(ここは……?)
咲耶が目を開けると、霞んだ視界の向こうに見慣れた天井が見えた。
(私の……部屋……?)
「花魁!? よかった……」
緑の声が響く。
声が聞こえた方に顔を向けると、緑が泣きそうな顔で咲耶を見ていた。
少し前まで泣いていたのか、緑の目は赤く瞼が腫れていた。
(そうか……。助かったのか……)
咲耶は裏茶屋で見た信のことを思い出した。
(あれは……夢……?)
緑は、掛け布団の上に出ていた咲耶の手を取ると強く握りしめた。
「もう……目を覚まさないんじゃないかと思いました……。本当に……本当によかった……!」
緑の目から涙が溢れ出す。
「……み……どり……」
咲耶は緑を安心させようと名を呼んだが、その声はひどくかすれていた。
「あ、まだ声は出さない方がいいかもしれないです! 良庵先生が外傷はないけど、煙をかなり吸い込んでるみたいだって言ってましたから!」
(ああ……そうか……)
咲耶は緑の言葉に頷くと小さく微笑んだ。
咲耶の笑顔を見て、緑も涙を流しながら微笑む。
「あ、楼主様を呼んできます! 花魁の目が覚めたら知らせるように言われているので」
緑はそう言うと、咲耶の手をそっと離して部屋を出ていった。
ひとりになった部屋で咲耶は窓の方を見た。
窓からは明るい日差しが差し込んでいる。
(あの火事からどれくらいの時間が経ったんだ……?)
咲耶はゆっくりと布団の上で体を起こした。
(……私以外の者は大丈夫だっただろうか? 裏茶屋にいたほかの人は? ……あれが夢でないなら……信は?)
頭の奥がズキリと痛み、咲耶は顔をしかめた。
(あの火事は偶然ではないだろう……。狙われたのは私か? それとも信? 裏茶屋にいたほかの誰かか……?)
咲耶はため息をついた。
(ここで考えたところで答えは出ない……か)
そのとき、襖が開く音がして、咲耶は振り返る。
「咲耶……」
そこには楼主の姿があった。
楼主の顔色は悪く、慌てて走ってきたのか少し息が上がっている。
いつも落ち着いている楼主らしくない姿だった。
「……ひどい……顔……」
咲耶は思わずかすれた声で呟いた。
咲耶の言葉を聞き、楼主は目を丸くした後、長いため息をついた。
「おまえな……、それが二日間心配していた人間に掛ける言葉か……?」
楼主は呆れたような顔で、咲耶に近づくと布団の横に腰を下ろした。
「……ふつ……か?」
「そうだ。おまえ、あれから二日眠っていたんだ」
楼主は咲耶を見た。
「大丈夫か?」
「ああ……、声……以外は……」
咲耶は頷くと、自分の両手を見つめた。
「……悪……かった……。心配……かけて……」
楼主は苦笑すると、咲耶の頭をポンポンと叩いた。
「謝ることでもないだろう? おまえが無事でよかった」
「ほかの……人たちは……?」
咲耶は顔を上げると、楼主を見つめた。
「みんな無事だ。おまえを助けてくれた信も、火傷は負っていたらしいが無事のようだ」
「無事のようだ……ってことは、会って……いない……のか?」
咲耶は不思議に思い首を傾げる。
「ああ、おまえをここまで運んだのは叡正という男だ。その男が、信が助けたと言っていた」
(叡正……? どうして叡正が?)
首を傾げている咲耶を見て、楼主は息を吐いた。
「とにかく、しっかり礼を言うんだぞ。信にも叡正という男にも」
「あ、ああ……」
咲耶は微笑んで頷いた。
「……私のことは……良庵が診てくれたのか?」
「おい、呼び捨てにするな。ああ、良庵先生が診てくれた」
「また……借りができたな……」
咲耶はうつむくと、小さく呟いた。
「ん? なんだって?」
「いや、なんでもない……」
咲耶は慌てて首を横に振った。
「信の様子を見に長屋に行くって言っていたから、今日あたり行っているかもしれないな」
楼主は思い出したように言った。
「そうか……。火傷……ひどいのか……?」
咲耶がポツリと呟く。
楼主は咲耶を見つめた後、目を伏せた。
「さぁな。今度会ったときに確かめろ」
楼主はそう言うと立ち上がった。
「俺はそろそろ戻るから、おまえはもう休め。みんな心配している。早く元気になって姿を見せてやれ」
「ああ……、わかった」
咲耶の言葉を聞くと、楼主は静かに頷き、部屋を後にした。
ひとりになると、咲耶はゆっくりと体を倒した。
(今はとにかく体調を整えないとな……)
咲耶は静かに目を閉じる。
長く眠っていたはずなのに、横になると咲耶の意識は一気に遠のいていった。
『桜……』
咲耶は懐かしい夢を見た。
温かく心地よい夢だった。
しかし、再び咲耶が目を覚ましたとき、咲耶は夢を見たことさえ覚えてはいなかった。
「ほら、来てやったぞ!」
良庵は長屋の戸を勢いよく叩きながら大声で言った。
隣にいた咲は目を丸くする。
「せ、先生……、そんな大きな音を……」
良庵は咲の言葉を無視して、再び強く戸を叩く。
少しすると長屋の戸が開き、信が顔を出した。
(聞いてた通り……ひでぇ火傷だなぁ……)
良庵は戸の隙間から見えた信の腕と足を見て、思わず顔をしかめた。
信の火傷は赤く水疱ができているところもあれば、黒ずんでいるところもあった。
「手当ては必要ない」
信はそれだけ言うと戸を閉めようとした。
良庵は慌てて戸に手を掛ける。
「まぁ、待て。おまえのためじゃない。練習台になってもらうために来たんだよ」
良庵は隣にいる咲を見た。
「おまえが連れて来たんだ。助手の上達のために、練習台くらいにはなってくれるだろう?」
信はしばらく無言で咲を見つめると、戸から手を離し奥に入っていった。
咲が不安げな表情で良庵を見る。
「入れってことだ」
良庵は咲にそう言うと、長屋の中に入った。
「なんだ、ひとりか?」
信は奥の座敷にひとりで座っていた。
「弥吉ってやつがいるって聞いてたんだが……」
良庵は長屋をひと通り見ると、信に視線を向けた。
信は顔を上げて良庵を見る。
「弥吉はしばらく帰ってきていない……」
良庵は眉をひそめる。
「帰ってきてないって……。どこに行ったんだ?」
信は目を伏せる。
「わからない……」
「わからないって……」
良庵は頭を掻いた。
(弥吉ってやつがいるなら、最低限の手当はしてあるかと思ったが……。この様子じゃ、何もしてねぇな……)
良庵は思わずため息をつく。
「痕は残ると思うが何もしないよりはマシか……」
良庵はそう呟くと、おずおずと長屋に入ってきた咲に近づいた。
咲が持っている薬箱の中から二つ軟膏を取り出すと咲に差し出す。
「これとこれを混ぜておいてくれ」
「あ、はい!」
咲は慌てて薬箱を置くと軟膏を受け取った。
「それから、井戸から水を汲んできてもらえるか?」
「は、はい! わかりました!」
咲はそう言うと、軟膏を一旦薬箱の上に置き、水を汲みに長屋の外に出ていった。
咲の背中を見送ると、良庵は座敷に上がり信の横に腰を下ろす。
「俺の言ったことの意味、わかったか?」
信は無言で良庵を見つめると、視線を落とした。
「危ないことに首突っ込むなって言っただろう? おまえだって死ぬときは死ぬし、それは咲耶も同じだ」
良庵の言葉に、信の瞳がわずかに揺れる。
「危ないのはおまえだけじゃないんだよ。……死んでほしくないんだろう?」
良庵は信の腕を見つめた。
「自分の体がこんなになっても助けるくらい……」
良庵は小さくため息をつく。
「なぁ、信……。もう普通に生きたらどうだ? 咲耶だってそれを望んでるんじゃないのか?」
信を視線を落としたまま何も答えなかった。
二人の間に重苦しい空気が流れる。
良庵が言葉を重ねようとしたとき、信の唇がわずかに動いた。
「俺は…………」
そのとき、長屋の戸が開いた。
「水汲んできました!」
咲が水を入れた桶を持って、長屋の戸口に立っていた。
「あ、ああ。早かったな。じゃあ、さっきの軟膏を混ぜてくれ」
良庵は立ち上がると、咲から水の入った桶を受け取った。
良庵が振り返って信を見ると、信は視線を落としたまま口を閉ざしていた。
良庵はため息をつく。
(ひとまず治療に集中するか……)
良庵は頭を掻くと、気持ちを切り替えて咲に指示を出した。
波の音が響いていた。
(ここは海が近いな……)
宗助は松林の向こうにかすかに見える海を横目に、真っすぐな道を歩き続けていた。
吹きつける強い風から、海の匂いがした。
(このへんのはずなんだが……)
宗助は紙に書かれた地図に視線を落とした。
乱雑に書かれた地図からは海の近くにある大きな屋敷ということしか読み取れなかったが、場所はこのあたりで間違いないはずだった。
宗助は地図を畳んで懐に仕舞うと、そっとため息をついた。
(大名の屋敷なんて……俺なんかが果たしてやっていけるんだろうか……)
宗助はもともと農家の次男だった。
武家の屋敷に奉公に出て七年、どういった事情か宗助にはわからなかったが、大名の屋敷の奉公人として推薦された。
(どうして俺が選ばれたんだろうな……。もう二十二でそんなに若くもないんだが……)
宗助は、自分でも器用である自覚はあった。
教えられればどんなことでもある程度までできる自信はある。
しかし、大名の屋敷に呼ばれるほど秀でたものがあるかと聞かれれば、宗助には思い当たることがなかった。
(まぁ、金が稼げれば何でもいいけど……)
宗助がそんなことを考えていると、遠くに屋敷らしきものが見えてきた。
(ああ、あれか……)
白い塀に囲まれた巨大な屋敷は、大名屋敷と呼ぶに相応しい佇まいだった。
(約束の時間にはまだ早いけど……。まぁ、早いに越したことはないだろう……)
足取りは軽いわけではなかったが、早く挨拶を済ませてしまいたいという思いから、宗助の足は自然と速くなっていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
大名屋敷での挨拶は、宗助が拍子抜けするほどあっさりとしたものだった。
宗助が呼ばれた理由も単純に人手が足りないだけだとわかった。
くわしい仕事の話は明日するから、今日はもう休んでいいという優しい言葉をもらい、宗助は早々に通された部屋を後にすることになった。
(みんな良い人そうだし、思ったより居心地も悪くないかもな……)
宗助がそんなことを考えながら屋敷の廊下を歩いていると、少し先の中庭で素振りをする少年の後ろ姿が目に入った。
長い髪を後ろで束ね、袴姿で一心不乱に木刀を振っている。
(誰だ……あれ。奉公人なのか……?)
宗助は少年をじっと見つめる。
少年の木刀を持つ佇まいは美しかった。
(筋は良さそうだな……)
幼い頃、家の近くに住んでいた老人に気に入られ、剣術の指導をされた宗助には多少の心得があった。
(うん、綺麗だ……)
少年の剣術は構え方も型も、非常に綺麗だった。
少年の横を通り過ぎるとき、宗助は軽く会釈をした。
(誰かわからないが、とりあえず礼儀正しくしておいて損はないだろう)
少年が宗助の方を見たのが気配でわかった。
顔を上げた宗助が少年の横を通り過ぎようとしたとき、落ち着いた声が響く。
「そこの人」
宗助はゆっくりと振り返った。
「ちょっと相手をしてくれないか?」
宗助はそのとき初めて少年の顔を見た。
少年は、驚くほど整った顔立ちをしていた。
宗助は目を丸くする。
(大名屋敷ともなると、奉公人もこんなに品があるのか……?)
白い肌に切れ長の目、影ができるほどに長い睫毛、真っすぐに伸びた背筋。
これほど美しい少年を宗助は今まで見たことがなかった。
宗助が呆然としていると、少年が形の良い唇を尖らせる。
「聞いているのか? ちょっと相手をしてくれと言ったんだ」
「え?」
宗助が思わず声を漏らすと、少年は木刀を差し出した。
「剣術、できるだろう? 相手をしてくれ」
「え、ああ……」
宗助は戸惑いながら頷いた。
(どうしてわかるんだ……?)
中庭に降りるための草履がないことに気づき裸足で降りようとすると、少年は少し離れたところに置かれていた草履を宗助の足元に置いた。
「合わないかもしれないが、これを使ってくれ。手合わせしてもらっていた者に逃げられてな……」
少年は苦笑した。
「ああ、そうなのか……。ありがとう」
宗助は、草履を履くと木刀を受け取った。
(近くで見ると一層綺麗だな……)
肌は近くで見ても白く澄んでいて、目鼻立ちは近くで見るとより華やかだった。
木刀を渡した少年は、距離をとって宗助と向かい合うように立つ。
「先に一本入れた方が勝ちだ」
少年はそう言うと、木刀を構えた。
「ああ、わかった」
宗助も木刀を構える。
(木刀を持つのは久々だな……)
宗助は木刀を握る手に力を込めた。
久しぶりの感覚に、自分でも少し高揚しているのがわかった。
「では、行くぞ」
少年は一歩踏み込むと、木刀を振り上げた。
(ああ、やっぱり綺麗だな……)
少年の剣術は基本に忠実で、とても美しいものだった。
(一旦受けるか)
宗助は木刀で、少年の一撃を受け止めると軽く弾いた。
弾いたところで隙ができるかと思ったが、宗助の動きは予想の範囲内だったようで、少年はすぐに体制を立て直すと、一瞬で胴に向けて木刀が振られた。
(速さもあるな……。けど……)
宗助はそんなことを考えながら、少年の手首を木刀ですばやく叩いた。
カランっという音を立てて、少年の木刀が地面に落ちる。
一瞬、二人の間に沈黙が流れる。
「あ、悪い……。痛かったか?」
宗助は慌てて少年に駆け寄ると、手を取った。
少年の手首は少しだけ赤くなっている。
「もう少し加減するべきだったか……」
宗助がそう呟くと、少年はフッと笑った。
「いや、十分手加減してくれたんだろう? ありがとう。やっぱり強かったか」
少年はなぜか嬉しそうに笑った。
笑った少年の顔は年相応にあどけないものだった。
宗助はその表情に少しだけドキリとして、思わず少年の手を離した。
「あ、いや……おまえの方が若いのにすごいよ。型も綺麗だし」
「そう言ってもらえると嬉しいな。ありがとう」
少年はにっこりと笑った後、少しだけ目を伏せた。
「……なぁ、おまえはどう思う? この平和な時代に剣術なんて必要ないと思うか? ただのお遊びだと……そう思うか……?」
「え?」
宗助は思わず少年の顔を見つめた。
(なんだ? 誰かに何か言われたのか……?)
少年は少し悲しげに微笑んだ。
「わかっている。必要になる日なんて来ないかもしれないって。それでも……」
少年はそう言うと、落とした木刀を拾い上げた。
宗助は少年を見つめる。
「必要になる日が来ないなら、それはそれでいいんじゃないか?」
「え?」
少年は顔を上げると宗助を見つめた。
「平和ならそれに越したことはない。ただ、大切なものを守れる力は持っておいた方がいいとは思う。遊びじゃない。どんな時代でも大事なものを守る力は必要だろう?」
少年は目を見開いた後、軽く微笑んで目を閉じた。
「……ああ、そうだな」
「な、何をしているのですか!?」
突然、大きな声が響いた。
宗助が驚いて声の方を見ると、廊下に立っていた奉公人の女が裸足で中庭に降りてくるところだった。
宗助は目を丸くする。
「え、裸足……大丈夫……ですか?」
「そ、そんなことどうだっていいのです! 何をしているのですか姫様!?」
女は、少年に向かって言った。
「今日はもうダメだと言われたではありませんか!」
少年は苦笑する。
「悪かった。ちょっと素振りをしていただけだ」
宗助は呆然と二人を見つめる。
(え? ひい……さま? え……、姫様!?)
「と、ところで、こちらの方はどなたですか……?」
女は怪訝な表情で宗助を見た。
「ああ、そういえば名前を聞いていなかった。名は何というんだ?」
少年は嬉しそうに宗助に視線を向ける。
「え、あ……宗助…………です」
「宗助か、いい名だな。私は紫苑だ」
「あ……はい」
宗助は呆然としたまま頷いた。
「姫様、見たことのない男ですが……怪しい者ではないのですか?」
女は紫苑の耳元で小さく呟く。
「屋敷を普通に歩いていたんだ。きっと新しく来た奉公人なんだろう。なぁ?」
紫苑はにこやかに宗助に問いかけた。
「あ、は、はい! 今日来たばかりで……決して怪しい者では……」
宗助は慌てて口を開く。
「ほらな」
紫苑はなぜか得意げに言った。
「あ、そうだ。宗助は私に付けてくれ。ちょうど一人辞めたところだし」
「え!?」
宗助と女は思わず同時に声を漏らす。
「うん、それがいい。父上には私から言っておくから……。あ、そうか、今から言いに行ってくる」
紫苑はそう言うと、なぜか楽しそうに屋敷に向かって歩き始めた。
「え、ちょっ……待ってください! 姫様!」
女は慌てて紫苑を追いかけて屋敷の中に入っていく。
中庭にひとり残された宗助は、理解が追いつかず呆然と立ち尽くしていた。
「え……?」
宗助のその呟きは誰にも届くことはなく、次の日から宗助は紫苑付きの奉公人として働くことになった。
「ほら、これもやる」
紫苑はそう言うと刺身の盛られた皿を宗助に差し出した。
「嫌いなんだ」
紫苑は宗助に向かってにっこりと微笑む。
「いりません。というか、自分で食べてください。大きくなれませんよ」
宗助は自分の分の食事を口に運びながら淡々と言った。
「食べてくれたっていいじゃないか」
紫苑は唇を尖らせる。
「なんだ? 大きい女が好きなのか?」
「は?」
宗助は呆れた顔で紫苑を見た。
「大きい女も何も、姫様はまだ十くらいでしょう。子どもなんですから、たくさん食べてちゃんと大人になってください」
「はは、言ってくれるなぁ」
紫苑は可笑しそうに笑った。
「まぁ、それは置いておいて……、とにかく嫌いだから、これを食べてくれ。……ああ、木刀で叩かれた手が痛いなぁ。父上に報告してしまいそうだ……」
紫苑はそう言うとチラリと宗助の顔を見た。
宗助は紫苑をジトっとした目で見つめ返す。
「またそれですか? それで何でも思い通りになると思わないでくださいよ。奉公人が一緒に食事をすることだって本当はダメなんですから」
「いいじゃないか。ひとりで食事をするのは寂しいんだ。付き合ってくれ」
紫苑は宗助を見つめると無邪気に微笑んだ。
宗助は小さくため息をつく。
(なぜこんなことに……)
紫苑付きの奉公人になって三日、紫苑はほかの奉公人が驚くほど宗助に絡んできていた。
寂しいからという理由で食事を共にすることになったのをはじめ、部屋にいるときも、どこかに出かけるときも宗助は紫苑に呼び出されていた。
(木刀で叩かれたのをそんなに根に持っているのか……?)
宗助はチラリと紫苑を盗み見る。
高い位置にひとつでまとめられた髪は、最初に会ったときと同じだったが、今の紫苑は姫様らしい上等な着物を着ていた。
整った顔立ちに、仕草の一つひとつから感じ取れる品の良さ。
(どう見てもお姫様だろう……。どうして奉公人の少年だなんて思ったんだ……!)
宗助は後悔の念でいっぱいだった。
宗助の視線に気づいた紫苑はにっこりと微笑んだ。
「どうしたんだ? 男だと勘違いしていたことでも悔いていたのか?」
「な!?」
宗助は目を見開く。
(どうして……!)
宗助の様子を見て、紫苑はフッと微笑んだ。
「気がつくさ。男だと思っていなかったら、手合わせなんてしなかっただろう?」
「あ、いや……そんな……」
宗助は視線をそらし、言葉を濁した。
紫苑は軽く笑う。
「ああ、傷ついたな……。傷ついたから……」
紫苑はそう言うと刺身の皿を持って立ち上がった。
ゆっくりと宗助の膳の前まで移動すると、刺身の皿を膳に置く。
「食べてくれ」
紫苑はにっこりと微笑んだ。
宗助は反論しようとわずかに口を開いたが、紫苑の笑顔の圧力に負けて、ゆっくりと息を吐いた。
「わかりました……。ただ、刺身だけですからね! 今後、ほかに嫌いなものが出てきても自分で食べてくださいよ」
「ああ、わかった」
紫苑は満足げな笑顔で頷いた。
「あ、ついでに、これから二人のときは敬語はやめてくれ」
「は?」
宗助は呆然と紫苑を見つめる。
「そんなの無理に決まっているでしょう……。俺は奉公人ですよ?」
「大丈夫。二人だけの秘密にすればいい」
「そんなわけには……」
「ああ、傷ついた……! 父上に……」
「わかった! もうわかったから!」
宗助は諦めたように言うと、頭を抱えた。
(どっちにしろ、俺クビになるんじゃ……)
宗助がため息をつきながら顔を上げると、紫苑は嬉しそうに宗助を見つめていた。
宗助はもう一度ため息をつく。
「あ、そういえば……」
宗助はずっと疑問に感じていたことを思い出した。
「あのとき……最初に会ったとき、どうして俺が剣術ができるってわかったんだ?」
宗助の言葉に、紫苑は苦笑する。
「逆にどうしてわからないと思ったんだ? おまえの姿勢も歩き方もお辞儀の仕方も、全部武士の所作だぞ。むしろ奉公人だってことに気づいたのは、私のお目付け役が来てからだ」
「そう……だったのか……。昔、近所のじいさんに無理やり剣術をやらされてたからな。そのクセがついているのかも……」
「ああ、そうなのか。指導した方が上手いのか、おまえの筋がいいのか、どちらにしろすごいな」
「まぁ、どっちもだろうな」
宗助は淡々と言った。
紫苑はフフッと笑う。
「言うなぁ、おまえ」
「あ、それともうひとつ……、どうして俺に構うんだ? その……木刀で叩いたことをまだ根に持っているのか……?」
宗助の言葉に、紫苑は吹き出した。
「そんなわけないだろう! 自分から手合わせをお願いしたのに!」
紫苑はひとしきり笑い終わると、真っすぐに宗助を見た。
「……何にも興味がなさそうに見えたんだ」
「は?」
「すべてに関心がなさそうに見えたおまえが、『大切なものを守れる力は持っておいた方がいい』と言った。……大切なものとは、おまえの家族のことか?」
「え、ああ……まぁ」
宗助の返事に、紫苑は微笑んだ。
紫苑は遠くを見つめる。
「羨ましいと思ったんだ……。その大切なものの中に、私も入りたいと思った」
宗助は目を丸くした。
(そんな大層なことではないんだが……)
宗助は紫苑を見つめる。
遠くを見つめるその表情はどこか悲しげに見えた。
(ひとりの食事が寂しいっていうのは、案外嘘ではないのかもしれないな……)
宗助は目を伏せた。
「羨ましいと思ってもらえるほど、俺は家族を大事にできてないし……あれだけど……」
宗助は目を泳がせながら言った。
「姫様のことは守りますよ。……俺はここの奉公人だし……、姫様付きなので……。何かあれば守ります。必ず」
宗助がそう言い終えると顔を上げた。
その瞬間、宗助は言葉を失う。
宗助を見つめて微笑む紫苑の表情は、言葉にできないほど美しかった。
形のよい唇がゆっくりと動く。
「ありがとう、宗助」
十の少女とは思えないほど、その表情は大人びていて、宗助は思わず目をそらした。
「い、いや……」
宗助はなんとかそれだけ口にした。
「あ、そうだ。二人のときは、これから紫苑と呼んでくれ」
「……は?」
宗助が再び顔を上げたとき、紫苑の表情はまた無邪気な少女のものに戻っていた。
「ああ、男だと思われていたなんて傷ついたな……。父上に報告を……」
「わかった! わかったから!」
宗助の言葉に、紫苑は楽しそうに微笑んだ。
「よろしくな、宗助」
紫苑の無邪気な笑顔を見て、宗助は諦めたように小さくため息をついた。
「ご存じなかったんですか? 姫様のお母様は姫様が生まれてすぐ亡くなっているんです」
「え?」
奉公人の男とともに、座敷で書き物の仕事を手伝っていた宗助は、思わず手を止めた。
「え、では今の奥方様は……?」
男も手を止めると、顔を上げて宗助を見た。
「姫様のお母様が亡くなられてからご結婚された方です。ご結婚されたのも割と最近なんですよ」
「ああ、そうなんですか……」
宗助は目を伏せた。
(だから、あんなに寂しげだったのか……)
「では、姫様は……」
宗助は少し声をひそめた。
宗助の表情を見て何かを察した様子の男は慌てて口を開く。
「いえいえ! 今の奥方様と姫様の仲はとても良いんです! 本当の親子とまではいかないかもしれませんが、ご友人のようによくお話しされています!」
「あ……、そうなんですか?」
「ええ。……むしろ、ぎこちないのは御前様と姫様の方ですね……」
男は少し目を伏せた。
「え、どうしてですか? 御前様は実の父親なのでしょう?」
宗助は首を傾げた。
男はゆっくりと息を吐くと、静かに口を開いた。
「御前様は……姫様のお母様を心から愛していらしたので……。お亡くなりになったときの悲しみようは本当に見ていられないほどのものでした」
男はそこで言葉を切ると、宗助を見て悲しげに微笑んだ。
「姫様は、亡くなられた奥方様に生き写しなんです。姫様を見ると思い出してしまうようで……。あ、もちろん姫様のことは愛していらっしゃいますよ! お子様は姫様ひとりですし! ただ……どう接していいかわからないようで……」
男はそこまで言うと目を伏せた。
(そういうことか……)
宗助は年の割に随分と大人びている紫苑の顔を思い浮かべた。
(大名屋敷のお姫様でも、幸せとは限らないってことか……)
宗助は静かに目を閉じた。
「そういえば、宗助さんはここに来て五日ですが、姫様と仲が良いそうですね」
男は宗助を見てにっこりと微笑んだ。
「え、いえ……、仲が良いというわけでは……」
宗助は慌てて首を横に振った。
「そうですか? こんなに姫様が奉公人を呼び出すことは今までなかったので。それに、宗助さんといるときの姫様は今までより少し幼いというか……、子どもらしい一面が見られて、みんな喜んでいるんです」
「え!? 子どもらしい一面ですか!?」
宗助は目を丸くする。
(俺の前でも随分大人びていると思うが……。一体今まではどんなふうに周りと接してきたんだ……)
そのとき、襖が開く音がした。
「あ、ここにいたのですね、宗助さん。姫様がお呼びです」
宗助が振り返ると、紫苑付きの奉公人の女がこちらを見ていた。
男がクスリと笑う。
「噂をすればですね。こちらはもう大丈夫なので行ってください」
「あ、はい。すみません……」
宗助はそう言うと、残っていた書き物を男に渡し、硯と筆を持って立ち上がった。
「姫様をよろしくお願いします」
男が宗助に向かってにっこりと微笑む。
「? あ、はい……」
宗助は一礼すると、硯と筆を片付け、紫苑の部屋に向かった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「失礼します。お呼びですか、姫様」
紫苑の部屋の襖を開けると、宗助はいつものように頭を下げた。
「ああ、宗助に聞きたいことがあってな」
宗助が顔を上げると、部屋には何着もの着物が並べられていた。
「これは?」
宗助は首を傾げる。
「明日着る着物を選んでいたんだ。おまえに決めてもらおうと思ってな」
そう言いながら宗助に駆け寄った紫苑は、不思議そうに首を傾げた。
「なんだ? 私の顔に何かついているか?」
「あ、いや……」
宗助は慌てて目をそらした。
「そんなことより、明日は何かあるんですか?」
「明日は父上が屋敷に帰ってくるからな。出迎えの着物を……って、さっきからなんだその顔は……」
紫苑は呆れたような顔で宗助を見た。
「それに今は二人だから敬語はやめろ」
「あ、いや……、俺そんなに変な顔してたか?」
宗助は苦笑する。
「ああ、不安げというか心配そうというか……変な顔だ」
紫苑は腕組みをして宗助を見上げる。
「ああ……えっと……、おまえと御前様のことを少し聞いて……」
宗助は思わず視線をそらしながら頭を掻いた。
紫苑の目がわずかに見開かれる。
「ああ、そんなことか!」
宗助が拍子抜けするほど、紫苑の反応はあっさりとしたものだった。
「心配してくれていたのか? 私は大丈夫だ。父上の気持ちはよくわかるし、理解もしている」
紫苑はそう言うとにっこりと微笑んだ。
「ありがとう。心配してくれて」
紫苑の言葉に、宗助は紫苑を見つめた。
宗助の視線に気づき、紫苑は首を傾げる。
「理解していたとしても、寂しいものは寂しいだろ?」
「……え?」
紫苑の瞳がわずかに揺れる。
「理解しているからって、そんな割り切れるものじゃないだろ? あまり無理はするな。おまえはまだ子どもなんだ。甘えていい年なんだから」
宗助はそう言うと紫苑の頭をそっと撫でた。
茫然と宗助を見つめていた紫苑は、しばらくするとわずかに口元を緩めた。
「そうか……。私は……寂しかったのか……」
紫苑は小さく呟くと、フッと笑った。
「それで? 私が寂しかったら慰めてくれるのか? では、寂しくないように抱きしめてくれないか?」
紫苑はそう言うと、悪戯っぽく笑った。
紫苑は宗助に向かって両手を広げる。
「ほら、早く。フフ、できないなら……」
その瞬間、紫苑は温かいものに包み込まれた。
「え……?」
気がつくと、紫苑は宗助の腕の中にいた。
宗助の手がそっと紫苑の頭を撫でる。
宗助の腕の中で、紫苑が息を飲んだ。
「ほら、これでいいか? 俺はおまえがお嫁に行くまで、奉公人としてそばにいるから。おまえの親……みたいな存在になってやるから……ちゃんと甘えることも覚えるんだぞ」
「…………親」
紫苑はそう呟くと、長いため息をついた。
「宗助……、もう大丈夫だ……」
宗助がゆっくりと体を離す。
「親ね……」
紫苑はジトッとした目で宗助を見た後、もう一度ため息をついた。
「まさか本当に抱きしめるとは……。しかも親って……。ホント……今に見てろよ……」
紫苑の声は小さく、その声は宗助の耳には届かなかった。
「え? なんだって?」
宗助は紫苑の言葉を聞こうと、紫苑の口元に耳を寄せた。
「なんでもない……」
紫苑は疲れたような顔でそう言うと、宗助に背を向けた。
「では、私が嫁に行かなかったら、おまえは一生そばにいてくれるんだな?」
「え!? それは……」
宗助が慌てて口を開くと、紫苑は振り返りニヤリと笑った。
「約束だからな」
紫苑はそう言うと鼻歌交じりに、部屋の襖に向かう。
「末永くよろしく頼むぞ、宗助」
紫苑はそう呟くと、振り返らず部屋を後にした。
「末永くって……」
ひとりになった部屋で、宗助は頭を掻く。
「まぁ、でも……、少しでも紫苑の寂しさが紛れれば……」
宗助はふと故郷にいる兄と弟を思い出した。
(あいつらも元気でやってるかな……)
しばらく物思いに耽っていた宗助は、静かにため息をついた。
(仕事しよう……)
宗助は部屋一面に広げられた着物を見て、もう一度ため息をつくと、慎重に着物を片付けていった。
「花魁、叡正様がいらっしゃいました」
咲耶の部屋に緑の声が響く。
布団で横になっていた咲耶は、返事をすると体を起こした。
(手紙が届いたか……)
火事から十日ほどが経ち、喉の調子も良くなった咲耶は、叡正に手紙を出していた。
襖が開き、叡正の姿が目に入る。
入口で立ち尽くす叡正の顔色はひどく青ざめていた。
(なんだ……? 私より叡正の方が調子が悪いんじゃないのか……?)
叡正はただ咲耶を見つめていた。
「えっと……、心配かけて悪かったな。もうすっかり元気なんだが、まだ布団で寝ていろと楼主がうるさくてな……。来てもらったのに、こんな格好で申し訳ない」
咲耶は叡正に向かって微笑む。
叡正は部屋の入口で咲耶を見つめたまま、何も言わなかった。
(え……? どうして何も言わないんだ……?)
緑はお茶を淹れるため部屋を出ていったため、二人の間に重苦しい沈黙が流れる。
「えっと……、そんなところにいないでもう少しこちらに来てくれ」
咲耶の言葉に、叡正はゆっくりと咲耶のいる布団に近づいてきた。
咲耶はホッと息を吐く。
「今日来てもらったのは前に言っていたお礼の件だ。少し待っていてくれ」
咲耶はそう言うと、ゆっくりと立ち上がった。
戸棚に向かおうと叡正に背を向ける。
その瞬間、咲耶は後ろから温かいものに包まれた。
(え……?)
少し振り向いた咲耶の頬に、叡正の長い髪がかかる。
咲耶は目を見開いた。
叡正の腕が咲耶をやわらかく包んでいた。
長い髪に隠れ、叡正の表情は見えない。
「……た」
咲耶の耳元で叡正のかすれた声が響く。
「……よかった。本当に……よかった」
咲耶を抱きしめる叡正の手はかすかに震えていた。
「叡正……」
咲耶は思わず呟く。
(ここまで心配されているとは……思っていなかったな……)
咲耶はしばらくそのままじっとしていたが、やがて目を閉じると、叡正の手に自分の手を重ねた。
叡正の体がビクリと震える。
「心配かけて悪かった……」
咲耶は叡正の方を見ながら小さく呟く。
「それから……ありがとう。心配してくれて」
咲耶の言葉に、叡正が弾かれたように咲耶を見る。
互いの顔が触れそうな距離で、二人の視線が重なった。
「わ、悪い!!」
叡正は慌てて咲耶から手を離すと、後ずさりして両手を上げた。
「こんなことするつもりは! わ、悪かった!」
叡正の顔がみるみるうちに赤く染まっていく。
「あ、いや、そんな気にすることでは……」
叡正のあまりの反応に、咲耶は目を丸くする。
「いや! 悪かった!! 本当に申し訳ない!」
叡正は両手で顔を覆うとその場にうずくまった。
叡正の顔は耳まで真っ赤だった。
しばらくポカンとしていた咲耶は、叡正の反応に思わず吹き出した。
叡正が指の隙間から咲耶を見上げる。
「わ、悪い……。おまえの反応があまりにも忙しないから……」
咲耶は笑いながら叡正を見た。
「青い顔をして入ってきたかと思えば、急に真っ赤になって……。でも、なんだろう……。ホッとした」
咲耶は笑い過ぎて滲んだ目元の涙を拭うと、叡正を真っすぐに見た。
「うん、ホッとしたんだ。ありがとう、叡正」
咲耶は叡正に向かって微笑んだ。
咲耶の様子を指のあいだから見ていた叡正は、顔を覆っていた両手を下ろした。
「その……、よくわからないが……、笑ってもらえたならよかった」
叡正は咲耶から視線をそらしながら呟くように言った。
「フフ……、まぁ、とりあえず布団の横に座って待っててくれ」
咲耶はそれだけ言うと、戸棚に向かった。
背後で叡正が長い息を吐く音が聞こえ、咲耶はそっと微笑んだ。
(心配されて嬉しいと思ったなんて、申し訳なくてとても言えないな……)
咲耶は戸棚の扉を開けると、目的のものを取り出す。
なぜかうなだれて座っている叡正の方を向くと、咲耶は口元を引き締めて叡正のもとに向かった。
「これは……?」
咲耶が持ってきた桐の箱を見て、叡正は首を傾げた。
「前に言っていた礼だ」
叡正に桐の箱を渡した後、咲耶は少し迷ったが布団の上に再び腰を下ろした。
「礼なんてよかったのに……」
叡正は桐の箱を見つめながら困惑したように言った。
咲耶は叡正を見て微笑む。
「ほんの気持ちだ。受け取ってくれ」
叡正は申し訳なさそうな顔で咲耶を見た後、桐の箱に視線を落とした。
「開けてもいいか?」
「ああ」
咲耶はにっこりと微笑んだ。
叡正が箱を開けると、そこには木の鞘に納められた短刀があった。
「白鞘の短刀……」
鞘も柄も木でできた簡素なその短刀には、柄の一ヶ所にだけ金色の家紋が入っていた。
「うちの家紋か……」
叡正はどこか寂しげに微笑んだ。
今はもうない叡正の生家の紋だった。
「ああ、おまえの家のものは、もう何も残っていないんだろう? 短刀くらいは持っていてもいいんじゃないかと思ってな……」
叡正はしばらく短刀を見つめていたが、やがて目を閉じるとそっと箱を閉じた。
「……ありがとう。大切にさせてもらう。まぁ、僧侶に使う機会はないだろうけどな」
「そうだな。まぁ、また寝込みを襲われたときにでも使ってくれ」
咲耶は冗談のつもりで言ったが、叡正の顔がサッと青ざめる。
「…………もしできるなら、もう思い出させないでくれ」
「あ、わ、悪い……」
叡正のあまりに暗い表情に、咲耶は気まずくなり目を泳がせた。
「と、ところで、火事のとき、おまえがここまで私を運んでくれたんだろう? す、すまなかったな……」
咲耶は慌てて話題を変える。
「あ、いや。俺は本当に運んだだけだから……。礼なら助けた信に言ってくれ」
叡正は表情を曇らせると、そっと目を伏せた。
「俺は何もできずに見ていただけなんだ……」
咲耶は目を丸くする。
「そんな、気にすることじゃない。あれだけの火事だったんだから、何もできなくて当然だ」
「ああ、でも信は……」
叡正はそれだけ言うと目を閉じた。
咲耶は叡正を見つめる。
(本当に気にする必要はないんだが……)
咲耶は再び話題を変えることにした。
「そういえば、信の火傷は大丈夫そうだったか……?」
咲耶の言葉に、叡正は目を開ける。
「腕と足は酷かった……ように見えた……。良庵先生が言うには、奇跡的に火傷からの感染症はなかったらしいから、ところどころ痕は残るが治るだろうって話しだった」
「そうか……」
咲耶は胸を撫でおろした。
咲耶の脳裏に、裏茶屋で見た信の泣き出しそうな顔が浮かぶ。
「その、信なんだが……、私と一緒に裏茶屋から出てきたとき……どんな顔をしていたかわかるか?」
咲耶はあのとき見た信の姿が、現実であったのかわからなかった。
(本当に泣き出しそうな顔をしていたのか……?)
「信の顔……」
叡正はそう呟くと、困ったような表情で咲耶からそっと視線をそらした。
「えっと……、なんていうか……。その場の人間を皆殺しにしそうな顔を……していた……かな?」
「は!?」
咲耶は目を丸くする。
「え……、怒っていたってことか……?」
「ああ、すごく控えめに言えば……怒っていたと表現できなくもないかな……」
「そんなにか……」
「……ああ」
叡正は深く頷いた。
(じゃあ、あれはやはり夢だったのか……?)
咲耶は口元に手を当てて、あのときの信の顔を思い出していた。
(夢なら、夢の方がいいのか……)
咲耶は静かに息を吐いた。
「あ、そうだ……」
叡正は何かを思い出したように咲耶を見た。
「火事のとき、弥吉がいたんだ」
「弥吉……?」
弥吉はここ数日玉屋に来ていないと、咲耶は緑から聞いていた。
「ああ、信と何か話していて……。『おまえは何も悪くない』とかなんとか……」
咲耶は目を見開いた。
「その後、弥吉が泣き崩れて……。『できる範囲で守れれば』とか何か呟いてて……」
叡正は思い出しながら、聞こえた内容を話した。
(そういうことか……)
咲耶の中ですべてがつながった気がした。
「俺はおまえを運ぶために、その後裏茶屋を離れたから……あれからどうなったんだろうと気になっていたんだ……。良庵先生が信のところに行ったときに、弥吉は信のところにいないようだと言っていたが……。一体、どうなっているんだ……?」
「そうか……」
咲耶は目を伏せた。
「私にもよくわからないんだ……。特に弥吉のことは今初めて聞いた……。教えてくれてありがとう」
「そうなのか……」
叡正も目を伏せた。
「よくはわからないが……弥吉はいいやつだから、早く戻ってきてほしいな」
咲耶は顔を上げると、窓の方を見た。
(弥吉は一体どこに行ったんだろうか……)
咲耶は目を閉じ、息を吐いた。
「ああ、いい子なんだ……。また戻ってきてくれるといいが……」
咲耶は窓を見たまま、祈るようにそっと目を閉じた。
「桜を観に行きたい」
紫苑は唐突に口を開いた。
「ん? ああ、観に行けばいいんじゃないか?」
宗助は手に持っていた茶わんを置くと、紫苑を見て首を傾げた。
今は紫苑の部屋に二人だけということもあり、宗助は簡単に答える。
最近一気に暖かくなったこともあり、屋敷の庭の桜もすっかり見頃を迎えていた。
(もう花見の季節か……)
宗助は少しだけ微笑んだ。
紫苑は唇を尖らせる。
「おまえは冷たいな……。こんなか弱い少女ひとりで行かせる気か?」
「か弱いって……。さすがに誰かついていくだろうけど、俺じゃなくてもいいだろ?」
宗助は料理に視線を戻しながら答える。
宗助の膳の上には、当然のように紫苑の分の刺身の皿があった。
「俺は忙しいんだよ。今日もこのあと、ほかの奉公人の仕事の手伝いがあるし」
「いいのか?」
紫苑は低い声で言った。
「いいって……何が?」
宗助は顔を上げて、紫苑を見た。
紫苑はジトっとした目で宗助を見つめている。
「おまえが仕事の手を抜いていること、父上に言うぞ」
「は!?」
宗助は目を丸くする。
「な、何のことだよ……」
紫苑は宗助を見つめたままニヤリと笑った。
「おまえ、どの仕事も本当はもっと早くできるだろ? わざと効率の悪いやり方でやって二倍、三倍の時間をかけていること……父上に言うぞ」
宗助は丸くなったままの目を泳がせた。
「そ、そんなわけないだろ……? 俺はいつも全力で……」
「ほ~、じゃあ、父上に言っても問題ないな」
紫苑はそう言うと立ち上がろうとした。
「ちょ、ちょっと待て! 紫苑!」
宗助は慌てて紫苑を止める。
「わかった! わかったから……座れ……」
紫苑は宗助の顔を見て、にっこりと微笑むと深く腰を下ろした。
「冗談だよ」
宗助は紫苑を軽く睨む。
「おまえ、絶対冗談じゃなかっただろ……」
宗助は小さくため息をついた。
「それに俺は手を抜いているわけじゃなくて、足並みをだな……」
「ああ、知っている」
紫苑は微笑んだ。
「おまえ、仕事の早い奉公人と一緒のときは早いからな。一緒に仕事をする相手に合わせているんだろ?」
にこやかに笑う紫苑を見て、宗助はもう一度ため息をつくと頭を掻いた。
「わかっているなら脅すなよ……」
「それとこれとは別だ。もっと早く仕事ができるのは事実だしな。それで、一緒に桜を観に行ってくれるのか?」
宗助は紫苑をジトっとした目で見つめた後、静かに目を閉じた。
「……わかったよ。で、どこに観に行くつもりなんだ?」
「ああ、あの山の麓に行きたいんだ」
紫苑はおよその方角を指さした。
「え、冗談だろ……? 山の麓の桜並木まで行くつもりか?」
「ああ」
「遠すぎるだろ……? おまえは駕籠に乗っていくとはいえ……」
「いや、おまえと二人で歩いていく」
「……は?」
「だから、歩いていく」
宗助は紫苑をじっと見つめる。
「おまえが力尽きても、俺は負ぶってやらないぞ……?」
宗助のひどく真剣な表情に、紫苑は思わず吹き出した。
「それは考えていなかったが……、それはそれで面白そうだな」
「笑いごとじゃない。それにあそこまで行くなら、ほとんど一日時間が潰れるからなぁ……。いつ行きたいんだ?」
「明日だ」
「は?」
「明日行く」
宗助は呆気にとられる。
「いや……、俺にも一応奉公人としての仕事があるから……」
宗助の言葉に、紫苑はにっこりと笑った。
「明日の分を今日のうちにやればいいだろう? おまえが本気でやればできるってこと、わかっているんだぞ」
「……鬼か?」
紫苑はフッと笑う。
「鬼はこんな可愛いお願いしないだろう?」
「一体どこに可愛さがあったんだ……。それにお願いじゃなくて脅しだっただろ……」
宗助はそう言うと、長く息を吐いた。
「もうわかったよ……。じゃあ、これ食べたら俺はもう行くからな。仕事するから……」
「ああ、頑張ってくれ」
紫苑はにっこりと笑った。
(まったく……)
宗助は残りの料理を口にかき込みながら、チラリと紫苑を見る。
紫苑はいつも通り上品に料理を口にしていたが、その顔にはわずかに笑みが浮かんでいた。
(まぁ、屋敷から出る機会もあんまりないからな……)
宗助は紫苑を見て少しだけ微笑んだ。
(花見くらい、付き合ってやるか……)
宗助は急いで食事を終えると、二日分の仕事をこなすべく急いで紫苑の部屋を後にした。
足元に薄紅色の花びらが落ちていた。
宗助が顔を上げると、道の先に薄紅色の花を咲かせた桜が、風で揺れているのが見えた。
「ほら、もう少しだ。大丈夫か?」
宗助は菅笠を被った紫苑の顔をのぞき込むように言った。
「ああ、大丈夫だ」
紫苑は少し疲れているように見えたが、宗助の顔を見ると微笑んだ。
紫苑は被っていた菅笠を取ると、遠くに見える桜並木を見た。
「綺麗だな……」
紫苑が小さく呟く。
「やっぱり、おまえは駕籠で来た方がよかったんじゃないか?」
宗助は心配になり、紫苑を見つめた。
紫苑は宗助に視線を戻すと、首を横に振る。
「自分の足で来るから意味があるんだ」
紫苑はそう言うとにっこりと微笑んだ。
紫苑は長い髪を後ろでひとつに束ね、菅笠を被った旅装束だったが、身に纏っているのは女物ではなく男物の服だった。
(姫様だとわからないように男装するのは正解なのかもしれないが……。そもそも駕籠に乗れば綺麗な着物で来れたんじゃないのか? せっかくの花見なのに……)
宗助がそんなことを考えながら紫苑を見つめていると、紫苑がフッと笑った。
「私が着飾って来たら、花が見劣りしてしまうだろう?」
紫苑の言葉に、宗助は苦笑した。
「大丈夫だ。おまえがいくら着飾っても桜の方が綺麗だよ」
紫苑はジトっとした目で宗助を見る。
「おまえは……本当にひどい男だな」
風が吹いて、紫苑の横を桜の花びらが通り過ぎていく。
進むにつれて、道は花びらを敷き詰めたように薄紅色に染まっていた。
「なぁ、宗助。おまえの一番好きな花は何だ?」
紫苑は道の先にある桜を見つめながら言った。
「なんだ? 唐突に……」
宗助は目を丸くした後、紫苑と同じように桜を見た。
「花ねぇ……。まぁ、桜かな……。そんなこと考えたこともないから、アレだけど……」
紫苑は宗助を見るとフッと笑った。
「やっぱり紫苑じゃないか……」
「紫苑? 紫苑って、花の?」
紫苑はこの地方に自生している薄紫色の小さな花だった。
宗助の生家は山の上の方にあるため、野原一面に咲く紫苑の花は宗助にとっては見慣れたものだった。
「紫苑が一番好きなんて言うやつ、滅多にいないだろ……」
宗助の言葉に、紫苑は唇を尖らせる。
「その言い方は傷つくなぁ」
「は? …………花の話だろ?」
紫苑は唇を尖らせたまま、桜に視線を移した。
「ああ、花の話だ」
(なんで拗ねるんだよ……)
宗助は軽くため息をつくと、頭を掻いた。
「まぁ、別に俺だって紫苑は嫌いじゃないよ。小さくて可愛い花だし……。咲いてるのが当たり前だったから好きとかあんまり考えたことないけど……」
宗助が花を思い出しながら話していると、ニヤニヤしながら宗助を見ている紫苑と目が合った。
「…………花の話だぞ?」
「ああ、花の話だろ?」
紫苑は軽く笑ってから、視線を上げる。
二人はいつの間にか桜並木の横を歩いていた。
強い風で花びらが舞い上がり、まるで空から花びらが降り注いでいるようだった。
「綺麗だな……」
宗助は思わず呟いた。
「おまえの一番好きな花だもんな」
紫苑は宗助を見て微笑んだ。
「それはもういいから……」
宗助は苦笑した。
紫苑は宗助を見た後、桜の木を見上げた。
「……紫苑は、母上が好きな花だったんだ」
宗助は紫苑の横顔を見つめる。
紫苑の瞳はどこか遠くを見ているようだった。
「私の名は、花の紫苑からつけられている。名には願いが込められるというだろう? だから私は、紫苑の花のような人になりたいんだ。母上の愛した花のような人間に……」
宗助は目を伏せた。
(そういうことか……)
宗助は小さく息を吐いた。
「悪かったな……。滅多にいないなんて言って……」
宗助の言葉に、紫苑は視線を宗助に移すとニヤリと笑った。
「まぁ、紫苑が一番好きと言う物好きもいるってことだ」
「いや、俺は物好きとまでは言ってないから……」
紫苑はフッと笑うと、少し足取りを速め、軽い足取りで宗助の前を歩いた。
(あれ……?)
紫苑の歩き方を見て、宗助はふと違和感を覚えた。
「なぁ、紫苑……」
宗助の言葉に、紫苑が笑顔で振り返る。
「なんだ?」
「おまえ……足痛めてないか?」
紫苑の顔が一瞬引きつったのがわかった。
(ああ、やっぱり……)
宗助はため息をつく。
「な、なんのことだ……? 足なんて全然……」
紫苑は慌てたように前を向くと、そのまま歩いていこうとした。
「紫苑、帰るぞ」
宗助は立ち止まると、紫苑に声を掛けた。
その声に、紫苑も足を止める。
先ほどまでとは打って変わった暗い表情で紫苑がゆっくりと振り返った。
宗助は紫苑に駆け寄ると、屈んで紫苑の足元を見る。
草履の鼻緒が擦れて、足袋にわずかだが血が滲んでいた。
「なんで言わないんだ……」
宗助は紫苑を見上げる。
「そ、そんな大したことじゃない……。まだ着いたばかりじゃないか……」
紫苑は縋るように宗助を見つめた。
「ダメだ。もう帰るぞ」
宗助の言葉に、紫苑は額に手を当てた。
「ああ、なんだってこいつは、余計なことには気づくんだ……」
紫苑は小さな声で呟く。
「何か言ったか?」
宗助がジトっとした目で紫苑を見る。
「いや、なんでもない……」
紫苑は唇を尖らせながら言った。
「ほら、負ぶってやるから。帰るぞ」
宗助はそう言うと、屈んだまま紫苑に背を向けた。
「……昨日、負ぶってやらないぞって言ってなかったか?」
「おまえだって昨日、それはそれで面白そうだって言ってただろ? ほら、早く」
宗助は、軽く振り返ると紫苑を促した。
紫苑が長い息を吐いたのがわかった。
宗助の背中に温かいものが覆いかぶさる。
(軽いな……)
宗助は、ゆっくりと立ち上がった。
「しっかり掴まってろよ」
宗助は背中にいる紫苑に声を掛けた。
「ああ」
紫苑が小さな声で応えた。
「……こうやって歩いていると、弟を負ぶっていた頃を思い出すな」
宗助が桜を見上げながら、そう小さく呟くと、突然後ろから強い力で髪を毟られた。
「痛っ! おい、何するんだよ!?」
宗助が首を捻って紫苑を見る。
「ん? 桜の花びらが髪についていたから、取ってやっただけだが?」
紫苑は意味がわからないとでも言うように、可愛らしく首を傾げた。
「嘘つけ! そんな繊細な触り方じゃなかったぞ! 絶対悪意を持って髪を毟っただろ!」
「そんなわけないだろ? ほら、そんなことよりちゃんと前を向いて歩け。危ないぞ」
紫苑の言葉に、宗助は渋々前を向いた。
「何なんだよ……、まったく」
宗助がそう呟いたとき、紫苑は小さくため息をついた。
「なんで、こういうことには気づかないんだよ……」
紫苑の呟きは風の音に掻き消され、宗助の耳には届かなかった。