『人間は、死んだらどうなるのだろう。
 誰かが言った。
 天国か、地獄か。それとも待っているのは虚無感だけか。』

「はぁ…。」

 そんな小説を読みながら、俺・片桐(かたぎり)(なぎ)はため息をひとつ。
 1年4組の、朝のホームルーム前、暇なので学級文庫の本を一冊取り出してみたはいいものの、こんな内容は一瞬で読む気が滅却されてしまう。
 『人は死んだらどうなるのか』。その問いにはもう答えられるからだ。

「その本、面白いかぁ?」
「全く…。」

 あくびを堪えつつ、精一杯の小声で返す。
 隣で本を覗き込んでくるこいつも、同じ感想のようだ。
 『人は死んだらどうなるのか』。それは案外簡単で、2つに分けられる。
 まずは、彼岸に向かう者。こいつらは、三途の川を渡って向こう側に辿り着き、また新たな生活を始める。此岸で一生を終え、さらに彼岸でも飽きるまで生き抜いた後、生まれ変わるのだ。
 だが反対に、此岸に止まる者もいる。こいつらは、なんらかの事情でこの世に深い未練が残っている。そのため、向こう側に辿り着けないのだ。そして、そいつらを生きている人間は『怪異(かいい)』と呼んだ。ほとんどは死者となり彼岸に渡るが、たまにその怪異と化すものもいるのだ。

 固い表紙を閉じて、この本を開くことに鍵をかける。
 本棚の空白を埋め、再び席に座った。

「誰かと話してみたらどうだ?」
「めんどくさい…。それに、ジンと話してる…。」
「あ〜コミュ障が炸裂してんな〜。」
「うるせぇ…。」

 ほとんど息に消える声を出して反論すると、ジンはケケッと笑った。

 俺は怪異が見える。
 怪異は別に、昼でも夜でもいる。ただ見えていないだけで。だが俺は見えてしまうのだ。
 怪異は何か悍ましいもののように語られているが、実は意外と普通だ。生者と同じような服を着て漂っている。まあたまに暴れ出すやつもいるが。
 怪異が見える人間は、1人だけ常に行動を共にする怪異がいる。それを『(むす)(れい)』という。
 俺の場合はこいつ・ジンが結び霊だ。
 結び霊はいつ会えるかわからない。俺は物心ついた頃には一緒にいた。会ったらそいつだと怪異側が気づくらしいが、俺はよく分からなかった。
 また、ただジンと話していたら、虚空に向かって話しかけるヤバいやつになるので、小声で聞こえない程度で話しているのだ。

 空には太陽が輝いていて、葉が赤やオレンジに色づき始めている。
 いや、コミュ障というわけではないんだ。…たぶん。少し人付き合いが苦手なだけで…。

「あいつらなんかどうだ?男だし、話しやすそうだと思うぞ?」

 ジンが指差した方には、男子生徒2名が。名前は…なんだったっけ…。

「…えーと…。」
「川上と中村。」
「あ、そうだ…。」
「おいおい、なんで俺が覚えてんのにお前は忘れてんだよ。大丈夫かぁ?」
「いいよ別に…。あと、話さないからね。」
「じゃあ、ああいうのが好みなのか?」
「ん?」

 また別の方を指差して、なにやらニヤニヤしている。
 
「あれ?今日って小テストあったよね。私、全然勉強してないんだけどー。」
「え〜?そう言って高得点取るんでしょ〜?」
「そんなことないよ〜。」

 確か、小鳥遊(たかなし)(あらし)だ。こちらは苗字が珍しいので覚えていた。

「…あれは女子じゃん。」
「男子が好みじゃねえんなら、女子が好みなのかな〜と思ったんだよ。」
「そんなわけ…。」
「お前ってほんと喋んねえんだもん。俺以外と。」
「はいはい…。」

 そんなことを言っていたら、もうホームルームの時間になってしまった。
 担任の先生が入って、生徒たちが席につく。朝の挨拶をして、事務連絡が始まった。

「問題。あいつの名前はなーんだ。」
「……先生。」
「担任の名前も覚えてねえのかよ!あいつは北澤(きたざわ)だ!」
「へえ…。」
「へえ…ってお前、もう7ヶ月会ってるだろ!ほんと興味ねえんだな!」

 北澤先生は国語の先生で、歩くたびにふわりと舞うスカートを履いている。若く、真面目で優しくて生徒人気も高い。「キタちゃん」とも呼ばれていた。
 そんなキタちゃんが、今日はなにやらいつもより上機嫌だった。

「はい、それじゃあ今日から11月なんだけど…。みんな、新しい席には気づいたかな?」

 みんな頷いたり返事をしているが…え?そうなの?チラッと俺も後ろを振り返ると、確かに席がひとつ増えていた。1番窓に近い列の、1番後ろだ。つまり俺の後ろ。全然気づかなかった…。つくづく、他人には興味がないことを思い知らされる。

「え!?転入生!?」
「やばっ…!誰なのかな。」
「女の子かな〜。」

 キタちゃんの言葉に周りの奴らがざわめき始める。キタちゃんはドアに向かって「入っていいよ。」と呼びかけた。ガラガラとドアがスライドし、転入生が現れた。
 キタちゃんのそばに立ち、俺らの方を向く。
 女だった。サラサラとした真っ直ぐな髪を垂らし、真面目そうに制服を着ている。特徴のない、全てが普通な、ある意味整った顔をしている。
 キタちゃんが、そいつに「自己紹介、してくれる?」と優しく微笑む。そいつはこくんと頷いて、花が咲いたような笑顔を作った。

七海(ななみ)寧々(ねね)です。読書と食べることが好きで、ピアノを弾くことが得意です。早くみなさんと仲良くなりたいです。よろしくお願いします。」

 鈴が鳴るような声の終わりと同時に、七海さんはペコリと頭を下げた。自然と迎える拍手が起こる。七海さんは少し照れくさそうに笑った。

「それじゃあ、七海さんの席はあそこね。みんなは、七海さんに色々教えてあげてね。それじゃあ、朝のホームルームはここまで。」

 口々に「ありがとうございました」と言ってから、席についた七海さん目掛けてどわっと女子が押し寄せる。七海さんの方を見ると、やはり取り囲まれていた。

「私、小鳥遊(さくら)!よろしくね!」
「嵐梨々子(りりこ)っていいます。よろしくね。」
「うん、よろしくね。」

 ニコッと愛想良く笑い返している。だが、なんとなく俺には薄っぺらい笑いにしか見えなかった。

「授業って…。」
「あそこに書いてあるよ!歴史だって〜。」
「休み時間、校舎案内してあげるよ!」
「いいの?ありがとう。」
「教科書は大丈夫?持ってる?」
「うん。」
「なんか分かんないことあったら言ってね!」
「うん!」

 転入生は大変だ。過度な期待を抱かれてしまう。歴史の教材をロッカーから運び、机に置いた。
 俺は勉強があまり得意ではない。なんなら苦手だ。けど、テスト前に一夜漬けで勉強したら、かなりいい点数が取れるタイプでもある。勉強に関する記憶力はそこそこありそうなのに、人の名前などに関する記憶力はニワトリと同レベルだと言ってもいい。
 ジンは勉強できないみたいだし、そもそも何十年か前の教育を受けてきたのだから今の内容と違うこともあるみたいだ。
 騒がしいなと思って机に伏せる。周りの音が多少は小さくなり、俺の空間が出来上がる。

「おいおい、寝るなー?」
「大丈夫…。寝ないから…。」

 うとうとと現実と夢の間を行き来する。まあ、どうせ歴史なんて聞いていても利点がないのだから、寝たって大丈夫だ。夢の世界を漂うことに決めた。
 その時だ。誰かにつんつんと後ろから突かれた。そんなことされたこともしたこともなかったので、ビクッと起き上がる。おかげで眠気はどこかに消え去った。
 振り向くと、七海さんがこちらを見ている。相変わらずのにっこりスマイルで。

「な、なに…?」
「久しぶりっ。」
「え…?」
「おいナギ。やったな!話しかけられたぞ!っていうか、知り合いだったのか!?」

 ジンがぼやいているのは置いておいて、全く心当たりがない。誰かと間違えてる?いや、多分それはないと思うが…。分からない。俺のことだ。多分忘れている。

「…会ったことあったっけ。」
「あーやっぱり忘れちゃってるよね〜。私、あの、小学生の頃の隣に住んでた…。」
「あー…なんかいた…ような気がする。」

 俺は小学4年生の頃、この町に引っ越した。確かに引っ越す前のお隣さんとは仲良くしていたような気がする。
 地味で暗くて、何も話さない子。それが昔の七海さんだ。

「私、あの頃と全然違うから、まあ覚えてないよね〜。」

 また違った笑い方をする。困りつつも笑顔を浮かべている。

「で…?」
「あ、そう。それで、凪くんに久しぶりに会えたのが嬉しくて。声かけちゃった。」

 テヘッと笑ってみせる。その顔が、段々と顔が赤みを帯びていく。

「またよろしくね。」
「…うん。」

 そして俺はまた、自分の空間へと入った。後ろから立ち上がる音が聞こえた。
 私はトイレの個室に隠れ、悶えていた。
 話した!話したんだ!
 胸の太鼓が鳴り止まない。頭の中はお祭り騒ぎでしっちゃかめっちゃかだ。
 絶対顔赤くなってた!絶対手震えてた!でも話せたんだ!自分をとりあえず褒めまくる。
 私・七海寧々は、凪くんのことが好きなのだ。確か恋したのは、小学1年生の頃。


 おつかいの帰りに迷子になってしまい、私は泣いていた。いつしか雨が降り出して、余計に泣けてきていた。傘は持っておらず、びしょびしょのまま歩いていた。
 持っていたカバンには、がま口の財布と買った石鹸とお兄ちゃんと自分用の歯ブラシと掃除に使うスポンジ、トマトとチョコレート。それから左手にはお母さんからのお守りが握りしめていた。『がんばれ!』と書かれた大きな手作りのお守りを私は大切に握っていた。
 風も強くなり、時々風に煽られてフラフラした。天気を教えてくれるお姉さんは、こんなこと言ってなかったのになと思った。
 もう何時間歩いたのだろう。
 自分から行きたいとせがんで行かせてもらったのに、こんな目に遭うなんて。

「…おかあさん…!」

 呼んでも誰も来てくれない。

「おとうさん…!おにいちゃん…!」

 やっぱり誰も来ない。
 その時、いきなりつるっとスニーカーが滑った。そのまま私は地面に倒れる。
 お守りが泥だらけになってしまった。おまけに私の膝からは血が滴り、手の皮も剥けてしまった。
 痛いし、汚れちゃったし、濡れてるし、寒いし、怖いし。もう最悪としか言えない状況だった。
 地面に座ったまま、わんわん泣いた。声をあげて泣いた。いつもは泣いたらお母さんが来てくれるのに、今日は来ない。それも寂しくて泣いた。
 せっかくお母さんが用意してくれた桃色のワンピースも雨水を吸って重たくなった。お父さんが被せてくれた、ピンク色のリボンのついた麦わら帽子も濡れてしまっている。
 もうお守りも握れなくて、カバンの中にしまった。

「おねえさん…!」

 ドラッグストアでレジを担当してくれたお姉さんを呼ぶ。

「やさいのおじちゃん…!だがしやのおばちゃん…!」

 行く時に通った、八百屋さんと駄菓子屋さんも呼んでみる。八百屋のおじちゃんには、「おつかいえらいな!」と言われて、トマトを。駄菓子屋のおばちゃんは、私がじっと眺めていたので、チョコレートをあげて、ドラッグストアに行くように促してくれた。

「わたなべせんせー…!」

 今回のお使いとは全く関係ないピアノ教室の先生も呼んだ。でも、誰も来ない。涙が止まらなかった。涙がワンピースにさらにシミを作った。
 誰か呼んだら来てくれるかもしれない。そう思って、名前を探した。
 ふと思いついたのは、隣に住んでいる男の子。学校とクラスも一緒で、静かだけど自分と仲良しな子。

「なぎくん…!」

 彼の名前を震える声で呼んだ。でも、やっぱり来なかった。いや、すぐには来なかった。

「ねねちゃん。」

 10秒ほど経って、知ってる声が背中から聞こえた。
 振り返ると…なんと凪くんが走ってるではないか。
 涙でぐずぐずの顔のまま、振り返り続けた。

「大丈夫?」

 凪くんが来てくれた。それだけが嬉しくて、また涙が出た。

 その後凪くんは、泣く私の手を引っ張って、元来た道を戻った。
 冷たい私の手を、ずっと暖かく握っていてくれた。
 帰るとまずお兄ちゃんがいて、少し怒られた。お兄ちゃんがお父さんとお母さんに連絡を取って、呼び戻してくれた。
 お母さんとお父さんは息を切らして帰ってきて、私を抱きしめてくれた。
 あの手を握りながら歩いたとき、私は凪くんを好きになったのだろう。


 いや、別に凪くんを追ってこの町に引っ越したわけではない。ただ、編入試験を受けて転入してみたら、凪くんの顔があったのだ。
 もうこれは運命としか言えない。

「告ろうかな…。」

 いやいやいや!落ち着いて、私!まだ早いって!
 なんでか凪くんは他の人間とは喋らないが、そこもまたかっこいい…ってなに思ってんの私!落ち着いて!
 あ、そうだ。でも私は、凪くんに言っていない秘密を持っている。
 それは…怪異が見えること。
 私はまだ、結び霊に会っていない。でも、凪くんの結び霊であるジンさんは見えていた。小学生の頃から。 
 どうやら私の家は巫女の家系だったらしく、今はなにも行っていないが、元々女子に見える人が多かったらしい。
 
 せっかく会えたんだ。さっさと秘密を打ち明けて、告って…。…できれば付き合いたい…。なんてことは、夢物語だろうか。
 トイレで一体なにを考えているんだ。自分を責めて、教室に戻った。


「なーなーナギィ。つまんねえんだけど。」

 授業中、ジンさんが凪くんに話しかける。ナギくんはノートの隅に何か書いて会話しているようだ。
 少し面白い光景に、嬉しくなってしまう。秘密にしているとこういう利点もあるのか。
 ノートをとりつつ、凪くんを見てしまう。その時だった。

「あ、そういえば、さっきの七海、めっちゃ顔赤くなってたよな。」

 ジンさんが私の名前を出してこちらをみた。
 見えてないかのように振る舞ってノートをとるフリをする。
 やっぱ赤くなってたんだ…。頭の中で私を殴り散らかした。

「あ?暑かったんじゃねえかって?んなわけねーだろー。」
(よかった…凪くんにはバレてない…!)
「ありゃあ、お前に照れてたんだよ。」
(え!?ジンさん!?)
「いやいやいや。多分こいつ、お前のこと好きだと思うね。」
(きゃー!バラされてるー!)
「…まあ、それもそうか。お前のこと好きになるやつなんて余程のもの好きだもんな〜。」

 ん?なんかバレなかった?もの好き呼ばわりされたけど。
 ノートの右上にセーフと書いて、すぐに消しゴムで証拠隠滅を図った。
 6年ぶりの再会だ。再び私の胸は脈打った。


「わあ〜!可愛いお弁当〜!」
「いいな〜。」

 桜ちゃんと梨々子ちゃんに羨ましがられながら、昼食をとる。よかった。クラスにも馴染めそうだ。
 さて、どうやって秘密を打ち明けよう。まあシンプルに呼び出して話すのが早いか。
 卵焼きは食べ慣れたお母さんの味で、いつもとは違う学校の中で安心する明かりのような存在だった。
 凪くんはどこかに行ってしまったようで、ジンさんも見当たらない。
 私たちは昼食をとったあと、校舎探検をすることになった。

 学校は2つの校舎に分かれており、古そうな建物と新しそうな建物に分かれている。古そうな方には、理科で使う実験室や音楽室、図書室など、特別教室があった。反対に新しそうな建物には、私たちが使う普通教室や職員室があった。1年生は2階、2年生は3階、3年生は4階だ。他にも、体育館や中庭、講堂などがあり、しばらくは迷いそうだなと思ってしまった。

 昼休みも残り6分となったところで、凪くんが帰ってきた。ジンさんも楽しそうに喋っている。

「あ、あのさっ。」

 まずい。声が上ずった。今の声、キモかった…!
 精一杯口を動かして、話しかける。

「放課後、時間ある…?」
「え…まあ…。」
「…話したいことがあるのっ…!」

 それだけを言って、桜ちゃん達の話に混ぜてもらう。結局逃げてしまった。気持ち悪い自分に嫌悪しながら、必死に笑顔を浮かべておしゃべりした。

 放課後、他の子達は部活や委員会などがあり、すぐには帰らなかったが、私は凪くんの背中を追って帰ろうとした。

「…凪くん、歩くの速くない?」
「え…そう…?」
「そうだよ〜。」

 などと世間話をしながら、緊張で耳から心臓が飛び出そうだった。
 凪くんは私を気遣って、ゆっくり歩いてくれる。優しいなぁ。

「で…?話したいことって…?」
「…ここじゃ言いづらくて…。」
「…じゃあ、ついてきて。いい場所知ってる。」

 どこだろうと思って背中についていく。こうすると、あの頃を思い出してしまう。段々と空がオレンジ色に染まっていく。日が短くなったことを色で感じた。
 連れて行かれたのはベンチと花壇しかない公園で、人っ子ひとりいなかった。
 凪くんと同じベンチに座り、微妙な間が流れる。夕日が公園に茜を差す。

「…おい、ナギ。なんか話した方がいいんじゃねえか?あいつ、黙りこくってるぞ。」

 そうだ。言わないと。言ったら気持ち悪いと思われるかもしれないけど、言わないと。気合いをいれて、5時間目と6時間目の間の休み時間は、髪をとかしたり、リップやハンドクリームを塗ったりしていた。

「なんだよこの空気。あいつ、早く言わねえかな…。」

 サラサラになった手の甲を触って、ジンさんの方を向いた。

「そうだね、ジンさん。早く言わないと。」

 弾かれたように、凪くんがこちらを見た。ジンさんも目を見開いている。
 俺はただ、純粋な驚きを持っていた。

「私、怪異が見えるみたいなんだ。ごめんね、黙ってて。ずっと隠してた。」
「え…俺の声が聞こえるってのか?」
「うん。ジンさんでしょ?」

 心底驚いてしまう。七海さんはしっかりとジンの目を見ていた。

「結び霊は?」
「まだいないの。誰なんだろうね〜。」
「俺のことは、呼び捨てでいいぞ。堅苦しいことは好まないからな!」
「ほんと?ありがとう。」

 ジンはすぐに受け止めたみたいだが、俺はまだ混乱していた。
 
「それでね。凪くん。」
「ふはっ!凪くんだってよ!こいつなんて呼び捨てでいいのに。」
「うるさい。」
「…私の家は巫女の家系だったみたいで、女子に見える子が多かったみたい。って言っても、家にいる人の中で見えるのは私だけなんだけどね。」
「…で?」

 あ、とまた思う。また「で?」と要件を聞いてしまった。どうしても、なるべく話したくない欲が出てしまう。会話をスマートに行いたい気持ちが出てしまうのだ。
 七海さんは、少し戸惑ってから、自身の髪を触った。人差し指にくるくると巻きつけては解くことを繰り返す。
 口はパクパクして、まるで金魚のようだった。

「そ、それでっ。…友達になれないかなって…。」
「あ?友達?どうするよナギ。こいつ、ダチになりてえっつってんぞ。」
「…な…なんで…?」

 普通に疑問が湧く。なんで俺と?
 クラスの底辺に属する俺と、どうして友達になりたいのだろうか。偽善?いや、だとしても意味が分からない。
 七海さんは頬を赤らめて俯いた。髪で顔が隠れる。

「だって…また前みたいに…なりたいから…。」

 前?前になんかしたか?思い出そうとするが無理だった。
 覚えていそうなジンに視線を送ると、ジンは驚いたような目で交互に俺と七海さんを見ていた。

「お、お前…!お前っ…!…ナギ、やったなあああ!」
「は?」
「だって、前みたいな関係だろ?うわ〜マジかー!熱いねー!」
「え…?いや分かんねえ。どういうこと?」

 ジンにバシバシと肩を叩かれながら、必死に思い出そうとする。いや、覚えてないから思い出せない。
 七海さんも、何やら話題が食い違ってるらしく、きょとんとしている。

「え?だってお前ら4歳くらいの頃、あんなこと言ってたじゃねえかよー!」
「ど、どんなこと?覚えてないんだけど…。」
「いや、ネネが「わたし、将来はナギくんのお嫁さんになるのー!」って言ってて、ナギもOKしてたじゃねえかよ!」
「「…はああああああ!?」」

 ハモりながら同時に立ち上がった。いや、最近の中で1番声出たな…。
 そして、『は!?そういうことなの!?』と、七海さんを見ると、七海さんは赤くなってたフルフルと震えていた。

「ち、違うんだけど…!」
「あれ?そうなのか?」
「た、確かにそういうことはあったけど…私が言ってるのは、仲良くしたいってだけで…!」
「なんだー。ナギ、ドンマイ。そういう日もあるよなっ。」
「なんで俺がフラれたみたいになってんの?」
「…だから…えっと…七海さんって、呼ばないでいいから…。」
「えっ…。」
「前みたいに、「ねねちゃん」とか呼んでほしい…。」
「いいご身分だな〜ナギさんよぉ〜。ほら、呼んでやんなよ。」
「いや…その…ええと…。……ごめん。ちょっと恥ずい…。」

 いや、流石に寧々ちゃんは呼べない。恥ずかしすぎて爆死する。いや本当に変な汗をかいている。七海さんは少し悲しそうな顔をして、猫背になってしまった。
 俺にしては珍しく空気を読んで、別の呼び方を考える。
 ジンは、気まずい空気になった場を和ませようとくだらないギャグを言ってみた。やめてくれ、ただでさえ低い空気が氷点下に達した。

「…七海…でいい…?」

 色々考えた挙句、結局苗字を呼び捨てで呼んだ。七海は丸い瞳をこちらに向ける。
 
「うん…!」

 大きく分かりやすく頷いた。そこで初めて、薄っぺらいと感じない笑顔を咲かせた。本物の笑顔は眩しくて、俺なんかでは目にも入れられないものだった。

「…アオハルしてんな〜。」
「うるせえ。」
「ふふっ、仲良いんだね。」
「そういうわけじゃ…。…俺らなんて悪縁だし。」
「はあ!?俺の縁って悪いものだったのかよ!」
「え…じゃあなに?…しがらみ?腐れ縁?」
「いや全部悪いやつだな!」

 なんて俺とジンがコントを披露していると、七海はもっと笑ってくれた。ジンのツッコミが、こんなところで役立つなんて思いもしなかった。
 七海はそのあと、軽やかな足取りで帰って行った。リュックが嬉しそうに飛び跳ねている。とりあえずほっとしてしまった。
 さっきのことをジンにいじられながら、俺もそろそろ帰るかと思った時、ジンが急に黙った。
 ジンが黙ったということは…そういうことだ。

 花壇の前で、幼い子供が座っている。全く気づかなかった。
 おかっぱの女の子で、シクシクと泣いている。

「ねえ、大丈夫?」
「…だれもあそんでくれないの。」

 あ、このパターンか。なるほどな、と一人合点をして、罠に飛び込んでみる。
 心のない、罠発動の合言葉。

「じゃあ、俺が一緒に遊んであげるよ。」
「ほんと?…うれしい。」

 あーあ。やっぱりな。振り向いた女の子の目は血走っており、顔面は蒼白で殴られたような跡が無数についていた。
 ケタケタと笑って、首を本来できないはずの真後ろに回す。
 これは人間の女児ではない。暴走状態に陥った怪異だ。

「…ジン、やれ。」

 ジンも慣れたように、怪異を蹴り上げた。うっと声を漏らして怪異は花壇の上にうずくまる。背中に手を当て、ジンは目を瞑る。微風が吹いた頃、その怪異はボロボロと崩れて塵となった。
 ジン曰く、背中に手を当てて、心臓周辺にあるコアを探っているらしい。そしてそいつを握り潰すと怪異は崩れ果てるのだとか。
 暴走状態に陥った怪異は、なにをするか分からない。今回のタイプだったら、多分同じように首を捻りちぎられていただろう。子供だろうと容赦はできない。

 ジンと俺はまたくだらない話をしながら、家についた。
 引っ越す前はまあまあなマンションに住んでいたのだが、引っ越した後からは安いアパートだ。2階の右から2番目の部屋。
 いつも通りドアを開けると、母さんの靴があった。でも、また寝ているようだ。
 俺の両親は離婚した。小学3年生の頃だ。だから母と俺は引っ越して、ここに住んでいる。
 母さんは、今、なんの仕事をしているのか知らない。以前はデザイン会社に属していたが、今は夜に働きに出ている。ということは、あのデザイン会社は退社したようだ。まあ、するだろうなとは思っていた。父さんはそこで働いているのだから。
 いつものように食費が食卓に置かれていた。それを取って、財布の中にしまう。

「相変わらず昼間は寝てんな。」
「忙しいんでしょ。」

 部屋に戻って着替えて、ベッドにもたれる。七海の笑顔を思い出す。あの特徴のない顔は、七変化しやすい顔だ。笑うと子供っぽく、こちらをじっと見つめると大人っぽくも見える。

「…寧々のこと考えてんのかぁ?気にすんなって。」
「だから、なんで俺がフラれたみたいになってんだよ…。」

 少なくとも寂しくはない。ジンがいるから。
 こういう面を考えれば、見えてよかったと思う。
 悪縁だが、それも気に入っていた。
 スマホを取り出して、あ、と呟く。そういえば七海と連絡先を交換していない。まあ、いいか。七海が言ったら交換すればいい。
 どこまで行っても、人とのコミュニケーションは最小にとどめたいのだ。怪異とのコミュニケーションはあってもいいと思うが。

「ナギ、数学のワークはいいのか?もうすぐで小テストだろ。」
「…お前は母親か。」
「ははっ、本物の母親がいるってのになに言ってんだよ。」
「あ〜…めんどくせえ。ワークも、ジンも。」
「まあな〜。」
「…褒めてない。」
「あれ?そうなのか?」
 また気だるい1日が始まった。
 通学路を踏みしめながらため息をつく。ジンはそんな俺を見てケケッと笑った。
 その時だ。誰かに後ろから肩をポンポンと叩かれる。反射的に振り向くと、そこには七海がいた。少し走ったらしく、肩が少し上下している。

「おはよう、凪くん。」
「…おはよ。」
「相変わらずナギは冷てえな〜。凍っちまうぜ。」
「お前は凍らねえだろ…。」

 七海の笑い声が聞こえ、七海の方を見る。
 昨日とは違い、髪をひとつに束ねている。高いところから垂れた髪はまるで馬のしっぽだ。そして、なんとなく、いや、違うかもしれないが…少し昨日より唇の色がピンクっぽかった。あ、あれか。色付きリップ。小鳥遊とか嵐が話していた記憶がある。なるほどな。七海もそれを持っていたのか。

「…凪くん?」
「あ、ごめん…。」

 流石に七海も気づいたらしく、引き気味に尋ねる。ちなみにジンは全く気づかなかった。まあガサツなやつだもんな。

「あ?そういえば寧々、今日は髪結んでるんだな。」
「うん。今日は体育があるから。今ってなにやってるの?」
「女子はバレーボールだったな。3組の女子と合同だぞ。」
「そうなんだ。ありがとう。」
「2人とも。そろそろ生徒がいっぱいいるところに着くからその辺で。」
「あ、そうだね。ありがと、凪くん。」
「はいはい。分かってるよ。サンキュー、ナギー。」

 七海は途端に口角を上げた。
 やっぱり作り笑いのようだ。みんなは気づいていないみたいだけど。
 昨日見た本当の笑顔に比べると、明らかに厚さが違う。昨日は眩しく輝く太陽のようだったのに、今はただ咲いている一輪の花程度だ。

「今日は音楽室にも体育館にも行けるんだ〜。楽しみっ。」
「よかったね…。」
「…寧々は、なんでいつもそんな笑顔なんだ?顔が疲れるだろ。」
「あ〜…えっと…。…笑顔だと、みんなが楽しくなるでしょう?」
「…だってよ、ナギ。」
「え…知らないよ、そんなの…。」
「でも確かに疲れちゃうんだよね〜。…あ!凪くんの笑顔は見たことないな。ちょっと笑ってみてよ!」
「えっ…。いや…無理…疲れる…。」

 いや、本当に笑うことは体力を使う。っていうか、笑うこと自体得意ではない。別に笑わなくたってコミュニケーションはできる。
 七海はぷくーっと頬を膨らませ、ジンはいつも通り笑った。
 学校が見えてくる。いつもの通学路が、今日は少し違う気がした。
 七海がいたからだろうか。いや、多分違うな。


「おはよー寧々ちゃん!」
「おはよう。」
「今日髪結んでるんだね!可愛い〜。」
「ありがとう。」

 いつも通り、小鳥遊と嵐が七海につるむ。七海はなんとかグループに入れたようだ。
 女子というものは、どうもグループを重視するらしい。権力のあるグループ、おとなしいグループ、さまざまだ。だから、他のグループに属している者をそう簡単に自分のグループには入れさせない。まさにサバンナ。動物の縄張り争いかよ。
 俺は男子なので、そこんとこは気楽に過ごせる。これは男子の利点と言えるだろう。
 七海は常に笑顔だった。あれが『みんなのための笑顔』か。確かに疲れそうだ。
 俺はいつも通り小声でジンと話しながら、教室を見渡していた。
 こちらもいつも通り、普通の怪異が漂っている。暴走状態のやつはいなさそうだ。
 深呼吸をひとつして、耳を澄ませる。視界は少しぼやけるが、あたりの音が吸い込まれる。

『なーなー、今日の放課後さー』
『やばっ!先輩付き合ったの!?』
『本、ありがとう。おもしろかったよ。』
『弁当忘れたー!』

 大抵はどうでもいい情報。だがその中に、たまに有益な情報が眠っていることがある。
 俺が集中していると、ジンはそれに気づいて静かになる。ガサツなくせに、そういうことは汲み取ってくれるのだ。

『ねぇ知ってる?マリちゃん、行方不明になっちゃったらしいよ。』
『やだこわーい。』

 ん?行方不明?
 そいつらに集中して、会話を盗み聞く。

『なんか、屋上でいきなり足から消えてったらしいよ〜。』
『嘘だあ〜。』
『いや、マジなんだよ!だって今日、マリちゃん来てないでしょ?』

 …人はいきなり消えたりしない。何かが暴れてるのかも…?
 屋上か…。まあ、何かいてもおかしくはない。
 マリちゃんって…誰だっけ。

「ん〜…?」
「ん?どうした?腹が痛えのか?」
「…昼休み、行かないと…。」
「あーなるほどな。りょーかい。」
「なにが?」

 前もやられた背中つんつんと同時に、後ろから声が聞こえる。どうやら七海も聞いていたようだ。
 七海も見えるんだし、言ってもいいか。一応、ジンに目配せはする。ジンは少し考えた後、まあいいだろとでも言うように頷いた。 
 少し小声で話すと、段々と七海の顔が不安げに変わる。思ったことが全て顔に出る性格のようだ。おかげで今は、手を口元に当てて少し青ざめている。

「そうだったんだ…。」
「だから俺ら、今日も昼休み行かねえとなんだよな〜。」
「…でも、5時間目体育だから、着替えないとじゃない?」
「あ…そうだった…。…じゃあ放課後か…。」

 すっかり忘れていた。時間を有するタイプかもしれないし、確かに放課後の方がいい。素直に『ありがとう』を呟くと、七海はニコッと笑って返した。

「久しぶりに凪くんから『ありがとう』って言われたかも〜。嬉しいっ。」

 またまた咲く花の数を増やす。これはたぶん、本物だ。
 …何か視線を感じて周りをチラッと確認する。…うーわ…最悪…。
 なぜかクラスの半数くらいに注目されている。川上たちが俺らを見ながら話している。確かに、俺が誰かと話している時点で珍しい。さらにそこに転入生の女子というものが加われば、もう大変だ。珍しさが富士山レベルになる。
 そんな俺を、ジンは楽しそうにニヤニヤしていた。相変わらず性格悪いな…。
 クルッと向きを変えて、自分の世界を構築する。できるだけ注目されたくないのだ。周りの目線と話し声をシャットアウトする。
 それは、体育の授業後だった。
 ジンが言った通り、バレーボールで、私は頑張ってレシーブを練習していた。
 何回も続けると腕がヒリヒリしてきて、慣れてないなぁと思ってしまう。
 私は決して、運動が得意なタイプではない。でも、やる気だけは人一倍ある方だ。毎回その努力と根性が評価されて成績を上げてきた。
 ジャージの袖を捲ると、やはり赤くなっている。まあ冷やせば治るか、と冷たい水を口へ流し込んだ。そういえば、凪くんはなにをやっているんだっけ。確か男子はサッカーだったような気がする。休憩タイムを使って、校庭を盗み見た。

「なーにやってんの?」
「校庭?あ〜男子か。」

 同じチームで一緒に練習をしていた桜ちゃんと梨々子ちゃんが上から声をかけてくれた。すぐさま自然に笑って返す。

「男子はサッカーなんだね。」
「そうだよ〜。あ、寧々に問題です!うちら、6月に体育祭やったんだけど、そこでクラス対抗全員リレーやったのね?」
「その時のアンカーは誰でしょう!ちなみに男子だよ。」
「え…。…渡辺くんとか?堀安くん?」
「ブブー!」
「ん〜…伴くん?いや、伴くんは長距離走って言ってたな…。」
「…はい、時間切れー!正解は…あいつだ!」

 そう言って梨々子ちゃんが指差した先には、ドリブルしてボールを運んでいる凪くんが。そのままゴールギリギリを狙ってシュートした。ボールはゴールポストの中へ。すぐさま歓声とドンマイの声が上がった。

「え…凪くん!?」
「そう。正解は、片桐でした〜。」
「意外…。」
「だよね〜。普段はひとことも喋んなくて笑いもしなくて、本読んでるか寝てるかなのに、スポーツできるとか思わないって〜。」
「意外とそこのギャップで気になってる子もいるみたいだよ。」
「へえ…。」

 え!?そうなの!?
 落ち着いて返事したが、内心は気が気じゃなかった。どうしよう、凪くんが取られちゃう…。いや、私のものではないんだけど!でもさ、嫌なんだもん…。
 もしかしたら、もう誰かと付き合ってるのかもしれない。そう思うだけで胸がギュッと締め付けられる。分かってたのにな。
 凪くんだって人間だ。いつかは素敵な人と付き合って、結婚する日が来るかもしれない。それで、子供ができるかもしれない。そこまでの行程を想像するだけで体は金縛りにあったかのように動かなくなる。
 私の愛は重いかもしれない。けど、それほど諦めたくないんだ。
 そんなことを考えてる私の耳に、次の試合の合図が届いた。
 凪くんたちは試合が終わり、水分を補給していた。やっぱり凪くんのそばにはジンがいた。
 少しだけ、ジンが羨ましかった。


 放課後、掃除当番ではない私たちはリュックを背負って教室を出た。いつか桜ちゃんたちとも、遊びに行けたらいいなと思って。
 凪くんに導かれるがまま、屋上へ向かう。

「あ、そう言えばマリってやつのこと調べといたぞ。1年1組の女子だった。」
「そうなんだ。」
「そうなんだってお前…。感謝しろよ〜?」
「はいはい。」

 少し急足で階段を登り、屋上の扉を開けた。
 ここは一度来たことがある。ここで昼食を食べる生徒も多いからだ。梨々子ちゃんと桜ちゃんが楽しげに語っていたのを思い出す。
 だが、今日は違った。私の紹介された屋上ではない。隣では凪くんが「やっぱりな…」と呟いている。
 屋上の中央には丸くて少し大きめの鏡が置かれている。いや、ほぼ屋上の床に埋め込まれている。普通ならこんなことないので、これは怪異の仕業だ。マリちゃんは運悪くこの鏡の上で立ち止まってしまい、引き摺り込まれたのだ。

 できるだけ平然を装って、鏡の上に立つ。凪くんも立って、ジンも凪くんのそばに浮遊する。
 凪くんは鏡が気になるらしく、下を向いていた。ジンもつられて下を見る。

「…凪くん。前見てもらっていい?」
「あ、そっか。勘付かれるか…。」
「それもそうなんだけど…。私、制服だから。」

 それを聞くと一斉に2人は前を向く。なんなら凪くんは眩しいはずの天を仰ぐ。
 不思議な時間が流れる。ぬるい風が私の髪を揺らした。
 その時だ。

「きゃっ…!」

 誰かに足を掴まれる。
 来た。
 慌てるフリをしながら、私たちは鏡に引き摺り込まれた。トプンという音と共に、視界は暗く溶けていく。


「ん…?」

 目覚めればそこは、大量のスピーカーが置かれた部屋だった。いや、部屋なのだろうか。スピーカーの壁が構築され、天井が狭く感じる。どうやら凪くんとは逸れてしまったらしい。
 急に、ひとつのレトロなスピーカーのスイッチが入った。ザザザという音に反応して、スピーカーに注目してしまう。

『あーあー聞こえてる?』

 思わず身震いした。聞こえてきたのは私の声。

『私さあ、ずっと言いたかったことがあって〜。』
「…なに…?」
『あんたって…ほんとダメダメだよね。』

 自分が自分に語りかけているのに、なぜか心に刺さってしまう。
 違う。こんなことをしにきたんじゃない。怪異だ。怪異はどこにいる。見回してもスピーカーしか置かれていない。
 しょうがないので、スピーカーをひとつひとつ降ろしていくことにした。

『ほんとはひとことも喋れないくせに猫かぶって愛想良くして。笑顔作って。ほんとウザすぎ。』

 少し刺さるものはあったが、気づかないフリをする。
 
『今日だって、慣れないリップ塗って来たもんね〜。凪くんのために。凪くんが気づくわけないっての。あとなんだっけ?ポニーテールと、日焼け止めと、あ、『おはよう』の練習までして。どーせ気づいてもらえないのに努力して。諦めた方がいいと思うけど。』
「うるさいな…。」

 ブチっとスイッチを切って、スピーカーをどかす作業に集中する。
 またザザザという音が聞こえた。

『も〜切らないでよ〜。』

 今度は、ピンク色の小さな可愛いものから私の声が。これはキリがない。無視してスピーカーの壁を崩す。いつの間にか、なにやらドアの一部がのぞいていた。
 その一部を段々大きくしていく。気づけば汗が出ていた。服で拭おうとしたところを、一旦手を止めてハンカチを使う。

「できた…。」

 かなりの時間をかけて、出て来たのはドアだった。やっぱりここはどこかの部屋なのだ。ドアノブを回してみるが、開かない様子。空洞と化した鍵穴に爪を入れてみる。
 鏡を入り口にするタイプはめんどくさいことでも有名だ。入り口の鏡は全く壊れないから、中に入るしかない。入ったらひたすら最深部を目指す。そして最深部にいる本体を倒せば元に戻れる。楽な構造ではあるが、地道な作業が必要になる。暴走状態の怪異は、時に空間を作ってしまうこともあるのだ。
 私たちは他の人たちとは違って、怪異が見える。それなら、見えない人たちが理不尽な目に遭うのを守らなくてはならない。と、ひいおじいちゃんの日記には書いてあった。だから私も、こうして討伐しようとしている。
 いつもであれば、大体見ないフリをしてやり過ごす。結び霊がいないからだ。しかし、今回は被害者が出ている。いなくても、守らなくてはならない。
 コアを握り潰すことはできなくとも、別の方法はある。その怪異ごと潰してしまえばいいのだ。大体胸の中央あたりにあるらしいので、いつもはそこを狙っている。

「…ねえ、鍵の場所って知ってる?」

 諦め半分で『私』に尋ねる。

『お、ようやく話してくれた。ん〜……私の話を話を聞いてくれたらいいよ。猫被りちゃん。』
「…それで呼ばないで。」
『だって事実じゃん?』
「うるさい。」
『わぁ、怒ってる〜。こわーい!あ、そろそろ唇乾燥してきた頃じゃない?』
「……。」

 ポーチからリップクリームを取り出して、薄く塗った。

『凪くんのこと、諦めたいと思ってんでしょ。』
「なんで?」
『だって凪くん意外にモテてるみたいだし、全然気づいてくれないし。』
「…それは…。」
『それに。フラれちゃったもんね〜。』
「っ……!でも、それって小学生の頃だし…!」
『うわ〜重い重い。』

 そう。私は凪くんに一度フラれている。なんか、そういうのよく分かんない、と言われて。凪くんが引っ越す前日に言われた。

「分かんないじゃん…今は違うかもしれないじゃん…!」
『私仮定した話は嫌いなんだよね。』

 根拠のない希望は、すぐに折れる。
 淡い期待は濃い事実に染まる。

『っていうか、猫被りちゃんのこと、凪くんは探してるのかな。もしかしたら1人で最深部に向かってるかもよ?』
「…そうかもしれないけど…。」

 ふと変な感覚がして見上げると、水が滴り落ちている。天井から。床からも水が滲み出ている。

「なにこれ…!鍵は?もう話したよね。」
『え〜そんなこと言ったっけ〜。覚えてな〜い。』

 サッと血の気が引く。モタモタしすぎた。鍵を見つけないと。
 ザブザブと足元が水で満たされていく。このままじゃスピーカーたちと一緒に溺死してしまう。

『早く探した方がいいんじゃないの〜?』
「分かってる!」

 スピーカーを掻き分けながら、鍵を探す。だが、見つかる気がしない。
 天井からも雨のように水が滴り、床からも滲み出ている。随分時間が経ち、もう髪は濡れてしまったし、まもなく太ももまで水に浸かることになる。動きづらい。

『早く早く〜。』
「…ちょっと黙って!」

 ピンク色のスピーカーを水の中に投げ入れる。すると今度は、黒いスタイリッシュなものから音が鳴った。

『も〜。あれ気に入ってたのにー。』
「どこにあるの…?」

 その時、天井のうち2箇所がバリッと音を立てて崩れた。そこから水が滝のように流れ落ちる。水が溜まる速度が上がった。

『前髪崩れてるよ〜。』
「それどころじゃないって…!」
『ドライヤーとアイロン、あればよかったね〜。あ、あとヘアブラシ?』

 またも天井がバリバリと崩れる。滝が2ヶ所、3ヶ所と増えていく。
 段々と熱いものが腹から胸へと込み上げてくる。変な汗が吹き出す。
 腰あたりまで水に浸かると、身動きが取りづらくなる。動くたびに足に鉛が付けられているように感じて、ザバザバと泡立つ音がする。
 なるべく身軽な方がいいとブレザーも上履きも靴下も脱いでしまう。
 
『猫被りちゃん、ヒント出してあげよっか?』
「え!?なに?」
『…あれ?なんだっけ。』
「思い出してよ!」
『ん〜…。ん〜…。…まあいっか。思い出せないし。ごめんねー!』
「っ…!」

 時間を喰われた。またひとつ天井に穴があく。
 胸まで完全に浸かってしまい、もはやプールのようになってくる。着衣泳だ。
 しかも、鍵はどこにも見当たらない。もはや焦りしかない。段々と焦りが積もり、刻々と水が溜まっていた。

『私もそろそろおしまいかなぁ。じゃあね!楽しかったよー!』

 あの黒いスタイリッシュなスピーカーも沈んだ時、私はもう口に水が到達しかけていた。まずい、溺れる…!そう思って泳ごうとするが、ただ水をかくだけで浮きもしないし、むしろ沈もうとしている。鍵どころではない。足が浮いて、バタバタと足を動かすしかなくなる。
 ふと思い出したのは、スピーカーの『私』からの言葉だった。
 『凪くんのこと、諦めたいと思ってんでしょ。』
 そんなことないと思うのに、実際、諦めるしかない現状がそこにある。
 嫌だなぁ…ここで死んじゃったら。それこそ怪異になってしまう。
 溺死とか1番嫌な死に方だ。そうだなぁ、せめて一瞬でぷつりと死なせてほしい。
 そう考えると力が入らなくなって来て、思わずこんな状況なのに寝そうになってしまう。力が抜けて、段々と浮かび上がる体に嫌悪感を抱いた。
 頬を伝うこの水は、涙?それともただ降って来た水?

 ドンドンドン!
 ドアから音がするが、もう天井近くに到達する。手で天井を撫でる。
 ドンッ!と大きい音が鳴った。するとどうだろう。少しずつだが、水位が下がっていくではないか。手が天井に届かない。
 なんだろう、そう思ってドアの方に目をやると、ドアに穴が空いていた。蹴破ったような穴だ。
 1分くらいして、私は再び床に足をつけた。

「お〜い、誰かいるか〜って寧々!?おい凪!寧々がいたぞ!」

 その直後。バンという音と共に、鍵のかかったドアを、凪くんが完全に蹴破ってしまった。

「大丈夫…?」

 これは夢?現実?凪くんが目の前に立っている。
 凪くんも少し濡れていて、前髪が湿っていた。これは絶対、嘘じゃない。
 
「ありがとう…。」

 そう呟いて、凪くんを抱きしめた。今だけは、恥ずかしいとか、濡れていて申し訳ないとか思わなかった。ジンは外からそれを見てぎょっとしている。

「ごめんね、なんか慌てちゃって。焦っちゃって…。それで…!」
「え…。ちょっ…え……あ…えっと…うん…。」

 ものすごく凪くんが戸惑っていて、聞いていて面白くなってしまう。
 この頬を伝うものは、涙だと信じたい。

「ごめんね…。」
「…き、気にしないで…。……行こう…。」

 少しだけ背中がポンポンと叩かれ、不思議な力を注入される。
 スルッと凪くんは私の腕を解いた。少しだけ制服が濡れてしまっている。私が抱きついたりしたからだ。
 部屋を出ようとする凪くんの背中に、変な想いをぶつける。

「き、今日さ。…何か違うの…気づいた…?」
「え…。」

 他人に興味のない凪くんが、気づくわけがない。そう思いながらも返事を待つ。

「…なんだっけ。朝は覚えてたんだけど…。…思い出せねぇ…。」
「無いならいいよ。」
「…とりあえず、なんか…。その…。…良くなってた…。」
「えっ…。」
「…行こう。」
「…うん。」

 良くなってたのは、なにがなのかはわからない。けど、とりあえず変化には気づいてくれた。
 ジンは少し安心したような笑みを浮かべて、凪くんのあとをついて行った。手持ち無沙汰に羽織ったブレザーは水を吸って重く、ポケットに靴下を詰め、ローファーを履いて歩いた。

 外に出ると、そこは一種の館のようになっていて、丸くフロアが建てられている。中央は吹き抜けになっていて、天窓から光が差し込んでいる。円柱状の建物らしい。

「で、寧々は見つけたから次はどうするんだ?」
「…本体を叩く。」

 まるで2人は仕事かのように淡々と計画を練っていく。
 とりあえずまずは最深部を目指すこととなった。

「帰ったら髪とか服とか拭かないとな。」
「そうだねー。」
「っていうかさっきのなんだったんだよ。」
「え!?そ、それは…。」
「うわ〜アオハルしてんな〜。」

 私たちは、階段を降りたり梯子を降りたりしながら最深部へと向かった…。


「ここじゃない?」
「そうだな…。」

 明らかに最深部。ここがこの建物の1番下。するとどうだろう。鏡が急に現れて、中から女の人が出て来た。
 白い肌に、赤い口紅。目元はくっきりとしていて、巫女服のようなものを纏っている。だが、決定的に違うのは挙動。
 ヨタヨタと千鳥足でこちらに向かってくる。そして、なにやらずっと、「許さない…許さない…。」と呟いていた。

「来た…。あ〜めんどくさかった…。」
「そうだね〜。」
「…やれ。」
「りょーかい。」

 ジンは迷わず怪異に突っかかった。結び霊がいると便利だなと感じてしまう。凪くんは見てるだけでいいのだ。
 数分後、女の人は塵となって消えた。
 水が流れるこの建物に亀裂が生じていく。この空間が消えようとしている。
パンッと、金属の割れる音がして、またも視界が暗くなった。