「ほら、これもやる」
紫苑はそう言うと刺身の盛られた皿を宗助に差し出した。
「嫌いなんだ」
紫苑は宗助に向かってにっこりと微笑む。
「いりません。というか、自分で食べてください。大きくなれませんよ」
宗助は自分の分の食事を口に運びながら淡々と言った。
「食べてくれたっていいじゃないか」
紫苑は唇を尖らせる。
「なんだ? 大きい女が好きなのか?」
「は?」
宗助は呆れた顔で紫苑を見た。
「大きい女も何も、姫様はまだ十くらいでしょう。子どもなんですから、たくさん食べてちゃんと大人になってください」
「はは、言ってくれるなぁ」
紫苑は可笑しそうに笑った。
「まぁ、それは置いておいて……、とにかく嫌いだから、これを食べてくれ。……ああ、木刀で叩かれた手が痛いなぁ。父上に報告してしまいそうだ……」
紫苑はそう言うとチラリと宗助の顔を見た。
宗助は紫苑をジトっとした目で見つめ返す。
「またそれですか? それで何でも思い通りになると思わないでくださいよ。奉公人が一緒に食事をすることだって本当はダメなんですから」
「いいじゃないか。ひとりで食事をするのは寂しいんだ。付き合ってくれ」
紫苑は宗助を見つめると無邪気に微笑んだ。
宗助は小さくため息をつく。
(なぜこんなことに……)
紫苑付きの奉公人になって三日、紫苑はほかの奉公人が驚くほど宗助に絡んできていた。
寂しいからという理由で食事を共にすることになったのをはじめ、部屋にいるときも、どこかに出かけるときも宗助は紫苑に呼び出されていた。
(木刀で叩かれたのをそんなに根に持っているのか……?)
宗助はチラリと紫苑を盗み見る。
高い位置にひとつでまとめられた髪は、最初に会ったときと同じだったが、今の紫苑は姫様らしい上等な着物を着ていた。
整った顔立ちに、仕草の一つひとつから感じ取れる品の良さ。
(どう見てもお姫様だろう……。どうして奉公人の少年だなんて思ったんだ……!)
宗助は後悔の念でいっぱいだった。
宗助の視線に気づいた紫苑はにっこりと微笑んだ。
「どうしたんだ? 男だと勘違いしていたことでも悔いていたのか?」
「な!?」
宗助は目を見開く。
(どうして……!)
宗助の様子を見て、紫苑はフッと微笑んだ。
「気がつくさ。男だと思っていなかったら、手合わせなんてしなかっただろう?」
「あ、いや……そんな……」
宗助は視線をそらし、言葉を濁した。
紫苑は軽く笑う。
「ああ、傷ついたな……。傷ついたから……」
紫苑はそう言うと刺身の皿を持って立ち上がった。
ゆっくりと宗助の膳の前まで移動すると、刺身の皿を膳に置く。
「食べてくれ」
紫苑はにっこりと微笑んだ。
宗助は反論しようとわずかに口を開いたが、紫苑の笑顔の圧力に負けて、ゆっくりと息を吐いた。
「わかりました……。ただ、刺身だけですからね! 今後、ほかに嫌いなものが出てきても自分で食べてくださいよ」
「ああ、わかった」
紫苑は満足げな笑顔で頷いた。
「あ、ついでに、これから二人のときは敬語はやめてくれ」
「は?」
宗助は呆然と紫苑を見つめる。
「そんなの無理に決まっているでしょう……。俺は奉公人ですよ?」
「大丈夫。二人だけの秘密にすればいい」
「そんなわけには……」
「ああ、傷ついた……! 父上に……」
「わかった! もうわかったから!」
宗助は諦めたように言うと、頭を抱えた。
(どっちにしろ、俺クビになるんじゃ……)
宗助がため息をつきながら顔を上げると、紫苑は嬉しそうに宗助を見つめていた。
宗助はもう一度ため息をつく。
「あ、そういえば……」
宗助はずっと疑問に感じていたことを思い出した。
「あのとき……最初に会ったとき、どうして俺が剣術ができるってわかったんだ?」
宗助の言葉に、紫苑は苦笑する。
「逆にどうしてわからないと思ったんだ? おまえの姿勢も歩き方もお辞儀の仕方も、全部武士の所作だぞ。むしろ奉公人だってことに気づいたのは、私のお目付け役が来てからだ」
「そう……だったのか……。昔、近所のじいさんに無理やり剣術をやらされてたからな。そのクセがついているのかも……」
「ああ、そうなのか。指導した方が上手いのか、おまえの筋がいいのか、どちらにしろすごいな」
「まぁ、どっちもだろうな」
宗助は淡々と言った。
紫苑はフフッと笑う。
「言うなぁ、おまえ」
「あ、それともうひとつ……、どうして俺に構うんだ? その……木刀で叩いたことをまだ根に持っているのか……?」
宗助の言葉に、紫苑は吹き出した。
「そんなわけないだろう! 自分から手合わせをお願いしたのに!」
紫苑はひとしきり笑い終わると、真っすぐに宗助を見た。
「……何にも興味がなさそうに見えたんだ」
「は?」
「すべてに関心がなさそうに見えたおまえが、『大切なものを守れる力は持っておいた方がいい』と言った。……大切なものとは、おまえの家族のことか?」
「え、ああ……まぁ」
宗助の返事に、紫苑は微笑んだ。
紫苑は遠くを見つめる。
「羨ましいと思ったんだ……。その大切なものの中に、私も入りたいと思った」
宗助は目を丸くした。
(そんな大層なことではないんだが……)
宗助は紫苑を見つめる。
遠くを見つめるその表情はどこか悲しげに見えた。
(ひとりの食事が寂しいっていうのは、案外嘘ではないのかもしれないな……)
宗助は目を伏せた。
「羨ましいと思ってもらえるほど、俺は家族を大事にできてないし……あれだけど……」
宗助は目を泳がせながら言った。
「姫様のことは守りますよ。……俺はここの奉公人だし……、姫様付きなので……。何かあれば守ります。必ず」
宗助がそう言い終えると顔を上げた。
その瞬間、宗助は言葉を失う。
宗助を見つめて微笑む紫苑の表情は、言葉にできないほど美しかった。
形のよい唇がゆっくりと動く。
「ありがとう、宗助」
十の少女とは思えないほど、その表情は大人びていて、宗助は思わず目をそらした。
「い、いや……」
宗助はなんとかそれだけ口にした。
「あ、そうだ。二人のときは、これから紫苑と呼んでくれ」
「……は?」
宗助が再び顔を上げたとき、紫苑の表情はまた無邪気な少女のものに戻っていた。
「ああ、男だと思われていたなんて傷ついたな……。父上に報告を……」
「わかった! わかったから!」
宗助の言葉に、紫苑は楽しそうに微笑んだ。
「よろしくな、宗助」
紫苑の無邪気な笑顔を見て、宗助は諦めたように小さくため息をついた。
紫苑はそう言うと刺身の盛られた皿を宗助に差し出した。
「嫌いなんだ」
紫苑は宗助に向かってにっこりと微笑む。
「いりません。というか、自分で食べてください。大きくなれませんよ」
宗助は自分の分の食事を口に運びながら淡々と言った。
「食べてくれたっていいじゃないか」
紫苑は唇を尖らせる。
「なんだ? 大きい女が好きなのか?」
「は?」
宗助は呆れた顔で紫苑を見た。
「大きい女も何も、姫様はまだ十くらいでしょう。子どもなんですから、たくさん食べてちゃんと大人になってください」
「はは、言ってくれるなぁ」
紫苑は可笑しそうに笑った。
「まぁ、それは置いておいて……、とにかく嫌いだから、これを食べてくれ。……ああ、木刀で叩かれた手が痛いなぁ。父上に報告してしまいそうだ……」
紫苑はそう言うとチラリと宗助の顔を見た。
宗助は紫苑をジトっとした目で見つめ返す。
「またそれですか? それで何でも思い通りになると思わないでくださいよ。奉公人が一緒に食事をすることだって本当はダメなんですから」
「いいじゃないか。ひとりで食事をするのは寂しいんだ。付き合ってくれ」
紫苑は宗助を見つめると無邪気に微笑んだ。
宗助は小さくため息をつく。
(なぜこんなことに……)
紫苑付きの奉公人になって三日、紫苑はほかの奉公人が驚くほど宗助に絡んできていた。
寂しいからという理由で食事を共にすることになったのをはじめ、部屋にいるときも、どこかに出かけるときも宗助は紫苑に呼び出されていた。
(木刀で叩かれたのをそんなに根に持っているのか……?)
宗助はチラリと紫苑を盗み見る。
高い位置にひとつでまとめられた髪は、最初に会ったときと同じだったが、今の紫苑は姫様らしい上等な着物を着ていた。
整った顔立ちに、仕草の一つひとつから感じ取れる品の良さ。
(どう見てもお姫様だろう……。どうして奉公人の少年だなんて思ったんだ……!)
宗助は後悔の念でいっぱいだった。
宗助の視線に気づいた紫苑はにっこりと微笑んだ。
「どうしたんだ? 男だと勘違いしていたことでも悔いていたのか?」
「な!?」
宗助は目を見開く。
(どうして……!)
宗助の様子を見て、紫苑はフッと微笑んだ。
「気がつくさ。男だと思っていなかったら、手合わせなんてしなかっただろう?」
「あ、いや……そんな……」
宗助は視線をそらし、言葉を濁した。
紫苑は軽く笑う。
「ああ、傷ついたな……。傷ついたから……」
紫苑はそう言うと刺身の皿を持って立ち上がった。
ゆっくりと宗助の膳の前まで移動すると、刺身の皿を膳に置く。
「食べてくれ」
紫苑はにっこりと微笑んだ。
宗助は反論しようとわずかに口を開いたが、紫苑の笑顔の圧力に負けて、ゆっくりと息を吐いた。
「わかりました……。ただ、刺身だけですからね! 今後、ほかに嫌いなものが出てきても自分で食べてくださいよ」
「ああ、わかった」
紫苑は満足げな笑顔で頷いた。
「あ、ついでに、これから二人のときは敬語はやめてくれ」
「は?」
宗助は呆然と紫苑を見つめる。
「そんなの無理に決まっているでしょう……。俺は奉公人ですよ?」
「大丈夫。二人だけの秘密にすればいい」
「そんなわけには……」
「ああ、傷ついた……! 父上に……」
「わかった! もうわかったから!」
宗助は諦めたように言うと、頭を抱えた。
(どっちにしろ、俺クビになるんじゃ……)
宗助がため息をつきながら顔を上げると、紫苑は嬉しそうに宗助を見つめていた。
宗助はもう一度ため息をつく。
「あ、そういえば……」
宗助はずっと疑問に感じていたことを思い出した。
「あのとき……最初に会ったとき、どうして俺が剣術ができるってわかったんだ?」
宗助の言葉に、紫苑は苦笑する。
「逆にどうしてわからないと思ったんだ? おまえの姿勢も歩き方もお辞儀の仕方も、全部武士の所作だぞ。むしろ奉公人だってことに気づいたのは、私のお目付け役が来てからだ」
「そう……だったのか……。昔、近所のじいさんに無理やり剣術をやらされてたからな。そのクセがついているのかも……」
「ああ、そうなのか。指導した方が上手いのか、おまえの筋がいいのか、どちらにしろすごいな」
「まぁ、どっちもだろうな」
宗助は淡々と言った。
紫苑はフフッと笑う。
「言うなぁ、おまえ」
「あ、それともうひとつ……、どうして俺に構うんだ? その……木刀で叩いたことをまだ根に持っているのか……?」
宗助の言葉に、紫苑は吹き出した。
「そんなわけないだろう! 自分から手合わせをお願いしたのに!」
紫苑はひとしきり笑い終わると、真っすぐに宗助を見た。
「……何にも興味がなさそうに見えたんだ」
「は?」
「すべてに関心がなさそうに見えたおまえが、『大切なものを守れる力は持っておいた方がいい』と言った。……大切なものとは、おまえの家族のことか?」
「え、ああ……まぁ」
宗助の返事に、紫苑は微笑んだ。
紫苑は遠くを見つめる。
「羨ましいと思ったんだ……。その大切なものの中に、私も入りたいと思った」
宗助は目を丸くした。
(そんな大層なことではないんだが……)
宗助は紫苑を見つめる。
遠くを見つめるその表情はどこか悲しげに見えた。
(ひとりの食事が寂しいっていうのは、案外嘘ではないのかもしれないな……)
宗助は目を伏せた。
「羨ましいと思ってもらえるほど、俺は家族を大事にできてないし……あれだけど……」
宗助は目を泳がせながら言った。
「姫様のことは守りますよ。……俺はここの奉公人だし……、姫様付きなので……。何かあれば守ります。必ず」
宗助がそう言い終えると顔を上げた。
その瞬間、宗助は言葉を失う。
宗助を見つめて微笑む紫苑の表情は、言葉にできないほど美しかった。
形のよい唇がゆっくりと動く。
「ありがとう、宗助」
十の少女とは思えないほど、その表情は大人びていて、宗助は思わず目をそらした。
「い、いや……」
宗助はなんとかそれだけ口にした。
「あ、そうだ。二人のときは、これから紫苑と呼んでくれ」
「……は?」
宗助が再び顔を上げたとき、紫苑の表情はまた無邪気な少女のものに戻っていた。
「ああ、男だと思われていたなんて傷ついたな……。父上に報告を……」
「わかった! わかったから!」
宗助の言葉に、紫苑は楽しそうに微笑んだ。
「よろしくな、宗助」
紫苑の無邪気な笑顔を見て、宗助は諦めたように小さくため息をついた。