玉屋を出た咲耶は、吉原の外れにある裏茶屋にいた。
(少し遅くなったか……)
 案内された座敷の襖を開けると、そこにはすでに信が座っていた。
「すまない、遅くなって」
 咲耶がそう言うと、信はゆっくりと咲耶に視線を向けた。

「それで何かわかったのか?」
 咲耶は信と向かい合うように、座布団の上に腰を下ろした。
「いや、何もわからなかった」
 信は淡々と言った。
「そうか……」
 信はまだ両国橋の火事について気になることがあるようで、大文字屋の周りを探り続けていた。

「何がそんなに気になっているんだ?」
(仕組んでいた男が死んで、すべて終わったんじゃないのか?)
 咲耶は信を見つめた。
 信は何か考えていたようだったが、しばらくして口を開いた。
「派手にやり過ぎている気がする……」
「派手?」
「大文字屋だけが目的なら、あそこまでする必要がない。何か別の目的があったのかもしれない」
「別の目的……か」
 咲耶はそう呟くとため息をついた。
「下手をすれば大勢の人間が死んでいたかもしれない火事に、何か別の目的があったと考えると正直ゾッとするな……。目的のためならどこの誰が死んでも構わないってことか……」
 咲耶は目を伏せた。
「ああ……」
 信はそれだけ言うと口をつぐんだ。

 咲耶は何も言えず、ただ信を見る。


 窓から差し込む光で、信の髪が淡く輝いていた。
(髪、伸びたな……)
 信は目を伏せていたが、前髪は明らかに目にかかっていた。
(見えにくくないのか……?)
 咲耶はそっと信に手を伸ばした。
 咲耶の手が信の髪に触れそうになった瞬間、信がビクリを体を震わせた。
「え……?」
 咲耶は思わず手を止める。
「す、すまない……。嫌だったか……?」
 咲耶は信のこれまでにない反応に戸惑いながら聞いた。
 信の表情は何ひとつ変わっていなかったため、咲耶には信の感情がわからなかった。

「いや、なんでもない。どうした?」
 信が淡々とした口調で聞いた。
「あ、いや……髪が伸びたから、見えづらくないかと思って……」
「ああ、そうだな。今日切ることにする」
 信はそう言いながら、自分の前髪を触る。
「じ、自分で切るのか……?」
「ああ」
 咲耶は以前、信が髪を切ったときのことを思い出した。
 信じられない短さで一直線に切りそろえられた前髪を見ながら、吹き出さないように会話するのに苦労した日のことが鮮やかによみがえる。
「よ、よければ私が切ろうか?」
 咲耶は不自然にならないように微笑みを浮かべた。
「ここにも化粧箱くらいはあるはずだから借りてくる。ちょっと待っていてくれ……」

 咲耶はすぐに裏茶屋の主人に化粧箱を借りると、座敷に戻った。
 
 化粧箱から鋏と櫛を取り出すと、咲耶は少し不安な気持ちになり信を見る。
「髪に触れても大丈夫か?」
「ああ」
 信が短く応えた。
 咲耶は櫛を手に取ると、信の後ろに移動する。
(後ろは切らないにしても梳かしておいた方がいいか……)
 咲耶は、髪紐で束ねられていた信の髪をほどいた。
 さらさらと広がった薄茶色の髪に、咲耶は櫛を通す。
(後ろの髪も長くなったな……)
 首筋にかかる髪を手に取りながら、咲耶は初めて信に会った日のことを思い出した。
(そういえば、髪に触れたのはあの日以来か……)
 咲耶は後ろの髪を梳かし終えると、信の目の前に移動して腰を下ろした。
 ゆっくりと前髪にも櫛を通していく。
 前髪で隠れていたが、信は目を閉じているようだった。
 梳かし終えると、櫛を置いて鋏に持ち替える。
 前髪をひと房手に取ると、目にかからないように鋏を入れた。
 薄茶色の髪が光を受けて、はらはらと輝きながら落ちていく。
「綺麗だな……」
 咲耶は思わず呟いた。

 次のひと房を手に取ったとき、咲耶はふと視線を感じて手を止めた。
 信の薄茶色の瞳が真っすぐに咲耶に向けられていた。
 咲耶は小さく息を飲む。
 色素の薄い瞳は透き通った硝子のような美しさだった。

「……どうかしたのか?」
 少しして我に返った咲耶は信に聞いた。
「いや、なんでもない」
 信はそう言うと、また静かに目を閉じた。
 咲耶は再び、信の前髪に鋏を入れる。
(こんなに間近で見たことはなかったな……)
 咲耶は目を閉じたままの信を見た。
(触られるのが嫌なのか……?)
 咲耶はなるべく急いで前髪を切った。

「よし、できた」
 咲耶がそう言うと、信がそっと目を開ける。
 前髪は短くはないが、目にかからない長さになっていた。
 信は礼を言うと咲耶から髪紐を受け取り、髪を束ねた。

「すまなかったな」
 信はそう言うとゆっくりと立ち上がる。
「いや……少し切っただけだから。それより、また何かわかったら教えてくれ」
 咲耶の言葉に信は静かに頷くと、座敷を後にした。

 ひとりになった座敷で、咲耶はポツリと呟く。
「あんなに嫌がられたのは初めてだな……」
 咲耶は少し傷ついている自分に苦笑した後、長いため息をついた。