「雪之丞様……またこんなに高い糸を……」
雪之丞から糸の束を受け取った山吹は目を丸くした。
「布もこんな上等な……」
山吹は布と糸を手に取りながら、戸惑いの表情を浮かべていた。
(素直に喜べばいいのに……)
雪之丞は、山吹の様子を見ながら座敷に腰を下ろす。
ここ最近は座敷に入ると同時に、山吹に糸と布を渡すのが習慣になっていた。
「これは金糸ですか!? こんな高い糸は……」
山吹の顔が青ざめていく。
山吹の様子を見て、雪之丞は不満げな表情を浮かべた。
「なんだよ……。嬉しくねぇのか?」
山吹は弾かれたように、顔を上げる。
「そんな! も、もちろん嬉しいです……けど……」
山吹はそう言って雪之丞の顔を見た後、再び糸と布に視線を落とした。
「あまりに高級過ぎて……手が震えて……上手く刺繍ができません……」
雪之丞は糸と布を持つ山吹の手を見つめる。
確かに山吹の手は震えていた。
雪之丞は軽くため息をつくと、山吹の手を両手で包み込む。
「そんな気にするほど高くねぇよ。それに俺にも何か贈ってくれって言って渡してるんだから、これは自分のための糸と布だ。おまえが気にする必要はないんだよ」
「で、ですが……」
山吹が上目遣いで雪之丞を見つめる。
「ですがじゃねぇ。それとも、俺への贈り物を安い糸と布で作る気なのか?」
「そ、そういうわけでは……!」
「じゃあ、これで好きな刺繍でもしてろ。何度も言うが、俺にとっては高くねぇんだから」
雪之丞は山吹の頭をポンポンと叩いた。
山吹はまだ何か思い悩んでいるようだったが、雪之丞を見て少しだけ微笑んだ。
「わかりました……。雪之丞様……、ありがとうございます」
「ああ」
雪之丞も目を伏せて微笑む。
「あの……では、雪之丞様に贈る刺繍はどんなものがいいですか?」
山吹は雪之丞をじっと見つめる。
「好きな柄や……好きなものは何かありますか?」
山吹の目はキラキラと輝いていた。
「好きなもの……?」
雪之丞は頬杖をつきながら、目を閉じた。
(好きなもの……って何かあったか? 別にこれといって何も……)
雪之丞が目を開くと、山吹は変わらずキラキラした目でこちらを見ていた。
(ない……とは言いにくいな……)
「えっと……天ぷらとか……割と好きかな……」
そういう話ではないとは思いつつ、雪之丞はとりあえず思いついたものを口にした。
雪之丞は山吹を横目で見る。
「天ぷら……」
山吹のポカンとした表情を見た瞬間、雪之丞は答えを間違えたと悟った。
「て、天ぷら……ですか……!?」
山吹は目を泳がせる。
「えっと、あの……。わ、私の腕ではなかなか……。その、て、天ぷらを素敵な刺繍に仕上げるのは……その、う、上手くできないかもしれませんが……。あ! でも、け、決して天ぷらがダメだとかそういう! そ、そういうことではなく……! 私の腕の問題でして……。あ、でも……き、金糸を使えば、なんとか……」
天ぷらを必死で肯定しようとする山吹の顔を見て、雪之丞は恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じた。
(天ぷらの刺繍をしてほしいって意味じゃねぇよ……)
雪之丞は片手で顔を覆う。
「待て。そういう意味じゃないから……。好きなものを聞かれたから答えただけで……。天ぷらの刺繍なんてダサいもん、天ぷら屋台の店主だって持ってねぇから……」
「あ、ああ……! そ、そうですよね!」
山吹は心底ホッとした表情を浮かべた。
「ああ……。天ぷらは忘れてくれ……」
雪之丞は顔を覆ったまま、うつむいた。
「は、はい」
山吹は、うつむいた雪之丞の顔をのぞき込んだ。
「あ、あの……大丈夫ですか……?」
雪之丞はまだ少し赤い顔を押さえながら苦笑した。
「ああ、なんでもねぇよ……」
雪之丞は息を吐いて顔を上げると、山吹の顔を見つめた。
「……じゃあ、もうアレだ。刺繍は桔梗にしてくれ」
「桔梗ですか?」
山吹が不思議そうな顔で雪之丞を見る。
「うちの……。あ、花巻雪之丞とか花巻檀十郎っていうのは三ツ井屋っていう一門なんだ。で、その一門の家紋が桔梗なんだよ。なんでも一番の贔屓筋が、檀十郎に桔梗の花を贈ったのが由来で桔梗紋になったらしいんだけど、それ以来うちの一門を象徴する花なんだ」
山吹は目を輝かせた。
「そうなんですね! それなら桔梗にしましょう! すごく素敵なお話ですね!」
山吹は嬉しそうに微笑んだ。
(最初から桔梗って言っときゃよかった……)
山吹の顔を見て、雪之丞は心の底からそう思った。
(今度紫の糸でも持ってこよう……)
山吹の笑顔を見ながら、雪之丞はまた次に持ってくる糸について考え始めていた。
浮月が二度寝から目覚めて一階に降りると、ちょうど糸の束と布を抱えた山吹が階段を登ろうとするところだった。
「ああ、おはようございます。姐さん」
山吹がにっこりと笑う。
「今日も大量だねぇ」
浮月は眠い目をこすりながら、山吹の腕の中にある糸と布を見つめた。
「あ、はい……」
山吹は少しだけ頬を赤くすると、腕の中のものを愛おしそうに見る。
(その顔を歌舞伎役者に見せてやればいいのに……)
浮月は首筋をポリポリと掻きながら、軽くため息をついた。
「山吹、あんた飯は?」
「あ、私はそんなに食欲がなくて……。何より早く刺繍がしたくて」
山吹は嬉しそうに微笑んだ。
浮月は髪をかき上げると、もう一度ため息をつく。
「食べな。あんた、それ以上ガリガリになってどうすんだ。ほら、私と一緒に食べるよ!」
浮月はそう言うと、山吹の腕を掴んで引きずっていく。
「え、ちょっ……、姐さん……!」
山吹は糸と布を落とさないように慌てて体勢を整えると、浮月の後をついていった。
遅い時間ということもあり、朝食をとるための横長の机にほかの遊女は誰もいなかった。
朝食を受け取った浮月と山吹は並んで腰を下ろす。
「飯はちゃんと食べな。白飯だけでもお腹に入れないと、そのうち倒れるよ」
浮月は白飯の入った椀を持って、山吹を見た。
「はい……。ありがとうございます」
山吹も椀を手に持つ。
「それで、あの歌舞伎役者とはうまくやってるのかい?」
浮月はご飯を食べながら、山吹に聞いた。
「うまく……かどうかはわかりませんが……。良くしていただいています」
山吹は照れたようにうつむいた。
「そう、それなら良かったね」
浮月は山吹を見て微笑む。
「そのうち身請けでもしてくれりゃいいけど」
浮月の言葉に、山吹は目を丸くする。
「そ、そんな、身請けなんて滅相もない!」
山吹は勢いよく首を横に振った。
「今、来ていただけるだけで十分です」
山吹は目を伏せると微笑んだ。
浮月は横目で山吹を見る。
(山吹は本当に何もわかってないねぇ……)
浮月はため息をついた。
「いつか……雪之丞様がここに来ることがなくなっても、私はもうこの思い出だけで十分です……」
山吹が目を伏せたまま呟く。
浮月は呆然と山吹を見つめた。
(なんでそう悲観的なんだ……)
「来ることがなくなるも何も……、ここ五ヶ月通い続けてるだろう? 貢物まで持って」
浮月は、山吹が隣の椅子に置いた糸と布を見た。
(さすがにここまでくると、歌舞伎役者が可哀そうだな……)
浮月は苦笑する。
「今は私のところに来てくださっていますが、それが続くなんて……そんなことあり得ませんから……」
山吹は悲しげに微笑んだ。
浮月はため息をつく。
「それはおまえが決めることじゃないだろう? それに永遠を求めるなんて、ちょっと贅沢すぎるんじゃないのか?」
「いいえ! そんな! ……私はそんなつもりでは……!」
山吹が弾かれたように顔を上げて浮月を見る。
「そういう意味だろう? 続く保証がないから期待しないって」
浮月は椀を机に置くと、真っすぐに山吹を見た。
「山吹、いいかい? 先のことなんてのは、あんたが遊女だとか関係なく、誰にもわからないし何の保証もないものなんだよ。相手が歌舞伎役者で吊り合わないとか、そんなこと考える前にもっと今を大事にしな。あんた、こんなことしてたらそのうち大事なものを取りこぼすよ」
山吹は目を見開いた。
「大事な……もの……」
「どうせあんたのことだから、歌舞伎役者に自分の気持ちも伝えてないんだろう? 惚れてるくせに」
浮月の言葉に、山吹の顔がサッと赤く染まる。
「思い出だけで十分とかカッコつけて。歌舞伎役者が来なくなったらメソメソするくせに。期待しないとか強がり言う前に、もっと自分の気持ちをさらけ出しな」
山吹はおずおずと顔を上げる。
その顔は真っ赤で耳や首筋まで赤くなっていた。
「で、でも……。そんなこと言ったら、きっと重いと思われます……」
山吹は泣きそうな顔で言った。
「あいつがそう言ったなら、それまでの男だったってことでいいだろ? きっぱり諦めもついていいじゃないか」
(まぁ、こんな貢物持ってくるぐらいだから、そんなこと言わないだろうけど……)
浮月はため息をついた。
「そう……ですよね……」
山吹は悲しげな顔でうつむく。
浮月は呆れた顔で山吹を見つめた。
「重いと思われて、あいつが来なくなるのが怖いんだろ? ほら、全然思い出だけで十分じゃないじゃないか」
「はい……」
山吹は両手で顔を覆った。
「まずはちゃんと自分の気持ちを伝えな。まずはそれからだよ」
浮月は山吹の頭をなでる。
「はい……」
山吹はゆっくりと顔を上げた。
「今度……雪之丞様に刺繍を贈る予定なんです……。だから、そのときに……ちゃんと自分の気持ちを伝えます……」
山吹の瞳は涙で濡れていたが、その奥には決意のようなものが見えた。
「ああ、そうしな」
浮月は微笑むと、山吹の頭をポンポンと軽く叩いた。
「ところで、刺繍って何を贈るつもりなんだい?」
浮月は再び椀に手を伸ばしながら聞いた。
「えっと……、何を贈るかは決めていなんですが、刺繍は桔梗の花にする予定です」
山吹が着物の袖で涙を拭きながら答える。
「ああ……。三ツ井屋の家紋の花だもんね……」
浮月が白飯を頬張りながら言った。
山吹は目を丸くする。
「姐さん、知ってるんですね」
「ああ、あんたよりは歌舞伎に興味があるからね。まぁ、安心しなよ。雪之丞は私の趣味じゃない。それよりは今の檀十郎の方が私の好みだから」
「はぁ……そうだったんですね……」
山吹は意外そうな顔で浮月を見た。
「なんだい? みんながあの歌舞伎役者に夢中になるとでも思ってたのかい? ホント……恋は盲目だねぇ……」
浮月は呆れ顔で肩をすくめた。
「そ、そういうわけでは……」
山吹の顔が再び赤く染まった。
「あ、そうだ!」
浮月はふと思いついて声を上げる。
「それなら、こういう刺繍にしなよ……」
浮月は思いついたことを山吹に話した。
「……そんなものがあるんですね!」
山吹は目を輝かせる。
「はい! ぜひそれにさせてください!」
山吹は嬉しそうに笑った。
山吹の顔を見て、浮月も微笑む。
「うまく作りなよ」
「はい!」
山吹はそう言うと、隣の椅子にある糸と布を見つめた。
「私の想いと願いを込めて……」
山吹は目を伏せて微笑むと、大切そうに糸の束をそっとなでた。
木島屋の中をひと通り見て回った信と叡正は、これ以上得るものはないと判断し店の外に出た。
来たときには朝だったが、気がつけばすでに日は高くなっていた。
(もう昼か……)
叡正が空を見ていると、先に外に出ていた信が不自然に足を止めた。
「どうした?」
叡正が信の背中に向かって問いかけると、信は無言で一歩下がり叡正の横に移動する。
「?」
叡正が正面を見ると、そこには戸惑いの表情を浮かべた女が立っていた。
「あの……どちら様ですか……?」
女は、木島屋から出てきた二人を警戒しているようだった。
叡正は自分の顔が青ざめていくのを感じた。
(これは……捕まるやつじゃないのか……?)
「えっと……これは……」
叡正は目を泳がせながら必死に言葉を探した。
「あ、もしや……借金の取り立てですか!?」
女がハッとしたように言った。
「え!? あ、ああ……まぁ……」
叡正は引きつった顔で曖昧に頷く。
女は申し訳なさそうな表情を浮かべ、片手で口元を覆った。
「そうだったんですね……。あ、申し遅れました、私はこの家の店主の妹で秋と申します」
「ああ、あの心中した男の……」
叡正がそう呟くと、秋ははっきりとわかるほど不快そうな表情を浮かべた。
「いいえ。店主はその妻の雪です。私は雪の妹なので」
「ああ……、それはすまない……」
秋の表情が険しくなったのを見て、叡正は慌てて言った。
「奥さんも……その……確か行方がわからないんだったよな……」
叡正の言葉に秋は悲しげに目を伏せた。
「はい……。私も探しているのですが、まったく行方がわからなくて……」
「そうなのか……。まぁ、旦那が遊女と心中したなんて噂されたら逃げたくもなるか……」
叡正がそう言うと、秋は何か言いたげに叡正を見た。
「姉は……あの男と別れようとしていたのです……。だから、あの男が誰と心中しても行方をくらますことなんてないはずなのですが……」
秋は少し言いづらそうに口を開いた。
叡正は目を丸くする。
「そ、そうなのか……?」
「ええ……、それに……」
秋は叡正から視線をそらした。
「あの男は……死んでいないのかもしれません……」
叡正は目を見開く。
叡正の視界の端で、信も顔を上げたのが見えた。
「どうして……そう思うんだ……?」
叡正はためらいがちに聞いた。
「お金が……店のお金が……なくなっていたのです……」
秋は目を伏せたまま答える。
「それは……奥さんが出ていくときに持っていったんじゃないのか……?」
叡正がそう言うと、秋はハッとしたように顔を上げた。
「そうでした! 借金の取り立てでしたね! すみません! ついてきてください」
秋は叡正にそう言うと、二人の横を通り抜け木島屋の戸を開けて中に入った。
叡正と信は一度顔を見合わせた後、秋の後を追う。
秋は店の奥に進んでいき、一階にある座敷に上がった。
「姉は、あの男に奪われないように店のお金のほとんどを隠していました」
秋はそう言うと、座敷の畳の縁を掴み持ち上げた。
持ち上げた畳を別の畳の上に置くと、むき出しになった床板に手をかける。
床板の一部が簡単にはずれた。
叡正と信は、ゆっくりと秋に近づいた。
「ここにあるお金には一切手がつけられていませんでした」
床板をはずすと、そこには箱が置かれていた。
秋はゆっくりと箱を持ちあげると、そっと畳の上に置く。
「姉が持っていくなら、ここのお金を持っていくはずなのです。……ですから、お金を持っていったのは、おそらくあの男……。心中するのにお金なんて持っていきますか?」
秋はそう言うと箱のふたを開ける。
箱の中には溢れるほどのお金が残されていた。
「それで、借りたお金はいくらなのですか? どうせあの男が借りたのでしょう?」
秋はため息をつきながら、お金を見つめた。
「えっと……」
叡正はなんと答えていいのかわからず目を泳がせた。
すると、信が一歩前に出る。
「今日は本当に二人ともいなくなったのか確認に来ただけだ。貸した金については金額を確認してまた来る」
信が淡々と言った。
「そうですか……。それでは、このお金は私の家で預かっておきますので、そのときは私のところに来てください。ここを出て右手に少し進んだところにある長屋に住んでおりますので」
秋は特に疑う様子もなく言った。
「ああ、わかった」
信はそれだけ言うと、背を向けて店の戸口に向かう。
叡正も慌てて秋に一礼して、信の後を追った。
二人は店の外に出る。
「なぁ……、どういうことだと思う……?」
叡正は目を伏せて、信に聞いた。
信は叡正を見る。
「さぁな。ただ、何か裏がありそうなことだけはわかった」
信はそれだけ言うと歩き出した。
「一体……どういうことなんだ……?」
ひとり残された叡正は、木島屋を振り返る。
家主を失った店はどこか仄暗く、高くなった日の光が店の前に色濃い影を落としていた。
歌舞伎の稽古を終えた雪之丞は、壁際に座り手ぬぐいで汗を拭いていた。
集まっていた役者たちは、続々と稽古場から出ていく。
(俺もそろそろ帰るか……)
雪之丞が立ち上がろうとしたとき、同じように汗を拭いていた男と目が合った。
(ああ、辰五郎か……。まだ帰ってなかったんだな……)
辰五郎は雪之丞に微笑むと、ゆっくり近づき隣に腰を下ろした。
「最近、調子良さそうだなぁ」
雪之丞は辰五郎を横目で見る。
「別に普通だろ」
雪之丞は興味なさそうに言った。
辰五郎は軽く笑う。
「おまえは相変わらずだなぁ。まぁ、自覚はないのかもしれないけどさ……。最近のおまえ、芸に艶があるよ。男形なのに胸焼けしそうなくらい色っぽい」
辰五郎の言葉に、雪之丞が顔をしかめる。
「なんだよ……喧嘩でも売りに来たのか?」
「そんなわけねぇだろ?」
辰五郎は楽しそうに笑った。
「褒めてんだよ。これも、おまえが夢中になってるっていう遊女のおかげかな?」
雪之丞は辰五郎を軽く睨む。
「おまえ……、それが言いたかっただけだろ」
「ふふ、半分正解。でも、半分は本当に褒めてるんだよ」
辰五郎はクスクス笑いながら、雪之丞を見た。
(絶対馬鹿にしてるだろ……)
雪之丞は舌打ちをした。
「いやいや、本当だから。実際、おまえのとこの旦那、一線を退いて、おまえのこと檀十郎に推すつもりみたいだぞ」
辰五郎が真面目な顔で言った。
雪之丞は目を見開く。
「おいおい、嘘だろ? あの人が引退なんて早すぎるし、俺だって襲名するにはまだ実力が足りねぇだろ」
辰五郎は雪之丞を見る。
「まぁ、檀十郎さんが引退するのは早いと思うけど、おまえは人気、実力ともにあるから、襲名自体はたぶん問題ねぇよ。最近檀十郎さんが贔屓筋に根回ししてるって噂だ」
「嘘だろ……?」
雪之丞は呆然とした顔で呟いた。
「いいじゃねぇか。おまえだって目指す場所はそこだっただろ?」
辰五郎が不思議そうに言った。
「いや、そうだけど……。早すぎるだろ……。旦那の名を継ぐのは俺の最終の目標なんだから……」
「その旦那が認めてるんだからいいじゃねぇか。ああ……うちの旦那も早く俺のこと推してくれねぇかな……」
「いや、おまえは単純に実力が足りねぇだろ」
雪之丞の淡々とした言葉に、辰五郎がムッとした表情を浮かべる。
「おまえ、本当に可愛くないねぇ……。はぁ……、おまえは幸せいっぱいで羨ましいよ……。まぁ、いいんじゃねぇの? 檀十郎を襲名して、ついでに遊女ももう身請けしちゃったら?」
「な!?」
雪之丞は目を見開く。
辰五郎は不思議そうな顔で雪之丞を見た。
「……何? 『な!?』って。遊女のこと? え? おまえ入れあげてるんだろ? いずれ身請けするつもりだったんじゃねぇの? 小見世の遊女なんだろ? 身請けしたってたいした額じゃねぇだろ?」
雪之丞は目を泳がせる。
「い、いや……、そういうのは本人の意思もあるだろうし……」
最後は消え入るような声で雪之丞が呟く。
「は? え、何……? もしかして惚れてるの、おまえだけなの? え! 何それ! ……わ、笑えるんだけど……!」
辰五郎は言い終える前に吹き出した。
「え! 嘘だろ!? 江戸一の色男とか言われてるやつが!? やばい……笑いが止まらねぇ……!」
辰五郎は腹を抱えて笑い出した。
雪之丞は持っていた手ぬぐいを辰五郎に投げつける。
「うるせぇよ……」
雪之丞は恥ずかしさで、顔が熱くなっていくを感じた。
「ふふ……、わ、悪い悪い。ふふ……、初めておまえのこと可愛いと思ったよ……」
男はこみ上げる笑いを抑えるように、片手で口元を覆った。
「まぁ、身請けのこと言ってみりゃいいじゃねぇか、その遊女に。反応でわかるだろ? 希望があるかどうか」
「そう……だろうけど……」
雪之丞は目を伏せた。
身請けの話をしたときの山吹の反応は、雪之丞には簡単に想像ができた。
こぼれ落ちそうなほど目を見開いた後、山吹はきっと困ったように笑うのだ。
そしてこう言う。
「雪之丞様にはもっとふさわしい人がいるはずです」と。
雪之丞は、その光景を想像するだけで胸が潰れそうだった。
「可愛い……」
辰五郎は雪之丞の顔をのぞき込むように見つめていた。
「は?」
雪之丞は眉をひそめる。
「おまえ、可愛かったんだな……。俺、惚れそうだよ……」
辰五郎はわざとらしく目を潤ませる。
雪之丞は片手で顔を覆った。
「頼むから、もう俺の前から消えてくれ……」
「まぁまぁ、これからは俺のことを兄貴と呼べ。いろいろ助言してやるから」
辰五郎はニヤニヤと笑う。
雪之丞は辰五郎をジトっとした目で見た後、深いため息をついた。
「アホらしい……。俺……帰るわ……」
雪之丞はよろよろと立ち上がると、戸に向かって足を進めた。
「また今度じっくり話そうな! 弟よ!」
辰五郎の楽しそうな声が雪之丞の耳に響く。
「うるせぇ……」
雪之丞は振り返らず、小声で呟いた。
戸に手をかけると、雪之丞は目を伏せた。
「身請け……か……」
そう呟くと、雪之丞の脳裏に困ったように微笑む山吹の顔がチラつく。
雪之丞はまた深いため息をつくと、戸を開けて稽古場を後にした。
「おまえが山吹か?」
座敷に入った山吹に男が聞いた。
「あ、はい……。山吹と申します」
山吹は慌てて名乗る。
「へ~、普通だなぁ」
男はそう言うと軽く笑った。
山吹は男の横に座ると、膳の上にある銚子を手にとる。
「おお、ありがとな」
男は酒杯を手にとった。
山吹が酒杯に酒を注ぐ。
「おまえが雪之丞の女で間違いないか?」
男は山吹をまじまじと見ながら聞いた。
「雪之丞様の女……というわけではありませんが、良くしていただいています……」
山吹は軽く微笑みながら答えた。
ここ最近、客から同じような質問を受けるため、山吹は深く考えることもなくいつものように返した。
「そうか。じゃあ、聞くが……」
男は山吹に顔を近づける。
「俺は雪之丞よりいい男か?」
男からは強い酒の臭いがした。
(雪之丞様より……?)
山吹は目を丸くする。
浅黒い肌に落ち窪んだ目元、薄い唇にボサボサの髪。
雪之丞とは真逆ともいえる容姿に、山吹は言葉を詰まらせた。
山吹はしばらく目を泳がせていたが、答えを待っている男を前に何も答えないわけにはいかず、引きつった笑みを浮かべ曖昧に首を傾げた。
男はそれを肯定と捉えたようで満足げに笑う。
「そうか! 俺はそんなにいい男か!」
男はそう言うと、酒杯の酒を一気に飲み干した。
(すごく酔っていらっしゃるみたい……)
「お水を持ってきましょうか……?」
山吹がそう言って立ち上がろうとすると、男が山吹の手首を掴んだ。
「いいから、おまえはここにいろ」
男はニヤニヤと笑いながら山吹を舐め回すように見た。
あからさまな視線に山吹は思わず顔を背ける。
「雪之丞をどうやって虜にしたのか、俺に教えてくれよ」
男はそう言うと、山吹を押し倒し覆いかぶさった。
山吹は目を見開いた。
雪之丞が入れあげる遊女ということで山吹を選ぶ客は多かったが、ここまで強引な客は初めてだった。
男の放つ酒の臭いが近づいてくるのを感じて、山吹はギュッと目を閉じた。
(酔っているのだから仕方ない……)
薄く開けた瞳に、男の手によって畳に押さえつけられている自分の手首が映った。
(仕方……ない……)
山吹は男を受け入れるように体の力を抜くと、固く目を閉じた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「あんた、その手どうしたの?」
大門への見送りを終えて見世に戻ってきた山吹を見て、浮月が声をかける。
山吹の両手首には赤い痕が残っていた。
「あ、これは……」
山吹は困ったように微笑むと、手首をそっと隠した。
浮月はため息をつく。
「あんたね……、あんまりひどい客はちゃんと断りな。全部受け入れてたら体がいくつあっても足らないんだから」
山吹は目を伏せる。
「少し酔っていらっしゃったみたいで……。でも、悪い方ではなさそうでしたから……」
浮月は腕を組んで首を傾げる。
「そうかい? チラッと見た感じ、良い男には見えなかったけど」
張見世で格子越しに見た男は、浮月の目には下品で傲慢な男に映った。
「あんたは今、歌舞伎役者とのこともあって客が増えてるんだから、変なやつはちゃんと断りな。今のあんたなら、それくらい許してもらえるはずだから」
浮月の言葉に、山吹はようやく目線を上げて少し微笑んだ。
「ありがとうございます……。姐さん」
「別にいいけど……」
浮月は山吹の手をとった。
「本当に気をつけなよ」
浮月は山吹の赤くなった手首を見つめる。
「ありがとうございます。でも、ちゃんとした方みたいですし、大丈夫です」
「ちゃんとした人?」
浮月は眉をひそめる。
「はい。大きい米問屋の方みたいですよ。木島屋さんっていう……」
「大きい店をやってるからって、まともってわけじゃないんだから……。ちゃんと人を見なよ?」
浮月は心配になり山吹を見る。
山吹は人を見る目がない。
浮月はそのことが心配だった。
「はい。本当にありがとうございます」
山吹は嬉しそうに微笑んだ。
(これ以上言っても仕方ないか……)
浮月は小さくため息をついた。
「まぁ、いいや……。まだ朝早いからもうひと眠りしよう」
浮月はそう言うと、山吹を二階に促した。
朝日が差してもいい時間だったが、見世の中はどこか薄暗かった。
(今日は雨かもな……)
浮月はぼんやりとそんなことを考えていた。
(ひどい雨だな……)
雪之丞は扇屋の軒下に入ると傘を閉じた。
着物の裾と傘からはみ出していた肩は雨でぐっしょりと濡れている。
(風も強いから、傘の意味はあまりなかったな……)
雪之丞は、男衆に声をかけて山吹を呼ぶと、見世の入口で濡れた着物を手ぬぐいで拭いた。
(それにしても今日は冷えるな……)
ここ数日で、江戸は急激に冷え込んでいた。
(早く酒でも飲んで温まろう……)
雪之丞がそんなことを考えていると、座敷の準備ができたと男衆が呼びに来た。
雪之丞が階段を上って座敷に入ると、今日はすぐに山吹がやってきた。
「雪之丞様」
山吹は嬉しそうに雪之丞のもとに駆け寄ると、隣に腰を下ろした。
「あ、雪之丞様……お召し物が……」
雪之丞の肩が濡れているのに気づいた山吹が、おずおずと肩に手を伸ばす。
「大丈夫だ。それほど濡れては……」
雪之丞の言葉は、そこで不自然に途切れた。
山吹の手首には赤い痕がくっきりとついていた。
「おまえ……、その痕……」
雪之丞の言葉に、山吹はハッとしたように手首を隠す。
「あ、これはなんでもないんです……」
山吹はごまかすように微笑んだ。
「なんでもないって……、おまえ……」
山吹の手首に残っていたのは、明らかに誰かに掴まれたときにできる手の痕だった。
以前雪之丞が掴んだときも同じような痕が残っていたのを思い出し、雪之丞は目を伏せた。
「あ、あの……、雪之丞様……?」
山吹の声がかすかに震える。
(……俺が怒っていると思ってるのか……?)
雪之丞は悲しさと苦しさの入り混じったよくわからない感情で胸が詰まった。
「……手は痛くないのか……?」
雪之丞は絞り出すように、なんとかそれだけ口にした。
「あ、はい……。まったく痛みはありません」
山吹は少しだけホッとしたような声で言った。
「そうか……」
雪之丞はそう言うと、そっと山吹の手をとった。
「雪之丞様……?」
山吹は不安げな表情で雪之丞を見つめる。
(この痕をつけた男と、俺は大差ない……)
雪之丞はひとり苦笑すると、壊れ物に触れるようにそっと山吹を抱きしめた。
山吹が小さく息を飲むのがわかった。
「山吹……」
雪之丞は山吹の耳元で囁く。
「今日は何もしないから……ただこうしてそばにいてくれないか?」
雪之丞は山吹の肩に顔をうずめた。
「雪之丞様……」
山吹の息が雪之丞の首筋にかかる。
情けなさで雪之丞は顔を上げることができなかった。
山吹の二本の腕がゆっくりと雪之丞の背中に回る。
「はい……! そばに……ずっとそばにいます」
山吹は力強く雪之丞を抱きしめた。
雪之丞は目を見開く。
胸にじんわりと温かいものが広がった。
「おまえ……、あったかいな……」
雪之丞は思わず小さく呟いた。
「ふふ……、刺繍以外にも取り柄があって良かったです。雪之丞様がよく眠れるように、しっかり温めますから」
山吹はそう言うと、両腕に一層力を込める。
雪之丞はそっと目を閉じた。
「ああ、あったかいよ。……ありがとな」
雪之丞は小さく呟いた。
うるさいほどに響いていた雨音はいつしか聞こえなくなっていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
雪之丞が目を覚ますと、隣で寝ていたはずの山吹がいなくなっていた。
雪之丞は慌てて体を起す。
「あ、起こしてしまいましたか?」
後ろから聞こえた山吹の声に、雪之丞は振り返った。
山吹は長襦袢姿で、窓辺に腰かけていた。
まだ朝というわけではなさそうだったが、外はなぜか少し明るい。
雨音はしておらず、辺りはしんと静まり返っていた。
「見てください。雪です」
山吹は嬉しそうに微笑んだ。
雪之丞は掛け布団を持って立ち上がると、ゆっくりと山吹に近づく。
窓の外には雪が舞っていた。
いつから雪になっていたのか、地面には薄っすらと雪が積もっている。
雪之丞は掛け布団で山吹を包んだ。
「あ……」
山吹は掛け布団に包まると微笑んだ。
「ありがとうございます……」
「どうりで冷えるわけだな……」
雪之丞はそう呟くと、掛け布団ごしに山吹を後ろから抱きしめた。
「雪之丞様と……初雪が見られて嬉しいです……」
山吹が窓の外を見たまま呟いた。
雪之丞は山吹の顔をのぞき込む。
「雪なんて、これからいくらでも見られるだろう?」
雪之丞は軽く笑った。
「初雪は今日だけです」
山吹は雪之丞を振り返って嬉しそうに言った。
雪之丞は雪を見ながら微笑む。
「そんなことねぇよ。来年だって、再来年だって初雪の日はあるだろう。これから何度だって一緒に見られるさ」
山吹は目を見開いた。
その瞳にゆっくりと涙が溜まっていく。
「お、おい、どうした……!?」
雪之丞が慌てて言った。
山吹は目を細める。
その瞳からひと筋の涙がこぼれて布団を濡らした。
「いえ……、少し……幸せすぎて……」
山吹は窓の外に視線を移した。
「このまま時が止まればいいのに……」
山吹はそっと呟いた。
雪之丞も窓の外に目を向ける。
雪は二人の前で静かに舞い、緩やかに落ちていく。
「そうだな……」
(このままずっと一緒に……)
雪之丞は祈るように、そっと目を閉じた。
「男が生きている可能性が高くなった……ということか……」
ひと通り叡正の話を聞き終えた咲耶は、小さくため息をついた。
木島屋へ行った翌日、叡正と信は木島屋でのことを伝えるために咲耶の部屋を訪れていた。
「どう思う?」
咲耶は信を見て聞いた。
信は部屋の片隅で目を伏せて何か考えているようだった。
「……秋という女の話が確かなら、その姉はたぶん死んでいると思う」
「え!?」
叡正は目を見開いた。
「……あの血は奥さんのってことか……?」
「ああ」
信は目を伏せたまま短く答えた。
咲耶はゆっくりと息を吐く。
「私もそう思う。普通に考えたら、それ以外ないだろうな……」
「そうなのか……?」
「ああ、生きていて自分の意思で姿を消したなら、隠しておいた金を置いていく理由がない……」
咲耶は目を閉じて眉を寄せた。
「はぁ、どんどん胸くそ悪い話になっていくな……」
咲耶はそれだけ言うと、信に視線を向ける。
「それで? 信は何を考えているんだ?」
咲耶の言葉に、信がようやく咲耶を見た。
「……ひとりでできることじゃない」
信は呟くように言った。
信の言葉を予想していたのか、咲耶は小さく頷く。
「そうだな……」
叡正は目を丸くする。
「え!? どういうことだ?」
咲耶は叡正を見た。
「畳が新しいものになっていたんだろう? 遺体はもちろん、ほかの痕跡も消えていたから行方不明ということになったんだ。おまけに遊女の方も本当の心中じゃないとしたら、心中に見せかけるために縄や遊女の遺書の準備も必要だ。そんなことひとりで全部やっていたら、そのあいだに捕まっているさ」
「た、確かに……。でも、誰が……?」
咲耶は少しだけ信を見た後、目を伏せた。
「……さぁな」
叡正は咲耶を見つめる。
「まだ調べるのか……?」
叡正の言葉に、咲耶は何か考えるように視線を動かした。
「私たちが調べられることはもうないな……。あとは生きている可能性が高い男を見つけるか、雪という女の遺体を見つけるかだ……」
叡正は目を丸くする。
「見つけられるのか? 何も手がかりはないんだろう……?」
「男は俺が探す」
信が唐突に口を開いた。
「心中騒ぎを起こした後にすぐ動けば目立つ。まだ江戸にいるはずだ」
「おいおい……。江戸にいるっていっても、どこにいるかなんてわからないんだろう?」
叡正は慌てて言った。
江戸中を探し回るのは、かなり時間がかかるうえ、そのあいだに江戸を離れてしまう可能性もある。
「居場所はわからないが、人目につかず隠れられる場所は限られている。そこを探すだけだ」
信は淡々と答えた。
「そう……なのか……?」
なぜそんな場所を知っているのか気にはなったが、叡正は何も聞かないことにした。
「気をつけろよ。そういう場所は……」
咲耶はそれだけ言うと目を伏せた。
「ああ、気をつける」
信は短く言った。
「ところで、顔はわかるのか?」
叡正は気になっていたことを口にする。
叡正はいまだに男の顔も雪という女の顔も知らなかった。
「ああ、それなら男の人相書が出ている」
咲耶が、信の代わりに口を開く。
「人相書?」
「ああ。心中は未遂であっても死罪だからな。今回は男の遺体があがっていないから、男の人相書が出ているんだ。顔まではわからないが、顔や体の特徴が書き出されているから、男を探すのには役立つはずだ」
咲耶の言葉に、信も小さく頷いた。
「見つかるかな……?」
叡正が小さく呟く。
「見つける」
信はそれだけ言うと立ち上がった。
「本当に気をつけろよ」
咲耶が信の背中に言った。
「ああ」
信は短く応えると、部屋を後にした。
「見つかるといいな……」
叡正は咲耶を見た。
「ああ……」
咲耶はなぜか不安げな表情を浮かべていた。
(そんな顔するの、めずらしいな……)
叡正には、咲耶のその表情の理由がよくわからなかった。
「それでさぁ、聞いてくれよ。山吹~」
男は、横にいる山吹に寄りかかって言った。
「はい、聞いております」
山吹は困ったように微笑みながら、もう何度目かわからない返事をした。
「俺が稼いだ金なのに、あいつはすぐ隠すんだ。自分が稼いだ金を好きに使って何が悪いんだ? そう思うだろう? 山吹~」
男は見世に来たときから酒に酔っており、ずっとこの調子だった。
「そうですね……」
山吹は調子を合わせて返事をする。
「そうだろ? 俺はここまで店を大きくした与太郎様だぞ!」
(ああ……、木島屋さんは確かに大きいお店ですもんね……)
「そ、そうです……よね……」
「山吹~、おまえだけだ。わかってくれるのは……」
山吹は何と答えていいかわからず言葉に詰まる。
(私は与太郎様のことを、まったくわかっていないと思いますが……)
「よ、与太郎様は魅力的ですから、奥様もきちんとわかっていらっしゃいますよ」
「いいや! あいつは適当に頷いているだけで、俺の言うことなんて何も聞いてないんだ! 腹の中では何を考えているのやら……」
与太郎は赤い顔でツバを飛ばしながら言った。
山吹は目を丸くする。
(私も奥様と同じだと思いますが……。こんな私と話していて楽しいのでしょうか……)
与太郎はここ一ヶ月定期的に山吹のところに来ていた。
来るときはたいてい酔っており、すぐに山吹を抱くこともあれば、一方的に話しだけして酔いつぶれてしまうときもあった。
「だから、俺は……俺は……」
与太郎は山吹の肩に寄りかかったままウトウトしていた。
山吹は与太郎を見つめる。
(この方にもいろいろあるのでしょうね……)
浮月からは与太郎の相手をするべきではないと言われたが、山吹は声がかかるたび断れずにいた。
(そこまで悪い方ではない気がするし……)
山吹がそんなことを考えていると、与太郎がイビキをかき始める。
山吹は微笑むと、与太郎の頭を支えながらゆっくりと与太郎をその場に寝かせた。
音を立てないように移動し、掛け布団を持ってくるとそっと与太郎にかける。
(さて、与太郎様は寝てしまわれたから、私は続きを……)
山吹は静かに移動すると、奥の戸から羽織と刺繍の糸を取り出した。
もともと山吹は部屋持ちではなかったが、雪之丞を通すために座敷が必要になったことと客が増えたことで今ではここが山吹の部屋になっていた。
(与太郎様は朝まで起きないでしょうし、続きをさせてもらおうかな……)
山吹は羽織を見つめて微笑んだ。
二ヶ月をかけて仕立てた羽織は、山吹が見てもいい出来だった。
「でも、ここからが本番だから……」
山吹は小さく呟く。
本来であればじっくりと絵柄を考えてから絵を描いていくが、あまり時間をかけることができないため、山吹はざっくりと描いた絵をもとに刺繍を始めていた。
(次の秋までには仕上げないと……。ああ、でもなんとか夏までには……)
山吹は、はやる気持ちを抑えながら、ひと針ずつ丁寧に縫っていく。
紫の糸が描き出していく桔梗の花を見ながら、山吹はそっと目を細めた。
「そういえば、最近刺繍はしてるのか?」
山吹に酒杯を差し出しながら、雪之丞が何気なく聞いた。
雪之丞の言葉に、山吹はビクリと体を震わせると申し訳なさそうな顔で雪之丞を見た。
「そ、その……まだ……完成していなくて……」
(ん? 何の話だ……?)
雪之丞は山吹の反応に首をひねった。
(……あ、俺が何か贈ってほしいと言ったからか……)
雪之丞は山吹が何を言っているのかを理解すると、苦笑した。
「違う。俺への贈り物はまだかって聞いたんじゃねぇよ。楽しんで刺繍できてるかって聞いただけだ」
「あ、そうなんですね……」
山吹はホッとしたように笑った。
「はい、雪之丞様のおかげでたくさん刺繍ができて、毎日幸せです」
山吹はそう言うと、銚子を手にとり酒を注いだ。
「そうか。それならいい」
雪之丞は酒杯に口をつける。
「雪之丞様の羽織も次の秋までにには……」
山吹はそこまで言ってハッとしたように口を噤んだ。
「羽織? 羽織って何のことだ??」
雪之丞は山吹を見る。
「えっと……それは……」
山吹は目を泳がせた。
「もしかして、羽織に刺繍しようとしてるのか? ん? ……もしかして羽織を仕立てるところからやってるのか?」
雪之丞は目を丸くする。
山吹の様子から、雪之丞は自分の予想が外れていないと悟った。
「そんなすごい贈り物望んでねぇよ! 布に少し刺繍を入れて渡してくれるだけでよかったのに……」
「そ、それは、その……。私が作ってみたくて……」
山吹がおどおどしながら言った。
「羽織を、か?」
雪之丞は呆れた顔で山吹を見た。
「ほ、本当です! 以前から仕立ててみたいと思っていたんです!」
山吹は珍しく大きな声で言った。
(糸と布をもらったから気を遣ってるのか……)
雪之丞は小さくため息をついた。
「それならいいけど……無理はしてないか? 見世が始まる前とかにやってるんだろう?」
「無理などまったく! 刺繍はもともと好きですから! 羽織も仕立ててみたいと思っていたので!」
山吹が勢いよく答える。
(まぁ、これ以上何か言うのもな……)
雪之丞は軽く頭を掻いた後、山吹を見つめた。
「そうか……。それならいい。……じゃあ、楽しみに待ってる」
「は、はい!!」
山吹は目を輝かせると、嬉しそうに笑った。
「くれぐれも無理はするなよ」
雪之丞も目を伏せて微笑んだ。
「はい!!」
「あ、ところでさ」
「はい!」
「寸法は?」
雪之丞は再び山吹を見た。
「採寸してないだろ?」
「あ……それは……」
山吹の顔はみるみる真っ赤になっていく。
「?」
「それは……その……しました……」
「え、いつだ? 俺が寝ているあいだにしたのか?」
雪之丞は目を丸くする。
採寸は長さの目安となる紐を体に巻き付けて行うことが多いが、寝ているあいだにそんなことをされれば、さすがに気づくだろうと雪之丞は思った。
「それは……その……」
山吹は再び目を泳がせる。
「お、起きていらっしゃるときに……」
「は? 採寸された記憶なんてねぇよ。……おまえ、何で測ったんだ?」
雪之丞の言葉に、山吹はうつむく。
山吹は首筋まで真っ赤だった。
「その……、私の……腕で……」
山吹はうつむいたまま絞り出すように言った。
雪之丞はしばらく意味がわからずポカンとしていたが、やがて意味を理解すると目を見開いた。
「ああ! だからあんなに抱きついてきてたのか!」
「そ、そんなに抱きついておりません!」
山吹は真っ赤な顔を上げると、首を勢いよく横に振った。
雪之丞は思わず吹き出した。
「ああ、なるほどな! っていうか、普通に言えよ! 採寸くらい嫌がらねぇよ」
雪之丞は笑いながら言った。
「それは……その……、羽織だとわからないように……。秘密にしておいた方が……見たときに喜んでいただけるかと思って……」
山吹はうつむいて、小さく呟く。
雪之丞は苦笑した。
(山吹が何かを秘密にするのは無理だろう……)
「羽織だってわかってても嬉しいよ。ありがとな」
雪之丞はそう言うと、山吹の頭を優しくなでた。
「それで採寸は終わったのか?」
雪之丞は両腕を広げた。
「ほら、もうわかったから、好きなだけ測っていいぞ」
雪之丞は意地悪く微笑んだ。
山吹は赤い顔のまま、目を丸くして激しく首を横に振る。
「も、もう羽織は仕上がってますから!」
「寸法、変わってるかもしれないぞ?」
「そんなにすぐ変わりませんよ……! そもそも羽織は少し大きめに仕立てていますし……」
山吹は恥ずかしさからか少し涙目になっていた。
それでも雪之丞は微笑みながら両腕を広げ、山吹を待っていた。
山吹は目を泳がせる。
「ほら」
雪之丞の言葉に、山吹はしばらくためらっていたが、やがて諦めたようにおずおずと雪之丞の背中に腕を回した。
「寸法、変わってるか?」
雪之丞は楽しそうに聞いた。
「ですから……すぐには変わりませんと……言ったではないですか……」
山吹は雪之丞の胸に顔をうずめながら小さく答えた。
「ふふ……、そうか」
雪之丞はこみ上げる笑いを堪えながら、そっと山吹を抱きしめた。
「山吹、ありがとう」
雪之丞はささやくように言った。
いつか羽織を受け取ったとき、きっと今日のことを思い出して自分は笑うのだろう。
雪之丞はそのとき、そう思っていた。