私の犬歯が、彼の首筋の柔い肌に食い込んでいく。
閉店して間もない間接照明だけが灯る薄暗い店内に、玉森蒔乃と水瀬朔司の影が触れあった。
24時の深夜。床のモップがけを終えた朔司の白いワイシャツの裾を、つん、と蒔乃が引っ張るとそれが合図で彼は両手を広げて見せた。蒔乃のアーモンドのように形の良い瞳は大きく揺れて、朔司の姿を映す。瞳に映る朔司は淡く凪ぐように微笑んでいて、おいで、と蒔乃を誘うのだ。
いつもなら行儀が悪いと叱る側の朔司がバーカウンターに腰掛け、長身ながら線の細い蒔乃を軽々と抱き上げて膝に乗せた。向かい合うように座ってしばらく二人、互いの目を覗き込む。光の加減でアンバーブラウンに溶ける虹彩が輝いて、薄ら闇に煌々と浮かび上がった。蒔乃は朔司のワイシャツの首元のボタンを細く長い指で外していく。プツリ、と焦れるようにボタンと布地が離れる度に、蒔乃の気分が高揚していった。一方で朔司はその様子を優しく慈愛に満ちた眼差しで、柔く温かい目色を灯しながら彼女の旋毛を見つめていた。
やがて目当ての柔肌を晒して、蒔乃は唇を寄せる。やわらかい黒猫のような髪の毛が朔司の首をくすぐって、吐息が漏れそうになるのを我慢した。蒔乃はとても敏感に人の気配を感じ取るので、吐息を溜息に捉えてしまうことが多々あった。
唇は温かく、柔らかい。
蒔乃は大きく息を吸い込むと、朔司の首筋に歯を立てた。
「…っ、」
弾力性のある肌がぶつっと破れる音がした。朔司が息を呑む。鈍い痛みを我慢して、蒔乃の髪の毛を梳くように撫でた。彼女の髪の毛はしっとりしていて、手のひらによく馴染むようだった。朔司は指に絡めると、するりと重力に従って落ちていく髪の毛をしばらく堪能する。
ようやく満足したのか蒔乃がそっと顔を上げると、唇の淵が朔司の血で僅かに濡れていた。そのまま自らの舌で舐めとろうとする蒔乃の唇に、朔司は自分の人差し指の腹を押し当てて制止した。
「朔司…さ、」
蒔乃が掠れた声で朔司の名前を呼ぶ前に、彼の手によって口の中にチョコレートが放り込まれる。芳醇な香りと舌に蕩ける食感、そして甘い甘い糖分が蒔乃の口腔内に広がっていく。朔司がいつもポケットに忍ばせている口直しのチョコレートはいつだって美味だった。
鎌倉の住宅街に隠れ家のようにひっそりと喫茶&ダイニングバー『星ノ尾』が存在した。星ノ尾は朔司が営む店、そして城だった。彼は両親から託されたマンション経営の傍らに趣味として店を始めたと言うが、ありがたいことに常連客に恵まれて星ノ尾は意外にも繁盛していた。
昼間は喫茶店、夜間はバーへと姿を変える星ノ尾を供に支えるのは数名のアルバイトと朔司の姪である蒔乃だった。蒔乃は大学の休日ともなると昼に厨房の手伝い、そして夜になればバーテンダーとして働いた。
「玉森さん。シャインマスカットとホワイトショコラ、レアチーズのタルトを二つ。準備をお願いします。」
他校の女子大生のアルバイト、ウエイトレスの飯田が客から入ったオーダーを蒔乃に伝える。はい、と頷いて、蒔乃はメニュー名が書き込まれた伝票表を、朔司のいるバーカウンターの壁に貼った。そして紅茶を淹れている朔司の肩を小さく叩く。首を傾げるように朔司は蒔乃を見、蒔乃は蝶々を模すかのように手話を扱った。彼の耳には生まれつき音が無かった。
『注文が入りました』
そう伝えて伝票を指差すと、朔司はややあと頷いてゆっくりとした動作で作業に入るのだった。朔司の前職はショコラティエだったという。そんな彼の作るチョコレートのお菓子は星ノ尾の名物だ。季節の果物を使い、たっぷりとチョコレートをあしらったタルトは特に人気がある。
本日のタルトのメインはシャインマスカットだ。鉱物のプレナイトをカボションカットにしたかのような果実を、ホワイトショコラを淹れて混ぜたレアチーズクリームが乗せられたタルトにこれでもかと敷き詰める。客に出す前に粉糖をまぶせば、シロップで輝くシャインマスカットがよく映える宝石箱のようなタルトの完成だ。
朔司の手はまるで魔法使いの手だ。じっとその手つきを見つめていると、朔司はその蒔乃の熱視線に気が付いて淡く微笑む。そして、ちょいと手招きをして蒔乃を呼び寄せる
「?」
蒔乃は小首を傾げながら、朔司の元へと歩み寄った。朔司は銀の匙でボウルに余ったチーズクリームをすくい取って、彼女の口元へと運ぶ。蒔乃は小さく口を開けて匙を含み、チーズクリームを舐めとった。チーズのささやかな酸味と柔らかいホワイトショコラの甘みが絶妙なバランスで成り立ち、芳しい香りが鼻に抜けた。
蒔乃は思わず綻ぶ口元を片手で隠す。その様子を見守る朔司は笑って、そして出来上がったタルトの皿を託すのだった。
夜の帳が降りる頃。喫茶店の健全な様子から、星ノ尾は妖艶なバーへと雰囲気を変えた。さなぎが蝶に変わるように蒔乃も姿を変えて、朔司との関係も一転する。
蒔乃は髪の毛を結い上げて、その顔に華やかなメイクを施す。薄く引かれたアイラインは彼女の目の大きさを強調し、カーマインレッドに彩られた唇が艶やかに笑顔に花を添えた。そして長身の蒔乃には白いワイシャツと、黒いベストが引き締まるようによく似合った。
昼間は蒔乃が朔司のお手伝いだが、夜はバーテンダーとして朔司の師匠となった。下戸だというのは朔司で、彼の妹である蒔乃の母親は酒が強かったと言うから、やはり親子の血が勝ったのだろう。
ちりん、と鈴の涼やかな音が鳴り、今日も夜間の星ノ尾に客が訪れる。
「蒔乃ちゃん。今日もおすすめを頼めるかな。」
「かしこまりました。それでしたらー…、」
常連客の老紳士がカウンター席に腰掛けて、蒔乃にオーダーする。蒔乃はその老紳士が好む味を思い出しながら、たまたま店の小さなテレビから古い映画が放送されているのを目にした。1990年にアメリカで発表された映画で、陶芸家のヒロインが主人公に背後から抱かれるように座って二人でろくろを回すシーンが流れていた。
今日はこの映画をモチーフにしよう。
そう決めて、蒔乃はシェーカーを振るのだった。
23時、バーとしてはまだ早い時間帯に星ノ尾はクローズする。周囲が住宅街という環境で夜遅くまでオープンしない方が良いだろうという朔司の配慮だった。
朔司が銅製の看板を下げて、床のモップがけや店内を彩る生花に水やりをする。蒔乃はその間、食器やカクテルグラスの洗い物に励んだ。
刹那、蒔乃の洗剤の泡で濡れた手からカクテルグラスが一つ逃げた。
「あ…、」
床に触れた瞬間にキンッと甲高い音が立ち、薄いガラスが弾けてしまう。蒔乃は小さな溜息を吐き、膝をついてガラス片を拾おうとする。が、蒔乃の異変に気が付いた朔司によって止められた。
『僕が。』
と短く告げて、朔司は散ったガラス片を集めて新聞紙に包む。片付けを終えると、朔司は蒔乃の手を取った。そして一本一本の指を確かめるように診ていく。やがて両の手のひらを確認し終えると、ふと朔司は吐息を漏らした。そのまま蒔乃の手のひらに、くるくると円を描くように文字を書く。手話だと伝わらないニュアンスの会話は直接に肌に書くことが多い。
『良かった。ケガは無いようだね。』
朔司の指は長く骨張っていて、少し乾燥している。ざらりとした感触が肌に咲く時、背筋に快感にも似た震えが立った。
『力加減が難しいのだから、無茶はしないように。』
そのまま蒔乃の頭を優しく撫で、朔司は立ち上がろうとする。蒔乃は彼の手を握って、制止した。
「…痛かったら、良かったのに。」
一滴のインクをバスタブにぽとんと落としたかのような、蒔乃の呟き。
「ねえ。朔司さん。」
蒔乃は朔司の瞳を覗く。朔司のアンバーのような目色に蒔乃の姿が滲む。自分自身と目が合いながら、蒔乃は言葉を紡ぐのだった。
「噛んでもいい?」
微笑むように口角を上げた先に、八重歯が白く輝く。
蒔乃は無痛症を患っていた。
朔司が星ノ尾の戸締まりをしている間、蒔乃は一歩先に出た店先の小路で、夜空を仰いでいた。
四月の夜に桜の花びらが舞い、まるで温かい雪が降るようだった。
「蒔乃。今、上がり?」
自らの名前を呼ぶ声に視線を地上に戻すと、そこには一臣が傍らに自転車を携えて立っていた。蒔乃は頷いて、彼に近づく。
「おみくんも、帰りが今?頑張るね。」
「まーね。展示会、近いし。親父は?」
ざり、と砂利を踏みしめる音が響き二人が振り向くと、朔司が革のキーホルダーがついた鍵をポケットにしまいながら歩み寄るところだった。
一臣の名字は水瀬。朔司の息子だ。蒔乃は水瀬親子の元で、生活を共にしている。
『おかえり。』
朔司の手話に一臣も「ただいま」と手話で応えた。
「帰ろう。途中でコンビニ寄っていい?」
一臣の提案に乗るのは蒔乃だった。
「いいね。アイス食べたい気分。」
「こんな夜更けに食ったら太るぞ。」
まるで姉弟のように仲睦まじい若者二人の後ろを、朔司が見守りながらゆっくりと歩いて行く。
月は猫のように細く笑い、星明かりが白く道を照らす。三人の日常を彩る光は柔らかく、温かだった。
水瀬の家では食事作りの当番を決め、全員に順々と回ってくる。今朝は一臣が朝食当番だった。
「おはよー…。」
すでに食卓で新聞を読む朔司と台所に立つ一臣に、寝ぼけながらまだパジャマ姿の蒔乃は挨拶する。
『おはよう。』
朔司は新聞を畳み、手話で返してくれる。
「おはよう…って、寝癖がすごいことに。」
一臣の指摘に、後で直す、と間延びした声で返して蒔乃も席に着いた。
「はい、朝ごはん。」
全員が揃ったところで、一臣が作った朝食をテーブルに並べ始めた。
彼の調理スキルは低く、レパートリーも少ない。朝の定番は形の崩れた目玉焼きだ。それでも添える物を工夫しているらしく、焼いたウインナーやベーコン。スライスしたトマト、納豆などが食卓に並ぶ。基本は和食が多いが、今日はトーストした食パンが出てきた。
手早くいただきますをして、蒔乃は食パンにバターを塗りつつ口に運ぶ。
「朝、パンなの珍しいね。お米じゃないと昼まで保たないって言ってなかったっけ。」
「昨日、炊飯器をセットしとくの忘れた。」
言いながら、一臣は朔司にジャムの瓶を手渡す。
『ありがとう、あとコーヒーに入れる牛乳も取ってくれるかい。』
「ん。」
朔司は一臣から受け取った牛乳をマグカップのコーヒーにたっぷりと注ぐ。コーヒーの苦い味は苦手なのに、香りは好きだと言っていたことを蒔乃は思い出していた。
「蒔乃、急いで食べた方が良いんじゃね。この後、身だしなみ整えるために洗面所を占拠すんだろ。」
一臣と蒔乃は同じ大学に通っていた。大学では芸術を学び、一臣は陶芸科を。蒔乃は絵画科を専攻している。
「二限の東洋芸術史からだから、まだ余裕。」
頬袋のあるハムスターのように食事を摂りながら、蒔乃が答えた。
「いいなー。俺は座学、一限目からあるわ。」
「早いうちから単位取っちゃった方が楽だよ。」
大学二年生の一臣に先輩風を吹かせる。蒔乃は一年先輩の大学三年生だった。一臣が高校三年生のとき、同じ大学を受けると聞かされて随分と驚いたものだ。だが実際に学び舎を供にすると意外に便利で、忘れ物をしても補い合ったり、夜の時間帯の帰宅に用心棒にもなってくれる。
一臣は時計を見て時刻を確認すると、急いで朝食を掻き込んだ。そして慌ただしく席を立って、食器をシンクに下げる。
「悪い、蒔乃。食器洗っておいてくんない?」
「いいよ。夕食の買い物は行ってくれるんだよね。」
もちろん、と一臣は頷き、椅子にかけておいた上着を羽織って玄関まで駆けていった。
「行ってきまーす。」
バタバタと忙しない音が止むと、しんと静寂が家を統べた。
チッチッチ、と時計の秒針が時を刻む音が響き、字幕付きのニュースがテレビから流れている。ゆっくりと蒔乃は食事を続け、朔司はニュースを眺めながらコーヒーを啜った。そして食事を終えた三人分の食器を洗うために、蒔乃は台所のシンクの前に立った。
かちゃかちゃと食器同士が触れあう音を立てながら、蒔乃は鼻歌を口ずさむ。やがて白い泡を水で全て洗い流して、食器をかごに伏せた。一仕事を終えて振り向くと、朔司が『ありがとう』と手話で感謝を蒔乃に伝える。
「ううん。ね、朔司さん。今日はお店が休みなんだよね?」
ひらひらと手話で話す言葉はいつも浮き足立つ蝶々のようだと思った。その動きの優雅さに憧れて蒔乃が勉強すると、予想以上に喜んだのは朔司だった。蒔乃が初めて覚えた手話は『ありがとう』。それを披露したとき、朔司は目を丸くして次の瞬間に涙を零した。
『そうだよ。夕食は皆で食べよう。』
星ノ尾が休みのとき、夕食は朔司が腕を振るってくれる。休みの日まで料理をしなくてもいいのに、と一臣と供に言うと、朔司は『休みの日だからこそ、作りたいんだよ』と微笑んで言うのだった。一週間に一度訪れるこの休みの日は三人そろっての夕食が恒例になった。飲み会や遊びに誘われようと、この日だけは大学から二人は一直線に帰ってくる。
「楽しみ!献立はもう決まってるの?」
蒔乃は両手を叩いて喜ぶ。そんな彼女を見て、朔司はいたずらっ子のように笑うのだ。
『秘密。楽しみにしてなさい。』
「ええー…。一日中、気になるなあ。」
唇を尖らせる蒔乃に、朔司は時計を指さす。逆算して、もう身支度に取りかからないとバスに間に合わなくなる時間だった。きゃっと悲鳴を上げて、蒔乃は慌てて洗面所に向かった。
鏡で見る自らの寝癖の付いた髪の毛に、蒔乃は溜息を吐く。蒔乃の髪の毛は太く艶やかだが、癖が付くとそのしっかりとした毛質から直しづらいのだ。
今日もまた、四苦八苦しながら寝癖を直す。髪の毛の根元とて濡らしても、頑固な寝癖だった。
「ああ、もう…。これでいっか。」
頭を左右に振って確認し、及第点の出来に仕上げる。その後、歯磨きや顔を洗った。メイクは嫌いだ。バーテンダーの時だけでいい。
蒔乃は自室に戻り、昨夜から準備しておいた私服に着替えて、高校の時から使っているリュックサックを手に取った。そしてリビングにいる猫に餌を与えている朔司の肩をつんと突き、振り向いた彼に行ってきますと言う。
『行ってらっしゃい。気をつけて。』
朔司の手話に大きく頷いて、蒔乃は玄関を出るのだった。
蒔乃はバス停まで転がるように駆けていく。丘の上にある家からに下り道の先には湘南の海が微かに覗いていた。海面は春の暖かな日差しを受けて、白い木漏れ日のダンスのように光っていた。その景色を気に入ってか、一臣はバスには乗らず自転車通学を貫いている。
途中、絶対に吠える番犬に挨拶をしてバス停に着くと、バスは二分遅れでやってきた。始発に近いこのバス停で乗り込むと、結構な確率で座れることが多い。今日は最後尾の広い座席が空いていた。ラッキーと思いつつ乗り込んだ蒔乃が席に座ると、バスは緩やかに出発する。
バスはやがて海岸沿線を走り、駅からゆっくりと出てくる江ノ電と束の間並走した。蒔乃は凪いだ海を見ながら、朔司のことを思い出していた。
家で飼う猫に餌を与えている朔司の首筋が先ほどちらりと見えてしまった。彼は襟付きのシャツを好み、第一ボタンまできっちりとはめているが、俯いたりすると僅かばかりその肌が窺えるのだ。
そこには大きめの絆創膏が張ってあり、蒔乃が付けた歯形が痛々しく残っているはずだ。絆創膏に血が滲み、周囲の皮膚は青黒く内出血を起こし、治りかけの痕は黄色の肌になっていた。
申し訳ないと思う。そして、その倍も愛おしく蒔乃は感じるのだ。
蒔乃には脳の障害があり、痛覚が無い。触覚の電気信号こそ脳は受け取るが、痛覚の電気信号を脳は完全に拒否している。ただ、痛みを知らない訳では無い。彼女の障害は後天的なものだった。
蒔乃はバスの車窓に額を押し当て、小さな溜息を吐く。
今日も、海が綺麗だ。
降車ボタンを押して、大学最寄りのバス停に降り立つ。
もうちらほらと学生らしき若者たちが通学していた。その一員になり、蒔乃は大学へと向かう。警備員のおじさんと挨拶を交わす。
「おはようございまーす。」
「はい、おはよう。」
警備員さんと仲良くしていると色々と便宜を図ってもらえるのだ。例えば制作状況に応じて校内の寝泊まりを黙認してくれるとか、早朝の制作棟の開錠など。今までに数え切れないほど、その恩恵を授かっている。
座学が行われる教室のある棟に向かっている途中、友人たちに会い合流した。
「ねえ、レポートの提出っていつまでだっけ。」
「明後日だよ。確か。」
友人の一人のみきに問われて答えると、彼女が青ざめた。
「やっば、まだ手を付けてないわ。」
「それはやばい。」
蒔乃は苦笑する。マイペースなみきらしいが、締め切りには損な性格だった。
「えー、えー。えー、蒔乃は何を題材にしたの?」
中央の席がまとめて空いていたので座る。教科書を取り出す蒔乃に、みきが縋るように聞いた。
「うん?鳥獣人物戯画だよ。」
「日本最古の漫画って呼ばれてるヤツね!良いじゃん、書きやすそう。私もそれにする~。」
みきはスマートホンで素早く検索をかける。
「いいけど、レポートは見せないからね。自分の力でやんなよ?」
「それはもちろん!ヒントをもらえただけでありがたや。」
手を合わせて拝むふりをするみきを見て、蒔乃は笑った。この妹気質の友人が本当に泣きついてきたら、渋々ながら手伝ってやるのだろうなと思った。
午前中に座学を終えて、昼休み。みきは図書館で早速レポートに使う蔵書を探す旅に出たので、蒔乃は他の友人たちと大学のカフェテリアで食事を摂ることにした。
「サラダうどんだけで足りるの?」
カツ丼とうどんのセットを前にして蒔乃が問うと、友人たちは大げさに溜息を吐いて見せた。
「普通の女子は、そのセットは頼まないよ…。」
ちなみにどちらもレギュラーサイズで大雑把に見積もっても二人前はある。
「え、嘘。私って大食い?」
蒔乃は自分の食事量に首を傾げた。
「気付いてなかったのか。」
「太らねーのがすごいよ。」
ブーイングに蒔乃は反論すべく、口を開く。
「でもでも!うちだと皆、このぐらいは食べるよ…、いや。待てよ…。朔司さんは食べない…か。」
家での食事を思い出すと、朔司は食べ盛りの若者二人ほどは食べていないことに気が付く。当たり前だ。
「ほれ見ろ。水瀬くんだっけ?大学生男子と同じ量じゃん。」
「ううー。ごはん美味しい…。」
軽く論破され、蒔乃は悔しそうにしながらもペロッと完食するのだった。
女子たちの華やかな笑い声が聞こえた。
「…うん?」
一臣は友人たちと楽しそうにランチをしている蒔乃を見かけ、声をかけようか一瞬迷ったが水を差すのも悪いと思い却下する。そもそも泥だらけのつなぎ姿でカフェテリアに入っていくのも、気が引けた。
今日は陶芸に使う赤土が大量に届き、学生総出で制作棟に運び込む作業をしていたのだ。特に女子比率の高い芸術大学で男子の人手は貴重なので、随分と働かされた。台車は女子が使い、男子はもっぱら手で担ぎ込んでいた。その成果として、大学に入学して随分と筋肉が付いた気がする。
「一臣くんが運んでいるので最後だから。それを運んだら、昼休みにしていいって。」
「ういー。」
在庫を確認していた女子学生から先生の言伝を聞き、一臣は頷いて手にしていた土を抱え直す。そして制作棟にある準備室に土を運び終えて、晴れて自由の身になった。
一臣は煙草休憩をするという同級生と供に、制作棟の端っこにあるささやかな喫煙場所へと向かった。そこには水の張ったバケツを灰皿にして、誰が置いたかもわからない赤い革のソファが置いてある。
「一臣も吸う?一本だけなら恵んでやんよ。」
喫煙する同級生に誘われるも、一臣は手を横に振って断った。
「結構です。俺はソファに寝に来ただけだから。」
「ふーん?でも香りは嫌いじゃねえんだろ。」
カチカチとライターで煙草の先に火を付けて、同級生は美味しそうに紫煙を吸う。
「…家族が嫌いなんだよ。」
「ああ、絵画のセンパイのこと?。」
溜息をつくように煙草の火を燻らせながら同級生が言った。「あのセンパイ、美人だよなー。いいなあ、あんなお姉ちゃんがいて。」
はははと笑う同級生に対し、一臣は僅かに苦笑する。
「そんないいもんじゃないけどな。」
そう。決して良いものじゃない。
少なくとも、姉と意識するにはこの思いは醜すぎる。
「寝るわ。授業始まる前に起こして。」
「昼飯は?」
「さっき早弁したから平気。」
大学の自動販売機で買ったカップ麺を二つ食べたので、空腹は感じていない。
「だから短時間消えてたのか。」
同級生に肩を軽く小突かれながら一臣はソファに寝転んで瞼を閉じた。
夢を見た。それは蒔乃が水瀬家に来た頃の記憶だった。
蒔乃は今と違い、よく泣く女の子だった。泣くと言ってもわめくのではなく、人知れずほたほたと涙を零すものだから見つけるのが大変だった。早くに母親を亡くした一臣にとって蒔乃は一番身近な女性で、そんな蒔乃が泣いていると心がざわついて仕方が無い。
ー…蒔乃。どうしたの。
夢の中でも蒔乃は泣いていて、一臣はどう慰めて良いかわからずに途方に暮れていた。
「一臣ー。先生が、ガス窯の使用許可証を出しとけって。」
「っ!」
同級生の声にはっとして目が覚めた。一臣は腕時計を見て、30分ほどの睡眠を得ていたことを知る。
低血圧のように心臓が静かに脈打ち、手の指先が冷たかった。10秒間ゆっくりと深呼吸して、一臣は上半身を持ち上げて応える。
「…わかった。今、行くからー。」
午後の実技の時間になり、早速運び込んだ赤土を使うことになった。土練機で練られた土を手にする。土はひんやりとして冷たく、赤ん坊の肌のようにすべすべとしていて気持ちが良い。この土の感触が好きで、一臣は陶芸科を選んだようなものだった。
丁寧に菊練りを施して、電気ろくろの舞台に乗せる。濡れて密着するように回る土は肌に吸い付いて、形を変えていく。
「…。」
少しの心の惑いが作品にすぐ現れるから、精神統一にも似た感覚に陥る。周囲の賑やかな音が失せ、しゅ、しゅ、と土が鳴る声と対話をするのだ。
提出物である湯のみをいくつか形成したところで、一臣は肩と首にこりを感じて顔をあげた。
「随分と集中していましたね、水瀬くん。」
ふと目が合った陶芸の先生、神田が言う。
「息抜きも大事ですよ。」
「はい…。」
背伸びをしてストレッチをしつつ、一臣が窓の外を見ると麗らかな陽気の中で絵画科の学生が写生をしていた。友人同士固まるグループもある中、たった一人、蒔乃が絵を描いている姿を見つける。
画板に向かって俯く滑らかな頬に艶やかな黒髪が触れて、蒔乃は無意識に耳にかけた。その刹那、真剣な顔が覗えてその視線の先が気になった。
一臣はろくろの上の土が乾かぬように濡れたタオルをかけて、席を立った。
陶芸科の教室を出て、外に出る。白い桜の花びらが風に誘われ舞っていた。大学構内の桜並木を描く絵画科の学生が多い中、蒔乃はうずくまるように下を見て俯いていた。その姿が夢の中で泣く蒔乃の姿と重なる。
「蒔乃。」
一臣の影が差して、蒔乃が顔を上げた。その顔に、涙は伝っていない。良かった。
「おみくん。どしたの。」
きょとんと大きな目を更に丸くして、蒔乃は一臣を見る。
「俺は息抜き中。」
そう言って、蒔乃の隣に腰掛けた。
「何、描いてんの?」
「クローバー。」
彼女の答えに足元を見ると、そこには幾重にも重なるようにクローバーが自生していた。
「四つ葉の?」
「え?ううん。普通の三つ葉が多いんじゃないかなあ。」
蒔乃が向かっていた紙を覗くと、確かに代わり映えの無いクローバーが、されど生き生きと描かれていた。
「…地味じゃね。」
「桜、嫌いなの。」
だって寂しいでしょ、と蒔乃は言葉を紡ぐ。
「散り方が潔すぎて。何か、出来過ぎな気もするし。」
「ふーん。そんなもんかね。」
頷く蒔乃を見て、一臣はクローバーを撫でるように四つ葉を探し始める。
「おみくん、知ってる?四つ葉のクローバーって、踏まれて傷つけられて出来るんだよ。だから、歩道側を探してみて。」
「…あ、見っけ。」
蒔乃に言われたとおり歩道近くで、小さな四つ葉のクローバーを見つける。
「はい、あげる。」
一臣は摘み取ったクローバーを、蒔乃に差し出した。
「いいの?」
「うん。」
「ありがと。」
しばらくの静寂の時が流れる。一臣は再び、四つ葉のクローバー探しを始めた。
「この子は痛みながら、四つ葉になれたんだね。」
ぽつんと呟くように蒔乃は言う。
「私がクローバーだったら、傷つけられたのも気付かずにそのまま三つ葉なんだろうな。」
その言葉に一臣が横目で蒔乃の顔を確認する。今度こそ、泣いているのかと思った。でも、違った。蒔乃は受け取ったクローバーをくるくると回転させながら、淡く微笑んでいた。
「痛覚が無いって、どんな感じ?」
「おみくんは直球だなあ。」
今更、遠慮のない一臣の問いに蒔乃は声を出して笑う。ひとしきり笑い、呼吸を整えるようにふと小さく息を吐く。
「…触覚はあるって、前に話したよね。」
「聞いたね。」
蒔乃は鉛筆を置いて、自らの両手を広げて見つめた。
「例えば、そうだね。棘が刺さったとする。」
「うん。」
「体の中にずぶずぶ入ってくる感覚はあるのよ。でも、痛みは無いから本当に無遠慮だよね。私って体がまるでゴムになったような…まあ、よく言えば人形みたいなもんだよ。」
ふうん、と呟いて一臣は蒔乃の例えを自分に置き換えて考えてみる。試しに手の甲に爪を立ててみた。爪は皮膚に三日月のような赤い痕を刻んで、痛い。…この感覚が無いのか。
「変な感じ。」
「でしょうよ。」
生真面目に頷きながら手の甲を見る一臣を隣に、蒔乃は膝に頬杖をついて苦笑する。
「その痛み、大事にしな。」
そう言って、蒔乃は一臣の額をつんと突くのだった。
手を振って別れる彼女を見送って、一臣は陶芸の教室へと戻る。
「おかえり~。」
親友の静正がロリポップキャンディを口に含みながら、一臣に手を振って迎えた。
「随分と長い息抜きですこと。」
「そういうお前は?」
「俺は今からだから、いーの。」
そう言うと静正は自分の隣の椅子を引き、一臣に隣に座るように誘う。
「制作戻りたいんだけど。」
「まあまあまあ。もちっと付き合ってよ。」
一臣はちらりと神田の様子を覗う。神田は他の学生の質問に答えており、こちらのことは気にしていないようだ。
「…ちょっとだけな。」
「やった!」
隣り合って座った席は丁度、窓の前で大きな桜の木を目の前にした。ちょっとした花見をしているようだった。
「桜が綺麗ですねえ。」
静正ののんびりとした声が響く。
「まあ、春だからな。」
「そう。春なんですよ。」
その言い回しに、一臣は首を傾げる。
「恋の季節だなーって思って。」
「何、言って、」
たじろぐ一臣を見て静正は、図星だろ、と指を差す。
「人のこと、指差すな。」
「玉森先輩。」
「!」
急に親友の口を吐いて出た蒔乃の存在に、一臣はぐっと喉が詰まるように口を噤んだ。
「と、一臣。なーんか良い雰囲気にみえたからさー。俺としては、焦れったいというか。甘酸っぱいというか。」
「…そんなんじゃないよ。」
「そ?」
否定する一臣を置き去りに、静正は二個目のキャンディの包みを開ける。そしてそれを、一臣の目の前に差し出した。「どーぞ。」
「…。」
一臣がキャンディを受け取ると、いちごミルクの甘ったるい香りが鼻腔をくすぐった。
「だって、ずっと好きじゃん。親友の目は誤魔化されんぞ。」
「家族だから。」
一臣は頑なに自らの想いを家族愛だと言う。
「血は繋がってないって、言ってたけど。」
「いつ?」
「去年の新歓コンパの飲み会で。」
「…俺、酒嫌い。」
静正が言うとおり、蒔乃と一臣に血のつながりは無い。ついでに言うと、朔司と蒔乃の間にも。水瀬家で異分子は彼女一人だった。と言うのも、両親の連れ子同士で朔司と蒔乃の母親が兄妹となり、蒔乃は朔司の血のつながりの無い姪だ。
下戸の一臣が酒に酔って吐露したらしいことを今聞いて、今後は酒を飲まないことを決意する。
「まあ、その話を聞く前から、一臣の気持ちってダダ漏れだったけどね。」
「マジで?」
「マジで。まあ、玉森先輩は気が付いてないみたいだけどさ。」
相手を見つめる目色が違うんだよ、と静正が言う。
「柔らかいって言うか、明るいって言うか。甘みを帯びてるんだよ。お前。」
「詩人みたいだな、静正。」
「茶化しても意味ないからな。」
回避策を釘刺され、もう一臣は何も言うことが無い。仕方なく、受け取ったキャンディを噛み砕くことにした。
「うわ、噛むなよ!もったいねー!!」
ガリガリと音を立てキャンディは砕け、人工的な甘さが口いっぱいに広がる。甘すぎて、少し口の中がだれるようだった。
「…話戻すけどさ、俺にはお前と玉森先輩が良い感じに見えたんだよ。何をそんな遠慮してんの?」
「んなこと言ったって、」
キャンディを飲み下す。
「蒔乃、他に好きなヤツがいるから。」
物心が付いたときから、音は無かった。
朔司の世界はいつだって無音で、その静けさに耳の奥がキンと痛むようだった。
昼間の家は、若者二人がいないだけでとても寂しい。その寂しさを埋めるように、朔司は本の表紙を開いて一時的に現実を遮断した。読書は好きだ。自分以外の人生を歩めるだなんて体験は、本を読む以外にできない。時々、事件を解決する探偵に。または魔法を扱って空を飛ぶ少女に。年齢問わず、性別すらも超えて朔司は読書に没頭する。
時間がどれだけ溶けても本を閉じるタイミングをつかめないから、あらかじめスマートホンのタイマーをかけておく。振動が出るように設定してあるので、朔司でも気がつけた。今日もまた読書を遮る振動を感じ、ようやく本を閉じた。
顔を上げると部屋の中が夕日の朱色に染まり、すでに薄暗くなり始めていたので室内の電灯をつける。どうりで途中から文字が読みづらくなっていたはずだ。
スマートホンを見ると、メッセージアプリに伝言が水瀬家のグループページに届いていた。
【親父。夕食に使う食材リスト求む。 一臣】
【おみくん、デザートも買ってきて! 蒔乃】
【了解ー。みかんの牛乳寒天でいい? 一臣】
【嬉。もちろん人数分忘れないでね? 蒔乃】
一臣と蒔乃のやりとりを微笑ましく見守り、朔司は夕食に使う材料を確認すべく台所へと向かうのだった。
冷蔵庫と食料庫を見て、材料のリストを作り一臣に向けてメッセージを送る。このぐらいの買い物ならあと一時間もすれば、帰ってこれるだろう。
朔司はそれまでに出来る食材の下ごしらえを始めることにした。
野菜を刻み、肉を柔らかくするための処理を行っているうちに、とん、と肩を叩かれた。どちらが先に帰ってきたのかと予想しながら、振り向くとそこには一臣と蒔乃の二人がいた。どうやら二人とも、同時刻の帰宅だったらしい。『おかえり。』
朔司の手話に、若者二人が同時に同じ手話を返す。
『ただいま。』
一臣に差し出されたエコバックの中には、頼んだものがしっかりと入っていた。そして、三つのみかんの牛乳寒天も。『ありがとう。』
受け取り、再び台所の調理台に向かうと後ろからひょっこりと蒔乃が顔を覗かせた。
『私も、手伝うよ!』
そう言って、蒔乃はにっこりと微笑んだ。蒔乃の手話を読み取ると同時に、ふと彼女が最初に手話を披露してくれたことを思い出した。
当時の蒔乃は心を閉ざすように無表情だった。彼女が水瀬家に来た理由を考えれば、当然のことだったのかも知れない。蒔乃は肉親から離れて、水瀬家に来た。
女の子の扱い方がわからず随分と朔司は頭を悩ませたが、時間が経った今思えばあの期間も蒔乃との絆を築くために必要だったのだとわかった。
初めての手話は『ありがとう』だった。その前後の会話を覚えていないが、蒔乃の心に触れた気がして随分と嬉しかった事だけを覚えている。それから、蒔乃は笑顔を見せてくれることが増えたのだ。
『ありがとう。』
始まりの手話で伝えて、蒔乃と一緒に台所に立つ。それはまるで奇跡のように思えた。
その日、作った夕食はビーフシチューとサラダ。一臣のリクエストで白いご飯を添えた。若者二人はとてもよく食べるから見ていて気持ちが良い。それは、朔司が喫茶店を営もうと思った理由でもあった。自分の作った物を美味しそうに食べてくれる人の顔を直接みたいと思ったことをよく覚えている。
夕食の片付けを一臣と蒔乃の任せて、朔司は自らの書斎に行き、星ノ尾の売り上げの計算に勤しんだ。今月も、どうやら黒字のようでありがたい。
机の上に置いてある置き鏡に、ふと動く影を見つけた。背後を見ると蒔乃が書斎の扉を開けて、こちらの様子を覗っていた。帳簿を閉じて、朔司は首を傾げてみせる。蒔乃は気付いてもらえた嬉しさから笑顔を見せた。
『お風呂、沸いたよ。先にどうぞ。』
彼女の手話は大きく読みやすい。
『わかった、ありがとう。』
朔司が椅子から立ち上がると、蒔乃は手にしていたバスタオルを渡してくれる。それを受け取り、着替えを準備して浴室へと向かった。
脱衣所でシャツのボタンを外してを脱ぐと、鏡に自らの体が写った。中年の朔司の体は若干筋肉が落ちている。骨張った首筋には、幾重にも噛まれた痕が刻まれていた。
この痕は、蒔乃によって付けられたものだ。
蒔乃には自傷する癖があった。痛みを感じないという彼女は手加減せずに自らの腕を噛むものだから、血が滲むほどに痛々しい痕が残った。この傷痕が蒔乃が成長し、好きな人の前に晒されてしまうことを案じた朔司が彼女に言ったのだ。
自分を噛むぐらいなら、僕を噛みなさい。
手帳のメモ欄にペンで走り書きをして、蒔乃の手に握らせた。その紙片を開いて読んだ後、蒔乃は泣いたのだ。
彼女の細い体を抱きしめて、初めて噛まれたときはまるで電流が走ったかのようにピリリとした痛みだった。その痛みは蒔乃が成長するにつれて、鈍く強い痛みになっていった。そして肌を破り、血が滲むくらいに蒔乃の力が強くなった。
いつか頸動脈を噛み千切られるかもしれないと思いつつ、それでも朔司は蒔乃を受け入れ続けた。
朔司がお風呂に入る音が聞こえる。蒔乃はリビングでテレビを見ながら、洗濯物を畳んでいた。テレビでは音楽番組が流れており、今話題のドラマの主題歌が歌われている。
一臣は陶芸で使う染め付けの図案を考えると言って、二階の自室にこもっている。
主題歌に釣られるように鼻歌を口ずさみつつ、持ち主毎に洗濯物を分けていった。自分の物と水瀬家の二人の洗濯物が一緒くたに洗濯機で回っている様子が、彼らと打ち解けてきた証のようで嬉しい。
畳み終わった洗濯物を持って、二階に続く階段を上る。一臣の部屋の前に立ち、扉をノックした。
「おみくーん。洗濯物畳んだから、しまって。」
声をかけると、一臣がすぐに扉を開けてくれた。
「お、サンキュ。」
一臣は自らの洗濯物を受け取る。
「良い図案、思いついた?」
「いや、まだ。」
この通りです、と言って見せられた部屋には植物図鑑や古典柄の本などが散乱していて、一臣が苦心している様子が窺える。
「産みの苦しみだね。頑張って。」
「おう。」
言葉を交わして、蒔乃は階段を下ってリビングへと戻る。朔司の洗濯物は、彼がお風呂から上がったときに渡せば良い。当事者のいない部屋に立ち入るのは、気が引ける。
蒔乃は朔司の洗濯したばかりの服をそっと手に取った。誰も見ていないことを確認するように周囲を見て、そして朔司の服を胸に抱きしめた。
蒔乃は朔司のことが好きだった。
彼の優しさ、包容力。父性に引かれていると最初は思ったのだが、違った。恋心を意識したのは、高校生のときだ。
初めて、同級生の男の子に告白をされた。顔を真っ赤にして、勇気を振り絞って想いを告げてくれたことがわかった。だけど。その男の子の告白を受けるには、何故か罪悪感を感じてしまった。何故だろうと考えたときに、気が付いてしまった。
相手が、朔司さんなら良かったのに。
自分の想いに愕然とした。家族愛だと思っていた愛が、恋愛だったことに。それと同時に、蒔乃は自らの恋が叶わないことを知った。朔司にとって、自分は子どものようなものだ。
丁寧に言葉を紡ぎ、男の子の告白を断った。その子は何か吹っ切れたかのように、笑ってくれた。
ー…聞いてくれて、ありがとう。
清々しそうな笑顔を見て、羨ましく思った。自分には決して出来ないことだから。
男の子が去った後、蒔乃は泣いた。
なんて浅ましいのだろう。
それでも、会わなければ良かった、だなんて思えないぐらいに朔司のことを愛してしまっていた。
朔司の手や眼差しが、纏う空気。存在全てが、好きだ。
「…ごめんなさい。」
誰に捧げたのかも知れない謝罪を告げて、蒔乃は滲む涙を手の甲で拭った。
「何が?」
不意に鼓膜に響いた一臣の声に、蒔乃の心臓は飛び上がるように大きく脈打つ。
「え、っと…、いつから…?」
口の中が乾いて、声が出しづらい。
いつからこの行動を見られていたのだろう。
恥ずかしいやら、困惑するやらで蒔乃の挙動がおかしくなる。
「今。」
それだけ告げて、一臣はローテーブルを挟んで向かい側に座った。そして何も言わずにテレビを眺め始める。
「…。」
沈黙が辛い。
「…あの、」
「蒔乃さあ、」
口を開きかけて、一臣に遮られてしまう。
一臣はテレビの電源を切る。リビングが途端に静かになった。
「な、何?」
「親父のこと、好きなんだろ。」
あまりにも直球過ぎる一臣の言葉に、蒔乃は咄嗟に否定できず息を呑んだ。
「そんな、こと…、」
「あるだろ。少なくとも、泣くぐらいには。」
「これは、違…っ!」
「蒔乃。」
一臣の凪いだ声に、蒔乃は何も言えなくなる。しばらくの沈黙がとてつもなく長く感じた。
「…っ。」
「俺にしとけば。」
徐に一臣から発せられた言葉に、蒔乃は一瞬言っている意味がわからなかった。
「え…?」
「親父じゃなくて、俺にすればいいじゃん。」
「…何言ってんの。冗談止めてよ。」
蒔乃は無理矢理にでも笑ってみせる。
「第一、私のことをそんな風に見れないでしょ。考えてみてよ、キスとかさ。」
「できるよ。」
些か、むっとしたように一臣は言った。蒔乃の態度に腹が立ったらしい様子を見せる。無言で立ち上がり、蒔乃に逃げる時間を与えるようにゆっくりと近づく。一方で、蒔乃は縫い付けられたように微動だにすることができない。
一臣が膝をついて、蒔乃と視線の高さを合わせた。彼の影が降りて、蒔乃はようやく後退ろうと床に手をついた。
「逃げんな。」
蒔乃の手に、一臣は自身の手のひらを合わせて逃げ道を塞ぐ。一臣の瞳に映る蒔乃の顔が徐々に大きくなっていく。
こつん、と額と額が最初にくっつく。互いの睫毛が絡まり合うように重なり、鼻の先が触れる。くすぐるように呼気が混ざり合い、そして。
「…ごめん。泣かせる気は無かった。」
唇が触れあう前に、一臣は顔を上げた。蒔乃の瞳の淵からほろりと一粒の涙が零れていた。
「あ、れ…?」
涙の粒は玉のように膨れ上がり、頬を伝っていく。その熱い道筋に、蒔乃自身が困惑していた。両手で涙を掬い上げて、止めようとして必死になる。
「いーよ。無理しなくて。」
そう言って立ち上がり、一臣は蒔乃の頭を大きな手のひらでぐちゃぐちゃにするように撫でた。
「寝るわ。」
「え?あ…、お、お風呂は?」
明日入る、と言い置いて一臣は階段を上っていった。そのタイミングを見計らったように、朔司が脱衣所から頭をタオルで拭きながら出てきた。微妙な雰囲気の空気を感じ取ったのだろう、朔司はどうかしたのかと首を傾げる。
「何でもないよ。私もお風呂いただくね!」
蒔乃は手話も忘れて、手を横に振って自分の着替えを抱えて風呂場へと向かって駆けていった。
後ろ手に脱衣所の扉を閉めて一人になると、蒔乃は力が抜けたようにその場に座り込んだ。
さっき起こった出来事を思い出して熱くなる肌を冷やすように、両手で頬を覆う。
どうしよう。
小学生の頃、蒔乃は水瀬家に来た。それから数年。一臣とは姉弟のように育ってきたと思っていた。だが、そう思っていたのは蒔乃だけだったのだ。
…ーいつから一臣は自分のことをそんな目で見ていたのだろう。
そう思い、だが次の瞬間には、自分自身も同じなのだと言うことに気が付いた。
朔司にとって蒔乃は子どもなのだ。だけれども、蒔乃は朔司を恋心で好きになっていた。この想いは一臣のものと何ら変わりは無い。
いつから、だなんて関係ない。
ただ、一臣を傷つけてしまったことだけはわかった。
蒔乃の母親が、彼女を抱いて高所から飛び降りたのはおよそ13年前のことだった。
母親は配偶者の不倫をきっかけに、精神病を患った。ノイローゼのような状況が続き、小さなアパートで8歳の蒔乃と母親は狭い世界を築いていた。脆く崩れ去ったのは、冬の頃だった。
母親は蒔乃を連れて高層ビルの非常階段を上って行く。幼い蒔乃は大人しく手を引かれていた。上れるところまで上り、母親は蒔乃を抱き上げる。何度も何度も、額や頬に口付けをしてくれたことを蒔乃は覚えている。キスの雨が止んだ時、母親は蒔乃を抱いたまま非常階段の柵を乗り越えた。
落ちていく。落ちていく、重力に引き寄せられて地面に向かって真っ逆さまに。
母親は死に、蒔乃は一命を取り留めた。
だが、病院の検査で蒔乃の脳内の弊害がわかった。
落ちた衝撃により、脳を傷つけた蒔乃は無痛症なる症状を患った。
痛みが無いということは危険信号が無いということだ。蒔乃は死のうと思えば、痛みを感じずに死ぬことができてしまう体になった。以降、彼女は自傷するようになったのだ。髪の毛を抜いたり、爪で肌を引っ掻いたり、歯で腕の肌を噛み千切ろうとした。蒔乃の体がボロボロになっていくのを止めたのは、朔司だった。
あの時、彼から受け取った手帳の紙片は蒔乃の宝物になり、今でも大事にしている。
「…。」
目が覚めたということは、眠っていたということだ。
蒔乃は水瀬家の自室。ベッドの上で、重い瞼を持ち上げた。耳の裏が濡れている。どうやら、眠りながら泣いていたようだ。昨夜から随分と泣いている気がする。
遮光されないカーテンの向こうで、空気が蒼い。時刻はまだ早朝のようだ。
蒔乃は起き上がり、ゆっくりとベッドから素肌の足を下ろす。4月の朝はまだ少し、涼しい。
カーテンを引いて、窓サッシをカラカラカラと音を立て開ける。視線の先には、一筋の線のような海が見えた。じっと睨むように目を凝らして、ふと思い立つ。
今から、海を見に行こうか。
朝日が昇る海だなんて、鎌倉の立地にあるこの家にいてまだ見に行ったことが無いことに気が付く。
「よし。」
小さく決断の意思を声にして、蒔乃は手早く身支度を調えるだった。
蒔乃専用の赤い自転車にまたがって、ペダルを踏みしめる。坂をゆっくりと滑るように下っていった。
下った先に角を曲がれば、海岸線が広がる。長い信号を待ち、少ない車通りの道路を渡った。自転車に道沿いに止めて、蒔乃は海岸に続く階段を降りた。
鉄製の階段の最後の一段を蹴るように降り立つと、スニーカーの靴裏の感触が砂のふかふかとしたものに変わる。細かい砂はいつの間にか靴の中に入り、まとわりついて離れないから砂浜を歩くには素足の方が良さそうだ。
脱いだスニーカーを片手に持ち、蒔乃は朝日を待つ。その間、波打ち際で海水を蹴っていた。海の季節は二ヶ月遅れと聞いたことがある。なるほど、四月の海はまだ幾分か冷たい。
波が押し寄せるギリギリの地点に立っていると、海水が押し寄せる度に足の裏の砂を持って行かれてくすぐったかった。まるで、おいでおいでをされているようだ。
チリ、と目の奥に光の筋が差し、蒔乃は眩しさに目を細める。朝日が、昇ってきた。
朝日は金色の球体の欠片が輝くようで、徐々にその光量を増して大きくなっていく。周囲の空は美しい鴇色に隅の方に僅かばかりの夜の名残を滲ませて、とろりと溶けるカクテルのようだと思った。
「眩しー…。」
太陽の白い光を一身に浴びて、穏やかな温度を全身に感じた。手の指先がじんわりと温まっていくのがわかり、体の細胞の一つ一つが目覚めていく。
白んだ空に早起きの鳥たちが翼を広げて飛ぶ様を仰いでいると、不意に名前を呼ばれた。
「蒔乃!」
その声に振り向くと、そこには一臣が立っていた。
「おみ、くん…、」
「足!」
一臣が険しい形相で、蒔乃の元へと駆けてくる。
「足?」
「血が出てる!」
蒔乃が下を見ると、足を浸す海水に赤い血液が濁るように広がっていた。
蒔乃は足を砂利に紛れた鋭利に尖った貝の欠片で傷つけていた。
一臣が蒔乃を担ぎ上げると、彼女は慌てたように背中を叩く。
「私、歩けるから…!」
「傷口に砂が入る。」
有無を言わさずにそのままの格好で歩き、海岸沿線の防波堤に連れて行って座らせた。
「見せて。」
一臣は膝をついて、怪我を診るためにその足を取る。白くて細い足の裏に、鮮血が滴っていた。随分と肌を深く抉られたようだった。
「ちょっと待ってて。」
近場の飲み物の自動販売機でミネラルウォーターを購入して、気まずそうに座って待つ蒔乃の元へと戻る。一臣の気配に、蒔乃はぱっと顔を上げた。
「おみくん。あの、」
「付いた砂を落とすから。」
そう言って、ペットボトルの蓋を開けて水を傷口に流す。
「もったいないよ…。」
飲めるぐらい清らかな水を惜しげも無く使われることに、蒔乃は困惑の意思を示す。
「気にすんな。」
ペットボトル一本丸々を使い切って、それでも尚滲む血。一臣は自らが着ていたTシャツを脱いで、裂いて作った紐状の布を止血のために傷口に巻いた。
「ごめん、ハンカチ持ってなくて。着てきたばかりだから、汚れてないはず。」
「気にしないよ。でも、そのTシャツはおみくんのお気に入りだったんじゃない?」
確かに今。裂いて使ったTシャツは好きなアーティストのライイブで売られていた物だった。だけど、そんなこと一切気にならなかった。蒔乃の傷口を保護することで頭がいっぱいだった。
「別に。そうでもない。」
一臣が言うと、蒔乃は首を横に振った。
「嘘。…ごめんね、おみくん。」
蒔乃の声が震えていた。
「いいんだ。蒔乃の方が大事。」
今の言葉が本心だった。どんな宝物よりも、蒔乃が大事。蒔乃自身が一臣の宝物だ。
彼女が家を出たことに気が付いた一臣は、悪いと思いつつ後を追って出てきた。実のところ昨夜のことを気にして、蒔乃がどこかへ行ってしまうんじゃないかという思いに駆られたのだ。
何事もなく家に戻ってきてくれるならそれでいい。
そう思い、着けてきた先。蒔乃は海岸で、朝日の光を浴びていた。
なんて美しい光景なのだろう、と一臣の視線は釘付けになった。
凜と立ち、生まれたばかりの太陽を見つめる蒔乃。
黒い髪の毛先が光に透けてアンバーブラウンに輝き、なだらかに肩を覆う。瞳を縁取る睫毛から影が落ち、きらりと涙のように光る眼差し。バランスの良い横顔に鼻の先がつんと立ち、薄い唇が結ばれている。
そしてすらりと大地に伸びる足を見た瞬間、一臣の心が凍るようだった。その足の周囲が赤く染まっている。血だ、と思った瞬間に一臣は彼女の名前を呼んでいた。
蒔乃は自らの怪我に気が付いていなかった。これが無痛症の恐ろしさだ。
彼女には痛みが無いから、怪我を負っても気付けない。それがもし、致命傷だったらと思うと胸が張り裂けそうに辛かった。
蒔乃が好きで、好きで、自分に似合わず出会えたことを神に感謝するほどに大好きだった。
彼女の笑顔を初めて見たとき、守りたい。守らなきゃと勝手に使命感に燃えるぐらいに、恋していた。
恋。
恋。
恋。
そう、この感情は恋愛だ。自らのことを犠牲にしても、それでも蒔乃のことを守ると決めた。家族愛などと温かく、柔らかいものではない。もっと、もっと攻撃性を孕む想いだった。
ごめんね、を繰り返す蒔乃を一臣は抱きしめていた。
「もう謝らないで。」
「…でも…、」
「いいんだよ、蒔乃。」
自らの肩が熱く濡れる。蒔乃の涙だ。
慰めるように彼女の髪の毛を梳きながら撫でる。
「その代わり、聞いて。」
「…。」
「俺さ、蒔乃が好きだよ。蒔乃の好きな人が俺じゃないことは知ってる。」
ずっと見ていたから、と言葉を紡ぐと蒔乃の肩がピクリと震えた。
「でも、だからって諦められるほど、柔な気持ちでもない。」
「…おみくん?」
そっと蒔乃の肩を押す。目と目を合わせて、宣言したかった。
「親父を超える男になる。きっと、蒔乃の好意を俺に向けさせるから。」
蒔乃の丸くなった瞳に映る自分に誓う。
「今は好きじゃなくてもいい。でも絶対に、蒔乃から好きって言わせる。」
そこまで言うと、一臣は気が晴れたかのように空を仰いだ。その瞳は海面から登り切った太陽に光に照らされ、キラキラと光っていた。
「え、っと…、」
蒔乃はキャパシティオーバーで、金魚のように口を開閉する。
「帰ろ、蒔乃。自転車、俺が漕ぐから二人乗りしよーぜ。」
自分の自転車は置いていき、通学する際にまたここから乗っていけば良い。
一臣は蒔乃を歩かせないために、背中を貸す。
「ん。」
「え?い、いいよ。私、重いし。」
蒔乃の言葉に、知ってる、と返すと彼女は怒ったように一臣の背中を叩いた。
「もう!これでも乙女なんだぞ!!」
ははは、と声を出して笑う一臣の背中に、蒔乃はおずおずと乗る。
「…重いでしょ。」
「嘘だよ、ごめん。」
一臣は力強く立ち上がり、途端に蒔乃の視線が高くなった。そして止めた自転車まで歩む。
「陶芸科男子の力、舐めんなよ。蒔乃なんか軽い軽い。」
日頃から土の運搬にかり出されて筋肉は育っていたが、それにしても蒔乃を背負うのは簡単だった。このまま家まで帰れそうなぐらいだ。
「ありがと。」
蒔乃を自転車の荷台に座らせて、かごにスニーカーを放り込む。そして、一臣は自転車を漕ぎ出した。家までは上り坂もあるが、気合いを入れてペダルを踏みしめる。
「蒔乃、危ないからもっとくっつけよ!」
ぐんぐんと加速するスピードに、風音に負けぬように自然と大きな声を張る。
「うん!」
一臣の腹に蒔乃の手が回る。ぎゅっとしがみつかれて、安全を確認すると海岸沿線を走った。一日が始まる海面は透明なリボンを解いたような細波に覆われて、凪いでいた。
一臣から告白と宣言を受けたその日は一日、心がふわふわとして落ち着かなかった。
大学の授業の話は全く頭に入ってこないし、違う授業で使うノートを持って行ってしまった。食事も中々喉を通さず友人たちに心配され、大好きな絵画の実技の授業も身が入らない始末だ。一臣は気を使ってくれたのだろう、大学で彼を見かける度にうさぎのように隠れる蒔乃を、追おうとはしなかった。
その日の夜は星ノ尾のバーテンダーの手伝いのために訪れる約束を朔司としていたため、蒔乃は気合いを入れ直してようやく裏口から店内に入った。
「お疲れ様でーす。」
アルバイトの子たちに声をかけて、女子更衣室へと向かう。そこで着替えとメイクを済ませ、店のバーカウンターに立つのだった。
「…どうぞ。フォー・ギヴンです。」
ウイスキーのライとバーボンを会わせた、強めのカクテルを注文した客に出す。
「あら、蒔乃ちゃん。」
隣に座る老夫婦の奥さんが蒔乃に話しかける。
「はい、何でしょう。」
注文かと思い、蒔乃は愛想良く笑顔を向けた。だが、奥さんは蒔乃が思いも寄らなかったことを言う。
「何か良いことでもあった?」
「え?」
「頬がバラ色に輝いているわ。あとは、んー…。女の勘かしら。」
うふふ、と朗らかに微笑みながらいたずらっ子のように目を輝かせる。聞いたことのある年齢よりもいつも若く見える秘訣は、この好奇心と女心のおかげなのだろう。
「ご想像にお任せします。」
はにかみながら蒔乃が言うと奥さんは、あらら、と楽しそうに笑った。
「いいわね。そういうの大好き。」
「お前は本当に噂好きだな。」
旦那さんが苦笑しながら呟く。いつも無口な人だが、奥さんと話をするときに必ず優しげな声色になるから本当に彼女を愛しているのだろう。
「いいじゃない。悪い噂なら耳を塞ぐけれど、私、素敵な噂なら大歓迎なの。」
年を綺麗に重ね、なる夫婦ならこんな夫婦になりたいと思わせる関係性だと蒔乃は思った。
星ノ尾の扉にCloseの札が下がる、夜23時。
椅子をテーブルに上げてモップがけをする朔司が目の前を通り過ぎたとき、蒔乃の歯が肌に噛み付きたくて疼いていた。この悪癖を止められない自分が心底嫌になるものの、この衝動を抑えることができない。何度も朔司に視線を送ってしまい、とうとう朔司に気付かれてしまう。
柔らかく微笑まれながら首を傾げる朔司に、蒔乃は歩み寄ってその手のひらを取った。一字一字、焦らすように指で書く。
噛んでもいい?
朔司は頷いて、ワイシャツの首元のボタンを外した。服の布地に隠された朔司の肌は蒔乃が付けた歯形や内出血、いくつもの傷痕で青黒く変色している。それは彼が示した一つの愛の証だった。
蒔乃は朔司の首元に緩く腕を回して、抱きしめるように引き寄せる。中年の男性の体臭は何故こうもノスタルジックな香りがするのだろうか。甘くて、ほんの少し苦み走った、まるでチョコレートのような香りだ。
朔司は蒔乃が噛みやすいように首筋を晒して、僅かに横を向く。蒔乃がちらりと様子を覗うと、朔司の口元は淡く笑みを称えていた。蒔乃は自分を受け入れてくれる朔司を傷つけることを申し訳なく思い、ごめんなさいと心の中で謝りつつ彼の肌に口付けた。
唾液を溜めて、じゅっと吸うように甘噛みを繰り返す。カチカチと歯を鳴らし、滑った舌でざらついた朔司の肌を舐めて噛む場所を確認する。犬歯を添えて、そしてやっと歯を立てた。
他に誰もいない、二人ぼっちの星ノ尾の店内に二人分の呼吸の音が響く。健やかな寝息のような深い呼吸をする朔司とは相反して、荒々しく零す呼吸は蒔乃のものだ。
やがて朔司の肌に内側を抉るような痛みの他に、熱い何かが落ちる。それは蒔乃の涙の雫だった。涙は熱くて、サラサラとしていて、落ちて空気に触れた瞬間に冷えて肌を伝っていく。
ありふれた日常を送っていた中で、朔司と一臣の元へ玉森母娘の悲劇の一方が届いたのはクリスマスを目前にした日のことだった。電話に出ることの出来ない朔司に代わり、一臣がその電話を取ったことを覚えている。
保護者の朔司が耳が聞こえずに電話を受けた幼い一臣のことを慮ってか、警察が直接に水瀬家へ訪れてその事件の詳細を教えてくれた。
まるで目の前が真っ白になるようだった。どうやって一臣を連れて病院に行ったのかよく覚えていないが霊安室で自らの義妹、蒔乃の母。そして集中治療室で姪の蒔乃に出会った。
治療が進むうちに、ようやっと会話が出来るようになった蒔乃は自分を傷つけようと躍起になっていた。思わず、抱きしめていた。
蒔乃を引き取って、一臣と供に育てた。蒔乃が高校卒業をする年齢を迎えた頃。朔司はこの店、星ノ尾を開いた。
少しでも、彼ら二人が将来に何をしようとも帰るための居場所を残してあげたいと思ったのだ。
朔司の首に新たな痕を刻み、蒔乃は店のボックス席のソファに腰掛けてテレビを眺めていた。テレビに映るのは、白黒の古い外国の映画のDVDだった。外国の映画は耳が聞こ
えない朔司でも字幕で楽しむことが出来る娯楽だった。
字幕を目で追っているうちに、蒔乃の瞼はとろんと閉じてしまいそうだった。もう直にバイトを終えた一臣も星ノ尾に来て、皆で帰宅する予定だ。
それまで、それまで眠っていても良いだろうか。
蒔乃はうとうととした微睡みから、本格的な眠りへと落ちていった。
夢の中で蒔乃は母親の肩越しに空を見上げていた。23時57分。夜空にクラゲのような月が浮かんで、珊瑚の卵のような星々が散っていた。
「蒔乃…、」
母親は蒔乃の子ども体温が宿す頬をくすぐるように撫でる。「…ごめんね。」
気付かないふりをしていたが、蒔乃はまだあの日の母親の声色を覚えていた。
「親父、まだ店を閉めねえの。」
鈴の音を響かせながら、一臣が星ノ尾の扉を開けて入ってきた。朔司は蒔乃の寝顔を優しい表情で見守っていた。
「…。」
目を細め、蒔乃を起こさぬように息を潜め、彼女の肩には朔司のカーディガンが掛かっている。一臣の来訪に気が付かない朔司の肩を叩き、自らの存在を知らせる。朔司は、はっとしたように顔を上げた。
『おかえり、一臣。』
『ただいま。』
手話は朔司との大事なコミュケーション方法だ。幼い頃から操っているため、健常者と同様に意思疎通が出来る。
『蒔乃、寝ちゃったのか。』
『そうだね。掃除が長引いて、待たせすぎてしまった。』
ふーん、と頷きつつ、一臣はバーカウンターの椅子に腰掛けた。
『何か飲むかい?』
朔司がカウンターの中に立ち、湯沸かしをするポットに水を入れる。
『日本茶がいい。』
『スタッフに用意したティーバッグしかないけど?』
あるかどうかもわからずに注文したので、ティーバッグのお茶でも充分だった。その旨を伝えると、朔司は沸いたお湯をパックが入ったカップに注ぐ。そしてパッケージに書かれている抽出時間をきっかりと守り、一臣に提供してくれた。
『ありがとう。』
受け取ったカップのお茶を冷ますように息を吹きながら、ちびちびと飲む。一方で、朔司はカフェオレを飲んでいるようだった。
『夜、眠れなくなるんじゃない?』
『そうでもないよ。牛乳を多めにしたからね。』
そう言われてみると、確かにいつもよりコーヒーの色が薄いように感じた。毎朝飲んでいるカフェオレも相当牛乳の色が濃いから、それ以上となるとほとんどホットミルクだろう。
二人は、しばらく無言でお茶を飲む。微かに響くのは蒔乃の健やかな寝息だった。
『親父。』
一臣は、自らの首を差すようにして言う。
『見えてる。』
ああ、と頷いて、朔司は首筋に手を置いた。
そこにある歯形には血が滲んでていて痛々しいはずなのに、蒔乃がつけたものだと知っていると羨ましく思えるから不思議だった。
蒔乃は親父しか噛まない。二人の間にある絆に割って入ることが出来ない。
それが少し、恨めしい。
「ん。」
一臣はたまたま持っていた絆創膏を、朔司に手渡す。
『ありがとう。』
絆創膏を受け取った朔司は、ペリ、と紙を剥がして、傷痕に貼ろうとして失敗する。どうやら存外に首の傷痕に絆創膏を貼るのは難しいようだ。一臣は小さな溜息を吐いて、貸して、と言って自らが手当をすることを申し出た。
朔司が衣類を緩めて、首の傷痕を晒す。もう消毒は済ませてあるようだった。一臣は改めてその傷痕を見る。
蒔乃の小さな歯形がくっきりと朔司の肌に刻まれている。
絆創膏を貼り終えて、一臣はきゅっと唇を噛んだ。
肩を叩かれて、顔を上げると朔司が一臣を慈しむように見ていた。
『一臣。君は、蒔乃さんが好きなんだろう?』
「…。」
朔司の手話を読み取って、一臣は再び机に額をぶつける。そして様子を覗うように、朔司を見た。そして、頷く。
『好きだよ。』
手話の良いところは、声もなく会話が出来るところだ。眠る蒔乃を起こさずに済む。
『でも、どうすればいいかわかんねー。』
若者らしく恋愛に悩む一臣の姿に、朔司は笑みを零す。
『大事に、してあげなさい。』
『…親父が、母さんを愛してるように?』
『わかってるじゃないか。』
一臣の母親、朔司の妻のひよりは蒔乃を引き取る数ヶ月前に病気で亡くなった。急性の白血病で、発覚からおよそ一年の闘病の末のことだった。朔司たっての希望だった骨髄移植もドナーになることはできず、見つけることも出来なかった。
ひよりが亡くなった日。死に水を口移しで与える朔司の姿を、一臣は泣きながら見守った。喪失感と供に、彼ら夫婦の関係性が尊く感じた。
朔司の瞳から零れた涙はそのときに流れた、たった一滴。彼は立派に喪主を勤め上げ、一臣の良き見本になるべく父親としてその背中を見せた。
朔司は今も、亡きひよりを愛している。
『さて。ちゃんと寝ないと明日…、もう今日か。大学が辛くなるね。蒔乃さんを起こして、家に帰ろう。』
『俺が起こすよ。親父はコップの片付け、よろしく。』
分担を決め、二人は席を立った。
「蒔乃。蒔乃ー?そろそろ起きて。」
一臣は蒔乃の肩に触れて、そっと揺さぶってみる。蒔乃は、んー、と小さく声を漏らして、眉間に皺を寄せた。
「おーい。」
「…朔、司さん…?」
寝ぼけた甘ったるい声が、間違えた名前を呼ぶ。一臣は大きく溜息を吐くと、蒔乃の後頭部を軽く叩いた。
「起きろ、寝ぼすけめ!」
その衝撃に、きゃん、と子犬のような悲鳴を上げて蒔乃が目覚める。
「うわー…、何。びっくりした…。」
心底驚いたように、蒔乃は目を丸くしている。
「起きないから。憎たらしくて、つい。」
「だからって、女子を叩くなー。」
言いながら、蒔乃は一臣の横腹を小突いた。二人がじゃれるように応酬を繰り返していると、濡れた手をハンカチで拭きながら朔司が現れた。
『二人とも仲が良いね。さあ、帰ろう。』
『あ、待って。更衣室から、荷物取ってくるから!』
蒔乃はうさぎが跳ねるように席から立つと、バタバタと忙しなく音を立て女子更衣室のあるバックヤードに駆けていった。
『賑やかだな。』
一臣が苦笑する。
『元気で良いじゃないか。』
朔司は声を出して笑うのだった。
朝、朔司は必ず家の仏壇に手を合わせる。仏壇の中央には妻のひよりが朗らかな笑顔を浮かべる遺影があった。彼女との声なき対話をする朔司の姿は、とても静かで空気が穏やかに凪いでいた。
その姿を見る度に、蒔乃の胸はぎゅっと掴まれたように苦しくなった。
この空間は、まるで神の領域のようだ、と蒔乃は常々思っていった。カメラのように無粋なもので切り取るのではなく、身を削り、血の絵の具で描き、永遠に残しておきたくなる。
だからだろうか。
宗教画ではない。私の世界の神のような、あなたを描きたいと思った。
大学の絵画科の制作棟にて、蒔乃はスケッチブックに描きためたモチーフを選んでいた。次の講評会に間に合わせるためには、そろそろ着手し始めないといけない。
蒔乃は普段は風景画を描くことが多いが、そろそろ描きたい景色も尽きてきた。絵画科の先生から前の講評では「次は人物画も見てみたいですね」と言われている。
「…ん?」
スケッチブックのページとページの隙間から、はらりと一枚のデッサンが滑り落ちた。そこには以前、盗み見て描いた朔司の姿があった。それは特別な一面でも何でも無い、星ノ尾で給仕をする朔司の姿だった。
落ちた紙を拾い上げて、私の原点だなあ、と思う。幼い頃から絵を描くのが好きだった蒔乃はよく朔司をモデルになってもらっていた。といっても、家の台所に立つ後ろ姿や気持ちよさそうに猫とうたた寝する姿など、人知れず描いたものだった。
「…。」
懐かしい。あの頃はこんな苦しい気持ちを抱えていなかった。今、朔司のことを考える度に甘い愛しさと供に苦み走った切なさが募る。まるで彼が作るチョコレートのようだ。ふと小さな溜息を吐いていると、隣で作業する友人が顔を覗かせた。
「溜息を吐くと、しあわせが逃げますぞ。」
「みき。」
顔を上げると、みきが猫のような笑みを浮かべながら蒔乃を見ていた。
「何か、中々描きたいものが見つからなくて。」
苦笑する蒔乃の言葉をふむふむと頷きながら聞いて、みきは首を傾げた。
「いやあ、今の溜息は違う色に見えたがな。」
「と言うと?」
ふっふっふ、と不適に笑い、みきは人差し指を立てる。
「恋、じゃないかい?」
蒔乃はぎくりとしたが表情を繕う。が、みきはその一瞬を見逃さなかった。
「蒔乃ったら、いつの間に?まあ、でも今まで浮いた話の一つも無かったからめでたいかあ。」
「…みきの、その観察眼ってどこで養ってんのよ。」
観念して、蒔乃は自身の作業場にみきを呼び寄せる。みきは嬉しそうに、蒔乃の隣のパイプ椅子に腰掛けた。
「それで、それで?相手はうちの大学の人?私、見たことあるかな。」
わくわくとしたみきの表情に、本来ならば恋はこんなにも明るい話題だと言うことに気が付かされる。本来なら、蒔乃だって明るく楽しい恋をしたかった。
「…んーん。大学の人じゃないよ。みきは見たことないと思う。」
「そうなんだあ。どんな人?学部で言うと、どの人?」
まさか、年齢は教授並みとも言えず、蒔乃は曖昧に笑ってごまかす。
「年上の人…とだけ、お伝えしておきます。」
「えー。他にヒントなし?」
「なしでーす。」
くすくすと笑い合っていると、不意にみきが蒔乃の手元を覗いた。
「あれ。蒔乃が人を描くの、珍しいね。」
見たい、との要望を受けて、蒔乃は手にしていたデッサン画をみきに手渡した。
「たまにはね。」
「…。」
「みき?」
みきは無言で朔司を描いたデッサン画を見つめている。そして徐に、口を開いた。
「ね、蒔乃。この人が、蒔乃の好きな人?」
「え?」
心臓が大きく脈打った。
「な、なんで?」
「だってすごく優しい顔つきの人だから。蒔乃にはこういう風に見えてるんだなーって思って。」
「そう…、かな。」
言い淀む蒔乃を見て、みきはピンとひらめいたようだった。「当たりでしょ。蒔乃のバイト先って喫茶店って言ってたよね?この格好はさては、そこの先輩だな!?」
みきの恋愛の噂話に対する観察眼に、蒔乃は感服する。
「来るなよ!絶対に来るなよ!?」
「それフラグっしょ!」
腹を抱えて笑うみきに対し、蒔乃は冷や汗をかきつつ全力で釘を刺すのだった。
夕方の大学からの帰り道。蒔乃は海岸線を走るバスに揺られながら、海を眺めていた。
砂浜で高校生たちが、学生服のまま波打ち際で戯れている様子が見て取れた。まるで青春ドラマのワンシーンを見ているようだった。
今日は、星ノ尾の手伝いがない。アルバイトの学生に上手くシフトに入ってもらえたらしい。
小さな溜息を吐く。今日は、一臣と二人きりの夜だ。彼から告白をされた時から、妙な緊張感があった。
一臣がまさか自分に恋を煩わせていたなんて、思いもしなかった。蒔乃が8歳で水瀬家に来た頃、一臣は7歳。まるで姉弟のように育ち、一臣のことは弟のように思っていた。
「…弟、か。」
だが、それを言うなら朔司だって蒔乃のことを娘にしか思えないだろう。一臣の恋を見ていると、まるで自分のことを見ているようで辛かった。
「ん…?」
バスの前を走る自転車見える。それに跨がる後ろ姿を見て、蒔乃は一瞬息を止めた。その人物は、今、思いを馳せていた一臣本人だったからだ。
バスをやがて並走、そして一臣が漕ぐ自転車を抜き去った。その瞬間、風で前髪が煽られた一臣の顔がしっかりと見えた。
「蒔乃!」
一臣と車窓越しに目が合うと、彼は嬉しそうに片手を上げて大きく振った。その表情は蒔乃が知る一臣そのものだった。
何故か、涙が零れそうになった。
思えば一臣は、この恋にいつだって前向きだった。私のことを好きと言い、またあきらめない旨までも宣言した。それに比べて、私は自分の中で想いを昇華しようとしていた。…そうだ。私だって、この恋をあきらめたくない!
停留所に着くアナウンスがバス車内に流れる。家の最寄りとはいくつか手前だが、蒔乃は迷わずに降車ボタンを押す。そしてバスから降りると、自転車でバスを追ってくる一臣に向かって大きく手を振った。
「おみくーん!!」
蒔乃の存在に気が付いた一臣は、立ちこぎになって速度を上げて彼女の元へと駆けつけた。その肩は大きく上下して、呼吸を乱していた。
「蒔乃…、どうした?まだ家の最寄りじゃないだろ。」
「おみくんの、姿が見えたから。」
ふは、と一臣は笑う。
「それで、バス降りちゃったのか。」
「うん。久しぶりに一緒に帰ろう。」
閑静な住宅街を二人分の影が長く伸びていく。カラカラカラ、と一臣の自転車の音が空回るように響いていた。たまたま通りかかった家の前で、カレーの香りが鼻腔をくすぐった。元気の良い子どもたちの声も合わさって、きっと子どもの好物なのだろうな、などと想像力が働く。
「そういえばさ、初めて作った料理ってカレーだったよな。」
一臣も思うところがあったのだろう、カレーの話題を蒔乃に振ってきた。
「そうそう。食事係が回ってくると、二人ともカレーしか作れなかったから三日のうち二日っていう高確率で、カレーだったよね。」
「親父はよく文句を言わなかったなあ。」
一臣が苦笑しながら言う、親父、という言葉。そういえば、いつ頃から彼は朔司のことを親父と呼ぶようになったのだろう。幼い頃はたしか、お父さん呼びだったはず。
いつの間にか、男の子は青年に成長したと言うことか。
「…ね、おみくん。おみくんはさ、私が朔司さんのことが好きっていつ、気付いたの?」
「えー、いつだろ。うーん…。高校生ぐらいかな。」
今思えば、無遠慮だった問いも一臣はさらっと答えてくれた。
「そうかあ…。気持ち悪くなかった?その、自分のお父さんに惚れてる女なんて。」
「気持ち悪いわけ、ないだろ。」
蒔乃の自虐が含まれた問いには、一臣は厳しい顔をした。
「嬉しかったよ。自分の父親に惚れてくれるなんて。親父が誇らしかった。」
「…。」
「…ごめん。ちょっと、嘘。誇らしいけど、羨ましかった。」
一臣が立ち止まると、キイ、と自転車の車輪も軋んだ音を立てた。そして、蒔乃の瞳を覗き込む。
「俺は、蒔乃は好きだから。親父のことは…、少し憎い。」
「…おみくん、」
ごめんね、と言いかけて一臣は、蒔乃の唇に人さし指の腹を当てて止めた。
「謝るなよ。俺は、蒔乃のこと諦めてないんだから。」
蒔乃は一臣の人さし指をきゅっと握る。
「わ、私だって、諦めないから。」
意を決して、蒔乃は思いを言葉にする。言葉にして、発してしまえばもう後戻りは出来ない。
「朔司さんが好きな気持ち、無視は出来ない。無かったことには、出来ない。だから…、」
蒔乃の言葉を皆まで言わさずに、一臣は遮る。
「わかった。じゃあ、勝負だな。どっちが先に、両思いになるか。」
「…いいよ。受けて立つ!」
蒔乃は拳を作り、気合いを入れる。それは幼い頃に一臣にゲームを挑む時と変わらない仕草だった。蒔乃が気付いていない、無邪気な思い出が一臣は嬉しかった。
「よし。じゃあ、今からな。」
「うん!私、負けないから!」
一臣が告白する前の笑顔が戻った蒔乃の腹が、可愛らしい悲鳴を上げる。
「!」
途端に、頬を紅く染める蒔乃を見て、一臣は声を上げて笑った。
「戦をする前に腹ごしらえだな。今日の夕食は…、」
んー、と考える素振りを見せて、一臣は人さし指を立てる。蒔乃も、待って当てる、と言い、そして。
「「カレー。」」
同じ答えに、揃った声。合わさった笑い声を聞いていたのは、カクテルの夜空に浮かぶ一番星だった。
今夜は久しぶりに台所に二人で立ち、カレーを作ることにした。定番の食材の他に、豆腐やキノコ類など何でも入れてみようと盛り上がった。
「カレールウは偉大だよな。大抵の物は入れて、美味しい。」
一臣はざくざくと葉物野菜を包丁で切っていく。
「残ってもドリアとか、うどんとかにも使えるしねえ。万能だよね。」
切られた食材を、蒔乃が鍋で炒めていく。
長身の一臣が少し猫背になって、調理台に臨む姿が少し可愛らしい。
「やばい、肉類が何にも無い。」
冷蔵庫を開けた一臣が、まるでこの世の終わりかとも思えるぐらいに絶望しながら言う。
「いいじゃん。今日のところはベジタブルカレーで。」
「ええー…、成人男性としては少しでも良いから肉っ気が欲しい…。」
がっくりと肩を落とす一臣の背中を、蒔乃は叩いた。
「冷凍庫見てみ。冷食の唐揚げがあるはずだから、チンしてカレーに乗せれば良い。」
「お前…、天才か!?」
ちっちっち、と蒔乃は更に指を振る。
「更に、消費期限間近の卵があるであろう。それを半熟のゆで卵にしてトッピングするのだ!」
「…最っ高!!」
感動する一臣とハイタッチをして、蒔乃は炒めた鍋の具材に水を足した。煮た立つ間に、カレールウが溶けやすいように刻んで準備しておく。そしていよいよカレールウを入れて、煮込む。くつくつととろみが付いたカレーに泡が浮かび、室内はスパイシーな香りに包まれていった。
「なあ、蒔乃。」
「何ー?」
鼻歌交じりにサラダ用の野菜を手で千切る蒔乃に、一臣は問う。
「親父のどこが好きなん?」
「急だし、相変わらず直球だな!?」
思わず手を止めて一臣を見ると、その表情にふざけている感情はなかった。
「親父を超す男になるとは決めた訳だけど、実際に蒔乃がどういうところに惹かれたのか知っておきたい。」
「え、えー…。改めて聞かれると恥ずかしいな…。」
頬を赤くして、口ごもる蒔乃を見て一臣はぽんと手を叩く。「あ、じゃあ、俺も蒔乃の好きなところ教えるから。それで、平等じゃね?」
「よくもまあ、いけしゃあしゃあと。そこまで言うなら、数は用意してんだろーな?」
もちろん、と自信たっぷりに言う一臣を試すわけではないが、聞いてみたいと思った。
「俺からね。まずは、そうだな。絵を描いてるときの真剣な目が好き。何なら射貫かれたい。」
「視点が紙じゃん。私は…、朔司さんの優しい眼差しが好き。温かい目色も好き。」
目の色なら遺伝で俺もアリじゃない、と一臣は言う。
「おみくん、目つきが鋭いからねえ。」
一臣の眼差しは涼やかで、精悍なものだった。これは祖父の隔世遺伝だという。目の色は確かに朔司のものを受け継いでいるから、本当に血のつながりとは面白い。
「次。蒔乃の顔が好き。単純に好み。」
「大変光栄です。」
ありがとう、と言葉を紡ぎ、蒔乃も朔司に惹かれるところを述べる。
「朔司さんの柔らかい雰囲気が良い。安心感がある。」
「包容力かー。俺にはまだ無いヤツだ。」
なるほどね、と一臣は頷いた。
「あ、これは初めて言うかも。蒔乃が書く文字も好き。丸っこくて、可愛い。」
「私は子どもっぽくて、コンプレックスだけどな。」
それから、二人の好きな人の好きなところ合戦は延々と続いた。髪の毛の質、爪の色。声の高さ、手の体温に至るところまで好きが溢れていくようだった。
すっかり話し込んで、カレーが出来上がる頃にようやく一息ついたところだ。
そこで先ほどの蒔乃の提案通り、唐揚げ乗せ半熟ゆで卵のトッピングのカレーが食卓に上がった。
二人でカレーを食べながら、蒔乃は一臣が上げてくれた好意を忘れないようにと決めた。こんなちっぽけな人間でも、一臣は良いところを見つけてくれたのだ。単純に嬉しく、そしてその想いに負けないぐらいに自分の気持ちも再確認した。
食後にりんごを食べながら、テレビを見る。テレビではバラエティ番組が流れていた。芸人のボケやツッコミに笑い、CMで見た洗剤を今度使ってみたいなどと他愛も無い会話をした。
今までの緊張感が嘘のように感じなくなっていた。
「おみくん、お茶は?もう一杯飲む?」
「飲もうかな。」
蒔乃は頷いて、ポットから急須にお湯を入れる。日本茶が抽出するまで待ち、湯のみに少量ずつ注ぎ分けた。
「ありがと。」
蒔乃から自身の湯のみを受け取って、一臣は美味しそうに飲む。
「おみくんって、日本茶が好きだよね。」
「ん?そう?」
「そうだよ。気付いてなかったの?」
微笑みながら、蒔乃も自分で淹れたお茶を飲む。まだ少し、味は薄い気がした。
「うーん。母さんが日本茶、好きだったからかなあ。」
そう言って一臣が見た先の仏壇の遺影に、蒔乃も視線が行く。変わらず微笑むひよりがそこにいた。
「ねえ、おみくん。ひよりさんって、どんな人だったの?」
「母さん?」
一臣は腕を組み、考える。
「俺が知ってるのは、多分、親父が好きな母さんだよ。」
「いいの。知りたい。」
蒔乃のことを一臣が知りたがったように、朔司が愛したひよりのことを知りたいと思った。
「お願い、教えて。」
蒔乃は両手を合わせて、おねだりポーズをする。このポーズをすれば、大抵のことを一臣は受け入れてくれることを知っていての行動だった。
「…わかった。」
案の定、一臣は折れてぽつぽつとひよりのことを思い出しながら語ってくれた。
「一臣ー!!朝だよ、起きて!」
ひよりは誰よりも朝早く起き、家族を笑顔で起こすことが好きだ。彼女の声がけで目覚めた朔司が朝食を作っている間、ひよりが一臣の朝の身支度を手伝うのが習慣になっていた。
「幼稚園、行きたくない…。」
「あら、どうして?」
即座に心配するひよりに、一臣は寝ぼけ眼で言う。
「面倒くさい。」
一臣の理由に、ひよりは破顔した。
「あっはは!そうだろうね、教育現場って面倒だよね。」
「じゃあ休んでも良い?」
それはダメー、とひよりは手でバツ印を作る。
「行っておいで。面倒くさくても、行けば楽しいから!」
「えー。」
本気で休めるとは思っていない一臣だったが、一応不満の声を上げる。
「でもね、覚えておいて。」
ひよりは一臣の丸い頬を両手で包んでくれた。
「一臣が本当に、本っ当に行きたくなくなったら、幼稚園や学校は行かなくていいよ。」
「?」
なぞなぞのようなひよりの言葉に、一臣は首を傾げてみせる。
「意味がわからなければ、それが一番いいよ。さて、朔ちゃんが朝ごはんを作ってくれたから、食べに行くよ!」
手を繋いで、一臣の部屋を出る。階下からは、味噌汁の香りが漂ってきた。
「朔ちゃん、おはよう。」
ひよりが朔司の肩を叩き、振り向いた彼の頬にキスをする。苦笑する朔司もまた、ひよりの頬にキスをした。その様子を間近で見ていた一臣は、そろりと忍び足で逃げだそうとする。
「一臣!待ちな!!」
「うわっ!」
素早くひよりに捕まって、頬にキスをされた。
キスという行為が気恥ずかしい年齢の一臣は嫌がったが、ひよりは容赦がない。甲高い子どもらしい悲鳴を上げて逃げようとする一臣を毎朝追いかけてまで、ひよりはキスをするのだった。
「…行ってきます。」
ぶすっと頬を膨らませながら、一臣は幼稚園の門をくぐっていく。
「行ってらっしゃい!気をつけてね!」
いつも盛大な見送りを背中に受けながら、一臣は教室に向かうのだった。
「一臣くんのおかあさん、元気だねー。」
一緒の組に属する友人の言葉に、一臣は頷く。
「元気良すぎだよ。」
水瀬家の日常の朝だった。
その日は珍しく、朔司が幼稚園に迎えに来た。一臣を迎えた朔司の表情が硬く、不審に思ったことを幼心に覚えていた。
「…お父さん?」
一臣の呟きは朔司には届かず、唇をずっと噛みしめている様子だけ見て取れた。家に帰ると、ひよりが笑顔で迎えてくれたがその笑顔もどこか悲しそうだった。
「一臣、ちょっと話があるの。聞いてくれる?」
「なあに。」
手招きされて彼女の元へ行くと、一臣はひよりに抱きしめられた。ひよりの柔らかい胸が顔に押しつけられて息苦しかったけど、一臣はただならぬ気配を感じて我慢してその話を待った。
「泣いてるの?」
ひよりの胸の奥で、肺が震えているのが知れた。
「うん、ちょっとね。」
「どうしたの?」
しばらくの沈黙が流れ、隣に朔司も現れた。朔司はひよりの背中を撫で、言葉を促した。
「…お母さんね、血液の病気になっちゃった。」
幼い一臣に朔司とひよりは包み隠さず、その身に起こった病気についてわかりやすく教えてくれた。
病気の名前は、急性白血病。
その治療に伴い、ひよりは長期の入院をすることになった。「でも、帰ってくるんでしょ?」
「…。」
「お母さん?」
ひよりは一臣を更に強く、ぎゅっと抱きしめてくれた。
「帰ってくるよ。大丈夫。だから、いい子で待っていてね?」
朔司も一臣の頭を、そっと撫でてくれた。
「…うん。ねえ、お母さん。」
「何?」
「あのね、キスして良いよ。」
一臣の言葉に、ひよりは顔を上げた。そして、涙を拭いて笑ってくれた。そして、一臣の頬に長い口付けをした。
「一臣は、優しい子だね。誰に似たんだ?」
「お母さんと、お父さん。」
二人を交互に指差して答える一臣を見て、ひよりと朔司は笑うのだった。
ひよりの入院は長引き、抗がん剤治療により頭髪も抜けて容姿にも変化が起きた。それでもお気に入りの赤い毛糸の帽子を愛用し、ひよりは笑顔を絶やさなかった。
やがて無菌室に入ったひよりとの会話は、ガラスの窓越しに電話で行われることになった。
『一臣?ごめんね。もうすぐ、クリスマスなのに。』
病院の外は雪がチラチラと舞い、ホワイトクリスマスが囁かれる年だった。
「大丈夫だよ。お母さんの分のケーキは残しておくから。」
『うふふ…。全部、食べて良いんだよ。』
「ううん。今年もお父さんが、チョコレートケーキを作ってくれるって。しかもすっごい豪華なのだって。」
『そうかあ。それは楽しみだなあ。』
「だから、治療、頑張ってね。」
きゅっと電話の受話器を握る小さな手に、力がこもる。
『…うん。お母さん、頑張るよ。』
ちゅ、ちゅ、と受話器越しにひよりのキスの音が聞こえた。一臣は投げキスを返し、応えるのだった。
そして年が明け、ひよりは床に伏せることが多くなった。体力の低下から眠っている場面が多くなり、布団から覗く腕も木の枝のように細くなっていた。
「お父さん。幼稚園、行きたくない。」
新年最初の登園を一臣は嫌がった。
『どうしたんだい?』
朔司は一臣に目を合わせるために、膝をついてくれた。朔司の手話を呼んで、覚え立ての手話で自分の思いを伝える。
「お母さんと一緒にいたい。病院に行きたい。…ダメなら、いい。」
一臣の瞳には涙が溜まっていた。ずっと我慢していた想いが溢れ出た。
『いいよ。』
「!」
涙で滲んだ世界に、朔司の手話が踊る。
『一緒に、お母さんがいる病院に行こう。今日はお父さんも、仕事を休む。』
やがて春を迎えて、そして。
一臣が小学校に入学をした頃、ひよりは無言の帰宅を果たした。
「…母さんは、笑顔が多くて明るい女性だった。」
そう言って、一臣は話を締めくくる。蒔乃は言葉を噛みしめるように頷いて、その場はテレビから流れる芸人の笑い声だけが響いていた。
そして蒔乃は徐に立ち上がると、一臣の元へ来て彼を抱きしめた。
「…。」
「辛かったねえ、おみくん。」
蒔乃の心臓の音がとくとくと刻まれて、一臣の鼓膜に響く。
「…蒔乃は、少し…母さんと似てるよ。」
一臣は目を細めて、蒔乃の体温を感じ入る。胸が柔らかくて、服の布越しの肌が温かくて、ミルクのような甘い香りがした。同じ洗剤で服を洗っているのに何故、こうもちがう香りがするのだろうと思う。そして気付く。
これが、蒔乃自身の香りなのだ、と。
蒔乃に抱きしめられて、ひよりの香りは日向のようだったなと不意に思い出した。懐かしい。
「だったら、嬉しいな。」
幼子にするように、蒔乃は一臣の髪の毛を撫でる。その優しく甘やかな手つきは、うっとりするほど心地よかった。「蒔乃。」
「なあに?おみくん。」
「俺、もっと蒔乃が好きになるよ。」
蒔乃の笑い声が彼女の体内に響く。頭を抱かれた状態の一臣の耳にゼロ距離で聞こえた。
「これは好意ではなくて、厚意だからなあ。残念でしたー。」
「どっちでも良いよ。…いや、出来れば好意が良いけどさ。」
くすくすと笑い合い、蒔乃はようやく一臣を解放した。名残惜しくて、手を伸ばしそうになるが拳を作って我慢する。「ね、蒔乃。キスしてもいい?」
懇願するように、一臣は下から蒔乃の瞳を見上げる。彼女の目色に戸惑いの色が滲んだ。
「だ、だめだよ。」
「頬に。唇は、想いが通じるまで待つから。」
話の流れで、頬へのキスは親愛の証だということを知っていた蒔乃は少し困ったように、でも微笑んで答えをくれる。「…頬だけだよ?」
「うん。」
蒔乃は首を傾げるように頬を一臣に向けた。一臣が蒔乃の頬に片手を添えると、肩がピクリと震えるのが可愛らしい。滑らかな肌をくすぐるように撫でると蒔乃が、まだ?とばかりに、そっと瞼を持ち上げて一臣を見た。
「ごめん。」
くく、と鳩のように笑い、蒔乃の頬に唇を押しつけた。温かく、桃のようにさらりとした細かい産毛が唇を優しく撫でる。愛おしく一際強く唇を当てて、そして離れた。
「ありがとう。」
少年のようににっと笑うその顔に、蒔乃は幼い頃の一臣を見た気がした。
深夜24時を迎えるよりも前に一臣と蒔乃は、星ノ尾まで朔司を迎えに行くことにした。
空に浮かぶ月は水底から見る太陽のようで、まるで町が深海に沈んだようだった。蒔乃は白い光に対比するように濃い黒の影だけを踏んで、進んでいく。
「子どもの頃、こういう遊びしなかった?影以外は溶岩なの。」
「したね。白線以外は絶壁の崖とか。」
そうそう、と蒔乃は頷きながら、まるでステップを踏むように歩く。一臣は微笑ましく、その様子を見守っていた。
「…。」
ぴたりと立ち止まった蒔乃が、難しい表情をする。と言うのも、見晴らしの良い横断歩道に来たからだと納得した。
ふと笑い、一臣は蒔乃よりも一歩先に歩み出て彼女を手招きする。
「蒔乃。」
一臣自身の影に入るように言うと、蒔乃は悔しそうに顔をゆがめた。
「情けは不要なのだ…!」
「いいじゃん。ラッキーアイテム的な。」
「…。」
蒔乃は腕を組み、悩む。年上のくせに、まるで妹のようだと一臣は思った。かわいい。
10秒ほどの考えの後、蒔乃は意を決したかのように足を踏み出して一臣の影に入った。
「お、お邪魔します。」
「はい、どうぞ。」
無事に横断歩道を渡りきり再び蒔乃の挑戦が始まるまで、二人は寄り添うように歩いた。
星ノ尾に着く前に、店を閉めた朔司と合流した。
「あ、朔司さーん!」
あんなにも真剣だった影踏みを止めて、蒔乃はぱっと翻るように駆けていく。朔司は蒔乃が大きく手を振る影に気付いて、顔を上げた。
『蒔乃さん。一臣も迎えに来てくれたのか。』
朔司の手話が影絵のように地面に刻まれる。
『ありがとう。』
まるで尾を振る小型犬のような歓迎ぶりに、朔司は笑って、蒔乃の頭にぽんっと手を置いた。
『帰ろう。』
「うん。おみくんも、行こう!」
二人の影をじっと見ていた一臣も、その影に加わる。蒔乃を真ん中に、三人並んで歩いて行く。
その日、皆が寝静まった頃。
一人、蒔乃は自分の部屋でデッサンをしていた。月を背に逆光を浴びる朔司の笑顔が忘れられなかった。彼の顔を思い出して、スケッチブックにその笑顔が刻まれていく。
自らの頭に置かれた手のひらの温かさが尊く、手足の指先が痺れるぐらいに嬉しかった。
隣の一臣の部屋の扉が開く音がした。どうしたのかなと思い耳を澄ませていると、どうやら手洗いに起きたらしい。
トイレの水が流れる音と、再び階段を上ってくる足音が聞こえてくる。その足音は蒔乃の部屋の前で止まった。
「…蒔乃?まだ起きてんの?」
扉の下から漏れる光に気が付いたのだろう、一臣が話しかけてきた。一瞬、どきりとしながら蒔乃は答える。
「うん。絵を描いてた。もう、寝るね。」
「ふーん。おやすみ。」
おやすみ、と蒔乃が言葉を返すと一臣は自分の部屋に戻っていった。
「…。」
まだ心臓が大きくどきどきと脈打っていた。一臣に好意を向けられて、それでも応えることが出来ないのが申し訳なかった。だが、だからといって諦められる想いを、蒔乃だって抱いていない。
時計を見ると、午前2時を回っていた。そろそろベッドに入らないと、明日の大学の座学が辛くなる。もう少し描いていたい気持ちを抑えて、蒔乃はスケッチブックを閉じた。
朔司はたった一人、電車に乗っていた。少しの眠気を感じつつ、耳が聞こえないために目的の駅で起きる自信が無いので我慢した。
しばらく電車に揺られ、駅の名前をホームに入る電車の速度で読み、目的の駅に降りる。桜があの日と同じく咲き誇り、まるで泣いてるかのようにその花びらを散らせていた。今日は、ひよりの命日だ。大学で勉強する水瀬家の子どもたちに秘密で、朔司は墓参りに訪れた。
駅前の花屋で花束を買い求める。花屋の主人が売れ残りの花びらが大きく開いたチューリップを一本おまけしてくれた。春の花々は色彩豊かで、冬を越した嬉しさを全身で表しているようで好きだ。頭を下げて店を出て温かい陽光に包まれながら、ゆっくりと商店街を歩いて行く。昼下がりの客足が穏やかな時間帯だった。店の軒先のプランターに植えられた花々が鈴が鳴るように揺れていた。
商店街を抜けてお地蔵様の角を曲がり、短い橋を渡る。左右の畑では元気よく菜の花の葉が空に手を伸ばしていた。もう直に、清々しい黄色の可憐な花が満開を迎えるはずだ。途中のお寺の境内で持参した水筒から麦茶を飲んだ。体内にこもった熱が冷めていくのがわかる。溶けかけたチョコレートを一つ口に放り込んで、朔司は再び歩き始めた。
緑が目に鮮やかな木々のトンネルを抜けて、長い坂を上る。上りきった先には今日の目的地。水瀬家の墓も含まれる墓地に着いた。
墓と墓の狭間を縫うように進み、朔司は水瀬と刻まれた墓石の前に立つ。朔司は一人、手慣れたように手入れを始めた。草をむしり、落ち葉を取り除き、墓石をタオルで拭う。墓の掃除が好きだ。真っ新な気持ちで故人と向き合える気がするから。
途中で購入した花を供え終えて、朔司は膝に付いた砂埃を払う。空を仰げばソフトクリームのような雲が山の向こう、覆うように浮かんでいる。
ひよりが死んだのも今日のような天気の日だった。
魂の無いひよりの体は、形容しがたい冷たさになっていた。死に水を与えるために彼女の唇に最後のキスをしたとき死の味がしたことを、今もよく覚えている。
愛しい、ひより。
たった一人の息子を残して逝くのは、さぞや無念だったろう。君が宝物を残してくれたことを、僕は誇らしく思う。
そして、墓にはもう一人の母親が眠っている。それは蒔乃の母親。朔司の義理の妹だ。玉森の名字を捨てきることが出来なかったが、朔司が頭を下げて水瀬家の墓に入るのを許して貰った経緯がある。
六花の舞う頃に亡くなった彼女もまた、娘を残して逝くのが辛かった愛情深い女性だったのだろう。その強い思いの弊害が、蒔乃の無痛症なのだが。
浸っていた感傷から醒めるように、朔司首を横に振った。線香を焚き、手を合わせる。
どうか、二人とも。安らかな世界にいてほしい。
君たちが残した子どもたちは、僕が責任を持って育てる。
低く唸るような音と供に、濁った空を分断するような飛行機雲が一本描かれ始めた。
「雨降りそうだなあ。」
大学の制作スペースの窓から空を見た蒔乃の呟きは、予言となって当たった。
ぽつぽつと小さな粒だった雨は、やがて一直線になり地面を叩き始める。植物は恵みを受けて喜び、温まった地面からはむっとした蒸気にも似た香りが満ちた。
夕方の絵画科の教室の扉前で、うろうろしている一臣を見つけた蒔乃は首を傾げながら声をかけた。他学科の教室に入るのを躊躇していたのだろう。一臣はほっとしたように、蒔乃を迎え入れた。
「蒔乃。傘、忘れてったろ。」
そう言われて、折りたたみ傘を一臣から押しつけられる。「うわ、ありがとう!おみくんは?」
「俺も自分の傘持ってるし、今日はバイト入ってるから。」
一臣は時間を気にするように防水機能が付いた腕時計を見た。わざわざ絵画科に寄ってくれたことに感謝する。
「じゃあ、帰り遅いんだ。」
「うん。夕飯、親父と先に食べてて。…っと、そろそろ出ないと遅刻する。行くわ。」
一臣はリュックを背負い直す。彼は大学近くの食堂でバイトをしていた。
「わかった。店長に、この間の揚げ物美味しかったって伝えて。」
時々、一臣が余ったおかずを貰ってきては、水瀬家の食卓に出していた。
「了解。じゃ!」
駆けていく一臣の背中を見送って、手を振る。姿が見えなくなって、蒔乃自身も帰り支度を始めるのだった。
バスを最寄りの停留所で下車し、雨が降る住宅街をたった一人歩いて行く。近道をしようと住宅街にぽつんとある神社の参道を通ろうとして、境内に佇む人物に気が付いた。
「! 朔司さん。」
そこにいたのは、雨に濡れて困ったように空を見上げている朔司だった。どうやら外出中に雨に降られて、足止めを食らったようだ。
蒔乃の鮮やかな青い折りたたみ傘に視線が移り、朔司は驚いたように目を見開いた。そしてその刹那、ふっと柔らかく微笑む。
『蒔乃さん。今、帰りかい?』
蒔乃は頷き、朔司の元へと歩み寄った。
「傘。入って、一緒に帰ろうよ。」
『ありがとう。』
狭い傘に二人、雨の舞台に立つように歩き始めた。
身長差で傘は朔司が持ってくれていた。肩と肩が触れあう。そこだけが熱を持つようだった。
「…。」
心臓が柔らかく破裂しそうに脈打っているのがわかる。冷たいはずの雨が熱くて、肌が爛れるんじゃないかと錯覚しそうになった。
自覚する赤くなった頬を見られたくなくて、蒔乃はずっと俯いていた。手が塞がった朔司とは会話ができない。今はそれがありがたい。
不意に朔司に、とんと肩を叩かれる。はっとして顔を上げると、朔司が笑みを浮かべながら首を傾げて見せた。彼の真意を探ってみると、叩かれた蒔乃の肩が濡れていた。朔司は、濡れるからもっと寄りなさい、と言っているのが理解できた。
頷いて、ほんの少し朔司に近づく。傘が蒔乃の方に大きく傾けられ、もうほとんど濡れない。
「…朔司さんが濡れちゃうよ。」
今、自分だけが扱える手話で伝える。朔司は緩く首を横に振った。いいんだよ、と言われている気がした。
朔司の手話がなくても、目と目が合うだけで伝えたいことがわかる。ただ、それだけで。涙が出るくらいに嬉しい。
その涙を誤魔化すために、手に集中して貰おうと手話で会話をする。
「今日、おみくんはバイトだって。夕食、何にしようか?」
蒔乃の問いに朔司は考え込み、そして足を家とは違う場所に向けた。それは星ノ尾に向かう道だった。
「星ノ尾に行くの?」
朔司は頷く。今日は星ノ尾の定休日だ。
ふと、朔司は空を見上げた。蒔乃も釣られてみると雲が僅かに晴れて、雨が上がっていた。朔司は折りたたみ傘を畳んで、水気を飛ばす。そして自由になった両手で言うのだ。『今日は、星ノ尾で夕食を食べよう。お客さんから貰った美味しい紅茶があるんだよ。』
今夜はお客さんの来ない星ノ尾で、二人だけのディナーとなった。朔司は腕を振るって、オムライスを作ってくれた。ラインナップが幼い気もしたが、朔司の作るオムライスは蒔乃の好物だったので文句はない。
食後の紅茶は朔司が美味しいということもあり、太鼓判つきの味だった。フルーツのような芳醇な香りが満ちて、渋みのない風味が舌を楽しませた。
「ちょっとお手洗いに行ってくるね。」
そう言って蒔乃は少しの間、席を立つ。戻ってきたとき、席に朔司がいなかった。代わりに、ザクザク、と小気味良く何かを刻む音が残されている。蒔乃はその音の出所を探した。間接照明だけが灯った薄暗い店内のバーカウンターで朔司が何やら、作業をしていた。辺りに漂うチョコレートの香りに、彼がチョコ菓子を作っていることを知った。
チョコレートを刻み、ラム酒と蜂蜜が加わった生クリームを温めるとまるで赤ちゃんのような甘い香りが店内に広がる。
蒔乃がバーカウンターへ歩み寄ると、その気配を感じ取った朔司が視線を持ち上げた。
「何を作っているの?」
ひらひらと手話で問うと朔司はふわっと笑み、作業を一時中断して答えてくれる。
『蜂蜜入りのトリュフだよ。』
「わ。それ、大好き。」
蒔乃との手話を終えると、再び朔司はチョコレートを混ぜ合わせ始めた。蒔乃は無言で朔司の手元を見つめていた。
チョコレートはまるで薔薇の花びらのビロードのように滑らかに仕上がっていく。混ぜ終えたものをバットに淹れて冷蔵庫で一時間。蒔乃は待ち時間にノンアルコールのカクテルを作り、二人で乾杯することにした。
『これは?』
朔司が首を傾げて、蒔乃に問う。
「バタービール。温かいうちに飲んで。」
一口、口に含むとバタースコッチの香りが鼻に抜けて、じんわりと体を内側から温めていく。猫舌気味の朔司は舐めるようにちびちびと飲んだ。俯く彼の首元に、蒔乃が付けた噛み痕が微かに窺えた。
ことん、と小さな音を立て、カップを置く。蒔乃はそっと朔司の首筋に触れるか触れないかギリギリのところで空気を撫でた。朔司は困ったように笑い、首を傾げる。
「…痛かったでしょ。」
朔司は蒔乃の呟きを聞き取ることが出来なかったが、彼女の涙が微かに滲む目色で感情を悟る。
『大丈夫だよ。』
蒔乃の手を取って何度も、何度も、そうやって肌に文字を刻んだ。
一時間後、冷蔵庫で冷やしたチョコレートを丸めてココアパウダーにまぶす。
出来上がった蜂蜜入りのトリュフは蒔乃の涙を含み、ほんの少し塩味が増した気がした。
トリュフを口に含むと蜂蜜の少し生臭いような甘い香りと味、ラム酒の渋味、そしてチョコレートのこってりとした食感が絶妙なハーモニーとなりするりと解けていく。
「んー…。美味しい。」
蒔乃は口元をほころばせて、トリュフを味わった。その様子を朔司は微笑ましく、または眩しいものを見るように目を細めて見守っていた。その柔らかな視線に気が付いた蒔乃は恥ずかしくなって、俯いてしまう。
「…私、ドキドキしすぎて、いつか朔司さんに殺される気がする。」
その温かな目色に。優しい感情に。愛しい手に。
俯いてしまえば蒔乃の口元は見られることもなく、耳の聞こえない朔司には伝わらない。卑怯だが、どうしても知られたくない言葉を口にするときに利用してしまう。
聡い朔司はきっと気付いている。だけど、それを指摘されたことは一度もない。ただ、俯く蒔乃の頭を緩やかに撫でるのだ。今日もまた、髪の毛を梳くように優しく、子猫を撫でるように愛しそうに。
そしてやっと視線を上げた蒔乃を見て、朔司は手話で囁くのだ。
『君になら、傷つけられてもいいよ。』
彼の口癖だった。蒔乃は以前、どうして自分の欲しい言葉がわかるのか、と聞いたことがある。すると決まって朔司はこう言うのだ。いたずらっ子のように肩をすくめて、笑みを浮かべながら『さあね。』と。
「蒔乃、今度の絵は人物画にするんだ。」
大学での昼下がり、絵画科の制作棟に向かいながらみきとの会話に花が咲く。
「うん。この間のデッサンを元に、今、構想を練ってるところ。」
「ああ、蒔乃の好きな人ね!」
無邪気なみきの声の大きさに、蒔乃は慌てて周囲を覗う。自意識過剰だとしても、誰もこちらに注目していなかったことにほっとする。
「みき。それ、内緒だよ?トップシークレットだからね!?」
「わーってるっって!」
あはは、と声を出して笑いつつ、みきの意識が違うところに行ったのがわかった。
「来るなよ!バイト先に、来るなよ!!」
「なんでわかったの!?」
みきが蒔乃のバイト先を思い描いていたのが手に取るようにわかり、牽制する。
「わかるよ…。みき、すぐに表情に出るんだから。」
「ええ、そう?」
蒔乃の指摘に、みきは自分の頬を両手で包んだ。彼女の天真爛漫で隠し事のない性格はとても好感が持てた。
「あ、ねえ、彫刻科で使う木が届いたんだね。この景色、圧巻だよねー。」
コロコロと話題が変わるみきが言うとおり、通りすがりに彫刻科の学生たちが木材を運んでいた。冬が過ぎ、手に入りにくかった木が伐採されたのだろう。春先に、屈強な男子学生たちが自らの手で運んでいく様子は伝統になっていた。それは学生たちの意思で行われ、女子学生はさっさと軽トラックで運んでしまう。
「おーい、運ぶぞー。」
一際大きな木材が二人組の男子学生に担がれていく最中、一陣の風が吹いた。風に煽られ、木材が揺れる。
「え?」
「、みき…、」
興味津々に眺めていたみきの頭上に影が曇った。
陶芸科の制作棟でろくろの土に集中して向かっていた一臣の耳に、静正の緊張した声が響いた。
「一臣!!」
恐らく走ってきたのだろう、静正は肩で息をしている。いつもひょうひょうとした雰囲気の彼が珍しいと思った。
「どうした?」
手に付いた土を洗面器の水で落としながら、一臣は尋ねる。「玉森先輩が、」
一瞬で周囲の音が失せ、一臣の目の前が暗くなった。
ー…玉森先輩が共同制作棟の前で怪我をした。
ー…倒れた木材が直撃したらしい。
ー…見てた人の話だと、一緒にいた友人を庇ったって。
「…蒔、乃…。」
気が付けば一臣は駆け出していた。せっかく形成した土の器がろくろから落ちて潰れても、洗面器が大きく揺れて泥の入った水が零れても、気にしている余裕は無かった。
最悪の状況を考えてしまう。
蒔乃の肌に傷痕が刻まれたら。後遺症が残ったら。…死んでしまったら。
嫌だ!
外に出て、共同制作棟に向かう。人だかりが出来ていて、すぐに現場が知れた。
「蒔乃!」
遠巻きの人をかき分けて中央に躍り出て、そこにいた蒔乃を見て一臣は息を呑んだ。
蒔乃が庇ったという友人が大声を上げて泣いている。どうやら彼女には怪我はないようだった。
「あ、おみくん。」
蒔乃は額を切って血を流しながら、笑っていた。
異様な光景だった。
赤い鮮血が顔の滑らかな曲線を伝い、顎から滴り落ちているのに当の本人は柔らかな笑顔を浮かべている。
周囲の人間は蒔乃の様子に息を呑み、無言のまま見守っていた。彼らもどうすれいいかわからず、混乱しているようだった。
「みき。大丈夫?」
友人の肩に触れようとした刹那、友人は怯えたように蒔乃を見た。
「だ、大丈夫じゃないのは、蒔乃、だよ。」
「私は、」
「蒔乃。」
一臣は二人の間に割って入る。そして、蒔乃の額に腰に下げていたタオルを押し当て、彼女を抱き上げた。
「医務室に行こう。血が出てる。」
まるでモーセが海を割ったかのように、人々が二人を避けて道を空ける。
「おみくん、私、歩けるよ?」
「まだわからない。もしかしたら、傷ついているかも知れない。」
一臣は今まで、蒔乃の無痛症を甘く見ていたことに気が付いた。彼女は自分が怪我をしてもわからないのだ。それが些細な傷としても、致命傷だとしても。
医務室だけでの診察ではままならないため、校医は救急車を呼んでくれた。付き添ったのは一臣だった。
蒔乃の額の傷は、四針を縫うものだった。他に、右手首を捻っており、後から随分と腫れるだろうと医師から言われた。骨が折れていないのが幸いだった。
蒔乃と一臣はタクシーで帰宅し、自宅に帰った。蒔乃は安静を命じられ、自分の部屋のベッドで横になった。
「おお…。スマホがすごいことになってる。」
蒔乃が慣れない左手だけのスワイプでスマートホンの画面をなぞると、メッセージアプリに友人たちから心配の声が寄せられていた。
「そういや、さっきからピコンピコン鳴ってたな。」
「…でも、みきからは何もないや。」
寂しそうに呟く蒔乃を見て、一臣はベッドのふちに腰掛けた。僅かにキシリと軋む音が響く。
「…。」
「おみくん?」
一臣の肩が震えていた。
「どうして、泣いているの?」
彼の頬に涙が伝っていた。その涙を拭うことなく、一臣は静かに泣いていた。
「…蒔乃が…、」
「うん。」
ああ、やはり私の所為なのだと蒔乃は思う。
「蒔乃が、死んじゃうんじゃないかって…思った。」
「!」
ほたほたと涙を零す一臣が吐露した気持ちに、蒔乃は息を呑んだ。
「病院についても、不安で…怖くて。このまま蒔乃が治療室から出てこなかったらどうしよう、と…。」
長身の一臣の背中が、小さく見えた。蒔乃はそっと起き上がり、彼を背後から抱いた。
「ごめんねえ、おみくん。」
ぎゅっと腕に力を込める。一臣のはっきりとした鎖骨が感じられた。
「蒔乃はさ、痛くないから大丈夫、だと思ってる節があるだろ…?」
「…うん。そうだね。」
一臣の指摘に、蒔乃は素直に頷く。確かに、誰かが傷つくぐらいなら自分が、と思うところはあった。
だって、痛くはないのだから。
みきが無事で、本当に良かった。
人として欠けている私でも、大切な人を守る事が出来たと嬉しくすらあった。
でも、
「蒔乃が痛くなくても、守られた方はすごく痛いんだよ。」
「…傷ついて、いないのに…?」
「体はね。俺が行ってるのは、心の話。」
一臣の言葉に、不意に気が付いた。今、みきは心を痛めていることに。いつもだったらいの一番に連絡をくれそうなものなのに、みきは沈黙を守っている。みきは心が痛くて、身動きが取れないのだ。
蒔乃は自分の浅はかな思いに、自己嫌悪した。
「蒔乃。」
一臣が、ズ、と鼻を啜る。
「痛くないから身代わりになるような真似は、もうしないと約束して。」
「うん。わかった。」
約束だよ、と一臣が念を押す。
「約束ね。」
二人が小指を絡めていると、玄関の扉が開く音がして次にバタバタと駆けるように階段を上ってくる音が響いた。何事かと思っていると、いつもならされるノックもなく部屋の扉が開かれた。そこには、肩で息をして髪の毛を乱した朔司が立っていた。
「親父。」
「朔司さん。」
二人の子どもたちの顔を見比べて、朔司は力が抜けたように膝をついた。一臣は立ち上がって、朔司に手を貸す。
「大丈夫か、親父。」
一臣に支えられながら立ち上がり、朔司は覚束ないように手話を操った。
『蒔乃さんが、大怪我をしたと聞いて…。』
一臣が連絡してくれたのかと思い、彼を見るといいやと首を横に振る。では、一体誰が?
『みきさんと言うお嬢さんが星ノ尾に来て、教えてくれたんだ。』
蒔乃は目を丸くする。
「みきが?」
朔司は頷く。
『ああ。彼女、泣いていたよ。』
「…。」
「…みきさんって人にも、ちゃんと話さないとな。」
一臣はそう言って、蒔乃の頭を撫でてくれた。
三日の安静の末、蒔乃は大学に復帰した。右手首の腫れも幾分か引いた。
「あ、蒔乃ー。もう出てきて平気なの?」
友人たちが蒔乃の姿を見つけ、駆け寄ってくる。
「うん。ご心配、おかけしましたー。」
「本当だよ!」
華やかな笑い声の中に、みきの姿は無かった。
「…ね、みき、知らない?」
蒔乃の問いに友人たちは首を傾げるが、その中の一人が手を挙げて答えてくれる。
「みき?絵画の制作場所で見たけどな。」
「教えてくれて、ありがと。ちょっと行ってみるね。」
「塞ぎ込んでるみたいだから、蒔乃の元気な姿を見たら元気になるよ。きっと。」
友人たちと手を振って別れ、蒔乃は一人、絵画科の制作棟へ向かうのだった。
絵画科ですれ違う学生たちと挨拶を交わして、みきの個人の制作場所へと歩む。画材や額縁が積まれた角を曲がった瞬間に見たみきを見て、蒔乃は足を止めた。
みきは真っ新なままのキャンバスに向かって、座り込んでいた。彼女は作業が早く、いつもなら下塗りは終えていそうなところだ。だけど、今は手つかずのようで、その後ろ姿が何故か寂しそうだった。
「…みき…。」
呟きのような蒔乃の声に、みきは反応した。
「!…、蒔乃。」
ぱっと弾かれたように、みきは蒔乃を見る。だが、いつもの笑顔はなく、すぐに俯いてしまう。両手の指をもじもじと絡ませ、何かを喋りたそうに口を開きかけては閉じてしまう。
「あの…、蒔乃。あのね、」
「みき、ごめんね。怖い思い、させちゃったよね。」
蒔乃の静かな声に、みきはようやく顔を上げた。
「ううん…。傷、は…大丈夫なの?」
「うん。平気だよ。…見る?」
絵の具や筆をどかして、蒔乃はみきの隣に座った。
「見たい。」
「いいよ。」
みきの震える手が、蒔乃の額に掛かる前髪をそっと払う。そこにはまだ白いガーゼがテープで貼られている。
「あ、まだ抜糸はしてなくて。」
「そっか…。痕、残っちゃうのかな…。」
みきの声色に涙が滲む。
「場所がここなら、前髪で隠れちゃうよ。」
残らないよ、などと根拠のないことは言えず、正直に話した。正直ついでに、自分のことも話さなければと思った。
「みき。私ね、痛みを感じないの。」
「痛みを?」
みきはどういうことだろうと首を傾げる。
「例えば…そうだね。私の手に、爪を立ててみて?」
「ええ?」
半信半疑といった風に、みきは子猫のようにカリリと蒔乃の手の甲に爪を立てる。
「もっと強く。」
「いや、でも。」
戸惑うみきに、蒔乃は言う。
「血が出ても痛くないの。つまりは、そういうこと。」
「痛みって、痛み?痛覚のことなの?」
蒔乃は頷く。
「脳の障害でね。痛覚の電気信号が途切れてる。」
「そう…、なんだ。」
みきはショックを受けたようだった。でも、今後も彼女と向き合っていくために、知っておいて欲しいと思った。
「だから、かな。痛くないからって、自分だけが傷つけば良いって思った。傲慢だったね。」
そんなことない、とみきは首を横に振る。
「傲慢じゃないよ。蒔乃、それは優しいって言うんだよ。」
「…ありがとう。」
みきが蒔乃の手を取る。
「蒔乃。私の方こそ、守ってくれてありがとう。傷つけて、ごめんね。」
みきの手は少しひんやりとして、しっとりとしていた。
まるで妹のような友人。
「みき、大好きだよ。あなたが無事で、本当に良かった。」
「私も、蒔乃が大好き。」
えへへ、とみきは照れくさそうに笑う。ようやく見ることが出来た彼女の笑顔が、嬉しかった。
「あ、そうだ。蒔乃に謝らなければならないことが。」
「ん?何?」
蒔乃は首を傾げる。
「蒔乃のバイト先、行っちゃった。」
小さく舌を出すみきをみて、蒔乃はあっと声を上げた。
「…見た?会ったよね?」
「見ました、会いました。蒔乃の好きな人。」
あちゃー、と蒔乃は手を額に当てて天を仰ぐ。星ノ尾で働く男性は、朔司ただ一人だ。
「ご、ごめん。せめて、蒔乃のお見舞いに行ってくれないかなーってお願いしようと思って。」
「いや、いいよ…。大丈夫。今回は、私が悪かったから。」
みきの可愛らしい理由に怒ることも出来ず、ただただ、彼女の反応が気になった。
「あの…えっと…、朔司さんのことは…。」
「え?あ、大丈夫!誰にも言わないから!!」
手を横に振って、みきは応える。そして、蒔乃の耳元で囁くのだった。
「年の差あるけど、頑張ってね?」
そういえば、みきと恋の話をするのは初めてな気がした。「蒔乃が年上が好きとは知らなかったなあ。」
蒔乃のスケッチブックを開きながら、みきは言う。
「年上だから好きになったわけじゃないけどね。」
「父親ぐらい年齢、上だよね?どこで出会ったの?」
確かに気になるところだろう。みきに嘘を吐きたくなくて、蒔乃は正直に告げることを選ぶ。
「…私の叔父なの。」
え、と声を上げるみきに、蒔乃は慌てて補足をする。
「叔父と言っても、血のつながりは無いんだ。」
「…複雑なのねえ。」
頬杖をつきながら、みきは感心したように呟く。朔司との関係を受け入れられ、蒔乃は内心でほっとする。
「じゃあさ、じゃあさ。」
みきが身を乗り出した。
「どういうところが好きになったの。」
「えー…と。優しいところ、とか。」
ふむふむ、と頷くみきは更に突っ込んでくる。
「優しい、って色々あると思うんだけど、例えば?」
「…朔司さんは私のほしい、言葉をくれる。」
「失礼でごめんだけど、その朔司さんって人、耳が…?」
そうだね、と蒔乃は頷き、朔司を想って目を細めた。
「朔司さんは耳が聞こえないから、その分だけ人の気持ちに敏感なんだ。手話や、筆談で言葉を伝えてくれる。」
彼の温かな気持ちに触れる度、自分の心が浄化されていく気がする。海のように深い愛情を以て、心が辿り着く先はまるで湖の底のように静かだった。温かく柔らかな泥に包まれて着地し、そのまま上下左右のない世界を漂うような居心地の良さ。
「そうかあ…。好きなんだねえ。」
蒔乃の表情でその感情を読み取り、みきは溜息を吐くように呟く。
「うん。大好きなの。」
あなたを想うだけで心が安らぐほどに。
「私の話はまあ、置いといてさ。みきは?いないの?好きな人。」
「え。」
みきの視線が泳ぐ。その仕草にピンときた蒔乃はぐいぐいと詰め寄った。
「まさか私だけ好きな人の公表させる気ですか?吐いてしまえよ、みきくん。」
「えーと、えーと。その…、」
水瀬くん…とみきの声が段々小さくなりつつも、聞き取れた名前に蒔乃は目を丸くした。
「え?おみくん?」
みきは顔を真っ赤に染めて、小さく頷いた。
「そう…。水瀬、一臣くん。」
まさか一臣の名前が挙がるとは思わず、蒔乃は絶句した。「そう、なんだ。やるなあー、おみくん。」
「何となく言いづらくて。ごめんね?」
みきは両手を合わせる。
「何も謝ることは無いよ。え、どこに惚れたの?」
「水瀬くんは覚えていないと思うけど…。」
それは去年の初夏のことだったという。
その日、みきは自分の身長ほどもあるキャンバスを抱えて歩いていた。学生の身分で自分用の車を持っているわけでもなく、バスに乗ることも出来なかった。
そこでみきは足元を気にすることも出来ず、何かにつまずいて転んでしまった。膝を擦り剥いて、意気消沈し、みきは道端で座り込んでしまった。
そのときだった。背後から自転車で走ってきた男の子がみきを見て、止まってくれたのだという。それが、一臣だった。
『どうしたんですか。』
声をかけて、みきの事情を聞くと、一臣は自転車の後ろに乗れと言ってくれた。
『え…、でもキャンバスが…。』
『そこの大木の影に隠しておけば、後で俺が取りに来てあげます。』
そう言うと、一臣はみきからキャンバスを受け取って道端の大木の影に隠し、自分が着ていたパーカーを上に掛けた。『これで、俺がキャンバスを取りに来る理由にもなります。』
みきは彼の厚意に甘えて、自転車の後ろに座った。一臣が漕ぐ自転車から見る景色が、とてつもなく綺麗に見えたと言う。
「何かさ、いつも見てる景色なんだけどさ、キラキラ輝いてて青春アニメを見てるみたいだった。」
そう話すみきの瞳は輝いていた。
一臣はみきを絵画科に制作棟前に自転車から下ろすと、すぐに道を引き返した。自転車に乗せることも出来ず、一臣はキャンバスを担ぎ歩いて持ってきてくれたらしい。
「もうね、心臓が打ち抜かれたんじゃ無いかってぐらいの衝撃だった。胸が締め付けられるぐらい、嬉しかった。」
「白馬の王子さまじゃなくて、王子さまは自転車に乗って来たのね。」
一臣らしいと誇りに思いつつ、仄かな罪悪感が蒔乃の心にしこりとなって残った。
大学の帰り道、部活やサークルに入っていない蒔乃は大学前のバスに乗り込んでいた。今日は、バーテンダーの手伝いに星ノ尾に向かう予定だ。
車窓から流れる景色にもうすぐ5月の桜は、葉桜になり青々としている。木々に寄り添うようなトタン屋根の掲示板には町内会の会報や、地元の小学生が描いた交通安全のポスターが貼られていた。
もうすぐ初夏の割に花冷えのような涼しい今日の気候に、半袖の蒔乃は自分の二の腕をさすってみる。ポロシャツから覗く腕は粟立ち、若い桃の産毛のような柔らかさが手のひらに伝わった。カーディガンを羽織ってくれば良かったと思う。
「みきが…、おみくんをね…。」
妹のような友人の恋敵が、まさか自分だなんて。
誰にも相談が出来なくて、蒔乃は溜息を吐いた。悶々とする懊悩を抱えながら、バスを降りる。
住宅街を歩いて行けば、星ノ尾が見えた。丁度、朔司がカフェタイムの札をバーの札に変えるところだった。蒔乃は立ち止まって、朔司の物腰柔らかな所作を見つめた。その視線に気付かず、朔司は店内に入っていってしまう。
「…。」
もう一度小さく溜息を吐いて、蒔乃は頬をぱちんと叩いて払拭した。これからは仕事の時間だ。気持ちをきちんと切り替えなくてはいけない。
更衣室で着替えとメイクを施して、蒔乃はバーカウンターに立った。ぽつん、ぽつんと、でも途切れなく訪れる客の対応をする。
何杯目かのカクテルを作り、提供すると客の一人が蒔乃に声をかけた。
「綺麗なお嬢さんもどうだい、一杯。奢るよ。」
それは新規の客で、朔司と同じぐらいの年齢。もしくは少し上ぐらいの男性だった。
「ありがとうございます。ですが、仕事中ですので。」
お礼と供にやんわりと断るが、男性客はそれでもと粘る。
「いいじゃないか。少しぐい。それとも、自分では飲めない酒を作っているのか?」
「そのようなことは…、」
蒔乃は笑みを浮かべつつ困っていると、男性客の隣に朔司が腰掛けた。そして、手にしていた手帳に文字を書き込む。『店長ですが、何か?』
その文字を読み、男性客がつまらなそうに言う。
「なんでもないよ。放っておいてくれ。」
早口で読み取れなかったのだろう、朔司は苦笑している。
「…何、へらへら笑ってんだ。気色悪い。お前、耳が聞こえないのか。」
「お客様。」
朔司への侮辱に蒔乃の怒りの感情が一気に沸点に達する。
「失礼ですが、」
お帰りください、と続く蒔乃の言葉が朔司によって遮られた。片手で蒔乃を諌めつつ、朔司は更に文字を紙に書き込む。
『申し訳ありません、お客様。何か不手際があったのなら、謝ります。』
「朔司さん…っ。」
朔司は蒔乃に向き合い、手話を使う。
『蒔乃さん。お客様に、一杯無料でお出しして。』
「…はい。」
蒔乃は渋々ながら男性客が先ほどまで好んで飲んでいたカクテルを作り、提供した。
「どうぞ。店長からです。こちらのお代は頂きません。」
その言葉に機嫌を直した男性客は、今度は朔司に絡む。
「あんた、なかなか話がわかるじゃないか。そうだ、このバーテンダーの代わりに一緒に飲もう。」
仕事中に加わり、朔司は下戸だ。無理に飲ませたくない。
「あの…、お客様、」
困り果てた蒔乃に、朔司は首を傾げてみせる。蒔乃は手話で男性客の要求を伝えると、朔司はややあと頷いて見せた。『いいですよ。じゃあ、一杯だけ。』
紙に書いて伝えると、男性客は満足げに頷いた。
「ははは、じゃあ、うんと強い酒を頼むよ。せっかくの一杯だ。」
「…。」
蒔乃は黙って頷いて、シェーカーに材料を入れて振った。それはノンアルコールのものだった。
「どうぞ。」
だが朔司が手に取る前に、そのグラスを横取って男性客が飲んでしまう。
「!」
「随分と甘い酒だな。ウイスキーをそのまま店長さんにやってくれ。こんなのは女が好む酒だ。」
さすがに瓶にそのまま入っている酒を誤魔化すことは出来ない。蒔乃はのろのろと手を動かしながら、どうしようかと逡巡する。言われるままに用意したウイスキーの入ったグラスが出来上がってしまう。
こうなったら、私が飲むか?…そうしよう。
「あの、」
自分が飲むと宣言する前に、朔司がグラスを手に取った。そしてそのまま、男性客と蒔乃が見る前でウイスキーを飲み干した。
「!」
「お、あんた、イケる口かい?」
ひゅっと息を呑む蒔乃と相反し、男性客は声を出して陽気に笑う。朔司も微笑んでみせるが、それは無理をしていることが蒔乃にはわかった。
「おっと、もうこんな時間か。嬢と同伴を約束しているんだった。お勘定、頼むよ。」
「かしこまりました。」
蒔乃はほっとしつつ、レジ前へと男性客を案内した。
「ごちそうさん。また来るよ。」
二度と来るな、と内心で毒づいて男性客を見送る。その後ろ姿が見えなくなって、蒔乃は塩をまくのだった。
全ての客が帰るまで気が気でなかったが、朔司は平常心で接客をしているので蒔乃は何も出来なかった。そしてようやく、閉店の時間となって最後の客を見送った。
ちりん、と鈴の音が響き、扉が閉まると蒔乃は振り返って朔司の元へと急ぎ、駆け寄った。
「朔司さん…!」
『…。』
朔司は張っていた気が緩んだかのように、バーカウンターに顔を伏せた。
「大丈夫?お水、飲んで。」
蒔乃は水をコップに汲むと、朔司の前に出す。のろのろとした動作でコップを手に取り、飲もうとするがその手が僅かに震えていた。やっとの思いで水を飲み、朔司は小さな溜息を吐いた。
「ごめんね、朔司さん。」
蒔乃は朔司の手を取って、人さし指で肌に文字を刻む。
「私がもっと上手にあしらうことが出来てたら、朔司さんに無理をさせずに済んだのに。」
彼の肌は熱く、火が灯っているようだった。朔司は蒔乃の手を握る。そして、にこ、と笑った。蒔乃の手を離すと、ゆるゆると手話で言う。
『君を守るのが、僕の役目だから。』
そう言うや否や、朔司は再びカウンターに突っ伏してしまう。少しすると、微かな寝息が聞こえてきた。どうやら限界が来て、寝落ちしてしまったらしい。
蒔乃は朔司を起こさないように、冷え性の客用に用意している膝掛けを彼の肩にかけた。
朔司は唸るような声を喉から出しつつ、横を向く。あまり見たことの無い寝顔を晒され、蒔乃は申し訳ないと思いながらじっと見つめてしまう。
穏やかに年齢を重ねた証のように睫毛に二本、白髪が交じっている。口元には笑い皺が刻まれて、頬はアルコールの所為か上気していた。
「…。」
蒔乃は朔司の柔らかい猫っ毛のような白髪交じりの髪の毛を掬うように、耳元にかけてやる。その微かな刺激に一瞬、眉間に皺を寄せるがすぐに元に戻った。
…愛しい人の寝息って、いつまででも聞いていられる。
朔司の寝息に合わせて呼吸をすると深く肺に新鮮な酸素が満ちて、濁った二酸化炭素が全て排出されるようだった。「好きだなあ…。」
朔司には決して届かない、自分自身の声。卑怯だと思いながらも、呟かずにはいられなかった。
「朔司さーん?」
彼はもちろん、深い眠りの淵にいて目覚めない。
「…好きですよ。」
その瞬間。本当に偶然だが、一瞬、朔司は何かを思い出したかのように笑った。
カタン、と蒔乃が腰掛けていた椅子が動く音が響く。間接照明に照らし出された二人の影が重なった。
ちゅ、と音を立て、蒔乃は朔司の唇から顔を上げた。初めてのキスだった。
「…ーっ。」
蒔乃の瞳から涙が零れた。
相手の意識が無い時でないと自分は思いを伝えることも、ましてやキスすることも出来ない。だって、きっと蒔乃のこの想いは、朔司にとって迷惑でしかないだろうから。
朔司が、死んだ。
あの日、あの時、あの瞬間のことを私は忘れたくとも、忘れないだろう。否、忘れるもんか。
「朔司さーん。そろそろ帰ろう?」
酔って眠る朔司を起こさぬように、店の後片付けを終えて蒔乃はようやく声をかける。彼の肩を優しく叩くと、冬眠から開けたばかりのクマのように朔司が目覚めた。頭を緩く左右に振って、眠気を覚ましているようだった。
蒔乃はもう一度、彼に水を与える。朔司は心底美味そうにその水を飲んだ。
そして立ち上がり、二人で星ノ尾を出た。蒔乃が扉に鍵をかけて、先に店先に佇む朔司と合流するのだった。
今日はバイトの後、友人の家に泊まると一臣から連絡があった。久しぶりの二人だけの夜だ。
朔司は空を仰ぐ。彼のいつもの癖だ。蒔乃も立ち止まって、空を見た。深夜の住宅街はとても静かで、月が猫のように笑っている。
「…月が綺麗だねえ。」
ぽとんと呟き、蒔乃はその意味にはっとして気が付いた。蒔乃が覗うように彼を見ると、その視線に気が付いた朔司が優しい目色を滲ませながら蒔乃を見た。次の瞬間に、朔司の目が見開かれる。
「え、」
車のライトが二人を照らす。ブレーキをかけた形跡は無かったように覚えている。
車が。
車が、二人に向かって、
「!?」
不意に蒔乃は突き飛ばされる。その瞬間に、鈍く大きな音が響き、クラクションが耳障りに鳴り続けた。周囲の家々の窓に何事かと光が灯る。
「さ、朔、司さ…ん…。」
蒔乃は混乱で思考が真っ白になりつつ、朔司を探した。朔司は車と電信柱の間に挟まれるように倒れていた。
朔司の腹の上に車の前輪が乗り、打ち付けた頭部から血が流れている。
「朔司、さ、」
蒔乃は腰が抜けたように立てなかった。だが、朔司の元へと行きたかった蒔乃は腕を使って這うようにして、彼の元へと近づいた。
段々と家から出てきた人で、周囲が怒号のようなもので溢れた。
「急いで、救急車を呼べ」
「人が巻き込まれている」
「ガソリンが漏れてるぞ」
困惑や焦燥の騒ぎの中、蒔乃は朔司の手を握った。その刺激に、朔司はそっと重そうに瞼を持ち上げる。朔司は蒔乃の無事を確認すると、安心したように微笑んだ。
「もうすぐ、もうすぐ救急車が、来るから…っ。」
だから、大丈夫、とその言葉は朔司ではなく、蒔乃自身に宛てたものだったのかもしれない。
「お姉さん、ガソリンが危ないから離れなさい。」
近所の住人の一人が蒔乃を、車から離そうと肩に触れた。蒔乃は大きく首を横に振って拒否する。
「嫌だ、朔司さん!朔司さん!!」
蒔乃の手を握る力がきゅっと強くなり、はっと朔司を見た。彼は相変わらず笑みを浮かべながら、そして、蒔乃の手を離した。朔司は蒔乃の手のひらを広げて、人さし指で文字を書いた。
『いきなさい。』
肌に刻まれた文字を読み取って、蒔乃は朔司を見る。その力が抜けた瞬間に、周囲の人間により蒔乃は朔司から引き離された。
「朔司さ…、」
救急車のサイレンが大きくなり、現場に近づいてくることがわかった。
「風呂、サンキュー。」
一人暮らしをする静正のアパートに一臣はいた。
「おーう。なあ、一臣のスマホめっちゃ鳴ってんだけど。」
静正がテーブルの上に置かれた一臣のスマートホンを指差した。一臣は首を傾げながら、スマートホンを手に取った。
「? なんだろ。」
首を傾げながら画面をタップしてみると、そこには市民病院と蒔乃からの着信が入っていた。不安がインクのように落ちて心に滲んでいく。
「悪い、ちょっと電話。」
「ごゆっくりー。」
一臣はアパートのベランダに出て、蒔乃のスマートホンに電話をかけた。一回の着信音で蒔乃が出る。
『おみくん…っ。』
「蒔乃?どうした?」
一臣はスパンッと弾くようにベランダのサッシを開ける。
「…っくりしたー。何、どしたん?」
読んでいた雑誌を落として、驚いた静正が一臣に尋ねる。
「市民病院に行く。」
「え?今から?」
時計を見ると、午前1時を過ぎたところだった。
「親父が事故にあった。」
強張った声に静正にも緊張感が走る。
「た、タクシー呼ぶわ。」
「いや、自転車の方が早い。」
そう言って今すぐにでもアパートを出ようとする一臣を、静正は止めた。
「待て待て待てって!今、お前、混乱してるから危ない!一臣自身も事故るぞ!!」
「…っ。」
「…ごめん。」
自らの言葉選びを謝罪する静正に、一臣も謝る。
「こっちこそごめん。静正の言うとおりだ。タクシー、呼んでもいいか?」
「おうよ!」
住所を間違えずに言える静正がタクシーを呼んでくれている間、一臣は深呼吸を繰り返した。思い出すのは、蒔乃の涙に滲んだ声色だった。
静正が住むアパートから、市民病院までは車でおよそ20分。その車内、一臣はかたかたと貧乏揺すりをしていた。
『朔司さんが事故で、意識不明になってる。』
蒔乃の声が震えていた。
今、朔司は治療を受けている最中で、生死をさまよっていると言っていた。
『どうしよう、おみくん…! 私を庇った所為だ。』
生きていてくれ、と心から願う。それは朔司のためはもちろん、蒔乃のためでもあった。このまま朔司が死ねば、蒔乃は一生自分を責めて生きる。
やがて到着した病院のロータリーで、タクシーの運賃を払って降りる。蒔乃から事前に得た情報で病院内の居場所を知り、夜間の受付をすっ飛ばして走った。よほどの急ぎに見えたのだろう、警備員のおじさんが早く行けと許してくれた。そうして処置室の前へと走ってきた一臣は、蒔乃の姿を探した。
廊下にはどこにもいない。
一臣は丁度、夜間の見回りに来た看護師を捕まえて問う。
「すみません、水瀬と言います。親父が事故にあったと、聞いたのですが。」
一臣の言葉に、表情を引き締めた看護師が自らの胸ポケットにある携帯電話で医師たちに連絡を取ってくれた。
「こちらです。」
看護師は一臣を集中治療室まで急ぎ、案内をする。その間、言いづらそうに朔司の容態を口にした。
「お父様は…、」
朔司と蒔乃は集中治療室の奥の個室にいた。
「…蒔乃?」
一臣はそっと蒔乃に声をかける。蒔乃は病院のパイプ椅子に座っていた。ゆっくりとした動作で、一臣を見る表情に感情が無かった。
「親父。」
白いベッドで眠る朔司の元へと、一臣は歩み寄った。穏やかな表情をしていた。その胸は上下していない。
「…親父?」
一臣はそっと朔司の頬に触れてみる。まだ温かい。
「ご家族は揃いましたか?」
一臣と供に部屋に入ってきた医師が二人に尋ねる。一臣が代表して頷くと、医師は朔司へと向かい合った。そして瞳孔や心音、呼吸の確認をして一臣と蒔乃に告げる。
「…午前1時57分、ご臨終です。」
きっと家族全員が揃うまで、死亡確認を待っていてくれたのだろう。医師の言葉を聞いて、蒔乃の目から涙が零れた。拭うことも無く流れる涙は、場違いにも美しいと一臣は思った。
朔司を事故に巻き込んだ車の運転手は、持病の発作を起こして意識不明に陥ったのだと後に警察から聞いた。
アクセルを踏み込んだまま、ブレーキを踏むこと無く朔司と蒔乃に突っ込んだらしい。運転手はその発作で帰らぬ人となり、一臣は憎む相手すら失った。
事故死だったために警察を介さなければならず、朔司の遺体を死因の特定のために解剖に回される際、泣き叫ぶ蒔乃を引き離すのが大変だった。
そうしてやっと帰ってきた朔司の体は綺麗に清められてはいたものの、痛々しい傷痕が残っていた。顔は綺麗なままだったのが、救いだった。
葬式はこじんまりとしたものだった。参列した者たちは誰しも、朔司の死を悼んだ。たくさんの涙が零れる式だった。
出棺の際、喪主を務めた一臣は集まった近所の人や朔司の知人たちの前に立つ。蒔乃は遺影を抱いてた。
「この度は故、水瀬朔司の見送りにお越し頂き、ありがとうございました…ー、」
一臣が毅然とした態度で挨拶を語りだしたとき、陽が差しながらも小雨が降り出した。それは柔らかく温かい、金色の雨だった。きらきらと光の粒子のように輝き、頭上に降り注ぐ。天を仰げば、光の筋が幾重にも降りていた。まるで、優しい朔司が残された二人の子どもたちに手を差し伸べているかのようだった。
やがて長いサイレンが鳴り響き、朔司を乗せた霊柩車が水瀬家を後にする。
到着した火葬場はとても静かな山奥にあった。緑の森林が、初夏の太陽に向かって真っ直ぐに手を伸ばしている。
遺体を荼毘に付する準備が整い、火葬する前の最後の部屋に一臣と蒔乃は立った。
「それでは、最後のお別れとなります。お顔をご覧になって差し上げてください。」
火葬場の係の人に促されて一臣と蒔乃は頷いて、棺桶の小窓から朔司の顔を覗いた。
「…。」
「…またな、親父。」
最後のお別れを終えて朔司は、大きな火葬をする窯に吸い込まれていった。
待合室に戻る最中のことだった。大きな男性の泣き声が聞こえてきた。蒔乃が何気なく声がした方を見ると家族らしい人たち数人と供に、男性が白い棺桶にすがりつくようにして泣いていた。遺影の主には、優しく微笑む可愛らしい女性の姿があった。きっと親しい人、もしくは愛しい人だったのだろう。この火葬場ではいくつもの悲しみがこだまして響いているのだ。蒔乃は小さく手を合わせると、その場を後にした。
「火葬が終わったら、係の者が呼びに参ります。それまでこちらの部屋でお待ちください。」
「よろしくお願いします。」
一臣と蒔乃が頭を下げると、用意された待合室に二人取り残されることになった。座って待つことも、お茶を飲むことも考えられず一臣はふと思い立って、蒔乃を誘って外に出てみることにした。
外に出て窯の裏側に回り込んで、二人、空を仰いだ。真っ青な空に白く細い煙が一本、真っ直ぐに上がっていった。
ー…いきなさい。
朔司の最期の言葉。
手のひらに、火傷の痕のように残っている。いっそ、本当に痛みを伴って肌に刻まれれば良いのに。
「…。」
蒔乃がそっと瞼を持ち上げたとき、視界が歪んでいた。耳の裏が濡れて、髪の毛が水分を吸って重い。どうやら夢を見ながら、泣いていたようだ。泣きながら目覚めると、頭の奥が重く感じて不快だった。
「朔司さん。」
愛しい人の名前が唇に灯る。だが、その灯りはすぐに消えてしまうからすぐに見失ってしまうのだ。
いきなさい。
一体、どこへ行けと言うのだろう。安全な場所?朔司さんのいないどこか?全人類からあなた一人欠けた世界に、何の意味があるのだろうか。
朔司さん。車輪に巻き込まれて、痛かっただろうな。死ぬ瞬間は苦しかったのかな。
自分が感じることが出来ない痛みを想像して、蒔乃の心が濁っていく。せめて、痛みを分かち合うことが出来たらならどんなによかっただろうか。
蒔乃は徐に上半身を起こしてみる。ベッドから足を出して、床に着地した。スマートホンの時計を見ると、夜明け前の一番くらい時間帯。早朝だった。
遮光カーテンの隙間から一筋の青白い空気が漏れている。それは火葬場で見た、朔司を天に送る煙によく似ていた。眠る気にもなれず、蒔乃はベッドから抜け出してみた。
勉強机の本棚にたくさん収納してあるスケッチブックを一冊、取り出す。表紙を開き、紙を捲るとそこには生前の朔司の姿が描かれていた。彼のことが好きで、好きで、描きためたものだ。もう、枚数を更新されることは無い。
朔司をスケッチした紙を一枚、破って口に含む。鉛筆の芯の鉄苦さと、紙の粗い繊維質が柔い口の粘膜を刺激する。決して美味しいものでは無い紙を奥歯で擦るように噛み、唾液を含ませて飲み込む。
これで彼の一部を少しでも、私の中に取り込むことが出来れば良いのだけれど。
A4のスケッチブックの紙を一枚食べ終えて、少し気持ちが落ち着いた。ふ、と溜息を零して、蒔乃は唇の淵についた唾液を拭った。
水色のキャミソール越しに腹が僅かに膨れているのがわかる。自身の腹に手を添えて、なんて、愛おしいのだろうと思った。
カーディガンを羽織って、蒔乃は自室を出た。隣の一臣の部屋からは何の音もしない。まだ起床には随分と早いから、眠っているのだろう。
一臣を起こさぬように足音を潜めて、階段を下る。どうしても軋んでしまうのは仕方が無い。
リビングの隣の仏間に行く。仏壇には笑顔のひよりと朔司が並ぶように、遺影が置かれていた。
「…いいな。」
仲睦まじい夫婦の一つの形に、嫉妬を覚えた。夫婦、という単語に一臣が加わって、家族になるのだろう。
不意に気が付いた。
「私…。おみくんのお父さんを奪っちゃったんだ。」
親子水入らずの水瀬家に、私が邪魔をした。
今まで自身のことしか考えられなかった自分が憎くて、強い感情で、死んでしまえと思った。
座り込んだ膝の上の拳が小刻みに震えている。この感覚は知っていた。確か、これは、…そうだ。
母が私を連れて死のうとしたときだ。
「ごめんなさい。」
母が心中を試みるほどに苦しんでいたことに気が付かなかったこと。幼かったとはいえ無邪気に聞いた「お父さんは?」の問いは、母にとってどんなに辛かったのだろう。
気が付けば、蒔乃は自らの手の甲を噛んでいた。歯形が肌に刻まれて内出血を起こす痕や、血が滲む傷が生まれる。それでも痛くない。
もっと。もっと、もっと。強く。
カーディガンのポケットにお守りのように忍ばせていた紙片がカサと擦れた。それは朔司がくれた私の灯り。
「蒔乃。」
背後で名前を呼ばれ振り返ると、そこには一臣が立っていた。そして蒔乃のもとへ来て、彼女の手を取った。
「自分を噛むぐらいなら、俺を噛みな。」
「…おみくん。」
自らの手を慰めるように撫でる一臣に対して、蒔乃は罪悪感だけが募っていく。
「ああ、ほら。血が出ちゃってる。痛かったろ。」
そう言って、一臣は救急箱を探しに立ち上がろうとした。腰を浮かしかけた一臣の腕に縋るように、蒔乃は制止する。
「痛くないよ、知ってるでしょう?」
「蒔乃。」
優しく名前を呼んでくれる一臣の姿が涙で揺れた。まるで湖の底に放り出されたようだ。
「痛くないの。私。」
朔司さんの分の痛みを全て、請け負いたかった。
私なら、死ぬのも痛くはないのだから。
「そんなことない。痛くないわけがない。」
一臣は再び座り直して、蒔乃と向き合う。
「何を言ってるの…?」
「蒔乃は気付いていないだけで、心がこんなにも痛がってるじゃないか。」
蒔乃の瞳の淵に浮かぶ涙を、一臣は親指の腹で拭った。そのまま指はこめかみを撫で、耳をくすぐり、頬を伝った。一臣の優しさが、今、辛い。
そのまま一臣の手のひらは蒔乃の後頭部に回されて、赤子を抱くように優しく引き寄せられる。
「よしよし。良い子だから、俺を噛みな。」
ぐっと一臣の肩が、蒔乃の口元に押しつけられた。
「おみくんは…、優しすぎるよ…。」
「それは光栄だな。」
ブツリ、と鈍い音を立てながら、蒔乃の犬歯が一臣の肌に食い込んだ。
甘噛みのように噛む場所を探して、柔い肌を見つけると唾液を溜めた舌がなぞる。ふやかすように肌をより柔らかくすると、ようやく蒔乃は歯を立てた。
じゅっと啜ると、口の中いっぱいに鉄のような塩辛い味が広がる。一臣の血液を舌で味わい、嚥下する。
血の味に酔って、蒔乃の呼吸が荒くなっていくのがわかった。
一臣は噛まれている間、ずっと蒔乃の頭を撫でていた。時折、激痛に息を呑む。それでも悲鳴一つ上げずに、蒔乃が思うまま噛ませた。
熱い蒔乃の涙が零れて、傷に沁みる。
それでも、一臣は満足だった。長年、この役目を熱望していた。親父じゃなくて俺を噛めば良いのに、と蒔乃に恋する一臣は思っていたのだ。
蒔乃の痛みを分かち合うのは、彼女の信頼を勝ち得たときだと気が付いていた。
ふっ、ふっ、と荒く息を吐いて、蒔乃はようやく顔を上げた。
「…もういいのか?」
「…。」
蒔乃は小さく頷いた。
「そっか。わかった。」
一臣は蒔乃の頭をもう一度撫で、今度こそ救急箱を探しに立ち上がる。
「待ってて。」
箪笥の上や棚の中を探して、救急箱を探し当てた。蒔乃の元へと戻って、彼女の手を取る。
「…私より、おみくんが。」
「俺は後で良いよ。」
そう言って、蒔乃の手を取って消毒をする。そしてガーゼを当て、包帯を巻いた。
「痕が残らなければ良いんだけど。」
「大袈裟だよ。…あの、」
蒔乃が何かを言いたげに、でも言い淀む。
「何?」
一臣が微笑みながら首を傾げると、その肌は引きつるような痛みを帯びた。
「私が、おみくんの手当てする。」
蒔乃の声はか細く、掻き消えるようだった。
「なんだ、そんなことか。じゃ、お願いします。」
蒔乃の申し出を受け入れて、一臣は手当てをしやすいようにシャツを脱いだ。
熱を放つ噛み傷に蒔乃の冷たい指の先が触れる。反射でぴくりと一臣の肩が動く度に、蒔乃自身が大きく震えた。
「痛い、よね。ごめんね。」
ごめんね、を繰り返す蒔乃が痛々しかった。
「蒔乃。大丈夫だから。」
蒔乃は震える手で消毒を施す。
「あ…。ガーゼがもう、無い。」
この世の終わりかのように、絶望の色を滲ませた声色で蒔乃が呟いた。
「絆創膏でいいよ。」
「でも、小さいのしかないよ。」
蒔乃はどうしようとカチカチと歯を震わせる。どうやら随分、混乱しているようだった。
「重ねて貼ればいい。蒔乃、大丈夫だから。救急箱の中身は後で買いに行こうな?」
「そう、だね…。うん。」
自らを納得させるように頷き、蒔乃は絆創膏を手に取った。包装を破き、一臣の肌に刻まれた噛み傷にそっと絆創膏を貼っていく。あまりにも丁寧すぎて、くすぐったい。
「…歪んじゃった。」
蒔乃の言葉に貼られた絆創膏に触れると、皺が寄っているようだった。
不意に、室内に白い光が差した。朝日が昇ったのだ。
「平気、平気。サンキュ。」
一臣が些細なことだと笑い飛ばすと、蒔乃もやっとぎこちなくだが笑ってくれた。その唇には紅のように一臣の血液が光って、笑みが恐ろしく美しく思えた。
それからも幾度となく、一臣は蒔乃に噛まれることを望んだ。機会は日常に溢れていた。
朝、夢を見て目覚めてから。
昼下がり、ふと朔司を思い出したとき。
夜、不安の眠りにつく前に。
蒔乃は気が付いていないのかも知れないけれど、予兆として彼女は精神が不安定になると指の爪を噛み始める。健康的で桜色の形の良い蒔乃の爪がボロボロになる前に、一臣が止めた。
朔司の葬儀以来、蒔乃は大学にも行かず家に引きこもっている。あんなに好きだった絵画も描いていないようだった。一日中、仏壇の前で寝転がって朔司とひよりの遺影を眺めている。
水瀬家の庭の青々とした木々が優しく風を撫でる。いつの間にか、季節は新緑の5月を迎えていた。
平日の朝。一臣は庭に出て、水道からホースで植物に水を与えていた。勢いよく流れる水を指の感覚で押しつぶして、植物に耐える水圧に調整する。時折、虹を作ったり、働くアリの列に急かすように水をかけるふりをして楽しんだ。
一通り、水を与え終えると蒔乃が起床する時間になっていた。
「おはよう…。」
眠い目をこすりながら、蒔乃が階段を下ってくる。
「おはよ。」
今日は悪い夢を見なかったようで、蒔乃の爪は現状を維持している。ほっとしたのも束の間、視線を少しずらした瞬間に一臣は息を呑んだ。蒔乃の下半身に、血液の赤が濡れて滲んでいた。
「し、蒔乃!?どうした、どこか怪我…っ、」
「…?」
蒔乃は首を傾げ、そしてややあと頷いた。
「生理。来たみたい。」
文字通り生理現象だからか恥ずかしげも無く、蒔乃は呟いた。生理の仕組みをよく理解していない一臣でも、今回の経血の量が多いものだとわかった。
「ちょ、ちょっと待ってろ!」
一臣は慌てて、畳んでおいたバスタオルを手に戻ってくる。そしてそのタオルを蒔乃の腰に巻いた。
「汚れちゃうよ。」
「また洗濯すれば良いから。それより、お風呂に行こう。」
蒔乃が歩くと血が落ちるので、一臣は彼女を抱っこして浴室へと運ぶ。蒔乃は黙って一臣の腕の中に収まっている。
「しっかり、温まれよ。」
洗面所に着くと蒔乃を下ろして、一臣は退室した。そして点々と床に落ちた血を、一臣は拭き掃除する。掃除しながら、一臣は蒔乃の事を考えていた。
蒔乃はここ最近、感情の起伏が少なくなった気がする。嬉しいと笑う顔も、恥ずかしいと照れる顔も、悲しいと泣く顔も見ていない。
蒔乃の心が少しずつ、壊れていくのを感じていた。
「…病院、連れてった方がいいんだろうなあ。」
今までも何度か受診させようとしたが、蒔乃は病院の雰囲気や消毒液の香り。救急車の音などで、朔司が亡くなったシーンを思い出すのかとても嫌がった。
「個人医院なら…、いけるか?」
以前、スマートホンで近所にある個人医院の心療内科の情報を調べたことがあるので、場所は把握している。問題は蒔乃を連れ出せるかどうかだった。
考えを巡らせている間に、蒔乃がお風呂から出る音が聞こえる。前の蒔乃なら丁寧に髪の毛をドライヤーで乾かして
洗面所から出てくるのに、今日は髪の毛から水滴を滴らせながら一臣の前を通り過ぎようとした。
「蒔乃、待って。」
一臣は蒔乃の手を取って呼び止める。
「何、おみくん。」
「髪、乾かさなきゃ風邪引くだろう。」
そう言って、一臣は洗面所の棚にあるドライヤーを取りに行く。ドライヤーを持って踵を返し居間に戻ると、一臣は自身の前に蒔乃を座らせた。蒔乃は子猫のように大人しくしている。
ドライヤーから出る風邪の温度を調整しながら、蒔乃の髪の毛を乾かしていく。そしてまた一つ、彼女の異変に気が付いた。
「蒔乃。ここ…、どうした?」
「え?」
蒔乃の耳の上の髪の毛が、円形状に脱毛していた。
「あれ、髪、抜けちゃってるね。」
頭部にあるはずのない素肌の感覚を確認しながらも、蒔乃は別段ショックを受けたような素振りを見せない。
「…大丈夫。蒔乃、髪の毛長いからこのぐらいなら隠せるよ。」
逆にショックを受けたのは、一臣の方だった。震える手で、蒔乃の髪の毛を整えてその場所を隠そうとする。
「うん。」
こくん、と頷く蒔乃はまるで何も知らない幼子のようだった。
一臣は一度、深呼吸すると蒔乃に語りかけた。
「蒔乃。今日さ、病院に行こう。」
「…。」
「今の蒔乃は、お医者さんの力が必要なんだよ。一緒に行くから。」
「…うん。」
ゴウン、ゴウンと重い音を立て、電動ろくろが回っている。集中しているつもりで作業していた一臣の土の器が、ぐにゃりと歪んでしまった。
「…。」
何個目の失敗作だろう。いつもならもう作品を保管する棚板を二枚を占拠する器だが、今日は一枚目の半分にも満たしていない。
「一臣ー。休憩せん?」
「静正、休んでばっかじゃん。」
と言いつつも、休憩を取るタイミングを完璧に見失っていた一臣はその提案を受ける。
「いやー…、俺が言ってる休憩って陶芸のことじゃないんだよなあ。」
甘党の静正の今日のお供は黒糖かりんとうだ。
「一個。」
「ん。」
静正から分けて貰ったかりんとうをかじりながら、一臣は休憩所から窓の外を眺めた。軽いかりんとうの感触が、燃えた後の骨に似ているなと思う。
梅雨を先駆けてか、雨がぽつんぽつんと振っている。窓ガラスに当たっては打ち上げ花火を逆再生するかのように、雨粒は散って零れていった。
「…で?陶芸の休憩じゃないって?」
「え?ああー。だって一臣、心が乱れまくってるじゃん。疲れてんじゃねえの。」
「そう見えるか?」
かりんとうをぼりぼりと貪りながら、静正は頷く。
「気付いてないんだったら、重症だね。」
「重症、ね。」
ふと、蒔乃を思い出した。
今日はカウンセリングを受けているはずだ。蒔乃が病院に行っているその間に一臣は大学に来ていた。
静正も一臣の考えに至ったのか、心配そうに尋ねる。
「…玉森先輩。そんなに調子悪いの?」
「そうだな…。本人が気付いていないって、確かに一番まずいよなあ。」
溜息を吐きつつ肩にこりを感じ何気なく捻って、肌に刻まれた噛み傷が引きつるように痛んで息を呑んだ。
「? どした?」
「何でもない。」
まだ、バレていない。首元には汗を拭くためと偽って、手ぬぐいを巻いて隠していた。
「一臣さ、大丈夫なん?お父さん亡くしたばかりだし、玉森先輩もそんな状態なんて心配なんですけどー。」
「俺は大丈夫だよ。」
一臣の答えに静正は目を細めて、あんな状況でも?と告げる。指で差された先には一臣の失敗作の数々があった。
「お互い、離れる時間取った方がいいよ。きっと。」
「…今、離れてんじゃん。」
苦しい答えだなと思っていると、すぐに静正に見透かされる。
「そういうんじゃないって、わかってるだろーが。」
静正に肩を小突かれる。
「今の蒔乃から離れるだなんて、出来るわけないだろ…。」
「水瀬くーん。お客さんだよー。」
不意に自分の名前を呼ばれて、渡りに船とばかりに助かった心地に陥った。
「ちょっと席、外すわ。」
背後でぶーぶーと不満を垂れる静正を置いて、席を立つ。陶芸教室の扉の前には小柄な女子学生が立っていた。
「えーと…、」
確か、蒔乃と仲の良い友人だったはずだ。
「あ、あの、私、藤田みきと言います。蒔乃の友だちです。」
それは、みきだった。
「じゃあ、先輩ですか。藤田…先輩が、俺に何の用でしょうか。」
「蒔乃に絵画科の課題のプリントを届けて欲しくて。私がスマホでメッセージを送っても、反応が無かったから…。」
みきは顔を真っ赤にしながら、一臣に頼み込む。
「ああ…。それは蒔乃に代わって、謝ります。プリント、受け取りますね。」
「お願いします。」
みきの震える手から課題プリントを受け取って、一臣は礼を言う。
「じゃあ、私はこれで…。」
「藤田先輩。」
一臣に呼び止められて、みきは跳ねるように振り返った。
「な、なんですか?」
「勝手なお願いだとわかってるんですけど、これからも蒔乃にメッセージを送ってやってくれませんか。」
一臣は頭を掻く。
「今、蒔乃は返信が出来ないかもしれないけど、確実に心に響いていると思うんで。」
「…はい。メッセージならいくらでも。本当は、一目でも会えたら安心するんですけど、ダメですか?」
みきのお願いにありがたいと思いつつ、一臣は丁寧に断った。
「気持ちに余裕がないみたいで。もう少し、待っていてあげてくれませんか。」
みきは激しく頷いた。
「待ちます。待ってます。」
「ありがとうございます。」
今度こそみきと別れ、一臣は時計を見た。そろそろ蒔乃のカウンセリングが終わる頃だろう。
教授に帰宅の旨を伝え、一臣は大学を出るのだった。
そろそろ大学の単位にも影響が出てくるだろう。色々と決めないといけない。
個人病院の待合室にある長椅子の端に座った蒔乃を見つけ、一臣は近づいた。
「蒔乃、遅れてごめん。」
「え?ううん。」
蒔乃はぱちぱちと瞬きをしながら、ゆっくりと一臣を仰ぐ。会計は済んでいるらしく、もう後は帰るだけだった。
自動ドアを抜けて、外に出る。雨が止んで、むっとするような湿気に空気が潤んでいた。海岸線沿いの道を歩いていく。顔を覗かせた太陽の光が水面に反射して、ダイヤモンドを散らしたかのように輝いている。
背後から車が通り過ぎる気配がして、隣を歩く蒔乃の体がぴくっと強張るのがわかった。一臣は蒔乃の盾になるように道端に身を寄せて、車を見送ろうとする。最接近する車の影に蒔乃は一臣の手を握った。
「大丈夫だよ。」
「…。」
蒔乃は怯えたように握る力を強くする。そして無事に車の姿を遠くに見送ると、やっと肩の力を抜いた。
まだ怖いのだと思う。
強烈なフラッシュバック、とまではいかなくとも朔司の最期を思い出してしまうのだ。
「…寄り道しようか、蒔乃。」
「え?」
一臣は海を指差した。
二人は海岸に降りられる階段を下っていく。鉄製の階段は潮風に錆びて、茶色に変色してしまっていた。かつん、かつん、と靴底が鉄を叩き、甲高く響く。砂浜に着くと靴裏がふかっとした感触に代わった。
「靴は脱いだ方が良い。砂が入ってしまうから。」
「うん。」
靴に入り込んだ砂はまとわりついて離れず、いくら手で払ってもどこからか出てくる。
「貝とかガラスの破片に気をつけて。」
「おみくんは過保護だなあ。」
ふふ、と蒔乃は微笑を浮かべる。どうやら少しは気分が晴れたようだ。
「前科があるの、忘れんなよ。」
手を繋いで、砂を踏みしめていく。真夏の火傷がしそうな温度ではなく、温いお風呂に浸かっているかのような温度と湿り気が先の雨により完成されていた。
「浅瀬があるね。行ってみる?何か生き物がいるかも。」
「えー、いるかなあ。」
半信半疑の蒔乃を連れて、浅瀬に到着する。ごつごつとした岩場に足を切らぬようにするために、濡れるのを覚悟で靴を履いた。靴を履いた足が海水に浸り、まるで子どものころの悪事を働いているような感覚に陥った。
蒔乃は水の感触を楽しむように、波打ち際に立った。
「あ、ほら。蒔乃。」
一臣は手で器を作って、海水を掬う。その小さな世界に、今年の春生まれの稚魚が収まっていた。
「かわいいね。」
稚魚はまだ警戒心が薄いようで、大人しく一臣の手で泳いでいた。
「…ありがとう、おみくん。海に帰してあげて。」
「おう。」
蒔乃の言葉に頷いて、一臣は屈んで手の器を海に解かす。自由になった稚魚は元気よく母なる海を駆けていった。
「おみくん、ごめんね。」
唐突の蒔乃の謝罪に一臣は首を傾げて、何が?と問う。
「朔司さん…、あなたのお父さんを死なせてしまって。」
「蒔乃の所為じゃないだろ。」
蒔乃は首を横に振った。
「私を突き飛ばしてくれた時間のロスが無ければ、朔司さんは避けて無事だったかもしれない。」
「それはあくまで、かも、の話だよ。」
一臣は海水に濡れた手を拭って、蒔乃の手を取った。
「…俺さ、」
この感情に適切な言葉を探す。親父ならきっとできたはずだ。
「親父のこと、誇らしいと思う。」
「うん…。」
「って言うのも、俺の好きな人の心を射貫いて尚、好きな人を守ってくれて死んだから。」
何度も蒔乃に告げていた、好き、という言葉に言霊を込める。蒔乃の力になるように。そして、背中を押すように。
「大学、休学してさ、しばらく旅行とか行かない?ここじゃないどこかに行こうよ。」
留年を常に頭に入れておくより、いっそのこと清々しい提案だと思う。
「旅行…。」
蒔乃が呟いた瞬間、空から低く唸るような音が響き渡った。それは空を分断する飛行機のジェット音だった。
二人はそのタイミングの不思議さに、頭上を仰いだ。まるで朔司が賛成しているかのように思えた。
蒔乃が指で額縁を作る。彼女のキャンバスに一本の線を引くあの飛行機はどこに行くのだろう。
「うん…。考えてみるね。」
…噛みたい欲が止められない。
蒔乃は親指の爪を噛む。
夜になると、朔司の死に顔が瞼の裏に浮かんでしまう。愛しい人の血が通わなくなって真っ白になった肌が、忘れられない。
「…ぅ、」
涙が目の縁に浮かんで、溢れてくる。
このままだとベッドの隣、床に布団を敷いて眠る一臣に気が付かれてしまう。最近、彼は蒔乃を心配して一緒の部屋に寝るようになったのだ。一人の夜を越える勇気が無い反面、一臣を傷つけてしまう恐怖があった。故に嗚咽を殺したくて蒔乃は壁際を向いて手の甲を噛んだ。
「こら。」
それでもやはり気付かれてしまい、一臣が蒔乃の眠るベッドに腰掛ける気配がした。
「噛むなって、言ってるだろ。」
一臣に優しく声をかけられて、背中を大きな手のひらで撫でられる。その温かい感触に蒔乃は強張る体の力が抜けていくのがわかった。
それだけで満足できれば良いのに。
殺したかった嗚咽が零れて、彼の庇護欲を刺激してしまう。「おいで。」
そして私は、その声に逆らえないのだ。
その日は6月の上旬で、政府から梅雨入りが発表された頃だった。
発表通り分厚い雨雲が空を覆い、今にも泣き出しそうな夜。一臣が市販されている頭痛薬を飲むところを、蒔乃は目撃した。
「おみくん、頭痛?」
「んー…。低気圧だからかな、ちょっとね。」
ちょっと、と言う割には調子が悪そうに、錠剤をがりりと奥歯で噛んで飲み込んでいる。
「今日は早めに寝るわ。寒気もするし、風邪かも。」
移すと悪いから別の部屋で眠ると言う一臣は、久しぶりに自らの部屋のベッドに向かった。
「具合が悪くなったりしたら、遠慮無く呼んでね?」
蒔乃の声かけに一臣は後ろ手を上げて応えるのだった。
突然一人になった居間で、時計の秒針が時を刻む音が響く。テレビを見る気にも、本や雑誌を読む気もなく蒔乃はクッションを頭の下に置いて、寝転んでいた。何気なく耳を澄ましていると縁側の窓に雨粒が当たり出した。
夜に振る雨は好きだ。どこにも行かなくていいよ、と免罪符を与えられた気がするから。
ゆっくりと瞼を閉じて微睡む。いつの間にか、深く眠気が訪れて夢の底に沈んでいった。
夢の中でふとした瞬間、これは夢だと気が付く場面がある。それが今回の夢でもあった。
なぜなら、朔司がいたからだ。
いつだって朔司は穏やかな表情で微笑んでいるのに、今日は違った。どこか切迫したような表情で、蒔乃に向かって声なき声で叫んでいる。
『朔司さん?どうしたの…。』
朔司の声は蒔乃の耳には届かず、それがもどかしいと彼は泣いていた。
『何?何を伝えたいの?』
今すぐ朔司の側に行って、彼の声に耳を傾けたい。だけど近寄った分だけ、朔司は遠ざかってしまう。まるで夏に見る逃げ水のようだった。
ー…いきなさい。
不意に蒔乃の頭の中で、イメージとして降ってわいた言葉。それは朔司の最期の言葉だった。
「…っ!」
電流を流されたかのように弾かれて、蒔乃は飛び起きた。心臓が大きく脈打っている。背中には冷や汗を掻いていた。「…。」
鼓動が落ち着くまで、深呼吸を繰り返す。
やがて落ち着きを取り戻して、今度は急激な不安に襲われた。時計を見ると、時刻は深夜の0時を回る頃だった。
蒔乃は徐に起き上がり、眠る一臣を起こさぬように音を立てずに二階に向かった。ひたひたと裸足の足音が静かに響く。一臣の部屋の前に立ち、逡巡しつつそっと扉を開けた。何故か、一臣の様子を確認しておかねば、との使命感に捕らわれていた。
彼が健やかな寝息を立てているのなら、それでいい。
一臣の部屋は窓が閉め切られているからか、湿気が籠もり彼の香りが色濃かった。真っ暗の室内に、扉から一筋の線が延びる。
一臣はベッドにいなかった。
床で、スマートホンを置いたテーブルあと一歩のところで倒れていた。
「…おみくん?」
蒔乃の呆然とした呼びかけには応えず、一臣からはひゅーひゅーと喉から漏れるような不吉な呼吸音を出していた。「おみくん!」
ようやく一臣の異変を受け入れた蒔乃は扉を開け放ち、彼の元へと駆け寄った。
「ど、どうしたの?大丈夫?」
声がけに応えようとしているのか一臣の口からは、あー、だか、うー、と言った声が漏れた。意識がもうろうとしているようだった。
「ま…待ってて、今、救急車を呼ぶから…っ、」
慣れている自分のスマートホンでさえ手が震えてしまい、中々、緊急の3文字の番号すら押せなかった。
ようやく救急車の手配を終えた頃には、一臣の意識は完全に無かった。
病院の処置室に運ばれた一臣を見送った蒔乃は待合室で、祈っていた。
おみくんを助けてくれるなら、誰でも良い。神様でも天使でもなく、悪魔の存在でも良い。私の魂をあげるから、だから。
どうか彼を連れて行かないで。
組んだ手は、震えていた。手どころか、不安で全体がガタガタと震える。また親指の爪を噛みそうになって、それに気が付いた蒔乃は衝動を振り切るように首を激しく横に振った。
…しっかりしなくてはならない。
一臣が何かしらの病気に戦っている今、蒔乃自身はせめて冷静に彼の帰りを待つべきだと心を奮い立たせた。
どのぐらいの時間が経ったのか、処置室の扉が開く。
「…おみくん!」
一臣は血の気が失せた白い顔で、眠っていた。一瞬、朔司の死に顔を思い出してしまうが、一臣の胸は緩やかに上下していた。
一臣が病室に運ばれている間、蒔乃は医師から彼を襲った病気の正体について話してくれた。
敗血症。
傷口から雑菌がは入り込み、血液を辿って全身に巡った状況だった。あと少し時間がずれていたら。命が危なかったらしい
その原因の傷は、蒔乃の噛み傷だった。
水瀬の家の庭で咲く、紫陽花を敗血症を患った一臣の見舞いに持参しようと思いハサミを手に取った。
花ぶりの良い個体の首を落とすように、パチン、パチン、と切っていく。
「…。」
蒔乃が噛んだ後の消毒が、行き届いていなかった。今更ながら後悔が胸に渦巻く。そもそも当たり前ながら、人を噛んではいけなかったのだ。
一臣のことだ。蒔乃の謝罪は善意で受け取らないだろう。だが、今はそれが何より辛い。
いっそ罵られて、嫌われたらどんなに良いだろう。今まで一臣に甘えすぎたのだ。涙は出ない。一臣が入院したその日に、泣き尽くした。
刈り取った紫陽花をささやかな花束にして、新聞紙で包む。その花束と一臣の着替えを手に、蒔乃は家を出た。
大学とは真逆の位置にある病院まではバスに乗って行くのがマストだ。バスに揺られている時間は蒔乃が考えをまとめる時間だ。
今日の議題は…、これからのこと。
蒔乃の瞳に映る海の広さと、空の深さが印象的な日だった。
ナースステーションで看護師たちに挨拶をして、一臣の病室へと向かう。一臣は個室からやっと大部屋に移ったところだ。
「こんにちは。」
同室の入院患者に挨拶をして、一臣がいる窓際のベッドへと赴く。声をかけてカーテンを引くと、一臣は退屈そうに読んでいた雑誌を閉じるところだった。
「よ、蒔乃。」
片手を上げて応じる一臣の顔色は随分と良くなってきた気がする。
「おみくん、体調どう?」
「倦怠感はあるけど、暇な時間の方が堪えるな。」
そう、と頷きながら、蒔乃はベッドの隣に携えてあったパイプ椅子を引っ張り出して座った。
「これ、庭で綺麗に咲いていたからお見舞いにと思って。」
「紫陽花か。本当だ、良く咲いてる。」
蒔乃から受け取った紫陽花の花束を眩しそうに見つめて、傍らに置く。
「あと、着替え。洗濯物があったら出してね。」
「了解。」
とりとめの無い会話を交え、時間が穏やかに過ぎていく。
「飲み物買って、中庭に出ない?天気良さそうだし。」
窓の外を見ると、空からは天使の梯子が降りていた。一臣に誘われて、蒔乃は了承して病室を出た。
病院の売店でそれぞれの好きな飲み物を購入し、麗らかな陽気の中庭に出る。中庭では車椅子に乗った患者が看護師と供に散歩をしていたり、中年の女性たちが井戸端会議に花を咲かせていた。
空いているベンチに一臣と蒔乃は腰掛けて、それぞれペットボトルを傾けて喉を潤す。
「午後から雨だって言っていたから、この時間は貴重だよな。」
持ち込んだラジオで聞いたという気象情報を一臣は口にする。
「そうだね。ね、おみくん。」
「何?」
「私、家を出ようと思うの。」
蒔乃の言葉に、一臣は動きを止めて彼女を見つめる。
「…俺の所為か?」
「違う。私の所為。」
ふるふると蒔乃はゆっくり首を振った。
「私たち、離れた方が良いと思うんだ。」
愛しい人たちがいる、大好きなこの町。だけど、悲しいことも多過ぎた。
私が朔司の名残を想う間、一臣を傷つけることしか出来ないのなら、もうこれ以上一緒にはいられない。
「家を出て…、どうすんの?」
「大学は辞めようと思ってる。その代わり、行きたいところがあるの。」
「それがどこか、聞いても良い?」
蒔乃は頷く。
「フィンランド。」
「外国かー…。また、何でフィンランドなん?」
その由縁がわからない一臣は首を傾げた。蒔乃は、うふふ、と笑う。
「中学の時に使ってた地理の教科書を、えいってめくった先にフィンランドが載ってたんだ。」
蒔乃の答えに一臣は、ふは、と吹き出した。
「大雑把な蒔乃らしい決め方!」
一臣はそのまま腹を抱えて笑い、目の縁に溜まった涙を手の甲で拭う。
「いいじゃん、面白いよ。応援する。」
そして、あーあ、と呟いて、一臣は空を仰いだ。
「フィンランドか…。遠いな。」
「…うん。遠いね。」
チチチ、と小鳥がさえずり、仲間を募ると一緒に空を飛んでいった。この空は国境なく広がって、まだ見ぬ土地のフィンランドにも繋がっているのだと思えば随分と感慨深か
った。
キスが嫌いだった。私とキスをした人は、不幸になるから。
母は、身を投げた。
朔司は事故で亡くなった。
そして、おみくんのお父さんを奪ってしまった。
唇は柔らかくて、温かくて、愛しく恋しい感触をしているのに、もれなく死を連れてくる。
「…こんなにも、愛を伝えてくれる行為なのにね。」
蒔乃はいつも気が付けばそこにあり、背中を押してくれる場面に背景になる海辺に来ていた。
浜に打ち上げられた、海藻が干からびている。小さなカニがその海藻に隠れようと躍起になっていた。
朝の太陽に照らされて水平線は白く光り、遠くで漁船だろうか。船が連なるように浮かんでいる。
「蒔乃ー。」
自転車を停めてきた一臣が追って、蒔乃の横に立った。数日前、病院から退院したばかりだ。
「何気に海好きだよなあ。」
海に向かって偉そうに腕を組みながら、一臣は言う。
「うん?そうだねえ。」
ふふふ、と笑いながら、蒔乃は答えた。
「あ、でも、時間帯にもよるかな。昼間は海水浴客が多いじゃない?賑やかすぎて、プールかよって思うもん。」
「それはわかる。情緒がないよな。」
地元民あるあるを話題に会話を交えながら、二人は人気の少ない浜辺を歩く。すれ違うのはサーファーや、犬の散歩をするカップルなどだった。幼い子どもはまだ寝ている時間なのだろう。子どもは嫌いではないが、静かな時が流れているこの空間が貴重で愛しかった。
海風が吹き、蒔乃の髪の毛に空気が孕む。乱れを整えるように、蒔乃は何気なく耳に髪の毛をかけようとした。サリ、とした感触の肌が触れ、そういえば髪が抜けていたんだ、と思い出した。
「蒔乃。」
「ん。」
落ち込むよりも前に、一臣が蒔乃の頭に自分が被っていたキャップを乗せた。サイズの違いから、すっぽりと蒔乃の耳元まで隠れてしまう。
「ありがとう。」
「うん。」
蒔乃は代わりに寝癖で跳ねる一臣の髪の毛を撫でた。
「おみくんの髪の毛も太いよね。これは家系なのかな。」
「そういえばアルバム見ても、どの親戚も髪は豊かだな。」
一臣と直接の血の繋がりがなくても、共通点があって嬉しいと思う。恐らく生活習慣も関係しているのだろう。
彼の寝癖は頑固で、撫でるだけではとても直らなかった。指で梳くようにしても、するりとすり抜けてはぴょんと髪の毛は跳ねた。
「楽しい?」
「うん。」
問われたとおりその感触が楽しくてついつい、触ってしまう。
「なら良かった。」
一臣が優しい表情で微笑む。その目に映る自分と目が合って、私はこんな顔をしているのかと蒔乃は再認識するのだ。
「良いの?もし、一生このままでいてって言ったらどうする?」
彼の目の中で、私が意地悪そうに微笑んでいる。
「それは困るけど…。蒔乃が本気だったら、考えても良いかな。」
一臣のことだ、前向きに検討してくれるのだろう。もちろん、そう言ってくれるだろう事はわかっていたが何て甘やかし。
「おみくんは私に甘いなあ。」
「チョコレートみたいに?」
「ガムシロップ並み。」
苦味も、芳醇な香りすらない。
「ただただ、甘いだけじゃん。」
「自覚した?」
二人、笑い合う。そして、ふう、と息をつくように呼吸を整えて、一臣は蒔乃の手を取った。
そして私の手のひらに、ちゅっと口付ける。
「…。」
蒔乃の胸の内に、苦い麻酔のような薬がじわりと滲むようだった。
本当は拒絶しなければならないのに、それでも手を振りほどくことが出来ない自分が憎い。
手のひらから指の関節の一つ一つにキスをして、最後に爪に唇を落として一臣はようやく蒔乃の手を離した。
「蒔乃、」
「待って。」
一臣が言おうとした言葉の気配を察して、蒔乃は遮る。
「今は、言わないで。」
「…。」
ここを離れたくない気持ちが生まれてしまうから。
「ごめんね。」
「…じゃあさ、」
一臣は不意にしゃがみ込んで、足元に落ちていた流木の枝を拾う。
「文字なら良い?ここなら風に吹かれれば消えるし、波に攫われればやっぱり消える。」
それもダメ?と一臣は首を傾げて、蒔乃を見た。
「…それなら、いいよ。」
どうせ消える気持ちなら、大歓迎だった。
一臣は蒔乃の真意を知ってか知らずか、やった、と嬉しそうに呟いて、波打ち際に文字を刻んだ。
好き
最愛なる、たった二文字。
好きとキスはいつだって真反対だ。
一言だけでは飽き足らなかったのか、一臣は「好き」を何度も書き連ねた。足元いっぱいに、一臣の好意が溢れる。
「これだけだと、ちょっと怖いね。」
蒔乃もしゃがみ込み、一つの好きを指でなぞった。
「ストーカーっぽい?」
「近すぎてね。」
一臣はもう一つ、好き、を書く。
「まとわりついて、離れないからな。」
「怖いって。」
蒔乃は一臣の肩を叩きながら、笑った。
「あ、」
笑った傍から、波が寄せて半分の好きを消した。消えても良いと思いながら、少し残念だ。
「大丈夫。」
一臣は蒔乃の気持ちを汲んだのか、もう一度木の枝を手に取った。
「何度でも書くよ。」
まるで青春映画のワンシーンのようだと思った。
この物語も、ハッピーエンドならいいのに。
「蒔乃、元気でね。たまには連絡してよ。」
みきが空港へと向かう蒔乃を見送りに、駅まで来てくれた。その目には涙が浮かんでいる。
季節は11月を迎えていた。
大学を辞め、フィンランドに向かう準備を整えた蒔乃は今日、旅立つ。
「ありがと、みき。」
蒔乃はみきをハグする。いよいよ別れの時を意識したみきが、わんわんと声を出して泣き出した。彼女の流す涙が、蒔乃の肩を温かく濡らす。彼女の栗色で柔らかい髪の毛に、蒔乃は頬ずりをした。
「そんなに泣かないでよ。今生の別れじゃないんだから。ほら、ティッシュ。」
「それでも、寂しいんだもん…。」
差し出されたポケットティッシュで鼻をかみ、ようやくみきはそっと蒔乃の体を離した。
「フィンランド、寒いんでしょ。風邪に気をつけて。」
「うん。」
「オーロラを見たら、写真撮って送って。」
「できたらね。」
「サンタクロースを見かけたら、クリスマスプレゼント頼んでおいて。」
「みき、もう子どもじゃないじゃん。」
額と額をくっつけ合って、くすくすと笑う。ようやく笑顔の戻ったみきに、蒔乃を安心する。彼女はやはり可愛らしい笑顔が魅力だ。
「蒔乃。」
少し離れたところで二人の別れを見守っていた一臣が、声をかける。
「そろそろ行かないと。」
ホームでは空港方面に向かう電車のアナウンスが流れ始めている。
「もう時間かー。」
本当に名残惜しいが、みきとはここでお別れだ。
蒔乃は傍らの紺色のスーツケースの取っ手を持った。飛行機内に持ち込める最大のサイズのものだ。それは朔司が愛用していたもので、キーダイヤルの番号は一臣の誕生日だった。
「じゃあね。行って来ます。」
片手を振って別れが慣れていない小学生のように何度も何度も振り返りながら、蒔乃は一臣と連れ立つ。みきは二人の姿が見えなくなるまで、手を振ってくれていた。
ホームに訪れた電車に乗り込み、数駅を立って過ごし、空いた二人分の座席にようやく座ることができた。とはいえ、二回乗り換えるのでどうせすぐにまた席を立つ。
「慌ただしいね。」
蒔乃はスニーカーの先を見ながら言う。
「余裕持って出てきたから、空港で休憩する時間あるよ。」
腕時計を見つつ、一臣が答えた。
車窓から流れる日本の景色は夕方の色濃く、陰影が強かった。神社の赤い鳥居や、帰宅する女子高校生の翻るセーラー服の襟。散歩する柴犬の軽いテンポの白い息。
ますますノスタルジーの拍車をかけて、蒔乃の脳裏に記憶として刻み込まれる。
二時間ほどをかけて空港のターミナルに続く駅に降りる。
寝て起きれば到着するだろうと、飛行機は深夜便フィンエアーを予約してあった。
夕食を空港内の24時間営業しているカフェで摂り、ショップをひやかして、飛行機の案内がされる電光掲示板が見える出発ロビーの長椅子に腰掛けることにした。ラウンジを使えれば良かったが、お金をかけない旅なので利用することは無い。
行き交う人々を眺めつつ、一臣と蒔乃は手を繋いで互いを支え合うように座っていた。触れあった肌と肌が溶け合うかのように一体化する感覚に陥る。
なんて愛おしい、体温なのだろうと思う。
一臣を物理的にも、心理的にもたくさん傷つけてしまった。そして蒔乃自身も傷ついていた。
この国では、悲しいことがたくさんありすぎた。
母親の悲しい想い、背負うことのなくなった痛覚。朔司へ募らせた恋と、確かに受けた優しい愛情。
傷つけては癒やす、穏やかな海の波のような日々だった。
「眠い?蒔乃。」
準備に勤しんだ日々が疲れとなって、今、眠気を誘う。
「うん…。でも、寝たくないな。」
一臣と一緒にいられる最後の時間だ。夢の中で過ごすのはとてももったいないと思った。
「おみくん。何か、話してくれない?」
「そうだなあ…。何を話そうか。」
んー、と呟きながら、一臣は考えを巡らした。
「フィンランドは白夜と極夜があるらしいよ。体調崩さないように、気をつけるんだぞ。」
「一日中の昼か、もしくは夜かー。不思議だろうね。楽しみだな。」
蒔乃の腕には、一臣から贈られた腕時計が回されている。すでに時刻はフィンランドに合わせ済みだ。
「ちゃんと時刻を見て、生活しろよ。白夜中、夜でも明るいからって夜更かしは肌に悪いからな。」
「気をつけます。」
蒔乃は笑って誤魔化すが、はしゃいで夜更かしをする自分の姿が目に浮かんだ。
「国民の幸福度が世界で一位になったこともあるんだって。」
一臣がガイドブックで得たであろう知識を披露する。
「おみくん、私より詳しくなってんじゃん。そうかあ…。私もしあわせになれるかな…。」
「なれるよ。俺が祈ってるから。」
握られた手に力がこもる。緩急をつけて手を握りあい、二人は互いの存在を確認した。
「ありがとう。おみくんも、しあわせになってね?」
「どうだろ。蒔乃、祈っててくれる?」
私はもうとっくに祈っているよ、と呟くと、一臣は嬉しそうに笑ってくれた。
「ありがとう。…蒔乃。」
「なあに。」
好きだよ、と囁かれ、蒔乃はようやく素直にその言葉を受け取ることが出来た。
「おみくん。もし次、会ったら…、」
「うん?」
言葉を紡ごうとして、みきの顔が思い浮かんだ。彼らの未来のために、言おうとした言葉はとっておこうと思う。
「…ごめん。忘れちゃった。」
「なんだそれ。」
穏やかに笑ってくれる一臣を見て、今の判断は正しかったことを知った。
やがて、アナウンスと供に電光掲示板にヘルシンキ行きのフィンエアーの機体記号が表示される。と、供にキャビンアテンダントが搭乗の受付を開始した。
「行くね。」
蒔乃はゆっくりと立ち上がる。
「うん。」
一臣が頷いて、繋がれた手が離れていく。
搭乗口まであと、5メートル。
…………4メートル。
………3メートル。
……2メートル。
…1メートル
0。
「さよなら、おみくん。」
やがて、蒔乃を乗せた飛行機が飛び立っていった。一臣は空を仰ぎ、飛行機が向かう先をずっと見つめていた。
「…またね、だろ。蒔乃。」
月が浮き玉のように漂い、飛行機は星を夜光虫に見立てて光る海の中を潜っていくようだった。
ピピピピピピー…、
時計が鳴って休日の朝、やっと目が覚めた。
フィンランド、ラップランド地方の町にあるホテルで蒔乃は今、働いている。語学学校でフィンランド語を習い、田舎のこの町では日本語も扱えるとしてありがたいことに重宝されていた。
日本を発って、6年が経過しようとしていた。
それまでに一臣に送ったのは、5通の年賀状だけだった。自分の住所は添えず一方的な近況報告だ。
ビザの関係で一時帰国したときもみきの家に泊めて貰い、一臣には会っていない。
スマートホンはフィンランドに無数にある湖に水没させてしまい、壊れたので買い換えた。
日本で関係を持った友人たちと縁が切れてしまい動揺するかと思ったら、以外にもどこかでほっとする自分がいて驚いた。こんなにも薄情な人間だったのかと嘆くよりも前に得た安堵感は、きっといつまでもこの胸に宿るのだろう。
寝ぼけながらテレビを付けると、天気予報は雨を訴えている。午後から振る雨に備えて、買い物に行っておこうと思った。
蒔乃は服を着替えて、身だしなみを整えるとアパートメントを出た。近所に住む白い犬は会う度に吠えてくるから、水瀬の家の近くに住んでいた犬を思い出す。彼はもう寿命を迎えただろうか。
朝の市場に向かい、新鮮な野菜と魚など生鮮食品を買い求める。一人分とは言え、重いラインナップの物ばかりを買い込んでしまい若干後悔した。
国土の7割以上が森というこの国は、木を1本伐採したら5本の苗を植えなければならない。どこでもいいから逃げようと思った先に訪れたフィンランドは思いのほか、蒔乃という名の苗も優しく受け入れてくれた。
日本を嫌いになったわけでは無いが、フィンランドに訪れた理由を聞かれないのはとても楽だった。シャイで控えめな国民性にも随分と救われた。
荷物を抱え直して、空を見上げる。日本に繋がる空は今日、雲が厚い。天気予報が当たりそうだ。
足早に家路につき、冷蔵庫とパントリーに食料を仕舞う。昼食は途中のカフェでテイクアウトしたシナモンロールだ。カプチーノを淹れて一緒に食していると、窓の外から雨が降る音がBGMのように聞こえてきた。
「…。」
食器を洗い、伏せながら雨音をじっくりと聞く。よく聞いていると、雨粒が木の葉に落ちる音と地面に落ちる音が微妙に違うことに気が付いた。一方は軽く弾かれて、もう一方でしんと吸い込まれるような音だった。
雨が嫌いだった。肺に水が満ちるように呼吸がしづらいから。
でも、今はそうでもないから不思議だ。そういえばいつの間にか、耳の上にできた脱毛は治っていた。
午後は昼寝でもしようか。録り溜めた映画を見るのも良いかもしれない。
私に必要だったのは、距離だったのかも知れない。
結局、昼寝を決め込むことが出来ず、蒔乃は布団から起き出した。ぺたぺたと裸足で床を歩き、洗濯干し場へと続く窓サッシへと服を着込みながら向かう。カラカラカラ、と軽い音を立て窓は開く。外は相変わらず雨が降っていた。
「?」
ふと耳を澄ませば、足元で子猫の甲高い声が聞こえた。見るとまだ本当に小さなハチ割れ模様の子猫がうずくまり、鳴いていた。周囲を見渡しても親猫の姿は無い。蒔乃は子猫を抱え上げ、室内に戻った。
「体を温めた方が良いんだろうな。後は…、ごはんを与えなきゃ。」
スマートホンで処置を検索しながら慣れない動物の看護をし、蒔乃はしばらく様子を見ることにした。
テレビでは芸能人同士の入籍の話で持ちきりだ。恋愛の話はどうやら万国共通で、人気のようだ。
愛し、愛され、共に歩むことを決めた二人のなんと健やかなことだろう。いつか子を産み、孫が出来て、おじいちゃんおばあちゃんになって、最期を共に見つめることのできる素晴らしさ。
純粋に羨ましく思った。
「あれ、おかしいな。」
蒔乃の頬を涙が零れて伝った。涙は熱くて、サラサラしていた。拭っても、次から次へと涙が溢れるのが不思議だった。
お茶を飲んだマグカップを流しに片付けて子猫の様子を見ると、首を傾げるように子猫はこちらを見つめていた。
このハチ割れ模様は、見覚えがある。あれは、そう。水瀬家の猫だ。もう、猫の寿命から見れば死んでいても可笑しくはない。ふてぶてしい猫だった。それでも、朔司は可愛がっていたことを思い出す。
「近所の店に行けば、猫缶があるって聞いたっけ。」
蒔乃はコートを羽織り、今、アパートメントを出た。肺一杯に瑞々しい空気が流れ込んでくる。それはあの日の海水のようで、ほんの少しだが背筋がしゃんとするようだった。
近所の個人商店まで、徒歩15分ほど。それまでの道のり、名も無い小さな公園や河原がある。散歩がてら歩くには、些か一臣との思い出が蘇りすぎるほどだった。
気付けば鼻歌をうたっていた。一臣と二人で好きだったドラマの主題歌。曲名は忘れた。
個人商店で猫缶を買い求め、アパートメントに帰り、子猫に早速与える。余った食材で適当に作ったごはんなどとは比較にならないほど、がっつくように食べるものだからもう少し早く買ってきてやれば良かったと反省した。
台所に立ち、お湯を沸かす。熱いお茶を淹れた。テレビを付けると、昼の情報番組が流れている。何気なしに眺めていると、一臣が行ってみたいと言っていた美術館の特集を組んでいた。そこはオルゴールの美術館で、世界各国の多種多様なオルゴールが収められているらしい。目玉は世界最古のオルゴール。
どんな音色がするのだろう、意外とちっぽけなものかもしれないね、などと勝手なことを話したものだった。
蒔乃は、ふと布団で微睡みたくなった。一臣の気配を感じたくて横になる。枕に顔を埋めて深呼吸すると、安心する自分の香りと思い出に残るあの香り。甘くて苦い、あの日々を綴った中毒性のあるチョコレートのような香りを確かに鼻腔に感じるのだった。それはこの国に来たとき、初めて買った洗剤の香りだ。以降、気に入って購入し続けている。
心に雨が降っていた。止むことなど知らぬかのように降り続ける雨に、傘を差してくれたのは水瀬家に二人だった。そのときに拒めば良かったのに、甘んじて受け入れてしまったから、きっとあんなことになったのだ。
瞼を持ち上げたとき、天井がぐにゃりと歪んで見えた。今度は自分の涙を自覚した。もう、泣き尽くしたと思っていたのに意外とそんなことはありえないものだ。
起き上がり、ラジオに手を伸ばした。チューニングにこつがあり、音量を下げる。ざらついた音がしばらく響き、後に鮮明な人の声になった。電話相談室を受け付けていて、悩みに答えるありきたりな番組構成。
『ー…好きな人が、大学の友人と結婚しました。好きと伝えることも出来ず、どうしたら忘れられるのでしょうか。』
生きて別れるのと。死に別れるのはどちらがつらいのだろう。
蒔乃はラジオの電源を切った。
部屋の掃除をしたり、本を読んだりを繰り返しているうちに時間は過ぎ、もう夕方になってしまった。
「…!」
蒔乃は子猫の鳴き声が聞こえないことに気が付いて、様子を見てみると子猫は冷たくなっていた。少しの間、体をさすってみたが二度とその愛らしい声を聞かせてはくれなかった。
体が冷えてしまったのかも知れない。ごはんが違う器官に入ってしまったのかも知れない。
何かを間違えたのだろう。
蒔乃は子猫の小さな体を抱えて、公園まで歩いた。夜の帳が下り、もう公園には子どもの姿はおろか、誰の気配もしなかった。一番大きな木の根元を、持参したスコップで穴を掘る。小さな、小さな穴でよかった。子猫を開いた穴の底に横たえ、手で土をかけてやった。冷たい土だったが、仕方なかった。土に還らないと、この子猫はまた廻ることはできないのだから。手折ってきたドライフラワーの花を一輪、そのささやかな墓に添えた。
「…ごめんね。」
ごめん。私と関係したばかりに、死を招いてしまった。
愛されなくても良かった。愛せなくても良かったはずなのに、望んでしまった。求めてしまった。
蒔乃は土に汚れた両手で、顔を覆った。嗚咽が零れる。
会いたい。ただ、会いたい。
「ごめん…、なさい。」
その日の夜。また夢を見た。相変わらず白と黒の世界だったけれど、一臣が笑ってくれた。そして大きな手のひらを蒔乃の頭に載せて撫でてくれた。
信じていないはずの神様に願った。
笑わないで。そんな優しい表情をしないで欲しい。
深夜に目が覚めて、窓から白い明かりが差していることに気が付く。
月明かりの中、私が手を振るときに生まれた風に乗って母親と朔司の魂がゆっくりと天に昇れば良いのに。
蒔乃は行き場の無い感情のあまり、親指の爪を囓る。爪はギザギザに噛み千切られて、やがて血が滲んだ。
台所の鍋や調理器具、猫のハチ割れ模様や公園の背景にすら水瀬の家族を見つけてしまうから。
だけど。
それらすべてが、愛おしかった。
紫のある物すべてを愛せる恋があることを、蒔乃は初めて知った。
「おはようございます。」
「おはよう、蒔乃。今日もよろしく頼むよ。」
出勤した職場は個人が経営する小さなホテルで、今日は珍しく日本からの予約客が一人登録されていた。蒔乃はその日本人にかかりきりのホテリエになる予定だ。
何人かの客の案内の後、ようやくその予約客がホテルに訪れた。
「お待ちしておりました。…ー、」
忙しさに負けて、今、予約客の名前を見る。反省しなければ。
「…蒔乃?」
[kazuomi Minase.]
蒔乃はゆっくりと顔を上げる。
そこには、一臣が立っていた。
「おみくん…。」
久しぶりに会った一臣は幼さが抜けて精悍な顔つきになり、年下の男の子感を脱却していた。
「やっと見つけた。」
少し怒った表情を見せる一臣に、逃がすものかと意思を感じるように手首をきゅっと握られる。
「な、んで、ここに?」
一方で確実に混乱に陥っている蒔乃は、大きく瞬きを繰り返した。
「ん。」
一臣が蒔乃の胸にポケットから取り出した年賀状のはがきを5通、押しつける。どのはがきもぼろぼろに読み込まれていて、紙の縁はすり切れてテープで補修されてあった。
「この年賀状だけで許されると思うなよ。」
「あー…。」
彼の激情に触れて、後退ろうとするも掴まれていた手首がそれを邪魔した。
「逃がすと思う?」
にっこりと微笑まれて、むしろその笑顔が怖かった。背中に冷や汗が伝うのがわかり、蒔乃は素直に謝ることにした。
「…ごめんなさい。」
「どれだけ探すの苦労したと思ってる?住所が書いていなくて、消印の町を調べても毎回違うところからだし。」
そういえば年末は旅に出てその都度、滞在する町から年賀状を出していた。一臣を錯乱に陥らせたのは、その部分が一番強いようだ。
「フィンランドに行った早々に住所を変えてさ。3年目の年賀状にホテルで働くことになったって手がかりを得て、片っ端から探したんだからな。」
早口で煽る一臣は相当立腹しているようだった。
「で?何か、申し立てはある?」
「えーと…。おみくん、格好良くなったね?」
「蒔乃は綺麗になったよ!バーカ、バーカ。」
「褒めて貶すって新しいね!?」
二人で子どもの頃のように騒いでいたが、ここがホテルのフロントと言うことで自然と人の視線を集めていることにようやく気が付く。蒔乃はコホンと咳払いを一つして、接客モードに切り替えた。
「水瀬様、お部屋にご案内しますね。こちらへどうぞ。」
蒔乃の他人行儀な笑顔に一臣はふーんと頷いて、にやりと口角を上げる。
「ああ、そうだ。荷物、運ぶの手伝ってもらえます?」
「かしこまりまし、た!?」
そう言って、一臣のボストンバッグを手に取って、その重さに蒔乃は驚愕する。
そういえば陶芸の土を運んで鍛えられていたな、などと懐かしい記憶が蘇ると供に、彼はこの荷物を持って各地のホテルを点々としてきた事を知りさすがに申し訳なさが胸に募った。
「大丈夫ですか?やっぱり、俺が持ちましょうか。」
「大、丈夫です…っ。お持ちします、ね!」
ホテルの廊下を連れ立って歩き出す。ふかっとした毛足の長いカーペットをハイヒールの靴裏越しに感じ、上手く踏ん張れないことを恨めしく思った。
蒔乃はふらふらとバランスを取りながら、何とか一臣の荷物を客室へと運び込んだ。ようやく荷物を置いて、蒔乃はようやくほっと一息吐いた。
「じゃあ、おみくん、」
仕事中だからと切り上げようと思い、振り返った刹那。蒔乃は一臣の腕の中にいた。
「…。」
ぎゅう、と抱きしめられて、たくましくなった胸に閉じ込められる。蒔乃はそっとその広い背中に手を添えた。久しぶりの彼の香りは、薄荷チョコレートのように甘いのにすっきりとするような不思議なものだった。どうやら年月は若い体臭も変えるらしい。
「…どのぐらい、怒ってる?」
蒔乃のくぐもった声が響く。だがしっかりとその声は一臣の鼓膜に届いたようだ。
「怒ってたよ。怒ってた。けど、何か全部吹き飛んだ。」
「やったー。」
おどけるように喜んでみせると、一臣は深く溜息を吐いた。
「本当さー…。何で俺、こんな自由奔放な子を好きになっったんだろ。」
そう言うと、一臣は蒔乃の肩口に顔を埋める。
「まだ好きでいてくれるの?」
蒔乃はよしよしと首筋に触れる一臣の髪の毛を撫でた。
「大好きだよ。」
背中に回していた手のひらの位置が腰に移動して、ぐっと引き寄せられる。密着する面積が広くなると、より一臣の体温を感じることが出来た。
「蒔乃が行方不明になったと思ったら、一時帰国して藤田先輩の家に行ったと言うし。捕まえようとすると、逃げてくし。手負いの猫かと思った。」
みきの名字を一臣の口から聞き、ふと親友の顔が脳裏によぎった。
「みきは元気?」
「俺なんかより、めっちゃ怒ってる。」
「…だよね。」
きっと泣いて、頬を膨らませるようにして怒ってるのだろうなと容易に想像が出来た。
「なんと。静正と結婚した。」
さらりと衝撃の事実を一臣は投下してくる。
「え?馴れ初め、何?」
「恋愛相談に乗ってるうちに、惹かれ合ったらしい。」
きっとみきは頬を染めながら、静正に一臣のことを相談したのだろう。その内に心の距離も縮まって、恋する気持ちの変化に気付いたのだろうなと思う。人生、何が起こるかわからないものだ。
「…ね、おみくん。私、そろそろ仕事に戻らないと。」
一臣の背後にある時計を見て、蒔乃は申請する。
「嫌だ。せっかく捕まえたのに。」
「おみくんー…。」
困ったなと思いつつ、悪い気はしなかった。むしろ嬉しさを感じているのだから、勝手なものだ。
「わかった。お詫びに今夜、オーロラツアーを奢るからさ。ね?」
「蒔乃も行く?じゃなきゃ、参加しない。」
フィンランドの奥義を発動しても尚、自分が一緒じゃないと嫌だという一臣が愛おしく思った。
「…わかった。一緒に行こう?見られるかはわからないけど。」
そう言うと、ようやく一臣は蒔乃を手放してくれた。
「見られなくても良い。蒔乃が一緒なら何でもいいよ。」「光栄だよ。そんな風に言ってくれると。」
苦笑しながら蒔乃は、そっと一臣の胸を押して距離を取った。
「じゃ、仕事に務めてきます。私、今日は日勤だから、また夜にね。」
「うん。それまでのんびりしてる。」
一臣が滞在する客室を出て、蒔乃はフロントへと戻る。そこでホテルのオーナーと一組の客に対して、困ったように対応していた。そして現れた蒔乃と目が合うと、縋るように声をかけられた。
「蒔乃。さっきの日本人は、君の知り合いかい?」
「え?ええ。そうですけど…。」
蒔乃の答えを聞いてオーナーは、申し訳ないが、と言葉を紡ぐ。
「日本人の彼を君の家に泊めて貰うことは可能だろうか?お客さんがダブルブッキングしてしまったんだ。」
どうやらパソコンで不具合が起きてしまったらしい、とオーナーは言った。
「それは…、構いませんけど。」
ホテルのオーナーには日頃から世話になっている。困っていたら力になりたいし、一臣とは日本で一緒に住んでいたのだから今更、何の問題も無い。
「よかった、ありがとう。今から説明に行ってくるよ。彼の部屋は何号室だっけ?」
蒔乃が答えると、クマのように体の大きいオーナーは転げるように駆けていった。
それから十数分後、一臣を伴ってフロントまで帰ってきた。
「悪いね、蒔乃。彼をよろしく頼むよ。今日はもう上がっていいからね。」
「わかりました。ありがとうございます。」
頭を下げて、一臣の元へと行く。すると感心したように蒔乃を見つめていた。
「どうしたの?」
「蒔乃がフィン語を喋ってると思って。」
ぱちぱちと拍手しながら、一臣は言う。
「勉強したからね。それより、ごめんね?急にうちに来ることになって。」
「それは大歓迎。何なら、どうやって蒔乃の家に潜り込もうかなって考えてたから。」
一臣はぐっと親指を立てる。蒔乃は声を出して笑った。
「正直だなあ。」
懐かしいこの感覚は悪い気がしない。
蒔乃のアパートメントは職場のホテルから、バスで数分の位置にある。
「どうぞー。散らかってるけど。」
「お邪魔します。」
日当たりのよい角部屋で、アパートメントとは言っても二階もあり日本とは随分と作りが違うようだった。
「良い部屋だね。」
「でしょ。」
蒔乃はお茶を淹れるために、台所に立つ。コーヒーの消費量世界一の国らしく、丁度、貰い物だが美味しいコーヒーがあったのでそれを準備した。
「緑茶はさすがに、手に入りづらくて。ごめんね。」
「さすがに日本じゃない国に来て、そんな贅沢は言わないよ。」
ありがとう、と言葉を紡いで、一臣はコーヒーを受け取って飲む。しばらく沈黙の時間が流れる。時計の秒針が刻む音や、マグカップとスプーンが触れあう音だけが静かに響いていた。
何だか妙に居心地の良い空間だった。座るソファの隣に愛しく思える人がいるだけで、こんなにも心が満たされるのかと思った。
ちらりと一臣を覗うように横目で見ると、彼の首筋に過去に付けた噛み痕がふっくらともりあがって、桃色の痕になっていた。
「? 何?」
蒔乃の視線に気が付いた一臣が微笑みながら、首を傾げてみせる。蒔乃は躊躇しつつ、彼の首の肌にそっと触れた。
「…。」
一臣はくすぐったそうに息を呑み、そして目を伏せて蒔乃の指先に頬ずりをする。
「…痕、残っちゃったね。」
「勲章だよ。いいだろ。」
蒔乃がごめんねを言うよりも先に、一臣は自慢とばかりに胸を張った。
「そっか。」
ふふふ、と穏やかに蒔乃が笑うと、一臣は満足そうに頷くのだった
「オーロラツアーまでどうする?観光でもする?」
夜に行われるツアーはホテルまでバスが迎えに来てくれるので、それまでまだ時間がある。
「んー…。近所、散歩してくるよ。」
ボストンバッグから荷物を取り出して、整理しながら一臣は答える。
「そう?じゃあ、私も行こうかな。」
「おう。行こーぜ。」
二人連れだって、玄関を出る。蒔乃が扉に鍵を駆けている間、一臣は近所に住む子どもたちと挨拶を交わしていた。どうやら挨拶ぐらいのフィンランド語は習得してきたようだった。一臣と話し、きゃあ、と歓声のような声が子どもたちから上がっている。
蒔乃が服のポケットに鍵をしまいつつ、一臣の元へと行く。子どもたちは走り去っていて、一臣は手を振っている。
「お待たせ。何を話してたの?。」
「うん?わかんないけど、俺と蒔乃は恋人同士だよって言っておいた。」
「…バカ。」
もっと他に覚えるべきフィンランド語があっただろうに、と蒔乃は苦笑するのだった。
「いや、マーキングは大事だぞ。愛だね。」
一臣はしれっと言う。『愛』という単語は何だかくすぐったい。
街路樹が並ぶ、石畳の道を歩いて行く。
蒔乃のお気に入りの本屋で興味深そうに一臣は本の背表紙を眺め、一冊を手に取っては優しく表紙を撫でてパラパラとページをめくる。時々、何て意味?と問われ、その度に蒔乃は彼の手元を覗き込んで答えた。
カフェでコーヒーとドーナツをテイクアウトして、買い食いをした。町の広場にあるベンチに腰掛けて食していると、丸々と太った鳩がおこぼれをもらえないかと近寄ってくる。何も無いよ、と蒔乃が手のひらを広げてみせると、なんだとばかりに残念そうに鳩は飛び立っていった。
「ここの鳩って、全体的に丸いよな。」
「羽毛を膨らませないと寒いからねー。彼らにとっては死活問題だよ、きっと。」
他愛もない会話を交え、立ち上がる。
さて、次はどこへ行こうか。
「蒔乃、ここは?」
一臣が指差したのは公園の中にある、小さな教会だった。
「教会の礼拝堂。誰でも入れるよ。」
そう言って蒔乃は一臣の手を引いて、礼拝堂に入る。そこにあるのは木の温もりと優しい自然の光。静寂を柔らかく破るためのパイプオルガンと、鈍く光る十字架が鎮座していた。
「…綺麗だな。」
「うん。日本のお寺とは違う、荘厳さがあるよね。」
足を休めるためにしばらく滞在して、二人が外に出るともう夕日が差す時間帯になっていた。
夜、一臣と蒔乃はホテルに迎えに来たバスに乗って、町の光源が届かない森へと向かうオーロラーツアーに参加した。賑やかな観光客に紛れて、二人は手を繋いでバスに揺られていた。
「すごい…。夜に飲まれていくみたいだ。」
一臣が車窓から景色を見ようとして呟く。町の灯りは遥か後方に流れ、周囲はバスが行き先を照らすライトだけを光源としていた。
「ちょっと、怖いよね。」
丸い光が重なるように地面を照らしている状況が、何だか心細さを助長するようだった。
蒔乃の言葉に一臣も頷く。
「日本の夜って、明るいんだって思った。」
「しかも人工的な明るさね。」
まるで一緒にいなかった時間を埋め合うように、くすくすと笑い合う。そういえば子どものころも、いたずらを計画しては同じように笑い合っていた気がする。妙に感じる懐かしさの正体を知り、幼かった自分たちを微笑ましく思った。
バスはやがて舗装のされていない道を行き、ガタゴトと大きく揺れる機会が増えてきた。揺れる度に一臣と蒔乃の隣り合った肩が、僅かに触れあう。振動が愛しく感じられたのは初めてだった。
やがてツアーのバスは、湖畔のロッジの前で停車する。今夜は、このロッジでオーロラを待つらしい。
「蒔乃、手。」
バスを降りるステップで、一臣が手を差し出してくれる。足元がよく見えない中、ありがたい申し出に蒔乃は迷わずその手を取った。
「きゃ、」
「おっと。」
着地した地面に予想外に積もっていた雪に足を取られて、蒔乃はよろけてしまう。思いっきり一臣に寄りかかってしまうが、彼は蒔乃の体重をものともせずに受け止めてくれる。
「ごめん。」
「平気。」
その後も心配だからと握っていた手は腕に組まされて、安定良くロッジの玄関に続く階段を上るのだった。
ロッジの中は暖炉で空気が暖められていて、飲み物や軽食が用意されていた。各々がオーロラを快適に待つことが出来る空間だった。
「今日は雲が出てるから、オーロラは難しいかもね。」
蒔乃は窓から空を仰ぎ、呟く。雲の下にオーロラは発生するので、厚く空を雲が覆っていると見ることが出来ない。
「まあ、あまり期待しないようにってガイドブックにも書いてあったし。そのときは、そのときだよ。」
「そっか。そうだね。」
「それでも…もしもオーロラが見れたらさ、」
「ん?」
一臣が紡ごうとする言葉に、蒔乃は首を傾げつつ待つ。
「蒔乃に伝えたかった言葉、伝えても良い?」
「…。」
「蒔乃さーん。無反応は傷つくんですけどー?」
唇を尖らせてみせる一臣に、蒔乃はくっくと笑った。
「…そんな約束しなくても、聞いてあげるよ?」
「いや…。微妙に緊張するんで…、覚悟が決まるまでのタイムリミットっていうか。」
蒔乃はいよいよ腹を抱えて笑い出す。
「わかった。おみくんのタイミングまで待つね。」
結果として今夜、オーロラを見ることは叶わなかった。
ツアーの主催者もギリギリまでねばってくれたが、バスで町に帰る時刻になってしまった。残念と言う溜息が続々と漏れる。
「…やっぱり、だめだったねえ。」
バスに乗り込む前に空を見上げると、さっきよりも厚く雲が覆っていた。
「うん。危なく永久に言葉を伝えられないところだ。」
そう言う一臣は心底、ほっとしているようだった。
「決心着いたの?」
蒔乃が問うと、一臣は首を横に振る。
「まだ。」
「まだかー。意外とかかるなあ。」
ふと小さな吐息を漏らし、蒔乃は一臣の肩に自らの頭を預けた。眠気が彼女を襲う。
「ねー…。おみくん…。」
「何?」
夢と現の狭間を行ったり来たりしながら、蒔乃は呟く。
「…見つけてくれて、ありがとね。」
「まあ…。見つけるまで、探し続ける覚悟でしたから。」
手と手を握り合う。
「それでもさー。忘れられてもおかしくなかったよ?」
「忘れるわけないだろ。」
蒔乃の指と指の間の水かきに一臣は爪を立てて抗議するのだった。
「…。」
「寝た? 蒔乃…。」
返事は無く、蒔乃はいつの間にか寝息を立てていた。そのあまりにも健やかな雰囲気に、一臣は良かったと心から思った。フィンランドに暮らす蒔乃は荒れていた時期とはまるで違う人物のようだった。
感情を宿し、眠気を催し、食事もしっかり摂れている。
そんな普通の人間の生活を送れていることに、安心した。
「…良かったなあ。」
蒔乃の人間らしい姿に、熱くさらさらとした涙が零れた。いつだって心配で、ずっと気にかけていたのだ。蒔乃の知らぬ間に泣くことぐらい、許されるだろう。
バスが町に着くまで、一臣は彼女の体温を肩にずっと感じていた。
ぽとん、とユニットバスの天井から水滴が落ちる。
「おみくん、タオル置いておくね。」
磨りガラスの扉の向こうで、蒔乃の声が響いた。
「ありがとう。」
狭いバスタブに足を折り畳むようにして浸かる一臣は礼を言いながら、張ったお湯を楽しんでいた。移動ばかりだった旅路の先、蒔乃のお気に入りのバスソルトが入ったお風呂は何だか感慨深い。
塩っぽくて、温かいこの感覚はいつかの海のようだと思った。
「ー…。」
深呼吸をすると薄荷のように清々しい湯気が肺に満ちた。
オーロラツアーから帰ってきて冷えた指先が、お湯とのその温度差でぴりりと痺れるように痛む。
「蒔乃ー。」
何となく名前を呼ぶと居間の方で、何ー?と間延びするような返事があった。
「ごめん、何でもないわ。」
「冷やかしご遠慮くださーい。」
はは、と笑い声が滲む。名前を呼んだ声に返事があることが嬉しかった。
充分に温まり、風呂から上がる。
「家主より先に風呂頂いて、悪い。」
居間では蒔乃がお茶を飲んで寛いでいた。
「いいえー。しっかり温まった?」
「うん。」
「よっしゃ。じゃ、私も入ってくる。」
バトンタッチして、今度は蒔乃が着替えとタオルを持って浴室へ向かった。
再び一人になって、一臣は蒔乃の部屋を見渡した。青いベッドとテーブル。ソファには北欧の有名な柄のクッションや、フィンランド生まれのキャラクターのぬいぐるみが鎮座する。窓際に飾られた花が女性らしい部屋だった。
テレビのニュース番組や、置かれた雑誌に羅列されるフィンランド語に若干の気後れはするが、彼女を癒やしてくれた国なので一臣にも彼なりの愛着がこの国にあった。
意味を知ることの出来ない発音の言葉はまるで、人魚が話す言葉のようだと思った。耳に心地よい言葉を聞いているうちに疲れから、一臣はうとうととうたた寝をしていた。
「…。」
「あ、おみくん起きた。」
優しい指先の感触で、うたた寝から意識が浮上した。瞼を持ち上げると一番に蒔乃の顔が窺えた。
蒔乃は一臣の髪の毛を梳くように撫でていたようだった。
「それ、気持ちいーね。」
横に座る蒔乃の腰に、まるで幼子が甘えるかのように一臣は腕を回す。
「本当?なら、よかった。」
蒔乃は眼下の一臣を柔らかく見つめながら、彼の前髪の毛先を丸めるように指に絡ませた。穏やかな雰囲気の中で戯れて、二人はようやく就寝することにした。…のだが、問題が勃発した。
蒔乃はお客さんがベッドで寝るべきと主張し、一臣は家主がベッドで寝るべきと主張したのだ。互いにソファで寝ることを譲らずに、若干の険悪なムードが漂う。
「わかった。わかった、じゃあじゃんけんだ。もう。」
一臣の提案に蒔乃が乗り、久しぶりに本気のじゃんけんを繰り広げることとなった。
「最初はグー、無しのいきなり勝負ね。」
「ぜってー、負けねー。」
そのじゃんけんの結果。
一臣、グー。
蒔乃、チョキ。
「お姉さんに花を持たせてよねー…。」
ぶつぶつと文句を言いながら、蒔乃はベッドに潜り込む。
「誰がお姉さんだ。」
本当に、お姉さんだなんて思ったことはない。蒔乃のことは、一度も。
「電気消すよ?」
「あ、待って待って。スマホ充電しなきゃ。」
蒔乃が充電ケーブルを探し終えて、ようやく電気を消す許可が下りたのだった。
おやすみを言い合って、眠ろうとして、でもどうしてもお互いの気配を探ってしまう。背中越しに感じる身じろぎの衣擦れ、静かなる呼吸。時計の秒針が時を刻む音がやけに大きく感じられた。
「…。」
ソファが軋み、床に足が降りる気配がする。
「…蒔乃、寝た?」
「うん…。寝た。」
バレバレの嘘に、起きてるじゃん、と一臣がふと微かに笑う。ひたり、と音を立て裸足で近づいてくる一臣に、蒔乃は壁側を向いたまま緊張に布団の端をきゅっと握っていた。
来ないで、と思う。でも、期待もあるのも確か。
近づく足音が止まって、ベッドの縁に腰掛ける一臣の体重の重みを軋む音で感じる。
心臓の音がうるさくて、寝てる体勢なのに立ちくらみを起こしたかのように目の奥がクラクラする。
「ね、蒔乃さ。今更なんだけど…、パートナーはいるの?」
一臣にそっと尋ねられる。
「い、ないよ。そういうおみくんは…?。」
「いない。」
ああ、もう。
二人を阻むものが無くなってしまった。
一臣が蒔乃の肩に触れて、彼女の顔を覗く。蒔乃は涙を零していた。
「ごめんね。嫌だった?」
「…っ。」
彼の問いに蒔乃は首をゆるゆると横に振った。
嫌なわけがない。だって、
一臣はベッドに乗り上げる。二人分の体重を支えて、ベッドが大きく軋んだ。
蒔乃の顔の横に一臣の手が置かれて、もう逃げることが出来ない。逃げる気も無いけれど。
「おみ、く…んっ。」
蒔乃は片手で隠すように顔を覆う。
「何?」
長い黒髪の毛先を掬ってキスをしながら、一臣は問う。
「…大好き、だよ…。」
「うん…。俺も、蒔乃が大好きだよ。この国で溶けて消えようとしても尚、蒔乃という存在を求めてた。」
一臣がゆっくりと蒔乃の顔を覆う手を退けた。蒔乃の瞳は涙に濡れて潤み、カーテンから漏れる月光を反射させて輝いていた。
二人の瞳に映る互いの姿は思い出よりも成長した、大人の顔をしている。当たり前だ。時間は平等に流れる。
ゆっくりとした動作で一臣は蒔乃の額にかかる前髪を撫でるように払う。形の良い額は丸く、肌はさらさらとしていた。一臣は蒔乃の額に唇を押しつけて、ちゅ、と音を立て離れた。眼球を覆う柔らかい瞼の皮膚を食み、睫毛をつんと唇の先で引っ張る。流れるように桃のような頬に口付けて、鼻の先を狼の親愛の情のように淡く囓った。
耳をくすぐると蒔乃から、ふふふ、と笑い声が漏れる。
愛しさが満ちていく。
花が開いた今、言葉だけが不要だった。
くすくすと笑い合い、そして時間をかけてようやく二人の唇が重なる。
感触は、ふに、として柔らかく、唇の皺が感じられるほどに密な距離で互いの呼吸を交換し合う。温かい体温を宿す唇同士が溶け合っていくような錯覚に、幸福感で胸がまるで溺れそうだ。
一臣は蒔乃の唇の先を柔く噛み、驚きで僅かに開かれた口腔内に舌をそっと差し入れた。
熱く滑った舌が絡み合い、甘い唾液が二人分混ざっていく。蒔乃の整った歯のエナメル質を一臣の舌先がつるりと撫でる。
「…ぅ…、」
蒔乃が苦しそうに一臣の胸を叩いて、呼吸を促す合図を送った。その合図で、夢中になっていた一臣ははっとして彼女を解放した。
蒔乃は、ふう、と深呼吸を繰り返す。大きく上下する胸が、一臣の胸に当たった。
「蒔乃、いいかな。このまま…。」
一臣の手のひらが蒔乃の胸を覆うように、優しく触れる。彼女の心臓の鼓動がとくとくと手のひらに直接感じた。
「…いいよ。」
「ありがとう。」
掠れた一臣の声が蒔乃の鼓膜に響いた。
分厚かった雲から、いつの間にか雨が滴り落ちていた。温かい、恵の雨だった。
蒔乃は一臣に抱かれながら微睡んでいた。触れあう素肌が心地よくて、肌に滲む汗のおかげでよりぴったりと密着する感覚に陥る。
遠くで洗濯機が回り、シーツを洗う音が聞こえた。雨音といい、水が流れる音は母親の胎内を思い出させるからとても好きだと思う。
「…蒔乃…。」
水に晒されるように、一臣の声が蒔乃の意識に流れ込む。それでも、眠気で瞼を開けない。
ー…なに?おみくん。
私は声を言葉に出来たのだろうか。
「…明日の朝、8時に公園にある教会に来てくれる?」
朝、8時。
蒔乃の脳裏に記号のように一臣の言葉が刻まれる。
「うん…。わかった…。」
小さく細い声が蒔乃の喉から絞り出されるように発せられて、一臣は満足そうに頷いたようだった。
「いい?8時、ぴったりに来てね?」
…。
……。
………。
…朝、8時に。
夢の中で囁かれた声に誘われるように、蒔乃は目覚めた。
「…おみくん?」
隣に寝ているはずの一臣がいない。もしかして今までのことは全て夢だったのだろうかと思い、だけど確かにある体の奥の熱と腰の気怠さに一臣の存在が残されていた。
蒔乃は時計を見る。時刻は朝の7時27分を差していた。
「やば…っ、」
教会のある公園に8時まで行くには、そろそろ出ないと間に合わない。身支度もそこそこに、蒔乃はコートとマフラーを身につけてアパートメントの部屋を出た。
冬の凍った道を歩かないように、だけど確実に間に合うようにどうしても早歩きになる。何度か転びそうになりつつ、蒔乃は急いだ。教会に確実に一臣がいる。その事実が、蒔乃を励ました。
教会は礼拝に来る人たちのために、朝7時には開かれている。それは旅人にも許されていた。
昨夜の雨上がりの冷たい空気が痛いほどに肺に満ちる。手袋を忘れてしまったため、指先がかじかんで赤くなっていく。でも、痛くない。きっと無痛症じゃなくても、痛くないと思う。今の気分の高揚にはそれほどの麻薬ような何かが込められている。
7時58分、蒔乃は教会の扉の前に到着した。
深呼吸を繰り返して、呼吸を整える。腕時計を見ると、あと30秒ほどで8時になるところだった。秒針がゆっくりと上に向かって、傾いていく。
そして、8時丁度。
蒔乃は教会の重い木製の扉を開けた。
「…っ!」
その直後、教会で世話をしている鳩たちが一斉に羽ばたいて、蒔乃の横を通り過ぎていった。パタタと羽を叩く音が軽やかに空に浮かび上がって、蒔乃は驚きに閉じた瞼をようやく持ち上げる。
「蒔乃。来てくれて、ありがとう。」
そこには、一臣が立っていた。8時は、鳩が寝床でもあるかごから自由になる時間だったらしい。教会に仕えるシスターは鳩の自由を祝うようにパイプオルガンを弾き奏でている。
そのドラマチックな景色に、蒔乃は目を細めた。雨上がりの真っ青の空に、鳩が群れを成して喜びを表すように飛び立っていく。そういえば、鳥は特別な朝の挨拶を持っているらしいと思い出した。
おはよう、一緒に朝を迎えられて嬉しい。と。
そして隣に一臣の気配を感じて視線を下ろすと、彼は膝をついて蒔乃の手を取った。
「玉森蒔乃さん。」
「…はい。」
いつになく真剣な一臣の眼差しを受けて、蒔乃も佇まいを直す。
「結婚しよう。…じゃなくて、してください。俺と。」
小指と小指を結ぶ運命の赤い糸とやらは随分ともつれ合っていたようだ。
「あー…。ごめん、練習したんだけどイマイチ決まらなかった。」
一臣は悔しそうに頭を掻く。
「…で、いいの?」
「え?」
「私で…、いいの?」
するすると解けた赤い糸はやがて、一臣と蒔乃の手のひらを一針ずつ縫い合わせていく。
「もちろん。」
一臣は頷くと、ボトムスのポケットから布張りの赤い小箱を取り出した。そして徐にその蓋を開ける。中に入っていたのは、小さなダイヤモンドのついた華奢なデザインの指輪が収まっていた。
「蒔乃じゃないと、だめなんだ。」
そっと蒔乃の左手を取る。
「…この指輪、嵌めてもいいかな。蒔乃が俺の首に噛み痕を残してくれたように、俺も蒔乃に証を刻みたい。」
「はい…。」
蒔乃の返事を聞いて、一臣は彼女の薬指に指輪を差し入れる。その手は震えていた。
赤い糸が肌を縫う痛みが全身に駆け巡るようだった。
左手の薬指にシンデレラフィットした指輪は、朝日を浴びて流れた涙のように輝いていた。
「よく私の指のサイズ、わかったね?」
「蒔乃と手が似てる店員さんに協力してもらった。」
「…ふーん?」
蒔乃は一瞬不穏な気配を醸し出しながら、微笑んだ。
「何か地雷踏んだ?」
一臣が笑顔を引きつらせる。
「いいえー?…でも、何だか、ちょっとジェラシーだぞ?」
私じゃない女性の手を握って、指輪を選んだとは。
「ごめんなさい。」
瞬時に謝る一臣の姿勢に溜飲が下がり、蒔乃は彼を許す。そしてようやくその指輪を見た。
「これで私、おみくんのものだね。」
蒔乃がはにかむように笑うと、一臣も緊張から解放されたように満面の笑みを浮かべた。
「ものじゃない、大切な家族だ。」
立ち上がった一臣と何度もキスをして、蒔乃はそういえばと言葉を紡ぐ。
「私、朔司さんの最後の言葉の意味がやっとわかったの。」
「何?」
ー…いきなさい。
「あの言葉は安全なところに行けとか、自分のいないところに行けって意味じゃ無くてね…、」
生きなさい。
「生きろ、って意味だったんだよ。」
「…ああ、そうか。そうだったのか。」
生きろ、と一臣も呟いて反芻する。
「全く、紛らわしいよな。親父は。」
愛しい家族の最後の失態に一臣は呆れながらも、声を出して笑う。
「本当にね。でも、そういう少し抜けたところ、あったよね。朔司さん。」
僅かな痛みは残るけれど、もう、笑いを含みながら彼の思い出を語ることができるのが嬉しい。
傷は癒え、肉が盛り上がり痕に残ったけれど、触ると柔らかく肌に残った。
赤い糸の赤は、肌を縫った際に染まった血液の赤。
きっと運命を謳った糸は結ぶだけに飽きたりず、恋人たちを縫い合わせるのだろう。気配が途切れないように、もう二度と存在が離れないように。
そして私たちは、痛みを抱えて生きていく。
了
閉店して間もない間接照明だけが灯る薄暗い店内に、玉森蒔乃と水瀬朔司の影が触れあった。
24時の深夜。床のモップがけを終えた朔司の白いワイシャツの裾を、つん、と蒔乃が引っ張るとそれが合図で彼は両手を広げて見せた。蒔乃のアーモンドのように形の良い瞳は大きく揺れて、朔司の姿を映す。瞳に映る朔司は淡く凪ぐように微笑んでいて、おいで、と蒔乃を誘うのだ。
いつもなら行儀が悪いと叱る側の朔司がバーカウンターに腰掛け、長身ながら線の細い蒔乃を軽々と抱き上げて膝に乗せた。向かい合うように座ってしばらく二人、互いの目を覗き込む。光の加減でアンバーブラウンに溶ける虹彩が輝いて、薄ら闇に煌々と浮かび上がった。蒔乃は朔司のワイシャツの首元のボタンを細く長い指で外していく。プツリ、と焦れるようにボタンと布地が離れる度に、蒔乃の気分が高揚していった。一方で朔司はその様子を優しく慈愛に満ちた眼差しで、柔く温かい目色を灯しながら彼女の旋毛を見つめていた。
やがて目当ての柔肌を晒して、蒔乃は唇を寄せる。やわらかい黒猫のような髪の毛が朔司の首をくすぐって、吐息が漏れそうになるのを我慢した。蒔乃はとても敏感に人の気配を感じ取るので、吐息を溜息に捉えてしまうことが多々あった。
唇は温かく、柔らかい。
蒔乃は大きく息を吸い込むと、朔司の首筋に歯を立てた。
「…っ、」
弾力性のある肌がぶつっと破れる音がした。朔司が息を呑む。鈍い痛みを我慢して、蒔乃の髪の毛を梳くように撫でた。彼女の髪の毛はしっとりしていて、手のひらによく馴染むようだった。朔司は指に絡めると、するりと重力に従って落ちていく髪の毛をしばらく堪能する。
ようやく満足したのか蒔乃がそっと顔を上げると、唇の淵が朔司の血で僅かに濡れていた。そのまま自らの舌で舐めとろうとする蒔乃の唇に、朔司は自分の人差し指の腹を押し当てて制止した。
「朔司…さ、」
蒔乃が掠れた声で朔司の名前を呼ぶ前に、彼の手によって口の中にチョコレートが放り込まれる。芳醇な香りと舌に蕩ける食感、そして甘い甘い糖分が蒔乃の口腔内に広がっていく。朔司がいつもポケットに忍ばせている口直しのチョコレートはいつだって美味だった。
鎌倉の住宅街に隠れ家のようにひっそりと喫茶&ダイニングバー『星ノ尾』が存在した。星ノ尾は朔司が営む店、そして城だった。彼は両親から託されたマンション経営の傍らに趣味として店を始めたと言うが、ありがたいことに常連客に恵まれて星ノ尾は意外にも繁盛していた。
昼間は喫茶店、夜間はバーへと姿を変える星ノ尾を供に支えるのは数名のアルバイトと朔司の姪である蒔乃だった。蒔乃は大学の休日ともなると昼に厨房の手伝い、そして夜になればバーテンダーとして働いた。
「玉森さん。シャインマスカットとホワイトショコラ、レアチーズのタルトを二つ。準備をお願いします。」
他校の女子大生のアルバイト、ウエイトレスの飯田が客から入ったオーダーを蒔乃に伝える。はい、と頷いて、蒔乃はメニュー名が書き込まれた伝票表を、朔司のいるバーカウンターの壁に貼った。そして紅茶を淹れている朔司の肩を小さく叩く。首を傾げるように朔司は蒔乃を見、蒔乃は蝶々を模すかのように手話を扱った。彼の耳には生まれつき音が無かった。
『注文が入りました』
そう伝えて伝票を指差すと、朔司はややあと頷いてゆっくりとした動作で作業に入るのだった。朔司の前職はショコラティエだったという。そんな彼の作るチョコレートのお菓子は星ノ尾の名物だ。季節の果物を使い、たっぷりとチョコレートをあしらったタルトは特に人気がある。
本日のタルトのメインはシャインマスカットだ。鉱物のプレナイトをカボションカットにしたかのような果実を、ホワイトショコラを淹れて混ぜたレアチーズクリームが乗せられたタルトにこれでもかと敷き詰める。客に出す前に粉糖をまぶせば、シロップで輝くシャインマスカットがよく映える宝石箱のようなタルトの完成だ。
朔司の手はまるで魔法使いの手だ。じっとその手つきを見つめていると、朔司はその蒔乃の熱視線に気が付いて淡く微笑む。そして、ちょいと手招きをして蒔乃を呼び寄せる
「?」
蒔乃は小首を傾げながら、朔司の元へと歩み寄った。朔司は銀の匙でボウルに余ったチーズクリームをすくい取って、彼女の口元へと運ぶ。蒔乃は小さく口を開けて匙を含み、チーズクリームを舐めとった。チーズのささやかな酸味と柔らかいホワイトショコラの甘みが絶妙なバランスで成り立ち、芳しい香りが鼻に抜けた。
蒔乃は思わず綻ぶ口元を片手で隠す。その様子を見守る朔司は笑って、そして出来上がったタルトの皿を託すのだった。
夜の帳が降りる頃。喫茶店の健全な様子から、星ノ尾は妖艶なバーへと雰囲気を変えた。さなぎが蝶に変わるように蒔乃も姿を変えて、朔司との関係も一転する。
蒔乃は髪の毛を結い上げて、その顔に華やかなメイクを施す。薄く引かれたアイラインは彼女の目の大きさを強調し、カーマインレッドに彩られた唇が艶やかに笑顔に花を添えた。そして長身の蒔乃には白いワイシャツと、黒いベストが引き締まるようによく似合った。
昼間は蒔乃が朔司のお手伝いだが、夜はバーテンダーとして朔司の師匠となった。下戸だというのは朔司で、彼の妹である蒔乃の母親は酒が強かったと言うから、やはり親子の血が勝ったのだろう。
ちりん、と鈴の涼やかな音が鳴り、今日も夜間の星ノ尾に客が訪れる。
「蒔乃ちゃん。今日もおすすめを頼めるかな。」
「かしこまりました。それでしたらー…、」
常連客の老紳士がカウンター席に腰掛けて、蒔乃にオーダーする。蒔乃はその老紳士が好む味を思い出しながら、たまたま店の小さなテレビから古い映画が放送されているのを目にした。1990年にアメリカで発表された映画で、陶芸家のヒロインが主人公に背後から抱かれるように座って二人でろくろを回すシーンが流れていた。
今日はこの映画をモチーフにしよう。
そう決めて、蒔乃はシェーカーを振るのだった。
23時、バーとしてはまだ早い時間帯に星ノ尾はクローズする。周囲が住宅街という環境で夜遅くまでオープンしない方が良いだろうという朔司の配慮だった。
朔司が銅製の看板を下げて、床のモップがけや店内を彩る生花に水やりをする。蒔乃はその間、食器やカクテルグラスの洗い物に励んだ。
刹那、蒔乃の洗剤の泡で濡れた手からカクテルグラスが一つ逃げた。
「あ…、」
床に触れた瞬間にキンッと甲高い音が立ち、薄いガラスが弾けてしまう。蒔乃は小さな溜息を吐き、膝をついてガラス片を拾おうとする。が、蒔乃の異変に気が付いた朔司によって止められた。
『僕が。』
と短く告げて、朔司は散ったガラス片を集めて新聞紙に包む。片付けを終えると、朔司は蒔乃の手を取った。そして一本一本の指を確かめるように診ていく。やがて両の手のひらを確認し終えると、ふと朔司は吐息を漏らした。そのまま蒔乃の手のひらに、くるくると円を描くように文字を書く。手話だと伝わらないニュアンスの会話は直接に肌に書くことが多い。
『良かった。ケガは無いようだね。』
朔司の指は長く骨張っていて、少し乾燥している。ざらりとした感触が肌に咲く時、背筋に快感にも似た震えが立った。
『力加減が難しいのだから、無茶はしないように。』
そのまま蒔乃の頭を優しく撫で、朔司は立ち上がろうとする。蒔乃は彼の手を握って、制止した。
「…痛かったら、良かったのに。」
一滴のインクをバスタブにぽとんと落としたかのような、蒔乃の呟き。
「ねえ。朔司さん。」
蒔乃は朔司の瞳を覗く。朔司のアンバーのような目色に蒔乃の姿が滲む。自分自身と目が合いながら、蒔乃は言葉を紡ぐのだった。
「噛んでもいい?」
微笑むように口角を上げた先に、八重歯が白く輝く。
蒔乃は無痛症を患っていた。
朔司が星ノ尾の戸締まりをしている間、蒔乃は一歩先に出た店先の小路で、夜空を仰いでいた。
四月の夜に桜の花びらが舞い、まるで温かい雪が降るようだった。
「蒔乃。今、上がり?」
自らの名前を呼ぶ声に視線を地上に戻すと、そこには一臣が傍らに自転車を携えて立っていた。蒔乃は頷いて、彼に近づく。
「おみくんも、帰りが今?頑張るね。」
「まーね。展示会、近いし。親父は?」
ざり、と砂利を踏みしめる音が響き二人が振り向くと、朔司が革のキーホルダーがついた鍵をポケットにしまいながら歩み寄るところだった。
一臣の名字は水瀬。朔司の息子だ。蒔乃は水瀬親子の元で、生活を共にしている。
『おかえり。』
朔司の手話に一臣も「ただいま」と手話で応えた。
「帰ろう。途中でコンビニ寄っていい?」
一臣の提案に乗るのは蒔乃だった。
「いいね。アイス食べたい気分。」
「こんな夜更けに食ったら太るぞ。」
まるで姉弟のように仲睦まじい若者二人の後ろを、朔司が見守りながらゆっくりと歩いて行く。
月は猫のように細く笑い、星明かりが白く道を照らす。三人の日常を彩る光は柔らかく、温かだった。
水瀬の家では食事作りの当番を決め、全員に順々と回ってくる。今朝は一臣が朝食当番だった。
「おはよー…。」
すでに食卓で新聞を読む朔司と台所に立つ一臣に、寝ぼけながらまだパジャマ姿の蒔乃は挨拶する。
『おはよう。』
朔司は新聞を畳み、手話で返してくれる。
「おはよう…って、寝癖がすごいことに。」
一臣の指摘に、後で直す、と間延びした声で返して蒔乃も席に着いた。
「はい、朝ごはん。」
全員が揃ったところで、一臣が作った朝食をテーブルに並べ始めた。
彼の調理スキルは低く、レパートリーも少ない。朝の定番は形の崩れた目玉焼きだ。それでも添える物を工夫しているらしく、焼いたウインナーやベーコン。スライスしたトマト、納豆などが食卓に並ぶ。基本は和食が多いが、今日はトーストした食パンが出てきた。
手早くいただきますをして、蒔乃は食パンにバターを塗りつつ口に運ぶ。
「朝、パンなの珍しいね。お米じゃないと昼まで保たないって言ってなかったっけ。」
「昨日、炊飯器をセットしとくの忘れた。」
言いながら、一臣は朔司にジャムの瓶を手渡す。
『ありがとう、あとコーヒーに入れる牛乳も取ってくれるかい。』
「ん。」
朔司は一臣から受け取った牛乳をマグカップのコーヒーにたっぷりと注ぐ。コーヒーの苦い味は苦手なのに、香りは好きだと言っていたことを蒔乃は思い出していた。
「蒔乃、急いで食べた方が良いんじゃね。この後、身だしなみ整えるために洗面所を占拠すんだろ。」
一臣と蒔乃は同じ大学に通っていた。大学では芸術を学び、一臣は陶芸科を。蒔乃は絵画科を専攻している。
「二限の東洋芸術史からだから、まだ余裕。」
頬袋のあるハムスターのように食事を摂りながら、蒔乃が答えた。
「いいなー。俺は座学、一限目からあるわ。」
「早いうちから単位取っちゃった方が楽だよ。」
大学二年生の一臣に先輩風を吹かせる。蒔乃は一年先輩の大学三年生だった。一臣が高校三年生のとき、同じ大学を受けると聞かされて随分と驚いたものだ。だが実際に学び舎を供にすると意外に便利で、忘れ物をしても補い合ったり、夜の時間帯の帰宅に用心棒にもなってくれる。
一臣は時計を見て時刻を確認すると、急いで朝食を掻き込んだ。そして慌ただしく席を立って、食器をシンクに下げる。
「悪い、蒔乃。食器洗っておいてくんない?」
「いいよ。夕食の買い物は行ってくれるんだよね。」
もちろん、と一臣は頷き、椅子にかけておいた上着を羽織って玄関まで駆けていった。
「行ってきまーす。」
バタバタと忙しない音が止むと、しんと静寂が家を統べた。
チッチッチ、と時計の秒針が時を刻む音が響き、字幕付きのニュースがテレビから流れている。ゆっくりと蒔乃は食事を続け、朔司はニュースを眺めながらコーヒーを啜った。そして食事を終えた三人分の食器を洗うために、蒔乃は台所のシンクの前に立った。
かちゃかちゃと食器同士が触れあう音を立てながら、蒔乃は鼻歌を口ずさむ。やがて白い泡を水で全て洗い流して、食器をかごに伏せた。一仕事を終えて振り向くと、朔司が『ありがとう』と手話で感謝を蒔乃に伝える。
「ううん。ね、朔司さん。今日はお店が休みなんだよね?」
ひらひらと手話で話す言葉はいつも浮き足立つ蝶々のようだと思った。その動きの優雅さに憧れて蒔乃が勉強すると、予想以上に喜んだのは朔司だった。蒔乃が初めて覚えた手話は『ありがとう』。それを披露したとき、朔司は目を丸くして次の瞬間に涙を零した。
『そうだよ。夕食は皆で食べよう。』
星ノ尾が休みのとき、夕食は朔司が腕を振るってくれる。休みの日まで料理をしなくてもいいのに、と一臣と供に言うと、朔司は『休みの日だからこそ、作りたいんだよ』と微笑んで言うのだった。一週間に一度訪れるこの休みの日は三人そろっての夕食が恒例になった。飲み会や遊びに誘われようと、この日だけは大学から二人は一直線に帰ってくる。
「楽しみ!献立はもう決まってるの?」
蒔乃は両手を叩いて喜ぶ。そんな彼女を見て、朔司はいたずらっ子のように笑うのだ。
『秘密。楽しみにしてなさい。』
「ええー…。一日中、気になるなあ。」
唇を尖らせる蒔乃に、朔司は時計を指さす。逆算して、もう身支度に取りかからないとバスに間に合わなくなる時間だった。きゃっと悲鳴を上げて、蒔乃は慌てて洗面所に向かった。
鏡で見る自らの寝癖の付いた髪の毛に、蒔乃は溜息を吐く。蒔乃の髪の毛は太く艶やかだが、癖が付くとそのしっかりとした毛質から直しづらいのだ。
今日もまた、四苦八苦しながら寝癖を直す。髪の毛の根元とて濡らしても、頑固な寝癖だった。
「ああ、もう…。これでいっか。」
頭を左右に振って確認し、及第点の出来に仕上げる。その後、歯磨きや顔を洗った。メイクは嫌いだ。バーテンダーの時だけでいい。
蒔乃は自室に戻り、昨夜から準備しておいた私服に着替えて、高校の時から使っているリュックサックを手に取った。そしてリビングにいる猫に餌を与えている朔司の肩をつんと突き、振り向いた彼に行ってきますと言う。
『行ってらっしゃい。気をつけて。』
朔司の手話に大きく頷いて、蒔乃は玄関を出るのだった。
蒔乃はバス停まで転がるように駆けていく。丘の上にある家からに下り道の先には湘南の海が微かに覗いていた。海面は春の暖かな日差しを受けて、白い木漏れ日のダンスのように光っていた。その景色を気に入ってか、一臣はバスには乗らず自転車通学を貫いている。
途中、絶対に吠える番犬に挨拶をしてバス停に着くと、バスは二分遅れでやってきた。始発に近いこのバス停で乗り込むと、結構な確率で座れることが多い。今日は最後尾の広い座席が空いていた。ラッキーと思いつつ乗り込んだ蒔乃が席に座ると、バスは緩やかに出発する。
バスはやがて海岸沿線を走り、駅からゆっくりと出てくる江ノ電と束の間並走した。蒔乃は凪いだ海を見ながら、朔司のことを思い出していた。
家で飼う猫に餌を与えている朔司の首筋が先ほどちらりと見えてしまった。彼は襟付きのシャツを好み、第一ボタンまできっちりとはめているが、俯いたりすると僅かばかりその肌が窺えるのだ。
そこには大きめの絆創膏が張ってあり、蒔乃が付けた歯形が痛々しく残っているはずだ。絆創膏に血が滲み、周囲の皮膚は青黒く内出血を起こし、治りかけの痕は黄色の肌になっていた。
申し訳ないと思う。そして、その倍も愛おしく蒔乃は感じるのだ。
蒔乃には脳の障害があり、痛覚が無い。触覚の電気信号こそ脳は受け取るが、痛覚の電気信号を脳は完全に拒否している。ただ、痛みを知らない訳では無い。彼女の障害は後天的なものだった。
蒔乃はバスの車窓に額を押し当て、小さな溜息を吐く。
今日も、海が綺麗だ。
降車ボタンを押して、大学最寄りのバス停に降り立つ。
もうちらほらと学生らしき若者たちが通学していた。その一員になり、蒔乃は大学へと向かう。警備員のおじさんと挨拶を交わす。
「おはようございまーす。」
「はい、おはよう。」
警備員さんと仲良くしていると色々と便宜を図ってもらえるのだ。例えば制作状況に応じて校内の寝泊まりを黙認してくれるとか、早朝の制作棟の開錠など。今までに数え切れないほど、その恩恵を授かっている。
座学が行われる教室のある棟に向かっている途中、友人たちに会い合流した。
「ねえ、レポートの提出っていつまでだっけ。」
「明後日だよ。確か。」
友人の一人のみきに問われて答えると、彼女が青ざめた。
「やっば、まだ手を付けてないわ。」
「それはやばい。」
蒔乃は苦笑する。マイペースなみきらしいが、締め切りには損な性格だった。
「えー、えー。えー、蒔乃は何を題材にしたの?」
中央の席がまとめて空いていたので座る。教科書を取り出す蒔乃に、みきが縋るように聞いた。
「うん?鳥獣人物戯画だよ。」
「日本最古の漫画って呼ばれてるヤツね!良いじゃん、書きやすそう。私もそれにする~。」
みきはスマートホンで素早く検索をかける。
「いいけど、レポートは見せないからね。自分の力でやんなよ?」
「それはもちろん!ヒントをもらえただけでありがたや。」
手を合わせて拝むふりをするみきを見て、蒔乃は笑った。この妹気質の友人が本当に泣きついてきたら、渋々ながら手伝ってやるのだろうなと思った。
午前中に座学を終えて、昼休み。みきは図書館で早速レポートに使う蔵書を探す旅に出たので、蒔乃は他の友人たちと大学のカフェテリアで食事を摂ることにした。
「サラダうどんだけで足りるの?」
カツ丼とうどんのセットを前にして蒔乃が問うと、友人たちは大げさに溜息を吐いて見せた。
「普通の女子は、そのセットは頼まないよ…。」
ちなみにどちらもレギュラーサイズで大雑把に見積もっても二人前はある。
「え、嘘。私って大食い?」
蒔乃は自分の食事量に首を傾げた。
「気付いてなかったのか。」
「太らねーのがすごいよ。」
ブーイングに蒔乃は反論すべく、口を開く。
「でもでも!うちだと皆、このぐらいは食べるよ…、いや。待てよ…。朔司さんは食べない…か。」
家での食事を思い出すと、朔司は食べ盛りの若者二人ほどは食べていないことに気が付く。当たり前だ。
「ほれ見ろ。水瀬くんだっけ?大学生男子と同じ量じゃん。」
「ううー。ごはん美味しい…。」
軽く論破され、蒔乃は悔しそうにしながらもペロッと完食するのだった。
女子たちの華やかな笑い声が聞こえた。
「…うん?」
一臣は友人たちと楽しそうにランチをしている蒔乃を見かけ、声をかけようか一瞬迷ったが水を差すのも悪いと思い却下する。そもそも泥だらけのつなぎ姿でカフェテリアに入っていくのも、気が引けた。
今日は陶芸に使う赤土が大量に届き、学生総出で制作棟に運び込む作業をしていたのだ。特に女子比率の高い芸術大学で男子の人手は貴重なので、随分と働かされた。台車は女子が使い、男子はもっぱら手で担ぎ込んでいた。その成果として、大学に入学して随分と筋肉が付いた気がする。
「一臣くんが運んでいるので最後だから。それを運んだら、昼休みにしていいって。」
「ういー。」
在庫を確認していた女子学生から先生の言伝を聞き、一臣は頷いて手にしていた土を抱え直す。そして制作棟にある準備室に土を運び終えて、晴れて自由の身になった。
一臣は煙草休憩をするという同級生と供に、制作棟の端っこにあるささやかな喫煙場所へと向かった。そこには水の張ったバケツを灰皿にして、誰が置いたかもわからない赤い革のソファが置いてある。
「一臣も吸う?一本だけなら恵んでやんよ。」
喫煙する同級生に誘われるも、一臣は手を横に振って断った。
「結構です。俺はソファに寝に来ただけだから。」
「ふーん?でも香りは嫌いじゃねえんだろ。」
カチカチとライターで煙草の先に火を付けて、同級生は美味しそうに紫煙を吸う。
「…家族が嫌いなんだよ。」
「ああ、絵画のセンパイのこと?。」
溜息をつくように煙草の火を燻らせながら同級生が言った。「あのセンパイ、美人だよなー。いいなあ、あんなお姉ちゃんがいて。」
はははと笑う同級生に対し、一臣は僅かに苦笑する。
「そんないいもんじゃないけどな。」
そう。決して良いものじゃない。
少なくとも、姉と意識するにはこの思いは醜すぎる。
「寝るわ。授業始まる前に起こして。」
「昼飯は?」
「さっき早弁したから平気。」
大学の自動販売機で買ったカップ麺を二つ食べたので、空腹は感じていない。
「だから短時間消えてたのか。」
同級生に肩を軽く小突かれながら一臣はソファに寝転んで瞼を閉じた。
夢を見た。それは蒔乃が水瀬家に来た頃の記憶だった。
蒔乃は今と違い、よく泣く女の子だった。泣くと言ってもわめくのではなく、人知れずほたほたと涙を零すものだから見つけるのが大変だった。早くに母親を亡くした一臣にとって蒔乃は一番身近な女性で、そんな蒔乃が泣いていると心がざわついて仕方が無い。
ー…蒔乃。どうしたの。
夢の中でも蒔乃は泣いていて、一臣はどう慰めて良いかわからずに途方に暮れていた。
「一臣ー。先生が、ガス窯の使用許可証を出しとけって。」
「っ!」
同級生の声にはっとして目が覚めた。一臣は腕時計を見て、30分ほどの睡眠を得ていたことを知る。
低血圧のように心臓が静かに脈打ち、手の指先が冷たかった。10秒間ゆっくりと深呼吸して、一臣は上半身を持ち上げて応える。
「…わかった。今、行くからー。」
午後の実技の時間になり、早速運び込んだ赤土を使うことになった。土練機で練られた土を手にする。土はひんやりとして冷たく、赤ん坊の肌のようにすべすべとしていて気持ちが良い。この土の感触が好きで、一臣は陶芸科を選んだようなものだった。
丁寧に菊練りを施して、電気ろくろの舞台に乗せる。濡れて密着するように回る土は肌に吸い付いて、形を変えていく。
「…。」
少しの心の惑いが作品にすぐ現れるから、精神統一にも似た感覚に陥る。周囲の賑やかな音が失せ、しゅ、しゅ、と土が鳴る声と対話をするのだ。
提出物である湯のみをいくつか形成したところで、一臣は肩と首にこりを感じて顔をあげた。
「随分と集中していましたね、水瀬くん。」
ふと目が合った陶芸の先生、神田が言う。
「息抜きも大事ですよ。」
「はい…。」
背伸びをしてストレッチをしつつ、一臣が窓の外を見ると麗らかな陽気の中で絵画科の学生が写生をしていた。友人同士固まるグループもある中、たった一人、蒔乃が絵を描いている姿を見つける。
画板に向かって俯く滑らかな頬に艶やかな黒髪が触れて、蒔乃は無意識に耳にかけた。その刹那、真剣な顔が覗えてその視線の先が気になった。
一臣はろくろの上の土が乾かぬように濡れたタオルをかけて、席を立った。
陶芸科の教室を出て、外に出る。白い桜の花びらが風に誘われ舞っていた。大学構内の桜並木を描く絵画科の学生が多い中、蒔乃はうずくまるように下を見て俯いていた。その姿が夢の中で泣く蒔乃の姿と重なる。
「蒔乃。」
一臣の影が差して、蒔乃が顔を上げた。その顔に、涙は伝っていない。良かった。
「おみくん。どしたの。」
きょとんと大きな目を更に丸くして、蒔乃は一臣を見る。
「俺は息抜き中。」
そう言って、蒔乃の隣に腰掛けた。
「何、描いてんの?」
「クローバー。」
彼女の答えに足元を見ると、そこには幾重にも重なるようにクローバーが自生していた。
「四つ葉の?」
「え?ううん。普通の三つ葉が多いんじゃないかなあ。」
蒔乃が向かっていた紙を覗くと、確かに代わり映えの無いクローバーが、されど生き生きと描かれていた。
「…地味じゃね。」
「桜、嫌いなの。」
だって寂しいでしょ、と蒔乃は言葉を紡ぐ。
「散り方が潔すぎて。何か、出来過ぎな気もするし。」
「ふーん。そんなもんかね。」
頷く蒔乃を見て、一臣はクローバーを撫でるように四つ葉を探し始める。
「おみくん、知ってる?四つ葉のクローバーって、踏まれて傷つけられて出来るんだよ。だから、歩道側を探してみて。」
「…あ、見っけ。」
蒔乃に言われたとおり歩道近くで、小さな四つ葉のクローバーを見つける。
「はい、あげる。」
一臣は摘み取ったクローバーを、蒔乃に差し出した。
「いいの?」
「うん。」
「ありがと。」
しばらくの静寂の時が流れる。一臣は再び、四つ葉のクローバー探しを始めた。
「この子は痛みながら、四つ葉になれたんだね。」
ぽつんと呟くように蒔乃は言う。
「私がクローバーだったら、傷つけられたのも気付かずにそのまま三つ葉なんだろうな。」
その言葉に一臣が横目で蒔乃の顔を確認する。今度こそ、泣いているのかと思った。でも、違った。蒔乃は受け取ったクローバーをくるくると回転させながら、淡く微笑んでいた。
「痛覚が無いって、どんな感じ?」
「おみくんは直球だなあ。」
今更、遠慮のない一臣の問いに蒔乃は声を出して笑う。ひとしきり笑い、呼吸を整えるようにふと小さく息を吐く。
「…触覚はあるって、前に話したよね。」
「聞いたね。」
蒔乃は鉛筆を置いて、自らの両手を広げて見つめた。
「例えば、そうだね。棘が刺さったとする。」
「うん。」
「体の中にずぶずぶ入ってくる感覚はあるのよ。でも、痛みは無いから本当に無遠慮だよね。私って体がまるでゴムになったような…まあ、よく言えば人形みたいなもんだよ。」
ふうん、と呟いて一臣は蒔乃の例えを自分に置き換えて考えてみる。試しに手の甲に爪を立ててみた。爪は皮膚に三日月のような赤い痕を刻んで、痛い。…この感覚が無いのか。
「変な感じ。」
「でしょうよ。」
生真面目に頷きながら手の甲を見る一臣を隣に、蒔乃は膝に頬杖をついて苦笑する。
「その痛み、大事にしな。」
そう言って、蒔乃は一臣の額をつんと突くのだった。
手を振って別れる彼女を見送って、一臣は陶芸の教室へと戻る。
「おかえり~。」
親友の静正がロリポップキャンディを口に含みながら、一臣に手を振って迎えた。
「随分と長い息抜きですこと。」
「そういうお前は?」
「俺は今からだから、いーの。」
そう言うと静正は自分の隣の椅子を引き、一臣に隣に座るように誘う。
「制作戻りたいんだけど。」
「まあまあまあ。もちっと付き合ってよ。」
一臣はちらりと神田の様子を覗う。神田は他の学生の質問に答えており、こちらのことは気にしていないようだ。
「…ちょっとだけな。」
「やった!」
隣り合って座った席は丁度、窓の前で大きな桜の木を目の前にした。ちょっとした花見をしているようだった。
「桜が綺麗ですねえ。」
静正ののんびりとした声が響く。
「まあ、春だからな。」
「そう。春なんですよ。」
その言い回しに、一臣は首を傾げる。
「恋の季節だなーって思って。」
「何、言って、」
たじろぐ一臣を見て静正は、図星だろ、と指を差す。
「人のこと、指差すな。」
「玉森先輩。」
「!」
急に親友の口を吐いて出た蒔乃の存在に、一臣はぐっと喉が詰まるように口を噤んだ。
「と、一臣。なーんか良い雰囲気にみえたからさー。俺としては、焦れったいというか。甘酸っぱいというか。」
「…そんなんじゃないよ。」
「そ?」
否定する一臣を置き去りに、静正は二個目のキャンディの包みを開ける。そしてそれを、一臣の目の前に差し出した。「どーぞ。」
「…。」
一臣がキャンディを受け取ると、いちごミルクの甘ったるい香りが鼻腔をくすぐった。
「だって、ずっと好きじゃん。親友の目は誤魔化されんぞ。」
「家族だから。」
一臣は頑なに自らの想いを家族愛だと言う。
「血は繋がってないって、言ってたけど。」
「いつ?」
「去年の新歓コンパの飲み会で。」
「…俺、酒嫌い。」
静正が言うとおり、蒔乃と一臣に血のつながりは無い。ついでに言うと、朔司と蒔乃の間にも。水瀬家で異分子は彼女一人だった。と言うのも、両親の連れ子同士で朔司と蒔乃の母親が兄妹となり、蒔乃は朔司の血のつながりの無い姪だ。
下戸の一臣が酒に酔って吐露したらしいことを今聞いて、今後は酒を飲まないことを決意する。
「まあ、その話を聞く前から、一臣の気持ちってダダ漏れだったけどね。」
「マジで?」
「マジで。まあ、玉森先輩は気が付いてないみたいだけどさ。」
相手を見つめる目色が違うんだよ、と静正が言う。
「柔らかいって言うか、明るいって言うか。甘みを帯びてるんだよ。お前。」
「詩人みたいだな、静正。」
「茶化しても意味ないからな。」
回避策を釘刺され、もう一臣は何も言うことが無い。仕方なく、受け取ったキャンディを噛み砕くことにした。
「うわ、噛むなよ!もったいねー!!」
ガリガリと音を立てキャンディは砕け、人工的な甘さが口いっぱいに広がる。甘すぎて、少し口の中がだれるようだった。
「…話戻すけどさ、俺にはお前と玉森先輩が良い感じに見えたんだよ。何をそんな遠慮してんの?」
「んなこと言ったって、」
キャンディを飲み下す。
「蒔乃、他に好きなヤツがいるから。」
物心が付いたときから、音は無かった。
朔司の世界はいつだって無音で、その静けさに耳の奥がキンと痛むようだった。
昼間の家は、若者二人がいないだけでとても寂しい。その寂しさを埋めるように、朔司は本の表紙を開いて一時的に現実を遮断した。読書は好きだ。自分以外の人生を歩めるだなんて体験は、本を読む以外にできない。時々、事件を解決する探偵に。または魔法を扱って空を飛ぶ少女に。年齢問わず、性別すらも超えて朔司は読書に没頭する。
時間がどれだけ溶けても本を閉じるタイミングをつかめないから、あらかじめスマートホンのタイマーをかけておく。振動が出るように設定してあるので、朔司でも気がつけた。今日もまた読書を遮る振動を感じ、ようやく本を閉じた。
顔を上げると部屋の中が夕日の朱色に染まり、すでに薄暗くなり始めていたので室内の電灯をつける。どうりで途中から文字が読みづらくなっていたはずだ。
スマートホンを見ると、メッセージアプリに伝言が水瀬家のグループページに届いていた。
【親父。夕食に使う食材リスト求む。 一臣】
【おみくん、デザートも買ってきて! 蒔乃】
【了解ー。みかんの牛乳寒天でいい? 一臣】
【嬉。もちろん人数分忘れないでね? 蒔乃】
一臣と蒔乃のやりとりを微笑ましく見守り、朔司は夕食に使う材料を確認すべく台所へと向かうのだった。
冷蔵庫と食料庫を見て、材料のリストを作り一臣に向けてメッセージを送る。このぐらいの買い物ならあと一時間もすれば、帰ってこれるだろう。
朔司はそれまでに出来る食材の下ごしらえを始めることにした。
野菜を刻み、肉を柔らかくするための処理を行っているうちに、とん、と肩を叩かれた。どちらが先に帰ってきたのかと予想しながら、振り向くとそこには一臣と蒔乃の二人がいた。どうやら二人とも、同時刻の帰宅だったらしい。『おかえり。』
朔司の手話に、若者二人が同時に同じ手話を返す。
『ただいま。』
一臣に差し出されたエコバックの中には、頼んだものがしっかりと入っていた。そして、三つのみかんの牛乳寒天も。『ありがとう。』
受け取り、再び台所の調理台に向かうと後ろからひょっこりと蒔乃が顔を覗かせた。
『私も、手伝うよ!』
そう言って、蒔乃はにっこりと微笑んだ。蒔乃の手話を読み取ると同時に、ふと彼女が最初に手話を披露してくれたことを思い出した。
当時の蒔乃は心を閉ざすように無表情だった。彼女が水瀬家に来た理由を考えれば、当然のことだったのかも知れない。蒔乃は肉親から離れて、水瀬家に来た。
女の子の扱い方がわからず随分と朔司は頭を悩ませたが、時間が経った今思えばあの期間も蒔乃との絆を築くために必要だったのだとわかった。
初めての手話は『ありがとう』だった。その前後の会話を覚えていないが、蒔乃の心に触れた気がして随分と嬉しかった事だけを覚えている。それから、蒔乃は笑顔を見せてくれることが増えたのだ。
『ありがとう。』
始まりの手話で伝えて、蒔乃と一緒に台所に立つ。それはまるで奇跡のように思えた。
その日、作った夕食はビーフシチューとサラダ。一臣のリクエストで白いご飯を添えた。若者二人はとてもよく食べるから見ていて気持ちが良い。それは、朔司が喫茶店を営もうと思った理由でもあった。自分の作った物を美味しそうに食べてくれる人の顔を直接みたいと思ったことをよく覚えている。
夕食の片付けを一臣と蒔乃の任せて、朔司は自らの書斎に行き、星ノ尾の売り上げの計算に勤しんだ。今月も、どうやら黒字のようでありがたい。
机の上に置いてある置き鏡に、ふと動く影を見つけた。背後を見ると蒔乃が書斎の扉を開けて、こちらの様子を覗っていた。帳簿を閉じて、朔司は首を傾げてみせる。蒔乃は気付いてもらえた嬉しさから笑顔を見せた。
『お風呂、沸いたよ。先にどうぞ。』
彼女の手話は大きく読みやすい。
『わかった、ありがとう。』
朔司が椅子から立ち上がると、蒔乃は手にしていたバスタオルを渡してくれる。それを受け取り、着替えを準備して浴室へと向かった。
脱衣所でシャツのボタンを外してを脱ぐと、鏡に自らの体が写った。中年の朔司の体は若干筋肉が落ちている。骨張った首筋には、幾重にも噛まれた痕が刻まれていた。
この痕は、蒔乃によって付けられたものだ。
蒔乃には自傷する癖があった。痛みを感じないという彼女は手加減せずに自らの腕を噛むものだから、血が滲むほどに痛々しい痕が残った。この傷痕が蒔乃が成長し、好きな人の前に晒されてしまうことを案じた朔司が彼女に言ったのだ。
自分を噛むぐらいなら、僕を噛みなさい。
手帳のメモ欄にペンで走り書きをして、蒔乃の手に握らせた。その紙片を開いて読んだ後、蒔乃は泣いたのだ。
彼女の細い体を抱きしめて、初めて噛まれたときはまるで電流が走ったかのようにピリリとした痛みだった。その痛みは蒔乃が成長するにつれて、鈍く強い痛みになっていった。そして肌を破り、血が滲むくらいに蒔乃の力が強くなった。
いつか頸動脈を噛み千切られるかもしれないと思いつつ、それでも朔司は蒔乃を受け入れ続けた。
朔司がお風呂に入る音が聞こえる。蒔乃はリビングでテレビを見ながら、洗濯物を畳んでいた。テレビでは音楽番組が流れており、今話題のドラマの主題歌が歌われている。
一臣は陶芸で使う染め付けの図案を考えると言って、二階の自室にこもっている。
主題歌に釣られるように鼻歌を口ずさみつつ、持ち主毎に洗濯物を分けていった。自分の物と水瀬家の二人の洗濯物が一緒くたに洗濯機で回っている様子が、彼らと打ち解けてきた証のようで嬉しい。
畳み終わった洗濯物を持って、二階に続く階段を上る。一臣の部屋の前に立ち、扉をノックした。
「おみくーん。洗濯物畳んだから、しまって。」
声をかけると、一臣がすぐに扉を開けてくれた。
「お、サンキュ。」
一臣は自らの洗濯物を受け取る。
「良い図案、思いついた?」
「いや、まだ。」
この通りです、と言って見せられた部屋には植物図鑑や古典柄の本などが散乱していて、一臣が苦心している様子が窺える。
「産みの苦しみだね。頑張って。」
「おう。」
言葉を交わして、蒔乃は階段を下ってリビングへと戻る。朔司の洗濯物は、彼がお風呂から上がったときに渡せば良い。当事者のいない部屋に立ち入るのは、気が引ける。
蒔乃は朔司の洗濯したばかりの服をそっと手に取った。誰も見ていないことを確認するように周囲を見て、そして朔司の服を胸に抱きしめた。
蒔乃は朔司のことが好きだった。
彼の優しさ、包容力。父性に引かれていると最初は思ったのだが、違った。恋心を意識したのは、高校生のときだ。
初めて、同級生の男の子に告白をされた。顔を真っ赤にして、勇気を振り絞って想いを告げてくれたことがわかった。だけど。その男の子の告白を受けるには、何故か罪悪感を感じてしまった。何故だろうと考えたときに、気が付いてしまった。
相手が、朔司さんなら良かったのに。
自分の想いに愕然とした。家族愛だと思っていた愛が、恋愛だったことに。それと同時に、蒔乃は自らの恋が叶わないことを知った。朔司にとって、自分は子どものようなものだ。
丁寧に言葉を紡ぎ、男の子の告白を断った。その子は何か吹っ切れたかのように、笑ってくれた。
ー…聞いてくれて、ありがとう。
清々しそうな笑顔を見て、羨ましく思った。自分には決して出来ないことだから。
男の子が去った後、蒔乃は泣いた。
なんて浅ましいのだろう。
それでも、会わなければ良かった、だなんて思えないぐらいに朔司のことを愛してしまっていた。
朔司の手や眼差しが、纏う空気。存在全てが、好きだ。
「…ごめんなさい。」
誰に捧げたのかも知れない謝罪を告げて、蒔乃は滲む涙を手の甲で拭った。
「何が?」
不意に鼓膜に響いた一臣の声に、蒔乃の心臓は飛び上がるように大きく脈打つ。
「え、っと…、いつから…?」
口の中が乾いて、声が出しづらい。
いつからこの行動を見られていたのだろう。
恥ずかしいやら、困惑するやらで蒔乃の挙動がおかしくなる。
「今。」
それだけ告げて、一臣はローテーブルを挟んで向かい側に座った。そして何も言わずにテレビを眺め始める。
「…。」
沈黙が辛い。
「…あの、」
「蒔乃さあ、」
口を開きかけて、一臣に遮られてしまう。
一臣はテレビの電源を切る。リビングが途端に静かになった。
「な、何?」
「親父のこと、好きなんだろ。」
あまりにも直球過ぎる一臣の言葉に、蒔乃は咄嗟に否定できず息を呑んだ。
「そんな、こと…、」
「あるだろ。少なくとも、泣くぐらいには。」
「これは、違…っ!」
「蒔乃。」
一臣の凪いだ声に、蒔乃は何も言えなくなる。しばらくの沈黙がとてつもなく長く感じた。
「…っ。」
「俺にしとけば。」
徐に一臣から発せられた言葉に、蒔乃は一瞬言っている意味がわからなかった。
「え…?」
「親父じゃなくて、俺にすればいいじゃん。」
「…何言ってんの。冗談止めてよ。」
蒔乃は無理矢理にでも笑ってみせる。
「第一、私のことをそんな風に見れないでしょ。考えてみてよ、キスとかさ。」
「できるよ。」
些か、むっとしたように一臣は言った。蒔乃の態度に腹が立ったらしい様子を見せる。無言で立ち上がり、蒔乃に逃げる時間を与えるようにゆっくりと近づく。一方で、蒔乃は縫い付けられたように微動だにすることができない。
一臣が膝をついて、蒔乃と視線の高さを合わせた。彼の影が降りて、蒔乃はようやく後退ろうと床に手をついた。
「逃げんな。」
蒔乃の手に、一臣は自身の手のひらを合わせて逃げ道を塞ぐ。一臣の瞳に映る蒔乃の顔が徐々に大きくなっていく。
こつん、と額と額が最初にくっつく。互いの睫毛が絡まり合うように重なり、鼻の先が触れる。くすぐるように呼気が混ざり合い、そして。
「…ごめん。泣かせる気は無かった。」
唇が触れあう前に、一臣は顔を上げた。蒔乃の瞳の淵からほろりと一粒の涙が零れていた。
「あ、れ…?」
涙の粒は玉のように膨れ上がり、頬を伝っていく。その熱い道筋に、蒔乃自身が困惑していた。両手で涙を掬い上げて、止めようとして必死になる。
「いーよ。無理しなくて。」
そう言って立ち上がり、一臣は蒔乃の頭を大きな手のひらでぐちゃぐちゃにするように撫でた。
「寝るわ。」
「え?あ…、お、お風呂は?」
明日入る、と言い置いて一臣は階段を上っていった。そのタイミングを見計らったように、朔司が脱衣所から頭をタオルで拭きながら出てきた。微妙な雰囲気の空気を感じ取ったのだろう、朔司はどうかしたのかと首を傾げる。
「何でもないよ。私もお風呂いただくね!」
蒔乃は手話も忘れて、手を横に振って自分の着替えを抱えて風呂場へと向かって駆けていった。
後ろ手に脱衣所の扉を閉めて一人になると、蒔乃は力が抜けたようにその場に座り込んだ。
さっき起こった出来事を思い出して熱くなる肌を冷やすように、両手で頬を覆う。
どうしよう。
小学生の頃、蒔乃は水瀬家に来た。それから数年。一臣とは姉弟のように育ってきたと思っていた。だが、そう思っていたのは蒔乃だけだったのだ。
…ーいつから一臣は自分のことをそんな目で見ていたのだろう。
そう思い、だが次の瞬間には、自分自身も同じなのだと言うことに気が付いた。
朔司にとって蒔乃は子どもなのだ。だけれども、蒔乃は朔司を恋心で好きになっていた。この想いは一臣のものと何ら変わりは無い。
いつから、だなんて関係ない。
ただ、一臣を傷つけてしまったことだけはわかった。
蒔乃の母親が、彼女を抱いて高所から飛び降りたのはおよそ13年前のことだった。
母親は配偶者の不倫をきっかけに、精神病を患った。ノイローゼのような状況が続き、小さなアパートで8歳の蒔乃と母親は狭い世界を築いていた。脆く崩れ去ったのは、冬の頃だった。
母親は蒔乃を連れて高層ビルの非常階段を上って行く。幼い蒔乃は大人しく手を引かれていた。上れるところまで上り、母親は蒔乃を抱き上げる。何度も何度も、額や頬に口付けをしてくれたことを蒔乃は覚えている。キスの雨が止んだ時、母親は蒔乃を抱いたまま非常階段の柵を乗り越えた。
落ちていく。落ちていく、重力に引き寄せられて地面に向かって真っ逆さまに。
母親は死に、蒔乃は一命を取り留めた。
だが、病院の検査で蒔乃の脳内の弊害がわかった。
落ちた衝撃により、脳を傷つけた蒔乃は無痛症なる症状を患った。
痛みが無いということは危険信号が無いということだ。蒔乃は死のうと思えば、痛みを感じずに死ぬことができてしまう体になった。以降、彼女は自傷するようになったのだ。髪の毛を抜いたり、爪で肌を引っ掻いたり、歯で腕の肌を噛み千切ろうとした。蒔乃の体がボロボロになっていくのを止めたのは、朔司だった。
あの時、彼から受け取った手帳の紙片は蒔乃の宝物になり、今でも大事にしている。
「…。」
目が覚めたということは、眠っていたということだ。
蒔乃は水瀬家の自室。ベッドの上で、重い瞼を持ち上げた。耳の裏が濡れている。どうやら、眠りながら泣いていたようだ。昨夜から随分と泣いている気がする。
遮光されないカーテンの向こうで、空気が蒼い。時刻はまだ早朝のようだ。
蒔乃は起き上がり、ゆっくりとベッドから素肌の足を下ろす。4月の朝はまだ少し、涼しい。
カーテンを引いて、窓サッシをカラカラカラと音を立て開ける。視線の先には、一筋の線のような海が見えた。じっと睨むように目を凝らして、ふと思い立つ。
今から、海を見に行こうか。
朝日が昇る海だなんて、鎌倉の立地にあるこの家にいてまだ見に行ったことが無いことに気が付く。
「よし。」
小さく決断の意思を声にして、蒔乃は手早く身支度を調えるだった。
蒔乃専用の赤い自転車にまたがって、ペダルを踏みしめる。坂をゆっくりと滑るように下っていった。
下った先に角を曲がれば、海岸線が広がる。長い信号を待ち、少ない車通りの道路を渡った。自転車に道沿いに止めて、蒔乃は海岸に続く階段を降りた。
鉄製の階段の最後の一段を蹴るように降り立つと、スニーカーの靴裏の感触が砂のふかふかとしたものに変わる。細かい砂はいつの間にか靴の中に入り、まとわりついて離れないから砂浜を歩くには素足の方が良さそうだ。
脱いだスニーカーを片手に持ち、蒔乃は朝日を待つ。その間、波打ち際で海水を蹴っていた。海の季節は二ヶ月遅れと聞いたことがある。なるほど、四月の海はまだ幾分か冷たい。
波が押し寄せるギリギリの地点に立っていると、海水が押し寄せる度に足の裏の砂を持って行かれてくすぐったかった。まるで、おいでおいでをされているようだ。
チリ、と目の奥に光の筋が差し、蒔乃は眩しさに目を細める。朝日が、昇ってきた。
朝日は金色の球体の欠片が輝くようで、徐々にその光量を増して大きくなっていく。周囲の空は美しい鴇色に隅の方に僅かばかりの夜の名残を滲ませて、とろりと溶けるカクテルのようだと思った。
「眩しー…。」
太陽の白い光を一身に浴びて、穏やかな温度を全身に感じた。手の指先がじんわりと温まっていくのがわかり、体の細胞の一つ一つが目覚めていく。
白んだ空に早起きの鳥たちが翼を広げて飛ぶ様を仰いでいると、不意に名前を呼ばれた。
「蒔乃!」
その声に振り向くと、そこには一臣が立っていた。
「おみ、くん…、」
「足!」
一臣が険しい形相で、蒔乃の元へと駆けてくる。
「足?」
「血が出てる!」
蒔乃が下を見ると、足を浸す海水に赤い血液が濁るように広がっていた。
蒔乃は足を砂利に紛れた鋭利に尖った貝の欠片で傷つけていた。
一臣が蒔乃を担ぎ上げると、彼女は慌てたように背中を叩く。
「私、歩けるから…!」
「傷口に砂が入る。」
有無を言わさずにそのままの格好で歩き、海岸沿線の防波堤に連れて行って座らせた。
「見せて。」
一臣は膝をついて、怪我を診るためにその足を取る。白くて細い足の裏に、鮮血が滴っていた。随分と肌を深く抉られたようだった。
「ちょっと待ってて。」
近場の飲み物の自動販売機でミネラルウォーターを購入して、気まずそうに座って待つ蒔乃の元へと戻る。一臣の気配に、蒔乃はぱっと顔を上げた。
「おみくん。あの、」
「付いた砂を落とすから。」
そう言って、ペットボトルの蓋を開けて水を傷口に流す。
「もったいないよ…。」
飲めるぐらい清らかな水を惜しげも無く使われることに、蒔乃は困惑の意思を示す。
「気にすんな。」
ペットボトル一本丸々を使い切って、それでも尚滲む血。一臣は自らが着ていたTシャツを脱いで、裂いて作った紐状の布を止血のために傷口に巻いた。
「ごめん、ハンカチ持ってなくて。着てきたばかりだから、汚れてないはず。」
「気にしないよ。でも、そのTシャツはおみくんのお気に入りだったんじゃない?」
確かに今。裂いて使ったTシャツは好きなアーティストのライイブで売られていた物だった。だけど、そんなこと一切気にならなかった。蒔乃の傷口を保護することで頭がいっぱいだった。
「別に。そうでもない。」
一臣が言うと、蒔乃は首を横に振った。
「嘘。…ごめんね、おみくん。」
蒔乃の声が震えていた。
「いいんだ。蒔乃の方が大事。」
今の言葉が本心だった。どんな宝物よりも、蒔乃が大事。蒔乃自身が一臣の宝物だ。
彼女が家を出たことに気が付いた一臣は、悪いと思いつつ後を追って出てきた。実のところ昨夜のことを気にして、蒔乃がどこかへ行ってしまうんじゃないかという思いに駆られたのだ。
何事もなく家に戻ってきてくれるならそれでいい。
そう思い、着けてきた先。蒔乃は海岸で、朝日の光を浴びていた。
なんて美しい光景なのだろう、と一臣の視線は釘付けになった。
凜と立ち、生まれたばかりの太陽を見つめる蒔乃。
黒い髪の毛先が光に透けてアンバーブラウンに輝き、なだらかに肩を覆う。瞳を縁取る睫毛から影が落ち、きらりと涙のように光る眼差し。バランスの良い横顔に鼻の先がつんと立ち、薄い唇が結ばれている。
そしてすらりと大地に伸びる足を見た瞬間、一臣の心が凍るようだった。その足の周囲が赤く染まっている。血だ、と思った瞬間に一臣は彼女の名前を呼んでいた。
蒔乃は自らの怪我に気が付いていなかった。これが無痛症の恐ろしさだ。
彼女には痛みが無いから、怪我を負っても気付けない。それがもし、致命傷だったらと思うと胸が張り裂けそうに辛かった。
蒔乃が好きで、好きで、自分に似合わず出会えたことを神に感謝するほどに大好きだった。
彼女の笑顔を初めて見たとき、守りたい。守らなきゃと勝手に使命感に燃えるぐらいに、恋していた。
恋。
恋。
恋。
そう、この感情は恋愛だ。自らのことを犠牲にしても、それでも蒔乃のことを守ると決めた。家族愛などと温かく、柔らかいものではない。もっと、もっと攻撃性を孕む想いだった。
ごめんね、を繰り返す蒔乃を一臣は抱きしめていた。
「もう謝らないで。」
「…でも…、」
「いいんだよ、蒔乃。」
自らの肩が熱く濡れる。蒔乃の涙だ。
慰めるように彼女の髪の毛を梳きながら撫でる。
「その代わり、聞いて。」
「…。」
「俺さ、蒔乃が好きだよ。蒔乃の好きな人が俺じゃないことは知ってる。」
ずっと見ていたから、と言葉を紡ぐと蒔乃の肩がピクリと震えた。
「でも、だからって諦められるほど、柔な気持ちでもない。」
「…おみくん?」
そっと蒔乃の肩を押す。目と目を合わせて、宣言したかった。
「親父を超える男になる。きっと、蒔乃の好意を俺に向けさせるから。」
蒔乃の丸くなった瞳に映る自分に誓う。
「今は好きじゃなくてもいい。でも絶対に、蒔乃から好きって言わせる。」
そこまで言うと、一臣は気が晴れたかのように空を仰いだ。その瞳は海面から登り切った太陽に光に照らされ、キラキラと光っていた。
「え、っと…、」
蒔乃はキャパシティオーバーで、金魚のように口を開閉する。
「帰ろ、蒔乃。自転車、俺が漕ぐから二人乗りしよーぜ。」
自分の自転車は置いていき、通学する際にまたここから乗っていけば良い。
一臣は蒔乃を歩かせないために、背中を貸す。
「ん。」
「え?い、いいよ。私、重いし。」
蒔乃の言葉に、知ってる、と返すと彼女は怒ったように一臣の背中を叩いた。
「もう!これでも乙女なんだぞ!!」
ははは、と声を出して笑う一臣の背中に、蒔乃はおずおずと乗る。
「…重いでしょ。」
「嘘だよ、ごめん。」
一臣は力強く立ち上がり、途端に蒔乃の視線が高くなった。そして止めた自転車まで歩む。
「陶芸科男子の力、舐めんなよ。蒔乃なんか軽い軽い。」
日頃から土の運搬にかり出されて筋肉は育っていたが、それにしても蒔乃を背負うのは簡単だった。このまま家まで帰れそうなぐらいだ。
「ありがと。」
蒔乃を自転車の荷台に座らせて、かごにスニーカーを放り込む。そして、一臣は自転車を漕ぎ出した。家までは上り坂もあるが、気合いを入れてペダルを踏みしめる。
「蒔乃、危ないからもっとくっつけよ!」
ぐんぐんと加速するスピードに、風音に負けぬように自然と大きな声を張る。
「うん!」
一臣の腹に蒔乃の手が回る。ぎゅっとしがみつかれて、安全を確認すると海岸沿線を走った。一日が始まる海面は透明なリボンを解いたような細波に覆われて、凪いでいた。
一臣から告白と宣言を受けたその日は一日、心がふわふわとして落ち着かなかった。
大学の授業の話は全く頭に入ってこないし、違う授業で使うノートを持って行ってしまった。食事も中々喉を通さず友人たちに心配され、大好きな絵画の実技の授業も身が入らない始末だ。一臣は気を使ってくれたのだろう、大学で彼を見かける度にうさぎのように隠れる蒔乃を、追おうとはしなかった。
その日の夜は星ノ尾のバーテンダーの手伝いのために訪れる約束を朔司としていたため、蒔乃は気合いを入れ直してようやく裏口から店内に入った。
「お疲れ様でーす。」
アルバイトの子たちに声をかけて、女子更衣室へと向かう。そこで着替えとメイクを済ませ、店のバーカウンターに立つのだった。
「…どうぞ。フォー・ギヴンです。」
ウイスキーのライとバーボンを会わせた、強めのカクテルを注文した客に出す。
「あら、蒔乃ちゃん。」
隣に座る老夫婦の奥さんが蒔乃に話しかける。
「はい、何でしょう。」
注文かと思い、蒔乃は愛想良く笑顔を向けた。だが、奥さんは蒔乃が思いも寄らなかったことを言う。
「何か良いことでもあった?」
「え?」
「頬がバラ色に輝いているわ。あとは、んー…。女の勘かしら。」
うふふ、と朗らかに微笑みながらいたずらっ子のように目を輝かせる。聞いたことのある年齢よりもいつも若く見える秘訣は、この好奇心と女心のおかげなのだろう。
「ご想像にお任せします。」
はにかみながら蒔乃が言うと奥さんは、あらら、と楽しそうに笑った。
「いいわね。そういうの大好き。」
「お前は本当に噂好きだな。」
旦那さんが苦笑しながら呟く。いつも無口な人だが、奥さんと話をするときに必ず優しげな声色になるから本当に彼女を愛しているのだろう。
「いいじゃない。悪い噂なら耳を塞ぐけれど、私、素敵な噂なら大歓迎なの。」
年を綺麗に重ね、なる夫婦ならこんな夫婦になりたいと思わせる関係性だと蒔乃は思った。
星ノ尾の扉にCloseの札が下がる、夜23時。
椅子をテーブルに上げてモップがけをする朔司が目の前を通り過ぎたとき、蒔乃の歯が肌に噛み付きたくて疼いていた。この悪癖を止められない自分が心底嫌になるものの、この衝動を抑えることができない。何度も朔司に視線を送ってしまい、とうとう朔司に気付かれてしまう。
柔らかく微笑まれながら首を傾げる朔司に、蒔乃は歩み寄ってその手のひらを取った。一字一字、焦らすように指で書く。
噛んでもいい?
朔司は頷いて、ワイシャツの首元のボタンを外した。服の布地に隠された朔司の肌は蒔乃が付けた歯形や内出血、いくつもの傷痕で青黒く変色している。それは彼が示した一つの愛の証だった。
蒔乃は朔司の首元に緩く腕を回して、抱きしめるように引き寄せる。中年の男性の体臭は何故こうもノスタルジックな香りがするのだろうか。甘くて、ほんの少し苦み走った、まるでチョコレートのような香りだ。
朔司は蒔乃が噛みやすいように首筋を晒して、僅かに横を向く。蒔乃がちらりと様子を覗うと、朔司の口元は淡く笑みを称えていた。蒔乃は自分を受け入れてくれる朔司を傷つけることを申し訳なく思い、ごめんなさいと心の中で謝りつつ彼の肌に口付けた。
唾液を溜めて、じゅっと吸うように甘噛みを繰り返す。カチカチと歯を鳴らし、滑った舌でざらついた朔司の肌を舐めて噛む場所を確認する。犬歯を添えて、そしてやっと歯を立てた。
他に誰もいない、二人ぼっちの星ノ尾の店内に二人分の呼吸の音が響く。健やかな寝息のような深い呼吸をする朔司とは相反して、荒々しく零す呼吸は蒔乃のものだ。
やがて朔司の肌に内側を抉るような痛みの他に、熱い何かが落ちる。それは蒔乃の涙の雫だった。涙は熱くて、サラサラとしていて、落ちて空気に触れた瞬間に冷えて肌を伝っていく。
ありふれた日常を送っていた中で、朔司と一臣の元へ玉森母娘の悲劇の一方が届いたのはクリスマスを目前にした日のことだった。電話に出ることの出来ない朔司に代わり、一臣がその電話を取ったことを覚えている。
保護者の朔司が耳が聞こえずに電話を受けた幼い一臣のことを慮ってか、警察が直接に水瀬家へ訪れてその事件の詳細を教えてくれた。
まるで目の前が真っ白になるようだった。どうやって一臣を連れて病院に行ったのかよく覚えていないが霊安室で自らの義妹、蒔乃の母。そして集中治療室で姪の蒔乃に出会った。
治療が進むうちに、ようやっと会話が出来るようになった蒔乃は自分を傷つけようと躍起になっていた。思わず、抱きしめていた。
蒔乃を引き取って、一臣と供に育てた。蒔乃が高校卒業をする年齢を迎えた頃。朔司はこの店、星ノ尾を開いた。
少しでも、彼ら二人が将来に何をしようとも帰るための居場所を残してあげたいと思ったのだ。
朔司の首に新たな痕を刻み、蒔乃は店のボックス席のソファに腰掛けてテレビを眺めていた。テレビに映るのは、白黒の古い外国の映画のDVDだった。外国の映画は耳が聞こ
えない朔司でも字幕で楽しむことが出来る娯楽だった。
字幕を目で追っているうちに、蒔乃の瞼はとろんと閉じてしまいそうだった。もう直にバイトを終えた一臣も星ノ尾に来て、皆で帰宅する予定だ。
それまで、それまで眠っていても良いだろうか。
蒔乃はうとうととした微睡みから、本格的な眠りへと落ちていった。
夢の中で蒔乃は母親の肩越しに空を見上げていた。23時57分。夜空にクラゲのような月が浮かんで、珊瑚の卵のような星々が散っていた。
「蒔乃…、」
母親は蒔乃の子ども体温が宿す頬をくすぐるように撫でる。「…ごめんね。」
気付かないふりをしていたが、蒔乃はまだあの日の母親の声色を覚えていた。
「親父、まだ店を閉めねえの。」
鈴の音を響かせながら、一臣が星ノ尾の扉を開けて入ってきた。朔司は蒔乃の寝顔を優しい表情で見守っていた。
「…。」
目を細め、蒔乃を起こさぬように息を潜め、彼女の肩には朔司のカーディガンが掛かっている。一臣の来訪に気が付かない朔司の肩を叩き、自らの存在を知らせる。朔司は、はっとしたように顔を上げた。
『おかえり、一臣。』
『ただいま。』
手話は朔司との大事なコミュケーション方法だ。幼い頃から操っているため、健常者と同様に意思疎通が出来る。
『蒔乃、寝ちゃったのか。』
『そうだね。掃除が長引いて、待たせすぎてしまった。』
ふーん、と頷きつつ、一臣はバーカウンターの椅子に腰掛けた。
『何か飲むかい?』
朔司がカウンターの中に立ち、湯沸かしをするポットに水を入れる。
『日本茶がいい。』
『スタッフに用意したティーバッグしかないけど?』
あるかどうかもわからずに注文したので、ティーバッグのお茶でも充分だった。その旨を伝えると、朔司は沸いたお湯をパックが入ったカップに注ぐ。そしてパッケージに書かれている抽出時間をきっかりと守り、一臣に提供してくれた。
『ありがとう。』
受け取ったカップのお茶を冷ますように息を吹きながら、ちびちびと飲む。一方で、朔司はカフェオレを飲んでいるようだった。
『夜、眠れなくなるんじゃない?』
『そうでもないよ。牛乳を多めにしたからね。』
そう言われてみると、確かにいつもよりコーヒーの色が薄いように感じた。毎朝飲んでいるカフェオレも相当牛乳の色が濃いから、それ以上となるとほとんどホットミルクだろう。
二人は、しばらく無言でお茶を飲む。微かに響くのは蒔乃の健やかな寝息だった。
『親父。』
一臣は、自らの首を差すようにして言う。
『見えてる。』
ああ、と頷いて、朔司は首筋に手を置いた。
そこにある歯形には血が滲んでていて痛々しいはずなのに、蒔乃がつけたものだと知っていると羨ましく思えるから不思議だった。
蒔乃は親父しか噛まない。二人の間にある絆に割って入ることが出来ない。
それが少し、恨めしい。
「ん。」
一臣はたまたま持っていた絆創膏を、朔司に手渡す。
『ありがとう。』
絆創膏を受け取った朔司は、ペリ、と紙を剥がして、傷痕に貼ろうとして失敗する。どうやら存外に首の傷痕に絆創膏を貼るのは難しいようだ。一臣は小さな溜息を吐いて、貸して、と言って自らが手当をすることを申し出た。
朔司が衣類を緩めて、首の傷痕を晒す。もう消毒は済ませてあるようだった。一臣は改めてその傷痕を見る。
蒔乃の小さな歯形がくっきりと朔司の肌に刻まれている。
絆創膏を貼り終えて、一臣はきゅっと唇を噛んだ。
肩を叩かれて、顔を上げると朔司が一臣を慈しむように見ていた。
『一臣。君は、蒔乃さんが好きなんだろう?』
「…。」
朔司の手話を読み取って、一臣は再び机に額をぶつける。そして様子を覗うように、朔司を見た。そして、頷く。
『好きだよ。』
手話の良いところは、声もなく会話が出来るところだ。眠る蒔乃を起こさずに済む。
『でも、どうすればいいかわかんねー。』
若者らしく恋愛に悩む一臣の姿に、朔司は笑みを零す。
『大事に、してあげなさい。』
『…親父が、母さんを愛してるように?』
『わかってるじゃないか。』
一臣の母親、朔司の妻のひよりは蒔乃を引き取る数ヶ月前に病気で亡くなった。急性の白血病で、発覚からおよそ一年の闘病の末のことだった。朔司たっての希望だった骨髄移植もドナーになることはできず、見つけることも出来なかった。
ひよりが亡くなった日。死に水を口移しで与える朔司の姿を、一臣は泣きながら見守った。喪失感と供に、彼ら夫婦の関係性が尊く感じた。
朔司の瞳から零れた涙はそのときに流れた、たった一滴。彼は立派に喪主を勤め上げ、一臣の良き見本になるべく父親としてその背中を見せた。
朔司は今も、亡きひよりを愛している。
『さて。ちゃんと寝ないと明日…、もう今日か。大学が辛くなるね。蒔乃さんを起こして、家に帰ろう。』
『俺が起こすよ。親父はコップの片付け、よろしく。』
分担を決め、二人は席を立った。
「蒔乃。蒔乃ー?そろそろ起きて。」
一臣は蒔乃の肩に触れて、そっと揺さぶってみる。蒔乃は、んー、と小さく声を漏らして、眉間に皺を寄せた。
「おーい。」
「…朔、司さん…?」
寝ぼけた甘ったるい声が、間違えた名前を呼ぶ。一臣は大きく溜息を吐くと、蒔乃の後頭部を軽く叩いた。
「起きろ、寝ぼすけめ!」
その衝撃に、きゃん、と子犬のような悲鳴を上げて蒔乃が目覚める。
「うわー…、何。びっくりした…。」
心底驚いたように、蒔乃は目を丸くしている。
「起きないから。憎たらしくて、つい。」
「だからって、女子を叩くなー。」
言いながら、蒔乃は一臣の横腹を小突いた。二人がじゃれるように応酬を繰り返していると、濡れた手をハンカチで拭きながら朔司が現れた。
『二人とも仲が良いね。さあ、帰ろう。』
『あ、待って。更衣室から、荷物取ってくるから!』
蒔乃はうさぎが跳ねるように席から立つと、バタバタと忙しなく音を立て女子更衣室のあるバックヤードに駆けていった。
『賑やかだな。』
一臣が苦笑する。
『元気で良いじゃないか。』
朔司は声を出して笑うのだった。
朝、朔司は必ず家の仏壇に手を合わせる。仏壇の中央には妻のひよりが朗らかな笑顔を浮かべる遺影があった。彼女との声なき対話をする朔司の姿は、とても静かで空気が穏やかに凪いでいた。
その姿を見る度に、蒔乃の胸はぎゅっと掴まれたように苦しくなった。
この空間は、まるで神の領域のようだ、と蒔乃は常々思っていった。カメラのように無粋なもので切り取るのではなく、身を削り、血の絵の具で描き、永遠に残しておきたくなる。
だからだろうか。
宗教画ではない。私の世界の神のような、あなたを描きたいと思った。
大学の絵画科の制作棟にて、蒔乃はスケッチブックに描きためたモチーフを選んでいた。次の講評会に間に合わせるためには、そろそろ着手し始めないといけない。
蒔乃は普段は風景画を描くことが多いが、そろそろ描きたい景色も尽きてきた。絵画科の先生から前の講評では「次は人物画も見てみたいですね」と言われている。
「…ん?」
スケッチブックのページとページの隙間から、はらりと一枚のデッサンが滑り落ちた。そこには以前、盗み見て描いた朔司の姿があった。それは特別な一面でも何でも無い、星ノ尾で給仕をする朔司の姿だった。
落ちた紙を拾い上げて、私の原点だなあ、と思う。幼い頃から絵を描くのが好きだった蒔乃はよく朔司をモデルになってもらっていた。といっても、家の台所に立つ後ろ姿や気持ちよさそうに猫とうたた寝する姿など、人知れず描いたものだった。
「…。」
懐かしい。あの頃はこんな苦しい気持ちを抱えていなかった。今、朔司のことを考える度に甘い愛しさと供に苦み走った切なさが募る。まるで彼が作るチョコレートのようだ。ふと小さな溜息を吐いていると、隣で作業する友人が顔を覗かせた。
「溜息を吐くと、しあわせが逃げますぞ。」
「みき。」
顔を上げると、みきが猫のような笑みを浮かべながら蒔乃を見ていた。
「何か、中々描きたいものが見つからなくて。」
苦笑する蒔乃の言葉をふむふむと頷きながら聞いて、みきは首を傾げた。
「いやあ、今の溜息は違う色に見えたがな。」
「と言うと?」
ふっふっふ、と不適に笑い、みきは人差し指を立てる。
「恋、じゃないかい?」
蒔乃はぎくりとしたが表情を繕う。が、みきはその一瞬を見逃さなかった。
「蒔乃ったら、いつの間に?まあ、でも今まで浮いた話の一つも無かったからめでたいかあ。」
「…みきの、その観察眼ってどこで養ってんのよ。」
観念して、蒔乃は自身の作業場にみきを呼び寄せる。みきは嬉しそうに、蒔乃の隣のパイプ椅子に腰掛けた。
「それで、それで?相手はうちの大学の人?私、見たことあるかな。」
わくわくとしたみきの表情に、本来ならば恋はこんなにも明るい話題だと言うことに気が付かされる。本来なら、蒔乃だって明るく楽しい恋をしたかった。
「…んーん。大学の人じゃないよ。みきは見たことないと思う。」
「そうなんだあ。どんな人?学部で言うと、どの人?」
まさか、年齢は教授並みとも言えず、蒔乃は曖昧に笑ってごまかす。
「年上の人…とだけ、お伝えしておきます。」
「えー。他にヒントなし?」
「なしでーす。」
くすくすと笑い合っていると、不意にみきが蒔乃の手元を覗いた。
「あれ。蒔乃が人を描くの、珍しいね。」
見たい、との要望を受けて、蒔乃は手にしていたデッサン画をみきに手渡した。
「たまにはね。」
「…。」
「みき?」
みきは無言で朔司を描いたデッサン画を見つめている。そして徐に、口を開いた。
「ね、蒔乃。この人が、蒔乃の好きな人?」
「え?」
心臓が大きく脈打った。
「な、なんで?」
「だってすごく優しい顔つきの人だから。蒔乃にはこういう風に見えてるんだなーって思って。」
「そう…、かな。」
言い淀む蒔乃を見て、みきはピンとひらめいたようだった。「当たりでしょ。蒔乃のバイト先って喫茶店って言ってたよね?この格好はさては、そこの先輩だな!?」
みきの恋愛の噂話に対する観察眼に、蒔乃は感服する。
「来るなよ!絶対に来るなよ!?」
「それフラグっしょ!」
腹を抱えて笑うみきに対し、蒔乃は冷や汗をかきつつ全力で釘を刺すのだった。
夕方の大学からの帰り道。蒔乃は海岸線を走るバスに揺られながら、海を眺めていた。
砂浜で高校生たちが、学生服のまま波打ち際で戯れている様子が見て取れた。まるで青春ドラマのワンシーンを見ているようだった。
今日は、星ノ尾の手伝いがない。アルバイトの学生に上手くシフトに入ってもらえたらしい。
小さな溜息を吐く。今日は、一臣と二人きりの夜だ。彼から告白をされた時から、妙な緊張感があった。
一臣がまさか自分に恋を煩わせていたなんて、思いもしなかった。蒔乃が8歳で水瀬家に来た頃、一臣は7歳。まるで姉弟のように育ち、一臣のことは弟のように思っていた。
「…弟、か。」
だが、それを言うなら朔司だって蒔乃のことを娘にしか思えないだろう。一臣の恋を見ていると、まるで自分のことを見ているようで辛かった。
「ん…?」
バスの前を走る自転車見える。それに跨がる後ろ姿を見て、蒔乃は一瞬息を止めた。その人物は、今、思いを馳せていた一臣本人だったからだ。
バスをやがて並走、そして一臣が漕ぐ自転車を抜き去った。その瞬間、風で前髪が煽られた一臣の顔がしっかりと見えた。
「蒔乃!」
一臣と車窓越しに目が合うと、彼は嬉しそうに片手を上げて大きく振った。その表情は蒔乃が知る一臣そのものだった。
何故か、涙が零れそうになった。
思えば一臣は、この恋にいつだって前向きだった。私のことを好きと言い、またあきらめない旨までも宣言した。それに比べて、私は自分の中で想いを昇華しようとしていた。…そうだ。私だって、この恋をあきらめたくない!
停留所に着くアナウンスがバス車内に流れる。家の最寄りとはいくつか手前だが、蒔乃は迷わずに降車ボタンを押す。そしてバスから降りると、自転車でバスを追ってくる一臣に向かって大きく手を振った。
「おみくーん!!」
蒔乃の存在に気が付いた一臣は、立ちこぎになって速度を上げて彼女の元へと駆けつけた。その肩は大きく上下して、呼吸を乱していた。
「蒔乃…、どうした?まだ家の最寄りじゃないだろ。」
「おみくんの、姿が見えたから。」
ふは、と一臣は笑う。
「それで、バス降りちゃったのか。」
「うん。久しぶりに一緒に帰ろう。」
閑静な住宅街を二人分の影が長く伸びていく。カラカラカラ、と一臣の自転車の音が空回るように響いていた。たまたま通りかかった家の前で、カレーの香りが鼻腔をくすぐった。元気の良い子どもたちの声も合わさって、きっと子どもの好物なのだろうな、などと想像力が働く。
「そういえばさ、初めて作った料理ってカレーだったよな。」
一臣も思うところがあったのだろう、カレーの話題を蒔乃に振ってきた。
「そうそう。食事係が回ってくると、二人ともカレーしか作れなかったから三日のうち二日っていう高確率で、カレーだったよね。」
「親父はよく文句を言わなかったなあ。」
一臣が苦笑しながら言う、親父、という言葉。そういえば、いつ頃から彼は朔司のことを親父と呼ぶようになったのだろう。幼い頃はたしか、お父さん呼びだったはず。
いつの間にか、男の子は青年に成長したと言うことか。
「…ね、おみくん。おみくんはさ、私が朔司さんのことが好きっていつ、気付いたの?」
「えー、いつだろ。うーん…。高校生ぐらいかな。」
今思えば、無遠慮だった問いも一臣はさらっと答えてくれた。
「そうかあ…。気持ち悪くなかった?その、自分のお父さんに惚れてる女なんて。」
「気持ち悪いわけ、ないだろ。」
蒔乃の自虐が含まれた問いには、一臣は厳しい顔をした。
「嬉しかったよ。自分の父親に惚れてくれるなんて。親父が誇らしかった。」
「…。」
「…ごめん。ちょっと、嘘。誇らしいけど、羨ましかった。」
一臣が立ち止まると、キイ、と自転車の車輪も軋んだ音を立てた。そして、蒔乃の瞳を覗き込む。
「俺は、蒔乃は好きだから。親父のことは…、少し憎い。」
「…おみくん、」
ごめんね、と言いかけて一臣は、蒔乃の唇に人さし指の腹を当てて止めた。
「謝るなよ。俺は、蒔乃のこと諦めてないんだから。」
蒔乃は一臣の人さし指をきゅっと握る。
「わ、私だって、諦めないから。」
意を決して、蒔乃は思いを言葉にする。言葉にして、発してしまえばもう後戻りは出来ない。
「朔司さんが好きな気持ち、無視は出来ない。無かったことには、出来ない。だから…、」
蒔乃の言葉を皆まで言わさずに、一臣は遮る。
「わかった。じゃあ、勝負だな。どっちが先に、両思いになるか。」
「…いいよ。受けて立つ!」
蒔乃は拳を作り、気合いを入れる。それは幼い頃に一臣にゲームを挑む時と変わらない仕草だった。蒔乃が気付いていない、無邪気な思い出が一臣は嬉しかった。
「よし。じゃあ、今からな。」
「うん!私、負けないから!」
一臣が告白する前の笑顔が戻った蒔乃の腹が、可愛らしい悲鳴を上げる。
「!」
途端に、頬を紅く染める蒔乃を見て、一臣は声を上げて笑った。
「戦をする前に腹ごしらえだな。今日の夕食は…、」
んー、と考える素振りを見せて、一臣は人さし指を立てる。蒔乃も、待って当てる、と言い、そして。
「「カレー。」」
同じ答えに、揃った声。合わさった笑い声を聞いていたのは、カクテルの夜空に浮かぶ一番星だった。
今夜は久しぶりに台所に二人で立ち、カレーを作ることにした。定番の食材の他に、豆腐やキノコ類など何でも入れてみようと盛り上がった。
「カレールウは偉大だよな。大抵の物は入れて、美味しい。」
一臣はざくざくと葉物野菜を包丁で切っていく。
「残ってもドリアとか、うどんとかにも使えるしねえ。万能だよね。」
切られた食材を、蒔乃が鍋で炒めていく。
長身の一臣が少し猫背になって、調理台に臨む姿が少し可愛らしい。
「やばい、肉類が何にも無い。」
冷蔵庫を開けた一臣が、まるでこの世の終わりかとも思えるぐらいに絶望しながら言う。
「いいじゃん。今日のところはベジタブルカレーで。」
「ええー…、成人男性としては少しでも良いから肉っ気が欲しい…。」
がっくりと肩を落とす一臣の背中を、蒔乃は叩いた。
「冷凍庫見てみ。冷食の唐揚げがあるはずだから、チンしてカレーに乗せれば良い。」
「お前…、天才か!?」
ちっちっち、と蒔乃は更に指を振る。
「更に、消費期限間近の卵があるであろう。それを半熟のゆで卵にしてトッピングするのだ!」
「…最っ高!!」
感動する一臣とハイタッチをして、蒔乃は炒めた鍋の具材に水を足した。煮た立つ間に、カレールウが溶けやすいように刻んで準備しておく。そしていよいよカレールウを入れて、煮込む。くつくつととろみが付いたカレーに泡が浮かび、室内はスパイシーな香りに包まれていった。
「なあ、蒔乃。」
「何ー?」
鼻歌交じりにサラダ用の野菜を手で千切る蒔乃に、一臣は問う。
「親父のどこが好きなん?」
「急だし、相変わらず直球だな!?」
思わず手を止めて一臣を見ると、その表情にふざけている感情はなかった。
「親父を超す男になるとは決めた訳だけど、実際に蒔乃がどういうところに惹かれたのか知っておきたい。」
「え、えー…。改めて聞かれると恥ずかしいな…。」
頬を赤くして、口ごもる蒔乃を見て一臣はぽんと手を叩く。「あ、じゃあ、俺も蒔乃の好きなところ教えるから。それで、平等じゃね?」
「よくもまあ、いけしゃあしゃあと。そこまで言うなら、数は用意してんだろーな?」
もちろん、と自信たっぷりに言う一臣を試すわけではないが、聞いてみたいと思った。
「俺からね。まずは、そうだな。絵を描いてるときの真剣な目が好き。何なら射貫かれたい。」
「視点が紙じゃん。私は…、朔司さんの優しい眼差しが好き。温かい目色も好き。」
目の色なら遺伝で俺もアリじゃない、と一臣は言う。
「おみくん、目つきが鋭いからねえ。」
一臣の眼差しは涼やかで、精悍なものだった。これは祖父の隔世遺伝だという。目の色は確かに朔司のものを受け継いでいるから、本当に血のつながりとは面白い。
「次。蒔乃の顔が好き。単純に好み。」
「大変光栄です。」
ありがとう、と言葉を紡ぎ、蒔乃も朔司に惹かれるところを述べる。
「朔司さんの柔らかい雰囲気が良い。安心感がある。」
「包容力かー。俺にはまだ無いヤツだ。」
なるほどね、と一臣は頷いた。
「あ、これは初めて言うかも。蒔乃が書く文字も好き。丸っこくて、可愛い。」
「私は子どもっぽくて、コンプレックスだけどな。」
それから、二人の好きな人の好きなところ合戦は延々と続いた。髪の毛の質、爪の色。声の高さ、手の体温に至るところまで好きが溢れていくようだった。
すっかり話し込んで、カレーが出来上がる頃にようやく一息ついたところだ。
そこで先ほどの蒔乃の提案通り、唐揚げ乗せ半熟ゆで卵のトッピングのカレーが食卓に上がった。
二人でカレーを食べながら、蒔乃は一臣が上げてくれた好意を忘れないようにと決めた。こんなちっぽけな人間でも、一臣は良いところを見つけてくれたのだ。単純に嬉しく、そしてその想いに負けないぐらいに自分の気持ちも再確認した。
食後にりんごを食べながら、テレビを見る。テレビではバラエティ番組が流れていた。芸人のボケやツッコミに笑い、CMで見た洗剤を今度使ってみたいなどと他愛も無い会話をした。
今までの緊張感が嘘のように感じなくなっていた。
「おみくん、お茶は?もう一杯飲む?」
「飲もうかな。」
蒔乃は頷いて、ポットから急須にお湯を入れる。日本茶が抽出するまで待ち、湯のみに少量ずつ注ぎ分けた。
「ありがと。」
蒔乃から自身の湯のみを受け取って、一臣は美味しそうに飲む。
「おみくんって、日本茶が好きだよね。」
「ん?そう?」
「そうだよ。気付いてなかったの?」
微笑みながら、蒔乃も自分で淹れたお茶を飲む。まだ少し、味は薄い気がした。
「うーん。母さんが日本茶、好きだったからかなあ。」
そう言って一臣が見た先の仏壇の遺影に、蒔乃も視線が行く。変わらず微笑むひよりがそこにいた。
「ねえ、おみくん。ひよりさんって、どんな人だったの?」
「母さん?」
一臣は腕を組み、考える。
「俺が知ってるのは、多分、親父が好きな母さんだよ。」
「いいの。知りたい。」
蒔乃のことを一臣が知りたがったように、朔司が愛したひよりのことを知りたいと思った。
「お願い、教えて。」
蒔乃は両手を合わせて、おねだりポーズをする。このポーズをすれば、大抵のことを一臣は受け入れてくれることを知っていての行動だった。
「…わかった。」
案の定、一臣は折れてぽつぽつとひよりのことを思い出しながら語ってくれた。
「一臣ー!!朝だよ、起きて!」
ひよりは誰よりも朝早く起き、家族を笑顔で起こすことが好きだ。彼女の声がけで目覚めた朔司が朝食を作っている間、ひよりが一臣の朝の身支度を手伝うのが習慣になっていた。
「幼稚園、行きたくない…。」
「あら、どうして?」
即座に心配するひよりに、一臣は寝ぼけ眼で言う。
「面倒くさい。」
一臣の理由に、ひよりは破顔した。
「あっはは!そうだろうね、教育現場って面倒だよね。」
「じゃあ休んでも良い?」
それはダメー、とひよりは手でバツ印を作る。
「行っておいで。面倒くさくても、行けば楽しいから!」
「えー。」
本気で休めるとは思っていない一臣だったが、一応不満の声を上げる。
「でもね、覚えておいて。」
ひよりは一臣の丸い頬を両手で包んでくれた。
「一臣が本当に、本っ当に行きたくなくなったら、幼稚園や学校は行かなくていいよ。」
「?」
なぞなぞのようなひよりの言葉に、一臣は首を傾げてみせる。
「意味がわからなければ、それが一番いいよ。さて、朔ちゃんが朝ごはんを作ってくれたから、食べに行くよ!」
手を繋いで、一臣の部屋を出る。階下からは、味噌汁の香りが漂ってきた。
「朔ちゃん、おはよう。」
ひよりが朔司の肩を叩き、振り向いた彼の頬にキスをする。苦笑する朔司もまた、ひよりの頬にキスをした。その様子を間近で見ていた一臣は、そろりと忍び足で逃げだそうとする。
「一臣!待ちな!!」
「うわっ!」
素早くひよりに捕まって、頬にキスをされた。
キスという行為が気恥ずかしい年齢の一臣は嫌がったが、ひよりは容赦がない。甲高い子どもらしい悲鳴を上げて逃げようとする一臣を毎朝追いかけてまで、ひよりはキスをするのだった。
「…行ってきます。」
ぶすっと頬を膨らませながら、一臣は幼稚園の門をくぐっていく。
「行ってらっしゃい!気をつけてね!」
いつも盛大な見送りを背中に受けながら、一臣は教室に向かうのだった。
「一臣くんのおかあさん、元気だねー。」
一緒の組に属する友人の言葉に、一臣は頷く。
「元気良すぎだよ。」
水瀬家の日常の朝だった。
その日は珍しく、朔司が幼稚園に迎えに来た。一臣を迎えた朔司の表情が硬く、不審に思ったことを幼心に覚えていた。
「…お父さん?」
一臣の呟きは朔司には届かず、唇をずっと噛みしめている様子だけ見て取れた。家に帰ると、ひよりが笑顔で迎えてくれたがその笑顔もどこか悲しそうだった。
「一臣、ちょっと話があるの。聞いてくれる?」
「なあに。」
手招きされて彼女の元へ行くと、一臣はひよりに抱きしめられた。ひよりの柔らかい胸が顔に押しつけられて息苦しかったけど、一臣はただならぬ気配を感じて我慢してその話を待った。
「泣いてるの?」
ひよりの胸の奥で、肺が震えているのが知れた。
「うん、ちょっとね。」
「どうしたの?」
しばらくの沈黙が流れ、隣に朔司も現れた。朔司はひよりの背中を撫で、言葉を促した。
「…お母さんね、血液の病気になっちゃった。」
幼い一臣に朔司とひよりは包み隠さず、その身に起こった病気についてわかりやすく教えてくれた。
病気の名前は、急性白血病。
その治療に伴い、ひよりは長期の入院をすることになった。「でも、帰ってくるんでしょ?」
「…。」
「お母さん?」
ひよりは一臣を更に強く、ぎゅっと抱きしめてくれた。
「帰ってくるよ。大丈夫。だから、いい子で待っていてね?」
朔司も一臣の頭を、そっと撫でてくれた。
「…うん。ねえ、お母さん。」
「何?」
「あのね、キスして良いよ。」
一臣の言葉に、ひよりは顔を上げた。そして、涙を拭いて笑ってくれた。そして、一臣の頬に長い口付けをした。
「一臣は、優しい子だね。誰に似たんだ?」
「お母さんと、お父さん。」
二人を交互に指差して答える一臣を見て、ひよりと朔司は笑うのだった。
ひよりの入院は長引き、抗がん剤治療により頭髪も抜けて容姿にも変化が起きた。それでもお気に入りの赤い毛糸の帽子を愛用し、ひよりは笑顔を絶やさなかった。
やがて無菌室に入ったひよりとの会話は、ガラスの窓越しに電話で行われることになった。
『一臣?ごめんね。もうすぐ、クリスマスなのに。』
病院の外は雪がチラチラと舞い、ホワイトクリスマスが囁かれる年だった。
「大丈夫だよ。お母さんの分のケーキは残しておくから。」
『うふふ…。全部、食べて良いんだよ。』
「ううん。今年もお父さんが、チョコレートケーキを作ってくれるって。しかもすっごい豪華なのだって。」
『そうかあ。それは楽しみだなあ。』
「だから、治療、頑張ってね。」
きゅっと電話の受話器を握る小さな手に、力がこもる。
『…うん。お母さん、頑張るよ。』
ちゅ、ちゅ、と受話器越しにひよりのキスの音が聞こえた。一臣は投げキスを返し、応えるのだった。
そして年が明け、ひよりは床に伏せることが多くなった。体力の低下から眠っている場面が多くなり、布団から覗く腕も木の枝のように細くなっていた。
「お父さん。幼稚園、行きたくない。」
新年最初の登園を一臣は嫌がった。
『どうしたんだい?』
朔司は一臣に目を合わせるために、膝をついてくれた。朔司の手話を呼んで、覚え立ての手話で自分の思いを伝える。
「お母さんと一緒にいたい。病院に行きたい。…ダメなら、いい。」
一臣の瞳には涙が溜まっていた。ずっと我慢していた想いが溢れ出た。
『いいよ。』
「!」
涙で滲んだ世界に、朔司の手話が踊る。
『一緒に、お母さんがいる病院に行こう。今日はお父さんも、仕事を休む。』
やがて春を迎えて、そして。
一臣が小学校に入学をした頃、ひよりは無言の帰宅を果たした。
「…母さんは、笑顔が多くて明るい女性だった。」
そう言って、一臣は話を締めくくる。蒔乃は言葉を噛みしめるように頷いて、その場はテレビから流れる芸人の笑い声だけが響いていた。
そして蒔乃は徐に立ち上がると、一臣の元へ来て彼を抱きしめた。
「…。」
「辛かったねえ、おみくん。」
蒔乃の心臓の音がとくとくと刻まれて、一臣の鼓膜に響く。
「…蒔乃は、少し…母さんと似てるよ。」
一臣は目を細めて、蒔乃の体温を感じ入る。胸が柔らかくて、服の布越しの肌が温かくて、ミルクのような甘い香りがした。同じ洗剤で服を洗っているのに何故、こうもちがう香りがするのだろうと思う。そして気付く。
これが、蒔乃自身の香りなのだ、と。
蒔乃に抱きしめられて、ひよりの香りは日向のようだったなと不意に思い出した。懐かしい。
「だったら、嬉しいな。」
幼子にするように、蒔乃は一臣の髪の毛を撫でる。その優しく甘やかな手つきは、うっとりするほど心地よかった。「蒔乃。」
「なあに?おみくん。」
「俺、もっと蒔乃が好きになるよ。」
蒔乃の笑い声が彼女の体内に響く。頭を抱かれた状態の一臣の耳にゼロ距離で聞こえた。
「これは好意ではなくて、厚意だからなあ。残念でしたー。」
「どっちでも良いよ。…いや、出来れば好意が良いけどさ。」
くすくすと笑い合い、蒔乃はようやく一臣を解放した。名残惜しくて、手を伸ばしそうになるが拳を作って我慢する。「ね、蒔乃。キスしてもいい?」
懇願するように、一臣は下から蒔乃の瞳を見上げる。彼女の目色に戸惑いの色が滲んだ。
「だ、だめだよ。」
「頬に。唇は、想いが通じるまで待つから。」
話の流れで、頬へのキスは親愛の証だということを知っていた蒔乃は少し困ったように、でも微笑んで答えをくれる。「…頬だけだよ?」
「うん。」
蒔乃は首を傾げるように頬を一臣に向けた。一臣が蒔乃の頬に片手を添えると、肩がピクリと震えるのが可愛らしい。滑らかな肌をくすぐるように撫でると蒔乃が、まだ?とばかりに、そっと瞼を持ち上げて一臣を見た。
「ごめん。」
くく、と鳩のように笑い、蒔乃の頬に唇を押しつけた。温かく、桃のようにさらりとした細かい産毛が唇を優しく撫でる。愛おしく一際強く唇を当てて、そして離れた。
「ありがとう。」
少年のようににっと笑うその顔に、蒔乃は幼い頃の一臣を見た気がした。
深夜24時を迎えるよりも前に一臣と蒔乃は、星ノ尾まで朔司を迎えに行くことにした。
空に浮かぶ月は水底から見る太陽のようで、まるで町が深海に沈んだようだった。蒔乃は白い光に対比するように濃い黒の影だけを踏んで、進んでいく。
「子どもの頃、こういう遊びしなかった?影以外は溶岩なの。」
「したね。白線以外は絶壁の崖とか。」
そうそう、と蒔乃は頷きながら、まるでステップを踏むように歩く。一臣は微笑ましく、その様子を見守っていた。
「…。」
ぴたりと立ち止まった蒔乃が、難しい表情をする。と言うのも、見晴らしの良い横断歩道に来たからだと納得した。
ふと笑い、一臣は蒔乃よりも一歩先に歩み出て彼女を手招きする。
「蒔乃。」
一臣自身の影に入るように言うと、蒔乃は悔しそうに顔をゆがめた。
「情けは不要なのだ…!」
「いいじゃん。ラッキーアイテム的な。」
「…。」
蒔乃は腕を組み、悩む。年上のくせに、まるで妹のようだと一臣は思った。かわいい。
10秒ほどの考えの後、蒔乃は意を決したかのように足を踏み出して一臣の影に入った。
「お、お邪魔します。」
「はい、どうぞ。」
無事に横断歩道を渡りきり再び蒔乃の挑戦が始まるまで、二人は寄り添うように歩いた。
星ノ尾に着く前に、店を閉めた朔司と合流した。
「あ、朔司さーん!」
あんなにも真剣だった影踏みを止めて、蒔乃はぱっと翻るように駆けていく。朔司は蒔乃が大きく手を振る影に気付いて、顔を上げた。
『蒔乃さん。一臣も迎えに来てくれたのか。』
朔司の手話が影絵のように地面に刻まれる。
『ありがとう。』
まるで尾を振る小型犬のような歓迎ぶりに、朔司は笑って、蒔乃の頭にぽんっと手を置いた。
『帰ろう。』
「うん。おみくんも、行こう!」
二人の影をじっと見ていた一臣も、その影に加わる。蒔乃を真ん中に、三人並んで歩いて行く。
その日、皆が寝静まった頃。
一人、蒔乃は自分の部屋でデッサンをしていた。月を背に逆光を浴びる朔司の笑顔が忘れられなかった。彼の顔を思い出して、スケッチブックにその笑顔が刻まれていく。
自らの頭に置かれた手のひらの温かさが尊く、手足の指先が痺れるぐらいに嬉しかった。
隣の一臣の部屋の扉が開く音がした。どうしたのかなと思い耳を澄ませていると、どうやら手洗いに起きたらしい。
トイレの水が流れる音と、再び階段を上ってくる足音が聞こえてくる。その足音は蒔乃の部屋の前で止まった。
「…蒔乃?まだ起きてんの?」
扉の下から漏れる光に気が付いたのだろう、一臣が話しかけてきた。一瞬、どきりとしながら蒔乃は答える。
「うん。絵を描いてた。もう、寝るね。」
「ふーん。おやすみ。」
おやすみ、と蒔乃が言葉を返すと一臣は自分の部屋に戻っていった。
「…。」
まだ心臓が大きくどきどきと脈打っていた。一臣に好意を向けられて、それでも応えることが出来ないのが申し訳なかった。だが、だからといって諦められる想いを、蒔乃だって抱いていない。
時計を見ると、午前2時を回っていた。そろそろベッドに入らないと、明日の大学の座学が辛くなる。もう少し描いていたい気持ちを抑えて、蒔乃はスケッチブックを閉じた。
朔司はたった一人、電車に乗っていた。少しの眠気を感じつつ、耳が聞こえないために目的の駅で起きる自信が無いので我慢した。
しばらく電車に揺られ、駅の名前をホームに入る電車の速度で読み、目的の駅に降りる。桜があの日と同じく咲き誇り、まるで泣いてるかのようにその花びらを散らせていた。今日は、ひよりの命日だ。大学で勉強する水瀬家の子どもたちに秘密で、朔司は墓参りに訪れた。
駅前の花屋で花束を買い求める。花屋の主人が売れ残りの花びらが大きく開いたチューリップを一本おまけしてくれた。春の花々は色彩豊かで、冬を越した嬉しさを全身で表しているようで好きだ。頭を下げて店を出て温かい陽光に包まれながら、ゆっくりと商店街を歩いて行く。昼下がりの客足が穏やかな時間帯だった。店の軒先のプランターに植えられた花々が鈴が鳴るように揺れていた。
商店街を抜けてお地蔵様の角を曲がり、短い橋を渡る。左右の畑では元気よく菜の花の葉が空に手を伸ばしていた。もう直に、清々しい黄色の可憐な花が満開を迎えるはずだ。途中のお寺の境内で持参した水筒から麦茶を飲んだ。体内にこもった熱が冷めていくのがわかる。溶けかけたチョコレートを一つ口に放り込んで、朔司は再び歩き始めた。
緑が目に鮮やかな木々のトンネルを抜けて、長い坂を上る。上りきった先には今日の目的地。水瀬家の墓も含まれる墓地に着いた。
墓と墓の狭間を縫うように進み、朔司は水瀬と刻まれた墓石の前に立つ。朔司は一人、手慣れたように手入れを始めた。草をむしり、落ち葉を取り除き、墓石をタオルで拭う。墓の掃除が好きだ。真っ新な気持ちで故人と向き合える気がするから。
途中で購入した花を供え終えて、朔司は膝に付いた砂埃を払う。空を仰げばソフトクリームのような雲が山の向こう、覆うように浮かんでいる。
ひよりが死んだのも今日のような天気の日だった。
魂の無いひよりの体は、形容しがたい冷たさになっていた。死に水を与えるために彼女の唇に最後のキスをしたとき死の味がしたことを、今もよく覚えている。
愛しい、ひより。
たった一人の息子を残して逝くのは、さぞや無念だったろう。君が宝物を残してくれたことを、僕は誇らしく思う。
そして、墓にはもう一人の母親が眠っている。それは蒔乃の母親。朔司の義理の妹だ。玉森の名字を捨てきることが出来なかったが、朔司が頭を下げて水瀬家の墓に入るのを許して貰った経緯がある。
六花の舞う頃に亡くなった彼女もまた、娘を残して逝くのが辛かった愛情深い女性だったのだろう。その強い思いの弊害が、蒔乃の無痛症なのだが。
浸っていた感傷から醒めるように、朔司首を横に振った。線香を焚き、手を合わせる。
どうか、二人とも。安らかな世界にいてほしい。
君たちが残した子どもたちは、僕が責任を持って育てる。
低く唸るような音と供に、濁った空を分断するような飛行機雲が一本描かれ始めた。
「雨降りそうだなあ。」
大学の制作スペースの窓から空を見た蒔乃の呟きは、予言となって当たった。
ぽつぽつと小さな粒だった雨は、やがて一直線になり地面を叩き始める。植物は恵みを受けて喜び、温まった地面からはむっとした蒸気にも似た香りが満ちた。
夕方の絵画科の教室の扉前で、うろうろしている一臣を見つけた蒔乃は首を傾げながら声をかけた。他学科の教室に入るのを躊躇していたのだろう。一臣はほっとしたように、蒔乃を迎え入れた。
「蒔乃。傘、忘れてったろ。」
そう言われて、折りたたみ傘を一臣から押しつけられる。「うわ、ありがとう!おみくんは?」
「俺も自分の傘持ってるし、今日はバイト入ってるから。」
一臣は時間を気にするように防水機能が付いた腕時計を見た。わざわざ絵画科に寄ってくれたことに感謝する。
「じゃあ、帰り遅いんだ。」
「うん。夕飯、親父と先に食べてて。…っと、そろそろ出ないと遅刻する。行くわ。」
一臣はリュックを背負い直す。彼は大学近くの食堂でバイトをしていた。
「わかった。店長に、この間の揚げ物美味しかったって伝えて。」
時々、一臣が余ったおかずを貰ってきては、水瀬家の食卓に出していた。
「了解。じゃ!」
駆けていく一臣の背中を見送って、手を振る。姿が見えなくなって、蒔乃自身も帰り支度を始めるのだった。
バスを最寄りの停留所で下車し、雨が降る住宅街をたった一人歩いて行く。近道をしようと住宅街にぽつんとある神社の参道を通ろうとして、境内に佇む人物に気が付いた。
「! 朔司さん。」
そこにいたのは、雨に濡れて困ったように空を見上げている朔司だった。どうやら外出中に雨に降られて、足止めを食らったようだ。
蒔乃の鮮やかな青い折りたたみ傘に視線が移り、朔司は驚いたように目を見開いた。そしてその刹那、ふっと柔らかく微笑む。
『蒔乃さん。今、帰りかい?』
蒔乃は頷き、朔司の元へと歩み寄った。
「傘。入って、一緒に帰ろうよ。」
『ありがとう。』
狭い傘に二人、雨の舞台に立つように歩き始めた。
身長差で傘は朔司が持ってくれていた。肩と肩が触れあう。そこだけが熱を持つようだった。
「…。」
心臓が柔らかく破裂しそうに脈打っているのがわかる。冷たいはずの雨が熱くて、肌が爛れるんじゃないかと錯覚しそうになった。
自覚する赤くなった頬を見られたくなくて、蒔乃はずっと俯いていた。手が塞がった朔司とは会話ができない。今はそれがありがたい。
不意に朔司に、とんと肩を叩かれる。はっとして顔を上げると、朔司が笑みを浮かべながら首を傾げて見せた。彼の真意を探ってみると、叩かれた蒔乃の肩が濡れていた。朔司は、濡れるからもっと寄りなさい、と言っているのが理解できた。
頷いて、ほんの少し朔司に近づく。傘が蒔乃の方に大きく傾けられ、もうほとんど濡れない。
「…朔司さんが濡れちゃうよ。」
今、自分だけが扱える手話で伝える。朔司は緩く首を横に振った。いいんだよ、と言われている気がした。
朔司の手話がなくても、目と目が合うだけで伝えたいことがわかる。ただ、それだけで。涙が出るくらいに嬉しい。
その涙を誤魔化すために、手に集中して貰おうと手話で会話をする。
「今日、おみくんはバイトだって。夕食、何にしようか?」
蒔乃の問いに朔司は考え込み、そして足を家とは違う場所に向けた。それは星ノ尾に向かう道だった。
「星ノ尾に行くの?」
朔司は頷く。今日は星ノ尾の定休日だ。
ふと、朔司は空を見上げた。蒔乃も釣られてみると雲が僅かに晴れて、雨が上がっていた。朔司は折りたたみ傘を畳んで、水気を飛ばす。そして自由になった両手で言うのだ。『今日は、星ノ尾で夕食を食べよう。お客さんから貰った美味しい紅茶があるんだよ。』
今夜はお客さんの来ない星ノ尾で、二人だけのディナーとなった。朔司は腕を振るって、オムライスを作ってくれた。ラインナップが幼い気もしたが、朔司の作るオムライスは蒔乃の好物だったので文句はない。
食後の紅茶は朔司が美味しいということもあり、太鼓判つきの味だった。フルーツのような芳醇な香りが満ちて、渋みのない風味が舌を楽しませた。
「ちょっとお手洗いに行ってくるね。」
そう言って蒔乃は少しの間、席を立つ。戻ってきたとき、席に朔司がいなかった。代わりに、ザクザク、と小気味良く何かを刻む音が残されている。蒔乃はその音の出所を探した。間接照明だけが灯った薄暗い店内のバーカウンターで朔司が何やら、作業をしていた。辺りに漂うチョコレートの香りに、彼がチョコ菓子を作っていることを知った。
チョコレートを刻み、ラム酒と蜂蜜が加わった生クリームを温めるとまるで赤ちゃんのような甘い香りが店内に広がる。
蒔乃がバーカウンターへ歩み寄ると、その気配を感じ取った朔司が視線を持ち上げた。
「何を作っているの?」
ひらひらと手話で問うと朔司はふわっと笑み、作業を一時中断して答えてくれる。
『蜂蜜入りのトリュフだよ。』
「わ。それ、大好き。」
蒔乃との手話を終えると、再び朔司はチョコレートを混ぜ合わせ始めた。蒔乃は無言で朔司の手元を見つめていた。
チョコレートはまるで薔薇の花びらのビロードのように滑らかに仕上がっていく。混ぜ終えたものをバットに淹れて冷蔵庫で一時間。蒔乃は待ち時間にノンアルコールのカクテルを作り、二人で乾杯することにした。
『これは?』
朔司が首を傾げて、蒔乃に問う。
「バタービール。温かいうちに飲んで。」
一口、口に含むとバタースコッチの香りが鼻に抜けて、じんわりと体を内側から温めていく。猫舌気味の朔司は舐めるようにちびちびと飲んだ。俯く彼の首元に、蒔乃が付けた噛み痕が微かに窺えた。
ことん、と小さな音を立て、カップを置く。蒔乃はそっと朔司の首筋に触れるか触れないかギリギリのところで空気を撫でた。朔司は困ったように笑い、首を傾げる。
「…痛かったでしょ。」
朔司は蒔乃の呟きを聞き取ることが出来なかったが、彼女の涙が微かに滲む目色で感情を悟る。
『大丈夫だよ。』
蒔乃の手を取って何度も、何度も、そうやって肌に文字を刻んだ。
一時間後、冷蔵庫で冷やしたチョコレートを丸めてココアパウダーにまぶす。
出来上がった蜂蜜入りのトリュフは蒔乃の涙を含み、ほんの少し塩味が増した気がした。
トリュフを口に含むと蜂蜜の少し生臭いような甘い香りと味、ラム酒の渋味、そしてチョコレートのこってりとした食感が絶妙なハーモニーとなりするりと解けていく。
「んー…。美味しい。」
蒔乃は口元をほころばせて、トリュフを味わった。その様子を朔司は微笑ましく、または眩しいものを見るように目を細めて見守っていた。その柔らかな視線に気が付いた蒔乃は恥ずかしくなって、俯いてしまう。
「…私、ドキドキしすぎて、いつか朔司さんに殺される気がする。」
その温かな目色に。優しい感情に。愛しい手に。
俯いてしまえば蒔乃の口元は見られることもなく、耳の聞こえない朔司には伝わらない。卑怯だが、どうしても知られたくない言葉を口にするときに利用してしまう。
聡い朔司はきっと気付いている。だけど、それを指摘されたことは一度もない。ただ、俯く蒔乃の頭を緩やかに撫でるのだ。今日もまた、髪の毛を梳くように優しく、子猫を撫でるように愛しそうに。
そしてやっと視線を上げた蒔乃を見て、朔司は手話で囁くのだ。
『君になら、傷つけられてもいいよ。』
彼の口癖だった。蒔乃は以前、どうして自分の欲しい言葉がわかるのか、と聞いたことがある。すると決まって朔司はこう言うのだ。いたずらっ子のように肩をすくめて、笑みを浮かべながら『さあね。』と。
「蒔乃、今度の絵は人物画にするんだ。」
大学での昼下がり、絵画科の制作棟に向かいながらみきとの会話に花が咲く。
「うん。この間のデッサンを元に、今、構想を練ってるところ。」
「ああ、蒔乃の好きな人ね!」
無邪気なみきの声の大きさに、蒔乃は慌てて周囲を覗う。自意識過剰だとしても、誰もこちらに注目していなかったことにほっとする。
「みき。それ、内緒だよ?トップシークレットだからね!?」
「わーってるっって!」
あはは、と声を出して笑いつつ、みきの意識が違うところに行ったのがわかった。
「来るなよ!バイト先に、来るなよ!!」
「なんでわかったの!?」
みきが蒔乃のバイト先を思い描いていたのが手に取るようにわかり、牽制する。
「わかるよ…。みき、すぐに表情に出るんだから。」
「ええ、そう?」
蒔乃の指摘に、みきは自分の頬を両手で包んだ。彼女の天真爛漫で隠し事のない性格はとても好感が持てた。
「あ、ねえ、彫刻科で使う木が届いたんだね。この景色、圧巻だよねー。」
コロコロと話題が変わるみきが言うとおり、通りすがりに彫刻科の学生たちが木材を運んでいた。冬が過ぎ、手に入りにくかった木が伐採されたのだろう。春先に、屈強な男子学生たちが自らの手で運んでいく様子は伝統になっていた。それは学生たちの意思で行われ、女子学生はさっさと軽トラックで運んでしまう。
「おーい、運ぶぞー。」
一際大きな木材が二人組の男子学生に担がれていく最中、一陣の風が吹いた。風に煽られ、木材が揺れる。
「え?」
「、みき…、」
興味津々に眺めていたみきの頭上に影が曇った。
陶芸科の制作棟でろくろの土に集中して向かっていた一臣の耳に、静正の緊張した声が響いた。
「一臣!!」
恐らく走ってきたのだろう、静正は肩で息をしている。いつもひょうひょうとした雰囲気の彼が珍しいと思った。
「どうした?」
手に付いた土を洗面器の水で落としながら、一臣は尋ねる。「玉森先輩が、」
一瞬で周囲の音が失せ、一臣の目の前が暗くなった。
ー…玉森先輩が共同制作棟の前で怪我をした。
ー…倒れた木材が直撃したらしい。
ー…見てた人の話だと、一緒にいた友人を庇ったって。
「…蒔、乃…。」
気が付けば一臣は駆け出していた。せっかく形成した土の器がろくろから落ちて潰れても、洗面器が大きく揺れて泥の入った水が零れても、気にしている余裕は無かった。
最悪の状況を考えてしまう。
蒔乃の肌に傷痕が刻まれたら。後遺症が残ったら。…死んでしまったら。
嫌だ!
外に出て、共同制作棟に向かう。人だかりが出来ていて、すぐに現場が知れた。
「蒔乃!」
遠巻きの人をかき分けて中央に躍り出て、そこにいた蒔乃を見て一臣は息を呑んだ。
蒔乃が庇ったという友人が大声を上げて泣いている。どうやら彼女には怪我はないようだった。
「あ、おみくん。」
蒔乃は額を切って血を流しながら、笑っていた。
異様な光景だった。
赤い鮮血が顔の滑らかな曲線を伝い、顎から滴り落ちているのに当の本人は柔らかな笑顔を浮かべている。
周囲の人間は蒔乃の様子に息を呑み、無言のまま見守っていた。彼らもどうすれいいかわからず、混乱しているようだった。
「みき。大丈夫?」
友人の肩に触れようとした刹那、友人は怯えたように蒔乃を見た。
「だ、大丈夫じゃないのは、蒔乃、だよ。」
「私は、」
「蒔乃。」
一臣は二人の間に割って入る。そして、蒔乃の額に腰に下げていたタオルを押し当て、彼女を抱き上げた。
「医務室に行こう。血が出てる。」
まるでモーセが海を割ったかのように、人々が二人を避けて道を空ける。
「おみくん、私、歩けるよ?」
「まだわからない。もしかしたら、傷ついているかも知れない。」
一臣は今まで、蒔乃の無痛症を甘く見ていたことに気が付いた。彼女は自分が怪我をしてもわからないのだ。それが些細な傷としても、致命傷だとしても。
医務室だけでの診察ではままならないため、校医は救急車を呼んでくれた。付き添ったのは一臣だった。
蒔乃の額の傷は、四針を縫うものだった。他に、右手首を捻っており、後から随分と腫れるだろうと医師から言われた。骨が折れていないのが幸いだった。
蒔乃と一臣はタクシーで帰宅し、自宅に帰った。蒔乃は安静を命じられ、自分の部屋のベッドで横になった。
「おお…。スマホがすごいことになってる。」
蒔乃が慣れない左手だけのスワイプでスマートホンの画面をなぞると、メッセージアプリに友人たちから心配の声が寄せられていた。
「そういや、さっきからピコンピコン鳴ってたな。」
「…でも、みきからは何もないや。」
寂しそうに呟く蒔乃を見て、一臣はベッドのふちに腰掛けた。僅かにキシリと軋む音が響く。
「…。」
「おみくん?」
一臣の肩が震えていた。
「どうして、泣いているの?」
彼の頬に涙が伝っていた。その涙を拭うことなく、一臣は静かに泣いていた。
「…蒔乃が…、」
「うん。」
ああ、やはり私の所為なのだと蒔乃は思う。
「蒔乃が、死んじゃうんじゃないかって…思った。」
「!」
ほたほたと涙を零す一臣が吐露した気持ちに、蒔乃は息を呑んだ。
「病院についても、不安で…怖くて。このまま蒔乃が治療室から出てこなかったらどうしよう、と…。」
長身の一臣の背中が、小さく見えた。蒔乃はそっと起き上がり、彼を背後から抱いた。
「ごめんねえ、おみくん。」
ぎゅっと腕に力を込める。一臣のはっきりとした鎖骨が感じられた。
「蒔乃はさ、痛くないから大丈夫、だと思ってる節があるだろ…?」
「…うん。そうだね。」
一臣の指摘に、蒔乃は素直に頷く。確かに、誰かが傷つくぐらいなら自分が、と思うところはあった。
だって、痛くはないのだから。
みきが無事で、本当に良かった。
人として欠けている私でも、大切な人を守る事が出来たと嬉しくすらあった。
でも、
「蒔乃が痛くなくても、守られた方はすごく痛いんだよ。」
「…傷ついて、いないのに…?」
「体はね。俺が行ってるのは、心の話。」
一臣の言葉に、不意に気が付いた。今、みきは心を痛めていることに。いつもだったらいの一番に連絡をくれそうなものなのに、みきは沈黙を守っている。みきは心が痛くて、身動きが取れないのだ。
蒔乃は自分の浅はかな思いに、自己嫌悪した。
「蒔乃。」
一臣が、ズ、と鼻を啜る。
「痛くないから身代わりになるような真似は、もうしないと約束して。」
「うん。わかった。」
約束だよ、と一臣が念を押す。
「約束ね。」
二人が小指を絡めていると、玄関の扉が開く音がして次にバタバタと駆けるように階段を上ってくる音が響いた。何事かと思っていると、いつもならされるノックもなく部屋の扉が開かれた。そこには、肩で息をして髪の毛を乱した朔司が立っていた。
「親父。」
「朔司さん。」
二人の子どもたちの顔を見比べて、朔司は力が抜けたように膝をついた。一臣は立ち上がって、朔司に手を貸す。
「大丈夫か、親父。」
一臣に支えられながら立ち上がり、朔司は覚束ないように手話を操った。
『蒔乃さんが、大怪我をしたと聞いて…。』
一臣が連絡してくれたのかと思い、彼を見るといいやと首を横に振る。では、一体誰が?
『みきさんと言うお嬢さんが星ノ尾に来て、教えてくれたんだ。』
蒔乃は目を丸くする。
「みきが?」
朔司は頷く。
『ああ。彼女、泣いていたよ。』
「…。」
「…みきさんって人にも、ちゃんと話さないとな。」
一臣はそう言って、蒔乃の頭を撫でてくれた。
三日の安静の末、蒔乃は大学に復帰した。右手首の腫れも幾分か引いた。
「あ、蒔乃ー。もう出てきて平気なの?」
友人たちが蒔乃の姿を見つけ、駆け寄ってくる。
「うん。ご心配、おかけしましたー。」
「本当だよ!」
華やかな笑い声の中に、みきの姿は無かった。
「…ね、みき、知らない?」
蒔乃の問いに友人たちは首を傾げるが、その中の一人が手を挙げて答えてくれる。
「みき?絵画の制作場所で見たけどな。」
「教えてくれて、ありがと。ちょっと行ってみるね。」
「塞ぎ込んでるみたいだから、蒔乃の元気な姿を見たら元気になるよ。きっと。」
友人たちと手を振って別れ、蒔乃は一人、絵画科の制作棟へ向かうのだった。
絵画科ですれ違う学生たちと挨拶を交わして、みきの個人の制作場所へと歩む。画材や額縁が積まれた角を曲がった瞬間に見たみきを見て、蒔乃は足を止めた。
みきは真っ新なままのキャンバスに向かって、座り込んでいた。彼女は作業が早く、いつもなら下塗りは終えていそうなところだ。だけど、今は手つかずのようで、その後ろ姿が何故か寂しそうだった。
「…みき…。」
呟きのような蒔乃の声に、みきは反応した。
「!…、蒔乃。」
ぱっと弾かれたように、みきは蒔乃を見る。だが、いつもの笑顔はなく、すぐに俯いてしまう。両手の指をもじもじと絡ませ、何かを喋りたそうに口を開きかけては閉じてしまう。
「あの…、蒔乃。あのね、」
「みき、ごめんね。怖い思い、させちゃったよね。」
蒔乃の静かな声に、みきはようやく顔を上げた。
「ううん…。傷、は…大丈夫なの?」
「うん。平気だよ。…見る?」
絵の具や筆をどかして、蒔乃はみきの隣に座った。
「見たい。」
「いいよ。」
みきの震える手が、蒔乃の額に掛かる前髪をそっと払う。そこにはまだ白いガーゼがテープで貼られている。
「あ、まだ抜糸はしてなくて。」
「そっか…。痕、残っちゃうのかな…。」
みきの声色に涙が滲む。
「場所がここなら、前髪で隠れちゃうよ。」
残らないよ、などと根拠のないことは言えず、正直に話した。正直ついでに、自分のことも話さなければと思った。
「みき。私ね、痛みを感じないの。」
「痛みを?」
みきはどういうことだろうと首を傾げる。
「例えば…そうだね。私の手に、爪を立ててみて?」
「ええ?」
半信半疑といった風に、みきは子猫のようにカリリと蒔乃の手の甲に爪を立てる。
「もっと強く。」
「いや、でも。」
戸惑うみきに、蒔乃は言う。
「血が出ても痛くないの。つまりは、そういうこと。」
「痛みって、痛み?痛覚のことなの?」
蒔乃は頷く。
「脳の障害でね。痛覚の電気信号が途切れてる。」
「そう…、なんだ。」
みきはショックを受けたようだった。でも、今後も彼女と向き合っていくために、知っておいて欲しいと思った。
「だから、かな。痛くないからって、自分だけが傷つけば良いって思った。傲慢だったね。」
そんなことない、とみきは首を横に振る。
「傲慢じゃないよ。蒔乃、それは優しいって言うんだよ。」
「…ありがとう。」
みきが蒔乃の手を取る。
「蒔乃。私の方こそ、守ってくれてありがとう。傷つけて、ごめんね。」
みきの手は少しひんやりとして、しっとりとしていた。
まるで妹のような友人。
「みき、大好きだよ。あなたが無事で、本当に良かった。」
「私も、蒔乃が大好き。」
えへへ、とみきは照れくさそうに笑う。ようやく見ることが出来た彼女の笑顔が、嬉しかった。
「あ、そうだ。蒔乃に謝らなければならないことが。」
「ん?何?」
蒔乃は首を傾げる。
「蒔乃のバイト先、行っちゃった。」
小さく舌を出すみきをみて、蒔乃はあっと声を上げた。
「…見た?会ったよね?」
「見ました、会いました。蒔乃の好きな人。」
あちゃー、と蒔乃は手を額に当てて天を仰ぐ。星ノ尾で働く男性は、朔司ただ一人だ。
「ご、ごめん。せめて、蒔乃のお見舞いに行ってくれないかなーってお願いしようと思って。」
「いや、いいよ…。大丈夫。今回は、私が悪かったから。」
みきの可愛らしい理由に怒ることも出来ず、ただただ、彼女の反応が気になった。
「あの…えっと…、朔司さんのことは…。」
「え?あ、大丈夫!誰にも言わないから!!」
手を横に振って、みきは応える。そして、蒔乃の耳元で囁くのだった。
「年の差あるけど、頑張ってね?」
そういえば、みきと恋の話をするのは初めてな気がした。「蒔乃が年上が好きとは知らなかったなあ。」
蒔乃のスケッチブックを開きながら、みきは言う。
「年上だから好きになったわけじゃないけどね。」
「父親ぐらい年齢、上だよね?どこで出会ったの?」
確かに気になるところだろう。みきに嘘を吐きたくなくて、蒔乃は正直に告げることを選ぶ。
「…私の叔父なの。」
え、と声を上げるみきに、蒔乃は慌てて補足をする。
「叔父と言っても、血のつながりは無いんだ。」
「…複雑なのねえ。」
頬杖をつきながら、みきは感心したように呟く。朔司との関係を受け入れられ、蒔乃は内心でほっとする。
「じゃあさ、じゃあさ。」
みきが身を乗り出した。
「どういうところが好きになったの。」
「えー…と。優しいところ、とか。」
ふむふむ、と頷くみきは更に突っ込んでくる。
「優しい、って色々あると思うんだけど、例えば?」
「…朔司さんは私のほしい、言葉をくれる。」
「失礼でごめんだけど、その朔司さんって人、耳が…?」
そうだね、と蒔乃は頷き、朔司を想って目を細めた。
「朔司さんは耳が聞こえないから、その分だけ人の気持ちに敏感なんだ。手話や、筆談で言葉を伝えてくれる。」
彼の温かな気持ちに触れる度、自分の心が浄化されていく気がする。海のように深い愛情を以て、心が辿り着く先はまるで湖の底のように静かだった。温かく柔らかな泥に包まれて着地し、そのまま上下左右のない世界を漂うような居心地の良さ。
「そうかあ…。好きなんだねえ。」
蒔乃の表情でその感情を読み取り、みきは溜息を吐くように呟く。
「うん。大好きなの。」
あなたを想うだけで心が安らぐほどに。
「私の話はまあ、置いといてさ。みきは?いないの?好きな人。」
「え。」
みきの視線が泳ぐ。その仕草にピンときた蒔乃はぐいぐいと詰め寄った。
「まさか私だけ好きな人の公表させる気ですか?吐いてしまえよ、みきくん。」
「えーと、えーと。その…、」
水瀬くん…とみきの声が段々小さくなりつつも、聞き取れた名前に蒔乃は目を丸くした。
「え?おみくん?」
みきは顔を真っ赤に染めて、小さく頷いた。
「そう…。水瀬、一臣くん。」
まさか一臣の名前が挙がるとは思わず、蒔乃は絶句した。「そう、なんだ。やるなあー、おみくん。」
「何となく言いづらくて。ごめんね?」
みきは両手を合わせる。
「何も謝ることは無いよ。え、どこに惚れたの?」
「水瀬くんは覚えていないと思うけど…。」
それは去年の初夏のことだったという。
その日、みきは自分の身長ほどもあるキャンバスを抱えて歩いていた。学生の身分で自分用の車を持っているわけでもなく、バスに乗ることも出来なかった。
そこでみきは足元を気にすることも出来ず、何かにつまずいて転んでしまった。膝を擦り剥いて、意気消沈し、みきは道端で座り込んでしまった。
そのときだった。背後から自転車で走ってきた男の子がみきを見て、止まってくれたのだという。それが、一臣だった。
『どうしたんですか。』
声をかけて、みきの事情を聞くと、一臣は自転車の後ろに乗れと言ってくれた。
『え…、でもキャンバスが…。』
『そこの大木の影に隠しておけば、後で俺が取りに来てあげます。』
そう言うと、一臣はみきからキャンバスを受け取って道端の大木の影に隠し、自分が着ていたパーカーを上に掛けた。『これで、俺がキャンバスを取りに来る理由にもなります。』
みきは彼の厚意に甘えて、自転車の後ろに座った。一臣が漕ぐ自転車から見る景色が、とてつもなく綺麗に見えたと言う。
「何かさ、いつも見てる景色なんだけどさ、キラキラ輝いてて青春アニメを見てるみたいだった。」
そう話すみきの瞳は輝いていた。
一臣はみきを絵画科に制作棟前に自転車から下ろすと、すぐに道を引き返した。自転車に乗せることも出来ず、一臣はキャンバスを担ぎ歩いて持ってきてくれたらしい。
「もうね、心臓が打ち抜かれたんじゃ無いかってぐらいの衝撃だった。胸が締め付けられるぐらい、嬉しかった。」
「白馬の王子さまじゃなくて、王子さまは自転車に乗って来たのね。」
一臣らしいと誇りに思いつつ、仄かな罪悪感が蒔乃の心にしこりとなって残った。
大学の帰り道、部活やサークルに入っていない蒔乃は大学前のバスに乗り込んでいた。今日は、バーテンダーの手伝いに星ノ尾に向かう予定だ。
車窓から流れる景色にもうすぐ5月の桜は、葉桜になり青々としている。木々に寄り添うようなトタン屋根の掲示板には町内会の会報や、地元の小学生が描いた交通安全のポスターが貼られていた。
もうすぐ初夏の割に花冷えのような涼しい今日の気候に、半袖の蒔乃は自分の二の腕をさすってみる。ポロシャツから覗く腕は粟立ち、若い桃の産毛のような柔らかさが手のひらに伝わった。カーディガンを羽織ってくれば良かったと思う。
「みきが…、おみくんをね…。」
妹のような友人の恋敵が、まさか自分だなんて。
誰にも相談が出来なくて、蒔乃は溜息を吐いた。悶々とする懊悩を抱えながら、バスを降りる。
住宅街を歩いて行けば、星ノ尾が見えた。丁度、朔司がカフェタイムの札をバーの札に変えるところだった。蒔乃は立ち止まって、朔司の物腰柔らかな所作を見つめた。その視線に気付かず、朔司は店内に入っていってしまう。
「…。」
もう一度小さく溜息を吐いて、蒔乃は頬をぱちんと叩いて払拭した。これからは仕事の時間だ。気持ちをきちんと切り替えなくてはいけない。
更衣室で着替えとメイクを施して、蒔乃はバーカウンターに立った。ぽつん、ぽつんと、でも途切れなく訪れる客の対応をする。
何杯目かのカクテルを作り、提供すると客の一人が蒔乃に声をかけた。
「綺麗なお嬢さんもどうだい、一杯。奢るよ。」
それは新規の客で、朔司と同じぐらいの年齢。もしくは少し上ぐらいの男性だった。
「ありがとうございます。ですが、仕事中ですので。」
お礼と供にやんわりと断るが、男性客はそれでもと粘る。
「いいじゃないか。少しぐい。それとも、自分では飲めない酒を作っているのか?」
「そのようなことは…、」
蒔乃は笑みを浮かべつつ困っていると、男性客の隣に朔司が腰掛けた。そして、手にしていた手帳に文字を書き込む。『店長ですが、何か?』
その文字を読み、男性客がつまらなそうに言う。
「なんでもないよ。放っておいてくれ。」
早口で読み取れなかったのだろう、朔司は苦笑している。
「…何、へらへら笑ってんだ。気色悪い。お前、耳が聞こえないのか。」
「お客様。」
朔司への侮辱に蒔乃の怒りの感情が一気に沸点に達する。
「失礼ですが、」
お帰りください、と続く蒔乃の言葉が朔司によって遮られた。片手で蒔乃を諌めつつ、朔司は更に文字を紙に書き込む。
『申し訳ありません、お客様。何か不手際があったのなら、謝ります。』
「朔司さん…っ。」
朔司は蒔乃に向き合い、手話を使う。
『蒔乃さん。お客様に、一杯無料でお出しして。』
「…はい。」
蒔乃は渋々ながら男性客が先ほどまで好んで飲んでいたカクテルを作り、提供した。
「どうぞ。店長からです。こちらのお代は頂きません。」
その言葉に機嫌を直した男性客は、今度は朔司に絡む。
「あんた、なかなか話がわかるじゃないか。そうだ、このバーテンダーの代わりに一緒に飲もう。」
仕事中に加わり、朔司は下戸だ。無理に飲ませたくない。
「あの…、お客様、」
困り果てた蒔乃に、朔司は首を傾げてみせる。蒔乃は手話で男性客の要求を伝えると、朔司はややあと頷いて見せた。『いいですよ。じゃあ、一杯だけ。』
紙に書いて伝えると、男性客は満足げに頷いた。
「ははは、じゃあ、うんと強い酒を頼むよ。せっかくの一杯だ。」
「…。」
蒔乃は黙って頷いて、シェーカーに材料を入れて振った。それはノンアルコールのものだった。
「どうぞ。」
だが朔司が手に取る前に、そのグラスを横取って男性客が飲んでしまう。
「!」
「随分と甘い酒だな。ウイスキーをそのまま店長さんにやってくれ。こんなのは女が好む酒だ。」
さすがに瓶にそのまま入っている酒を誤魔化すことは出来ない。蒔乃はのろのろと手を動かしながら、どうしようかと逡巡する。言われるままに用意したウイスキーの入ったグラスが出来上がってしまう。
こうなったら、私が飲むか?…そうしよう。
「あの、」
自分が飲むと宣言する前に、朔司がグラスを手に取った。そしてそのまま、男性客と蒔乃が見る前でウイスキーを飲み干した。
「!」
「お、あんた、イケる口かい?」
ひゅっと息を呑む蒔乃と相反し、男性客は声を出して陽気に笑う。朔司も微笑んでみせるが、それは無理をしていることが蒔乃にはわかった。
「おっと、もうこんな時間か。嬢と同伴を約束しているんだった。お勘定、頼むよ。」
「かしこまりました。」
蒔乃はほっとしつつ、レジ前へと男性客を案内した。
「ごちそうさん。また来るよ。」
二度と来るな、と内心で毒づいて男性客を見送る。その後ろ姿が見えなくなって、蒔乃は塩をまくのだった。
全ての客が帰るまで気が気でなかったが、朔司は平常心で接客をしているので蒔乃は何も出来なかった。そしてようやく、閉店の時間となって最後の客を見送った。
ちりん、と鈴の音が響き、扉が閉まると蒔乃は振り返って朔司の元へと急ぎ、駆け寄った。
「朔司さん…!」
『…。』
朔司は張っていた気が緩んだかのように、バーカウンターに顔を伏せた。
「大丈夫?お水、飲んで。」
蒔乃は水をコップに汲むと、朔司の前に出す。のろのろとした動作でコップを手に取り、飲もうとするがその手が僅かに震えていた。やっとの思いで水を飲み、朔司は小さな溜息を吐いた。
「ごめんね、朔司さん。」
蒔乃は朔司の手を取って、人さし指で肌に文字を刻む。
「私がもっと上手にあしらうことが出来てたら、朔司さんに無理をさせずに済んだのに。」
彼の肌は熱く、火が灯っているようだった。朔司は蒔乃の手を握る。そして、にこ、と笑った。蒔乃の手を離すと、ゆるゆると手話で言う。
『君を守るのが、僕の役目だから。』
そう言うや否や、朔司は再びカウンターに突っ伏してしまう。少しすると、微かな寝息が聞こえてきた。どうやら限界が来て、寝落ちしてしまったらしい。
蒔乃は朔司を起こさないように、冷え性の客用に用意している膝掛けを彼の肩にかけた。
朔司は唸るような声を喉から出しつつ、横を向く。あまり見たことの無い寝顔を晒され、蒔乃は申し訳ないと思いながらじっと見つめてしまう。
穏やかに年齢を重ねた証のように睫毛に二本、白髪が交じっている。口元には笑い皺が刻まれて、頬はアルコールの所為か上気していた。
「…。」
蒔乃は朔司の柔らかい猫っ毛のような白髪交じりの髪の毛を掬うように、耳元にかけてやる。その微かな刺激に一瞬、眉間に皺を寄せるがすぐに元に戻った。
…愛しい人の寝息って、いつまででも聞いていられる。
朔司の寝息に合わせて呼吸をすると深く肺に新鮮な酸素が満ちて、濁った二酸化炭素が全て排出されるようだった。「好きだなあ…。」
朔司には決して届かない、自分自身の声。卑怯だと思いながらも、呟かずにはいられなかった。
「朔司さーん?」
彼はもちろん、深い眠りの淵にいて目覚めない。
「…好きですよ。」
その瞬間。本当に偶然だが、一瞬、朔司は何かを思い出したかのように笑った。
カタン、と蒔乃が腰掛けていた椅子が動く音が響く。間接照明に照らし出された二人の影が重なった。
ちゅ、と音を立て、蒔乃は朔司の唇から顔を上げた。初めてのキスだった。
「…ーっ。」
蒔乃の瞳から涙が零れた。
相手の意識が無い時でないと自分は思いを伝えることも、ましてやキスすることも出来ない。だって、きっと蒔乃のこの想いは、朔司にとって迷惑でしかないだろうから。
朔司が、死んだ。
あの日、あの時、あの瞬間のことを私は忘れたくとも、忘れないだろう。否、忘れるもんか。
「朔司さーん。そろそろ帰ろう?」
酔って眠る朔司を起こさぬように、店の後片付けを終えて蒔乃はようやく声をかける。彼の肩を優しく叩くと、冬眠から開けたばかりのクマのように朔司が目覚めた。頭を緩く左右に振って、眠気を覚ましているようだった。
蒔乃はもう一度、彼に水を与える。朔司は心底美味そうにその水を飲んだ。
そして立ち上がり、二人で星ノ尾を出た。蒔乃が扉に鍵をかけて、先に店先に佇む朔司と合流するのだった。
今日はバイトの後、友人の家に泊まると一臣から連絡があった。久しぶりの二人だけの夜だ。
朔司は空を仰ぐ。彼のいつもの癖だ。蒔乃も立ち止まって、空を見た。深夜の住宅街はとても静かで、月が猫のように笑っている。
「…月が綺麗だねえ。」
ぽとんと呟き、蒔乃はその意味にはっとして気が付いた。蒔乃が覗うように彼を見ると、その視線に気が付いた朔司が優しい目色を滲ませながら蒔乃を見た。次の瞬間に、朔司の目が見開かれる。
「え、」
車のライトが二人を照らす。ブレーキをかけた形跡は無かったように覚えている。
車が。
車が、二人に向かって、
「!?」
不意に蒔乃は突き飛ばされる。その瞬間に、鈍く大きな音が響き、クラクションが耳障りに鳴り続けた。周囲の家々の窓に何事かと光が灯る。
「さ、朔、司さ…ん…。」
蒔乃は混乱で思考が真っ白になりつつ、朔司を探した。朔司は車と電信柱の間に挟まれるように倒れていた。
朔司の腹の上に車の前輪が乗り、打ち付けた頭部から血が流れている。
「朔司、さ、」
蒔乃は腰が抜けたように立てなかった。だが、朔司の元へと行きたかった蒔乃は腕を使って這うようにして、彼の元へと近づいた。
段々と家から出てきた人で、周囲が怒号のようなもので溢れた。
「急いで、救急車を呼べ」
「人が巻き込まれている」
「ガソリンが漏れてるぞ」
困惑や焦燥の騒ぎの中、蒔乃は朔司の手を握った。その刺激に、朔司はそっと重そうに瞼を持ち上げる。朔司は蒔乃の無事を確認すると、安心したように微笑んだ。
「もうすぐ、もうすぐ救急車が、来るから…っ。」
だから、大丈夫、とその言葉は朔司ではなく、蒔乃自身に宛てたものだったのかもしれない。
「お姉さん、ガソリンが危ないから離れなさい。」
近所の住人の一人が蒔乃を、車から離そうと肩に触れた。蒔乃は大きく首を横に振って拒否する。
「嫌だ、朔司さん!朔司さん!!」
蒔乃の手を握る力がきゅっと強くなり、はっと朔司を見た。彼は相変わらず笑みを浮かべながら、そして、蒔乃の手を離した。朔司は蒔乃の手のひらを広げて、人さし指で文字を書いた。
『いきなさい。』
肌に刻まれた文字を読み取って、蒔乃は朔司を見る。その力が抜けた瞬間に、周囲の人間により蒔乃は朔司から引き離された。
「朔司さ…、」
救急車のサイレンが大きくなり、現場に近づいてくることがわかった。
「風呂、サンキュー。」
一人暮らしをする静正のアパートに一臣はいた。
「おーう。なあ、一臣のスマホめっちゃ鳴ってんだけど。」
静正がテーブルの上に置かれた一臣のスマートホンを指差した。一臣は首を傾げながら、スマートホンを手に取った。
「? なんだろ。」
首を傾げながら画面をタップしてみると、そこには市民病院と蒔乃からの着信が入っていた。不安がインクのように落ちて心に滲んでいく。
「悪い、ちょっと電話。」
「ごゆっくりー。」
一臣はアパートのベランダに出て、蒔乃のスマートホンに電話をかけた。一回の着信音で蒔乃が出る。
『おみくん…っ。』
「蒔乃?どうした?」
一臣はスパンッと弾くようにベランダのサッシを開ける。
「…っくりしたー。何、どしたん?」
読んでいた雑誌を落として、驚いた静正が一臣に尋ねる。
「市民病院に行く。」
「え?今から?」
時計を見ると、午前1時を過ぎたところだった。
「親父が事故にあった。」
強張った声に静正にも緊張感が走る。
「た、タクシー呼ぶわ。」
「いや、自転車の方が早い。」
そう言って今すぐにでもアパートを出ようとする一臣を、静正は止めた。
「待て待て待てって!今、お前、混乱してるから危ない!一臣自身も事故るぞ!!」
「…っ。」
「…ごめん。」
自らの言葉選びを謝罪する静正に、一臣も謝る。
「こっちこそごめん。静正の言うとおりだ。タクシー、呼んでもいいか?」
「おうよ!」
住所を間違えずに言える静正がタクシーを呼んでくれている間、一臣は深呼吸を繰り返した。思い出すのは、蒔乃の涙に滲んだ声色だった。
静正が住むアパートから、市民病院までは車でおよそ20分。その車内、一臣はかたかたと貧乏揺すりをしていた。
『朔司さんが事故で、意識不明になってる。』
蒔乃の声が震えていた。
今、朔司は治療を受けている最中で、生死をさまよっていると言っていた。
『どうしよう、おみくん…! 私を庇った所為だ。』
生きていてくれ、と心から願う。それは朔司のためはもちろん、蒔乃のためでもあった。このまま朔司が死ねば、蒔乃は一生自分を責めて生きる。
やがて到着した病院のロータリーで、タクシーの運賃を払って降りる。蒔乃から事前に得た情報で病院内の居場所を知り、夜間の受付をすっ飛ばして走った。よほどの急ぎに見えたのだろう、警備員のおじさんが早く行けと許してくれた。そうして処置室の前へと走ってきた一臣は、蒔乃の姿を探した。
廊下にはどこにもいない。
一臣は丁度、夜間の見回りに来た看護師を捕まえて問う。
「すみません、水瀬と言います。親父が事故にあったと、聞いたのですが。」
一臣の言葉に、表情を引き締めた看護師が自らの胸ポケットにある携帯電話で医師たちに連絡を取ってくれた。
「こちらです。」
看護師は一臣を集中治療室まで急ぎ、案内をする。その間、言いづらそうに朔司の容態を口にした。
「お父様は…、」
朔司と蒔乃は集中治療室の奥の個室にいた。
「…蒔乃?」
一臣はそっと蒔乃に声をかける。蒔乃は病院のパイプ椅子に座っていた。ゆっくりとした動作で、一臣を見る表情に感情が無かった。
「親父。」
白いベッドで眠る朔司の元へと、一臣は歩み寄った。穏やかな表情をしていた。その胸は上下していない。
「…親父?」
一臣はそっと朔司の頬に触れてみる。まだ温かい。
「ご家族は揃いましたか?」
一臣と供に部屋に入ってきた医師が二人に尋ねる。一臣が代表して頷くと、医師は朔司へと向かい合った。そして瞳孔や心音、呼吸の確認をして一臣と蒔乃に告げる。
「…午前1時57分、ご臨終です。」
きっと家族全員が揃うまで、死亡確認を待っていてくれたのだろう。医師の言葉を聞いて、蒔乃の目から涙が零れた。拭うことも無く流れる涙は、場違いにも美しいと一臣は思った。
朔司を事故に巻き込んだ車の運転手は、持病の発作を起こして意識不明に陥ったのだと後に警察から聞いた。
アクセルを踏み込んだまま、ブレーキを踏むこと無く朔司と蒔乃に突っ込んだらしい。運転手はその発作で帰らぬ人となり、一臣は憎む相手すら失った。
事故死だったために警察を介さなければならず、朔司の遺体を死因の特定のために解剖に回される際、泣き叫ぶ蒔乃を引き離すのが大変だった。
そうしてやっと帰ってきた朔司の体は綺麗に清められてはいたものの、痛々しい傷痕が残っていた。顔は綺麗なままだったのが、救いだった。
葬式はこじんまりとしたものだった。参列した者たちは誰しも、朔司の死を悼んだ。たくさんの涙が零れる式だった。
出棺の際、喪主を務めた一臣は集まった近所の人や朔司の知人たちの前に立つ。蒔乃は遺影を抱いてた。
「この度は故、水瀬朔司の見送りにお越し頂き、ありがとうございました…ー、」
一臣が毅然とした態度で挨拶を語りだしたとき、陽が差しながらも小雨が降り出した。それは柔らかく温かい、金色の雨だった。きらきらと光の粒子のように輝き、頭上に降り注ぐ。天を仰げば、光の筋が幾重にも降りていた。まるで、優しい朔司が残された二人の子どもたちに手を差し伸べているかのようだった。
やがて長いサイレンが鳴り響き、朔司を乗せた霊柩車が水瀬家を後にする。
到着した火葬場はとても静かな山奥にあった。緑の森林が、初夏の太陽に向かって真っ直ぐに手を伸ばしている。
遺体を荼毘に付する準備が整い、火葬する前の最後の部屋に一臣と蒔乃は立った。
「それでは、最後のお別れとなります。お顔をご覧になって差し上げてください。」
火葬場の係の人に促されて一臣と蒔乃は頷いて、棺桶の小窓から朔司の顔を覗いた。
「…。」
「…またな、親父。」
最後のお別れを終えて朔司は、大きな火葬をする窯に吸い込まれていった。
待合室に戻る最中のことだった。大きな男性の泣き声が聞こえてきた。蒔乃が何気なく声がした方を見ると家族らしい人たち数人と供に、男性が白い棺桶にすがりつくようにして泣いていた。遺影の主には、優しく微笑む可愛らしい女性の姿があった。きっと親しい人、もしくは愛しい人だったのだろう。この火葬場ではいくつもの悲しみがこだまして響いているのだ。蒔乃は小さく手を合わせると、その場を後にした。
「火葬が終わったら、係の者が呼びに参ります。それまでこちらの部屋でお待ちください。」
「よろしくお願いします。」
一臣と蒔乃が頭を下げると、用意された待合室に二人取り残されることになった。座って待つことも、お茶を飲むことも考えられず一臣はふと思い立って、蒔乃を誘って外に出てみることにした。
外に出て窯の裏側に回り込んで、二人、空を仰いだ。真っ青な空に白く細い煙が一本、真っ直ぐに上がっていった。
ー…いきなさい。
朔司の最期の言葉。
手のひらに、火傷の痕のように残っている。いっそ、本当に痛みを伴って肌に刻まれれば良いのに。
「…。」
蒔乃がそっと瞼を持ち上げたとき、視界が歪んでいた。耳の裏が濡れて、髪の毛が水分を吸って重い。どうやら夢を見ながら、泣いていたようだ。泣きながら目覚めると、頭の奥が重く感じて不快だった。
「朔司さん。」
愛しい人の名前が唇に灯る。だが、その灯りはすぐに消えてしまうからすぐに見失ってしまうのだ。
いきなさい。
一体、どこへ行けと言うのだろう。安全な場所?朔司さんのいないどこか?全人類からあなた一人欠けた世界に、何の意味があるのだろうか。
朔司さん。車輪に巻き込まれて、痛かっただろうな。死ぬ瞬間は苦しかったのかな。
自分が感じることが出来ない痛みを想像して、蒔乃の心が濁っていく。せめて、痛みを分かち合うことが出来たらならどんなによかっただろうか。
蒔乃は徐に上半身を起こしてみる。ベッドから足を出して、床に着地した。スマートホンの時計を見ると、夜明け前の一番くらい時間帯。早朝だった。
遮光カーテンの隙間から一筋の青白い空気が漏れている。それは火葬場で見た、朔司を天に送る煙によく似ていた。眠る気にもなれず、蒔乃はベッドから抜け出してみた。
勉強机の本棚にたくさん収納してあるスケッチブックを一冊、取り出す。表紙を開き、紙を捲るとそこには生前の朔司の姿が描かれていた。彼のことが好きで、好きで、描きためたものだ。もう、枚数を更新されることは無い。
朔司をスケッチした紙を一枚、破って口に含む。鉛筆の芯の鉄苦さと、紙の粗い繊維質が柔い口の粘膜を刺激する。決して美味しいものでは無い紙を奥歯で擦るように噛み、唾液を含ませて飲み込む。
これで彼の一部を少しでも、私の中に取り込むことが出来れば良いのだけれど。
A4のスケッチブックの紙を一枚食べ終えて、少し気持ちが落ち着いた。ふ、と溜息を零して、蒔乃は唇の淵についた唾液を拭った。
水色のキャミソール越しに腹が僅かに膨れているのがわかる。自身の腹に手を添えて、なんて、愛おしいのだろうと思った。
カーディガンを羽織って、蒔乃は自室を出た。隣の一臣の部屋からは何の音もしない。まだ起床には随分と早いから、眠っているのだろう。
一臣を起こさぬように足音を潜めて、階段を下る。どうしても軋んでしまうのは仕方が無い。
リビングの隣の仏間に行く。仏壇には笑顔のひよりと朔司が並ぶように、遺影が置かれていた。
「…いいな。」
仲睦まじい夫婦の一つの形に、嫉妬を覚えた。夫婦、という単語に一臣が加わって、家族になるのだろう。
不意に気が付いた。
「私…。おみくんのお父さんを奪っちゃったんだ。」
親子水入らずの水瀬家に、私が邪魔をした。
今まで自身のことしか考えられなかった自分が憎くて、強い感情で、死んでしまえと思った。
座り込んだ膝の上の拳が小刻みに震えている。この感覚は知っていた。確か、これは、…そうだ。
母が私を連れて死のうとしたときだ。
「ごめんなさい。」
母が心中を試みるほどに苦しんでいたことに気が付かなかったこと。幼かったとはいえ無邪気に聞いた「お父さんは?」の問いは、母にとってどんなに辛かったのだろう。
気が付けば、蒔乃は自らの手の甲を噛んでいた。歯形が肌に刻まれて内出血を起こす痕や、血が滲む傷が生まれる。それでも痛くない。
もっと。もっと、もっと。強く。
カーディガンのポケットにお守りのように忍ばせていた紙片がカサと擦れた。それは朔司がくれた私の灯り。
「蒔乃。」
背後で名前を呼ばれ振り返ると、そこには一臣が立っていた。そして蒔乃のもとへ来て、彼女の手を取った。
「自分を噛むぐらいなら、俺を噛みな。」
「…おみくん。」
自らの手を慰めるように撫でる一臣に対して、蒔乃は罪悪感だけが募っていく。
「ああ、ほら。血が出ちゃってる。痛かったろ。」
そう言って、一臣は救急箱を探しに立ち上がろうとした。腰を浮かしかけた一臣の腕に縋るように、蒔乃は制止する。
「痛くないよ、知ってるでしょう?」
「蒔乃。」
優しく名前を呼んでくれる一臣の姿が涙で揺れた。まるで湖の底に放り出されたようだ。
「痛くないの。私。」
朔司さんの分の痛みを全て、請け負いたかった。
私なら、死ぬのも痛くはないのだから。
「そんなことない。痛くないわけがない。」
一臣は再び座り直して、蒔乃と向き合う。
「何を言ってるの…?」
「蒔乃は気付いていないだけで、心がこんなにも痛がってるじゃないか。」
蒔乃の瞳の淵に浮かぶ涙を、一臣は親指の腹で拭った。そのまま指はこめかみを撫で、耳をくすぐり、頬を伝った。一臣の優しさが、今、辛い。
そのまま一臣の手のひらは蒔乃の後頭部に回されて、赤子を抱くように優しく引き寄せられる。
「よしよし。良い子だから、俺を噛みな。」
ぐっと一臣の肩が、蒔乃の口元に押しつけられた。
「おみくんは…、優しすぎるよ…。」
「それは光栄だな。」
ブツリ、と鈍い音を立てながら、蒔乃の犬歯が一臣の肌に食い込んだ。
甘噛みのように噛む場所を探して、柔い肌を見つけると唾液を溜めた舌がなぞる。ふやかすように肌をより柔らかくすると、ようやく蒔乃は歯を立てた。
じゅっと啜ると、口の中いっぱいに鉄のような塩辛い味が広がる。一臣の血液を舌で味わい、嚥下する。
血の味に酔って、蒔乃の呼吸が荒くなっていくのがわかった。
一臣は噛まれている間、ずっと蒔乃の頭を撫でていた。時折、激痛に息を呑む。それでも悲鳴一つ上げずに、蒔乃が思うまま噛ませた。
熱い蒔乃の涙が零れて、傷に沁みる。
それでも、一臣は満足だった。長年、この役目を熱望していた。親父じゃなくて俺を噛めば良いのに、と蒔乃に恋する一臣は思っていたのだ。
蒔乃の痛みを分かち合うのは、彼女の信頼を勝ち得たときだと気が付いていた。
ふっ、ふっ、と荒く息を吐いて、蒔乃はようやく顔を上げた。
「…もういいのか?」
「…。」
蒔乃は小さく頷いた。
「そっか。わかった。」
一臣は蒔乃の頭をもう一度撫で、今度こそ救急箱を探しに立ち上がる。
「待ってて。」
箪笥の上や棚の中を探して、救急箱を探し当てた。蒔乃の元へと戻って、彼女の手を取る。
「…私より、おみくんが。」
「俺は後で良いよ。」
そう言って、蒔乃の手を取って消毒をする。そしてガーゼを当て、包帯を巻いた。
「痕が残らなければ良いんだけど。」
「大袈裟だよ。…あの、」
蒔乃が何かを言いたげに、でも言い淀む。
「何?」
一臣が微笑みながら首を傾げると、その肌は引きつるような痛みを帯びた。
「私が、おみくんの手当てする。」
蒔乃の声はか細く、掻き消えるようだった。
「なんだ、そんなことか。じゃ、お願いします。」
蒔乃の申し出を受け入れて、一臣は手当てをしやすいようにシャツを脱いだ。
熱を放つ噛み傷に蒔乃の冷たい指の先が触れる。反射でぴくりと一臣の肩が動く度に、蒔乃自身が大きく震えた。
「痛い、よね。ごめんね。」
ごめんね、を繰り返す蒔乃が痛々しかった。
「蒔乃。大丈夫だから。」
蒔乃は震える手で消毒を施す。
「あ…。ガーゼがもう、無い。」
この世の終わりかのように、絶望の色を滲ませた声色で蒔乃が呟いた。
「絆創膏でいいよ。」
「でも、小さいのしかないよ。」
蒔乃はどうしようとカチカチと歯を震わせる。どうやら随分、混乱しているようだった。
「重ねて貼ればいい。蒔乃、大丈夫だから。救急箱の中身は後で買いに行こうな?」
「そう、だね…。うん。」
自らを納得させるように頷き、蒔乃は絆創膏を手に取った。包装を破き、一臣の肌に刻まれた噛み傷にそっと絆創膏を貼っていく。あまりにも丁寧すぎて、くすぐったい。
「…歪んじゃった。」
蒔乃の言葉に貼られた絆創膏に触れると、皺が寄っているようだった。
不意に、室内に白い光が差した。朝日が昇ったのだ。
「平気、平気。サンキュ。」
一臣が些細なことだと笑い飛ばすと、蒔乃もやっとぎこちなくだが笑ってくれた。その唇には紅のように一臣の血液が光って、笑みが恐ろしく美しく思えた。
それからも幾度となく、一臣は蒔乃に噛まれることを望んだ。機会は日常に溢れていた。
朝、夢を見て目覚めてから。
昼下がり、ふと朔司を思い出したとき。
夜、不安の眠りにつく前に。
蒔乃は気が付いていないのかも知れないけれど、予兆として彼女は精神が不安定になると指の爪を噛み始める。健康的で桜色の形の良い蒔乃の爪がボロボロになる前に、一臣が止めた。
朔司の葬儀以来、蒔乃は大学にも行かず家に引きこもっている。あんなに好きだった絵画も描いていないようだった。一日中、仏壇の前で寝転がって朔司とひよりの遺影を眺めている。
水瀬家の庭の青々とした木々が優しく風を撫でる。いつの間にか、季節は新緑の5月を迎えていた。
平日の朝。一臣は庭に出て、水道からホースで植物に水を与えていた。勢いよく流れる水を指の感覚で押しつぶして、植物に耐える水圧に調整する。時折、虹を作ったり、働くアリの列に急かすように水をかけるふりをして楽しんだ。
一通り、水を与え終えると蒔乃が起床する時間になっていた。
「おはよう…。」
眠い目をこすりながら、蒔乃が階段を下ってくる。
「おはよ。」
今日は悪い夢を見なかったようで、蒔乃の爪は現状を維持している。ほっとしたのも束の間、視線を少しずらした瞬間に一臣は息を呑んだ。蒔乃の下半身に、血液の赤が濡れて滲んでいた。
「し、蒔乃!?どうした、どこか怪我…っ、」
「…?」
蒔乃は首を傾げ、そしてややあと頷いた。
「生理。来たみたい。」
文字通り生理現象だからか恥ずかしげも無く、蒔乃は呟いた。生理の仕組みをよく理解していない一臣でも、今回の経血の量が多いものだとわかった。
「ちょ、ちょっと待ってろ!」
一臣は慌てて、畳んでおいたバスタオルを手に戻ってくる。そしてそのタオルを蒔乃の腰に巻いた。
「汚れちゃうよ。」
「また洗濯すれば良いから。それより、お風呂に行こう。」
蒔乃が歩くと血が落ちるので、一臣は彼女を抱っこして浴室へと運ぶ。蒔乃は黙って一臣の腕の中に収まっている。
「しっかり、温まれよ。」
洗面所に着くと蒔乃を下ろして、一臣は退室した。そして点々と床に落ちた血を、一臣は拭き掃除する。掃除しながら、一臣は蒔乃の事を考えていた。
蒔乃はここ最近、感情の起伏が少なくなった気がする。嬉しいと笑う顔も、恥ずかしいと照れる顔も、悲しいと泣く顔も見ていない。
蒔乃の心が少しずつ、壊れていくのを感じていた。
「…病院、連れてった方がいいんだろうなあ。」
今までも何度か受診させようとしたが、蒔乃は病院の雰囲気や消毒液の香り。救急車の音などで、朔司が亡くなったシーンを思い出すのかとても嫌がった。
「個人医院なら…、いけるか?」
以前、スマートホンで近所にある個人医院の心療内科の情報を調べたことがあるので、場所は把握している。問題は蒔乃を連れ出せるかどうかだった。
考えを巡らせている間に、蒔乃がお風呂から出る音が聞こえる。前の蒔乃なら丁寧に髪の毛をドライヤーで乾かして
洗面所から出てくるのに、今日は髪の毛から水滴を滴らせながら一臣の前を通り過ぎようとした。
「蒔乃、待って。」
一臣は蒔乃の手を取って呼び止める。
「何、おみくん。」
「髪、乾かさなきゃ風邪引くだろう。」
そう言って、一臣は洗面所の棚にあるドライヤーを取りに行く。ドライヤーを持って踵を返し居間に戻ると、一臣は自身の前に蒔乃を座らせた。蒔乃は子猫のように大人しくしている。
ドライヤーから出る風邪の温度を調整しながら、蒔乃の髪の毛を乾かしていく。そしてまた一つ、彼女の異変に気が付いた。
「蒔乃。ここ…、どうした?」
「え?」
蒔乃の耳の上の髪の毛が、円形状に脱毛していた。
「あれ、髪、抜けちゃってるね。」
頭部にあるはずのない素肌の感覚を確認しながらも、蒔乃は別段ショックを受けたような素振りを見せない。
「…大丈夫。蒔乃、髪の毛長いからこのぐらいなら隠せるよ。」
逆にショックを受けたのは、一臣の方だった。震える手で、蒔乃の髪の毛を整えてその場所を隠そうとする。
「うん。」
こくん、と頷く蒔乃はまるで何も知らない幼子のようだった。
一臣は一度、深呼吸すると蒔乃に語りかけた。
「蒔乃。今日さ、病院に行こう。」
「…。」
「今の蒔乃は、お医者さんの力が必要なんだよ。一緒に行くから。」
「…うん。」
ゴウン、ゴウンと重い音を立て、電動ろくろが回っている。集中しているつもりで作業していた一臣の土の器が、ぐにゃりと歪んでしまった。
「…。」
何個目の失敗作だろう。いつもならもう作品を保管する棚板を二枚を占拠する器だが、今日は一枚目の半分にも満たしていない。
「一臣ー。休憩せん?」
「静正、休んでばっかじゃん。」
と言いつつも、休憩を取るタイミングを完璧に見失っていた一臣はその提案を受ける。
「いやー…、俺が言ってる休憩って陶芸のことじゃないんだよなあ。」
甘党の静正の今日のお供は黒糖かりんとうだ。
「一個。」
「ん。」
静正から分けて貰ったかりんとうをかじりながら、一臣は休憩所から窓の外を眺めた。軽いかりんとうの感触が、燃えた後の骨に似ているなと思う。
梅雨を先駆けてか、雨がぽつんぽつんと振っている。窓ガラスに当たっては打ち上げ花火を逆再生するかのように、雨粒は散って零れていった。
「…で?陶芸の休憩じゃないって?」
「え?ああー。だって一臣、心が乱れまくってるじゃん。疲れてんじゃねえの。」
「そう見えるか?」
かりんとうをぼりぼりと貪りながら、静正は頷く。
「気付いてないんだったら、重症だね。」
「重症、ね。」
ふと、蒔乃を思い出した。
今日はカウンセリングを受けているはずだ。蒔乃が病院に行っているその間に一臣は大学に来ていた。
静正も一臣の考えに至ったのか、心配そうに尋ねる。
「…玉森先輩。そんなに調子悪いの?」
「そうだな…。本人が気付いていないって、確かに一番まずいよなあ。」
溜息を吐きつつ肩にこりを感じ何気なく捻って、肌に刻まれた噛み傷が引きつるように痛んで息を呑んだ。
「? どした?」
「何でもない。」
まだ、バレていない。首元には汗を拭くためと偽って、手ぬぐいを巻いて隠していた。
「一臣さ、大丈夫なん?お父さん亡くしたばかりだし、玉森先輩もそんな状態なんて心配なんですけどー。」
「俺は大丈夫だよ。」
一臣の答えに静正は目を細めて、あんな状況でも?と告げる。指で差された先には一臣の失敗作の数々があった。
「お互い、離れる時間取った方がいいよ。きっと。」
「…今、離れてんじゃん。」
苦しい答えだなと思っていると、すぐに静正に見透かされる。
「そういうんじゃないって、わかってるだろーが。」
静正に肩を小突かれる。
「今の蒔乃から離れるだなんて、出来るわけないだろ…。」
「水瀬くーん。お客さんだよー。」
不意に自分の名前を呼ばれて、渡りに船とばかりに助かった心地に陥った。
「ちょっと席、外すわ。」
背後でぶーぶーと不満を垂れる静正を置いて、席を立つ。陶芸教室の扉の前には小柄な女子学生が立っていた。
「えーと…、」
確か、蒔乃と仲の良い友人だったはずだ。
「あ、あの、私、藤田みきと言います。蒔乃の友だちです。」
それは、みきだった。
「じゃあ、先輩ですか。藤田…先輩が、俺に何の用でしょうか。」
「蒔乃に絵画科の課題のプリントを届けて欲しくて。私がスマホでメッセージを送っても、反応が無かったから…。」
みきは顔を真っ赤にしながら、一臣に頼み込む。
「ああ…。それは蒔乃に代わって、謝ります。プリント、受け取りますね。」
「お願いします。」
みきの震える手から課題プリントを受け取って、一臣は礼を言う。
「じゃあ、私はこれで…。」
「藤田先輩。」
一臣に呼び止められて、みきは跳ねるように振り返った。
「な、なんですか?」
「勝手なお願いだとわかってるんですけど、これからも蒔乃にメッセージを送ってやってくれませんか。」
一臣は頭を掻く。
「今、蒔乃は返信が出来ないかもしれないけど、確実に心に響いていると思うんで。」
「…はい。メッセージならいくらでも。本当は、一目でも会えたら安心するんですけど、ダメですか?」
みきのお願いにありがたいと思いつつ、一臣は丁寧に断った。
「気持ちに余裕がないみたいで。もう少し、待っていてあげてくれませんか。」
みきは激しく頷いた。
「待ちます。待ってます。」
「ありがとうございます。」
今度こそみきと別れ、一臣は時計を見た。そろそろ蒔乃のカウンセリングが終わる頃だろう。
教授に帰宅の旨を伝え、一臣は大学を出るのだった。
そろそろ大学の単位にも影響が出てくるだろう。色々と決めないといけない。
個人病院の待合室にある長椅子の端に座った蒔乃を見つけ、一臣は近づいた。
「蒔乃、遅れてごめん。」
「え?ううん。」
蒔乃はぱちぱちと瞬きをしながら、ゆっくりと一臣を仰ぐ。会計は済んでいるらしく、もう後は帰るだけだった。
自動ドアを抜けて、外に出る。雨が止んで、むっとするような湿気に空気が潤んでいた。海岸線沿いの道を歩いていく。顔を覗かせた太陽の光が水面に反射して、ダイヤモンドを散らしたかのように輝いている。
背後から車が通り過ぎる気配がして、隣を歩く蒔乃の体がぴくっと強張るのがわかった。一臣は蒔乃の盾になるように道端に身を寄せて、車を見送ろうとする。最接近する車の影に蒔乃は一臣の手を握った。
「大丈夫だよ。」
「…。」
蒔乃は怯えたように握る力を強くする。そして無事に車の姿を遠くに見送ると、やっと肩の力を抜いた。
まだ怖いのだと思う。
強烈なフラッシュバック、とまではいかなくとも朔司の最期を思い出してしまうのだ。
「…寄り道しようか、蒔乃。」
「え?」
一臣は海を指差した。
二人は海岸に降りられる階段を下っていく。鉄製の階段は潮風に錆びて、茶色に変色してしまっていた。かつん、かつん、と靴底が鉄を叩き、甲高く響く。砂浜に着くと靴裏がふかっとした感触に代わった。
「靴は脱いだ方が良い。砂が入ってしまうから。」
「うん。」
靴に入り込んだ砂はまとわりついて離れず、いくら手で払ってもどこからか出てくる。
「貝とかガラスの破片に気をつけて。」
「おみくんは過保護だなあ。」
ふふ、と蒔乃は微笑を浮かべる。どうやら少しは気分が晴れたようだ。
「前科があるの、忘れんなよ。」
手を繋いで、砂を踏みしめていく。真夏の火傷がしそうな温度ではなく、温いお風呂に浸かっているかのような温度と湿り気が先の雨により完成されていた。
「浅瀬があるね。行ってみる?何か生き物がいるかも。」
「えー、いるかなあ。」
半信半疑の蒔乃を連れて、浅瀬に到着する。ごつごつとした岩場に足を切らぬようにするために、濡れるのを覚悟で靴を履いた。靴を履いた足が海水に浸り、まるで子どものころの悪事を働いているような感覚に陥った。
蒔乃は水の感触を楽しむように、波打ち際に立った。
「あ、ほら。蒔乃。」
一臣は手で器を作って、海水を掬う。その小さな世界に、今年の春生まれの稚魚が収まっていた。
「かわいいね。」
稚魚はまだ警戒心が薄いようで、大人しく一臣の手で泳いでいた。
「…ありがとう、おみくん。海に帰してあげて。」
「おう。」
蒔乃の言葉に頷いて、一臣は屈んで手の器を海に解かす。自由になった稚魚は元気よく母なる海を駆けていった。
「おみくん、ごめんね。」
唐突の蒔乃の謝罪に一臣は首を傾げて、何が?と問う。
「朔司さん…、あなたのお父さんを死なせてしまって。」
「蒔乃の所為じゃないだろ。」
蒔乃は首を横に振った。
「私を突き飛ばしてくれた時間のロスが無ければ、朔司さんは避けて無事だったかもしれない。」
「それはあくまで、かも、の話だよ。」
一臣は海水に濡れた手を拭って、蒔乃の手を取った。
「…俺さ、」
この感情に適切な言葉を探す。親父ならきっとできたはずだ。
「親父のこと、誇らしいと思う。」
「うん…。」
「って言うのも、俺の好きな人の心を射貫いて尚、好きな人を守ってくれて死んだから。」
何度も蒔乃に告げていた、好き、という言葉に言霊を込める。蒔乃の力になるように。そして、背中を押すように。
「大学、休学してさ、しばらく旅行とか行かない?ここじゃないどこかに行こうよ。」
留年を常に頭に入れておくより、いっそのこと清々しい提案だと思う。
「旅行…。」
蒔乃が呟いた瞬間、空から低く唸るような音が響き渡った。それは空を分断する飛行機のジェット音だった。
二人はそのタイミングの不思議さに、頭上を仰いだ。まるで朔司が賛成しているかのように思えた。
蒔乃が指で額縁を作る。彼女のキャンバスに一本の線を引くあの飛行機はどこに行くのだろう。
「うん…。考えてみるね。」
…噛みたい欲が止められない。
蒔乃は親指の爪を噛む。
夜になると、朔司の死に顔が瞼の裏に浮かんでしまう。愛しい人の血が通わなくなって真っ白になった肌が、忘れられない。
「…ぅ、」
涙が目の縁に浮かんで、溢れてくる。
このままだとベッドの隣、床に布団を敷いて眠る一臣に気が付かれてしまう。最近、彼は蒔乃を心配して一緒の部屋に寝るようになったのだ。一人の夜を越える勇気が無い反面、一臣を傷つけてしまう恐怖があった。故に嗚咽を殺したくて蒔乃は壁際を向いて手の甲を噛んだ。
「こら。」
それでもやはり気付かれてしまい、一臣が蒔乃の眠るベッドに腰掛ける気配がした。
「噛むなって、言ってるだろ。」
一臣に優しく声をかけられて、背中を大きな手のひらで撫でられる。その温かい感触に蒔乃は強張る体の力が抜けていくのがわかった。
それだけで満足できれば良いのに。
殺したかった嗚咽が零れて、彼の庇護欲を刺激してしまう。「おいで。」
そして私は、その声に逆らえないのだ。
その日は6月の上旬で、政府から梅雨入りが発表された頃だった。
発表通り分厚い雨雲が空を覆い、今にも泣き出しそうな夜。一臣が市販されている頭痛薬を飲むところを、蒔乃は目撃した。
「おみくん、頭痛?」
「んー…。低気圧だからかな、ちょっとね。」
ちょっと、と言う割には調子が悪そうに、錠剤をがりりと奥歯で噛んで飲み込んでいる。
「今日は早めに寝るわ。寒気もするし、風邪かも。」
移すと悪いから別の部屋で眠ると言う一臣は、久しぶりに自らの部屋のベッドに向かった。
「具合が悪くなったりしたら、遠慮無く呼んでね?」
蒔乃の声かけに一臣は後ろ手を上げて応えるのだった。
突然一人になった居間で、時計の秒針が時を刻む音が響く。テレビを見る気にも、本や雑誌を読む気もなく蒔乃はクッションを頭の下に置いて、寝転んでいた。何気なく耳を澄ましていると縁側の窓に雨粒が当たり出した。
夜に振る雨は好きだ。どこにも行かなくていいよ、と免罪符を与えられた気がするから。
ゆっくりと瞼を閉じて微睡む。いつの間にか、深く眠気が訪れて夢の底に沈んでいった。
夢の中でふとした瞬間、これは夢だと気が付く場面がある。それが今回の夢でもあった。
なぜなら、朔司がいたからだ。
いつだって朔司は穏やかな表情で微笑んでいるのに、今日は違った。どこか切迫したような表情で、蒔乃に向かって声なき声で叫んでいる。
『朔司さん?どうしたの…。』
朔司の声は蒔乃の耳には届かず、それがもどかしいと彼は泣いていた。
『何?何を伝えたいの?』
今すぐ朔司の側に行って、彼の声に耳を傾けたい。だけど近寄った分だけ、朔司は遠ざかってしまう。まるで夏に見る逃げ水のようだった。
ー…いきなさい。
不意に蒔乃の頭の中で、イメージとして降ってわいた言葉。それは朔司の最期の言葉だった。
「…っ!」
電流を流されたかのように弾かれて、蒔乃は飛び起きた。心臓が大きく脈打っている。背中には冷や汗を掻いていた。「…。」
鼓動が落ち着くまで、深呼吸を繰り返す。
やがて落ち着きを取り戻して、今度は急激な不安に襲われた。時計を見ると、時刻は深夜の0時を回る頃だった。
蒔乃は徐に起き上がり、眠る一臣を起こさぬように音を立てずに二階に向かった。ひたひたと裸足の足音が静かに響く。一臣の部屋の前に立ち、逡巡しつつそっと扉を開けた。何故か、一臣の様子を確認しておかねば、との使命感に捕らわれていた。
彼が健やかな寝息を立てているのなら、それでいい。
一臣の部屋は窓が閉め切られているからか、湿気が籠もり彼の香りが色濃かった。真っ暗の室内に、扉から一筋の線が延びる。
一臣はベッドにいなかった。
床で、スマートホンを置いたテーブルあと一歩のところで倒れていた。
「…おみくん?」
蒔乃の呆然とした呼びかけには応えず、一臣からはひゅーひゅーと喉から漏れるような不吉な呼吸音を出していた。「おみくん!」
ようやく一臣の異変を受け入れた蒔乃は扉を開け放ち、彼の元へと駆け寄った。
「ど、どうしたの?大丈夫?」
声がけに応えようとしているのか一臣の口からは、あー、だか、うー、と言った声が漏れた。意識がもうろうとしているようだった。
「ま…待ってて、今、救急車を呼ぶから…っ、」
慣れている自分のスマートホンでさえ手が震えてしまい、中々、緊急の3文字の番号すら押せなかった。
ようやく救急車の手配を終えた頃には、一臣の意識は完全に無かった。
病院の処置室に運ばれた一臣を見送った蒔乃は待合室で、祈っていた。
おみくんを助けてくれるなら、誰でも良い。神様でも天使でもなく、悪魔の存在でも良い。私の魂をあげるから、だから。
どうか彼を連れて行かないで。
組んだ手は、震えていた。手どころか、不安で全体がガタガタと震える。また親指の爪を噛みそうになって、それに気が付いた蒔乃は衝動を振り切るように首を激しく横に振った。
…しっかりしなくてはならない。
一臣が何かしらの病気に戦っている今、蒔乃自身はせめて冷静に彼の帰りを待つべきだと心を奮い立たせた。
どのぐらいの時間が経ったのか、処置室の扉が開く。
「…おみくん!」
一臣は血の気が失せた白い顔で、眠っていた。一瞬、朔司の死に顔を思い出してしまうが、一臣の胸は緩やかに上下していた。
一臣が病室に運ばれている間、蒔乃は医師から彼を襲った病気の正体について話してくれた。
敗血症。
傷口から雑菌がは入り込み、血液を辿って全身に巡った状況だった。あと少し時間がずれていたら。命が危なかったらしい
その原因の傷は、蒔乃の噛み傷だった。
水瀬の家の庭で咲く、紫陽花を敗血症を患った一臣の見舞いに持参しようと思いハサミを手に取った。
花ぶりの良い個体の首を落とすように、パチン、パチン、と切っていく。
「…。」
蒔乃が噛んだ後の消毒が、行き届いていなかった。今更ながら後悔が胸に渦巻く。そもそも当たり前ながら、人を噛んではいけなかったのだ。
一臣のことだ。蒔乃の謝罪は善意で受け取らないだろう。だが、今はそれが何より辛い。
いっそ罵られて、嫌われたらどんなに良いだろう。今まで一臣に甘えすぎたのだ。涙は出ない。一臣が入院したその日に、泣き尽くした。
刈り取った紫陽花をささやかな花束にして、新聞紙で包む。その花束と一臣の着替えを手に、蒔乃は家を出た。
大学とは真逆の位置にある病院まではバスに乗って行くのがマストだ。バスに揺られている時間は蒔乃が考えをまとめる時間だ。
今日の議題は…、これからのこと。
蒔乃の瞳に映る海の広さと、空の深さが印象的な日だった。
ナースステーションで看護師たちに挨拶をして、一臣の病室へと向かう。一臣は個室からやっと大部屋に移ったところだ。
「こんにちは。」
同室の入院患者に挨拶をして、一臣がいる窓際のベッドへと赴く。声をかけてカーテンを引くと、一臣は退屈そうに読んでいた雑誌を閉じるところだった。
「よ、蒔乃。」
片手を上げて応じる一臣の顔色は随分と良くなってきた気がする。
「おみくん、体調どう?」
「倦怠感はあるけど、暇な時間の方が堪えるな。」
そう、と頷きながら、蒔乃はベッドの隣に携えてあったパイプ椅子を引っ張り出して座った。
「これ、庭で綺麗に咲いていたからお見舞いにと思って。」
「紫陽花か。本当だ、良く咲いてる。」
蒔乃から受け取った紫陽花の花束を眩しそうに見つめて、傍らに置く。
「あと、着替え。洗濯物があったら出してね。」
「了解。」
とりとめの無い会話を交え、時間が穏やかに過ぎていく。
「飲み物買って、中庭に出ない?天気良さそうだし。」
窓の外を見ると、空からは天使の梯子が降りていた。一臣に誘われて、蒔乃は了承して病室を出た。
病院の売店でそれぞれの好きな飲み物を購入し、麗らかな陽気の中庭に出る。中庭では車椅子に乗った患者が看護師と供に散歩をしていたり、中年の女性たちが井戸端会議に花を咲かせていた。
空いているベンチに一臣と蒔乃は腰掛けて、それぞれペットボトルを傾けて喉を潤す。
「午後から雨だって言っていたから、この時間は貴重だよな。」
持ち込んだラジオで聞いたという気象情報を一臣は口にする。
「そうだね。ね、おみくん。」
「何?」
「私、家を出ようと思うの。」
蒔乃の言葉に、一臣は動きを止めて彼女を見つめる。
「…俺の所為か?」
「違う。私の所為。」
ふるふると蒔乃はゆっくり首を振った。
「私たち、離れた方が良いと思うんだ。」
愛しい人たちがいる、大好きなこの町。だけど、悲しいことも多過ぎた。
私が朔司の名残を想う間、一臣を傷つけることしか出来ないのなら、もうこれ以上一緒にはいられない。
「家を出て…、どうすんの?」
「大学は辞めようと思ってる。その代わり、行きたいところがあるの。」
「それがどこか、聞いても良い?」
蒔乃は頷く。
「フィンランド。」
「外国かー…。また、何でフィンランドなん?」
その由縁がわからない一臣は首を傾げた。蒔乃は、うふふ、と笑う。
「中学の時に使ってた地理の教科書を、えいってめくった先にフィンランドが載ってたんだ。」
蒔乃の答えに一臣は、ふは、と吹き出した。
「大雑把な蒔乃らしい決め方!」
一臣はそのまま腹を抱えて笑い、目の縁に溜まった涙を手の甲で拭う。
「いいじゃん、面白いよ。応援する。」
そして、あーあ、と呟いて、一臣は空を仰いだ。
「フィンランドか…。遠いな。」
「…うん。遠いね。」
チチチ、と小鳥がさえずり、仲間を募ると一緒に空を飛んでいった。この空は国境なく広がって、まだ見ぬ土地のフィンランドにも繋がっているのだと思えば随分と感慨深か
った。
キスが嫌いだった。私とキスをした人は、不幸になるから。
母は、身を投げた。
朔司は事故で亡くなった。
そして、おみくんのお父さんを奪ってしまった。
唇は柔らかくて、温かくて、愛しく恋しい感触をしているのに、もれなく死を連れてくる。
「…こんなにも、愛を伝えてくれる行為なのにね。」
蒔乃はいつも気が付けばそこにあり、背中を押してくれる場面に背景になる海辺に来ていた。
浜に打ち上げられた、海藻が干からびている。小さなカニがその海藻に隠れようと躍起になっていた。
朝の太陽に照らされて水平線は白く光り、遠くで漁船だろうか。船が連なるように浮かんでいる。
「蒔乃ー。」
自転車を停めてきた一臣が追って、蒔乃の横に立った。数日前、病院から退院したばかりだ。
「何気に海好きだよなあ。」
海に向かって偉そうに腕を組みながら、一臣は言う。
「うん?そうだねえ。」
ふふふ、と笑いながら、蒔乃は答えた。
「あ、でも、時間帯にもよるかな。昼間は海水浴客が多いじゃない?賑やかすぎて、プールかよって思うもん。」
「それはわかる。情緒がないよな。」
地元民あるあるを話題に会話を交えながら、二人は人気の少ない浜辺を歩く。すれ違うのはサーファーや、犬の散歩をするカップルなどだった。幼い子どもはまだ寝ている時間なのだろう。子どもは嫌いではないが、静かな時が流れているこの空間が貴重で愛しかった。
海風が吹き、蒔乃の髪の毛に空気が孕む。乱れを整えるように、蒔乃は何気なく耳に髪の毛をかけようとした。サリ、とした感触の肌が触れ、そういえば髪が抜けていたんだ、と思い出した。
「蒔乃。」
「ん。」
落ち込むよりも前に、一臣が蒔乃の頭に自分が被っていたキャップを乗せた。サイズの違いから、すっぽりと蒔乃の耳元まで隠れてしまう。
「ありがとう。」
「うん。」
蒔乃は代わりに寝癖で跳ねる一臣の髪の毛を撫でた。
「おみくんの髪の毛も太いよね。これは家系なのかな。」
「そういえばアルバム見ても、どの親戚も髪は豊かだな。」
一臣と直接の血の繋がりがなくても、共通点があって嬉しいと思う。恐らく生活習慣も関係しているのだろう。
彼の寝癖は頑固で、撫でるだけではとても直らなかった。指で梳くようにしても、するりとすり抜けてはぴょんと髪の毛は跳ねた。
「楽しい?」
「うん。」
問われたとおりその感触が楽しくてついつい、触ってしまう。
「なら良かった。」
一臣が優しい表情で微笑む。その目に映る自分と目が合って、私はこんな顔をしているのかと蒔乃は再認識するのだ。
「良いの?もし、一生このままでいてって言ったらどうする?」
彼の目の中で、私が意地悪そうに微笑んでいる。
「それは困るけど…。蒔乃が本気だったら、考えても良いかな。」
一臣のことだ、前向きに検討してくれるのだろう。もちろん、そう言ってくれるだろう事はわかっていたが何て甘やかし。
「おみくんは私に甘いなあ。」
「チョコレートみたいに?」
「ガムシロップ並み。」
苦味も、芳醇な香りすらない。
「ただただ、甘いだけじゃん。」
「自覚した?」
二人、笑い合う。そして、ふう、と息をつくように呼吸を整えて、一臣は蒔乃の手を取った。
そして私の手のひらに、ちゅっと口付ける。
「…。」
蒔乃の胸の内に、苦い麻酔のような薬がじわりと滲むようだった。
本当は拒絶しなければならないのに、それでも手を振りほどくことが出来ない自分が憎い。
手のひらから指の関節の一つ一つにキスをして、最後に爪に唇を落として一臣はようやく蒔乃の手を離した。
「蒔乃、」
「待って。」
一臣が言おうとした言葉の気配を察して、蒔乃は遮る。
「今は、言わないで。」
「…。」
ここを離れたくない気持ちが生まれてしまうから。
「ごめんね。」
「…じゃあさ、」
一臣は不意にしゃがみ込んで、足元に落ちていた流木の枝を拾う。
「文字なら良い?ここなら風に吹かれれば消えるし、波に攫われればやっぱり消える。」
それもダメ?と一臣は首を傾げて、蒔乃を見た。
「…それなら、いいよ。」
どうせ消える気持ちなら、大歓迎だった。
一臣は蒔乃の真意を知ってか知らずか、やった、と嬉しそうに呟いて、波打ち際に文字を刻んだ。
好き
最愛なる、たった二文字。
好きとキスはいつだって真反対だ。
一言だけでは飽き足らなかったのか、一臣は「好き」を何度も書き連ねた。足元いっぱいに、一臣の好意が溢れる。
「これだけだと、ちょっと怖いね。」
蒔乃もしゃがみ込み、一つの好きを指でなぞった。
「ストーカーっぽい?」
「近すぎてね。」
一臣はもう一つ、好き、を書く。
「まとわりついて、離れないからな。」
「怖いって。」
蒔乃は一臣の肩を叩きながら、笑った。
「あ、」
笑った傍から、波が寄せて半分の好きを消した。消えても良いと思いながら、少し残念だ。
「大丈夫。」
一臣は蒔乃の気持ちを汲んだのか、もう一度木の枝を手に取った。
「何度でも書くよ。」
まるで青春映画のワンシーンのようだと思った。
この物語も、ハッピーエンドならいいのに。
「蒔乃、元気でね。たまには連絡してよ。」
みきが空港へと向かう蒔乃を見送りに、駅まで来てくれた。その目には涙が浮かんでいる。
季節は11月を迎えていた。
大学を辞め、フィンランドに向かう準備を整えた蒔乃は今日、旅立つ。
「ありがと、みき。」
蒔乃はみきをハグする。いよいよ別れの時を意識したみきが、わんわんと声を出して泣き出した。彼女の流す涙が、蒔乃の肩を温かく濡らす。彼女の栗色で柔らかい髪の毛に、蒔乃は頬ずりをした。
「そんなに泣かないでよ。今生の別れじゃないんだから。ほら、ティッシュ。」
「それでも、寂しいんだもん…。」
差し出されたポケットティッシュで鼻をかみ、ようやくみきはそっと蒔乃の体を離した。
「フィンランド、寒いんでしょ。風邪に気をつけて。」
「うん。」
「オーロラを見たら、写真撮って送って。」
「できたらね。」
「サンタクロースを見かけたら、クリスマスプレゼント頼んでおいて。」
「みき、もう子どもじゃないじゃん。」
額と額をくっつけ合って、くすくすと笑う。ようやく笑顔の戻ったみきに、蒔乃を安心する。彼女はやはり可愛らしい笑顔が魅力だ。
「蒔乃。」
少し離れたところで二人の別れを見守っていた一臣が、声をかける。
「そろそろ行かないと。」
ホームでは空港方面に向かう電車のアナウンスが流れ始めている。
「もう時間かー。」
本当に名残惜しいが、みきとはここでお別れだ。
蒔乃は傍らの紺色のスーツケースの取っ手を持った。飛行機内に持ち込める最大のサイズのものだ。それは朔司が愛用していたもので、キーダイヤルの番号は一臣の誕生日だった。
「じゃあね。行って来ます。」
片手を振って別れが慣れていない小学生のように何度も何度も振り返りながら、蒔乃は一臣と連れ立つ。みきは二人の姿が見えなくなるまで、手を振ってくれていた。
ホームに訪れた電車に乗り込み、数駅を立って過ごし、空いた二人分の座席にようやく座ることができた。とはいえ、二回乗り換えるのでどうせすぐにまた席を立つ。
「慌ただしいね。」
蒔乃はスニーカーの先を見ながら言う。
「余裕持って出てきたから、空港で休憩する時間あるよ。」
腕時計を見つつ、一臣が答えた。
車窓から流れる日本の景色は夕方の色濃く、陰影が強かった。神社の赤い鳥居や、帰宅する女子高校生の翻るセーラー服の襟。散歩する柴犬の軽いテンポの白い息。
ますますノスタルジーの拍車をかけて、蒔乃の脳裏に記憶として刻み込まれる。
二時間ほどをかけて空港のターミナルに続く駅に降りる。
寝て起きれば到着するだろうと、飛行機は深夜便フィンエアーを予約してあった。
夕食を空港内の24時間営業しているカフェで摂り、ショップをひやかして、飛行機の案内がされる電光掲示板が見える出発ロビーの長椅子に腰掛けることにした。ラウンジを使えれば良かったが、お金をかけない旅なので利用することは無い。
行き交う人々を眺めつつ、一臣と蒔乃は手を繋いで互いを支え合うように座っていた。触れあった肌と肌が溶け合うかのように一体化する感覚に陥る。
なんて愛おしい、体温なのだろうと思う。
一臣を物理的にも、心理的にもたくさん傷つけてしまった。そして蒔乃自身も傷ついていた。
この国では、悲しいことがたくさんありすぎた。
母親の悲しい想い、背負うことのなくなった痛覚。朔司へ募らせた恋と、確かに受けた優しい愛情。
傷つけては癒やす、穏やかな海の波のような日々だった。
「眠い?蒔乃。」
準備に勤しんだ日々が疲れとなって、今、眠気を誘う。
「うん…。でも、寝たくないな。」
一臣と一緒にいられる最後の時間だ。夢の中で過ごすのはとてももったいないと思った。
「おみくん。何か、話してくれない?」
「そうだなあ…。何を話そうか。」
んー、と呟きながら、一臣は考えを巡らした。
「フィンランドは白夜と極夜があるらしいよ。体調崩さないように、気をつけるんだぞ。」
「一日中の昼か、もしくは夜かー。不思議だろうね。楽しみだな。」
蒔乃の腕には、一臣から贈られた腕時計が回されている。すでに時刻はフィンランドに合わせ済みだ。
「ちゃんと時刻を見て、生活しろよ。白夜中、夜でも明るいからって夜更かしは肌に悪いからな。」
「気をつけます。」
蒔乃は笑って誤魔化すが、はしゃいで夜更かしをする自分の姿が目に浮かんだ。
「国民の幸福度が世界で一位になったこともあるんだって。」
一臣がガイドブックで得たであろう知識を披露する。
「おみくん、私より詳しくなってんじゃん。そうかあ…。私もしあわせになれるかな…。」
「なれるよ。俺が祈ってるから。」
握られた手に力がこもる。緩急をつけて手を握りあい、二人は互いの存在を確認した。
「ありがとう。おみくんも、しあわせになってね?」
「どうだろ。蒔乃、祈っててくれる?」
私はもうとっくに祈っているよ、と呟くと、一臣は嬉しそうに笑ってくれた。
「ありがとう。…蒔乃。」
「なあに。」
好きだよ、と囁かれ、蒔乃はようやく素直にその言葉を受け取ることが出来た。
「おみくん。もし次、会ったら…、」
「うん?」
言葉を紡ごうとして、みきの顔が思い浮かんだ。彼らの未来のために、言おうとした言葉はとっておこうと思う。
「…ごめん。忘れちゃった。」
「なんだそれ。」
穏やかに笑ってくれる一臣を見て、今の判断は正しかったことを知った。
やがて、アナウンスと供に電光掲示板にヘルシンキ行きのフィンエアーの機体記号が表示される。と、供にキャビンアテンダントが搭乗の受付を開始した。
「行くね。」
蒔乃はゆっくりと立ち上がる。
「うん。」
一臣が頷いて、繋がれた手が離れていく。
搭乗口まであと、5メートル。
…………4メートル。
………3メートル。
……2メートル。
…1メートル
0。
「さよなら、おみくん。」
やがて、蒔乃を乗せた飛行機が飛び立っていった。一臣は空を仰ぎ、飛行機が向かう先をずっと見つめていた。
「…またね、だろ。蒔乃。」
月が浮き玉のように漂い、飛行機は星を夜光虫に見立てて光る海の中を潜っていくようだった。
ピピピピピピー…、
時計が鳴って休日の朝、やっと目が覚めた。
フィンランド、ラップランド地方の町にあるホテルで蒔乃は今、働いている。語学学校でフィンランド語を習い、田舎のこの町では日本語も扱えるとしてありがたいことに重宝されていた。
日本を発って、6年が経過しようとしていた。
それまでに一臣に送ったのは、5通の年賀状だけだった。自分の住所は添えず一方的な近況報告だ。
ビザの関係で一時帰国したときもみきの家に泊めて貰い、一臣には会っていない。
スマートホンはフィンランドに無数にある湖に水没させてしまい、壊れたので買い換えた。
日本で関係を持った友人たちと縁が切れてしまい動揺するかと思ったら、以外にもどこかでほっとする自分がいて驚いた。こんなにも薄情な人間だったのかと嘆くよりも前に得た安堵感は、きっといつまでもこの胸に宿るのだろう。
寝ぼけながらテレビを付けると、天気予報は雨を訴えている。午後から振る雨に備えて、買い物に行っておこうと思った。
蒔乃は服を着替えて、身だしなみを整えるとアパートメントを出た。近所に住む白い犬は会う度に吠えてくるから、水瀬の家の近くに住んでいた犬を思い出す。彼はもう寿命を迎えただろうか。
朝の市場に向かい、新鮮な野菜と魚など生鮮食品を買い求める。一人分とは言え、重いラインナップの物ばかりを買い込んでしまい若干後悔した。
国土の7割以上が森というこの国は、木を1本伐採したら5本の苗を植えなければならない。どこでもいいから逃げようと思った先に訪れたフィンランドは思いのほか、蒔乃という名の苗も優しく受け入れてくれた。
日本を嫌いになったわけでは無いが、フィンランドに訪れた理由を聞かれないのはとても楽だった。シャイで控えめな国民性にも随分と救われた。
荷物を抱え直して、空を見上げる。日本に繋がる空は今日、雲が厚い。天気予報が当たりそうだ。
足早に家路につき、冷蔵庫とパントリーに食料を仕舞う。昼食は途中のカフェでテイクアウトしたシナモンロールだ。カプチーノを淹れて一緒に食していると、窓の外から雨が降る音がBGMのように聞こえてきた。
「…。」
食器を洗い、伏せながら雨音をじっくりと聞く。よく聞いていると、雨粒が木の葉に落ちる音と地面に落ちる音が微妙に違うことに気が付いた。一方は軽く弾かれて、もう一方でしんと吸い込まれるような音だった。
雨が嫌いだった。肺に水が満ちるように呼吸がしづらいから。
でも、今はそうでもないから不思議だ。そういえばいつの間にか、耳の上にできた脱毛は治っていた。
午後は昼寝でもしようか。録り溜めた映画を見るのも良いかもしれない。
私に必要だったのは、距離だったのかも知れない。
結局、昼寝を決め込むことが出来ず、蒔乃は布団から起き出した。ぺたぺたと裸足で床を歩き、洗濯干し場へと続く窓サッシへと服を着込みながら向かう。カラカラカラ、と軽い音を立て窓は開く。外は相変わらず雨が降っていた。
「?」
ふと耳を澄ませば、足元で子猫の甲高い声が聞こえた。見るとまだ本当に小さなハチ割れ模様の子猫がうずくまり、鳴いていた。周囲を見渡しても親猫の姿は無い。蒔乃は子猫を抱え上げ、室内に戻った。
「体を温めた方が良いんだろうな。後は…、ごはんを与えなきゃ。」
スマートホンで処置を検索しながら慣れない動物の看護をし、蒔乃はしばらく様子を見ることにした。
テレビでは芸能人同士の入籍の話で持ちきりだ。恋愛の話はどうやら万国共通で、人気のようだ。
愛し、愛され、共に歩むことを決めた二人のなんと健やかなことだろう。いつか子を産み、孫が出来て、おじいちゃんおばあちゃんになって、最期を共に見つめることのできる素晴らしさ。
純粋に羨ましく思った。
「あれ、おかしいな。」
蒔乃の頬を涙が零れて伝った。涙は熱くて、サラサラしていた。拭っても、次から次へと涙が溢れるのが不思議だった。
お茶を飲んだマグカップを流しに片付けて子猫の様子を見ると、首を傾げるように子猫はこちらを見つめていた。
このハチ割れ模様は、見覚えがある。あれは、そう。水瀬家の猫だ。もう、猫の寿命から見れば死んでいても可笑しくはない。ふてぶてしい猫だった。それでも、朔司は可愛がっていたことを思い出す。
「近所の店に行けば、猫缶があるって聞いたっけ。」
蒔乃はコートを羽織り、今、アパートメントを出た。肺一杯に瑞々しい空気が流れ込んでくる。それはあの日の海水のようで、ほんの少しだが背筋がしゃんとするようだった。
近所の個人商店まで、徒歩15分ほど。それまでの道のり、名も無い小さな公園や河原がある。散歩がてら歩くには、些か一臣との思い出が蘇りすぎるほどだった。
気付けば鼻歌をうたっていた。一臣と二人で好きだったドラマの主題歌。曲名は忘れた。
個人商店で猫缶を買い求め、アパートメントに帰り、子猫に早速与える。余った食材で適当に作ったごはんなどとは比較にならないほど、がっつくように食べるものだからもう少し早く買ってきてやれば良かったと反省した。
台所に立ち、お湯を沸かす。熱いお茶を淹れた。テレビを付けると、昼の情報番組が流れている。何気なしに眺めていると、一臣が行ってみたいと言っていた美術館の特集を組んでいた。そこはオルゴールの美術館で、世界各国の多種多様なオルゴールが収められているらしい。目玉は世界最古のオルゴール。
どんな音色がするのだろう、意外とちっぽけなものかもしれないね、などと勝手なことを話したものだった。
蒔乃は、ふと布団で微睡みたくなった。一臣の気配を感じたくて横になる。枕に顔を埋めて深呼吸すると、安心する自分の香りと思い出に残るあの香り。甘くて苦い、あの日々を綴った中毒性のあるチョコレートのような香りを確かに鼻腔に感じるのだった。それはこの国に来たとき、初めて買った洗剤の香りだ。以降、気に入って購入し続けている。
心に雨が降っていた。止むことなど知らぬかのように降り続ける雨に、傘を差してくれたのは水瀬家に二人だった。そのときに拒めば良かったのに、甘んじて受け入れてしまったから、きっとあんなことになったのだ。
瞼を持ち上げたとき、天井がぐにゃりと歪んで見えた。今度は自分の涙を自覚した。もう、泣き尽くしたと思っていたのに意外とそんなことはありえないものだ。
起き上がり、ラジオに手を伸ばした。チューニングにこつがあり、音量を下げる。ざらついた音がしばらく響き、後に鮮明な人の声になった。電話相談室を受け付けていて、悩みに答えるありきたりな番組構成。
『ー…好きな人が、大学の友人と結婚しました。好きと伝えることも出来ず、どうしたら忘れられるのでしょうか。』
生きて別れるのと。死に別れるのはどちらがつらいのだろう。
蒔乃はラジオの電源を切った。
部屋の掃除をしたり、本を読んだりを繰り返しているうちに時間は過ぎ、もう夕方になってしまった。
「…!」
蒔乃は子猫の鳴き声が聞こえないことに気が付いて、様子を見てみると子猫は冷たくなっていた。少しの間、体をさすってみたが二度とその愛らしい声を聞かせてはくれなかった。
体が冷えてしまったのかも知れない。ごはんが違う器官に入ってしまったのかも知れない。
何かを間違えたのだろう。
蒔乃は子猫の小さな体を抱えて、公園まで歩いた。夜の帳が下り、もう公園には子どもの姿はおろか、誰の気配もしなかった。一番大きな木の根元を、持参したスコップで穴を掘る。小さな、小さな穴でよかった。子猫を開いた穴の底に横たえ、手で土をかけてやった。冷たい土だったが、仕方なかった。土に還らないと、この子猫はまた廻ることはできないのだから。手折ってきたドライフラワーの花を一輪、そのささやかな墓に添えた。
「…ごめんね。」
ごめん。私と関係したばかりに、死を招いてしまった。
愛されなくても良かった。愛せなくても良かったはずなのに、望んでしまった。求めてしまった。
蒔乃は土に汚れた両手で、顔を覆った。嗚咽が零れる。
会いたい。ただ、会いたい。
「ごめん…、なさい。」
その日の夜。また夢を見た。相変わらず白と黒の世界だったけれど、一臣が笑ってくれた。そして大きな手のひらを蒔乃の頭に載せて撫でてくれた。
信じていないはずの神様に願った。
笑わないで。そんな優しい表情をしないで欲しい。
深夜に目が覚めて、窓から白い明かりが差していることに気が付く。
月明かりの中、私が手を振るときに生まれた風に乗って母親と朔司の魂がゆっくりと天に昇れば良いのに。
蒔乃は行き場の無い感情のあまり、親指の爪を囓る。爪はギザギザに噛み千切られて、やがて血が滲んだ。
台所の鍋や調理器具、猫のハチ割れ模様や公園の背景にすら水瀬の家族を見つけてしまうから。
だけど。
それらすべてが、愛おしかった。
紫のある物すべてを愛せる恋があることを、蒔乃は初めて知った。
「おはようございます。」
「おはよう、蒔乃。今日もよろしく頼むよ。」
出勤した職場は個人が経営する小さなホテルで、今日は珍しく日本からの予約客が一人登録されていた。蒔乃はその日本人にかかりきりのホテリエになる予定だ。
何人かの客の案内の後、ようやくその予約客がホテルに訪れた。
「お待ちしておりました。…ー、」
忙しさに負けて、今、予約客の名前を見る。反省しなければ。
「…蒔乃?」
[kazuomi Minase.]
蒔乃はゆっくりと顔を上げる。
そこには、一臣が立っていた。
「おみくん…。」
久しぶりに会った一臣は幼さが抜けて精悍な顔つきになり、年下の男の子感を脱却していた。
「やっと見つけた。」
少し怒った表情を見せる一臣に、逃がすものかと意思を感じるように手首をきゅっと握られる。
「な、んで、ここに?」
一方で確実に混乱に陥っている蒔乃は、大きく瞬きを繰り返した。
「ん。」
一臣が蒔乃の胸にポケットから取り出した年賀状のはがきを5通、押しつける。どのはがきもぼろぼろに読み込まれていて、紙の縁はすり切れてテープで補修されてあった。
「この年賀状だけで許されると思うなよ。」
「あー…。」
彼の激情に触れて、後退ろうとするも掴まれていた手首がそれを邪魔した。
「逃がすと思う?」
にっこりと微笑まれて、むしろその笑顔が怖かった。背中に冷や汗が伝うのがわかり、蒔乃は素直に謝ることにした。
「…ごめんなさい。」
「どれだけ探すの苦労したと思ってる?住所が書いていなくて、消印の町を調べても毎回違うところからだし。」
そういえば年末は旅に出てその都度、滞在する町から年賀状を出していた。一臣を錯乱に陥らせたのは、その部分が一番強いようだ。
「フィンランドに行った早々に住所を変えてさ。3年目の年賀状にホテルで働くことになったって手がかりを得て、片っ端から探したんだからな。」
早口で煽る一臣は相当立腹しているようだった。
「で?何か、申し立てはある?」
「えーと…。おみくん、格好良くなったね?」
「蒔乃は綺麗になったよ!バーカ、バーカ。」
「褒めて貶すって新しいね!?」
二人で子どもの頃のように騒いでいたが、ここがホテルのフロントと言うことで自然と人の視線を集めていることにようやく気が付く。蒔乃はコホンと咳払いを一つして、接客モードに切り替えた。
「水瀬様、お部屋にご案内しますね。こちらへどうぞ。」
蒔乃の他人行儀な笑顔に一臣はふーんと頷いて、にやりと口角を上げる。
「ああ、そうだ。荷物、運ぶの手伝ってもらえます?」
「かしこまりまし、た!?」
そう言って、一臣のボストンバッグを手に取って、その重さに蒔乃は驚愕する。
そういえば陶芸の土を運んで鍛えられていたな、などと懐かしい記憶が蘇ると供に、彼はこの荷物を持って各地のホテルを点々としてきた事を知りさすがに申し訳なさが胸に募った。
「大丈夫ですか?やっぱり、俺が持ちましょうか。」
「大、丈夫です…っ。お持ちします、ね!」
ホテルの廊下を連れ立って歩き出す。ふかっとした毛足の長いカーペットをハイヒールの靴裏越しに感じ、上手く踏ん張れないことを恨めしく思った。
蒔乃はふらふらとバランスを取りながら、何とか一臣の荷物を客室へと運び込んだ。ようやく荷物を置いて、蒔乃はようやくほっと一息吐いた。
「じゃあ、おみくん、」
仕事中だからと切り上げようと思い、振り返った刹那。蒔乃は一臣の腕の中にいた。
「…。」
ぎゅう、と抱きしめられて、たくましくなった胸に閉じ込められる。蒔乃はそっとその広い背中に手を添えた。久しぶりの彼の香りは、薄荷チョコレートのように甘いのにすっきりとするような不思議なものだった。どうやら年月は若い体臭も変えるらしい。
「…どのぐらい、怒ってる?」
蒔乃のくぐもった声が響く。だがしっかりとその声は一臣の鼓膜に届いたようだ。
「怒ってたよ。怒ってた。けど、何か全部吹き飛んだ。」
「やったー。」
おどけるように喜んでみせると、一臣は深く溜息を吐いた。
「本当さー…。何で俺、こんな自由奔放な子を好きになっったんだろ。」
そう言うと、一臣は蒔乃の肩口に顔を埋める。
「まだ好きでいてくれるの?」
蒔乃はよしよしと首筋に触れる一臣の髪の毛を撫でた。
「大好きだよ。」
背中に回していた手のひらの位置が腰に移動して、ぐっと引き寄せられる。密着する面積が広くなると、より一臣の体温を感じることが出来た。
「蒔乃が行方不明になったと思ったら、一時帰国して藤田先輩の家に行ったと言うし。捕まえようとすると、逃げてくし。手負いの猫かと思った。」
みきの名字を一臣の口から聞き、ふと親友の顔が脳裏によぎった。
「みきは元気?」
「俺なんかより、めっちゃ怒ってる。」
「…だよね。」
きっと泣いて、頬を膨らませるようにして怒ってるのだろうなと容易に想像が出来た。
「なんと。静正と結婚した。」
さらりと衝撃の事実を一臣は投下してくる。
「え?馴れ初め、何?」
「恋愛相談に乗ってるうちに、惹かれ合ったらしい。」
きっとみきは頬を染めながら、静正に一臣のことを相談したのだろう。その内に心の距離も縮まって、恋する気持ちの変化に気付いたのだろうなと思う。人生、何が起こるかわからないものだ。
「…ね、おみくん。私、そろそろ仕事に戻らないと。」
一臣の背後にある時計を見て、蒔乃は申請する。
「嫌だ。せっかく捕まえたのに。」
「おみくんー…。」
困ったなと思いつつ、悪い気はしなかった。むしろ嬉しさを感じているのだから、勝手なものだ。
「わかった。お詫びに今夜、オーロラツアーを奢るからさ。ね?」
「蒔乃も行く?じゃなきゃ、参加しない。」
フィンランドの奥義を発動しても尚、自分が一緒じゃないと嫌だという一臣が愛おしく思った。
「…わかった。一緒に行こう?見られるかはわからないけど。」
そう言うと、ようやく一臣は蒔乃を手放してくれた。
「見られなくても良い。蒔乃が一緒なら何でもいいよ。」「光栄だよ。そんな風に言ってくれると。」
苦笑しながら蒔乃は、そっと一臣の胸を押して距離を取った。
「じゃ、仕事に務めてきます。私、今日は日勤だから、また夜にね。」
「うん。それまでのんびりしてる。」
一臣が滞在する客室を出て、蒔乃はフロントへと戻る。そこでホテルのオーナーと一組の客に対して、困ったように対応していた。そして現れた蒔乃と目が合うと、縋るように声をかけられた。
「蒔乃。さっきの日本人は、君の知り合いかい?」
「え?ええ。そうですけど…。」
蒔乃の答えを聞いてオーナーは、申し訳ないが、と言葉を紡ぐ。
「日本人の彼を君の家に泊めて貰うことは可能だろうか?お客さんがダブルブッキングしてしまったんだ。」
どうやらパソコンで不具合が起きてしまったらしい、とオーナーは言った。
「それは…、構いませんけど。」
ホテルのオーナーには日頃から世話になっている。困っていたら力になりたいし、一臣とは日本で一緒に住んでいたのだから今更、何の問題も無い。
「よかった、ありがとう。今から説明に行ってくるよ。彼の部屋は何号室だっけ?」
蒔乃が答えると、クマのように体の大きいオーナーは転げるように駆けていった。
それから十数分後、一臣を伴ってフロントまで帰ってきた。
「悪いね、蒔乃。彼をよろしく頼むよ。今日はもう上がっていいからね。」
「わかりました。ありがとうございます。」
頭を下げて、一臣の元へと行く。すると感心したように蒔乃を見つめていた。
「どうしたの?」
「蒔乃がフィン語を喋ってると思って。」
ぱちぱちと拍手しながら、一臣は言う。
「勉強したからね。それより、ごめんね?急にうちに来ることになって。」
「それは大歓迎。何なら、どうやって蒔乃の家に潜り込もうかなって考えてたから。」
一臣はぐっと親指を立てる。蒔乃は声を出して笑った。
「正直だなあ。」
懐かしいこの感覚は悪い気がしない。
蒔乃のアパートメントは職場のホテルから、バスで数分の位置にある。
「どうぞー。散らかってるけど。」
「お邪魔します。」
日当たりのよい角部屋で、アパートメントとは言っても二階もあり日本とは随分と作りが違うようだった。
「良い部屋だね。」
「でしょ。」
蒔乃はお茶を淹れるために、台所に立つ。コーヒーの消費量世界一の国らしく、丁度、貰い物だが美味しいコーヒーがあったのでそれを準備した。
「緑茶はさすがに、手に入りづらくて。ごめんね。」
「さすがに日本じゃない国に来て、そんな贅沢は言わないよ。」
ありがとう、と言葉を紡いで、一臣はコーヒーを受け取って飲む。しばらく沈黙の時間が流れる。時計の秒針が刻む音や、マグカップとスプーンが触れあう音だけが静かに響いていた。
何だか妙に居心地の良い空間だった。座るソファの隣に愛しく思える人がいるだけで、こんなにも心が満たされるのかと思った。
ちらりと一臣を覗うように横目で見ると、彼の首筋に過去に付けた噛み痕がふっくらともりあがって、桃色の痕になっていた。
「? 何?」
蒔乃の視線に気が付いた一臣が微笑みながら、首を傾げてみせる。蒔乃は躊躇しつつ、彼の首の肌にそっと触れた。
「…。」
一臣はくすぐったそうに息を呑み、そして目を伏せて蒔乃の指先に頬ずりをする。
「…痕、残っちゃったね。」
「勲章だよ。いいだろ。」
蒔乃がごめんねを言うよりも先に、一臣は自慢とばかりに胸を張った。
「そっか。」
ふふふ、と穏やかに蒔乃が笑うと、一臣は満足そうに頷くのだった
「オーロラツアーまでどうする?観光でもする?」
夜に行われるツアーはホテルまでバスが迎えに来てくれるので、それまでまだ時間がある。
「んー…。近所、散歩してくるよ。」
ボストンバッグから荷物を取り出して、整理しながら一臣は答える。
「そう?じゃあ、私も行こうかな。」
「おう。行こーぜ。」
二人連れだって、玄関を出る。蒔乃が扉に鍵を駆けている間、一臣は近所に住む子どもたちと挨拶を交わしていた。どうやら挨拶ぐらいのフィンランド語は習得してきたようだった。一臣と話し、きゃあ、と歓声のような声が子どもたちから上がっている。
蒔乃が服のポケットに鍵をしまいつつ、一臣の元へと行く。子どもたちは走り去っていて、一臣は手を振っている。
「お待たせ。何を話してたの?。」
「うん?わかんないけど、俺と蒔乃は恋人同士だよって言っておいた。」
「…バカ。」
もっと他に覚えるべきフィンランド語があっただろうに、と蒔乃は苦笑するのだった。
「いや、マーキングは大事だぞ。愛だね。」
一臣はしれっと言う。『愛』という単語は何だかくすぐったい。
街路樹が並ぶ、石畳の道を歩いて行く。
蒔乃のお気に入りの本屋で興味深そうに一臣は本の背表紙を眺め、一冊を手に取っては優しく表紙を撫でてパラパラとページをめくる。時々、何て意味?と問われ、その度に蒔乃は彼の手元を覗き込んで答えた。
カフェでコーヒーとドーナツをテイクアウトして、買い食いをした。町の広場にあるベンチに腰掛けて食していると、丸々と太った鳩がおこぼれをもらえないかと近寄ってくる。何も無いよ、と蒔乃が手のひらを広げてみせると、なんだとばかりに残念そうに鳩は飛び立っていった。
「ここの鳩って、全体的に丸いよな。」
「羽毛を膨らませないと寒いからねー。彼らにとっては死活問題だよ、きっと。」
他愛もない会話を交え、立ち上がる。
さて、次はどこへ行こうか。
「蒔乃、ここは?」
一臣が指差したのは公園の中にある、小さな教会だった。
「教会の礼拝堂。誰でも入れるよ。」
そう言って蒔乃は一臣の手を引いて、礼拝堂に入る。そこにあるのは木の温もりと優しい自然の光。静寂を柔らかく破るためのパイプオルガンと、鈍く光る十字架が鎮座していた。
「…綺麗だな。」
「うん。日本のお寺とは違う、荘厳さがあるよね。」
足を休めるためにしばらく滞在して、二人が外に出るともう夕日が差す時間帯になっていた。
夜、一臣と蒔乃はホテルに迎えに来たバスに乗って、町の光源が届かない森へと向かうオーロラーツアーに参加した。賑やかな観光客に紛れて、二人は手を繋いでバスに揺られていた。
「すごい…。夜に飲まれていくみたいだ。」
一臣が車窓から景色を見ようとして呟く。町の灯りは遥か後方に流れ、周囲はバスが行き先を照らすライトだけを光源としていた。
「ちょっと、怖いよね。」
丸い光が重なるように地面を照らしている状況が、何だか心細さを助長するようだった。
蒔乃の言葉に一臣も頷く。
「日本の夜って、明るいんだって思った。」
「しかも人工的な明るさね。」
まるで一緒にいなかった時間を埋め合うように、くすくすと笑い合う。そういえば子どものころも、いたずらを計画しては同じように笑い合っていた気がする。妙に感じる懐かしさの正体を知り、幼かった自分たちを微笑ましく思った。
バスはやがて舗装のされていない道を行き、ガタゴトと大きく揺れる機会が増えてきた。揺れる度に一臣と蒔乃の隣り合った肩が、僅かに触れあう。振動が愛しく感じられたのは初めてだった。
やがてツアーのバスは、湖畔のロッジの前で停車する。今夜は、このロッジでオーロラを待つらしい。
「蒔乃、手。」
バスを降りるステップで、一臣が手を差し出してくれる。足元がよく見えない中、ありがたい申し出に蒔乃は迷わずその手を取った。
「きゃ、」
「おっと。」
着地した地面に予想外に積もっていた雪に足を取られて、蒔乃はよろけてしまう。思いっきり一臣に寄りかかってしまうが、彼は蒔乃の体重をものともせずに受け止めてくれる。
「ごめん。」
「平気。」
その後も心配だからと握っていた手は腕に組まされて、安定良くロッジの玄関に続く階段を上るのだった。
ロッジの中は暖炉で空気が暖められていて、飲み物や軽食が用意されていた。各々がオーロラを快適に待つことが出来る空間だった。
「今日は雲が出てるから、オーロラは難しいかもね。」
蒔乃は窓から空を仰ぎ、呟く。雲の下にオーロラは発生するので、厚く空を雲が覆っていると見ることが出来ない。
「まあ、あまり期待しないようにってガイドブックにも書いてあったし。そのときは、そのときだよ。」
「そっか。そうだね。」
「それでも…もしもオーロラが見れたらさ、」
「ん?」
一臣が紡ごうとする言葉に、蒔乃は首を傾げつつ待つ。
「蒔乃に伝えたかった言葉、伝えても良い?」
「…。」
「蒔乃さーん。無反応は傷つくんですけどー?」
唇を尖らせてみせる一臣に、蒔乃はくっくと笑った。
「…そんな約束しなくても、聞いてあげるよ?」
「いや…。微妙に緊張するんで…、覚悟が決まるまでのタイムリミットっていうか。」
蒔乃はいよいよ腹を抱えて笑い出す。
「わかった。おみくんのタイミングまで待つね。」
結果として今夜、オーロラを見ることは叶わなかった。
ツアーの主催者もギリギリまでねばってくれたが、バスで町に帰る時刻になってしまった。残念と言う溜息が続々と漏れる。
「…やっぱり、だめだったねえ。」
バスに乗り込む前に空を見上げると、さっきよりも厚く雲が覆っていた。
「うん。危なく永久に言葉を伝えられないところだ。」
そう言う一臣は心底、ほっとしているようだった。
「決心着いたの?」
蒔乃が問うと、一臣は首を横に振る。
「まだ。」
「まだかー。意外とかかるなあ。」
ふと小さな吐息を漏らし、蒔乃は一臣の肩に自らの頭を預けた。眠気が彼女を襲う。
「ねー…。おみくん…。」
「何?」
夢と現の狭間を行ったり来たりしながら、蒔乃は呟く。
「…見つけてくれて、ありがとね。」
「まあ…。見つけるまで、探し続ける覚悟でしたから。」
手と手を握り合う。
「それでもさー。忘れられてもおかしくなかったよ?」
「忘れるわけないだろ。」
蒔乃の指と指の間の水かきに一臣は爪を立てて抗議するのだった。
「…。」
「寝た? 蒔乃…。」
返事は無く、蒔乃はいつの間にか寝息を立てていた。そのあまりにも健やかな雰囲気に、一臣は良かったと心から思った。フィンランドに暮らす蒔乃は荒れていた時期とはまるで違う人物のようだった。
感情を宿し、眠気を催し、食事もしっかり摂れている。
そんな普通の人間の生活を送れていることに、安心した。
「…良かったなあ。」
蒔乃の人間らしい姿に、熱くさらさらとした涙が零れた。いつだって心配で、ずっと気にかけていたのだ。蒔乃の知らぬ間に泣くことぐらい、許されるだろう。
バスが町に着くまで、一臣は彼女の体温を肩にずっと感じていた。
ぽとん、とユニットバスの天井から水滴が落ちる。
「おみくん、タオル置いておくね。」
磨りガラスの扉の向こうで、蒔乃の声が響いた。
「ありがとう。」
狭いバスタブに足を折り畳むようにして浸かる一臣は礼を言いながら、張ったお湯を楽しんでいた。移動ばかりだった旅路の先、蒔乃のお気に入りのバスソルトが入ったお風呂は何だか感慨深い。
塩っぽくて、温かいこの感覚はいつかの海のようだと思った。
「ー…。」
深呼吸をすると薄荷のように清々しい湯気が肺に満ちた。
オーロラツアーから帰ってきて冷えた指先が、お湯とのその温度差でぴりりと痺れるように痛む。
「蒔乃ー。」
何となく名前を呼ぶと居間の方で、何ー?と間延びするような返事があった。
「ごめん、何でもないわ。」
「冷やかしご遠慮くださーい。」
はは、と笑い声が滲む。名前を呼んだ声に返事があることが嬉しかった。
充分に温まり、風呂から上がる。
「家主より先に風呂頂いて、悪い。」
居間では蒔乃がお茶を飲んで寛いでいた。
「いいえー。しっかり温まった?」
「うん。」
「よっしゃ。じゃ、私も入ってくる。」
バトンタッチして、今度は蒔乃が着替えとタオルを持って浴室へ向かった。
再び一人になって、一臣は蒔乃の部屋を見渡した。青いベッドとテーブル。ソファには北欧の有名な柄のクッションや、フィンランド生まれのキャラクターのぬいぐるみが鎮座する。窓際に飾られた花が女性らしい部屋だった。
テレビのニュース番組や、置かれた雑誌に羅列されるフィンランド語に若干の気後れはするが、彼女を癒やしてくれた国なので一臣にも彼なりの愛着がこの国にあった。
意味を知ることの出来ない発音の言葉はまるで、人魚が話す言葉のようだと思った。耳に心地よい言葉を聞いているうちに疲れから、一臣はうとうととうたた寝をしていた。
「…。」
「あ、おみくん起きた。」
優しい指先の感触で、うたた寝から意識が浮上した。瞼を持ち上げると一番に蒔乃の顔が窺えた。
蒔乃は一臣の髪の毛を梳くように撫でていたようだった。
「それ、気持ちいーね。」
横に座る蒔乃の腰に、まるで幼子が甘えるかのように一臣は腕を回す。
「本当?なら、よかった。」
蒔乃は眼下の一臣を柔らかく見つめながら、彼の前髪の毛先を丸めるように指に絡ませた。穏やかな雰囲気の中で戯れて、二人はようやく就寝することにした。…のだが、問題が勃発した。
蒔乃はお客さんがベッドで寝るべきと主張し、一臣は家主がベッドで寝るべきと主張したのだ。互いにソファで寝ることを譲らずに、若干の険悪なムードが漂う。
「わかった。わかった、じゃあじゃんけんだ。もう。」
一臣の提案に蒔乃が乗り、久しぶりに本気のじゃんけんを繰り広げることとなった。
「最初はグー、無しのいきなり勝負ね。」
「ぜってー、負けねー。」
そのじゃんけんの結果。
一臣、グー。
蒔乃、チョキ。
「お姉さんに花を持たせてよねー…。」
ぶつぶつと文句を言いながら、蒔乃はベッドに潜り込む。
「誰がお姉さんだ。」
本当に、お姉さんだなんて思ったことはない。蒔乃のことは、一度も。
「電気消すよ?」
「あ、待って待って。スマホ充電しなきゃ。」
蒔乃が充電ケーブルを探し終えて、ようやく電気を消す許可が下りたのだった。
おやすみを言い合って、眠ろうとして、でもどうしてもお互いの気配を探ってしまう。背中越しに感じる身じろぎの衣擦れ、静かなる呼吸。時計の秒針が時を刻む音がやけに大きく感じられた。
「…。」
ソファが軋み、床に足が降りる気配がする。
「…蒔乃、寝た?」
「うん…。寝た。」
バレバレの嘘に、起きてるじゃん、と一臣がふと微かに笑う。ひたり、と音を立て裸足で近づいてくる一臣に、蒔乃は壁側を向いたまま緊張に布団の端をきゅっと握っていた。
来ないで、と思う。でも、期待もあるのも確か。
近づく足音が止まって、ベッドの縁に腰掛ける一臣の体重の重みを軋む音で感じる。
心臓の音がうるさくて、寝てる体勢なのに立ちくらみを起こしたかのように目の奥がクラクラする。
「ね、蒔乃さ。今更なんだけど…、パートナーはいるの?」
一臣にそっと尋ねられる。
「い、ないよ。そういうおみくんは…?。」
「いない。」
ああ、もう。
二人を阻むものが無くなってしまった。
一臣が蒔乃の肩に触れて、彼女の顔を覗く。蒔乃は涙を零していた。
「ごめんね。嫌だった?」
「…っ。」
彼の問いに蒔乃は首をゆるゆると横に振った。
嫌なわけがない。だって、
一臣はベッドに乗り上げる。二人分の体重を支えて、ベッドが大きく軋んだ。
蒔乃の顔の横に一臣の手が置かれて、もう逃げることが出来ない。逃げる気も無いけれど。
「おみ、く…んっ。」
蒔乃は片手で隠すように顔を覆う。
「何?」
長い黒髪の毛先を掬ってキスをしながら、一臣は問う。
「…大好き、だよ…。」
「うん…。俺も、蒔乃が大好きだよ。この国で溶けて消えようとしても尚、蒔乃という存在を求めてた。」
一臣がゆっくりと蒔乃の顔を覆う手を退けた。蒔乃の瞳は涙に濡れて潤み、カーテンから漏れる月光を反射させて輝いていた。
二人の瞳に映る互いの姿は思い出よりも成長した、大人の顔をしている。当たり前だ。時間は平等に流れる。
ゆっくりとした動作で一臣は蒔乃の額にかかる前髪を撫でるように払う。形の良い額は丸く、肌はさらさらとしていた。一臣は蒔乃の額に唇を押しつけて、ちゅ、と音を立て離れた。眼球を覆う柔らかい瞼の皮膚を食み、睫毛をつんと唇の先で引っ張る。流れるように桃のような頬に口付けて、鼻の先を狼の親愛の情のように淡く囓った。
耳をくすぐると蒔乃から、ふふふ、と笑い声が漏れる。
愛しさが満ちていく。
花が開いた今、言葉だけが不要だった。
くすくすと笑い合い、そして時間をかけてようやく二人の唇が重なる。
感触は、ふに、として柔らかく、唇の皺が感じられるほどに密な距離で互いの呼吸を交換し合う。温かい体温を宿す唇同士が溶け合っていくような錯覚に、幸福感で胸がまるで溺れそうだ。
一臣は蒔乃の唇の先を柔く噛み、驚きで僅かに開かれた口腔内に舌をそっと差し入れた。
熱く滑った舌が絡み合い、甘い唾液が二人分混ざっていく。蒔乃の整った歯のエナメル質を一臣の舌先がつるりと撫でる。
「…ぅ…、」
蒔乃が苦しそうに一臣の胸を叩いて、呼吸を促す合図を送った。その合図で、夢中になっていた一臣ははっとして彼女を解放した。
蒔乃は、ふう、と深呼吸を繰り返す。大きく上下する胸が、一臣の胸に当たった。
「蒔乃、いいかな。このまま…。」
一臣の手のひらが蒔乃の胸を覆うように、優しく触れる。彼女の心臓の鼓動がとくとくと手のひらに直接感じた。
「…いいよ。」
「ありがとう。」
掠れた一臣の声が蒔乃の鼓膜に響いた。
分厚かった雲から、いつの間にか雨が滴り落ちていた。温かい、恵の雨だった。
蒔乃は一臣に抱かれながら微睡んでいた。触れあう素肌が心地よくて、肌に滲む汗のおかげでよりぴったりと密着する感覚に陥る。
遠くで洗濯機が回り、シーツを洗う音が聞こえた。雨音といい、水が流れる音は母親の胎内を思い出させるからとても好きだと思う。
「…蒔乃…。」
水に晒されるように、一臣の声が蒔乃の意識に流れ込む。それでも、眠気で瞼を開けない。
ー…なに?おみくん。
私は声を言葉に出来たのだろうか。
「…明日の朝、8時に公園にある教会に来てくれる?」
朝、8時。
蒔乃の脳裏に記号のように一臣の言葉が刻まれる。
「うん…。わかった…。」
小さく細い声が蒔乃の喉から絞り出されるように発せられて、一臣は満足そうに頷いたようだった。
「いい?8時、ぴったりに来てね?」
…。
……。
………。
…朝、8時に。
夢の中で囁かれた声に誘われるように、蒔乃は目覚めた。
「…おみくん?」
隣に寝ているはずの一臣がいない。もしかして今までのことは全て夢だったのだろうかと思い、だけど確かにある体の奥の熱と腰の気怠さに一臣の存在が残されていた。
蒔乃は時計を見る。時刻は朝の7時27分を差していた。
「やば…っ、」
教会のある公園に8時まで行くには、そろそろ出ないと間に合わない。身支度もそこそこに、蒔乃はコートとマフラーを身につけてアパートメントの部屋を出た。
冬の凍った道を歩かないように、だけど確実に間に合うようにどうしても早歩きになる。何度か転びそうになりつつ、蒔乃は急いだ。教会に確実に一臣がいる。その事実が、蒔乃を励ました。
教会は礼拝に来る人たちのために、朝7時には開かれている。それは旅人にも許されていた。
昨夜の雨上がりの冷たい空気が痛いほどに肺に満ちる。手袋を忘れてしまったため、指先がかじかんで赤くなっていく。でも、痛くない。きっと無痛症じゃなくても、痛くないと思う。今の気分の高揚にはそれほどの麻薬ような何かが込められている。
7時58分、蒔乃は教会の扉の前に到着した。
深呼吸を繰り返して、呼吸を整える。腕時計を見ると、あと30秒ほどで8時になるところだった。秒針がゆっくりと上に向かって、傾いていく。
そして、8時丁度。
蒔乃は教会の重い木製の扉を開けた。
「…っ!」
その直後、教会で世話をしている鳩たちが一斉に羽ばたいて、蒔乃の横を通り過ぎていった。パタタと羽を叩く音が軽やかに空に浮かび上がって、蒔乃は驚きに閉じた瞼をようやく持ち上げる。
「蒔乃。来てくれて、ありがとう。」
そこには、一臣が立っていた。8時は、鳩が寝床でもあるかごから自由になる時間だったらしい。教会に仕えるシスターは鳩の自由を祝うようにパイプオルガンを弾き奏でている。
そのドラマチックな景色に、蒔乃は目を細めた。雨上がりの真っ青の空に、鳩が群れを成して喜びを表すように飛び立っていく。そういえば、鳥は特別な朝の挨拶を持っているらしいと思い出した。
おはよう、一緒に朝を迎えられて嬉しい。と。
そして隣に一臣の気配を感じて視線を下ろすと、彼は膝をついて蒔乃の手を取った。
「玉森蒔乃さん。」
「…はい。」
いつになく真剣な一臣の眼差しを受けて、蒔乃も佇まいを直す。
「結婚しよう。…じゃなくて、してください。俺と。」
小指と小指を結ぶ運命の赤い糸とやらは随分ともつれ合っていたようだ。
「あー…。ごめん、練習したんだけどイマイチ決まらなかった。」
一臣は悔しそうに頭を掻く。
「…で、いいの?」
「え?」
「私で…、いいの?」
するすると解けた赤い糸はやがて、一臣と蒔乃の手のひらを一針ずつ縫い合わせていく。
「もちろん。」
一臣は頷くと、ボトムスのポケットから布張りの赤い小箱を取り出した。そして徐にその蓋を開ける。中に入っていたのは、小さなダイヤモンドのついた華奢なデザインの指輪が収まっていた。
「蒔乃じゃないと、だめなんだ。」
そっと蒔乃の左手を取る。
「…この指輪、嵌めてもいいかな。蒔乃が俺の首に噛み痕を残してくれたように、俺も蒔乃に証を刻みたい。」
「はい…。」
蒔乃の返事を聞いて、一臣は彼女の薬指に指輪を差し入れる。その手は震えていた。
赤い糸が肌を縫う痛みが全身に駆け巡るようだった。
左手の薬指にシンデレラフィットした指輪は、朝日を浴びて流れた涙のように輝いていた。
「よく私の指のサイズ、わかったね?」
「蒔乃と手が似てる店員さんに協力してもらった。」
「…ふーん?」
蒔乃は一瞬不穏な気配を醸し出しながら、微笑んだ。
「何か地雷踏んだ?」
一臣が笑顔を引きつらせる。
「いいえー?…でも、何だか、ちょっとジェラシーだぞ?」
私じゃない女性の手を握って、指輪を選んだとは。
「ごめんなさい。」
瞬時に謝る一臣の姿勢に溜飲が下がり、蒔乃は彼を許す。そしてようやくその指輪を見た。
「これで私、おみくんのものだね。」
蒔乃がはにかむように笑うと、一臣も緊張から解放されたように満面の笑みを浮かべた。
「ものじゃない、大切な家族だ。」
立ち上がった一臣と何度もキスをして、蒔乃はそういえばと言葉を紡ぐ。
「私、朔司さんの最後の言葉の意味がやっとわかったの。」
「何?」
ー…いきなさい。
「あの言葉は安全なところに行けとか、自分のいないところに行けって意味じゃ無くてね…、」
生きなさい。
「生きろ、って意味だったんだよ。」
「…ああ、そうか。そうだったのか。」
生きろ、と一臣も呟いて反芻する。
「全く、紛らわしいよな。親父は。」
愛しい家族の最後の失態に一臣は呆れながらも、声を出して笑う。
「本当にね。でも、そういう少し抜けたところ、あったよね。朔司さん。」
僅かな痛みは残るけれど、もう、笑いを含みながら彼の思い出を語ることができるのが嬉しい。
傷は癒え、肉が盛り上がり痕に残ったけれど、触ると柔らかく肌に残った。
赤い糸の赤は、肌を縫った際に染まった血液の赤。
きっと運命を謳った糸は結ぶだけに飽きたりず、恋人たちを縫い合わせるのだろう。気配が途切れないように、もう二度と存在が離れないように。
そして私たちは、痛みを抱えて生きていく。
了