俺の住んでいるアパートの近くに、小さな公園がある。
公園と言っても、本当に小さなもので、遊具もすべり台と砂場ぐらい。
それにこの辺りは、若い学生が多く、幼い子供たちはあまり見かけない。
学生時代から10年以上、ここ”藤の丸”という町に住んでいるが。
誰ひとりとして、遊んでいる姿を見たことがない。
なぜだろう?
こんなにも綺麗な桜が咲く、公園だというのに……。
その桜の木に気がついたのは、今年が初めてだった。
どうして、今日になって……。
酒が切れてコンビニへ向かうはずだったのに、なぜかその桜が気になって仕方がない。
「きれいだ……」
まだ酔いがさめていないのだろうか?
目の前に咲き誇る、この大きな桜の木に引き込まれていく。
気がつけば、俺の脚は公園の中に。
どうしてだろう。この桜を眺めていると、心が安らぐ。
航太が居なくなって、4カ月以上経つ。相変わらず、彼からの連絡は全く無い。
あんなに、俺のことを慕っていたのに……。ひょっとして、引っ越し先で誰か仲のいい友達でも出来たのか?
所詮、俺みたいなアラサーのおっさんなんて、彼には”通過点”だったのかな。
それとも、嫌われたか。
でも、俺のことを嫌いになって、連絡を取らないのならば、それで良いと思っている。
俺が一番気になっているのは、彼の新しい環境だ。
母親は自分優先だし、新しい父親ってのも怪しい。
連れ子である航太のことを、虐待していないか?
それが一番、俺の恐れることだ……。
出来ることなら、航太が幸せに育って欲しい。
「でも……もう一度、会いたいな」
そう呟くが、返事はない。相手は桜の木だし。
俺も、そろそろ気持ちを切り替えないと。
このまま飲んだくれの生活を続けていたら、原稿も書けない。
いい加減、元の貧乏作家という肩書きに戻らないとな……。
深くため息をついて、振り返ろうとした瞬間だった。
強い春風が全身を吹き抜けてゆく。
急だったので、瞼を閉じる暇もなかった。
目にゴミが入ったようだ。人差し指でこすってみる。
「おっさん!」
「え?」
聞き覚えのある甲高い声に、思わず身体が震えてしまう。
酒が抜けていないから、幻聴でも聞こえたのではないか? と自分を疑う。
しかし、視線を地面に落とすと。
俺の前に一人の小さな人影が見える。
「こんなところで、なにやってんの?」
もし、俺が期待している人物と違っていたら、どうしよう。
でも……二度とあんな後悔だけはしたくない。
俺は勇気を振り絞って、後ろへ振り返ることにした。
そこには……。
黄色のトレーナーワンピースを着た、背の低い少年が立っていた。
丈が短いから、太もも上でひらひらとスカートのように宙を舞っている。
中にショートパンツを履いているようだが、目のやり場に困る。
「お前……」
俺がその名を呼ぶ前に、”彼”がこう叫んだ。
「おっさん! ”誘拐”されに来たよっ!」
と満面の笑みを浮かべる、少年が立っていた。
「バカ野郎……」
熱い涙が頬を伝う。航太が帰ってきたんだ。
※
数ヶ月ぶりに再会できて、喜んでいないと言えば、嘘になる。
でも、別れの挨拶をしてくれなかったことが気に食わない。
それに”新しいお父さん”の存在も、心配だ。
色々な気持ちが胸から溢れ出る……。
「航太、なんでお前……」
「だって、もう母ちゃんのお産も無事に済んだし、藤の丸へ戻ってきたんだ!」
「も、戻るって……じゃあ、新しいお父さんとの家庭は? それに長崎の中学校はどうするんだ?」
「なに言ってんの? 今、春休みじゃん。学校はお休みだよ」
「そうなのか……」
それから、引っ越したあとの出来事を航太が詳しく話してくれた。
母親の綾さんの出産は、少し早く生まれてしまったが、赤ちゃんは元気に育っているそうだ。
入院中のお手伝いやお世話なども一段落して、無事に帰宅。
それからは、新しいお父さんが赤ちゃんをすごく可愛がっており、育児は全て父親がやってくれているらしい。
今まで家事を頑張っていた航太も、そんなにすることがないそうだ。
俺は虐待を疑っていたが、新しい父親は妻となった綾さんにベタ惚れで。
その分、子供たちにも優しいそうだ。
金銭的にも余裕のある、良い家庭らしい。
生まれた赤ちゃんの性別は、男の子。
航太自身、とても可愛がっているらしい。
ただ、新しい父親は兄である、航太にあまり関心が無いそうだ。
血が繋がっていから、そんなもんか。
彼からの話を聞いて俺は少しホッとした。
「ところで、おっさん。なんでこんな公園にいるの?」
「あ、いや……ちょっと、桜がきれいで気になったんだ」
「ふぅん。それよりさ、アパートに戻ろうよ!」
「は? どうして?」
「あったり前じゃん! これから、オレがしばらく暮らす家なんだから!」
そう言うと、自身が背負っている、大きなリュックサックを親指で指してみせる。
春休みだから、連泊するってことか?
※
航太に背中を押されて、無理やりアパートへ戻らされることになった。
本当は、コンビニで酒とつまみを買うところだったのに……。
「さ、早く開けて!」
「わかったよ……」
彼に言われるがまま、扉のカギを開けてみせる。
すると、航太は目を輝かせる。
久しぶりに、俺の家に入れるのが嬉しいようだ。
勢い良く扉を開くと、そこには……。
「な、なにこれぇ! 汚いっ!」
「……」
航太が居なくなってから、4カ月以上経った。
つまりそれだけ、部屋が汚くなったということだ。
キッチンは吸い殻だらけの灰皿に、ウイスキーの空き瓶が何本も並んでいる。
ゴミ袋がたくさん床に溜まっていて、数匹のコバエが辺りを飛んでいた。
「オレがいないだけで、こんなに汚くなる!?」
「悪い……」
航太は久しぶりに俺の部屋を見て、顔を真っ赤にさせていたが。
次第にその怒りは、なぜか笑顔に変わる。
「プッ! やっぱり、おっさんはオレがいないとダメじゃん!」
「いや……これは、ちょっと調子を崩していただけで」
「ふ~ん、調子を崩してるんだ? なら、漫画の原作も書けてないんじゃないの?」
「そ、それは……」
何カ月も、俺の調子が悪いことを知った航太はどこか嬉しそうだ。
口角を上げて距離を詰める。そして下から俺の顔をのぞき込む。
「じゃあ、こうしよ? オレが中学を卒業するまで、毎週この家を掃除してあげるよ」
「はぁ?」
「それでさ、福岡市内の高校を受験して……合格したら、ここに住ませてよ。下宿先として」
「お、お前……それは、親の許可がいるだろ?」
「あんな新婚夫婦は、オレに興味無いって。興味があるのは、おっさんの方でしょ」
「う……じゃあ頼む」
了