俺はただ、純粋な驚きを持っていた。
「私、怪異が見えるみたいなんだ。ごめんね、黙ってて。ずっと隠してた。」
「え…俺の声が聞こえるってのか?」
「うん。ジンさんでしょ?」
心底驚いてしまう。七海さんはしっかりとジンの目を見ていた。
「結び霊は?」
「まだいないの。誰なんだろうね〜。」
「俺のことは、呼び捨てでいいぞ。堅苦しいことは好まないからな!」
「ほんと?ありがとう。」
ジンはすぐに受け止めたみたいだが、俺はまだ混乱していた。
「それでね。凪くん。」
「ふはっ!凪くんだってよ!こいつなんて呼び捨てでいいのに。」
「うるさい。」
「…私の家は巫女の家系だったみたいで、女子に見える子が多かったみたい。って言っても、家にいる人の中で見えるのは私だけなんだけどね。」
「…で?」
あ、とまた思う。また「で?」と要件を聞いてしまった。どうしても、なるべく話したくない欲が出てしまう。会話をスマートに行いたい気持ちが出てしまうのだ。
七海さんは、少し戸惑ってから、自身の髪を触った。人差し指にくるくると巻きつけては解くことを繰り返す。
口はパクパクして、まるで金魚のようだった。
「そ、それでっ。…友達になれないかなって…。」
「あ?友達?どうするよナギ。こいつ、ダチになりてえっつってんぞ。」
「…な…なんで…?」
普通に疑問が湧く。なんで俺と?
クラスの底辺に属する俺と、どうして友達になりたいのだろうか。偽善?いや、だとしても意味が分からない。
七海さんは頬を赤らめて俯いた。髪で顔が隠れる。
「だって…また前みたいに…なりたいから…。」
前?前になんかしたか?思い出そうとするが無理だった。
覚えていそうなジンに視線を送ると、ジンは驚いたような目で交互に俺と七海さんを見ていた。
「お、お前…!お前っ…!…ナギ、やったなあああ!」
「は?」
「だって、前みたいな関係だろ?うわ〜マジかー!熱いねー!」
「え…?いや分かんねえ。どういうこと?」
ジンにバシバシと肩を叩かれながら、必死に思い出そうとする。いや、覚えてないから思い出せない。
七海さんも、何やら話題が食い違ってるらしく、きょとんとしている。
「え?だってお前ら4歳くらいの頃、あんなこと言ってたじゃねえかよー!」
「ど、どんなこと?覚えてないんだけど…。」
「いや、ネネが「わたし、将来はナギくんのお嫁さんになるのー!」って言ってて、ナギもOKしてたじゃねえかよ!」
「「…はああああああ!?」」
ハモりながら同時に立ち上がった。いや、最近の中で1番声出たな…。
そして、『は!?そういうことなの!?』と、七海さんを見ると、七海さんは赤くなってたフルフルと震えていた。
「ち、違うんだけど…!」
「あれ?そうなのか?」
「た、確かにそういうことはあったけど…私が言ってるのは、仲良くしたいってだけで…!」
「なんだー。ナギ、ドンマイ。そういう日もあるよなっ。」
「なんで俺がフラれたみたいになってんの?」
「…だから…えっと…七海さんって、呼ばないでいいから…。」
「えっ…。」
「前みたいに、「ねねちゃん」とか呼んでほしい…。」
「いいご身分だな〜ナギさんよぉ〜。ほら、呼んでやんなよ。」
「いや…その…ええと…。……ごめん。ちょっと恥ずい…。」
いや、流石に寧々ちゃんは呼べない。恥ずかしすぎて爆死する。いや本当に変な汗をかいている。七海さんは少し悲しそうな顔をして、猫背になってしまった。
俺にしては珍しく空気を読んで、別の呼び方を考える。
ジンは、気まずい空気になった場を和ませようとくだらないギャグを言ってみた。やめてくれ、ただでさえ低い空気が氷点下に達した。
「…七海…でいい…?」
色々考えた挙句、結局苗字を呼び捨てで呼んだ。七海は丸い瞳をこちらに向ける。
「うん…!」
大きく分かりやすく頷いた。そこで初めて、薄っぺらいと感じない笑顔を咲かせた。本物の笑顔は眩しくて、俺なんかでは目にも入れられないものだった。
「…アオハルしてんな〜。」
「うるせえ。」
「ふふっ、仲良いんだね。」
「そういうわけじゃ…。…俺らなんて悪縁だし。」
「はあ!?俺の縁って悪いものだったのかよ!」
「え…じゃあなに?…しがらみ?腐れ縁?」
「いや全部悪いやつだな!」
なんて俺とジンがコントを披露していると、七海はもっと笑ってくれた。ジンのツッコミが、こんなところで役立つなんて思いもしなかった。
七海はそのあと、軽やかな足取りで帰って行った。リュックが嬉しそうに飛び跳ねている。とりあえずほっとしてしまった。
さっきのことをジンにいじられながら、俺もそろそろ帰るかと思った時、ジンが急に黙った。
ジンが黙ったということは…そういうことだ。
花壇の前で、幼い子供が座っている。全く気づかなかった。
おかっぱの女の子で、シクシクと泣いている。
「ねえ、大丈夫?」
「…だれもあそんでくれないの。」
あ、このパターンか。なるほどな、と一人合点をして、罠に飛び込んでみる。
心のない、罠発動の合言葉。
「じゃあ、俺が一緒に遊んであげるよ。」
「ほんと?…うれしい。」
あーあ。やっぱりな。振り向いた女の子の目は血走っており、顔面は蒼白で殴られたような跡が無数についていた。
ケタケタと笑って、首を本来できないはずの真後ろに回す。
これは人間の女児ではない。暴走状態に陥った怪異だ。
「…ジン、やれ。」
ジンも慣れたように、怪異を蹴り上げた。うっと声を漏らして怪異は花壇の上にうずくまる。背中に手を当て、ジンは目を瞑る。微風が吹いた頃、その怪異はボロボロと崩れて塵となった。
ジン曰く、背中に手を当てて、心臓周辺にあるコアを探っているらしい。そしてそいつを握り潰すと怪異は崩れ果てるのだとか。
暴走状態に陥った怪異は、なにをするか分からない。今回のタイプだったら、多分同じように首を捻りちぎられていただろう。子供だろうと容赦はできない。
ジンと俺はまたくだらない話をしながら、家についた。
引っ越す前はまあまあなマンションに住んでいたのだが、引っ越した後からは安いアパートだ。2階の右から2番目の部屋。
いつも通りドアを開けると、母さんの靴があった。でも、また寝ているようだ。
俺の両親は離婚した。小学3年生の頃だ。だから母と俺は引っ越して、ここに住んでいる。
母さんは、今、なんの仕事をしているのか知らない。以前はデザイン会社に属していたが、今は夜に働きに出ている。ということは、あのデザイン会社は退社したようだ。まあ、するだろうなとは思っていた。父さんはそこで働いているのだから。
いつものように食費が食卓に置かれていた。それを取って、財布の中にしまう。
「相変わらず昼間は寝てんな。」
「忙しいんでしょ。」
部屋に戻って着替えて、ベッドにもたれる。七海の笑顔を思い出す。あの特徴のない顔は、七変化しやすい顔だ。笑うと子供っぽく、こちらをじっと見つめると大人っぽくも見える。
「…寧々のこと考えてんのかぁ?気にすんなって。」
「だから、なんで俺がフラれたみたいになってんだよ…。」
少なくとも寂しくはない。ジンがいるから。
こういう面を考えれば、見えてよかったと思う。
悪縁だが、それも気に入っていた。
スマホを取り出して、あ、と呟く。そういえば七海と連絡先を交換していない。まあ、いいか。七海が言ったら交換すればいい。
どこまで行っても、人とのコミュニケーションは最小にとどめたいのだ。怪異とのコミュニケーションはあってもいいと思うが。
「ナギ、数学のワークはいいのか?もうすぐで小テストだろ。」
「…お前は母親か。」
「ははっ、本物の母親がいるってのになに言ってんだよ。」
「あ〜…めんどくせえ。ワークも、ジンも。」
「まあな〜。」
「…褒めてない。」
「あれ?そうなのか?」
また気だるい1日が始まった。
通学路を踏みしめながらため息をつく。ジンはそんな俺を見てケケッと笑った。
その時だ。誰かに後ろから肩をポンポンと叩かれる。反射的に振り向くと、そこには七海がいた。少し走ったらしく、肩が少し上下している。
「おはよう、凪くん。」
「…おはよ。」
「相変わらずナギは冷てえな〜。凍っちまうぜ。」
「お前は凍らねえだろ…。」
七海の笑い声が聞こえ、七海の方を見る。
昨日とは違い、髪をひとつに束ねている。高いところから垂れた髪はまるで馬のしっぽだ。そして、なんとなく、いや、違うかもしれないが…少し昨日より唇の色がピンクっぽかった。あ、あれか。色付きリップ。小鳥遊とか嵐が話していた記憶がある。なるほどな。七海もそれを持っていたのか。
「…凪くん?」
「あ、ごめん…。」
流石に七海も気づいたらしく、引き気味に尋ねる。ちなみにジンは全く気づかなかった。まあガサツなやつだもんな。
「あ?そういえば寧々、今日は髪結んでるんだな。」
「うん。今日は体育があるから。今ってなにやってるの?」
「女子はバレーボールだったな。3組の女子と合同だぞ。」
「そうなんだ。ありがとう。」
「2人とも。そろそろ生徒がいっぱいいるところに着くからその辺で。」
「あ、そうだね。ありがと、凪くん。」
「はいはい。分かってるよ。サンキュー、ナギー。」
七海は途端に口角を上げた。
やっぱり作り笑いのようだ。みんなは気づいていないみたいだけど。
昨日見た本当の笑顔に比べると、明らかに厚さが違う。昨日は眩しく輝く太陽のようだったのに、今はただ咲いている一輪の花程度だ。
「今日は音楽室にも体育館にも行けるんだ〜。楽しみっ。」
「よかったね…。」
「…寧々は、なんでいつもそんな笑顔なんだ?顔が疲れるだろ。」
「あ〜…えっと…。…笑顔だと、みんなが楽しくなるでしょう?」
「…だってよ、ナギ。」
「え…知らないよ、そんなの…。」
「でも確かに疲れちゃうんだよね〜。…あ!凪くんの笑顔は見たことないな。ちょっと笑ってみてよ!」
「えっ…。いや…無理…疲れる…。」
いや、本当に笑うことは体力を使う。っていうか、笑うこと自体得意ではない。別に笑わなくたってコミュニケーションはできる。
七海はぷくーっと頬を膨らませ、ジンはいつも通り笑った。
学校が見えてくる。いつもの通学路が、今日は少し違う気がした。
七海がいたからだろうか。いや、多分違うな。
「おはよー寧々ちゃん!」
「おはよう。」
「今日髪結んでるんだね!可愛い〜。」
「ありがとう。」
いつも通り、小鳥遊と嵐が七海につるむ。七海はなんとかグループに入れたようだ。
女子というものは、どうもグループを重視するらしい。権力のあるグループ、おとなしいグループ、さまざまだ。だから、他のグループに属している者をそう簡単に自分のグループには入れさせない。まさにサバンナ。動物の縄張り争いかよ。
俺は男子なので、そこんとこは気楽に過ごせる。これは男子の利点と言えるだろう。
七海は常に笑顔だった。あれが『みんなのための笑顔』か。確かに疲れそうだ。
俺はいつも通り小声でジンと話しながら、教室を見渡していた。
こちらもいつも通り、普通の怪異が漂っている。暴走状態のやつはいなさそうだ。
深呼吸をひとつして、耳を澄ませる。視界は少しぼやけるが、あたりの音が吸い込まれる。
『なーなー、今日の放課後さー』
『やばっ!先輩付き合ったの!?』
『本、ありがとう。おもしろかったよ。』
『弁当忘れたー!』
大抵はどうでもいい情報。だがその中に、たまに有益な情報が眠っていることがある。
俺が集中していると、ジンはそれに気づいて静かになる。ガサツなくせに、そういうことは汲み取ってくれるのだ。
『ねぇ知ってる?マリちゃん、行方不明になっちゃったらしいよ。』
『やだこわーい。』
ん?行方不明?
そいつらに集中して、会話を盗み聞く。
『なんか、屋上でいきなり足から消えてったらしいよ〜。』
『嘘だあ〜。』
『いや、マジなんだよ!だって今日、マリちゃん来てないでしょ?』
…人はいきなり消えたりしない。何かが暴れてるのかも…?
屋上か…。まあ、何かいてもおかしくはない。
マリちゃんって…誰だっけ。
「ん〜…?」
「ん?どうした?腹が痛えのか?」
「…昼休み、行かないと…。」
「あーなるほどな。りょーかい。」
「なにが?」
前もやられた背中つんつんと同時に、後ろから声が聞こえる。どうやら七海も聞いていたようだ。
七海も見えるんだし、言ってもいいか。一応、ジンに目配せはする。ジンは少し考えた後、まあいいだろとでも言うように頷いた。
少し小声で話すと、段々と七海の顔が不安げに変わる。思ったことが全て顔に出る性格のようだ。おかげで今は、手を口元に当てて少し青ざめている。
「そうだったんだ…。」
「だから俺ら、今日も昼休み行かねえとなんだよな〜。」
「…でも、5時間目体育だから、着替えないとじゃない?」
「あ…そうだった…。…じゃあ放課後か…。」
すっかり忘れていた。時間を有するタイプかもしれないし、確かに放課後の方がいい。素直に『ありがとう』を呟くと、七海はニコッと笑って返した。
「久しぶりに凪くんから『ありがとう』って言われたかも〜。嬉しいっ。」
またまた咲く花の数を増やす。これはたぶん、本物だ。
…何か視線を感じて周りをチラッと確認する。…うーわ…最悪…。
なぜかクラスの半数くらいに注目されている。川上たちが俺らを見ながら話している。確かに、俺が誰かと話している時点で珍しい。さらにそこに転入生の女子というものが加われば、もう大変だ。珍しさが富士山レベルになる。
そんな俺を、ジンは楽しそうにニヤニヤしていた。相変わらず性格悪いな…。
クルッと向きを変えて、自分の世界を構築する。できるだけ注目されたくないのだ。周りの目線と話し声をシャットアウトする。
それは、体育の授業後だった。
ジンが言った通り、バレーボールで、私は頑張ってレシーブを練習していた。
何回も続けると腕がヒリヒリしてきて、慣れてないなぁと思ってしまう。
私は決して、運動が得意なタイプではない。でも、やる気だけは人一倍ある方だ。毎回その努力と根性が評価されて成績を上げてきた。
ジャージの袖を捲ると、やはり赤くなっている。まあ冷やせば治るか、と冷たい水を口へ流し込んだ。そういえば、凪くんはなにをやっているんだっけ。確か男子はサッカーだったような気がする。休憩タイムを使って、校庭を盗み見た。
「なーにやってんの?」
「校庭?あ〜男子か。」
同じチームで一緒に練習をしていた桜ちゃんと梨々子ちゃんが上から声をかけてくれた。すぐさま自然に笑って返す。
「男子はサッカーなんだね。」
「そうだよ〜。あ、寧々に問題です!うちら、6月に体育祭やったんだけど、そこでクラス対抗全員リレーやったのね?」
「その時のアンカーは誰でしょう!ちなみに男子だよ。」
「え…。…渡辺くんとか?堀安くん?」
「ブブー!」
「ん〜…伴くん?いや、伴くんは長距離走って言ってたな…。」
「…はい、時間切れー!正解は…あいつだ!」
そう言って梨々子ちゃんが指差した先には、ドリブルしてボールを運んでいる凪くんが。そのままゴールギリギリを狙ってシュートした。ボールはゴールポストの中へ。すぐさま歓声とドンマイの声が上がった。
「え…凪くん!?」
「そう。正解は、片桐でした〜。」
「意外…。」
「だよね〜。普段はひとことも喋んなくて笑いもしなくて、本読んでるか寝てるかなのに、スポーツできるとか思わないって〜。」
「意外とそこのギャップで気になってる子もいるみたいだよ。」
「へえ…。」
え!?そうなの!?
落ち着いて返事したが、内心は気が気じゃなかった。どうしよう、凪くんが取られちゃう…。いや、私のものではないんだけど!でもさ、嫌なんだもん…。
もしかしたら、もう誰かと付き合ってるのかもしれない。そう思うだけで胸がギュッと締め付けられる。分かってたのにな。
凪くんだって人間だ。いつかは素敵な人と付き合って、結婚する日が来るかもしれない。それで、子供ができるかもしれない。そこまでの行程を想像するだけで体は金縛りにあったかのように動かなくなる。
私の愛は重いかもしれない。けど、それほど諦めたくないんだ。
そんなことを考えてる私の耳に、次の試合の合図が届いた。
凪くんたちは試合が終わり、水分を補給していた。やっぱり凪くんのそばにはジンがいた。
少しだけ、ジンが羨ましかった。
放課後、掃除当番ではない私たちはリュックを背負って教室を出た。いつか桜ちゃんたちとも、遊びに行けたらいいなと思って。
凪くんに導かれるがまま、屋上へ向かう。
「あ、そう言えばマリってやつのこと調べといたぞ。1年1組の女子だった。」
「そうなんだ。」
「そうなんだってお前…。感謝しろよ〜?」
「はいはい。」
少し急足で階段を登り、屋上の扉を開けた。
ここは一度来たことがある。ここで昼食を食べる生徒も多いからだ。梨々子ちゃんと桜ちゃんが楽しげに語っていたのを思い出す。
だが、今日は違った。私の紹介された屋上ではない。隣では凪くんが「やっぱりな…」と呟いている。
屋上の中央には丸くて少し大きめの鏡が置かれている。いや、ほぼ屋上の床に埋め込まれている。普通ならこんなことないので、これは怪異の仕業だ。マリちゃんは運悪くこの鏡の上で立ち止まってしまい、引き摺り込まれたのだ。
できるだけ平然を装って、鏡の上に立つ。凪くんも立って、ジンも凪くんのそばに浮遊する。
凪くんは鏡が気になるらしく、下を向いていた。ジンもつられて下を見る。
「…凪くん。前見てもらっていい?」
「あ、そっか。勘付かれるか…。」
「それもそうなんだけど…。私、制服だから。」
それを聞くと一斉に2人は前を向く。なんなら凪くんは眩しいはずの天を仰ぐ。
不思議な時間が流れる。ぬるい風が私の髪を揺らした。
その時だ。
「きゃっ…!」
誰かに足を掴まれる。
来た。
慌てるフリをしながら、私たちは鏡に引き摺り込まれた。トプンという音と共に、視界は暗く溶けていく。
「ん…?」
目覚めればそこは、大量のスピーカーが置かれた部屋だった。いや、部屋なのだろうか。スピーカーの壁が構築され、天井が狭く感じる。どうやら凪くんとは逸れてしまったらしい。
急に、ひとつのレトロなスピーカーのスイッチが入った。ザザザという音に反応して、スピーカーに注目してしまう。
『あーあー聞こえてる?』
思わず身震いした。聞こえてきたのは私の声。
『私さあ、ずっと言いたかったことがあって〜。』
「…なに…?」
『あんたって…ほんとダメダメだよね。』
自分が自分に語りかけているのに、なぜか心に刺さってしまう。
違う。こんなことをしにきたんじゃない。怪異だ。怪異はどこにいる。見回してもスピーカーしか置かれていない。
しょうがないので、スピーカーをひとつひとつ降ろしていくことにした。
『ほんとはひとことも喋れないくせに猫かぶって愛想良くして。笑顔作って。ほんとウザすぎ。』
少し刺さるものはあったが、気づかないフリをする。
『今日だって、慣れないリップ塗って来たもんね〜。凪くんのために。凪くんが気づくわけないっての。あとなんだっけ?ポニーテールと、日焼け止めと、あ、『おはよう』の練習までして。どーせ気づいてもらえないのに努力して。諦めた方がいいと思うけど。』
「うるさいな…。」
ブチっとスイッチを切って、スピーカーをどかす作業に集中する。
またザザザという音が聞こえた。
『も〜切らないでよ〜。』
今度は、ピンク色の小さな可愛いものから私の声が。これはキリがない。無視してスピーカーの壁を崩す。いつの間にか、なにやらドアの一部がのぞいていた。
その一部を段々大きくしていく。気づけば汗が出ていた。服で拭おうとしたところを、一旦手を止めてハンカチを使う。
「できた…。」
かなりの時間をかけて、出て来たのはドアだった。やっぱりここはどこかの部屋なのだ。ドアノブを回してみるが、開かない様子。空洞と化した鍵穴に爪を入れてみる。
鏡を入り口にするタイプはめんどくさいことでも有名だ。入り口の鏡は全く壊れないから、中に入るしかない。入ったらひたすら最深部を目指す。そして最深部にいる本体を倒せば元に戻れる。楽な構造ではあるが、地道な作業が必要になる。暴走状態の怪異は、時に空間を作ってしまうこともあるのだ。
私たちは他の人たちとは違って、怪異が見える。それなら、見えない人たちが理不尽な目に遭うのを守らなくてはならない。と、ひいおじいちゃんの日記には書いてあった。だから私も、こうして討伐しようとしている。
いつもであれば、大体見ないフリをしてやり過ごす。結び霊がいないからだ。しかし、今回は被害者が出ている。いなくても、守らなくてはならない。
コアを握り潰すことはできなくとも、別の方法はある。その怪異ごと潰してしまえばいいのだ。大体胸の中央あたりにあるらしいので、いつもはそこを狙っている。
「…ねえ、鍵の場所って知ってる?」
諦め半分で『私』に尋ねる。
『お、ようやく話してくれた。ん〜……私の話を話を聞いてくれたらいいよ。猫被りちゃん。』
「…それで呼ばないで。」
『だって事実じゃん?』
「うるさい。」
『わぁ、怒ってる〜。こわーい!あ、そろそろ唇乾燥してきた頃じゃない?』
「……。」
ポーチからリップクリームを取り出して、薄く塗った。
『凪くんのこと、諦めたいと思ってんでしょ。』
「なんで?」
『だって凪くん意外にモテてるみたいだし、全然気づいてくれないし。』
「…それは…。」
『それに。フラれちゃったもんね〜。』
「っ……!でも、それって小学生の頃だし…!」
『うわ〜重い重い。』
そう。私は凪くんに一度フラれている。なんか、そういうのよく分かんない、と言われて。凪くんが引っ越す前日に言われた。
「分かんないじゃん…今は違うかもしれないじゃん…!」
『私仮定した話は嫌いなんだよね。』
根拠のない希望は、すぐに折れる。
淡い期待は濃い事実に染まる。
『っていうか、猫被りちゃんのこと、凪くんは探してるのかな。もしかしたら1人で最深部に向かってるかもよ?』
「…そうかもしれないけど…。」
ふと変な感覚がして見上げると、水が滴り落ちている。天井から。床からも水が滲み出ている。
「なにこれ…!鍵は?もう話したよね。」
『え〜そんなこと言ったっけ〜。覚えてな〜い。』
サッと血の気が引く。モタモタしすぎた。鍵を見つけないと。
ザブザブと足元が水で満たされていく。このままじゃスピーカーたちと一緒に溺死してしまう。
『早く探した方がいいんじゃないの〜?』
「分かってる!」
スピーカーを掻き分けながら、鍵を探す。だが、見つかる気がしない。
天井からも雨のように水が滴り、床からも滲み出ている。随分時間が経ち、もう髪は濡れてしまったし、まもなく太ももまで水に浸かることになる。動きづらい。
『早く早く〜。』
「…ちょっと黙って!」
ピンク色のスピーカーを水の中に投げ入れる。すると今度は、黒いスタイリッシュなものから音が鳴った。
『も〜。あれ気に入ってたのにー。』
「どこにあるの…?」
その時、天井のうち2箇所がバリッと音を立てて崩れた。そこから水が滝のように流れ落ちる。水が溜まる速度が上がった。
『前髪崩れてるよ〜。』
「それどころじゃないって…!」
『ドライヤーとアイロン、あればよかったね〜。あ、あとヘアブラシ?』
またも天井がバリバリと崩れる。滝が2ヶ所、3ヶ所と増えていく。
段々と熱いものが腹から胸へと込み上げてくる。変な汗が吹き出す。
腰あたりまで水に浸かると、身動きが取りづらくなる。動くたびに足に鉛が付けられているように感じて、ザバザバと泡立つ音がする。
なるべく身軽な方がいいとブレザーも上履きも靴下も脱いでしまう。
『猫被りちゃん、ヒント出してあげよっか?』
「え!?なに?」
『…あれ?なんだっけ。』
「思い出してよ!」
『ん〜…。ん〜…。…まあいっか。思い出せないし。ごめんねー!』
「っ…!」
時間を喰われた。またひとつ天井に穴があく。
胸まで完全に浸かってしまい、もはやプールのようになってくる。着衣泳だ。
しかも、鍵はどこにも見当たらない。もはや焦りしかない。段々と焦りが積もり、刻々と水が溜まっていた。
『私もそろそろおしまいかなぁ。じゃあね!楽しかったよー!』
あの黒いスタイリッシュなスピーカーも沈んだ時、私はもう口に水が到達しかけていた。まずい、溺れる…!そう思って泳ごうとするが、ただ水をかくだけで浮きもしないし、むしろ沈もうとしている。鍵どころではない。足が浮いて、バタバタと足を動かすしかなくなる。
ふと思い出したのは、スピーカーの『私』からの言葉だった。
『凪くんのこと、諦めたいと思ってんでしょ。』
そんなことないと思うのに、実際、諦めるしかない現状がそこにある。
嫌だなぁ…ここで死んじゃったら。それこそ怪異になってしまう。
溺死とか1番嫌な死に方だ。そうだなぁ、せめて一瞬でぷつりと死なせてほしい。
そう考えると力が入らなくなって来て、思わずこんな状況なのに寝そうになってしまう。力が抜けて、段々と浮かび上がる体に嫌悪感を抱いた。
頬を伝うこの水は、涙?それともただ降って来た水?
ドンドンドン!
ドアから音がするが、もう天井近くに到達する。手で天井を撫でる。
ドンッ!と大きい音が鳴った。するとどうだろう。少しずつだが、水位が下がっていくではないか。手が天井に届かない。
なんだろう、そう思ってドアの方に目をやると、ドアに穴が空いていた。蹴破ったような穴だ。
1分くらいして、私は再び床に足をつけた。
「お〜い、誰かいるか〜って寧々!?おい凪!寧々がいたぞ!」
その直後。バンという音と共に、鍵のかかったドアを、凪くんが完全に蹴破ってしまった。
「大丈夫…?」
これは夢?現実?凪くんが目の前に立っている。
凪くんも少し濡れていて、前髪が湿っていた。これは絶対、嘘じゃない。
「ありがとう…。」
そう呟いて、凪くんを抱きしめた。今だけは、恥ずかしいとか、濡れていて申し訳ないとか思わなかった。ジンは外からそれを見てぎょっとしている。
「ごめんね、なんか慌てちゃって。焦っちゃって…。それで…!」
「え…。ちょっ…え……あ…えっと…うん…。」
ものすごく凪くんが戸惑っていて、聞いていて面白くなってしまう。
この頬を伝うものは、涙だと信じたい。
「ごめんね…。」
「…き、気にしないで…。……行こう…。」
少しだけ背中がポンポンと叩かれ、不思議な力を注入される。
スルッと凪くんは私の腕を解いた。少しだけ制服が濡れてしまっている。私が抱きついたりしたからだ。
部屋を出ようとする凪くんの背中に、変な想いをぶつける。
「き、今日さ。…何か違うの…気づいた…?」
「え…。」
他人に興味のない凪くんが、気づくわけがない。そう思いながらも返事を待つ。
「…なんだっけ。朝は覚えてたんだけど…。…思い出せねぇ…。」
「無いならいいよ。」
「…とりあえず、なんか…。その…。…良くなってた…。」
「えっ…。」
「…行こう。」
「…うん。」
良くなってたのは、なにがなのかはわからない。けど、とりあえず変化には気づいてくれた。
ジンは少し安心したような笑みを浮かべて、凪くんのあとをついて行った。手持ち無沙汰に羽織ったブレザーは水を吸って重く、ポケットに靴下を詰め、ローファーを履いて歩いた。
外に出ると、そこは一種の館のようになっていて、丸くフロアが建てられている。中央は吹き抜けになっていて、天窓から光が差し込んでいる。円柱状の建物らしい。
「で、寧々は見つけたから次はどうするんだ?」
「…本体を叩く。」
まるで2人は仕事かのように淡々と計画を練っていく。
とりあえずまずは最深部を目指すこととなった。
「帰ったら髪とか服とか拭かないとな。」
「そうだねー。」
「っていうかさっきのなんだったんだよ。」
「え!?そ、それは…。」
「うわ〜アオハルしてんな〜。」
私たちは、階段を降りたり梯子を降りたりしながら最深部へと向かった…。
「ここじゃない?」
「そうだな…。」
明らかに最深部。ここがこの建物の1番下。するとどうだろう。鏡が急に現れて、中から女の人が出て来た。
白い肌に、赤い口紅。目元はくっきりとしていて、巫女服のようなものを纏っている。だが、決定的に違うのは挙動。
ヨタヨタと千鳥足でこちらに向かってくる。そして、なにやらずっと、「許さない…許さない…。」と呟いていた。
「来た…。あ〜めんどくさかった…。」
「そうだね〜。」
「…やれ。」
「りょーかい。」
ジンは迷わず怪異に突っかかった。結び霊がいると便利だなと感じてしまう。凪くんは見てるだけでいいのだ。
数分後、女の人は塵となって消えた。
水が流れるこの建物に亀裂が生じていく。この空間が消えようとしている。
パンッと、金属の割れる音がして、またも視界が暗くなった。
私は、運が悪かった。
生まれた時から、私は神様に捧げられる運命だった。
しょうがないの。私が神様の元へ行かなければ、みんな不幸になる。
ある日ね、私、逃げちゃったの。怖くて怖くて、必死に走った。死にたくなくて、走ったの。そしたら、仲良しの男の子に会った。
この人なら大丈夫。私を誰よりも大切に思ってくれている人だもの。私が、いつかお嫁にもらってくれる?って聞いたら、もちろんって言ってくれた人だもの。
私、言ったの。『助けて』って。
そしたらあなたは私を殴った。痛かったよ。
そこで気づいたの。あなたは私をただ閉じ込めたいだけだった。恨まれたくないだけだった。
目の前が真っ暗になった。
そしてこの日が来た。
いつもとは違ってみんな優しかったの。綺麗な服を着て、お化粧をして。少しだけ、嬉しかったな。鏡を見て、何度も口紅を確認しちゃったの。
お神輿に乗せられて、揺られながら入り口を目指したの。
本当は死にたくなくて、生きていたくて、私ね、泣いちゃったの。
そしたらみんな、化粧が崩れるから泣くなって言うの。ちょっとひどいと思わない?みんな、自分は死なないから言えるのよ。
辿り着いたのは、ごうごうと流れる大きな川だった。
橋の淵に立たされて、飛び降りなさいと言われたわ。もちろんためらった。
私ね、お嫁さんになりたかったの。それで、子供は男の子と女の子。家族みんなで楽しく暮らすのが夢だった。でも、現実は非情ね。それすら奪ってしまう。
太陽に手を伸ばすけど、届かない。仕方なく右足を宙に放り出したわ。
足に風を感じて、心臓が撫でられているような気持ちになった。
お嫁さんになることが無理なら、これはどうかしら。
『みんな、私と同じ目に遭いますように。』
素敵な夢だと私は思う。
周りの女の子は、『おそろい』を好んでいたから、私も真似してみたの。
それだけをただ純粋に願って、左足にゆっくりと力を込める。
どうか、私の願いが叶いますように。
プツンと私の命は途切れた。
みんな楽しそうに笑ってる。あーあ。消えちゃえばいいのに。
みんな、水で満たされちゃえばいいのよ。
非難されながら苦しめばいいのよ。
私の体が塵となって消えちゃった。
この願いも叶えてくれないの?
それならもういいわ。
あの世で神様を討ってあげる。
どうしても、生きたかったのよね。
「おーい。起きろー。」
「…え…?…あっ!」
起きるとそこは、屋上だった。鏡はもう消えていて、日が落ちて暗くなっている。
時折冷たい風が学校を撫で吹く。スマホの時間を確認すれば、もうすぐ6時半だった。
「うわ…帰らないと!」
そう言って立ち上がると、思わず絶望した。制服から水が滴り落ちている。あ、そうだった。ああいう場所の水は残るのだった。最近言ってなかったから頭が鈍ってるな…。
このままじゃ母親に確実に心配される。いや、その前に兄に質問攻めにされる。
「…どうしよう…。」
「びっしょびしょだもんなー。どうするよ、ナギ?」
「…え…どうするって…え…。」
凪くんも困っている。まあ、ここは私が耐えればいいだけの話。
「まあ、とりあえず私、帰るよ!気にしないで!」
急に風が吹いて、冷たい制服が肌に触れる。思わず、くしゃみをしてしまう。
少し寒くなってきた。
「え…あ……。…七海…。」
「ん?」
「…俺の家、近くなんだけど…。ちょっと寄ってく…?」
「いいの?」
「うん…。…母さん、今の時間はいないし…。」
「じゃあ、決まりだな!すぐ帰るぞー!」
濡れた髪を絞って、私たちは足早に凪くんたちの家へと向かった。
私の家の門限は8時なので、それまでに戻れば大丈夫だろう。高校生になるということで、中学の時より門限時間を遅くしてもらったのだ。
「お邪魔しまーす…。」
学校から歩いて15分くらいで本当に着いてしまった。こじんまりとしたアパートで、引っ越す前とはイメージが違う。
「ようこそ、俺らの家へー!」
「ありがとう!」
「見た通りボロボロなアパートだが、くつろいでくれよ〜。」
「お前が言うな。これタオル…。」
凪くんから渡されたタオルは、すっきりとした石鹸の香りがした。
「えっと…。こういう時って何すればいいの…?」
「え〜?そんなことも知らねえのか〜?………なんだろうな。俺も知らん。」
「なんだよ。」
「あ、えっと…。とりあえず着替えたいんだけど…。」
「だよな!ほら、ナギ!」
「はいはい。」
なぜかジンが指図して、凪くんが服を持ってきてくれた。凪くんの部屋はそこなんだ〜…とか思いながらあがらせてもらう。
「ジャージでもいい…?」
「うん。ありがとう。」
凪くんの部屋はとてもシンプルで、必要なものしか置いていないという印象だった。パタンとドアの閉まる音がしてから、着替え始める。
私と凪くんの身長は約10センチ。まあ、少し大きいかなくらいで着ることができた。あ、凪くんの匂い…と思ってしまった気持ち悪い自分をビンタして、制服をどうすればいいか尋ねる。
「乾くかなぁ…。あ、ちょっと乾いてきた…?」
ドライヤーを借りて、できるだけ水気を飛ばそうとしながら、私は呟いた。
「ローファーはどうするんだ?」
「ん〜…さっき新聞紙詰めといたし、まあ我慢すれば大丈夫。」
「…あ、マリちゃん!」
「それは平気…。元々怪異関係だったし、今頃家にいる…。記憶は適当に埋め合わされるだろうし…。」
「よかったぁ。」
こうして終わってみると、何か良いことをした気分になって誇らしくなる。
乾いてきたブレザーを触りながら考えた。
それから30分くらいして、すっかり乾いた制服を着て私は凪くんの家を出た。
ローファーはまだ湿っているのに、足が軽かった。
帰ったら、水たまりに突っ込んだとでも言って、許してもらおう。
スマホの通話アプリ・パインを開く。その友達リストの欄には、新たな名前が。実は帰り際、さらっと言ってみたら交換してくれたのだ。
猫が『よろしくね』のカードを持っているスタンプを送信する。これが初めての連絡。
電車に乗りながら、明日はどうしようか考える。明日は体育ないし結ばないでいいかな。でも、科学が実験だったような気もする…。一応ゴムは持っていかないと…。
体に振動を感じて、スマホのロック画面を開く。
あ、スタンプ…。凪くん、気づいてくれたんだ…。
黒いキャップ帽を被ったシロクマがペコリと頭を下げているスタンプが送り返されていた。
「明日も頑張らないと。」、そう感じた。