「急いで準備しよう」
話によると結婚式は明日。
想像以上に時間がなく、こうなれば穏便に済ませるわけにはいかなくなった。
よく周りに耳を傾けてみると結婚話は至る所で噂になっていた。
つまりこの結婚話はどこからか漏れ出たのではなく意図的に広められているのだとリュードは思った。
もっと情報が欲しいと思い話を聞いてみるけれど、どこもこれから結婚式が行われるという話だけで経緯とか細かな詳細は誰も知らないでいる。
ただ式場となる教会の場所や結婚式が始まる時間なんかはなんとなく分かった。
宿に戻ってルフォンと作戦会議をする。
リュードもそうだったが、ルフォンは相当お怒りで今にもキンミッコを殺しに行きそうな顔をしていた。
この世界でも結婚や結婚式というのは大切なものなので勝手にそんなことをしようとしてるのは許せないのである。
時間がないので複雑な昨年を練られはしない。
この際この国に一生入ることができなくてもいいとリュードもルフォンも考えて作戦を練った。
なりふり構っていられない。
もう隠密にことを済ませられないから逆に人前で襲ってしまって混乱に乗じてしまおうと思った。
暴れてやるつもりだ。
ーーーーー
次の日、リュードは結婚式の会場となる教会の周辺を散策していた。
教会の周辺は噂を聞きつけた物見客とそんな物見客を規制するための兵士とでごった返している。
教会の中に入ることができるのはキンミッコ派閥の偉い人のみ。
今日は一般の人は一切入ることが許されていない。
教会は思いの外大きく、ぐるりと周りを塀で囲まれている。
塀は侵入者防止のためなのか魔法がかけられていて、それなりに強い魔力を感じる。
出入り口は正面の正門と裏にある小さいドアだけ。
どちらも兵士で固められていて簡単に入れそうにはない。
特に正門前は物々しい雰囲気の兵士が待ち構えている。
正面突破はめんどくさそうだなとリュードは見物客に紛れながら観察していた。
分かっていたことだが、こっそりエミナだけ連れ出してくるのは不可能と言わざるを得ない。
派手にやるつもりではあるけれどエミナを見つける前に派手にやり過ぎてエミナを隠されてはたまらない。
時間がないのに正面突破以外の侵入方法が見つからないと少し焦る。
最悪それでもいいけれど見物客も多いのでケガ人なんかが出てしまうかもしれないことは危惧していた。
「人がいっぱいいるねー」
「そだねー」
入るなら裏口からだろうか、そんなことを考えていると頭の上から声が聞こえてきた。
見上げてみると数人の子供たちが窓から教会前の様子を見ていた。
「ねえ、君たち!」
リュードは子供たちに声をかけてみた。
教会前には大きな建物があって、これがなんなのか気になっていた。
「なーにー、お兄さん?」
「ここはなんの建物なんだ?」
「ここー? ここは学校だよー!」
「学校?」
「そうだよー!」
なるほどと思った。
教会の正面にある大きな建物は教会が運営管理する学校であった。
子供たちがいる場所を見て、リュードの頭にある考えが浮かぶ。
「なあ、教会をよく見てみたいんだけど俺もそっちに行っていいか?」
「えー!」
リュードのお願いに子供たちが窓から顔を引っ込めてどうするか話し始めた。
「いいんじゃない?」
「ダメだよ! 勝手に知らない人を入れたら怒られるんだよ!」
「せんせーもいないんだしバレないって」
こそこそとしているつもりなのかもしれないけれど意外と声が大きくて会話が聞こえてくる。
意見が対立しているようで時間がかかり、リュードもずっと見上げていて首が疲れてきていた。
「いいよー!」
子供たちの間で議論はあったみたいだけど最終的には中に入れてもらえることになった。
子どもの1人が降りてきてくれてこっそりとドアを開けて中に招き入れてくれた。
そのまま子供に付いていくと先ほどまで見上げていた教室に着いた。
「あれがね、生命の女神様のケラフィール様のステンドグラスだよ」
教室はちょうど教会の正面に位置していた。
窓からは教会の入り口の上にある女神を象ったステンドグラスが見える。
高さは教室の窓よりも少し下ぐらい。
「静かにしろ!」
下に見える兵士たちが教会前の喧騒を鎮めようとしている。
兵士が動き出したということは、どうやら結婚式が始まるようである。
もう時間もないなとリュードは覚悟を決めた。
学校から教会までは門前の道を挟み、塀があり、そして門の内側に間があって教会。
リュードはこの学校の窓から教会に向かって飛び込んでやろうと思っていた。
どれほど跳べる変わらないけれど最低でも塀までは跳び越えられるぐらいはできる自信はあった。
正門前の兵士さえ越えられれば教会にそのまま突入することはできる。
「……君たちにお願いがあるんだ」
「なーに?」
子供たちが顔を見合わせる。
「俺はこれから大切な友達を助けなきゃいけないんだ。だからこれからやること、秘密にしてほしいんだ」
「友達?」
「誰か困ってるの?」
「そう。すごく困っている友達がいてそれを助けるためにちょっと悪いことしなきゃいけないんだ」
子供たちがざわつく。
少し難しい話だったかもしれない。
「悪いことはダメだよ」
「でも友達を助けるためなんでしょ? じゃあしょうがないじゃない?」
子供たちの間で議論が始まり、意見が2つに割れる。
状況を見ると男の子が友達を助けるためなら派で、女の子が何であれ悪いことはダメ派である。
平行線の議論が続いていたのだが男の子の代表が女の子の代表にとんでもない一言を言い放った。
「でも僕はリノシンが困ってたら悪いことをしてでも助けるよ!」
「な、何変なこと言ってんのよ!」
まんざらでもなさそうなリノシン。
議論は止まり、少し気まずいような、甘いような空気が流れる。
あんなことを言われてはダメだなんて言い返せなくなった。
「そ、その! 大切な友達って女の人ですか?」
返す言葉を失ったリノシンがモジモジとしてリュードに尋ねる。
「ああ、女の子の友達だ」
「……じゃ、じゃあ今回だけ、今回だけは今日のこと、見なかったことにしたげる! 別にアコウィに言われたからとかそんなじゃないから! み、みんなも分かった?」
みんながうんうんとうなずく。
純粋で、良い子たちだなとリュードは微笑む
約束は取り付けた。
あとは怖がらなきゃいいけどと思う。
「な、何してるんですか!?」
フードを外してリュードが上の服を脱ぐ。
女の子たちがキャーキャーしているが別に変なことをしようというのではない。
「わあ……角カッケー」
フードを外すと当然リュードが隠していたツノがあらわになる。
怖がられるかなと思っていたけれど男の子たちはリュードのツノを見て目を輝かせている。
女の子たちもリュードを怖がることはなく、むしろ鍛えられているリュードの体を頬を赤らめて見ている。
リノシンも頬を赤らめているのでアコウィは面白くない顔をしているが、そこは許してほしいとリュードは思う。
「少し離れてて」
そのまま真人族の姿で暴れて犯罪者になると厄介なことになる。
黒いツノのある男なんて特徴的過ぎてすぐに身バレしてしまう。
激しい戦いになる可能性も大きいし姿を誤魔化しつつ、最初から全力で行くつもりだった。
「か……カッケェー!」
リュードは子供たちの前で竜人化した。
怖がられるかもしれないと思っていたのだけれど反応は予想外のものだった。
怖がって引いているような子は何人かいるけれど男の子はリュードの姿にむしろ好意的な反応を見せている。
女の子も冷静で怖がっている様子の子は少なかった。
「それじゃあみんな、秘密にする約束、頼むぞ?」
服を腰につけたマジックボックスのかかった袋に突っ込んで窓から離れる。
子供たちにウインクして見せると、男の子たちは任せて!と興奮している。
とりあえずエミナのようにパニックになる子がいなくてよかった。
「よし」
軽く体を伸ばして心の準備をする。
「行くぞ!」
リュードは走り出す。
窓枠に足をかけるとそのまま大きく窓から跳躍して外に飛び出した。
上を見上げている人なんていないのでリュードに気づいている人はいない。
思いの外跳べたな近づく教会を見ながら思った。
腕をクロスして身を守り、衝撃に備える。
子供たちが自慢していた女神のステンドグラスを突き破り、リュードは教会の中に入った。
「ではこの結婚に異議のある者は」
ガラスが割れる音の向こうで声が聞こえた。
異議のある者?
当然この結婚には異議がある。
誘拐して政治の道具として女の子を利用するだなんて許せるわけがない。
「ここに異議のある者がいるぞ!」
教会入ってすぐの大聖堂。
結婚式が行われているど真ん中にリュードは着地した。
その場にいた全員の視線が飛び込んできたリュードに集まる。
まだ誓いは終わっていない。
なんとか間に合ったようだ。
式場の中にまで物々しい警備の兵はいない。
敵が援護を呼んでくるまでに時間はあるとすぐに状況を把握する。
「リュード……さん?」
「エミナ、迎えに来たぞ」
ちょうどリュードの正面方向に純白の結婚衣装に身を包んだエミナがいた。
隣にはうすらハゲの太った年配の男性。
あれがキンミッコだとすぐにわかった。
「望まない結婚を強制するのは良くないぞ。俺はこの結婚に反対だ!」
「お前は何者だ!」
「俺はシュー……シュバルリュイード、だ!」
ご先祖様、ごめんなさいとリュードは心の中で謝った。
自分の名前をうっかりと口に出してしまいそうになったリュード。
しかしこんな場所で自分の名前を言うわけにはいかない。
適当に名前を言えばいいものをうっかりご先祖様の名前を出してしまった。
「シュバルリュイードだと? 魔人族の英雄の名前を出して何を企んでいる!」
「俺は……正義を成しに来た!」
「…………はぁっ?」
空気が凍りつく。
堂々と目的を言うつもりだったのだが思い直した。
エミナにはこの先もトキュネスで生活することもあるかもしれない。
下手に関係を匂わせるような発言はしないほうがいい。
あくまでリュードの独断での行動ということにしておけばエミナの方で言い訳もできるかもしれない。
それに口から出てしまった言葉はもう引っ込めることはできないのでこのまま押し切る。
「望まぬ結婚を己の欲望のために押し付ける不貞の輩に正義の鉄槌を落としに来た!」
勢いでしゃべっているとはいえ、これはひどいと自分でも思う。
直接エミナのために来たと言わないようにするために思いついたままに口に出しているが、もっとまともな言い訳があったろうと思わざるを得ない。
この場で感動しているのはエミナだけ。
なんで感動しているのかは謎である。
「さあ、その子を返してもらおうか」
「……そいつを捕らえろ! どこの手のものなのか聞き出すんだ!」
「まあ、そうなるよな」
交渉決裂。
こんな風に来ておいて穏便に住むはずもないけど、穏便に済めばと一度言葉で返すようには試みておいただけである。
ダメだったのでさっさと実力行使でエミナを返してもらう。
リュードはエミナに向かって走り出す。
そんな風にしている間にも後ろからゾロゾロと兵士たちが入ってきているが、兵士たちも状況が分かっていない。
敵襲と聞いて来てみれば魔人族の英雄を名乗る怪しい奴が1人いる。
何が起きたのか困惑していた。
「行かせぬ!」
「行かせてもらうよ!」
キンミッコの近くに控えていた重装備の兵士がハルバードをリュードに向かって振り下ろす。
それをリュードは素手でハルバードの柄を受け止める。
リュードがハルバードを掴んだまま手をひねるとハルバードの先端の斧の部分が折れてしまう。
「なっ……」
少しだけ手が衝撃で痛むけれどダメージはほとんどない。
相手に驚く間も与えずリュードは逆の手で相手の顔面をヘルムごと殴りつける。
ガシャンとけたたましく音を立てて重装備の兵士が吹き飛んでいく。
ヘルムが歪んで頭が抜けなくなるかもしれないけど頑張ってほしい。
「あれ? あのクソジジイは?」
振り返るともうそこにキンミッコはいなかった。
「逃げました」
花嫁を置いて逃げるとはなんとも情けない。
追いかけて殴りつけたいところであるが今はエミナの方が優先である。
「まあいい、じゃあ行こうか」
「……どこにですか?」
エミナが視線を教会の入り口に向ける。
リュードたちは入ってきた兵士たちに完全に包囲されていた。
「に、逃げられないぞ」
すでに結婚式の客は避難して、大聖堂いっぱいに兵士が集まっている。
「本当に私にかかってくるつもりか?」
兵士に向き直り、ピンと胸を張って少し正義の使徒っぽく演じる。
この人数を前に怯むともないリュードの姿に兵士たちの方が怖気付いている。
「あいつが戦争で名を馳せた化け物な訳がない。恐れるな!」
ご先祖様は魔人族の英雄。
単純に魔人族の英雄といえば竜人族以外の種族にもいるのだが、面白いのはそれぞれの種族の英雄にはそれぞれ特色があることだった。
英雄の1人が竜人族ということで竜人族はよくこうした英雄の話をする。
中でも竜人族のご先祖様のシュバルリュイードの特色は竜人族というだけでない。
「チェーンライトニング!」
竜人族の英雄の特色は雷属性の魔法をよく使っていたことである。
竜人族は魔法が得意なので他の属性も使えるのだが、シュバルリュイードは雷属性の魔法をよく使っていたらしいのだ。
理由は単純明快で雷属性が空いていたからというのが竜人族にひっそりと伝わっている。
たまたまそれぞれの種族から英雄と呼んでいいレベルの者が出た。
種族によっては得意な属性や戦い方があり、英雄それぞれ別々の特色を持っていた
火は魔王が使っているし他の属性も他の英雄となる人が使っていた。
なので特徴を持たせる意味でも雷属性を使っていたのである。
つまりシュバルリュイードは自分という存在を際立たせるために雷属性を選んだのだ。
見た目と合わせて黒雷なんて呼ばれていたらしい。
とんでもない話であるが遥か昔の魔力が多い時代の竜人族は魔法も色々使えたので雷属性でもなんの問題もなかったのである。
空気に魔力が拡散する速度が早い雷属性は力の消耗が激しく、生まれ持って雷の性質をもつ者以外にはあまり使われない。
魔法が衰退した今現在ではより下火になっている属性である。
けれどもリュードは魔法の勉強が好きで、失われつつある雷属性はヴェルデガーの魔導書の中にも書いてあった。
「ぎゃああああっ!」
リュードが放った雷は1番近くの兵士に当たり、威力を減じながら次々と近い人に連鎖していく。
1回の魔法で十数人が感電してしまう。
倒れたのは最初に感電した数人だったが倒れなかった人も全身に走る感じたことのない痛みに多くひるんでいる。
ご先祖様に憧れて、ではなく狩りの時感電させられたら便利そうという理由で練習していたのでリュードは雷属性も扱えた。
魔力も多く電気のイメージが出来たリュードは他の人よりも雷属性に適性があったのだ。
「あれは雷魔法!」
「ウソだろ! 今時あんな魔法扱える奴がいるのか!?」
「まさか本当に英雄……しかしもうとっくに死んでいるはずだ!」
敵に動揺が走る。
真人族は身体能力的に魔法耐性が低いので雷属性の魔法はよく効く。
身につけている防具だってアンチマジックの性能もなければ鎧も着ていないも同然である。
こう考えると雷属性は奇しくも真人族キラーな性能を持つ魔法となる。
キンミッコは求心力がないようだ。
命をかけてリュードに挑んでくる者もいなければ適正な指示を飛ばす指揮官もいない。
やる気もなく統率も取れていない、槍や剣を持った烏合の衆。
「道を開けろ!」
リュードが右手を上げる。
バチバチと雷が弾ける音がし始める。
わざとすぐには魔法を打たず道を開ける時間をつくってやる。
人が避けたのを確認してそこに雷を落とす。
カッと一瞬閃光が走り、雷が床にぶつかって轟音が鳴る。
教会の床が焦げてしまったが、悪人に結婚式を開かせた代償だと思って許してほしい。
「行くぞ」
「リュリュリュ、リュー……」
「シィー! 名前を呼ぶな」
エミナを抱きかかえる。いわゆるお姫様抱っこというやつである。
体面的にエミナが大人しく付いてきたよりも誘拐っぽく見えるはずだ。
あくまでもリュードが連れ去ったのである。
急な密着にエミナの顔が一瞬で真っ赤になる。
普通に名前を呼びそうになったのでエミナの口に尻尾を押し当てて黙らせる。
エミナはほんのりと冷たいようなゴツゴツとした尻尾の感触に余計に顔を赤くする。
雷を避けて人が割れて道ができている。
リュードはあえて堂々と真ん中を歩き、教会を出る。
こうなると一介の兵士では空気に飲まれてしまって動くことすらできない。
少しでもまともな指揮官がいればすぐにでも囲まれてしまうのだろうが、そんな支持を出せるような人物はキンミッコ側にいない。
強いて言うなら最初に殴り倒した重装備の兵士がそんな人物だったのだろうが今も気を失って倒れている。
ある意味最初に倒した人物が指揮を取るような兵士だったのは運が良かった。
教会を出るとその正面にある学校の窓から様子を見る子供たちが見える。
今子供たちに自分はどう見えているのかとチラリと視線を向けた。
花嫁を抱き抱えて連れ去ってきたリュードの姿を見て、子供たちは目を輝かせていた。
まるでおとぎ話の王子様のような堂々たる姿に男の子だけでなく女の子も憧れの視線を向ける。
身長の高いリュードの腕の中にいるエミナの顔は他に人からはよく見えないが高いところからでは見える。
頬を赤く染め、潤んだ瞳でリュードを見上げるその様は嫌がっているようには見えなかった。
子供たちはこの物語を見逃すまいと固唾を飲んでリュードの姿を見守る。
「開けろ」
門は人が入らないように閉ざされていた。
リュードは門を開けるように命じた。
異様な光景に完全に飲まれてしまった兵士は門を開け放ち、リュードはゆっくりと教会の敷地から出てきた。
教会の前に集まっていた人々もリュードから離れて様子を見る。
リュードの周りだけぽっかりと円形に人がいなくなっていた。
これはちょうどよい。
いくなら最後まで派手にやってみよう。
「キンミッコ! 悪辣なやり方は神になった俺が見ていた。貴様には天の罰が下るだろう!」
下ればいいなとリュードは思う。希望的観測だ。
しかしエミナとヤノチを取り戻せば今回の交渉はキンミッコに相当不利なはずである。
天罰といかなくても相当な不利益を被るだろうからあながち希望だけでもないだろう。
リュードの周りに雷が落ちる。
魔力は消耗してしまうけど、これぐらい派手にやってもバチは当たらない。
眩い光と轟音に人々は目を逸らし、耳を塞いだ。
この時に正義と愛と雷と竜人族の神シュバルリュイードがこの世に認知され、誕生したのであった。
教室の中にいた子供たちだけが窓の外を通り過ぎる黒い影を目撃し、他の人々は円形に焼け焦げた跡だけが残って消えたリュードに言葉もなくただ立ち尽くしていたのであった。
サワケー・キンミッコという男は一言で言うと劣等感の塊のような男である。
嫉妬深く自分が1番でないと気が済まない。
それなのに努力を嫌い、1番になるために卑怯な手を使うことには躊躇いもない男だった。
ストレスを感じると親指の爪を噛む癖があり常にサワケーの親指はぼろぼろ。
ここ数年は特にひどい。
心が休まる時などなく、部下の前でも親指の爪を噛みそうになる。
領民の不満は募り、忌々しくて聞きたくもないパノンやミエバシオの名前が人々の口からとびだしてくるようになった。
話が大きくなってくれば自然とサワケーの耳にも話が入ってくる。
そのタイミングで和平を前提にしたトキュネスとカシタコウの交渉が始まることになった。
前提となっているのは和平だけでない。
和平のための取引条件としてトキュネスがカシタコウから奪った領地の返還も和平の条件となっている。
代わりにカシタコウは大きな金銭的な支援をトキュネスにする。
細かな内容だけが決まっておらず、そこは今の領主であるサワケーとかつての領主であるミエバシオが交渉を行うことになった。
国同士で大筋の内容が決まってしまっている。
難癖をつけて反故にすることもできない。
戦争による復興をうたい重税を課して私服を肥やしてきたサワケーは怯えていた。
もはや領民は限界を迎えていて爆発寸前だった。
今後の待遇は相手から引き出した金額で決まるというのに。
民の不満がカシタコウへの編入を後押しすることになったら大きな金額を引っ張ってくることは難しくなる。
不当に少ない金額を提示するとも思えないがどうしてその金額になったのかは聞かれるだろう。
自分の悪政が原因ですなんて口が裂けても言えない。
そんな時だった。
パノンの話が皆の間で出るようになったからかサワケーは思い出した。
そういえば確かにパノンには娘がいたと。
自分の誘いを断ってくれたこともある良くできたパノンの美人妻の顔が思い浮かぶ。
結婚すると聞いた時は激しく嫉妬した。
そんな人から産まれた娘。
おぼろげな記憶では小さいながら母親の顔の特徴を継いでいて、将来は美人になりそうな雰囲気があった。
自分に人気がないから他人の人気を使えばいい。
パノンはなぜなのか未だにこの辺りでも民衆に支持されている。
私服を肥やし、自らの腹も肥やしてしまった自分の妻にサワケーは長いこと興味を失っていた。
若い女かとニヤリと笑ってサワケーは親指の爪を噛むことをやめた。
パノンの娘についてはパノンがどちらの国でも変に有名だったおかげで大変ではあったけれど調べ上げることができた。
今は冒険者になるために冒険者学校にいるということがわかった。
なので自分と同じく甘い汁をすすっている中から汚い仕事をするものを2人ほど選んだ。
1人はサワケーの下で相当汚いことをやってきた者。
息子の罪ももみ消してやったこともあるのでサワケーの命とあればなんとしてでも遂行する。
領地を明け渡すことになって相手に悪事がバレればただでは済まないのはそいつも同じだった。
一族の資産は没収だろうし本人も息子も牢獄行きだろう。
万が一何かがあっても口を割らないことを念押ししておいた。
何かがあったら家族を頼みますなんて言ってたけれど小娘1人に何が起こるというのだろう。
軽く任せておけと言っておいた。
そうして吉報を待っている間に別の話が舞い込んできた。
交渉相手のミエバシオには妹がいるという話だ。
これについても知らなかったので調べさせた。
細かいことは分からなくてもいるということは判明した。
なのでさらに細かく調べさせることにした。
程なくして居場所を見つけたと報告があった。
2枚目のカードを見つけた気がしてサワケーは思わず1人でほくそ笑んでしまっていた。
慌てて調べさせたせいで相手に感づかれたようで移動を始めてしまった。
すぐに人をやって連れてくるように指示を出した。
何の報告もなくて苛立っているとどうやら両方失敗したようだと部下が怯えて告げた。
パノンの娘の方は分からないがミエバシオの妹は失敗は確実だと。
パノンの娘の方は逃げたか、死んだか、連絡ない。
どちらにせよ失敗しているだろうとのことだった。
「この、役立たずどもが!」
デスクを殴りつける。
小娘1人連れてくることもできないとは不出来な部下を持ったものだ。
相手は警戒するだろうが他に方法もなく、時間もない。
もう1度襲わせるより他にない。
そんな時に部下があげた報告にサワケーはニヤリとした。
パノンの娘とミエバシオの妹が一緒にいるのだという。
運が向いてきたとサワケーは思った。
出し渋っていた費用をポンと出し、誘拐が得意だという男たちに連れてくるように依頼する。
2人同時に連れて来られるならむしろお得なぐらいだと思った。
また失敗するのではないかと思って気づかぬ間に親指の爪を噛んでいる。
日数的にはギリギリ。
これが最後のチャンスである。
交渉の準備もせねばならない。
そんな時に連絡が来た。
飛びついて内容を確認すると何と2人とも連れてくることに成功したというではないか。
すっかり気分も良くなってその日は親指の爪を噛むこともなく、酒を楽しんだ。
そうしながらパノンの娘をどう使って領民の支持を集めるかを考えた。
ただ側に置くだけでは効果は薄い。
デカく目立つように、かつ自分に支持が集まるようにしなければいけない。
悩んでいると腹心の1人が耳元で囁いた。
第二夫人を迎えてはいかがでしょうか?と。
悪くない囁きだと思った。
いいことを言った部下にはボーナスをくれてやった。
急な話だが教会と話をつけ、1日貸し切ることにした。
部下を使って噂を大々的に流す。
当日に街を練り歩き本当であることを示せば領民も驚きと支持をするだろうという算段だ。
なのに。
「ここに異議のある者がいるぞ!」
黒い何かが神父の言葉を遮り、女神のステンドグラスをぶち割って教会に飛び込んで来た。
キンミッコにとっての最悪が始まった瞬間だった。
建物の上から上へと飛ぶようにリュードは跳躍して移動していく。
目まぐるしい速さにエミナは声にならない悲鳴を上げているが今は配慮している暇もない。
思ったより戦うことなく救出に成功した。
使われているだけの兵士たちの命を奪うことなくちょっとだけ痺れさせただけで事を終えられたのだから上々だ。
あとは早くこの場を去る必要がある。
冷静になればキンミッコは必死になって兵を差し向けてくるだろう。
素早く町を脱出して安全なところに行かねばならない。
町の中で空を見上げながら歩いている人はいない。
なので建物の上を行くリュードたちは気づかれることなくスムーズに移動ができた。
「よし、着いたぞ」
やってきたのは町外れにある倉庫。
現在使われているものではない倉庫でリュードたちが冒険者ギルドから借りたものだった。
急なことでさっさと契約を進めるために割高な契約料になってしまったけれど必要な出費だったと割り切っている。
リュードはエミナを下ろして中に入る。
「リュードさん、1つお話がありまして、実は私のおばあちゃんが……」
「エミナ! エミナなのかい!」
「おばあちゃんが……おばあちゃん!?」
「あっ、リューちゃんおかえり〜」
エミナをお姫様抱っこしたまま入らなくてよかった。
倉庫の中では既にルフォンが待っていた。
「あっ……リュードさん、エミナ……さん」
他にはヤノチと老婆が1人、他にも何人かいる。
予定にない人がたくさんいるぞとリュードは思った。
「ルフォン? この人たちは?」
「んとね、ヤノチちゃんと一緒に捕まってたからついでに助け出して連れてきたの!」
元気よく答えるルフォンはシッポを振っている。
頭を抱えたくなる気分になるリュードだが、考えてみればリュードだってヤノチを助けにいって他に捕まっている人がいたら助けるだろう。
自分も同様の状況ならやるのだからルフォンに何か言うことはできない。
褒めて欲しそうなのでとりあえず頭を撫でてやる。
無事にヤノチを助け出して帰ってきたことには間違いないのだ。
「んで、エミナ、その人は?」
エミナは老婆と抱き合っている。
話から誰なのか予想はついているが一応聞いておく。
「こちら、私のおばあちゃんです」
出来すぎた状況に理解はし難いがやはりこの人はエミナのおばあちゃんだった。
「おばあちゃん、こちらが……」
「自己紹介は後だ、エミナ服を脱げ。話は移動してからだ」
「ぬ、脱げって助け出したお礼は私の体でってことですか!?」
「誰がそんなこと言った! 最後までちゃんと話を聞け! そんな格好じゃ目立ちすぎるから着替えろと言うんだ」
エミナの今の格好は真っ白なドレス。
これでは探してくれと言っているようなものだ。
さっさと移動するのに悪目立ちしてはいけない。
おばあちゃんの前で体を差し出せなんてとんでもないことに言うわけないだろ!と突っ込む。
わざとやっているのではないかと疑いたくなる。
「ホッホッホ、性格まで母親そっくりじゃの」
肝心のエミナのおばあちゃんは穏やかに笑っている。
母親もあんな感じの天然娘だったのだろうか。
エミナが着替えて目立たないローブを着る。
他の人は想定外だったのでそのままでいてもらう。
薄汚れてはいるけど特別目立つ格好でもない。
人数はだいぶ多くなったけれどしょうがない。
残してもいけないのでみんな一緒に出発することになった。
この町はカシタコウとトキュネスの国境付近にある。
このまま国境を越えて逃げてしまおうと思っていた。
さらに交渉の日は近いのでヤノチの兄も国境に近いところまで向かってきている。
上手くヤノチの兄のところまで逃げ切れればリュードたちの勝ちである。
敵は未だに混乱の中。
むしろ今さらに混乱しているかもしれない。
なぜならきっと今頃は屋敷に帰ってヤノチがいなくなったことにも気づいただろうからである。
リュードとルフォン。
2人しかいない人員を1人1人で分けるのは英断だった。
エミナは確実に結婚式に連れて来られるだろうが、ヤノチは来るか分からなかった。
連れて来られないでお屋敷のどこかに幽閉されている可能性が大きいと考えていた。
ならばヤノチを探しにも行かねばならないとなった。
どっちにしろ屋敷は結婚式のために手薄になると思い、ルフォンに任せることにしたのだ。
結果ルフォンはヤノチを見つけて連れ返してきてくれた。
エミナがいなくてもヤノチがいるなんて思っていただろうキンミッコは大慌てに違いない。
「……エミナは良かったのか?」
通常の道から大きく外れるようにしてリュードたちはトキュネスからの脱出を図る。
今更感はあるけれど聞かずにはいられなかった。
一応誘拐っぽくしてきたけれど国を出てしまえばトキュネスに戻ることは難しくなる。
今からなら逆にトキュネスの反対側にでも逃げれば一生身分を隠すことになるかもしれないが、故郷にはいられる可能性はある。
所詮は誘拐された身であり、交渉のために必要だったので交渉が終わってしまえばあまり探されないので不可能な話ではない。
「……いいんです。私にとって大切なのはトキュネスにいることじゃなくておばあちゃんといることだったんですから」
エミナが故郷に帰り、そこで冒険者として活動しようとしていた理由。
それはトキュネスが生まれ故郷であるということよりもそこに育ての親であったおばあちゃんがいたからであった。
残された唯一の身内でエミナを育ててくれた人。
まだ恩返しもできていない。
おばあちゃんの側で活躍してもう1人でも生きていけると証明して、安心させてあげたかった。
正直な話、パノンの姓があって顔を指される可能性がある限りはトキュネスで落ち着いて暮らすことなんて無理だ。
そのうちどこか別の場所に行く必要はある、エミナはそう思っていた。
とりあえず今はおばあちゃんがいる場所が自分のいる場所だから固定の場所で働く必要がない冒険者としてやっていこうと思っていたのだ。
どうしてエミナのおばあちゃんがキンミッコのところにいたのか。
それはエミナを無理矢理協力させて広告塔にするためであった。
普通に考えて結婚しろといって協力するはずがない。
そこでおばあちゃんを人質に取り、人を誘拐して結婚させようとしていたのだ。
トキュネスに未練はない。
人を結婚させて政治的交渉を優位に進めようとする国になんて未練なんてあるはずがなかった。
たまたまルフォンが救出していてくれて良かった。
「そうか」
「リュードさんたちこそ良かったんですか? あんな騒ぎになってしまって……」
「俺たちにとって一生トキュネスに近づけないこととエミナを天秤にかけた時、結果は分かりきっているさ」
「もちろんエミナちゃんの方が大事!」
トキュネスに行けないことなんてリュードとルフォンにとっては小さいことである。
むしろ今頃キンミッコはどんな顔をしているのか気になっている。
状況が把握できておらず、リュードたちの足取りも掴めていないのか追手もこない。
話に聞いているような人物だとしたら大激怒しているところだろう。
「リュードさん、ルフォンさん……」
本当に最高の二人だとエミナは泣きそうになってフードを深く被り直して顔を隠した。
すごく、すごく嬉しくて、それ以上言葉が出なかった。
「にしてもキンミッコとやら最悪の領主だな」
ルフォンが一緒に救出したおばあちゃん以外の人たちはいわゆる文官だった。
良心を持っていてキンミッコを摘発したり、キンミッコに忠言をしようとしたりした人たちだった。
交渉に当たるために一丸となって不正を隠蔽して乗り切る時に正義感を持つ文官は邪魔になった。
キンミッコは文官を捕らえてヤノチと同様に幽閉していたのである。
ヤノチと違って文官たちはそのまま放っておけば謎の失踪を遂げることになっていただろう。
文官たちにも付いてきていいのか尋ねたら、ヤノチの兄に会いに行くならカシタコウに行ってキンミッコを摘発すると答えた。
相当お怒りの文官たちは証拠も隠してあるらしく、ただの証言以上の効果を持ったカードをリュードは手に入れた。
ヤノチの兄がより交渉に有利になるなら悪くない。
出来る限り迅速に動きたいものだけどお年寄りもいて無理はできない。
移動を続けてちょうど国境を越えた時にはすでに日は落ちていた。
それでもカシタコウ側に入れて少し安心して野営の準備をして休息をとることにした。
理由は知らないが追手はこないので進行速度としては悪くない。
追手が未だに来ないのは1つではなくいくつもの忙しさが重なっているだろうなと推測する。
領内の混乱収拾に花嫁の誘拐事件、消えたヤノチの捜索や交渉の準備まで全ての計画が崩壊した。
さらにはキンミッコには優秀な指揮官もいなかった。
自分の保身しか考えないイエスマンしか周りに置いておらず、優秀な文官は捕らえた挙句ルフォンに助け出されてリュードたちと共にいる。
冷静に物事を進められていないのだ。
国境封鎖して検問でもされたら困ったが誰もいないので町の中を捜索で走り回らせるのが関の山なのだろう。
遅きに失する。
国境は越えてしまったので、隣の国に私兵を送り込むわけにもいかずキンミッコはもう手詰まりだ。
エミナのおばあちゃんを気遣ってのんびりと休んでも問題はない。
夜は少し冷える。
みんな暖を取ろうと自然と焚き火の周りに集まってくる。
監禁から解放され歩き通して疲れてしまったエミナのおばあちゃんや文官たちは早々と寝てしまった。
今起きているのは焚き火の見張り役のリュードとなんだか眠れないエミナとヤノチだけであった。
「エミナ、さんってパノンだったんですね……」
他の人が眠る中、ヤノチが重たく口を開いた。
ずっと考えていた。
エミナもエミナでいつ聞かれるのか気が気でなかった。
打ち解けてちゃん付けだったはずなのにヤノチとエミナは再び距離が出来て、またさん付けになっている。
ヤノチはエミナがパノンの娘であることを知ってしまったのだ。
ミエバシオを騙し討ちしたパノンの娘、エミナ。
知られたくなかったのに知られてしまった。
「どうして言ってくれなかったんですか?」
ヤノチは焚き火を見つめたままエミナに言葉を投げかける。
エミナも焚き火を見つめたまま動かない。
言えるわけがなかった。
どうして自分はパノンですなんて言えるだろうか。
パノンのせいでミエバシオがどうなったのか嫌でも耳に入ってくる。
どの噂も話の内容が違っていて疑わしい内容も多いのだがパノンのせいでミエバシオの名誉が傷つき、ヤノチの親が死んだことは確かなのだ。
むしろバレたくないことだった。
「私、どうしたらいいのか分からないんです」
ヤノチはパノンに会ったら父の仇を取って殺してやりたいとずっと考えていた。
怒りと恨みが胸の中に渦巻いて消えることはないと思っていた。
なのにエミナがパノンだと知って恨みや怒りの感情があっても殺してやりたいなんてとても思えなくなってしまった。
いつか恨みを晴らす時がくる。
それが生きる理由でもあったのに感情がぐちゃぐちゃになって分からなくなった。
エミナは悪い人じゃない。
同じ馬車に乗って言葉を交わして仲良くなって、そしてパノンだと知った。
ヤノチの中でエミナを友達だと思う気持ちとパノンだと恨みが高まる気持ちがぶつかって胸が張り裂けそうになる。
大人しく暮らしていた地を離れて兄の元に向かう途中、パノンの噂話も聞いた。
カシタコウでは卑怯者呼ばわりされていて、トキュネスでも酷い言われ方をしているようだった。
まだミエバシオは兄のおかげで名誉を回復しつつあるけどパノンには難しいかもしれない。
その上さらに、エミナもキンミッコに誘拐されてあの小汚いジジイと結婚させられそうになった。
エミナも両親を亡くし、自分と似たような境遇にある。
エミナを怒りをぶつけられる相手に思うことが出来ない。
「……私もどうしたらいいのか分からないです。どうしたらいいんですか、リュードさん」
俺!?と驚くがここは雰囲気を呼んでクールに表情を保つ。
「俺はそういう時決めてるからな。自分のやりたいようにやり、思うように動くんだ。だからエミナとヤノチを助けに行ったし、やらずに後悔するならやって後悔しようと思ってる。……俺が思うに大切なのはどうだったかじゃなく、どうしたいかだ」
「どうしたいか……」
こんな時に良いアドバイスを出せるほど人生に深みはまだない。
でも気ままにやるというのが今回の人生のテーマなのでリュードは思った通りにやっていくだけである。
「私は……エミナ、ちゃんと友達で、いたい……」
「ヤノチちゃん……」
「私友達少ないし、エミナちゃんのこと嫌いになれないよ……」
「エミナはどうしたい?」
「私……パノンだし……」
「エミナはエミナだろ。エミナはパノンだけどパノンはエミナじゃない。何があったのかは俺はあんまり興味ないから知らないけどどうしてエミナがパノンのやったことの全てを背負う必要がある? そんな必要はないんだ、エミナがやりたいように、思うように生きればいい」
「私、私……ヤノチちゃんと友達になりたい……パノンとミエバシオとかそんなこと関係なく仲良くしたい!」
自分の思いに向き合ったエミナは潤んだ瞳で顔を上げた。
パノンだとか、ミエバシオだとか因縁は過去のこと。
今を生きているエミナとヤノチがそれに囚われる必要はどこにもないのである。
「じゃあ仲直りに……ハグ、だな」
「えっ、そんなのって」
「いいからいいから、ほれ」
急な提案に驚く。
リュードから視線を外すとエミナはヤノチと目が合う。
「……えっとハグしていい?」
「うん」
遠慮がちに互いに腕を回してハグをする。
「パノンだからって、冷たい態度取ってごめんね」
「ううん、私こそ隠しててゴメンね」
感情が溢れてきて、2人が泣き出す。
「ホッホッホ、良かったのぅ」
「起きていられたんですか」
「年を取ると眠りが浅くてな。友達がいなかったあの子だけどあなたといい、あの子といい、素敵な友達が出来たようだね」
実は起きていたエミナのおばあちゃんが目をそっと涙を拭った。
過酷な過去を抱える女の子同士が本当に友達になったこの瞬間に感動しているのだろう。
他の人を起こさないように声を殺して泣き続けた2人はそのまま抱き合うようにして寝てしまった。
「エミナのおばあちゃんも寝てください。
明日も歩き通しですよ」
「ホッホ、年寄りを酷使するもんじゃないぞ。いざとなったら私のことは置いて行ってくれたらいい」
「そんなことできませんよ」
いざとなったら背負うぐらいはしようとは思う。
「心配しなくても諦めることはしないさ。きっとまだまだ2人にはたくさん話してお互いを理解して、心のうちを整理せにゃならんことがたくさんある。孫がこのまま真っ直ぐ育っていってくれるのか、見守るまで死にゃせんよ」
「ええ、長生きしてください」
「ふっふっ、良い男だね。もっと若ければ惚れていたかもしれないね。どれ、私もまた寝るとしよう」
エミナのおばあちゃんも横になり、夜の静けさに包まれる。
少し焚き火の勢いが弱くなってきたので枝を何本か追加する。
実はミエバシオの事件の真相はエミナもヤノチも分かっていない。
このニ人でさえ噂話しか聞いたことがないのである。
何があったのか。
どうにもきな臭い話のような気がする。
そしてあのキンミッコという男に本当に天罰が下るのではないか、そんな予感がリュードの中にはあった。
ステナン村。
名目上はカシタコウになるが、トキュネスの勢力圏との境に位置していて非常に曖昧な立場を強いられている村である。
そんなステナン村のみんなが集まる会館が今回の交渉の場となっていた。
護衛をそれぞれ2人連れたキンミッコとウカチル・ミエバシオが多めのテーブルを挟んで対面して座る。
(若い……これは上手くいけば丸め込めるのではないか……)
口を手で隠してキンミッコがニヤリと笑う。
童顔のウカチルは若く見られがちだがれっきとした成人であり、もう20代の後半である。
確かにキンミッコから見れば若いとは言えるだろうが若造と侮れる年齢ではない。
しかし焦りに焦っていたキンミッコはウカチルの情報など頭から抜け落ちている。
「それでは交渉を始めましょうか」
連れて行かれた花嫁も見つからず、監禁していたウカチルの妹もどこかに行ってしまった。
交渉のカードは結局2枚とも失ってしまったキンミッコは笑顔を浮かべているが内心焦りを感じている。
どうにか相手をうまく乗せて有利な状況を作り出して良い条件を引き出したい。
場の主導権を握ろうとキンミッコが先に口を開く。
「和平がもはや両国の同意事項であることは分かっております。その上で我が国が引き渡すことになるのは今私が治めておりますヒダルダの土地であることも分かっています。ですがヒダルダの土地もトキュネスになってから時間が経ち、また所属する国が変わることになれば領民も混乱することとなるでしょう」
「確かにその可能性はありますね」
「両国の希望は和平を結ぶことです。何も無理矢理領地を返還することもないとは思いませんか? しかし何も引き渡さずにカシタコウだけが我々に支援をして和平を結ぶことは出来ません。
そこでどうでしょうか。今トキュネスとカシタコウの間にあって曖昧になっている領地の線引きを我々が譲歩しましょう。このステナン村のように不安に思っているところも多いでしょうからそこから我々は手を引きます」
まずは領地を持って行かれない事の方が大事。
あたかも領地の一部を明け渡すかのように言っているけれど現在国境線が曖昧になっているところはカシタコウの領地だ。
武力衝突を避けているためにあたかもトキュネス、というかキンミッコが実質的に支配しているような顔をしているだけだ。
要するに土地は一切返還しないで交渉しようとしているのである。
「私の希望はヒダルダ一切の返還です」
すべての領地を取り戻す。
そうした強い意志を持ってこの交渉に臨むウカチルの心をそんな薄っぺらい言葉で動かすことなんて出来ない。
「ヒダルダを返還してくださればトキュネスには十分な支援をしましょう。望むなら領地を失うことになるキンミッコさんにも支援をします」
「……支援はどれくらいをお考えで?」
流石にこれでは納得しないか。
舌打ちしたい気持ちを抑えて笑顔で交渉を続ける。
「こちらをご覧ください」
ウカチルが一枚の紙をテーブルを滑らせてキンミッコに差し出す。
見てみるとそれには補償の金額や支援物資の内容が細かに記入してあった。
何か少しでも変なところがあれば難癖を付けてやろうと読み込むが内容は完璧だった。
トキュネスの欲しいものを残さず網羅し、物量も少なすぎることがない。
補償金として提示されている金額も事前にキンミッコ側で算定していた金額の範囲内でありながらその中でも多めの金額。
突き崩せる穴のない提示にキンミッコは唇をかんだ。
「……仮にこの金額や内容で納得できない場合、ミエバシオ殿には裁量がおありで?」
「もちろんです。過大すぎる要求には答えられませんがある程度の内容の変更は私に一任されています」
「では、この金額では話はお受けできません」
ただしこの条件で承諾してしまえば後々損をするのはキンミッコだけである。
最初から高めの条件を提示してきたのだ、よほど領地を取り戻したいと見える。
キンミッコは納得いっていないような顔をしてため息をつく。
正当な金額なのだが、相手の算定した金額が足りないような態度を装う。
「ならばどれほどをお望みで?」
「……ミエバシオ殿にそこまでの裁量があるかは分かりませんが金額はこの2倍、物資は2割増は欲しいところです」
完全にぼったくりな物言い。
ふっかけにもほどがある。
自分がこんなことを言われた怒り狂って剣を抜くかもしれない。
ウカチルの護衛は顔をしかめている。
しかしここで引くわけにもいかないのだ。
キンミッコはあたかも引き受けるような態度を取りながらもウカチルの方から交渉を決裂してもらいたいと思っていた。
「それは流石に……」
「戦争で荒れた土地を再び平穏に暮らせるまで回復させたのですよ。私は本当はヒダルダを手放したくないんです」
困った顔をするウカチルにキンミッコが畳み掛ける。
「愛着を持ち始めた領民たちと離れることになるのがどれほどお辛いことかお分かりになられないでしょう。3倍の金額を払ってもらっても引き渡したくはないのですが国同士で決まってしまっていることを覆すこともできません。
ですので2倍ほど払ってもらうことでどうにか私の気持ちにも折り合いをつけようと私自身も努力しているのです」
ハンカチを取り出し涙を拭うような仕草を見せるキンミッコ。
白々しいと護衛たちは思っているがこれぐらい平気でやる男がキンミッコである。
「1.5倍。物資は記載の通り。これが最大です」
「それでは……まだ」
簡単に値が吊り上がった。
まだまだ上げられるかもしれないとキンミッコはほくそ笑む。
大きな利益を出せば全て返還してもキンミッコに利益が残る。
早くも頭の中でキンミッコは金勘定を始めていた。
「……チッ」
今の音は、とキンミッコは驚いた。
「あなた今……」
舌打ちの音が聞こえた。
交渉の場では冷静さを失った人間の負けだ。
相手を威圧するような舌打ちなんてするのはもってのほか。
ようやく見えた隙だと思ってキンミッコがハンカチから顔を離してウカチルに顔を向けて難癖をつけようとした。
しかしそれ以上キンミッコは言葉を発せなかった。
これまでの温和な表情が消えてウカチルは冷たい殺気をキンミッコに放っていた。
テーブルを挟んでいるのにすぐ横で剣を首に押し当てられている感覚に陥る。
「人が大人しくしていれば調子に乗りやがって……」
「な、何を……」
「僕が知らないと思いますか?」
「何のことだか……」
キンミッコの目が泳ぐ。
本当に何のことだか分からない。
心当たりが多すぎるのだ。
「僕の妹に手を出したそうですね」
「それは、話を聞いてください!」
「しかもパノンの娘さんとも無理矢理結婚して交渉を有利に進めようとしたそうですね」
「なぜ、それも……」
キンミッコはエミナの連れ去りとヤノチの失踪は別物だと考えていた。
ヤノチの側にリュードとルフォンがいることは知っていたが2人を魔人化する魔人族だとは思っていなかった。
なのでエミナを助けに来た魔人化したリュードをリュードだとは認識しなかった。
そしてヤノチの方は相手の目撃情報がなかったのだが、一命を取り留めた者の証言では黒い格好をした者だとだけ報告があった。
1人で屋敷に忍び飲んでヤノチを救うとは想像もできない。
キンミッコはエミナのこととは別で腕の立つリュードとルフォンが2人して忍び込んで助けたのかもしれないとキンミッコは思っていた。
リュードもルフォンも髪などが黒く、黒い襲撃者と結びつけることはできる。
「少し調べれば分かることです」
てっきりそのことを話題に出さないし、ウカチルがそのことを知らないかもしれないと交渉を進めていた。
ヤノチがさらわれたことだけでなくエミナのことまで知っているとキンミッコは動揺した。
なぜ今そのことを口にして、なぜ強気な態度に出たのか。
必死に考えを巡らせて1つの結論に達した。
ヤノチとエミナがウカチルの元にいると。
キンミッコはみるみると汗をかき始めた。
国同士でほとんど決まった話をひっくり返しかねない卑怯な手を使ったことがバレてしまった。
最初に追求されると思って事前に用意していた言い訳も頭から消し飛んでしまった。
優位に進めるカードとしようとしてむしろ相手に責任を問われるようなカードにされてしまった。
「僕が知らないと思いますか?」
ウカチルはもう一度キンミッコに問いただす。
ヤノチのことはダカンから聞いていた。
誘拐されたと聞いてウカチルは交渉を諦めることすら考えていた。
はらわたが煮えくりかえるほどの大問題だった。
しかし交渉の直前になって事態が大きく急変した。
「そ、その結婚の話は……」
これ以上のことなどない。
この交渉を左右する悪事は他に思いもつかない。
キンミッコは滝のような汗をかきながら言い訳を口にしようとした。
「コツマという者を知っていますか?」
「コツマ?」
しかしウカチルはキンミッコの責任を追及せず、また別の名前を口にした。
キンミッコは頭をこれまでにないほど回転させて名前の出た人物が誰か思い出そうとする。
最近投獄した連中か、キンミッコを告発しようとした愚か者か、過去に切り捨てたものか、考えれば考えるほど汗が噴き出し、ウカチルにもキンミッコが知恵を絞る音が聞こえてきそうだ。
交渉に当たって、カードを手にしているのはキンミッコだけではなかった。
ウカチルも交渉を優位に進めるためのカードを手にしていた。
「分からないようですね」
考える十分な時間は与えた。
分かるはずもないと思っていたので意外性もない。
「誰、なんでしょうか」
このような質問をぶつける理由は、まだ何か許してくれるようなチャンスがあるからだ。
そうすがるように思ってキンミッコは答えを尋ねる。
それから思い出しても遅くない。
「コツマさんはパノンさんの下で副隊長をやられていた方です」
そんなの分かるわけがない!
キンミッコはそう叫んでしまいそうになった。
自分の部下であっても名前を覚えるのはせいぜい部隊長クラスぐらいのもの。
まして隣の領地を治めていたものの副隊長なんて覚えているわけがない。
そもそも知っていたかすら怪しい。
「そ、そのような者がいらっしゃったとは存じ上げませんでした。今この場に何か関係でも?」
何にしてもパノンの兵士は皆死んでいるはず。
副隊長なら現場にいなかったはずもない。
「敵国のスパイとして捕らわれていたので知らないでしょうがコツマさんは我が国で長いこと捕らえていた人物なのです」
「では……」
「あの時の生き残りがいたんですよ」
ゆっくりとキンミッコは右手を上げて親指を噛み始める。
思考が停止し、もう汗すらも止まる。
「そうですか、じゃあ……僕が知らないと思いますか?」
再三の質問。
ウカチルは万全の準備をしてきている。
知らないことなんて何もない。
キンミッコはただ血が出るほど親指を噛むことしかできない。
「今回の交渉は国同士で決まっていました。和平を結び、その代わりにトキュネスはヒダルダを返還し、カシタコウはトキュネスに金銭的、物的支援をする。……そしてもう1つ決まったことがあります」
決まっていたこととはなんだろう。
考えることを放棄したキンミッコが次の言葉を待っているとウカチルがテーブルを掴み、ひっくり返す。
「トキュネスはあなたの命も差し出すことに決めたのです」
視界がテーブルに染まり、何も見えない。
その向こうでウカチルは剣を抜いて振り下ろした。
テーブルとキンミッコの腕が切れ始めた時、ウカチルはテーブルの影から飛び出してキンミッコの護衛の1人を切り捨てた。
さらにそのままもう1人の護衛も、何も分からないままにウカチルの剣に貫かれた。