。
「ごめんね、信さん」
弥吉は言うと、静かに目を閉じた。
弥吉の後ろで、井戸が妖しく暗闇に浮かび上がっていた。
「……そもそも俺、ほとんど何も知らされてないんだよ」
弥吉はしゃがみ込んだまま頭を掻くと、ため息交じりに言った。
「この屋敷の伊予さん……あ、俺に信さんの監視を頼んだ人の名前、伊予さんっていうんだけど……伊予さんに信さんの行動を見張って報告しろって言われただけだから……。報告を聞きに来てた人も毎回違う人だったし、何か言われることもなかったから……本当に何も知らないんだ。伊予さんに会えば何かわかるかと思ったけど、こんな状況になってるなんて思わなくて……」
「そうか」
信は淡々と言った。
「……なんか信さん、興味なさそうだね……」
弥吉は苦笑する。
信は静かに目を伏せた。
「最初からおまえが何か知っているとは思っていない」
信の言葉に、弥吉は小さく息を吐いた。
「そう言われると……それはそれでなんかアレなんだけど……。まぁ、いいや……。言い訳にしか聞こえないだろうけど、たいしたことない内容しか報告してないつもりだったんだ……」
弥吉はそれだけ言うとうつむいた。
「ただ、裏茶屋の火事のことと、あの歌舞伎役者の……ほら、奉行所に突き出す前に男が殺された件、あれは確実に俺のせいだよ。叡正様に宛てた信さんの手紙を読んで報告したんだ……あの男の監禁場所……。その後男が死んだって聞いて、ようやく俺、この監視の仕事がヤバいって気づいたんだ……。ホント馬鹿だよな……」
信は何も言わず弥吉を見つめていた。
「本当にごめん、信さん……。あんな目に遭わせて……咲耶太夫にも合わせる顔がないよ……」
弥吉はうつむいたまま絞り出すように言った。
「咲耶も気にしていない。それに弥吉を迎えに行けと言ったのは咲耶だ」
信の言葉に、弥吉は弾かれたように顔を上げた。
「咲耶太夫が!? ……もしかして、咲耶太夫も最初わかってて……!?」
弥吉は信を見つめる。
「いや、咲耶は知らなかったはずだ。気づいたのは、監禁場所で男が死んだときだろう」
信の言葉に、弥吉は片手で顔を覆って苦笑した。
「……そっか。じゃあ、そこからはわかってたってことか……。わかってたのに、文使いとしてそばに置いてくれてたのか……。信さんもだけど、咲耶太夫もなんでそんな……」
信は、うつむいたままの弥吉の前にしゃがみ込んだ。
「戻りたいなら、戻ればいい」
信は弥吉の頭をそっと撫でる。
「みんな、待っている」
弥吉は顔を上げた。
信の顔はいつも通りの無表情だったが、提灯の明かりが生み出した陰影のためか、その表情はどこか柔らかで温かく見えた。
弥吉の両目から涙が溢れ出す。
「俺……、本当に戻っていいの……?」
信は静かに頷いた。
「あんなことしたのに……」
「おまえは何もしていない」
「俺のせいで、命だって危なかったのに……」
「おまえのせいじゃない。……すべて俺のせいだ」
信はそっと目を伏せた。
弥吉は目を見開く。
「信さんのせいじゃないよ!」
弥吉はそう言ったが、信は何も応えなかった。
「とりあえずもう部屋に戻れ」
信はゆっくりと立ち上がると、弥吉に背を向けた。
「夜が明けたらまた来る」
「あ、俺が行くよ! 信さんと叡正様のところに。必ず行くから……待っててくれる?」
弥吉は立ち上がると、信の背中を見つめた。
「ああ、待っている」
信はそれだけ言うと、足音も立てず闇の向こうに消えていった。
弥吉は大きく息を吸い込むと、空を見上げた。
足元の暗さに気を取られていて気づかなかったが、空には月も星も輝いていて、目さえ慣れれば提灯がなくても歩けそうな明るさだった。
瞬く無数の星を見ながら、弥吉はそっと息を吐く。
胸が熱く、頬を伝う涙は不思議なほど温かかった。
闇の中で、人が近づいてくる気配がした。
(ああ、ついに私は死ぬのか……)
縛られた手も足もまったく動かすことはできなかった。
「わからないとでも思ったのか?」
暗闇の中に、ぼんやりと男の姿が浮かび上がる。
その声は低く落ち着いていたが、抑えきれない怒りがかすかに感じられた。
「おまえのせいですべてが台無しだ」
男が目の前でしゃがんだ。
「どうしてあんなことをした? それに、おまえひとりでできることではないだろう? 協力者は誰だ?」
(おまえに言うわけがないだろう。私を守ろうとしてくれたあの人を売るようなこと……)
男は、相手が何も答えるつもりがないことを悟ったのか、ゆっくりと立ち上がった。
「残念だよ。最期に何か言い残すことは?」
闇の中で金属のこすれる音が響く。
月明かりに照らされて、男が振り上げた刀の先が妖しく光った。
(ここまでか……)
ゆっくりと目を閉じ、男に聞こえるようにはっきりと口を動かす。
「地獄に、落ちろ」
男はフッと笑った。
「地獄に落ちるのは、おまえだろ?」
刀は光を纏いながら、勢いよく振り下ろされた。
(どうか、あなたは幸せに……)
閉じたまぶたの裏に浮かんだのは、懐かしい幸せな思い出だけだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「あれ、いつ戻ってきたんだ?」
翌朝、目を覚ました叡正は、座敷の隅で座ったまま休んでいる信を見て目を丸くした。
「おまえ、まさか寝てないのか……?」
信はゆっくりと叡正に視線を向ける。
「いや、寝ていた」
「寝ていたって……まさかずっとその姿勢で……?」
叡正は恐る恐る聞いた。
信が静かに頷く。
「……おまえは戦国時代の武将か何かなのか……? 襲われることなんてないんだから、普通に寝てくれ……」
叡正はため息をつくと立ち上がり、使っていた布団を畳んだ。
「それで弥吉はいたのか?」
「ああ」
信は短く答えた。
叡正は目を丸くして信を見る。
「戻らないっていうのは嘘だったのか……。それで、話しはできたのか?」
「ああ、朝になったらこの部屋に来ると言っていた」
「そうか……。じゃあ、俺たちはここで待っ……」
「だから!! 話しを聞けって言ってるだろ!?」
叡正の言葉を遮るように、座敷の外で弥吉の声が響いた。
叡正と信は静かに顔を見合わせる。
「ちゃんと説明しろよ!! 一体何があったんだよ!?」
弥吉の声は二人のいる座敷のすぐそばで聞こえた。
「失礼いたします」
弥吉とは対照的に、落ち着いた隆宗の声が響く。
ゆっくりと襖が開き、隆宗と弥吉の姿が二人の視界に入った。
「弥吉を連れてまいりました」
隆宗は落ち着いた声で言った。
叡正は目を見開く。
隆宗は声こそ落ち着いていたが、顔は土気色をしており、昨日会ったときとは別人のように生気がなかった。
「あの……、どうかされたのですか……?」
叡正がおずおずと聞いた。
「いえ、どうも……しておりません」
隆宗は引きつった顔でそう言うと、静かに目を伏せた。
「だから!! そう見えないから聞いてるんだろ!?」
弥吉は隆宗の肩を掴んだ。
「一体何があったんだよ!? ちゃんと説明しろよ! なんで何も言わないんだよ!?」
叡正は隆宗の首筋に目を留めた。
隆宗の首に何か黒いものが点々と付いていた。
それは乾いた血のようだった。
(怪我は……してなさそうだよな……。じゃあ、あの血は……?)
隆宗は弥吉から視線を逸らしたまま口を開いた。
「おまえには……関係ないことだ」
「関係ないって……そんな……」
弥吉は少したじろぐ。
隆宗は叡正に視線を移した。
「弥吉を連れ戻しに来たのですよね。よろしければ、もうこのまま連れていってください」
「おい……、何言ってんだよ……」
弥吉は不安げな表情で隆宗を見つめる。
隆宗は肩に置かれた弥吉の手を振り払うと、弥吉を見つめ返した。
「正直迷惑なんだよ。おまえはもうこの屋敷の人間じゃない。住み込みで仕事があるなら、さっさと出ていってくれ」
隆宗はそれだけ言うと弥吉に背を向けた。
弥吉は、ただ青い顔で隆宗の背中を見つめていた。
「それでは、私はこれで失礼します」
隆宗はそれだけ言うと、座敷を後にした。
「一体、何があったんだよ……」
弥吉の苦しげな声に、二人は何も答えることができなかった。