【コミカライズ】鏡花の桜~花の詩~

 信が咲耶の部屋に着いたのは、夜見世が始まる少し前だった。
 化粧を終えて髪を結いあげた咲耶は、鏡越しに部屋に入ってきた信を見るとゆっくりと振り返った。
「急に呼び出して悪かったな」
 咲耶は信に座るよう促すと、棚の引き出しに入れておいた手紙の束を取り出した。

「何かあったのか?」
 信が静かに口を開く。
 咲耶は信の前に腰を下ろすと、手紙の束を信に差し出した。
「今日、同心がここに持ってきた手紙だ。私の署名はあるが、私が書いたものではない。おそらく私の元に届くようにこんなかたちをとったんだろう」
 信は手紙を受け取ると、再び咲耶は見つめた。
「どういうことだ?」
「見ればわかる。暗号になっているんだ。おそらく字変四十八。おまえなら読めるだろう?」
 咲耶は信を見つめ返した後、少しだけ目を伏せた。
「前に妹を助けてほしいと言っていた男が、死んだようだな」

 信はわずかに目を見開くと、ゆっくりと手紙を開いた。
「よくわかったな……」
 信が小さく呟いた。
 咲耶は少しだけ微笑む。
「三年前や二回目なんて具体的な数字を、普通はそんなに細かく手紙に書かないからな。それに字変四十八は私が書物で読んで知っていたくらいだから、案外有名な暗号だ。同心も手紙が暗号だとわかっていれば、おそらく気づいただろう」
 字変四十八は戦国時代に武将が使っていたといわれる有名な暗号だった。
 二桁の数字でひらがな一文字を伝えられるようになっている。

 信は手紙の文字を丁寧に目で追っていた。
 すべての手紙に目を通すと、信は咲耶を見た。
「わかったか?」
「ああ」
 信は短く答えた。
(たちばな)家か?」
「ああ」
 手紙の数字は『たちはなけ』と読むことができた。
「最後の『さき』というのは何だと思う?」
 咲耶は疑問に思っていたことを聞いた。
「おそらく妹の名だろう」
 信は咲耶を見る。
「そうか……。橘家は江戸の中でも何軒かあるはずだ。どうやって探す?」
「俺が以前から探っていた家のひとつに橘家がある。そこに『さき』という女が住んでいたら、おそらく間違いないだろう」
「そうか……」
 咲耶は目を伏せた。

「ただ……」
 信は珍しく何か考え込んでいるようだった。
「俺はすでに警戒されている。顔もわからない人間を屋敷の中から探すとなると……」

(そうか……)
 咲耶は信が言いたいことを理解した。
 屋敷の誰かを捕まえて『さき』という女のことを聞けば屋敷にいるかどうかはすぐにわかるが、警戒されて最悪の場合『さき』が殺されてしまう可能性がある。
 最初から屋敷に押し入ってそのまま『さき』を見つけて連れ去ることもできるかもしれないが、その場合、信の狙いである刺青の男は逃げる可能性があった。
(かといって、グズグズしている時間はない……か。もともと『さき』の命が危ういから、あの男は信に頼んできたのだろうしな……)

 咲耶はひとりの男の顔が浮かんで、思わず苦笑する。
「最近いろいろ頼んでばかりで申し訳ない気もするが……、あいつに頼んでみるか……」
 信は咲耶を見つめる。
「あいつか?」
「ああ。幸いにも僧侶だしな。出入りはしやすいだろう」
 咲耶は叡正の顔を思い浮かべる。
 浮かんだ叡正の顔のほぼすべてが困惑した表情であることに気づき、咲耶はますます申し訳ない気持ちになった。
(今度何かお礼の品を贈ろう……)
 咲耶はそう心に決めると、信を見た。
「それでいいか?」
 信は静かに頷いた。

 二人がそんな話をしていると知らない叡正は、遠くの寺でひとり小さなくしゃみをした。
「ねぇ、信。あなた今、どんな顔をしているの?」
 百合は両手で信の顔に触れながら、悲しげに呟いた。
「信の顔からも、声からも、最近何も感じ取れないの」

 悲しそうな百合とは対照的に、百合の言葉に信は心の底からホッとしていた。
(よかった……何もバレてない……)
「悲しいこともツラいこともなければ、これが普通なんだよ。ここに来てからもう何も困らなくなったから」
 信は淡々と答えた。
「そう……。それならいいのだけど……」
 百合はまだ何か考えているようだったが、信の顔に触れていた手をそっと下ろした。
「私の考え過ぎかしら……」
 百合は目を伏せた。
「そうだよ」
 信はそう言うと、静かに立ち上がった。
 
「また出かけるの?」
 百合は顔を上げた。焦点の合わない瞳が信に向けられる。
「うん。お館様からお願いされてることがあるから……」
 信は百合からわずかに視線をそらした。
「また何日か戻れないの?」
「うん……。でも、なるべく早く帰ってこれるようにするから……。俺がいないあいだでも、ご飯とかはお屋敷の人が持ってきてくれてるんだろう?」
「ええ。本当に何から何まで申し訳ないわ……」
 百合は目を伏せた。
 信は百合の言葉にホッと息をもらす。
 実際には食事など運ばれていないのではないかと、信は少し疑っていた。
「そうだね……。俺がいないあいだもしっかり食べて」
 信の言葉に、百合は少しだけ微笑んだ。
「わかったわ。信も気をつけて行ってきてね」
「うん」
 信はそう言うと、小屋の入口に向かって歩き始めた。

「信……」
 百合の声に、信は振り返った。
「無理は……しないでね……」
 百合は着物の胸元を強く握りしめていた。
(ああ、十字架か……)
 信は目を伏せた。
「うん」
 信は小さく応えると、小屋を後にした。

 小屋を出ると、信は大きく息を吸った。
 ようやくラクに呼吸ができた気がした。
 声の高さや低さ、息づかいひとつで百合に何か気づかれるのではないか思うと、信は百合の前でラクに話すことができなくなっていた。

 初めて人殺した日から、信はすでに数えられないほどの人を殺していた。
 殺す作業に慣れ、しだいに何も感じなくなりつつあったが、殺すのにはむしろ時間がかかるようになっていた。
 信は子どもから大人になりつつあった。
 信がこれまで簡単に相手の懐に飛び込めていたのは、信が子どもで警戒されなかったからだった。
 体が大きくなり、警戒されるようになった今では、殺す相手の行動をしっかり観察して誘い出し、殺しやすい状況を作ることが必要になっていた。

(今回はどれくらいで帰ってこれるかな……)
 信は目を伏せた。


「おお、信! まだこんなところにいたのか!」
 遠くから声が響いた。
 信の背中に冷たいものが走る。
 信が今、最も聞きたくない声だった。
 ゆっくりと声の方に視線を向けると、想像通りの男の姿があった。

「もうとっくに仕事に行ったと思っていたが、まだこんなところにいたんだな!」
 恰幅のいい男は冷たく笑いながら、信に近づいてきた。
「お館様……。申し訳ありません……。出るのに……少し時間がかかってしまって……」
 信は震える声でそう言うと、頭を下げた。

「準備……ねぇ」
 男の声が低くなる。
「最近、殺すのにも時間がかかってるみたいだな」
「も、申し訳ありません……」
 信は頭を上げることができなかった。

「それなら……もう少しやる気が出るようにしてあげようか」
 男が楽しそうな声で言った。
(やる気……?)
 信は自分の指先が冷たくなっていくのを感じた。
「い、いえ! やる気は十分ありますので……」
 信は慌てて顔を上げると、縋りつくように男を見た。

 男の顔は、初めて人殺しを命じたときのように醜く歪んでいた。
 信の背筋が凍りつく。
「いいから、いいから。やる気は大事だからな」
 男はそう言うとフッと笑い、信に背を向けた。
「楽しみにしていろ」
 男はそのまま片手を上げて手を振ると、信の前から去っていった。

 血の気が引いた顔で、信は遠ざかっていく男の背中をただ見つめることしかできなかった。
 信が無事に仕事終えたのは、小屋を出て三日後のことだった。
(嫌な予感がする……。お館様は一体何をする気なんだ……)
 信は日が沈み始めたのを見て、小屋に向かう足を速めた。

 小屋に着いた頃にはすっかり日が沈み、小屋の中は暗くなっていた。
「姉さん……?」
 いつもなら気配だけで信が帰ってきたことに気づく百合が何も言わないことに、信の不安は急速に高まった。
「……信?」
 暗闇の中で、何かが少しだけ動く気配がした。
「姉さん……?」
 信は暗闇の中、手探りで声のした方に向かっていく。
 しだいに目が慣れてくると、窓から差し込む月の光でぼんやりと百合の姿が見えた。
 百合は薄い布団の上で、上半身を起こしていた。

「姉さん……、もう寝てたの……?」
 信はゆっくりと百合に近づくと、布団の横に腰を下ろした。
 日は沈んでいたが、寝るにはまだ早い時間だった。
「ごめんね……。ここ数日体調が少し良くなくて……。食事もせっかくいただいたのだけど……今日はもうあまり食べられなくて……」
 百合はそう言うと、少しだけ微笑んで食事の膳の方に顔を向ける。
 膳の上にはほとんど手つかずの食事が残されていた。
「もし食べられそうなら、信……食べてくれない? 残すのは申し訳なくて……」
 薄暗く百合の顔色はよくわからなかったが、百合の表情を見る限り、体調はかなり悪いようだった。
「うん、残りは俺が食べるから、姉さんはもう休んで」
 信がそう言うと、百合は申し訳なさそうに微笑み、ゆっくりと体を横にした。

 信は百合の布団を掛け直すと、ゆっくりと食事の膳の前に移動した。
(ちゃんと食事は出してくれたんだな……)
 豪華とは言えないが、毎日米を食べられるだけで二人にとっては十分すぎるほど贅沢な食事だった。
 信は膳の前に腰を下ろすと、残りの食事に口をつける。
 残すのが申し訳ないという思いは、信も同じだった。

(それにしてもお館様は何をするつもりなんだろう……)
 体調こそ崩していたが百合が無事だったことに信は心の底からホッとしていた。

 膳に残っていた食事を食べ終えた信は、百合を起さないようにそっと外に出る。
 月の綺麗な夜だった。
 虫の音を耳にして、信はようやく季節が秋になっていることに気がついた。
「また……季節が変わったんだな……」
 そう呟いたとき、信は近づいてくる足音に気がついた。
(こんな時間に……誰が……?)

 しだいにぼんやりとした黒い影が信の目に映る。
「信、おかえり。遅かったなぁ」
 月明かりに照られた恰幅のいい男は、信を見て不気味に微笑んだ。
「お館様……。こんな時間にどうされたんですか……?」
 信は顔が引きつるのをなんとか抑えながら言った。

「おまえの姉さんの様子を見に来たんだよ」
「姉さん……ですか?」
 信はそう口にしながら、胸の辺りが少しずつ気持ち悪くなっていくのを感じた。
(なんだ……? どうしたんだ……?)

「ああ。おまえの姉さん、元気だったか?」
「どういう……意味ですか?」
 信は喉元までこみ上げてくる吐き気を抑えながら聞いた。
「言葉通りの意味だが……」
 男は信の様子を見て、ニヤリと笑う。
「なんだ、おまえも食べたのか?」

(食べ……た?)
 信はその場にしゃがみ込むと、堪え切れず一気に吐いた。
 吐いても吐いても、吐き気は治まらなかった。

「あ~あ、もったいない。おまえたちにとっては貴重な食事だろう?」
 男は信から距離を取りながら、面白そうに笑っていた。

「何を……した……んですか……?」
 信はなんとか顔を上げたが、視界がかすんで男のことは見えなかった。
「まぁ、ちょっとした毒を入れた」
(毒……!?)
 信は再び吐いた。
 口の中にかすかに血の味が広がる。
「すべてはおまえのやる気を引き出すためだよ。これからおまえの姉さんの食事には常に毒を入れる。まぁ、心配するな。すぐ死ぬようなもんじゃない。だが、ずっと食べ続ければいつか死ぬだろうな」

 信は目を見開く。
「ど……して……そんな……」
 息が苦しく、うまく声が出なかった。

「だから言ってるだろう? おまえのやる気を引き出すためだよ。姉さんに毒を食べさせたくないなら、おまえが早く帰ってきておまえが代わりに食べればいい。おまえが逃げたり、手を抜いて殺すのに時間をかけたりしたときは、おまえのせいで姉さんが死ぬんだよ」

(姉さんが……死ぬ……?)
「あぁ……あ……」
 信は呼吸ができず、もはや話せる状態ではなかった。
 目の前が真っ暗で、自分が今目を開けているのか、閉じているのかすらよくわからなかった。
(死ぬ……死ぬ……姉さんが……。俺のせいで……?)
 信はその場に倒れ込んだ。
(俺が……こんなところに連れてきたせいで……)

「ああぁ……」
(俺は一体何を……)
 怒りと悔しさで信は強く歯を食いしばったが、信の意識はそこでプツリと途切れた。
「橘家? それって橘忠幸(ただゆき)様のことか?」
 咲耶に呼び出されて部屋を訪れた叡正は、唐突に話しに出てきた橘の名前に首を傾げた。
「なんだ、知っているのか?」
 咲耶は少し驚いたように言った。
「ああ、まぁ……うちの寺の檀家のひとつだからな。でも……どうして突然橘様の名前が出てくるんだ?」
 叡正は不思議そうな顔で聞いた。

「おまえ……本当にちゃんとした僧侶だったんだな……」
 咲耶が驚いた顔のまま呟く。
「逆に今まで何だと思ってたんだ……」
 叡正は驚かれたことに驚いていた。
「いや、寺に居候しているだけの生臭坊主くらいの感覚になっていたからな。すまない、気を悪くしないでくれ」
「ああ……少し傷ついたが、気は悪くしていないから大丈夫だ」
 叡正は引きつった笑顔で応えた後、深いため息をついた。

 昨夜、玉屋に来てほしいという内容の手紙を受け取ってから、叡正は嫌な予感しかしていなかった。
(こうやって呼び出されるときは、ロクなことがないからな……)
 重い足を引きずるように咲耶の部屋を訪れると、案の定、お願いしたいことがあると言われ、叡正はすでに帰りたい気持ちでいっぱいだった。

「それで、どうして橘様の名前が出てきたんだ?」
 叡正は気を取り直して咲耶に聞いた。
「ああ……細かいことを省略して話すと、橘家にいる『さき』という女を連れだしてほしいんだ」
「は!?」
 叡正は目を丸くする。
「ちょっと待ってくれ。まずは細かいところを説明してほしいんだが……」
「ああ、そうだな。このまま橘家にいると、命の危険があるから連れ出してほしいんだ」
「命の危険……?」
 叡正は頭が痛くなっていくのを感じた。
「ちょっと待ってくれ……。顔見知りでもない俺がどうやって連れ出すんだ? 知らない男に『ここにいると命の危険があるから、俺と一緒に来てくれ』って言われても普通ついてこないだろう? それとも命が危ないことは本人もわかっていて、連れ出してほしいと言っているのか?」
「いや、本人は知らないはずだ。連れ出してほしいと望んでいるのはその女の兄で、兄は先日死んだ。兄が死んだこともおそらくその女は知らないだろうから……」

(妹の身を案じながら死んだってことか……)
 叡正は目を伏せた。
 妹を想う気持ちは叡正にもよく理解できた。

「……わかった。できる限りのことはするが、どうやって連れ出す気なんだ?」
「それは……」
 咲耶は珍しく目をそらしながら、気まずそうに微笑んだ。
「おまえの色気でなんとか……」
「な!?」
 叡正は目を見開いた。
「無理だろう! そんなの! ……まさか何の計画もないのか……?」

 咲耶は気まずそうに微笑むと小さく頷いた。
(嘘だろ……?)
 叡正は呆然と咲耶を見つめる。

「すまない……。私も『さき』という名前以外何も知らないんだ。橘家にいることはわかっているが、そこでどのような仕事をしているのかもわからないから計画の立てようがないんだ……。顔もわからないしな。そして、とにかく時間がない……」
 咲耶は申し訳なさそうに笑った。

「顔もわからない……?」
 叡正は開いた口が塞がらなかった。
「まぁ、その……連れ出せるかどうかは別として、『さき』っていう女を見つけることはできるかもしれない……」
 叡正の言葉に、咲耶は不思議そうな顔で叡正を見た。

「明後日、橘家の法要があるんだ。二十三回忌だから橘家の屋敷でやるらしくて、俺も行くことになってるから、探すだけならできるかもしれない……」
(たぶん……)
 叡正は心の中でそう付け加えた。

「叡正……」
 咲耶が珍しく名前を呼んだことに、叡正は目を丸くした。
「すごいな、おまえ……。ただの生臭坊主だと思っていて本当に悪かった」
 咲耶は目を輝かせて叡正を見た。
「あ、ああ……。少し傷ついたが大丈夫だ」
 叡正は引きつった笑顔で応えた。

「ところで、連れ出した後はどうするつもりだったんだ? ただ連れ出しただけじゃ、その後生きていけないだろう?」
 叡正の言葉に咲耶はハッとしたような顔をした。
「まさか……何も考えてなかったのか……?」
 咲耶は気まずそうに微笑んだ。
 叡正は呆然と咲耶を見る。

(咲耶太夫は人の心を見透かせるから、何でも思い通りにできるんだって思ってたけど……)
 今、目の前にいる咲耶はそんな神のような存在ではなく、人のために自分ができることを必死になって考えるごく普通の人間に見えて、叡正は少しだけ嬉しくなった。

「なんだ? 何か言いたいことでもあるのか?」
 咲耶は少し睨むように叡正を見た。
「い、いや、なんでもない」
 叡正は慌てて首を横に振った。
 咲耶が人間らしく見えて嬉しかったとは、叡正はとても口にできなかった。
 信が目を覚ましたのは、空が明るくなってからだった。
 まだ胸が焼けつくような気持ち悪さは残っていたが、起き上がれないほどではなかった。
(逃げよう……。一刻も早くここから……)
 信はゆっくりと体を起すと、重い体を引きずるように小屋に戻った。

「信?」
 信が小屋に入る気配に気づいたのか、百合は布団から体を起こすと信の方に顔を向けた。
「昨日はあれからどこに行っていたの?」
 百合は不安げな表情で聞いた。

(姉さん……、昨日より具合は良さそうだな……)
 信はそっと胸をなでおろした。
「……お館様に呼ばれて外に出てたんだよ……」
 信の言葉に、百合は少しだけ表情を曇らせた。
「そう……なの……」

「それでさ……お館様から言われた仕事をするために、今すぐここから二人で出ていかないといけなくなったんだ……!」
 焦りから信は少し早口になっていた。
 百合は目を丸くする。
「今から? ……そんなに急ぎの仕事なの?」
「うん、とにかく急がないといけないんだ……。必要な荷物なんてほとんど何もないだろう? 姉さんはついてきてくれればいいから」
 信の言葉に、百合は何か言いかけたが目を伏せると静かに頷いた。
「少しだけ待ってね……。すぐに荷物をまとめるから」
 百合はそう言うと、手探りで荷物をまとめていった。

(今ならまだ早い時間だから見つかる可能性は低い……。なるべく早く山を下りないと……)
 気持ちだけが焦っていた。

「待たせてごめんなさい。準備ができたから行きましょうか」
 百合は手には何も持っていなかった。
 信の言いたいことを察したのか、百合は自分の胸元をポンと叩く。
 大切なものは懐に入れたということなのだろうと信は理解した。
「行こう」
 信は百合の手をとると小屋を出た。

 仕事で山を下りるときに使う道は避けて、木々の生い茂ったけもの道を進む。
 目の見えない百合にとってけもの道が歩きにくいのはわかっていたが、いつも通る道では見つかってしまう可能性が高かった。
(山さえ下りられれば、後はなんとかやっていけるはずだ……)
 仕事で何度も山を下りてきた信は、少しずつ普通の暮らしというものを理解し始めていた。
(二人で普通に生きていくためなら、なんでもやる。きっと大丈夫だ)
 木の枝や葉が百合に当たらないように手で払いながら、信は百合の手を引いて進んだ。
(ただ普通に……)

 その瞬間、ストンという音が耳に響いた。
(な……んだ?)
 音のした方を見ると、信のすぐ横にある木の根元に弓矢が刺さっているのが見えた。
(まさか……!)
「姉さん、気をつけて!!」
「え……?」
 百合がそう呟いて信に顔を向けた瞬間、百合の右足に弓矢が刺さるのが見えた。

「姉さん!!」
「ッ……!」
 百合はそのまま前に倒れ込む。
 百合は、何が起こったのかわからず戸惑っていたが、ゆっくりと自分の足に触れていき、足首より少し上に刺さった棒のようなものに触れるとようやく何が起きたのか理解したようだった。
 信は慌ててしゃがみ込む。
「姉さん、触らないで! ヘタに抜こうとすると食い込むようになってるから! 急いで医者に……」

「おやおや、信じゃないか」
 今、一番聞きたくなかった声に、信は凍りついたように動けなくなった。
 木の根や草を踏みしめる音が少しずつ近づいてくる。
「どうしてこんなところを歩いているんだ? 獣だと思って弓を射ってしまったじゃないか」
 信の背中に男の影がかかる。

「あ、これは! お姉さんの足に刺さったのか!? こりゃあ、大変だ!」
 信には男の声が少し笑いを含んでいるように聞こえた。
「矢じりには毒が塗ってあるんだ! 早く処置しないと!」

(毒……?)
 信の顔から血の気が引いていく。

「大丈夫、心配いらないさ。今ならまだ足を切り落とせば、命は助かる」

(足を……切り落とす……?)
「そ、そんな! お館様……!」
 信が勢いよく振り返ると、醜く歪んだ顔で信を見下ろす男と目が合った。
 恐怖で声が出なかった。

 気がつくと、ガサガサと何人かの男たちが近づいてきていた。
「ほら、さっき人を呼んでおいたから、お姉さんはこいつらに任せるんだ」

 恰幅の良い男は、不気味に微笑んだ後、しゃがみ込んで百合の足に触れた。
「お姉さん、大丈夫だよ。足を切れば命は助かるから。痛くないように切るからね」
 男の言葉に百合の顔は青ざめていたが、やがて意を決したようにゆっくりと頷いた。

「さぁ、おまえら慎重に運べよ」
 恰幅の良い男がそう言うと、集まってきた男たちは百合を抱き上げ、木々の向こうに消えていった。

 残されたのは、信と恰幅の良い男の二人だけだった。
「お館様……」
 信は膝をつき、頭を地面にこすりつける。
「も、申し訳ございません! すべては俺が! どうか姉さんが足を切らなくてもいいように……どうか! なんでもします!! もう絶対に逃げたりしませんから! どうか……どうかお願いします!!」

 信の肩にそっと男の手が置かれる。
「もう手遅れだよ、信」
 男が信の耳元でそっと囁いた。
「毒矢だと言っただろう? 足を切って生きるか、死ぬかのどちらかだ。……すべておまえのせいだよ」
 男の言葉に、信の手足が震え始める。
「おまえたちの好きな異国の神にでも縋ればいいさ」
 男の声はどこかこの状況を楽しんでいるようだった。
「まぁ、おまえのような人殺しを救う神がいるのかはわからないがな」
 男はそう言うと、声を上げて笑った。
 信は顔を上げることができなかった。

 しばらくするとガサガサと音がして男が遠ざかっていくのがわかった。
 信は生まれて初めて神に祈った。
(すべては俺の罪で、姉さんは関係ないんです!! どうか姉さんをお救いください! 姉さんはずっと神を信じて祈りも捧げてきたでしょう……。どうか姉さんから足まで奪わないでください! どうかどうか!!)
 信は、辺りが暗くなって屋敷の人間が呼びに来るまで、ずっと祈り続けた。

 数日後、小屋に戻ってきた百合は穏やかな微笑みを浮かべていた。
「お館様に良くしていただいて治ったの。ようやく帰ってこられたわ」
 百合のその表情は以前と何も変わらなかったが、百合は杖をつきながら小屋に入ってきた。
 ゆっくりと進むその足元には片足しかなく、右足のふくらはぎから先は跡形もなく、なくなっていた。
「どうしたんだ、叡正? そんなにキョロキョロして」
 橘家の屋敷に上がった嗣水は、入るなり挙動不審な叡正を見て首を傾げた。
「え!? いや、そんなことねぇよ……」
 叡正は引きつった笑みを浮かべた。

(本当にこんな広い屋敷の中から見つけられるかな……)
 叡正は早くも安請け合いしたことを後悔し始めていた。

 二十三回忌の法要には住職である嗣水と叡正の二人だけで来ていた。
 二人は法要が始まるまでの待ち合いの部屋に通されると、用意されていた座布団に腰を下ろした。

(法要が始まったらさすがに動けないから、何か理由をつけて始まる前に動かないとな……)
 叡正が少しうつむいて考えていると、嗣水がニヤニヤしながら叡正に顔を近づけてきた。
「さては、この屋敷に気になる子でもいるんだな~?」
「……は?」
 叡正は軽く嗣水を睨んだ。
(あ、でもそう思われてた方が動きやすいのか……)
「嘘つくなよ~。ソワソワしてるじゃないか。ふふふ、若いってのはいいねぇ」
 嗣水は目を閉じて、何か納得したように頷いた。
「い、いや、そういうわけじゃないけど……ちょ、ちょっと昔の知り合いがこの屋敷で働いてるって聞いたから……。少しでも会って話せればと思って……」
 叡正は目を泳がせながら、なんとかそれらしい理由をつけた。
「へ~、そう。元旗本のご子息のご友人が、橘家の奉公人にねぇ。へ~、そうなの~。珍しいこともあるもんだ~」
 嗣水はずっとニヤニヤしていた。
(う……、少し無理があったか……?)

 橘家は武家としてそれほど大きい方ではなかった。
 旗本であれば武家の人間が奉公人になることもあるが、橘家の大きさから考えれば奉公人は百姓が中心であることは簡単に想像できた。
 旗本の屋敷に暮らしていて、百姓の子どもと知り合いになる機会はほぼないといっていい。

「まぁ、いいよ。そういうことにしといてあげるから。その知り合いとやらを探しておいで。挨拶はこっちで済ませておくし、あとは茶をすすって待ってるだけだからさ」
 嗣水は軽く笑うと、叡正をちらりと見た。
「ただ、くれぐれも節度を持ってね。女遊びもほどほどに~」
「だ、だから違うって!」
「ほら、法要が始まる前には戻ってきてもらわないといけないんだから~。さっさと行きな」
 叡正は何か言おうと口を開いたが、あまり時間がないことを思い出し口を噤んだ。

 ゆっくりと立ち上がった叡正を、嗣水が見上げてにっこりと笑う。
「好みの子に会えるといいね~」
「だから、違うって! ……知り合いと話してすぐ戻るから……」
 叡正はそれだけ言うと、嗣水に背を向けて襖を開けた。
「はいは~い、ごゆっくり」
 嗣水ののんびりとした声を背中で聞きながら、叡正は部屋の外に出た。

(どうやって見つけるかな……。まぁ、会った奉公人に手当たりしだい聞いてみるか……)
 叡正はそう決めると、真っすぐに伸びる廊下を歩きだした。
(そろそろ誰かに声を掛けたいな……)
 先ほどから何人かの奉公人とはすれ違っていたが、叡正の法衣を見ると会釈をしてすばやく通り過ぎていくため、なかなか声を掛けることができずにいた。

 叡正が思い悩みながら廊下の角を曲がると、その瞬間、反対側から歩いてきていた女とぶつかった。
「あ、すまない」
 よろける女を慌てて叡正が抱きとめる。
「いえ! こちらこそ! 申し訳ございませ……」
 女は慌てて半歩下がると顔を上げた。
 叡正の顔を見た瞬間、女は目を見開く。
 頬は赤く染まり、謝罪の言葉は不自然なかたちで途切れた。

(あ、今が声を掛ける絶好の機会か……!)
 叡正は意を決して女を見た。

「少し聞きたいことがあるんだが、今話せるだろうか?」
 叡正はよそいきの綺麗な微笑みを浮かべた。
 女は叡正の笑顔を見ると、ますます顔を赤くした。
「あ、はい! もちろん大丈夫です!」
 女は目を輝かせる。
「ありがとう。人を探しているんだが、ここに『さき』という奉公人はいるか?」
 叡正の口から女の名が出てきたことに、女はあからさまに肩を落とした。
「あ、はい……。(さき)は、私と同じ飯炊きですが……お知り合いですか……?」
「知っているんだな!」
(いた! こんなに早くわかるなんて!)
 肩を落とした女とは対照的に、叡正は喜びで思わず頬が緩んだが、女のジトっとした視線を受けて慌てて首を横に振った。
「あ、いや、知り合いというわけではないんだ。そこで落とし物を拾ったんだが、『さき』という刺繍があったから届けようと思ってね……」
「ああ! そうだったのですね!」
 女の顔がパッと明るくなる。
「それでしたら、私が届けておきますので」
 女はそう言うと、にっこりと微笑んだ。

(う……、それだと困るんだよな……)
 叡正の顔が思わず引きつる。
「あ、いや。落とし物を俺の勝手な判断で人に渡すというのは気が引ける。手間をとらせて悪いんだが、『さき』という奉公人のところまで連れていってもらえないだろうか?」
「咲のところにですか……? 私の一存でお客様をお屋敷の奥までお連れするというのは……」
 女は顔を曇らせると叡正から視線をそらした。

(まずい……。いることはわかったが、なんとか顔くらいは見ておかないと……。あと一押し……なんとか……)
 叡正は意を決して女の手をとった。
「……え?」
 ふいに手を掴まれた女は、目を丸くする。
 叡正は女の手を両手で包むと、顔を近づけて懇願するように女をじっと見つめた。
「……頼む」
 女の顔がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。
「届けてやりたいんだ。頼む」
 叡正は真っすぐに女を見つめ続けた。

「あ、そ、その……。そこまでおっしゃるなら……。は、はい……、お連れします……から……」
「ありがとう! 恩に着る!」
 叡正は力強く女の手を握りしめた。
「あ、は、はい……!」
 女は首元まで赤くしながら言った。

(なんとか探すという約束は果たせそうだな……)
 叡正はホッと胸をなでおろした。

「そ、それではご案内しますので……ついてきてください」
「ああ、頼む」
 叡正はそう言うと、女の手をそっと離した。
 女がくるりと背を向けて廊下を歩き出す。
 その首筋はまだほんのりと赤かった。

『おまえの色気でなんとか……』
 叡正は一昨日、咲耶に言われたことを思い出していた。

(俺の使い道ってやっぱりこんな感じのことしかないんだよな……)
 叡正は少しだけ情けなくなり、前を歩く女に聞こえないくらいの小さなため息をついた。
 叡正は女の後に続いて屋敷の奥へと足を進めていた。
 奥へ進めば進むほど奉公人の数は増え、忙しなく廊下を行き来していた。
 客が屋敷の奥まで来るのはやはり珍しいのか、皆戸惑いながら法衣を来た叡正に頭を下げた。

「ここの奥が台所なので、こちらでお待ちください。今、呼んでまいりますので」
 女は叡正にそう言うと、扉を開けて中に入っていった。

(さぁ、ここからどうするか……)
 廊下にひとりになった叡正は、腕組みをしてそっとため息をついた。
(とりあえず顔が確認できれば十分だよな……。どう考えてもいきなり連れ出すなんて無理だし……)

 叡正が考え込んでいると、ガラッと扉の開く音がした。
 叡正が視線を上げると、先ほどの女とともに、どこか不安げな表情の女が扉から出てきた。
「こちらが咲です」
 女は、隣にいる女をちらりと見て言った。
「あ、咲と申します。私が何か落としてしまったようで……お手数をおかけして申し訳ありません」
 咲は一度だけ叡正の顔を見ると、すぐに申し訳なさそうに目を伏せた。

(この子が、咲か……)

 叡正は咲を見る。
 咲は印象に残りにくい素朴な顔立ちをしていた。
 咲の背は決して低くなかったが、ずっと申し訳なさそうにうつむいているせいか、隣にいる女よりもずっと小さく見えた。

「あの……、お、落としたものを……」
 咲がおずおずと叡正を見上げた。

「あ……、えっと……」
 叡正は、咲の隣に立っている女をちらりと見る。
「その……ほかの者が見ている前では出しにくいものだから、少し外してもらえるだろうか?」

 女と咲は二人同時に目を丸くした。
「え……?」
 咲は一瞬ポカンとした顔をした後、みるみる顔を赤くした。

(しまった……。何か恥ずかしいものを落としたような感じになってしまった……)

 女は気の毒そうに咲を見た後、叡正の方を向いた。
「そういうことでしたら……」
 女はそれだけ言うと、そそくさと扉を開けて台所の方に去っていった。

 女がいなくなったのを確認すると、叡正は慌てて咲の方を向く。
「す、すまない! そんなことを言うつもりでは……申し訳ない!」
「あ……いえ……」
 咲は真っ赤な顔のままうつむいた。

「それに……落とし物を拾ったというのは嘘なんだ……」
「え……?」
 咲は目を丸くして顔を上げる。

「実はその……君のお兄さんと知り合いで……」
 叡正の言葉に、咲は目を見開いた。
「兄と、ですか!?」
 咲はそう言うと、先ほどまでとは別人のように叡正に詰め寄る。
「あの! 兄は今どこにいるんですか!? ずっと心配で……!」
 咲の勢いに、叡正は思わず後ずさった。
「あ、えっと……、ここ最近は会ってないんだ……。最後に会ったときに、君をすごく心配してたから……。法要のついでに顔を見ていこうかと……」
 叡正はあらかじめ考えておいた言い訳を口にした。
 叡正の言葉に、咲は明らかに肩を落としていた。
「そう……でしたか……」

「その……お兄さん、行方がわからないのか……?」
 咲は一度叡正を見てから、静かに目を伏せた。
「はい……。兄は基本的に旦那様に直接仕えているのですが、行方がわからなくなったらしいのです……。旦那様の大切なものを持って逃げたという噂も広がっていて……。最初からそのつもりでこの屋敷に来たのではないかと疑われていて……」

(一体、どこまでが事実なんだ……?)
 叡正は咲の兄が死んだということだけは知っていたが、それは今話すべきではないと判断した。

「そう……なのか……。それは君も居心地が悪いだろうね」
 叡正の言葉に、咲は苦しげな表情を見せた。
「居心地……というよりは、最近変なことが多くて……」
「変なこと?」
 叡正は眉をひそめる。
「かまどに薪を入れているときに後ろから誰かに押されたり……、食事の味が今までとどこか違ったり……大したことではないのですが、火傷や怪我、体調を崩すことが多くなってきていて……」

 叡正は目を見開いた。
(これは、思っていたよりもすでに危ないんじゃないか……?)

「そんなことがあるのに……君は逃げようとは思わないのか?」
 叡正は咲を見つめた。
「ここまでよくしていただいた恩があります……。それに、私が逃げたら兄がやはり悪いことをしていたと思われてしまいそうで……。本当に兄が悪いことをして逃げたのなら、それこそ私が罪を償わないといけませんし……」

(……恩……、罪を償う……?)

 叡正は茫然と咲を見つめる。
 咲が、今はもういない叡正の妹と重なって見えた。

(ああ……あいつもそんなことを考えていたんだろうな……)
 叡正はきつく目を閉じた。
(その後、辿った道は……)

 叡正はゆっくりと目を開けた。
「俺が……言うことではないのかもしれないが……、もっと自分を大事にしてほしい。恩があったとしても命の危険があるなら逃げるべきだ。それに……もし君のお兄さんが罪を犯していたとしても、それを君が償う必要はない。何よりお兄さんが絶対にそれを望んでいない。君のことを心配していたんだから」

 叡正の言葉に、咲は目を見開いた。

「逃げるんだ。自分のために……。もし逃げる気があるなら手伝うから。もし……その気があるなら、今日の夜、屋敷の門の前に来てくれ」
 叡正は真っすぐに咲を見つめた。

「わ、私は……」
 咲は目を泳がせる。
「私は……どうすればいいか……。……すみません!」
 咲はそう言うと、叡正を押しのけて廊下を駆け出した。

 叡正は咲の後ろ姿を呆然と見つめながら、よろよろとその場にしゃがみ込む。
(ああ……失敗した……! あんなこと急に言ったら混乱するに決まってるだろう……)
 叡正は頭を抱える。
(……とりあえず、まずは来ることに賭けるしかないか……)
 叡正は頭を抱えたまま、祈るように目を閉じた。
(俺は……どうして生きようとしてるんだっけ……)
 小屋の片隅で、信はぼんやりとそんなことを考えていた。
(なんだろう……。頭がはっきりしないな……)
 思考だけなく、信の視界は霞がかかったようにぼんやりとしていた。
(ああ……、さっきの食事……そういう毒だったのかな……)

 信は少し離れたところにいる百合に視線を向ける。
 百合は布団から体を起こし、窓から差し込む光に向かって祈りを捧げていた。

(足までなくして……どうしてまだ神なんて信じられるんだ……)
 信は静かに目を閉じた。

 あれから男の言葉通り、百合の食事には常に毒が入っていた。
 信がそばにいるあいだは、信の食事と入れ替えることで百合が毒を口にすることを防いでいたが、信が外に出ているあいだはそれも難しかった。
 とにかく早く仕事を終えて百合の元に戻ること。必然的にそれが信にとっての最優先になった。
 
 どうすればより早く殺すことができるのか、信はただそれだけを考えていた。
 今ではどんな相手でも半日かからずに殺すことができるようになったが、早急に事を進めているため、傷を負うことも増えてきていた。

(俺は一体……何をしているんだろう……)
 信はぼんやりと自分の両手を見つめた。
 最近では手が赤く染まっている時間の方が圧倒的に長い。
(殺したくもない人を殺して、殺したくてたまらないほど憎い男に頭を下げて……。どうして俺は生きようとしてるんだっけ……)

 信は窓から差し込む光に目を向けた。
 光が差す先にいる百合は、まだ静かに祈っていた。

(そうだ……、姉さん……)

 信が死ねば、百合も死ぬ。
 今までの男の行動から、信が役に立たなくなれば百合が殺されるのは明らかだった。

(この世でたったひとりの血を分けた姉さん……)
 信は百合を見た。百合の髪が光を受けて淡く輝いている。
(俺が守らないと……)
 信はこぶしを握りしめる。


 信と百合の母親は、綺麗な人だった。
 ただ良い母親だったかと聞かれると、信にはよくわからなかった。
 信とって母親は、生み育ててくれた人だったが親というにはどこか距離があった。
 どちらかといえば道徳的な教えを説く人という印象が強い。
 母親は愛を持って二人に接していたが、二人を本当の意味で愛していたのかは、信にはわからなかった。
 生みたくて生んだのか、生まなければならなかっただけなのか、信は幼い頃よく考えていた。

 『人を殺してはいけない』
 この教えは、信の母親にとって絶対に破ってはいけないものだった。
 たとえ、まだお腹に宿っただけの命だったとしても殺すことはできない。

 母親の客がよく「どうして生んだのか?」と母親に聞いていたが、信は知っていた。
 生むという選択肢以外、母親の中にはなかったのだ。

 望まれて生まれたかどうかもわからない二人。
 さらに百合は生まれたときから目が見えなかった。

(俺が守らないと……。俺のせいで足までなくしたんだ……)

 百合は足をなくして以来、少しずつ外に出ることが減ってきていた。
 目が見えないため、もともと頻繁に外に出てはいなかったが、動くのに杖が必要になると少し歩くだけでも体力の消耗が激しいようで一層その回数は減った。

(俺が守らないと……。そのためにはどんなことでも……)
 信は強くこぶしを握りしめると、固く目を閉じた。