7月も下旬のとある日の夕方。
 大学から帰った僕に電話をかけてきた母は、父が病に倒れたと知らせた。


〈ですから、(みやこ)さん。お家に戻ってきてくれませんか?〉

「……」


 僕は口を押さえて動揺した自分を律する。
 大丈夫。兄上がいれば奏瀬(かなせ)は何とかなる、と自分に言い聞かせて、ふと気付いた。

 ――あぁ、頭が痛い。こんな手に引っかかるなんて。
 一度は堪えた溜息を、今度は電話口に乗らないようにひっそりと吐く。


「冗談にしてはタチが悪いですよ、母上。先ほど父上もお元気だと仰っていたではないですか。それに、父上は病を患ったことがない健康な体がご自慢でしょう」

〈うふふ、だって都さんったらせっかくお電話したのにすぐ切ってしまおうとするでしょう? でも安心しました。お家を出ても都さんは優しいままですね〉

「……とにかく、お話は伺いますから、こんな悪ふざけはもうよしてください」

〈はぁい〉


 上品に笑う母上の声を聞きながら、もう一度つきたくなった溜息を飲み込む。
 この人は本当に。


「それで? 父上が伏せったと嘘をついてまでお話したかったこととは何ですか?」

〈うふふ。言った通りです。……そろそろ、お家に戻ってきませんか?〉


 柔らかな声を耳にして、口を噤む。
 思えばこの1年、母上は僕の選択を尊重してくれていた。

 おかしな話だ。
 こうして聞くまで、「帰ってこい」と言われなかったことに気付かないなんて。

 どうやら僕は、自分がどれだけ甘えていたか、まだ理解しきれていないらしい。


「申し訳ありません。僕はもう、本家に戻る気はありません。ようやく、一人暮らしにも慣れてきたところなのです」

〈そうですか……仕方ありませんね。帰りたくなったら、いつでも帰ってきてくださいね。母はずっと待っていますから〉

「はい、母上」


 “引き受け屋”の話を耳にして、母上から電話もかかってきて、今日は色々と濃い1日だ。

 しかし、母上の用件もこれで終わりだろう。
 通話が切れたら、僕も気持ちを切り替えなければ。

 やるべきことはまだ残っているのだから。


〈ところで、(みやこ)さん。そろそろ大学では試験がある頃だと聞きましたが、調子はいかがですか?〉

「あぁ……問題はありません。試験の範囲はきちんと頭に入っていますから」

〈それはよかった。アルバイトばかりで勉強がおろそかになっているのではと心配していたんです。けれど不要な心配でしたね。(とおる)さんも都さんも、中学からずっと首席なのですから〉

「学生の本分は学業ですから、その他のことにうつつを抜かしたりはしません。アルバイトも勉学も、きちんと両立しています」

〈うふふ、頑張り屋な息子を持って、母は誇らしいです。もう夏休みの予定は決まっているのですか?〉

「いえ……アルバイトに専念するつもりではいますが、詳細はまだ」