転生帰録──鵺が啼く空は虚ろ

 部屋の隅で蹲っている。
 あれは、俺だ。
 
 初めて人を傷つけた。理不尽な力で傷つけた。
 納得がいかない。俺のせいじゃない。そんなつもりはなかった。
 
 怒りと困惑と情けなさ。そんな感情がぐるぐると頭の中で回り続ける。
 
 嫌だ。なんで俺は違うんだ。どうして俺が悪いんだ。


 
「ねえ」
 
 その声は無遠慮に俺の中に入って来た。
 
「君は悪くないよ」
 
 本当に?
 
「これからは僕が考える」
 
 暗い空が晴れた気がした。
 
「君の力は僕が使うから、僕が考えて君が動けばいい」
 
 ──いいのか?


 
「だから、出ておいでよ。僕には君が──」
 
 必要なんだ、と笑う姿に。
 心の底から安心した。



 ◆ ◆ ◆



 
「……」
 
 目覚ましのアラームはとっくに止まっていた。
 
 まだ覚醒しない頭をゆっくりと動かして、蕾生(らいお)は携帯電話の時刻を見る。
 (はるか)と待ち合わせた時刻、まさにその時間だった。
 
「やべ……」
 
 急いで起きて、窓を開ける。外では永がにこやかに手を振りながら立っていた。
 
 空は快晴で、風も吹いていない。今日は暑くなりそうだとテレビの天気予報が言っているのを聞きながら蕾生は玄関を飛び出した。
 
 永に少しだけ急かされながら、連休でどこかへ出かける人達を追い越して歩く。
 高校へ向かういつもの通りを過ぎて、森林公園を横目に歩き、公園から楽しげな声が聞こえなくなった頃、真新しい無機質な道路が顔を出す。

 急に現れる白塗りの大きな鉄の門の向こうは、連休で浮かれる世間とは別の世界のような静けさがあった。
 
「さむっ」
 
 突然、蕾生の背筋に悪寒が走る。
 
「いい天気なのに寒いの?風邪?」
 
 永が問うと、蕾生は首をかしげながら答えた。
 
「いや、やっぱり寒くはない」
 
「なにそれ」
 
 微かに笑った永の目の奥、緊張しているような光を湛えているような気がして、蕾生は居心地が悪くなる。

 
  
 少しの沈黙。
 隣で黙っている永を見ると、無意識なのだろうが、拳を握りしめて指が少し赤くなっていた。
 
「なあ、やっぱり今日……」
 
 やめないか、と蕾生が言う前に、永は一歩踏み出し振り返ってにっこりと笑う。
 
「じゃあ、行こう。受付あっちみたい」
 
 そうして門の横、守衛のいる小さな詰所を指さした永の表情はいつも通りだった。
 
「あ、でも具合悪くなったらすぐ言いなよ?」
 
「ああ、……わかった」
 
 言葉尻もいつもの永のものだったが居心地の悪さは拭えない。蕾生は気乗りしないまま永の後をついていった。
 
 守衛に参加証が記された携帯電話の画面を見せ、身分証明カードを提示すると、何かの機械でそれを承諾も得ずに撮影された。子どもだから舐められたのかと、蕾生は嫌な気分になった。

 何の感情も読めない守衛から「どうぞ」とだけ言われて、入館証と書かれた首から提げるタイプのネームカードを渡される。
 すると大きな鉄の門は開かずに、詰所の横の通用口が開いた。視線で促され、二人はそこを通った。





「…………」
 
 (はるか)蕾生(らいお)は目の前の光景に一瞬だが言葉を失った。

 碁盤の目のように形成された歩道、それに沿って理路整然と建てられている研究棟の数々。
 二人がそれまでに街で見てきた企業ビルや国の研修施設などとはまるで違う。ここには一切の無駄も遊びもなかった。

 通常ならメインストリートには庭木や芝生を植えていそうなものだが、ここはすべてコンクリートの道路と石畳の歩道だけ。建物も皆一様に白く四角い。白い線と白い箱を並べた模型のような佇まいだった。
 
 異世界に迷い込んだような感覚に、蕾生はもう一度身震いする。
 永の方を見ると、携帯電話の画面とこの景色を見比べていた。地図を見ているのだろう、その仕草は既にいつも通りスマートに行っており、やはり自分の感じている違和感を言うことは憚られた。

 きっとこの日を楽しみにしていたはずの永に、気味が悪いから帰ろうなんてことは言えなかった。
 
「あっちのちょっと大きい建物で、最初の説明と講演会があるって」
 
 数メートル先の少しだけ背の高い白い建物を指して歩みを進める永に、蕾生は黙ってついていった。




 総合棟、と書かれた看板がある建物の前に着くと、入口に何人かの男女が入っていく。ようやく人の気配を少し感じて、蕾生はほっとした。
 永とともに中に入ると、小さなエントランスに小さく粗末な机が置いてあり、白衣をまとった女性が二人を見て話しかけてきた。
 
「こんにちは、見学の方ですね?」
 
 小さな顔に大きな丸眼鏡で長い髪を後ろでひとつにまとめた、いかにも研究者風のその女性は、永と蕾生の首元のネームカードと手元のバインダーを見比べて言った。
 
周防(すおう)(はるか)さんと(ただ)蕾生(らいお)さんですね。良かったわ、もう時間なのになかなかいらっしゃらないから心配しました」
 
「あ、スミマセン。ちょっと寝坊しちゃって。彼が」
 
 永はにこやかに答えながら、肘で蕾生の胸をつついた。
 
「……っス」
 
 特に悪びれずに蕾生は軽く会釈だけした。

 職員であろうその女性は軽く微笑んで二人にパンフレットを渡した。
 
「もう皆さんお揃いですから始めますよ。空いてる席に座ってね」
 
「ハーイ」
 
 永の良い子のお返事に笑顔を絶やさない女性の口元には真っ赤な口紅がひかれており、そこだけが紅く光る月のように際立って見えた。

 
  
 映画館にあるような重い扉を開くと、小さなコンサートホールが目の前に現れた。ちらほらと人が座っており、微かに話し声も聞こえる。
 
 二人は真ん中より少し後ろの列の通路側の席についた。座った途端、永が蕾生に話しかける。
 
「ネネネ、さっきの女の人いくつぐらいかな?」
 
「知らねえけど、二十七、八くらいだろ」
 
 どうでも良かったので、蕾生はパンフレットに目を落としながら答える。
 
「だよねえ、それくらいに見える、ネ」
 
 永にしても興味なんかないだろうに、何故そんな話題を振るのか蕾生は少し苛ついた。しかし、急に照明が落とされたのでそんな感情はすぐに忘れてしまった。





 一際明るくなった舞台の袖に、先程入口で会った職員の女性がマイクを持って立っていた。よく通る、滑らかな口調で彼女は客席に向かって話し始める。
 
「本日は私共銀騎(しらき)研究所の見学会にお越しいただきまして誠にありがとうございます。司会をつとめます佐藤と申します。まずは当研究所を代表して、副所長の銀騎(しらき)皓矢(こうや)が挨拶をさせていただきます」
 
 女性の言葉が終わると同時に、逆側の袖から背の高い、やはり白衣を着た年若い男性が登場する。
 彼は背筋をまっすぐ伸ばして歩き、ステージの中央で真正面を向いて深々とお辞儀をした。
 
「副所長なのに代表なのか?」
 
 蕾生(らいお)の疑問に、(はるか)が小声で答える。
 
「所長の銀騎博士は高齢だからね、最近はあまり人目に出ないらしいよ。ていうか、副所長めっちゃイケメンだな」
 
 永の言う通り、副所長の銀騎皓矢は高身長で足も長くモデルのようなプロポーションだ。
 蕾生の偏見にはなるが研究者なのに眼鏡もかけておらず、涼しげな目元をしている。髪型が少し野暮ったく伸ばされているが、ちょっと整えれば芸能人のように輝き出すかもしれない。

 この所感はあながち間違っていないようで、女性客達が途端にざわつき始めた。
 
「皆さんはじめまして、銀騎研究所の副所長をしております銀騎皓矢と申します。本当ならば私の祖父であります所長の銀騎(しらき)詮充郎(せんじゅうろう)が挨拶をするべきですが、今日は論文の締め切りが近く手がはなせないため登壇できない無礼をお許しください。さて、当研究所では──」
 
 朗々と語る銀騎皓矢の声は会場によく通り、彼の真摯な性格を物語る。会場の客席の誰もが、この好感しかない青年の声に聞き入っている。

 蕾生は銀騎研究所の沿革が説明され、続いて主な研究成果の説明が始まるところで睡魔との戦いを開始した。
 
「では、ここからプログラムの一番目、銀騎詮充郎博士のツチノコ研究に関する講話を引き続き銀騎皓矢先生にしていただきます」
 
 女性の声で蕾生ははっと目を開いた。顔を上げると、ステージの上では机と椅子が用意され、プロジェクターが設置されているところだった。
 
「ちょっとライくん、眠くなるのが早いんじゃないのぉ?」
 
「……悪い」
 
「ここからが面白いところなんだから、ちゃんと聞いてよね」
 
「あぁ……」
 
 からかうような口調の永に、自信なさげに蕾生は返事をする。どうせ自分は付き添いだしツチノコにも興味がないのだが、終わった後何も覚えていないと永は根に持つので、少し背筋を伸ばして座り直した。





「まず、銀騎(しらき)博士がツチノコと思われる生物の死骸を発見したのは、フィールドワークで出かけておりました山中でした。当時既にツチノコは未確認生物として広く知られており、過去に何度も別種類の蛇であったりトカゲの見間違いであったりしたため、蛇の突然変異種などの可能性が濃厚として採取したのが始まりです」
 
 銀騎(しらき)皓矢(こうや)の説明とともに、後ろのスクリーンには当時の未確認生物の死骸が映し出された。
 頭は蛇によく似ており、胴が短く膨らんでいる。所謂「ツチノコ」を連想させるような見た目だった。
 体表の色は死骸だからだろうか、全体が黒っぽく少し干からびていた。
 
 ここまでの展開は、今では動画サイトでも検索に時間をかけないと出てこない、昔の超常現象を扱うテレビ番組と同じような雰囲気である。
 小学生の頃、(はるか)に毎日と言っていいほど見せられていた蕾生(らいお)は、この手の話題には食傷気味だ。隣の永をチラと見ると、口元を緩めて楽しそうに聞いていた。
 
「銀騎博士はこの死骸を詳しく分析し、DNA鑑定をした結果、未知のDNAを発見しました。それは蛇やトカゲはもちろん、地球上のどの生物も持っていない全く未知のDNAだったのです」
 
 銀騎皓矢の説明に、観客は小さく感嘆の声を漏らしながら聴いている。蕾生はますますSF映画の様になっていく展開に、本当にこれは科学の講話なのか首を傾げずにはいられなかった。
 
「このDNAに関しましては、現在も当研究所で研究中であり、全容はまだ解明されていません。しかしながら、とにかく未知の因子を持つ生物が存在している可能性が濃厚だとして、銀騎博士は一年かけて発見場所を詳細に調べました。糞や巣穴の痕跡などが徐々に見つかり、遂には生きている個体の捕獲に成功しました」
 
 そしてスクリーンには、先程の死骸とは姿は同じでも雰囲気が全く違う、生気に満ちた蛇のような生物が映し出された。
 土色の体の表面は鱗で覆われ、子どもの頃動画で見たCGでの想像図と良く似た姿だった。
 
「これが、銀騎博士が新生物として登録したツチノコであります。爬虫類有鱗目……ツチノコは古来ノヅチとも呼ばれたことから、ノヅチ亜目ノヅチ科ツチノコ属ツチノコと分類しました。ノヅチ亜目は今後細分化が可能だと銀騎博士は考えており、ツチノコ研究はまだ入口の扉を開けたに過ぎないのです」
 
 そして、銀騎皓矢は観客を真っ直ぐに見据え、いっそう力強く言い放つ。
 
「我々銀騎研究所研究員一同は銀騎博士の指導の元、今後も未知の生物の探求とDNAの調査を行い、地球の生物の新たなる謎の解明に邁進していきます」

 
  
 すると観客席からワッと歓声と拍手が湧き上がる。演説に成功した若き研究者は少しはにかみながらその場でお辞儀をした。

 蕾生はなんとなく鈍い光を感じて視線をずらすと、ステージ袖で司会の女性が拍手をしながらも眼鏡の奥の表情が見えないことに少し不気味さを感じていた。





「ではこのプログラムの最後に、予め録画しておいたものにはなりますが、銀騎(しらき)詮充郎(せんじゅうろう)博士よりお集まりの皆様にメッセージがございます」
 
 銀騎(しらき)皓矢(こうや)のその言葉を合図に、ステージが再び暗くなりプロジェクターの可動音だけが会場内に響き渡る。

 少しの沈黙の後、白い画面が浮かび上がり老齢の白衣を着た男性が映った。深い皺が刻まれた痩せ型の姿は、見ている者に畏敬の念を抱かせるには充分の鋭い眼差しをしている。

 まるで静止画のようにしばらくピクリとも動かなかったが、ようやく開いた口から出てくる声は身もすくむほど威圧に満ちたものだった。


 
「……銀騎詮充郎で御座います。本日は当研究所にお越しいただき、厚く御礼申し上げる。私は自らの探究心に従い、この世界の真理というものを追いかけ続けている。一般民衆の諸君、疑問に思ったことを放棄するべきではない。何故ならそこには必ず矛盾があるからだ。考えることを止めるな。考え続けることだけが、我々人間に与えられたただひとつの武器なのだから」


 
 一方的にまくしたてながら動画が終わる。観客達はそれまでの浮かれた熱が一気に冷まされたように静まり返った。

「あ、し、失礼しました! 祖父は研究のことしか頭にありませんで、自分の研究理念を端的に申し上げたつもりなのですが、ご覧の通りの強面なので……」
 
 会場の空気を察してか、銀騎皓矢が焦った声で援護すると、「強面」の部分で何人かが笑った。
 すると緊張がとけて、拍手が起こる。
 壇上の銀騎皓矢はほっとした表情を浮かべ、ペコペコと頭を下げた。先程までは副所長としての威厳を感じるような振る舞いだったが、今の彼にはそれが見当たらない。
 もしかしたら、こちらの方が素顔なのかもしれないと蕾生(らいお)は思って苦笑した。

 
  
「ではこれからいくつかのグループにわかれて、研究所内をご案内いたします。誘導する職員がお声がけするまでそのままお待ちください」
 
 司会の女性がそう言うと、銀騎皓矢はステージを去り、会場内も明るくなったので客達は思い思いに雑談をし始める。
 
「さっきのさ……」
 
 不意に(はるか)が口を開いた。随分と久しぶりに声を聞いた気がする。それだけ講和にいつの間にか集中していたのかと蕾生は不思議な気持ちになった。
 
「銀騎博士のこと、どう思った?」
 
 そう尋ねる永の表情が心なしか強張って見え、忘れていた違和感を思い出す。
 
「どうって……なんかこえーし、空気読めないジジイだなってくらいしか」
 
 蕾生の答えに永は吹き出して笑った。
 
「ジジイって……! めっちゃ偉い博士なのに……っ」
 
「でも圧が凄くて、あんまり会いたくないタイプのジジイだ」
 
「ハハ! そうだね、写真で見るくらいがちょうどいいよね」
 
 永はひとしきり笑った後、諦観めいた顔をしてボソリと呟いた。

 
  
「できるなら、二度と会いたくなかったなあ……」


 
 会ったことがあるのかと言いかけて、蕾生は口を噤んだ。掘り下げてはいけない話題のように感じたからだ。
 
周防(すおう)様、(ただ)様、いらっしゃいますか?」
 
 職員らしい男性の声に、永も蕾生も思わず立ち上がった。
 
「呼ばれたから行こっか」
 
 そう言う永の表情はもう元の通りだった。
 
「さ、楽しいオリエンテーリングの始まりだね」
 
 十五年の付き合いの中で、こんなに不安定な永を見るのは初めてだ。
 この研究所に何があるというのか。できれば気のせいであって欲しい蕾生だが、頭の奥では警報が鳴り響いていた。





「えー、以上が研究棟の中では主なものであります」
 
 事務的な言葉で案内係の男性が締めくくると、一団の中には微かに溜息を漏らす人もいた。そりゃそうだ、と蕾生(らいお)は思う。
 副所長の講話から受ける壮大な印象のまま研究所の散策が始まったが、結果は期待外れのものだった。

 分野ごとに分かれている研究棟を三棟ほど回ったが、どこもエントランスから先は通してもらえず、蕾生ですら期待していたバイオテクノロジー研究の植物だったり、複雑な名前の薬品を使った実験だったり、新生物研究のヒントだったり等の心躍るような光景には全く出会えなかった。

 パンフレットに沿ってただ研究所内をウロウロしただけで、せめて庭木や花でも植えてあれば季節柄目にも楽しいのだろうが、それすらも見かけることは叶わなかった。
 
 全体ががっかりした面持ちでいると、いたたまれなくなったのか案内係の男性は少し明るい声で皆に話しかける。
 
「では、最後に私共の食堂で昼食を召し上がっていただきます。今日は職員の中で一番人気の高いメニューをご用意させていただきました。サラダバーには当研究所が監修しましたドレッシングの全種類をご用意しておりますので、ぜひお楽しみください」
 
「サラダかあ……」
 
 少し盛り上がった周囲とは逆に蕾生が肩を落とす。それを見た(はるか)は嗜めるような口調で言った。
 
「もう、ライくんもたまには野菜を食べないと。普段、肉と米ばっかりなんだから」
 
「家では食ってるよ。外食で野菜食べる意味がわからん」
 
「そんなんだからこーんなにでかくなるんだ? うらやましいわー」
 
 ふざけて言う永の様子は普段通りだった。
 講演会が終わって研究所の散策中も特に変わったことはなく、あの変な違和感も蕾生の中では薄れていた。

 後は飯を食って帰るだけだ、とほっとする。こんな所はさっさと出て、いつもの日常に戻りたい。そう強く願っていた。


 
 食堂に入ると、さすがに内部は普通だった。椅子もテーブルも簡素ではあるが、窓も研究棟に比べればかなり大きく、陽の光が充分に差している。
 休憩に使う施設ならばこれくらいは最低は欲しい所だ。──病院の食堂の様な雰囲気だったとしても。
 
 人気ナンバーワンと謳うだけあって、おかずは豪華だった。ハンバーグにクリームコロッケと唐揚げがつけ合わされている。それにご飯と味噌汁。サラダは各々好きに盛り、おかわり自由だと言うことだった。





 目の前に並ぶ色とりどりのサラダバーを見ても、蕾生(らいお)の心は弾まなかった。

「野菜がおかわり自由でもなあ……」
 
「文句言わないの。それからサラダを野菜って呼ぶのやめなさい」
 
 蕾生がサラダを盛らないのは当然としても、(はるか)もサラダバーに向かう気配がないまま二人は席に着いた。
 
「永。サ、ラ、ダ、よそわねえの?」
 
 わざとらしく言うと、永は小声で周りを気にしながら短く言った。
 
「ライくん、悪いんだけどできるだけ急いで食べて」
 
「は?」
 
「頼んだよ」
 
 蕾生の返答も聞かずに、永は急いで箸を動かした。口に詰め込めるだけつめて、急いで飲みこむ。
 蕾生にも目配せして「早く食べろ」と促した。
 
「なんなんだ……」
 
 首を捻りつつも、それきり永は何も言わず黙々と食べ進めるので、蕾生もそうするしかなかった。だが、焦ったため途中で割り箸を折ってしまった。
 そのパキッと割れた音は、周りの楽しげな雰囲気に一見紛れたようではあった。だが、蕾生にはその音が頭にこびりついた。

 
  
 元から早食いが得意な蕾生はすぐに永を追い越して、あっという間に食べ終わる。
 永も最後の一口を口に運んで、味噌汁で流し込んだ。周りはまだ和気藹々と食事を楽しんでおり、サラダバーには人だかりが出来ていた。
 
「静かに立って、静かに運んで」
 
「……」
 
 永の後について蕾生も皿の乗ったトレイを返却口に出し、そのまま入口に向かう。永は静かな足取りで、けれど迅速に歩き建物の外へ出た。
 
「どこに行くんだよ? 解散の前に点呼とるから食堂にいてくれって──」
 
「シー」
 
 口の前で人差し指を掲げて蕾生の言葉をさえぎった永は、小声かつ早口で言う。
 
「そう、ここからは時間との勝負」
 
「え?」
 
「こっち」
 
 蕾生の疑問に答える暇もなく、永は研究所の歩道を早足で歩き出す。
 周囲を警戒しつつ、通る人を見ると方向を変えて、誰にも見られないように歩き続けた。

 碁盤の目のような道路が幸いしているのだろう、右に左に進路を変えながら二人は誰の目に留まることもなく進んでいった。

 蕾生はついていくのが精一杯で方向感覚もよくわからなくなっていた。だが、永は進むべき方向を知っているかのように歩みに迷いがない。何かに導かれているようにも見えた。

 急に白くて無機質な道路が終わる。先に続くのは舗装のしていない道路で、土が剥き出しだった。どう見ても部外者が入っていいような雰囲気ではない。
 
 すぐに煉瓦作りの大きなプランターの列に突き当たった。中には成人男性ほどの背丈の木が植えてある。
 その先に続く道の左右には頑丈な壁が左右に立っており、植木の上から辛うじて見えるのは、芝生の広場とその中央に立っている温室のようなガラス張りの建物。
 あまりに違う景色に、蕾生は目を丸くして驚いた。
 
「ねえ、ライ。この鉢植え、動かせる?」
 
「え?」

 その永の要求に、蕾生は耳を疑った。





 蕾生(らいお)の目の前のあるもには、鉢植えと一言で言っても、それは一メートル程の幅で、植木の大きさを合わせると六十キロ以上はありそうだ。普通の人間には引きずるのも難しいだろう。
 だが、蕾生はこれを軽々と持ち上げることができる。この力は家族以外では(はるか)しか知らない。
 
「ちょっと動かしてよ」
 
「マジで言ってんの?」
 
 それは蕾生にとっては忌々しい秘密だ。幼少の時からこの並外れた怪力のせいで散々な目にあってきた。永だってその現場にはいくつかいたはずだ。
 本当に隠しておきたい力で、永もそれはわかっているはずだし、今までに一度たりとも永は蕾生の力を頼ったことはない。ずっと隠し通す努力を一緒にしてきたのに。
 
 それを。
 今、ここで。
 やれと言うのか。
 
「──お願いだ、ライ」
 
 それまでに見たこともない真剣な表情だった。
 
 見たことがない? いや、ある。
 
 記憶にはないのに、この眼差しに出会ったことがある。
 
「わかった」

 蕾生は頷いた。元より永からの頼みを断ることなどあり得ない。
 そうすればずっと拭えなかった違和感の正体がわかるだろう。永が初めて見せた表情の意味も。
 
 もうあの日常には戻れないかもしれない、そんな不安はあった。
 けれど永がそこに行くと言うのなら、自分は従うだけだ。それが蕾生には自然な感情だった。

 
  
 教室の机を持ち上げるような感覚で、蕾生は自分の背丈くらいの植木をプランターごと持ち上げた。人が通れるくらいの隙間を作って、静かに地面に置く。
 
「ありがとう」
 
 小さくそう言って、永は駆け出した。真っ直ぐに広場の中心、ガラス張りの建物を目指す。
 
「永!」
 
 蕾生も後を追って走った。不思議な気配をその建物から感じていた。何か、懐かしいものがそこにあるような。




 
 その温室の入口に着くと、永はためらいもせずにそのドアノブに手をかけた。
 鍵はかかっていなかった。滑らかに扉が開く。蕾生もまた、永に続いて温室の中に入った。

 中は沢山の植物であふれていた。どこを見ても、緑、緑、緑。多くの木々や植物が太陽の光を受けて青々と輝いている、生命にあふれた空間だった。
 
 二人は少しずつ中へ進む。中央に大きな木が植えられていて、その下で一人の少女が小さなテーブルと椅子に腰掛けて、本を開きながら目を見開いてこちらを見ていた。
 肩ほどまで伸びた黒い髪はつややかに光の輪を描き、とても簡素な白いワンピースを着ていた。





「リン……か?」
 
 (はるか)の言葉に、蕾生(らいお)は急に胸が痛くなった。初めて会うのに、その「リン」という言葉が頭の中で響く。
 
「ハル様、ですか?」
 
 少女はおずおずと口を開く。永のことを知っている様子だった。大きな黒い瞳が永を真っ直ぐに見つめていた。
 
「そうだよ」
 
 永が答えると、少女は次いでその後ろの蕾生に視線を移す。
 
「では、そこにいるのがライですね」
 
「……ああ」
 
 永が頷くと、少女は目を伏せて安堵の溜息をついた。だが、すぐに冷ややかな視線を向けて言う。
 
「何故、来たのですか?」
 
「なぜって、お前がいないと始まらないだろう。いつもより若いみたいだけどどうしたんだ?」
 
 何が始まらないって?
 いつもより若いって、何?
 
 二人の会話の筋が見えなくて、蕾生はただその場で棒立ちになっていた。
 
「ハル様、私はもう協力できません」
 
「──え?」
 
 突き放すような口調で、少女ははっきりと言った。
 
「お帰りください。そしてここには二度と来ないように。私のことは忘れてください」
 
「な、に、言ってんの、お前?」
 
 永は動揺して、その少女に一歩近づいた。
 
「近寄らないでください。人を呼びます」
 
「お前、どうしたんだよ! 何があった? お前こそどうしてここにいる?」
 
 詰め寄ろうとする永を制するように、少女は唇を噛み締めながらワンピースのポケットから取り出した防犯ブザーのようなものを鳴らした。
 途端に温室の照明が赤く点滅し、けたたましいサイレンが鳴り響く。
 
「リン!」
 
 戸惑う永から少女は目線を蕾生に移して、冷たく言う。
 
「ライ、彼を抱えて逃げなさい。捕まったら死にます。振り返らないで走りなさい」
 
 とんでもないことを言われたが、少女の雰囲気からその言葉に嘘はなく、また従わざるを得ない迫力があった。
 
「永、一旦帰ろう」
 
「馬鹿言うな! せっかく会えたのに!」
 
 こんなに狼狽している永は初めて見る。蕾生がその様子に戸惑っていると、少女が叫んだ。
 
「早く! 走って!」
 
「──クソっ」
 
 どんどん大きくなるサイレンの音に焦りを感じて、蕾生は永をむりやり肩に担いだ。
 
「離せ、ライ! リンが、リンが──ッ!」
 
 とにかくここを離れないと危険だ。蕾生は喚く永を無視して温室の入口へと駆け出した。
 出る直前に少女の顔をもう一度振り返る。そこには少し笑った、懐かしい表情が浮かべられていた。

 
  
「さよなら、少しでも平穏な人生を生きてください」

 
 
 その言葉に胸がひどく痛くなる。けれどサイレンの轟音に負けて、蕾生は永を担いだまま脇目も振らずに走った。
 
 白い道路が見えるまで、振り返らずに。
 
 その少女の黒い瞳に浮かんでいたきらめく粒を、見なかったことにして。
 
 蕾生は、逃げ出した。