「男が生きている可能性が高くなった……ということか……」
ひと通り叡正の話を聞き終えた咲耶は、小さくため息をついた。
木島屋へ行った翌日、叡正と信は木島屋でのことを伝えるために咲耶の部屋を訪れていた。
「どう思う?」
咲耶は信を見て聞いた。
信は部屋の片隅で目を伏せて何か考えているようだった。
「……秋という女の話が確かなら、その姉はたぶん死んでいると思う」
「え!?」
叡正は目を見開いた。
「……あの血は奥さんのってことか……?」
「ああ」
信は目を伏せたまま短く答えた。
咲耶はゆっくりと息を吐く。
「私もそう思う。普通に考えたら、それ以外ないだろうな……」
「そうなのか……?」
「ああ、生きていて自分の意思で姿を消したなら、隠しておいた金を置いていく理由がない……」
咲耶は目を閉じて眉を寄せた。
「はぁ、どんどん胸くそ悪い話になっていくな……」
咲耶はそれだけ言うと、信に視線を向ける。
「それで? 信は何を考えているんだ?」
咲耶の言葉に、信がようやく咲耶を見た。
「……ひとりでできることじゃない」
信は呟くように言った。
信の言葉を予想していたのか、咲耶は小さく頷く。
「そうだな……」
叡正は目を丸くする。
「え!? どういうことだ?」
咲耶は叡正を見た。
「畳が新しいものになっていたんだろう? 遺体はもちろん、ほかの痕跡も消えていたから行方不明ということになったんだ。おまけに遊女の方も本当の心中じゃないとしたら、心中に見せかけるために縄や遊女の遺書の準備も必要だ。そんなことひとりで全部やっていたら、そのあいだに捕まっているさ」
「た、確かに……。でも、誰が……?」
咲耶は少しだけ信を見た後、目を伏せた。
「……さぁな」
叡正は咲耶を見つめる。
「まだ調べるのか……?」
叡正の言葉に、咲耶は何か考えるように視線を動かした。
「私たちが調べられることはもうないな……。あとは生きている可能性が高い男を見つけるか、雪という女の遺体を見つけるかだ……」
叡正は目を丸くする。
「見つけられるのか? 何も手がかりはないんだろう……?」
「男は俺が探す」
信が唐突に口を開いた。
「心中騒ぎを起こした後にすぐ動けば目立つ。まだ江戸にいるはずだ」
「おいおい……。江戸にいるっていっても、どこにいるかなんてわからないんだろう?」
叡正は慌てて言った。
江戸中を探し回るのは、かなり時間がかかるうえ、そのあいだに江戸を離れてしまう可能性もある。
「居場所はわからないが、人目につかず隠れられる場所は限られている。そこを探すだけだ」
信は淡々と答えた。
「そう……なのか……?」
なぜそんな場所を知っているのか気にはなったが、叡正は何も聞かないことにした。
「気をつけろよ。そういう場所は……」
咲耶はそれだけ言うと目を伏せた。
「ああ、気をつける」
信は短く言った。
「ところで、顔はわかるのか?」
叡正は気になっていたことを口にする。
叡正はいまだに男の顔も雪という女の顔も知らなかった。
「ああ、それなら男の人相書が出ている」
咲耶が、信の代わりに口を開く。
「人相書?」
「ああ。心中は未遂であっても死罪だからな。今回は男の遺体があがっていないから、男の人相書が出ているんだ。顔まではわからないが、顔や体の特徴が書き出されているから、男を探すのには役立つはずだ」
咲耶の言葉に、信も小さく頷いた。
「見つかるかな……?」
叡正が小さく呟く。
「見つける」
信はそれだけ言うと立ち上がった。
「本当に気をつけろよ」
咲耶が信の背中に言った。
「ああ」
信は短く応えると、部屋を後にした。
「見つかるといいな……」
叡正は咲耶を見た。
「ああ……」
咲耶はなぜか不安げな表情を浮かべていた。
(そんな顔するの、めずらしいな……)
叡正には、咲耶のその表情の理由がよくわからなかった。
「それでさぁ、聞いてくれよ。山吹~」
男は、横にいる山吹に寄りかかって言った。
「はい、聞いております」
山吹は困ったように微笑みながら、もう何度目かわからない返事をした。
「俺が稼いだ金なのに、あいつはすぐ隠すんだ。自分が稼いだ金を好きに使って何が悪いんだ? そう思うだろう? 山吹~」
男は見世に来たときから酒に酔っており、ずっとこの調子だった。
「そうですね……」
山吹は調子を合わせて返事をする。
「そうだろ? 俺はここまで店を大きくした与太郎様だぞ!」
(ああ……、木島屋さんは確かに大きいお店ですもんね……)
「そ、そうです……よね……」
「山吹~、おまえだけだ。わかってくれるのは……」
山吹は何と答えていいかわからず言葉に詰まる。
(私は与太郎様のことを、まったくわかっていないと思いますが……)
「よ、与太郎様は魅力的ですから、奥様もきちんとわかっていらっしゃいますよ」
「いいや! あいつは適当に頷いているだけで、俺の言うことなんて何も聞いてないんだ! 腹の中では何を考えているのやら……」
与太郎は赤い顔でツバを飛ばしながら言った。
山吹は目を丸くする。
(私も奥様と同じだと思いますが……。こんな私と話していて楽しいのでしょうか……)
与太郎はここ一ヶ月定期的に山吹のところに来ていた。
来るときはたいてい酔っており、すぐに山吹を抱くこともあれば、一方的に話しだけして酔いつぶれてしまうときもあった。
「だから、俺は……俺は……」
与太郎は山吹の肩に寄りかかったままウトウトしていた。
山吹は与太郎を見つめる。
(この方にもいろいろあるのでしょうね……)
浮月からは与太郎の相手をするべきではないと言われたが、山吹は声がかかるたび断れずにいた。
(そこまで悪い方ではない気がするし……)
山吹がそんなことを考えていると、与太郎がイビキをかき始める。
山吹は微笑むと、与太郎の頭を支えながらゆっくりと与太郎をその場に寝かせた。
音を立てないように移動し、掛け布団を持ってくるとそっと与太郎にかける。
(さて、与太郎様は寝てしまわれたから、私は続きを……)
山吹は静かに移動すると、奥の戸から羽織と刺繍の糸を取り出した。
もともと山吹は部屋持ちではなかったが、雪之丞を通すために座敷が必要になったことと客が増えたことで今ではここが山吹の部屋になっていた。
(与太郎様は朝まで起きないでしょうし、続きをさせてもらおうかな……)
山吹は羽織を見つめて微笑んだ。
二ヶ月をかけて仕立てた羽織は、山吹が見てもいい出来だった。
「でも、ここからが本番だから……」
山吹は小さく呟く。
本来であればじっくりと絵柄を考えてから絵を描いていくが、あまり時間をかけることができないため、山吹はざっくりと描いた絵をもとに刺繍を始めていた。
(次の秋までには仕上げないと……。ああ、でもなんとか夏までには……)
山吹は、はやる気持ちを抑えながら、ひと針ずつ丁寧に縫っていく。
紫の糸が描き出していく桔梗の花を見ながら、山吹はそっと目を細めた。
「そういえば、最近刺繍はしてるのか?」
山吹に酒杯を差し出しながら、雪之丞が何気なく聞いた。
雪之丞の言葉に、山吹はビクリと体を震わせると申し訳なさそうな顔で雪之丞を見た。
「そ、その……まだ……完成していなくて……」
(ん? 何の話だ……?)
雪之丞は山吹の反応に首をひねった。
(……あ、俺が何か贈ってほしいと言ったからか……)
雪之丞は山吹が何を言っているのかを理解すると、苦笑した。
「違う。俺への贈り物はまだかって聞いたんじゃねぇよ。楽しんで刺繍できてるかって聞いただけだ」
「あ、そうなんですね……」
山吹はホッとしたように笑った。
「はい、雪之丞様のおかげでたくさん刺繍ができて、毎日幸せです」
山吹はそう言うと、銚子を手にとり酒を注いだ。
「そうか。それならいい」
雪之丞は酒杯に口をつける。
「雪之丞様の羽織も次の秋までにには……」
山吹はそこまで言ってハッとしたように口を噤んだ。
「羽織? 羽織って何のことだ??」
雪之丞は山吹を見る。
「えっと……それは……」
山吹は目を泳がせた。
「もしかして、羽織に刺繍しようとしてるのか? ん? ……もしかして羽織を仕立てるところからやってるのか?」
雪之丞は目を丸くする。
山吹の様子から、雪之丞は自分の予想が外れていないと悟った。
「そんなすごい贈り物望んでねぇよ! 布に少し刺繍を入れて渡してくれるだけでよかったのに……」
「そ、それは、その……。私が作ってみたくて……」
山吹がおどおどしながら言った。
「羽織を、か?」
雪之丞は呆れた顔で山吹を見た。
「ほ、本当です! 以前から仕立ててみたいと思っていたんです!」
山吹は珍しく大きな声で言った。
(糸と布をもらったから気を遣ってるのか……)
雪之丞は小さくため息をついた。
「それならいいけど……無理はしてないか? 見世が始まる前とかにやってるんだろう?」
「無理などまったく! 刺繍はもともと好きですから! 羽織も仕立ててみたいと思っていたので!」
山吹が勢いよく答える。
(まぁ、これ以上何か言うのもな……)
雪之丞は軽く頭を掻いた後、山吹を見つめた。
「そうか……。それならいい。……じゃあ、楽しみに待ってる」
「は、はい!!」
山吹は目を輝かせると、嬉しそうに笑った。
「くれぐれも無理はするなよ」
雪之丞も目を伏せて微笑んだ。
「はい!!」
「あ、ところでさ」
「はい!」
「寸法は?」
雪之丞は再び山吹を見た。
「採寸してないだろ?」
「あ……それは……」
山吹の顔はみるみる真っ赤になっていく。
「?」
「それは……その……しました……」
「え、いつだ? 俺が寝ているあいだにしたのか?」
雪之丞は目を丸くする。
採寸は長さの目安となる紐を体に巻き付けて行うことが多いが、寝ているあいだにそんなことをされれば、さすがに気づくだろうと雪之丞は思った。
「それは……その……」
山吹は再び目を泳がせる。
「お、起きていらっしゃるときに……」
「は? 採寸された記憶なんてねぇよ。……おまえ、何で測ったんだ?」
雪之丞の言葉に、山吹はうつむく。
山吹は首筋まで真っ赤だった。
「その……、私の……腕で……」
山吹はうつむいたまま絞り出すように言った。
雪之丞はしばらく意味がわからずポカンとしていたが、やがて意味を理解すると目を見開いた。
「ああ! だからあんなに抱きついてきてたのか!」
「そ、そんなに抱きついておりません!」
山吹は真っ赤な顔を上げると、首を勢いよく横に振った。
雪之丞は思わず吹き出した。
「ああ、なるほどな! っていうか、普通に言えよ! 採寸くらい嫌がらねぇよ」
雪之丞は笑いながら言った。
「それは……その……、羽織だとわからないように……。秘密にしておいた方が……見たときに喜んでいただけるかと思って……」
山吹はうつむいて、小さく呟く。
雪之丞は苦笑した。
(山吹が何かを秘密にするのは無理だろう……)
「羽織だってわかってても嬉しいよ。ありがとな」
雪之丞はそう言うと、山吹の頭を優しくなでた。
「それで採寸は終わったのか?」
雪之丞は両腕を広げた。
「ほら、もうわかったから、好きなだけ測っていいぞ」
雪之丞は意地悪く微笑んだ。
山吹は赤い顔のまま、目を丸くして激しく首を横に振る。
「も、もう羽織は仕上がってますから!」
「寸法、変わってるかもしれないぞ?」
「そんなにすぐ変わりませんよ……! そもそも羽織は少し大きめに仕立てていますし……」
山吹は恥ずかしさからか少し涙目になっていた。
それでも雪之丞は微笑みながら両腕を広げ、山吹を待っていた。
山吹は目を泳がせる。
「ほら」
雪之丞の言葉に、山吹はしばらくためらっていたが、やがて諦めたようにおずおずと雪之丞の背中に腕を回した。
「寸法、変わってるか?」
雪之丞は楽しそうに聞いた。
「ですから……すぐには変わりませんと……言ったではないですか……」
山吹は雪之丞の胸に顔をうずめながら小さく答えた。
「ふふ……、そうか」
雪之丞はこみ上げる笑いを堪えながら、そっと山吹を抱きしめた。
「山吹、ありがとう」
雪之丞はささやくように言った。
いつか羽織を受け取ったとき、きっと今日のことを思い出して自分は笑うのだろう。
雪之丞はそのとき、そう思っていた。
茶屋で二人の男が、茶を飲んでいた。
二人は同じ長椅子に腰かけていたが、二人のあいだには距離がありお互いを見ることもなかった。
日が暮れる間際の時間ということもあり、茶屋には今、二人以外誰もいない。
もう新しい客が来ることはないと思ったのか、茶屋の主人さえ先ほど店の奥に行ったままもうしばらく戻ってきていなかった。
「なぁ」
男が静かに口を開いた。
「あの仕事……俺がやる必要あったか?」
男は額の左側にある古傷を掻きながら、横目で隣に座る男を見た。
(なんかイライラしてるみたいだなぁ……)
隣にいた男は苦笑する。
額の古傷を掻くのは苛立っているときだと、男はよく理解していた。
「おまえしか無理だっただろ? 突発の件だったし、あの方が直々におまえにお願いしたんだから」
男は湯飲みを手に取りながら言った。
「何が不満なんだ?」
傷のある男は短くため息をつく。
「全部不満だよ。あんな仕事に大義はない」
「大義って……」
男は横目で傷のある男を見るとかすかに笑った。
「この仕事に大義なんて求めてるのは、おまえぐらいだよ」
傷のある男は不満げに鼻を鳴らした。
「仕事とはいえ、なんであんなゴミを助けなきゃならねぇのか理解できない。金もそんなにもらってないんだろ?」
「そうみたいだな」
男はひと口だけ茶を飲んだ。
「なんであんなの助ける必要があったんだよ……。まぁまぁ、面倒くさかったんだぞ、アレ」
傷のある男は呆れたように言った。
「だいたい遊女の方……なんで心中に見せかける必要があったんだよ。あんなことしたら人相書が出て逃がしにくくなることくらい、あの人ならわかってただろう」
「それは……俺も知らねぇよ。全部あの方の筋書きか?」
男は湯飲みを長椅子に置いた。
「ああ。あんな面倒くさいこと、あの人の指示じゃなきゃやらねぇよ」
傷のある男はため息をついた。
「まぁ、いつものアレだろ。その方が面白くなりそうだったからってやつ」
男は目を伏せて笑う。
「ホント悪趣味」
傷のある男はため息交じりに言った。
「まぁまぁ、アレだよ、きっと。あの方、歌舞伎好きだから」
「は? 何だそれ? 関係あんのか、それ。今回のと」
傷のある男はじろりと男を睨む。
「まぁ、あるような、ないような……」
男はそう言うとにっこりと微笑んだ。
傷のある男はため息をつくと、湯飲みに視線を落とした。
「なんだよ、それ。まぁ、どっちにしろ悪趣味な理由だろ」
「ふふ、まぁ、そうだな」
男は楽しそうに笑った後、静かに口を開いた。
「……ところで、本題は?」
「ああ……」
傷のある男は、真っすぐに男を見た。
「今回の件、探られてるぞ? あの毛色の違うのが動いてる。俺が逃がしたあのゴミが見つかるのも時間の問題だ。花火の件もあいつのせいでダメになったみたいだけど、どうするんだ?」
「ああ、そのことか。それなら何もしなくていいってさ。もともと、あのゴミにはあの方も興味ないから、どうなろうといいみたいだ。ただ……ね……」
男は、傷のある男を見て微笑んだ。
「ああ、そういうことね。了解」
傷のある男はそう言うと、立ち上がった。
「まぁ、今回はやるけど、こういうのはもう御免だな」
机に金を置くと、傷のある男は片手を上げて茶屋の戸口に向かう。
「また……」
男は、去っていく男の背中に向かって言った。
「あの旗本の一件みたいな大きいことがしたいか?」
傷のある男が足を止める。
「……あれはあれで……もう二度と御免だ」
傷のある男は背を向けたままそう呟くと、静かに茶屋を後にした。
「ふふ……、だろうね」
男はひとりそう呟くと、湯飲みを手にとる。
湯飲みの底に溜まった澱みを見て男は微笑むと、それを一気に飲みほした。
「雪之丞ちゃんは、最近どうなのかな? 身請けの話は進んでいるのかい?」
稽古を終えた雪之丞のもとに、辰五郎がヘラヘラと近づいてきた。
雪之丞は顔をしかめる。
「うるさい、黙れ。消えろ」
雪之丞は手ぬぐいで顔の汗を拭きながら早口で言った。
辰五郎はわざとらしく目を丸くして、両手で口元を覆った。
「まぁまぁ、なんてことでしょう! その様子だとまだ何のお話もしていないのね!」
雪之丞は辰五郎を睨む。
「その地味な顔、舞台映えするようにボコボコにしてやろうか?」
辰五郎はプッと吹き出した。
「ボコボコは困るなぁ」
辰五郎はそう言うと、雪之丞の肩に手を置いた。
「いや、でも真面目な話、前に話してから三ヶ月は経ったぞ? まだ通い続けてるんだろう? 本当にまだ身請けの話してねぇの?」
雪之丞は辰五郎から目をそらす。
「放っとけよ……」
辰五郎は肩をすくめる。
「想像以上に雪之丞ちゃんは奥手だねぇ」
「だから、放っとけって……」
雪之丞はそう言って辰五郎の手を払うと、壁際に寄りかかるように腰を下ろした。
「何で身請けの話しないんだよ? この先どうするつもりなんだ?」
辰五郎も雪之丞の隣に腰を下ろした。
「どうって……」
雪之丞は言葉に詰まる。
「このままなんて無理だろ? 小見世の遊女なんて下手したら別の誰かにすぐ身請けされるぞ」
「それは……!」
雪之丞は弾かれたように辰五郎を見た後、目を伏せた。
「本人の気持ちがあるだろう……」
辰五郎は呆れたようにため息をついた。
「おまえはホントにヘタレだねぇ……」
「うるせぇ」
雪之丞は辰五郎を睨む。
そのとき二人に影が差した。
二人が同時に顔を上げると、よく通る太い声が響いた。
「おお、珍しい組み合わせだな」
二人の前には檀十郎が立っていた。
辰五郎は慌てて立ち上がると、頭を下げる。
「檀十郎さん、お疲れさまです!」
「ああ」
檀十郎はそう言って微笑むと、二人を交互に見た。
「仲が良いとは知らなかったな。これからも雪之丞をよろしく頼む」
「はい、もちろんです!」
辰五郎は自分の胸を叩いた。
「何を頼むって言うんだよ。こいつに頼ることなんて何もねぇよ」
雪之丞が座ったまま、悪態をついた。
檀十郎は呆れた顔で雪之丞を見る。
「おまえの悪いところはそういうところだぞ。可愛げがねぇ。そんなんじゃ、そのうち女にも愛想つかされるぞ」
「な!?」
雪之丞は目を見開く。
(さては聞いてやがったな……! クソ狸……)
辰五郎が顔をそらして、プッと吹き出したのがわかった。
「おまえは確かに見た目も実力も申し分ないが、これからは可愛げも必要だぞ」
檀十郎は腕組みしながら雪之丞を見た。
「可愛げってなんだよ……。媚なんて売らなくたって芸を磨いていけばいいだろ?」
雪之丞は檀十郎を見上げた。
「わかってないねぇ、おまえは。ひたすら芸に打ち込めるおまえは確かにすごいと思うが、それだけじゃ足りねぇ。歌舞伎なんてのは人気商売だ。特に看板役者は、どれだけ多くの人に愛されるかで芝居小屋全体の売り上げまで左右する。おまえはどうだ? 女ひとりも振り向かせられないやつが、どれだけの人間を魅了できるっていうんだ」
雪之丞は檀十郎を睨む。
「それとこれとは関係ねぇだろ……」
「関係ある。おまえ、怖いんだろ? フラれるのが。縋りついてでも手に入れるってことが、その高い自尊心のせいでできねぇんだ。愛されるためならなんでもするって覚悟がおまえには足りない。女のことだけを言ってるんじゃねぇぞ。歌舞伎は庶民の娯楽だ。みんな生活を切り詰めてでも役者に会いたくて、その芝居が観たくてやってくる。おまえ自身が愛されなければ、簡単に歌舞伎小屋なんて潰れるんだ。つまらない自尊心は捨てろ。そんなものでは何も手に入らないし、金にもならない」
檀十郎は雪之丞を真っすぐに見つめていた。
しばらく檀十郎を睨んでいた雪之丞は、強い眼差しに耐え切れず思わず目をそらした。
「まぁ、こんなやつだが、よろしく頼む」
檀十郎は辰五郎に視線を移すと微笑んだ。
「あ、はい。もちろん……」
辰五郎がそう応えると檀十郎は満足げに笑い、身を翻して去っていった。
辰五郎は座ったままうつむいている雪之丞を見た。
「おまえ……愛されてるねぇ……」
辰五郎は苦笑する。
「どこがだよ……」
雪之丞はうつむいたまま呟くように言った。
辰五郎はため息をつく。
「おまえは呆れるぐらい鈍感だな……」
何も応えない雪之丞を見て、辰五郎は肩をすくめると稽古場から出ていった。
ひとりになった雪之丞は、檀十郎の言葉の意味をずっと考え続けていた。
山吹は眠っている与太郎の横で、羽織の刺繍を進めていた。
(これなら夏が来る前にお渡しできるかもしれないな……)
山吹は羽織を広げて眺めると、静かに微笑んだ。
(今日はここまでにしよう……)
山吹は羽織を畳むと、音を立てないように気をつけながらそっと戸棚に羽織をしまった。
与太郎はずっといびきをかきながら眠り続けている。
(それにしても、今日の与太郎様は特に変だったな……)
山吹は与太郎を見つめた。
酔った状態で見世に来たのはいつも通りだったが、今日の与太郎にはいつものような強引さがなく、むしろ何かに怯えるように山吹を求めていた。
「おまえは俺を捨てないだろう?」
「おまえは俺のものだよな……?」
「俺のこと好きだろう?」
繰り返し縋るような目で聞かれるたび、山吹はただ困ったように微笑むことしかできなかった。
嘘でも頷くのが優しさだとわかってはいたが、山吹はどうしても嘘をつくことができないでいた。
(遊女失格ね……)
山吹は申し訳ない気持ちで与太郎を見つめる。
(この方は孤独なのかしら……)
山吹に縋るように愛の言葉を求めるのと同時に、与太郎は今日も妻のことを口にしていた。
「あいつは俺が邪魔なんだ……」
「俺のことなんて見えていない」
「俺なんて死んでほしいと思ってるんだ……」
(そんなふうに思うなんて、一体奥様と何があったのかしら……)
山吹はふと浮月の言葉を思い出した。
『永遠を求めるなんて、ちょっと贅沢すぎるんじゃないのか?』
(愛し合って結ばれても、変わっていくこともあるということよね……)
山吹は急に与太郎が可哀そうに思えて、寝ている与太郎の頭をそっとなでた。
(奥様に想いが通じればいいのだけれど……)
山吹はそっと目を伏せた。
山吹の脳裏に雪之丞の顔が浮かぶ。
(私はもう変わっていくことは怖くない……)
初雪の降った日、当たり前のように自分との未来を語る雪之丞を見て、山吹はその瞬間死んでもいいと本気で思った。
(私はもう大丈夫……。たとえ雪之丞様がもう二度とここに来なくなったとしても、あの日の記憶だけで、私は一生雪之丞様の幸せを願って生きていける……)
山吹は心からそう思っていた。
「一瞬でも永遠の夢が見られた……。私は本当に幸せだわ……」
山吹はひとり微笑んだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
翌日、雪之丞はどこか落ち着かない様子で見世にやってきた。
(雪之丞様……どうしたのかしら……)
雪之丞は、酒を注ごうと山吹が銚子を手にしても酒杯を手に取ることもせず、ただそわそわとしていた。
「あの……、雪之丞様? どうかされましたか?」
山吹は雪之丞の顔をのぞき込んだ。
「べ、別に何でもねぇよ……。春だなぁと思って……」
雪之丞は目を泳がせる。
「は、春……? そ、そうですね、最近暖かくなってきましたね……」
(本当にどうされたんだろう……)
山吹は雪之丞を見つめた。
今まで山吹が口にしない限り、雪之丞が季節や天気のことを話したことは一度もなかった。
「あとひと月ほどしたら桜も咲くでしょうか」
山吹は雪之丞に言った。
「桜……そうか桜の咲く頃か……」
雪之丞は小さく呟く。
「ところで山吹……、おまえ何か欲しいものや叶えたい望みはあるか?」
「え??」
山吹は目を丸くする。
「ほ、欲しいものですか?」
雪之丞がなぜ唐突にそんなことを聞くのか、山吹にはまったくわからなかった。
「そ、そうですね……。刺繍の糸や布を雪之丞様にたくさんいただきましたから、特にもう欲しいものは……。そうですね……強いて言えば……、三味線や刺繍が上達することが望みでしょうか……」
山吹の言葉に、雪之丞はひどく落胆した表情を見せる。
「なんだそれは……」
「え! こ、この答えではダメでしたか……!?」
「あ、いや……そういうわけじゃない……。じゃあ……えっと……、おまえはどんな男が……す、好……」
雪之丞はそこまで言いかけて顔を真っ赤にしてうつむいた。
「ゆ、雪之丞様!? どうされました!?」
山吹は目を丸くする。
雪之丞はうつむいたまま、片手で顔を覆った。
「な、なんでもない……。俺にはこういうのは無理だ……」
雪之丞の最後の呟きは小さく、山吹の耳には届かなかった。
「だ、大丈夫ですか……?」
山吹はどうしていいかわからず、雪之丞の背中をさすった。
「ああ、大丈夫だ」
雪之丞はそう言うと、まだ少し赤い顔を上げた。
「あ、そうだ……。じゃあ、おまえ、桜は好きか?」
「桜ですか……? はい、そうですね。吉原の大通りに植えられる桜は毎年見にいきますけど……」
山吹は雪之丞の顔をじっと見た。
「じゃあ、ひと月後、一緒に見に行くか?」
「え?」
山吹は目を丸くする。
「吉原の大通りにですか?」
「違う。外のだよ。隅田川の桜、一緒に見に行くか?」
「い、いいのですか……? そんな贅沢な……」
山吹は自分の唇が震えているのを感じた。
見世に売られてきてから、山吹は一度も吉原の外に出たことがなかった。
「そんな贅沢ってほどのことでもねぇよ。どうする? 行くか?」
雪之丞は微笑んだ。
「はい! 行きたいです! ありがとうございます……雪之丞様」
山吹は思わず出た涙を手で拭った。
(こんなに幸せでいいのだろうか……)
山吹の顔を見て、雪之丞は満足げに微笑んだ。
「ああ。じゃあ、来月な」
「はい!」
山吹は想いが溢れ出すように、涙が止まらなかった。
(どうしてこんなことになったんだ……)
与太郎は部屋の隅で頭を抱えていた。
薄暗い部屋の中で、灯りに照らされて蠢くいくつもの影だけが、かすかに与太郎の視界に入る。
「くそっ……、また負けた……。おまえイカサマしてんじゃねぇのか……!?」
「おいおい、運がないのを人のせいにすんなよ」
「なんだと!? てめぇ……! 表出ろ!」
「おい、それよりさっさと次、賭けろよ」
「丁? 半?」
与太郎は体の震えを抑えながら、両手で耳を塞いだ。
今までにも賭場に出入りしたことはあったが、ここまで柄の悪い賭場は初めてだった。
出入りしている人間の質が明らかに違う。
(ここにいたら、そのうち殺されるんじゃねぇのか……)
与太郎は目立たないように、必死で息を殺す。
心中の騒ぎが収まるまで隠れていろと言われ、指示されたとおりの賭場に身を隠したが、与太郎の心はもう限界だった。
(あれからひと月は経ったよな……? もう外に出ても大丈夫なんじゃないか……?)
与太郎がそんなことを考えていると、ふいに部屋が急激に静かになったのに気づいた。
(な、なんだ……?)
与太郎は思わず顔を上げる。
ここに来てから、賭場がこんなに静かになったことは一度もなかった。
目の前で賭博に興じていた男たちは、茫然と入口の方を見ている。
「なんであいつが……」
男たちが小さく呟く。
「仕事でヘマして死んだって噂だったじゃねぇか……」
「なんでここに……」
与太郎は男たちの視線の先を見る。
そこには、ひとりの男がいた。
薄茶色の珍しい髪の男が、ゆっくりとこちらに向かって歩いてきている。
(なんだ……? 普通のやつじゃねぇか……)
薄茶色の髪の男が、ふいに与太郎の方に視線を向ける。
顔を上げて男を観察していた与太郎は、完全に男と目が合った。
薄茶色の瞳が与太郎を捉えると、その目がわずかに見開かれたのがわかった。
(まずい……!)
与太郎は慌てて、顔を伏せてうずくまった。
(誰だかわからねぇが、あの目……。目的は俺なのか……?)
賭場は水を打ったように静まり返っていた。
男の足音がゆっくり近づいてくるのがわかる。
(どうして……! どうして俺のところに……!?)
うるさいほどに響いている自分の鼓動を抑えるように、与太郎は自分の体をきつく抱きしめた。
男が与太郎の前で足を止める。
男の影で与太郎の視界が一気に暗くなった。
(バレたのか……!? それで俺を探しに……!?)
与太郎が恐る恐る顔を上げると、すぐ目の前に薄茶色の瞳があった。
「ひっ!??」
与太郎は思わず声を上げると、壁際に後ずさる。
その瞳はひどく冷たく、ゾッとするほどの威圧感があった。
「おまえが……与太郎か?」
男は淡々と聞いた。
その声からも表情からも何の感情も読み取れなかった。
「ち、ち、違う!!」
与太郎は思わず大きな声で言うと、首を勢いよく横に振った。
「誰だ、それ!? 俺はそんな名前じゃ……ち、違う!!」
男は何も言わなかった。
ただ無言で与太郎を見つめると、やがてふっと目を細めた。
「ひっ!??」
頭から一気に血の気が引いていくような冷淡な笑みだった。
「ほ、本当に……!!」
与太郎が思わず立ち上がってそう口にすると、首の後ろに強い衝撃を感じた。
(え…………)
視界の端で薄茶色の髪がふわりと揺れるのが見えた。
与太郎の意識はそこでプツリと途切れた。
「お待たせしました」
山吹が少し慌てたように見世から出てくる。
「じゃあ、行くか」
雪之丞は山吹を見て微笑むと、大門に向かって歩き始めた。
「はい!」
山吹はそう言うと、雪之丞の後を追う。
雪之丞は空を見た。
(晴れてよかったな……)
ここ最近雨の日が続いていたが、今日は雲一つない青空だった。
雪之丞は少し後ろを歩く山吹を見た。
山吹は雪之丞と目が合うとにっこりと微笑む。
「桜、今が見頃でしょうか?」
雪之丞は少し困ったように笑った。
「いや、もう散りかけだろう……。悪いな、俺の都合がなかなかつかなかったせいで」
本来であれば雪之丞はもう少し早く花見に行こうと考えていたが、歌舞伎の公演と稽古の関係で時間をとることができず、桜が散るギリギリの時期になってしまった。
「いえ、むしろ桜吹雪が見られるかもしれないので楽しみです」
山吹は嬉しそうに笑った。
「そうか……」
雪之丞は微笑むと、そっと山吹の手をとった。
「雪之丞様?」
戸惑った様子の山吹を見て、雪之丞は苦笑する。
「そんなに離れて歩いてたら、大門を出られないだろ? ちゃんと横に並んで歩け」
「ああ、そうですね! 気がつきませんでした!」
山吹は慌てて雪之丞の横に並ぶ。
雪之丞は隣を歩く山吹を見て微笑んだ。
(こうして一緒に外を歩いてると、町娘にしか見えないな……)
少し距離をとって後をついてきている男衆は少し気になったが、それ以上に山吹と空の下を歩けることが嬉しかった。
「雪之丞様」
山吹は雪之丞を見上げると満面の笑みを浮かべた。
「本当にありがとうございます! すごく……すごく嬉しいです!」
「ああ」
雪之丞は目を細める。
春の暖かい日差しと心地よい風の吹く中、雪之丞と山吹は二人で一緒に大門をくぐった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「うわぁ……、綺麗ですね……」
山吹が小さく呟く。
隅田川沿いの道は、散った桜で薄紅色に染まっていた。
強い風に桜が舞い上がる。
隅田川沿いにはたくさんの人がいたが、見頃を少し過ぎたこともあり雪之丞が想像していたほど多くはなかった。
(これなら落ち着いて見られそうだな……)
雪之丞は山吹を見る。
山吹は目を輝かせながら舞い散る桜を見ていた。
「本当に綺麗ですね! 雪之丞様」
「ああ、そうだな」
雪之丞は微笑んだ。
「あ……」
山吹が何かに気づき、川に向かって歩いていく。
「見てください! ほら、川にも花びらが……。綺麗ですね……」
山吹はうっとりと流れていく薄紅色の花びらを眺めていた。
川を見つめていた山吹はしばらくして満足したのか、ゆっくりと振り返る。
その様子に雪之丞が微笑むと、山吹はわずかに目を見開いて動きを止めた。
「? どうした??」
固まっている山吹を見て、雪之丞は首を傾げた。
「い、いえ……!」
山吹は我に返ると頬を赤く染めた。
「その……綺麗だなと思いまして……、その雪之丞様が……。桜の中に佇む姿がまるで絵のようで……」
山吹は恥ずかしそうに言った。
「……は?」
雪之丞は目を丸くした後、思わず吹き出した。
「はは、なんだそれ! そういう言葉は普通、男が女に言うもんだぞ……!」
山吹はますます顔を赤くした。
「その……雪之丞様は美しいので……」
「おい、もうやめろ……。俺もそこまで言われると恥ずかしいから……」
雪之丞は自分の顔が熱くなるのを感じた。
「す、すみません……」
山吹は恥ずかしそうにうつむいた。
雪之丞は山吹の様子を見て微笑む。
(本当にこいつは何を言ってるんだか……)
雪之丞は山吹に近づくと、髪についていた桜の花びらをそっととった。
「おまえの方が綺麗だよ、山吹」
雪之丞の言葉に山吹は弾かれたように顔を上げた。
顔がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。
「そ、そういう仕返しは少し……」
「おい、仕返しじゃねぇよ。そう思ったから言っただけだ」
雪之丞がそう言って笑うと、山吹は首元まで赤く染まった。
山吹が両手で顔を覆う。
「私は……明日死ぬかもしれません……」
山吹が絞り出すように言った。
「おい、こんなことくらいで死ぬな」
雪之丞が苦笑する。
「は、はい……」
山吹は顔を覆ったまま言った。
「ほら、もう行くぞ」
雪之丞が山吹の手をとって、歩き始める。
「は、はい……!」
二人は川沿いをゆっくりと歩いた。
少し熱い頬に風が心地いいと、雪之丞は思った。
「あ……」
山吹が唐突に口を開いた。
「どうした?」
雪之丞が山吹を見つめ、立ち止まる。
「ひと月前、雪之丞様がお聞きになった私の望み……ひとつだけありました」
山吹は嬉しそうに笑った。
「今日のように、いろんな雪之丞様を見ることです」
雪之丞は目を見開く。
「雪之丞様がすべてをかけて取り組んでおられる歌舞伎も、年季が明けたら観に行こうと思っているのです」
山吹は恥ずかしそうに微笑んだ。
「桜の中にいる雪之丞様はすごく素敵ですが、舞台に立つ雪之丞様はきっと今以上に輝いていると思いますから……。それが私の一番の望みです。まだ時間はかかりますが、いつか……」
「それなら……」
雪之丞は山吹を真っすぐに見つめた。
「俺と一緒に来るか?」
「え……?」
「俺と大門を出る気はあるか?」
山吹は呆然と雪之丞を見つめた。
「それは……どういう……」
「俺のものになるか? 一生俺のそばに……」
山吹は目を見開いた。
その瞬間強い風が吹いて、桜が舞い上がる。
花びらの向こうで、山吹の震える唇がわずかに動くのを見て、雪之丞は我に返った。
「ま、待て! 答えはすぐ出さなくていい!」
雪之丞は慌てて言った。
(俺は何を……!? いきなりこんなこと言うつもりじゃなかったのに……!)
「え! いえ、あの……!」
山吹が戸惑いながら雪之丞を見た。
「身請けの話は一生のことだから、そんなすぐに結論を出さなくても大丈夫だ! ゆっくり考えてくれ……!」
雪之丞は山吹から目をそらすと、早口で言った。
「え、あの、でも……!」
「いい! 大丈夫だ! ゆっくり考えろ!」
雪之丞は山吹の両肩を掴むと、必死の形相で山吹を見つめた。
「あ……、はい……」
山吹は戸惑いながら、ゆっくりと頷いた。
雪之丞は息をつく。
「じゃあ、行くか……」
雪之丞はそっと山吹の手を取ると、再び川沿いを歩き始めた。
「あ、はい……」
山吹も慌ててついていく。
「雪之丞様……」
「ん?」
雪之丞は前を見たまま返事をした。
山吹が今どんな表情を浮かべているか知ることが怖かった。
「ありがとう……ございます」
山吹は言葉を詰まらせながら言った。
泣いているようだったが、雪之丞にはその涙の意味がわからなかった。
「ああ」
雪之丞はそれだけ言うと目を伏せ、山吹の手を掴んでいた手に力を込めた。
「おまえ、本当に大丈夫か……?」
芝居小屋で辰五郎は鏡越しに雪之丞を見た。
雪之丞の顔は青白く、目の下のクマも酷い。
「ああ、大丈夫だ」
雪之丞は目を伏せたまま淡々と答える。
辰五郎はため息をついた。
「大丈夫に見えないから言ってるんだろう……? 最近ちゃんと寝てるのか?」
「ああ」
雪之丞は短く答える。
辰五郎は息を吐いた。
(日に日に酷くなってるな……)
遊女が心中した日から、雪之丞の状態は日を追うごとに悪くなっているようだった。
(まぁ、あれだけ惚れ込んでたから無理もないか……)
「数時間後には舞台が始まる。……おまえ本当に大丈夫なのか?」
「ああ」
雪之丞の表情はまったく変わらなかった。
(そんな状態でどうやって芝居するんだよ……)
辰五郎は顔を歪めると、片手で顔を覆ってうつむいた。
遊女が死んでからも雪之丞は舞台に立ち続けていた。
公演に支障は出ていない。ただ、あの日から雪之丞の芝居にはまるで生気がなくなっていた。
台本通りに動くだけの人形が、観客を惹きつけられるわけもなかった。
辰五郎はもう一度ため息をつく。
「舞台の前に少しでも寝ておけよ……」
辰五郎はそれだけ言うと、雪之丞に背を向けた。
部屋を出ようと戸に手をかけたところで、戸を叩く音が響く。
(? 誰だ? 公演前の雪之丞のところに来るなんて物好きは……)
「は~い」
軽く返事をして戸を開けた辰五郎は、戸の前に立っている人物を見て目を見開いた。
辰五郎は、ゆっくりと雪之丞を振り返る。
「あのさ……、雪之丞……」
辰五郎はもう一度、戸の前に立つ人物を見た。
「えっと……おまえ、弟とかいたっけ……?」
「…………は?」
雪之丞はその日、初めて表情を変えて振り返った。
眉をひそめていた雪之丞は、戸の前に立っている人物を見て戸惑いの表情を浮かべる。
「おまえ、誰だ……?」
戸の前には雪之丞によく似た顔の髪の長い男が、引きつった笑顔で立っていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
戸惑っている様子の二人を前に、叡正は二人以上に戸惑っていた。
(どうして俺が来る必要があったんだ……)
叡正は今日のことを思い返す。
寺で眠っていた叡正は、真夜中に弥吉に叩き起こされた。
信からの緊急の手紙だと言われて急いで中を見ると、すぐに地図の場所に雪之丞を連れて来いという内容だった。
「夜中だぞ……? 正気か……?」
思わず叡正が呟くと、弥吉がすかさず答える。
「歌舞伎は明け方すぐに公演が始まるので、きっともう雪之丞さんは起きてますよ!」
(え……、俺は寝てたんだけど……、俺のことはどうでもいいのか……?)
叡正は少しだけ考えた後、しぶしぶ身支度を整えると雪之丞のいる三ツ井屋の芝居小屋に向かった。
芝居小屋に入れるか不安だったが、雪之丞に顔が似ているためか特に誰にも事情は聞かれずに雪之丞の部屋の前まで案内された。
「じゃ、じゃあ、込み入った話もあるかもしれないし、俺はこれで……」
戸を開けてくれた男は、そう言うとそそくさと部屋から出ていった。
「おまえは誰なんだ……?」
雪之丞は、戸惑いながらもう一度叡正に言った。
(確かに似ている気もするが、やっぱり全然違うな……)
初めて見た雪之丞は少し顔色が悪かったが、それでも洗練された華やかな容姿に人を惹きつける独特の色気を纏っていた。
(これが歌舞伎役者なんだな……)
「おい!」
叡正がぼんやり雪之丞を見ていると、しびれを切らした雪之丞が立ち上がった。
叡正は我に返る。
「あ、ああ、すまない。山吹という遊女のことで少し話があって……」
「山吹……?」
雪之丞の顔が曇る。
「ああ、俺もよくわからないんだが、一緒にこの地図のところまで来てくれないか?」
叡正は雪之丞に近づくと、信から受け取った地図を見せた。
「おまえもわからないってどういうことなんだ……? 何でそこに行く必要がある? 何があるんだ、そこに……」
雪之丞は地図を見ながら眉をひそめる。
「いや、俺もさっき手紙で言われただけだから……」
叡正は苦笑する。
「は??」
「あ! ただ、浮月っていう遊女から預かったものがあるんだ。山吹って遊女が刺繍した羽織が」
「羽織……」
雪之丞はわずかに目を見開いた後、そっと目を伏せた。
「律儀に心中前に仕上げたのか……」
雪之丞は悲しげな笑みを浮かべる。
「あ、それが……その、心中じゃないと浮月が言っていた……」
叡正はためらいがちに言った。
「心中じゃない……? 心中じゃないなら……何なんだ……?」
雪之丞は戸惑いの表情を浮かべる。
「それは……」
叡正は言い淀む。
殺されたかもしれないとは言いづらかった。
「それについて何かわかったんだと思う……。だから、この地図のところに来てほしいと……」
雪之丞の瞳が揺れていた。
「行きたいが……あと数時間で幕が上がる……。今俺がここを出ていくわけには……」
雪之丞はそこまで言って、何かに気づいたように叡正の顔をまじまじと見つめた。
「え……?」
嫌な予感がした。
雪之丞は叡正を見つめると、ゆっくり頷いた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
一時間後、辰五郎は雪之丞が心配になり、再び部屋を訪れた。
「おい、さっきの大丈夫だったか……? って、おまえもう衣装に着替えたのか? 化粧もして……。今日は早いんだな……」
辰五郎はそう言いながら、雪之丞に近づいた。
雪之丞のすぐ後ろまで来た辰五郎は、鏡越しに雪之丞の顔を見る。
「!?」
辰五郎は目を見開いた。
「え!? おまえ……何!? さっきのやつだよな!? え!? 雪之丞は!?」
歌舞伎の衣装を纏った男は、申し訳なさそうに目を伏せ、ただ引きつった笑顔を浮かべていた。