そんなの作れるわけがない。
相手を好きになれるわけがないし、相手にとっても失礼だ。
でも、エステルのあの様子を思うと、その願いを聞き届けてあげなくちゃいけない、というような気持ちにもなる。
それが恐ろしくて、そわそわと落ち着かなくて。
今すぐ家に帰って、エステルの傍にいてあげたい。
でもそれを実行したら、エステルが死ぬという話を認めたことになって……。
そんな考えが、ずっと頭の中を巡っている。
エステルの話を認めたら、それが急速に現実となってしまう気がして、怖いんだ。
「あのっ、小瀧くん。ちょっといいかな……?」
「……星野《ほしの》?」
教室でスマホを取り出しては仕舞って、というのを繰り返していた僕に声をかけてきたのは、去年同じクラスだった星野沙彩だ。
僕はスマホをポケットに仕舞って立ち上がり、廊下にいる星野に近づいた。
「何?」
「えっと、その……ここじゃ、ちょっと。付いて来て、もらっていい?」
「うん……」
同じ委員会や部活に所属しているわけでもないし、なんの話か全く予想がつかなくて、歯切れの悪い返事になる。
星野は栗色のボブヘアを揺らして、人がまばらにいる廊下を歩いて行った。
星野沙彩と話したことがあるのは、数えるほどだ。
クラスメイトとしてお互い知っている顔ではあるし、特に仲が悪いということもなかった。
まぁ、お互いにもっと仲がいい相手がいたわけだけど。
星野が足を止めたのは、校舎裏だった。
わざわざ外に出てまで、人に聞かれたくない話があるんだろうか。
きつそうな猫目とは裏腹に、緊張交じりの気弱な態度で、星野は僕に向かい合う。
「あ、あのっ……そのっ……」
「……えっと、深呼吸して。少しは落ち着くよ」
「あ、う、うんっ……すー……はー……」
星野は真面目に深呼吸をして、片手で胸を押さえた。
涼しい風が吹いているのに、暑いのか、頬が赤くなっている。
キリッと僕を見上げた瞳に映る、キラキラとした熱いものに、そろそろ、僕も思考が追い付いてきた。
「こ、小瀧世那くん。えっと……好きです!」
ギュッと目を瞑って、ありったけの熱量を込めた告白をする星野に、「……はい」と弱い返事をしてしまう。
今までの交流を振り返って思い出せるのは1、2シーンだ。
それで好意を持たれていたことを実感するのは、なかなか難しいだろう。
「えっと……ありがと……」
「へ、返事はいらないの! エステルさんと付き合ってることは知ってるから!」
「え……」
「こ、この気持ちだけでも、知ってもらいたくて……エステルさんが休みの今日ならって……! ご、ごめん、ずるいよね……」
想いが叶わない相手に告白する。
それは、どれだけ勇気のいることだろう。
もしエステルに恋人がいたら、僕は果たして告白できただろうか。
「……ううん、勇気がいることだと思う。教えてくれてありがとう」
「っ……うん……」
星野は俯いたまま、口元に笑みを浮かべた。それがどんな笑顔かは、垂れた前髪に隠れてしまって分からないけど。
僕は星野に聞こえないように溜息を吐いて、気持ちを落ち着かせた。
それから、エステルの言葉が頭に浮かぶ。
『新しい彼女を作って』
今がチャンスだ、と思った。
でも、本当にエステルの願いを叶えるべきなのか?
星野の気持ちだって踏みにじる行為だ。
やっぱりそんなこと、できるわけがない。
僕の脳裏に光の蝶が現れる。
泣いたエステルの顔が浮かぶ。今朝の笑顔が、僕の胸を締め付ける。
一体、どうしたら……。
「世那……?」
エステルの声が聞こえた。
まさかそんな、と思いながら傍らのフェンスを見ると、生い茂った木の向こうにエステルが立っていた。
制服のスカートとYシャツを着て、ブレザーの代わりに着込んだ僕のパーカーのフードを深く被った姿で。
頭の横で飛ぶ蝶が、3匹いる。
「エステル、さん……!?」
「エステル……」
エステルは傷付きながらも、ホッと安心したような表情をしていた。
違うんだ。
咄嗟に否定しようとした声は、フェンスを掴んだエステルよりも、発するのが遅かった。
「世那を、よろしくお願いします。わたしは、もうすぐ死ぬから」
「え……死ぬ……?」
真剣な眼差しなのに、儚く微笑んでみせる。
そんなエステルに、星野は戸惑った声を出した。
当たり前だ。
「違うんだ、エステル!」
「ばいばい、世那」
エステルはニコッと、可愛く笑ってフェンスを離し、数歩下がってから走り出した。
光の蝶が後を追う。
「ごめん、星野! 僕はエステル以外愛せないんだ!」
「あ……!」
咄嗟に出た言葉は勇ましかった。
高いフェンスを登るのは早々に諦めて、僕は校門の方へと走って行く。
覚悟が決まった。
僕はエステルの願いなんか叶えない。
それよりもエステルの傍にいて、彼女を死から守ってみせる。
すぐに追いつくぞ。
そうしたら細い腕を掴んで、前を走る体を抱き寄せて、「僕はエステルを愛してる」と叫ぶんだ。
光の蝶なんかに負けない。
死の運命なんか叩き返してやる。
体の内から力が湧いてくるようだった。
僕はがむしゃらに走って、走って、エステルの背中を見つけた。
「エステル!」
叫んだ声は、きっとエステルの背中に届いただろう。
エステルは青信号の横断歩道を走って渡り、――トラックに轢かれた。
キキィーッ! と甲高いブレーキ音が響く。
時間が止まったように、僕の体はガクンと重くなって、けれど目の前ではトラックが通り過ぎていく。
足が上手く動かなくて、ベシャッと歩道の上に転んだ。
ドッドッと重い鼓動が体に響く。
なんだ、今のは……?
「キャァァァァァア!」
知らない女の人の悲鳴が聞こえる。
僕は何故か震える体を起こして、歩道の先へ急いだ。
開けた道路の左の方に、トラックが止まっている。
もつれる足を動かして左に曲がると、トラックの前に肢体が転がっていた。
膝を擦り剝いている。
でもそれ以上に、右の肘がありえない方向に曲がっていた。
フードが脱げて、白銀の髪がアスファルトの上に広がっている。
でもその下で、じわじわと赤い血溜まりができていて。
空を向いた胸の上に、3匹どころじゃない、沢山の光る蝶が止まっていた。
「えす、てる……?」
掠れた声が出た。
僕はのろのろと足を動かして、道路の上のエステルに近づく。
ガクンと、膝をついた。
蝶は逃げていかない。
覗き込んだエステルの顔には、悲し気な表情が浮かんでいた。
空を閉じ込めたようで綺麗だった青い瞳は、開かれたまま一度の瞬きもしない。
「えすてる……エステル……!!」
頬に触れると、温かい。
当たり前だ、死んだわけじゃないんだから。
それなのに、なんだ?
僕の頬から落ちる雫は。
「そんな、嘘だ……エステル、エステル!」
僕の横で、光の蝶が一斉に空へ飛び立った。
でもそんなのはどうでもいい。
僕はエステルの頭を抱き上げて、「エステル!」と泣き叫んだ。
手がぬるっとした液体に塗れる。
違う。こんなのは違う。
僕は悪夢を見てるんだ。
エステルが死ぬわけがない。
こんな、僕の目の前で。
こんなのが、エステルの運命なわけがないんだ。
定まった死のわけがないんだ。
だってそうだろう? 理不尽じゃないか。
どうしてトラックに轢かれて死ななきゃいけないんだ。
「あぁぁあぁぁぁぁあ!!」
体を折り曲げて、エステルの上に覆いかぶさりながら、叫び声を上げた。
青い瞳は光を失って、宙を見つめたまま。
半開きの口から鈴のような声が発されることはない。
「離れてください」
肩を掴んで退かされる。
露になったエステルの体が、担架に乗せられて、運ばれていった。
本当は分かってる。
エステルは死んでしまったんだ。
唐突に。理不尽に。
トラックなんかに轢かれて。
エステルが察していた通りに、死んでしまったんだ。
……どうして。
どうして、エステルはもっと僕に縋りついてくれなかったんだ。
どうして死を受け入れてしまったんだ。
怖いと言っていたのに。
エステルが助けを求めてくれれば、僕は一日中エステルの傍にいたのに。
……いいや。僕が、散々否定したんじゃないか。
エステルは僕に助けを求めて、縋りついていたのに。
ただの迷信だって。大丈夫だって、嘘を吐いたんじゃないか。
あぁ、そうだ。
僕が見殺しにしてしまったんだ。
エステルを死の運命に進ませてしまったんだ。
助ける機会はいくらでもあったのに。
僕が、僕が……。
視界が黒に染まる。
どろりとした粘液が体に降りかかったように、重くて重くて仕方ない。あぁ、それでも。
ここから抜け出せなくたって、いい。これは僕の罪に対する、報いだ。
びゅうう、と風が吹きつける。
静まり返った墓地の中で、世那は暗い瞳を細めて、儚く微笑った。
視線の先にはエステル・ケルヴィネンと刻まれた墓石がある。
「エステル。君が望んでいた通り、沙彩と付き合うことにしたよ。今日は、その報告に来たんだ」
世那が腕を伸ばして抱き寄せた肩は、星野沙彩のもの。
沙彩はにこりとも笑わず、ただ真剣な眼差しを墓石に向けていた。
「エステルは最後まで、僕の心配をしてくれたね。もう、大丈夫だから。エステルは、安心して眠って」
世那は沙彩の肩から手を離すと、墓石にそっとキスをする。
にこりと笑った顔はまるで病人のようだった。
「……それじゃ、帰ろうか」
「うん。私は少しエステルさんと話があるから、世那くんは先に向こうへ行ってて」
「分かった」
世那は頷くと、ふらりと幽霊が歩くように墓地の外へ去る。
1人残った沙彩は墓石に向き直り、猫目をキッと吊り上げた。
「死んで、彼の永遠になるなんてずるい」
刺々しく言った後、沙彩は眦を和らげて「でも」と口にした。
「生きて世那くんと未来を過ごせる私が、エステルさんは羨ましいんだよね」
沙彩の瞳は同情的で、エステルの悲しみに寄り添っているようでもあった。
「世那くんのことは任せて。彼の心がずっとあなたに向き続けても、私は彼の未来が明るくなるように、傍で支え続けるから」
沙彩は片手を胸に添えて、唇をきゅっと引き結ぶ。
伏せた瞳には傷心が表れていたが、前を向いた時には凛とした強い眼差しに変わっていた。
「じゃあね、エステルさん」
別れを告げると、沙彩は墓石に背中を向けて、歩いて行く。
無人になった墓地には、柔らかい風が吹いていた。
[終]