永の携帯電話から星弥の携帯電話に、聞いたこともない名前の怪し気なアイコンのアプリが送られた。
「インストールしたけど、なあに? これ?」
「そのアプリを起動したままで、鈴心チャンにいつものメッセージアプリでメッセージを送り続ける」
「ええ?」
星弥の理解が追いつかないので、永はニコニコしながら星弥の手を取ってその中の携帯電話を握った。
その手管は実に鮮やかで、詐欺だったらどうするんだろうと、蕾生は星弥の警戒心の無さを少し心配する。
だがそれは彼女がこちらを百パーセント信じてくれている証でもあるか、とも思った。
「ここをこうすると……君の携帯電話が拾った音声をすぐに文章化して、相手にそれを送信し続けることができる」
「わたし達の会話を無理矢理送りつけて読ませる、ってこと?」
「そ。元は盗聴目的に開発されたものなんだけど、役に立つ日が来るなんてねえ」
「誰が作った、そんな物騒なモン」
蕾生はいい加減につっこまないとどんどん怪し気なアイテムが増えると思った。永はウフフと笑いながら画面を操作している。
「うん、顔も知らないトモダチがちょっとねー」
「お前は相変わらずネットで危ない橋渡ってんな……」
「まあまあ、このやり方なら法には触れないでしょ? 逆盗聴なんだからさ」
全く悪びれない永に、蕾生も溜息しか出ない。
「すずちゃんが電源切っちゃったら?」
星弥が少し不安気に言うと、永はギャンブラーのような顔をして言った。
「そこは賭けだよね。でもやって見る価値はあると思わない?」
「まあ、だめで元々か」
何にしてもとっかかりが欲しい。蕾生も渋々賛成した。
「わかった、やってみよう。あー、でも後で絶対わたしが怒られるよお」
星弥も決意を見せた後、鈴心に睨まれることでも想像したようで、顔を緩ませながら困っている。
「……嬉しそうだな」
そんな彼女を見て蕾生は少し引いた。
「よし、じゃあ、スタート!」
永は星弥の態度もにこやかにスルーして大袈裟に片手を上げ、人差し指で携帯電話の画面をタップした。
「──もう、喋ったら送信されるの?」
少しの沈黙の後、痺れを切らした星弥は何故か小声で喋り出す。
「うん。すでに送られてるよ、ほら」
永が携帯電話の画面を指し示すと、会話の通りに文字が打たれ送信されていることを示すアニメーションが流れる。
「ほんとだ。あ、既読ついた!」
三人は読まれもせずに鈴心側が退出することも考えていたが、意外とすぐに反応があった。それに気をよくした永が少し戯けて見せる。
「おーい、リン、見てるかあ? ハルだよーん」
「すずちゃん? 私達の会話を全部送るから、興味が出たら降りてきてね?」
「ほら、ライくんもなんか喋って!」
永に促された蕾生は、二人のように軽い感じで喋ることなど出来ないので、自然と怒った口調になってしまう。
「鈴心、おいこら、とっとと出てこい」
「あ! スタンプ返ってきた!」
返信の代わりに返ってきたのは、とても可愛らしい兎が「殺す」と言っているイラストだった。
「すずちゃんお気に入りの、ウサコロちゃんだ!」
それを見て星弥は声を弾ませて喜んだが、永と蕾生は目を合わせて失笑する。
「ま、まあ、反応は悪くないようだしこのままおしゃべりしよっか!」
そうして三人は、気持ち頭を寄せ合って、星弥の携帯画面を注視しながら会話を始めた。
「で、何を話せばいいんだ?」
永も蕾生も今日の話題について思い悩んでいた。すると星弥が小さく手を挙げて喋り始める。
「あの、わたし聞きたいことがあるんだけど」
「なに?」
永は軽く返事をして星弥に注目した。
「周防くん達は、九百年の間に三十三回も繰り返し転生してるって言ったけど、どうやってるの?」
「どうやってる、とは?」
「具体的な方法のこと。先週、すずちゃんの今回の転生は、もしかしたらお祖父様がうちの秘術か何かを使ってるかもって言ってたけど、それより前はどうやって転生してたの?」
素朴だがとても重要な質問だと蕾生は思った。何しろ転生しているという事実のみ永から聞かされ、その詳細は未だに教えられていないのだから。
「あー、そうだね……うーん、白状すると僕らは好きで転生してる訳じゃない。鵺に殺されて気づいたら生まれ変わってるんだ。転生に関しては僕らの意思は関係ないと思う」
永が歯切れ悪くそう答えると、星弥は更に食い下がった。
「なら、その鵺の呪いって何なの? 何度も転生させること?」
「いや、鵺の呪いは転生させることじゃない」
「じゃあ、何?」
「それは……まだ言えない」
やはり永は口を噤んでしまった。鈴心が現れ、蕾生にも現状の理解が進んできたところだが、永にとってはまだ不十分なのだろう。そしてそれを聞いた星弥は遠慮がちに尋ねる。
「──わたしがいるから?」
「いや、ライくんにもまだ言えない」
蕾生は黙って二人の会話を聞いていた。一体永は何を恐れているのか、それを知らなくては本当の意味で一緒に運命に立ち向かう、などと偉そうには言えない。それが蕾生にはひどくもどかしい。
「どうして?」
「それを今ここで言ったら、確実に──日常は消え失せる」
永が躊躇いながら、言葉を選びながら放った言葉に、蕾生も星弥も絶句した。
「まだなんの準備もできてないし、情報も揃ってない。軽はずみに口にすれば、僕らは君を巻き込んで即死するだろう」
「……」
大袈裟ではない表現に、星弥は微かに震えていた。それくらいの恐ろしい事実を永は抱えている。
「今は、そうだな、このまま時を無駄に過ごしていくと、僕ら三人に大きな呪いが降りかかる。こんな表現しかできない。ごめん」
軽口ばかりの永だけれど、それだけ深刻な事情があるのを蕾生に悟らせないためのものであることは、蕾生本人が一番わかっている。
「唯くんは、それでいいの?」
「ああ。気にはなるけど、永がここまで躊躇するからには仕方ないだろ。何度も繰り返してきたからこその判断だと思う」
「──そっか。わかった」
当人達が納得しているなら自分がこれ以上詮索することではない、と星弥はそこで引き下がった。
「ありがと、ライくん」
「ん」
永と蕾生を見て男の子同士の信頼関係っていいなと思う反面、それが崩れた時の危うさも星弥は感じていた。
永と蕾生がまるでゴールのない綱渡りをしているように思えた。だから星弥は出来る限りの情報を得ようと試みる。
祖父のためではなく、彼らのためでもない。何かの時に自分が適切な行動をとるためだ。
「じゃあ、鵺の呪いがふりかかったとして、貴方達を殺すことができたなら、呪いはそこで終わるんじゃない?」
永は星弥の問いに大きく頷きながら答えた。
「そうだね、それは考えたことがある。僕らは産まれて、鵺に呪い殺されて、また産まれるの繰り返し。君が聞きたいのは、何故それが繰り返されるのか、だね?」
「うん。もし鵺が貴方達を転生させ続けているなら、チャンスを与えてることにならない? 呪いって言うからには、必ず解く方法があるはずだよ」
繰り返せば繰り返すだけこちらは要領を得ていく。そうして何度も鵺と対峙してくれば、何らかの抵抗や対策の術は必ず現れる。
永がそうやってこれまでやってきた数々の事を理解して見せた星弥に、永は素直に賞賛の声を上げた。
「さすがに陰陽師の末裔は言うことが違うね。ろくにそっち方面の教育は受けてないんでしょ?」
「それでも、わたしの周りはそういう話題でいっぱいだから」
困ったように笑う星弥を、永は初めて「理解者」として認識してもいいかも知れないと思った。少し安堵した所で蕾生が口を開く。
「繰り返させることが、目的だとしたら?」
「──」
「永と鈴心は九百年も苦しんでる。それこそが鵺の目的なんじゃないか? 俺たちを何度も殺すことが。──無間地獄に落とすことがさ」
蕾生の言葉に永はあんぐりと口を開け、星弥も目を見開いて言葉を失っていた。
「なんだよ?」
「ライくん、どうしちゃったの! 今回はなんでそんなに冴えてるの? 無間地獄なんて難しい言葉まで使って!」
「はあ!? いつも間抜けてるみたいに言うな!」
そうやってすぐに茶化す永の心遣いに照れながら、蕾生も慌てて悪態をつく。
「僕とリンもその結論にたどり着いたんだよ。鵺は僕らに永遠の苦しみを与えたいんじゃないかって」
「お、おう、そうなのか……」
「ライくん、えらい! 賢い!」
「……そこまで言われるとうざい」
「えー!」
──周防永という男は本当に読めない、と星弥は思った。
今大袈裟にはしゃいでいるのは蕾生が言い当てたからなのか、それともわざと騒ぎ立てて誤魔化しているのか。星弥には後者に見えるが考え過ぎなのだろうか。二人が意味もなくはしゃいでいる隙に星弥は考えを巡らせる。
永遠に苦しめたいのなら、何故蕾生だけが記憶を引き継がないのか。
こうして永が試行錯誤しつつ抗っているのに、鵺が同じことを繰り返すのは何故か。
もし鵺が同じ事を繰り返すだけの存在なら、彼らを転生させているのは別の何かである可能性は?
情報が少な過ぎてもはや自分の妄想まで入ってきてしまった時点で星弥は我に返った。ふと携帯電話の画面を見る。
「あれ!?」
「どうした?」
星弥の声に反応して蕾生が振り返る。
「すずちゃんの既読がつかなくなっちゃった」
「あちゃー」
同じ様に、それを聞いた永も残念そうな声を上げる。やはり全部上手く行くはずがない、という顔で。
「あのやろう、電源切りやがったな」
蕾生が拳を握りしめて怒ると、部屋の外でトトトと軽めの足音が近づいてきた。
次の瞬間、ドアが乱暴に開けられる。そこにいたのは焦った表情をした鈴心だった。
「すずちゃん!」
「リン!」
鈴心はその姿を認めた途端に顔を明るくさせた星弥と永を無視して、注意深く部屋の外を確かめた後、音もなく部屋に入りドアを閉め鍵をかける。
それから肩で大きく息をして三人──主に永を見据えた。
「……ハル様らしくない失敗ですね」
「え?」
首を傾げる永の目の前に、自らの携帯電話を掲げて鈴心は言う。
「私のこれは監視用として渡されたものです」
「!!」
「今の会話、筒抜けだったかもしれません」
誰に、とは言わなくてもその場の全員が理解していた。
途端に緊張が走る。蕾生は鈴心に初めて会った時に鳴ったサイレンを想像した。永も身構えて部屋の隅々まで注視する。
突然、外で激しく雨が降り始めた。ザアザア降る音が全てをかき消すように部屋中を満たしていく。
数分経ったが屋敷の周りも部屋の中も静けさに満ちていた。ただ雨の音を除いては。
「別に何も起きねえな」
蕾生が少し緊張を解いて言うと、永もそれに倣って一息吐いた。
「うん、この前みたいにサイレンでも鳴って、物騒な人が押し込んでくるかとも思ったけど……」
「だな。考え過ぎじゃねえか?」
「どうかな。さすがに銀騎詮充郎でもそれは短絡的だし、泳がせてるのかも」
二人の会話の横で鈴心はまだ険しい表情を続けていた。そして三人とは別の理由で青ざめながら神妙な面持ちの者がいる。
「ねえ、すずちゃん。それ、兄さんが中学生になる年齢になったからって、お祝いにくれた携帯電話だよね」
星弥の声は少し低く震えていたが、今の鈴心はそれに気づく余裕がなかった。
「そうですが」
「贅沢品だから、お祖父様には内緒ねって兄さん言ってたよね?」
「ええ」
鈴心の短い返答に、星弥は冷笑を交えて言う。
「つまり、すずちゃんは兄さんのことも信用してなかったってこと?」
「あ……」
星弥の言わんとしていることにようやく気づいた鈴心は言葉を失った。星弥は明らかに落胆した表情で佇んでいる。
「……お兄様には良くしていただいているとは思っています。でも、あの人はお祖父様の言いなりですから」
「そう……」
取り繕うことはせず、しかし幾ばくかの罪悪感を持って鈴心が答えると、星弥は悲しそうに頷いた。
部屋に気まずい雰囲気が漂う。星弥は俯いて黙ったままで、鈴心も二の句を考えあぐねていた。
「──おい、鈴心」
その沈黙を破ったのは蕾生だった。怒気のはらんだ声で鈴心を睨む。
「今の状況が緊急事態だったとしても、お前は銀騎に甘え過ぎだ」
「──」
鈴心は蕾生の方を向いたけれども、自分の心の核心を突かれ顔を上げることができない。構わずに蕾生は続けた。
「お前のいる環境は、俺達には想像もつかない過酷なもんなんだろうけど、何も知らない銀騎に当たってんじゃねえ」
「……」
「これは、俺達三人の問題だ。お前が勝手に抱え込むのを永が許したか? 俺とお前は永の手足だ、余計なこと考えるのは頭に任せとけ」
蕾生の言葉に一瞬だけ雷郷が重なった気がした。永が思わず口を挟む。
「ライくん、もしかして何か思い出した?」
「いや、なんかそんな気がした」
「──ハハッ、さすがライくん。昔からリンに意見ができるのは対等な君だけだったよ」
永は満足そうに笑った後、鈴心の方を向き優しく話しかける。
「リン」
「はい……」
「まずは銀騎さんに謝ろうか?」
永にそう言われると、鈴心は年相応の純真な表情を初めて見せる。そうして星弥に近づいて辿々しく話しかけた。
「星弥……ずっと黙っていて、すみませんでした」
鈴心が軽く頭を下げるも、星弥はまだ俯いて黙っている。
「星弥? まだ怒ってますか?」
「うふふふ!」
突如笑い出した彼女の態度に、永も蕾生も後ずさる程驚いた。
「すずちゃんは、つまり、わたしに甘えてたんだね?」
「え、いや、まあ、その……」
少し屈んで上目遣いで言った後、戸惑っている鈴心に詰め寄って星弥は更に続ける。確認をとるように。
「すずちゃんは、わたしだから甘えられるんだよね?」
「そうだと思うぞ」
「──ライ!!」
蕾生の言葉を鈴心は慌てて制したが、顔は朱に染まっていた。それを見た途端、星弥は物凄い勢いで鈴心に抱きついた。
「やーん、すずちゃんたらあ! もっと甘えていいんだよおお!」
思いっきり抱きしめて、更にウリウリする星弥にされるがままの鈴心は今にも窒息しそうだった。それでも一切抵抗しない様は、二人の間に姉妹愛のようなものを感じられて、些か変態的ではあるが微笑ましくもある。
──銀騎星弥、本当に読めない女だ。と永は考える。
本心はさておいて、自分がこの様に振る舞わないとこの場は収束しないことがわかって動いている。鈴心に向ける感情が異常であればあるほど、彼女の本質を見失う。きっとそれすらも承知の上で行動しているのだろう、というのは考え過ぎだろうか。
おそらく彼女は自分も含めて、あらゆる事態を俯瞰しているのだろう。あらゆる場面場面で、そこまで自分の感情を一切排除できる人間はそういない。もしかしたら、一番敵に回してはいけないのは彼女かもしれない。ならば、是が非でも味方でいてもらわなければならない。
「せ、星弥、苦しい、です」
「わっ、ごめんね」
鈴心の訴えにようやく腕を緩めた星弥は改めて鈴心に向き直る。
「すずちゃんが兄さんのことも疑ってるのはちょっと寂しいけど、わたしは兄さんのことは信じてる。お祖父様の言いなりだとしても、少しでもすずちゃんに良い様にしてくれる──すずちゃんに酷いことはしないって」
「私もそう信じたい、です」
「うん!」
満足気に笑う星弥に、ほっとした安堵の表情を向ける鈴心。二人の間にまた温かい雰囲気が戻った。
星弥と鈴心雰囲気に、ニヤニヤしながら永は聞いた。
「──で、リン? この期に及んで、抜ける、なんて言わないよね?」
すると鈴心はまた真剣な顔をして永に向き直る。
「ハル様、私がこのままここにいれば、少なくともいつもよりは長生きできるんですよ? なのに、今回もまた戦うんですか?」
最終確認だ。
過去に何度もこんなやり取りをしてきた。その度におれ達は前を向くしかない。
「お前の犠牲の上に成り立つ命など無意味だ。おれは、お前もライも、おれ自身も救ってみせる。リン、共に来い」
ライとリンが左右にいてくれれば何だってできる。英治親はそれだけをよすがに長い時を生きてきた。
永は朗々と語り、鈴心に手を差し伸べる。その手の前に跪いて鈴心は短く答えた。
「──御意」
永がにっこりと笑う。その姿は自信に満ちた主君然としていて、蕾生は誇らしい気持ちになった。
「たまに出るのは、英治親の口調なんだな」
「えー? やだあ、なんか恥ずかしいなあ!」
蕾生の言葉にヘラヘラ照れる様はよく知る永のもので、蕾生もやっと安心することができた。
「さあ、これでやっとスタート地点だ」
「そうだな」
永と蕾生の言葉に鈴心が黙って頷く。こんな空気感は初めてのはずなのに、いつも通りの様な気もしてなんだかくすぐったかった。
「あのー、まさかこれでわたしはお役御免じゃないよね?」
めでたしめでたしの雰囲気を打ち破るように、星弥が手を挙げて言う。もちろんにっこりと笑って。
「え?」
永が肩を少し震わせると、星弥は笑顔を崩さずに続けた。
「ここまで関わっておいてさよならなんて言われたら、ショックでお祖父様に泣きついちゃうかも?」
「えーっと……」
にこやかな脅しに永がどう答えたものかと考えていると、横から鈴心が口を挟む。
「ハル様、星弥は知り過ぎました。かくなる上は味方にするか殺すかですが、たとえハル様の命令でも星弥を殺すことはできません。しかし、主の命に背くことは死を意味──」
「しないよ、そんな命令! わーかった、わかりました! 銀騎さんとは中立の同盟が既に結ばれてるから、今後もそれを継続する! それでいいよね!」
まさか鈴心まで脅してくるとは思わなかった永は、それに好意を感じつつ、元からそのつもりだった考えをわざと今決めたかのように言った。
「うん。これからもいい距離感でよろしくね!」
満足気に笑う星弥。それを見て蕾生も考えを述べる。
「まあ、いつもと違う人間が介入したら、なんか変わるかもな」
「いやあ……そういうのは……何というか、前例が結構──なんでもない! わかった! なんとかする!」
「さすが永。頼もしいぜ」
なんだかごちゃごちゃ言ったことは蕾生は聞かなかったことにした。これが吉と出るか凶と出るか、それは永次第だ。
たとえ凶になっても、自分が体を張って永を守ればいいのだから。
「ハル様、お察しします」
星弥の性格を知り尽くしている鈴心だけが、永のこれからに思いを馳せることができた。案の定、永はもうすでに疲れた顔をしている。
なんだかドタバタしてきた頃、突然部屋のドアをノックする音がして、四人は一斉に驚いた。
「──お嬢様、よろしいですか?」
「あ、はーい。なあに?」
弾かれたように早足で扉まで歩いた星弥が鍵を開けると、控えめな態度で家政婦が顔を覗かせる。
「あの……皓矢様がそろそろお戻りになるそうで、ご友人方にはお帰りいただくようにと奥様が……」
「え? じゃあ兄さんと夕食が食べられるの? すごい!」
星弥の声がみるみる弾んでいく。鈴心は二人に小声で囁いた。
「ハル様、ライ。今日はここまでに願います。また日を改めて」
「そうだな」
永も小声で承諾し、蕾生も頷く。それから永はとぼけた声音で星弥に話しかけた。
「銀騎さん、じゃあ僕らそろそろ帰るよ」
それを聞くと、家政婦は何も言わずにそそくさと部屋から離れていった。
「あ、ごめんね?」
「ううん、数学の答え合わせは明日学校で」
「そうだね」
蕾生も一切開かなかった鞄を持って言う。
「じゃあ、また明日な」
「うん」
そうして永と蕾生は屋敷を後にした。星弥と鈴心が揃って見送る。いつの間にか雨は止み、元の曇り空に戻っていた。
夕方になって銀騎皓矢が帰宅した。いつぶりなのか、誰も思い出せないくらいである。
夕食は珍しく母親が作った。皓矢の好物ばかりを何品も並べ、食卓は大変賑やかになっている。
中年女性と中高生の女子二人、それから食の細い成人男性しかいないのに、食べ切れる分量ではなかった。
皓矢はテーブルにつくと苦笑しながらも母の手料理を食べ始める。それを見届けてから星弥と鈴心も食べ始めた。
「嬉しいわ、皓矢と一緒に夕食が食べられるなんて何年振りかしら」
母親は始終弾んだ声で手元のフォークを動かしている。
皓矢も疲れてる気配を見せずに母親と談笑していた。
「大袈裟だな。この前母さんの誕生日には帰ってきたじゃないか」
「あら、気持ちはそれぐらいってことよ。せめて週に一回はこうしてみんなで食卓を囲みたいわ」
「うーん、努力はしてみるよ」
「そうね、あてにしないで待ってるわ」
「厳しいなあ」
皓矢は笑いながらハンバーグを口に運ぶと、それをワインで流し込んだ。あまりアルコールは好まないのだが、母親が上機嫌で栓を開けたものだから、付き合い程度といった量にとどめている。
鈴心は末席で黙々と食べ進めており、星弥は母と兄を交互に見ながらにこやかにグラタンを食べていた。
「そうそう、星弥が最近仲良くしてる男の子がいるのよ」
「お、お母様!」
突然の話題に星弥は思わずホワイトソースを吹き出しそうになった。彼らの話はまだマズイ。
だが時既に遅く、皓矢は興味津々の顔をして星弥の方を向いた。
「へえ、そうなのか?」
「それが入学式で新入生代表の挨拶をした子でね、勉強を教わってるんですって。家に招くのに私には会わせてくれないのよ」
全部喋られて星弥は頭が真っ白になった。急に話題を変えるのはかえって不自然ではないか、などと考えを巡らせているうちに、皓矢が揶揄うような口調で嗜める。
「星弥、お付き合いするならちゃんと母さんに会わせないと駄目じゃないか」
「お、お付き合いなんてしてません!!」
慌てて否定すると、おっとりした母親はどんどん情報をバラしていく。
「あらあ、じゃあ一緒に来たちょっと無愛想な子の方かしら? 遠目で見ただけだからよくわからなかったわ」
「そっちも違います!!」
家に男の子を呼ぶ口実として母親に喋り過ぎた、と星弥は反省する。そして心の中で二人に謝った。
「ね? 皓矢、貴方がしょっちゅう家に帰ってきてくれたら、星弥が男の子を連れて来たって私も安心できるのよ?」
「──わかりました。いっそうの努力をします」
苦笑して言う皓矢の反応を窺い見ても、特に変わった所はない。だが皓矢はポーカーフェイスが得意だし、星弥はこの兄の本心がわかるような場面に遭遇したことがなかった。
自分にとっては優しい兄であるし大好きなのだが、研究者として、または陰陽師としての皓矢がどんな風なのかは星弥にはわからなかった。
いや、今まで意識してわかろうとしてこなかったのかもしれない。そこに踏み入れることは祖父の不興を買うことになるからだ。
「鈴心も彼らに会ったのかい?」
話題が終わるかと思ったら、あろうことか皓矢は黙って食べるだけの鈴心にそれを振った。
星弥は心臓が飛び出る思いで鈴心の反応を見守る。
「……少し」
さすがに星弥より冷静な鈴心は、ただ一言呟いただけだった。
だが皓矢はそれでも食い下がる。
「どんな感じだった? 星弥にとっていい友人だったかな?」
「よくわかりません。星弥がいいなら良いのでは」
「そうだねえ。星弥が選んだ人なら、僕は応援したいな」
一刻も早くこの話題を終えるには自分がピエロになるしかないことを悟った星弥は顔を赤らめて少し高い声を上げる。
「もう、兄さん! そういうんじゃないってば!」
「ははは」
星弥の態度に騙されてくれたのか、皓矢は笑ってそれ以上は言わなかった。すぐに母親から別の話題が提供されるので久しぶりの団欒はつつがなく続くのであった。
◆ ◆ ◆
家の者が寝静まったのを確認した後、皓矢は自室でパソコンを立ち上げる。しばらくすると祖父からリモートの要請が届く。
それを承認すると暗い画面の中に険しい表情の銀騎詮充郎が映った。
「何かわかったか?」
「星弥と鈴心に接触した人物がいます。例の二人です」
「──確かか?」
皓矢が短く報告すると、詮充郎は片眉だけ動かしてしわがれた声を出した。
「監視カメラで確認しましたが、お祖父様のおっしゃる通りの容貌でしたので間違いないかと」
すると画面の向こうの詮充郎は顔を歪めて高らかに笑う。
「く、く、くははは! そうか! もう転生してきたか!!」
「先日の侵入者もおそらく彼らでしょう」
「結構! 相変わらず行動力が旺盛で大いに結構! つまらない見学会でも開いてみるものだ!」
「では、しばらくは様子見でよろしいのですか? 星弥も巻き込んでいるようなので心配で……」
皓矢の不安をよそに、詮充郎は吐き捨てるように言う。
「星弥が増えたところで、奴らの助けになるとは思えん。寧ろあの子には奴らの情報を引き出してもらおう」
「もしも星弥が人質にされたら……」
「そんなことはせんよ。奴らの弱点は何だと思う?」
「さあ……僕はあの時四歳でしたから……」
皓矢が控えめに首を傾げると、詮充郎は少し得意気に演説ぶって答える。
「奴らは年齢を重ねた経験がない。九百年という年月を経ていても、子どものままだということだ。甘いのだよ、基本的にな」
「そうですか──」
「ふ、ふ。まだ私に機会が残されていたとは! 今夜は久しぶりに良い気分だ。ケモノの王よ! 今度こそその身を頂く!」
すでに詮充郎は皓矢に話してはいない。自身のみで完結して笑い続けた後、通信は一方的に切れた。
今まで滔々と語られてきた、皓矢にとってはその夢物語が、まさか現実として目の前に現れるとは思わなかった。
だが、すでにそれは起きようとしている。星弥と鈴心は無事でいられるのだろうか。皓矢はそれだけが気がかりである。
「……」
傍らに置いた、自分と同い年の父親の姿に視線を移した後、皓矢は自らの掌に意識を集中させる。
青く、輝かしい羽を携えた鳥が皓矢の周りを飛び回った。
「体は大丈夫か?」
酒を手にしたハルが俺の所へやって来たのは、月が高くなって随分と経ってからだった。
「何がだ?」
事後処理が忙しいだろうに、夜が明ける前に俺の様子を見に来てくれたことが照れ臭くてしらばっくれる。
するとハルは笑いながら隣に座って杯を差し出した。
「あれだけ化け物の返り血を浴びたんだ。何か異常をきたしてないか心配で心配で」
「──夜も眠れないか?」
「そうそう。だから一杯付き合ってもらおうと思って」
笑いながらハルは俺の杯に酒を注ぐ。主に注いでもらった酒を飲むには相応しい名月だ。
「うまい」
「だろう? 奥の秘蔵のやつをくすねてきた」
「格別だな」
月と酒。それにお前がいれば、俺の心は満たされる。
「──で、眠れない原因はあっちの方だろ」
離れ屋の方を指してやると、ハルは「ばれたか」とまた笑った。
「あれから少し塞ぎ込んでいると聞いてな」
「そりゃあ、あんな化け物を間近で見たんだ。お前は忘れてるかもしれないが、あいつはまだ子どもだぞ」
「それはその通りなんだが──」
言いかけて、酒を一口飲んだ後、「これは戯言だ」と前置いてからハルは語った。
「リンは、何かを抱えてるんじゃないかと思う」
「何かって?」
「わからない」
お前がわからないことが俺にわかる訳ないだろう。酔ってるのか。
「まあ、でも、そうだな。今日び何も抱えてないヤツなんていねえよ」
こんな戦ばかりの世で。血と泥にまみれて、それでも生き残った者なら、色んなものを背負っている。
「お前もか?」
純朴な顔をして聞いてくるので、安心させるように笑って言ってやった。
「俺はお前を背負うので精一杯だ」
「──そうか」
安心しろよ、俺が守ってやるから。
「朝になったらリンに干し柿を持っていってやろう」
「また奥からくすねてくるのか?」
「なあ、おれの家のものなのに、どうしておれは自由に持ち出せないんだ?」
「知らねえよ」
夜はこんな風にお前と笑い合えるから好きだ。
そういう夜をずっと過ごしていけると思っていた。
◆ ◆ ◆
「…………」
蕾生が目を覚ますと、目覚ましのアラームが鳴った。
不思議な夢を見たような気がするが、もう何も覚えていない。ただ、懐かしい匂いがした。何の匂いかは思い出せない。
忘れてしまった夢が、心に穴を空けたようだ。言い表せない寂しさが残る。
「あ──くそ!」
蕾生は苛立ちをかき消すように、勢いよく起き上がった。