君はあの日の口づけを覚えているだろうか。まるで世界の終焉を告げるかのように真っ赤に燃えた太陽が東京のビルの深淵に堕ちていったあの日、忌々しい太陽の光を憚ることなく、歩道橋の上で僕と君はキスをした。甘い初恋の味とも、苦い失恋の味とも似つかない、世界でたった一人お互いの存在だけを認め合うためのキスを。あれから君は弱虫の僕を置いて一人で大人になってしまった。僕の時間は未だあの日の夕焼けに囚われたままでいるのに。
 嫉妬に塗れた僕の恨み言を聞いて、せめて哂ってほしい。あの日から何も変わっちゃいない、弱い僕を。三月、君の最後のセーラー服姿を桜の木の陰に焼き付けながら、君を大人にしていく季節を恨んだ。明日からはいつもじゃなくなってしまう、いつもの駅で、また君と電車を待っていた。急行が通過すると三番線の向こうから桜の風がホームに吹きこんでくる。晴れの日というのにこの日の朝も全くいうことを聞いてくれなかった僕の癖だらけの頭に留まった淡い桜色を、ローファーでつま先立ちをして奪った後、指先のそれを見つめながら、君が言った。
「一緒に○○大学の演劇サークル入らない?」
返答に困って黙り込んだ僕に、君は元々人より少し色素の薄い目を更に輝かせながら、中高の部活とは比にならないそのサークルの規模の大きさを教えてくれた。
「プロの人に指導してもらえるし、沢山のお客さんに観に来てもらえるし、それに演出も自由にできるんだよ」
するとその言葉に小さな部活での窮屈さを思い出し、二人で笑った。その後も君は体験会や新歓に誘ってくれたけれど、僕があまり乗り気じゃないことを悟ったのか、そのうち一人で行った話を後から報告されるようになった。
 勿論君が誘ってくれたことは嬉しかった。でもそのサークルに入って演劇を続けるかどうかは別問題だった。実際に自分の元来の目的が君という存在に浸蝕されているのを自覚したのは、その誘いがきっかけだったかもしれない。君の意識の中で、君の立派な将来図とあの日の夕焼けの記憶とが、少なからず結びついてくれているような気がして嬉しかったけれど、それが自分の目の前で解けていくことがどうしようもなく怖かった。四月、忙しなく更新されていく発着時刻の電光掲示を見上げながら、改札前で君を待っていた。テレビでは国民の不安を煽るようなニュースを連日のように報道しているのに、観たい情報を選べる世代はそんなのに見向きもせず、幸せそうに燥いでいる。人生のモラトリアムを浪費していく若者達と無意味な政治批判を延々と垂れている老人達、旬の女優を起用した華やかな巨大広告と最新の暗いニュースを映す巨大ビジョン。まさにこの社会の矛盾を炙り出しているかのような、休日の改札口の混沌の渦の中に、やけに馴染んだ君を見つけた。長くおろした髪を緩く巻いて、目元にはラメのアイシャドウを施して、春色の爽やかなワンピースを纏い、ヒールのついたサンダルからはラベンダー色のネイルが覗いていて、旋毛から爪先まで磨かれた姿にどこか距離を感じる。先月まで当たり前のように通学路を一緒に歩いていたのに、いつものように君の左隣に並ぶことに気が引けてしまう。君と僕に流れている時間には途方もない速度の差があって、そのうち君は僕を置いて大人になってしまうんだろう。それでも君のゆっくりとした歩調は相変わらずで、沢山の忙しい都会人に追い越されながら、君の速度に合わせて歩く。
 駅から少し歩き、路地裏に入ると、重たい人波から解放されて、少し息が楽になった。すると君のヒールの音が急に早くなったのに気づき、前を見ると、緩やかな坂の上に小劇場があった。ヒールで小走りになる君を危なっかしく思って、呼吸を休める暇もなく僕も追いかける。劇場につく頃には二人とも息を切らしていて、それがなんだか可笑しくて顔を見合わせて笑う。僕たちは早く着いたおかげで前の方の席に座ることが出来たが、その後も大学のサークルと思えないくらい大勢の人が入って来て、小さな劇場はすぐに満員になった。公演が終わって客席が徐々に明るくなると、隣の君が静かにハンカチで目元を抑えていたが、今の僕には主人公達の真っ直ぐさすら、厭味っぽく感じてしまうほど、夢とかいうものに向き合える余裕がなかった。折角の化粧が崩れてしまっても、素直に泣ける君がただただ羨ましかった。
 高一の十一月、君に初めて脚本を見せた。僕たちの最後の学園祭の為に温めておいたものだ。タイトルは「小劇場の怪人」。とある小さな劇団で、稽古中の怪我が増えたり、セットが壊れたりなどトラブルが相次ぎ、団長の青年は頭を悩ます。そんな中、本番直前になって主演女優が急な発熱で出られなくなり、代役で出演したヒロインがその演技力で一気に注目を浴びることになる。彼女の異常な成長ぶりに怪人の存在が噂されるが…。所謂オペラ座の怪人のパロディーといった内容だが、最後は本家と違って青春劇らしく爽やかに終わる。今思えばまだ大した挫折も知らなかったあの頃の僕だからこそ書けた未熟な綺麗事だったのかもしれない。君はきっとこのヒロインに共感してくれると信じていたが、まさか泣くなんて思っていなかったから、脚本を濡らさないようにとセーラー服の袖で何度も涙を拭う君を見て、口許が緩んでしまう。そんな僕に気づいて君も恥ずかしそうに微笑む。さっきまで降っていた雨に大喜びしていたはずの野球部のやる気なさそうな声変わりの低い声が響く放課後。教室の窓を覗くと、秋空が兎に角青く澄み切っていて、あの頃は青春とかいう病煩のおかげか、何故かそんな空を見上げただけで何でもできる気になれた。
 ほどなくして学園祭公演に向けての稽古が始まった。ヒロイン役のオーディションは君を含め三人が受けて、僕と、演出の福田と、コーチ二人で選んで、君に決まったが、一部の部員は僕が君に好意を抱いているから、ヒロインに君を選んだんじゃないかと文句を言い始めた。オーディションではヒロインが演劇への想いを夜の公園で独白する一番重要なシーンを見て、説教臭かったり、逆に自信なさげでどこか噓っぽかった他の二人に比べて、君の演技が一番説得力があるように感じたから君を選んだつもりだった。だけどその説得力というのも、君の女優の夢や努力を知っているからこそ、少なからず贔屓目で見てしまった気もして、真っ向からそれを否定することはできなかった。そしてその脚本自体も、世間知らずで鼻につくと裏で批判されるようになった。僕にとってそれは人格否定と同じ事を意味したが、それでも僕はあの日君が泣いてくれたから、それで満足してしまったのだ。それほどに大きくなりすぎてしまった君の存在は、太陽を喰う月のように僕の脚本家の夢を蝕んでいった。
 夏休みが終わる頃には、劇全体も殆ど形になってきて、あとは十月の文化祭に向けて通しの練習が主になる。そんな高二の八月、ある日の部活帰り。いつものように、君が右で、僕が左に並んで歩く。君が上機嫌に僕の書いた脚本について話してくれるこの時間が大好きなのに、今日の君は何故か足元の石ころを蹴りながら歩くのに夢中になっている。僕もなんだか今日は無理に話を振るのが躊躇われて、夕日に伸びた自分の影と君の影の距離を確かめながら君の歩幅に合わせて歩く。二人の間の沈黙を五月蠅い蝉の声や、救急車のサイレンの音や、帰宅ラッシュの雑踏が走り抜けていく。車のライトが都会の星のように夕闇に瞬き始めた大通りの上に架かる歩道橋の途中、突然、君の足が止まる。君は泣いていた。人一倍敏感な君は今まで何回も僕に涙を見せた事があったが、いつものように何かに感動して泣いているのとは明らかに訳が違うことを、子供のように蹲って泣き喚く背中を見て直ぐに悟った。
 僕はどうしていいかわからずに、だけどあの秋の日の雨上がりの太陽のような君の笑顔をまた見てみたくて、ただそんな下心で君に手を差し伸べた。そんな僕に気付いた君の瞳に溜まった涙に、夕日の光が反射して、刹那の閃きがフラッシュを焚いたように脳裏に焼き付いた。君は僕の手を取って立ち上がったかと思えば、一人では肉体と心の均衡が保てなかったのか、そのまま僕の方に雪崩れ込んだ。別々だったはずの僕と君の影が融けあって、一つになる。必死に隠そうとした泣き顔を埋めた僕の肩を濡らす熱の正体が、純粋な君の強さから零れた悔しさだと知る。
「私は彼女の情熱に救われたのに、私には彼女を演じる資格なんてないのかな。あんなにでっかくて真っ赤な太陽が怖いよ。一年の頃からずっと憧れてたはずのスポットライトも怖いの。弱い自分を責められてるみたい。みんなに認められたいのに、誰にも否定されたくないよ。」
まるで世界の終焉を告げるかのように真っ赤に燃えた太陽が東京のビルの深淵に堕ちていく。僕は彼女の中に君の強さを書いたんだ。この世界に君さえいればいい。そして君さえ僕の存在を認めてくれればいい。君さえいれば何も要らない。そんな僕の想いをその唇に刻みこんでおきたかった。いつかこの夕日が沈んで、君が大人になってしまう前に。
   ***
 セット 公園・夜
 明転
 ヒロイン「太陽が沈むと自分の弱さをこの闇に吐き出してしまいたくなる。怪人なんていないよ。怪人が私にだけ演技を教えてくれるなんて都合いいことがあったらこんな辛い思いしなくてもいいのに。ずっとオーディションに受からなくて、それでも現実を受け入れたくなくて、とにかく夢を信じることしかできなかったんだ。こんな子供じみた夢を。この夜空の一番星になりたいなんて贅沢なことは言わないから、誰かこの星達の中にたった一人の私の存在を認めてほしい。人々の夢を食べ尽くして肥え太った獏みたいなこの暗闇の中に。」
 暗転
   ***
 僕は今、太陽が沈み切った東京の夜空を見上げている。星の数ほどの夢の光を抱え込んだ東京の夜の闇は何処までも澱んでいて、僕がついた溜息も存在を残さずに直ぐに溶け込んでしまう。恋人とか友達とかいう都合のいい仮面を被ったのっぺらぼうと、噓を語り合って、それを愛と錯覚して、気持ち良くなって、空っぽの心を一時的に埋める。そんな行為を後悔しては、また繰り返す。お天道様と君に顔向けできないから、今日も僕は一人、夜の東京を彷徨っている。君は今夜も夢を見ているのだろうか。そしてまた太陽のようなスポットライトを浴びて輝かしい夢を語るんだろう。君の強さに嫉妬した弱い僕は、いつの間にかこの世界にたった一人認識していた君のことさえ嫌いになっていた。いっそこのまま永遠に太陽の昇らない極夜の中に堕ちていきたい。
 「歩道橋で待ってる。」暗闇に一件の通知が灯る。今一番逢いたくない人からだった。いや、今の僕を一番見せたくない人だった。だけど、君はあの日の口づけを覚えていたのだろうか。僕を置いて一人で大人になったくせに。僕は走り出した。東京の夜の生温い風は澱んでいるけれど、どんな恨み言も優しく受け入れてくれた。
 息切れしている僕を見て君は笑った。君に会うの自体何か月かぶりだが、化粧を落とした君の笑顔を見るのはもっと久しぶりだった。東京の夜の光を映した君の瞳は宇宙のように輝いていたけれど、その光すら飲み込んでしまうほどの哀しさをその奥に宿していた。
「覚えてる? ここでキスしたこと。」
呼吸が乱れて、声が出ない代わりに、首を縦に振る。
「じゃあどうして私を置いて一人で大人になっちゃったの? 私はいつまでも夢を見てるのに。でももう疲れちゃったよ。オーディションなんて受かんないし。オーディションでやった台詞を同期の子の声で聴きながら、劇場の掃除しなきゃいけないんだよ。それでもいつまでも現実見れない私のこと、あほらしく見えるでしょ。先に大人になったんなら、いっそ私のことも大人にしてよ。あの時の夕日が忘れられない私を夢から醒ましてよ。」
呼吸を絞め殺すように僕のフードを掴んで、恨むように睨みつけた顔は、すぐに涙に流されてしまって、君はあの日と同じように僕の肩で子供のように泣いた。あの日の夕焼けから逃げていたのは僕の方だった。君さえ認めてくれればいいなんて言い訳で、本当は誰かに否定されるのが怖かったんだ。そしてそれ以上に君が他を評価して僕のことなんて忘れてしまうのが怖かったから夢を諦めたんだ。それなのにあの日一緒に怯えていたはずの君が、僕がいなくても一人で夢を追いかけ続けていることに嫉妬した。君は本当は夢を諦めるのが怖くて僕に引き留めて欲しかったんだろう。君の夢を孤独にした僕に八つ当たりしたくなったんだろう。誰かに自分の弱さを吐き出したくなったんだろう。そんな言葉の代わりに、重ね合った鼓動で、嬰児のように脆い二つの心臓を諭し合った。僕たちはいい加減一人一人の大人になろう。夢の中にお互いの影を、お互いの中に夢の影を映し出して、恋焦がれたり、恨んだりするのはもう、終わりにしよう。そんな誓いのキスをした。今度は沢山の夢と、そして現実の中にお互いを認め合えるように。いつのまにか太陽が美しく東京のビルの深淵から昇り始めた。始発電車が駅から走り出し、街が目を醒ます。幼かったあの日、あんなに恐ろしかった太陽が、まるで僕達を祝福しているように見えた。