あるところに、心優しい人魚姫がいました。
人魚姫はいつも周りを思いやり、親身に人助けをしてばかりなので、皆が人魚姫を愛していました。
優しく、愛に包まれた世界で生きていた人魚姫はある日、船の上の人間に恋をしてしまいます。
皆は人魚姫の恋を応援し、人間になれる秘薬を作り出しました。
人魚姫は皆の応援と秘薬を胸に、海の上へ上がっていきます……。
****
ざぷん、と波が陸に打ち寄せる。
海の端は、こんなふうになっているのね。
「けほっ、けほっ……わたし、本当に人間に……?」
砂のついた手で口を押さえて、尻尾を見る。
ピンクのうろこに覆われていたわたしの下半身は、2本の見慣れない足に変化していた。
みんながくれた秘薬のおかげで、本当に人間になれたんだわ。
じんわりと、胸の内に広がる喜びを噛み締めて、そっと両手で胸を押さえる。
そして、海を見た。
「みんな……」
人間になれる秘薬には、代償があった。
二度と海には戻れないという、とても大きな代償が。
人間になった後に海の中へと戻れば、わたしは泡となって消えてしまう。
とても大好きな家族で、仲間で、友達だった。
みんなと二度と会えないのは、胸が裂けてしまいそうなほど苦しいけれど……。
それでもと、応援してくれたんだもの。
わたしも覚悟を決めて、彼に会いに行くのよ。
ぐっと、胸の前で両手を握って、2本の足で立ち上がる。
何故かしら、足の使い方がなんとなく分かるの。
「きゃぁっ!」
ふらふらとバランスを崩して、危うく倒れそうになった。
使い方が分かっても、上手く使いこなせるかは、また別の問題みたいね……。
私は苦笑いして、砂浜で歩く練習をしてから、建物が並ぶ人間の町へと向かった。
どこへ行っても満ちていた海水の代わりに、柔らかな風が頬を撫でる。
地面の上を歩くって、不思議な感覚ね。 いつもなら、右へ左へ、上へ下へ、自由に泳いでいけるのに。
それに、周りを歩く人間達は体を覆う服を着ていて、泳ぐのが大変そうだわ。
あら、人間は泳がないのだったかしら。
建物は四角くて、長方形の板を押し引きして中に出入りするみたい。
海の中では、建物は丸みを帯びているし、あんな板で蓋をしてはいないわ。
人間って手間のかかる暮らしをしているのね。
ふふ、目に映るもの全てが新鮮で、わくわくしてくる。
歌い出したい気分だわ。
「♪ららら~ら~ら~ と~っても~楽しいの~」
目を瞑って今の気持ちを口遊む。
胸に両手を当てて、優しく陽気なリズムで。
「♪あれは~何? これは~何? 全てが~きらきらして~見えるわ~」
あちらを見て、こちらを見て、くるりと回る。
「♪人間ってす~て~き~」
辺りの人間達を見ると、足を止めてわたしを見ていた。
あら、何かしら。
「お嬢さん、素敵な歌声ね。吟遊詩人かしら」
「ぎんゆう……? ありがとうございます、おばさま」
吟遊詩人の意味はよく分からないけれど、胸に手を当てて微笑む。
後ろで殿方達が顔を赤くしているわ。
「旅をしてきたの? 衣装としてはインパクトがあるけど、一人歩きするには心配な恰好ね」
「えぇ……少し遠いところから。そうでしょうか?」
わたしは自分の恰好を見下ろした。
胸と腰を飾る、いつもの姿だわ。
2本の足に合わせて、腰飾りが少し変わっているようだけれど。
おばさまは腕に下げた籠をがさごそと探って、長い布を取り出した。
「これ、処分しようと思っていたものだけど……お代代わりに、どうぞ」
「まあ、ありがとうございます……えぇと」
どうやって使うのかしら。
そう思っていたら、おばさまは長い布を広げて、わたしの肩にぱさっとかけてくださった。
体が長い布にすっぽりと覆われているわ。
「美人さんなんだから、気をつけてね」
「えぇ、ご心配ありがとうございます、おばさま」
人間も優しいのね。
嬉しくて笑顔でお礼を伝えたわ。
おばさまと別れた後は、街並みを眺めながらのんびりと歩いた。
はっ、いけない。
わたし、彼に会いに来たのに。
「これだけ沢山の人間がいるのに、どうやって探したらいいのかしら……」
小さく呟いて、歩いて行く人間達をさぁっと眺める。
船の上にいた彼は、金色の髪に緑色の瞳をしていた。
辺りにいる人間達は茶色の髪をした人が多いから、彼がいたらすぐに分かりそうね。
でも、彼がこの辺りを歩いていなかったら、見つけるのは難しいわ……。
困り果てて、通りすがる人に目を向けながら歩いていると、そんな杞憂を吹き飛ばすように輝く髪を見つけた。
金色の髪。
彼だわ!
「大変、どうやって声をかけたら……!」
胸がドキドキして、頬を押さえる。
道の反対側にいる彼は横を向いて、見覚えのある緑色の瞳をきらりと光らせた。
まずは挨拶からよね。
ごきげんよう、わたしはフィロメーナと申します。
あなたに会いに、海の底からやって来ました。
心の中で練習をしてから、彼に近づこうと一歩踏み出す。
「クラーラ!」
彼は体を横に向けて、腕を広げた。
そこに走って近づく茶色の髪の女性。
「レズリー!」
彼女の体は、彼の胸に飛び込んで、彼女の腕は、彼の背中に回る。
「え……」
嬉しそうに笑い合った彼らは、顔を寄せて、唇を重ねた。
わたしの目の前で。
「っ……!」
牙を突き立てられたように、胸が痛い。
体が砕け散ってしまいそう。
血の気が引いていって、体がふらりと揺れた。
近くを通りかかった人が、「うわ」と肩を押さえてくれる。
「大丈夫かい、あんた?」
「いえ……ありがとうございます……」
お礼を告げて、ふらふらと歩き出す。
彼らに背を向けるように。
まさか、彼に恋人がいたなんて……。
ショックだわ。
……でも、考えてみれば当然よね。
彼は、あんなにもかっこいいのだから。
この可能性を少しも考えなかったわたしが、愚かなんだわ……。
ぽた、ぽたと雫が落ちる。
水が頬を伝っていく。
「ふ、ぅ……っ」
口を押えて、声を押し殺した。
目の前が真っ暗になったような気分だわ。
ずきずきと、胸が痛い。
失恋って、こんなにも辛いのね……。
何も考えずに歩いた。
目を瞑っても、まぶたの裏に浮かぶのは彼らのキスシーン。
何度も何度も、繰り返し再生される。
レズリー。
そんな名前だったことも、知らなかった。
気がついたら、浜辺にいた。
波の音が心をいくらか落ち着かせる。
……けれど。
「わたしには、帰る場所も……」
涙に濡れた瞳で、海を見た。
「フィロメーナ!」
「ぇ……ダニオ……?」
海面に顔を出していたのは、幼馴染のダニオ。
口が悪くて、ちょっと意地悪だけれど、わたしを心配してくれる優しい人。
「ふんっ、何を泣いてるんだ? 人間の男に会いに行くんだろ?」
「……ダニオ……」
腕を組んで、意地悪に見上げてくるダニオに、今、とても泣きついてしまいたかった。
海に帰れば、わたしは泡となって消えてしまう。
「やっぱり、泣き虫のお前一人じゃ、人間の町で生きていけないんだろ。しょうがないから俺も陸に上がってやるよ」
つんと顎を上げて、ダニオは目を瞑る。
秘薬を飲んでしまえば二度と海に帰れないのに、ダニオはわたしを心配して、人間になってくれると言うの……?
大切な人を置いて、わたしと一緒に、人間の町で……。
やっぱり、ダニオは優しいわ。
「1日だけ待ってろ。すぐにもうひとつの秘薬を作って、人間の男を探す手伝いをしてやる」
「……秘薬なんて、作らなくていいわ」
涙を一筋流す。
わたしはおばさまに頂いた長い布を脱ぎ去って、一歩一歩、海に近づいて行った。
「フィロメーナ?」
「ダニオ……わたし……」
眉を顰めて、心配そうにわたしを見上げるダニオの元へ、真っ直ぐ向かう。
足を止めないわたしを見て、ダニオは何かを悟ったように慌て始めた。
「おい、それ以上近づけば!」
「わたし……みんなの元に、帰りたい……っ」
ちゃぷ、と足が海水に浸かる。
ぐっと砂を踏みしめて、ダニオの胸へ飛び込んだ。
「フィロメーナ!」
ざぷん、と海水が跳ねる。
最後に触れた人肌は温かくて、止まったと思った涙がまた溢れた。
足先の感覚がなくなっていく。
「バカっ、何をしてるんだ! くそっ、止まれ、止まれ!」
ダニオがわたしを抱いて、砂浜へ泳いでいく。
もういいの、わたし。
陸の上になんて、行きたくない。
「彼に、ね……恋人が、いたの……」
まだ感覚が残っている腕を、ぎゅっとダニオの背中に回して、囁くように言った。
「!」
「泡になって消えても、海に帰りたい……みんな、大好きよ……」
どんどん体の感覚がなくなっていく。
痛みがないのが救いかしら。
いいえ、この胸の痛みは、わたしが消えるその時まで、なくなりはしないわね。
「バカが、何を早まってるんだ! 失恋の傷なんて、俺が慰めてやるってのに!」
「ダニオ……ありがとう……」
あぁ、背中に当たる大きな手の感覚すら、消えていく……。
「二度と海に戻れなくても、俺が一緒に生きてやる! だから消えるな! 俺はお前が――ずっと好きだったんだ!」
「……!」
そう、なのね……。
ごめんなさい、ダニオ……。
****
人魚姫は、陸に上がったその日に、頬を涙で濡らし、海へと帰りました。
陸の上で何があったのか、残された者には分かりません。
けれど、さぞかし辛いことがあったのでしょう。
心優しい人魚姫を失った皆は、悲しみに暮れました。
そして、決めたのです。
“人魚、陸に上がるるべからず。
この掟を破りし者、泡となって消える。”
fin.