その時、私たちの間に、不機嫌な声が割って入ってきた。
「……なあ。二人とも、俺がいるってこと、わかってるよな?」
「み、三島?」
わわっ!
頭を撫でられるのに夢中になってたせいで、三島のこと、ちょっとだけ忘れてた。
三島は、その声に負けないくらいの不機嫌な表情で、睨むように私たちを見ている。
「ご、ごめん……」
大事な話をしてるのに、頭を撫でられて、能天気に喜んでたんだ。そんなの見てたら、怒るのも当然だよね。
もっと真面目に考えないと。
「で、でも、それじゃどうすれば良いの?」
今度は、もっとしっかりしなきゃ。
そう思ったけど、幽霊が出た時どうすればいいかなんて、ちっともわかんない。
それは三島も同じで、腕組みしながらうんうん悩んでた。
「さっきも言った通り、どうすればいいかは、俺だってよくわからない。霊感があるせいで、心霊関係のことは色々調べて知識もあるけど、こんな時どうすればいいかなんて知らねえよ。成仏させることができたら、それが一番いいのかもしれないけどな」
「成仏って、どうやって? お経をあげるとか?」
お経なら、お寺の子どもの三島なら、あげることできるかも。
そう思ったけど、当の本人は浮かない顔だ。
「あのな。そんなのでなんとかなるなら、葬式をあげた時点でとっくに成仏してるだろ。こいつの葬式の時にお経読んだの、俺の親父だぞ」
そういえば、ユウくんのお葬式の時、三島のお父さんもいたっけ。
本物のお坊さんがちゃんとしたお経をあげたのに、こうして幽霊になってるんだから、三島がやっても効果はないかも。
「他に、成仏させる方法定番って言うと、この世に残した未練を晴らすくらいか。何か、生きてる時にやりたかったことってないか?」
三島がそう言って、ユウくんに尋ねる。だけど、これもあまり感触はよくなかった。
「無くはないかな。けど、今さらどうにかできるようなものじゃないんだ」
「そうかなのか?」
「ああ。というわけで、その方法は難しい」
ユウくんのやりたかったこと、いったい何なんだろう。
気になったけど、なぜかユウくんはハッキリ言ってくれなくて、なんとなく聞かない方がいいのかもって思った。
けどそうなったら、いよいよお手上げ。
それからも、三人で色々考えてみるけど、特にこれだってなるようないい案なんて浮かんでこない。
しだいに、みんな口数が減ってくる。
けど、そんな時だった。
しばらくの間黙ってたユウくんが、遠慮がちに口を開いた。
「あのさ。本当に、今すぐ成仏しなきゃダメなのか?」
「お前、なに言ってるんだよ!?」
思わぬ言葉に、三島が目を丸くする。
驚いたのは、私だって同じ。だって、成仏しなきゃダメだから、こうして考えてるんだよね?
けどユウくんも、考えなしにそんなことを言ったわけじゃなかった。
「俺だって、このままじゃダメっぽいのはわかるよ。けどな、とりあえず今のところは、問題なんて起きてないだろ」
「そりゃ、まあ……」
それは、私もそう思う。
少なくとも今のユウくんは、幽霊になったことを嫌がってはいないし、さっき三島が言ってたような、悪霊になる様子もない。
今のままで何が問題かって言われても、すぐには思いつかない。
「これからどうなるかはわからないけど、今は大丈夫みたいだよね。悪霊って、そんなに急になるものなの?」
「それも、よくはわからない。けど確かに、一日や二日でどうにかなるとは思えねえな」
「じゃあ、まだ当分は大丈夫ってこと?」
「そうかもな。けど、やっぱりできることなら、早いうちに成仏させた方がいいと思う。まあ、それができないから困ってるんだけどな。ったく、どうすりゃいいんだよ」
うーんと唸りながら悩む三島。
だけど、とりあえずは、今すぐ危険になるわけじゃなさそうなんだよね。
そして、成仏させた方がいいって言っても、その方法は、今のところ見つからない。
じゃあ、もうこれしかないんじゃないかな?
「とりあえず、ユウくんにはしばらくこのまま幽霊でいてもらって、成仏させる方法は、ゆっくり考えるでいいんじゃないの?」
これには、私の願望も、ほんの少し入ってる。
もちろん私だって、成仏させられるなら、その方がいいっていうのはわかってる。
けどそれはそれとして、もう少しの間、ユウくんと一緒にいたかった。
こんなこと思うなんて、ワガママかな?
「藤崎、お前まで……」
三島は呆れた感じでため息をつくけど、それからまたうーんと唸って、諦めたように言った。
「けどまあ、成仏させる方法がないなら仕方ない。しばらく、このまま幽霊でいるしかなさそうだな」
「本当!?」
思わず、弾むような声が出る。
すると三島は、そんな私とユウくんを交互に見ながら、付け加えるように言う。
「言っとくけど、もし成仏できそうな方法が見つかったら、すぐに試してみるからな。何度も言うが、幽霊になるってのは良い状態とは言えねえんだ」
やっぱりそうだよね。
それは十分わかってるつもりだけど、それでも、三島も認めてくれてホッとした。
たとえ幽霊ってのが良くない状態だったとしても、またしばらくはユウくんに会えるんだ。こんなの、嬉しくないはずがない。
するとユウくんも、ホッとしたように呟いた。
「良かった。本当は、もう少しだけ藍のそばにいたかったんだ」
「ユウくん……」
その言葉にドキリとしたところで、部室の天井に取り付けられたスピーカーから、チャイムが流れ始めた。
下校時間を告げるチャイムだ。
いつの間にか、ずいぶんと時間が経ってたみたい。
鞄と楽器を手に、私たち三人は校舎を出る。ただ一人、ユウくんだけが手ぶらだった。
物に触れることができないんだから当然か。
と、そこであることに気づく。
「そう言えば、ユウくんの靴、どうしようか?」
今のユウくんが、靴なんて持ってるわけない。
服装は生きてた頃のままで、足には学校の中で使う上履きを履いてたけど、外でもそのままでいるしかないのかな。
そう思ったけど、そうして見たユウくんの足には、ちゃんと外用の靴が履かれていた。
「その靴、どうしたの?」
「……あれ? 本当だ」
ユウくん本人も、自分の靴がかわったことには気づいていなかったみたい。
戸惑いながら首を傾げるけど、それを見て三島が言った。
「幽霊の格好ってのは、本人のイメージによって作られるみたいなんだ。本人がその場所に一番適していると思う姿に変化していく。だいたいそうでもないと、服まで幽霊の一部になってるのに説明がつかないだろ」
そうなんだ。
三島、霊感があるって言ってもそこまで強くない、なんて言ってたけど、その辺の知識はすっごくありそう。
「それと藤崎、こいつは他の奴には見えないんだから、話す時は注意しろよ。周りに人がいる時は、喋っているのを聞かれないように。あと、あまり見つめすぎないように。でないと、お前が変な奴って思われるからな。どうしても喋りたいなら、スマホを使って通話してるふりをするって手もある」
こんなアドバイスまでしてくれた。やっぱり詳しい。
「おぉーっ」
「拍手はいらねえよ」
私は素直に感心したんだけど、三島は特に嬉しくも無かったみたいで、フンと鼻を鳴らすだけだった。
「それにしても、全然部活の話出来なかったな」
校門をくぐったところで三島が言う。
そういえば、途中から軽音部の活動の事はすっかり忘れてた。
それを聞いて、ユウくんが謝ってくる。
「時間とらせて悪かったな」
「ううん。ユウくんのせいじゃないって」
「いや、どう考えても俺が原因だろ」
う〜ん。そんなこと無いって言うのは、さすがに無理があるかも。
けど、だからって気にしてほしくない 。部活も大事だけど、今はユウくんの方が大事なんだから。
「どうせ部員ゼロで、俺達以外の見学者もいなかったんだ。入部するのが一日遅れたって問題ないだろ」
「そうそう。だから、全然大丈夫だよ」
三島の言葉に、私も乗っからせてもらう。
それからユウくんは、三島と、彼が持ってる荷物に目を向けた。
「そういえば、霊感少年も軽音部に入るんだよな。肩に担いでいるのは、ギターか?」
「霊感少年言うな。まあ、軽音部に入るのはその通りだよ」
「ギター歴は長いのか?」
「いや、始めてからまだ半年くらいだ」
そういえば、さっきユウくんと二人だけで話してた時、三島の話を出しかけたっけ。
ユウくんも軽音部員として、新入部員である三島のことが気になるみたい。
だけど、三島がギターを始めた時期を聞いて、首を傾げた。
「半年? 確か、藍がベースを始めたのも、そのくらいだったよな?」
「うん、私の少し後に始めたの。凄い偶然でしょ。それまで全然音楽に興味あるように見えなかったから、驚いたよ」
「へぇ。偶然ねえ……」
その偶然のおかげで、新入部員が私だけじゃなくなるんだから、嬉しいよ。
でも、それを聞いたユウくんは、なんだか意味ありげに三島を見る。
どうしたの?
「……なんだよ」
「いいや、なんでも」
二人がそんな言葉をかわして、一瞬、微妙な空気が流れたけど、やっぱり私には、どういうことだかさっぱりわからなかった。
そうこうしているうちに、分かれ道に差し掛かる。
私たちの家と三島の家とでは、ちょっとだけ距離が離れてるから、彼とはここでお別れ。
するとそのタイミングで、ふとユウくんが思いついたように言った。
「そう言えば、つい癖でこっちに帰ってたけど、俺はこのまま自分の家に帰るべきなのかな?」
「あっ……」
そういえばと、それぞれの足が止まる。
それから、真っ先に口を開いたのは三島だった。
「えっと……自分がいなくなった後の家族を見るのは、嫌か?」
「いや、そういうわけじゃないんだけどな」
自分が死んだ後の家族の姿を見るなんて、気まずいことになりかねない。そう思ったのか、三島は、ちょっぴり聞きづらそう。
だけど私は、それとは違うことを考えてた。
ユウくんの家と家族について、とても大事なことをまだ言ってない。
「あの……ユウくん。ユウくんの家、あの後引っ越したんだ」
「えっ?」
ユウくんが亡くなってから一年も経たないうちに、ユウくんのお父さんは、この街を去っていった。
今どこにいるのかは、私も知らない。
「ごめんね。本当はもっと早く言わなきゃいけなかったのに」
これじゃ家に帰ることも、家族の姿を見ることもできない。
けどユウくんが気にしたのは、それとは全く別のところだった。
「困ったな。そうなると、今夜はどこで過ごそうか?」
「気にするとこそこかよ! いや、それも大事だけど、その……家族に会いたいとか無いのかよ?」
家族よりも、今夜寝る場所。
そんな発言を聞いて三島が声を上げるけど、当のユウくんは、あまり気にしていなかった。
「うちの親、放任主義だったから。それに、会いに行っても、俺が見えないんじゃどうしようもないだろ」
「けどよ……」
三島は納得いってないみたいで、まだ何か言おうとしている。
だけど、それを見て私は焦った。
(ユウくんがこう言ってるんだから、もうそれでいいじゃない。この話、もう終わりにしよう)
これ以上、ユウくんの前で家族の話を続けるのは、よくないって思った。
何か、何か話題を変えなきゃ。
例えば、家がないなら、今夜どこで過ごせばいいかとか。
そこまで思ったところで、後は考えなしに叫んでた。
「か、帰る場所が無いなら、私のうちに泊まればいいじゃない!」
その声があまりに大きかったせいか、ユウくんも三島も、ピタリと話すのをやめる。
とりあえず、これで今までの話を終わらせるのには成功。
なんだけど、今になって、自分がとんでもないことを言ったんじゃないかって気になってきた。
(わ、私、ユウくんをうちに呼んだんだよね。しかも、泊まったらって言ったんだよね。男の子相手にそんなこと言うなんて、よかったのかな)
ユウくんは、これを聞いてなんて思うだろう。
恐る恐る表情をうかがうと、私はこんなにドキドキしてるのに、特に動揺した様子もなくて、平常運転って感じ。
それでも念を押すように聞いてくる。
「ありがたいけど、いいのか?」
「うちにご飯食べに来てたのはいつものことだったし、泊まったことも何度かあったじゃない」
「でも、急だし迷惑にならない?」
「そんなことないよ。それに、このままじゃ行く場所が無いんでしょ。そんなの放っておけないよ」
一度言ったんだから、後には引けない。
幽霊になったユウくんが行けそうな場所なんてそう簡単に見つかりそうにないんだから、私が何とかしなきゃ。
それに、ユウくんがうちに泊まるのは、これが初めてじゃない。
休みの日の前の日とかに、私が、今日はずっといてほしいっておねだりしたから。
うぅ….今思うと、かなりワガママなこと言ってたかも。
と、とにかくそういうわけだから、うちに呼んでも何も問題なし。
ってことで、いいよね。
……い、いいよね、多分。
「それじゃ、お世話になってもいいかな?」
「う、うん」
こうして、ユウくんがうちに泊まるのが決定。そう思った、その時だった。
「いや、待て! まずいだろそれは!」
突然、三島が大声で叫び出す。そして、なぜかユウくんに詰め寄った。
「まずいって、何かあるのか?」
「何かってお前……とりあえず、ちょっと来い」
三島は口ごもりながら、チラリと私の方を見る。
「藤崎、今からコイツと二人で話すから、お前はここにいろ」
「えっ、どうして?」
「いいから、ついてくるんじゃねーぞ!」
三島はそう言うと、ユウくんを連れて、道の先の角を曲がったところに歩いていった。
【三島side】
藤崎のやつ何考えてんだ。男を家に呼んで、しかも泊めるってのが、どういうことかわかってんのかよ!
いや。この際、藤崎がわかってないならそれでもいい。
けど、コイツにはしっかり言ってやらねえと。
「どうしたんだ? 何かまずいことがあるなら、藍も一緒にいた方がいいんじゃないか?」
わかってねえのは、コイツも同じかよ。
そりゃ、できれば藤崎にだってわかってほしい。けど、これから話すことは、藤崎の前だと言いにくいんだよ。
「お前、泊まるって、藤崎の家にだぞ。一緒の家にいるんだぞ」
「ああ。やっぱり、いきなりは迷惑かな?」
「そこじゃねえよ!」
くそっ。なんでわかんねえんだよ。
仕方ない。こうなったら、ちゃんと説明するしかねえか。
「前は泊ってたって言っても、それって藤崎が小学生の頃の話だろ。今のあいつは、もう高校生だぞ」
「ああ。すっかり綺麗になったな」
「まあ……綺麗にはなったな。それに、少しは女らしくもなった。だから、つまりその……あれだ」
「あれって?」
ここまで言ってもちっとも伝わらねえ。もっとハッキリ言わなきゃダメなのかよ。
やっぱり、藤崎についてくるなって言っといてよかった。
これから言うことは、あいつには絶対聞かせられない。
「お前は男で、あいつは女なわけで。一つ屋根の下で一晩過ごすわけだろ。そりゃお前は触れることができないから、間違いなんて起こるわけないけど、理性が揺らぐことの一つや二つあるかもしれない。例えば、色々見えたりするかもしれないだろ。風呂上がりとか、パジャマ姿とか、寝起きとか。もしかしたらうっかり着替えてる所なんかも……」
言っててだんだん恥ずかしくなってくる。
泊まるって聞いてこんなこと考えてたなんて、藤崎の前じゃ絶対いえねえ。コイツに話すのだって気まずい。
どうして俺は、コイツ相手にこんな話をしなきゃなんねえんだよ。
けど、俺がそれ以上話を続けることはなかった。
「……なあ、三島」
「なんだよ────ヒィィッ!?」
話を折られて、次に出てきたのは悲鳴だった。
目の前にいるコイツが、とてつもない怒気を放っていたからだ。
それはもう、震え上がるくらいハッキリと。
「────今、藍で何を考えた?」
そう言ったコイツは、なにも鬼みたいな顔をしてるってわけじゃない。
パッと見ただけじゃ、むしろ穏やかそうにも見える。
なのにどういうわけか、それでも怒ってるってハッキリわかるんだ。
小学生のころ、藤崎にちょっかいを出した後コイツにやり込められたことが何度もあったけど、そんなのとは比べものにならない。
「……い……いえ、何も」
震える声で、それだけを言う。
ここで余計なことを言ったら、どうなるかわからない。
「……何もか。よかった」
俺の答えは間違ってなかったのか、それを聞いて、安心したようにため息をつく。
同時に、今まで放っていた殺気も、少しずつ薄れていく。
けどそれが完全に消える直前、小さな声でこう付け加えた。
「もし何か変な想像をしていたら──」
「していたら、どうなったんだ?」
ごくりとツバを飲み込み、恐る恐る聞いてみる。
そしたら、ほんの少し間が空いた後、ゆっくりと口を開いてこう言った。
「────もしそうなっていたら、殺すところだった」
怖えーよ!
心の底から震え上がった。
少し前、コイツが悪霊になるかどうか話していたけど、悪霊にならなくたって十分に怖い。
コイツは、絶対に怒らせちゃいけないやつだ。
「だいたい、俺と藍は兄妹みたいなものなんだ。お前が言うような何かなんてあるわけないし、藍だってそんなこと考えちゃいないよ」
それだけ言うと、あとはスタスタと藤崎のいる方に歩いて行く。
俺もそれに続きながら、二度とコイツの前で余計なことは言わないって心に誓った。
それにこの様子だと、本当に変な気を起こすことはなさそうだ。
けどそれでも、ひとつだけ気になることがある。
確かにコイツなら、俺が心配しているようなことにはならないだろうし、意識だってしてないだろう。
けど藤崎はどうなんだ?
コイツを家に泊めること、本当に全く意識していないのか?
それだけがわからないまま藤崎のところに戻ると、藤崎はこっちに背中を向け、一人で何かブツブツと言っていた。
なんだ?
俺たちが戻ってきたことに気づいてないみたいだし、そっと近づいて聞いてみる。
「私、うちに泊まればって言ったんだよね。どうしよう。そりや、昔はユウくんが家に泊まることも何度かあったけど、なんだか今は凄く恥ずかしい。だって一つ屋根の下に好きな人がいるんだよ。ユウくんがいつまでこの世にいるかはわからないけど、もしかしたら何日もってことになるのかな? 部屋は片付いてるよね。変なところ見られたらどうしよう。部屋だけじゃなくて、私のお風呂上がりとか、パジャマ姿とか、寝起きだって見られるかもしれないし、それどころか……」
めちゃめちゃ意識してるじゃねーか!
本当に大丈夫なのかよ!
幸か不幸か、今の言葉は俺にしか聞こえなかったようで、意識されてる本人はというと、これっぽっちも気づいていなかった。
(ユウくんがうちに来る……今夜、うちに泊まる……)
ユウくんがうちに来たことは何度もあるし、泊まったことだってあるけど、それは全部昔の話。
私が小学生だった頃と今とじゃ、好きな人が家にくるって意味が、全然違うような気がした。
おかげで三島と別れてからうちに帰るまでの間、ずーっと緊張しっぱなし。
それは、ユウくんにも伝わったみたい。
「なあ、藍。本当に、急にやってきてよかったのか?」
「も、もちろんだよ。遠慮しないで」
ここで断ったら、ユウくんの行くところがなくなっちゃう。
それに、緊張はするけど、決して嫌なわけじゃない。
せっかく会えたユウくんが近くにいてくれるんだから、むしろ嬉しくもあるんだから。
そんなことを考えてるうちに、私の家に帰りつき、玄関の戸を開けると、それに気づいたお母さんが出迎えてくれた。
この時間だと、お父さんと一緒に喫茶店をやってるお店の部分で仕事をしてることも多いんだけど、今はたまたまお客さんが途切れていたみたい。
「お帰りなさい。部活どうだった?」
私が軽音部に入ろうとしていることは、お母さんにも話してある。
だけどまさか、そこで幽霊になったユウくんと再会したなんて、夢にも思ってないだろうな。
「うーん、色々あって、ちゃんと始めるのは明日からになった」
もちろんユウくんのことは話せないからごまかしてみるけど、お母さんは特におかしいとは思わなかったみたい。
それからちょっとだけ喋った後、お母さんはお店の方に行ってしまった。
お母さんの姿が見えなくなったところで、隣にいるユウくんを見る。
「おばさんも、俺のこと見えていないみたいだな」
「うん。三島の言ってた通り、やっぱりほとんどの人には見ないんだね」
実はさっき話している最中も、ユウくんはずっと私の隣にいたんだけど、お母さんはちっとも気づかなかった。
こうなるだろうなっては思ってたけど、ちょっとだけ不思議な感じがする。
「とりあえず、中に入ろうか」
「あっ。その前に、一度おじさんの顔見てくるよ。見えなくても、挨拶くらいはしておきたいから」
ユウくんはそう言って、お店の方に向かう。
それじゃ、私はその間おもてなしの準備をしないと。
昔は、そういうのは全部お父さんやお母さんがやってくれてたけど、今ユウくんの姿は私にしか見えないんだし、何よりもう前みたいな子供じゃない。
しっかりできるんだってところを見せなきゃ。
そうと決まれば、台所に行って、コーヒーの準備。
これでも喫茶店の娘だからコーヒーには詳しいし、ユウくんがどんなのを好きって言ってたかは、今でも覚えてる。
豆を選んで、お湯を火にかけ、沸騰するのを待つ。
そうしていたら、ユウくんがお店から戻ってきた。
「今、コーヒーの準備してるから、ちょっと待っててね」
「えっ? でも……」
「いいから、ユウくんは座ってて」
ユウくんをリビングに座らせたところで、火にかけたお湯が沸騰する。
用意していた豆を使って淹れて、カップに注いで、これでできあがり。
そうしてユウくんのところに持っていくけど、それを見てユウくんは困った顔をしてた。
「ごめん。俺、物に触れないから、飲んだり食べたりするのも無理みたい」
「あ……」
ユウくんは、カップに向かって手を伸ばすけど、それを掴むことはできずに突き抜ける。
「ごめんな、せっかく用意してくれたのに」
ユウくんが謝るけど、こんなの気づかなかった私が悪い。
ちょっと考えたら、すぐにわかったのに。
「わ、私こそごめん」
「ううん。わざわざ俺のために入れてくれて、ありがとな。藍、コーヒー入れられるようになったんだ」
私がお父さんとお母さんからコーヒーの入れ方を教わったのは、ユウくんが亡くなった後のこと。
ユウくんにも、飲ませてあげたかったのにな。
「あっ。でも飲むことはできなくても、匂いならわかるか」
「えっ?」
「コーヒーは、味だけでなく香りを楽しむものだからな」
ユウくんはそう言うと、そっとカップに顔を近づけて、ゆっくり息を吸う。
「うん、いい匂いだ。藍、ありがとな」
「う、ううん。こっちこそ、ありがとう」
「ん? なんで藍がお礼を言うの?」
「な、なんとなく」
私の入れたコーヒー、ユウくんに飲ませることはできなかったけど、少しは喜んでくれたかな。
そう思うと、なんだか嬉しかった。
それから私は、一度自分の部屋に入って、制服から部屋着に着替える。
普段は学校から帰った後の部屋着なんて適当に選ぶんだけど、今日は、一番可愛く見えるのはどれだろうって迷う。
「これ? それとも、こっちの方がいいかな?」
高校生になった今、自分がユウくんの目にどう映っているか、前よりもずっと気になる。
そうして着たのは、白のニットに、ピンクのショートパンツ。
ショートパンツは、裾に花のワンポイントがついていてお気に入りなんだけど、丈が短めなんだよね。
足、かなり見えてる。
「どうしよう。本当にこれでいいのかな? あぁっ。でもユウくんを待たせてるし、これ以上悩んでる時間なんてない」
結局、そのままの格好でユウくんのところに行く。
なにやってるんだろう。
可愛く思われたいのはもちろんだけど、特に見てってアピールするわけじゃないから、ユウくんはなんとも思わないよね。
なんだか、ムダに空回りしてるみたい。
「お、お待たせ」
「ああ、着替えたんだ。その服、とってもよく似合ってるよ。制服着てた時は綺麗って思ったけど、そういうのを着た時は可愛いな」
はうっ!
い、いきなり可愛いって言われた!
やっぱりユウくん、サラッとそういうこと言うよね。
そういうところは、昔から変わらない。
今の私が、その一言でどれだけドキッとしてるかも知らないで。
だけど可愛いなんて言われたらやっぱり嬉しいし、昔と同じ調子のユウくんを見ると、懐かしい気持ちにもなってくる。
「急に笑って、どうかした?」
「えっ? 私、笑ってた?」
全然自覚なかった。
けど、ユウくんに可愛いって言われて喜んでましたなんて、ハッキリ言うのは恥ずかしい。
「えっと……ユウくんがまたうちにいるのが、夢みたいだって思ったから」
咄嗟にそんなことを言ったけど、これだって嘘じゃない。
「ユウくん、前は毎日うちに来てて、お店じゃなくてこっちでご飯を食べることだってあったし、遊んでくれたり、私の宿題だって見てくれたでしょ。それが当たり前みたいになってたから、ユウくんが亡くなって、もう来ることもなくなった時、凄く変な感じがした」
ユウくんは亡くなったんだって、もうこの世にはいないんだって、頭ではわかってた。
それでも、まるで胸にぽっかりと穴が空いたみたいで、その隙間は、いつまで経っても埋まらなかった。
「藍……」
申し訳なさそうな声を︎出すユウくん。
けど、違うの。私は、寂しかったって言いたいんじゃないんだよ。
「だ、だからね、今こうしてユウくんがいてくれて、凄く嬉しいの。また、ユウくんと会えてよかった」
そう言って笑顔になると、それにつられて、ユウくんも笑った。
こうして、この話は区切りがついたし、次はこれからのことを考えないと。
「そユウくんが寝るための布団、用意しないとね」
ユウくんは布団にだって触れないだろうけど、それでも、床やソファの上に寝かせるわけにはいかないよね。
確か使ってない布団があったはずだから、お父さんとお母さんがお店に出てる今のうちに、コッソリ用意しておこう。
そう思ったけど、そこで私は、ひとつの問題に突き当たる。
(布団って、どこに敷けばいいの?)
昔ユウくんがうちに泊まった時は、空いている部屋に布団を用意してたけど、そんなことしたら、すぐにお父さんやお母さんに見つかりそう。
それはまずい。
じゃあやっぱり、布団なしで床かソファに寝かせる?
ううん、そんなのダメ。
わざわざ呼んでおいてそんなことさせるなんてできない。
やっぱり、布団はちゃんと用意しないと。
でも、どこに?
悩みながら考える。
うちの中にある、勝手に布団を用意しても、お父さんやお母さんには気づかれそうにない場所を。
そして考えた末に、そんな場所を一つだけ見つけた。
(私の部屋だ!)
「ね、眠れなかった……」
ユウくんがうちに来た次の日。私は、目覚ましが鳴るよりもずっと早い時間に布団から出る。
だって、このまま布団に入ってたって、きっと全然眠れない。
ひと晩のほとんどを起きてたってのに、眠気なんてほとんどなかった。
そのかわり、緊張と疲れは凄いことになってるけど。
「昨日のこと、全部夢だったってことはないよね?」
そもそも眠れなかったんだから、夢なんて見ようがないけど、それでもついそんなことを考えちゃう。
だって、ユウくんが幽霊になって現れて、色々あってうちに泊まることになったなんて、普通ならありえないもん。
けど、確かにあれは現実のはず。
それを確かめるため、私はベッドから降りて、部屋にある押入れに向かって声をかける。
「ゆ、ユウくん?」
昨日いろいろ話し合った結果、ユウくんは、この押入れの中に布団を敷いて寝てもらうことになった。
私の部屋以外じゃ、布団を用意したらすぐにお父さんやお母さんに見つかりそう。
私のベッドのすぐ隣に布団を敷くってのも考えたんだけど、それは無理。
ユウくんが、好きな人がすぐ隣に並んで寝てるなんて、ドキドキしすぎてとても心臓がもたない。
そりゃ昔は、隣で寝るどころか、泊まりに来たユウくんの布団に潜り込んだこともあったけど。
──う、ううん。今は、それは忘れよう。でないと、それだけで心臓が破裂しそう。
その点押入れなら、少しだけ離れているし、扉があるから寝ているところを直接見たり見られたりもしない。
って言っても、こんなに近くでユウくんが寝ているって思うとやっぱり緊張して、ほとんど眠れなかったんだけど。
「ユウくん、起きてる?」
押入れに向かって、もう一度声をかける。
少し待ってたら、ユウくんの声が返ってきた。
「藍? 起きてるよ。もう朝?」
それと同時に、扉から、ユウくんの手が突き抜けてきた。
物に触れられないユウくんは、自力で押し入れの扉を開け閉めできないから、出入りする際はこんな風になる。
幽霊ならではのビックリする光景だけど、それがユウくんなら怖くなかった。
だけどユウくんの頭が出てくる直前、とても重大な問題に気付いた。
これは、まずい!
「あっ────! ま、待って!」
とっさに叫ぶと、それを聞いたユウくんの動きが止まる。
両腕はほとんどこっちに出てきているけど、顔はまだ扉の向こうだ。
「どうかした?」
「ご、ごめん。もう少しだけ、中に入っててもらっていい?」
「──? いいけど」
お願いすると、ユウくんは素直に、押入れの中に引っ込んでいく。
よ、よかった。
「ほ、本当にごめんね。すぐすむから、もう少し押入れの中で待ってて」
それから、そばにある鏡で自分の姿を見る。
今の私の格好は、シワの寄ったパジャマに、洗ってもいない顔。それに、寝癖がついてクシャクシャになった髪。
こんなの、絶対に見せられない!
昨日、お風呂上がりにパジャマ姿を見せた時だって、恥ずかしくて目を合わせられなかった。
その上こんな格好まで見られたら、今度は死んじゃうかも!
そんなことにならないよう、まずは素早く部屋を出て、洗面所で顔を洗う。それが終わったら、また部屋に戻って制服に着替える。
……部屋に戻って、制服に着替える。
(あの押入れの中に、ユウくんがいるんだよね)
中に入ってって頼んであるから、出てきたりはしないよね。
それでも、ユウくんのこんな近くで着替えるって思うと、すっごく緊張する。
もう。昨日から、心臓が大変なことになりっぱなしだよ!
けどモタモタしてたら、それこそ不思議に思って出てきちゃうかも。そんなのダメ!
意を決してパパパーって着替えると、最後にクシで髪を梳いて、リボンでまとめてポニーテールにする。
できればもっともっと時間をかけてしっかり整えたいけど、それだとユウくんを待たせちゃう。
手早く、それでも、おかしいところはないか鏡で何回かチェックして、ようやくまたユウくんに声をかけた。
「ユウくん、もういいよ。待たせてごめんね」
するとさっきと同じように、押入れの扉をすり抜け、ユウくんの手がでてくる。
そして、今度は途中で止まることなく、全身が出てきた。
「おはよう、藍」
ユウくんは、理由を告げずに待たせたことには何も言わなくて、爽やかな顔で朝の挨拶をする。
ちなみにユウくんの格好は、寝る時も今も、昨日と同じ学校の制服だ。
服もユウくんと同じく実体がないから、汚れることもシワが寄ることもないらしい。
ただし、一番上に羽織っていたブレザーだけは無くなってた。
あれを着たままだと寝にくそうってユウくんが思ったら、自然と消えたんだって。
幽霊って不思議。
「おはよう、ユウくん。ごめんね、待たせて」
私も、ユウくんに朝の挨拶をする。
だけど何だか、今日は早くも一日分の疲れを体験したような気がした。
それから、二人揃ってリビングに行くと、お母さんがテーブルの上に朝ごはんを並べはじめていた。
「お母さん、おはよう」
「おはよう。あれ、今日はもう着替えてるの? いつもなら、まだ寝間着のままでしょ?」
うっ! それ、わざわざ聞く?
そりゃいつもなら、私が学校の制服に着替えるのは、朝ごはんを食べたあと。
けどユウくんの目を気にして着替えましたなんて、お母さんには言えない。
恥ずかしくて、ユウくんにも聞かせられない。
(こんなことなら、ユウくんは部屋で待っててもらえばよかった)
そもそもよく考えると、ユウくんはご飯も食べないんだし、ここに来る必要なかった。
けど、今さらそんなことを思ってももう遅い。
「ちゅっ、中学の頃とは家を出る時間も変わるし、早めに準備するようにした方が良いかなって思ったの」
「出る時間って、ほとんど変わってないでしょ?」
「ほんの少しは変わったでしょ」
我ながら苦しい言い訳。
こんな理由で納得してくれたかはわからないけど、とりあえずお母さんは、首を捻っただけでそれ以上は何も聞いてこなかった。
この話は、もうこれで終わってほしい。
けどそう思ったその時、今度はお父さんがリビングにやって来て、言う。
「おや、藍。もう着替えてるなんて珍しいな。髪だって、普段ならまだ寝癖だらけなのに」
「~~~~~~っ!」
どうしてそんなこと言うの!
ユウくん、今の聞こえてたよね。私が普段寝癖だらけだってこと、聞いちゃったよね。
声も無くテーブルの上にうつ伏せる私を見て、お父さんとお母さんは、何事かと顔を見合わせていた。
家を出て学校へと向かう私の隣で、ユウくんが並んで歩いてる。
好きな人と並んで学校に行くっていうのはドキドキする。
って言いたいところだけど、このドキドキは、嬉しさじゃなくて心配の方。
朝ごはんの時、お母さんやお父さんが言ってた、いつもより身支度が早いとか、普段は寝癖だらけとかって言葉。もちろんユウくんも聞いたよね。
それ、いったいどう思ってるかな?
ち、違うから。そりゃ、たまには寝癖がついてることだってあるけど、寝癖だらけってほどひどいのなんて滅多にないから!
「藍。なんか、ごめんな」
「な、何が?」
「今朝の藍、いつもと違ってたんだろ。それって、やっぱり俺に気を使ってたからだよな?」
「ち……違っ……」
違うって言おうとしたけど、それじゃなんて言ってごまかせばいいのかわからない。
「藍だって見られたくない所はあるよな。ごめんな、気付いてやれなくて」
「そ、そんなことは……」
そんなこと、あるにはあるけど、だからってユウくんに謝ってほしいわけじゃないのに。
気まずさと、恥ずかしさで、ユウくんの顔がまともに見れなくなる。
そしたら、そこでユウくんは、頭を下げてきた。
「本当にごめんな。昨日アイツに、三島にも言われたんだ。藍ももう高校生だって」
「三島に?」
そんなの、いつ言ったの?
もしかして、二人が私抜きで話してた時?
「言われた時は、そんなのわかってるつもりだったんだ。あれからもう何年も経ったんだって。でも、今目の前にいるのは藍なんだって思うと、つい同じような感覚になる」
そういえば、ユウくんは亡くなった瞬間に意識が途切れて、幽霊になってこの世に現れたのは、昨日が初めてだって言ってたっけ。
あれからもう何年も経ったんだって頭でわかっていても、実感なんてないのかも。
「ダメだよな。藍だって変わってるってのに、俺だけがあの時のままなんて」
「ユウくん……」
ユウくんのこんな風に悩んでるところ、初めて見た。
確かに、ユウくんの態度は、私が小学生だった頃と、ほとんど変わってない。
平気で頭を撫でてくるし、可愛いって簡単に言ってくる。
それで私がどれだけ動揺してるかなんて、きっとわかってない。
だけど、だけどね……
それだけじゃ、ないんだよ。
「迷惑とか嫌だとか、そんな風には思ってないからね」
ユウくんの、昔と変わらない態度に戸惑ってるのは、その通り。
だけど、それが嫌だって思ったことは、一度もない。
「私だって、ずっとお兄ちゃんだったユウくんが、今はほとんど変わらない年になってて、距離感とかわかんなくなってるよ。もう子供じゃないんだし、前と同じじゃダメなのかな、それとも変わらないままで良いのかなって。だから、動揺したり緊張したりする時もある。でもね、ユウくんと一緒にいると、やっぱり嬉しいし、楽しいから」
面と向かってこんなこと言うなんて、なんだか今までで一番恥ずかしいかも。
それでも、これは言わなきゃ。色んなものが変わったかもしれないけど、ユウくんが大切な人だってのは、何も変わらない。
その気持ちだけは、絶対に伝えたかった。
「これからどんな風にやっていけばいいかは、二人で見つけていこうよ」
ユウくんはそれを聞いて、しばらくの間、何も答えないでいた。
一言も発することなく、手の平で顔を隠すように目元を押さえる。
「ユウくん、どうしたの? 大丈夫?」
もしかして、私、何か変なこと言った?
だけど覆っていた手を外したユウくんの顔は、思いの外嬉しそうだった。
「驚かせてごめんな。でも、藍がこんな事言って元気づけてくれるなんて、本当に成長したんだなって、何だか込み上げてくるものがあったんだ」
「そ、そうなの?」
う〜ん。そんな事でいちいち感激する時点で、やっぱり感覚がズレてるんじゃないかな。
だけど、真剣に話すユウくんは、なんだかおかしかった。
「それに、藍に迷惑がられてるんじゃないって分かって、ホッとした」
「迷惑なんかじゃないよ。ユウに、そんなこと思うわけないじゃない」
ホッとしたのは私も同じ。
せっかくユウくんとまた会えたのに、こんなことでギクシャクするのは嫌だった。
だから、ちゃんと気持ちを伝えられて良かった。
「それで、今の藍と一緒にいる上で、俺がこれから気を付けなきゃいけないこって、何かあるかな?」
「うーん」
言われて考えてみるけど、具体的に例を挙げろというのも難しい。
けど、もしこのまましばらくユウくんが成仏せずこの世にいるのなら、寝泊まりは昨日と同じで、私の部屋の押入れってことになるよね。
それに、普段から近くにいることも多くなりそうだ。
別にそれは嫌じゃないし、むしろ嬉しいけど、やっぱりある程度の線引きは必要かも。
でないと、心臓がもちそうにないから。
「……とりあえず、朝起きるのは、私の準備が終わるまで待っててくれる? その……起きてすぐは顔も洗ってないし、髪もボサボサだから……」
本当は、そういう寝起きの話をするのだって、けっこう恥ずかしい。
けど、毎朝理由も言わずに押入れの中で待ってもらうわけにもいかない。
「わかった、藍がいいって言うまでは、絶対に出て行かないよ」
私は恥ずかしさいっぱいで言ったのに、ユウくんは実にあっさりと頷く。
それは、ちょっと複雑。
(もう小学生の頃とは違うってわかったなら、少しはドキッとしてくれてもいいのに。これじゃまるで、思春期の妹の悩みを聞いてくれるお兄ちゃんって感じだよ。ううん、ユウくんにしてみれば、まさにその通りなんだよね)
高校生になったことで、妹扱いも変わるかもって思ったけど、ユウくんにとっては、小学生の妹が高校生の妹になったようなものなのかも。
態度を改めるって言っても、妹扱いそのものは、簡単には変わりそうにない。
けど妹みたいなポジションなら、それを使って一つくらいおねだりするくらいはいいよね。
「ねえ、手を繋いでいい?」
それは、昔二人で並んで歩いた時は、ほとんどいつもやっていたこと。
そんなことできたのは、妹みたいな立場だからこその特権だった。
「手を繋ぐのはいいのか?」
「良いかどうか、それを決めるためにやるんだよ」
もちろん、そんなのはただの口実。
兄妹でも、この歳になって手を繋ぐってのはあまりないと思う。
私だって、人前でそんなことするのは恥ずかしい。
だけど今、ユウくんの姿は他の人には見えないし、いいよね。
「それじゃ、どうぞ」
差し出されたユウくんの手に、私の手を重ねた。
もちろん、ユウくんに触れることはできないから、本当に繋いでるってわけじゃない。
それでも、手を重ねたまま歩くと、やっぱりドキドキした。
(やっぱり私、今でもユウくんが好きなんだな)
何度も思ったことを、また改めて思う。
ユウくんにとって私は妹みたいなもので、今は私だって、その立場をちゃっかり利用している。
けどできることなら、妹とは違うこの気持ちを、いつかは伝えてみたいとも思ってた。
まだまだ始まったばかりの高校生活だけど、そろそろ授業も本格的に行われるようになってきている。
ちなみに、私たちが授業を受けている間、ユウくんは邪魔になるといけないからって、基本的に別行動をとることにしている。
そして放課後になると、いよいよ部活の時間だ。
昨日はユウくんのことで手一杯だったから、軽音部の活動は、実質今日からがスタート。
三島と一緒に部室に行ったけど、相変わらず、入部希望者も先生の姿も無い。
ただ一人、先に来ていたユウくんが待っていた。
「顧問の先生、今日もいないの?」
「ああ。俺はけっこう前からここにいたけど、来たのは藍たちがはじめてだ」
「じゃあ、やっぱり一度職員室に行くしかないか」
部室の黒板には、昨日と変わらず、『軽音部へ入部希望の方は職員室まで』と書かれていた。
「まあ、顧問って言っても、俺達がいた頃は、ほとんど好き勝手やってたけどな」
三人で職員室に向かう途中、ユウくんがそう言う。
「そうなの? 色々教えてくれたんじゃないの?」
「いいや。顧問って言っても、先生はたまに様子を見に来るくらいだったな」
「そうなのかよ。随分と自由なんだな」
そんなことを話しながら、職員室の前までたどり着く。
次は、ドアをノックして訪ねればいいんだけど、職員室に入るのは少し緊張する。
特に私や三島は、まだこの学校自体に慣れていないから余計にだ。
「俺の姿が他の人にも見えるなら、二人のかわりに話を聞いてやれたんだけどな」
ユウくんはそう言うけど、それを言っても仕方ない。
さらに、啓太がこう言った。
「今部員やってるのは俺たちだろ。こんなことで、いちいち先輩を頼る気はねえよ」
確かに私も、何でもかんでもユウくんに頼るのは違うかなって思う。
けどそれを聞いたユウくんは、話の本題よりも気になることがあったみたい。
「今言った先輩って、俺のことか?」
「悪いかよ。あんた、一応この学校の先輩なんだし、いつまでもお前とかこいつとかで呼ぶわけにもいかねーだろ」
「おぉっ。まさか、そんな気づかいをされるとは思わなかったな」
私もびっくりする。
小学生の頃の三島は、ユウくんのことをまさにお前やこいつって遠慮なしに呼んでたけど、まさかそんな三島がこんなことを言い出すなんて。
「お前も成長したんだな」
「……うるえよ」
三島本人は、私たちの反応が気に入らなかったのか、面白くなさそう。
そういうところは、昔とあまりかわってないかも
「けど言われてみれば、確かに俺は、二人にとって先輩になるか」
ユウくんが正式にここの生徒だったのはもう何年も前だから、確かに私や三島にとっては大先輩だ。
「じゃあ、私もこれからは先輩って呼んだ方がいいのかな?」
「藍に先輩って呼ばれるのも変な感じだし、別に今まで通りでいいよ」
「二人とも、そんなことより、さっさと中に入るぞ」
話がどんどん脇道に逸れそうになったところで、三島がストップをかける。
そうだった。早く、職員室の中に入らないと。
そしてドアをノックすると、すぐにどうぞという声が返ってきた。
ドアを開け中に入ると、若い男の先生が声をかけてくる。
「君たち新入生? 何か用かな?」
「あの、私たち軽音部に入部したいのですが」
「軽音部? ああ、あそこか」
どうやら、これだけで事情を察してくれたみたいだ。
「あの部は、去年まで顧問の先生をやっていた人が辞めてしまったんだ。それにうちの軽音部は、先生はほとんど何も教えず自分達だけでやっていくことになるんだが、それでもいいか?」
顧問の先生、辞めちゃったんだ。
それに、ほとんど何も教えないってのは、さっきユウくんから聞いた通り。
どうやら今でも、生徒が自由に活動するというのは変わってないみたい。
もちろん、私も三島も、それで構わない。
「はい。軽音部への入部を希望します」
「俺もです」
「そうか、わかった。顧問の先生についてはこれから決めることになるから、決定したら連絡するよ」
それから、私と三島は二人して入部届けを書いて、これにて入部の手続きは終了。
だけど職員室を出ようとしたところで、さっきの先生が、思いついたように二人を呼び止めた。
「そうだ。明日の放課後、体育館で部活動紹介があるのは知ってるか?」
「はい。新入生向けにあるやつですよね?」
それなら、ホームルームでも言ってた。
色んな部活の代表が、ステージの上で部活の紹介を兼ねたパフォーマンスをやるんだって。
見に行くかどうかは生徒の自由だけど、聞いた話だと、かなりの人数が行くみたい。
「軽音部は部員も顧問もいないから、手の空いてる先生が簡単な説明をするだけの予定だったんだけど、君達、そこに出る気はある?」
えっ?
まさか、そんなこと言われるなんて思わなかった。
驚いたのは、三島も同じ。
「出るって、俺達がステージの上に立って説明をするんですか?」
そんなところで大勢の人に向かって話をするってなると、緊張しそう。
だけど、先生の話はそれだけじゃなかった。
「希望するなら、一曲くらいは演奏できると思うよ。ただ話をするだけより、部のアピールになるんじゃないかな」
「演奏!?」
なんだか、話しをするだけよりも遙かにハードルが上がった気がする。
もちろん、軽音部のパフォーマンスなんだから、演奏したって不思議じゃない。
先生の言う通り、部をアピールするチャンスにもなる。
けど、あまりに急な話だ。
「ど、どうしようか……」
「どうするって、そうだな……」
私と同じで、三島もどうしたらいいかわからず困ってる。
なら、ユウくんはどう?
そう思ってユウくんを見るけど、ユウくんは特に何も言わずに、静かにこの様子を見守っていた。
「答えは今すぐじゃなくていいよ。だけど、明日の朝くらいには決めてほしい」
「は、はい」
先生にそう言われ、私たちは答えを保留にしたまま、職員室を後にした。
職員室での一件を終え、軽音部室に戻ってきた私たち。
本当なら、これからさあ練習だって言いたいところなんだけど、それよりも先にやらなきゃならないことができちゃった。
さっき職員室で説明された、部活動紹介。
まずは、これに参加するかどうか決めないと。
私と三島、それにユウくんの三人は、それぞれ向かい合うようにイスに腰掛けながら、話を始める。
「えっと、どうしたらいいと思う?」
とりあえず、まずはユウくんに聞いてみる。
三島もどうしたいかわからず悩んでたみたいだし、それなら、ユウくんの意見を聞いてみたい。
「俺はもう部員じゃないし、実際に話したり演奏したりするのは二人だからな。必要だと思ったらアドバイスはするけど、実際にどうするか決めるのも、二人だと思う」
それは、確かに。
今の正式な軽音部員は私たちなんだから、ここは私と三島で話し合って答えを出さなきゃいけないのかも。
けど、それじゃどうすればいいのか、今のところまるでわからない。
それでも、まずは三島が声をあげた。
「話をするくらいなら全然いいけど、問題は演奏だな。俺、人前でまともに演奏したことなんてないからな。いつかはそうしたいって思ってたけど、急な話だし、今の俺達にまともな演奏なんてできるのか?」
「だよね……」
それは、私の抱いていた不安そのものだった。
大勢の人の前で話をするのは、緊張するだろうけど、やってみようって思う。
けど演奏ってなるとどうだろう。
私だって、誰かの前で演奏してみたいって気持ちはある。
ただ、うまくいく自信はないかも。
「私、初めてからまだ半年しか経ってない」
「俺はもう少し短い」
「おまけに、途中で受験勉強も挟んでたよね」
「ああ。おかげで、一時期はほとんど練習できなかった」
これが、私たちの音楽歴の全て。
こんなのでいきなりステージに立って演奏ってなると、そりゃ不安にもなるよね。
「部活動紹介は明日だから、今からじゃ練習する時間も少ないよね」
「ほとんどぶっつけ本番みたいなもの。それで初舞台か」
話していくうちに、元々あった不安が、さらに大きくなっていく。
二人とも口には出さないけど、流れは確実に辞退する方向へと進んでいってるような気がした。
「なあ、有馬……先輩は、初めて人前で演奏したのっていつなんだ?」
三島がユウくんに尋ねる。
決めるのはあくまで自分たちだけど、こういうのを聞くくらいならいいよね。
「そうだな。何人かの知り合いに聞かせたことはあったけど、初めて大勢の前で演奏したのは、一年の頃の文化祭だな。それが確か、始めてからだいたい半年くらいだったかな」
半年。ちょうど、今の私たちと同じくらいだ。
ユウくんが音楽を始めたのは高校に入ってすぐだったから、そこから文化祭のある秋までってなると、確かにそれくらいか。
「半年であんな凄い演奏できたんだ」
その時の文化祭のステージは私も見たけど、今の私よりもずっとずっと上手くてかっこよかった。
やっぱりユウくんはすごいな。
って思ったんだけど、なぜかユウくんは苦笑いを浮かべた。
「藍、あれを上手いと思ったなら、多分それは記憶違いだよ。それか、他のメンバーのおかげでそう聞こえただけだ」
「えっ、そんなことないよ。絶対上手だった」
そういえばユウくん、前にも、あの時の演奏はまだまだ下手だったみたいなことを言っていたっけ。
私にとってはすごかったって、今でも心に刻まれてるのに。
「本人が違うって言ってるんだから違うんじゃないのか。だいたい、半年でそこまで上手くなるのは、いくらなんでも無理があると思うぞ」
「もう、三島まで!」
絶対絶対、上手だったのに。
茶化すように言う三島をジトッとした目で睨むと、ユウくんがまた苦笑いする。
「まあ、上手いって言ってくれるのは、ありがとな。だけどあの時、俺以外の二人はもっと上手かったぞ」
「ユウくん以外の二人?」
そういえば、あの時ステージにいたのは、ユウくんを入れて全部で三人だった。
って言っても、ユウくん以外はほとんど見てなかったから、覚えているのはそれぞれの担当楽器くらい。
「確か、ギターとドラムだったよね」
「そう。ギターの奴はもう何年も前からやっていて、ドラムの子も、元々中学の頃に吹奏楽部に入ってたから、基礎が違ってたんだ。おかげで、初心者の俺は色々フォローしてもらったよ」
ユウくんはそう言うけど、他の人が上手いのは、プレッシャーにもなりそう。
しかも、初めて多くの人の前で演奏するのが、一般のお客さんも来る文化祭のステージだったんだから、明日の部活動紹介よりもずっと緊張しそう。
そんな中で、ユウくんはどんな気持ちでめてのステージに挑んだんだろう。
「ユウくんは、大勢の前でやるのって不安じゃ無かった?」
「もちろん不安はあったよ。前の日の夜なんて、緊張して眠れなかった」
「そうだったの? 全然そんな風に見えなかったよ」
文化祭の前の日にも、ユウくんはいつものように私の家に来てたし、次の日演奏することだって楽しそうに話してたのに。
「人前で演奏するのが怖くて緊張してるだなんて、言いたくなかったからな。特に藍の前では。それに確かに不安だったけど、やっぱり楽しみでもあった。大勢の前で演奏するってのは、一つの目標みたいなものだったからな」
「そうだったんだ」
「それで、実際に演奏してどうなったかは、さっき言った通り。決して上手くは弾けなかった。だけど楽しかったし、また次もやりたいって思った。とりあえず、俺が初めて人前で演奏したのはこんな感じだけど、少しは参考になったか?」
そこまで話したところで、ユウくんは息をつく。
私も、昔見に行ってた文化祭。その時こんなことを思ってたんだって知ったら、なんだか不思議な感じがした。
私たちはどうだろう。今の話を聞いて、明日の部活動紹介をどうするか、もう一度よく考えてみよう。
もちろん、三島も一緒に。
「三島は、今の私達が演奏して、上手くいくと思う?」
「厳しいだろうな。経験も練習量も、きっと全然足りてない」
「やっぱり?」
そうだよね。今の私たちじゃ、まだ人前に立って演奏できるような実力なんてないし、ユウくんみたいにフォローしてくれる人もいない。
それならやっぱり、明日演奏するのは諦めた方がいいのかも。
けどなぜだろう。頭ではそう思っていても、ハッキリやめようとは言えなかった。言いたくなかった。
今のユウくんの話を聞いた後だと、その思いは、ますます強くなっている。
なら、それが私の中の答えなのかもしれない。
「えっとね、三島。私、演奏してみたい。力不足かもしれないけど、それでもやってみたい」
ユウくんだって、大勢の人の前での演奏に不安はあったけど、楽しみにもしてた。
それは、私だって同じ。不安だけど、演奏するところを想像したらワクワクだってしてくる。
楽しみな気持ちがあるってのに、不安になるところだけを気にして諦めるのは、とてももったいないような気がした。
って言っても、これはあくまで、私だけの意見。
「……三島は、どうかな?」
本当にステージの上で演奏するなら、私一人じゃさすがに無理。
もしも三島がやりたくないって言うなら、その時は諦めるしかないのかも。
じっと、三島の返事を待つ。
「お前、何でいきなりそんな事言うんだよ」
最初に出てきた言葉を聞いて、ちょっぴり肩を落とす。
三島は、出たくないって思ってるのかな。
けどそんな予想は、次の言葉を聞いてひっくり返る。
「せっかく、俺からやろうって言おうと思ってたのによ」
「えっ? それじゃあ……」
「演奏しようぜ。まだ初心者だから怖くてできませんなんて、カッコ悪いだろ」
それを聞いて、カッと胸が熱くなる。
三島も同じ気持ちだったんだって思うと、嬉しくなる。
そして、ユウくんが締めくくるように言った。
「どうやら、決まったみたいだな」
そう、決まったんだ。私たちの、初めてのステージが。
気がつけば、グッと力を込めて手を握ってた。
そして私と見は、どちらから言うでもなく、それぞれの楽器を手に取った。
なにしろ、やると決めたのはいいけど、時間がない。
「じゃあ、早速練習開始だね」
「ああ。で、曲は何にするんだ?」
「あれがいいんじゃない? 何度か一緒に練習したやつ」
私が言ったのは、初心者でも割と弾きやすくて、みんなも知ってそうな、知名度の高い曲。
練習した経験も含めて、二人一緒に弾ける曲となると、それしかない。
「じゃあそれでいくか」
こうして私たちは、急遽決まった初ステージに向け、練習を始める。
「二人とも、頑張れ」
そう言ってユウくんは、私たちを嬉しそうに見守っていた。
次の日の放課後。私たちは、体育館の隅で部活動紹介の出番を待っていた。
その途中で先生がやって来て、簡単な説明をしてくれる。
「君達の順番がくる少し前に、機材のセットに入って。部活の説明や演奏は、時間内に納まれば自由にやってくれていいから」
「わかりました」
返事をしながら、ステージを見上げる。
いくつかの部が発表を終えているけど、私たち軽音部の順番までには、まだ少し時間があった。
それでも、これから自分達があそこに立って演奏するのかと思うと、早くも緊張してくる。
三島を見ると、ギターを持って何度も指の動きを確認している。
緊張してるのは、こっちも同じみたい。
(私も、最後の練習をしておかないと)
ベースを取り出して、昨日練習した曲の動きを確認する。
「二人とも、少しは落ち着きなって」
ユウくんがそう言うけど、落ち着くのは、ちょっと難しいかも。
「だって、あんな演奏じゃ心配だよ」
昨日の練習の様子を思い出す。
あれから三島と二人で何度か弾いてみたけど、上手くいかないところがたくさんあった。
元々、そういうことになるって覚悟して、それでも演奏するって決めたんだけど、やっぱり不安になる。
「こんなことになるなら、前からもっと一緒に練習しておけばよかったな」
三島がぼやくけど、私もそう思う。
今の私たちに足りないところなんてたくさんあるけど、特に、お互いの息が全然合ってない。
一人で弾いてた時はなんとかいけるって思えたところも、二人の音を重ねると、どうにも噛み合わないことが多かった。
そりゃそうだよね。
私たちが今まで一緒に練習したのは、せいぜい数回。そのくらいじゃ、息が合わないのも無理ないよ。
不安になる私たちを見て、ユウくんは小さくため息をつく。
「今それを言っても仕方ないだろ。それとも、やっぱり辞退した方が良かったって思ってるのか?」
「それは……」
突然の言葉に、顔を見合わせる私たち。
それから、三島が先に答えた。
「いや……弾きたいか弾きたくないかって言われたら、やっぱり弾きたい」
不安や緊張はあっても、その答えだけは昨日と変わらない。
それは私も同じだ。
「……私も、弾きたい」
力不足なのはわかってる。それでも、演奏自体はやっぱりやってみたかった。
するとそれを聞いて、ユウくんも安心したように微笑んだ。
「そうだろ。なら、もっと楽しみなよ。初めてのことだから、不安なのも緊張するのも当たり前。でも、上手くやらなきゃってことばかり気にしてたら、つまらなくなるぞ。だから決して無理せず、楽しいと思える事を精一杯出来たらそれで良いって、俺は思うよ」
「……うん、そうだね 」
優しく諭すような言葉に、少しだけ気持ちが軽くなったような気がした。
ユウくんが背中を押してくれると、何の根拠もないのに、不思議とそれだけで気持ちが前向きになってくる。
「何だか、先輩っぽいこと言ってるな」
三島が生意気なことを言うけど、それは、緊張をとるためあえてそんなことを言っているようにも見えた。
そしてユウくんも、それを気にする様子はない。
「二人は俺にとって、軽音部で出来た初めての後輩だからな。こういう時は、先輩風を吹かせてもらうぞ」
ユウくんが冗談っぽく言うと、ようやく、その場の空気が少しだけ和らいだような気がした。
それから、見学に来ている生徒達に目を向ける。
さっきまでは緊張しすぎて、それを眺める余裕もなかった
集まっているのは、ほとんどが新一年生。
私たちも一年生なんだから、本当ならそっちにいるのが自然なはず。
そう思うと、なんだか不思議な感じがした。
「そうだ。真由子、いるかな?」
今日、私たちが演奏するってことは伝えていたし、絶対見に来るとも言ってくれてたから、今この体育館のどこかにいるはずだ。
そう思って真由子の姿を探すけど、あまりにも人が多すぎて、全然見つからない。
仕方ないか。
そう諦めかけたその時、ユウくんが小さく呟いた。
「えっ……なんで?」
見ると、ユウくんは驚いた表情で人混みの中を眺めてる。
どうかしたの?
私も、また集まった人達に目を向けるけど、ユウくんが何をそんなに驚いているのか、さっぱりわからない。
「ねえ、どうかしたの?」
「いや。多分、見間違いだと思う」
聞いてみたけど、返ってきた答えは、なんだか曖昧だ。
それからしばらくの間、ユウくんは黙ったまま何か考えているようだった。
だけど、やがて私たちに向かって、突然こんなことを言ってきた。
「ごめん。確かめたいことができたから、少し外す」
「えっ、今から?」
「大丈夫。演奏が始まるまでには、ちゃんと戻るから」
えっ? えっ? いったいどうしたの?
突然のことに戸惑うけど、ちゃんと戻るって言ってくれたし、引き止めるのもよくないよね。
「早く帰ってきてね」
結局、それだけを言って、ユウくんを送り出す。
ユウくんは集まっていた人の体をすり抜けて進んで行って、その姿はすぐに見えなくなった。
「どうしたんだ、あいつ?」
私と一緒にそれを見送った三島も、不思議そうに呟いた。