「雪之丞ちゃんは、最近どうなのかな? 身請けの話は進んでいるのかい?」
稽古を終えた雪之丞のもとに、辰五郎がヘラヘラと近づいてきた。
雪之丞は顔をしかめる。
「うるさい、黙れ。消えろ」
雪之丞は手ぬぐいで顔の汗を拭きながら早口で言った。
辰五郎はわざとらしく目を丸くして、両手で口元を覆った。
「まぁまぁ、なんてことでしょう! その様子だとまだ何のお話もしていないのね!」
雪之丞は辰五郎を睨む。
「その地味な顔、舞台映えするようにボコボコにしてやろうか?」
辰五郎はプッと吹き出した。
「ボコボコは困るなぁ」
辰五郎はそう言うと、雪之丞の肩に手を置いた。
「いや、でも真面目な話、前に話してから三ヶ月は経ったぞ? まだ通い続けてるんだろう? 本当にまだ身請けの話してねぇの?」
雪之丞は辰五郎から目をそらす。
「放っとけよ……」
辰五郎は肩をすくめる。
「想像以上に雪之丞ちゃんは奥手だねぇ」
「だから、放っとけって……」
雪之丞はそう言って辰五郎の手を払うと、壁際に寄りかかるように腰を下ろした。
「何で身請けの話しないんだよ? この先どうするつもりなんだ?」
辰五郎も雪之丞の隣に腰を下ろした。
「どうって……」
雪之丞は言葉に詰まる。
「このままなんて無理だろ? 小見世の遊女なんて下手したら別の誰かにすぐ身請けされるぞ」
「それは……!」
雪之丞は弾かれたように辰五郎を見た後、目を伏せた。
「本人の気持ちがあるだろう……」
辰五郎は呆れたようにため息をついた。
「おまえはホントにヘタレだねぇ……」
「うるせぇ」
雪之丞は辰五郎を睨む。
そのとき二人に影が差した。
二人が同時に顔を上げると、よく通る太い声が響いた。
「おお、珍しい組み合わせだな」
二人の前には檀十郎が立っていた。
辰五郎は慌てて立ち上がると、頭を下げる。
「檀十郎さん、お疲れさまです!」
「ああ」
檀十郎はそう言って微笑むと、二人を交互に見た。
「仲が良いとは知らなかったな。これからも雪之丞をよろしく頼む」
「はい、もちろんです!」
辰五郎は自分の胸を叩いた。
「何を頼むって言うんだよ。こいつに頼ることなんて何もねぇよ」
雪之丞が座ったまま、悪態をついた。
檀十郎は呆れた顔で雪之丞を見る。
「おまえの悪いところはそういうところだぞ。可愛げがねぇ。そんなんじゃ、そのうち女にも愛想つかされるぞ」
「な!?」
雪之丞は目を見開く。
(さては聞いてやがったな……! クソ狸……)
辰五郎が顔をそらして、プッと吹き出したのがわかった。
「おまえは確かに見た目も実力も申し分ないが、これからは可愛げも必要だぞ」
檀十郎は腕組みしながら雪之丞を見た。
「可愛げってなんだよ……。媚なんて売らなくたって芸を磨いていけばいいだろ?」
雪之丞は檀十郎を見上げた。
「わかってないねぇ、おまえは。ひたすら芸に打ち込めるおまえは確かにすごいと思うが、それだけじゃ足りねぇ。歌舞伎なんてのは人気商売だ。特に看板役者は、どれだけ多くの人に愛されるかで芝居小屋全体の売り上げまで左右する。おまえはどうだ? 女ひとりも振り向かせられないやつが、どれだけの人間を魅了できるっていうんだ」
雪之丞は檀十郎を睨む。
「それとこれとは関係ねぇだろ……」
「関係ある。おまえ、怖いんだろ? フラれるのが。縋りついてでも手に入れるってことが、その高い自尊心のせいでできねぇんだ。愛されるためならなんでもするって覚悟がおまえには足りない。女のことだけを言ってるんじゃねぇぞ。歌舞伎は庶民の娯楽だ。みんな生活を切り詰めてでも役者に会いたくて、その芝居が観たくてやってくる。おまえ自身が愛されなければ、簡単に歌舞伎小屋なんて潰れるんだ。つまらない自尊心は捨てろ。そんなものでは何も手に入らないし、金にもならない」
檀十郎は雪之丞を真っすぐに見つめていた。
しばらく檀十郎を睨んでいた雪之丞は、強い眼差しに耐え切れず思わず目をそらした。
「まぁ、こんなやつだが、よろしく頼む」
檀十郎は辰五郎に視線を移すと微笑んだ。
「あ、はい。もちろん……」
辰五郎がそう応えると檀十郎は満足げに笑い、身を翻して去っていった。
辰五郎は座ったままうつむいている雪之丞を見た。
「おまえ……愛されてるねぇ……」
辰五郎は苦笑する。
「どこがだよ……」
雪之丞はうつむいたまま呟くように言った。
辰五郎はため息をつく。
「おまえは呆れるぐらい鈍感だな……」
何も応えない雪之丞を見て、辰五郎は肩をすくめると稽古場から出ていった。
ひとりになった雪之丞は、檀十郎の言葉の意味をずっと考え続けていた。
山吹は眠っている与太郎の横で、羽織の刺繍を進めていた。
(これなら夏が来る前にお渡しできるかもしれないな……)
山吹は羽織を広げて眺めると、静かに微笑んだ。
(今日はここまでにしよう……)
山吹は羽織を畳むと、音を立てないように気をつけながらそっと戸棚に羽織をしまった。
与太郎はずっといびきをかきながら眠り続けている。
(それにしても、今日の与太郎様は特に変だったな……)
山吹は与太郎を見つめた。
酔った状態で見世に来たのはいつも通りだったが、今日の与太郎にはいつものような強引さがなく、むしろ何かに怯えるように山吹を求めていた。
「おまえは俺を捨てないだろう?」
「おまえは俺のものだよな……?」
「俺のこと好きだろう?」
繰り返し縋るような目で聞かれるたび、山吹はただ困ったように微笑むことしかできなかった。
嘘でも頷くのが優しさだとわかってはいたが、山吹はどうしても嘘をつくことができないでいた。
(遊女失格ね……)
山吹は申し訳ない気持ちで与太郎を見つめる。
(この方は孤独なのかしら……)
山吹に縋るように愛の言葉を求めるのと同時に、与太郎は今日も妻のことを口にしていた。
「あいつは俺が邪魔なんだ……」
「俺のことなんて見えていない」
「俺なんて死んでほしいと思ってるんだ……」
(そんなふうに思うなんて、一体奥様と何があったのかしら……)
山吹はふと浮月の言葉を思い出した。
『永遠を求めるなんて、ちょっと贅沢すぎるんじゃないのか?』
(愛し合って結ばれても、変わっていくこともあるということよね……)
山吹は急に与太郎が可哀そうに思えて、寝ている与太郎の頭をそっとなでた。
(奥様に想いが通じればいいのだけれど……)
山吹はそっと目を伏せた。
山吹の脳裏に雪之丞の顔が浮かぶ。
(私はもう変わっていくことは怖くない……)
初雪の降った日、当たり前のように自分との未来を語る雪之丞を見て、山吹はその瞬間死んでもいいと本気で思った。
(私はもう大丈夫……。たとえ雪之丞様がもう二度とここに来なくなったとしても、あの日の記憶だけで、私は一生雪之丞様の幸せを願って生きていける……)
山吹は心からそう思っていた。
「一瞬でも永遠の夢が見られた……。私は本当に幸せだわ……」
山吹はひとり微笑んだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
翌日、雪之丞はどこか落ち着かない様子で見世にやってきた。
(雪之丞様……どうしたのかしら……)
雪之丞は、酒を注ごうと山吹が銚子を手にしても酒杯を手に取ることもせず、ただそわそわとしていた。
「あの……、雪之丞様? どうかされましたか?」
山吹は雪之丞の顔をのぞき込んだ。
「べ、別に何でもねぇよ……。春だなぁと思って……」
雪之丞は目を泳がせる。
「は、春……? そ、そうですね、最近暖かくなってきましたね……」
(本当にどうされたんだろう……)
山吹は雪之丞を見つめた。
今まで山吹が口にしない限り、雪之丞が季節や天気のことを話したことは一度もなかった。
「あとひと月ほどしたら桜も咲くでしょうか」
山吹は雪之丞に言った。
「桜……そうか桜の咲く頃か……」
雪之丞は小さく呟く。
「ところで山吹……、おまえ何か欲しいものや叶えたい望みはあるか?」
「え??」
山吹は目を丸くする。
「ほ、欲しいものですか?」
雪之丞がなぜ唐突にそんなことを聞くのか、山吹にはまったくわからなかった。
「そ、そうですね……。刺繍の糸や布を雪之丞様にたくさんいただきましたから、特にもう欲しいものは……。そうですね……強いて言えば……、三味線や刺繍が上達することが望みでしょうか……」
山吹の言葉に、雪之丞はひどく落胆した表情を見せる。
「なんだそれは……」
「え! こ、この答えではダメでしたか……!?」
「あ、いや……そういうわけじゃない……。じゃあ……えっと……、おまえはどんな男が……す、好……」
雪之丞はそこまで言いかけて顔を真っ赤にしてうつむいた。
「ゆ、雪之丞様!? どうされました!?」
山吹は目を丸くする。
雪之丞はうつむいたまま、片手で顔を覆った。
「な、なんでもない……。俺にはこういうのは無理だ……」
雪之丞の最後の呟きは小さく、山吹の耳には届かなかった。
「だ、大丈夫ですか……?」
山吹はどうしていいかわからず、雪之丞の背中をさすった。
「ああ、大丈夫だ」
雪之丞はそう言うと、まだ少し赤い顔を上げた。
「あ、そうだ……。じゃあ、おまえ、桜は好きか?」
「桜ですか……? はい、そうですね。吉原の大通りに植えられる桜は毎年見にいきますけど……」
山吹は雪之丞の顔をじっと見た。
「じゃあ、ひと月後、一緒に見に行くか?」
「え?」
山吹は目を丸くする。
「吉原の大通りにですか?」
「違う。外のだよ。隅田川の桜、一緒に見に行くか?」
「い、いいのですか……? そんな贅沢な……」
山吹は自分の唇が震えているのを感じた。
見世に売られてきてから、山吹は一度も吉原の外に出たことがなかった。
「そんな贅沢ってほどのことでもねぇよ。どうする? 行くか?」
雪之丞は微笑んだ。
「はい! 行きたいです! ありがとうございます……雪之丞様」
山吹は思わず出た涙を手で拭った。
(こんなに幸せでいいのだろうか……)
山吹の顔を見て、雪之丞は満足げに微笑んだ。
「ああ。じゃあ、来月な」
「はい!」
山吹は想いが溢れ出すように、涙が止まらなかった。
(どうしてこんなことになったんだ……)
与太郎は部屋の隅で頭を抱えていた。
薄暗い部屋の中で、灯りに照らされて蠢くいくつもの影だけが、かすかに与太郎の視界に入る。
「くそっ……、また負けた……。おまえイカサマしてんじゃねぇのか……!?」
「おいおい、運がないのを人のせいにすんなよ」
「なんだと!? てめぇ……! 表出ろ!」
「おい、それよりさっさと次、賭けろよ」
「丁? 半?」
与太郎は体の震えを抑えながら、両手で耳を塞いだ。
今までにも賭場に出入りしたことはあったが、ここまで柄の悪い賭場は初めてだった。
出入りしている人間の質が明らかに違う。
(ここにいたら、そのうち殺されるんじゃねぇのか……)
与太郎は目立たないように、必死で息を殺す。
心中の騒ぎが収まるまで隠れていろと言われ、指示されたとおりの賭場に身を隠したが、与太郎の心はもう限界だった。
(あれからひと月は経ったよな……? もう外に出ても大丈夫なんじゃないか……?)
与太郎がそんなことを考えていると、ふいに部屋が急激に静かになったのに気づいた。
(な、なんだ……?)
与太郎は思わず顔を上げる。
ここに来てから、賭場がこんなに静かになったことは一度もなかった。
目の前で賭博に興じていた男たちは、茫然と入口の方を見ている。
「なんであいつが……」
男たちが小さく呟く。
「仕事でヘマして死んだって噂だったじゃねぇか……」
「なんでここに……」
与太郎は男たちの視線の先を見る。
そこには、ひとりの男がいた。
薄茶色の珍しい髪の男が、ゆっくりとこちらに向かって歩いてきている。
(なんだ……? 普通のやつじゃねぇか……)
薄茶色の髪の男が、ふいに与太郎の方に視線を向ける。
顔を上げて男を観察していた与太郎は、完全に男と目が合った。
薄茶色の瞳が与太郎を捉えると、その目がわずかに見開かれたのがわかった。
(まずい……!)
与太郎は慌てて、顔を伏せてうずくまった。
(誰だかわからねぇが、あの目……。目的は俺なのか……?)
賭場は水を打ったように静まり返っていた。
男の足音がゆっくり近づいてくるのがわかる。
(どうして……! どうして俺のところに……!?)
うるさいほどに響いている自分の鼓動を抑えるように、与太郎は自分の体をきつく抱きしめた。
男が与太郎の前で足を止める。
男の影で与太郎の視界が一気に暗くなった。
(バレたのか……!? それで俺を探しに……!?)
与太郎が恐る恐る顔を上げると、すぐ目の前に薄茶色の瞳があった。
「ひっ!??」
与太郎は思わず声を上げると、壁際に後ずさる。
その瞳はひどく冷たく、ゾッとするほどの威圧感があった。
「おまえが……与太郎か?」
男は淡々と聞いた。
その声からも表情からも何の感情も読み取れなかった。
「ち、ち、違う!!」
与太郎は思わず大きな声で言うと、首を勢いよく横に振った。
「誰だ、それ!? 俺はそんな名前じゃ……ち、違う!!」
男は何も言わなかった。
ただ無言で与太郎を見つめると、やがてふっと目を細めた。
「ひっ!??」
頭から一気に血の気が引いていくような冷淡な笑みだった。
「ほ、本当に……!!」
与太郎が思わず立ち上がってそう口にすると、首の後ろに強い衝撃を感じた。
(え…………)
視界の端で薄茶色の髪がふわりと揺れるのが見えた。
与太郎の意識はそこでプツリと途切れた。
「お待たせしました」
山吹が少し慌てたように見世から出てくる。
「じゃあ、行くか」
雪之丞は山吹を見て微笑むと、大門に向かって歩き始めた。
「はい!」
山吹はそう言うと、雪之丞の後を追う。
雪之丞は空を見た。
(晴れてよかったな……)
ここ最近雨の日が続いていたが、今日は雲一つない青空だった。
雪之丞は少し後ろを歩く山吹を見た。
山吹は雪之丞と目が合うとにっこりと微笑む。
「桜、今が見頃でしょうか?」
雪之丞は少し困ったように笑った。
「いや、もう散りかけだろう……。悪いな、俺の都合がなかなかつかなかったせいで」
本来であれば雪之丞はもう少し早く花見に行こうと考えていたが、歌舞伎の公演と稽古の関係で時間をとることができず、桜が散るギリギリの時期になってしまった。
「いえ、むしろ桜吹雪が見られるかもしれないので楽しみです」
山吹は嬉しそうに笑った。
「そうか……」
雪之丞は微笑むと、そっと山吹の手をとった。
「雪之丞様?」
戸惑った様子の山吹を見て、雪之丞は苦笑する。
「そんなに離れて歩いてたら、大門を出られないだろ? ちゃんと横に並んで歩け」
「ああ、そうですね! 気がつきませんでした!」
山吹は慌てて雪之丞の横に並ぶ。
雪之丞は隣を歩く山吹を見て微笑んだ。
(こうして一緒に外を歩いてると、町娘にしか見えないな……)
少し距離をとって後をついてきている男衆は少し気になったが、それ以上に山吹と空の下を歩けることが嬉しかった。
「雪之丞様」
山吹は雪之丞を見上げると満面の笑みを浮かべた。
「本当にありがとうございます! すごく……すごく嬉しいです!」
「ああ」
雪之丞は目を細める。
春の暖かい日差しと心地よい風の吹く中、雪之丞と山吹は二人で一緒に大門をくぐった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「うわぁ……、綺麗ですね……」
山吹が小さく呟く。
隅田川沿いの道は、散った桜で薄紅色に染まっていた。
強い風に桜が舞い上がる。
隅田川沿いにはたくさんの人がいたが、見頃を少し過ぎたこともあり雪之丞が想像していたほど多くはなかった。
(これなら落ち着いて見られそうだな……)
雪之丞は山吹を見る。
山吹は目を輝かせながら舞い散る桜を見ていた。
「本当に綺麗ですね! 雪之丞様」
「ああ、そうだな」
雪之丞は微笑んだ。
「あ……」
山吹が何かに気づき、川に向かって歩いていく。
「見てください! ほら、川にも花びらが……。綺麗ですね……」
山吹はうっとりと流れていく薄紅色の花びらを眺めていた。
川を見つめていた山吹はしばらくして満足したのか、ゆっくりと振り返る。
その様子に雪之丞が微笑むと、山吹はわずかに目を見開いて動きを止めた。
「? どうした??」
固まっている山吹を見て、雪之丞は首を傾げた。
「い、いえ……!」
山吹は我に返ると頬を赤く染めた。
「その……綺麗だなと思いまして……、その雪之丞様が……。桜の中に佇む姿がまるで絵のようで……」
山吹は恥ずかしそうに言った。
「……は?」
雪之丞は目を丸くした後、思わず吹き出した。
「はは、なんだそれ! そういう言葉は普通、男が女に言うもんだぞ……!」
山吹はますます顔を赤くした。
「その……雪之丞様は美しいので……」
「おい、もうやめろ……。俺もそこまで言われると恥ずかしいから……」
雪之丞は自分の顔が熱くなるのを感じた。
「す、すみません……」
山吹は恥ずかしそうにうつむいた。
雪之丞は山吹の様子を見て微笑む。
(本当にこいつは何を言ってるんだか……)
雪之丞は山吹に近づくと、髪についていた桜の花びらをそっととった。
「おまえの方が綺麗だよ、山吹」
雪之丞の言葉に山吹は弾かれたように顔を上げた。
顔がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。
「そ、そういう仕返しは少し……」
「おい、仕返しじゃねぇよ。そう思ったから言っただけだ」
雪之丞がそう言って笑うと、山吹は首元まで赤く染まった。
山吹が両手で顔を覆う。
「私は……明日死ぬかもしれません……」
山吹が絞り出すように言った。
「おい、こんなことくらいで死ぬな」
雪之丞が苦笑する。
「は、はい……」
山吹は顔を覆ったまま言った。
「ほら、もう行くぞ」
雪之丞が山吹の手をとって、歩き始める。
「は、はい……!」
二人は川沿いをゆっくりと歩いた。
少し熱い頬に風が心地いいと、雪之丞は思った。
「あ……」
山吹が唐突に口を開いた。
「どうした?」
雪之丞が山吹を見つめ、立ち止まる。
「ひと月前、雪之丞様がお聞きになった私の望み……ひとつだけありました」
山吹は嬉しそうに笑った。
「今日のように、いろんな雪之丞様を見ることです」
雪之丞は目を見開く。
「雪之丞様がすべてをかけて取り組んでおられる歌舞伎も、年季が明けたら観に行こうと思っているのです」
山吹は恥ずかしそうに微笑んだ。
「桜の中にいる雪之丞様はすごく素敵ですが、舞台に立つ雪之丞様はきっと今以上に輝いていると思いますから……。それが私の一番の望みです。まだ時間はかかりますが、いつか……」
「それなら……」
雪之丞は山吹を真っすぐに見つめた。
「俺と一緒に来るか?」
「え……?」
「俺と大門を出る気はあるか?」
山吹は呆然と雪之丞を見つめた。
「それは……どういう……」
「俺のものになるか? 一生俺のそばに……」
山吹は目を見開いた。
その瞬間強い風が吹いて、桜が舞い上がる。
花びらの向こうで、山吹の震える唇がわずかに動くのを見て、雪之丞は我に返った。
「ま、待て! 答えはすぐ出さなくていい!」
雪之丞は慌てて言った。
(俺は何を……!? いきなりこんなこと言うつもりじゃなかったのに……!)
「え! いえ、あの……!」
山吹が戸惑いながら雪之丞を見た。
「身請けの話は一生のことだから、そんなすぐに結論を出さなくても大丈夫だ! ゆっくり考えてくれ……!」
雪之丞は山吹から目をそらすと、早口で言った。
「え、あの、でも……!」
「いい! 大丈夫だ! ゆっくり考えろ!」
雪之丞は山吹の両肩を掴むと、必死の形相で山吹を見つめた。
「あ……、はい……」
山吹は戸惑いながら、ゆっくりと頷いた。
雪之丞は息をつく。
「じゃあ、行くか……」
雪之丞はそっと山吹の手を取ると、再び川沿いを歩き始めた。
「あ、はい……」
山吹も慌ててついていく。
「雪之丞様……」
「ん?」
雪之丞は前を見たまま返事をした。
山吹が今どんな表情を浮かべているか知ることが怖かった。
「ありがとう……ございます」
山吹は言葉を詰まらせながら言った。
泣いているようだったが、雪之丞にはその涙の意味がわからなかった。
「ああ」
雪之丞はそれだけ言うと目を伏せ、山吹の手を掴んでいた手に力を込めた。
「おまえ、本当に大丈夫か……?」
芝居小屋で辰五郎は鏡越しに雪之丞を見た。
雪之丞の顔は青白く、目の下のクマも酷い。
「ああ、大丈夫だ」
雪之丞は目を伏せたまま淡々と答える。
辰五郎はため息をついた。
「大丈夫に見えないから言ってるんだろう……? 最近ちゃんと寝てるのか?」
「ああ」
雪之丞は短く答える。
辰五郎は息を吐いた。
(日に日に酷くなってるな……)
遊女が心中した日から、雪之丞の状態は日を追うごとに悪くなっているようだった。
(まぁ、あれだけ惚れ込んでたから無理もないか……)
「数時間後には舞台が始まる。……おまえ本当に大丈夫なのか?」
「ああ」
雪之丞の表情はまったく変わらなかった。
(そんな状態でどうやって芝居するんだよ……)
辰五郎は顔を歪めると、片手で顔を覆ってうつむいた。
遊女が死んでからも雪之丞は舞台に立ち続けていた。
公演に支障は出ていない。ただ、あの日から雪之丞の芝居にはまるで生気がなくなっていた。
台本通りに動くだけの人形が、観客を惹きつけられるわけもなかった。
辰五郎はもう一度ため息をつく。
「舞台の前に少しでも寝ておけよ……」
辰五郎はそれだけ言うと、雪之丞に背を向けた。
部屋を出ようと戸に手をかけたところで、戸を叩く音が響く。
(? 誰だ? 公演前の雪之丞のところに来るなんて物好きは……)
「は~い」
軽く返事をして戸を開けた辰五郎は、戸の前に立っている人物を見て目を見開いた。
辰五郎は、ゆっくりと雪之丞を振り返る。
「あのさ……、雪之丞……」
辰五郎はもう一度、戸の前に立つ人物を見た。
「えっと……おまえ、弟とかいたっけ……?」
「…………は?」
雪之丞はその日、初めて表情を変えて振り返った。
眉をひそめていた雪之丞は、戸の前に立っている人物を見て戸惑いの表情を浮かべる。
「おまえ、誰だ……?」
戸の前には雪之丞によく似た顔の髪の長い男が、引きつった笑顔で立っていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
戸惑っている様子の二人を前に、叡正は二人以上に戸惑っていた。
(どうして俺が来る必要があったんだ……)
叡正は今日のことを思い返す。
寺で眠っていた叡正は、真夜中に弥吉に叩き起こされた。
信からの緊急の手紙だと言われて急いで中を見ると、すぐに地図の場所に雪之丞を連れて来いという内容だった。
「夜中だぞ……? 正気か……?」
思わず叡正が呟くと、弥吉がすかさず答える。
「歌舞伎は明け方すぐに公演が始まるので、きっともう雪之丞さんは起きてますよ!」
(え……、俺は寝てたんだけど……、俺のことはどうでもいいのか……?)
叡正は少しだけ考えた後、しぶしぶ身支度を整えると雪之丞のいる三ツ井屋の芝居小屋に向かった。
芝居小屋に入れるか不安だったが、雪之丞に顔が似ているためか特に誰にも事情は聞かれずに雪之丞の部屋の前まで案内された。
「じゃ、じゃあ、込み入った話もあるかもしれないし、俺はこれで……」
戸を開けてくれた男は、そう言うとそそくさと部屋から出ていった。
「おまえは誰なんだ……?」
雪之丞は、戸惑いながらもう一度叡正に言った。
(確かに似ている気もするが、やっぱり全然違うな……)
初めて見た雪之丞は少し顔色が悪かったが、それでも洗練された華やかな容姿に人を惹きつける独特の色気を纏っていた。
(これが歌舞伎役者なんだな……)
「おい!」
叡正がぼんやり雪之丞を見ていると、しびれを切らした雪之丞が立ち上がった。
叡正は我に返る。
「あ、ああ、すまない。山吹という遊女のことで少し話があって……」
「山吹……?」
雪之丞の顔が曇る。
「ああ、俺もよくわからないんだが、一緒にこの地図のところまで来てくれないか?」
叡正は雪之丞に近づくと、信から受け取った地図を見せた。
「おまえもわからないってどういうことなんだ……? 何でそこに行く必要がある? 何があるんだ、そこに……」
雪之丞は地図を見ながら眉をひそめる。
「いや、俺もさっき手紙で言われただけだから……」
叡正は苦笑する。
「は??」
「あ! ただ、浮月っていう遊女から預かったものがあるんだ。山吹って遊女が刺繍した羽織が」
「羽織……」
雪之丞はわずかに目を見開いた後、そっと目を伏せた。
「律儀に心中前に仕上げたのか……」
雪之丞は悲しげな笑みを浮かべる。
「あ、それが……その、心中じゃないと浮月が言っていた……」
叡正はためらいがちに言った。
「心中じゃない……? 心中じゃないなら……何なんだ……?」
雪之丞は戸惑いの表情を浮かべる。
「それは……」
叡正は言い淀む。
殺されたかもしれないとは言いづらかった。
「それについて何かわかったんだと思う……。だから、この地図のところに来てほしいと……」
雪之丞の瞳が揺れていた。
「行きたいが……あと数時間で幕が上がる……。今俺がここを出ていくわけには……」
雪之丞はそこまで言って、何かに気づいたように叡正の顔をまじまじと見つめた。
「え……?」
嫌な予感がした。
雪之丞は叡正を見つめると、ゆっくり頷いた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
一時間後、辰五郎は雪之丞が心配になり、再び部屋を訪れた。
「おい、さっきの大丈夫だったか……? って、おまえもう衣装に着替えたのか? 化粧もして……。今日は早いんだな……」
辰五郎はそう言いながら、雪之丞に近づいた。
雪之丞のすぐ後ろまで来た辰五郎は、鏡越しに雪之丞の顔を見る。
「!?」
辰五郎は目を見開いた。
「え!? おまえ……何!? さっきのやつだよな!? え!? 雪之丞は!?」
歌舞伎の衣装を纏った男は、申し訳なさそうに目を伏せ、ただ引きつった笑顔を浮かべていた。
「あいつは俺を捨てる気なんだ……」
与太郎は山吹に縋りつくように言った。
「そ、そんなことはないと思いますよ……?」
山吹は戸惑いながら、与太郎の背中をさすった。
(昼からこんなに酔っているなんて……。お店は大丈夫なのかしら……)
その日、与太郎は珍しく昼見世の時間に山吹のもとにやってきた。
見世に来たときからすでに酔っていた与太郎は、座敷に入るなり泣き出した。
「奥様と一体何があったのですか……?」
山吹が与太郎の背中をさすりながら聞いた。
「あいつは俺を店から追い出す気なんだ……。うちの客が噂してるのを聞いた……。あいつが俺を追い出せるように、いろんなところに根回ししてるって! 俺は……俺はどうしたら……」
山吹は目を見開いた。
「そんな……」
「あいつは俺が嫌いなんだ……。もう終わりだ……」
与太郎は山吹に縋りついたまま、体を震わせた。
山吹は目を伏せる。
(なんとかならないのかしら……。一度は想い合った方たちがこんなふうになってしまうのは……)
「まだ、想いをきちんと伝えれば遅くないかもしれませんよ……?」
山吹は小さく言った。
「想い……?」
与太郎が顔を上げる。
「はい、誠心誠意、気持ちを伝えれば、奥様もわかってくださるかもしれません。何より昼間からここにいるのはよくありませんから……、早く帰って話し合うのがいいと思いますよ」
「わかってくれるはずない……」
与太郎は頭を抱えた。
「わかってもらえなくても、伝えることは大事だと思います」
山吹は微笑んだ。
与太郎は何も言わずうつむいていたが、しばらくしてゆっくりと顔を上げた。
「まだ間に合うか……?」
与太郎が山吹を見た。
「わかりませんが……早く話し合うことが大切かと……。あ、話しが切り出しにくいのであれば、奥様の好きなものでも贈ってからお話しになるのがいいかと思います」
与太郎は縋るように山吹を見つめた後、そっと目を伏せた。
「そうか……。わかった、そうしてみる……」
与太郎はそう言うと、ふらふらしながら立ち上がった。
「帰って話してみる……。ありがとな、山吹……」
「はい」
与太郎はよろよろしながら座敷を後にした。
(よかった……。上手くいくといいけど……)
山吹は胸をなでおろすと、座敷を片付けて張見世に戻った。
「あれ、あんた早くない?」
張見世に戻ると、浮月が眉をひそめて言った。
「ああ、与太郎様は奥様といろいろあったようで……。お話しをするためにお帰りになりました」
山吹は浮月の隣に腰を下ろすと苦笑した。
「ふ~ん、まぁ、あんなやつが旦那だと奥さんは大変だろうからね……」
浮月はあまり興味なさそうにそう呟くと、山吹を真っすぐに見た。
「それより! あんたあの歌舞伎役者からの身請けの返事はいつするんだい?」
「ああ! それでしたら! 見てください!」
山吹は目を輝かせて、持っていたものを差し出した。
「時間がかかってしまいましたが、ついに刺繍が終わったんです! 次に雪之丞様がいらっしゃったときに私の想いを伝えるつもりです!」
浮月は差し出された羽織を広げると、まじまじと見つめた。
「ふ~ん、あんたにしては主張のある羽織だね……」
浮月は羽織を見て微笑んだ。
「あ、やはり……やりすぎでしたでしょうか……?」
浮月の言葉に、山吹は目を泳がせると静かに肩を落とした。
浮月が山吹の背中を勢いよく叩く。
「違うよ! 主張があって良いって言ってんの!」
叩かれた衝撃で、山吹は前に倒れ込んだ。
「あ、良い意味だったのですね……。よかったです……」
山吹は体を起しながら微笑んだ。
浮月は山吹を真っすぐに見つめる。
「グズグズしてたからどうなるかと思ったけど……。よかったね、山吹。幸せになりな」
浮月はニヤリと笑った。
山吹はわずかに目を見開いた後、目に涙を溜めていく。
「おいおい、なんで今泣くんだよ……。鬱陶しいから早く泣きやみな」
浮月はそう言うと、自分の着物の袖で山吹の涙を拭った。
「姐さん……。姐さんと離れるのは寂しいです……」
山吹の目にまた涙が溜まっていく。
浮月はため息をつくと、そっと山吹を抱きしめた。
「そういう可愛いことは歌舞伎役者に言ってやりな」
「姐さん……」
「はいはい、まだそばにいるから、大丈夫だよ」
浮月はそう言いながら、山吹が泣き止むまでずっと背中をさすっていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
昼見世を終えた山吹は、夜見世が始まるまでのあいだ、浮月に贈るものを買いに見世を出ていた。
(すっかり遅くなっちゃったな……。姐さんが気に入りそうなものが見つかったのはよかったけど、夜見世に遅れたら怒られちゃう……)
空は赤く染まり、山吹の足元からは長い影が伸びていた。
山吹は足を速める。
「山吹……」
ふいに後ろから声が聞こえた。
山吹は足を止めて振り返る。
「与太郎様……?」
そこには与太郎が立っていた。
夕日を背にしているためか、その表情はひどく暗く見えた。
「どうされたのですか……? 奥様とはお話しされました……?」
与太郎は山吹の言葉に何も応えずゆっくりと近づいてくる。
「与太郎様……?」
山吹はなぜか少し怖くなり、一歩後ずさる。
(お顔がよく見えないから……なんだか……)
与太郎は、山吹のすぐ目の前に来ると強引に山吹の腕をとって引っ張った。
「よ、与太郎様!?」
与太郎は、何も言わず強い力で山吹の腕を引き、脇道を進んでいく。
やがて、人通りのない薄暗い路地に来ると、与太郎は山吹の腕を離した。
「与太郎様……、どうしたのですか……?」
山吹は背を向けて立っている与太郎を見る。
自分の体がかすかに震えているのがわかった。
「……した」
与太郎が小さく呟く。
「…………え?」
「殺した…………」
与太郎はゆっくりと振り返った。
暗い瞳が真っすぐに山吹に向けられる。
「雪を……」
山吹は目を見開く。
(ころした……? え……何、どういう……? ……せつ……? 奥様のことなの……?)
山吹が茫然としていると、与太郎が勢いよく山吹の両肩を掴む。
「あいつ、俺の手を振り払ったんだ!! こんなものいらないって! 何を今さらって! 怒鳴って、罵って!! だ、だから……カッとなって……。殴ったら……死んだ……」
山吹は一気に血の気が引いていくのを感じた。
(私が……余計なことを言ったから……)
「なぁ、山吹! 一緒に逃げよう……!」
与太郎は山吹の肩を揺すった。
「二人で遠くに」
(逃げる…………?)
山吹は茫然と与太郎を見つめる。
「俺のこと愛してるんだろう……? 俺が寝てるとき、愛おしそうに頭なでてくれたじゃねぇか! 俺のこと好きなんだろう!?」
山吹は言葉が出なかった。
(私は……どうしたら……。私のせいで……)
「おまえは、俺のものだろ?」
与太郎の言葉に、山吹の瞳が揺れる。
(私は…………)
『俺のものになるか?』
桜の花びらの向こうでそう言った雪之丞の姿が、山吹の脳裏に鮮やかに蘇る。
(そうだ、私は……)
山吹はきつく目を閉じた後、真っすぐに与太郎を見つめた。
山吹の唇が震える。
「私は…………」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
(なんか気恥ずかしいな……)
扇屋に向かって歩いていた雪之丞は、手に持っている桔梗の花を見つめた。
(花なんか喜ぶかな……。いや、山吹ならなんでも喜ぶんだろうが……)
雪之丞はため息をついた。
身請けの話をしてから何度か山吹には会っていたが、いまだに返事はもらえていなかった。
ここまで来る道中に、早咲きの桔梗を見つけ思わず摘んできたが、花を贈ったことなどない雪之丞は少しずつ恥ずかしくなり始めていた。
(まぁ、でも……喜んでくれるなら……。家紋の桔梗の話も素敵って言ってたし……。まぁ、大丈夫だろう……)
そんなことを考えていると、扇屋の前に人だかりができていることに気づいた。
(どうしたんだ……?)
「心中だってさ……」
「最近続いてるなぁ……」
「男、誰だよ……」
「なんでも米問屋の旦那だってよ……」
(心中……?)
雪之丞が見世のすぐそばまで来ると、雪之丞に気づいた人々は目を丸くして道を開けた。
雪之丞はその道を真っすぐに進んでいく。
見世の中からは女の声が聞こえていた。
「だから、そんなわけないって言ってるだろ!?」
扇屋の入口で、遊女が楼主だと思われる男に詰め寄っていた。
「いや……、遺書だってあっただろう……?」
楼主は遊女の勢いに押されて後ずさっていた。
「こんなの嘘だよ!! 山吹があんな男と死ぬわけないだろ!?」
雪之丞は目を見開いた。
「でも、心中するって書いてあったんだから……」
楼主はそこまで言うと、自分たちを見ている雪之丞に気づいた。
「あ……!」
「山吹が……心中……?」
雪之丞は言葉の意味がよくわからなかった。
「心中……?」
雪之丞の手から桔梗の花が落ちる。
「ち、違うんだよ!!」
遊女が雪之丞に向かって叫ぶように言った。
雪之丞は後ろを振り返る。
見世の前に集まっていた人々が一斉に顔をそむけた。
(本当に……死んだのか……?)
雪之丞は足元が崩れ落ちていくような感覚に陥った。
この場にいることが耐え切れず、雪之丞は少しでも見世から離れようと、もつれる足をなんとか動かし駆け出した。
「待って!! 違うんだよ!! 本当に! 山吹は……!!」
遊女が止める間もなく雪之丞は去っていった。
(どうしてだ……)
雪之丞は今自分がどこに向かっているのかもわからなかった。
(心中……心中……? どうして心中なんて……)
雪之丞は、足を止めた。
口から渇いた笑いがこぼれる。
「ああ、俺が……身請けの話なんてしたからか……」
雪之丞はその場に座り込んだ。
「一緒になりたい男がいたのに、俺が身請けの話なんてしたから……。そんなに嫌だったってことか……。はは……笑えるな……」
視界がかすんでいた。
何も見えず自分が今どこにいるのかも雪之丞にはわからなかった。
「普通に断ってくれりゃあ、よかったのに……」
雪之丞はうつむいて、奥歯を噛みしめた。
「本当に……笑える…………」
笑うたびに雪之丞の体が小さく震える。
目からこぼれ落ちた雫が、静かに地面を濡らしていた。
(一体どういうことなんだ……)
雪之丞は地図に記された場所へと急いでいた。
(心中じゃない? 心中じゃないなら一体……)
雪之丞は足を止めると辺りを見回した。
まだ日が出ていないため薄暗くよく見えなかったが、地図に記されているのはこの辺りのはずだった。
雪之丞は背後にあった建物に近づくと、持ってきた提灯で建物を照らす。
照らし出された看板には「木島屋」と書かれていた。
(ここか……? 灯りはついていないが……)
雪之丞は入口に近づくと、軽く戸を叩いた。
しばらく待ったが何の返事も帰ってこない。
(ここじゃないのか……?)
雪之丞が背を向けて歩き出したとき、ゆっくりと戸が開いた。
「雪之丞か?」
中から男の声が響いた。
「あ、ああ……」
雪之丞が返事をすると、中から薄茶色の髪の男が姿を現した。
男は雪之丞の背後を見ると首を傾げる。
「あいつは一緒じゃないのか?」
(あいつ……? ああ、髪の長い男のことか……)
「悪い……。今、俺の身代わりで歌舞伎小屋に残ってもらっている」
「……そうか」
男はそれだけ言うと、首を動かして中に入るように促した。
雪之丞は警戒しながらゆっくりと建物の中に入る。
建物の奥に小さな灯りがあるだけで、中は足元もよく見えないほどに薄暗かった。
「なぁ、どうして俺をここに呼んだんだ……?」
雪之丞は男に聞いた。
「渡すものがある。それに……おまえも話しが聞きたいだろうと思った」
「話しって……それは山吹の……」
雪之丞がそこまで言いかけたとき、暗闇の中で何かが動く気配がした。
奥の灯りに照らされて、男の背後で何かの影が動くのが見える。
(一人じゃなかったのか……)
「ほかにも……誰かいるのか?」
雪之丞は男を見て聞いた。
男は何も応えず、奥に進んでいく。
「起きたか……」
男はしゃがみ込むと、闇の中で蠢いている何かに話しかけた。
「うぅ……!うぅ!」
低い呻き声のようなものが響く。
(なんだ……? 一体どういう……)
雪之丞は恐る恐る蠢くものに近づいた。
(……!?)
そこには柱に縛りつけられた男がいた。
「話せるようにしてやるが、大きな声は出すな。出せばすぐに殺す」
薄茶色の髪の男はそう言うと、縛られている男の口に詰めていたものを抜き取った。
「はっ……! た、助けてくれ! な、なんで俺を……!?」
縛られている男は、縋るように二人を見た。
(な、なんだ……? こいつは一体誰なんだ……)
雪之丞は思わず後ずさった。
「おまえが殺したのか? 雪という女と山吹という遊女、二人共……」
男の声が響く。
(……え? 今、なんて言った……?)
「おまえが殺したのか?」
男がもう一度聞いた。
「お、俺は悪くない! せ、雪は俺のことを怒鳴って、罵って……、だ、だからちょっと叩いたら死んじまっただけで……、じ、事故だ! 事故なんだよ……。そ、それに山吹は悪い女で……お、俺に思わせぶりな態度とっておきながら、俺を裏切ったんだ!」
(何を……言っているんだ……この男は……)
「俺と逃げようって言ったのに……! あいつ俺に言ったんだ……」
男は忌々しげな表情を浮かべる。
「『私は雪之丞様のものです』って……!」
雪之丞は目を見開いた。
「愛してるのは雪之丞だけだとか言って、俺を馬鹿にして……! だ、だからちょっと黙らせようと思って、首を絞めたらそのまま死んじまって……。あ、あいつが悪いんだ……!」
(何を……言って……?)
目の前の光景がグラグラと揺れているようだった。
(首を絞めた……? そのまま死んだ……?)
「俺は何も悪くないんだ! なぁ……助けてくれ……!」
縛られている男は縋りつくように雪之丞を見た。
(この男に……山吹が……殺された……?)
雪之丞の中で何かがプツリと切れる音がした。
「……してやる……」
雪之丞はふらふらと縛られている男に近づく。
「俺が……殺してやる……!」
「ヒッ……!」
雪之丞の手が首に伸びてきたことに気づいた男は、身をよじった。
だが、雪之丞の手が男に届く前に薄茶色の髪の男が雪之丞の腕と肩を掴み、後ろに押し倒した。
そのまま床に抑えつけられた雪之丞がもがく。
「離せ!! 殺してやる!! 今すぐそいつを……!」
手足をバタつかせて抵抗していると、雪之丞の腹に強い衝撃が走った。
「ッ……!」
雪之丞は腹を抱えてうずくまる。
「……悪いな。こいつにはまだ聞きたいことがある。殺してもらったら困る」
薄茶色の髪の男は、縛られたまま呆然としている男を振り返って言った。
「それに、どちらにしろこの男は死罪だ。おまえが手を汚す必要はない」
「そ……んなこと……関係ない……。この手で……そいつを……!」
雪之丞は腹を押さえながら、立ち上がった。
薄茶色の髪の男が短く息を吐く。
「それなら止めはしないが、俺が話しを聞き終わるまで待っていろ」
男はそう言うと雪之丞の腕を取り、引きずっていく。
「お、おい……。やめろ……」
男は戸を開けると、雪之丞を外に出した。
「そこで待ってろ」
男はそう言うと静かに戸を閉めた。
雪之丞は暗闇の中でひとりうずくまった。
(心中じゃなかった……。殺されてたなんて……! 山吹……)
雪之丞は頭を掻きむしる。
(わかってる!! あいつを殺したところで、もう山吹は返ってこない……! それに、こうなった原因は俺にもある……。俺がもっと早く身請けでもなんでもしていれば……!)
「すまない……。山吹……」
雪之丞は絞り出すように呟いた。
(あいつを殺したところで、もう……)
雪之丞はゆっくりと顔を上げた。
(そうか……。あいつを殺したところでどうにもならない……。それなら……)
雪之丞はまだ痛む腹を押さえながら立ち上がった。
(俺が行けばいいんだ……)
雪之丞はゆっくりと通りを進む。
木島屋までの道中に通った橋の上まで来ると雪之丞は足を止めた。
橋の上から流れる川を見つめる。
闇に溶け込んでいるように川はよく見えなかったが、勢いよく流れる水の轟音だけが闇に響いていた。
「山吹……、独りにして悪かったな……。俺もすぐ行くから……」
雪之丞は微笑むと、橋の欄干に足をかけた。
死ぬことを決めた雪之丞の心は、不思議なほど穏やかだった。
(これでラクになれる……)
雪之丞は目を閉じ、欄干から手を離した。
その瞬間、強い力で後ろに引っ張られる。
視界が回り、気がつくと雪之丞は空を見ていた。
後ろに倒れたのだと気づいたのは少し経ってからだった。
茫然としていた雪之丞の視界に、薄茶色の髪が映る。
「死にたいなら好きにしていい。ただ、まだ俺は頼まれていたものを渡していない」
雪之丞はぼんやりと薄茶色の髪の男を見る。
「頼まれていたもの……?」
倒れている雪之丞の体に何かが掛けられた。
「羽織だ」
男が淡々と言った。
(ああ……、刺繍の……)
雪之丞はゆっくりと体を起すと、羽織を手に取った。
「死んだ遊女の願いだそうだ」
男はそれだけ言うと、木島屋に戻っていった。
男が提灯を残していったため、羽織の刺繍は細やかな色の違いまではっきりと見えた。
雪之丞は羽織を見つめる。
(願い……?)
羽織の裾には紫の糸で見事な桔梗の花が描かれていた。
(ああ、本当に上手かったんだな……刺繍……)
雪之丞は微笑んだ。
(こんな手の込んだ刺繍、初めて見た……)
桔梗の花だけでも微妙に色の異なる紫の糸がいくつも使われていて、山吹の刺繍は店に並んでいてもおかしくないほど見事なものだった。
(胸元の刺繍は……家紋か……?)
雪之丞は羽織の胸元を提灯で照らした。
(……!)
雪之丞は目を見開く。
「これは…………役者紋か……。あいつ、そんなの知ってたのか……?」
胸元には、桔梗の花を四枚の葉が取り囲んだような柄の紋が描かれていた。
(四つ葉桔梗……)
「願いって……そういう……」
四つ葉桔梗は役者紋だった。ただ、それは雪之丞ではなく檀十郎の役者紋だった。
「はは……これじゃ、今の俺は着れねぇよ……」
桜の中で微笑む山吹の姿が、雪之丞の脳裏に鮮やかに蘇る。
『雪之丞様がすべてをかけて取り組んでおられる歌舞伎も、年季が明けたら観に行こうと思っているのです。舞台に立つ雪之丞様はきっと今以上に輝いていると思いますから……。それが私の一番の望みです』
「山吹……」
雪之丞の目から涙が溢れ出す。
雪之丞が震える手で羽織の襟元に触れると、その瞬間、羽織の内側で何かが光った。
雪之丞がそっと襟元を開くと、背中の羽織裏には眩しいほどに鮮やかな刺繍があった。
金糸と黄色の糸で描き出されていたのは、一面に広がる無数の山吹の花だった。
金の糸が提灯の光を受けて輝く。
「山吹……」
涙で濡れた雪之丞の瞳に、山吹の花が眩しかった。
「……背守りのつもりなのか……」
雪之丞は顔を歪めた。
「山吹……」
嗚咽がこみ上げる。
裂けるように胸が痛かった。
「山吹……、俺は……まだ何も伝えてねぇのに……」
雪之丞は羽織を抱えてうずくまった。
「俺のものになるか、なんて馬鹿みたいなこと言って……。違うんだ……。ただ、愛してるって……。愛してるって……伝えたかった……。そばにいてくれるだけでよかったんだ……」
雪之丞の慟哭が夜の闇に響いていた。
「私は……雪之丞様のものです……」
山吹は震える唇をなんとか動かした。
「私が……愛しているのは雪之丞様だけです。奥様のことは……申し訳なく思っていますが……与太郎様と一緒に逃げることはできません……」
与太郎は茫然と山吹を見ていた。
「罪を償いましょう……。私も一緒に行きますから」
山吹は震える手を与太郎に伸ばす。
「与太郎様……お願いで……」
その瞬間、山吹の首に強い力がかかる。
「ッ……!」
山吹のすぐ目の前に、血走った目をした与太郎の顔があった。
「おまえ……俺を裏切るのか……!! 俺を……俺を弄んだのか……!?」
与太郎の腕に力が入り、山吹の首を締め上げる。
「ッア……!!」
山吹は与太郎の手を掴み、必死で振りほどこうともがいたがその手はビクともしなかった。
(ああ、私はまた間違えたんだ……)
与太郎の怒りに歪んだ顔を見つめながら、山吹は自分の死を悟った。
(ごめんなさい……雪之丞様……)
目に涙が溢れる。
山吹の脳裏に、花びらが舞う中で微笑む雪之丞の姿が浮かんだ。
(どうか……雪之丞様のこの先に光が差しますように……。どうか……どうか幸せに……)
山吹は祈るように目を閉じた。
溢れる涙が頬を伝い、山吹の意識はそこで途切れた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「おい……、山吹……? 山吹……」
与太郎は抜け殻になった山吹の体を揺すっていた
(どうして……どうしてこんなことに……。と、とりあえず死体を隠さないと……)
そのとき、与太郎の背後で音がした。
「おや、どうされましたか?」
薄暗くなり始めた路地に柔らかい声が響く。
「お困りのようですね」
与太郎は恐る恐る振り返る。
ぼんやりとした人影がゆっくりと与太郎に近づいてきていた。
「い、いや……、こ、これは違うんだ……!」
与太郎は山吹を隠すように両手を広げた。
「ちょ、ちょっと体調の悪い遊女がいたから……、休ませていただけで……」
与太郎は目を泳がせる。
「ふふ……、そんなに警戒しないでください」
影のような人物はおかしそうに笑った。
「全部わかっておりますから。その遊女が悪いのでしょう? とんだ災難でしたね」
「え……?」
与太郎は目を見開いた。
「力をお貸ししましょうか? こんなことであなたの人生が終わるなんてもったいないでしょう?」
黒い影は与太郎に近づいた。
「あなたを、救って差し上げます」
黒い影はそう言うと、白い歯をのぞかせて妖しく微笑んだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
男は遊女の死体に膝をついて手を合わせると、そっとお歯黒どぶに落とした。
「ああ、ホントに胸くそ悪ぃ……」
男は舌打ちをした。
「遺書はあの方がやるって言ってたし、こっちはこれで終わりか……」
男は暗闇の中、提灯に火を灯すとゆっくりと立ち上がった。
(心中に見せかける必要なんかあるのか……?)
男は苛立ちを抑えようと、額の左側にある傷跡を掻いた。
(まぁ、俺は言われたことをやるだけだが……)
男はため息をついた。
「もうひとつ処理する死体もあるみたいだし、さっさと次行くか……」
男は小さく呟くと木島屋に向かって歩き始めた。
(こういうことは、あんまりやりたくねぇんだよな……。二人も殺しておいて「俺は何も悪くない」って? ホントただのゴミだぞ、あの男……)
男は目を伏せる。
(とりあえず、見つからないように寺の賭場に入れてきたが……。あんな男死んだ方が世のためだろ……)
男はもう一度ため息をついた。
しばらく歩いた男は、辺りを見回す。
(たぶん、この辺り……。あ、ここか……)
男は、中の様子を窺いながら、静かに戸を開けて木島屋の中に入った。
(二階って言ってたか……)
男は提灯の光を頼りに、二階へと上がる。
二階の座敷を提灯の光で照らしていくと、倒れた机や畳に転がった筆や紙が目に入った。
(ここで間違いなさそうだな……)
男が目を凝らすと、机の向こうに人の足のようなものが見えた。
男は座敷を進んでいき、提灯の光をかざす。
「あ~あ、悲惨……」
男は息を吐いた。
黒い大きな染みの中で女が目を見開いたまま倒れていた。
その横には黒ずんだ硯も見える。
(斬ったわけでもねぇのに、これだけ血が広がるって一体何回殴ったんだよ……)
男は眉をひそめた。
(ホント、胸くそ悪ぃ……)
男は畳に提灯を置くと、膝をつき手を合わせた。
「さぁ、片付けるか……」
まもなく木島屋に替えの畳が届く手筈になっていた。
男の役割は、台車で畳を運んできた男に死体を渡すことと畳の張り替えを含めた片付けだった。
男は提灯で辺りを照らす。
(ん……?)
灯りに照らされて、何かが白く浮かび上がっていた。
男は首を傾げるとそちらに近づく。
男はしゃがみ込み、提灯をかざした。
「花か……」
男は白い花を手に取る。
「夕顔……」
暗く沈んだ部屋の中で、夕顔の花だけが不自然なほど美しく咲いていた。
「夕顔……ね……」
男は苦笑する。
「ああ……ホントに胸くそ悪ぃ……」
男は顔を歪めて額の傷跡を掻く。
花を見つめていた男はしばらくすると息を吐き、気持ちを切り替えて片付けを始めた。
「馬鹿なことを聞くが……おまえ、芝居はできるか……?」
辰五郎は、歌舞伎小屋の舞台袖で引きつった顔で、叡正に聞いた。
「あいにく俺は……歌舞伎を観たことがない……」
叡正は青ざめた顔で小さく答えた。
「はは……、そうか……そりゃあ絶望的だな……」
舞台袖から見える客席はすでに客でいっぱいだった。
開演まで、あまり時間は残されていない。
「雪之丞は戻ってくるのか……?」
辰五郎は引きつった顔のまま叡正を見つめた。
「戻ってくるとは言っていたが……」
叡正は目を伏せる。
(戻ってくる……よな……? 一体、信は何をして……)
そのとき舞台裏から声が掛かる。
「おい! 雪之丞と辰五郎! そろそろ時間だぞ! ちゃんと準備しとけ!」
「あ、はい!」
辰五郎が慌てて振り向いて返事をした。
叡正も少し振り返って、そっと頷く。
「おい、どうするんだよ……!?」
辰五郎は目に涙を浮かべながら、叡正に詰め寄る。
「今日の舞台、あいつなしは無理だぞ!? あいつが立役……主役なんだよ……」
「き、きっと……もうすぐ戻ってくると……」
叡正は青ざめたまま、なんとかそれだけ口にした。
「さぁ! そろそろ一回集まるぞ!」
遠くで声が掛かる。
二人は顔を見合わせた。
「と、とりあえず、雪之丞は腹を下して休んでるってことにしとくから! おまえは一回部屋に戻れ! そ、それでもし雪之丞が戻ってこなかったら、そのときは……」
辰五郎は叡正の両肩に手を掛けて言った。
「……逃げろ」
「わ、わかった……」
叡正は青ざめたままコクコクと何度も頷いた。
(本当に戻ってこなかったらどうすれば……)
雪之丞の部屋に向かって歩きながら、叡正はどんどん血の気が引いていくのを感じた。
(一体、信は何を……)
叡正がそんなことを考えながら、雪之丞の部屋の戸に手を掛けた瞬間、ゆっくりと戸が開いた。
叡正は一瞬、目の前に鏡が置かれたのかと思い目を丸くする。
「あ! ゆ、雪之丞……!?」
叡正は我に返った。
目の前にいたのは、化粧と着替えを終えた雪之丞だった。
「間に合ったのか!?」
叡正は泣き出しそうになりながら、雪之丞を見た。
雪之丞は苦笑する。
「ああ、悪かったな……」
雪之丞は夜に見たときよりもどことなく表情が柔らかい気がした。
「あ、もうみんな集まって……」
「ああ、わかってる。おまえは着替えて、帰って大丈夫だ。ありがとな……」
雪之丞は叡正の肩をポンと叩くと、横をすり抜けて舞台の方に足を進めた。
(本当に良かった……)
叡正は気が抜けて、戸にもたれかかる。
「あ、そうだ……」
後ろで、雪之丞の声が響く。
叡正は戸に寄りかかったまま、振り返った。
「なんだ……? どうしたんだ?」
雪之丞は叡正を真っすぐに見ると、どこか寂しげに微笑んだ。
「おまえは、俺みたいになるなよ」
「え……?」
叡正はわずかに目を見開く。
「顔が似てるからかな、なんとなく言いたくなった……。伝えたい想いがあるなら、できるだけ早く伝えろ。俺には……それができなかったから……」
雪之丞はそう言って軽く微笑むと、叡正に背を向けた。
「後悔だけはするなよ」
雪之丞は片手を上げると、そのまま舞台に向かって歩いていった。
「……どういう意味だ……?」
叡正は呆然と雪之丞を見つめる。
雪之丞の背中が見えなくなるまで、叡正はその場から動くことができなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「雪之丞!」
辰五郎は雪之丞の姿を見ると、慌てて駆け寄った。
「おまえ、間に合ったのか……」
「ああ、悪かったな」
雪之丞は辰五郎の肩をポンと叩いた。
「おお、雪之丞! おまえ、腹はもう大丈夫なのか?」
背後で別の役者が聞いた。
「腹……?」
雪之丞は首を傾げる。
辰五郎は慌てて、雪之丞の耳元で囁く。
「腹を下して休んでるってことにしてあるんだ……」
「ああ……」
雪之丞は苦笑する。
「もう大丈夫だ」
雪之丞はその場にいる全員を見ながら微笑んだ。
辰五郎は目を見開く。
(どうしたんだ……なんか目に力が戻ってるような……)
辰五郎はまじまじと雪之丞を見つめる。
視線に気づいた雪之丞は軽く笑った。
「心配かけたな、もう大丈夫だ」
辰五郎はなぜか顔が熱くなるのを感じた。
(なんだ!? なんか色気が増してないか? 一体どうしたんだ……)
辰五郎が戸惑っていると、舞台の始まりを告げる太鼓の音が響いた。
今、舞台の幕が開ける。