『…………おまえは必ず……』
咲耶は、差し込む日差しの眩しさに目を開けた。
咲耶は布団から体を起こすと、ぼんやりと窓を見る。
(また夢を見ていたのか……)
咲耶は目を擦った。
(寝すぎてしまったな……)
咲耶はゆっくりと瞬きする。
火事から十二日が経ち、咲耶の体調は完全に回復していた。
(一体、私をいつまで休ませる気なんだ……)
咲耶は小さくため息をつく。
「花魁、入ります」
襖の向こうから緑の声がした。
ゆっくりと襖が開き、緑が顔を出す。
「起きていらっしゃったんですね」
緑は咲耶を見て微笑んだ。
「ああ、今起きた」
咲耶は緑を見て微笑み返す。
「それならちょうどよかったです」
緑はそう言うと、湯飲みの乗ったお盆を持ち、咲耶の枕元までやってきた。
「お水をお持ちしました」
緑は湯飲みを咲耶に手渡した。
「ああ、ちょうど喉が渇いていたんだ。ありがとう」
咲耶は湯飲みを受け取ると、水をひと口飲んだ。
「ところで、私はいつになったら見世に出られるか聞いているか?」
咲耶は湯飲みを緑に返しながら聞いた。
緑は困ったような微笑みを浮かべる。
「私は『まだ休ませる』としか聞いていませんが……。ほかの姐さんたちも病気や怪我をしたときはひと月ほど休みましたし、花魁もそれくらいではないかと……」
「この程度でひと月も……?」
咲耶は目を丸くする。
ほかの遊女が休養したときのことは咲耶も覚えていたが、いずれも症状が重く見世に出られるような状態ではなかった。
咲耶は今回、煙を吸い込んだだけで、外傷もなければ内傷も喉の不調以外は最初からない。
「私はもう見世に出られると思うが……」
咲耶の呟きに、緑は目を丸くする。
「まだダメですよ! それでなくても花魁は働きすぎなんです! こういうときくらいゆっくりしてください!」
「いや、しかし……。一応この見世の太夫だからな……。こんなに休むわけには……」
そのとき、襖の開く音がした。
「まだ、ダメだぞ」
部屋の入口で楼主が腕組みをしながら、咲耶を見ていた。
咲耶はため息をついた。
「こんなに長く休むようなことでもないだろう? 喉も治っているし、何よりそろそろ退屈で……」
「ほ~、退屈……」
楼主の低い声が響く。
(あ、しまった……)
咲耶はゆっくりと楼主から視線をそらす。
「それなら、俺の仕事を手伝ってもらうとするかな。ちょうどよかった。俺は退屈する暇もないほど溜まっているんだよ、仕事が」
「いや……、そういうのは……ちょっと……」
咲耶は自分の顔が引きつっているのがわかった。
楼主の仕事は、金回りのことはもちろん、ひと癖あるお客とのやりとり、腹の内を探り合うような会合への参加など多岐にわたる。
楼主の仕事は、楼主にしかできず、また楼主以外やりたがる者もいなかった。
「そうか? そんなに退屈なら手伝ってくれてもいいんだぞ?」
楼主は咲耶の部屋に入ると、仄暗い笑顔で咲耶の枕元までやってきた。
「あ、いや……。まだ調子が悪いみたいだ……」
咲耶は目を泳がせながら、自分のお腹に両手を当てた。
「なんだか胃の調子が……」
「そうか。それならまだ休まないとな。そんな今のおまえにぴったりな仕事を持ってきてやったぞ」
楼主はそう言うと自分の懐に手を入れた。
「え!? だから、仕事は……」
咲耶が慌てて顔を上げると、楼主は懐から取り出した手紙の束を咲耶に差し出した。
「……これは?」
咲耶は手紙を受け取りながら聞いた。
「おまえを心配した客が書いた手紙だ。ちなみに俺の部屋に同じ束があと五つある。まず全部に返事を書くんだ」
楼主はにっこりと笑った。
「……この束が、あと五つあるのか?」
今、咲耶の手にある束だけで、二十以上の手紙があった。
「ああ。あと五つだ。どれも熱い想いが込められているようだから、真心込めて返事を書くんだぞ」
咲耶は呆然と楼主を見上げる。
「これ……、ここまで溜めなくても……もっと早く私に渡せたんじゃないのか?」
これだけの手紙に返事を書くのは、いくら咲耶でも数日必要だった。
楼主は咲耶を見下ろしてニヤリと笑った。
「おまえが退屈しないように溜めておいたんだ」
咲耶は呆然としたまま、手紙に視線を落とす。
「ああ……。それはご親切にどうも……」
「手紙の返事が書き終わりしだい、見世に出ていい。それまではゆっくり休めよ」
楼主はそう言うと、笑顔を浮かべ部屋を後にした。
襖が閉まると、咲耶は頭を抱えた。
「あの、たぬき親父め……! この量の手紙に返事を書きながら、どうやってゆっくりしろっていうんだ……!」
「ま、まぁ、花魁ならすぐですよ! わ、私も墨をするお手伝いをしますから!」
緑が慌てて咲耶の背中をさする。
「ああ、ありがとう……緑……」
咲耶はなんとか微笑んだ。
(まぁ、まずは手紙に目を通すところからだな……)
咲耶は気を取り直して、手紙を開いて読み始めた。
(一体何日かかるのか……)
咲耶は緑に気づかれないように、そっと小さくため息をついた。
(視線を感じる……)
廊下で奉公人の女と話していた宗助は、視線を感じて思わず振り向いた。
「なんだ……。しお……姫様か」
廊下の曲がり角から顔を出し、紫苑がジトっとした目で宗助を見ていた。
(あいつ、何やってるんだ……?)
宗助は首を傾げながら、奉公人の女の方に視線を戻す。
「どうかしましたか?」
女は背伸びをして宗助の肩越しに廊下の角を見た。
「あ、ひ、姫様ですね! 何かご用があるのかもしれません……! 宗助さん、私の用事はもう大丈夫ですので、行ってください!」
女は少し慌てたように言った。
「え? いいんですか? 何か用事があって俺のことを呼んだんでしょう? まだ用件を聞いていませんが……」
先ほどから女は雑談ばかりで、宗助はまだ用件だと思われる話を聞いていなかった。
「あ、いえ! また今度で大丈夫ですから! では、私はこれで……」
女はそれだけ言うと、そそくさと廊下の向こうに去っていった。
「なんだったんだ……?」
宗助はひとり呟くと、辺りを確認してゆっくりと振り返った。
「おい、紫苑。そんなところで何やってるんだよ……」
周りに人がいないことは確認したが、念のため宗助は声を抑えて紫苑を呼んだ。
紫苑はジトっとした目のまま、ゆっくりと宗助に近づいてきた。
「宗助こそ、こんなところで何をやっていたんだ?」
紫苑は宗助の目の前に立つと、なぜか少しムッとした顔で宗助を見上げた。
「何って、用事があるって言われたから、それを聞きに来たんだよ」
「ほ~、用事ね。その用事は聞けたのか?」
紫苑はじっと宗助を見つめる。
「いや、おまえが来たからまた今度でいいってさ。で、おまえは何か用だったのか?」
宗助の言葉に、紫苑は深いため息をついた。
「おいおい、なんだよ……」
「おまえはどうして、そうなんだ……」
紫苑が小さく呟く。
「え? なんだって?」
宗助は体を傾けると、紫苑の口元に耳を寄せた。
「……!? だ、だから! どうしておまえはそんなに鈍いんだって言ったんだ!!」
紫苑は宗助の耳元に向かって大声で言った。
「!? おまえ、声が大きいよ……」
宗助は慌てて紫苑から顔を離すと、耳を手で覆った。
紫苑はフンと鼻を鳴らす。
「まったくおまえは……。俺が鈍いってどういう……」
「おまえはああいう女が好きなのか?」
「は?」
宗助は目を丸くする。
「ああいうちょっと間の抜けた感じで、思わず手を貸してやりたくなる、ちょっとだけ顔が可愛い女が好きなのか?」
「おい、おまえ半分くらい悪口だぞ……それ」
「どうなんだ?」
紫苑はじっと宗助を見つめた。
「好きかって……別に好きとかは……。ああ! そうか! 大丈夫だ、おまえの方が顔は可愛いぞ」
宗助はそう言うと、紫苑の頭をポンポンと叩いた。
(なんだ、自分の方が可愛いと言ってほしかったのか)
宗助がひとり納得していると、紫苑の拳が小刻みに震えているのが目に入った。
(ん……?)
「……違う」
宗助に頭を叩かれながら、紫苑が低い声で呟く。
「え?」
「違う!! そんなふうだから鈍いって言ったんだ! 私はもう十五だぞ!」
「そ、そうだな……」
宗助は慌てて両手を上げた。
「もう大人だ!」
「……大人かどうかは……」
宗助は思わず視線をそらす。
「それになんだ、『顔は』って!」
「それは特に深い意味はないが……」
紫苑はもう一度深いため息をついた。
「宗助、おまえいくつになった?」
「え? 俺? ……えっと、二十七……あれ二十八だったか?」
宗助は指で数えながら答えた。
「おまえ、身を固める気はないのか?」
紫苑は宗助を真っすぐに見た。
「身を……固める……? 俺が!?」
宗助は目を丸くする。
「考えたこともないな……。家への仕送りもあるし、自分のことで精一杯だ。ほかの誰かを幸せにする余裕は俺にはないよ」
宗助は苦笑した。
紫苑は目を伏せた。
「そうか……。わかった……」
(ん? 何がわかったんだ??)
宗助は首を傾げる。
「えっと……、紫苑?」
宗助は紫苑の顔をのぞき込む。
「それなら」
紫苑は宗助の目を真っすぐに見た。
「私がおまえを幸せにしてやる」
宗助は目を見開く。
「私がおまえを支えてやる。おまえの家族もみんな。だから、安心して婿に来い」
紫苑の目には強い決意の色があった。
「……え?」
宗助は呆然と紫苑を見つめた。
(婿……? 俺が……??)
「よし、そうと決まれば、父上に報告してくる」
紫苑は身を翻すと廊下を進み始めた。
「……え? え!? ちょ、ちょっと待て! 紫苑!!」
宗助は慌てて紫苑に駆け寄る。
「おまえ、俺をクビにするつもりか!? そんなの認められるわけないだろう!?」
「そうか? この家は跡取りもいないし、婿養子は認められそうだが……」
「いやいや、婿養子は認められるかもしれないが、俺じゃダメだろ! 奉公人だぞ? 俺はそんな身分じゃない」
「そんなの関係さ」
「関係ある! 絶対あるから! 今回は本当にダメだ!」
宗助の言葉に、紫苑は不満げな顔をした。
(これは全然納得してないな……)
「わ、わかった。こうしよう! もしおまえが結婚したいと思えるやつがずっと現れなくて、もう一生結婚できる気がしないと思ったときには、また話しをしよう」
紫苑の顔はまだ不満そうだったが、渋々といった様子で口を開いた。
「わかった……。そのあいだ、ずっとそばにいてくれるか? 私を置いてほかの者と結婚するのもダメだぞ」
「ああ! 身を固めるなんて考えたこともないし、もともと嫁に行くまでそばで守ってやると約束しただろう? 」
紫苑はゆっくりと目を伏せる。
「わかった……。絶対だからな」
紫苑はそう言うと、ひとりで廊下を歩きだした。
しばらく歩くと、紫苑はジトっとした目で宗助を振り返る。
「絶対だからな……」
「わかったって……」
宗助は苦笑する。
紫苑は何度か不満げな顔で振り返りながら、廊下を曲がりその場から去っていった。
「なんだったんだ、一体……」
ひとりになると、宗助は額に手を当ててため息をついた。
「それにしても……」
宗助は思わず微笑んだ。
「幸せにしてやるなんて初めて言われたな……」
そんな日が来ることはないとわかっていたが、紫苑が幸せにしてくれようとしたことがただ素直に嬉しかった。
宗助は目を閉じると、そっと笑った。
「今でも十分楽しいし幸せだよ、紫苑」
宗助の胸は温かく、不思議なほど満ち足りていた。
(どうしたんだ……?)
屋敷全体がいつもとは少し違った空気に包まれていた。
奉公人たちは皆、どこか落ち着かない様子で廊下を足早に歩いている。
宗助は、横を通り過ぎていこうとした奉公人の男を呼び止めた。
「あの、今日は何かあるんですか……?」
奉公人の男は目を丸くする。
「宗助さん、姫様から聞いてないんですか……?」
「姫様から?」
「ええ……。宗助さんは姫様付きなので、直接聞いているとばかり……。今日は姫様のお見合いがあるんです?」
「え? お見合い……ですか?」
宗助は目を丸くする。
「そんな、まだ子どもなのに……?」
宗助は戸惑いながら男を見た。
「子どもって……姫様はもう十六ですよ? 普通ではないですか?」
男は軽く笑う。
「まぁ、宗助さんは姫様が十のときから、ずっとそばにいるので、まだまだ子どもに見えるのかもしれませんが……。人の成長というのは本当にあっという間ですから、姫様ももう大人の女性ですよ」
「え? そう……ですか……?」
(紫苑が大人の女性……?)
大人の女性という言葉に、宗助は首を捻った。
「あの……もう行っても大丈夫ですか? 私も準備がありまして……」
男はおずおずと宗助を見る。
「あ、すみません……引き止めてしまって……」
宗助は慌てて言った。
「いえいえ」
男はそう言うと小さくため息をついた。
「普通のお見合いなら屋敷の外で遠くからお互いの顔を見るだけなので、それほど準備は必要ないんですけどね……。今回姫様のご希望でこの屋敷にお相手を招いてお話しするそうで……。みんなバタバタしているんですよ」
男は苦笑した。
「この屋敷で……?」
「ええ、そうなんです……。ですから宗助さんもお相手のお顔を見られるかもしれませんよ」
男はにっこりと笑うと、軽く会釈をして去っていった。
「お見合い……か」
宗助はひとり呟いた。
「あいつ……なんで言わないんだよ……」
宗助は思わずため息をつく。
事前に何も聞いていなかったことに、宗助は少し寂しさを感じていた。
(俺は仕事までまだ時間があるし、様子でも見に行くか……)
宗助は紫苑の部屋に足を向けた。
屋敷全体が紫苑の見合いのために動いていることもあり、紫苑の部屋に近づくほどすれ違う奉公人の数は増え、皆、忙しなく動いていた。
(これ……行くだけで邪魔になるんじゃ……?)
紫苑の部屋の前まで来て、宗助はようやくそのことに気づいた。
(戻った方がいいか……)
宗助がそう思い引き返そうとしたとき、襖の向こうから紫苑の声が響いた。
「だから! もう十分だって!」
紫苑の声とともに、部屋の襖が勢いよく開く。
「頭が重いから、もうこれ以上は……」
宗助は目を見開いた。
そこにいたのは、見たことがないほど美しい人だった。
結い上げられた艶やかな髪。髪を彩る簪は、花びらをかたどった飾りが無数についており、動くたびにキラキラと輝いていた。
身に纏った燃えるように赤い着物も、その人の首筋の白さを際立たせ、妖艶に見せている。
視線に気づいたのか、美しい人はゆっくりと宗助の方に顔を向けた。
華やかな目鼻立ちの中で、ひときわ際立つ赤い唇が静かに動く。
「宗助……?」
見たことがないほどに美しい人は、聞き慣れた紫苑の声でそう呟いた。
「……紫苑?」
宗助は呆然と口を開いた。
目の前に立つ天女のような人が、紫苑だということに理解が追いつかなかった。
「あ、この恰好か……?」
紫苑は自分の着物の襟元を摘まみ、少し慌てたように言った。
「こ、これはその……。言っていなかったんだが、父上がどうしてもと言うから……」
紫苑はそう言いながら、宗助のもとに駆け寄る。
宗助は美しい人がすぐ目の前に来たことに驚き、慌てて一歩下がった。
「え?」
紫苑は目を丸くする。
「おまえ……近いよ……」
宗助は思わず紫苑から目をそらした。
「近いって……いつもの距離だろ?」
紫苑は目を丸くしたまま、宗助をじっと見つめる。
横目でチラリと紫苑を見た宗助は、慌ててまた目をそらす。
宗助は自分の顔が熱くなっていくのを感じた。
「そんなに見るな……」
紫苑は目を見開いた。
「……ふ~ん」
紫苑の楽しそうな声がした。
嫌な予感がして宗助がもう一度横目で紫苑を見ると、背伸びをした紫苑の顔がすぐ目の前にあった。
「わっ! おい……!」
宗助は思わず二歩後ろに下がった。
宗助の様子を見て、紫苑が楽しそうに笑う。
「フフ……、そうか……。ただただ面倒だと思っていたが、悪いことばかりでもなかったな……」
紫苑は小さく呟いた。
紫苑は、宗助に向かって嬉しそうに微笑む。
「私は少し用事があるから、また後でな」
紫苑は宗助にそれだけ言うと、部屋の中に戻っていった。
襖の向こうから、紫苑の機嫌の良さそうな声が響く。
「気が変わった。簪も化粧も、もっとしていいぞ」
ひとり取り残された宗助は、ようやく息を吐いた。
(あれが紫苑……?)
宗助はまだ少し熱を持った顔を両手で覆った。
「確かに……子ども……とはもう言えないかもな……」
宗助はその場にしゃがみ込みと、長い長いため息をついた。
日が暮れ始める中、宗助は憂鬱な気持ちで紫苑の部屋の前に佇んでいた。
お見合いが終わった紫苑から部屋に来るようにと呼び出されたが、朝の紫苑の姿を思い出すと宗助はなかなか部屋に入れずにいた。
(どうしたんだ、俺は……。あれは紫苑なんだから、いつも通りにすれば……)
宗助は深呼吸すると、ゆっくりと襖に手を掛けた。
その瞬間、襖が勢いよく開く。
目の前には、呆れた顔の紫苑が立っていた。
「おまえ、そこでずっと何をしているんだ?」
紫苑は宗助を見て言った。
宗助は思わず一歩後ろに下がる。
紫苑は髪の簪こそ外していたが、結い上げた髪や化粧、着物は朝と同じだった。
「あ、いや……今入ろうとしたら、ちょうどおまえが……」
宗助は紫苑から視線を外しながら言った。
紫苑は呆れたように小さくため息をつく。
「私が部屋の前に誰かいると感じてから、もう随分経ったぞ。このままだと日が暮れそうだから、開けてやったんだ。ほら、入れ」
紫苑は、宗助の手を取ると強引に部屋の中に引っ張った。
「お、おい……」
宗助は引きずられるように部屋の中に入った。
宗助を部屋に入れた紫苑は、満足したように部屋の奥の座布団に腰を下ろした。
「ほら、宗助も座れ」
紫苑に言われ、宗助は迷った末に襖のすぐそばに腰を下ろした。
「……おい、遠すぎるだろ」
紫苑は呆気にとられた顔で言った。
「なんだこの距離は……。私に叫んで話しをさせる気か……? いつもみたいに目の前に座ればいいだろ……?」
「え、あ、ああ……」
宗助は、ゆっくりと立ち上がるとおずおずと紫苑に近づく。
いつもと同じ場所に腰を下ろしたが、宗助は顔が上げられずただ畳を見つめていた。
「おまえは……畳と話す気なのか……?」
「そういうわけじゃ……」
宗助は顔を上げたが、視線は畳に向いたままだった。
紫苑は長いため息をつく。
「意識はしてほしいが……さすがにここまでは……」
紫苑は小さな声で呟いた。
「まぁ、いい……。今日のお見合いのことなんだが……」
「あ」
宗助は思わず視線を上げた。
「相手はいい人だったか?」
宗助は紫苑と目が合うと、慌てて視線を落とした。
紫苑はフッと笑う。
「いい人だったよ、思った通りの反応をしてくれたからな。たぶん向こうから断ってくるはずだ」
「は?」
宗助は自然と紫苑の顔を見ていた。
「断ってくる??」
「ああ」
紫苑は満足げに頷いた。
「おまえ……、何したんだ……?」
「『醜い男は嫌いだ』と言っただけだ」
紫苑はにっこりと微笑んだ。
「な……!?」
宗助は呆然と紫苑を見つめる。
「そうしたら顔を真っ赤にしてすぐ帰っていった。器も小さいみたいだな。思っていた通りでよかったよ」
紫苑は淡々と言った。
「おまえ……、なんてことを……」
「仕方ないじゃないか。好みじゃないんだ」
「おまえなぁ、いくら綺麗でも、そんなんじゃ誰も結婚してくれないぞ……」
宗助の言葉に、紫苑はわずかに目を見張った後、そっと微笑んだ。
「いくら綺麗でも……ね」
紫苑は小さく呟くと、宗助を真っすぐに見つめた。
「誰も結婚してくれなかったら、おまえがもらってくれるんだろ?」
紫苑はそう言うとにっこりと笑った。
宗助は目を見開く。
宗助は、自分の顔が一気に熱くなるのを感じた。
「おまえ……、その顔で言うのはやめろよ……」
「私はずっとこの顔だ」
「それは……そうなんだが……」
宗助は目を伏せた。
「おまえはあれだ……。俺が貧しい家の出だから同情しているだけなんだよ。俺を幸せにするって言葉……あれは本当に嬉しかったが、俺はその気持ちだけで十分だから……」
「おまえ、何か勘違いしていないか?」
宗助の言葉を遮るように、紫苑が口を開いた。
紫苑はゆっくりと立ち上がると、宗助の膝に膝がつくほどの距離に座り直した。
「お、おい……」
「私はそんなに良い人間ではない」
紫苑は、お互いの鼻が触れそうなほど宗助に顔を近づけた。
「私はただ、ずっとおまえのそばにいたいだけだ」
宗助は目を見開いた。
真っすぐに見つめる紫苑の瞳から、宗助は目をそらすことができなかった。
ふわりと香った甘い匂いに、宗助は眩暈を覚えた。
「ち、近いって! それに、その顔で言うのはやめろって言ってるだろ……!」
宗助は両手で顔を覆った。
紫苑はフッと笑う。
「だから、ずっとこの顔だと言っているだろう」
「おまえ……、わかっててやってるだろ……」
宗助の言葉に、紫苑は楽しそうに笑った。
「まぁな。ただ、早く慣れてくれ。これからお見合いも続くし、髪はともかく化粧はこれからずっとされるみたいだから」
宗助は指のあいだから紫苑を見た。
「……マジか?」
紫苑は苦笑する。
「ああ、マジだ」
宗助は顔を覆ったまま天を仰いだ。
「慣れるように頑張るよ……」
紫苑は呆れた顔で宗助を見た。
「頑張るようなことではないけどな……。まぁ、頑張ってくれ……」
「ああ、わかった……」
宗助は顔を覆ったまま、重いため息をついた。
「なんだ? 退屈になったのか?」
咲耶が楼主の部屋に足を踏み入れた瞬間、楼主は咲耶に背中を向けたまま聞いた。
楼主は机に向かって座り、何か書き物をしていた。
「おかげさまで、まだまだ退屈しないで済みそうだよ」
咲耶はジトっとした目で楼主の背中を見た。
楼主は軽く笑うと、咲耶を振り返る。
「それならよかった。それで、用件は?」
咲耶は懐から手紙を取り出すと、楼主に見えるように広げた。
「この手紙に書かれている喜一郎様からの贈り物はどこに保管してあるんだ?」
手紙を読み始めてから二日。
咲耶は送られてきているのが手紙だけではないということを、ようやく理解した。
手紙には必ず、早く良くなるように何かを贈るという文が添えられており、咲耶は手紙を開くたび贈り物を確認するため見世中を歩き回ることになった。
「ああ、あれか……」
楼主はゆっくりと立ち上がると、窓の近くにある棚に向かい一番上の引き出しを開けた。
「確かこのあたりに……」
楼主は引き出しの中に手を入れて、中を確認していく。
楼主を見ていた咲耶は、ふと棚の上にある花に目を留めた。
薄紫色の小ぶりの花が美しい花を咲かせている。
(毎年飾ってあるな……。あの花……)
「もうそんな時期か? 今年は少し早い気がするが……」
咲耶は花を見ながら、小さく呟いた。
「ん?」
楼主は顔を上げて咲耶を見た。
咲耶の視線が花にあることに気づくと、楼主はそっと微笑んだ。
「ああ、この夏はあまり暑くなかったからな。今年は早く咲いたらしくて、もう売られていたんだ」
「ふ~ん」
咲耶は薄紫色の花を見つめる。
「ずっと思っていたが、このあたりでは見たことない花だな。北の方で咲く花なのか?」
「いや、ここよりずっと西で咲く花だ。俺の生まれた家のあたりでは、そこらへんに咲いているような花だよ」
楼主は再び棚の引き出しに視線を戻すと言った。
「へ~」
咲耶は棚の前まで足を進めると、指先で花びらを撫でた。
「ああ、あった。これだ」
楼主は引き出しから、小さな桐の箱を取り出した。
楼主はその場にしゃがみ込むと、箱を畳の上に置き、蓋を開ける。
箱の中には美しい細工が施された薬入れが入っていた。
「手紙に書いてあった火傷に効く軟膏だな、きっと……。手紙を読んでいて思ったんだが、私はひどい火傷を負ったと思われているのか?」
咲耶は楼主の横にしゃがむと、薬入れを手に取った。
「一応おまえの客には、怪我はしていないから心配いらないという手紙は出したんだが……。火傷を負ったという噂は出回っているようだな」
「そうか……」
咲耶は目を伏せる。
(ここまで心配されるとは思わなかったな……)
まだすべてを確認することはできていなかったが、開いたどの手紙も咲耶の身を案じ、気遣う言葉で溢れていた。
咲耶の脳裏に、青ざめた叡正の顔、泣き出しそうな信の顔が浮かんだ。
(信のあの顔は夢かもしれないが……)
「私は……死んではいけなかったんだな……」
咲耶はポツリと呟いた。
隣で息を飲む音が聞こえたと思った次の瞬間、咲耶の頭に強い衝撃が走った。
「痛っ!!」
咲耶は頭を両手で押さえてうずくまる。
涙目になった咲耶が恐る恐る顔を上げると、拳を握りしめた楼主が怒りに満ちた眼差しで咲耶を見ていた。
(し、しまった……)
咲耶の顔が一瞬にして青ざめる。
「当たり前だろう!!」
楼主らしくない感情的な声だった。
「おまえはどうしてそう自分のことに無頓着なんだ! おまえを想っている人間がどれだけいると思っている!!」
「いや、無頓着というわけでは……」
咲耶は楼主のあまりの剣幕に、視線をそらしながら言った。
「無頓着だろ! おまえ、あの火事のとき、諦めていたんじゃないのか? ああ、自分は死ぬんだな、とか他人事のように思っていたんだろ!」
楼主の言葉に、咲耶は返す言葉がなかった。
(否定はできないが……、決して死にたかったわけでは……)
「結果、どうなった? 信が、自分が死ぬかもしれないのに炎の中に飛び込んでおまえを助けたんだろう?」
咲耶はハッとしたように楼主を見つめる。
「想われるっていうのはそういうことだ。自分の命を軽く考えるな!」
楼主の言葉に、咲耶は目を伏せた。
「ああ……、悪かったよ……」
楼主は頭を掻くと、小さくため息をついた。
「まだまだわかっているようには見えないが……。とりあえず、これくらいにしておいてやる」
楼主はそう言うと立ち上がり、部屋の奥に戻っていった。
「手紙……ちゃんと読めよ。どれだけ周りに心配かけたのか、よく考えろ……」
「ああ、わかった……」
咲耶は薬入れを箱の中に戻すと、箱を持って立ち上がった。
咲耶は再び机に向かった楼主の背中を見つめる。
「心配かけて、悪かった……」
「……もう二度とご免だぞ」
楼主は背中を向けたまま言った。
「……ああ、わかった」
咲耶はそれだけ言うと、楼主の部屋を後にした。
襖を閉める直前、風のせいか薄紫色の花びらがほんの少しだけ揺れた気がした。
「ようやく慣れたみたいだな」
紫苑は食事をする手を止めると、チラリと宗助を見た。
「ああ、慣れた」
宗助は食事をする手を止めることなく答える。
紫苑の見合いから数日が過ぎ、宗助はようやく普通に紫苑に接することができるようになった。
(まぁ、至近距離はあまり大丈夫じゃないが……)
宗助は紫苑に気づかれないように、なるべく近づくことは避けていた。
「ふ~ん、あれはあれで面白かったが」
紫苑は楽しそうに笑った。
(まったく人の気も知らないで……)
宗助は紫苑に気づかれないように、そっとため息をついた。
「そういえば……」
宗助が話題を変える。
「もうすぐ御前様が江戸から戻ってくる時期じゃないか?」
「ああ、父上が……。もうそんな時期か……」
紫苑は箸を置くと、何かを考えるように目を伏せた。
「お見合いのこともあるし、この際はっきりと言っておくか……」
宗助の箸を持つ手がピタリと止まる。
「待て……。何を言う気だ……?」
宗助は恐る恐る紫苑を見た。
「え? おまえを婿にもらうつもりだと……」
「いやいやいや……!!」
宗助は慌てて首を横に振る。
「だから、前にもやめろと言っただろう……。許されるわけがないんだよ。俺がクビになって終わりだ!」
「そうか?」
紫苑が首を傾げる。
「……そうなんだよ」
宗助はそう言うとため息をついた。
紫苑は宗助を見つめる。
「おまえはどうなんだ? ……父上が良いといえば、おまえはいいのか?」
「俺……?」
宗助は目を丸くする。
「俺は……」
二人のあいだに沈黙が流れる。
宗助は目を伏せた。
そんな未来があるわけがないと思っているため、宗助は自分がどうしたいかなど考えたこともなかった。
(俺がどうしたいか……?)
紫苑は小さく息を吐く。
「おまえが望むことは何かないのか?」
「俺が望むこと?」
「ああ。金を稼ぐために奉公人になったのは知っているが、金以外に何か望むことはないのか?」
紫苑は真っすぐに宗助を見つめていた。
「そうだな……。奉公人になったのも、前に話した剣術を教わった近所のじいさんに勧められたからだし……。俺はただ流されるままに生きているだけだからな……」
「その方は、どうしておまえに奉公人になることを勧めたんだ?」
紫苑は首を傾げる。
「まぁ、農家の次男だからな。奉公に出るのは普通なんだが、じいさんはもったいないから行けって言ってたかな……」
「もったいない?」
「『才能を活かす道がないのはもったいない』って……。奉公に出ているあいだは、一応身分としては武士になるからな。奉公に出れば道も広がるだろうって」
「ああ、なるほどな……」
紫苑は小さく頷いた。
「まぁ、武士って柄でもないけどな」
宗助は軽く笑ったが、紫苑は真剣な顔で宗助を見つめた。
「そんなこともないさ。『守れる力は持っておいた方がいい』と言ったおまえを見て、武家とはこうあるべきものなんだと私が学んだくらいだ」
「守れる力……? ああ、最初に会ったときか! おまえ、よく覚えているな……そんな昔のこと……」
目を丸くする宗助を見て、紫苑はフッと笑った。
「昔でもないさ。……まぁ、それならいいな」
「ん? 何がいいんだ?」
「おまえが未来の御前様になっても問題ないなということだ」
紫苑はにっこりと笑った。
「は!?」
宗助は思わず持っていた箸を落とした。
「問題しかないだろ!? ていうか、本当に無理だから!」
「それは聞いてみないとわからないだろう?」
「いやいや、聞いた時点で俺がクビになるから!」
宗助は箸を拾いながら言った。
「フフ、大丈夫さ」
宗助は額に手を当てた。
「どこから来るんだ、その自信は……」
宗助はため息をついた。
数日後、紫苑の父は奉公人たちとともに、江戸から屋敷に戻ってきた。
屋敷に残っていた奉公人たちは、すぐに笑顔で出迎えたが、戻ってきた者たちの顔は一様に暗く、江戸でのことを誰も語ろうとはしなかった。
翌日、紫苑はその理由を知ることになる。
何かが砕けるような高い音がした。
「おやめください!! 姫様!!」
紫苑の部屋で叫ぶような女の声が響いた。
部屋の前を歩いていた宗助は、慌てて部屋の襖を開ける。
「これは一体……」
宗助は目を見開き、思わず呟いていた。
紫苑の部屋は泥棒でも入ったかのように荒れ果てていた。
着物が破られた状態で散乱し、棚や床の間に飾ってあった花瓶や壷はすべて割れていた。
そんな中で奉公人の女と紫苑がもみ合っている。
女は紫苑の両手首を掴み、紫苑を必死で抑えているように見えた。
紫苑の手には割れた陶器の欠片が握りしめられていて、その手は血で赤く染まっている。
「宗助さん! 宗助さんも止めてください! 姫様が!!」
宗助が入ってきたことに気づくと、女は必死の形相で宗助を呼んだ。
「あ、はい!」
宗助は慌てて二人のもとに駆け寄る。
紫苑の顔に表情はなく、紫苑は宗助が来たことにもまったく気づいていないようだった。
(どうしたんだ……一体……)
宗助は戸惑いながら、そっと紫苑の手首を掴んだ。
「姫様……、どうしたんですか……?」
紫苑がハッとしたように、宗助の顔を見る。
「ああ……、宗助か……」
紫苑はゆっくりと目を伏せると、腕の力を抜いた。
宗助は紫苑の手からすばやく陶器の欠片を抜き取った。
欠片にはべっとりと血がついている。
宗助は血だらけの痛々しい紫苑の手を見て、思わず顔をしかめた。
「すみません……、水と清潔な布を持ってきていただけませんか?」
宗助は女に向かって言った。
女は紫苑を心配そうに見ていたが、宗助を見てゆっくりと頷く。
「わかりました……。姫様をお願いします」
宗助が頷くのを確認すると、女は部屋から出ていった。
宗助は茫然としている紫苑の肩を掴むと、支えるように破片の落ちていないところまで移動し、ゆっくりと座らせた。
「おい、大丈夫か? 何があったんだ……?」
紫苑はゆっくりと宗助に視線を向ける。
その瞳は暗く、まるで何も映していないようだった。
「紫苑……?」
「ちょうどよかった……」
紫苑は引きつった笑顔を浮かべた。
「少し手伝ってくれないか……?」
宗助は紫苑を見つめる。
どう見ても、いつもの紫苑とは様子が違っていた。
「……何をだ?」
宗助がかすれた声で聞く。
紫苑は血に染まった手で、自分の頬に触れた。
「顔をズタズタにするのを……手伝ってくれないか?」
宗助は息を飲んだ。
「おまえ……何を……」
紫苑の頬に触れていた手が、ゆっくりと畳の上に落ちる。
「そうしたら……行かなくてもいいかもしれないから」
紫苑の瞳は静かに濡れていた。
「着ていく着物がなく、顔もズタズタの女なら、行かなくても許されるかもしれないだろう……?」
宗助は言葉が出なかった。
(どこに行くっていうんだ……)
「どうして奥なんかに……!」
紫苑の唇はかすかに震えていた。
「……奥?」
紫苑は乾いた笑いを浮かべた。
「江戸の大奥だ……」
宗助は目を見開いた。
「どう……して……」
宗助がそう言いかけた瞬間、紫苑が手を伸ばして落ちていた陶器の欠片を掴んだ。
「紫苑!!」
紫苑が顔を切りつけるより早く、宗助が紫苑の手首を掴む。
「何やってるんだ!? やめろ!!」
紫苑の濡れた瞳に、宗助が映った。
「じゃあ、どうすればいい!? 大切なものは全部ここにあるのに! どうしてそんなところに行かなければいけないんだ!?」
紫苑の顔が今にも泣き出しそうに歪む。
「ああ……」
紫苑は軽く笑った後、わずかに目を伏せた。
長い睫毛が涙で濡れている。
「そういえば、前に顔は可愛いと言ってくれたか……」
紫苑は宗助を見つめる。
紫苑の瞳に戸惑った宗助の顔が映し出された。
「この顔は好きか? ……おまえが好きだと言ってくれるなら、もう傷つけないから……」
宗助は目を見開いたまま、何も答えることができなかった。
(俺……は…………)
紫苑は力なく微笑むと、静かに目を閉じた。
目からこぼれた涙が、頬についた血と混じり畳に赤い雫が落ちる。
「悪い……。今、私はどうかしているんだ……。気にしないでくれ……」
「紫苑……」
そのとき、襖が開く音がした。
「宗助さん! 水と清潔な布を持ってきました!」
奉公人の女が桶に入った水と布を持って二人に駆け寄る。
「頭が冷えた」
紫苑は宗助に向かってぎこちなく微笑んだ。
「もう大丈夫だから、行ってくれ。何か仕事の途中だったんだろ?」
「いや、しかし……」
宗助がためらっていると、紫苑が宗助の着物の袖を掴んだ。
「頼む……。もう行ってくれ……」
紫苑は顔を伏せていて、その表情はわからなかった。
「……わかった」
宗助はゆっくりと立ち上がると、女に視線を向けた。
「手当てを頼みます……」
女は力強く頷くと、水の入った桶を置いて紫苑の前にしゃがみ込んだ。
宗助は茫然としたまま、紫苑の部屋を後にした。
(紫苑が……大奥に……?)
理解が追いつかなかった。
(紫苑が…………いなくなるのか?)
『宗助!』
聞き慣れた声が聞こえた気がして振り返ったが、そこに紫苑の姿はなかった。
宗助の胸がざらりと嫌な音を立てる。
「紫苑、俺は……」
宗助は天を仰ぐと、静かに目を閉じた。
「人質……みたいなものでしょうか……?」
奉公人の男はそう言うと目を伏せた。
「人質……」
宗助は足元を見る。
絶望的な言葉に、体が鉛のように重くなっていくのを感じた。
紫苑の部屋を出た後、宗助は江戸に同行していた奉公人の男を訪ね、紫苑のことを聞いた。
なぜ紫苑が大奥に入ることになったのか、まずは事情が知りたかった。
「今の奥様が江戸にいらっしゃるのは知っていますよね?」
宗助は静かに頷く。
幕府との取り決めで、大名の正室と世継ぎは江戸で暮らさなければならないことは、農家の出の宗助でも知っていることだった。
「この屋敷にはお世継ぎがいません。ご正室だった姫様のお母様が亡くなられて、今の奥様は正室として江戸で暮らしてもらうために籍を入れたという裏事情もあったのです……。しかし、将軍家から見ると人質としては不十分だったのでしょうね……」
(そんな事情が……)
宗助は目を伏せた。
「それに加えて、将軍家は今、なかなかお世継ぎができず困っている状況です。亡くなられた奥様に似ている姫様の美しさは江戸でも有名ですから……。大奥に入ってもらえれば世継ぎが生まれる可能性も高まり、人質にもなっていいと考えたのでしょう」
「そう……なのですね……」
宗助は気づかないうちに拳を握りしめていた。
「うちの藩は大きくなり過ぎました……。姫様がほかの大名家の次男や三男を婿養子に迎えることがあれば、大名同士の結びつきが強くなり、幕府にとっての脅威になるとも考えたのでしょう。御前様はそんな気はないと示すために、貧しい武家の息子とのお見合いを組んでみせていたのですが、納得しなかったようですね……」
男は悲しげに微笑んだ。
「お見合いはそういう意味もあったのですね……」
「ええ」
男はそっと頷いた。
「拒むことは……?」
宗助の言葉に、男は悲しげに微笑むと首を横に振った。
「できません。江戸で御前様がずっと交渉を続けても覆らなかったのです。拒めば将軍家に背いたとして、この家ごと取り潰しになってもおかしくありません」
宗助は目を閉じた。
(どうすることもできないのか……?)
「将軍家への輿入れ自体は名誉なことではありますが……」
男は目を伏せた。
「姫様は決して望まないでしょうね……」
宗助は何も言えず、ただうつむいた。
大奥に入れば、もう二度と屋敷に戻ることもこの地に帰ることもできない。
(俺が言った、嫁に行くまでっていうのは、こういうことじゃないんだよ……)
宗助はきつく目を閉じた。
(誰かに愛され守られて、ただ幸せになってほしかっただけなのに……)
人質という言葉が、宗助の胸に重くのしかかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
食事の時間となり、宗助は再び紫苑の部屋を訪れた。
破れた着物や割れた花瓶は片付けられ、部屋はいつもの状態に戻っていた。
部屋の片隅で、紫苑が生気のない顔で座り込んでいる。
紫苑の前に食事の膳を運んだ宗助は、思わず目を伏せた。
部屋に入る前に声は掛けていたが、紫苑は宗助が部屋に入ったことにも気づいていないようだった。
「紫苑……」
宗助がかすれた声でそっと呼びかける。
紫苑の瞳がゆっくりと動き、宗助に向けられた。
「ああ、宗助か……」
「食事だ……」
宗助はなんとかそれだけ口にした。
紫苑の口元に薄っすらとした笑みが浮かぶ。
「もうそんな時間か……。悪いが食欲がない、下げてくれ」
「紫苑、少しだけでも食べないと……」
宗助は茶碗を持つと箸でご飯を少しだけすくい、紫苑の口元に運んだ。
「……病人にでもなった気分だな……」
紫苑は宗助を見てかすかに笑うと、小さく口を開けてご飯を口に含んだ。
ゆっくりと紫苑の口が動き、異物を飲み込むようにゴクリと喉が鳴る。
「もう大丈夫だ……。ありがとう……」
紫苑は宗助に向かって微笑んだ。
「宗助は甲斐甲斐しいな……。私の女中になってほしいくらいだ……。女装して一緒に来るか……?」
紫苑は乾いた笑いを浮かべる。
「ふふ、冗談だ……」
「紫苑……」
宗助は茶碗を膳に戻すと、紫苑をそっと抱き寄せた。
紫苑の体がビクリと震える。
「どうした……? 弟を嫁に出すような気持ちになったのか……?」
紫苑の声は震えていた。
宗助は何も言えず、ただ腕に力を込める。
(俺は……)
「ふふ、温かいな……。弟だと思ってもう少しだけ、このままでいてくれないか……?」
紫苑は絞り出すような声で言った。
「……ああ」
宗助はかすれた声で呟き、目を閉じた。
(紫苑、俺は……)
宗助の想いは言葉になることはなく、ただ宗助の胸を締めつけ続けていた。
翌日になると、紫苑はまるで前日のことが嘘のように落ち着きを取り戻していた。
不自然なほどに普段通りの紫苑に、奉公人たちは戸惑いながらも何事もなかったように接した。
宗助もほかの奉公人と同じように、ただ紫苑を見守ることしかできなかった。
いつも通りの日々が続き、誰も何も触れないまま、紫苑が旅立つ前日となった。
裏では紫苑が江戸に向かう準備が着々と進んでいたが、表立っては何の変化もない、いつもと変わらない日だった。
紫苑に掛ける言葉が見つからないまま、日が暮れて夜になり、すべての仕事を終えた宗助は重い足取りで自分の部屋に戻った。
(明日には紫苑が……)
宗助はその場にしゃがみ込んだ。
(俺は……一体何がしたいんだ……。)
薄暗い部屋の中で灯りも点けず、宗助はただ畳を見つめていた。
(俺は…………)
そのとき、襖を叩く音がした。
宗助は顔を上げて襖を見る。
(誰だ……? こんな時間に……)
「……はい」
宗助の返事とともに、襖がゆっくりと開く。
「な!?」
襖の向こうに立っていたのは紫苑だった。
薄暗く顔はよく見えなかったが、長い髪を後ろでひとつに束ねた髪型も、薄っすらと見える着物の柄も紫苑のもので間違いなかった。
「おまえ……どうしてこんなところに……」
宗助は目を見開く。
紫苑が宗助の部屋を訪ねてきたことは、今までに一度もなかった。
そもそも屋敷の姫様が奉公人の部屋まで出向くことなど、どんなに急ぎの用だとしてもありえないことだった。
宗助の問いに答えることなく、紫苑は部屋に入ると宗助の前まで足を進める。
「……紫苑?」
宗助は呟くように言った。
紫苑は何も言わず、宗助の前に膝をつく。
手の届く距離まで来たことで、宗助はようやく紫苑の顔を見ることができた。
紫苑はどこか不安げな表情を浮かべ、ためらいがちに宗助を見つめた。
「どう……したんだ……?」
宗助はかすれた声で聞いた。
「何か……あったのか……?」
紫苑は何も答えなかった。
「……紫苑?」
宗助がそう口にした瞬間、ふわりと甘い香りが宗助を包んだ。
(…………え?)
視界が暗くなり、柔らかいものが唇に触れる。
宗助は目を見開いた。
触れたものが紫苑の唇だと気づいたのは、紫苑の唇が離れ、顔にかすかな吐息がかかった瞬間だった。
紫苑の涙に濡れた瞳が、真っすぐ宗助に向けられる。
紫苑の唇はかすかに震えていた。
「私と一緒に…………逃げてくれないか……? 私とともに……」
紫苑はそこまで言うと目を伏せた。
長い睫毛が顔により暗い影を落とす。
「一緒に……逃げる……?」
宗助はかすれた声で呟いた。
紫苑の伏せられた睫毛がわずかに揺れる。
(一緒に……逃げる……)
宗助の見開いた瞳が揺れ動く。
(ああ、そうだ……。逃がすことができるのなら、逃がしてやりたい……そう思っていた……)
宗助は紫苑の細い肩を抱きしめようと手を伸ばした。
(大丈夫だと言ってやりたかった……。俺が守ってやると言いたかった……)
その瞬間、宗助の脳裏に悲惨な光景が浮かぶ。
投獄され裁きを受ける紫苑の父親、罪の問われ故郷を追われる奉公人たち、打ち首になる宗助の家族……。そして、捕らえられ殺される紫苑の姿。
宗助は息が苦しくなり、思わず伸ばしかけた手で胸を押さえた。
(逃げきることなんてできるのか……? 俺は……本当に紫苑を守りきることができるのか? 周りをすべて犠牲にして……紫苑さえも不幸にすることにならないか……?)
宗助の手がゆっくりと畳に落ちる。
息が苦しかった。
(大奥に行けば、少なくとも追われて死ぬことはないはずだ……)
宗助は震える唇を動かす。
「紫苑……、ダメだ……。……みんな……不幸になる……」
口にした瞬間、宗助は自分の発した言葉の意味に愕然とした。
「あ、ち、違……!」
「みんな……?」
紫苑のかすれた声が、宗助の耳に響く。
硝子のような二つの瞳が宗助に向けられ、大きく揺れた。
紫苑を支えていた何かが壊れたように、紫苑の顔がゆっくりと歪む。
「違う! ……そういう意味じゃ……!」
紫苑は表情を隠すように顔をそむけると、立ち上がり背を向けた。
「紫苑……! 違う……」
「いいんだ。最初からわかっていた……」
紫苑は背を向けたまま言った。
その声は不自然なほど明るかった。
「おまえが不幸になることはしない」
「紫苑! 違うんだ! そういう意味じゃ……」
「ただ、さ……」
紫苑はそう言うと、少しだけ宗助を振り返った。
「私の幸せを……おまえが語るなよ……」
紫苑は笑った。その顔は宗助が今まで見たどの顔よりも寂しげで、笑顔のはずなのに、泣いているようでもあった。
紫苑はそれだけ言うと、そのまま廊下に向かった。
「違う……! 紫苑…………」
宗助が紫苑に向かって伸ばした手は、わずかに紫苑には届かなかった。
紫苑はそのまま宗助の部屋を後にした。
宗助は頭を抱えてうずくまる。
「違うんだ……。紫苑、俺は…………」
叫び出したいほどに胸が痛かった。
この胸の痛みの意味を宗助自身もう十分に理解していたが、想いが言葉になることはついになかった。