奏瀬(かなせ)本家で過ごした一晩は、思いの外リラックスできた。
 夕飯は懐かしくも感じるバランスの取れた豪勢な和食で、母上が作られたという肉じゃが(お袋の味とやらに挑戦してみたかったらしい)も、意外と言っては失礼だが、大変美味だった。

 父上や馴染みの使用人、屋敷の2階に住み込みで修業中の“引き受け屋”見習い(奏瀬の分家に当たる者だ)など、屋敷内にいる者達とも挨拶を交わして、安穏に眠り――……。


 今は早朝。空も明るくなり始め、のびのびとした鳥のさえずりが聞こえてくる。
 まだ動き出すには少々早い時間だが、僕はそれを利用して、僕の部屋から中庭を挟んで反対側の場所にある、儀式場に来ていた。


「……」


 この部屋は集中できるようにと作られているから、考え事をするにはぴったりで、昔から悩みを抱えた時にはよくここに来た。
 四角く切り取られた空間に自分1人で、姿勢を正して座り、目を瞑って、呼吸の音や鼓動に耳を傾ける。
 そうして無心になると、頭が隅々まで冴え渡るようで落ち着くのだ。 実は、こうやって心を落ち着け、まっさらな状態になる方法は幼い頃の修行で身につけた。
 他者の“想い”に同調し、共鳴する(“想い”を引き受ける)ためには自分の“想い”を鎮めることが必須だからだ。

 と言っても、本来幼少に行う修行というのは、日常生活に支障をきたさないように奏瀬の力を制御することが目的なので、昇華の儀式にまで踏み込んだ僕は異例だ。

 何故父上が僕にそこまでの修行をさせたのかは分からないが、結果的に僕は今、“引き受け屋”として儀式が行えるだけの能力を備えている。
 本当に、儀式が行えるだけなので、事務的なことや客を相手にする時の作法などは全く分からないが。


「この部屋にいるお前を見るのは数年ぶりだな」

「……兄上」


 瞑想をしていた僕は兄上が襖の前に立っていたことに気付かず、驚いて顔を上げた。
 僅かに開けておいた襖を人が通れるくらいに開き、着流し姿で腕を組んだ兄上は、廊下に佇んだまま僕を見下ろす。


「ここは関係者以外立ち入り禁止だ。お前は、次期当主として覚悟を決めたのか?」


 兄上の静かな瞳が、じっと見定めるように僕の姿を捉える。


「……いいえ。まだ、奏瀬のことは考えられません。僕は、どうしても自分が次期当主に相応しいとは思えない……。けれど、この力を使う覚悟はできました」


 僕の答えを聞いて、兄上は目を瞑った。
 小さく吐き出した息が何を意味するのか、それを考える前に兄上が口を開く。


「今回は、特別に見逃そう。次は覚悟を決めてからここに来い」

「……! はい。ありがとうございます」


 兄上に向き直り、頭を下げると衣擦れの音がした。
 僕の横の方へと移動するその音が気になって顔を上げると、廊下に立っていたはずの兄上が、瞑想していた時の僕と向かい合う位置に腰を下ろそうとしている。


「兄上?」

「修行とは言え、客を取らせるのだ。“引き受け屋”を名乗るからには妥協は許さん」


 “引き受け屋”を名乗るつもりはなかったが、普段よりも数倍厳しい目つきになった兄上に口答えすることはできない。
 僕は思わず顔が引きつったのを自覚しながら、朝食の時間になるまで、影で鬼と呼ばれる兄上の指導をみっちり受けることとなった。