歌舞伎の稽古を終えた雪之丞は、壁際に座り手ぬぐいで汗を拭いていた。
 集まっていた役者たちは、続々と稽古場から出ていく。
(俺もそろそろ帰るか……)
 雪之丞が立ち上がろうとしたとき、同じように汗を拭いていた男と目が合った。
(ああ、辰五郎か……。まだ帰ってなかったんだな……)
 辰五郎は雪之丞に微笑むと、ゆっくり近づき隣に腰を下ろした。
「最近、調子良さそうだなぁ」
 雪之丞は辰五郎を横目で見る。

「別に普通だろ」
 雪之丞は興味なさそうに言った。
 辰五郎は軽く笑う。
「おまえは相変わらずだなぁ。まぁ、自覚はないのかもしれないけどさ……。最近のおまえ、芸に艶があるよ。男形なのに胸焼けしそうなくらい色っぽい」
 辰五郎の言葉に、雪之丞が顔をしかめる。
「なんだよ……喧嘩でも売りに来たのか?」
「そんなわけねぇだろ?」
 辰五郎は楽しそうに笑った。
「褒めてんだよ。これも、おまえが夢中になってるっていう遊女のおかげかな?」

 雪之丞は辰五郎を軽く睨む。
「おまえ……、それが言いたかっただけだろ」
「ふふ、半分正解。でも、半分は本当に褒めてるんだよ」
 辰五郎はクスクス笑いながら、雪之丞を見た。
(絶対馬鹿にしてるだろ……)
 雪之丞は舌打ちをした。

「いやいや、本当だから。実際、おまえのとこの旦那、一線を退いて、おまえのこと檀十郎に推すつもりみたいだぞ」
 辰五郎が真面目な顔で言った。
 雪之丞は目を見開く。
「おいおい、嘘だろ? あの人が引退なんて早すぎるし、俺だって襲名するにはまだ実力が足りねぇだろ」
 辰五郎は雪之丞を見る。
「まぁ、檀十郎さんが引退するのは早いと思うけど、おまえは人気、実力ともにあるから、襲名自体はたぶん問題ねぇよ。最近檀十郎さんが贔屓筋に根回ししてるって噂だ」
「嘘だろ……?」
 雪之丞は呆然とした顔で呟いた。

「いいじゃねぇか。おまえだって目指す場所はそこだっただろ?」
 辰五郎が不思議そうに言った。
「いや、そうだけど……。早すぎるだろ……。旦那の名を継ぐのは俺の最終の目標なんだから……」
「その旦那が認めてるんだからいいじゃねぇか。ああ……うちの旦那も早く俺のこと推してくれねぇかな……」
「いや、おまえは単純に実力が足りねぇだろ」
 雪之丞の淡々とした言葉に、辰五郎がムッとした表情を浮かべる。
「おまえ、本当に可愛くないねぇ……。はぁ……、おまえは幸せいっぱいで羨ましいよ……。まぁ、いいんじゃねぇの? 檀十郎を襲名して、ついでに遊女ももう身請けしちゃったら?」
「な!?」
 雪之丞は目を見開く。
 辰五郎は不思議そうな顔で雪之丞を見た。
「……何? 『な!?』って。遊女のこと? え? おまえ入れあげてるんだろ? いずれ身請けするつもりだったんじゃねぇの? 小見世の遊女なんだろ? 身請けしたってたいした額じゃねぇだろ?」
 雪之丞は目を泳がせる。
「い、いや……、そういうのは本人の意思もあるだろうし……」
 最後は消え入るような声で雪之丞が呟く。
「は? え、何……? もしかして惚れてるの、おまえだけなの? え! 何それ! ……わ、笑えるんだけど……!」
 辰五郎は言い終える前に吹き出した。
「え! 嘘だろ!? 江戸一の色男とか言われてるやつが!? やばい……笑いが止まらねぇ……!」
 辰五郎は腹を抱えて笑い出した。
 雪之丞は持っていた手ぬぐいを辰五郎に投げつける。
「うるせぇよ……」
 雪之丞は恥ずかしさで、顔が熱くなっていくを感じた。

「ふふ……、わ、悪い悪い。ふふ……、初めておまえのこと可愛いと思ったよ……」
 男はこみ上げる笑いを抑えるように、片手で口元を覆った。
「まぁ、身請けのこと言ってみりゃいいじゃねぇか、その遊女に。反応でわかるだろ? 希望があるかどうか」
「そう……だろうけど……」
 雪之丞は目を伏せた。
 身請けの話をしたときの山吹の反応は、雪之丞には簡単に想像ができた。
 こぼれ落ちそうなほど目を見開いた後、山吹はきっと困ったように笑うのだ。
 そしてこう言う。
「雪之丞様にはもっとふさわしい人がいるはずです」と。
 雪之丞は、その光景を想像するだけで胸が潰れそうだった。

「可愛い……」
 辰五郎は雪之丞の顔をのぞき込むように見つめていた。
「は?」
 雪之丞は眉をひそめる。
「おまえ、可愛かったんだな……。俺、惚れそうだよ……」
 辰五郎はわざとらしく目を潤ませる。

 雪之丞は片手で顔を覆った。
「頼むから、もう俺の前から消えてくれ……」
「まぁまぁ、これからは俺のことを兄貴と呼べ。いろいろ助言してやるから」
 辰五郎はニヤニヤと笑う。
 雪之丞は辰五郎をジトっとした目で見た後、深いため息をついた。
「アホらしい……。俺……帰るわ……」
 雪之丞はよろよろと立ち上がると、戸に向かって足を進めた。

「また今度じっくり話そうな! 弟よ!」
 辰五郎の楽しそうな声が雪之丞の耳に響く。
「うるせぇ……」
 雪之丞は振り返らず、小声で呟いた。
 戸に手をかけると、雪之丞は目を伏せた。
「身請け……か……」
 そう呟くと、雪之丞の脳裏に困ったように微笑む山吹の顔がチラつく。
 雪之丞はまた深いため息をつくと、戸を開けて稽古場を後にした。