【短】光の蝶と、亡くなる彼女


 海の果て、とある小さな王国に伝わるおとぎ話。

 その治政で王国に平和をもたらす王の一族は、かつて人々に恩恵を与えた妖精の末裔でした。
 彼らが人ならざる貴き存在であることは、真珠のような白銀の髪と、空を閉じ込めたような青い瞳が証明するでしょう。

 何より特徴的なのは、王の一族に死期が近づくと、光る蝶が舞い降りること。
 光の蝶は肉体から離れた魂を遥か空の上、妖精の国へと運んでいきます。

 そうして王の一族は、妖精の国で眠りにつき、来るべき時に王国でまた生まれ出るのです。




 出会いは突然だった。
 聳え立ったビルを物珍し気に見上げる、白いパーカーを着た少女。

 頭をすっぽりと覆い隠すように、懸命にフードを引っ張る手は、白く白く、透き通るような肌をしていた。

 それが人通りの多い駅前でなければ、僕も気にせず通り過ぎていただろう。

 けれど、立ち止まっている彼女を迷惑そうに避ける人々を見て、僕は足を進めていた。
 いや、それは周りの人が迷惑そうにしているから、という理由からではなかったのだけど。


「あの……」


 そこに立っていると、危ないですよ。
 そう告げるはずだった声は、ビクリと肩を跳ねさせた彼女を見て止まった。

 振り返った彼女の顔も、驚きでフードを離してしまった手と同じくらい白い。
 真っ直ぐ僕を射抜いた丸い瞳は、空を閉じ込めたような青色をしていて、目を奪われた。

 パサッと滑り落ちたフードから現れたのは、陽の光を反射するような白銀の髪。
 間違いなく、日本人じゃない。彼女と僕は見つめ合った。
 一拍の後、彼女は慌てた様子でフードを深く被り直して、「ゴメンナサイ」と小さく告げる。
 それはまだ不慣れな日本語だった。

 何か言葉を返す前に走り去ってしまった彼女を、数日経っても記憶に残していた僕は、もう一目惚れというものをしていたのかもしれない。


 次に彼女と会ったのは、ホームルームが始まった朝の教室だ。
 彼女は転校生として紹介され、背後の黒板にエステル・ケルヴィネンという見慣れない名前を背負っていた。

 その時の彼女は黒髪のウィッグを被っていたから、青い瞳がさらに映えていたっけ。

 彼女の本当の姿を知っていた僕は、クラスメイトの中でも特異な存在だったと思う。
 意図せずして秘密を共有する間柄から、恋心を共有する恋人へと転じたのは、数か月の内のことだった。

 それまで「小瀧(こだき)クン」と呼んでいた彼女も、今では「世那(せな)」と呼んでくれるようになっている。


「ん~、美味しい!」


 薄いベージュ色の皮に包まれたクリームを頬張るエステルは、青い瞳を細めていてなんとも幸せそうだ。

 僕も手に持ったクレープを一口食べて、もちっとした皮とふわふわの甘いクリームを味わった。


「放課後にクレープを買い食いしてる女子高生が、実はさる国の王女様なんてねぇ」

「あ~、信じてないでしょう!? もう、本当なのよ? わたしは継承権を持ったちゃんとした王女ではなかったけれど」


 頬をぷくっと膨らませて、エステルは僕を見上げる。
 今日も黒いウィッグの下に隠された白銀の髪は、輝きを放つほど綺麗なのだろう。


「だって……あー、なんだったっけ? 聞いたことのない国だったし」

「仕方ないでしょう? 日本とは比べ物にならないほど小さな国だもの。わたしは凄いのよ? 妖精の血が……」


 ころころと鈴が鳴るような高い声で語っているエステルの肩に、どこからか現れた半透明な蝶が止まった。
「あ……蝶だ。凄い、綺麗だな」

「え? どこどこ?」

「エステルの肩。これ、光ってるように見えるけど、なんて名前だろ?」


 ふわりと再び飛んだ蝶は、蛍のように発光している。
 周りが明るいからぼんやりして見えるのが残念だ。

 夜に見たら、きっと綺麗なんだろうな。


 呑気にそう思っていた僕とは裏腹に、エステルは自分の肩を見て光る蝶を目にすると、幽霊でも見たかのように、強ばった顔で固まった。

 青い瞳に恐怖が浮かんでいる気がするのは、気のせいだろうか。


「tijof cvuufsgmjftten……?」


 か細い声で紡いだ言葉の意味は分からなかった。
 動揺した時に出るエステルの母国語と響きが似ている気がする。


「エステル?」


 光の蝶は人慣れしているのか、エステルの周りをふわふわと漂ったまま、どこかへ飛んでいく気配がなかった。


「世那……今日は、帰るね」


 エステルは震える声でそう言うと、走って行ってしまった。


「エステル!」


 背中にかけた声は発するのが遅く、エステルを引き留める手の代わりにはなってくれない。

 一体、どうしたんだろうか……。
 困惑と共に残された僕は、エステルがいた場所を見て、光る蝶がいなくなっていることに気付いた。



 僕の両親は、仕事の都合で別の県に住んでいる。

 それは高校に入学した後のことだったから、僕は今まで住んでいたこの家に1人で残ることになった。
 高校生が羨む一人暮らしだ。

 その実態は家事に追われて散々だけど。


 夜、掃除が行き届かない2階の自室でベッドに寝転んでいると、ピンポーンとチャイムが鳴った。
 僕はスマホを見て、こんな時間に一体誰が、と眉を顰める。

 渋々、重い腰を上げて階段を降りると、インターホンの応答ボタンを押した。


「はい」


 モニターに映ったのは、発光した綺麗な蝶だ。
 放課後に見たあの蝶が、まさか家に来てインターホンを……?

 そんな馬鹿なことを考えて目を丸くすると、〈世那……〉と小さな声が聞こえた。
 それは間違いなく僕の恋人、エステルのものだ。

 僕は急いで玄関に向かい、ガチャッと扉を開けた。


「エステル……!?」

「……」


 エステルは、そこにいた。
 別れた時と同じ、ブレザーの制服姿のままで。

 ひらりと光る蝶が、エステルの周りを一周する。


「泊めて、欲しいの……」


 不安に揺れる、か細い声だった。
 僕は俯いたままのエステルに何も聞かず、ごくりと唾を飲んで、扉を大きく開く。


「……入って」

「ありがとう……」


 エステルは小さな声でそう言って、僕の前を通った。
 ふわり、と光る蝶も一緒に、玄関に入る。

 あ、と思っても、そいつは出て行ってくれそうになかった。
 リビングに通すと、エステルはソファーに座ったまま、依然として俯いていた。
 僕は落ち込んだ女の子に出せる最善の飲み物として、砂糖を溶かしたホットミルクを作り、テーブルへ持って行く。
 小さじ1杯の砂糖を入れたんだけど、多かっただろうか。


「飲んで」

「……」


 コト、とテーブルに温まったマグカップを置くと、光る蝶がエステルの顔の前を横切って、ソファーの背もたれに止まる。
 エステルはビクリと肩を震わせて、揃えた膝の上でギュウッと手を握り込んだ。


「……どうしたの?」


 隣に座って、エステルの手にそっと触れる。
 突然帰ってしまうまではいつも通りだったのに、様子が変だ。


「わたし……」


 エステルは消え入りそうな声で言った。
 少し聞き取りづらくて、頭を寄せる。


「……わたし、もうすぐ死ぬの……っ」


 震えた声は、今にも泣き出しそうに思えた。
 ……もうすぐ、死ぬ?

 僕は呆気に取られて、ぽかんと口を開ける。エステルは一体、どうしてそんなことを考えたんだろう。


「死ぬ、って?」

「お母さんの、言う通りだわ……っ! 光の蝶がずっと追ってくるの! どれだけ走っても、消えてくれない!」

「蝶?」


 僕はソファーの背もたれを見た。
 そこには悠然と、羽を動かす蝶がいる。

 こいつにずっと付き纏われて、気が滅入っているのか?

 確かに綺麗な蝶だけど、ずっと傍にいられたら気味が悪いかもしれない。
 僕は1人で納得して、光る蝶を追い払おうと手を伸ばした。

 スカッ、スカッと手が空を切って、ふわりと飛んだ蝶を捕らえられない。
 こいつ、見た目はゆったりと飛んでるのになかなか素早いぞ。


「死期を嗅ぎつけて、現れる蝶……! ここは日本なのに、わたしが王族の血を引いているから……!」

「え?」


 エステルは背中を丸めて、頭を抱えた。
 死期を嗅ぎつけるだの、王族の血だの……もしかしてエステルは、僕をからかおうとしてるのか?


「エステル……」

「死にたくない……っ! 怖いよ、世那……!」


 冗談は、と言いかけた口は、中途半端に開いたまま、なんの声も発することがなかった。

 だって、エステルの声は真剣だったから。
 何かに怯え切って、震えていたから。
 何よりも雄弁に、ポタポタと膝の上に落ちる涙が、冗談なんかではないことを語っていた。

 僕は喋る代わりに、横からエステルを抱き締める。


「大丈夫。大丈夫だ、エステル」

「っ……!」


 エステルはきつく、僕の服を握って、額を胸に擦りつけた。
 触れてみて、初めて気付く。エステルの体は小刻みに震えていた。

 何に対して、こんなに怯えているんだろう……。
 僕の恋人を恐怖に陥れている、憎むべきものは、一体なんなのか。


「何が、そんなに怖いの? 僕にも分かるように教えてくれないか?」
 体の震えが収まるように、強く強くエステルを抱き締める。
 彼女の体がこんなに小さく思えたのは初めてだ。


「光の、蝶は……」


 エステルは涙に濡れた声で、弱々しく喋る。


「わたしの国で、王族の死期が迫ると、その周りに現れると言われているの……」

「この、蝶が……?」


 僕はエステルを抱き締めながら、近くをひらひらと舞っている光の蝶を眺めた。
 そう言われてみると、綺麗なその姿が不気味に見える。


「わたしも、王族の血を引いているから……わたし、もうすぐ死んじゃうんだわ……っ」

「そんなこと……」


 ないよ、と言い切ってしまうには、あまりにもエステルが怯え過ぎていた。

 でも、どれだけ考えたって、そんなのは迷信だとしか思えない。

 エステルは本当に王族の血を引いたお姫様なのかもしれないけど……光る蝶が現れたくらいで、死んだりしないはずだ。
 確かに、光る蝶なんて珍しいけど。
 きっと、この見た目に惑わされてそんな作り話ができただけだ。


「エステル、大丈夫だよ。こんな蝶が現れたくらいで、エステルは死んだりしない」

「でもっ、この蝶はわたしの魂を妖精の国に持っていく為に、待っているのよ!」

「大丈夫、大丈夫だ、エステル。そんなのはただの迷信だよ」

「迷信なんかじゃないっ、わたしはもうすぐ死んじゃうの!」


 どれだけエステルが頑なでも、僕はそれを迷信だと言い続けた。

 エステルは僕の胸をドンドンと叩いて抵抗したけど、何十分と経つ頃には、ヒックヒックとしゃくりあげて落ち着く。


「もう寝よう。そしたらきっと、スッキリするはずだよ」

「……一緒に、寝て……」

「え……、……うん、分かった」


 エステルの取り乱し様を考えて、僕は素直に頷いた。
 すっかり冷め切ったホットミルクを温め直して、エステルに「はい」と飲ませると、支度を整えて2階の自室に行く。
 制服のままでは寝にくいだろうから、適当なパジャマを見繕って、エステルに手渡した。

 離れたくないというエステルに背を向けて、衣擦れの音にドギマギしながら待つと、エステルはウィッグを外した姿で立っていた。
 傍には、光の蝶がひらひらと飛んでいる。

 白銀の髪に、青い瞳……。
 傍にいる蝶も相まって、神秘的だ。

 こんな姿を見たら、迷信を作り出してしまうのも分かる。
 死んでしまうとか、話の方向性については趣味が悪いけど。


「それじゃあ、寝ようか」

「……わたし、明日を迎えられないかもしれない」

「エステル……」


 まだ、不安に囚われているらしい。
 僕は、そんなことないよ、と伝える為にエステルの手を強く握って、ベッドへと連れて行った。
 好きな女の子と、同じベッドで眠る。
 それは否応にも意識してしまうシチュエーションだけど、その相手が迷信に怯え切っていたら、思春期らしい考えは吹き飛ぶ。

 僕は枕が1つしかないことを気にするくらい落ち着いた状態で、エステルを隣に呼び寄せた。


「……ねぇ、世那」


 ベッドに腰かけたエステルが、か細く僕を呼ぶ。


「何?」

「キス……して」


 エステルの青い瞳は、ゆらゆらと不安に揺れながらも、強く、真っ直ぐに僕を見つめた。


「……うん」


 視界の端に、ひらひらと舞う蝶を収めながら、エステルの柔らかい頬に触れる。

 そっと、青い瞳がまぶたに閉ざされると、長いまつ毛が目の下に影を作った。
 僕は体を前に傾けて、桜色の唇を見つめながらまぶたを下ろす。

 熱を持った、柔らかい感触が唇に訪れる感覚は、いつまで経っても慣れず、心臓がドキリと跳ねるばかりだ。
 ドク、ドクと加速する鼓動を聞きながら、長い間唇を重ね続けると、僕はそっと体を離す。

 開いたエステルの目は、悲壮に満ちた覚悟を秘めて、凛と輝いていた。


「世那、愛してる」

「……僕も、エステルを愛してる」


 それは、初めて使った表現。
 どこかむず痒いけど、今のエステルに必要な言葉だと思えば、臆することなく口にできた。

 部屋の電気を消して体を横たえると、エステルが体を寄せて抱き着いてくる。

 僕は自分の肘を枕にしながら、片手でエステルを抱き締め返して、五分と経たない内に眠りについた。




****



 なんだか息苦しい。
 そう思いながら目が覚める。

 自然に寄った眉根を戻せないまま、そっと目を開けると、ひらりと、光る蝶が目に入った。そして思い出す。昨日の出来事を。

 息苦しいのは、エステルが僕に抱き着いているせいか……。

 視線を下げてエステルの姿を捉えると、ふわりと羽を動かす蝶が視界に映った。
 白銀の髪に止まったその蝶に視線を囚われていると、目の前をひら、と光る体が横切る。

 蝶が、2匹いる!?

 僕は硬直して、エステルの話を思い出した。
 目の前のエステルはぴくりとも動かない。


「っ、エステル、エステル!」


 ガバッと体を離して、エステルの肩を大きく揺さぶると、「ん……」と柔らかい声が聞こえた。

 生きてる……。


「……エステル。おはよう。朝だよ」

「ん……、せな……?」


 エステルはパチ……パチ、と瞬きすると、寝ぼけ眼を見開いて、顔中に安堵の表情を浮かべた。


「よかった……わたし、まだ……」


 小さな小さな声は、エステルの独り言。僕はにこりと微笑んでみせた。


「ほら。大丈夫だろ? 僕は朝ご飯を作るから、エステルはもう少しゆっくりしてて」
 そう言って起き上がろうとすると、エステルは僕の体をギュッと抱き締める。
 けれどすぐに腕を離して、「うん」と眉を下げながら微笑んだ。


 僕は部屋を出て階段を下りながら、2人分の朝食の用意ができそうか考える。
 いつもは適当に済ませてしまうから、おかずの用意なんてちゃんとしていない。

 何か新しく作らないと。


 キッチンを動き回って、卵焼きと冷凍豚バラ肉を入れた野菜炒めを作ると、ご飯をよそってインスタント味噌汁にお湯を注ぐ。

 朝食の支度が終わったら、2階の自室に戻ってエステルを呼びに行った。


「エステル、ご飯できたよ」


 ひらりふわりと、2匹の蝶が舞う。
 エステルは体を起こしてベッドに座ったまま、唇をキュッと引き結び、眉根を少し寄せて、思い詰めたような顔をしていた。

 その視線は光る蝶を捉えている。

 そういえば、戸締りはしっかりしていたのに、どこからもう1匹の蝶が入り込んで来たんだろう。
 家中の窓は閉まってたし、自室の扉だってちゃんと閉まってたのに。


「世那」


 エステルに呼ばれて、僕まで眉根が寄っていたことに気付いた。
 光る蝶からエステルの顔に視線を戻すと、彼女は深呼吸をして、僕を見つめる。


「今日中に、新しい彼女を作って」

「……は?」

「お願い。世那を悲しませたくないの」


 エステルは眉間にしわを寄せて、片方の口角を無理に吊り上げた、歪な笑顔を見せた。
 僕を見つめる青い瞳は悲しそうで、でも僕を慈しむようで。

 まるで人間じゃなく、神聖な存在のようだ。


「……な、に、言ってるんだよ。冗談だろ?」

「ううん、本気。……急なのはごめん。でも、どれだけ時間が残されているか、分からないから」


 胸の前で両手を握り込んで、エステルは視線を落とす。
 小さなその体を抱き締めたくなる衝動に駆られるのに、新しい彼女を作れ、だって?

 そんなの、無理に決まってるだろ。


「無理だよ。エステル以外、好きになれるわけない」

「それじゃ、ダメなの。わたしが死んじゃったら、世那、1人になるでしょ? そんなの、未練が残っちゃうから」


 眉をくたりと下げて、エステルは笑う。

 ……なんなんだ。どうしてなんだ。


「なんで、死ぬ前提なんだよ。そんなの、死ななきゃいい話だろ!」

「……ごめんね、世那」


 エステルは、ただ悲しそうに笑うだけだった。

 納得がいかない。
 エステルが死ぬなんて、そんなのありえないし、あっちゃいけないことだ。

 それを昨日から、どうしてそう決まっているかのように。

 僕は胸の内で燻る怒りや不安を奥歯で噛んで、「ご飯、食べよう」と言い残し、部屋を出た。




「なんか今日ずっとイライラしてんな」

「……別に」


 学校は休むというエステルを家に残して、一人学校に来てからも、僕はずっともやもやしていた。

 今日中に、新しい彼女を作れだなんて。