「向こうは順調かな……」
 男は両国橋の方角を見ながらニヤリと笑う。
 先ほどから花火の音も聞こえなくなったことから、計画は問題なく進んでいると男は確信していた。
「さて、あとは仕上げだけだな……」
 男は目的の場所に着くと、そっと裏手に回った。
(この時間なら、使用人もこっちにはいないだろう……)
 男は仲間との打ち合わせ通り、事前に開けておいた戸に手をかける。

 その瞬間、男は背後に嫌な気配を感じた。
 一気に背筋に冷たいものが走る。
(これは……)
 男は唇を噛みしめる。
 喉元に刃物が突き付けられているような感覚に、男の体は強張った。
(まだ何もされてないってのに……なんだこの気配……)
 男は戸に伸ばしていた手をゆっくりと下ろすと、静かに振り返った。

 そこには、男が立っていた。
 顔は見えなかったが、月明かりに照らされて薄茶色の髪が風に揺れているのが見える。
(ああ……あいつか……)
 男は苦笑した。
(こりゃあ、マジでダメだな……)
 男は天を仰いで目を閉じると、ゆっくりと息を吐いた。

「……どうしてここに、おまえが?」
 男は、薄茶色の髪の男に向かって口を開いた。
 聞きたいことはいろいろとあったが、余計なことを口にして新しい情報まで与えたくはなかった。

 薄茶色の髪の男が静かに口を開く。
「花火では狙った相手を殺すのは難しい。今までの動きを考えても一番の目的は大文字屋だろうと思った。だから、ここでおまえを待っていた」
 男は目を見開いた。
 花火で起こった火事に注目が集まっている隙に大文字屋を殺し、店に火をつけるのがこの仕事の最後の仕上げだった。
(どこまでバレてるんだ……。少なくとも花火のことはバレてるってわけか。じゃあ、花火の方は失敗したのか……? いや、爆発はしたはずだ。あっちはそれだけで十分……。ほかの件は知られていないといいが……)
 男は目の前の男を注意深く観察したが、表情からも声からも何ひとつ読み取ることはできなかった。
(化け物が……)
 男は顔をしかめた。

「どこでバレた? それに……どうしておまえが動いているんだ? 大文字屋にでも頼まれたか?」
 男は諦めて聞きたいことを聞くことにした。
 薄茶色の男はゆっくりと口を開く。
「……火消しの男を嵌めた男と、大文字屋の息子に花火を売った男の容姿が同じだった。俺は、火消しの男の冤罪の件で動いていただけだ」

 男は目を見開く。
(そんなことで……。しかも……)
「あいつのせいじゃねぇか……!」
 男の脳裏に恭一郎の姿が浮かんだ。

『おまえのようなやつは、いつか必ず罰を受けることになる』
 そう言って背を向けた恭一郎の姿を思い出し、男は思わず頭を掻きむしった。
「全部あいつのせいで……!!」
 男は歯を食いしばり、なんとか怒りを抑えようとゆっくりと息を吐いた。

(落ち着け……。この感じなら、大文字屋の周辺の件しかバレてねぇ……。あと二つは残りのやつらが予定通り続けるだろう……)

 男は天を仰いだ。
(俺はここまでだが、状況も最悪ではないか……)
 男は、薄茶色の髪の男に視線を戻した。
「俺を殺すのか?」
 薄茶色の髪の男は静かに首を横に振った。
「おまえに用はない。指示したやつに用があるだけだ」
 男は苦笑した。
(予想通りだな……)
「あいにくだが、俺はおまえとは違う。人質もとられてねぇし、飼い主を売ることはない」
 薄茶色の瞳が、初めて真っすぐに男に向けられる。
 刺すような視線に思わず男はたじろいだ。
(……しゃべるまで許さねぇって感じだな。でも……)

 男は息を吐くと、静かに口を開いた。
「……人質だったり金だったり、犬のつなぎ方は飼い主しだいだが、俺が何でつながれてるかわかるか?」
 薄茶色の瞳が冷たく男を見つめる。
 男は微笑んだ。

「恩だよ……」
 男はそう言うと、奥歯を強く噛みしめた。
 カリッという音とともに、苦いものが口の中に溢れ出す。
 薄茶色の瞳が見開かれたのが見えた気がしたが、一瞬で目の前は靄がかかったように見えなくなった。
(死体が残るように死んでやるのは、俺の優しさだ。感謝しな)

 男は意識が遠のく中、そっと目を閉じ、ある男を思い浮かべた。
(……すみません。……さん……)
 男は最後に心の中でそう呟くと、静かに意識を手放した。