【少し前】
「間に合わなかったか……!」
新助は爆発音と悲鳴を聞き、足を速めた。
両国橋はもうすぐそこだった。
新助が路地を抜けて川沿いの通りに出ると、そこには地獄絵図のような光景が広がっていた。
川に浮かぶ舟は燃え、対岸ではほとんどの屋台が炎に包まれている。
通りに沿って植えられた松も燃えており、松の向こうに広がっている長屋に燃え広がるのも時間の問題に見えた。
そんな中、皆が対岸に逃げようと橋の上で押し合い、怒号や悲鳴が響いていた。
(なんだ……これは……)
新助は茫然と立ち尽くした。
対岸の火事以上に、新助には人を押しのけて逃げようとする観衆の方がよほど恐ろしく感じられた。
(とりあえず、火を消そう……)
新助は気持ちを切り替えて消火のために動き出した。
土手を下り川に近づく。
すると、ふいに川の真ん中で大きな水しぶきが上がった。
新助が驚いて顔を上げると、橋の上から人が落ちてきていた。
新助は目を見開く。
橋の上から落ちた男は、少しして落ちたことに気づいたのか手足をバタバタと動かしていた。
新助は慌てて、半纏を脱いで川に入ると男のところまで泳いでいく。
もがいでいる男のもとに着くと男の腕を掴み、顔が水面に出るように支えた。
「おい! 大丈夫か!?」
「た、助けて……! ……助けて!!」
男は混乱しているのか手足をバタバタさせてもがき続けていた。
(このままじゃ沈むな……)
新助はもがく男をなんとか支えていたが、諦めたようにそっと口を開いた。
「悪ぃ……」
新助はそう呟くと、男の首の後ろを手刀で軽く叩いた。
男が一瞬にして気を失う。
新助は気を失った男を支えながら、川岸まで泳いだ。
男を岸に引き上げると、新助は橋を見上げる。
(やっぱり、これは違ぇんじゃねぇのか……)
新助は半纏を羽織ると、こぶしを握りしめた。
(悪ぃな……、恭一。俺はおまえみたいにカッコよくはできねぇよ……)
新助はきつく目を閉じると、心を決めて川沿いを歩き始めた。
花火師が花火を上げているのは、両国橋からそれほど離れていない川沿いだった。
新助が花火師のもとに着くと、花火師たちは座り込んだまま茫然としていた。
(自分たちが上げた花火でこんな火事になれば、無理もねぇよな……)
新助は茫然としている花火師のひとりに近づく。
「おい、花火を上げてくれ」
新助が花火師の前にしゃがみ込んで言った。
「……え?」
花火師は困惑した表情を浮かべる。
「……見ましたよね……? 爆発したんです……。もう花火は……」
「あれはおまえらのせいじゃねぇよ。……のろし花火はあるか?」
花火師は目に涙を浮かべていた。
「……のろし花火は……ありますけど、あれも……爆発するかも……」
花火師はそう言うと目を伏せた。
「のろし花火は大丈夫だ。……頼む! このままじゃ火事とは関係ないところでも死人が出ちまう! のろし花火を上げてくれ!」
のろし花火は、大輪の花を描く花火と違い、武家がお金を出している花火だった。
商家の大文字屋が何かしている可能性はないと、新助は思った。
「わ、わかりました……。でも、危ないので下がってくださいね……」
花火師は少し離れたところにのろし花火を準備すると、ためらいながら火をつけた。
爆音とともに光が空に向かって上がっていく。
新助は美しい光を見上げた。
光が上がった瞬間から、辺りは時が止まったような静けさに包まれた。
(……よし! これなら……!)
新助は大きく息を吸い込んだ。
(頼む!届いてくれ!!)
「……逃げるな!!!」
耳に響く新助の声に、花火師たちが驚いて一斉に新助を見た。
「生きてぇんなら逃げるんじゃねぇ!!!」
新助はありったけの声で叫んだ。
「今ここで逃げても、このまま燃え続ければ、この火はいずれおまえたちの長屋を焼くことになる!! どこに逃げる気だ!! いつまで逃げる気なんだ!?? 火消しが死んで火が消えるなら、いくらでもこんな命くれてやる!!!」
新助は自分の胸を力一杯叩いた。
「けど……そんなことしたって、誰も助からねぇんだよ!! 火消しが何人死んでも、それで救える命なんて限られてる!!」
新助の脳裏に、源次郎と恭一郎の姿が浮かぶ。
「ここは川だ!! これだけの人間が本気で動けば火は消せる!!! 逃げるな!!! 生きたかったら……守りたかったら立ち向かえ!!!」
新助の言葉は、静寂の中で観衆の耳に確かに届いていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
橋の上では、観衆が戸惑った表情で立ち尽くしていた。
「消せる……のか……?」
「いや、でも危ないでしょ……」
「逃げられるなら、逃げた方が……」
「でも、大火事になるかもって……うちはすぐそこだから……」
「俺たちで消すなんて……」
観衆は顔を見合わせると、不安げな顔で口を開いた。
ふと、観衆のひとりが川辺を見て呟く。
「ねぇ、あれ……何……?」
数人が観衆の指さす方向を見た。
いつの間に集められたのか、そこには何人もの怪我人が横たわっていた。
その怪我人たちのすぐそばで、崩れ落ちた屋台が燃えている。
観衆から小さな悲鳴が上がった。
「あれ……大丈夫なの……!?」
観衆のひとりが思わず声を上げる。
「ねぇ、あれ!!」
別の観衆が指をさす。
そこには、怪我人たちを守るように桶で水をかける子どもの姿があった。
子どもは、燃え上がる屋台に水をかけては、また川に戻って水を汲み屋台にかけるという動きを繰り返している。
「守っているのか……?」
観衆のひとりが絞り出すように言った。
子どものほかに、ひとり大人がいたが、その二人だけで屋台の火を消そうとしているようだった。
そのとき、子どもが転んだ。桶が転がり水がこぼれる。
見ていた観衆のあいだで小さな悲鳴が上がった。
しかし、子どもはすぐに立ち上がると、何事もなかったように桶を拾い川に戻って水を汲んでいた。
「ねぇ……私たち、見てるだけでいいの……?」
観衆のひとりが振り返って言った。
「いいわけ……ないよな……」
「ああ……。あんな子どもが頑張ってるのに、逃げるなんてできねぇよ……」
観衆は顔を見合わせると頷き、続々と橋を戻り始めた。
その波は少しずつ大きくなっていった。
「おい……、もうやめろ……」
火傷を負った男は、屋台に水をかけ続けている子どもを見て言った。
「ほかの屋台も落ちてくるかもしれないんだ……。頼むから……逃げてくれ……!」
男は縋るように子どもを見た。
子どもは川に向かって走りながら、男を振り返って微笑む。
「大丈夫だよ! これぐらいすぐ消せるから!」
男は子どもの足を見た。
先ほど転んだときに擦り切れたのか、子どもの膝からは血が流れている。
「もういいんだよ……。俺たちのことなんて……」
子どもの背中を見ながら、男は小さな声で絞り出すように言った。
屋台に水をかけていた叡正も子どもの言葉に、静かに胸を打たれていた。
新助の声が聞こえた直後、突然落ちてきた屋台に、真っ先に水をかけ始めたのも子どもだった。
(情けないな……俺は……)
叡正は苦笑した。
必死で水をかけていたため、新助の言葉はほとんど耳に入っていなかったが、とにかく新助が来たことだけは二人共わかっていた。
「おじさんも来たみたいだし、もう大丈夫だよ!」
子どもの声は明るかった。
「だったら、おまえはもうそんなことしなくていい……!」
男は子どもをなんとか止めようと、上半身を動かして子どもに手を伸ばそうとしていた。
子どもは微笑んで、男を見る。
「……僕の母さんね、火事で死んじゃったんだ」
子どもは屋台に水をかけながら言った。
「僕ね、思うんだ……。もっと何かできたんじゃないかって」
男は何も言えず、ただ子どもを見つめていた。
子どもは再び川に向かって走っていく。
「僕が何かしてたら母さんも助かったんじゃないかって!」
子どもは桶に水を汲むと、また屋台に向かって走ってきた。
「僕が怖いのはね、火事じゃないんだ。……同じ思いをもう一回することだよ」
子どもは屋台に水をかけて、男を見る。
「だから、これは自分のためなんだ」
子どもはにっこりと笑った。
男は目を見開いた後、しだいに顔を歪めていく。
「もうこれ以上……俺をみじめにさせるなよ……」
男はそう呟くと、唇を噛みしめた。
叡正は男を見つめる。
男の気持ちは痛いほど理解できた。
叡正は水を汲みながら、子どもに視線を移す。
(すげぇなぁ……。この年で……。いざってときは、俺がこの子を守らないと……)
叡正が決意を新たにすると、ふと足音が聞こえた。
叡正が顔を上げると、そこには大勢の人が集まってきていた。
叡正は目を見開く。
「……俺たちも手伝うよ」
観衆のひとりが口を開いた。
「桶はほかにもあるのか?」
「みんなで一斉にかければこの程度はすぐ消せるだろう」
「私、桶探してくるから!」
叡正は言葉が出なかった。
思わず橋の上を見ると、先ほどまでの人だかりが嘘のように、そこには誰もいなかった。
(何が起きたんだ……?)
「手伝ってくれるの? ありがとう!」
子どもが嬉しそうに声を上げる。
子どもの言葉に観衆は皆、思わず目を伏せた。
「ごめんな……」
観衆のひとりがそう呟くと、子どもの頭をなでる。
「何が……?」
子どもが不思議そうに首を傾げる。
「いや、なんでもない……。さぁ、さっさと消しちまおう!」
観衆が続々と桶を持って、屋台に水をかけ始めた。
茫然としていた叡正も我に返る。
「おまえと子どもは怪我人を診てやってくれ。屋台の火ぐらい俺たちで消すから」
観衆のひとりが叡正にそう言った。
「ああ……、そうだな……。ありがとう」
叡正は頷いた。
(これだけの人数がいれば、おそらく落ちてきた屋台の火はすぐ消せるだろう……)
叡正は子どもに声をかけて、水の桶を持って怪我人のもとに向かった。
再び怪我人の横に座り、患部に水をかけ始めると、そこにそっと白い手が差し出された。
その手の上には小さな壷のようなものがあった。
叡正と子どもは顔を上げる。
そこには女が立っていた。
「これ、火傷に効く軟膏よ……。使って」
「え?」
叡正は目を丸くする。
「仕事柄よく火傷するから、持ち歩いてるのよ……。ひどい火傷には効かないかもしれないけど、何もしないよりマシなはずよ」
女はそう言うと小さな壷を叡正に渡した。
「ああ……ありがとう」
叡正は礼を言うと、子どもと顔を見合わせた。
女の背後から別の女が顔を出す。
「むしろ、ここは私たちがやるわよ! 家のかまどでしょっちゅう火傷してるから、手当なんて慣れてるの!」
女はそう言うと笑った。
「あんたは火を消す方に回った方がいいでしょ! この子は私たちが見てるから、あんたは行ってきなよ」
女はそう言うと、土手の上を見た。
女の視線を追って叡正もそちらに見ると、通りで燃えている屋台にも観衆が水をかけているのが目に入った。
叡正は目を見開く。
「本当に……何が起こったんだ……?」
叡正が呟くと、女は目を丸くする。
「あんた聞いてなかったのかい? 火消しが言ったんだよ、火は消せるから『立ち向かえ』って。まぁ、実際動き出せたのは、あの子のおかげかもしれないけどね」
女はそう言うと、怪我人の横に座る子どもを見た。
「こんなに自分を情けないと思ったことはないよ」
女はそう言って苦笑すると、叡正の手から軟膏の壷をとった。
「さぁ、あんたは行きな!」
女が叡正の背中を押す。
「あ、ああ。ありがとう」
叡正は前に倒れそうになりながら、桶を手にとって川に向かった。
女たちは怪我人の患部に軟膏を塗り始める。
「あんたは、これくらいたいしたことないんだから、しっかりしなよ!」
女が怪我人の男の肩を叩いた。
軟膏を塗られながら男は苦笑する。
「なんか母ちゃんみたいで安心するな……」
「母ちゃん!? こんなうら若い乙女つかまえて何言ってんだ!」
女は目を丸くすると、もう一度男の肩を叩いた。
「あ~あ、花火でいい男捕まえる予定だったのに、とんだ災難だよ」
火を消していた男が、女の言葉に吹き出した。
「そりゃあ、ここにいるみんなそうだよ」
「違いねぇ」
みんな思わず笑った。
叡正は水を汲むと立ち上がり、振り返った。
相変わらず通りの屋台は燃え続け、ほかの場所でも火の勢いが衰えているようには見えなかったが、最初に感じた恐ろしさはもうそこにはなかった。
(この火は消せる。これだけの人が動いて消せないわけがないんだ)
叡正はそう確信して微笑むと、水の桶を抱え屋台に向かって走り出した。
火消しの男は、怪我を負った男の腕を自分の肩に回して、支えるように歩いていた。
(思ってたよりも怪我人が多いな……)
火傷だけでなく人に押しつぶされて怪我を負った人たちも多く、怪我人の避難だけでまったく消火に手が回っていなかった。
(このままじゃ、向こうの長屋まで燃え広がっちまう……)
火消しの男は焦る気持ちを押さえながら、慎重に怪我人を運ぶ。
すると、橋に近づいてきたとき、突然人の波がこちらに向かってきた。
(なんだ……? 橋で何かあったのか!?)
火消しの男が茫然としていると、観衆のひとりと目が合った。
「おい! その人、向こうの川辺に運ぶんだろう? 運ぶだけなら俺がやるよ。あんた火消しだろ? 消火を頼む」
観衆の男は、火消しにそう言うと怪我人の腕をとった。
「え……?」
突然のことに火消しの男は言葉が出なかった。
(なんだ!? どうなってるんだ!?)
火消しの男が呆気に取られているうちに、観衆の男は怪我人を支えて川辺に去っていった。
「おい! あんた火消しなんだろ? 俺たちは何をしたらいい!? できることはやるから言ってくれ!」
別の男が、背後から火消しに向かって言った。
「え!?」
火消しの男は慌てて振り返る。
「……手伝って……くれるのか?」
「手伝うも何も、やらなきゃみんな焼け死ぬんだ! さっさとやり方を教えてくれ!」
男は苛立った口調で、火消しの男に詰め寄る。
(さっきまで逃げてたのに、どういう心境の変化だよ……)
火消しの男がたじろいでいると、背後から声が聞こえた。
「ござとか羽織とか、なんでもいいから水で濡らして炎に覆いかぶせてくれ! 水で濡れてれば多少は燃えにくくなるから、それで少しでも炎を抑えて一気に水をかけて消していく! 火の近くの作業は俺たちでやるから、ござや羽織を集めて濡らしてくれ! 頼めるか?」
火消しの男が驚いて振り返ると、そこには別の火消しの男が立っていた。
「ああ! わかった! 周りにいるやつらにも伝えておく!」
男はそう言うと、足早に去っていった。
「何がどうなってるんだ……?」
そう呟くと、後から来た火消しの男は目を丸くした。
「おまえ、さっきのお頭の言葉聞いてなかったのか?」
「お頭? ……お頭が来たんですか!?」
「おまえ……あんなデカい声が聞こえないなんて、問題だぞ……。まぁ、いい。お頭が逃げずにみんなで火を消せって言ったんだ」
「え!? 言ったらみんなが言うこと聞いてくれたってことですか!? そんな馬鹿な!?」
火消しの男がポカンと口を開けた。
「まぁ、うちのお頭だからな。そんなことより、風向きが変わった。この火、消せるぞ」
そう言うと、川に視線を移した。
火消しの男もその視線を追って、川辺を見る。
たくさんの人々がござや着物を拾い集めていた。
「これだけやってもらってるんだ。今さら消せないなんて言えねぇぞ」
「……そうですね」
火消しの男は、気合いを入れるために両手で自分の頬を叩いた。
「消しましょう! 絶対!」
「ああ」
二人の火消しは決意を新たに川に向かって走り出した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「危ない!」
目の前の人の叫び声を聞き、男が視線を追って上を見ると、燃えて折れた松の枝が男の頭上に落ちてきていた。
男は反射的に両手で頭を覆ってしゃがみ込む。
しかし、いつまで待っても熱さや痛みは感じられなかった。
男が恐る恐る手をどけると、目の前に大男が立っていた。
「大丈夫か?」
大男はしゃがみ込むと、男に聞いた。
男は目を見開く。
「あんた、や組の……組頭の……」
男はそう呟くと、男の手の甲を見る。
はっきりとはわからなかったが、赤くただれているように見えた。
(守ってくれたのか……)
「あんたこそ……大丈夫か……?」
「ああ、このくらいなんともねぇよ」
新助は自分の手の甲を見た後、男を見て笑った。
「それより、ありがとな。消火、手伝ってくれて」
新助はそう言うと、男の肩を力強く叩いた。
「おかげですぐ消せそうだ」
その瞬間、男はなぜか少し泣きたくなった。
「でも、ここは危ねぇから。川の近くの消火を手伝ってくれ。こっちは風下だし、火に巻き込まれるかもしれねぇからな」
新助はそう言うと立ち上がった。
「さぁ、もう行きな」
男は新助を見つめたままゆっくりと立ち上がると、新助に言われた通り川辺に向かって歩き始めた。
「さてと……」
新助は大きく息を吸い込んだ。
「手を貸してくれたことに感謝する!! おかげで早く消せそうだ!! さぁ、さっさと消してみんなで帰るぞ!!!」
新助は力一杯叫んだ。
川辺にどよめきが広がる。
「早く消せそうだって!」
「私たち帰れるの……?」
「もう大丈夫なのか……?」
どよめきの中、新助の声が響く。
「俺からの礼だ!!! 帰ったら、俺のツケで好きな店で好きなだけ飲み食いしてくれ!! 今日の報酬だ!!!」
一瞬、皆が呆気にとられた。
静寂に包まれる中、ひとりの観衆が思わず吹き出す。
「や組の組頭のおごりか! そりゃあ、いい!」
しだいに川辺に笑いが広がっていく。
「こんなひどい目にあったんだ!! 破産するぐらい酒飲んでやるから覚悟しな!!」
「好きなだけだってよ!」
「お金落とすなら、うちの店にしてよね」
「報酬なんだから、まずしっかり働かなきゃ」
「そうだな。さっさと消して、酒飲みに行こう」
薄暗い川辺は、しだいに明るい声が溢れていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「すげぇな……。お頭……」
新助の声を聞き、火消しの男は川辺を見た。
ござや羽織を水に浸し、必死に消火を行ないながらも、観衆の顔は一様に明るかった。
「もう誰も……自分が死ぬかもなんて不安になってねぇんだな……」
火消しの男が、そう呟きながら桶で水をかけていると、腰に鋭い痛みを感じた。
慌てて腰を見ると、羽織に火がついていた。
(マズい!! このままじゃ……)
火消しの男が慌てた瞬間、勢いよく水をかけられた。
「……え?」
火は一瞬にして消えた。
「おいおい、しっかりしろよ」
その声に火消しの男は顔を上げる。
周りには観衆の男たちが立っていた。
「あんたが丸焦げになったらダメだろ? 俺たちだけじゃ、火は消せねぇんだから」
観衆の男は、火消しの男の背中を叩いた。
「頼りにしてんだから、頑張れ」
「まぁ、俺たちも頑張れって話しだよな!」
「俺たちなりに頑張ってるさ」
男たちはそう言って笑い合いながら、また川辺に戻っていった。
火消しの男は、茫然と男たちを見送る。
「おい! さっき大丈夫だったか!? 火、ついてただろ!?」
別の火消しの男が、駆け寄ってきた。
「…………大丈夫じゃないです」
火消しの男は茫然としたまま呟く。
「なんだ!? 火傷ひどいのか!?」
火消しの男は、ゆっくりと顔を動かす。
「俺、泣きそうです……。まさか……町の人が俺たちを火から守ってくれるなんて思わなくて……」
火消しの男の目には涙が浮かんでいた。
(火消しは守る側で守られることなんてないと思ってたのに……)
駆けつけた火消しは目を丸くした後、静かに微笑んだ。
「そうだな……。でも、泣くのは後だ! 後で飲みに行ったときにいくらでも泣けばいい!」
火消しの男は半纏の袖で涙を拭った。
「……そうですね! お頭のおごりですし、吐くほど飲みながら泣きます!」
駆けつけた火消しの男は苦笑した。
「お頭は今日で破産だな……」
消火の持ち場に戻りながら、火消しは心の底から新助に同情した。
「向こうは順調かな……」
男は両国橋の方角を見ながらニヤリと笑う。
先ほどから花火の音も聞こえなくなったことから、計画は問題なく進んでいると男は確信していた。
「さて、あとは仕上げだけだな……」
男は目的の場所に着くと、そっと裏手に回った。
(この時間なら、使用人もこっちにはいないだろう……)
男は仲間との打ち合わせ通り、事前に開けておいた戸に手をかける。
その瞬間、男は背後に嫌な気配を感じた。
一気に背筋に冷たいものが走る。
(これは……)
男は唇を噛みしめる。
喉元に刃物が突き付けられているような感覚に、男の体は強張った。
(まだ何もされてないってのに……なんだこの気配……)
男は戸に伸ばしていた手をゆっくりと下ろすと、静かに振り返った。
そこには、男が立っていた。
顔は見えなかったが、月明かりに照らされて薄茶色の髪が風に揺れているのが見える。
(ああ……あいつか……)
男は苦笑した。
(こりゃあ、マジでダメだな……)
男は天を仰いで目を閉じると、ゆっくりと息を吐いた。
「……どうしてここに、おまえが?」
男は、薄茶色の髪の男に向かって口を開いた。
聞きたいことはいろいろとあったが、余計なことを口にして新しい情報まで与えたくはなかった。
薄茶色の髪の男が静かに口を開く。
「花火では狙った相手を殺すのは難しい。今までの動きを考えても一番の目的は大文字屋だろうと思った。だから、ここでおまえを待っていた」
男は目を見開いた。
花火で起こった火事に注目が集まっている隙に大文字屋を殺し、店に火をつけるのがこの仕事の最後の仕上げだった。
(どこまでバレてるんだ……。少なくとも花火のことはバレてるってわけか。じゃあ、花火の方は失敗したのか……? いや、爆発はしたはずだ。あっちはそれだけで十分……。ほかの件は知られていないといいが……)
男は目の前の男を注意深く観察したが、表情からも声からも何ひとつ読み取ることはできなかった。
(化け物が……)
男は顔をしかめた。
「どこでバレた? それに……どうしておまえが動いているんだ? 大文字屋にでも頼まれたか?」
男は諦めて聞きたいことを聞くことにした。
薄茶色の男はゆっくりと口を開く。
「……火消しの男を嵌めた男と、大文字屋の息子に花火を売った男の容姿が同じだった。俺は、火消しの男の冤罪の件で動いていただけだ」
男は目を見開く。
(そんなことで……。しかも……)
「あいつのせいじゃねぇか……!」
男の脳裏に恭一郎の姿が浮かんだ。
『おまえのようなやつは、いつか必ず罰を受けることになる』
そう言って背を向けた恭一郎の姿を思い出し、男は思わず頭を掻きむしった。
「全部あいつのせいで……!!」
男は歯を食いしばり、なんとか怒りを抑えようとゆっくりと息を吐いた。
(落ち着け……。この感じなら、大文字屋の周辺の件しかバレてねぇ……。あと二つは残りのやつらが予定通り続けるだろう……)
男は天を仰いだ。
(俺はここまでだが、状況も最悪ではないか……)
男は、薄茶色の髪の男に視線を戻した。
「俺を殺すのか?」
薄茶色の髪の男は静かに首を横に振った。
「おまえに用はない。指示したやつに用があるだけだ」
男は苦笑した。
(予想通りだな……)
「あいにくだが、俺はおまえとは違う。人質もとられてねぇし、飼い主を売ることはない」
薄茶色の瞳が、初めて真っすぐに男に向けられる。
刺すような視線に思わず男はたじろいだ。
(……しゃべるまで許さねぇって感じだな。でも……)
男は息を吐くと、静かに口を開いた。
「……人質だったり金だったり、犬のつなぎ方は飼い主しだいだが、俺が何でつながれてるかわかるか?」
薄茶色の瞳が冷たく男を見つめる。
男は微笑んだ。
「恩だよ……」
男はそう言うと、奥歯を強く噛みしめた。
カリッという音とともに、苦いものが口の中に溢れ出す。
薄茶色の瞳が見開かれたのが見えた気がしたが、一瞬で目の前は靄がかかったように見えなくなった。
(死体が残るように死んでやるのは、俺の優しさだ。感謝しな)
男は意識が遠のく中、そっと目を閉じ、ある男を思い浮かべた。
(……すみません。……さん……)
男は最後に心の中でそう呟くと、静かに意識を手放した。
「まだ燃えてるところってあるのか?」
「どうだろうな……。見える範囲ではもうなさそうだけど……」
火消しの指示を受けながら消火を続けていた男たちは、火が消えて暗くなった通りを見て顔を見合わせた。
「もしかして……消し切れたのか……?」
見渡す限り、炎はもうどこにも見えなかった。
そのとき、爆発音が響いた。
暗い空に光の線が走る。
皆が空を見上げると、光は美しく輝きながら弧を描いて静かに消えた。
川辺に静寂が訪れる。
皆、固唾をのんで、ひとりの男の言葉を待っていた。
静けさに耐え切れず皆が顔を見合わせ始めたとき、ようやく声が響く。
「協力に感謝する! 仕事は終わりだ!! 火はすべて消えた!!」
川辺にいた観衆はゆっくりと顔を見合わせる。
そして次の瞬間、弾けるような歓声を上げた。
「消し止められたんだ!!」
「俺たちの手で火を消したんだ!!」
「もう大丈夫なのね! 帰れる……これで帰れる……!」
「俺たちが江戸を守ったんだ!!」
「ちょっとそれは大げさでしょう!」
「大げさじゃねぇよ! 俺たちが消したんだ!」
観衆の興奮は冷めず、火が消えてしばらく経ってからも帰り始める者は誰もいなかった。
その頃、町奉行の指示で集められた火消したちは、両国橋に着くと辺りを見渡して言葉を失った。
火の消えた川辺は薄暗くはっきりとは見えなかったが、崩れかけた橋や対岸に並ぶ屋台だと思われる瓦礫の山、川に沈みかけている舟はぼんやりと確認できた。
そんな光景の中で、人々が興奮して騒ぐ声だけが明るく響いている。
「どうなってるんだ……。火は消えたのか……?」
火消しの男が呟く。
これだけの規模の火事が一夜もかからずに消えたということが信じられなかった。
「みんなで消したってことですかね……?」
「ああ……、それしか考えられないな……」
「俺たちの出番はなしですね。やることと言ったら、お奉行様への報告ぐらいですか」
火消しの男は肩をすくめて言った。
「まぁ、そうでもないさ……。あそこのござが敷いてある一帯……、たぶんあそこに怪我人が集められている。安全なところに運んで医者を呼ぼう」
火消しのひとりが対岸の川辺を指さした。
「あ、本当ですね! じゃあ、さっそく行きますか!」
「ああ、そうだな」
遅れてきた火消したちは、安全に怪我人を運べるよう慎重に準備を始めた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
叡正は川辺に腰を下ろし空を見上げていた。
(本当に消せたんだな……)
観衆はいまだに歓声を上げていて、静かな怪我人たちも目に涙を浮かべて喜びを噛みしめているようだった。
叡正は子どもを見る。
皆が興奮している中で、子どもだけは静かに怪我人に寄り添い布で怪我人の涙を拭っていた。
叡正は苦笑する。
(あの子が一番大人だな……)
「おい! 舟が来るぞ!」
観衆のひとりが川を指さして言った。
対岸から無数の舟がこちらに向かってきている。
「纏があるな……。火消しか?」
「今さら火消しが来たって遅ぇよ!」
観衆たちが笑った。
「結局間に合ってたのは、や組だけか……」
「やっぱり、や組の組頭はすげぇな!」
「俺、チラッと消火してるところ見たけど、すげぇカッコよかった……」
「え~、私も見たかった!」
「なんかあの人の周りだけ光ってるっていうかさぁ……」
「光ってるって、さすがに大げさだろ!」
「大げさじゃねぇよ! なんか……この人がいれば大丈夫だって、その光を見て思ったんだ。……って、おい! 笑うなよ!」
「はいはい、そうだな」
観衆たちは笑い合った。
そうしているうちに舟が岸に着いた。
火消したちは舟から降りると、怪我人を安全なところに運んで医者に診せることを説明し、火傷のひどい者から順番に舟に乗せていく。
叡正はふと、ひとりの火消しに目を留めた。
四十くらいのどこか武士のような風格のある男が叡正の目の前を横切っていく。
(この男……どこかで……)
どこかで見た記憶があったが、それがどこなのか叡正は思い出せなかった。
(火消しの知り合いなんて、や組の人たちくらいだしな……。まぁ、それより今は怪我人を運ぶのを手伝おう……)
叡正が火消しの男を追い抜いて、怪我人のもとに駆け寄ると背後で小さな呟きが聞こえた。
「こりゃあ、失敗だな……」
(え……?)
叡正が驚いて振り返ると、そこには先ほどの火消しの男が立っていた。
叡正がじっと見ていると、火消しの男は不思議そうに叡正を見つめ返す。
「どうした?」
(聞き……間違いか……?)
「あ……いや、怪我人を運ぶのを手伝おうと思って……」
叡正はなんとかそれだけ口にした。
「そうか! それは助かる!」
火消しの男はそう言って笑うと、怪我人の横にしゃがんだ。
その瞬間、男の額の左側にある刀傷が目に入った。
(この傷……。やっぱり……どこかで……)
叡正が傷を見ていると、火消しの男が眉をひそめて叡正を見上げた。
「おい、手伝ってくれるんじゃねぇのか?」
「あ、ああ! すまない!」
叡正は慌ててしゃがみ込んだ。
(今はそんなこと考えてる場合じゃない……)
叡正は頭を振ると、今やるべきことに集中することにした。
「お頭、まだいたんですか?」
火消しの男は、土手に座っている新助を見て声をかけた。
火が消えてしばらく川沿いにいた観衆もしだいに減っていき、今はもう誰もいなくなっていた。
「ああ……、ちょっとな……」
新助は火消しの男を見ると、少しだけ微笑んだ。
「あいつはもう帰ったのか?」
(あいつ? ああ……あの子か)
「あ、はい。叡正さんが送ってくれるって言ってたんで、もう長屋に着いてる頃だと思いますよ」
火消しの男は、子どもの顔を思い浮かべながら言った。
「叡正さんが言ってましたけど、あの子すごい活躍だったみたいですよ。動けない怪我人を守るために、火も消そうとしてたって」
「そりゃ、すげぇな! あいつ、俺より火消しに向いてるんじゃねぇか?」
新助は楽しそうに笑っていたが、火消しの男は新助の顔を見て首を傾げた。
(お頭らしくない発言だな……)
火消しの男は、少し心配になり新助の横に腰を下ろす。
「何を考えてたんですか?」
火消しの男は新助を見た。
新助は川を見つめながら、静かに口を開く。
「恭一がいたらって……考えてた……」
新助の言葉に、火消しの男は目を見開いた。
「あいつがいたら、もっとうまく火が消せたんじゃねぇかって……。俺みたいに町の人間を危険な目に遭わすこともなく、もっと早くこの状況をどうにかできたんじゃねぇかって思って……」
火消しの男は言葉を失った。
(これだけのことを成し遂げて、なんで自信を失くしてるんだ……この人は……)
新助の言葉は、混乱したあの状況の中で観衆を落ち着かせただけでなく、逃げるだけだった人々の心を動かした。
(どれだけ自分がすごいことをしたのかわかってないのか……?)
火消しの男は、暗い表情の新助の横顔を見ながらため息をついた。
「いいですか、お頭……。たとえ恭一郎さんがいたとしても、あの状況で今回より早く火を消すのなんて不可能です。恭一郎さんは確かにすごいですけど、今回は長屋を崩して消火するいつもの火事とはまったく違いました。今回の火事は大勢の人の手が必要な火事だったんです。むしろお頭がいたから消せた火事だったと俺は思います」
新助は少しだけ火消しの男の顔を見ると、悲しげに笑った。
「どうだろうな……」
新助はまた川に目を向けた。
(なんでこんなに暗いんだ、お頭は……)
火消しの男は自分の顔が引きつるのを感じた。
「ちょ……本当にどうしちゃったんですか、お頭! 元気出してくださいよ! というか自信持ってくださいよ! これだけのことを成し遂げたのに!」
「成し遂げたって……、俺は何もしてねぇよ……。みんなが動いてくれたから火が消せただけだ」
新助は火消しの男を見て苦笑する。
(何言ってんだ!? この人は!?)
火消しの男は呆れて言葉が出なかった。
「今のお頭を恭一郎さんが見たら泣きますよ……。いや、あの人は泣かないか……気持ち悪いって引くか、殴るかしてると思いますよ……」
火消しの男の言葉に、新助はぼんやりと視線を上げて空を見た。
「ああ……、そうだな。確かにさっき殴られた……」
「はぁ!?」
火消しの男は目を丸くする。
(なんだ、うちのお頭は本当におかしくなったのか!?)
「し、しっかりしてくださいよ! そんなんじゃ、お頭を組頭に推した恭一郎さんが可哀そうですよ!」
「……恭一が、俺を?」
新助は火消しの男の顔を見た。
「そうですよ! お頭か恭一郎さんかどちらかにって話しが出たときに、数で言えば恭一郎さんを推す声が多かったんです。それを、恭一郎さんが蹴ってお頭を組頭にしたんですから」
新助は目を伏せて苦笑した。
「俺には向いてねぇのにな……」
「はぁ!?」
火消しの男は、思わず頭を抱えた。
「向いてると思ったから、お頭を推したんでしょうが! 恭一郎さんが謙遜とか気遣いで組頭を譲るわけないでしょう! 火を消すことにすべてをかけてるような人なんですから! それはお頭が一番よくわかってるはずでしょう!」
「ああ、それは確かに……」
「まぁ、恭一郎さんはあんまり自分の考えを話す方じゃなかったから、何を考えてたのか正確にはわかりませんけど、誰よりお頭のことを信頼してたのはみんな知ってます。それにあの恭一郎さんが向いてない人に組頭を任せるなんて間違いするはずないじゃないですか」
新助の目がわずかに見開かれる。
「ああ、そうだな……。間違いにするわけにはいかねぇよな……」
新助はそう言うと、顔を上げてしばらく空を見ていた。
「お頭、そろそろ帰りましょう。夜が明けちゃいますよ」
火消しの男は、新助にそう言うと立ち上がった。
「そうだな……」
新助もゆっくりと立ち上がる。
「帰るか……」
二人は、誰もいなくなった静かな川辺を歩いた。
東の空からは、もう暖かな日差しが差し込み始めていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「遅いよ!! どこほっつき歩いてたの!?」
長屋に帰ってきた新助は、戸口で子どもに怒鳴られてたじろいだ。
「いや、悪ぃ悪ぃ……。ちょっと川辺でのんびりしてたら朝になっちまって……」
「どれだけボーッとしてたらこんな時間になるんだよ! ずっと待ってたのに!!」
(すげぇ、怒ってる……)
新助は苦笑した。
「そ、そんなことより、おまえすごかったんだってな! 怪我人を守ったんだって?」
新助の言葉に、子どもは頬を赤らめ照れたように視線をそらした。
「ま、守ってたなんてカッコいいことじゃないよ。自分が後悔したくなかっただけ!」
新助は目を丸くする。
「後悔って、なんかおまえ大人だな……」
「馬鹿にしてんの?」
子どもがジトッとした目で新助を見る。
「いやいや、馬鹿になんてしてねぇよ!」
新助が慌てて首を振る。
「まぁ、大人で当然! 僕には目標があるからね」
子どもは腰に手を当てて、胸を張った。
「目標?」
新助はしゃがみ込んで、子どもの顔を見た。
「そう! 僕の目標はね、龍なんだ!」
「は……??」
新助は言葉を失う。
(りゅう……? 龍だよな……?)
「ふふ、驚かないでよ? 実はね、火事のとき僕を助けてくれたのは龍なんだ!」
子どもの言葉に、新助は目を見開く。
火事の現場で子どもを助けたのは恭一郎だったが、そのときに亡くなったこともあり、子どもには恭一郎の存在は話していなかった。
「おまえ……火事のときのこと覚えてるのか……?」
「うん、ちょっとだけね! それでね、そのときに僕を助けてくれたのが実は龍だったんだよ」
子どもはもう一度言った。
「龍……?」
「そう! 傷だらけのね」
「傷だらけ……?」
新助は、最後に見た恭一郎の背中を思い出した。
鞭で打たれたのか、背中の龍の刺青の上には生々しい傷跡が残っていた。
「目を開けたときにね、目の前に龍がいたんだ! いっぱい傷があってすごく痛そうだったんだけど、僕が手を伸ばしたら言ったんだよ! 『もう大丈夫だ』って! 僕より絶対痛くて苦しかったはずなのに、その声が力強くて優しくて……。本当にカッコよかったんだ!」
新助は目を見開いた。
「僕の憧れ。だから、助けてもらった僕もあんなふうにカッコいい存在に……」
子どもの言葉はそこで不自然に途切れた。
子どもが手を伸ばして新助の頬に触れる。
「……おじさん、どうして泣いてるの?」
新助の頬を涙がつたっていた。
「は……? 泣いてねぇよ……。これはあれだ、鼻水だ」
新助は手で涙を拭うと笑ったが、涙は後から後から溢れ出した。
「明け方はまだ冷えるからな、風邪でもひいたかな」
新助は上を向いて笑った。
「おじさん……?」
「泣くのは最後だって、俺もあのとき誓ったからな……」
新助は上を向いたまま、小さな声で呟いた。
「ああ、龍の話だったな……。ホント、カッコいいな……。俺も……そんな存在になりてぇよ……」
新助の言葉に、子どもは微笑んだ。
「おじさんは、もう十分カッコいいよ」
「でも、龍ほどじゃねぇんだろ?」
「そりゃあ、龍と比べたらまだまだだよ」
新助は笑った。
「じゃあ、頑張らなねぇとな」
新助は涙を拭った。
新助の脳裏に、あの日最期に見た恭一郎の姿が浮かぶ。
『おまえが俺たちの夢を叶えてくれ』
(ああ、そうだったな……)
『俺はいつか、江戸を火事が起こっても不安にならない町にするんだ』
源次郎のいなくなった長屋で、そう言った恭一郎の横顔が鮮やかに蘇る。
(ああ、俺がいつか必ず……!)
「だから、俺がそっちに行く日まで、文句言わずに黙って見てろよ……、恭一」
新助はそう小さく呟くと、ゆっくりと立ち上がった。
長屋には眩しいほどの朝日が差し込んでいた。
両国橋の火事から五日後、叡正は咲耶の部屋を訪れていた。
「じゃあ大文字屋は、死刑は免れたんだな……」
咲耶から話しを聞き、叡正はホッと胸をなでおろした。
「ああ、あの死んだ男に利用されただけだということがわかったからな……」
咲耶は叡正の顔を見て言った。
「まぁ、あれだけのことをしたんだ……。極刑ではないにしろ重い罰は下るだろうが……」
「そうか……」
叡正は目を伏せる。
大文字屋の店の裏手で男の死体が発見されてから、さまざまなことが明らかになった。
死んでいた男が大文字屋の息子に近づき花火を売ったこと、息子の罪を利用して大文字屋を脅したこと、そのすべてが明らかになると大文字屋への同情的な意見も多く聞こえるようになった。
大文字屋の息子が起こした火事についても、男によって仕組まれていた可能性が高くなり、罪には問われないことになった。
「それにしても、あれだけの規模の火事で、死人が出なかったのは奇跡だな……」
咲耶はそう言うと、少しだけ微笑んだ。
「そうだな……」
(や組の火消しとあの子のおかげだな……)
叡正は子どもの顔を思い浮かべながら微笑んだ。
「あ、そういえば! 恭一郎さんの汚名も晴れてよかったな!」
大文字屋の息子が自首した時点で、恭一郎の汚名は晴れていたが、子どもを庇って火盗で何も話さなかったことが話題となると、今になって恭一郎の死を惜しむ声が多く上がっていた。
「ああ、そうだな」
咲耶は目を閉じて微笑んだ。
(すべては解決した……。ただ……)
叡正は咲耶を見つめる。
(咲耶と信は何をどこまで知っていたんだ……?)
叡正を火消しとともに両国橋に向かわせたのは信だった。
信がひとりで何か考えて動いていたとは、叡正には思えなかった。
(咲耶は一体……?)
聞きたいことは多かったが、踏み込んではいけないような気もしていた。
咲耶は叡正の視線を感じたのか、叡正を見ると少し困ったように微笑んだ。
(話せないってことなんだろうな……)
叡正は咲耶の表情を見て、ゆっくりと息を吐く。
そのとき、バタバタと廊下を走る音が聞こえ、勢いよく襖が開かれた。
叡正は目を丸くして振り返る。
息を乱して走ってきたのは緑だった。
「どうした? 緑」
咲耶が緑に向かって首を傾げる。
「た、大変です……! や、や組の組頭が来ました!!」
「ああ、そうなのか。私を呼んでいるのか?」
咲耶はなんでもないような口調で聞いた。
「よ、呼んでます! ……で、でも、行かない方がいいですよ!」
緑は泣きそうな顔で咲耶を見ていた。
叡正は緑の様子を見て首を傾げる。
(なんでそんなに取り乱してるんだ……?)
「まぁ、大丈夫だろ。ちょっと行ってくる」
咲耶は立ち上がって襖に向かうと、緑の頭をなでて部屋を出ていった。
緑が心配そうに、咲耶の後ろ姿を見つめている。
「なぁ、どうしてそんなに心配してるんだ?」
叡正は緑に向かって聞いた。
「知らないんですか!? 花魁はこのあいだ、あの組頭を殴ってるんですよ!」
「は!?」
叡正は目を丸くする。
(殴った?? どうして??)
「きっと報復しに来たんですよ……! 叡正様、何してるんですか!? 間夫として花魁を守ってください! ほら、さっさと立って!!」
緑は叡正の腕を掴むと、強引に立たせて引きずっていく。
「え!? そんなわけないと思うが……」
叡正が引っ張られて階段を下りていくと、玉屋の入口で咲耶と新助が向かい合っているのが見えた。
階段を下りると、叡正は緑に突き飛ばされて咲耶の横に並ぶ。
新助が叡正に気づいて視線を向ける。
「おまえ、今日はここにいたのか」
新助が目を丸くする。
「ああ……、ちょっと咲耶太夫に話しがあって……」
叡正は苦笑した。
新助は少し不思議そうな顔をしたが、すぐ咲耶に視線を戻した。
「今日はおまえに礼を言いに来たんだ」
新助は咲耶に向かって頭を下げた。
「感謝している。あのとき動かなかったら、俺はきっと後悔してた」
新助は頭を下げたまま、なかなか顔を上げなかった。
しばらく新助を見つめていた咲耶は、ゆっくりと新助に近づくと首を傾けて新助の顔をのぞき込んだ。
顔の近さに驚いたのか、新助が目を丸くして頭を上げる。
咲耶は楽しそうに笑った。
「ちょっとはマシな顔になったみたいだな」
新助は目を見開いた後、静かに微笑んだ。
「ああ、ありがとな……」
二人の様子を見て、叡正は胸をなでおろす。
(俺がここにいる必要はなさそうだな……)
叡正はさりげなく後ろに下がろうとしたとき、新助が口を開いた。
「もし俺が、江戸で一番の火消しになったら……」
新助は真っすぐに咲耶を見た。
「そのときは、俺の嫁になってくれねぇか?」
一瞬、時が止まったように玉屋の中が静かになった。
その後、密かに話しを聞いていた遊女たちから黄色い悲鳴が上がる。
叡正も目を丸くして、咲耶を見た。
斜め後ろからでは咲耶の表情はわからなかったが、微笑んでるようにも見える。
(とりあえず、俺は下がって……)
叡正がそう思い、静かに下がろうとしたとき、咲耶が口を開いた。
「それは難しいな」
咲耶はそう言うと、叡正の腕をとって引き寄せた。
(…………え?)
叡正は、咲耶と向かいように立たされた。
咲耶の顔が視界に入ったと思った瞬間、叡正の首に咲耶の両腕が絡む。
(え……!?)
咲耶の髪が揺れ、花のような香りした。
咲耶の体が密着し、咲耶の息が叡正の首筋にかかる。
「愛する男がいるからな」
咲耶はそう言うと、絡めた腕に力を込めて叡正を抱きしめた。
咲耶は叡正の肩越しに新助を見つめる。
叡正は火がついたように体が熱くなるのを感じた。
「……な!?」
叡正が思わず声を出しそうになると、咲耶がシッと耳元で呟く。
耳にかかった息に、叡正の体がゾクリと震える。
叡正は体を硬くして、ただ立ち尽くした。
咲耶と叡正を見て、新助が笑う。
「ああ、わかってるよ。要は、惚れさせればいいんだろう? 俺はいつか江戸一の男になる。そのときまた考えてくれ」
新助はそう言うと微笑んだ。
咲耶はわずかに目を見開いた後、そっと目を閉じた。
「ああ、わかった」
新助はその言葉を聞くと、満足したように身を翻したが何かを思い出したように立ち止まった。
「あ、そうだ」
新助は二人に背中を向けたまま言った。
「訂正するわ……。あいつさ……」
新助は少しだけ振り返って微笑む。
「女の趣味だけは悪くなかった」
新助はそれだけ言うと、玉屋を後にした。
新助が去ったのを確認すると、咲耶はそっと叡正から体を離した。
叡正は硬直したまま動かない。
「突然悪かったな。でも、これでおまえの噂も多少良くなるはずだ」
咲耶は微笑むと、叡正の背中を軽く叩いた。
「気をつけて帰れよ」
咲耶はそう言うと、叡正を残して二階に上がっていった。
ひとりになると叡正はその場にしゃがみ込んだ。
全身が沸騰したように熱く、鼓動がすぐ耳元で響いているようだった。
「嘘だろ……?」
叡正が絞り出すように呟く。
一部始終を見ていた緑はそっとため息をついた。
「花魁は、罪作りですね……」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
咲耶が部屋に入ると、すぐに弥吉の声が響いた。
弥吉が襖を開けて、部屋に入る。
「今日の手紙はありますか?」
弥吉が咲耶に聞いた。
「ああ、鏡台のところにあるから持っていってもらえるか?」
「わかりました」
弥吉はそう言うと、鏡台の上にある手紙を懐にしまった。
「あ、そうだ。咲耶太夫、火消しが好きって言ってましたよね!」
弥吉が弾んだ声で言った。
咲耶は苦笑する。
「いや、私は別に……」
「この姿絵、すごい売れてるらしくて……よかったらもらってください」
弥吉はそう言うと、懐から折りたたまれた姿絵を取り出して咲耶に渡した。
「いや、私は……」
咲耶はそう口にしたが、笑顔の弥吉を見ていると断り切れず、姿絵を受け取るとそっと開いた。
咲耶は目を見開く。
「いい絵でしょう?」
弥吉は微笑む。
咲耶も姿絵を見ながら微笑んだ。
「ああ、悪くないな……」
姿絵には二人の男が描かれていた。
両国橋と思われる橋の上で、二人の男が火に立ち向かっていた。
二人の背中には同じように桜吹雪と勇ましい龍の刺青が入っており、それはまるで双頭の龍のようだった。
姿絵には、や組の文字とともにこう書かれていた。
『江戸の花』
「ああ、いい絵だ」
咲耶はそう言うと、姿絵の二人をなでてそっと微笑んだ。
「叡正様の噂は相変わらずですね……」
緑は、叡正を咲耶の部屋に案内しながら呟いた。
叡正は苦笑する。
玉屋で咲耶が叡正を「愛する男」だと言った日からひと月ほどが経っていた。
結論からいえば、叡正の噂はまったく良くなっていない。
男好きという噂から、男も女も好きな好色な男という噂に変わっただけだった。
むしろ悪化している。
咲耶の部屋の前に着くと、緑は膝をついて襖ごしに咲耶に声をかけた。
咲耶の返事を待ち、緑が襖を開ける。
咲耶は窓のへりに腰かけて外を見ていた。
長い髪を下ろし長襦袢姿の咲耶を見て、叡正はなぜか少し落ちつかない気持ちになった。
(いや、見た目は本当に綺麗なんだから、これは当然の反応だ……)
叡正は慌てて目を閉じると深呼吸した。
咲耶は叡正を見て苦笑する。
「また来たのか。まぁ、今回は私が悪いからな……」
咲耶はそう言うと立ち上がり、緑が用意した座布団に座った。
緑が目で叡正に座るように促す。
「ああ……、ありがとう」
叡正は緑に礼を言うと、咲耶の前に腰を下ろした。
「悪かったな」
咲耶の言葉に、叡正は目を丸くする。
「ど、どうしたんだ……。俺に謝るなんて……」
叡正がそう口にすると、咲耶はジトッとした目で叡正を見た。
「おまえ……、私を何だと思ってるんだ。悪いと思ったら謝罪ぐらいする」
「いや、すまない。そういう意味では……」
叡正は慌てて首を振る。
咲耶はため息をついた。
「噂の件は、たぶんあれだ……。あちらの影響を受けているんだろうな」
咲耶はそう言うと長い髪を耳にかけた。
「あちら?」
叡正は首を傾げる。
咲耶は叡正を見つめた。
「おまえに雰囲気が似ている歌舞伎役者がいるんだが……」
咲耶がそう言うと、部屋の隅に控えていた緑が小さく声を上げた。
叡正は不思議そうに緑を見る。
「……確かに似てるかもしれませんね。花巻雪之丞に」
緑が叡正の顔をまじまじと見ながら言った。
「雪之丞……?」
「人気のある歌舞伎役者だ。少し問題のある……」
咲耶が苦笑した。
「問題……?」
「ここ最近、女関係で派手に遊んでいるらしい」
咲耶の言葉に緑が頷く。
「私も聞きました。どうしたんでしょうね。それまでは花巻檀十郎の襲名も近いって言われるほど乗りに乗ってた役者だったのに」
緑は首を傾げる。
咲耶は目を伏せた。
「まぁ、噂が本当なら……同情はするが……」
「噂?」
叡正が咲耶を見ると、咲耶は少し視線をそらした。
「まぁ、それは置いておいて、中身はともかく見た目の雰囲気は同じだからな、あちらの影響もあって好色の噂が出ているんだろう」
叡正は目を丸くする。
「まったくの他人なのにか……?」
「他人でもだ。遊女の悪い噂が出れば、遊女全体が悪く見られるのと同じだな」
「……俺は僧侶だ」
咲耶は叡正を見て微笑んだ。
「ああ、だから男色の噂も加わっているだろう?」
叡正は言葉を失う。
「まぁ、噂なんてそんなものだ。しばらくしたら消えるから、あまり気にするな。ああ、でも自分の身だけは守れよ」
咲耶はそう言うと立ち上がり、叡正の肩を軽く叩いた。
「頑張れ」
咲耶は叡正を見下ろしながら微笑む。
叡正は呆然と咲耶を見つめ返した。
「緑、頼みがあるんだが」
咲耶は緑に視線を移した。
「私はこれから少し用事があるから、こいつの相手をしてもらえないか? 間夫なのにすぐ帰るのも不自然だからな。頼めるか?」
咲耶がそう言うと、緑は目を輝かせて頷いた。
「じゃあ、あとは頼んだぞ」
咲耶は緑に微笑むと、襖を開けて部屋を後にした。
「花魁に頼られた……」
叡正が視線を向けると、緑は嬉しそうに頬を赤く染めていた。
「さぁ、叡正様、お相手いたします!」
緑は勢い良く立ち上がると、叡正の前に移動して腰を下ろした。
「え!? 何の!?」
叡正は目を丸くする。
「もちろん、お話しのです! 叡正様がこれ以上、惨めにならないように頑張ります!」
(俺は惨めなつもりはなかったんだが……)
叡正が密かに傷ついていると、緑は目を輝かせて叡正を見つめた。
「さぁ、何からお話ししましょうか!」
前のめりな緑を前に、叡正は帰ると言い出す機会を完全に逸した。
(何からお話しって……)
叡正は目の前の緑を見ながら、引きつった笑みを浮かべた。
「じゃ、じゃあ……咲耶太夫のことでも話すか……?」
叡正には、緑との共通の話題がそれしか思い浮かばなかった。
叡正の言葉を聞き、緑はなぜかにんまりと笑う。
「いいですよ! やっぱり叡正様は花魁と新助様のことが気になってたんですね」
「え!? いや……そういうわけでは……」
叡正は目を丸くして首を振ったが、緑は構わず話し続ける。
「わかってます! わかってますから!」
緑はニヤニヤしながら言った。
(一体、何がわかってるんだ……)
叡正は思わずため息をついた。
「あれからお二人は特に何もありませんよ。そもそも江戸一の男になったらってお話しでしたから、新助様が江戸一だと胸を張れるようになるまでは、もうこちらにはいらっしゃらないと思います。お客でもなければ、間夫でもありませんし」
「そうなのか……」
「そうですよ! 叡正様は感覚がおかしくなっているようですけど、そもそも花魁はそんな簡単に会える方ではないんです!」
緑は叡正に顔を近づけて言った。
緑の勢いに叡正は思わずたじろぐ。
「そ、そうだな……。申し訳ない……」
叡正はなぜか謝った。
「まぁ、わかればいいんです。というわけで安心しましたか? 叡正様」
緑は姿勢を元に戻すと、叡正を見て微笑んだ。
「安心?」
叡正が聞き返すと、緑は小さくため息をつく。
「まぁ、わからないならいいんです」
緑はそう言うと、大人びた表情で微笑んだ。
「私は応援していますよ、叡正様」
「え……ああ、ありがとう」
叡正は戸惑いながら、とりあえず礼を言った。
「あ、でもあれだろう? 咲耶太夫ぐらいになると身請けの金は相当な額になるんじゃないのか?」
(新助は嫁にと言っていたが、遊女の身請けには相当な金が必要だよな……。ましてや、咲耶太夫なら……)
「ああ、普通はそうですけど、花魁の場合は少し違います」
緑の言葉に、叡正は不思議そうな表情を浮かべる。
「そもそも、花魁は売られてきたわけではないので……。前にお話ししたように、見世の前に捨てられていたのを玉屋の楼主様が引き取って育てたんです。ですから、もともと借金がないうえに、これまでにかかったお金も花魁はすでにご自身で稼いでいますから、花魁の気持ちひとつでしょうね」
「え!? そんなことありえるのか……」
「まぁ、玉屋の稼ぎ頭ですし、何よりうちの楼主様は花魁のことを娘のように愛していますからね。覚悟を見るために相当な額を提示される可能性はありますが……」
「そ、そうなのか……」
「はい。まぁ、それでも花魁の気持ちを尊重するでしょうから。花魁が望んでいるのなら払える額にするでしょうね。……花魁が身請けされずにここにいるのは、ひとえに花魁がここにいることを望んでいるからです」
「……玉屋にいたいってことか」
叡正の言葉に、緑は微笑んだ。
「花魁は口ではそっけなくても、誰より情に厚いですからね。以前花魁に聞いたら『特に行きたいところもないから』って言ってましたけど、本当は玉屋のみんなが心配なんだと思います。やっぱり花魁は世界一です」
緑は目を輝かせた後、少し悲しそうな顔をした。
「ただ、花魁には幸せになってほしいので。心から望む場所を見つけてほしいとは思っています。だから……」
緑は叡正を見つめた。
「叡正様も頑張ってくださいね」
「頑張るって……何を??」
緑は微笑んだ。
「何でもありませんよ。まぁ、信様との関係は清算してからにしてくださいね! 泥沼の関係は困ります!」
「清算!? もともと何の関係もないのに何を清算するんだ! まだそんな噂があるのか!?」
「ありますよ。新助様との噂も最近増えました」
叡正は愕然とした表情で緑を見つめる。
「そんな噂まで……」
頭を抱える叡正を見て、緑は微笑んだ。
「いろいろと頑張ってください、叡正様」
緑はそう言うと、叡正の背中をポンポンと叩く。
「可能性はなくはない……かな」
緑は小さく呟くと、楽しげに笑った。