三味線の音色が響く座敷で、咲耶は頼一に酌をしていた。
「……何か悩みごとか?」
頼一は酒を注ぐ咲耶の顔を見ながら静かに聞いた。
咲耶は思わず銚子を傾けていた手を止める。
「悩みごと……というほどでは……」
咲耶は静かに微笑むと、銚子を膳に戻した。
(そんなに顔に出ていただろうか……)
咲耶は苦笑した。
頼一は少しだけ咲耶を見て微笑むと、三味線を演奏する芸妓を見ながら口を開く。
「火消しが結婚を申し込みに来た件か? それとも売れっ子の役者がひどく酔った状態で訪ねてきた件の方だろうか?」
咲耶はわずかに目を見開いた後、苦笑した。
「よくご存じですね」
頼一は再び咲耶に視線を戻すと微笑んだ。
「火消しも役者も有名人だからな。噂になっているようだ。まぁ、どれほど広がっているのかわからないが、何を思ってなのか奉行所の者が咲耶に関する噂は逐一報告してくるからな。自然と耳に入ってくるんだ……」
頼一は苦笑すると、酒杯の酒に口をつけた。
「そうでしたか……」
咲耶は静かに微笑んだ。
(頼一様は慕われているからな……)
「それで、悩みごとはそのどちらかなのか?」
頼一は咲耶を見つめた。
「いえ……、二人が来たことと直接は関係ないのですが……」
咲耶は苦笑すると、頼一を見つめ返す。
「その歌舞伎役者の件で、遊女との噂を聞いておりましたので、この仕事の残酷さを感じてしまいまして……」
頼一は酒杯を見つめた。
「ああ……、あの心中の件か……」
「どうしようもないことではあるのでしょうが、残された者のああいう姿を見てしまうと……」
咲耶は静かに目を伏せた。
「そうだな……。だが、あれは……」
頼一はそう言うと、何かを考えるように腕を組んだ。
咲耶は頼一の顔を見つめる。
頼一はしばらく思案した後、静かに目を閉じた。
「あの件は、私の管轄ではないからこれはただの噂話として聞いてくれ……」
頼一はゆっくりと目を開けると息を吐いた。
「商家の男と遊女が心中したと聞いていると思うが……実際には少しだけ違う」
咲耶は頼一の顔を見つめた。
「見つかったのはお歯黒どぶに浮いていた遊女の遺体だけだ。男は見つかっていない……」
「どういうことですか? ……心中ではないのですか?」
咲耶は眉をひそめる。
「心中ということになったのは、遊女が書いた遺書があったからだ。「もう二度と離れないように」という遺書の内容通り、遊女の手首には紐が結んであったがその紐は切れていた。本当に心中したが、紐が切れて男の遺体だけ流されたか……、男だけ生き残って逃げたか……。もしくは……最初から心中ではなかったか……だ」
咲耶は目を見開いた。
「心中したとされる男はもちろん家に戻っていない。ただ、それだけでなく男の妻も行方がわからない……。いろいろと不可解な件なんだ。それに……」
頼一はそこで少し言いにくそうに視線を動かした。
「遊女の首には手で絞められた跡があった……。心中でも女の気を失わせてから男が抱いて飛び込むというのがあるから一概にはなんとも言えないが……」
頼一はそこで言葉を止めた。
(心中ということにして、殺された可能性があるということか……)
咲耶は自分の顔が強張っていくのを感じた。
(そんなことがあっていいのか……)
咲耶の握り締めたこぶしの上に、頼一の手が重なる。
「すまない……。こんな話しをして……」
頼一は心配そうな眼差しで、咲耶を見ていた。
「いえ……。教えてくださり、ありがとうございます」
咲耶は微笑んだ。
咲耶の脳裏に、このあいだ玉屋に来たときの雪之丞の顔が浮かぶ。
(知らないのだろうか? ……おそらく知らないのだろう)
咲耶はため息をついた。
「思っていたよりもずっと残酷なお話だったのですね……」
「そうだな……。事実はどうなのかわからないが……」
頼一はそれだけ言うと、静かに目を伏せた。
頼一はしばらく何も言わなかったが、手を重ねたまま静かに口を開く。
「咲耶は……心中だけはやめてくれ」
咲耶は頼一の顔を見る。
頼一は目を伏せたまま悲しげに微笑んでいた。
「咲耶の心は咲耶自身のものだ。誰を愛してもおまえが気に病むことはない。私も含めてほかの客を傷つけることになろうが気にするな。ただ……」
頼一は咲耶を真っすぐに見つめた。
「生きて幸せになってくれ。それだけは約束してほしい」
咲耶は目を見開いた。
「……私は……幸せ者ですね」
咲耶は静かに微笑んだ。
「まぁ、皆、陰では泣くかもしれないがな……。それぐらいは許してくれ」
頼一は苦笑する。
咲耶は、頼一の手にもう片方の手をそっと重ねて微笑んだ。
「心中はもちろん、まだまだそんな予定はありませんが、覚えておきます」
頼一に向かって微笑みながら、咲耶は死んだ遊女のことを考え始めていた。
(死んだ遊女はどんな気持ちだっただろうか……。本当に遊女の意思があっての心中ならまだいいが、そうでなければ……)
咲耶は目を伏せた。
三味線の音色がどこか物悲しく座敷に響いていた。
「……何か悩みごとか?」
頼一は酒を注ぐ咲耶の顔を見ながら静かに聞いた。
咲耶は思わず銚子を傾けていた手を止める。
「悩みごと……というほどでは……」
咲耶は静かに微笑むと、銚子を膳に戻した。
(そんなに顔に出ていただろうか……)
咲耶は苦笑した。
頼一は少しだけ咲耶を見て微笑むと、三味線を演奏する芸妓を見ながら口を開く。
「火消しが結婚を申し込みに来た件か? それとも売れっ子の役者がひどく酔った状態で訪ねてきた件の方だろうか?」
咲耶はわずかに目を見開いた後、苦笑した。
「よくご存じですね」
頼一は再び咲耶に視線を戻すと微笑んだ。
「火消しも役者も有名人だからな。噂になっているようだ。まぁ、どれほど広がっているのかわからないが、何を思ってなのか奉行所の者が咲耶に関する噂は逐一報告してくるからな。自然と耳に入ってくるんだ……」
頼一は苦笑すると、酒杯の酒に口をつけた。
「そうでしたか……」
咲耶は静かに微笑んだ。
(頼一様は慕われているからな……)
「それで、悩みごとはそのどちらかなのか?」
頼一は咲耶を見つめた。
「いえ……、二人が来たことと直接は関係ないのですが……」
咲耶は苦笑すると、頼一を見つめ返す。
「その歌舞伎役者の件で、遊女との噂を聞いておりましたので、この仕事の残酷さを感じてしまいまして……」
頼一は酒杯を見つめた。
「ああ……、あの心中の件か……」
「どうしようもないことではあるのでしょうが、残された者のああいう姿を見てしまうと……」
咲耶は静かに目を伏せた。
「そうだな……。だが、あれは……」
頼一はそう言うと、何かを考えるように腕を組んだ。
咲耶は頼一の顔を見つめる。
頼一はしばらく思案した後、静かに目を閉じた。
「あの件は、私の管轄ではないからこれはただの噂話として聞いてくれ……」
頼一はゆっくりと目を開けると息を吐いた。
「商家の男と遊女が心中したと聞いていると思うが……実際には少しだけ違う」
咲耶は頼一の顔を見つめた。
「見つかったのはお歯黒どぶに浮いていた遊女の遺体だけだ。男は見つかっていない……」
「どういうことですか? ……心中ではないのですか?」
咲耶は眉をひそめる。
「心中ということになったのは、遊女が書いた遺書があったからだ。「もう二度と離れないように」という遺書の内容通り、遊女の手首には紐が結んであったがその紐は切れていた。本当に心中したが、紐が切れて男の遺体だけ流されたか……、男だけ生き残って逃げたか……。もしくは……最初から心中ではなかったか……だ」
咲耶は目を見開いた。
「心中したとされる男はもちろん家に戻っていない。ただ、それだけでなく男の妻も行方がわからない……。いろいろと不可解な件なんだ。それに……」
頼一はそこで少し言いにくそうに視線を動かした。
「遊女の首には手で絞められた跡があった……。心中でも女の気を失わせてから男が抱いて飛び込むというのがあるから一概にはなんとも言えないが……」
頼一はそこで言葉を止めた。
(心中ということにして、殺された可能性があるということか……)
咲耶は自分の顔が強張っていくのを感じた。
(そんなことがあっていいのか……)
咲耶の握り締めたこぶしの上に、頼一の手が重なる。
「すまない……。こんな話しをして……」
頼一は心配そうな眼差しで、咲耶を見ていた。
「いえ……。教えてくださり、ありがとうございます」
咲耶は微笑んだ。
咲耶の脳裏に、このあいだ玉屋に来たときの雪之丞の顔が浮かぶ。
(知らないのだろうか? ……おそらく知らないのだろう)
咲耶はため息をついた。
「思っていたよりもずっと残酷なお話だったのですね……」
「そうだな……。事実はどうなのかわからないが……」
頼一はそれだけ言うと、静かに目を伏せた。
頼一はしばらく何も言わなかったが、手を重ねたまま静かに口を開く。
「咲耶は……心中だけはやめてくれ」
咲耶は頼一の顔を見る。
頼一は目を伏せたまま悲しげに微笑んでいた。
「咲耶の心は咲耶自身のものだ。誰を愛してもおまえが気に病むことはない。私も含めてほかの客を傷つけることになろうが気にするな。ただ……」
頼一は咲耶を真っすぐに見つめた。
「生きて幸せになってくれ。それだけは約束してほしい」
咲耶は目を見開いた。
「……私は……幸せ者ですね」
咲耶は静かに微笑んだ。
「まぁ、皆、陰では泣くかもしれないがな……。それぐらいは許してくれ」
頼一は苦笑する。
咲耶は、頼一の手にもう片方の手をそっと重ねて微笑んだ。
「心中はもちろん、まだまだそんな予定はありませんが、覚えておきます」
頼一に向かって微笑みながら、咲耶は死んだ遊女のことを考え始めていた。
(死んだ遊女はどんな気持ちだっただろうか……。本当に遊女の意思があっての心中ならまだいいが、そうでなければ……)
咲耶は目を伏せた。
三味線の音色がどこか物悲しく座敷に響いていた。