伝えたい想いは歌声と共に

【優斗side】

 三島が部室を去った後、俺は一人、今のやり取りを振り返っていた。
 そして、昨夜の藍との会話を思い出す。

 藍の様子がおかしくなった原因については、心当たりはあった。
 けど、藍に直接それを聞くのが怖くて、何もできないでいた。

 啓太が背中を押してくれてよかった。
 でなければ、このままずっと、何もできないままだったかもしれない。

(もっと、ちゃんと向き合わないといけないな)

 三島のおかげで、そう心に決めることができた。
 あとはアイツの言う通り、藍としっかり話をするだけだ。
 例えそれで、藍との関係が、二度と戻らないくらいに壊れたとしても。
 最後の授業の終わりを告げるチャイムを、私は複雑な気持ちで聞いていた。
 放課後になったら、部活に行かなきゃならない。
 つまり、ユウくんとも、顔を合わせることになる。

「はぁーっ」

 席を立つ前に、一度ため息をつく。
 ユウくんと会うのがこんなにも憂鬱になるなんて、考えもしなかった。

 今朝起きた時から、ユウくんとはギクシャクしっぱなし。というより、私が一方的に彼を避けていた。

 その理由はもちろん、昨夜の出来事のせい。
 ユウくんが言った、恋愛として誰かを好きになるってのが、よくわからないって言葉。
 それに、私のした告白未遂。
 それらが全然頭から離れずに、今日一日モヤモヤしっぱなしだった。

 私の様子がおかしいのは、他の人から見てもバレバレだったみたい。
 ユウくんは、朝起きてから学校で別れるまでの間、何度も気にしているようなそぶりを見せていたし、真由子や三島だって、どうかしたのかって心配してくれた。

 だけど何があったかなんて言えない。
 特にユウくんには、絶対に言えない。

 いつまでもこんなんじゃダメ。
 軽音部に行くまでに、しっかり気持ちを切り替えなきゃ。

 そう思っても、やろうと思ってすぐにできるもんじゃない。

(今日は、部活に行くの辞めようかな)

 とうとうそんなことまで考えてみる。
 けどそんなことしたら余計心配かけるだろうし、例え部活に出なくても、その後ユウくんは私のうちにくるよね。

 もうどうすればいいのかわかんなくて、頭の中がぐちゃぐちゃになってくる。

 そんな時、急に声をかけられる。

「藤崎……おい藤崎!」
「えっ、何?……三島?」

 声をかけてきたのは、三島。
 三島は既に帰り支度をすませていて、今から教室を出るところみたい。

「何してんだ。部活行かねえのかよ」
「う……うん。今行こうと思ってたとこ」

 まさか、休もうかと思っていたなんて言えない。

「そうか。じゃあ俺、先に行ってるから」
「うん、私もすぐ行くね」

 ああ、行くって言っちゃった。
 まあ、休んでもどうにもならないってのはわかってるから、踏み出すきっかけとしてはちょうどいいのかもしれない。

 よし、行こう!

 覚悟を決めた私は、教科書を鞄に詰めると、教室の外へと出ていった。







 そうしてたどり着いた、軽音部部室。
 けどここまで来たってのに、中に入るのを躊躇する。

 さっき覚悟を決めたばっかりだってのに、またすぐに逆戻りだ。

 ユウくんと会って、どんな顔をすればいいのかな? 自然な感じでいられるかな?

 不安になるけど、ずっとこのまま扉の前でウロウロしているわけにもいかない。
 恐る恐る扉を開けて、中に入る。

「やあ、藍。授業お疲れ様」
「ユ、ユウくん」

 一歩足を踏み入れるのと同時に、ユウくんの声が飛んできた。
 緊張しているのを悟られないよう挨拶を返しながら、先に来ているはずの三島を探す。
 二人きりより三人の方が、気が紛れるはず。

 けどいくら部室を見渡しても、三島の姿はどこにもなかった。

「あれ、三島は?」
「今日はまだ来てないな」
「えっ? 私より早く教室出たのに?」

 もうとっくに来てると思ってたんだけど、いったいどうしたんだろう。

 けど、三島のことばっかり気にしてはいられない。
 何しろ今この部室には、私とユウくんの二人きり。
 向かい合ってると、どうしても昨夜のことを思い出す。

 せめて、何か全く別の話でもしようかな。
 だけど、どんな話題がいいか考える間もなく、ユウくんが話しかけてくる。

「なあ、藍」
「な、なに?」
「今朝から……いや、昨夜から、俺のこと避けてるよな?」
「──っ!」

 突然の言葉に、声を失う。
 私だって、バレてるだろうなとは思ってた、
 けどこんな風に直接聞かれると、なんて答えればいいかわからない。

 黙ってしまった私を見て、ユウくんは少しずつ近づいてくる。

「ねえ、なんで?」

 ユウくんは、決して怒ってるわけでも、強引に聞き出そうとしてるわけでもない。
 むしろ、不安や寂しさでいっぱいになってるように見えた。

 ユウくんにしてみれば、私が何も言わずにいきなり避けられるようになったんだから、無理もない。
 けどそうとわかっていても、なんでかなんて言えないし、こうして正面から向き合うと、どうしていいのかわからなくなる。

 だから、これ以上聞かれるのを避けるように、声を張り上げて言う。

「ちょっ……ちょっと待って! 私、教室に忘れものしたみたいなの。今から取りに行ってくるね!」

 そうして、返事も聞かずに部室から飛び出した。
 早い話が、逃げた。

(どうしよう、どうしよう、どうしよう!)

 私だって、これでいいとは思っちゃいない。
 もちろん忘れ物なんて嘘だし、こんなのどう見ても不自然。
 こんなことしたら、次に会う時余計に気まずくなりそうだ。

 それでも、避けてる理由なんてどう話せばいいかわからないから、今はとにかく逃げるしかなかった。
 だけど、すぐ後ろからユウくんの声がする。

「待って!」

 ちらりと振り返ると、ユウくんが追いかけてくるのが見えた。
 急に逃げ出したんだから、そうするのも当然だ。

 自然と駆け足になって、傍にある階段を降りようとする。
 だけど、後ろにばかり気を回していたのがいけなかった。

 もう一度、ユウくんの様子を見ようと振り返ったその瞬間、階段を踏む足がズルッと滑った。

「わっ!」

 階段を踏み外したんだ。
 そうわかった時には、大きく視界が揺れていた。

「藍!」

 ユウくんが、血相を変えて駆け寄ってくるのが見えた。
 けど幽霊であるユウくんじゃ、私に触ることはできない。
 駆け寄ってきたとしても、倒れる私の体を支えるなんて無理だ。

 それでもユウくんは、階段から転げ落ちそうな私に向かって、必死に手を伸ばしていた。
 ユウくんから逃げ出して、その途中、階段から落ちそうになった私。
 だけど結果から言うと、なんとか無事だった。

 もうダメだって思ったその時、咄嗟に壁に手をついて、転げ落ちないように自分の体を支えていた。

(た、助かった……)

 あのまま階段から落ちていたかと思うと、ヒヤリとする。
 もうダメだって思ったし、こうして無傷で済んだのが嘘みたい。

 壁に手をついた瞬間のことは覚えているけど、あんなに急に動けたなんて、自分でも驚いている。
 体が勝手に動いたなんて表現があるけど、さっきの動きは、まさにそれがピッタリだ。

 実は、そんなおかしな感覚はまだ続いていて、なぜか体の自由がきかない。
 指一本だってまともに動かせなくなっていて、まるで自分の体じゃないみたいだ。

(私、どうしたんだろう?)

 そう思ったその時、ユウくんの声がした。

「藍、大丈夫? 怪我は無い?」
(う……うん)

 心配そうな声を聞いて、さっきまで逃げていたのも忘れて返事をする。
 だけどそこで、すぐにおかしなことに気付いた。

 声を出そうとしても、口はちっとも動いてくれない。
 なのに、言おうとしていた言葉が、耳じゃなく直接頭の中に響いている。

 ユウくんの声も、同じように耳でなく頭の中に直接流れ込んできている。
 まるで、テレパシーで会話をしているみたいだ。

 自由のきかない体に、頭の中に響く声。それに、おかしなことはまだあった。

 ユウくんの姿が、どこにも見えない。
 辺りを見回して探したいところだけど、今もまだ、体の自由はきかないまま。
 仕方なく、もう一度呼びかけてみる。

(ユウくん、どこにいるの?)

 相変わらず口は動かせず、代わりに頭の中に声が響く。
 それでも、その声はユウくんに届いているようで、また頭の中に声が響いた。

「えっと……俺もよく分からないけど、たぶん藍の中」
(へっ?)

 言ってる意味が分からなくて、間の抜けた声を上げる。
 だけどその時、私の体をすり抜けて、弾かれたようにユウくんが飛び出してきた。

「きゃっ!」

 すると今度は、ちゃんと口が動いて、しっかりしたした声があがった。
 同時に、今まで失われていた体の自由が戻ってくる。

「な、何が起きたの?」

 ペタリとその場に座り込んで、私の中から出てきたユウくんを見る。

 どこにいるかって聞いて、藍の中っていってたけど、それってそのままの意味だったの?

 幽霊は物をすり抜けられるから、人間の中に入るのだって、決して不可能じゃない。
 けどそれだけじゃ、さっきまでの不思議な出来事は説明がつかない。

 すると、そこでユウくんが言う。

「もしかして、俺が藍に取り憑いていたのか?」
「取り憑く!?」

 それって、私の体の中に入って、自由に動かしてたってこと?
 幽霊の出てくる話だと、そういうのは定番だけど、まさか自分がそんな体験をすることになるなんて。

 思いがけないことにびっくりするけど、そんな私に向かって、ユウくんが詰め寄ってくる。

「まあ、そんなことはどうでもいいや。それより、本当にどこもケガしてないか? どこかにぶつけたりとかもない?」

 本当に取り憑いてたなら、どうでもよくはない気がするけど、それを言う気にはなれなかった。
 ケガがないか何度も聞いてくるユウくんが、あまりに不安そうにしていたから。
 ユウくんにとっては、私が無事かどうかに比べたら、取り憑いたことなんて、本当にどうでもいいことなのかもしれない。

「大袈裟だよ。階段から落ちそうになっただけじゃない」












 そう言って、だけどすぐにハッとする。
 階段から落ちた。それが原因で、ユウくんは亡くなったんだ。
 しかもその現場は、まさにこの場所。
 当時の事を思い出さないわけがない。

「……ごめんなさい」

 無神経なことを言ったことと、心配をかけたこと、その両方に謝る。
 けどユウくんは、もう一度私にケガが無いか確認すると、途端にホッとする。

「いいんだ。ケガが無くて良かった」

 心から安心しているのを見て、改めて、すごく心配をかけていたんだとわかる。

 けど、それをごめんねって思いながらも、今もまだユウくんの前だと、ソワソワして落ち着かない。

 そもそも私は、さっきまでユウくんから逃げようとしていたし、今だってどう向き合ったらいいのかわからない。

 そんな私の気持ちを知ってか知らずか、ユウくんは再び話しかけてくる。

「なあ。俺と、話をしてくれないか?」

 気まずい。
 だけど、さすがにまた逃げようとは思わなかった。
 そんなことしたら、ユウくんをまた不安にさせてしまう。
 そう思うと、足に力が入らなかった。

 何も答えられず、だけど逃げることもない私を見て、ユウくんは言う。

「もしかして、俺の家の事情って、知ってる?」
「──っ!」

 それは、私にとって一番触れたくない話題だった。
 だからこそ、不自然にユウくんを避けていた。
 ユウくんと、面と向かってこの話をするのが怖かった。

 そして怖がっているのは、多分私だけじゃない。
 いつの間にか、ユウくんの表情にも不安と緊張が戻っていて、手は微かに震えていた。

 それを見て、なんて答えようか迷う。
 本当のことを言うのが怖い。
 だけど、こうも真っ直ぐに尋ねられて、嘘をつくなんてできなかった。

「……知ってる」

 その瞬間、まるで時が止まったような気がした。

 たったそれだけを言うのが、とても怖かった。
 もしかしたら、この一言がユウくんを傷つけてしまうかもしれない。そう思うと、体が震えた。

 けど、それを聞いたユウくんの反応は、想像していた以上だった。
 顏には明らかに悲しみの色が広がっていて、がっくりと肩を落とす。

「そっか……知ってたのか……」

 小さく悲しげな声が、辺りに響く。
 その落ち込み方は、見てるこっちが痛々しくなるくらいだった。

「藍には知られたくなかったな」

 沈んだ声を聞きながら、揺れる瞳を見つめながら、私は正直に答えたことを後悔する。

 ユウくんの抱えていた、家の事情。
 私がそれを聞いて真っ先に思い浮かべたのは、ユウくんが亡くなるより少し前に起こっていた出来事だった。

 それはユウくんからすると、決して人には知ってほしくないものだったと思う。

 そして多分、ユウくんが、誰かを好きになるというのがよくわからないと言っていた理由も、それらの出来事と無関係ではないんだろう。
【優斗side】

 六年前のその日、俺はいつものように、藤崎家のやってる喫茶店で夕食をとっていた。
 夕食に限って言えば、今や自宅よりもここでとることの方が圧倒的に多い。

 それが終わると、藍の宿題を見てやって、それから他愛のないお喋りをする。これもまた、いつものことだ。

 そうしているうちに、そろそろ帰った方がよさそうな時間になる。

「えぇーっ。もう帰っちゃうの?」

 残念そうに頬をふくらませる藍。
 そんなところも可愛かった。

「明日また来るから。そしたら、一緒に遊ぼうな」
「うん。絶対だからね!」

 藍の頭を撫で別れを告げた後、店の方にいる藍の両親の様子を窺う。
 ちょうど手が空いていたようだったから、そっちにも帰りの挨拶をしに行く。

「ご馳走様でした。いつもありがとうございます」

 食事の代金は毎月まとめて支払っているけど、毎日栄養のバランスを考えてくれて、明らかに代金以上のことをしてもらっている。

 そんなおじさんおばさんには、本当に感謝しかない。

 邪魔になると悪いから、一声かけただけで退散するつもりだったけど、俺に気づいたおじさんが、愛想よく返事をした。

「遠慮はいらないって。こっちこそ、いつも藍の面倒見てくれてありがとう」
「いえ、それは俺が好きでやってることなので」

 こうしてお礼を言われるのは何だか照れ臭いけど、同時にとても心地よい。
 けどそれから、おじさんは少し真面目な顔になって言った。

「ところで、お家の方は大丈夫なのかい? その、ご両親のことなんだが……」

 その一言で、場の空気が少し重くなる。
 おじさんは尋ねながらも、どこまで踏み込んでいいのか迷っているみたいで、ところどころ言葉を濁している。
 だけど俺は、笑顔を作ってそれに答えた。

「ご心配なく。少しゴタゴタしてますけど、そこまで深刻になるほどでもないので」
「そうかい。それならいいんだけど……」

 おじさんは、まだ何か言いたそうにしていたけど、結局それ以上は何も言ってこなかった。
 そのことにホッとしながら、もう一度帰りの挨拶をする。

「それではおやすみなさい」
「おやすみ。気をつけて帰るんだよ」

 そうして、一人家路につく。
 その途中、さっきの話を振り返りながら思う。

(おじさんに、余計な気を使わせてしまったな)

 おじさんやおばさんが、俺の家の事情を知ったのは、少し前のこと。
 それ以来、二人とも他人である俺のことを本気で心配してくれた。

 それは、素直にありがたく思う。
 俺にとって、藍は妹みたいに可愛くて、その両親であるおじさんおばさんも、とても大切な存在になっていた。

 だからこそ、できることなら、あの人達を我が家の問題に関わらせたくなかった。

 その我が家が、道の先に見えてきて、そこに明かりが灯っていることに気づく。
 珍しく、父親がこの時間に帰ってきているようだ。
 それに気づいたとたん、急に体の奥底から、モヤモヤした嫌な気持ちが溢れてくるような気がした。

 玄関の扉を開き、そこにある女性ものの靴を見つけると、嫌な気持ちがますます溢れてくる。

 さっさと自分の部屋に行きたいけど、それにはリビングを通らなければならない。
 憂鬱な気持ちでリビングに近づくと、案の定そこからは話し声が、いや、怒鳴り声が聞こえてきた。

「今更出てきて、母親面するんじゃない!」
「あなたこそ、あれでちゃんと育ててるって言えるの!」

 もう何度も聞いた言葉が、耳に飛び込んでくる。
 扉を開いて顔を出すと、そこにいたのは俺の両親。
 二人は俺に気付いて一度だけこちらを見たが、それからすぐに口論を再開した。

 同じようなことをよく飽きもせずに続けられるもんだ。
 そんなことを考えながら、さっさとリビングを抜け、自分の部屋へと入っていく。

 こんなことになったのは、今から数ヶ月前。
 その日俺は、実に七年ぶりに母親と再会した。

 かつて彼女は、父以外に好きな男性ができたと言って、この家を出ていった。
 当時の俺は泣きながら引き留めようとしたけど、振り向きもせずに去って行った。

 それからしばらくは、その光景を何度も思い出し、時には夢で見て、行かないでと叫んでいた。

 けれど、いつの間にか叫ぶ言葉は帰って来るなに変わり、やがては何も感じなくなっていった。

 それが突然戻ってきて、自分を引き取りたいと言った時は呆気にとられたものだけど、再婚した相手と最近になって別れたと聞いて納得した。
 用は、俺を引き取ることで父親から養育費をもらいたいんだ。

 俺の父親は、世間一般で言う高給取りのエリートだから、養育費もそれなりの額が期待できる。

 けど俺の父親はそれに納得いかず、今まで育ててきたのは自分だと、注いできた愛情がどうだの、苦労がどうだの、声高らかに主張した。

 けど俺は、その主張はどこまで正しいのか疑問に思ってる。
 母親が出て行ったその日の夜、父は自分を指して、何でコイツも一緒に連れて行かなかったのかと嘆いていた。

 食事なんてここ数年作ってもらった記憶はなく、好きなものを食べろと現金だけを渡された。
 まともな会話なんて、週に一度あればいい方だ。

 それでも自分を手放したくないのは、養育費をせしめて喜ぶあの女の顔を見たくないからだろう。

 こうして、お互い自分が育てると言っては一歩も引かず、たまにこうして話し合いという名の罵倒が繰り返されている。そんなことが続くものだから、最近ではすっかりご近所の噂の種となっていた。

 因みに、両親が言い争っている間、俺はいつも蚊帳の外だ。自分に関することなのに話に加えてもらえないのは首を傾げるけど、それでも巻き込まれるよりは遥かにマシだから、何も言わなかった。

 自分の部屋に入り戸を閉めるけど、尚も二人の声は聞こえてくる。
 そんな雑音を振り払おうと、俺はベースを取り出し、弦へと指を走らせた。

(文化祭も近いし、もっと練習しないと)

 スピーカーに繋いでいないから音は出ないけど、指の動きの確認ならできる。
 そして何より、これに集中している間だけは、両親の声も少しは遠ざかるような気がした。

 出来ることなら、近所迷惑など考えずに、大ボリュームでかき鳴らしたかった。
 そうしたら、あんな雑音なんて完全に聞こえなくなるのに。

 両親の口論は夜中まで続いた。
 だがそれが終わって母親がタクシーで帰った後も、俺はベースに集中したままだった。
 これを止めたら、その瞬間、また二人の争う声が聞こえてくるような気がしたから。

 そんな訳ないと分かっているのに、それでもベースから指を離すことはできなくて、気が付いた時には朝を迎えていた。
 いったいこれで何度目だろう。最近では、両親がいない日も同じことをやっている気がする。

 まあいいか。
 ちょうど練習量を増やそうと思っていたところだ。何の問題も無い。

 そう自分に言い聞かせながら、俺はますますベースにのめり込む。
 それが、この家の中で両親の声から逃れられる、唯一の方法だった。
【優斗side】

 次の日の放課後、俺は教室であくびを噛み殺しながら、机の上でうつぶせていた。
 頭が重く、まるで靄がかかったようにスッキリしない。

 寝不足だってのはわかってる。
 思えばここ最近、家ではろくに寝ていない気がする。

 もう一度あくびを噛み殺したところで、急に声をかけられた。

「有馬君、部活行かないの?」

 顔を上げると、そこには同じ軽音部の大沢泉がいた。

 いつもなら授業が終わるとすぐに部活に行くのだけど、今は少しでも休みたいと思うくらいに疲れが溜まっている。

 これは、いよいよマズいかもしれない。
 今夜こそはちゃんと寝ようと思ったけど、そんな不調は、大沢にもしっかり見抜かれていたようだ。

「ねえ、もしかして何かあった? なんだか最近顔色悪いし、疲れてるみたいだけど?」

 大沢が心配そうに言う。
 もしかすると、部活の話はついでで、最初からその話をするのが目的で声をかけてきたのかもしれない。

「毎晩練習し過ぎて、寝不足なんだ」

 一応、嘘は言っていない。毎日夜遅くまで練習しているのは本当だ。
 けど、両親に関することは一切口にしなかった。

 こうなったそもそもの原因が両親の喧嘩にあるのは、俺にだってわかっている。
 最近では、両親が家にいない時でさえも怒鳴り声が聞こえてくるような気がして、それを紛らわすために、毎晩ひたすらベースの練習を続けていた。

 けど、それは決して話さない。話したくない。

 だけど、俺が何か言わなくても、大沢はどこか不穏なものを感じていたみたいだ。

「本当にそれだけ?」

 念を押すように聞いてくる。
 それが単なる好奇心じゃなくて、本気で心配しているってのはわかる。
 だけど、答えはこうだ。

「それだけだよ。文化祭も近いし、つい熱が入ってるんだ」
「そう……」

 大沢はその答えに納得しきってはいないようだったけど、俺としては、ここからさらに追及されるのは避けたかった。

「部活には、帰り支度終わったらすぐ向かうから、先に行ってなよ」
「本当に、大丈夫なの?」
「平気だって。眠いってだけで大袈裟だよ」
「そう? それじゃ、待ってるから」

 大沢は渋々と言った様子だったけど、それでも何とか引き下がってくれた。
 俺がこれ以上この話を続けたくないって、察してくれたのかもしれない。

 大沢を見送った後、教科書を鞄に詰め終え、ようやく席を立つ。
 その時、一瞬目の前が暗くなり、足がもつれた。立ちくらみだ。

(またか)

 連日の寝不足のせいで、最近ではこんなことは何度も起きていて、もうすっかり慣れている。
 しばらく何もせずに立ったままでいると、思った通り、少ししたらそれは治まった。

 大沢が行った後で良かった。
 もしも彼女が今のを見ていたら、また何があったのかと心配するかもしれない。
 自分の家が今どんな状況なのか、大沢に教えたくはなかった。

 話せばきっと、彼女は気を使ってくれるだろう。心配してくれるだろう。
 だが俺は、そんなのは望んでいなかった。

 藍のお父さんから俺の家のことを聞かれた時、大丈夫だって言ったのと同じだ。
 軽音部も藤崎家も、俺にとって大切な場所だった。
 ただ惰性だけで帰っているような自宅とは違う。

 そんな大切な場所で、あんな醜い争いのことなんて話したくない。楽しいと思える場所を壊したくない。大事な人達を、ほんの少しだって心配させたくない。

 だから、何があったかなんて言わない。辛いとか苦しいとかなんて、そんなことは絶対に言わない。いや、言えない。

(ダメだな……)

 何だか考えがすっかり暗くなっていることに気づいて、ふっと溜息をつく。
 今の俺は、いったいどんな表情をしているだろう。
 家のことは、誰にも関わらせないと決めてるのに、暗い顔なんてしていたら、やっぱり何かあったのかと心配させるかもしれない。
 もう一人の部員はともかく、泉はそういう所によく気が付く。

 あんな両親のことばかり考えているのがいけないんだ。もっと楽しい事を考えよう。
 そんなことを思いながら、本校舎を出て、部室棟へと入っていく。

 今一番楽しみにしているものといえば、何と言っても、間近に迫った文化祭だ。
 去年はまだまだ下手だったけど、あれから一年たって、少しはマシになったと思う。
 今年はもっと、満足できるような演奏にしたかった。

(文化祭には、藍も来るって言ってたな。だけど、人が多いから迷子にならないかが心配だ。当日は軽音部だけでなくクラスの出し物だってあるけど、時間があれば案内してやれるかもしれない。それなら、事前に藍が喜びそうなものがないか調べておいた方がいいかもな。ああ、それから、文化祭の練習とは別に、あれの練習もしておかないと……)

 そんなことを考えながら、二階へと続く階段を上がっていく。階段を上り終えたら、部室はすぐだ。
 だけどその時、また目の前が暗くなった。
 さっきと同じ、立ちくらみだ。

 さっきもそうしたように、治まるまで動かずにやり過ごそうとする。
 けど今回の立ちくらみは、今までのものよりもずっと酷かった。

「うっ……」

 頭が大きく揺れ、足がもつれる。
 それでも、立っていられないというほどじゃない。
 辛くはあるけど、何とかこらえきれるだろう。
 そう思ったけど、運が悪かった。

 ここが普通の廊下だったら、少しくらいフラついても問題なかったのかもしれない。
 けれど、もつれた足が、運悪く階段を踏み外した。
 そしてさらに運の悪い事に、それはちょうど、最上段まで登った時に起きたことだった。

「うわっ!」

 小さく上げた声は誰にも届かず、そのまま階段を転げ落ちる。
 あまりに突然のことだったから、受け身を取る余裕も無かった。
 それから、頭に強い衝撃が走る。
 それが、俺が覚えている、生きていた頃の最後の記憶だった。

 いや。意識が途切れる直前、一瞬だけ、さっきまで考えていた藍の顔が頭に浮かんだっけ。

 とにかくこれが、俺、有馬優斗の、あまりに唐突であまりに呆気ない最後だった。
 誰だって、知られたくないこと、触れてほしくないことの一つや二つあると思う。
 ユウくんにとって、家の事情というのが、まさにそれだったんだろうな。

 階段でのやり取りを終えて、部室に戻ってきた私たち。
 だけど、その間に漂う空気は重いままだった。

 そんな中、先に口を開いたのはユウくんだ。

「俺の家のことは、いつから知ってたんだ?」
「ユウくんが生きてた頃は、まだ全然知らなかった。だけど後になって、大人の人達が話しているのが聞こえてきたの」

 聞こえてきた話。

 それは例えば、ユウくんのお父さんが、まともに面倒を見ようとしていなかったとか。

 息子のためにも貰ってくれないかと遺品を人に渡していたのは、単に処分する手間を省きたかったからだとか。

 当時ユウくんの親権争いのため頻繁に戻ってきていたはずのお母さんが、そんなユウくんのお葬式には顔も出さなかったとか。

 他にも、ユウくんの両親が離婚してからの家庭環境とか、亡くなる直前にあっていた喧嘩とか、色んな噂が、まだ小さかった私の耳にまで入ってきた。

 最初それを聞いた時は、とても信じられなかった。
 だってユウくんは、そんなの一言だって言ってなかった。
 とても、そんな辛くて苦しい目にあっているようには見えなかった。

 だけど嘘だって思うには、周りから聞こえてくる声は、あまりにも大きすぎた。

「そっか……」

 ユウくんが、悲しそうに、寂しそうに、苦しそうにつぶやく。
 その表情は、これまで私が一度だって見たことのないものだった。

 それを見て、知らないふりをした方がよかったのかもって思った。

 ユウくんが、このことを隠したがっていたのは、私にもわかる。

 だからこそ、何も言わずにずっと黙っていたんだ。

 なら私だって、嘘をついてでも、何も知らないことにしておいた方がよかったのかもしれない。
 けれど、今さらそう思ってももう遅い。

「ねえ藍。俺のこと、軽蔑した?」

 ユウくんが、急に弱々しい声で言う。

「えっ、なんで?」

 どうしていきなりそんなことを言い出すのかわからない。
 けどユウくんは、ゆっくりと続ける。

「だって、そんな大事なことをずっと隠してきたんだ。それに、昨日言ったよな。誰かを好きになるってのがよくわからないって。俺の家の事情を知れば、その理由もだいたいわからないか?」
「えっと……それってやっぱり、お父さんやお母さんの事が原因なの?」

 話しながら、胸が苦しくなっていく。
 ユウくんの心の中の、人には触れられたくない部分を、さらに暴いていってるんじゃないか。
 そんな思いがどんどん広がっていって、申し訳ない気持ちになっていく。

 けれど話を続けてくるのは、そのユウくん本人だ。

 もちろんユウくんだって、こんな話をして平気なわけがない。
 だけど一度話してしまった以上、もう止めることなんてできないのかもしれない。

「誰かを好きになるってこと、よくわからないって言ってたけど、本当は少し違うのかもしれない。好きになるのが怖いんだ。好きになっても、その後に仲がこじれたり、気持ちが変わったりするんじゃないかって思ってしまう。俺の両親だって、昔は仲が良かったんだ。だけど二人とも少しずつ気持ちにズレが出てきて、最後は愛情なんて欠片も残っちゃいなかった。二人とも、すっかり変わってしまった」

 目の前で家族が壊れていくのを目の当たりにしてきたのなら、誰かを好きになるのが不安になるのも、無理はないのかもしれない。

 だけど私は、それを認めるのが嫌だった。
 何とか否定したくて、必死になって言葉を探す。

「で、でも、みんながみんなそうとは限らないじゃない。誰かを好きになって、ずっと変わらずに好きでい続ける人だって、たくさんいるもの」

 私だってそうだ。
 小学生の頃にはもうユウくんを好きになっていて、亡くなった後も、今だってその想いは変わらない。

 好きって気持ち、変わる人だっているけど、ずっと持ち続けている人もいるんだって、わかってほしかった。

 だけどユウくんは、それを聞いて首を横に振る。

「違うよ。俺が信じられないのは、俺自身。両親が離婚してしばらく経ったくらいかな。今は大切だって思ってる人も、いつかは心変わりして、嫌ってしまうかもしれない。そう思うようになったんだ」
「そんな、ユウくんはそんなことしないよ!」 
 叫ばずにはいられなかった。
 そんなの、全然納得できない。
 私の知ってるユウくんは、そんな簡単に大切な人を手放すようなことなんてしない。

「ああ。こんなの、バカみたいな妄想だろ。俺だって、ちゃんとわかってるよ」

 ユウくんはそう言いながらも、依然として表情は暗いままだった。

「でも、俺だって変わるんだよ。昔は大好きだったはずの両親のことも、今はもう他人よりも遠くに感じる。自分でも冷たいってわかってるけど、きっともう家族だなんて思えない。俺だって、結局はあの両親と同じだって思ったよ。それ以来、何度振り払おうとしても、バカな妄想は消えてくれない。これが、俺が誰とも付き合わなかった理由、誰かを好きになるって言うのが分からなくなった理由だよ」

 そこまで言ったところで、ユウくんは深くため息をついて項垂れる。
 叫ぶことも、声を荒げることも無く、ただ静かに語っていただけなのに、酷く疲れて見えた。

「おかしいな。本当は、こんなところまで話すつもりじゃなかったんだ。聞いてて気持ちいい話じゃないし、何より藍には、俺がこんな奴だって知られたくなかった。けど、どうしてだろう。言わずにはいられなかった。ごめんな」

 ユウくんの家の事情は、とっくに知ってた。
 だけどいざこうして本人の口から語られた話は、想像していたよりも、遥かに重く感じた。

 私じゃ決してわからないくらいの辛さや悲しみを、ユウくんはずっと心に抱えていたのかもしれない。

 小学生だった頃、今よりずっと子どもだった私にとって、ユウくんは理想だった。完璧だった。ヒーローだった。

 大げさかもしれないけど、少なくとも私の目には、本気でそう映ってた。

 そんなユウくんが、今目の前で弱々しく項垂れている。
 その姿は、まるで別人みたいに見えた。

 家族。そのたった一点をついただけで、私の思い描いてた理想の姿は、簡単に崩れ去っていた。

『軽蔑した?』

 優斗がさっき言っていた言葉わ思い出す。
 そして、ようやくその意味を理解する。

(ああ、だからユウくんは、ずっとこのことを隠してきたんだ)

 きっと、ユウくんは怖かったんだ。
 私がこれを知って、自分を見る目が変わってしまうのを。
 今まで築き上げた関係が、壊れてしまうのを。

(どうすれば良いの?)

 何か言いたいのに、ちっとも言葉が出てこない。
 今の話をどう受け止めればいいかなんて全然わからなくて、頭の中がぐちゃぐちゃだ。

 いつの間にか私まで項垂れていて、目には涙が滲んできている。

 だけどそんな状態になっても、一つだけ、たった一つだけ、確かなことがあった。

(それでも私は、ユウくんが好き)

 その想いだけは、今も決して変わらない。
 例えどんなにユウくんの弱い部分を目の当たりにしても、ユウくんが心配しているように、軽蔑したり嫌いになったりするようなことはなかった。

 そしてそれに気づいた時、自然とやることは決まっていた。

 下がっていた顔を上げると、もう一度ユウくんを見る。
 肩を落とすその姿を見ながら、喉の痛みをこらえて、ゆっくりと声を絞り出す。

「ごめんねユウくん。私、あんなに近くにいたのに気付けなかった。ユウくんがこんなに苦しい思いをしていたんだって知らなかった」

 それは、ユウくんの家の事情を初めて聞いた時から、ずっと言いたかった言葉でもあった。

 ユウくんが苦しんでいる時、私はそばにいたのに、何もできなかった。
 それどころか、気付きもしなかった。
 それを、ずっと謝りたかった。

 いつのまにか、目に溜まっていた涙が、ぽろぽろと零れ落ちる。

「そんな、藍が謝る事なんて何も無いよ。俺が、嫌われたくないって思って、ずっと隠してきただけなんだから!」

 ユウくんが慌てたように言う。
 そこで私は、それよりもっとずっと大きな声で叫んだ。

「嫌いになんてならないよ! ユウくんのこと、絶対に嫌いになんてならないから!」

 目からは相変わらず、涙がぽろぽろと零れてる。
 それでも、真っ直ぐにユウくんを見る。

 ユウくんの前で、泣くことなんて、子供の頃から何度もあった。
 その度に、ユウくんは私を慰め、元気づけてくれていた。

 だけど、今は違う。今度は私が、ユウくんの不安をなんとかするんだ。

「ねえユウくん。ユウくんは、いつか心変わりするのが怖いって言ってたけど、そんなの誰だって同じだよ。絶対に変わらないって言える人なんて、多分一人もいない」

 小学生の頃の私なら、きっとこんなこといえなかった。
 何も言えずに、ただ泣き崩れていたと思う。
 けれど、今はもう子供じゃない。
 どんなに涙を流しても、ただ泣くだけで終わりになんてしたくなかった。

「変わるかもしれないって言うなら、私だってそうだよね。いつか私のことも嫌いになるかもしれないって、そう思いながらずっと一緒にいたの?」
「なっ──」

 その途端、優斗の顔色が変わった。
 家の事や、自分の心の内を話した時だって、こんなにも取り乱したりはしなかった。

「違う! 藍は大事な妹で、その気持ちは変わりなんてしない!」

 やっぱり。
 ユウくんなら、きっとそう言ってくれるって思ってた。

 私はユウくんのことが恋として好きだから、妹って言われるのは、ちょっと複雑。
 だけど、妹としてすごく大事にされてるってのは、自信を持って言える。

 だけど、ユウくんが今まで言ってきたことには、矛盾があった。

「妹なら、変わらないの? お父さんやお母さんに対する気持ちは変わっても?」

 ユウくんは確かに言ってた。
 昔は大好きだったはずの両親のことも、今はもう他人よりも遠くに感じるって。

 それなら、妹だってそうじゃないの?

 ユウくんは、そこで一度目を瞑って、ゆっくりと天を仰ぐ。
 それから深く大きく息をつくと、ハッキリと言う。

「ああ。変わらない。何があっても、藍は特別だから」
「ユウくん……」

 そう言ってくれること、すごく嬉しい。

 これだと、さっき言った矛盾は、全然解決していない。
 だけどそれでも、ユウくんのその言葉は、嘘とは思えなかった。
 今までたくさん可愛がってもらって、大事にしてもらったからこそ、いくら矛盾したことを言われても、ユウくんのことを信じられた。

 それからユウくんは、またゆっくりと語り出す。

「さっきの話。誰かを好きになるのが怖いって話には、まだ続きがあるんだ。それは滅茶苦茶で、聞いても納得なんてできないかもしれない。それでも、俺の話を聞いてほしい」

 ユウくんの手は固く握られ、微かに震えていた。
 きっと、怖いんだ。
 話せば話すほど、今まで築き上げてきた関係を、壊してしまう気がしてるんだ。

 だけど、そんな不安を抱えながら、それでもちゃんと話そうとしてくれる。
 なら、私がどうするかなんて決まってた。

「いいよ。ユウくんが思ってること、全部言って」

 本当は、私だって少し怖い。
 だけどどんなに怖くても、ユウくんの話そうとしていることから、逃げたくなんてなかった。

 ユウくんの思っていること。
 その全部を、しっかり受け止めたかった。
 次にユウくんから出てきたのは、呟くくらいの小さな声だった。

「藍の言う通り、好きになるのが怖いって気持ちは、誰に対してもあったんだ。両親が離婚してしばらく経った頃には、人と仲良くなるのが怖くなって、気がついたら、周りから距離を置くようになってた」

 それは、覚悟していた答えだった。
 今までの話を聞いて、予想できてたものだった。

 だけど、実際にそれを聞いて平気かって言われると、決してそんなこと無い。

 そんなふうになって、ユウくんはどんな気持ちで毎日を過ごしていたんだろう。
 想像しようとすると、ズキリと胸が痛くなる。

「ちょうど、そんな時だったよ。藍と初めて出会ったのは」
「えっ?」

 思わぬところで私の名前が出てきたもんだから、話の途中だったのに、思わず声が漏れる。

「藍は覚えてる? 俺と初めて会った時のこと?」
「う……うん」

 それは、私がまだ小学校にも通っていなかった頃の、本当に昔の話。
 それでも、決して忘れてなんかいなかった。

「私が迷子になって、それをユウ君が助けてくれたんだよね」

 その日私は、一人で家の庭で遊んでた。
 まだ小さかったから、お父さんやお母さんからは、勝手に外に行ってはいけないって言われていたけど、私はその約束を破ってしまった。

 きっかけが何だったのかはもう覚えてないけど、まだ見た事の無い場所へ行ってみたくなって、気がつけば、一人で家の外に飛び出していた。

 一人で歩く初めての道はワクワクして、どんどん遠くに歩いていったけど、しばらくしてようやく、どうやって家に帰ればいいのかわからないことに気づいた。

 そこまで思い出したところで、ユウくんが懐かしそうに言う。

「驚いたよ。いきなり知らない子が、泣きながら道を聞いてきたんだから」

 そ、そうだよね。
 私、あの時大泣きしちゃって、私のお家どこって、誰でもいいから声をかけたんだよね。

 そしてそれが、私とユウくんとの初めての出会い。

 改めて思い返すと、すっごく恥ずかしい!

「そ……その節は、大変迷惑をかけました……」

 幸いだったのは、うちでやってる喫茶店の名前を、ちゃんと言えたこと。
 それに、ユウくんがそれを知ってたこと。

 だから、私はすぐにうちに帰ることができた。
 その後、お父さんとお母さんにたくさん叱られたけど。

「それから、俺のことを見かけると、寄ってくるようになったな」
「う、うん……」

 元々、ユウくんの家はうちの近所だったから、私の家の近くを歩いていると、たまたま出会うことは何度かあった。

 そしてその度に、私はニコニコしながら、ユウくんの傍によっていった。

 その頃にはもう、私にとってユウくんは、迷子になったのを助けてくれたヒーローだったから。

 それどころか、遊んでほしいとか、家に来てほしいとか、小学校に上がってからは宿題を教えてほしいとか、事あるごとに色んなお願いをした。

 たくさんたくさん、お願いした。
 ……って言うか、あの頃の私、お願いしすぎじゃない?

「藍、どうかした?」

 話の途中で、ユウくんが一度言葉を止める。
 一方私は、火照ってしまった顔を、両手で覆って隠してた。

 昔の自分のあまりのやらかしに、いたたまれない気持ちになってくる。

「あ、あの……ユウくん。その頃の私って、実はすごい迷惑だった?」

 顔を隠したまま、消えそうな声で聞いてみる。
 ユウくんの都合も考えずにあんなこというなんて、昔の私、わがまますぎるよ。

「大丈夫。迷惑なんかじゃなかったよ」
「ほ、本当? 本当に、迷惑じゃなかった?」

 ユウくんの言葉に、覆っていた手を、恐る恐る開いていく。

「まあ、最初のうちは、どうしようって困ったりもしたけど」
「やっぱり! それって迷惑ってことじゃない!」

 再び顔を覆って、悲鳴をあげながら下を向く。
 恥ずかしさと申し訳なさでいっぱいになって、どうにかなってしまいそう。

「落ち着きなって」

 ユウくんは優しく言葉をかけてくれるけど、今はそんな言葉ですら辛く感じる。

(何を言っても受け止めるってつもりだったけど、これは無理!)

 あれ?
 そもそも今って、ユウくんの抱えているものと向き合うつもりでいたんだよね。
 なのに、どうしてこんなことになっているんだろう。

 まさか、こんな形で自分の心に傷を負うなんて思ってもみなかった。

「うぅ……あの頃の私のバカ」

 できることなら、過去に戻って昔の自分を叱ってやりたい。

 そんな私の様子を見て、ユウくんが小さく噴き出した。

「ふふっ──」

 それがまた恥ずかしさを倍増させるけど、そもそもの原因は私なんだから、文句なんて言えない。

「ごめんごめん。笑うつもりはなかったんだ」
(いや、今もしっかり笑ってるよね)

 思わず拗ねそうになるけど、その時になって気づく。
 さっきまで暗い顔をしていたユウくんが、今は笑っていることに。
 まあ、笑うって言っても、相当しょうもない理由だから、喜んでいいのかはわからないけど。

 するとユウくんは、ようやく笑うのを止めて言う。

「そうだな。確かに、ちょっと困りはした。けど、嫌ってわけじゃなかったんだ。さっきも言ったけど、当時の俺は人が怖くなってて、友達だってほとんどいなかった。だけど藍だけは、そんな俺に何度も近づいてきて、笑ってくれて、気付いた時には、それを嬉しいって思うようになってた」
「そ、そうなの?」

 真顔でそんなことを言われたもんだから、さっきまでとは違った意味で恥ずかしくなってくる。
 それを見て、ユウくんはもう一度クスリと笑った。

「そうだよ。それだけじゃない。藍と一緒にいるうちに、いつの間にか他の人に感じてた不安みたいなものも、少しずつ薄くなっていった」

 そ、そうなんだ。
 えっ、でも、ちょっと待って。
 それってつまり……

「それって、その……好きになるのが怖いって気持ちは、なくなったってこと?」

 今の話を聞いてると、そういうことみたいに思えるんだけど。
 そしたらユウくんは、少し困ったように、微妙な表情を浮かべた。

「だったら良かったんだけどな。そうなったのは、藍や一部の人だけで、他の人相手には、相変わらず元のままだった」

 そっか……
 残念だけど、考えてみれば当然だ。
 人を好きになるのが怖い。そんな思いが亡くなるまで続いていたってのは、ついさっき聞いたばかりだ。

 けどそれでも、私と一緒にいるうちに不安が薄くなっていたっていうのは、嬉しかった。
 ユウくんの心を、少しでも変えられたんだって思うと、胸が熱くなってくる。

 そんな私の心の内を察したみたいに、ユウくんは続けた。

「それに、思ったんだ。もしかすると、これがきっかけで変われるかもって。実際、少しずつ変わっていけたって思う。藍の次に、安心して話せるようになったのは、おじさんとおばさんだよ」
「それって、私のお父さんとお母さん?」
「そう。俺の家の事情を知った人は、ほとんど決まって、みんな俺を腫れ物に触るみたいに扱っていた。だけど二人は違ってた。全部知ってて、それでも受け入れてくれた」

 私も、お父さんとお母さんが、どれだけユウくんのことを気にかけていたかは知っている。
 ユウくんが、毎日うちの喫茶店で夕食をとるようになった時、日替わりの特別メニューを考えていたし、喫茶店でなくうちのリビングで食べていったらって言ったこともあった。

「嬉しかった。こんなことを思うのは変かもしれないけど、藍の家にいると、まるで家族ができたみたいに思えた」
「私は、妹?」
「もちろん」

 妹。それは、今までにも何度も言われてきた言葉。
 それが時には切なくて、いつかその関係を変えたいって思っていた。

 だけど、私はわかってなかった。
 一度家族が壊れてしまったユウくんにとって、その言葉がどれだけ大きなものなのかを。

 私が妹でいる事でユウくんが笑顔になってくれたのなら、今はまだ妹でも良かった。
「じゃあ、人を好きになるのが怖いって気持ちは、無くなりかけてはいたんだ」
「ああ。あくまで、無くなりかけてた、だけどな。恋愛に関してはどうしても両親のことを思い出して、そんな気にはなれなかった。それに、母親が戻って来た時は平静じゃいられなかったし、結局、俺はそのまま死んじゃった」

 死。
 今更ながら、その言葉を聞くとどうしても身構えてしまう。
 特に、お父さんとお母さんの揉め事について話した後だと、それさえなければ死なずに済んだんじゃないかって、やるせない気持ちになってくる。
 だけどユウくんは、そこには一切の悲壮感を見せることなく、話を続けた。

「だからさ、やっぱり藍には、こんなの絶対に知られたくなかったんだ。藍にとって、いつだって良い兄貴でいたかったから」
「ユウくんは、いいお兄ちゃんだもん」

 そりゃ、驚いたしショックもあった。
 だけど、それでユウくんを見る目が変わるなんてことはない。

 話を聞く前も聞いた後も、ユウくんは私の理想のお兄ちゃんで、一番大好きな人だった。

「いいお兄ちゃんでいられたのは、藍のおかげだよ。藍がいたから、俺だって少しずつではあるけど、確かに変わっていけたんだと思う。人も自分も、信じてみたいって思えるようにはなった。軽音部に入って仲間を作ることができたのだって、そんな変化の中のひとつだった」

 大沢先生を見て、ユウくんが嬉しそうにしていたのを思い出す。
 それに昔だって、軽音部のことを話すユウくんは、いつも楽しそうだった。

 ユウくんにとって、軽音部は本当に大切な場所だったんだろうな。

 そんなユウくんは、とても、人を好きになるのが怖いなんて思ってたようには見えなくて、変わっていってたんだってのを、何よりも証明しているような気がした。

「それで、さっきの、藍への気持ちは変わらないって言った話に戻るけどさ。やっぱりどんなに考えても、こうして俺を変えていってくれた藍を、嫌いになることなんてありえない。何があっても、藍を好きって気持ちは、絶対に変わらない」
「────っ!」

 好きって言葉に、心臓がドクンと大きく音を立てる。

 ユウくん。そんな言い方だと、まるで愛の告白みたいに聞こえるんだけど、わかってる?

 ううん。家族愛って意味なら、正真正銘の愛の告白って言っていいのかもしれない。

「こんなので、納得してくれるか分からない。だけど……って、藍!」

 そこまで言ったところで、ユウくんは慌てて言葉を止める。
 そして私は、今までとは比べ物にならないくらいに、ボロボロと大粒の涙を流して泣いていた。

「藍! 藍、大丈夫?」

 心配そうに、何度も声をかけてくるユウくん。

 けど違うの。
 私が泣いてるのは、決して悲しいからなんかじゃないから。

「……あ、ありがとう」
「えっ?」

 どうしてお礼を言われたのかまるでわかってないみたいで、困惑したような声をあげるユウくん。

 けれど、私は感謝の気持ちでいっぱいだ。

「私を好きになってくれてありがとう。家族みたいだって思ってくれて、ありがとう」
「……藍」

 ユウくんは、私がいるから変わっていけたって言ってたけど、それなら私は、ユウくんのおかげでたくさんの楽しいをもらってきた。
 誰かを好きになるって気持ちを教えてくれた。

 そんなユウくんに、こんなにも大事に思われているのが、すごく嬉しかった。

 泣きじゃくる私に向かって、ユウくんはそっと手を伸ばす。

「ごめんな、こんなに泣かせて。酷いアニキだな」
「いいの。これは嬉し泣きだから」

 たくさんの涙を流しながら、それでも私は笑った。

 好きな人に、ここまで大切に思われていたんだ。
 そこに込められた思いが例え家族愛のようなものでも、私の胸は、嬉しさと暖かい気持ちでいっぱいになっていた。