1時間ほど経ったころ。
泣き疲れたのか、航太は眠り始めた。
このままにしておくと、風邪を引くので。とりあえず、俺が使っている布団で寝かせることにした。
「結婚に、引っ越しか……」
母親の綾さんも、酷なことをするな。
でも、ただの隣人である俺が、どうこう言える身分じゃないし。
誘拐なんて度胸は無い。
航太は眠るまで、ずっと泣き叫んでいたが。
ここから離れるのが、よっぽど嫌なようだ。
泣きながら、溜め込んだ感情を吐きだしていた……。
『母ちゃんが勝手に決めたんだ!』
『引っ越したくない!』
『せっかく、おっさんと仲良くなれたのに……』
これが彼の本音なのだろう。
寝ている航太のおでこに触れてみる。
少し熱いが、風邪は引いてないな。
しかしだ……ここで大人の俺がなにもしない、ってのもダサい。
いや、自分が許せない。
少しぐらい、綾さんに文句を言ってもいいだろう。
※
寝ている航太を起こさないように、そっと家の扉を閉めて、鍵をかける。
そして、隣りの美咲家へ向かい、チャイムを押してみる。
「はぁ~い」
すぐに甘ったるい声が返ってきた。
結婚すると航太から聞いていたから、恋人と一緒かと思ったが。
そんな気配はない。
扉が開くと、そこには見慣れないショートヘアの女性が立っていた。
別の家のチャイムを、鳴らしたかと思った。
しかし表札は、間違いなく美咲家だ。
「あら? 黒崎さん、お久しぶりですね」
「綾さんっすか? 髪が……」
「あぁ、これですか? これから髪が長いと、いろいろ邪魔になりそうだからぁ」
と短くなった髪を、どこか嬉しそうに触れてみせる。
結婚するからと言って、長い髪を切るか? 普通は逆に伸ばすだろ。
ウェディングドレスのためにとか……。
「あの……航太から聞いたんですけど。ご結婚されるんですか?」
「そうなんですよぉ~ もう結婚なんてしないと思っていたんですけど、急に決まってぇ」
まるで他人事のように話すな。聞いていて腹が立ってきた。
じゃあ航太のことは、どうでもいいのか?
泣きじゃくる彼の姿を思い出し、目の前にいるお気楽な母親と比べてしまう。
相手は女性だけど、この人も親だし少しぐらい、良いよな。
決心がついた俺は両手に拳をつくり、綾さんの目をじっと睨みつける。
「あ、あの! 他人の俺が、言うのもなんですけど……お子さんのこと、ちゃんと考えていますか!?」
元カノの未来や妹の葵にも、怒鳴ったことはない。
生まれて初めて、人に怒りをぶつけてしまった。
ただこれは、航太のためだと思う……。
「え? 子供?」
俺の言葉が足りなかったのか、綾さんはきょとんとした顔で、こちらを見つめる。
「だから、その……ご自分でお腹を痛めて産んだ、お子さんでしょ? もっと彼のことを考えてあげてください」
「お産? あれ、まだ誰にも言ってないのに、バレちゃいました?」
「え? 一体、何を言って……」
そう言いかけている際中に、綾さんは自身のお腹を撫でまわして、衝撃の一言を放った。
「まだ3カ月なんですけどねぇ~」
俺は耳を疑った。
「は? もしかして、お腹に赤ちゃんがいるんですか……?」
「そうなんですよぉ~ 以前、住んでいた場所で仲良くなった男性の赤ちゃんでぇ。”おめでた婚”ってやつです」
「……」
驚きのあまり、怒りを忘れて言葉を失う。
しかし、綾さんが妊娠しているなら、急な引っ越しも理解できる。
航太にも弟か、妹が出来たんだ。
新しい……”お父さん”と暮らさないといけないのだろう。
もう航太が、ここ”藤の丸”に残る……希望がないことに気がついた、俺は絶望した。
綾さんが新しい旦那の話や引っ越し先のことを、ベラベラと話しているが、頭に入らない。
きっと航太がお腹の赤ちゃんのことを知れば、全てを受け入れてしまうだろう。
家族想いの子だから、自分のことは後回しにして我慢するはずだ。
俺じゃ役不足みたいだ。悪い、航太……。
※
その後も、綾さんから一方的に話を聞かされたが、全然頭に入らなかった。
ただ急に決まった引っ越しだから、少しは航太のことも心配しているようで。
俺との繋がりが切れることを、不安に思っているらしい。
それを聞いた俺は「今自分の家で泣いて寝ている」と綾さんに伝えると。
口を大きく開いて、かなり驚いている様子だった。
「そうなんですか……あの子、家ではそんな姿を見せてくれないから」
一応、親としての自覚はあるようだな。
それを聞いた俺は一度、冷静になって、情報を整理してみる。
「ところで、引っ越しはいつするんですか?」
「あ、それは……。実は明日なんです……」
「明日っ!?」
「はい。だから、その良かったら……航太を黒崎さんの家で一泊させてください」
「え?」
「航太。黒崎さんと遊んでもらっている時が、一番楽しそうだから」
正直、どこまでも自分勝手な母親で、女性だと思った。
文句を言いに来たはずなのに、何も言えない。
だって、お腹に赤ちゃんがいるんだ……。
父親違いとは言え、航太の家族になる小さな命。
「わかりました……お身体を大事にされてください」
そう言うと、俺は美咲家を後にした。
明日か……。
綾さんから引っ越しの日時を聞いて、俺は絶望していた。
それにお腹の中には、赤ちゃんが。
彼女は「まだ誰にも話していない」と言っていた。
ということは、航太にも。
自宅に戻ると、部屋の中は真っ暗で、航太はまだ眠っていた。
ショックを受けている、彼を起こしたくない。
だから部屋の灯りは点けないまま、キッチンでタバコを吸うことにした。
換気扇の中に吸い込まれていく、白い煙を眺めて一人考え込む。
俺は本当に無力な人間だ……。
少しでも引っ越しの期日を伸ばそうと、抗議に行ったつもりだったのに。
お腹に赤ん坊が入っていると聞いて、ひるんでしまった。
だが、そのことは、彼に隠していた方が良いのだろうか?
近くにあった灰皿でタバコの火を消すと、深いため息をつく。
「はぁ……結婚に、妊娠か」
そう呟くと、背後からなにか大きな音が聞こえてきた。
振り返ってみると、俺が普段使っているスエットを着た少年が立っていた。
「おっさん、その話。本当なの!?」
しまった。航太に聞かれていたか。
※
綾さんが妊娠していることを、彼に聞かれてしまった。
しかし、バレてしまったものは仕方がない。
俺はなぜ、綾さんが今回の引っ越しや結婚を急ぐ理由を航太に説明した。
最初は顔を真っ赤にさせて、興奮していたが。自身の母親が妊娠していることを知ると、次第に落ち着きを取り戻していく。
いや、正しく表現するのならば、あきらめたのだろう。
「じゃあ……オレ、もうすぐお兄ちゃんになるんだね」
必死に笑顔をつくろうとする彼を見て、胸が激しく痛む。
やはり、彼はなんだかんだ言っても、家族想いの優しい子だ。
こんな幼い子供に、母親の綾さんは甘えている……。
「航太、無理をするな。今日ぐらい、俺に甘えても良いんだぞ?」
そう言って、右手で彼の頭を優しく撫でると。
やはり我慢していたようで、すすり泣く声が聞こえてきた。
「うう……やっぱり、まだここにいたいよぅ」
これが彼の本音だとわかった瞬間、俺は航太を力いっぱい抱きしめた。
クリスマス・パーティーの時にも抱きしめたが、あれは事故に近い。
今回のは、本当に俺がしたいと思って、やったことだ。
「俺も同じ気持ちだ……」
彼の耳元でそう囁くと、航太は大声で泣き叫ぶ。
「うわぁぁん!」
「……」
今すぐこの子を連れて、どこかへ誘拐したいと思った。
でも、俺にはそんな無責任なこと、出来るはずがない……。
~二時間後~
ショックから、しばらく取り乱していた航太だが。
時間が経つと共に、落ち着きを取り戻す。
「おっさん、長いことくっついてごめんね……。あのさ、お腹すいてない?」
「航太……」
こんな時でさえ、自分のことより、他人の心配か。
見ていられない……。
「引っ越しは明日なんだよね? なら最後におかずをたくさん作っておくよ。だって、おっさん。オレがいないとダメじゃん?」
「……」
彼の言う通りだが、今日だけは俺に甘えて欲しい。
そうじゃないと、俺の方がどうにかなってしまいそうだ。
「おっさん? どうしたの?」
黙り込む俺を不思議に思ったのか、下から覗き込む。
大きなブラウンの瞳を輝かせて……。
「あのな、料理とかしなくていいから……。俺と一緒に布団で寝てくれないか?」
「え? おっさんと一緒に?」
「変な意味じゃないんだ。たぶん最後の夜だろ? さびしくならないように、できるだけ一緒にいたいんだ」
それを聞いた航太は、頬を赤くして、しばらく黙り込む。
でも、別に俺からの提案を嫌がったり、恥ずかしがっているようには見えない。
むしろ、驚いているようだ。
俺からそんなことを言ったのが……。
「わかった。寒いし、お布団の中でなにか話そうよ!」
「ああ、そうだな」
部屋の灯りは消したので、隣りに寝ている彼の顔はあまり見えない。
暖房はつけているが、すきま風が入るボロアパートだ。寒いに決まっている。
彼から「なにか話そう」と言ってくれたが、布団に入ってからあまり言葉が出ない。
お互いの身体を密着させて恥ずかしい……というわけではなく、急に決まった引っ越しを受け入れられないのだと思う。
なにを話していいのか、わからない。
最初に口を開いたのは、彼からだった。
「おっさん、オレ……絶対またここ、”藤の丸”へ来るから」
「ああ」
「長崎にも来てよね? 住所と連絡先、あとで送るし。でも、おっさんは貧乏だから無理かな」
正直、彼の皮肉に返す言葉もない。
航太の言う通り、俺は貧乏作家だからそんな頻繁に長崎へ行くほど余裕がない。
「それでも、必ず行くよ」
「あんまり期待してない」
「……」
「おっさん、最後だから言ってもいい?」
「ん? なんだ、遠慮せずに言ってみろ」
俺がそう言うと、航太はなぜか黙り込んでしまう。
そして、しばらく沈黙が続いたあと、こう言った。
「あのさ、記憶が曖昧なんだけど……クリスマスの日。オレとおっさんって、き……キスしたのかな?」
「!?」
まずい。航太のやつ、記憶が残っていたのか。
最後の夜とは言え、彼に変態と思われたくないな。
「どうなの? おっさん」
「あ、あの時はお前、かなり酔っぱらっていたからな。夢と勘違いしているんじゃないか?」
「そっか……なら、良いんだ」
なんだ? 否定したら、少し寂しそうに見えるな。
どっちが正解だったのだろう。
俺と航太は、ここ”藤の丸”へ引っ越してきてからの出来事を夜通し、話し続けた。
狭い布団の中だけど限られた時間を、少しでも二人の思い出に残したかった。
しかし、さすがに夜明けになると、大人の俺でも眠たくなってきた。
「航太……悪い、少し寝てもいいか?」
「いいよ。オレもまだおっさんと話したいから、10分後に起こすよ」
「ああ、頼む……」
~10分後~
たった、10分間寝ただけなのに、ずいぶんと頭がスッキリした。
瞼を人差し指でこすりながら、隣りに寝ている航太の方へ視線を向けると。
「あれ、航太?」
隣りに寝ていた航太の姿が、見当たらない。
ひょっとして、トイレか?
そう思った俺は起き上がって、キッチンの方へ向かう。
「航太~? トイレか?」
そう叫んでも、家の中は静まり返っている。
俺以外、人の気配を感じない。
まさかと思い、壁にかけてある時計を確認すると。
時計の針は、午前10時を過ぎていた。
「なんでだ!? どうして、起こしてくれなかったんだ、航太っ!」
気がついた時には、もう遅かった。
航太のやつ、俺に気を使ったな……。
でも、まだ午前中だし、ひょっとしたら、隣りの美咲家にいるかもしれない。
そう思った俺は、裸足のまま家を飛び出る。
ペタペタと音を立てて、アパートの廊下を走り、隣りの家の扉を力いっぱい拳で叩く。
「美咲さん! まだいますか!?」
しかし、いくら待っても中から声は聞こえてこない。
それでも、俺は扉を叩き続ける。
「航太っ! いるんだろ? 開けてくれよ!」
うそだろ……こんな別れ方、最悪だ。
※
10分以上、美咲家の扉を叩いて叫ぶ男がいる……とアパート内で噂になっていたらしい。
苦情を聞いた大家さんが、二階まで上がってきた。
「黒崎くん、なにしてるの?」
振り返ると、そこには頭の薄い中年の男が立っていた。
学生時代からお世話になっている、大家さん。
しかし、今はそれどころじゃない。
航太がどこにいるか、知りたいんだ。
「大家さん! ここにいた……美咲さんはどこへ行ったか、知りませんか!?」
「え、美咲さんのこと? 昨日、引っ越したでしょ」
「昨日? ウソでしょ!? 俺はこの家の子供、航太と一晩を一緒に過ごしましたよ!」
「航太くんと黒崎くんが、一晩を一緒に……?」
いかん、興奮のあまり、誤解を生むような発言をしてしまった。
「いえ、そう意味じゃなくて。俺は母親の綾さんとも、昨晩一緒に話をしました」
「はぁ……ああ、なるほど。それなら、あれじゃない? 昨日、引っ越し作業と手続きをして、今朝早くに出て行ったとか。身軽にして出たいでしょ」
そう言われたら、俺たちの住んでいるアパートは前から、そんな感じだった。
学生向けに建てられたアパートだし、あまりご近所と仲良くなることもない。
引っ越してきたからと、わざわざ挨拶に来たのは、美咲家が初めてだ。
「じゃあ、もう……あいつは、航太は出て行ったんですね」
「うん。そんなに仲が良かったのなら、あとから連絡でも来るんじゃない?」
「!?」
大家さんに言われるまで忘れていた。
そうだ。航太は昨晩、こう言っていた……。
『長崎にも来てよね? 住所と連絡先、あとで送るし。でも、おっさんは貧乏だから無理かな』
それを思い出して、少し安心した。
※
航太が引っ越してから、三ヶ月が経った。
しかし、彼から連絡が来ることは一切、無く……。
引っ越し先の住所や電話番号も知らない、俺からは何も出来ない。
後悔だけが残る。
あの時、航太が俺に言った言葉は、本気だったのじゃないか?
『お願いだから、オレを誘拐してよっ!』
なら……、あのまま航太を連れてどこかへ。
そんなことを毎日、考えては悔やみ、己の弱さに苛立つ。
胸に大きな穴が開いてしまったようだ。
たった数ヶ月の関係だが、俺にはすごく大きな存在なんだろう。
まるで、失恋した男みたいだ。
いや、今感じている喪失感こそ、失恋なのかもしれない。
元カノの未来と別れても、こんなにダメージは大きくなかった。
まだ何も気持ちを伝えられていないのに……。
彼が居なくなっても、仕事はいつものように依頼される。
編集部の高砂さんから、頻繁に電話が掛かってくるが……。
『SYO先生、まだ原稿を書けてないんですか?』
「すみません……」
『あのロリもの、人気なんですから、早く書いてくださいよっ!』
彼をモデルにしたロリものエロ漫画だが、単行本で発売され人気だそうだ。
でも、俺は続きを書く気が無かった。
ノートパソコンなんて、もう一ヶ月以上、起動した覚えがない。
毎日、安酒を浴びるように飲み続けて、酔いつぶれる。
目が覚めると、激しい頭痛が待っているが、それでも飲まずにはいられない。
そんな生活をずっと送っているから、昼夜逆転してしまう。
でも、近所には24時間営業のコンビニがあるから、すぐに酒を調達できてしまう。
もう春が近い。
俺が愛用している半纏も、もう必要ないかな。
ゆっくり布団から、起き上がると、キッチンへ向かう。
ふと、冷蔵庫へ目をやると……。
『おっさんへ。別れの挨拶がさびしいから、ごめん。バイバイ』
とぐしゃぐしゃになった、メモ紙が貼られていることを思い出す。
引っ越したあとに見つけた航太からの手紙だ。
「挨拶ぐらいしていけよ……」
俺の住んでいるアパートの近くに、小さな公園がある。
公園と言っても、本当に小さなもので、遊具もすべり台と砂場ぐらい。
それにこの辺りは、若い学生が多く、幼い子供たちはあまり見かけない。
学生時代から10年以上、ここ”藤の丸”という町に住んでいるが。
誰ひとりとして、遊んでいる姿を見たことがない。
なぜだろう?
こんなにも綺麗な桜が咲く、公園だというのに……。
その桜の木に気がついたのは、今年が初めてだった。
どうして、今日になって……。
酒が切れてコンビニへ向かうはずだったのに、なぜかその桜が気になって仕方がない。
「きれいだ……」
まだ酔いがさめていないのだろうか?
目の前に咲き誇る、この大きな桜の木に引き込まれていく。
気がつけば、俺の脚は公園の中に。
どうしてだろう。この桜を眺めていると、心が安らぐ。
航太が居なくなって、4カ月以上経つ。相変わらず、彼からの連絡は全く無い。
あんなに、俺のことを慕っていたのに……。ひょっとして、引っ越し先で誰か仲のいい友達でも出来たのか?
所詮、俺みたいなアラサーのおっさんなんて、彼には”通過点”だったのかな。
それとも、嫌われたか。
でも、俺のことを嫌いになって、連絡を取らないのならば、それで良いと思っている。
俺が一番気になっているのは、彼の新しい環境だ。
母親は自分優先だし、新しい父親ってのも怪しい。
連れ子である航太のことを、虐待していないか?
それが一番、俺の恐れることだ……。
出来ることなら、航太が幸せに育って欲しい。
「でも……もう一度、会いたいな」
そう呟くが、返事はない。相手は桜の木だし。
俺も、そろそろ気持ちを切り替えないと。
このまま飲んだくれの生活を続けていたら、原稿も書けない。
いい加減、元の貧乏作家という肩書きに戻らないとな……。
深くため息をついて、振り返ろうとした瞬間だった。
強い春風が全身を吹き抜けてゆく。
急だったので、瞼を閉じる暇もなかった。
目にゴミが入ったようだ。人差し指でこすってみる。
「おっさん!」
「え?」
聞き覚えのある甲高い声に、思わず身体が震えてしまう。
酒が抜けていないから、幻聴でも聞こえたのではないか? と自分を疑う。
しかし、視線を地面に落とすと。
俺の前に一人の小さな人影が見える。
「こんなところで、なにやってんの?」
もし、俺が期待している人物と違っていたら、どうしよう。
でも……二度とあんな後悔だけはしたくない。
俺は勇気を振り絞って、後ろへ振り返ることにした。
そこには……。
黄色のトレーナーワンピースを着た、背の低い少年が立っていた。
丈が短いから、太もも上でひらひらとスカートのように宙を舞っている。
中にショートパンツを履いているようだが、目のやり場に困る。
「お前……」
俺がその名を呼ぶ前に、”彼”がこう叫んだ。
「おっさん! ”誘拐”されに来たよっ!」
と満面の笑みを浮かべる、少年が立っていた。
「バカ野郎……」
熱い涙が頬を伝う。航太が帰ってきたんだ。
※
数ヶ月ぶりに再会できて、喜んでいないと言えば、嘘になる。
でも、別れの挨拶をしてくれなかったことが気に食わない。
それに”新しいお父さん”の存在も、心配だ。
色々な気持ちが胸から溢れ出る……。
「航太、なんでお前……」
「だって、もう母ちゃんのお産も無事に済んだし、藤の丸へ戻ってきたんだ!」
「も、戻るって……じゃあ、新しいお父さんとの家庭は? それに長崎の中学校はどうするんだ?」
「なに言ってんの? 今、春休みじゃん。学校はお休みだよ」
「そうなのか……」
それから、引っ越したあとの出来事を航太が詳しく話してくれた。
母親の綾さんの出産は、少し早く生まれてしまったが、赤ちゃんは元気に育っているそうだ。
入院中のお手伝いやお世話なども一段落して、無事に帰宅。
それからは、新しいお父さんが赤ちゃんをすごく可愛がっており、育児は全て父親がやってくれているらしい。
今まで家事を頑張っていた航太も、そんなにすることがないそうだ。
俺は虐待を疑っていたが、新しい父親は妻となった綾さんにベタ惚れで。
その分、子供たちにも優しいそうだ。
金銭的にも余裕のある、良い家庭らしい。
生まれた赤ちゃんの性別は、男の子。
航太自身、とても可愛がっているらしい。
ただ、新しい父親は兄である、航太にあまり関心が無いそうだ。
血が繋がっていから、そんなもんか。
彼からの話を聞いて俺は少しホッとした。
「ところで、おっさん。なんでこんな公園にいるの?」
「あ、いや……ちょっと、桜がきれいで気になったんだ」
「ふぅん。それよりさ、アパートに戻ろうよ!」
「は? どうして?」
「あったり前じゃん! これから、オレがしばらく暮らす家なんだから!」
そう言うと、自身が背負っている、大きなリュックサックを親指で指してみせる。
春休みだから、連泊するってことか?
※
航太に背中を押されて、無理やりアパートへ戻らされることになった。
本当は、コンビニで酒とつまみを買うところだったのに……。
「さ、早く開けて!」
「わかったよ……」
彼に言われるがまま、扉のカギを開けてみせる。
すると、航太は目を輝かせる。
久しぶりに、俺の家に入れるのが嬉しいようだ。
勢い良く扉を開くと、そこには……。
「な、なにこれぇ! 汚いっ!」
「……」
航太が居なくなってから、4カ月以上経った。
つまりそれだけ、部屋が汚くなったということだ。
キッチンは吸い殻だらけの灰皿に、ウイスキーの空き瓶が何本も並んでいる。
ゴミ袋がたくさん床に溜まっていて、数匹のコバエが辺りを飛んでいた。
「オレがいないだけで、こんなに汚くなる!?」
「悪い……」
航太は久しぶりに俺の部屋を見て、顔を真っ赤にさせていたが。
次第にその怒りは、なぜか笑顔に変わる。
「プッ! やっぱり、おっさんはオレがいないとダメじゃん!」
「いや……これは、ちょっと調子を崩していただけで」
「ふ~ん、調子を崩してるんだ? なら、漫画の原作も書けてないんじゃないの?」
「そ、それは……」
何カ月も、俺の調子が悪いことを知った航太はどこか嬉しそうだ。
口角を上げて距離を詰める。そして下から俺の顔をのぞき込む。
「じゃあ、こうしよ? オレが中学を卒業するまで、毎週この家を掃除してあげるよ」
「はぁ?」
「それでさ、福岡市内の高校を受験して……合格したら、ここに住ませてよ。下宿先として」
「お、お前……それは、親の許可がいるだろ?」
「あんな新婚夫婦は、オレに興味無いって。興味があるのは、おっさんの方でしょ」
「う……じゃあ頼む」
了