「お待たせしました」
 山吹が少し慌てたように見世から出てくる。
「じゃあ、行くか」
 雪之丞は山吹を見て微笑むと、大門に向かって歩き始めた。
「はい!」
 山吹はそう言うと、雪之丞の後を追う。

 雪之丞は空を見た。
(晴れてよかったな……)
 ここ最近雨の日が続いていたが、今日は雲一つない青空だった。
 雪之丞は少し後ろを歩く山吹を見た。
 山吹は雪之丞と目が合うとにっこりと微笑む。
「桜、今が見頃でしょうか?」
 雪之丞は少し困ったように笑った。
「いや、もう散りかけだろう……。悪いな、俺の都合がなかなかつかなかったせいで」
 
 本来であれば雪之丞はもう少し早く花見に行こうと考えていたが、歌舞伎の公演と稽古の関係で時間をとることができず、桜が散るギリギリの時期になってしまった。

「いえ、むしろ桜吹雪が見られるかもしれないので楽しみです」
 山吹は嬉しそうに笑った。
「そうか……」
 雪之丞は微笑むと、そっと山吹の手をとった。
「雪之丞様?」
 戸惑った様子の山吹を見て、雪之丞は苦笑する。
「そんなに離れて歩いてたら、大門を出られないだろ? ちゃんと横に並んで歩け」
「ああ、そうですね! 気がつきませんでした!」
 山吹は慌てて雪之丞の横に並ぶ。
 雪之丞は隣を歩く山吹を見て微笑んだ。
(こうして一緒に外を歩いてると、町娘にしか見えないな……)
 少し距離をとって後をついてきている男衆は少し気になったが、それ以上に山吹と空の下を歩けることが嬉しかった。

「雪之丞様」
 山吹は雪之丞を見上げると満面の笑みを浮かべた。
「本当にありがとうございます! すごく……すごく嬉しいです!」
「ああ」
 雪之丞は目を細める。
 
 春の暖かい日差しと心地よい風の吹く中、雪之丞と山吹は二人で一緒に大門をくぐった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「うわぁ……、綺麗ですね……」
 山吹が小さく呟く。
 隅田川沿いの道は、散った桜で薄紅色に染まっていた。
 強い風に桜が舞い上がる。
 隅田川沿いにはたくさんの人がいたが、見頃を少し過ぎたこともあり雪之丞が想像していたほど多くはなかった。
(これなら落ち着いて見られそうだな……)

 雪之丞は山吹を見る。
 山吹は目を輝かせながら舞い散る桜を見ていた。
「本当に綺麗ですね! 雪之丞様」
「ああ、そうだな」
 雪之丞は微笑んだ。

「あ……」
 山吹が何かに気づき、川に向かって歩いていく。
「見てください! ほら、川にも花びらが……。綺麗ですね……」
 山吹はうっとりと流れていく薄紅色の花びらを眺めていた。

 川を見つめていた山吹はしばらくして満足したのか、ゆっくりと振り返る。
 その様子に雪之丞が微笑むと、山吹はわずかに目を見開いて動きを止めた。

「? どうした??」
 固まっている山吹を見て、雪之丞は首を傾げた。
「い、いえ……!」
 山吹は我に返ると頬を赤く染めた。

「その……綺麗だなと思いまして……、その雪之丞様が……。桜の中に佇む姿がまるで絵のようで……」
 山吹は恥ずかしそうに言った。
「……は?」
 雪之丞は目を丸くした後、思わず吹き出した。
「はは、なんだそれ! そういう言葉は普通、男が女に言うもんだぞ……!」
 山吹はますます顔を赤くした。
「その……雪之丞様は美しいので……」
「おい、もうやめろ……。俺もそこまで言われると恥ずかしいから……」
 雪之丞は自分の顔が熱くなるのを感じた。
「す、すみません……」
 山吹は恥ずかしそうにうつむいた。

 雪之丞は山吹の様子を見て微笑む。
(本当にこいつは何を言ってるんだか……)
 雪之丞は山吹に近づくと、髪についていた桜の花びらをそっととった。
「おまえの方が綺麗だよ、山吹」
 雪之丞の言葉に山吹は弾かれたように顔を上げた。
 顔がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。
「そ、そういう仕返しは少し……」
「おい、仕返しじゃねぇよ。そう思ったから言っただけだ」
 雪之丞がそう言って笑うと、山吹は首元まで赤く染まった。
 山吹が両手で顔を覆う。
「私は……明日死ぬかもしれません……」
 山吹が絞り出すように言った。

「おい、こんなことくらいで死ぬな」
 雪之丞が苦笑する。
「は、はい……」
 山吹は顔を覆ったまま言った。
「ほら、もう行くぞ」
 雪之丞が山吹の手をとって、歩き始める。
「は、はい……!」

 二人は川沿いをゆっくりと歩いた。
 少し熱い頬に風が心地いいと、雪之丞は思った。

「あ……」
 山吹が唐突に口を開いた。
「どうした?」
 雪之丞が山吹を見つめ、立ち止まる。

「ひと月前、雪之丞様がお聞きになった私の望み……ひとつだけありました」
 山吹は嬉しそうに笑った。
「今日のように、いろんな雪之丞様を見ることです」

 雪之丞は目を見開く。

「雪之丞様がすべてをかけて取り組んでおられる歌舞伎も、年季が明けたら観に行こうと思っているのです」
 山吹は恥ずかしそうに微笑んだ。
「桜の中にいる雪之丞様はすごく素敵ですが、舞台に立つ雪之丞様はきっと今以上に輝いていると思いますから……。それが私の一番の望みです。まだ時間はかかりますが、いつか……」

「それなら……」
 雪之丞は山吹を真っすぐに見つめた。
「俺と一緒に来るか?」

「え……?」

「俺と大門を出る気はあるか?」

 山吹は呆然と雪之丞を見つめた。
「それは……どういう……」

「俺のものになるか? 一生俺のそばに……」

 山吹は目を見開いた。
 その瞬間強い風が吹いて、桜が舞い上がる。
 花びらの向こうで、山吹の震える唇がわずかに動くのを見て、雪之丞は我に返った。
「ま、待て! 答えはすぐ出さなくていい!」
 雪之丞は慌てて言った。
(俺は何を……!? いきなりこんなこと言うつもりじゃなかったのに……!)

「え! いえ、あの……!」
 山吹が戸惑いながら雪之丞を見た。
「身請けの話は一生のことだから、そんなすぐに結論を出さなくても大丈夫だ! ゆっくり考えてくれ……!」
 雪之丞は山吹から目をそらすと、早口で言った。

「え、あの、でも……!」
「いい! 大丈夫だ! ゆっくり考えろ!」
 雪之丞は山吹の両肩を掴むと、必死の形相で山吹を見つめた。
「あ……、はい……」
 山吹は戸惑いながら、ゆっくりと頷いた。

 雪之丞は息をつく。
「じゃあ、行くか……」
 雪之丞はそっと山吹の手を取ると、再び川沿いを歩き始めた。
「あ、はい……」
 山吹も慌ててついていく。

「雪之丞様……」
「ん?」
 雪之丞は前を見たまま返事をした。
 山吹が今どんな表情を浮かべているか知ることが怖かった。

「ありがとう……ございます」
 山吹は言葉を詰まらせながら言った。
 泣いているようだったが、雪之丞にはその涙の意味がわからなかった。
「ああ」
 雪之丞はそれだけ言うと目を伏せ、山吹の手を掴んでいた手に力を込めた。