それを吐き出さないよう我慢している間に襲ってくるのは、口がひしゃげるほどの甘さ。
ここでようやくサプリと一緒に激マズ汁を飲み込める。
ただ、こいつが本領を発揮してくるのはここから。
喉へと流れ込む直前、それは舌が硬直するほどの渋味に変化し、喉を通り過ぎる時には、ぷんと酸っぱい臭いを鼻に突き刺していく。
「ゲホッ、ゲホッ!」
あぁ、今日も最低最悪な朝だ。冗談でも笑えない。
でも、このクソみたいな日課をこなしたオレに敵うものはないぞ。
「ハァーッハッハッハ!」
バタッと床に倒れ込んで大笑いしても、注意に来るうるさい職員はいない。
何故ならこの施設は防音を徹底してるからな。
喉が嗄れるほど助けを求めた幼い頃の経験で、嫌というほど分かっている。
気が済むまで激マズ汁に勝った喜びを叫ぶと、「よっこらせ」と体を起こして、扉を見た。
壁と床と同じ、真っ白な板。横目に見ると見失うくらい、壁と同化している。
その扉の下に、あるはずのものがない。
「珍しいこともあるもんだな……」
オレは立ち上がって扉に近づいた。
いつもはこの床に着替えが置かれてるんだが。
コンコン、と扉をノックしてしばらく待ってみても、何も聞こえてこない。
ここの扉は振動感知だかなんだかがついてて、オレがなんかすると管理室に連絡がいくらしいんだけどな。
今度はドンドンと扉を叩いてみる。
とにかく、職員の応答がないことには、オレもこの部屋から出れないし。
「おーい! 返事がないとこの扉蹴破るぞ!」
そんなことできないんだけど。
脱走を仄めかせば、ワンチャン焦るだろ。
それでも一向に職員からの反応がなくて、ベッドに戻る。
「なんなんだ、一体?」
壁に後頭部を押し付けて擦ることで、頭を搔く。
二度寝でもしてやろうか、と考えてベッドに倒れ込むと、憂鬱にしかならない灰色の空が目に入った。
あっちもこっちも、うんざりするな。
青い空に浮かぶ白い雲なら、オレも好きなんだけど。
なんせこの部屋、他に娯楽がないし。
流れる雲はいい。
目を瞑って夢の世界に舞い戻ろうとしていると、突然、ダダダダダ! と扉の方から音がした。
な、なんだっ?
勢いよく体を起こして、白い扉を注視する。
オレがいくら蹴っても殴っても傷1つつかなかった扉は、ボコボコッと凹み出した。
そして、バンッと、横にしか開かない扉が、こっちに倒れてくる。
「……ターゲット発見。これより始末します」
伸ばした足を倒れた扉に乗せたのは、長い黒髪を真っ直ぐに下ろした美女。
構えたショットガンの銃口は、オレに向いている。
おいおいおいっ、嘘だろ!?
ヒュッと息を飲んで、咄嗟に顔へ手をやるが、手首を掴んで押し戻されたように近づかない。
オレは焦りながら後ろの枕を掴んで、顔の前に掲げた。
「~~!」
ギュッと目を瞑って顔を逸らすオレの耳に届いたのは、パキッという音。
それから、コツコツと足音がした。
「ふぅん……殺風景な部屋だな。これは……栄養剤か?」
ハスキーな声は武装した輩がいるとは思えないほど、呑気なもの。
オレは恐る恐る片目を開けて、枕を少し退かした。
そこにいたのは、ショットガンを持ったさっきの美女だ。
薬棚の1段目から筒を取り出して眺めている。
な、なんなんだ、あいつ……!?
「こっちは……弱体薬だな」
今度は冷蔵庫を漁って眉を顰めていた。
オレはやつの意識がこっちに向いてないのをいいことに、ジリジリと動いて、部屋の出口を目指す。
「勝手に動くな。1人で出たら死ぬぞ」
「はっ!?」
片手で持ったショットガンを、適当にこっちへ向ける。
遅れて視線を向けてきたそいつに、体が震えた。
オレを殺そうとしてるのはお前だろ!
頭に浮かんだ言葉は、カラカラに乾いた喉からは出てこなかった。
「ん……空を投影してるのか。ハッ、ここの空は子供騙しだな」
「んなっ!?」
不意に天井を見上げたそいつの言葉を聞いて、顔がカァッと熱くなる。
カチンときた。オレが10年間見てきた空だぞ!
そりゃAIが描いた絵だけど、本物の空とだって大差ないだろ!
文句を言ってやろうと拳を握ると、天井を見ていた女はオレを見て、右の口角を吊り上げる。
「ミク。本物の空を見せてやる」
「!! お前……っ、なんで、オレの名前を……」
「“オレ”? 随分男勝りだな。マモルから聞いてた話だと、か弱いお姫様を想像したもんだが」
クックッと笑うそいつの口から飛び出したのは、父ちゃんの名前だ。
こいつ、一体何者なんだ……!?
「男勝りは、お互い様だろっ……お前、一体何者だ!?」
経験がないなりに、拳を握って体の前で構えると、女はショットガンを肩に担いだ。
キリッと目尻が吊り上がった銀色の目が、笑みを湛えてオレを見つめる。
「コウメイ。マモルからミクを守るように頼まれた……そうだな、お前の兄貴ってところか?」
「は……?」
兄、貴……?
オレには兄弟なんていないし、そもそもこいつ、こんな見た目してて野郎なのか!?
「ま、驚くのも無理はない。俺がマモルに拾われたのは、ミクがここに連れてこられた後だからな。さて……」
コウメイはショットガンを下ろして、こっちに……って言うより、廊下に向かっていく。
その足元に、親指ほどの小さな物体が転がっていることに気付いた。
くの字に曲がってるけど、あれ……あいつが最初耳に付けてたやつか?
ぽっかりと口を開けた出口から顔を出して、左右を確認したコウメイは、オレに近づいてくる。
「見えてはいるようだが、こんなの邪魔だろ。その腕輪も外してやる」
パサッと、呆気なく目隠しが外された。
目を丸くしてる間に、腕にぴったりと嵌まった腕輪も、ブチッと、湿らせた紙をちぎるように、引きちぎられる。
おいおい、金属製だぞ。
「ゴリラかよ……」
「ハッ、マモルと同じ反応だな」
床に落とされた腕輪は、目隠しに迫ると、ビョンと飛んで離れた。
あれらには反発し合う磁石が混じってるから、当然だ。
オレはドクドクと音を立てる鼓動を聞きながら、コウメイを見上げて銀色の瞳を見つめた。
「“答えろ!” お前は、オレの味方か?」
「……嘘を吐く気はないが、“絶対的命令”を使っても無駄だぞ。あの弱体薬を飲んだんだろ? 強制力がなくなってる」
コウメイが指さしたのは、薬棚の隣の冷蔵庫。
弱体薬……? あの激マズ汁が!?
「安心しろ。ミクに危害を加える気はない。マモルの最期の頼みだ」
「さいご……!?」
どういうことだ、とコウメイを睨むと、黒い手袋に包まれた手が頭に伸ばされる。
咄嗟に腕をクロスして頭を守ってはみたが、あっさりと突破されて、クシャクシャッと頭を撫でられた。
こんな風に触れられるの、何年振りだ……?
「そろそろこっちにも人が来る。歩きながら話そう。俺から離れるなよ」
「はぁ……?」
コウメイの口調が父ちゃんと似てるからか、さっき撫でられた手が温かかったからか。
いささか警戒を解かれて、部屋を出て行こうとするコウメイに、オレは素直に付いて行った。
オレの特殊能力……目が合った相手へ、強制的に命令を聞かせる絶対的命令の研究をする為に、実験室に移動することもままある。
そんな時に、当然だがよく通るのが廊下だ。
空が投影されてる部屋とは違って、天井も、壁も床も真っ白なここは、しばらく綺麗なものだったが……。
「ひっ……な、なんだこれ……!?」
オレの部屋から離れるにつれ、壁や床にめり込んだ弾痕や、血を流して倒れる職員の姿が増えていった。
「TNDHは知ってるか? 特殊能力保持者を嫌って、その排除を目的とする過激派集団だ」
「し、知らねーよ、そんなもん……!」
「まぁ、いるんだ、そんな奴らが。そのTNDHが今日、ここを襲撃したんだよ」
「はぁ……!? な、何が目的で……っ」
「言っただろ。特殊能力保持者……つまり、ミクの排除だ」
「!」
オレの命を狙ってる連中が……?
ここの職員に好き勝手体を弄られるだけでもいけ好かねーってのに、そんなのまでいるなんて、オレが何をしたってんだ!?
ただ変な力を持って生まれただけじゃねーか……! オレだって欲しくなかったのに!
「こんな話を聞いて怯えるとこは、普通の女の子だな」
先を歩いていたコウメイが振り返って、表情を和らげるように笑う。
また頭に伸びてきた手を、今度はギュッと目を瞑って首を竦めながら迎えた。
「皮肉にも、TNDHが一番ミク奪還に近い道筋だったからな。襲撃に乗りはしたが、お前を殺させはしない」
「お、お前……本当に、なんなんだ……」
訳が分からない。
オレの部屋に乗り込んできたくせに、ショットガンを向けてきたくせに、本当に何もしないどころか、拘束具を解いてくれた。
コウメイはまた前を向いて歩きながら、父ちゃんに似た口調で言う。
「マモルに拾われて、育てられた孤児だ。マモルがミクを必死に助け出そうとしてたのは、俺が一番よく知ってる」
「父ちゃん……」
「あぁ……今分かった。ミクのその口調は、マモル譲りか。通りで女らしくないと思った」
「なっ!? いいだろ、別に! お前だって父ちゃんそっくりじゃねーか!」
「俺が? ……まぁ、長いこと一緒に暮らしてたからな。そうか、俺にもマモルに似てるとこがあったんだな」
笑いが滲んだ声は、どこか嬉しそうで、どこか寂しそうに感じた。
人の父ちゃんを呼び捨てにしておいて……なんなんだ。
「マモルが亡くなった今、その遺志を継げるのは俺だけだ」
「は……亡く、なった……?」
どういうことだ。
オレの足が止まった時、曲がり角からショットガンを持った男が出てきた。
「お前は……」
男の声がした後、近くでドンッと低い銃声がする。
後ろにのけぞって倒れたのは、曲がり角から出てきた男の方だ。
コウメイが、撃ったのか……?
「な……」
にを、と、そう言おうとした。
「ミクの命を狙う奴らだ、生かしておく必要はない」
そう言ったコウメイの声は、冷たかった。
倒れた男に視線を囚われる。
あいつ、死んだの、か……?
「……嘘だよ。この銃は特殊でな、人の記憶を失くす変わった弾丸を放つんだ。ついでに撃たれた奴は気絶する」
「気絶……」
そうか、死んだわけじゃないのか。
肩に入った力が抜けて、ホッと息を吐く。
オレを横目に見ていたコウメイは「起きないうちに行くぞ」と言って、歩き出した。
オレも、コウメイから離れないように慌てて付いて行く。
「……マモルは、流行り病だった。最期まで、ミクを助けることだけを考えていたよ」
「……! いつ、亡くなったんだ……?」
尋ねる声が震える。
唯一の家族が、オレが研究施設に連れて行かれる時、最後まで抗ってくれた父ちゃんが、死んだなんて。
コウメイは、前を向いたまま答える。
「4ヶ月前」
「っ……そう、か……」
唇を噛んで、ギュウッと拳を握りしめる。
オレ、父ちゃんが死んだことも、知らなかったんだな。
「――、――」
「――、――?」
後ろの方から、誰かの話し声が聞こえる。
男だっていうのがギリギリ分かる程度の声だけど、コウメイは振り返って眉を顰めると、オレの手を掴んだ。
「さっさと出るぞ」
「あ、あぁ……っ」
咄嗟に返事をしてから、でも、どこに行くんだ? と頭に過る。
父ちゃんが死んじゃったら、オレに帰る場所はない。
それに、ただ家に帰ったって、また国に連れて行かれるだけだ。
俯く視線を気にせずに、コウメイはオレの手を取ったまま走る。
オレもつられて走りながら、廊下の惨状からも目を逸らすように、ギュッと目を瞑った。
「ミク……っ。古代語で、お前の名前をなんて書くか、知ってるかっ?」
「は……? そんなの、知らねーし……」
「“美空”……っ、美しい空って意味らしいっ」
美しい、空。
「マモルは、ミクを綺麗な空の下で生かしてやりたいって言ってたっ」
顔を上げると、出口が近づいていた。
開きっ放しの扉から、光が差し込んでいる。
ドク、ドク、と鼓動が聞こえてくる。
「どこにも閉じ込めたりなんかしないで、自由にっ」
「自由、に……」
それはここ10年間、縁のなかった言葉だ。
「マモルの悲願は、俺が叶えるっ。これから先、ミクは俺が守るっ」
「……!」
「だから……っ」
風が吹き抜ける。
新鮮な匂いが、体を軽くする。
「ミクは、何一つ心配しないで、この大空を眺めてろっ!」
白一色の壁から、床から、天井から、抜け出た。
柔らかい風が全身を包み込む。
コウメイがオレの手を離して、振り返りながら横にずれた。
目の前に、青い空が広がる。
それが視界に飛び込んできた瞬間、胸がスッとした。
心が洗われるような大空。
両手を広げても足りないくらい広くて、平面なんかに収まらないくらい深くて、遠く遠く、遥か彼方にあって……。
でも、手を伸ばしたら、届きそうで。
真っ白な雲とのコントラストが、ハッとするほど鮮やかで、涙が一筋こぼれた。 空って、こんなに綺麗だったっけ……。
「……どうだ。本物の空は、いいだろ。これからはずっとこの空の下で暮らしていくんだ」
「……ふ、ふんっ」
大したことないね、って言いたかったのに、言葉が出てこない。
オレは空から目を離して、地面を見た。
「お、オレを狙ってる奴らがいるんだろ。さっさと行くぞ!」
感動と、コウメイに心を許してしまったことを、隠すようにそう言って、オレは真っ直ぐ前に進んだ。
これからの未来に、少しだけ。ほんの少しだけ、希望が持てる。
父ちゃんとの再会は、果たせなかったけど……オレは、閉じ込められて生きていかなくていいんだ。
この空の下で、生きていっていいんだ。
「ふっ……家はそっちじゃない。こっちだ」
笑った後の、コウメイの真面目な声に振り向く。
オレを見下ろしているコウメイは、親指を肩の後ろに向けていた。
顔がカァッと熱くなる。
「早く言えっ!」
気に食わない。あぁ、気に食わない!
コウメイが父ちゃんに拾われたって話だってまだ信じてないし!
こんな突然現れた奴を簡単に信用なんか、してないっ!
絶対絶対してないからなっ!
オレはコウメイの方へ早足で戻って、ニヤニヤしながら伸ばしてくる手を避けた。
「そこにいるのは誰だ!」
「!」
施設の方から聞こえてきた鋭い声に、オレはコウメイの傍へと身を寄せる。
ダンッダンッとすぐ近くで銃声がした。
「行くぞっ」
「あぁっ!」
オレはコウメイから離れず、一緒に走って逃げた。
父ちゃんがこの10年で用意したという、新しい家まで、時に隠れ、時に車を使いながら。
その間にコウメイへ信頼の気持ちを抱くのは、難しくないことだった。
****
今では、父ちゃんが残したオレを助ける為の“準備”が、オレを青空の下で生かす土台となってくれている。
何よりも一番、オレに新しい人生を送らせる労力を賭してくれたのは……そして、新しい人生をずっと傍で守ってくれているのは。
突然現れた、ショットガンを構えた美女男だ。
気に食わない兄貴と、オレは今日も、綺麗な空の下で元気に生きている。
[終]